草原で踊る 1



 草原を渡ってくる騎馬の数はちょうど十騎。

 肩と胴、脛当てなど、主要な箇所のみに鉄鎧を着込んだ軽装の騎兵だ。

 全員、頭部に兜はつけていない。

 騎馬の小部隊はイシュルの前までやってくると、なんと彼の前を素通りし、赤帝龍の遺骸の方へ直接向かって行った。

 隊長らしき男と旗持ちを先頭に、みな横に並んで呆然とその巨体を見上げている。

「……」

 イシュルも別の意味で唖然として、騎馬隊の男たちを見た。

 ……そりゃそうか。賞金稼ぎか、あまり見かけない風体の若い男より、山のような赤帝龍の骸(むくろ)の方が、よほど彼らにとって大事だろう。

 やがて騎馬隊の端の一騎が、イシュルの方に近づいてきた。

「おまえは? ソネト村の者ではないな」

 男は馬に乗ったまま、上からかぶせるように声をかけてきた。

「ああ。よそ者だ」

 イシュルは小さく頷き言った。

 ……ふーん。ここら辺はソネトと言うのか、聞いたことないな。やはり聖王国側か。

「あの巨大な魔物の死体らしきものは──」

「俺はオルトランド男爵家騎士団の十人隊長、カッサーニだ。おまえは? 昨晩はどこにいた?」

 イシュルが騎馬兵のひとりと話していると、今度は赤帝龍の死骸の方から隊長らしき者が近づいてきた。そしてその騎兵の質問を遮り、いきなり名乗ってきた。

「……昨日はここら辺にいた」

 オルトランド男爵? やはり知らないな。多分聖王国の領主だ。

 イシュルは名を名乗らず、適当にはぐらかして答えた。

 身分が対等、もしくは上の者から名乗りを受けて答えないのは失礼にあたるが、ただの農民や街の住民で名乗るほどの者でない、たとえば身分が隔絶しているということであれば、無視して名乗らずとも問題はない。

