【幕間】 魔の山、恐怖の夜



 振り返ると、北の空が紺碧に沈んでいる。

 頭上から覆いかぶさってくるような、深い青色だ。

 転じて南の空、一行の進む先には白雲に霞む高峰が立ちはだかっている。

「……」

 何かの気配を読み取ったか、あるいは召喚した精霊から注進があったか。

 前を行くイシュルがその山嶺を見上げ、一瞬険しい表情になるのが見えた。

 ミラはその横顔を見つめ、今晩の野営地に思いをめぐらせた。

 予定ではこの南西に走る尾根をしばらく行った先、南側斜面に点在する窪地に小グループに別れ、一夜を過ごすことになっている。

 パラゴ村で雇った案内人の少年によれば、あの雲に覆われた山頂付近は「龍の巣」と呼ばれ、常に複数の火龍が居座り、辺りを睥睨しているという。

 その「龍の巣」の手前、この先の山稜を南へ抜けると以後は下り道になり、いよいよ地下神殿のある中盆地まであと数日、目と鼻の先まで至ることになる。

 周囲は高木の姿が消え、今や岩場に点々と草むらが広がる見晴らしの良い景色に変わっている。

 太陽はより近づいたように見えるのに、気温は下がり肺腑をえぐるような冷気が襲ってくる。

 山越えの頃合いを明日の昼ごろに調整するため、今日は早めに野営し、休むことになっている。

 おそらく日が沈む頃には皆夕餉を済ませ、早々に就寝することになる。明日は日の出とともに起床し急ぎ出発、天候の変化に、そして龍の巣に群れる火龍の動向に注意しながら峰を越える。

 ミラはほんの一瞬だけ、前を歩くイシュルの背中に熱のこもった視線を向けると、すぐ横目にルシアとシャルカを見て俯き、顔を隠してほくそ笑んだ。

 夜は長い。窪地の数や大きさによるが、イシュルは従者のロミールに加え、隊長のフリッド・ランデル、土の魔導師ディマルス・ベニトらと一緒に野営する可能性が高い。

 フリッドがイシュルと同組になると少々面倒だが、あの隊長はなかなか頭が回る。彼は万が一を考え、己自身とイシュルの間を離して、別の窪地にすることも考えられる。

 「龍の巣」にたむろする火龍をはじめ、魔物の襲撃にそなえ予備の指揮系統を分離、抗堪性を確保することは、危険地帯で野営する時の基本であろう。

 ……そう、そしてイシュルさまの召喚された風の大精霊さま。

 ミラの影のある笑みがより深くなる。

 それはつい数日前に起きた。

 リバレスを出発したその日の夜、小悪鬼(コボルト)の大きな群れに襲われたが、その時にイシュルの召還した風の精霊、ネルと直接話す機会があり、うまく彼女に取り入ることができたのだ。

 その日の宿営は野外に、ビレール川沿いに幾つかの集団に分かれ、めいめいに簡易テントを張ってひと晩過ごすことになった。夜間は各集団ごとに交替で見張りを立て、魔物の襲撃にそなえることになったが、ちょうど小悪鬼の襲撃があった時に、ミラはシャルカとともに見張りをしていた。

