白い蛇
風の精霊も、金の精霊も、誰も動かない。
シャルカとバストルの掲げる松明(たいまつ)に、ぼんやりと照らされた地下神殿の回廊。
目の前に大きな白い花が咲いた。
強い魔力に輝き、暗闇から浮き上がって見える。
その花弁の間から突起が現れ、上方へ伸びていく。まるで本物の花の、雄しべか雌しべのようだ。
突起は伸びながら変形し、人型になった。
「……」
イシュルは思わず息を飲んだ。
驚愕に襲われたのは彼だけではない。ミラとリフィアも呆然と、その異形を見つめた。
それは以前、大聖堂で召喚されたマレフィオアの分身と戦った時、もう一つの紅玉石を掌(てのひら)から見せてきた、あの出来損ないの人形のようなやつだった。
あの頭でっかちな人間のようなもの、白い何者かと同じだった。
真っ白の髪の毛が生えた、卵型の輪郭に黒い眸。無機質な、危うい造形。
その顔の下側が横に裂けて口になり、両端が引き上げられた。
ネルとルカスは、マレフィオアを前後に挟むようにして宙に浮かんでいる。
彼らも、リフィアたちも、イシュルもまだ手はださない。
皆この人間らしき形をしたものが、何かを見せ、何かを伝えようとしているのがわかるからだ。
大聖堂の主神の間での戦いで、この化け物はもうひとつの、本物の紅玉石を見せてきたのだ。対となる、地神の石の片割れを己が持っているのだと、宣言してきたのだ。
人の姿を模したマレフィオアは、その能面のような顔いっぱいに笑みを広げ、黒い眸を細めた。
瞬間、開いた口が派手に裂け、その人型が真っ二つに割れた。割れながら恐竜か鰐(わに)か、爬虫類の顎(あぎと)のような形に変形していく。
それはこれでもかと大きく開かれ……、鰐というよりは蛇のようだ。
蛇、大蛇。
それはマレフィオアの基本的な姿だ。白い、顎を大きく開けた蛇の姿。
そこから尖った何か、刃が、剣が垂直に突き出される。
表情のない蛇の目が黒く沈んでいる。剣は白く輝き、鉄製ではない。正確には剣の形をした何かだ。
だがそれはあまりに劇的、だった。
「なっ……、なんで」
イシュルは呆然と、その化け物の様態を見つめた。
心が冷たく凍りつき、全身が硬直するのがわかった。
それは森の魔女レーネが死んだ時、あの裂けた骸の中から顔を出し、その顎から剣を出してきた白い蛇と同じ、風の剣を手にした時とまったく同じだった。
喉がひりつき、声が出せない。
凍りついた胸の奥底に、燃えるような何かが疼く。
……マレフィオアよ、何でおまえがそれを知っている。
イシュルは顎を引いて、蛇の顎から浮き上がる剣を見つめた。
こいつは俺に知らせてきたのだ。レーネを、風の剣を封じたのは己だと。
……神の呪い。
俺の、皆の予想したとおりだった。こいつはそれを、風の剣にかけたのだ。
いや、正確にはレーネを通じて間接的に、風の剣を“封じた”のではないか。
風の剣は風神イヴェダの宝具だ。いかなマレフィオアの神の呪いであろうと、滅することはもちろん、完全に封ずることはできないだろう。だからその器、宿主であつたレーネに呪いをかけたのではないか。
その蛇の体躯で包み、飲み込むようにして。
だから彼女が死んだ時、その封があのような形で解かれたのではないか。
レーネが死ねば、呪いもその対象を失うことになる。
蛇、というのは今世でも、例えば神の遣い、特に水の神の遣いとして神話にたびたび登場する。水の精霊は蛇の姿態をとることが多い。
風の剣だから水神とは関係ないにしても、神々と様々なつながりのある動物の、蛇の顎から神の宝具が出現するのはおかしいことではない、と今まで考えていた。
剣に蛇が絡みつく紋章はベルシュ家の紋章であり、古代ウルクの風の神殿にも使われていた。だから蛇の顎から風の剣が出てくるのも何らおかしなことではない、と思っていた。
だがそれは間違い、思い違いだった。
いつだったか確かミラが、風神の紋章に使われる蛇は白蛇ではない、みたいなことを言っていた。
つまり、そういうことなのだ。
あの白蛇はマレフィオアがレーネに、風の剣に施した封印だったのだ。
そのためレーネは風の魔力の過半を失い、故郷の森に隠棲することになった。