「なんだと?」

 カッサーニは馬上で首を傾け、露骨に不審の声を発した。

「昨晩のあれはなんだ? たくさんの火龍か、魔物たちが山からやって来て、この世が終わるかと思ったが……」

 騎馬隊の隊長は顎に手をやり、考え込みながら続けた。

「おまえはあれをこんな近くで見ていたのか? 何をしていた?」

 ことの重大さがわかってきたのか、隊長の双眸に真剣な光が浮かび上がる。

「おまえ、何者だ」

「名乗るほどの者じゃない。とりあえず、昨日の夜から何も食ってないんだ。何んでもいいから、飯を恵んでくれないか?」

 赤帝龍の死骸をどうするか、おおよそは決めているが、今は腹を満たして体力を回復するのが先決だ。

 これから先、いろいろと面倒事に巻き込まれるかもしれない。いや、きっとそうなってしまうだろう。

 ……もし、収拾がつかない状況になればやつの死骸を丸ごと、完全に消し去る。

 地中に埋めるよりよほど手間がかかり、周辺も大惨事になるが、風の魔力で粉々に吹き飛ばすことも、できないことはない。

「ふむ?」

「……」

 十人隊長ともうひとりの馬上の男は、当惑して顔を見合わせた。

「仕方がない、おまえの干し肉、この少年に分けてやれ」

 カッサーニと名乗った隊長は部下の男にそう命じ、続いてイシュルに顔を向けて言った。

「腹が落ちついたら、昨晩おまえが見たものを聞かせてもらおうか」

 イシュルが騎士団の若い騎士から干し肉を受け取り、その場に座り込んで食べはじめると、カッサーニも馬を降り、手綱を他の騎士に渡しイシュルの前に胡座をかいて座った。

「……」

 イシュルは固い肉をむしゃむしゃと咀嚼しながら日に焼け、短めの口髭を生やしたカッサーニの顔に目をやった。歳は三十半ばくらいか、諸々と世慣れた感じのする男だ。

 ……完全に俺のことを疑っているな。それは当然だろうが、単純に高圧的に出ないところはまだ好感が持てる。

 貴族の騎士団の隊長ともなれば、無名の若い賞金稼ぎなど歯牙にもかけない。有無を言わせず捕らえられ、城にでも連行されるのがオチだ。

 だが当然、俺はそんなことは受け入れない。だとたぶん荒事になるので、話のわかりそうな相手だとこちらも助かる。

 俺は今は疲れてるんだ。面倒ごとは避けたい。

「……それで、あんたは昨日の夜、どこにいた? 何を見た?」

 イシュルが肉を食い終わり、腰に吊っていた小さな木製の水筒に口をつけると、対面に座ったままでいたカッサーニが、待ちかねたように早口で質問してきた。

 十人隊長の眸は真剣そのもの、いや深刻と言っていいくらいの色が混ざって見えた。

「近隣の村々に被害が出たか?」

 イシュルが逆に、気になっていたことを質問し返した。

「いや。それは大丈夫だった。だがみな怯えていてな」

 カッサーニは、「ここら辺の住民は皆、オルトランド男爵の居城のあるモーデオに避難している。今もまだモーデオに着かず、向かっている最中の者もいる」と続けた。

「昨日の今日だからな。領民たちもまだ昨日の異変がどうなったか、知らない」

 十人隊長の眸が細められる。

「見てわかるだろう? やつは死んだ。もう恐ろしい天変地異は起こらないぞ」

 イシュルはちらっと赤帝龍の方を見やり、ごまかすように薄笑いを浮かべて言った。

「やつ?」

 不審の声を上げる隊長に、イシュルは短く答えた。

「赤帝龍だ」






「地の神ウーメオよ、願わくば我(わ)に汝(な)が大地の精霊を与えたまえ、この長(とこ)しえの世にその態を発したまえ」

 丘ひとつ挟んだ草原から、彼らの、人馬の騒ぐ音が響いてくる。昨日の疲労もまだ残っている。

 だが四の五の言ってる場合じゃない。

 本当にうんざりする。また面倒ごとだ。だがやつの死骸を吹き飛ばすのも、地中深く埋めてしまうのも、もったいない。

 ラディス王国は去年の秋に、連合王国の侵攻を受けたばかりだ。

 この赤帝龍の宝の山を、聖王国と均等に分け互いの戦力を充実させる。実のところ聖王国はどうでもいいのだが、やつの墜ちた場所が両国の国境地帯、しかもやや聖王国寄りだから仕方ない。

 赤帝龍の残った鱗の半分でも手に入れば、たとえば一個騎士団の攻防力を飛躍的に高められる。魔法に対する耐性、防御も十分に期待できる。

 魔導師の枯渇している王国にとって、赤帝龍の鱗や牙、骨の存在は戦力を補う福音そのものだ。

 それはもちろん、今は王領であるベルシュ村の平安とも関係する。

 ここはラディス王国と聖オルスト王国の間をうまく取り持って、この赤帝龍の遺産を綺麗に二等分する。ほっておけば、間違いなく両国の取り合いになる。戦争になりかねない。

 王国の、しいては大陸の平和は、俺の目的を達成するのに重要な要件のひとつだ。

 周りで戦争だ陰謀だとドタバタやられたのでは、最後の神の魔法具、水の魔法具探索に大いに支障をきたす。

 ……そのためにはまず、精霊召喚だ。

 周囲の状況も、自身の状態も理想とはほど遠いが、ここは仕方がない。

 あれから、十人隊長のカッサーニは慌てふためきオルトランド男爵に使いを出した。

 山のように巨大な、龍の魔物らしきものの死体を見れば、昨晩の大異変の正体が赤帝龍だと、

その死骸が赤帝龍なのだと、誰でも思い当たるだろう。当然、そこに残された鱗や牙が値千金の代物であることも。

 なぜ赤帝龍が死んだのか。それはまだ、カッサーニたちは気にしていない。いや、そこまで気が回らないようだ。目の前の衝撃に思考停止、だがことの重大さにともかくも男爵に急報、赤帝龍の死骸を確保し、行動をおこさなければならなかった。

 彼らは赤帝龍は何かわけがあって、神の怒りに触れたのだろう。それで滅ぼされたのだろう──程度にしか考えていないのではないか。

 他にあれを斃す存在などあり得ない。それが常識だろうから仕方がない。

 カッサーニは主(あるじ)に使いを出すと、赤帝龍の死骸の周囲にわずかだが、数名の歩哨を置いた。そして彼は今、しきりに北の国境の方を見やって、ラディス王国の動向を気にしているようだ。

 もちろん俺も気になる。俺は俺で、“歩哨”を置きたい。

 それで無理をして、土の精霊を初召喚する事にしたのだ。

 おなじみの、自己流の召還呪文を唱えて地下の、その先の天上の土の異界に意識を向ける。

 足下にさざめく地の魔法の広がり。それが正面、少し離れた地面の一点に集中すると、音もなく、すっと人型の土の塊が盛り上がった。

 小さな、子どものような大きさの土くれが直立する。派手な魔力の煌きもない、巨大で強力なゴーレムともかけ離れた、小さな精霊だ。

 泥人形が少し揺らめき、髪が生え、目鼻が現われた。

「げっ……」

 イシュルは小さくだが、呻き声を発した。

 その姿がマレフィオアが何度か見せてきた、無機質な人型(ひとがた)の造形と、よく似ていたからだ。

 首筋まで伸びた髪、眼球のない目に控えめな鼻。七、八歳くらいの子どものからだは、凹凸のほとんどない緩やかな曲線を描き、地面の下に消えている。

 男の子なのか女の子なのかわからない。

 ……ワタシノナハ、ろにーか・ににえら。ヨロシク、ツエサマ。

 と、心のうちに人のものではない声が流れてきた。

 この響きも男とか女とか、区別がつく感じのものではない。だが「ロニーカ」という名前、そして「ワタシ」と聞こえたから女の子かもしれない。

 でも、ロニーカ・ニニエラなら覚えられる。短い名前だ。

 俺の方が疲れていたからか、大精霊クラスを召喚できなかったか。だが、この精霊を召喚した時に感じた土の魔力はなかなかのものだった。

「しかし、“杖さま”かぁ」

 やっぱり変、だよなぁ。

 ……ン? ドウシマシタカ?

「いや、何でもないよ」

 イシュルは少し脱力した笑みを浮かべ、首を横に振った。

「あそこに赤帝龍の死骸がある。やつの鱗や牙はとても価値があるんだ。他のやつに取られたくない。ロニーカが見張ってくれないか」

 イシュルは続いて、何者か強いやつが狙ってきたら教えてくれ、近づいてきたやつを脅したりするのはいいが、殺しては駄目だ、などと細々と指示を出した。

 ……ウケタマワリマシタ、ツエサマ。

 小さな、子供のような姿のロニーカは、そう言うと地面に姿を消した。

「むっ」

 ……なかなかやるじゃないか、ロニーカ。

 イシュルは彼女の消えた直後、赤帝龍の死骸の周りの地中に、微かに張り巡らされた土の魔力を感じ取ると、微笑を浮かべた。

 初召喚した土の精霊は、見かけによらずかなりの実力を持っているようだった。

 足許を流れる魔力は弱くとも、明らかにそれとわかる質の高さ、鋭さと深みが同時に感じられた。

「そういえばあんたは何者だ? 賞金稼ぎ、ハンターか? ……だよな」

 川が流れ、やや下っている北の草原の方を、しきりと見つめていたカッサーニが、再びイシュルのそばに寄って来て言った。

「名乗るほどの者じゃないって、おまえ、お尋ね者か?」

 男爵家の十人隊長は今頃になってようやく、よそ者の少年のような若い男が一人、なぜこんなところにいるのか、その異常さに思い当たったようだった。やっとそこまで気が回るようになった。

