神の欠片



 半円状の弧を結ぶアーチの間を抜けると、目の前に広大な空間が広がっていた。

 ……ここが荒神の主祭壇だ。間違いない。

 イシュルは暗黒に塗りつぶされた空間を見回し、はっきりしない何か、おそらく畏怖のような感慨を抱いた。

「!!」

 瞬間、一同が揃って声にならない叫びを上げた。

 なんの前触れもなく突然、暗闇の底から青白い魔力光が放たれた。

 その光はまたたく間に周囲に広がり、広大な荒神の祭壇を端から端まで照らし出した。

 三方を下段と上段、二階建ての回廊に囲まれた巨大な吹き抜けのホール。

 残る一方の左側奥には、邪神や悪しき魔を統べる荒神、バルタルの一部が崩れ落ちた、巨大な石像があった。その手前に祭壇が設けられている筈だが、石像の前面、基部は損傷が激しく、広い範囲で陥没し、水が溜まっている。

 最初に光を放ったのはあの水面であろう。今も水系統らしき、強い魔力を放っている。

「……」

 イシュルは無言で前へ一歩踏み出し、足元の階段をゆっくりと下りはじめた。

 誰も何も言わず、イシュルに続く。

 みな、わかっているのだ。

 マレフィオアはあのバルタルの石像の足下、溜まった水の中にいる。

 まさかこちらに気づかないのか、やつはまだ姿を現さない。

 それとも間合いを計り、水中で待ち構えているのか。魔力を放つ以外、目立った動きはない。 

 ……しかし、地下にこんな巨大な空間があるとはな。

 イシュルは階段を降りながら、再び辺りを見回した。

「これを、人が造ったというのか」

 地下空間は東西にやや長く、長辺が百二十(約80m)、高さが八十長歩(約50m)ほどはある。

 周囲はところどころ傷み、崩落しているが、地中の岩を彫り、切り出した岩を積み上げ、未だ荘厳な神殿の主祭壇の体裁を保っている。

 どれほど古い時代のものかわからないが、たとえこれがウルク以降に造られたものだとしても、とても人の手によるものだとは思われなかった。

 壁や柱などの装飾の様式は古代ウルクの初期の頃と思われるが、イシュルには詳しくわからない。

 まさか神代の、神々の造形によるものなのだろうか。判断できるのは専門に研究している、神官や学者くらいのものだろう。

「これはもとからあった空洞に、後からそれらしく意匠をほどこしたものじゃの」

 と、辺りを見回すイシュルを見て、横からベニトが説明してくれた。

「ああ、なるほど。……そういうことですか」

 ベニトは土の魔導師だから、そのへんもわかるのだろう。

 言われてみればなんということはない、巨大な地下空間は元から、自然に存在するものだった。もちろん、これだけの空洞がどのようにできたのか、非常に珍しいものであるのも確かだろうが。

「だが誰がここまでのものを造ったか、定かではないのじゃ。ウルクの頃にはあったらしいからの」

 地下だから風化も少なく、古い時代のもののわりに傷みは少ない。床の石畳も、雨期は水が溜まる筈だが状態は良い。

「足元に気をつけろよ」

 イシュルとベニトがいささか緊張感のない会話をしていると、リフィアが横から声をかけてきた。

 シャルカとバストルは、階段の途中の踊り場に担いでいた荷物を置いた。そのすぐ後、ミラとシャルカは互いに対となる呪文を唱え、その場で合体した。

 彼女の魔法具、普段はシャルカが憑依している“鉄神の鎧”が、その真の姿を現したのだった。

 ミラは赤いドレスの上に肩、籠手、スカート型に広がる胴鎧を、そして足元には脛当て、鉄靴の鎧を着けていた。腰には長剣を吊っていた。

 マレフィアが潜んでいるであろう、荒神の祭壇をこれでもかと派手な魔力が煌めき立ったが、当の魔物は何の反応も見せず、姿を現さなかった。

 イシュルたちは階段を降り、いよいよ荒神の主神殿の中心である、祭壇の前へと歩を進めた。

 先頭は右にリフィア、左にシャルカと合体したミラ、二列目はイシュル、その後ろにはベニト、マーヤ、ニナが並び、最後にバストルが続く。皆互いに数長歩(スカル、2〜3m)ほどの間隔を開け、ゆっくりとバルタルの石像の前へ、近づいていく。

 ニナの斜め上にはエルリーナが薄く姿を現し、マーヤの頭上には小さな炎が渦巻いている。彼女の火精、ベスコルティーノが“こちら側”に半身を晒している状態だ。ネルとルカスも少し離れて、イシュルの頭上に微かな気配を漂わせている。

 この隊形はマレフィオアとの決戦時用に、イシュルたちが前もって打ち合わせたものだった。

 この中ではバストルが最も弱く、これから起こるであろうマレフィアとの戦闘でも、あっという間に命を落としてしまいそうに思えたが、誰もそれを気にかけず、口に出す者もいなかった。

「……」

 イシュルは後ろを振り返って一番後ろを歩くバストルの顔を見た。

 薄暗い中、柔和な顔立ちの青年はやや俯き加減で、その表情はうかがい知れない。

 ……もう、やつは荒神と入れ替わっているんじゃないか。

 バストルがどんな顔をしているかはわからない。だが、恐怖や緊張している風は一切伝わってこない。それは彼の前を行くマーヤとニナ、ベニトらの真剣な面持ちと比較しても明らかだった。

 ……まぁ、どのみちバストルの心配をする必要などまったくないのだ。

 自分も含めここにいる者すべてが死に、全滅してもやつだけは生き残るだろう。

 あれは神さまなんだからな。

「ふっ」

 イシュルは口角を皮肉に、微かに歪めると前に向き直った。

 もう、荒神の彫像の周りに広がる水面はすぐそこまで迫っている。

 祭壇の中心部の陥没した床面、そこに溜まった水が、不自然極まりない魔力に輝いている。

 イシュルたちがその水面の前に立つと、まるで計ったようにその青い輝きが増した。

「来るぞ」

「さぁ、いよいよ伝説の化け物のお出ましじゃ」

 リフィアとベニトが揃って声を上げる。

 溜まった水の底はどういうわけか、かなり深いようだ。

 その暗い影がごそっと動いた。水面が揺らぎ波立つ。

「!!」

 魔力光がひときわ強く煌めき、白い塊が水面を突き破るようにして現れた。

 闇のわだかまる背景に、白い大蛇がその太い鎌首をもたげる。

 七色に輝く無機質な双眸が、ただの蛇の化け物とは思われない、凍りつくような恐怖を掻き立てる。

「マレフィオア……」

 イシュルはその異形を見上げ低い声で唸った。

 前に立つリフィアとミラの腰が沈む。

 ネルとルカスが緊張し、気合を込めるのが伝わってくる。

 化け物はおもむろに顎を上向けると、「キキーン」と金属的な、甲高い咆哮を上げた。

 そして頭を下ろすと、イシュルたちに突っ込んできた。

 同時に暗闇を、ネルの水色の魔力の、ルカスの金色の魔力の閃光が覆った。

 ……こいつ、あの時よりひと回り小さい……。

 一瞬、どういうわけかイシュルは場違いな、いささか間の抜けた感慨を抱いた。

 聖都ではこの大蛇と二度戦っている。

 一度目はサロモンの弟、ルフレイドを救出するため王城で、二度目は大聖堂の地下、主神の間でだ。その時召還されたマレフィオアは、いま目の前に迫ってくる本体よりも一回り以上、大きかった。