彼女は身を隠し、たとえば風の魔法具を狙う危険な人物との接触を避けながら、何とか神の呪い、マレフィオアの封印を解き、己の力を取り戻そうとしていたのだろう。
そこで俺が狙われ、風の魔法具を得ることになった……。
そして赤帝龍が現れ、両親と弟が、メリリャや村の人々が命を失うことになった……。
「……」
気づくと、口の中を血の味がした。
異様な力で歯を噛み締めていた。
森の魔女。風の剣。
赤帝龍とマレフィオア。村の人々と家族、そして俺自身。
それらはみな、繋がっている。因果は巡り、どこかへ帰結していくのだろうか。
すべてが神々の、主神ヘレスや月神レーリアの図ったことではないかもしれない。
バルタルは、ヘレスが俺自身に対し異様なまでに関心を持ち、細心の注意を払っていることを示唆した。そのような意味のことを言った。
ただ荒神も、主神や月神のすべてを知っているわけではない。
俺がヘレスやレーリアに会って、直接問わなければならない。それは変わらないのだ。
喪われた多くの人々の、俺自身の運命を問わなければならない。
愛する者たちの失われた命を、己が命を神々にもう一度、量らせるのだ。
と、そこで前に立つリフィアの背中がぎりっ、と動いた。
彼女の鋭敏な感覚が、俺の心のうちに湧き上がる殺意を、心の変化を読み取ったのだ。
……そのとおりだ、リフィア。
マレフィオアはもちろん、俺が殺す。
この化け物は今まで何度か、おそらくこの場で最後に、とっておきの切り札を出して俺を挑発してきたのだろう。
だから、必ず殺してやる。
「!!」
ネルとルカス、そしてシャルカに緊張が走る。
リフィアが突然動いた。
彼女は誰よりも、精霊よりも早かった。電光のように魔力を煌めかせ、マレフィオアを斬った。
腰を沈めるとぱっくりと開いた蛇の頭、その根元を水平に両断した。
白色の魔力光が激しく揺らぎ消えていく。剣も蛇も、その下の花弁も輝きを失い、黒く沈んでいく。
輝きを失い萎んでいくマレフィオアは、レーネが死んだ時、剣を吐き出した後に茶褐色にくすんで枯れ木のようになった白い蛇と、何ら変わることがなかった。
回廊から白い輝きが失われ、以前の松明の灯りだけが残った。
薄暗い、ぼんやりした空間に浮かぶふたりの精霊は無言のまま、その場に浮いている。
誰も話さない、動かない。あれほど煩雑に出現した低級の魔物たちも今は姿を消し、静かだ。
リフィアは剣を鞘に収めるとイシュルに振り向いた。
「尋常じゃないな。大丈夫か、イシュル」
そしてすっと身を寄せ、顔を近づけてきた。
その眸にはまだ赤い輝きが残っている。武神の魔力が消えていない。
「リフィア……」
イシュルは動揺して両目を見開き、彼女を見つめた。
……やっぱり、おまえは俺の心を読んだのか。
俺の殺意に反応して、やつを斬ったのか。
「イシュルさま」
隣からミラが、左腕に手を添えてきた。
「……」
ミラも心配そうな顔で見つめてくる。
「あれは風神の紋章に似ていましたわね」
「あ、ああ」
駄目だ。うまく答えられない。
「やっぱり、イシュルを挑発してきたのかな」
マーヤも前に立って声をかけてくる。
マレフィオアが、風の神殿の紋章を真似た姿をみせてきたというのなら、確かに俺を挑発したと見るのが真っ当な判断だ。だが、それだけじゃない……。
「イシュルさん、顔が真っ青です」
ニナがミラの後ろから顔をのぞかせて心配そうに言った。
彼女はこの明かりで、顔色までわかるのだろうか。
「マーヤ殿の言うとおり、先ほどのはマレフィオアの挑発であろう。やつは貴公の風の剣を狙っておるのだ。わしはやはり、ここらで少し休んだ方がいいと思うがの」
と、ベニトの少ししわがれた声。
「いや、大丈夫です」
イシュルはベニトに向けて微笑んで見せた。
「……」
リフィアが正面から、鋭い視線で見つめてくる。その眸に松明の炎が揺らめく。
左腕に触れていたミラの手が、強い力で握り締めてきた。
「何かあるな」
リフィアの囁く声が、すぐ耳許で聞こえた。
「あの化け物が見せてきた剣は何だ? あれはただの風の紋章ではあるまい。……わたしに教えてくれ、イシュル」