 この辺は北はラディス王国との国境、東は山から続く森が迫り、大きな街も街道も近くにない、辺鄙な田舎だ。大型の魔物でも出ない限り、ハンターらの姿を見ることもはない。

「さっきのなんだか怪しい気配、精霊を呼んだのか? あんた、魔法使いの賞金稼ぎか」

 カッサーニは勘が良い方なのか、背後でイシュルが土の精霊、ロニーカを呼び出したのを、なんとなく感じ取ったらしい。

「魔法使いっていうと……、グダールあたりにいて、東の山のあの凄い明かりを見てこちらにやってきた口かい」

 カッサーニの口ぶりが少し柔和になった。イシュルを勝手に魔法使いと決めつけ、ぞんざいな口を聞く相手ではないと思ったらしい。

 グダールとはここから西方にある、ラディス王国との国境近くの街だ。

「グダールだと、ちょっと遠くないか?」

 イシュルはにやついて、やや皮肉に口角を歪めて言った。

「いや、凄い風の魔法使いなら杖に乗って空を……って、あんたは持ってないな、魔法の杖」

「風、……か。悪くないな」

 ……悪くない見立てだ。確かにな。

「やはり、あんた、風の魔法使いか。まだ若いのに、珍しいな」

 十人隊長の言葉はやがて小さく、呟くようにして途切れた。

「あ、あんた。やっぱり名乗ってくれないかな?」

 カッサーニはもう我慢がならない、と言った風に息急き切って言ってきた。

 昨晩から続く異常事態に思考が鈍っていたのか、そもそもあの赤帝龍の死骸のすぐそばに、朝から人がいたなどと、おかしいに決まっているではないか。

「もう少ししたら、騎士団長か、男爵さまご自身が来られる。そうしたらあんた、どのみち名無しじゃ済まされないぜ」

「まぁ、そうだろうな」

 イシュルは、唾を飛ばして顔を寄せてくる隊長を両手を上げて押しとどめ、苦笑を浮かべた。

 ……それも決まりきったことだ。男爵がどんなやつか知らないが、場合によっては拘束され、脅されて「知ってることすべてを話せ」と、あるいは拷問さえ受けるかもしれない。

 まったく面倒だが、ここから離れるわけにはいかない。聖王国に赤帝龍の死骸を独占させるわけにはいかない。大陸のパワーバランスが崩れかねない。当然、両国の間で赤帝龍の死骸を取り合い、戦争になることも避けねばならない。