 ……まぁ、いい。俺はただ、こいつを滅ぼし、もう片方の紅玉石を手に入れるだけだ。

 と、左右のミラとリフィアの姿が消える。

 ふたりの動きに、ネリーの腕輪の加速の魔法が起動する。周りの空気の動きが緩慢になり、さまざまな音と気配が遠ざかる。

 音の消えた世界で、マレフィオアが顎をぱっくり全開にして突っ込んでくる。

 その首を、跳躍したリフィアが空中で横一文字に一閃、真二つにぶった切った。

 あらぬ方向に、宙に飛ばされたその首を、ミラが腰から抜いた細身の剣を走らせ八つ裂きにする。

 シャルカと合体して変身した彼女が、自らの剣をイシュルの前で抜くのははじめてだ。

 細切れにされたマレフィオアの頭部は、空中でくるくる回転しながらみな銀色に輝く金属の膜に覆われ、本来の魔力を完全に失い、ただの鉄の塊となって地下神殿の石畳に落下した。

「くっ」

「ふん!」

 ミラとリフィアが動くと同時に、ネルとルカス、ふたりの大精霊も魔法を発動した。

 地下全体が振動し、石畳の地面から四本の巨大な鉄柱が突き出し、天井に向かってもの凄い勢いで伸び上がっていく。

 四本の鉄柱は天井の石面にぶち当たると、四方に鉄の梁を伸ばしていった。その梁は、神殿の大洞窟全体に伸長されていく。

 ルカスは宙に浮き、両腕を水平に伸ばし拳を握りしめ、歯を食いしばって金の大魔法を放っていた。

 ネルは両手を伸ばし、手のひらをマレフィオアに向け風の結界魔法、風獄陣を張った。

 まず祭壇前の水面を外縁から押さえつけ、中心部にいるマレフィオアに向けて拡張していった。

 ルフレイド救出時に召喚されたマレフィオアは、イシュルの張った風獄陣を喰い破っている。

 彼女の張った結界はそれほど広域ではなかったが、より強力なものだった。

 ネルもまた真剣な、気合いに満ちた表情をしていた。

 その魔力は首の切り離されたマレフィオアの胴体を、その場にしっかり固定しようとしていていた。

 イシュルはネルに、マレフィオアに対する間接攻撃や防御など味方に対する支援を、ルカスには戦闘による洞窟の崩落を防ぐため金魔法で補強するよう、役割を振り分けていたのだった。

「……っ」

「たいしたこと、ないですわね」

 イシュルの前に着地し戻ってきた、リフィアとミラが首なしのマレフィオアを睨みつける。

 ……いや、これからだぞ。

 ここまでは、今までの戦闘とたいした違いはない。聖都で召還されたマレフィオアは確かに強力な魔物だったが、たとえば赤帝龍のような、他と隔絶した力を持っていたわけではなかった。

 イシュルはすでに、腕輪の加速の魔法を切っていた。風の剣の発動を、意識していた。

「油断は禁物。むしろこれからが危険」

 背後から、マーヤがぼそっと言ってくる。

 ……そのとおりだ。こいつは本物、本体だ。これから「神の欠片」が現れるのではないか。

 それはいったい、どんなものなのか?

 イシュルもリフィアたちと同様、鋭い視線を首なしの化け物に向けた。

「……ん?」

 イシュルがあらためて身構えた時。

 ……剣さま、大蛇を完全に滅ぼします。

 ネルの報告と同時に、水面から突き出ていたマレフィオアの胴体が四散した。

 彼女は、風獄陣の魔力を鋭利な風の刃に変換し、そのまま巨大な蛇の胴体を無数の肉片に切り刻んだのだった。

「あ、れ」

 粉砕されたマレフィオアの肉片が水面に落ちて、細々と水音を立てる。

 ……おかしい。なにも、何もなかった。

 目の前に現れたマレフィオアは、ただの白い大蛇だった。

 紅玉石は、もうひとつの石はどこにいった? 神の欠片は?

