ふたつの影



 聖王国の若き国王、サロモンがイシュルの提案を受け入れた翌日。

 二度目の晩餐会も皆、表面上は和気藹々と懇談。懸案の赤帝龍の遺骸に関しても、両国で均等に分配することで合意がなされ、程なく無事散会となった。

 会が終わると、ラディス王国側のルースラ・ニースバルドと、パオラ・ピエルカがイシュルの許に寄ってきた。

「よかったですね。思惑どおりにいって」

「……」

 イシュルは思わずルースラの眸に皮肉の色が浮かんでないか、凝視してしまった。

 周りは多くの篝火が焚かれ、昼間のように明るい。四方から薪の割れる音が、間断なく響いてくる。

 その眸の色には確かに、見過ごせない色がある。

 イシュルは僅かに口端を歪めた。

「それはお互いさまじゃないか? むしろあんたらこそ俺に感謝すべきだ。これで両国の無用な衝突が回避されたんだからな」

「ふふ、おっしゃるとおりです」

 反撃に出たイシュルに対し、ルースラはあっけなく負けを認め、引き下がった。彼の機嫌も悪くない。その顔に浮かんだ笑みは、今度は本物だ。

 聖王国もラディス王国も、今は戦(いくさ)などできる状況にない。聖王国ではまだ完全に旧国王派の粛清が終わっていない。少しでも早く、混乱した国政をたて直さないといけない。ラディス王国はまだ、連合王国の侵攻で受けた被害から回復できていない。

「でも大事にならなくて、本当に良かったわ。イシュルさんもご苦労さま。まだ若いのにさすがね」

 パオラもにっこり機嫌が良い。ただ酒に酔っているだけではない。

「いえ。ちっともさすがじゃないです」

 ……さすがとかじゃない。あのサロモンとペトラが相手だ。頭脳よりも忍耐が大事、ただひたすら面倒だった。

 イシュルは口角をさらに歪めた。

「そんな顔しないで。あの赤帝龍さえ斃した力があるのに、穏便に話し合いで済まそうしたのは立派だわ」

 そんなことはたいしたことじゃない。だが確かに、本当に十代の若さだったら、短気を起こして力で解決する場面もあったかもしれない。

「それで今晩は、大きな仕事をしたあなたにご褒美があるの」

 と、パオラの言に合わせてルースラが片手をあげた。すると彼らの後方、だいぶ離れて控えていた従者らしき少年が駆け寄ってきて、幾つかの巻紙(スクロール)をふたりに渡した。

「少し前にマーヤ殿はじめ、マレフィオア討伐隊の方々から手紙が届きましてね。今頃はみなさん、フロンテーラを出発してこちらへ向かっている最中でしょう」

「おお」

 イシュルは小刻みに何度か頷いて、笑みを浮かべた。

 ……しかしすごい早さだな。もうフロンテーラを後にしたのか。

「はい、まずはニナからよ」

 と、パオラが言って小さめの巻紙を差し出してきた。

「あ、ありがとうございます」

 別れてからまだそれほど日にちは経っていないが、皆が手紙をくれたというのはやはり、嬉しいものだ。

 イシュルはパオラに礼を言ってニナの手紙を受け取った。

 縦に開いて文面を見ると、ニナらしい柔らかい筆致で、ここ数日間のことが簡潔にまとめられていた。

 カナバルに残るセグローやバストルらのパーティと現地で別れ、マレフィオア討伐隊はみな無事に王都に帰還したこと、隊長のフリッド・ランデルと土の魔導師、ディマルス・ベニトや髭の男たちの大半は王都に残ったものの、マーヤたちをはじめ、リリーナ・マリドとエバン、イシュル付きのロミールに、リフィアやミラに付けられた侍女のセーリア、ノクタまで同道しているということだった。

 ニナの手紙には書かれていないが当然、ミラの契約精霊のシャルカ、メイドのルシアも一緒であろう。

 それから、赤帝龍が東の大山地から人里へ再び降りてきた凶報を王都で聞いたこと、もしやイシュルが先行したのではと考え、皆でとりあえず王国東部へ向かったこと、フロンテーラの手前で、イシュルが赤帝龍を討ち滅ぼした一報を耳にして歓喜したこと、などが書かれてあった。最後には「お怪我はしていませんか? とても心配です。すぐに着きますから、待っていてくださいね」と、心が洗われるような優しい、温かい言葉で締めくくられていた。

「ニナはやさしいわね」

 イシュルの許しを得て、ニナの手紙に目を通したパオラ・ピエルカが言った。

「こちらに大急ぎで向って時間がないでしょうに。こんなに丁寧な手紙を書いて」

「ええ、そうですね」

 イシュルも顔をほころばし大きく頷いた。

 さすがニナだ。彼女は素晴らしい。まさに水の魔法使い、本当に癒される。心が洗われるようだ……。

「さて、次はミラ・ディエラード殿からです」

 と、今度はルースラが似たような大きさの巻紙を差し出してきた。

「……どうも」

 ちらっとルースラの顔を見てミラからの手紙を受け取る。

 いつもの、本心を隠した微笑を浮かべている。……何か隠している?