 シャルカから複数の魔物の接近を知らされたミラは、まず一番にイシュルに知らせようと彼の寝ているテントに向かった。

 川べりにせり出した木の幹に、縄を渡して張られた簡易テント。一瞬、逡巡してその前で立ち止まったミラの前に、イシュルの呼んだ風の精霊、ネルレランケが姿を現した。

「何用です」

 短く発した言葉はイシュルに対するものと違い、冷たく鋭い。

「これは大精霊さま」

 ミラは空中に姿を現したネルに向かって、素早く片膝をつき頭(こうべ)を垂れた。

 聖王国の人間は身分の高い者も低い者も、他国よりも総じて聖堂教に対する信仰が厚い。つまり、より神に近い位置にある高位の精霊に抱く崇拝の念も強い。

 ミラもイシュルの周りの他の人々、主にラディス王国の者たちと比較し、大精霊に対してより強い尊崇の念を抱いていた。

「すでにお気づきとは存じますが、小悪鬼の群れが近づいてきております。見張り番として、まずはイシュルさまにお知らせしようとまかり越しました」

「ふむ」

 相手は聖王国の公爵家の令嬢なのだが、ネルはそんなことはまったく意に介さず、ぞんざいに頷いた。

「相手は数は多くともたかが小悪鬼の群れ。わざわざ剣さまを起こす必要はありません」

 ネルはミラを醒めた視線で見下ろし、突き放すように言った。まさしく王家の側近くに仕える女官のような口ぶりだった。

「あの程度の魔物なら一瞬で、わたしひとりで片づけます。剣さまはお疲れです。ここは少しでも長くお休みいただくのが肝要です」

「……」

 ミラは一度喉を鳴らすと、慎重に言葉を選んで言った。

「ですが、イシュルさまは何事かあれば必ず報告するようにと、精霊さまにもご指示されていた筈。あの方はたとえ些細なことでも、配下の者が勝手に動くことを嫌います」

 相手は大精霊だ。しかもイシュルの召喚した精霊だ。絶対に怒らすわけにはいかない。

「あっ、むむ」

 ネルは、ミラからイシュルの名を出して意見されると、面白いほど露骨に動揺した。

 彼女は昼間、川べりで小悪鬼の死体が見つかった時に、イシュルからその群れが襲ってきても勝手に攻撃をはじめるなと、念押しされていたのだった。

 ネルは当然、そのことを覚えていたがミラに指摘され、イシュルの指示の重要性にあらためて思い至ったようだった。

 気をつかって先走り、小悪鬼の群れを勝手に殲滅してしまえば、褒められるどころか逆に、イシュルからきつい怒りを買うかもしれなかった。

「そ、それはそうですが……」

「今晩も、イシュルさまから何か異変があれば必ず起こすよう、指示されているかと思いますが」

「うっ、確かにそのおりです……」

 ネルは神妙に頷くと、小さくなって俯いた。

 神の魔法具は精霊にとって絶対の存在である。風神イヴェダ側近くに仕えるという、大精霊のネルも例外ではなかった。

「仕方がありません。剣さまはお疲れでしょうが、おまえの言うとおり起こすことにしましょう」

 ネルはまだ幼さの残る、かわいらしい決意の表情を見せて顔を上げ、大きく頷いた。

「大精霊さま。それでひとつ、お願いがあるのです」

 ミラはそこで胸の前で両手を握りしめ、眸を大きく見開きじっとネルを見つめて言った。

「どうかイシュルさまを起こすのを、このわたくしめにお任せいただけないでしょうか」

「なんですって」

「お願いでございます!」

 ネルは声を落とし厳しい表情を見せたが、ミラは一歩もひかず、眸を潤ませこれでもかと想いのこもった視線を向けた。

「イシュルさまを起こすのは気をつけませんと。機嫌を悪くされます」

 まったくの嘘、口から出まかせだ。イシュルはそれくらいで機嫌を悪くしたりしない。

 ネルは細かいところまでよく気の回る、目端の利く精霊だ。こんな理由で説得などできないとミラは百も承知だったが、目の前の大精霊はどういうわけか急にやさしい表情になり、微笑みさえ浮かべた。

「ふふ、そんなに剣さまのことが愛おしいの?」

 そこでネルは眸を細め、呟くように続けて言った。

「……それだけじゃない。あなた、剣さまを崇拝しているのね」

「それは」

 ミラはびっくりした顔になって、自分より高いところに浮かぶネルを見上げた。

「おまえのその心、わたしには手に取るようにわかります」

 それからネルは「当然でしょう?」と言って、勝ち誇ったように顎をつんと上げ微笑んだ。

「なぜならわたしも、剣さまを崇拝しているからです」

 ネルは外見はまだ幼さの残る少女の姿だが、ミラに対する言動はまさしく大精霊そのものだ。そして、己と同じ感情を抱く人間の少女の心を、しっかりと見極めた。

「いいでしょう。おまえの剣さまに対する心根に免じて、わたしはここは引きましょう」

 ネルはイシュルの寝ているテントに顔を向け、ぞんざいに顎をしゃくって見せた。

「ありがとうございます、精霊さま」

 ミラは腰を下げ、丁寧に一礼した。

「急ぎなさい。あまり時間はありませんよ」

「はい」

 ミラはやや上気した声で返事をするとイシュルのテントに素早く飛び込み、音を立てぬよう傍まで近寄っていった。

 そして前かがみになり、微かな寝息を立てるイシュルにいきなり、間をおかずに口づけした。

 危険な状況にもかかわらず、いやだからこそか、ミラは熱いもので胸がいっぱいになるのを感じた。

 慌ただしく交わした、しかも一方向だけの小さな愛のしるし。それでも、うねるような喜びが沸き立つのを抑えることができなかった。

 ミラが歓喜に全身を震わすと、それに呼応したかのようにイシュルの眸が開かれた。

 見つめ合う、ふたりの間に流れる甘い時間。だがそれも一瞬だ。

 彼女は今度は、イシュルの耳元へ顔を寄せ囁く。

「イシュルさま」

 声音に悪戯な色が混じった。

「小悪鬼の大きな群れが、近づいているようですわ」

 