「……」

「イシュルさま……」

 リフィアとミラが呆然と、振り返ってくる。

「むっ」

 当惑するイシュルと、互いに視線を交わす。

「あれは分身。本体ではない。……くるぞ」

 その時、後ろから低い、野太い声が聞こえてきた。

 バストルの、いや荒神バルタルの声だった。

「!!」

 突然、地面が激しく揺れると無数に地割れが走り、水が吹き出した。

 周囲に幾つもの水柱が立ち上がり、地面が崩壊していく。

 神殿の石畳の床がばらばらに砕け、荒れ狂う波に飲まれていく。

「なっ」

「ああ!?」

 リフィアやマーヤが、みな驚愕に恐れおののく。

 ……足許の敷石の、水に沈んでいく感覚。

「デムストラス!」

 そこへ後ろから、ベニトの叫声が突き抜けた。

 もっと下の、水底から石の塊が盛り上がってくる。

 水中を渦巻く新たな魔法。土の精霊だ。デムストラスとはベニトの契約精霊か。

 岩の塊は四つん這いになった人型のようだ。石のゴーレムだ。

 足下をゴーレムの背中が広がっている。

 イシュルたちはベニトの召喚した土の精霊、ゴーレムの背中の上に乗って、どうにか崩壊した地面から吹き上がる水流に、飲み込まれずにすんだ。

「おおっ、と」

「……」

 リフィアやミラは巧みにバランスをとり、姿勢を崩さず前を向いている。

 マーヤはニナに支えられて岩の上に片膝をつき、ベニトは気合を込めて右手の拳をゴーレムの背中に押し当てていた。

「むう」

「くっ」

 宙に浮かぶイシュルの精霊、ルカスは自らの造った鉄の支柱を補強し、ネルは風の魔力を荒れ狂う水面に押し当て、力づくで抑えこもうとしている。

 ルカスは地面の崩落が洞窟全体に及ぼうとするのを防ぎ、ネルは水流がイシュルたちの方に流れこまないよう、コントロールしていた。

 そして……。

 イシュルはほとんど崩れ落ち、水中に没した真正面のバルタルの石像と背後の壁面、その奥の暗闇を睨んだ。

「……やつは、己の分身を使ってお前たちの戦い方を調べ、力を計っていたのだ」

 後ろから、荒神の落ち着きはらった声が聞こえてきた。

 リフィアたちはみな、バストルの様変わりを不思議に思わないのか、なんの不審も見せずただ頷いている。

 崩れた壁面の奥にも水が溜まっている。その深いところに白い光がともった。

 その光はどんどん大きくなり、強力な魔力を放出し始めた。

 ……こいつが本物。本体……。

 静かになった水面が再び波打ち、無数の泡沫が沸き起こって水飛沫(みずしぶき)が飛んだ。

 白い巨体がぐんぐん伸び上がり、頭上で虹色の眸が瞬いた。顎(あぎと)をいっぱいに開いて奇妙な、金属的な咆哮を発した。

 びりびりと空気が振動し、洞窟全体が揺れた。

「これが本物……」

「でかい……」

 ミラとリフィアの乾いた声がする。

 地下水の溜まった水面から半身を現したマレフィオアは、かつて王城や大聖堂で召喚された時とほぼ同じ大きさだ。その巨体全体から白く光る魔力を放射し、輝いて見える。

「行くよ。……イシュルなら勝てる」

 後ろからマーヤが背中に、火精の杖を押し当ててきた。

 落ち着いた、強い声だ。

 同時にマレフィオアの頭部の後ろ側に火球がふたつ、現れた。

 化け物の虹色の眸が、奇妙な動きを見せる。

 瞬間、ネルがマレフィオアの首から下の胴体を風の魔力で固めた。

 リフィアとミラの姿が消え、先ほどと同じ、大きく跳躍してその首を落としにかかった。

 火球は囮で、攻撃の先手を取るための単純な策だった。

 リフィアはマレフィオアの頭の上に姿を現わすと、その額に剣を突き立てた。

 加速の魔法の故か、少し遅れて彼女の「やああっ」と叫ぶ、気合の声が響いてきた。

 ほんの一瞬遅れて、ミラが宙に浮いたそのまま、横から水平にマレフィオアの首を両断した。

 恐るべき勢い、怪力だった。

「……」

 イシュルは眸を窄めて父の剣の柄を握った。

 意識をあの領域へ、その先へと伸ばしていく。

 こちらにいる、もうひとりの自分が思う。

 ……“神の欠片”が、“神の呪い”がいよいよ、その姿を現わす……。

 それを祓うのは、風の剣しかない。

 ミラに斬られた、マレフィオアの首が落下し水中に沈んでいく。

 イシュルはやや腰を落とし、心持ち両足を開いて、父の剣をわずかに鞘から抜いた。

 風の剣の力の端緒が、地下に舞い降りる。

「……なっ」

 集中力を高めていたイシュルが呆然と双眸を見開いた。

 本能的な危険を感じ、「ネリーよ」と呟き加速の腕輪を起動する。

 空中にあったリフィアとミラが、厳しい顔をして地面に着地しようとしている。

 首を切られたマレフィオアの胴体から無数の白い、何か細いものがわらわらと吹き出てきた。

 それは血や体液、内臓のように溢れ出て長く尾を引き、海洋生物の触手のように揺らめきながら、イシュルたちの方へ向かってきた。

 無数の触手のようなもの、そのあるものは蛇の頭を、あるものは人間の腕や鳥の足のような形をしていた。他に、蛸や烏賊の触手のような形をしているものもあった。

 その幾つかは剣や槍を持ち、口から生やし、盾や鏡を掲げ、首飾りを巻いていた。

 そのすべてがやつの蒐集した魔法具なのだ。

 ……あれはまずい。

 やつはこれからやみくもに、無数の魔法を放とうとしている。あいつはどういうわけか俺と同じ、複数の魔法具を同時に起動できるのだ。

 なんとなくそれがわかった。やつの肉体の一部に、“神の欠片”があるからか。

 しかしまだ、その“神の欠片”は姿を現していない。紅玉石も確認できない。

 音の消えたぼんやりとした空間、ゆっくりと、ほんの少しずつ進む時間。まだネリーの腕輪が効いている。

 イシュルは加速の魔法を切って、ネルに命じた。

「ネル、やつのすべての“腕”を切り落とせ」

 無数の蛇頭が、人間の腕が、触手が向かってくる。

 心の奥底を這う不快な既視感。

 ……この嫌悪感はなんだ?

 もちろん、見た目の奇怪さもある。だがそれだけでない。何か得体の知れない、不安感を煽ってくる……。

「なんとおぞましい」

 目の前に着地したリフィアの呻きが聞こえてきた。

 ネルの強力無比な風の刃が、化け物の無数の“腕”を根元から丸ごと、一瞬で切り裂いた。イシュルの嫌悪感も四散する。

 二度輪切りにされたマレフィオア。

 その、不自然に暗黒に染まった断面に、光点が浮かび上がる。

 ……あれだ。

 神の欠片のお出ましだ。

 徐々に大きくなる光点。全く揺らがない、強い光だ。

 父の剣の柄を握る。

 風の剣、その刃を自らの心にそわす。刃先が、その先端が、心の地平の先に、浮かんで見える。

 その実体こそは今、右の拳にある。

 剣を抜く。

 両手で、水平に構えてその刃先をマレフィオアの光点に向けた。

 間違いない。あの光が“神の欠片”だ。

 紅玉石はどこか? だが今はあれを滅するのが先だ。

 風神の剣に斬れぬものはない。

 ……恐るべき神の怨念、呪いだからもっと暗く、おどろおどろしいものだと思っていた。

 光点は急激に拡大し、白い奔流となって周囲を覆っていく。

 リフィアたちが消え、ベニトの土精の岩が消え、水面が、洞窟が、ネルやルカスが消えた。

 真っ白の、光で満たされた空間。

 風の刃を前へ突き刺す瞬間、それが襲ってきた。

 ……悲しみが。ひとりの女の慟哭が。

 

 

 


 顔も名も知れぬ女の、悲痛な叫声が終わらない。

 白い光の奥から悲哀が、苦悩が、そして尽きることのない愛が、溢れ出てくる。

 風の剣が止まった。

 ……ああ、これは。

 イシュルの喚(おめ)き声が、白い空間に響いた。

 悲しみが、満ちていく。

 はるかな昔、火神の弟バルタルと、水神の妹が禁断の恋に落ちた。

 太陽神へレスは怒り、ふたりに別離を命じ罰することにした。愛する女を諦め、へレスの命を受け入れたバルタルは、忌まわしき悪魔や悪神、魔物を統べる暗黒神、荒神に落とされた。

 へレスの命に従わず、バルタルとの別れを受け入れなかった水神フィオアの妹は、その名を奪われ滅ぼされた。地上に落ちたその欠片はやがて人間や魔物になり、最後に残った怨念や憎悪の欠片は、人がマレフィオアと呼ぶ化け物になった。