 と、気にしてもしょうがない。すぐ目の前に、彼女の心情が記されているのだ。直接読んだ方が早い。

 イシュルは巻紙を広げ紙面に目を向けた。篝火の温かい色に照らされ、美しい筆致が浮かび上がった。

 ミラの手紙は内容としては型通りのもので、赤帝龍を滅ぼしたお祝いと称賛、そしてイシュルが怪我をしていないか心配し、早くお会いしたいと書かれてあった。

 だが、続く後半で「これで残る魔法具はあとひとつ。いよいよイシュルさまとわたくしの、神々の神秘をめぐる旅も終わりが見えてきました。わたくしたちの将来を誓約する日も、すぐそこまで来ているのです」との記述を目にすると、イシュルは思わず後ろに仰け反った。その双眸は驚愕に、いや怖れにこれでもかと大きく見開かれていた。

「むぅ……」

 ミラの手紙を最後まで読むと、イシュルは思わず額に浮かんだ汗を拭った。彼女の手紙は「そろそろ兄たちに頼んで、手続きの方を進めることにいたしましょう」で終わっていた。

 ……手続き、って何だ?

 あれほど、ことが終わるまで誰ともそういう関係にはならない、と言ってきたのに。

 また何か、彼女たちの間ではじまっているのか?

 ペトラも襲ってきたし……。

「何だか、大変そうですね」

 声のした方を見ると、ルースラの笑みがより大きくなって、思わせぶりなものになっている。

 隣のパオラ・ピエルカは逆に、その笑みに一切の感情を消し去っている。

「はい、次はマーヤ殿」

 イシュルがルースラを睨みつけると、彼はすかさずマーヤからの手紙を差し出してきた。

「マーヤからも?」

 ……というと、リフィアからの手紙もあるわけか。みんな俺に書いてくれたのか。

 イシュルはマーヤからの手紙を見ると、変な声で呻いた。

「げっ」

 そして、「くくくっ」と低い声で笑った。

「どうしたの」

 不審な顔になって訊いてきたパオラに、イシュルはマーヤの手紙を広げたまま、彼女の方へ向けて見せた。

 そこには大きく、「疲れた」とだけ書かれてあった。

「あら、すごいわね。マーヤさんらしいわ」

「少しだけ怒ってますかね、マーヤ殿」

「俺に、……だろ?」

 だがしょうがない。あの場面で俺は最善の選択をしたと思う。少しでも早く赤帝龍を斃さないと大きな災厄に見舞われ、いや、人類全体の存続に関わるような事態に陥っていたろう。

 たったひと言の殴り書きはマーヤらしいといえばらしいが、貴族の子女にあるまじき行儀の悪さだ。そこをルースラが、マーヤが怒っていると感じたのだろう。

「……では、最後にリフィア殿から」

 ルースラはイシュルの言をさらっと流して、最後の巻紙を渡してきた。

 ニナからリフィアまで、みな同じような大きさの、同じ質の紙だ。どこかでみな一緒に、同時に書かれたものだろう。

「ああ」

 ……さて、彼女は何と書いてきたのか。

 イシュルはおもむろに手紙を開き、紙面に目を落とした。

「!!」

 な、なんと……。

 イシュルは今度こそ驚愕し、呆然とその文面を見つめた。

 そして両手をぶるぶると震わせはじめた。

 ……あいつ。

 全身に悪寒が走り、ミラの時以上に汗がふき出す。

「こ、怖すぎる……」

 イシュルは振り絞るようにして呻いた。

 筆致に殺意が見てとれる。

「……まあ」

 イシュルの横に回って後ろから覗いたパオラが、口許に手を当てて言った。

「なんです?」

 ルースラも一瞬、真面目な顔になってイシュルの背後に回りこむ。

「これは」

 リフィアの手紙をひと目見た、ルースラの低い声。

「……」

 イシュルは無言で、一瞬でリフィアの手紙を霧状に、細切れにした。

 ルースラはもちろん、パオラも見惚れるほど鮮やかな風の魔法が閃いた。

「い、いいんですか」

 完全に消えたリフィアからの手紙。気まずい空気の流れるなか、ルースラが恐る恐る訊いてきた。

「ああ、かまわないさ」

 イシュルは大きく一度、喉を鳴らすと開き直って言った。

 ……まるで果し状じゃないか。

 リフィアの手紙にはただひと言、マーヤの手紙のように大きな文字で、ただし踊るような力強い筆跡で、

「待っていろ」

 とだけ書かれてあった。


  

 翌日の正午頃。

 折り良く二度目の晩餐会が終わり、ラディス王国とオルスト聖王国の間で赤帝龍の遺骸の割り当てが内々に決まった次の日に、聖堂教会の大神官ら一行が現地に到着した。

 教会は今回の一大事に、聖都から月の神殿長であるカルノ・バルリオレと、火の神殿長であるデシオ・ブニエルの、二名の大神官を派遣した。

 前正義派で中心人物だった両名揃っての派遣は、教会がこの吉事をよほど重視していることの表れであった。

 カルノとデシオのふたりの大神官は、まさしくその威勢を誇示するかのごとく、数十名に及ぶ聖神官からまだ子どもの見習い神官まで、そして百名以上の神官兵を引き連れ、聖王国側の陣中に入った。