 しばらくこの地にはりついて、近隣の両国の領主たちの間を、取りまとめねばならないことになるだろう。こちらの思惑通り、赤帝龍の死骸をきれいに二等分する。

 ……言うことを聞かないやつがいたら、“力”で押さえつける。言うことを聞かせる。

「……」

「あ、いや」

 薄く、酷薄な笑みを浮かべたイシュルに、カッサーニが顔を強張らせた。

「イシュルだ。俺の名はイシュル。よろしく、十人隊長殿」

「あ、ああ……って、イシュルって名前、どこかで聞いたことがあるな……」

 と、そこで少し離れた巨大な山の端、赤帝龍の死骸の尾の付け根あたりから、複数の男の悲鳴が上がった。

 静かな草原に響き渡る、男たちの泣き叫ぶ声。妙に情けなく聞こえる。

 ……ツエサマ。

 ロニーカから、赤帝龍に近づき鱗に触れようとした騎士たちを足止めしたと報告が入る。

 彼女? からの伝言は、すべてがはっきりした言葉にはならない。断続的に、彼女の気持ちや考えていることが直接、自分の心に触れるように伝わってくる。

 今まで召喚してきた精霊はすべて、完全な人型だった。だが初めて召喚した土の精霊は、完全な人型ではないのだ。

 ……じゃあ何なのか、と言われてもよく分からないが。

「おっ」

 カッサーニが驚き、悲鳴の上がった方を見る。

「殺すなよ」

 イシュルはロニーカに向かって口の中で呟き、泣き叫ぶ男たちの方へ歩いていく。

「これは……」

 近づくと、一面、表面が黒く焦げ付いた赤帝龍の鱗のすぐ傍で、両足を岩で覆われて立ちすくむ三人の騎士がいた。

 同じ黒く焼けた地面から、灰色の石が顔を出して積み上がり、男たちの両足を膝上のあたりまで固めていた。

「ううっ」

「た、隊長っ。助けてください!」

 男たちは顔を真っ青にして、カッサーニに助けを求めてきた。

「ロニーカ」

 呆然と固まるカッサーニの横でイシュルが短く呟く。

「!!」

「へっ?」

「おおっ」

 土の精霊の返事が伝わってくる。同時に男たちの足を覆っていた岩が砂塵のように細かく砕け、地中に吸い込まれていった。

「このでっかい宝の山は、俺が召喚した精霊に見張らせている。勝手に近寄るな」

 イシュルはカッサーニと騎士の男たちを見回し言った。

「こいつは俺が斃した。これは俺のものだ」

 騎士たちはみな両目を見開き、口をあんぐり開けてイシュルを見た。

 南から微かに風が、草原を渡っていく。

 一瞬間があいて、カッサーニがはっとした顔になって言った。

 声が細かく、震えていた。

「あ、あんたの名。そういえば思い出したぞ、イシュルって言えば──」

「うん?」

 風が頬に触れると同時、足許から地の鳴る音が響いてくる。

 イシュルは南の丘の連なりの先、遠く目をやった。

 カッサーニらもつられて視線を南に向ける。

 いつの間にか陽が傾き、草原が燃えるような黄金色に染まっていた。

 その中に臙脂(えんじ)の旗がはためく。

 四分割された盾に横縞と杯と鳥の絵柄、両脇を唐草がささえている。

 やがて絵柄もはっきりと見えてきた。

「おお、男爵さまだ」

「スカルパさまのお成りだ」

 騎士たちは小さな歓声を上げた。



 丘を渡る旗は今や数十の騎馬と百以上の槍兵を従え、夕陽に燃える草原を一直線に突っ切ってくる。

 ……来たか。

 聖王国の方が早かったな。

 イシュルはちらっと反対の、北の方を横目に見て小さく嘆息した。

 まだラディス王国側は、動きが見えない。

 人馬のざわめきが、静かだった草原を違う場所に変えていく。

「ずいぶんと早いな」

「昨日の日暮れ頃から大騒ぎだったからな。俺たちが城を出るころにはもう、皆集まっていた」

 誰にともなく呟いたイシュルに、カッサーニが答えた。

「ふむ」

 ……こいつらは男爵家の斥候だ。たぶん、今日の明け方に城を出発したくらいか。

 その時には配下の騎士や小領主たちが集合し、兵らの動員が済んでいたのだ。カッサーニが城に知らせた頃には、男爵本人ももう、居城から出陣していたわけだ。

 やがてオルトランド男爵軍は赤帝龍の死骸と正対するように、一部の騎馬と徒歩兵を横陣に展開し、配置についた。

 スカルパ・オルトランド男爵本人らしき人物と近侍の者、十騎ほどの騎馬が、赤帝龍の西側にいたイシュルたちの方へ近づいてきた。

「カッサーニ、ご苦労。そこの者は?」

 男爵が馬上から十人隊長に声をかけた。

 顎の張った、トランプのキングの絵柄のあの顔を、少し若くしたなかなか威厳のある風貌だ。

 声音も落ち着いたバリトンで、そこそこの重みがある。

 ……何よりこいつ、最初に赤帝龍の方へいかないで、俺の方に来た。いや、斥候に出した隊長の報告を、先に聞きに来た。 

「ははっ、男爵さま」

 腰を下げていたカッサーニが顔を上げた。

 隊長は現地に到着し、イシュルと接触したことなど一連の出来事を男爵に説明した。

「ふん。で、この者があれなる赤帝龍の遺骸を、自分のものだと申しておるのか」

 オルトランドは横目にイシュルを見下ろしてくる。その眸には、今まで嫌になるほど見てきたあの、好奇と揶揄の入り混じった色が浮かんでいる。

「はっ、この少年は自ら赤帝龍を斃したと申しており……」

「ほう」

 男爵はイシュルから目を逸らすと顔を後ろに向け、お付きの者たちを見て笑みを浮かべた。

「はははっ」

「それは凄い」

 男爵に笑いかけられた者の中には、過剰に反応して大声で笑う者もいた。

「……」

 イシュルは特に表情も変えず、彼らの嘲笑をやり過ごして、オルトランドの背後に居並ぶ者たちを観察した。

 ……鉄製の胴鎧や籠手を着けている騎士が七名。男爵以下全員、兜は着けていない。他に平服にマントの者が三名。二人はおそらく事務方の者、部隊の補給や他の領主家との折衝などを行う者たちだ。最後の一人は初老の男で、右手をマントの内側に突っ込み隠している。中で何を握っているのか、こいつだけが笑っていない。

 この男は男爵家に仕える魔導師だろう。俺が魔法を使うのがわかるのだ。あるいは赤帝龍の死骸を見張らせている、ロニーカの存在に気づいている……。

「くっ」

 イシュルがその魔導師を見て薄く笑みを浮かべると、男は小さく呻いてマントの合わせ目から、頭に宝石のはまったステッキを突き出した。

 同時に、魔導師の頭上に二つの火球が現れる。無詠唱だ。

 と、その横を青い炎が一瞬煌めき、水平に走った。火球が上下に両断され、音もなく消える。

 イシュルは余裕を持って火の魔法を使った。いや、魔法と呼ぶほどのものではない。目蓋を瞬きするほどの力も使わなかった。

「ひっ、青い炎……」

 魔導師は型どおりの反応を示した。

 彼は慌てて下馬するとイシュルの前に走り寄り、膝をつき頭(こうべ)を垂れて命乞いをはじめた。

「どうか魔法使い殿、この度の我らが無礼をお許しあれ」

 そして馬上の男爵を振り返り、緊張した声で言った。

「スカルパさま、ここはご深慮を賜りたく」

「むっ」

 オルトランドは顔つきをあたらめると下馬し、イシュルの前に立ち会釈した。

「いや、此度はわたしの不徳のいたすところ。貴公が気を悪くされたなら、お詫び申し上げる」

 他の者も馬を降りてイシュルに頭を下げた。

「俺の方は気にしてない、ただ、面倒を避けたいだけだ」

「おおおっ、ありがとうございます!」

 火の魔法を使った魔導師が、大げさに感謝してみせた。

 彼にはイシュルの言った、「面倒」の意味がよくわかったらしい。

 男爵家の魔導師はイシュルのみせた火の魔法の片鱗を見て、その力がどれほどのものか、おおよその見当がついたらしい。

 ……青い炎は特別なのだろう。燃焼時の酸素量の違いか、色温度の関係か、基本的に青い炎は高温なのだ。そういう科学的な概念はこの世界では一般的でなく、青い炎の特殊性を知る者がいたとしても、そこまで高温の炎を出現させることのできる魔法使いは、ほとんどいない筈だ。