 最後の欠片は、ただ怨念、呪いと呼ぶだけですまされるものではなかった。

 その核心にあるものは悲哀、苦悩、そして憎悪の元になった愛、そのものだった。

 ……これは、まずい。

 イシュルの全身をその女の悲しみが、かつて無垢な愛であったものが突き刺さった。

 自らの心中を底知れぬ悲哀が、いやよく知った、知りつくした己れの悲しみが満ちていく。

 双眸から溢れ出る涙。尽きることのない涙。

 耐えることができない。

 全身を苦渋が這い回る。

 弟のルセルの顔が、両親の、メリリャの顔がぐるぐると脳裡を回る。

 イシュルは哀しみに打ちのめされた。

 神の欠片は、かつて女神だった女の哀しみ。愛する男を失った、名もない女の哀しみ。

 それがイシュル自らの苦渋の記憶と重なり、混じり合った。

 それこそが神の呪いだった。

 白い光に、何の成す術もなく飲み込まれていく。

 ああ、風の剣よ。

 おまえにも、斬れぬものがあったのか。

 いや、それは俺だ。俺はこれを、斬れない。

 父の剣が下に落ちる。

 ……飲まれる。

 死を、消滅を覚悟する。

 視界が、心が、すべてが白く染まっていく。

「……!?」

 その時、目の前を黒い影がよぎった。

 影は音もなく、静かに何かをつかむ。

 影は人の形になって、目の前に立ち塞がった。

 その人物は誰にともなく、嘆息してみせた。

「ああ、×××××よ……」

 低く野太い声。その呼びかけた名は音にならず、聞き取れない。

「最後に残ったおまえの欠片がこんな呪われた、哀しみと憎悪と」

 影はそこで言葉を切った。嘆きの呻き声が漏れる。

「俺への愛、だったとは」

 影は握っていたものを自らの胸に押し当てた。

 ガラスの割れるような、水晶の鳴るような音が響き、その反響が一瞬、女の泣き声に変わって消えた。

 堕神の哀しみは、影の男の胸の中へ吸い込まれていった。

 瞬間、微かな光が視界を覆う。

 男の影は続いてイシュルに顔を向けた。その手は胸に当てられたままだ。

「この欠片は永遠に、俺の中で生き続ける。……これが俺の罰なのだ。あの女の哀しみにずっと胸を焼かれ、苦しみ続ける」

 自嘲と、ほんの少しの喜び。バルタルが微かに笑った。それがわかった。

「×××××の愛に応えられなかった、最後に裏切った俺に、この呪いほどふさわしいものはない」

「あんたは、……あんたの目的は」

「そうだ。これが俺の望んでいたことなのだ。これで長年の宿願が果たせた。礼を言うぞ、小僧」

 ……ああ、そういうことか。

 確か荒神は、俺と行動を共にすれば主神へレスの干渉を受けないですむ、怒りを買わずにすむ、みたいな話をしていたのだ。

 だから……。

 荒神の目的。この神の欲するもの、それはかつて愛した女の最後に残った欠片、そのものだった。マレフィオアの“核”、命そのものだった。

 俺と行動を共にすることで、へレスの怒りを買わずに、邪魔されずに己れの願いを果たしたわけだ。

「……」

 イシュルは俯き、力なく微笑んだ。

 マレフィオアは消滅したのだ。あの化け物の源(みなもと)は、今はバルタルの胸にある。

 ……俺は結局、神の欠片に勝てなかった。

 神の呪いはただ恐ろしい恨み、憎悪、穢れだけではなかった。その核にあるものは荒神への愛、彼への思慕、その成れの果てだった。

 俺は弱い。ただの人間だ。なのに、どうしてその哀しみに勝てるというのか。

 何も抵抗できず飲み込まれ、本当に消えそうになった。

 たとえ途中で逃れることができたとしても……。

「我が悲願は成れり」

 荒神は小さな声でそう宣すると、しばらくの間、何かに耐えるように目をつぶって動かずにいた。そして再び、イシュルに顔を向けた。

「そういえばおまえはこれを望んでいたな?」

 そう言って胸に当てていた拳を開き、小さな紅い宝石をイシュルの手許に落とした。

「あっ」

 ……紅い石。紅玉石だ。

 そのカット、表面を流れる輝きはまさしくもう片方の、対となる紅玉石(ルビー)だった。

 イシュルは両手を開きその石を受け止めた。

 その瞬間、真っ白だった世界が消えて、周りは暗い、元の洞窟の空間に戻った。

 目の前のバルタルの姿が消え、イシュルの周りをミラたちが囲んでいた。

「大丈夫か、イシュル」

「やったね、イシュル」

「イシュルさんっ!」

「それは紅玉石? ……ですか」

 リフィアが、マーヤが、ニナが、そして最後にミラが声をかけてくる。

 彼女たちは、俺がマレフィオアを倒したと思っているのだ、おそらく。

 イシュルは足許に落ちた父の形見の剣を見つめた。

 あの化け物はその核を、神の欠片をバルタルに掴まれ、その瞬間に消滅した。

 両手の、手のひらの上の紅玉石を右手で掴む。

「……」

 イシュルは喉を鳴らして身構えた。

「……うっ、う、うああああああああ」

 やがてあの時と同じ、左手の甲に紅玉石がはまった時と同じ、異様な激痛が襲ってきた。 

 掌が粉々に砕け散るような、手首から先がちぎれるような痛みだ。

 歯を喰いしばり、左手で右手首を握りしめ必死に耐える。全身から嫌な汗が吹き出す。

「くっ、ふ」

 痛みが治まると右手の甲にも同じ、赤い紅玉石が浮き出ていた。

「むー、凄い」

「やったな、イシュル」

 マーヤとリフィアが感嘆の声を上げる。

「イシュルさま、ついにこの時がきました」

 しかし、一拍おいて発せられたミラの言葉は他の者たちとは全く声音の違う、厳かなものだった。

「対なる紅玉は土神の宝具を世にあらわす。そが対なる紅玉をおのおの両の手に合わせば、これ必ず地神が宝具とならん」

 ミラは歌うように、かつてクレンベルの山の上でイシュルに教えた、地神の魔法具に関わる一節を唱えた。

「ああ」

 イシュルは額に浮いた汗を拭うと、小さく笑った。

 先ほどまでの激痛に、からだが震えている。

「イシュルさん」

 すかさずニナが後ろから、イシュルの両肩に手を置き、水の魔力を流しはじめた。

「ありがとう、ニナ」

 イシュルはひと息つくと後ろを振り向き、ニナに礼を言った。

 彼女の魔法で劇的に、疲労や苦痛が治まるわけではない。だが、強張った全身の力が抜け、気持ちの良い暖かさを感じて、少しずつだが確実に癒されていくのがわかる。

「でははじめよう。地神の魔法具を今ここに、顕現させる」

 片膝をついていたイシュルは立ち上がると、周りの者たちを見回し言った。

 ……特別な呪文や祈祷の類いは必要ない。ただ思い、気持ちをぶつけるだけでいい。

 なんとなくそう、思った。

 ……地の魔法具よ。俺の前に、姿を現せ。

 イシュルは柏手を打つように、両方の手にひらを合わせてぱん、と打ち鳴らした。

 足下にはベニトの召喚したゴーレム、今はその土の精霊は去り、ただの岩の塊となっている。

 その周りの水面は、底にさらに地下深くにつながる割れ目があるのか少しずつ水量が減り、徐々に下がってきている。

 そこかしこで水の流れる、小川のせせらぎのような音がする。

 両手の甲に貼りついた紅玉石が、細かな粒となって霧のように消えていく。

 目の前の暗闇に音もなく、なんの魔力の煌めきもなく、水平に浮かぶ木の杖が出現した。

 


 マーヤの火精の杖。エリスタールに向かう街道で、雨の中出会った不思議な老人、彼が持っていた大きな木の杖。

 それはおなじみの、魔法使いの杖そのものだ。

 うねるような曲線の彫刻がなされた木の杖は宙に、水平に浮かんでいる。

「……」

 ベニトか、後ろで誰かが息を飲む音が、微かに聞こえた。

 誰も、何も言わない。

 イシュルはゆっくりと、その宙に浮かぶ杖に手を伸ばした。

 真ん中のあたりを、右手でしっかり掴む。

 手のひらに伝わってくる、確かな木の感触。

 それが一瞬で消えた。

 風の魔法具のように、金の魔法具の時と同じように、土の魔法具も何事も起きず静かに姿を消した。

「ふふ」

 イシュルは微かに笑みを浮かべた。

 ……三つ目の神の魔法具。

 俺は地の魔法具を、手に入れた。





 崩落を免れた地下神殿の端の方、石柱型の篝火に、マーヤの精霊ベスコルティーノが火を灯していく。

 もうマレフィオアは滅び、魔力を温存する必要がない、ということなのだろう。

 そして周りを、心地よい水音が鳴り続けている。

「何か、変わったことはないかの? まだ土魔法は使えないのか」

 ベニトが不思議そうに聞いてくる。

「ええ。まだ使えません。たぶん、半日くらい経ってからですかね」

 その時が来たら自然にわかる。特にからだに変化は起きない、とイシュルは続けて答えた。

 金の魔法具を得た時などで、おおよその事情を知るリフィアたちは無言で、にこにこして聞いている。

 神の魔法具は人間の肉体に同化し定着するのに、半日近く時間がかかるのだ。

「さて、水が引いてきたから。集めるよ、魔法具を」

 マーヤがめずらしく、やる気満々な声で言った。

 神殿の奥の方に溜まっていた水はマレフィオアが死ぬと、自然とさらに地下深くの方へ流れていった。

 当のマレフィアの死骸は、古代の植物や恐竜の化石のような、大きな石の塊に変わってしまった。

 切り落とされた首は割れた石ころに、胴体は地面から突き出た、先の尖った岩山のようになってしまった。

 切られた胴体の断面から吹き出した無数の蛇、腕、触手のようなものは、どこかに消えてしまい、その切れ端、断片も何ひとつ残らなかった。

 水の引いた地面には他にマーヤの言った魔法具、魔法の杖や槍、剣や盾などが幾つか、突き刺さっていた。たまにきらきらと光るのは、首飾りや腕輪、指輪の類いだろう。

「これは大豊作だな。良かったな、マーヤ」

 イシュルはにやりと笑うと、彼女に声をかけた。

「さて、では皆で手分けして集めるとするか、お宝を」

 リフィアが両手をかるくさすって、おどけた感じで言った。

 その後イシュルはベニト、マーヤ、ニナに順に手を貸し、元は四つん這いになった、ゴーレムだった岩の塊から降り、みんなで辺りに散らばった魔法具を拾い集めた。

 シャルカと、金の魔法具“鉄神の鎧”と合体したミラは、最後まで岩の上に残り、その場で変身を解いてシャルカと分離した。端の方の階段の上に置いて、なんとか生き残った荷物からニナがシャルカのメイド服の着替えを取りだし、彼女に渡した。ミラの赤いドレスは合体を解いてもそのまま、新たに着替える必要はなかった。

