業火に身を焼く
宙に浮かぶ精霊の背後には、黒く染まった空と風に流れる霞(かすみ)。
半透明のネルの眸が遠く、紅い光を映している。
「あの生意気な火龍を滅ぼさないと、この地に住む人間はことごとく焼かれ、死ぬことになるでしょう」
彼女が静かに言った。
「……あれは、俺を狙っているんじゃないのか?」
魔法を使えない、魔力を感じない筈の猟師や木こりにも、はっきりと見えた光。
ただ強力なだけでない、恐るべき闘気をまとった炎の魔力の塊だ。
「いや、もちろん最初に狙ってくるのは盾さまだろうさ。彼女が言ってるのは、盾さまを血祭りに上げた、その後の話だろう」
ルカスが、少しおどけた口調で言った。
山頂は、標高五千長歩(スカル、3,000m強)を超える。身に染み込んでくる重い、それでいて突き刺さるような鋭い寒気。
それと同時に、まるで対抗するように自身の深いところから、熱いものがこみ上げてくる。
胸のうちをさまざまな思いが去来する。
……以前とは、違う。
赤帝龍に何が起こったのか。
のんびりと俺が来るのを待っていた、クシムの銀鉱山に陣取っていた時と、まったく違う。
この地まで届く、心の中まで入り込んでくる、やつの強い意志。
地平線の彼方を吹き上がる、火の魔力がこちらへ向かってくる。
「あのバカ火龍は多分、多くの眷属を従えている」
ルカスの声に、真剣さが混ざり込む。
「左右に広がる火魔法の輝きは、やつの子分らのものじゃないかな」
ルカスの口の端が引き伸ばされ、歪んでいく。
その声は真剣さだけでない、怒りと侮蔑も込められている。
彼らは、こういうところは皆同じだ。他の系統の精霊や魔物のすること、人間に災いをもたらし、あるいはこの世界で暴れたりすることを露骨に嫌悪する。
「あいつらは、戦(いくさ)を仕掛けてきてるんだ」
「剣さまとこの世の人間どもを、すべて滅ぼすつもりなのです」
ネルの声音が凍えるように冷たい。
……確かに、赤帝龍の野望は人類を滅ぼし、龍種の楽園を創ることだ。
だが。
「しかしなぜ、今なんだ? やつはまさか、俺がマレフィオアと戦ったのをもう知って、今なら疲労した俺に勝てる、とでも考えているのか」
それにだ、いくら眷属の火龍をこの盆地に監視につけ、見張っていたからと言って、あまりに動きが早すぎるのではないか。やつの感知能力は確かに人間を、俺をはるかに超越しているが……。
赤帝龍はこの辺りの火龍とも、どんなに離れていても、意志の疎通ができるというのか?
そんな馬鹿なこと、あるわけがない。
「わかりません。でも、もしかすると……」
ネルの声が小さくなって、途切れる。
「いいじゃないか。あのバカ火龍は東の山奥に棲んでるんだろう? こちらへ出てきてくれるなら、退治するいい機会だ」
向こうからやって来るのなら、俺たちの方で動く手間が省ける、とルカスは続けた。
……確かにそれはそうだ。
ルカスは当然のごとく、赤帝龍と俺の因縁を知っていた。そしてもちろん、俺の次の目標も。
マレフィオアを斃し、土の魔法具を手に入れた。次は赤帝龍の巣を目指し、東の大山塊へ探検に出なければ、と考えていたのだ。
しかし、この距離……。
ここは一旦カナバルに戻り、やつらが来るのを待つのはどうだろう。十分に休息をとり、できれば何か、罠を張る……。
「付き従う眷属の火龍は千匹はくだらないでしょう。きっとあの生意気な赤い火龍は、この大陸に根を張る人間どもの街を、畑を全て焼き払うつもりです。剣さまが姿を現わすまで」
剣さまはそれでいいんですか?
見つめてくるネルの眸は、そう詰問しているように感じられた。
彼女は、赤帝龍が俺を潰す前に、先に大陸中の人々を攻撃すると考えている。
それはさすがに、やつでさえかなりの魔力、体力を消耗することになるだろうが、あの増上慢なら確かに、何の躊躇いもなくやるかもしれない。
いや、増上慢で片づけてすむ話ではないだろう。やつの龍としての力の強さ、生命力は人間の想像力を超える代物だ。大陸の人間を滅ぼしてから俺と戦う事に、特段の不都合も不安も、何も感じていないに違いない。
「……」
イシュルは正面を向き、遥か彼方、夜闇に浮き上がる炎の帯を見つめた。
……今はまだ、やつらは平野部に出てきていないようだ。地平線に広がる輝きは安定して、大きな動きは見られない。
こちらへ、真っ直ぐ向かってきているのだ。
もしやつらが人々の多く住む平野部に至れば、あの魔力の輝きに大きな変化が現れるだろう。
数え切れない人々が死に、ラディス王国もオルスト聖王国も崩壊しかねない。
生きる者の誰ひとりとしていない、この地上に地獄が生まれることになる。
眼下の山裾を、風が渡っていくのが見える。
まだ大地は静かだ。土や金の魔力の感知を伸ばしても、ただ深い闇に飲み込まれていくだけだ。
この地上に生きる人々の、すべての命を救う義務は俺にはない。
俺は正義の味方ではない。勇者でもない。
それとも神の魔法具を持つ以上、人類を守るのが俺の役目なのだろうか。
脳裡を、メリリャの姿をした月神が酷薄な笑みを浮かべる。
神の魔法具は決して、人類を守るためにあるわけではないのだ。俺はただひとりの人間、運命に抗う、ありきたりな人間のひとりでしかない。
だがやはり目の前で、大量の虐殺を見逃すわけにはいかないのだ。
ベルシュ村で失われた多くの人々の命を、彼らの魂を月神レーリアに突きつけるのが俺の使命なら、ここで多くの人死を見過ごすことはできない。
それでは俺自身の義が、正義が失われる。
目の前の人間たちを救えずして、故郷の人々の命を奪った、己の運命を狂わせた、神々を糾弾できるだろうか。
……ただ、意地の問題でしかないのかもしれない。だが、それでかまわない。
目を瞑るとあの時の、暗黒に浮かんだ大火球が見えた。
以前、やつを討つためにクシムに向かう途中、フゴの村で見たあの夢だ。
それは昨日、洞窟の中で地の魔法具の力が目覚めた時に見た、地の底に燃える地核と瓜二つの、赤帝龍の魔力の形だ。
火神の魔法具の、火杯の中で渦巻くものだ。
「人間を一人として、やつらに殺させはしない。お前たちのすべての力を、俺に差し出せ」
イシュルは双眸を見開き、ネルとルカスの顔を見渡した。
「俺は今すぐあの場に向かい、赤帝龍を滅ぼす」
そして前を、遠く燃える夜空を見据えた。
「あの火龍の親玉までは、相当の距離があります。急げば急ぐほど、剣さまは多くの魔力を消費します」
「それに今から向かっても、火龍どもが人里に出るのに間に合わないぜ」
ネルとルカスはイシュルの命令に否もなく、だが厳しい見立てを隠すこともなく、はっきり指摘してきた。
「それは大丈夫だ」
イシュルはルカスの方を向いて微笑んだ。
「赤帝龍と戦うのだ。こちらも持てるすべてを、出し切る」
続いてネルに顔を向け、やはり微笑を浮かべた。
手はある。やつを足止めする方法はある。
だがそこから先は……。
どのみち退くは死、破滅だ。前を突き進むしかない。
「行くぞ」
イシュルは山の頂を、足下の岩を蹴って夜空へ飛んだ。
高度を上げていくとやがて空が晴れ、霞が遠のく。
頭上を深い墨色が、止め処もなく広がっている。
「これから、いいものを見せてやる」
イシュルは自身の左右を並んで飛ぶ、ネルとルカスに言った。
確信がある。
最初から、いきなり伝説級の地の大魔法を試す。
俺はそれができる。
「いや、俺はやりたいんだ。その魔法を」
イシュルはひとり口角を歪め、呟くような小声で言った。
速度を上げ、前世で数々のヒーローたちが飛んだように、からだを水平に伸ばす。
前方の風の魔力の層が大気を裂き、新たな風を生む。
その風の流れが、心のうちに愉悦をもたらす。
空を飛ぶ風の魔法使いだけが感じることができる、小さな喜びだ。
地平線の先を南北に伸びる災厄、絶望の光芒に向かって、一直線に飛ぶ。
……そろそろはじめよう。
「これから地の大魔法を使って、やつらを足止めする」
イシュルは左右を回し見てネルとルカスに言った。
「土の……」
視線を前にやり、ルカスが呆然と呟く。