 その後はまるで予定調和のように、イシュルとネルの超絶した風魔法で小悪鬼の群れが一掃され、静かな山奥の夜に戻った。

 イシュルの召喚した風の大精霊、ネルの知遇を得たことはミラにとって、これ以上はない吉事であった。

 ちょうど折り良く、今晩は小グループに分かれて横穴で野営することになっている。山の斜面に点在する横穴は浅く奥行きがあまりない。出入り口は一方向しかなく、防御がしやすい分ほかに逃げ場がない。その出入り口を押さえてしまえば、あとは中にいる者を自由に料理できる。

相手はイシュルだが、今晩の勝負は己の魅力、押しの強さや口のうまさ、要は相手を想う気持ちの強さで決まるのだ。 

 彼女の許にはシャルカとルシアがおり、ラディス王家につけられたセーリアもあてにできる。手駒の多さでは他のマーヤたち競争相手に対し、非常に有利と言えた。今回はそれに加え、イシュルを守る最後の壁、大精霊のネルの譲歩、いや協力さえ得られるかもしれない。これはまさしく、競争相手を出し抜く千載一遇の機会が到来したと考えるべきだ。

 今はイシュルに無用な負担をかけないよう、リフィアたちと休戦協定を結んでいる。イシュルに迷惑をかけない、彼のために力を合わせて協力する、暗黙の了解が存在している。

 しかしそれはあやふやな、いわば口約束に過ぎないのだ。みな、機会があれば他を出し抜き、イシュルを我がものにしようと考えているのだ。虎視眈々と狙っているのだ。

 ここはこの絶好機を逃さず、積極的に動いて一気に勝負を決するべきだ。

 イシュルが得た魔法具はふたつ。風と金の魔法具だが、このままいけば何の問題もなくマレフィオアを斃し、土の魔法具も手にするだろう。

 三つの魔法具を得られれば、あの赤帝龍でさえも圧倒することができるのではないか。

 赤帝龍を斃し火の魔法具を手に入れたら、あとは水の魔法具だけだ。イシュルが本懐を遂げる日も見えてきた。いつまでもただ待っているだけ、受身でいるわけにはいかない。

「以前にイシュルさまがおっしゃっていた言葉。……あれは確か“既成事実”。つまり後先考えずに契ってしまえ、ということですわ」

 ミラは黒い笑みを浮かべて俯けていた顔を上げ、行く手の高峰、「龍の巣」を見つめた。



 山稜に沿って、その場で思い思いに昼食をとり、休息後再び尾根を進みしばらく。

 まだ陽の高いうちに今日の宿営地となる、南側斜面に切れ切れに横穴が連続する地点に到着した。

 連綿と続く山稜は少しずつ標高を上げながら、今はその先を真西に向けている。

 薄雲のかかる前方には、ブレクタス山塊の最高峰とも言われる「龍の巣」が、その険しい山体の一部を見せていた。

 マレフィオア討伐隊は予定どおり、南側に断続する横穴に幾つかの小集団に分かれ宿営することになった。

 進行方向、一番西の横穴に隊長のフリッド・ランデルと、小頭(こがしら)のエバン以下“髭”の男たち、その次の横穴にはパラゴ村の案内人の少年たちが入り、三番目の洞穴にミラとシャルカ、ルシアと侍女のセーリアのグループが一夜を過ごすことになった。ちなみにその隣、四番目にマーヤ、リフィア、ニナとリリーナ、そしてリフィアの侍女のノクタが、肝心のイシュルの洞窟はその次の一番東端で、ディマルス・ベニトと従者のロミールが同じグループになった。

 ミラとイシュルのグループの間には、難敵のリフィアやマーヤたちが寝泊まりする横穴があったが、彼女たちを欺き、邪魔してくるのを防ぐのは、ネルの協力が得られるならさほど難しいことではない。あとはシャルカやルシアたちを的確に配置すれば問題ないだろう。