「……それで、カッサーニによれば貴公はイシュル、と名乗ったそうだが」

 オルトランドが硬い表情でイシュルに質問してくる。

「あの風の剣、イシュル・ベルシュであれば、まだバルスタールに留まっているか、ラディスラウスに滞在していると耳にしていたのだが……、いかがか」

 ……まぁ、そんなところだろうな。ここはオルスト聖王国、王都はもちろんバルスタールからもかなり離れているから、俺の消息に疎いのも当然だろう。

「まぁ、いろいろありましてね。あいつとは因縁もあったから、昨晩ここまで飛んで、戦ったわけです」

 イシュルは赤黒い巨大な丘、山と化した赤帝龍の方をちらっと見て言った。

 ……赤帝龍が火の魔法具を持っていたことは、それほど広く知られていたわけではない。そのことまで話す必要はない。

「なるほど。それで、貴公はあの赤帝龍の鱗や牙が、自分のものであると主張していると……」

 男爵はさらに表情を硬く、引きつらせて言った。

「まぁ、そうですが──」

「も、もしや!」

 そこで突然、男爵の後ろへ退いていた魔導師が叫んだ。

「昨晩、夜空を真っ二つに引き裂いた閃光はまさか、大聖堂でマレフィオアを真っ二つにしたという、風神の剣では?」

 あれが見えていたのか。なら話が早い……って、空を見上げれば誰でも見れたろうけどな。

「ああ、そうですね。ええと、だから──」

「そうか!」

「それはすごいっ」

「あれが大聖堂の……」

 と、男爵以下、皆が感嘆の声を上げた。

 大聖堂でビオナートと対決した時、風神が降臨しイシュルが風の剣を振るった件は聖堂教会が大々的に宣伝したため、特に聖王国内では知らぬ者がいなかった。

 男爵らは当然、イシュルの年齢や外見に関しても、何らかの情報を得ているだろうと思われた。

「おお、あの時にマレフィオアが」

 オルトランド男爵は引きつったまま無理に笑顔をつくり、わざとらしく両手を広げて驚いてみせた。

「あの、俺はですね」

 イシュルは両手を振って興奮し、あるいは動揺する男爵らを落ち着かせると、続けて言った。

「あれを斃したのは確かに俺です。だからあの宝の山は俺のもの、と言ってるわけですが、その上で、俺の意志で、あれをラディス王国と聖王国できれいに二等分する形で譲渡したいと思っています」

イシュルは続けて、ちょうど赤帝龍が両国の国境地帯に落ちたこと、その死骸をめぐって互いに無用な争いになることを避け、等分して穏便に済ませたいこと、そのために自身の所有だと主張し赤帝龍の死骸の保全を図っていること、決して金儲けのためなどではないことを説明した。

「ふーむ、そういうことですか」

 オルトランドは自らの顎髭をつかんで考えこみながら、一瞬鋭い視線を北へ、ラディス王国の方へ向けた。

 その顔からはもう、引きつった笑みが消えていた。年相応、身分相応に思慮深い表情が浮かんでいた。



 夜になるとまたぞろ、しとしとと雨が降りはじめた。

 ……ツエサマ、アメ。

 横でロニーカが地面から生えるように姿を現し、優しい声でイシュルの心のうちに語りかけてくる。

「いつごろ止むかな? この雨」

 ……モウスコシ?

 ロニーカは可愛らしく首をかしげ自信なさ気に言う。

 ……コノアメハ、ツエサマガ、ダイマホウヲ、ツカッタカラフッテル……。

「いや、それは赤帝龍と無数の火龍どもだろう?」

 あいつらが、ここら辺一帯の大気の温度を一気に上げた。

 ……ツエサマノ、ダイリュウセイウガ、ゲンイン。

「ああ、あれか」

 そういえば日中、東の山の方は曇って視界が悪かったが、確かに赤帝龍の進撃だけが原因ではないかもしれない。

「さて、寝るか。よろしく頼む、ロニーカ」

 ……ハイ、ツエサマ。

 ロニーカはイシュルに向かって腰を下げて一礼すると、暗く沈んだ地面へ溶けるように消えた。

「……」

 イシュルはかるく身じろぎして手足を伸ばすと、首の裏に腕を回して眸を閉じた。

 小さな雨音が、耳朶をくすぐるように聞こえてくる。

 初夏の今の季節でも、ここら辺は夜はそれなりに冷える筈だが、寒さは一切感じない。

 ……まだ赤帝龍の熱が、少しだけ残っているのかもしれない。

 イシュルは二つに割れた赤帝龍の胴体、その焼け残った内側で一晩、過ごすことにしたのだった。

 オルトランド男爵と騎士らは、南の方にあった牧畜農家を借り上げ、兵士らは夜半になって到着した輜重が運んできたテントをその場で張り、野営することになった。

 男爵はともかくも、あの風の魔法具を持つ少年、ビオナートを廃しサロモンを新国王に押し上げた立役者、本人で間違いないと納得したようだった。そして、借り上げた農家に共に宿泊することをしきりと勧めてきたが、イシュルは固辞し、より安全と思われる場所で一夜を過ごすことにした。