ネルは驚愕に、無言で両目を見開いている。
すさまじい、とんでもない遠距離だ。だがこうして視界にとらえている以上、不可能ではない。
それにこれは、遠距離攻撃専用の魔法だ。
イシュルは目を瞑った。
そのまま、真下に広がる雲海に手を伸ばす。
土の底に広がる世界。
人間の生、時間からするとほとんど動きのない暗黒の世界。
やがてそこにさまざまな鉱物の輝きが、水流やマグマの流れが、伸縮する大小の地層の動きが、多様な自然の姿を「感じる」ようになる。
その豊穣の地へ、楽園の先へ「手」を伸ばす。
指先に触れたもの。それはなぜか真上の、遥かな空の高みだ。
土の魔力の源泉、異界に充溢する力。そこは地中のイメージとまったく逆の、煌びやかな極彩色の、複雑な色彩の世界なのだ。
色づく光の奔流、その恍惚に目眩を感じた瞬間。
一条、銀色に光る線が天界を走った。
流星が、東の空に落ちた。
感覚がすべて、その一点に定まり、触れたものの莫大な力を知る。
「地の神ウーメオよ」
脳裡に一瞬、あの雨の日に街道で会った、老人の横顔がよぎった。
「汝(な)が威光を天地にあまねく示し給え」
……おそらく今まで、ほとんど使われたことのない大魔法だ。
呪文は俺の思うままに。きっとそれで発動する。
胸が震える。もう天高く、あの異界の魔力がこの世界に現れようとしている。
イシュルは前方、はるか彼方の空に浮かぶ光芒を見つめ、静かに唱えた。
「彼の地を穿て、流星雨(メテオフォール)」
こんな時に使うことになるとは。……いや、むしろ天佑か。
メテオ。メテオクラッシュ、フォール、レイン。ファンタジーではおなじみの大魔法だ。
この、世界が終わりそうな危機に使うのに、最もふさわしい大魔法だろう。
イシュルは夜空を見上げる。
一瞬遅れて、漆黒の天空を無数の銀線が走った。
そのすべての光の筋が、地平の彼方に広がる光の帯に向かっていく。
やがて光線はすべて直角に落下しはじめ、火の龍の魔力を縦に切り刻むように、覆い隠した。
夜空に浮かぶ、炎の光の帯。そこを銀色の閃光が幾重にも瞬いた。
静かな夜。
遠く地平の彼方に描かれる壮大な光景は、紅く燃える空に、無数に落ちる雷のようにも見える。
「げっ」
「……」
ルカスが空を飛びながら首をすくめ、力なく笑みを浮かべた。
ネルは真剣な目で、じっと夜空を見つめた。
「素晴らしいですわ、剣さま」
そして感動もあらわに、イシュルを褒めそやした。
夜空はその色を、形を変えて燃え続けた。
だいぶ遅れて、あの地獄の轟音が、はるか頭上の空を駆け抜けていった。
遠く離れたイシュルたちの飛ぶ空まで、その衝撃が届いたのだった。
あのオーロラのような輝きのもとで、無数の火龍が消滅し、赤帝龍でさえもただではすまないだろう。東に深く広く、連なる山嶺はその形を変えていくだろう。
至るところで山が燃え、地に落ち死に瀕した火龍の叫声が何日間も続くことだろう。
「……ん?」
空を飛びながら、はるか彼方の阿鼻叫喚を、地上に現れた地獄を眺めていると、周囲を柔らかい風の魔力が広がってきた。
「剣さまはお休みください。わたしがお連れします」
ネルがたぶん、イシュルとイヴェダにしか見せない、甘い優しげな顔で声をかけてきた。
「いや、それだときみが……」
「わたしは大丈夫でございます。あの土の大魔法でも、やつは死なないでしょう。剣さまは力を温存して、あの龍の王と戦わなければなりません」
……わたしは力を使い尽くして消滅し、精霊の異界に還ることになってもかまわない……。
彼女の顔は、眸はそう語っていた。
「火龍どもも、すべては死なないだろう。そちらは俺たちで始末する。たとえ何千匹いようが、すべて片づけてやるさ」
反対側からはルカスの落ち着いた、暖かい声が聞こえてきた。
「ありがとう。じゃあ、頼む」
イシュルはルカスの顔を見て頷くと、ネルに微笑んでみせた。
自身の力を抜くと、かわりに彼女の魔力が全周に回って、包みこんできた。
……すまない。これはもう、やつらとの戦争だ。本当にお前たちを、使い潰す。
「ふたりとも、存分に戦ってくれ」
目の前を薄い雲が流れていく。
「……」
ネルとルカスが無言で笑みを浮かべた。
……寝ている。
宙に浮き、愛に満ちた柔らかいものに包まれまどろむ。
微かに伝わる冷気が、心の端をかろうじて現実につなぎとめている。
今俺は胎児のごとく、風の精霊のネルの庇護のもとでからだを丸め、眠っている。
女の愛情は偉大だ。
空の上で俺はただ、抱かれているしかない。
……いつからか、雨が降り始めたらしい。
煙るような雨音が、ネルの魔力を通して微かに聞こえてくる。
薄眼を開けると雨に濡れ、真っ白の眉毛や髭、鼻の頭から雫を垂らす禿頭の老人がいた。
音がしない。
老人の、意味のわからない独り言だけが聞こえる。
あの時のもう、夢か現(うつつ)か、はっきりしない記憶。
地の神ウーメオが呟きを止め、不意にこちらを見た。そして笑みを浮かべた。
いきなり雨が止む。
……そなたのおかげで、久方ぶりに気分が良い。憂い事がどこか、消え去ったようじゃ。
──いや。
老人の笑みに揶揄が混じる。
……礼を言わねばならぬのは、そなたにではなくバルタルにかの。
そしてつまらなそうな顔になった。
……あの火龍は、そなたが風の剣を振るうのを見ておる筈だ。すでにイヴェダの業(わざ)を見知っておろう。ゆめゆめ油断するでないぞ。
老人の横顔が、魔法の杖に隠れる。
その影で地神は、髭に覆われた口角を引き上げた。それだけが見えた。
……礼代わりにの。忠告じゃ。
あの雨の日の幻が消える。老人が消えた。
「!!」
イシュルはハッと、目を覚ました。
地神か? 夢に……。
煙る夜闇。
やはり雨が降っている。
「……」
あの雨の日、老人はベルシュ村の方を指して、あるいは風の神殿跡を指して、何かを伝えようとしているように見えた。
あの時の忠告がまさか、今さっき言ったことだったのだろうか。
老人が指差した先は、東方だった。それは確かだ。
時が遡って……いやまさか、そんな筈がない……。
イシュルは奇妙な錯覚にとらわれ、泣き笑いのような顔をした。
「剣さま、いかがしましたか」
少し離れて横を飛ぶネルが声をかけてくる。
彼女の髪が、ゆったりとした古い神官服の裾が、夜風にたなびいている。
「いや」
イシュルは眸を細めて前を見た。
……確かに地神ウーメオの警告、ためになった。
忘失していた。今まで風の剣を何度か、使用しているのだ。あの光芒は巨大でたやすく消えることがない。「地球」なのか、この星の地上のどこからでも、見ることができたろう。
あの赤帝龍が、気づかぬ筈がない。
やつはなかなか狡猾だ。風の剣を見て何の対策もせずに、俺に挑んでくる筈がない。ウーメオは赤帝龍が風の剣を防ぐ、風の剣に勝る対抗策を用意している、と忠告してきたのだ。
……それは何か。
人の想像を超える奇抜なアイデア、魔法も含めた戦術上の工夫、だろうか。
それとも……。
「風の剣と同じような、“火神の御業”だろうか」
「雲の薄いところを飛びます」
ネルがイシュルの呟きに、それと知らずかぶせてきた。
彼女は、イシュルの使った大流星雨の魔法が、大気を裂き地を割ったために、気温が上がり激しい上昇気流が起こって、多くの雨雲が生まれたのだと説明した。
「ついて来なさい」
ネルはいつものごとく、ルカスには冷たい声で言うと、進路をやや北寄りにとって高度を上げはじめた。
湿った風に、微かな土と火の匂いが混ざってくる。
「近い……」
イシュルは厳しい表情になって、前方に広がる黒々とした雨雲の層を見つめた。
……この匂いは間違いない。自らの放った大魔法、メテオフォールのものだろう。
ネルは今、時速にするとおよそ六百里長(スカール)、四百キロ程度の速度で飛行している。
中盆地を出発してから二刻(四時間)近く、そろそろ東の大山地に差し掛かる頃合いだ。
赤帝龍と多くの火龍どもの群れ、大軍と接触するまでもう、時間がない。
もしあの巨大な龍が、風の剣に該当するような火神の御業を習得していたら?