「イシュルさま、わたくしがきっと、力になりますわ」
ミラも声を落として言い募る。
「う、……ん」
イシュルは僅かに唇を歪ませ、曖昧な笑みを浮かべた。
風の剣をこの身に宿すことになったあの時、その真相はまだ誰にも話したことはない。
リフィアとミラの追及が厳しい。マーヤとニナも、このまま済ませてはくれないだろう。
「確かにリフィアの言うとおり、今まで隠してきたことがあるんだ。後で、みんなに話そう」
「ああ」
「わかりましたわ、イシュルさま」
リフィアが頷き、ミラが微笑む。
「……」
以前から俺のことを調べていたからか、マーヤは曰くあり気な、めずらしく強い視線を向けてくる。彼女も何事か、思うところがあるのだろう。
ニナはいつもの、控えめな微笑を向けてくるだけだ。彼女は俺が風の魔法具をどうして手に入れたか、一般に流布されている程度のことしか知らない。リフィアたちのように、さきほどのマレフィオアの行動から疑念を抱くようなことはない筈だ。
そのことも含め、とにかく俺はみんなに、レーネから風の魔法具を手に入れた時のことを、本当のことを話す時が、話さなければならない時が来たのだ。
そろそろ潮時だ。今はラディス王家にも、魔導師にも多くの知己がいる。俺自身の知識も力も、以前とは違う。あの時のことを、真実を話しても構わないだろう。隠して自身の安全を確保する段階ではなくなった。
あの時のことを皆に話せば、マレフィオアがどうやってレーネを、風の魔法具の力を奪ったか、封じることができたか、推察することができる。そこに自らを、己の魔法具を守りながら戦う、ヒントが隠されている。
だが、今ここでレーネとの一件を話す時間はない。この頻度で魔物が出現し続けるなら、少しでも早くマレフィオアのいる場所に辿り着くのが肝要だ。
「先を急ごう。皆歩きながら聞いてくれ」
イシュルはマレフィオアが現れ、穴の空いた回廊の床を一瞥すると言った。
「詳しい話は今はできないが、やつと戦う前にどうしても、伝えておきたいことがある」
一行は再び、回廊を奥へ進みはじめた。
イシュルたちは当然、以前からマレフィオアとの戦闘について幾度となく話し合い、意見を交換し、想定し、作戦を立てていた。ただ、地下神殿の内部も含めあまりに情報が少なく、大まかなことしか決めることができなかった。
戦闘時における隊形や各自の行動、ネルとルカスの役割などがその主な内容だが、結局は臨機応変にやるしかない、というのが主要な結論のひとつとなっていた。
イシュルはそこに、先ほどのマレフィオアの挑発で新たに気づいたことをリフィアたちに説明した。
「まずひとつ目は、たとえやつの分身でも直接噛まれないように、飲み込まれないように気をつけろ、ということだ」
「直接被害を受けることを避けろ、ということだな」
リフィアは当然だ、といった顔つきで頷いた。
“神の呪い”が実在するとして、それがどんなものかはわからないが、気安く触れて、攻撃に使われてただで済むものではないことは確かだろう。
もちろん、このことは以前に、すでに話し合われたことである。
「俺が言いたいのはそれだけじゃない。白い蛇の形をとって攻撃してくる時は特に気をつけろ、ということだ」
レーネの死体から頭を突き出した白い蛇。
巨大な白蛇はやつの基本形態だが、顎から人型を出してきたり、花弁を広げて見せたり、かなり自由に姿形を変えられるようだ。だが“神の呪い”を行使する時は必ず、大なり小なり白蛇の形態をとるのではないか、と思ったのだ。
レーネが死んだ時、俺が風の剣を手にした時を再現した……いや、どのように風の魔法具を封じていたか見せてきた、先ほどのマレフィオアの行動が、そのことを強く思わせたのだ。
「でも、イシュル──」
そこでマーヤが口を挟んでくる。
「うん。二つ目はそのことだ」
やつが小技を使ってまで挑発し誘ってくるのは、俺が持つ風と金の魔法具、そしてもう片方の紅玉石を得るためだ。
あの、神の欠片を宿した化け物の目的は俺と同じだ。
五つの魔法具を揃え、世界を成す力を得て再び神々に、主神へレスと対峙するのがマレフィオアの宿願なのだ。