 知り合ったばかりのオルトランドを信頼し、身を預けるのはまだ少し気が引けた。危険性が皆無、とは言えない。ここにロニーカ以外味方はいない。疲労も解消されていない。たった一晩でも、何が起こるかわからない。

 赤帝龍の死骸の“中”で一晩過ごすのは、無気味な感じもしないでなかったが、それはあまりに巨大過ぎて、生き物、魔物の死体に思えない、という気持ちの方が勝った。それが実感だった。

 周囲はロニーカに見張らせているから安全だし、焼け残った赤帝龍の骨格や鱗は、その影に入れば十分に風雨を凌げた。

 ……まだ焦げた匂いは消えていないが。

 しかし、こうしてお前の死骸に潜んで、寂しく一夜を過ごすことになるとはな。

 いったい、なんの皮肉か。

 まったく、……想像もしていなかった。

 イシュルは頭上を、夜空を引き裂くように伸びる赤帝龍の巨大な骨を、仰ぎ見た。

 その黒い影の向こう、遠方に、微かに光る雨雲がゆっくりと西へ動いていた。



 ……ツエサマ、ツエサマ。

 可愛らしい、子どもの声が聞こえる。

 眠りから覚めると、目の前に砂でできた、たぶん女の子の精霊がいた。

「おはよう、ロニーカ」

 イシュルは欠伸をしながら両手を突き上げ、伸びをした。

 雨音はしない。空はまだ僅かに、暗さが残っている。

 小鳥の鳴き声も虫の音も、何もしない。異様に静かな朝だ。

 ……だが。

「兵馬の動きだ」

 ……ハイ、ツエサマ。

 イシュルが呟くとロニーカが頷き、顔を北西の方へ向けた。

 ラディス王国の方角だ。

「来たか」

 イシュルは立ち上がると赤帝龍の死骸、腹部の空洞から外に出た。

 薄曇りの空に微かな緊張が見える。地面を通して伝わってくる気配だけではない。

 草原の先、木立が散在する先に目を凝らす。

「また旗か」

 ひときわ大きな旗が、朝もやに霞んで見える。

 ……結構いるな。

 オルトランド軍どころではない。ラディス王国側は千単位だ。どこの領主か知らないが、昨晩に、この辺りまで斥候を出していたのだろう。

 気づかなかった。手練れの猟兵を使ったのか。

「!!」

 と、つらつら考えている間に旗の絵柄を読み取れるようになった。

 あわせて数千の騎馬と徒歩兵の部隊だ。

 旗は紺地に獅子が両側から支える盾。盾の絵柄はオルトランド男爵家と同じ、四分割されている。

「これは……。いきなり大物が来た」

 その紋章はイシュルも見たことがあるものだった。

 北の草原を翻る軍旗は、ラディス王国南部防衛の要(かなめ)、城塞都市ノトールを守るクベード伯爵家のものだった。

「ら、ラディス王国軍が来た……」

 近くにいたオルトランド男爵家の兵士が震える声で呟くと、後方に布陣している本隊の方へ走って行った。

 クベード伯爵軍はイシュルの立つ草原の前方、やや起伏のある丘上に北東から南西にかけて横陣、と言うより鶴翼と言ったらいいだろうか──に部隊を展開しはじめた。

 林立する無数の長槍が横に広がっていく様は、なかなかの迫力があった。辺りを覆う兵馬の喧騒は、明らかに大部隊のものだ。

 ……間違いなく、五千はいる。かならず戦闘になると、クベードはやる気満々といったところだろうか。それとも単に、聖王国と交渉になるのを見越して、有利に進めるために大部隊を動員したのか。