「大丈夫か」

 イシュルは、自力で岩の上から降りてきたバストルに声をかけた。

 荒神バルタルが神の欠片を手にした瞬間、マレフィオアは滅んだ。その後この青年に荒神らしき存在が現れることも、怪しい気配を発することもなくなった。

「あ、ああ」

 バストルはせわしなく首を振って何度も頷いた。

 そして彼は今までほとんど見せなかった、怯えた表情を時折見せるようになった。

 場所が場所、つい先ほどまでマレフィオアと戦っていた、地下神殿の最奥部なのだ。それも当然だろう。

「ひとりで離れ過ぎないようにしろよ。なるべく俺やベニトさん、リフィアのそばで行動するようにしろ」

「ああ、うん。わかってる」

 イシュルたちは、地下神殿の祭壇の奥にも広がっていた洞窟──マレフィオアの本当の棲み処で、四散した魔法具を拾い集めた。指輪や腕輪、耳飾りのような小さな宝飾品はネルやルカス、ニナの精霊のエルリーナやシャルカたちが探し出した。

 ほとんどの魔法具が破壊を免れ、まだところどころ水溜りが残る地の底に、泥の中や岩の間に挟まっていた。大物の槍や剣はまばらに、戦場跡のような寂寥感を漂わせて刃先を地面に刺し、突き立っていた。

 魔法具の多くはマレフィオアが直接所有していたものか、どれも相当なレベルのものだった。それなりの期間、師につき修行すれば間違いなく、一国の宮廷魔導師になれるような代物ばかりだった。

 マーヤたちは当然、見つけることができた魔法具を全部持ち帰ろうとしたが、イシュルは伝説級の“大物”の魔法具をひとつふたつ、わざと残しておくことを提案した。

「マレフィオアが消え、有力な魔法具もなくなったとなれば、もうこの地下神殿に潜る賞金稼ぎもいなくなるだろう。それはちょっとつまらない。カナバルの街に、彼らが来訪する機会もなくなるだろう」

 彼らが滞在することで今までカナバルに、それほど大きな経済効果があったわけではないだろう。だが、外部との人的交流が激減するのは確かだ。それは長い目で見て、あまり良いことではない。

「だからこの場に、大物の魔法具を少しだけ、わざと残しておこう。ここまで来ることができる冒険者たちなら、一国一城の主になれるような、伝説の魔法具を手にすることができるってことだ」

 ……決してゲームのように派手にはいかないが、やっぱりダンジョン探索のロマンは残しておきたい。

 マレフィオアが滅ぶ。それは慶事だろうが、一方で伝説の魔物が消え面白みのない、無味乾燥な世界になっていく。それはどうだろうか。

「なるほど、それもよかろう」

「いいよ」

 リフィアが頷き、マーヤが同意した。

「これはどうだ?」

 続いてリフィアが、両手に持っていた古びた諸刃の剣を差し出してきた。

「これはその……、ベールヴァルド公爵家のハネス殿が持っていた宝具、“武神の覚え”と同じタイプの剣だ」

 リフィアが少し表情を曇らし、言いづらそうに声を落として言った。

「ほう」

 ……俺と決闘したハネスの使った魔法具、別名“ベールヴァルドの白剣”は、手にする者を剣の達人にするという、武神の系統の魔法具だった。

「その剣はもしや、“フェミール王子の剣”、かもしれませんわね」

 “フェミール王子の剣”とは、やはり伝説の魔法具といわれるもののひとつだ。フェミールは三百年ほど前のアルサール大公国の廃王子で、若くして故国を捨て、伝説の名剣を持って各地で魔物退治を行い、幾多の冒険の果てに西方の連合王国の一国、アルテナ王国の姫君と恋に落ち結婚したと言われている。

 その伝説の剣が、なぜここにあるのかまったくわからないが、ともかく彼の得物は、ベールヴァルドの“武神の覚え”と似たような魔法剣だったと言われている。

「それはどうか知らんが……。手にすればわかる。これはかなりの一品だ」

 リフィアは錆びてこそいないが、薄汚れた地味な直刀を顔の前に捧げ持って言った。

「じゃあ、それにしようか。 “フェミール王子の剣”なら、ぜひ我がものにと、狙う奴も後を絶たないだろう」

「剣ときたらあとは盾ですわね」

 ミラが後ろに控えるシャルカを呼び、やや大きめの円盾、ラウンドシールドを差し出してきた。

「これは間違いなくウルクの頃のもの、“僧兵の神盾”、“デルテシャンの盾”ですわ」

 ミラが鼻をツンと上げ、自信たっぷりに言い切った。

「これは金系統の魔法具です。ですから、わたしにはよくわかりますの」

 “デルテシャンの盾”、というのは知らないが、かなり古いものである割には、外見がそれほど傷んで見えないのは、盾全体に金の魔法がかかっているからだろう。

 それはあまり強いものではないが、イシュルにもはっきりと感じ取ることができた。

「うっ、重い……」

 シャルカに手渡され持ってみると、イシュルにとっては存外に重たかった。

 だが両手に持ち、構えてわずかに左右に振ってみると、急に軽くなった。片手で十分に扱える重さになった。

 何か化かされたような、不思議な気分だ。

「この盾はどんな剣槍も、強力な魔法さえもはね返したと言われておりますわ」

「そうなんだ」

  ……“フェミール王子の剣”の話は聞いたことがあるが、“デルテシャンの盾”の話は初耳だ。

 だが、地下神殿の奥に二つ名を持つ伝説の魔法具、ひと組の剣と盾がある、というのはなかなか冒険心をそそる話だ。

「いいか? マーヤ」

 イシュルはもう一度、マーヤに聞いた。

 この二つの魔法具はラディス王家にとっても、得難い貴重な魔法具だ。彼女は本当に、許してくれるだろうか。

「うん、いいよ。その二つの魔法具が、今回のマレフィオア退治に対する王家からイシュルへのご褒美、にするから」

「……」

 イシュルは一瞬、呆気にとられた顔になるとむすっと、無表情になって頷いた。

「なるほど。そういうことか」

「ふふ、それはいい」

「あはは」

「イシュルさん、らしいです」

「よかったの、イシュル殿」

 皆が明るい笑い声を上げた。



「……」

 イシュルは後ろを振り向き、辺りを見回した。

 ベスコルティーノが灯した明かりが、奥から順に消えていく。

 いたるところが崩れ、水の引いた荒神の地下祭壇が再び闇に、包まれていく。

 視界の端に、バストルの屈託のない顔が見えた。もう彼に、荒神は宿っていない。

 そして正面、後方に、所どころひび割れ砕け落ち石化したマレフィオアの胴体が、手前にベニトが土魔法で盛り上げた小山の上に、“フェミール王子の剣”が突き刺さり、“デルテシャンの盾”が立てかけてあった。

 この地下洞窟の最奥に、新たに鎮座することになった伝説の魔法具だ。

 これから先、この洞窟に潜る冒険者たちはあの剣と盾を目指すことになる。

 イシュルの唇が、微かに動いた。

 ……さらばだ、大蛇の化け物。呪いの化け物よ。

 その呪いの核心は意外なことに、とても神の一部だったとは思われない、ひとりの女の愛の欠片、哀しみだった。

 確かにあれは、風の剣で斬ることができない。

 イシュルはひっそりと、寂しげな笑みを浮かべると前を向き、歩きはじめた。





 背中に担いだいかつい荷物が、じわじわと微妙な魔力を発して刺激してくる。

 地下神殿の通路は出現する魔物もめっきり減って、静寂に包まれている。時折機嫌の良い、ミラの小さな鼻歌が聞こえてくる。

 イシュルは背中に一振りの剣と、やや小さめの鉄盾を背負っていた。

 マレフィオアの消滅後、一行は祭壇に散らばった魔法具を収集し、それぞれ分担して運ぶことになった。

 主に男性陣は剣や盾、鏡や、変わったものだと鐘(かね)など大型の魔法具を、女性陣は首飾りや腕輪などの宝飾品型の魔法具を、巾着などにいれて持ち運ぶことになった。

「なんだか胸が、むずむずします」

 後ろからニナの声がする。

 彼女は皮袋に魔法の指輪や腕輪を数点入れ、紐を通して首から下げていた。

 魔法具は通常、手足に触れ、からだに身につけるとその効力を発揮しはじめる。それなりに強力な魔法具を複数、しかも密集させて身につけると、例えば肌がぞわぞわしたり、奇妙な違和感にとらわれることがあってもおかしくない。