だからやつの攻撃の主目標は俺、他はどうでもいい存在だと考えていた。みんなもそう考えていた。
だが、マレフィオアはレーネの風の魔法具に呪いをかけることはできても、奪うことまではできなかった。レーネを地上へ、逃してしまったのだ。
やつは魔法具の蒐集家でもある。どんな形であれ、“力”を得ることに貪欲なのである。
あの化け物と対峙するのは俺だけではない。特に“武神の矢”を持つリフィア、シャルカの憑依した“鉄神の鎧”を持つミラの両名は、強烈な戦闘力を有する。
ふたりの持つ魔法具はどちらも希少で、強力なものだ。マレフィオアにとっても、垂涎もののアイテムかもしれない。
やつは例えば、彼女たちを先に攻撃し捕らえ、人質にして俺の離脱、逃走を避けようとするかもしれない。それくらいの知能はあるだろう。やつは俺の、人の心の動きを読んでくる。大聖堂の主神の間で対峙した時から、幾度も俺をからかい、挑発してきたのである。
「やつの最大の目的は俺から神の魔法具を奪うことだが、リフィアとミラの魔法具も狙ってくるかもしれない」
イシュルはマーヤから周りを歩くミラたちに視線を回し見た。
「俺はマレフィオアが君らを捕らえて、人質にしたり盾代わりにする可能性もあると思った」
先ほどの、剣を吐き出した蛇、内包していた蛇、そしてレーネに大きな打撃を与えながらも取り逃がした事実が、その懸念を思い起こさせた。
「それからこれが最後だ」
話を早く終わらせたいイシュルは、マーヤたちの反応を待たずに先へ進めた。
「おそらく俺の攻撃を受けても最後まで残るのが神の欠片、神の呪いの源(みなもと)だろう」
レーネのもっていた風の魔法具がそうであったように、もう片方の紅玉石(ルビー)も、神の呪いによってやつの体内に封じられているのではないか。
ペトラの契約精霊、ウルオミラが言っていたこともこれで納得がいく。彼女は、「“神の呪い”の力を持つマレフィオアが地神の石、つまりもう片方の紅玉石を手に入れたことで、もろもろの不都合が生じることになった」と言った。
それは要するに、地神の石が“神の呪い”によって封じられた結果、そうなったということであろう。
地神ウーメオや彼女自身の変調も、風の魔法具を封じられたレーネとよく似た状況にあるのかもしれない。
……もう片方の紅玉石もやつの体内の、神の欠片のそばに、直接関係するところにあるのではないか。
神の呪いを強く受けるような場所に。
「神の欠片が露出したら、もしそれとわかる状況になったら皆、後方に退き絶対に手を出さないようにしてくれるか」
皆には、最後は “風の剣”で勝負をつけることになるだろう、という話はしている。
だが、それだけでは心もとない。
イシュルは一同の顔を見回し、最後にじっと、リフィアを見つめた。
「……わ、わかった」
リフィアは顔を幾分紅潮させ、苦しそうに頷いた。
こういう時はいつも、もっとも好戦的な彼女が一番危険なことをする。しっかりクギを刺しておく必要があった。
「盾さま」
そこで後方から、若い男の声が聞こえてきた。
「ん?」
イシュルが後ろを振り向くと、バストルの背後の闇の中から、ルカスの勇ましい姿が浮かびあがった。
「どうした?」
「気づかないかい? 減ったんだ、悪霊どもが」
ルカスが顔を左右に振って、両肩をわずかにすぼめた。
「そういえば……」
一同がそろって周りを見回す。
松明に照らし出された回廊は、奥の方へいくにしたがい薄暗く、やがて深い闇に塗りつぶされていく。
……確かに魔物の出現が一気に減った。というよりマレフィオアが現れた後、一度も出てきて
いない。
「先ほどのマレフィオアに怖気づいて、他の魔物どもが逃げ散ったのであろう」
と、ベニトの重々しい声。
「そのようですわね」
「……なんとなく、これから先はもう、出てこないかも」
ミラに続いて、マーヤが思わせぶりな口調で言った。
彼女は勘がいい。その通りになるかもしれない。
「神殿の主祭壇も、近づいているだろうしな」