 イシュルと同宿のロミールとラディス王国の宮廷魔導師、ディマルス・ベニトのふたりは温厚な人物で、その場で二言三言、事情を説明すれば言うことを聞いてくれる筈だ。

 彼らに他の横穴に移ってもらえれば、あとは三方を閉鎖された小空間にイシュルとふたりきりである。

 いささか拙速気味ではあるが、こればかりは先にやったもの勝ちである。情緒もへったくれもない、時宣にかなわぬこと甚だしい次第だが、だからこそ、でもある。

 ……この状況では色恋も戦(いくさ)と同じ。敵の裏をかき、奇襲をかけて一気に勝負をつけてしまうのですわ。

 ミラは俯き、木の器に入ったスープに視線を落とした。

 芋や干し肉の入ったスープからは、盛んに湯気が上がっている。髭の者やロミールら従者たちが、隣の横穴でパラゴ村の少年らと作った夕食である。

「ミラさま」

 顔を上げると、右隣に座るルシアが思わせぶりな表情で微笑みかけてきた。

「……」

 左側に座るシャルカはいつものごとく無言、無表情だが、彼女にもルシアの微笑の意味がわかっている。シャルカはルシアの顔を見つめると、ゆっくりとミラに顔を向けてきた。

 ……予定どおり今晩、決行します。ネルさまの協力も、必ず取りつけてみせますわ。

 ミラはシャルカとルシアに向けてしっかりと、自信たっぷりに頷いてみせた。


 

 地面に置かれたカンテラの明かりが、横穴の縁(へり)をぼんやり照らしている。

 今晩は晴れて風もなく、危険な魔物の気配もない。静かな夜だ。

 交替で行う夜の見張りを、ミラたちがマーヤから引き継いで小半刻が経とうとしている。討伐隊の他の面々とパラゴ村の案内人は皆、深い眠りに就いている。

「そろそろですわね」

「はい、それでは」

「うむ」

「おまかせを、ミラさま」

 ミラがそばに控えるシャルカたちに小さく声をかけると、ルシア、シャルカ、セーリアの順で応えが返ってきた。

 ルシアは横穴から出て斜面上に身を低くし、隊長のフリッドと“髭”の者の眠る洞窟の方を見つめていた。

 イシュルの眠る横穴までたどり着くには、リフィアたちの他にもラディス王家の影働き、猟兵集団である“髭”の者たちを懐柔する必要があった。ルシアはエバンと接触し、主人であるミラがイシュルに“仕掛ける”ことに、感知しないことを承知させた。

 “髭”の者たちはラディス王家から、つまりペトラから、イシュルが特定の女性と親密な関係になることを監視、妨害するよう言いつけられていたが、一方で、さらに重要な命令をヘンリクから受けていた。それはもちろんマレフィオアの討伐と、地下神殿探検による魔法具の収集であり、マーヤたち王家の魔導師の身の安全である。

 当然、エバンにとって最も重要な任務はヘンリクの命令の完遂である。イシュルとその周りの女性たちの間で、討伐隊が崩壊してしまうような荒事が起こるのは避けなければならない。また、互いの人間関係に重大な齟齬が生じることも避けたい。

 ニナはともかくマーヤとリフィア、聖王国の貴族であるミラの、お互いの微妙な関係にかかわるのは非常に危険であった。

 つまりエバンは、ルシアに対し荒事になるようなことや、マーヤたちとの関係が破綻するような状況にならなければ、あとは知らぬ存ぜぬで済ませ無用な介入はしない、という考えを示した。

 ルシアはエバンにそのこと、マーヤやリフィアたちと騒動を起こしたりしない、マレフィオア討伐に支障をきたすようなことはしないと誓って、彼の了解を得たのである。これで目立たぬよう、絶えず討伐隊の周囲を見張っている“髭”の者たちが、ミラ主従の行動に干渉してくることはなくなった。

 そしてセーリアは、もともと王家のメイドであり、ミラの個人的な“想い”にまで手を貸す義理はなかったのだが、長く行動を共にすることで同僚のノクタがリフィアに心酔するようになったのと同じ、仮の主人であるミラに強い思い入れを抱くようになった。

 マーヤのような宮廷魔導師や、リフィアやミラのような身分の高く、男に負けない力を持つ女貴族は、同性のセーリアたちからすればまさに憧れの対象である。特にリフィアとミラは下の者にも優しく、その高貴な身分にふさわしい大きな度量があった。

 それでセーリアも、ミラの謀(はかりごと)に協力することにした。彼女の役目は同僚のロミールと、魔導師のディマルス・ベニトをルシアと協力してイシュルから引き離すことだった。

 セーリアはミラにかしこまって答えると、音もなく洞窟から飛び出し、下方から大きく回り込んでイシュルの眠る横穴に向かった。

 ルシアも、フリッドとエバンらの眠る横穴から視線をそらすとミラに一礼し、足音を潜ませセーリアの後について行った。

「では、わたしも動く」

「よろしくね、シャルカ」

「うむ」

 シャルカはもう一度重々しく頷くと、すぐ隣の岩の裂け目、横穴の前に移動した。

 討伐隊と案内人の宿営する横穴からは、一様に携帯カンテラの明かりが漏れている。月は西の山影に隠れ辺りは闇が濃く、カンテラの灯が妙に明るく感じられる。

 シャルカの口許から白い息が微かに漏れる。

 彼女の役目は一番の難敵リフィアと、マーヤとニナを、彼女たちの契約精霊を横穴にそのまま、閉じ込めることだ。

 人や魔物の発する殺気や魔力に敏感なリフィアの他に、マーヤとニナの精霊、ベスコルティーノとエルリーナも同様の感知能力を持つ。だが、普段はイシュルの召喚した風の精霊の圧倒的な感知能力にまかせ、それほど厳しく警戒はしていない。