「わたしもだ、わたしもなんだか、胸がむずむずする」

 なんの意図があるのか、リフィアがイシュルに押しつけるようにして、胸を張ってみせる。

「あらイシュルさま。わたくしもですわ」

 ミラも負け時と胸を突き上げるようにしてイシュルに身を寄せてくる。

「……」

 マーヤはなんの反応も見せず、はじっこでしょんぼりしている。

 ……彼女はな、体型がな。絶対、死んでも口に出して言えないが。

「お、俺も背中がぞわぞわするな」

 イシュルはひきつった笑みを浮かべて答えた。視線がきょろきょろと、落ち着かない。

 そこへある人物が視界の隅に入ってきた。

「バストルはどうだ? 大丈夫か」

 イシュルは後ろを歩く、その青年に話を振った。

 バストルも背中に槍を二本、穂先がややこぶりなハルバートを一本、縄でくくってまとめて背負っている。

 彼は一介の傭兵、賞金稼ぎだ。“大物”の魔法具など今まで触ったこともないだろう。

「ああ、いや。……俺は火魔法の腕輪を持っていたから、少しは慣れてる」

「うん? ……そうか。そういえばそうだよな」

 言われてみればバストルは、セグローらと手にいれた、火の魔法具を隠し持っていたのだった。

「マレフィオアとの戦いはどうだった? こわかったか」

 イシュルはついでに、という風でバストルに確認したかったことを質問した。

 その眸は今は、相手の表情のわずかな変化も見逃すまいと、じっと細められていた。

「あ、ああ。……凄かった」

「そうか。あんたも怪我しなくて、よかったよ」

 イシュルはひそかに緊張を解き、今さらそんなことを言った。

 ……イヴェダにたびたび憑依されていたらしい、レニの時とほぼ同じ感じか。

 バルタルが表に出てきた時以外、その前後のこともだいたい憶えていて、記憶がうまくつながっている……。

「むっ」

「まぁ……」

 歩きを止めることはせずとも、顎に手をやり神妙に考え出したイシュルを見て、リフィアとミラが少し不満気に顔を見合わせた。

 冗談半分とはいえ、貴族の娘がはしたない、と言われそうなアピールをしたのに、イシュルに見事にごまかされ、流されてしまった。

 マーヤとニナは微かな笑みを面上に上らせている。

 シャルカとベニトは特に何事もなく歩を進め、バストルだけがひとり、「何? どうしたの?」と困惑していた。

 一行は、神殿の回廊に接続する洞窟の前まで戻ってくると、そこで小休止し、中間の休息地点である“フィオアの壺”目指して往路を引き返した。

 イシュルはまだ、風の魔法具を手にすることになった森の魔女レーネとの一件を話さなかった。

 宮廷魔道師であるベニトはともかく、ただの傭兵のバストルには知られたくない話だった。



 それは意外に早く、地下神殿の回廊をそれて洞窟に入ってからしばらく、突然にやってきた。

 心の深いところ。いや、地中のどこかで、硬い岩の、まるで宝石の割れるような音がした。

 続いて後ろの方で、次は右、そして左。

 そこからもっともっと下、熱く大きなものが、ゆっくりと流れるさま。

 はるか遠くで、早く激しく、細く、無数に落ちていく水の音。

 それはきっと地殻の変動、奥深く、人には聞こえない大地の息吹だ。

 だが、こんなにも早く、次々と地殻の変化が起こるものだろか。

 ……そうじゃない。

 イシュルは、緩やかに上る岩場を進みながら、ゆっくりと両目を閉じた。

 時間が、ずれているのだ。これは自分の、人間の時間じゃない。土の、地の底を流れる時間だ。

 ……今、自分は悠久なる大地の底にあって、違う時間軸にいるようなものなのだ。

 無数の個の、全の、砂が、土が、石が、俺の周りで鳴っている……。

 イシュルは目を瞑ったまま洞窟を進んだ。大地を感じ続けた。

 一度もつまずき、ころぶことがなかった。

 地上では風が鳴り、地下では石塊がはじける。剣がこすれ、すぐそばで鉄が鳴り、ネルが笑いルカスが笑った。

 世界がまたひとつ形を成した。

 三つ目の神の魔法具が、三つ目の世界を成した。

 パズルがまたひとつはまり、世界が形を成していく。

 全能感に、自我が壊れそうになる。

 力は力。世界は世界。俺は俺だ。

 どんな力を手にしようと、俺はただひとりの人間でしかない。

 人らしくあれ、人らしくあれ……。

 少しずつ、ゆっくりと、すべてが定着していく。

 イシュルは両目をあけた。

 もういつでも、地の魔法を使える。それがわかる。

 暗がりの先に、小さな光点が浮かんだ。

 フィオアの壺が見えてきた。



 ひさしぶりに見る陽光。地上から漏れ差す、小さな弱い光だが大きな喜びを感じる。

「イシュルさん!」

 上部に地上につながる小さな穴があり、中央に僅かな陽が照らす空洞、“フィオアの壺”に足を踏み入れると、いきなりロミールが飛びついてきた。

 いつだったか、ユーリ・オルーラとの戦いで帰ってきた時と同じだ。

「……」

 イシュルは笑顔になるとロミールに無言で、ひとつ大きく頷いた。

 フィオアの壺には他にルシア、ミラとリフィアに付けられた王家のメイド、セーリアとノクタがいた。彼女たちも喜びもあらわに、それぞれの主人の許に駆け寄った。セルローとフェルダールもいて、彼らもバストルに歩み寄り、無事の帰還を喜び合った。

 皆、地下深くから伝わってくる激しい振動や地鳴りに、イシュルたちがマレフィオアと戦闘をはじめたこと、その後の静寂と、闇系統の魔物の出現が激減したことで、イシュルたちが勝利したことを察知し、確信していた。

 ただ前進基地、補給点の設置されたこの空洞、フィオアの壺に、隊長のフリッドはともかく、リリーナやエバンら“髭”の男たちの姿が、誰ひとり見えなかった。

「今日の朝方、連絡を受けてマリドさまは洞窟の出口へ向かわれました」

 マリドとはリリーナ、アイラ姉妹の家名だ。

「何かあったのか?」

「さぁ……」

 ロミールは詳しいことを知らされていないのか、ただ首をかしげるだけだった。

 地下ではよくわからないが、イシュルたちがフィオアの壺に到着したのは夕方近く、その後すぐに夕食が振る舞われた。みんなで火を囲み、干し肉を戻して芋などと煮込んだポトフのようなスープを食した。洞窟探検ではご馳走といえた。

「しかし、思ったより楽勝だったな」

「ええ。あのおぞましい、無数の白い蛇と触手が一斉に襲ってきた時はどうなることかと思いましたが」

「マレフィオアはイシュルからしたら、それほど強い魔物ではないんでしょ。“神の欠片”だけ、注意すればよかった」

 リフィア、ミラ、マーヤが焚き火を囲み、思い思いに戦闘時の感想を口にする。

「それにしてもイシュルはまた腕を上げたな。あまりに早く鮮やかだったので、風の剣の発動が、わたしでもよくわからなかった」

「えっ? ああ、そうかな……」

 イシュルはやや顔を俯かせ、苦笑した。

 ……俺は風の剣を発動できなかった。神の欠片は荒神、バルタルがその手で直接回収したのだ。まさに人知を超えた力だった。

 いや、神の欠片と戦うのに“力”は必要なかったのだ。神の欠片は、確かに恐ろしい呪いだったかもしれないが、それは元は女神だった女の慟哭、哀しみだった。それはただの人間の女の哀しみと、悲哀となんら変わるものではなかった。