イシュルは前方の暗闇に目を凝らして言った。風の魔力の探知を伸張しないよう、じっと堪える。もうこちらの位置も動きも、マレフィオアにはすべてお見通しだろうが、まだ露骨な魔力の発現は抑える。
ここは敵地で、しかもこちらにとっては分が悪い地下だ。まだ本体と接触できていない状況で、相手を無用に刺激するようなことは控えたい。もし派手な戦闘になり、風や金の魔力を全力で使えば、この地下神殿がどこまで破壊されるか見当がつかない。
大規模な落盤、崩落が起きれば、マレフィオアとの決戦どころではなくなる。
マレフィオアは“神の欠片”、 “神の呪い”といった要素をのぞけば、それほど強力な魔物ではない。本体ではなく召喚された状態でなら、聖都エストフォルでこれまでに二度、戦っている。
全力を出すのはマレフィオア本体が現れたら、“神の欠片”と対峙する時で良い。
その時こそが、王城の練兵場で修練を重ね、工夫した新たな風の剣を試す時だ。
……前方も悪霊どもの数が減りました。そろそろ右に折れる通路に行き当たりますが……。
先頭を行くシャルカの掲げる松明の先、回廊全体が青く光り、その中にネルが姿を現した。
「その直前に魔物が二体います。両方ともリッチです」
ネルが声に出して言った。青い風の魔力を先に延ばしていく。
「ネル、そいつらは俺たちに殺らせてくれ」
「はい、わかりました」
イシュルがネルに声をかけると彼女は素直に頷き、風の魔力の進行を即座に止めた。
人型の魔物であれば魔法具を持っている可能性が高い。その魔法具を無傷で得るためには、イシュルたちで相手をした方が良さそうに思えた。
「……獲物」
「来たな」
「二体いるのなら、今度はわたしにも分けてくださいな」
マーヤに続き、リフィアとミラが旺盛な戦意を見せる。
マレフィオアとの戦闘まではなるべくイシュルの魔力を温存するよう、以前から決められている。ただ万が一、特に強力な魔物が現れれば、また話は違ってくる。
二体のリッチが昨日、フィオアの壺で現れたのと同じような実力を、それ以上の力を持っているのなら、油断は禁物である。
「ふむ」
イシュルは控えていた風の魔力の感知を瞬間、先の方まで飛ばした。
暗闇に伸びていく回廊の空間。その先にふたつ、魔力の塊が堰(せき)のようにぶつかってくる。その先に、回廊から右へ直角に道が分かれているのがわかる。
二体の魔物は互いに争う風はなく、こちらの進出を待ち構えているのが確実だった。
彼らの背後には神殿の中央部に至る道がある。荒神の神殿を棲み処とする闇の魔物たちは、侵入者をそこから先へ行かせたくないのだろう。
これがマレフィオアによるものなのかはわからない。イシュルの放った魔力に他に怪しい、大物の魔物の気配は感じられなかった。
……別に、あの化け物が絡んでいようとかまわない。ここまできて駆け引きもないだろう。
「いいぜ。君らのやりたいようにしよう」
イシュルはリフィアとミラに笑みを向けると、ネルに命じた。
「リッチの背後を風の魔力で塞げ。やつらを逃がすな」
「わかりました、剣さま」
ネルが声に出して答える。同時に、前方の暗闇に青い光が灯った。
あの光点にリッチがいる。
「では行こうか」
リフィアはイシュルに、続いてミラに微笑みかけると前へ、先陣を切って走りだした。
敵の魔物も、寒色に見える魔力を辺りに放っていた。
向かって左側に戦士型、右側に昼間のリッチとよく似た、大きなフードを目深に被った魔道師型の骸骨悪魔が立っていた。
左の戦士型は長剣にバックラー、腰を下げ右のリッチより一歩前に出ている。
「左はわたしがやる」
リフィアが誰にともなく言った。
「あれは武神の魔法具を持っている。右は──」
彼女が剣を抜く。同時に敵方の薄い水色の魔力の光に、炎の燃えるような色が煌めき立った。
「あら。あれはわたくしと同じ、金の魔法ですわね」
右側のリッチは金の魔力を放ったのだった。
そこで戦士型の魔物が動いた。その悍(おぞま)しい姿が闇に掻き消えると同時、リフィアは突然前方へ走り、二十長歩(スカル、約13m)ほど先で敵の戦士を迎え撃った。
彼女のいつもの強烈な魔力は闇の底を這うように低く放射され、巧みに制御されていた。むしろ両者の剣が打ち鳴らされた、鋭い火花が網膜を刺激した。