 聖堂教会赤帝龍祈祷団の派手な到着の有り様は、イシュルのテントからもよく見えた。

 けたたましい銅鑼の音が上がり聖王国軍兵士の波打つ歓声が起こると、やがて澄んだ青空を背景に、白地に金で様々な印の描かれた無数の旗が城壁の上に姿を現した。

 教会の旗は太陽や聖堂、月神を表す月と天秤や、火神を表す炎を湛えた杯など、様々な絵柄で、緩やかな風にはためくたびに、陽光を反射しきらきらと輝いて見えた。

 それからしばらく、陽が傾きはじめた頃に聖王国側の砦から、サロモン自らの案内でカルノとデシオがイシュルの許にやってきた。

 イシュルの横にはペトラをはじめとするラディス王国側の面々が並び、彼らは初めて月と火の大神官と対面することになった。

 イシュルは再会の挨拶を、ペトラたち王国の者は初見の挨拶をカルノらと交わし、何度目か、赤帝龍との戦いやと地下神殿でマレフィオアを打ち滅ぼした件を話した。

 もちろん聖堂教の総本山である大聖堂にも、赤帝龍が多数の火龍を率いて東の山岳地帯から進撃してきたこと、その赤帝龍をイシュルが討ち取ったらしいことは知らされていたが、ブテクタスの山中にある地下神殿でイシュルがマレフィオアをも屠ったことは、まだ伝わっていなかった。

 カルノとデシオはその話を聞くと瞠目し、イシュルの成した偉業を褒めそやした。一行は続いて草原に高く聳え、大きく広がる赤帝龍の死骸を検分した。

 デシオはお付きの神官らに、その死骸を見渡す草原の一角に祭壇を設置するよう言いつけた。その夜も彼らを歓待する晩餐会が催されることになったが、カルノはその前に、デシオも含めイシュルと三人のみで話す機会を与えてくれるよう、サロモンやペトラたちにそれとなく伝えた。

「これでやっと、君と忌憚なく話せる」

「久しぶりだ、イシュル殿。まずは元気そうで何より」

 カルノとデシオは、イシュルに親しみのこもった笑みを浮かべて言った。

「ありがとうございます。……本当に久しぶりです」

 イシュルも顔をほころばすとかるく頭を下げて言った。

 西から差す夕陽に、微かに冷気を帯びた風が草原を渡ってくる。

 カルノとデシオはふたりとも、赤帝龍の死骸を背に西の空を見て、気持ち良さそうに眸を細めた。

 ラディス王国、聖王国の者たちがそれぞれの陣営に引き上げた後、「テントの中で休みますか」と訊いたイシュルに、カルノはその場で、赤帝龍の死骸を前に話そうと言った。

 彼らから東へ少し離れた、草原のわずかに盛り上がった場所に、多くの見習い神官や兵士らが敷石や木材を運び込み、祭壇の設置工事がはじまっている。

 時折、彼らの上げる忙しげな声が聞こえてくる。

「まさか、マレフィオアまで退治していたとはな」

「大変な働きだ。君は間違いなく、いずれ聖人の列に加わることになるだろう」 

「はぁ」

 仰々しいデシオの言に、イシュルはつくり笑いを浮かべてごまかし、やり過ごした。

 ……列聖は俺の死後だろう。聖人なんてガラじゃない、そんな立派な人間じゃないし、本当はやめて欲しいんだが、ここまで来たらそうもいかないだろう。

 俺のように複数の神の魔法具を得て、千年以上も生きた伝説の魔物を斃した者は今までいなかった筈だ。イヴェダが大聖堂に降臨した件もあるし、聖堂教会がこれらを放置することなどあり得ない。

「赤帝龍はやはり、火の魔法具を持っていたのかな?」

 カルノはデシオに対してわざとか、いつにも増して柔和な口調で話す。

「はい」

「マレフィオアの方はやはり……」

「ええ。土の魔法具も手に入れました」

「ふふ」

「素晴らしい」

 カルノは茫然として低く笑い、デシオは感嘆の声を漏らした。

「あとは水の魔法具だけか」

「……そうです」

 イシュルは視線を鋭くして、ふたりにゆっくりと頷いてみせた。

「お二方とも、水の魔法具がどこにあるかご存知ないですよね?」

「うむ」

「水の魔法具に関しては確たる記録も、伝承も残っていない」

 カルノもデシオも、はっきりと答えた。

 太陽は西に沈もうとしている。草原に立つ三人の男たちを、紅い陽が照らしている。

「……」

 イシュルは小さく息を吐くと顎に手をやり俯いた。

 ……デシオはつまり、聖堂教会の関係者で水の魔法具の在り処を知る者はいない、と言っているのだ。過去にも知る者はいなかった、と言っているのだ。

「だが……」

 カルノは夕陽を見てわずかに身じろぎすると、やや顔をひきつらせて言った。

「きみはいずれ、水の魔法具も手にいれるだろう」

 それは静かな声音だったが、ただ柔和というには固く重い緊張感をはらんだものだった。

 カルノは預言者のごとく、宣託を告げた。

「神のご意志がそなたを誘(いざな)っているのだ」

「もうここまできたら、ただイシュル殿の才知と努力の結果、あるいは偶然の賜物と済ますわけにはいかない」

 デシオもカルノの言を支持した。

 ふたりは人づてに聞いたか、イシュルが五つの魔法具を揃えて失われた家族を、ベルシュ村の人々の復活を神々に祈願するのだと考えている。

 だからイシュルが魔法具を集め、神々に会おうとする理由に疑義をはさまない。亡き家族や親しい人々を、故郷を想うのは誰でも同じ、人として当然のことだ。その復活を願うのも決しておかしなことではない。