 だがそれも、俺が仲介に入るのなら何の意味もないんだが。

 やがて伯爵軍は布陣を終え、明らかに赤帝龍の遺骸の方ではなく、イシュル本人に向けて、数騎の騎馬を差し向けてきた。

 中央に身分の高そうな騎士、左右はマントにフードを被った魔導師、後方に一人、どでかい戦斧(バトルアックス)を肩にかけ、徒歩でつき従う大柄の兵士がいた。

「……」

 イシュルはそのさまを見て、思わず口端を歪めた。

 領主と言うより、歓楽街の顔役、マフィアのボスのように見えなくもない。

 後ろからは馬蹄の音を響かせ、オルトランド男爵一行がやってきた。

「いきなり、クベードが出てきたのか」

 男爵が馬上から、呆然と呟く。

「あんなのと戦(いくさ)になったら、我が方はひとたまりもないぞ」

 続いて男爵が後ろの騎士らに振り返ると、一人が馬を返して南方へ駆け出した。

 おそらく近隣の諸侯にでも、援軍を頼みに行くのだろう。

「お早うございます」

 イシュルは意識して柔和な笑みを浮かべ、オルトランドを見上げた。

「ご安心を。そんなこと、俺がさせませんよ」

「あ、ああ」

 男爵は落ち着きなく幾度か、首を大きく振って頷いた。

 やがて魔導師と戦斧の戦士を従えた騎士が、イシュルとオルトランド男爵の前までやって来た。

 身分の高そうな騎士はやはりロルド・クベード、伯爵本人だった。

「ふむ」

 クベード伯爵は馬上でイシュルたちを見回し、ちらっと赤帝龍の死骸の方を横目にし、肩をすくめて独りごちた。

 ……これはこれは。

 イシュルは無言、無表情でクベードを見つめた。

 ノストールの伯爵さまは、なかなかの強面(こわもて)だ。 

 その風貌は確かに、貴族というより街の顔役、と言った方がしっくりくるものだった。

 年齢は壮年、初老と言ったところか。六十前くらいだろう。日焼けした、あるいは酒焼けか、赤黒い顔に白髪、口髭、下まぶたが重く垂れ下がっている。

 不健康そうだが屈強さも感じる、老練さの滲み出た顔貌だった。

「貴公がイシュル殿だな?」

 伯爵の声は外見のイメージ通り、しわがれた聞き取りにくい低音だった。 

 イシュルが無言で頷くと、彼は下馬して胸に右手を当て、深く頭を下げてきた。

「バルスタールでは王国を救っていただき、わたしからも感謝申し上げる。……それから、甥のブノワも厄介になった」

「ああ」

 イシュルは頷いてかるく笑みを浮かべた。

 ……エレミアーシュ文庫で手を貸した、築城の名手ブノワ・クベードはこの人の甥だった。

「今はバルスタールで、築城の指揮を執ってるんですよね?」

「うむ」

 伯爵は満足げに重々しく頷いた。

「それで」

 そしておもむろに、再び山のように巨大な赤帝龍の死骸を見やった。

「我らが王国だけでない、今の聖王家にとっても英雄である貴公が、この場に留まっているというのは……」

「ええ」

 イシュルも笑みを大きくして赤帝龍の方を見た。

 ……オルトランドもそうだが、適当に頭の良い人は話が早くて助かる。

 まぁ、そういう人物だから、国境地帯を任されているんだろうが。

 イシュルは昨日、聖王国側のオルトランド男爵に話したことと同じ内容を、クベード伯爵にも説明した。

 赤帝龍の死骸、宝の山を両国で均等に分配する。自身がその証人、立会人となって仕切る、武力の行使など争うことは一切禁止、互いに遺恨を残さないようにする、ということだ。

 それが両国のため、自分自身のためにもなる。これから水の魔法具を探さなければならないが、どこに行き、何をすることになるか、まだまったくわからない。

 大陸に不要な波風が立ち、挙句それに巻き込まれるなど、絶対避けなければならなかった。

「イシュル殿はそう申されるが……」

 イシュルの説明が終わると、クベード伯爵はわずかに口許を歪め、オルトランドを横目に言った。

「あのにっくき赤帝龍を滅した貴殿は、我が王国のベルシュ村の住民。それならばあれの遺骸は、当方のものではないか」

「な、何を申される」

 今度はオルトランドが気色ばんで、まくし立てるように言った。

「赤帝龍の落ちたあの場所は明らかに我が領地、聖王国の領土である。クベード殿には残念だが、あれの所有権は我が方にある」

「……」

「くっ」

 イシュルを前にして、クベードとオルトランドが無言で睨み合う。

 ……おいおい。クベードめ、早速はじめたな……。

 イシュルは小さく息を吐くと、両手を胸の前に組んだ。

 少しでも、ラディス王国側に有利な条件となる可能性があるかないか、オルトランドを煽って、俺の反応を見ているのだ。

 今の両軍の戦力など、俺には何でもない。この場を支配しているのは確かに俺だ。赤帝龍の遺骸の所有権を決めるのは、俺だ。

「えーと」

 そこでふと、南の空に何かが煌めくのを感じて、イシュルは後ろへ振り向いた。

 少し雲が引いて、明るさの増した空を黒い小さな影が近づいてくる。

 魔法の杖にまたいで乗る人物……。

 風の魔法使いだ。

「!!」

 やがてその人物が明らかになる。

「イシュル!」

 先に彼女の方から急降下してきた。風の魔法はもう働いていない。

 彼女はなんと、空中で杖を手離してしまった。イシュルに向かって真っ直ぐに突っ込んでくる。

 その少女に向かって両手を差し伸べる。

 ……魔法が効いていないのに。

 イシュルが叫んだ。

「レニ!」



 まさしく初夏の太陽のような微笑みが、胸の中へ飛び込んでくる。

 両手で包み込むようにして、しっかりと抱きとめた。

「イシュル、久しぶり!」

 そばかすの可愛いらしい顔がはにかむ。何も変わってない。

「びっくりしたよ、こんなところで会えるなんて」

「うん、風の剣でしょ? わたしの里からも見えたから」

 そしてレニは赤帝龍の方を見て言った。

「とうとうあの伝説の龍を斃したんだね」

「ああ」

 そこでレニは少し難しい顔になった。

「……それに、大流星雨(メテオフォール)もイシュルが使ったんでしょ?」

「あの魔法、レニは知ってるのか」

「うん」

 さすがレニ、だ。

 イシュルは微笑み頷き、彼女の眸を覗きこむようにした。

 ……彼女が風の剣の話をした時の表情も、不自然な感じはない。聖都で初めて会った時や、時々感じた不思議な違和感も、完全に消えたようだ。

「ああ、あの。そこの魔法使い殿はどなたかな?」

 ふたりで話していると、横から声がかかった。オルトランドが困った顔をしていた。

「ふむ。また後ほど、改めて話し合うこととしようか。ところでイシュル殿、今晩の宿は当方で用意いたそう」

「なっ、いやそれは困る」

 またクベード伯爵とオルトランド男爵が言い合いをはじめた。

 ……クベードは俺が昨晩、赤帝龍の死骸で、つまり野宿したことを知っているわけか。

「ふふ」

 レニが引きつった笑みをイシュルに向けてきた。

 その後、イシュルとクベード、オルトランドの間で再び話し合いが持たれ、イシュルの野営に関してはテントや寝具など一式を伯爵側が、食糧、雑貨等を男爵側が提供することになった。