 力とは、強さとはなんだろう。

 バルタルがいなかったら、俺は勝てなかったろう。あの嘆きを、苦悩を「斬れた」とは思えない。

 森の魔女レーネも、同じ目にあったのだろうか。

 だとしたら、彼女は負けるべくして負けたのだ。あれに勝てる“人間”はいない。

 ただ為すべくもなく、神だった女の哀しみの浸食を受けるしかないのだ。

 それが呪いであり、その悲哀が神の魔法具を振るう、心の力を奪うのだろう。

 すべての魔法具は人間の意志、精神力をもとに働くのだ……。

「どうしたんだ? イシュル」

「お疲れですか? イシュルさま」

 リフィアとミラが両側から覗き込んでくる。

「いや……」

「それよりイシュル殿、そろそろ使えるようになったようじゃの」

 イシュルが薄く笑ってごまかすと、酒をちびちびと飲んでいたベニトが声をかけてきた。

「わかりますか」

 イシュルが眸を細めてベニトを見やると、彼は「うむ」とぞんざいに頷いて酒をあおった。

「まだ気を抜いちゃ駄目ですよ、ベニトさん」

 ニナが飲みすぎるな、と注意するが、復路は明らかに魔物の出現頻度が減った。いや激減した。神殿からそれ、洞窟に入ってからは、たまに視界の端を黒蜥蜴が横切るくらいだ。

 その晩、イシュルたちはフィオアの壺で一泊し、翌日、洞窟の出入り口に向かった。



 反響する人声。篝火に揺らめく岩肌。不思議な微光を発する岩石。

 行き先に洞窟の終わりを感じる。

 もしその気になれば頭上の岩を切り開き、その場で地上に出ることもできるのだ。

 今はその力がある。

 だが出た先は、木々や大小の岩に覆われた山の中だ。

 そこからさらに山々を削り、地をならし、カナバルの街に直接向かうことだってできる。

 だが、その地は雨季になると水を溢れさせ、カナバルとその周辺の農地にも被害を及ぼすだろう。

 一見、頑強に見える雄大な山野も、それが変容し、失われればその地に住む人々の営みを破壊してしまうことになる、繊細な壊れやすい均衡で成り立っている場合がある。

 その知見は主に前世のものだ。決して地の魔法具を得て感知できるようになった、特殊な能力によるものだけではない。

 地下を歩くとそこかしこの暗がりが、心の中に入り込んでくる。

 その闇の底に、はるかな底に、赤く燃える大きな熱の塊が見えるようになった。

 地の底に、深い深い地底に息づくマグマ。星の息吹。それが地の魔力の根源なのだ。

 その強烈な力に近づくと、あの精霊の異界に「手」が届く。

 もうそこには上も下もない。

 世界を成すひとつの領域だ。

 土の領域は熱く重く、ゆっくりと動く。黒く赤く、灰色で、いつもどこかで、名も知れぬ美しい鉱物がきらきらと、音を鳴らしている。豊かな色彩の世界だ。

 風と、金と、そして土と。少しずつ異界を近くに感じるようになった。

 土の魔法は風や水よりも、火や金の魔法に少しだけ、似ている。

 ……暗黒に燃える熱の塊。それはどこかで、以前に似たものを見た気がする。

 あれは……。

 何だったろう。

 前方の出口の方から人が来る。二、三名、せわしない足取りだ。

 翌日昼過ぎ、イシュルたち一行は荷物をまとめてフィオアの壺を撤収、ロミールら留守組の者たちと一緒に洞窟の出口に向かった。

 薄い陽光の差す空洞、フィオアの壺を去る時、背後から誰かの声が聞こえたような気がして、イシュルは後ろへ振り向いた。

 ……さらばだ、風の剣。

 穴蔵の暗闇に低い声が響いた。

 ……おまえと同じだ。我は永遠にこの哀しみを、悔恨を抱き続ける……。

 その言葉はもう、洞窟を時折吹き抜ける、風音よりも小さかった。

「イシュルさん、ちょっとまずいことが起きてるみたいなの」

 気づくとすぐ前に、洞窟の出入り口から戻ってきたリリーナがいた。髭の男をひとり、従えていた。

「……」

 イシュルは、マーヤやリフィアたちも呆然とリリーナを見た。

 何があったか、彼女からはいつもの余裕が消え失せ、かなり憔悴して見える。

 洞窟の途中で立ち止まったイシュルたちの周りに、松明(たいまつ)が集まってくる。

「東の山向こうで、異変が起きているみたいなの」

 彼女もまだ詳しいことはわからない、と言った。フリッドが髭の者以外に、カナバルの街の賞金稼ぎや猟師、木樵(きこり)たちを多数雇って東方の山岳部を中心に四方に派遣し、情報を集めることにしたという。

 松明の揺らめく炎の明かりを拾って、リリーナの眸に赤く光る塊が宿った。


 

 洞窟の出口に着いたのは夕刻になった。

 みな、無事に帰ってきた。

 マレフィオアを滅し、地の魔法具を得た。

 そんな安堵と喜びに浸る間もなかった。

 岩穴の淵から、頭上に広がる夕刻の紺碧の空。その下に重厚な人影が立っていた。

「よく戻られた、イシュル殿。委細は後ほど。ちと相談したいことがあってな。まずは上に出よう」

 フリッド・ランデルがエバンを伴い、洞窟に降りてイシュルたちを出迎えた。到着を待っていた。

 この強さの代名詞のような男、フリッドからも動揺や怖れが伝わってくる。

 何か、ただ事ではないことが起こっているのか。

 ……休む暇もないな。

 イシュルは薄く笑みを浮かべると、フリッドの正面に立った。

 ニナが後ろから近づいてイシュルの右腕、肘を掴んでくる。

 傍目には不安に駆られて、というふうに見えるが実際は違う。

 水の魔力が流され、イシュルの全身がほのかに温かく、身体の硬直がとれ、緊張が薄れていく。

 新陳代謝、血流や分泌されるホルモン、脳内物質の働きを緩やかにコントロールしているのだろう。

 彼女もまた何か、戦いかわからないが、大きなことが起こると踏んでいるのだろう。

「昨日から、街の方で嫌な噂が流れ出してな、我々にご注進があった、というわけだ」

 イシュルたちは地上に出ると傍に建てられた家屋の食堂に通され、茶が出されるとフリッドが早速話をはじめた。

「東の方の山に入っていた木こりや猟師たちが、昨日の午後になって大慌てでカナバルの街に帰ってきてな。夜中に東の地平線が赤く燃えるように輝いているのが見えたそうだ。その者たちが何か、天変地異でも起こるんじゃないかと騒いでな」

 彼らの話はショッキングな噂話となって、瞬く間に街の住民に伝搬した。

「東の地平線? 夜明けの、日の出と間違えたんじゃないですか?」

「いや、まだ夜明け前の時刻だったということだ。ただ、ここからは何も見えん。夜間に山の上に登って、高いところから東の空を見ないと、何もわからん」

「それで髭の者二名と、街に滞在する賞金稼ぎや猟師たちを数名雇って、今朝方から盆地の東側、東ブレクタス山脈へ向かわせています」

 横からエバンが話を補足する。

 徒歩で中盆地からブレクタス山塊の東側の高峰に至るには、どんなに急いでも数日はかかる。 

「……」

 イシュルは無言で胸の前で腕を組んだ。

 ……何が起きているのか、よくわからない。東の大山塊で、火山でも噴火したのだろうか。

 だが大山塊までは、ここからだとかるく二千里長(スカール、約1,300km)以上はあるだろう。いくら高所からだと言え、そんな遠くの、地平線の向こうの噴火が見えるだろうか。

 大規模な噴火なら、夜間に薄っすらと地平線が明るくなる、くらいの感じには見えるか?