 ……だが実は、それは違うのだ。俺は神々にその意志を問い、その返答によっては彼らを糾弾し、彼らと戦うことさえあり得る、と考えている……。

「そうかもしれないですね」

 イシュルは力なく笑みを浮かべ、小さく頷いた。

 ただいずれにしろ、俺が神々の、特に月神の誘導を受けているらしいことは確かだ。ふたりの言っていることは半分正しい。

 イシュルの浮かべた笑みはやがて、口端から少しずつ歪んでいった。


  

「ヘレスは続いて己の身を裂き火神を生み出した。その名をバルヘルと名づけ、この世を成す五行の──」

 草いきれに揺らぐ先、赤帝龍の死骸が山のように盛り上がり、山の稜線のように広がっている。

 その手前の祭壇には、火の主神殿の長(おさ)、新たに大神官となったデシオが聖堂教の聖典にある火神の一節を朗々と読み上げている。

 彼の横には少し離れて月の神殿長のカルノが、その後ろには多く神官が跪いている。

 そして、彼らを後方から取り巻くようにしてラディス王国とオルスト聖王国の王家の者、貴族、兵士ら万を超える軍勢が勢揃いしていた。

 青空には両軍の王家や領主、騎士団の旗が無数にはためき、槍兵の立てる槍が林立していた。

 軍勢が展開する中央、前部にはサロモンとペトラ、両国の貴族らがひとつところに固まって祈祷を上げるデシオを見つめている。

 その面々の中でペトラだけが、彫刻や塗色の綺麗な椅子を持ち出し腰掛けている。イシュルは彼女の右側、サロモンの左側に挟まれ教会の儀式、“赤帝龍の葬式”に参列していた。

 聖堂教会が中央の大神官二名を派遣し、力を入れて執り行う大儀式は、その大神官カルノ・バルリオレとデシオ・ブニエルが現地に到着した翌日、正午きっかりにはじまった。

 “葬式”とは言っても対象はあの赤帝龍である。祭司を務めるデシオはまず、赤帝龍の火の属性を司る火神の名を上げて祈りはじめた。つまりバルヘルに赤帝龍を贄として捧げる形で、その魂を火の精霊の異界へ封印しようということなのだろう。

 ……まぁ、あくまで聖堂教会の教理に基づく、形式的なものだが。

「赤帝龍の魂がどうなろうと、俺の知ったことじゃない」

 イシュルは誰にも聞こえない、低い声で呟いた。

 通常より厳しく見張るよう命じてある風と土の精霊、ロルカとクラウの心が微かに揺れる気配が伝わってきた。

 ……彼らが動揺したのはこの世界で俺しか抱くことのない、前世の概念による思考に触れたからだろう。へレスも誰も、神々のいない、魔法もない科学の世界だ。この感慨は、たとえ知恵者のクラウにもわからないだろう。多くの人々は、聖堂教をはじめとする世界観から大きく逸脱して物事を考えることができない。新しい原理を見つけ出すことができない。

 本来それは、例えばニュートンやアインシュタインなど、長い歴史に稀に登場する天才にしかなし得ないものだろう。あるいは市民革命や宗教改革、産業革命のような人間社会の大変革の到来を待つしかない。

 周囲に集う両軍の軍兵どもは皆、物音ひとつ立てずデシオの一言一句、一挙手一投足に集中している。時折軍旗の翻る布地の擦れる音や、誰かの咳(しわぶ)きが聞こえるだけだ。

 千年以上生きてきたと言われる伝説の巨龍が死に、それが教会の大神官によって天に向かって葬られるのだ。このようなことは今後、二度と起きないかもしれない。それを上は王から下は末端の兵士まで、すべての者が実感しているのだろう。

 全軍の注目を集めるデシオは、ひと通り聖典の一節を唱えると、その場に身をかがめ跪いた。その前の祭壇上には青銅の杯が飾られている。誰か、後ろに控える神官が火の魔法を使ったか、小さな魔力が煌めき杯から炎が立ち上った。