 そしてイシュルの身の回りを世話する従者が、両陣営から一人づつ手配されることになった。

 どちらもどこから連れてきたのか、最初は見目麗しい妙齢の女性をメイドとして寄こしてきたが、イシュルは固くお断りして二人とも男の従者にしてもらった。

 その後レニと昼食を共にしたが、彼女はゆっくり話す時間もなく、その日の夕刻には領地のパレデスに帰ると言いだした。

「火龍はいなくなったけど、山奥の魔獣が少し里の方に出てきてる。イシュルが大流星雨なんか使うからだよ」

 プジェール家の領地のパレデスは、現在地から南東に百里(スカール、約65km)ちょっと、レニは状況がちょっと落ち着いたところで現場の確認と、イシュルに会えるかもと急いでやってきたということだった。

「師匠、もう帰っちゃうのか。寂しいな」

「もう」

 イシュルがレニを「師匠」と呼ぶと、彼女は頬を染めて困った顔をした。

「でもどのみち、わたしはここに長くはいれないよ。……またきっと、どこかで会えるから」

「ああ」

 不承不承、頷くイシュルに、レニは小声で説明した。

 彼女はあまり、他の貴族に顔を見られたく、名を知られたくないのだという。それはもちろん、聖王家にも。

 彼女の実力なら当然、宮廷魔導師として聖王家の方からお呼びがかかるだろう。そうなると聖都やほかの地で軍役に就かなければならなくなり、領地に長く留まることができなくなる。パレデスは魔獣が煩雑に出没するため、レニは故郷を長く留守にすることが難しいのだった。

「今度行くよ、パレデスに」

「うん!」

 レニはその、可憐な笑顔をイシュルに残しあっという間に、風のように去って行った。



 それから数日。

 両陣営とも、それぞれの王家にお伺いを立てなければ決定できないと、滞陣を見越して柵を作り豪を掘り、本格的な野戦陣地を造りはじめた。

 それも日を追うごとにエスカレートしていき、今では互いに木材や切石などを運び入れ、本格的な築城を、立派な砦を造営している。

 イシュルはその日、赤帝龍の死骸の前、西側に設営された六角形のテントの前に椅子を出し、腕を組んで憮然と座っていた。

 クベードもオルトランドも、強靭な陣地を造ろうと躍起になっている。

 王家からどんな指示がくるか、和戦何れにしても赤帝龍の、宝の山を回収するための拠点が必要になる。

 ……気持ちはわかるんだが。

 イシュルは、今日何度目かの溜息を吐いた。

 たとえヘンリクやサロモンが戦争を決意しても、俺は引かないぞ。

「ん?」

 と、南の聖王国側の方で、何か大きな動きを感じた。

 周囲は築城で騒がしい。イシュルはその気配に気づくのが遅れた。

 オルトランドの造営している砦、その丸太の並ぶ壁の向こうに、忽然と無数の旗が立ち、兵馬の騒ぐ気配が起こった。

「あ、ああ」

 イシュルは椅子から立って、呆然とその一大ページェントを眺めた。

 丸太の壁の切れ目から、ひときわ美しい、壮麗な騎馬隊の一群がイシュルに向かってくる。

 よく晴れた青空に映える、白地に金系の絵柄の、特別な旗。

 あのオルトランド男爵が見るも無残に慌てふためき、醜態をさらしている。その隣に、白馬に乗る男。

 ミラのふたりの兄、懐かしいルフィッツオとロメオの双子の姿もあった。

 それにマグダ・ペリーノなど魔導師、徒歩で付き従う道化たち。

「イシュル! 久しぶりだ」

 サロモンは銀色に輝くマントを翻し華麗に下馬すると、イシュルに向かってにこっと微笑んだ。

 その白い歯が、流れるような銀髪が、妖しい切れ長の眸が、すべてがきらきらと輝いて見えた。

 ……げ、げげっ。

 イシュルは度肝を抜かれて、その圧倒的な存在感にのけぞった。

 サロモンはそのまま、すぐ目の前まで歩いてくる。ルフィッツオやロメオらはその後ろで控えている。彼らも微笑を浮かべている。

「国王、陛下……」

 イシュルが情けない声を出すと、

「ふふ」

 サロモンが再び、壮麗な効果音でも聞こえてきそうな高貴な、そして優しい笑みを浮かべた。

「懐かしいな。元気そうで何より」

「来ちゃったんですか」

「ああ、もちろん。君に会うためにね」

 サロモンはわずかに首を傾け、イシュルを横目に見てくる。

 ……その流し目はやめてほしい。

 と、甘いサロモンの眸の色が、別の光を帯びる。

「え、ええっ?」

 イシュルはサロモンの視線の先へ、振り返った。

 ……あちらも、気づかなかった。

 一里ほど離れた、北方のクベード伯爵の砦の方からも兵馬が充溢しているのが見える。

 その集団の中から、これも白馬に乗って駆けてくる者がいる。

「おお、まさかあれは」

 サロモンが明るい声を上げた。

 颯爽と野を駆ける白馬のアイラ・マリド。その前にちょこんと乗っている少女が、何か叫んでいる。

「ほう、あれがヘンリク殿のひとり娘か」

 どうしてそうとわかるのか、サロモンが面白そうに、低い声で呟いた。

「イシュル〜、イシュル〜」

 耳許に響く、聞き慣れた声。

 ……あのちんまいのは間違いなくペトラだ。

 風が鳴り、雲が流れ陽が満ちていく。

 イシュルは愕然として天を仰いだ。

 この世の終わりのような顔になってサロモンと、近づく馬上のペトラを見回した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る