真正面からぶつかったのでは勝ち目がない、かもしれない。
俺の前に風神イヴェダが降臨したのなら、やつの前にだって、火の神バルヘルが現れてもおかしくない。
リフィアの指揮する辺境伯軍が壊滅した時、廃墟となったクシム銀山でやつと戦った時を思い出す。
純粋な風の魔力の爆発を至近で浴び、瀕死の状態だった赤帝龍。やつが燃える血を吐きながらよろよろと空を飛び、東の山並みに消えていった姿が目に焼きついている。
あの時俺は多分、一度死んだ。太陽神ヘレスらしき存在が夢に現れ、俺は蘇生した。やつにも同じことが起こったのではないか。あの状態の赤帝龍に、空を飛ぶ力は残っていなかったろう。
赤帝龍の生死にもヘレスが介入したのなら、やつも火神バルヘルから“神の御業”を伝授されたのではないだろうか。
論理性なんか何もない、そう思えるまともな理由など何もない。自分勝手な憶測でしかないが、赤帝龍もまた“神の御業”を手にしたのなら、それはヘレスの関与と重要な関係があるのではないか、そう思わずにいられない。
ヘレスは、あるいは今まで何度も俺の足を引っ張り邪魔をし、挑発してきた月神レーリアは、何らかの意図があって俺と赤帝龍を戦わせようとしているのではないか。
オルーラ大公国の国主、ユーリ・オルーラに金の魔法具を与え、ラディス王国に侵攻させたのは、レーリアの仕業である。
たびたび俺の十字架を、メリリャの姿をして現れる月神は、ユーリ・オルーラを、そして赤帝龍を俺にぶつけて、抹殺しようとしている。
……あるいは。
俺に五つの魔法具を集めさせるよう図り、誘導している。
それは、主神へレスが俺に並々ならぬ関心を持ち、気を配っていることと何か関係があるのではないか。
これでよくわからなかったヘレスとレーリア、太陽神と月神の思惑がつながったような気がする……。
なぜ今、ここで赤帝龍が眷属を引き連れ、乾坤一擲の大勝負に出たのか。
マレフィオアと戦い俺が疲弊したと推察したのか。そのことをなぜ知ることができたのか、それさえもわからないが、もしそうならやつの考えは正しい。結果的にだが、さらにこれだけの移動をさせられ、やつの土俵で戦うよう、強要されているからだ。
俺は赤帝龍と戦い、勝たなければならない。でなければ死ぬ。
俺はヘレスやレーリアの手のひらの上であがきながら、それでも彼女たちに挑まなければならない。問わなければならない。
失われた家族の、村の者たちの運命を。俺の罪を。
……それだけではない。
神々が何を考えているのか。
俺は彼女たちにとって、この世界にとって、どんな存在なのか。
俺は何者なのか。俺は、何を成そうとしているのか。
もし月神と戦わなければならなくなったら……。
視界を左右に流れていく雲の層。
その先に広がる夜空へ、無数の火龍どもの咆哮と羽ばたきへ、感知の「手」を伸ばす。
この無力感に耐えて、“神の御業”を会得したかもしれない、赤帝龍に勝たなければならない。
でなければ何もわからない。生き残らなければ自らを裁き、彼女たちを裁くことができない。
どうしたら赤帝龍に勝てる?