 一部の兵らが感嘆の声を上げ、カルノ以下すべての神官が火神を讃える一節を唱和し、赤帝龍葬礼、封印の儀式が終わりを告げた。

「さて、これで一区切りついたね」

 両国の軍勢が各々の陣地に移動しはじめ、残る神官や貴族らからそこかしこで話し声が聞こえ出すと、隣に立つサロモンがイシュルに話しかけてきた。

「あとはあの宝の山の分配をどのように決めるかだが……」

 そして首を横にかるく傾け、ペトラの方へ視線を移した。

「それはルフィッツオとロメオに任せよう」

「では妾もルースラとクベード卿を残していこう。マーヤと合流したら、王都に帰還することにしよう」

 ペトラは間髪を入れずサロモンに応じ、人選を決めた。

「俺もしばらくここに滞在します。リフィアやミラたちと合流しないといけない」

 ……赤帝龍の死骸をどのように分配するか、その具体的な取り決めはわざわざサロモンやペトラが立ち合う必要はない。配下の者に任せる、ということなのだろう。

「きみのおかげでどんなに望んでも手に入らない、希少な宝物を得ることができた。この場に立ち会うことができた。ありがとう、イシュル」

 サロモンはめずらしく素直な笑みを浮かべ、イシュルにかるく、頭を下げてきた。

「い、いえ……」

 イシュルは一応恐縮して、首筋に手をやりさすった。

 サロモンは同じ大国の王でもヘンリクにはないオーラがある。身分と関係ない、常人にはない圧力を感じるのだ。

「月の神殿長殿、火の神殿長殿も同道されるかな」

 その場で立ち話をしていたイシュルたちへ、カルノとデシオが近づいてきた。サロモンはふたりを見て、一緒に聖都に帰るか訊いた。

「心遣いありがとうございます、陛下。わたしは同行させていただきますが、デシオはこの地にしばらく残ります」

 カルノが会釈して少し意味ありげな笑みを浮かべた。

「ほう? まだ何か祭祀があるのかね。……ん」

 カルノに続いてイシュルも思わせぶりな顔をした。サロモンはイシュルに目をやると、訝るような声を出して微笑んだ。

「ラディスとオルスト、両国の赤帝龍の遺骸の分配には聖堂教会の火の大神官に立ち会っていただきます」

 そこでイシュルがサロモンに説明した。

 昨日、カルノとデシオと三人で話した時、イシュルは聖堂教会に赤帝龍の分配に関し立会人となって、両国の無用な争いが再発するのを防いでもらうよう願い出たのだった。

「そうか。これはきみの発案か。……いいだろう。認めよう」

「なるほどの」

 サロモンは横目にイシュルを睨み、ペトラは納得の笑みを浮かべて頷いた。

 間に教会の大神官が入るのなら、たとえ王家の代理を務める貴族といえども、互いに波風を立てず円滑にことを進めざるを得ない。聖堂教会としても、お宝の赤帝龍のどの部位を得ることができるか、より強い発言力を得ることができる。

 ……そして俺はこれでより確実に、後顧の憂いなく水の魔法具探索にかかれるわけだ。

 イシュルは誰にともなく薄く歪んだ笑みを浮かべた。

「イシュルめ。早速、うまく立ち回ったな」

「教会としても、両国が無益な争いをせずに済むなら願ってもないことです」

 にやつくペトラに対し、デシオは揉み手でもしそうな勢いで満面の笑みを浮かべた。

「ふん」

 サロモンはわずかに口角を引き上げると、イシュルに顔を向け言った。

「ともかくも、きみに再会できてよかったよ、イシュル。いい気晴らしになった」

 そして「いつでも気兼ねなく、聖都の我が許に訪ねてくれたまえ。歓迎するよ」と続けて、背を向けた。

 銀色のマントが派手に翻り、傍に控えていたマグダら護衛の魔導師、侍従長のビシューらお付きの者が後に続いた。

「……剣殿」

 その時、耳許でクラウの声がした。

 イシュルもはっとなって視線を北の方へ向けた。

 ……ウマ。

 ロルカの声が心のうちに響くと同時、イシュルも複数の騎馬の動きをはっきりと捉えた。

 馬の数は十騎ほど、ラディス王国の砦を超えこちらへ突進してくる。 

「おお、マーヤたちが到着したようだの」

 ペトラもウルオミラから知らされたか、首を傾け耳をそばだてるような仕草をして言った。

 周囲の視界は無数の隊列を組み、自陣に戻る両国の軍勢で埋め尽くされている。

 兵士らの叫声や甲冑の擦れる音、馬蹄の音が草原に響く喧騒の向こうから、十騎程度の騎馬の近づく気配を察知するのは、普通の人間にできることではない。

「来たか」

 ……怒ってるだろうな、特にリフィアは。

 先日イシュルに届けられた彼女らの手紙、ニナとマーヤと、ミラからのものは特に他意がないように思われたが、リフィアからの手紙は明らかにその文面に、怒りがぶつけられていた。それはただ「待っていろ」とだけ、とても教養のある貴族の書いた書簡とは思われない、乱暴なものだった。

「ふーむ、感じるぞ。怒りかの。人の心のうねりじゃ」

 その台詞(せりふ)とともに、ペトラの頭上に薄っすらとウルオミラが姿を現した。その端正な横顔は騎馬の近づく方を見つめ、なかなか厳しい表情をしていた。

「!!」

 ……ウルオミラは、そんなことまでわかるのか。

 イシュルは顔を真っ青にしてウルオミラの視線の先を見つめ、ごくりと喉を鳴らした。

「ま、なんじゃ。妾が何とかとりなしてやろう」

 とペトラが心強いことを言ってくる。

「おお」

 イシュルは感動に、彼女の手を両手でしっかり握りしめた。

「……」

 ふと誰かの視線を感じて顔を向けると、その場から去ろうとしていたサロモンが立ち止まり、肩越しにイシュルを見ていた。

「では、健闘を祈る。そちらの方はまだまだだな、友よ」

 サロモンはイシュルと目が合うとそう言って前を向き、別れの挨拶か、片手を上げた。

「あ、あの、ミラとは会わないんですか」

 イシュルが声をかけると、サロモンは上げた手を左右に振って振り向きもせず、共を引き連れ自陣の砦の方へ去って行った。カルノも感情を消した笑顔をイシュルに向け、無言で手を振り去って行った。