「うーむ」

「……」

 リフィアやマーヤたちも、要領を得ない顔をしている。

 その時、心の中でネルの声がした。

 ……剣さま、確かに東の空、かなり遠方ですが何か感じます。

 ……えっ。

 いくら風の大精霊でも、そんな遠くまで感知はできないだろう。

 イシュルは顎に手をやり難しい顔になった。

 ……やはり火山の大噴火か。カナバルの街の住民が騒ぐ通り、天変地異のようなことが起きているのだろうか。

 ……もっと何か、嫌な感じがします。

 ネルはそうじゃないんだ、というふうに強い口調で言った。

 ……嫌な予感がします、剣さま。

「!」

 イシュルが呆然として視線を泳がすと、すぐそこにミラの顔があった。

 じっとイシュルを見つめている。

「何かありましたか、お気づきですか? イシュルさま」

「あっ、……うん」

 イシュルは何となく頷くと、視線をフリッド・ランデルに向けた。

「ちょっと東の山の方まで飛んで、見てきましょう」

 ……ネルが緊張し、気を揉んでいる様子が伝わってくる。これは自分が行って、ちゃんとその目で確認してきた方が良い。

 それにこんな時は、空を飛んで偵察するのが風の魔法使いや精霊の役目だ。

「うむ、貴公に動いてもらえるとありがたい。マレフィオアも斃し疲れているだろうに、すまない。その件はマーヤ殿とベニト殿から報告してもらうから、気にしないでくれ」

 フリッドやエバンは最初から俺に見てきて欲しかったのだ。俺のその言葉を待っていた。

「大丈夫か、イシュル。疲れてないか」

 リフィアが身を乗り出して聞いてくるが、イシュルは笑みを浮かべてかぶりを振った。

 ……今回は、途中に出会う魔物たちはみな彼女たちが片づけてくれたし、マレフィオアとの決戦では、風の剣の発動も途中で止まってしまった。力を出し切っていない上に、ニナの助けもあってほとんど疲れていない。

「問題ない。ちょうど日暮れだし、高所に登ればよく見えるだろう」

 イシュルは「すぐ帰ってくるさ」と、笑顔になって続けた。

 洞窟脇の建物から出てくると、イシュルはみんなとかるく挨拶を交わし、その場で飛び立とうとした。荷物はすでにみな、ロミールに渡してある。

「……」

 そこへミラが、イシュルの袖に手をかけた。

 彼女は先ほどから、表情がさえない。

「何か嫌な予感がします。お気をつけください」

 ミラはネルと同じようなことを言った。その眸が微かに、潤んで見える。

「あ、ああ。……大丈夫。心配しないで、ミラ」

 ……別に俺ひとりで行くわけじゃない。ネルとルカス、強力なふたりの精霊がいる。

 イシュルは無理に笑みを浮かべて一同を見回し安心させると、おもむろに空中に飛び上がった。

 リフィアやミラ、みんなが手を振っているのが見える。

 イシュルはいつものごとく、周囲の空気を集め、自身の周りに球体の層をつくった。

 高度を上げると気圧が下がり、気温も下がっていく。強風にさらされると体温、体力を奪われていく。高空での肉体へのダメージを減らすための処置だ。

「ただ様子を見に行くだけなら、わたしが行きますのに」

 すっかり暗くなった夜空を、風の魔力をまとい幻想的に輝くネルの姿が現れる。

「いや、そうもいかない」

 もし火山の噴火などが起こっているのなら、自身の目で直に見ておく必要がある。

「俺には何も感じられないがな。……ん?」

 イシュルを挟んでネルと反対側に現れたルカスが不審もあらわに、首をひねった。

 周りはいつの間にか霧に、あるいは薄雲に包まれ視界はあまり良くない。

 だが明らかに、大物の魔獣らしきものが多数、近づいてくる気配を感じる。

「なるほど。何かあるとはまさか、これか」

「ふふ……」

 ルカスが不敵に笑いイシュルの右翼へ、距離を取りはじめる。ネルはむすっと無言無反応で、左翼へ展開していく。

 四方から、火龍の群れが近づいてくる。

 全部で十匹以上はいる。

「はじめるぜ、盾さま」

 ……ああ。

 耳許で聞こえるルカスの言に、心の中で返事をする。

 ……火龍は、俺たちを見張っていたのか。

 そしてやつらは、こちらに旺盛な戦意を向けてくる。やる気満々だ。

 青白く光る薄雲が視界を流れていく。

 横並びに接近してくる火龍。彼らはかなりの速度で飛んでいる。

 突然、右側の空に金の魔法が煌めいた。鋭く輝く光線が数条、横に走ると、赤く燃える火球が夜空に複数浮かび、後落していった。

 ほぼ同時に左側を、花咲くように風の魔力がぱっと開き、数匹の火龍が細かな肉片に切り刻まれていくのがわかった。

 末期の咆哮さえ、羽ばたきひとつさえ聞こえなかった。

 まだ一群、下方と上方から、挟むようにして追尾してくる火龍の群れが残っている。

 イシュルはネルのやったように、風の魔力を振るった。

 霞のかかった視界の悪い空に、細かな火の輝きが無数に瞬き、すぐに暗闇の底に沈んでいった。四散した火龍の、血しぶきが発火したのだろう。

「……」

 イシュルは高度を徐々に上げながら、前方の雲の連なりを見つめた。

 控えめな月の光を浴びて、ところどころ、ほのかに白く光っている。

 不意に、本能的な、身を切るような緊張感がわき起こるのを感じた。

 なぜやつらは俺たちを監視していたのか。そして、あの戦意。

 あいつらはマレフィオアを監視していたのではなかったのか?

 ネルの、ミラの予感は正しかった。

 ……やはり、何かあるのだ。

 それはきっと……。

 火山の噴火などではないかもしれない。

 胸騒ぎが止まなかった。

 イシュルたちは速度を上げ、ブレクタス山塊の東の山脈の尾根を目指した。



 吐く息が白い。

 少しずつ、周りに張った地上の空気の層が外側の、高空の冷気に浸食され温度が低くなっていく。

 イシュルは盆地の東側に連なる東ブレクタス山脈の、高峰のひとつに降り立った。

 硬い岩場の、足場のしっかりした場所に落ちつける。

 左右に程なく、ネルとルカスが姿を現わす。

 標高は、五千長歩(スカル、約3,500m)はあるだろうか。

 目の前の広大な眺望は夜闇と雲に覆われ、東の彼方の地平の異常を見ることができない。

「雲を払いましょう」

 ネルは事も無げにいった。

 直後に、前方の夜空を竜巻のように風の魔力が渦を巻いた。

 それが四方に解放される。

 雲海に穴が開き、霞が消えていく。

 月の光に、北側の山稜に残る雪が青白く光って見えた。

「見てください」

 ネルが東の地平線を指差した。

 地平の彼方が紅く、燃えていた。

「なっ」

 イシュルは息を飲んだ。

 ……これは、火山の噴火などではない。

 夜空の底を焼く光は、中央部分が円形に膨らみ、左右に向かって徐々に細くなって消えている。

 それは日の出や日没とも異なる、はじめて見る光だ。

 もし仮に、南北に複数箇所で、帯状に噴火した火山だったとしても、あれだけの規模であれば、自分にも何か異変を感じ取れた筈だ。

 今はもう、地の魔法が使える。その並外れた感知能力もだ。

「これはやばいな。多分あれは……」

 ルカスが唸るような声で言った。

「……」

 ネルが妖しく光る眸を、イシュルに向けてくる。

「だがなぜ……」

 なぜ今なんだ? なぜこのタイミングで?

 やつは、いったい……。

 紅く燃える地平。ここまで伝わってくる、巨大な闘気。

 俺はそれを知っている。

 だが、この滅びの予感は、はじめて感じる恐怖だ。

 この空を見た猟師や木こりがこの世の終わりと、恐れ慄(おのの)くのも無理はない。

「剣さま」

 ネルが即す。お前がその名を口にしろと。

「あれは、赤帝龍だ」

 イシュルは呆然と呟いた。

 それは途方も無い、強力な火の魔力の輝きだった。

「間違いない。やつが攻めてきたのだ」

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