対照的に、敵のリッチとミラはほとんど動かず、互いに金の魔力を放出しはじめた。
ミラは片手を上げシャルカを制止すると、一歩前に出て、自らの正面に得物のハルバートを突き立てた。そして胸の前で両手を組むと顎をつんと上げ、余裕の微笑を浮かべた。
彼女の周囲に強烈な金の魔力の塊が発現した。対するリッチの周りの魔力もより濃度を増していく。
ふたりは、いやミラは回廊の破壊を恐れてか、金の魔力そのものの強さを競う、単純な力比べで相手を屈服させようと考えているようだ。
リッチも、自らの熱い魔力を充溢させていく。ミラの挑戦に、真正面から受けて立つようだ。
彼女とリッチの間を金の魔力がせめぎ合い、熱せられ、明るく光る細かな鉄片が、暗闇をきらきらと舞いはじめた。
一方リフィアは敵の力量を計っていたか、かるく鍔迫り合いを演じると、直後に力まかせに相手を突き飛ばした。
そして瞬時に、一刀の元に両断、敵の骨ばかりの体躯を四散させた。
「ふふ」
ミラも相手の力量を見切ったか、微かに声に出して笑うと自らの魔力をさらに強めた。
敵のリッチとの中間で拮抗していた二つの魔力の壁が、リッチの方へぐいぐいと押されていく。
「……、……!」
それは断末魔の叫びだったか。
リッチは人の言語とは思われない、不気味な呪詛の声を上げると同時に己の魔力を失い、マントごと塵となって消えた。ミラの魔力に抗しきれず、己の力の限界を、死を迎えたのだった。
不思議なことに、その首にかけていたらしい、大小の宝石のあしらわれた金の首飾りだけが宙に浮かび、一息遅れて下に落ちた。
「お見事!」
後ろからベニトの声がした。
「いえ、わたくしはあの骸骨悪魔の魔力を潰すことだけを、考えていただけですわ」
ミラはベニトにひとつ頷くと、続いてイシュルに華やかな笑みを向けてきた。
「マーヤ殿、これが武神の魔法具だな。刃こぼれが酷いが、なかなかの逸品だ」
リフィアがばらばらになった骨の中から、骸骨の戦士の持っていた剣と鞘を拾い上げた。
彼女も魔法具を破壊しないよう、気をつかったようだった。
「うん、ありがとう。……これで魔法具が二つ追加」
マーヤはリフィアとミラから魔法具を受け取ると、二人に嬉しそうに礼を言った。
とりあえず、武神の魔法具の剣はベニトが、金系統の魔法具の首飾りはマーヤが持つことになった。
「なるほど、感じるの」
ベニトは剣を背中に背負い、ボソッと呟いた。
感じる、とは武神の魔力のことだろう。イシュルの見たところでは、刃こぼれの方は研ぎ直せばなんとかなるレベルに見えた。
腕の良い研ぎ師に頼み元の切れ味に戻れば、その魔力もより強力になるかもしれなかった。
「ベニトさんは剣の方は?」
「まぁ、たしなむ程度にはの」
イシュルが質問すると、ベニトは小さく頷いた。
貴族の出なら、次男、三男でも剣術をきちんと習っている例も多いだろう。
「だが、これは使わんだろうな。やはり土魔法だ。慣れておるからの」
ベニトは上目にイシュルを見つめると、続けて「貴公もまず風、から使うじゃろう?」と言った。
「そうですね」
イシュルは笑みを浮かべて頷いた。
咄嗟の判断で使うような場合は断然、風魔法になる。金魔法はまだ知らないことも多いし、風と比較し使い慣れているとは言えない。
「では行こうか。右へ」
リフィアがにっこり、イシュルに声をかけてくる。
……前方は問題なしです。
……後ろも魔物が減ったな。
ネルとルカスの声も心の中に響いてくる。
直角に右に分かれる通路がある回廊は、小さなホール状になっていて、天井はドーム型になっている。右に分かれる通路は明らかに、地下神殿の枢要部へと通じているように思われた。
魔物の出現も減っている。それならいよいよ、マレフィオアとの決戦が近いということか。
「……ほう」
イシュルは足を止めて前方の暗闇を見つめ、微かに声を発した。
「……」
ネルからも似たような心の動きが伝わってくる。
やや狭くなった右へ曲がる道を進んでいくと、やがてその先にかなり広い空間があるのがわかった。
「どうされました?」