 高い能力を持つシャルカにとって、緊張を解いているベスコルティーノとエルリーナの隙(すき)を突くのは、それほど難しいことではなかった。リフィアに関しても、殺意を消し魔法を使わなければその眠りを妨げる危険はなかった。

 シャルカはリフィアたちの寝ている横穴の前に立ち、中を覗き込んだ。

 暖かい色の、柔らかなカンテラの明かりにぼんやりと照らされた岩の裂け目、数長歩(数m)ほど奥に、リフィアとマーヤ、ニナとノルテの四名の、毛布にくるまった背中が見えた。皆、縮こまり固まって眠っている。

 シャルカはマーヤたちの寝姿を確認すると、横穴の縁(ふち)から少し離れた空中に浮き上がった。そこへ目の前を一瞬、人影が横切った。ミラが猟兵顔負けの動きで音を消し、イシュルの眠る横穴に移動したのだった。

 シャルカはミラの動きを目で追うと、おもむろに両手を前に差し出した。掌を開き精霊でさえ気づかない、ほんの微かな金の魔力をリフィアたちの眠る横穴全体に張り巡らした。

 シャルカの魔力は、岩山の割れ目など小さな隙間や僅かに存在する金属の間を伝って、横穴の周囲を網目状に覆っていった。もちろん出口側には隙間なく、念入りに金の魔力を張った。

 まだ穴の中のリフィアたちは寝たまま、気づかない。マーヤとニナの精霊の、ベスコルティーノとエルリーナにも特段の動きはない。彼ら精霊は金の魔力に気づいているかもしれないが、まだ魔法そのものは発動していないし、殺気も抑えている。シャルカとベスコルティーノとは長い間行動を共にしているので、互いに警戒することもほとんどなくなっている。もちろん、系統の違う精霊どうし、仲が良くなることはないのだが。

 シャルカは、金の魔法を即座に発動できるよう準備を整えると、その場にじっと気配を殺してマーヤたち、そして彼女らの契約精霊を監視しはじめた。

 もしマーヤたちがミラの動きに気づいた場合、金の魔法を瞬間的に発動して、横穴の開口部を鋼鉄の壁で塞ぎ、周囲の岩の隙間にも鉄を流し込んでより強く固めてしまうのである。