……考えろ。考えろ。考えろ。
前世だって、今までだって、ずっとそうしてきたでじゃないか。
考えること。それが人間に与えられた、最大の武器なのだ。
他に、やつになくて、俺にあるもの。
生き物として、生命としての器が、力があまりに違う赤帝龍に小さな人間が、俺が勝っているものは何だろうか。
「……」
その時、ネルの微かな息遣いが聞こえて身体がわずかに揺らいだ。
彼女が新たな風の流れを、気流を捉えたのだ。
時は刻一刻と、容赦なく進んでいく。
彼女の波打つ半透明の髪。古(いにし)えの風の神官、イヴェダに使える女官の服。
見慣れた風の魔力の輝きが、視界の端をゆらめいた。
目の前の雨雲を抜ければ、またあの火の魔力の塊と相対することになる。
「……ふふ」
ふとネルに視線を向けたイシュルに、ネルが微笑んだ。
慈愛に満ちた微笑。風の精霊にとって風神の宝具は、イヴェダの分身のようなものなのだ。
だから彼女たちは、俺にすべてを捧げる……。
……ああ。
「わかったぞ」
イシュルはネルの微笑みの、その先の夜空に視線を伸ばした。
やつになくて俺にあるもの。俺がすぐれるもの。
それはただ一点。
俺が三つの魔法具を持つということだ。その力を「合わせる」ことなのだ。
「それは、……“世界”を構築することだ」
周りを流れる雨脚が、ネルとルカスの風や金の魔力を拾ってきらきらと輝く。
イシュルは小さく、笑った。
君たちの献身と、この風と金の魔力の輝きが俺に再び、気づかせてくれた。
……五つの魔法具を持つことの意味を。
「雲を抜けます」
「盾さま、いよいよだぜ」
「ああ」
……いきなり本番、一発勝負だ。
風、金、土の三元素で、未完成ながらも“世界”を構築して、やつの神の業を飲み込んでしまう。
イシュルは眦(まなじり)を決し、空中で立ち上がった。
深い霧のような雲の層を抜ける。
雨が消え、夜空が広がる。風音もしない、夜のしじまが訪れる。
「ネル、今までありがとう。これからは自分の力で飛ぶ」
空を飛ばせ、周囲を覆い保護していたネルの魔力が引いていく。その隙間を埋めるように、自身の魔力を伸ばしていく。
イシュルは胸の前で腕を組み、前を見つめて眸を細めた。
目の前を、赤帝龍と無数の火龍どもの魔力が、どこまでも広がっていた。
漆黒の空間に浮かぶ、巨大な恒星を目の当たりにしたように感じた。
「やや高度を上げる。ついて来い」
ちらっと、下に目をやる。薄雲のたなびく底に、黒々と染まった大地が広がっている。
真下の辺りはまだ赤く染まっていない。稜線の緩やかな山並みと浅い谷が連なっている。人家の灯りは見えない。
東の大山塊の西の端。クシムよりは南、聖王国の北辺、ラディス王国との国境辺りか。
……ぎりぎりで間に合ったか。
半ば平野部に差し掛かっているが、なんとか人里で戦うことは避けられそうだ。
そして、やつの吐き出す大火炎が地上に降り注ぐことがないよう、上へ、上へと誘導しなければならない。
赤帝龍の火炎がかるく地上をなめるだけで、山火事などが頻発してどれだけの損害が出るか、想像もつかない。
「ネルは左翼、北側の火龍どもを退治しろ。ルカスは右翼、南だ」
「わかりました」
「了解」
ふたりの返事が小気味いい。
「死力を尽くして、剣さまのお役に立ちましょう」
「俺もさ。出し惜しみはしないぜ」
ネルもルカスも、これが最後の戦いとなるのがわかっている。
ふたりともこの人の世に存在できなくなるまで、力を使い果たすまで戦わなければならないことを、分かっている。相手の火龍の大群は、大流星雨(メテオフォール)でだいぶ数を減らしているとはいえ、それでもかるく千匹以上は残っているだろう。
……しかもネルは、俺をここまで運び、より魔力を消耗している。彼女にはこれから、あまりに厳しい戦いが待っている。
だがネルは、俺のことを心配してきた。縋りつくような眸になって、顔を寄せてきた。
「剣さまは……」
ネルの声音が悲しそうに、小さく震える。
「助けは必要ない。赤帝龍は俺ひとりでやる」
ふたりを回し見て、気合のこもった顔をしてみせる。
「……」
それからネルには、無言で笑みを浮かべてみせた。
「またいつか、会おう」
イシュルは再び、ふたりの顔を見て言った。
「……よし、行くぞ」
おもむろに、低い声で言う。
「はっ」
「あいよ」
イシュルは速度を上げ、目前に迫った、巨大な火の魔力の塊へ突っ込む。
ネルとルカスはそれぞれ左右に分かれ、優美な曲線を描いて夜闇に消えた。
「すまない。ネル、ルカス……」
前を向く。
その時、まるでイシュルたちの様子を見ていたかのように、前方から巨大な火炎が襲ってきた。
イシュルは素早く急上昇に移り、ついで不規則な曲線を幾重にも描いて、赤帝龍の振り回す長大な火柱をやり過ごした。
……赤帝龍は俺から精霊が離れるのを待って、火炎を吹いてきた……。
ネルとルカス、ふたりの大精霊が左右の火龍の群れに向かい、こちらの攻撃力が分散し、防御が手薄になるのを待っていたわけか。
イシュルはくるくると旋回、回転を繰り返しながら赤帝龍に近づいていった。クシムで戦った時よりもはるかにうまく、空中で機動、運動ができるようになっていた。
クレンベルに滞在していた頃、何度も山奥に出向き悪魔どもと空中戦を重ねてきた。その時の経験が生きていた。
視界を回る夜空、地平線。そこへ、それでもしつこく頬に、額に熱気が吹きつけてくる。
イシュルはきりきりと歯を噛み締め、前を向いた。
太陽のような大火球が闇の底からせり上がってくる。
……風と金と土と。
持てるすべての力を、意志を、感覚を、異界に伸ばしていく。
「来いっ、赤帝龍!」
広がる炎の海へ、イシュルは吠えた。
クシムで戦った時の結界魔法、火神の炎環結界と同種のものか、後方の一部を除く赤帝龍のほぼ全周を、時に火炎ののたうつ火の魔力が覆っている。
ブレクタスの山上からも見えた、燃える地平の輝きの正体、その中心である。
イシュルはその、円球の炎の壁の前で止まった。
風の魔力だけでなく、新たに土の魔力を身体の周囲に張り巡らす。眼球や口腔、肺など、特に高熱に弱い箇所を守らなければならない。
土の魔力は火の魔力と相性は悪くない。風の魔力よりも防御力は高い。
それでも凶暴な高熱が、全身に吹きつけてくる。
……あの隕石を降らす魔法は、こやつがやったというのか……。
火の球体の中心に大きな翼を広げ、目を疑うような巨体を宙に浮かべた化け物の影。
そこから人のものではない、異質な思念が流れ込んできた。
……小僧、久しぶりじゃの。
今度は低く荒々しい、獣の声が脳裡にはっきりと、響き渡った。
久しぶりの感覚だ。死に物狂いで戦ったあの時を思い出す。
赤帝龍は、イシュルの使った土の大魔法も何のその、ほとんど外傷らしいものはなく、大きな打撃を受けたように見えない。
……化け物め。
どれだけ頑丈にできているのか。
イシュルは下唇を噛んで、真っ赤に輝く巨大な竜を見つめた。
赤帝龍も前進を止め、時折その一杯に広げた翼をゆっくりと羽ばたいている。
イシュルは何度目か、素早く視線を左右に走らせた。
とはいえ、やつにつき従い進撃してきた火龍どもには、大きな損害が出た筈なのだが……。
「前に戦った時は死にそうになったのに」
とにかく弱気は禁物である。闘争心だけでない、己の魔法具と心に潜む、底の知れない破壊衝動を解放していく。
それがこいつに対抗する、まずは最初の一歩となる。
「また人里に出てきたのか、怖くないのか? 俺が」
自身の唇が歪み、目がつり上がり、凶悪な形相になっていくのがわかる。
……我が参った方が、うぬも助かるであろうに。
その縦に細い鋭い瞳孔が、根源的な恐怖を呼び覚ます。
……人間ふぜいが、山中の我が棲み処まで出張るのは大変であろう。
残念ながらそれは確かだ。こいつの言ってることは正しい。東山地のどこか、長い時間をかけて調べ、こいつの居場所の見当をつけ、それこそ何百何千里と、道なき山中を踏破しなければならない。
だが今は、そんなことはどうでもいい。
「しかし遅すぎたな、出てくるのが。俺はもう三つの魔法具を揃えた。お前は絶対に」
イシュルはそこでかるく唇を舐めた。わざと間をおいて言った。
「……勝てない」
挑発して、こいつの持っているかもしれない、神の御業の情報を吐かせる。
……それはどうかな。
やつの大き過ぎる獣の目。吸い込まれそうだ。
風の、土の魔力で防いでもまだ、強烈な熱波が襲ってくる。
この巨大な龍の絶対の自信は、微塵も揺るがない。尊大さは何も変わっていない。
「なぜ今だ? おまえが……何をそんなに急いでいる」
慌てて、急いで攻めてきたのではないかもしれない。この機をねらって、じっくりと準備していたのかもしれない。だが何かに追い立てられるように、出てきたような印象を受ける。
……いや、これは機を窺い準備万端、急襲はもとから、計画していたのかもしれない。この時を、待ち望んでいたのだ。
ならばその時とは、その“機”とは何か。
やはり俺がマレフィオアと闘い、疲弊している時を狙っていたのだろうか。ユーリ・オルーラとの闘争をこいつは気づかず、知らなかったのか。東の大山塊から離れ過ぎていたから?