ミラがイシュルの呟きを目ざとく聞きつけて質問してくる。
「この先に何か、広い部屋があるみたいだ」
イシュルは前を見つめたまま、低い声で言った。
……だがそこはゴールじゃない。主祭壇の控えの間、みたいな感じか? その先にも広い空間があるようだ。
視覚が届かなくとも閉鎖空間である。風を流せばかなり先まで、一応は状況を把握できる。
ただ、その先の“空間”にはまだ感知の“手”を伸ばさない方が良さそうだ。
何となく、だが危険な感じがする。
ネルはそれを知ってか知らずか、何も言ってこない。こちらも聞かない。どのみちマレフィオアにこちらの正確な位置まで気づかれる、刺激する、ということで、ネルには最奥部までの探知は厳しく戒めてある。
「近づいてきたかな?」
「何となく……、水の気配がします」
リフィアとニナが続いて言う。
「水、か」
マレフィオアは元は、水神フィオアの妹であった女神の欠片であるとされる。一般に大蛇の形態をとり、水の属性が強いと言って良いだろう。
各自、警戒を強め奥へと進み、数段ほどの階段を降りて問題の広間に出た。
照明の類いはない。左右に長く、奥行きはそれほどでもない。天井もやや高くなっている程度だ。ただ、奥に並ぶアーチ状の柱の奥に、巨大な空間の存在を感じる。
「むっ」
……剣さま。
……ふふ。
まずリフィアが声を上げ、続いてネルが、そして後方を任せているルカスまでが反応した。
室内全体がオレンジ色の、暖色に輝く魔力に覆われた。燃えるような光彩が煌き、広間の中央に魔物が一体、出現する。
「おおっ」
「まぁ」
「むっ」
リフィアとミラが感嘆の声を上げ、めずらしくシャルカが、身を固くした。
そこには一匹の悪魔が直立していた。
かつて聖王国のクレンベルに滞在していた時、東の山奥で悪魔の群れを狩っていたが、あの悪魔たちとは明らかに違う、圧倒的な存在感を発散していた。
周囲を照らす火系統の魔力も、この悪魔が発するものだろう。人間よりひとまわり大きな体躯に背中から生える黒い翼の輪郭、額から突き出た太い牡牛の角。右手には厳(いかめ)しい三叉槍(さんさそう)を持っている。
その穂先からは吹き出すように炎が揺らめき、立ち上っていた。
「……」
悪魔は槍と同じ、琥珀色に燃え立つ双眸を細めると、鋭利な牙を剥き出しにして舌なめずりした。
「ふふ、そんなにわたしたちがうまそうに見えるか?」
「大悪魔、のようですわね」
「こんな凄いの、はじめて見た」
「これはバルタルの六大悪魔、ではないか。祭壇が近いのじゃろう。門番役なのだ」
リフィア、ミラ、マーヤ、そしてベニトが言った。
……六大悪魔? それは初耳だ。この世界にもその手の伝承があるらしい。
おそらく聖堂教の外典あたりに記載されているのだろう。貴族や神官でなければ知る者は少ないのではないか。
「イシュルさん……」
後ろからニナの不安そうな声がする。
「うん」
イシュルは小さく返事をしながら横目にバストルを見た。
その顔に、特に変化は見られない。
……リフィアたちはやる気満々のようだが、この悪魔はそれほどのものじゃない。さっさと片づける。バルタルの六大悪魔の話も後にまわそう。
「ネル」
イシュルはただひと言、風の大精霊に命じた。
「はい、剣さま」
イシュルの前にネルが姿を現すと同時、周囲の火の魔力が青い風の魔力に塗りつぶされた。
余裕の態だった悪魔が腰を下げ、三叉槍を両手に構える。
瞬間、大悪魔は木っ端微塵に砕け散った。
「!!」
あっという間だった。ネルの風の魔力の塊が弾けたのだ。
砕けた悪魔の破片は異様な輝きを放つ炎に包まれ、燃えていく。
「……イシュル」
「イシュルさま」
リフィアとミラが抗議するような視線を向けてくる。
「まぁ、まぁ。……先を急ごう」
イシュルは両手をあげてふたりをなだめると、表情をあらため、顔を前に向けて言った。
暗闇に薄っすら浮かぶ、アーチ状の柱の影。
その奥の、巨大な空間に目をやった。
「マレフィオアは近くにいるぞ」
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