 勘の良い、また最も力を持つリフィアがその気になれば、シャルカでも抑えるのは難しい。

 彼女は少しでも長くリフィアを封ずるために、魔法の発動を早く強力にするために、あらかじめ金の魔力を周囲に展開しておくことにしたのだった。

「……」

 ミラがイシュルの眠る横穴の前に立つと、先行したルシアとセーリアがちょうどロミールとディマルス・ベニトを起こして、穴の外に連れ出そうとしているところだった。

 カンテラの明かりに浮かび上がったロミールの顔は、強烈な怖れと困惑に歪んでいた。

 何事か囁くセーリアに、口をぱくぱくさせながら、壊れた人形のようにかくかくと首を縦に振って何度も頷いている。

 対してベニトは「やれやれ」といった表情で、小声で話すルシアの言に耳を傾けている。

 ……ロミールさん、ごめんなさい。

 でも、ここで退くわけにはいかない。

 ミラはロミールとベニトを見て、僅かに表情を曇らせた。

 ベニトは年嵩ゆえの余裕か大して気に留めていないようだが、ロミールは年上のセーリアからいったい何を囁かれているのか、相当怯えているようだ。

「んっ!」

 そのロミールが洞窟の縁(ふち)に立ったミラを見て、叫び声を上げそうになった。

 そこをセーリアが素早く手を当て、彼の口を塞いだ。

「ん~ん~」

 セーリアはロミールの口を塞いだそのまま、横穴の外に連れていった。

 可哀相なロミールは、まるで悪漢に囚われたヒロインのように見えた。

 ベニトもルシアに連れられ外に出ていった。

 ロミールとベニトのふたりはこの後、近くの空いている横穴でセーリアの監視のもと、しばらくのあいだ待機することになっている。

 イシュルだけになった横穴の出入り口は、ルシアが守ることになっている。

「ふふ」

 ミラは妖艶にも見える満足気な笑みを浮かべると、その視線の先、毛布に包まって眠るイシュルにゆっくりと近づいていった。

「お待ちなさい」

 そこへ、ミラの目の前に薄く青い光が浮かび、ネルの声が聞こえた。

「剣さまと契るのですか」

 ネルは囁くような小さな声で、だが恥らうことなく平然と言った。

 精霊にとってそれは、何か儀式のような意味があるのかもしれない。

「どうか、お許しを。大精霊さま」

 ミラは態度をあらため、腰を落とし頭を下げると緊張した声で言った。

 ここが要所だ。彼女の協力をうまく取りつけるか、最低でも見逃してもらわないといけない。

 ネルははっきりと姿を見せず、ミラに心の中へ直接伝わるような、不思議な声で語りかけてきた。

 イシュルは眠りが深いのか、何の反応も見せずまったく動かない。

「いいでしょう。ここは目を瞑って見なかったことにしましょう。おまえの、剣さまを崇拝する気持ちを尊重しましょう」

 確かにミラはイシュルを崇拝している。その想いは彼の周りの他の者と、一様ではないかもしれない。

「ありがとうございます」

 ミラは目の前の青い光に腰をかがめ深く一礼した。

 と、その光が消え、ネルの気配が遠ざかっていく。

「……イシュルさま」

 ミラは鬼気迫る、凄絶な喜びの笑みを浮かべると、イシュルの背中に向かって彼の名を呼んだ。

 小さいが歌うような声音だった。

 そして身をかがめ膝をつき、眠るイシュルの肩に手をかけた。


  

 ……イシュルさま、イシュルさま。

 耳許に熱い息がかかる。誰かが甘い声で囁く。

「!!」

 イシュルが目を覚まし、何事かと振り返ると目の前にミラの顔があった。

「ミ、ラ」

 カンテラの明かりを背景に浮かび上がる彼女の顔が、異様な美しさを湛えている。

 ……またコボルトの襲撃か。

 イシュルはまだ完全に覚めていない頭で、ぼんやりと昨晩の出来事を思った。

 ……だが何か違う。ミラの眸が濡れている……。

「イシュルさま」

 ミラの声がいつにも増して真剣だ。

「ん?」

「心から、お慕い申し上げております」

「えっ」

 な、何を。いきなりどうした?

 瞬間的に、イシュルの頭が完全に目覚める。

「ど、どうしたんだ、ミラ。こんな時間に」

 目覚めるどころか、危険な予感に全身が硬直する。

 ……へ、変だぞ。これは。おかしい。とってもおかしい。

「こんな時間だからですわ」

 ……!!

 からだだけではない。心までも凍りつく。

「ロミっ」

「ロミールさんもベニト殿もいません」

 イシュルが言い終わる前に、ミラがぴしっと遮ってくる。

「……」

 ミラの気合いの入り方が凄い。

 イシュルは呆然と周りに眸を漂わせた。

 確かにふたりの姿が消えている。それだけではない。左側の岩壁から強い魔力の気配が伝わってくる、

 ……マーヤたちの寝ている横穴からだ。これは金の魔力、シャルカか。

「何が……」

 起こっている?

「この三方が閉鎖された小さな洞穴は、わたくしとイシュルさまの想いを遂げるのに絶好の場所ですわ」

 ミラの顔に妖しい笑みが広がる。

「ああっ」

 や、やっぱりそれか。シャルカたちを使って、仕掛けてきたのか。

「ネル!」

 イシュルが声をおさえて短く叫ぶ。

 ……あれ? 反応がない。

「大精霊さまはわたしの味方。別に、イシュルさまに危害を加えるわけではないのですから」

 ミラの勝ち誇った声。

 ……剣さま、ここは男として下々の者にお情けを。ときには褒美を与えなければなりません。

「ね、ネル」

 彼女の声がどこか遠くから聞こえてくる。

 イシュルは真っ青になって喉を鳴らした。

 ネルが調略された。これはやばい。ほんとにやばい。

「ふふ」

 ミラはまるでネルの言葉を聴いていたかのような、確信に満ちた笑みを浮かべた。

「さっ、イシュルさま。覚悟なされませ」

「い、いや。ちょっと」

 ミラは顔を上げてイシュルから視線を逸らした。

「風と金の魔法具を持つイシュルさまは、マレフィオアも簡単に退治されますでしょう。そうなると土の魔法具もイシュルさまのもの。五つの魔法具をそろえる日も、いよいよ近づいてまいりました」

 ミラは我がことのように誇らしげな顔をしている。悦に入っている。

「ここは先手を打って誰よりも早く、イシュルさまの言われる“既成事実”とやらを作ってしまわないといけません」

 ミラの恐ろしい、熱く燃える視線がイシュルを焼き尽くす。

「ひっ」

 “既成事実”なんて言葉、どこで憶えたんだ。マーヤか? ペトラも知ってたか?