 聖王国側で残った者は今後もラディス王国側と交渉を続ける、ルフィッツオとロメオの公爵家の双子と、近隣の領主のオルトランド男爵らだけだ。

 ミラの兄の双子は少し離れたところで、「そろそろミラと会えるぞ」「ふむ、久ぶりだな」などと小声で話している。

「サロモン殿のあの態度。……逃げたな」

 横からペトラのぼそっと呟く声がイシュルに聞こえた。

 ……カルノもだよ。あの人も逃げた。

 イシュルは泣きそうになった。

 視界の端の方では、デシオが苦笑しているのが見える。

 周りでは両軍の兵隊や人夫、神官らがそれぞれの向かう先へ列をなして移動している。

 太陽は中天にあって、喧騒渦巻く草原を燦々と照らしている。

 やがてその幾重にも連なる隊列が割れ、イシュルとともにマレフィオア討伐に出向いた者たちが姿を現した。みな騎乗で、イシュルに向かって駆けてきた。



 やや下方へ傾斜している斜面を登ってくる騎馬は確かに十騎。

 真ん中、先頭を走るのは華やかに金髪を靡かせる女騎士、リリーナ・マリド。その左右には、さらに圧倒的な煌めきを発散するミラとリフィアの二騎。人間以上に巧みに馬を操るシャルカ、マーヤを前に乗せたエバンと、その隣を颯爽と駆けるニナ。彼女たちの後方にはミラとリフィア、イシュルの従者を務めるロミール、セーリアとノクタ、そしてディエラード家のミラ専属メイド兼護衛役のルシアが続いていた。

「イシュルさーん」

「イシュルさまっ!」

 ロミールの少し間延びした声、ミラの鬼気迫る叫声が聞こえてくる。

「おお、マーヤじゃ」

「ミラ〜」

 イシュルの側ではすぐ横からペトラの声が、少し離れた後方からルフィッツオとロメオの叫ぶ声が聞こえた。

「……」

 イシュルは恐怖の手紙を寄こしてきたリフィアの顔を、その表情を凝視した。

 ……やや気合いの入った上気した顔に、微笑みがこぼれている。

「いかん」

 あの顔は駄目だ。危ない。……あいつ、何かしてくるかもしれない。

 心の内を早速、ロルカとクラウが反応するのが伝わってきたが、今ひとつ弱く、緊張感が足りない。リフィアが本物の殺気を発していないからだろうか。

「それでもやばいんだよ。あいつは本気を出さなくとも、十分に危険だ」

 イシュルは口の中で呟くが、ロルカとクラウは相変わらず、反応しない。

 もう間に合わない。諦めよう。ここは何とか踏ん張ろう。逃げてもしょうがないし……。

 十長歩(スカル、6〜7m)ほど手前まで来ると、リリーナとミラの馬が激しく嘶(いなな)き棒立ちになった。

 高く上げた前足に伸び上がる馬体、その影から赤いドレスが舞ってミラが飛び出してきた。

「イシュルさまっ!」

 高い声音とともにイシュルにぶつかってくる。

「うっ」

 肌をくすぐる彼女の巻き毛、甘い匂い。両腕に感じる彼女の重み。

「良かったですわ! お怪我もなく。……お会いしたかった」

 繋がらない言葉。安堵の言葉。そこへ横からニナの言葉。

「イシュルさんっ」

 彼女が脇から顔を近づけてくる。

「お、おお」

 ペトラの前にはリリーナが跪き何か言っている。

 エバンに下ろしてもらったマーヤが魔法の杖を押し立て、のそのそと歩いてくる。

 何か呟き、ぼやいているようだ。

「イシュルさ〜ん」

 と、いつかのようにニナの反対側から、太腿にロミールがしがみついてきた。

「ああ、ごめん。心配かけて」

 ……連絡しなくて、ごめん。

 さすがに鼻の奥がつーんとなって、湿っぽい声が出る。

「イシュル」

 最後に、リフィアの声がした。

 ミラの肩越しにリフィアが立っていた。

 銀の髪が陽光に眩しい。匂い立つような、彼女の微笑。

「あの山のようなのがそれか」

 青い眸が背後の遠くを、赤帝龍の方を見る。

「とうとう、赤帝龍を斃したんだな」

「ああ、そうだ」

 ん? あの恐ろしい感じ、殺気はどこに消えた?

 ……なぜ、どうして。

 リフィアのこの顔。どこかで一度、前に見ている……。

「イシュル、とうとう赤帝龍を仕留めたね。……ちゃんと連絡しないとだめだよ」

「イシュルさん、お疲れさまです。どこか、具合の悪いところはないですか」

「さすがですわ、イシュルさま」

「イシュルさ〜ん」

 ……たくさんの声に、リフィアの姿がかき消される。

 イシュルは皆との再会の喜びに、リフィアに抱いた不審を見失ってしまった。



 


 ……泣いてる。泣いてるよ?