ブレクタスの地下神殿は、火龍どもに見張らせているようだった。
こいつは俺がいずれ、マレフィオアと闘うことを予測して、見張りをつけていたわけか。
俺が、地の魔法具を手に入れるのを待っていた?
どうして?
どうしてやつ自身が出張って、マレフィオアを滅ぼさない?
それはつまり……。
今や夜空は暗黒と炎、だけだ。
どこか遠くでネルとルカス、ふたりの戦っている微かな魔力の波動が伝わってくる。
……ふふ、はははっ。
赤帝龍は顎をぱっくり開いて、豪快に笑った。
……まだ気づかぬか、うつけが。
巌(いわお)のような牙が、目の前に屹立する。
逆に龍の方が、イシュルを挑発してきた。
「……まさか」
イシュルはそこで、何かに気づいた顔になった。
距離の、地理上の問題、そしてマレフィオアと赤帝龍の、見かけの実力差に惑わされていたか。
基本的なことを見落としていた。
クシムで戦った時の、やつの話。
こいつは本当に、王都へ、西へ向かった森の魔女レーネを見失ったのか。
何の意味があってクシムに留まった?
ただ単に、人間の多く住む街を襲い反撃されるのが鬱陶しかっただけか?
そうして風の魔法具を持つ俺が討伐にやってくるのを、のんびり待っていた。
……違う。
やつはあの時、話をはぐらかした。嘘をついたのだ。
やつがクシムにとどまった理由、今になって人の住む地に侵攻してきた理由。
それは他にある。
イシュルは眉を釣り上げ、赤帝龍の凶悪な顔を睨みつけた。同時に唇が歪み、皮肉な笑みが刻まれていく。
「お前は恐れていたんだ」
イシュルは笑って龍の鼻先を指差した。
「マレフィオアを。……神の欠片を」
赤帝龍とマレフィオア。
両者の強さには大きな差がある。赤帝龍の強さは次元が違う。
そのように見える。だが、事実は違う。
マレフィオアには“神の欠片”がある。あの化け物はそれを元に「できている」。
神の欠片に魔法は通じない。“神の御業”を使う必要がある。
その神の業も、“神の呪い”に打ち勝たなければ発動できない。
“神の呪い”の核心とは、非業の死を遂げた女の愛と哀しみだ。
赤帝龍は人間ではない。だが感情がないわけではない。
千年生き、知恵を身につけた龍には、やつなりの苦渋があったろう。
それならばこの目の前の、巨大な圧倒的な力を持つ龍であっても、マレフィオアには勝てないかもしれない。
あれの“強さ”は違うのだ。
聖都には、国王であるビオナートが、本体の“神の欠片”と直接関係ないものの、マレフィオアの分身を召喚できる魔道書を持っていた。
大陸のブレクタス山塊周辺はマレフィオアの縄張り。人間どもはうじゃうじゃいるし、赤帝龍はクシムから以西に出ることを、忌避していたのではないか。
二百年前、森の魔女レーネが王都に移動し魔力が途絶えたから自らの巣に帰った、というやつの言い分は、やはり正確ではないのだ。そういうこともあったかもしれないが、赤帝龍が東山地の奥深くへ帰って行ったのは、レーネがマレフィオアの勢力圏に入ったと、やつが判断したからではないだろうか。
……ふふ。
やつの恐ろしい双眸が、俺をとらえて離さない。
その顎から、わずかに火炎が漏れる。
……その通りだ、小僧。やっと気づいたか。それで……。
端から端まで、かるく一里長(スカール、約600m)を超えるやつの翼。
そのスケール感は異様で魔物、生き物に見えず、何か奇妙な錯覚にとらわれる。そして今はその周囲に火神の結界を張っている。
……あの大蛇の、神の呪いの欠片はどうした? お前はどうやってあの蛇を退治したのだ? ……。
赤帝龍は頭がいい。この機敏で大胆な行動もそうだが、目の前に広がる火の結界の存在が、そのことを如実に表している。
今の俺にとって、こいつに痛撃を与えるのは難しいことではない。
召喚した精霊など何か囮を使って注意を引きつけ、その隙に急激に移動、首筋や羽の付け根など懐に入り込んで特大の風の魔力や金の魔力をぶっ放す。
こちらの魔力消費も半端でないが、やつの受ける打撃も強烈だ。
高速の機動で、やつに吸いつくように接近して反撃を封じ、その場で強力な火力をぶち当てる。それが最も単純な赤帝龍の攻略法である。
こいつはそのことを、以前より力をつけた俺と戦う時の、巨体ゆえの自分の弱点をよくわかっている。
だからこいつは今回、最初から強力な結界を張り、こちらの侵入、近接を阻んでいるのだ。
そして、神の欠片をどう封じたか、その在りかを気にしている……。
「お前から話しかけてきたのはそれか」
イシュルは思わせぶりに、薄く笑みを浮かべた。
「赤帝龍よ、お前はどう思う? 俺が“神の欠片”を、どうしたと思う?」
口角がさらに、ぐいっと引き上げられる。
「俺があれを“持っている”と思うか?」
もし俺が神の欠片を持っていたら、使えたら。問答無用でこいつに勝てる。
……貴様っ。
赤帝龍の眸に獰猛な炎が燃え上がる。
周囲を吹く熱風が勢いを増した気がした。
その顎がわずかに開かれる。やつの炎が俺の心の淵を、舐めるように焼いていく。
赤帝龍は俺の心を読もうとしている……。
オマエハ、カミノカケラヲ、モッテナイ。
凶暴な、熱い赤帝龍の心の先端が触れる。
野生の動物の、千年を生きた魔物の直感が結論を下した。
瞬間、世界が、空間が引き裂かれるような衝撃が周りを走った。
すぐ目の前に、巨大な火の魔力が姿を現わす。
大きな、大きな、火の魔法具の力。それが拳大(こぶしだい)にまで圧縮されて、目の前で空間を歪ませ、光を捻じ曲げている。
……これが、火神の御業!?