「さぁ、イシュルさま。その毛布の中へわたしも入れてくださいませ」

 ミラが首元を覆う毛布に手をかけてくる。

「まっ、待って」

 イシュルが少女のようなか細い声を上げる。

 その時一瞬、洞窟全体が激しく揺れた。

 シャルカの金の魔力が軋み、一部がひび割れるように砕け散った。

 その狭間から走る、赤い閃光。

 ……リフィアだ。

「ちっ」

 ミラがらしくない、悪事の露見したごろつきのように舌を鳴らすと背後へ振り返った。

「きゃっ」

 横穴の出入り口を見張っていたルシアの短い悲鳴がすると、真紅の強烈な魔力が煌いた。

「ミラ殿っ! 卑怯だぞ」

 その赤い光彩とともに、リフィアの影がミラのすぐ後ろに屹立する。

 固く握りしめられた両手の拳が、細かく震えていた。

「リフィアさん、来ましたわね」

 ミラが低い声で呻る。

 異常に気づいたリフィアは、シャルカとルシアの妨害をあっという間に突破し、ミラの抜け駆けを止めに来たのだった。

 イシュルはこの隙に上半身を起こし、周囲を見回した。

 ……なるほどシャルカの金の魔力が消えている。ルシアの気配も近くに感じない。ふたりとも、リフィアに吹き飛ばされたのだろう。

 しかしあまり派手にやると、この岩山全体が崩壊しかねないぞ。龍の巣にいるらしい火龍に気づかれるのは構わないが、火山の噴火じゃあるまいし、山体が吹き飛ぶような過激な真似は控えてほしいんだが。