 誰かが語りかけてくる。薄暗い、霞の奥から声がする。

 柔らかい、子どもの声だ。

「ロルカ?」

 イシュルは暗闇に目覚め、簡易ベッドからからだを起こした。

 ……杖さまを、呼んでいるよ。

「まさか」

 イシュルははっとした顔になって、ベッドから降り立った。

 辺りは暗い。まだ朝までは時間がある。

 目の前に垂れた帆布の向こうから、従者のロミールの穏やかな寝息が聞こえてくる。

 あれから、合流したマーヤたちとペトラ、それにミラの兄のルフィッツオとロメオも加わり夕食をともにした。マレフォア討伐や赤帝龍とイシュルの戦い、何度か繰り返された話も新たな顔ぶれが加わり大いに盛り上がって、賑やかな晩餐になった。

 ミラの双子の兄も、ペトラやマーヤも、まるで旧知の仲のように忌憚なく語らい、楽しく時を過ごした。

 一同は夜遅くまで飲み騒いだ後、互いの陣営に戻って行った。

 両国の造営する砦の中間、赤帝龍の死骸の西側にあるイシュルのテントには、今まで従者として詰めていたラデクとジーノに代わり、再びロミールが側につくことになった。

 イシュルは彼が起きぬよう、物音を立てず静かに外に出た。

「ロルカ」

 夜風が草原を渡っていく、ほんの微かな葉擦れの音。

 遠くで鳴る虫の音。

 イシュルは小さく声に出してロルカを呼んだが、彼女は姿を現さない。

 ……。

 だがロルカはイシュルに言葉ではない、ただ心を寄せて自らの居場所を伝えてきた。

 彼女は定位置の、赤帝龍の死骸の周囲にいる。

 ……探しものは、そこにいる。

 イシュルはテントの裏に回り、月光に照らし出された巨大な山──赤帝龍の胴体の前に出た。

「!!」

 山の上、巨大な龍の死骸の上に人影があった。 

 月明かりに長い髪が微かに銀色に輝く。薄く靄のかかった夜空に少女がひとり、膝立ちになって両手を天に伸ばしている。

 すすり泣く声。悔恨と悲哀の言葉。

 両手が下げられ顔を覆う。震える両肩。

 少女の姿にこみ上げてくる、大いなるもの。

 全身が、心が吹き飛び、ちぎれる。

「リフィアっ!」

 イシュルは短く、獣のように叫ぶと空を飛んだ。

 嘆き哀しむ少女の許に降り立つと、力いっぱいに抱きしめた。

 少女は銀色に輝く髪を翻し、少年の胸に飛び込んできた。

「ど、どうして……」

 少女は長い間、イシュルの胸でむせび泣いた。

「リフィア……」

 はっきりと言葉にならない。何を言ったらいいのか、わからない。でも、この少女の気持ちが痛いほどわかった。

 かつてクシムで赤帝龍と戦いやつを退け、彼女をあの死の山で助けた。翌日、彼女の求めに応じ再び連れて戻って来た。

 夕陽のなかで、彼女は多くの兵馬を失った苦渋を曝け出したのだ。

 ……そうだ。同じなのだ。リフィアは俺と同じ。

 彼女の胸にわだかまる悔恨は、俺と同じだ。

 今日、再会した時の彼女の顔は、あの夕陽を浴びた顔と同じだった。

「イシュル」

 リフィアはひとしきりさめざめと泣くと、涙に濡れた顔を上げ小さな声でイシュルの名を呼んだ。

「この山のような死骸は本当に、あの赤帝龍なんだな?」

「ああ」

「あの化け物が、あいつが、本当に死んだのか……」

 リフィアはイシュルから視線をそらし俯くと、そう、噛み締めるように呟いた。

「わたしが」

 再びイシュルを見上げたその眸には、必死の色が読み取れた。

「わたしがその時、イシュルとやつが戦った時、横にいて一緒に戦うのは──」

 彼女は唇を噛んだ。

「無理だったろうか」

「……」

 イシュルは無言で、厳しい顔になってリフィアを見つめた。

「イシュルだけがつくれる新しい世界の結界、それはどんなものなんだ」

 ……今までペトラやサロモンに、カルノやデシオに、そしてマーヤやミラたちに語ってきた赤帝龍との戦い、そしてあの化け物を屈服させた、出来損ないの、“世界”という名の新結界、新しい小世界。おそらく、主神へレスしかつくれない、創造神と関係する“神の業”。

 それは過去に誰も成したことがない、俺以外に知る者のいない大魔法だ。しかもまだ五つの神の魔法具が揃わず、完全なものではない。

 だから皆には全てを伝えず、はぐらかしてきた。だが、リフィアやミラたちにはいずれ、正確に伝えなければならないだろう。

 多分それは、水の魔法具を手に入れた時だ。

「まだ俺にもはっきりとはわからない。それは本当だ。……でも、魔法具が全て揃ったら」

「水の魔法具だな」

 リフィアの顔が険しくなる。

「もう、わたしはイシュルとともに戦えないのだろうか」

 その眸が不安に揺れる。

「そんなことはない。俺とおまえは同じさ」

 その胸に宿る痛みはなんだ? この苦しみは? 赤帝龍を斃して消えたのか?