同時に、イシュルは数百長歩(スカル、200m弱)ほど後方に飛んだ。
「手」をかけていた風、金、土の異界から一気に魔力を降ろす。
……あれはたぶん核融合のようなもの、小さな太陽だ。
あの火の魔力を解放すれば、すなわち水爆の爆発と同じような現象が起きる。
本能的に感じた。そう思った。
前面の風の魔力の壁はすでに密度を上げ、有害と思われる様々な放射線をはね返している。
前方に感じる、ぞわぞわと胸騒ぎを覚えるような感覚がそう、教えてくれる。
こんな危険なもの、爆発させてはならない。存在させてはならない。
これが火神の業(わざ)なのか。
火の神バルヘルの御業は神の怒り、終末の炎なのだ。
だが誰も、火神の怒りを受ける謂れなどない。地上に裸の太陽など、いらない。
赤帝龍も俺と同じ、神の力を手にしていたのだ。
もうここがどこか、何がなんなのか、神の炎以外、何もわからない。
……今、俺は生死の境にいる。
生きるために、恐怖に、焦燥に耐えて出来損ないの“世界”を紡ぐ。
以前クシムで戦った時とは違う。一瞬では終わらない、じりじりと薄氷を踏む思いで戦い続ける。
真正面に浮かぶ赤帝龍の巨体、その前で収斂していく小さな核。その周囲で揺らぐ光の拡散は、プラズマの一種か。
……風と金と土と。
三つの魔力を編む。
その流れの中で、ある確信が芽生える。
“世界”は、たとえ出来損ないであっても、神の力を飲み込むだろう。
神の力は世界を成り立たせているものだ。だから結局、五元素は世界に収束していく。
「……ああ、世界が成る」
イシュルは両手を前に差し出し、火神の炎を包もうとする。
今、拳の先に生まれ出ずるもの……。
ただひたすら、涙が溢れ出る。
もう身を切るような怒りも、脳髄を破裂させるような思考も、地の果てを飛び越えるような意志も必要ない。
これは新しい何かを創る作業なのだ。
悲しい、うれしい、感動、歓喜、絶望。
剥き出しの自己はあまりに小さく弱く、世界を前にただ泣くことしかできない。
風が、金と土が。
無数の、七色の閃光を発して熱核の光に凝縮していく。
「ガガッ、ガッ、ガガガッ」
赤帝龍は苦しそうに呻き、顎を開こうとする。
あの原初の核に、さらに火炎を吹きつけ俺にぶち当てようとしているのだ。
だがその炎の塊は七色に揺らぐ新結界、“世界”に飲みこまれようとしている。
そろった元素は三つ。まだ二つ足りない。
出来損ないの世界。出来損ないの自分……。
喜びと悲しみ、そして怖れ。涙が視界を歪める。
……むぅうううう。
赤帝龍の黒いシルエットが、負けじと全身を震わす。
……終わりが近い。
イシュルは両目を見開き涙を拭うと、剣の柄を握った。
歯を食いしばり、全身に力を漲(みなぎ)らせてその瞬間を待つ。
火神の御業が“世界”に飲み込まれ、同化し消滅した瞬間。
風よ、──鳴け。
イシュルは眼下の暗闇に飛んだ。
闇が流れ、前に見える自身の背中が背後に消えていく。
暗黒。その先に生と死の淵が横たわる。
死をまたいで、生の世界に戻ってくる。その流動が終わる時、風の異界の先が見えた。
絶対不敗。勝利の方程式。
瞬間移動の大魔法、“風鳴り”。それは使うたびによく似た、だが少しずつ違う幻想をイシュルに見せる。
そして襲い来る、全身を引き裂くような激痛に耐え、移動を終えた瞬間に“風の剣”を振るうのだ。
イシュルは赤帝龍の直下、数百長歩(スカル、200m前後)ほど低空に姿を現した。
剣を抜く瞬間、背を逸らして天を仰いだ。
火神の結界は消えていた。星々のまばらに瞬く夜空を背景に、巨大な赤帝龍の黒い影が浮かんでいた。その翼が視界いっぱいに広がって見えた。
イシュルは剣を抜きうち、上へはらった。
一瞬の無音。
自身も、赤帝龍も、世界のすべてが止まって見えた。
剣先が半円を描くと、頭上の赤帝龍のはるか彼方、天球を真っ二つに引き裂く鋭い光芒が走った。
一拍遅れて、高音と低音の幾重にも絡まった轟音が降ってきた。
「……」
赤帝龍との二度目の対決は両者の予想を超え、最も単純に、あっという間に終わりを告げた。
イシュルの編んだ“出来損ないの世界”も、いつの間にか消えていた。
「グ、ガガガガガッ」
頭上の巨大な黒い影から、末期の叫声が上がった。
伝説の龍の咆哮は天を揺るがし、いつまでも消えない風の剣の光芒をも震わせたように見えた。
少し遅れてその黒い塊、赤帝龍の胴体にも一条の閃光が走った。
空に浮かぶ山のような巨体が、真っ二つに割れる。
その狭間から夥(おびただ)しい火炎が吹き出した。
……我が、滅ぶというのか。死が……。
イシュルの心に一匹の龍の、無念の思念が降ってきた。
脳裡に浮かぶ、見慣れぬ光景。
迷い込んだ人間の大きな巣、街の上空。神官に追われ風の魔法を撃たれた。
屋根を破って落ちた先が火神の神殿の祭壇だった。
主神の間のような円形の台座の中心に、赤い炎を吹き出す燃える杯があった。
傷ついた火龍は、その杯がとても強い力を持っているのがわかった。
本能的に、それを飲み込んだ。
大いなる火神の力を得てからは、ただ群れの長(おさ)ではすまされず、すべての火龍の頂点に立った。
それからは仲間を、眷属を守るために、危険な人間どもを滅ぼすのが宿願となった……。
その一匹の龍の映像が、思いが瞬く間にイシュルの心中を駆け抜け、消えていった。
遥かな昔、千年も昔の記憶。
それが一瞬で消えた。
長く生きた大きな命が、一瞬で消えた。
夜空に輝く星々を隠す、真っ黒の大きな影が炎に引き裂かれる。
その火の色はあの神殿にあった、火杯と同じ色だった。
イシュルには、自分だけが、それがわかった。
左右に割れた赤帝龍の骸はやがて、全体がその赤黒く燃える炎に包まれ、ゆっくりと地上へ落下しはじめた。
イシュルは少しだけ南側に移動し、落ちていく赤帝龍の巨体をやり過ごした。左右の翼は力なく窄められ、胴体に下に引っ張られるようにして落ちていった。
落下する黒く巨大な影はいつまでも視界を覆い、最後に赤い炎の輪郭を網膜に焼きつけた。
炎に包まれた赤帝龍の死骸が地上に着地した。周囲に衝撃波を走らせ、無数の大小の火の粉を撒き散らした。
しかし赤帝龍の落下し地面に激突した音は一切、イシュルの耳に届かなかった。
夜空を覆う風の剣の大気を切り裂く轟音が、いつまでもどこまでも木霊して、消えることがなかった。
燃え続ける赤帝龍から熱気が吹き上がってくると、イシュルは手を伸ばして土の魔法を振るった。足元から広い範囲に無数の砂粒が現れ、雨のように煙って赤帝龍の骸に降り注いだ。
イシュルは風鳴りを駆使して消耗した心身、全身を襲う痛みにからだを震わし、苦しげな顔をして周囲を、東の山々を、南北の空を回し見た。
東の山々の黒く染まった稜線は、吹き上がった塵埃にぼやけて見えた。黒い影の合間には所どころ、真っ赤に焼けただれた大地が見えた。
それは赤帝龍の強大な火の魔力だけでない、イシュルの放った地の大魔法、流星雨(メテオフォール)の降り注いだ跡だった。
もはや周囲の空に火龍の姿はなく、その多くがネルとルカスに退治され、生き残ったものは赤帝龍の死に、遠く東の山へ逃げて行ったように思われた。
イシュルはさらに激しく全身を震わせ、瞑目した。
「すまん、ネル、ルカス」
ふたりの精霊の気配が消えていた。彼らは何百、何千の火龍との戦いで力尽き、すでに消滅していた。彼らはイシュルに別れの言葉をかけることもできず、イシュルも彼らを最後まで助けることができなかった。
風と金、ふたりの精霊はこの人の世で消滅したが、死んでしまったわけではない。精霊の生きるとされる天界、異界で失われた魔力の回復を待っている。
「またいつか、会おう。……ありがとう、ルカス、ネル」
イシュルは震える声で小さく呟くと、砂塵に霞む赤帝龍の死骸へ降りていった。
火の魔法具を、得るために。
ここはどこら辺だろうか。
周囲はなだらかな丘の連続する平地で、左側、北の方には蛇行する、中程度の大きさの河川が見える。
川面が暗く沈む大地に、微かに星明りを反射している。
赤帝龍と接触してから知らぬ間に押し込まれ、残念ながら東山地の山裾の手前、平地になった辺りで戦闘になったようだ。
ざっと見渡したところ赤帝龍の死骸以外、大きな火災は発生していない。
集落など、人家の灯りも見えないが……。
ただ、地上に落下した赤帝龍の周囲はただの荒れ地というより草原、それも牧草地に近いような印象を受けるのが気がかりだ。
肉体と精神力の消耗に、どこかへ逃げて、静かで安全なところで休みたい、眠ってしまいたい、という欲求が心の底からせり上がってくる。
重い疲労感が心を苛む。
痛みに耐えて、魔力を充溢させる。高度が下がるにつれ、足下の熱気が激しさを増していく。
赤帝龍は、腹部の途中から頭部まで真っ二つに引き裂かれ、異様なほど広い翼を地面に垂らし、横たわっている。
翼や尻尾からはほとんど火が出ず、引き裂かれた胴体から首の辺りが激しく燃えている。
頭部の二つに割れた顎の先からも火を発し、赤帝龍からは完全に命が失われ、巨大なただの“物体”になり果てている。
だが不自然に揺らぎ、赤黒く光る炎が不気味だった。
……死んでなお。
おまえが人界に現われたせいでリフィアの父、辺境伯レーヴェルト・ベームが動き、ブリガールが下手を踏んでベルシュ村を壊滅させてしまった。
俺は大切なものを失った。すべてを失ったと思った。
いや、元は俺が風の魔法具を得たことが、おまえが火の魔法具を持っていたことが、神の魔法具そのものが原因だったのかもしれない。
おまえが死んで、残る因果は神の魔法具だけになった。
だから、おまえの火の魔法具は俺がもらう。
俺が神の魔法具を集める。
イシュルは夜闇に吹き上がる業火を見つめた。
……裂けたやつの腹に、おそらく火の魔法具があるはずだ。
しかし異様な熱さだ。この火が消えるまで待つべきか?