「どうやらイシュルは無事のようだな」

 ミラの肩越しにリフィアの顔が覗き込む。

 彼女の眸も、なかなか真剣だ。

「無事とはなんです。いったい誰がイシュルさまに危害を加えるというのです」

「あなただ、ミラ殿。皆との約定はどうされた? イシュルに手を出すのはまだ先だ」

「そんなことはわかっています。ですがこれは戦いなのです。イシュルさまを、そうやすやすと渡すわけにはいきませんわ」

「ほう」

 リフィアの眸が赤く、輝き出す。

「戦い、……か。つまり早い者勝ち、力づくで、というわけだな」

「それだけではありません」

 ミラが顎を引いて酷薄な笑みを浮かべる。

「頭の良い者が勝つのですわ」

「それは狡猾な者、の言い間違いではないか?」

 リフィアも冷たく微笑む。

 ……これはまずい。 

 イシュルは腰を落としたまま、睨みあう両者の真横へゆっくりと移動しはじめる。

「あのー、俺は? 俺の気持ちもちょっとは考えて……」

「うるさい」

「イシュルさまは黙って」

 ふたりの間に恐る恐る割って入ろうとすると、ぴしゃりと異様な速さで遮られた。

 ……こ、これは恐ろしい。本当にまずいぞ。

 リフィアが加わり脅威が二倍になった。

 イシュルは何度目か、恐怖に震撼した。

 ネルは姿を現さない。争うふたりの姿を見て楽しんでいるような、なぜ俺が二人とも受け入れないか訝るような、いかにも精霊らしい心境が何となく伝わってくる。

「そこ、どいてもらおうか」

「いや、ですわ」

 ふたりの視線が鋭くなる。

 嫌な感じだ。洞窟の中で、リフィアの無系統の武神の魔力と、ミラの金の魔力が密度を増していく。

 互いの魔力が輝き、渦を巻きはじめる。周りの空間が歪んでいるような、異様な錯覚に襲われる。

 確かにふたりとも、まだ全力を出していない。こんな狭いところで本気でやり合えば、他の者も巻き込み悲惨な結果になるのは誰だってわかる。

 だがそれも次の瞬間には、何かをきっかけにタガが外れるような、最悪の事態が引き起こされるかもしれない。

 ミラとリフィアが、額(ひたい)を突き合わせるようにして魔力を一点に集中し、鍔迫り合いをはじめた。

「……」

 もう遊びは終わりだ。

 イシュルは腹をすえ、無言でその禍々しい、危険な光点を見つめた。

 今は何も話せない。動けない。何がこの二つの魔力を暴走させ、崩壊させるか、ほんの些細な変化も、刺激も与えてはならない。

 ……渇きに喉がひりつく。

 どれほどの時間が経ったか、それとも一瞬だったか。

 その時が、ふいにやってきた。

「くっ!!」

 睨みあうふたり、その双眸が激しく燃え上がる。

「イシュルは渡さない!」

「イシュルさまはわたしのもの!」

 崩壊する均衡。拡散する魔力の塊──。

 イシュルは本能的に、その中心に己の魔力を焚(く)べた。

 ……ふたりの魔力を、俺の魔力で焼き尽くす。精霊の異界へ落とし、蒸発させる。

「!?」

 その時。

 偶然か、風と金の魔力が混ざったのだ。

 神の魔法具を持つ者だけが、起こせる奇跡……。

 網膜の片隅に、新たな世界の貌が映り込む。

「あ、ああ」

「なっ」

 驚愕に、呆然とするふたり。

 その視線の先の光点が、音もなく消えていく。

「……終わりだ」 

 イシュルは右手を突き出しその消えゆく光点を握った。



 


「残念ですわ」

「いや、そうじゃないだろう」

「これはまた、皆で会合を持たなければならない」

 肩を落として呟くミラに、リフィアが突っ込み、マーヤが重々しく宣告する。

「いったい、何をやっているのだ」

「イシュル殿、貴公はまだ若い。それはわかる。……だが、己の立場をな、もうちょっと考えてもらわんと」

 一方イシュルは、隊長のフリッドと最年長の魔導師、ベニトから小言を言われていた。

「あっ、はい。お騒がせしてすいませんです……」

 とかしこまりながらも、内心は不平たらたらだった。

 ……なぜ俺が、文句を言われないといけないんだ。

 悪いのはミラたちじゃないか。

 イシュルの寝ていた横穴のすぐ外で、マーヤとニナ、そして当事者のミラとリフィアが固まって話し込んでいる。

 少し離れたところではルシアとセーリアが、リリーナ・マリドに何事か注意されている。

 ……まぁ、フリッドもベニトも、要はミラやリフィアの相手をするのが怖いのだ。だから俺に文句を言ってくる。

 そしてこのひとたちは、彼女らの手綱を握るのはおまえだろうと、それを一番言いたいわけだ。

「……」

 こんな目にあっても、俺がみんなからモテてて最高じゃないかと、幸せじゃないかと言えるのか?

 前世では絶対味わえなかった、贅沢な悩みではあるんだが。

 ……とほほ。

 イシュルはがっくり、肩を落として頭(こうべ)を垂れた。

 ミラとリフィアの魔力が臨界に達した、あの瞬間に起きたこと。風と金、二つの魔力が見せた新たな可能性──。

 そのことに、その重大さにイシュルが気づくのはまだ、もう少し先だった。


 

 騒動の後、一部の見張りの者以外皆が再び眠りについた明け方。

 ミラ一行の宿営する洞窟では、彼女たちが頭を突き合わせ、何事か話し込んでいた。

「今回はうまくいきませんでした。皆にはいらぬ苦労をかけてしまったわ」

「何をおっしゃいます、ミラさま」

「その通りです、ミラお嬢さま」

「うむ、いや」

 ミラがかるく頭を下げて詫びを入れると、セーリア、ルシア、シャルカが順に言葉を返した。

「これからは龍の巣、中盆地、地下神殿と要所にさしかかります。しばらくは自重いたしましょう。ただ、これまでどおりリフィアさんたちの監視は怠らずに」

「はい」

「かしこまりました」

 マレフィオアを斃し土の魔法具を得た後も、火と水の魔法具を手に入れなければならない。

 イシュルは魔法具を集め、神々と相対しことが終わるまでは、誰とも契るようなことはしないと決めている。

 だが、彼が動かず受身でいるということは、逆に既成事実をつくる好機でもあるのだ。それはつまり、彼がまだ結論を出していない、宙ぶらりんの状態だからである。彼が誰にするか決める前に、こちらで先に、強制的に決めてしまえば良いのだ。

 イシュルの大切な目標の足を引っ張ってはまずいが、それでもこの先、絶好機は何度でも訪れるだろう。

 競争相手はリフィアをはじめ、強敵ばかりだ。どんな機会も逃さず、相手を出しぬかねばならない。彼女たちとの“盟約”を、ただ闇雲に守り続けるわけにはいかないのだ。

 ……裏切りは恋の、女の戦いにはつきもの。それは華麗に咲きほこる花々のようなものだ。

「ほほほっ」

 ミラはルシアたちの頼もしい顔を見回し、それこそ花のように口に手を当て笑った。

  

 

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