「俺はおまえの苦悩を知っているぞ。一生抱えていく、消えることのない悔恨を」

 そう、リフィアが赤帝龍と戦い、多くの家臣の命を失ったように、俺は赤帝龍の出現によって、風の魔法具を得たことによって、家族を、故郷の人々を失ったのだ。

 この十字架は生涯、胸に抱いて生きていかなければならない。

 たとえ神々と会い、問うても、消えることはないだろう。

 だが、だからと言ってやめるわけにはいかない。投げ出すわけにはいかないのだ。

「イシュルっ!」

 リフィアの双眸からまた、涙が溢れ出す。

 月光の降りそそぐ青い夜、もの言わぬ巨龍の亡骸(なきがら)の上で。

 彼女はもう一度、イシュルの胸に顔を埋(うず)めた。


 

 誰も知らない、記録も残っていない水の魔法具の在り処。

 それは以前から仕組まれていたものか、当然のごとくイシュルに知らされた。

 翌日の昼前。

 ラディス王国のルースラ・ニースバルドとクベード伯爵に、オルスト聖王国からはルフィッツオとロメオの双子、それから火の大神官のデシオ・ブニエルら聖堂教会の神官が加わり、あらためて赤帝龍の遺骸の検分が行われた。

 分配する前にまず両者立会いのもと、武具や宝飾品、魔法具に準ずる呪具や教会の祭祀に使えそうなものを選別し、それぞれ数量を計り明らかにするのである。

 例えば赤帝龍の鱗はどの部位、大きさのものが何枚あるか、といったことを調べていく。

「すべて合わせると、大変な金額になりそうですわね」

「鱗、剥がすの大変そう」

「裏側から金剛石や鋼(はがね)の刃を使って、剥がしていくんだぜ」

「それくらいわかっておるわ」

 先ほどからイシュルはミラとマーヤ、ペトラと横に並んで、赤帝龍の遺骸を見上げ雑談を続けていた。

 リフィアとニナは赤帝龍の肋骨に登り、どこかを指差したりして話し込んでいる。ルースラたちは多くの書記役らを引き連れ、物々しく検分を続けている。

 他に、パオラ・ピエルカやマリド姉妹の姿も見えた。

 周りでは両国の砦の、造営工事がまだ続けられている。北側に川が流れ、緩やかに丘の連なる草原は、今日も多くの人々の立ち働く喧騒に包まれていた。

 ……さて、水の魔法具。どうやって探そうか。

 イシュルはミラたちと気楽に話しながら、胸の前に腕を組んでふと、小さなため息を吐いた。

 みんなに聞いて、何か手がかりとなりそうなものから当たっていくしかない……。

 その時、まさしくイシュルの心を読んでいたかのように、計ったかのように、月の女神レーリアが現れた。

 突然音が消え、風が消え、すべての人の動きが止まった。ただ日の光だけがそのまま、草原に降り注いでいた。

 黒々と盛り上がった赤帝龍の骸の上、昨晩リフィアの蹲(うずくま)っていた同じ場所に、小柄な少女が立っていた。

 素朴なスカートのラインに、着古したブラウスの柔らかい曲線。

 あれから歳をとらず、今もなお幼さの残る十三歳の少女のままだ。

「そなた、とうとう火の魔法具も手に入れたかえ」

 若々しい少女の声が、そんな台詞を口にする。

 ……あの姿を目にするたびに、胸をえぐられるような痛みに襲われる。

 いつまでも変わらない、メリリャ。死んだ時のままの、メリリャ。

「……」

 イシュルは何も言えなかった。話すことができなかった。

 この時この場で、計ったように月の女神レーリアが現れたのだ。

「あとは水の魔法具だけじゃな」

 離れていてもメリリャの顔が、唇が大きく歪むのが見えた。

「探しておるのだろう? 水の宝具を」

 隣のミラも、マーヤたちも、人形のように動かない。リフィアとニナも遠くで、背を向けている。

「ウルクの、水の主神殿跡へ参るのじゃ。そこで」

 月神はたまらず、笑い声を上げる。

 ……ああ、メリリャの姿で笑うな。やめろ。

「ふふ、フィオアが待っている。そなたをな」

 フィオアとは水の女神だ。

 ウルクの頃の、水の主神殿はどこにあったろうか。誰か、知っている者もいるだろう……。

 イシュルはじわじわと心を侵食していく痛みに、ぼんやりとそんなことを考えた。

「くくくっ」

 メリリヤの皮を被った冥府の神が、再び笑う。

 ……ああ、それは罠だ。わかる、誰だってわかる。

 だが、行かなければならない。

 何か周りが、世界がくいっと横に動いた。ずれた。その瞬間、メリリヤの姿が消えた。

 風が、音が、人々が、戻ってくる。

「……」

 イシュルは無言で、喉を鳴らした。

 初めてだ。

 月神レーリアが昼日中、太陽の下に現れたのは。

「はじめてだ」

 イシュルはもう一度声に出して呟くと、額に浮かんだ汗を拭って空を見上げた。

 太陽はいつものように輝き、何も言わない。

 どこまでも広がる青空を、イシュルは南の方へ視線を向けた。

 

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