「違う、だめだ。この炎はやつの死骸から火の魔法具、おそらく火杯──を引き抜くまで消えない」
ゆっくり降下しながら赤帝龍の、死の炎のゆらめきを追う。
地の魔法でかなりの砂塵が降り注いでいる筈だが、火勢が衰えたようには見えない。
「これは、……行くしかない」
イシュルは肩を落とし、喉を鳴らして呟いた。
あの炎に呑まれたら。
魔力の防御が尽きた瞬間、死ぬ。
苦痛と疲労に怖れが混ざり、自分の顔が、心がいびつに歪んでいくのがわかる。
……炎の山だ。
赤帝龍の巨大な燃える死骸は、地上に現出した地獄そのものだ。
それでも己の張った魔力をしっかり保持し、ここら辺かとあたりをつけた胴体の、胸のあたりに降りて行った。
燃え盛る紅い炎が左右に吹き上がる。
そろそろ焼けた死骸の上へ、爪先がつく。凄い熱だ。視界のすべてが揺らいで見える。
ぱっくり割れた胴体の右側に着地する寸前、イシュルは何かの気配を感じて数長歩(スカル、数メートル)ほど上へ飛び上がった。
「あれか」
……見える。
両断された胴体の谷間の底に、杯のようなものが見える。左右に持ち手のような突起のある、円形の器の口みたいなものが真っ赤な炎に、ちらちらと見え隠れしている。
「俺に焼け死ね、ということか」
さらに砂粒を被せても、やはり火勢は衰えない。おそらくどんな強風を吹かせても、鉄を被せて空気と遮断しても、あの火は消えないだろう。
……あそこへ、炎の中へ降りていかねば火の魔法具、火杯は手に入らない。
イシュルは全身に、さらに右腕に幾重にも土の魔力を這わせて、火の杯めがけ、真っすぐ降下していった。
ただ熱いだけでない、重い、底の知れない力がただ痛覚を刺激するだけでなく、意志の力をも焼こうとしてくる。
揺らめく視界、遠のく意識。
業火の恐ろしさよ。
右手を差し出すと、あっという間に上着の、衣服の袖が焼け落ち、裸になった二の腕まで黒く染まった。
「っ……」
あまりの激痛に一瞬全身が固まり、呼吸も止まった。
だが息ができなくなったのはむしろ僥倖だった。
全身に張り巡らせた魔力が、高熱に突き破られようとしていた。
眼球を焼かれぬように目を瞑る。
暗黒に浮かぶ真っ赤な火球。それは宇宙で燃え続ける、巨大な恒星のようだ。
全身が炎に包まれる。
「ぬああああっ」
死に浸(ひた)り、恐怖を飛び越え生をつかむ。
イシュルの指先が火杯のふちに触れた。
火の魔法具を持つということは、
その究極の火の魔法を使うことはすなわち、
業火に身を置く、ということだ。
心のうちに自分の声か、誰かの声か、そう聞こえた。
火杯が消えると赤帝龍の骸(むくろ)から吹き出ていた炎がすべて消えた。
黒く焼けただれた右手が修復され、燃え尽きた衣服が再生された。
周りは暗闇だと、まだ夜だと思っていた。
だが辺りはすでに夜が去り、日が明けようとしていた。
薄く青く色づいた世界に、黒く沈んだ赤帝龍の死骸からところどころ、白煙が上がっていた。
やがて嗅覚が戻ってきたか、焦げた匂いが鼻腔を刺激しはじめた。
重い空はやがて雨を降らせはじめた。
イシュルは山のような赤帝龍の死体の上に立ち、夜明けの空を仰いだ。
口腔に染み込み舌先に触れた水は、砂を含みザラザラしていた。
苦い味がした。
雨霧の漂うなか、イシュルはゆっくりと山のような赤帝龍の骸を降りて行った。
地面に降りると、草原が真っ黒に焼け焦げている。
「……」
イシュルはわずかに首を傾けると、南の方へ歩きはじめた。
やがて黒い大地が青々した草地に変わっていく。
雨に煙る視界の先に、牧畜農家の家屋らしきものが浮かび上がった。
それなりに大きな建物のなかには複数の生き物、主に牛のいる気配がする。
家畜の臭いが、雨を伝って鼻先を掠める。
イシュルは小さく笑みを浮かべるとその家屋を見やり、のっそり力ない足取りで近づいていった。
……人間の気配はしない。
赤帝龍と火龍の進撃、大流星雨の発動に牧場主らはどこかへ逃げて行ったのだろう。
イシュルは牛舎の軒下に座り込み、雨が止むのを待った。
目の前を落ちる雫に、背景の雨脚に目を細める。
一晩で、こんな遠くに来てしまった。
たった一日で赤帝龍を倒し、火の魔法具を手に入れてしまった。
あまりに、すべてが変わってしまった。
なんという皮肉か。
苦しかった、死にそうになったクシムの戦いの記憶が、赤帝龍の恐怖が、意識の外縁へ薄く、霞んで消えていく。
強烈な虚無感。
勝利も満足も、達成感も何も感じない。
ただ孤独に、身を引き裂かれる思いだ。
今は本当に俺独りだ。
神の魔法具を持つ者はこの地上に、自分以外に誰もいないだろう。
いずれ火の魔力がやってくる。
そうすれば少しだけ、変われるかもしれない。
……もう少しの辛抱だ。
「おい」
雨音が終わらない。
イシュルは誰かに声をかけられ、顔を上げた。いつの間にか寝ていた。
視界に入る濃い髭。大きな体。
仰ぎ見るとこの牧場の主らしい、逞しい体躯の中年の農夫が立っていた。
「おまえは誰だ?」
低い、枯れた声だ。
「俺……、か?」
イシュルは立ち上がると赤帝龍の死骸の方を見やった。
突然、急激に空が明るくなり雨が止みはじめる。
視線の先に黒く焼けただれた草地、そして山のように巨大な黒い塊が、消えゆく雨脚の向こうに姿を現した。
「あれは、何だ?」
農夫が呆然と呟く。
「赤帝龍だ」
イシュルは無感動に、平然と言った。
「やつの死骸だ」
「えっ、……い、いや」
農夫がたじろぐ。何かまずいものに触れてしまったように、全身を震わし後ずさりながらイシュルから離れていく。
「昨夜はさぞや恐かったろう。どこに逃げていた?」
イシュルは困惑する農夫にかまわず、世間話でもするように話しかけた。
「あ、あんたは……」
「ん? ……俺か」
イシュルが小さく笑うと、農夫はたまらず「ひっ」と叫んで、背を向け走り出した。
「……」
イシュルは丘の稜線に隠れ消えていく農夫を見やると、再び軒下に力なく腰を下ろし座り込んだ。
何か、食い物をもらえればよかった。
イシュルはぼんやりとした顔になると、また眠りに落ちた。
「むっ……」
時間が経ち、そして何かが起こった。
自身の心のうちに、小さな変化の兆しが現われる。
一刻(二時間)ほども眠ったろうか、不意に目覚めた。
心の中を、脳裡を、周りを炎が揺らめく。熱くも、冷たくもない。
紅い炎だ。
いや、もっと熱く。俺は知っているんだ。
炎が青く、変わっていく。
「ふふ」
イシュルは笑って、目の前に拳を開いた。
手のひらの上に、重なり合い、渦を巻く小さな世界。
そこに青い炎が絡まり、混ざっていく。
あの夜、はじめて風の魔法を発動した時。
手のひらに、月光に浮かんだ小さな風の渦。
今は四つの元素が織り成す、小さな世界になった。
ある時は何か、パズルがはまっていくように、ある時は手足が伸びていくように、新たな神の魔法具を得るたびに世界が広がっていく。それは五感を超えた、今までわからなかった“世界の姿”を認識していくことでもある。
……残るひとつは水の魔法具。
今、目の前の手のひらの上で回る渦は、風、金、土、火の元素が重なり合う、完成間近の世界の雛形だ。
あの時と同じ、掌を強く握りしめた。
“世界”が霧散し、消えた。
まだ陽は落ちていない。薄曇りの空に太陽がかすみ、月は見えない。見える筈もない。
今はまだ、月の女神はイシュルに、何も語りかけてこない。
……だが、その時は近い。
イシュルはひと息つくと気だるげに立ち上がり、赤帝龍の死骸に向け、ゆっくり歩いていった。
下草はまだ雨に濡れ、瑞々しく輝いて見えた。
その青々とした草原も、赤帝龍の骸に近づくと一面、黒く焼け焦げた土くれに変わる。
降雨で地面は冷え、焦げた匂いも消えていた。
喉の渇き、空腹に喘ぎ、前を向いて仰ぎ見る。
黒く焦げた、山のような赤帝龍の巨体がそびえ立っていた。
何かを感じて、目の前の大きな鱗に指先を当ててなぞる。
焦げたように見えた表面は、焼けた肉か内臓か、灰が付着しているだけだった。
まだ紅い、光沢の失われていない、生きていた頃の赤帝龍の鱗だった。
間近で見るとべっ甲に質感が良く似ている、美しく強い龍の鱗だった。
気になった、何かを感じたその正体は、表面から発せられる微かな魔力だった。赤帝龍の鱗はまだ、その力が完全に失われていないのだった。
……やつの鱗はあれだけの炎にも、俺の“風の剣”を浴びても、その多くが生き残ったのだ。
「……」
イシュルは小さく息を吐くと、山のような赤帝龍の死骸を再び見渡した。
左側の先の方には砕けた長い首や頭の骨が、右側には長大な尻尾の骨が、黒い影を浮き立たせていた。
地面に垂れ下がっていた羽は大方燃え尽きたのか、周囲の焼けた草原の中に、沈み込んではっきり見分けがつかない。
「しかしこの鱗とあの骨、ひと財産だな」
……いや、そんな財産なんてちゃちな代物じゃない。巨大な、一国の軍事力を、戦力を一新させるようなスケールのものだ。
もともと火龍の鱗や牙などは、武具の材料として高額で取り引きされるものなのだ。
それが赤帝龍のものともなると、どれだけ価値があるのか、ちょっと想像がつかない。
「むぅ……」
イシュルはかるく呻き声を発すると、土の魔法でこの巨大な赤帝龍の死骸を、宝の山を地中深くに沈めてしまおうかと考えた。
……だが、今は疲労が蓄積していて、そんな大魔法をふるうのは負担が大きい。
それにこれだけ価値のあるものなら、人びとはどれだけ時間と労力をかけても、掘り出そうとするだろう。
これほどのものを大深度まで埋めるのは、土の魔法具の力をもってしても、かなりの大仕事になる。それにあまり深くまで掘り起こすと、周辺の土壌に影響が及び、何か災害を及ぼすようなことが起こるかもしれない。
今感じられる限りでは、この周辺の地中は地下水が豊富だということ以外、心配する要素はないようだが……。
「ん?」
その時ふと後方、遠方に何かの動く気配を感知して、イシュルは振り返った。
波のように緩やかに上下する草原に、垂直に掲げられた三角形の旗だけが東の方に移動していく。
地面を通じて伝わる感触。馬蹄の響きだ。十騎ほどか。距離はまだある。
ならばあの三角形の旗は貴族、領主家の正式の紋章を簡略化した仮の旗、略旗だ。
騎士団の分隊など、小部隊によく使われる旗だ。
案の定、丘の向こうに見えていた旗が高く上がりはじめ、軽装だが正規の騎馬隊、おそらくこの地を治める領主の騎士団の一隊が姿を現した。
左手に見える、雨宿りした畜産農家の家よりだいぶ先、南側だ。
イシュルはやや眸を窄めて、その様子を見やった。
……あの逃げていった農夫が知らせたのか。
十騎あまりの騎馬隊は明らかにこちらへ向かってくる。
昨晩はあれだけ大規模な、派手な戦闘があったのだ。周辺に住む多くの人々が、目撃しただろう。当然近隣の領主や貴族たちもだ。そしてこのことはやがて、大陸中に伝搬していくだろう。
ここら辺は東山地手前の、ラディス王国とオルスト聖王国の国境付近だ。
昨日上空からちらっと見えた川はたぶん、アルヴァからフロンテーラを流れるベーネルス川の、南側を流れる支流だろう。ならばここら辺は両国のどちらかに属する紛争地帯、あるいはどちらにも属さない緩衝地帯になる。
フロンテーラは北西方、遠方に。国境の城塞都市ノストールはほぼ真西、リフィアの領地であるアルヴァは真北か北東あたり、南東には聖王国領の鉱山の街、カハールがある。
あの騎馬隊は南からやってきたから、おそらく聖王国の国境地帯に領地を持つ、貴族の騎士団の一隊だ。
「何か、嫌な予感がする」
イシュルは視線の先、明るくなった空に揺れる、小さな三角形の小旗を見つめ、ひとり小さく呟いた。
……やはり無理をしてでも、赤帝龍の死骸を地中深く、埋めてしまうのがいいかもしれない……。
騎馬隊は真っ直ぐ、近づいて来る。
規則正しい、複数の馬蹄の音が丘を渡ってくる。
背後にある、山のような巨龍の死骸を強く、意識する。
イシュルのこの時の予感は当たっていた。
北側を小河川が流れ、雑木林や牧草地が散在する草原の丘陵地帯。ラディス王国とオルスト聖王国の緩衝地帯。
この何もない草原の地で、思いもよらない狂騒劇の幕が上がろうとしていた。
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