黒白



 縦穴からは、南側と東西に一箇所ずつ、三つの横穴が伸びているが、地下神殿に通ずる最も深い穴は、西へ伸びているものだ。

 東へ伸びる穴は二十長歩(スカル、約13m)ほどで着きあたり、横に深くくぼんだ凹み程度で、南側に伸びる穴は地下神殿とつながっておらず、途中から狭まり人間の通り抜けができなくなって突き当たる。

 縦穴の周りは、岩肌に地上から垂れ落ちた蔦などの草花が重なり、幾重にも覆われている。奥から流れてくる少し湿った冷気が青葉や土の匂いと混ざり合い、どこか山奥の深い谷底にいるような、奇妙な懐かしさにとらわれる。

 水や油の入った樽、干し肉や豆、堅く焼いたパンや、布や縄類、木材など、縦穴の下に降ろされた荷物は中央に集められ、セグローら傭兵パーティが中心となって整理している。

 ブレクタス地下神殿討伐隊は、マレフィオアと直接対峙し戦う討伐隊本隊と、本隊に物資を補給し、後方の安全を図る支援隊の二隊に分かれている。本隊はイシュルにリフィア、ミラとシャルカ、それにマーヤとニナ、ディマルス・ベニトの魔導師や剣士に、荷役人夫としてバストルが加わる。

 そして討伐隊の残る面子、髭の男たちやロミール、ルシアたちメイドから隊長のフリッドまで、すべてが“支援隊”となる。バストルを除いたセグローのパーティも、後方支援の手伝いをすることになっている。

 ラディス王国宮廷魔導師、武闘派では筆頭格のフリッド・ランデルは、実はマレフィオア討伐の主力であるイシュルを当地まで護送し、地下神殿洞窟に進出後は後方を固める役目を負う、その責任者であった。地下神殿洞窟進出後、討伐隊本隊の王家としての形式上の指揮官はマーヤであり、実質の指揮官はイシュルであった。

「イシュルさま」

 イシュルやリフィアたちは洞窟に降りた後、荷物の整理の邪魔にならぬよう、端の方に寄って待機していたが、その荷物に取りついていた、まずルシアがシャルカを従えイシュルの前にやってきた。

「なんだい、ルシア」

 ルシアは今回は支援にまわり、主人であるミラとは途中までしか同行しない。

 隣のシャルカは背中に大きな麻袋や小型の木樽、縄や角材など大小の荷物をこれでもかと背負い込んでいた。

 並の人間ではとても持てない量だが、彼女は人間ではない。その本体は頑丈な鉄製の全身鎧だ。シャルカはいつものごとく、茫洋と表情の薄い顔をしていた。

「どうかミラさまのこと、よろしくお願いします」

 ルシアはイシュルに対し腰をやや落とし、深く頭を下げた。彼女の後ろ、少し離れたところには、これも大きな荷物を背負ったミラ付きのメイド、セーリアも頭を下げていた。

 ルシアに関しては、洞窟や地下神殿内では人数を絞った方がいいこと、それに彼女の疾き風の魔法が、神殿内に出現する魔物と必ずしも相性が良いとは言えないこと、等の理由で後方組にまわされることになった。

 主人と同道できない彼女は、イシュルにミラのことを頼んできたのだった。

「まぁ、ルシアったら。私は大丈夫ですわ。イシュルさまに余計な負担をかけてはなりません」

 イシュルの立っていた側、その背後からミラが進み出て、機嫌の良さそうな声でルシアをたしなめた。

「もちろん。ミラのことはまかせて──」

「ど、どうか、リフィアさまのこともよろしくお願いいたします!」

 イシュルがにこやかな顔でルシアに答えようとすると、そこへノクタの声が被さってきた。

 ルシアの背後、セーリアの横に今度はリフィア付きのメイド、ノクタが並び、やはりイシュルに懇願してきたのだった。

「あっ、うん……」

 セーリアとノクタは揃って両手を胸の前で組み、これ以上はない、真剣な目でイシュルを見つめてくる。

 二人ともミラやリフィアと関係ない、もとは王家のメイドなのだ。いや、今もそうである。

 彼女らの剣幕に気圧され、思わず口ごもるイシュル。

 その横、ミラの反対側からリフィアが前に出てくる。

「ノクタ、心配には及ばんぞ。わたしは必ず帰ってくる。イシュルにも王家にも万端、粗漏なきよう全力で取り組む所存だ」

 リフィアは一メイドに対しても堂々と胸を張り、真心を込めて答える。

「はいっ! わたくし、リフィアさまを信じていつまでもお待ち申しております」

 ノクタがその眸に今までと違った色を浮かべ、恍惚とした顔になって言った。

「……」

 イシュルは、いや当人らをのぞく全員が、無言で苦笑を浮かべた。

 ……はは。さすがリフィア。そちらの方の人気も絶大だな。

 この面倒な状況から脱出しようと、イシュルはそのまま、少しずつ後ろに下がりはじめる。

「おっと」

 と、そこでベニトにぶつかりそうになった。

「あっ、すいません」

「……」

 イシュルがベニトに謝ると、その横に立っていたバストルがつられるように、少し困ったような笑みを浮かべた。

 バストルもシャルカと同じように、後ろに大きな荷物を背負っている。

 どういうわけか、いや、イシュルの知らぬ間に何の相談もなく、地下神殿の最奥まで行く荷役人夫、運搬役(ポーター)が一名決まり、討伐隊につけられることになった。

 それは荒神自身が言っていた、バストル当人だった。

「彼女らの懇願も仕方がない。此度こそ、王家はマレフィオアを討つことができるかもしれん。それもこれも貴公の存在ゆえ、なのじゃ」

 ベニトはイシュルの謝罪に、両手で不要との身振りをしながら言った。

「いえ……」

 イシュルはベニトに対しかるく愛想笑いを返しながらも、その視線を油断なくバストルに向けていた。

 いったいいつ、どのようにして、まともな魔法具も持っていないバストルがポーターに選ばれたのか、不自然な何かの力を感じずにはいられなかった。

 イシュルはだが、バストルの選任について、あえて詮索することはしなかった。

 不思議なことに選んだ側のマーヤはもちろん、リフィアやミラたちも何も、疑問も不満も口に出さなかった。

「ふっ」

 バストルはいったいどこが姉と似たのか、控えめで温厚な性格をしていた。賞金稼ぎなどパーティのメンバーとして、一般にも好まれるタイプであろう。

 そんな男がほんの一瞬、凶悪な光を宿した視線をイシュルに向けてきた。口角が歪み引き上げられ、意味ありげな笑みが浮かんだ。

 ……おまえの考えているとおりだ。だからこれ以上、無用な詮索するな。

 イシュルにはバルタルがそう、語りかけてきたように感じた。

「さて、そろそろ出発の準備が整ったかな」

 背後から発せられた声に荒神の気配が消える。

 声の主は隊長のフリッド・ランデルだ。

 人の良さそうな顔に戻ったバストルが後ろへ退いていく。イシュルは何事もなかったように微笑を浮かべ、フリッドの前へ進み出た。

 隊長の横には残留組のリリーナがいる。

「……うん。じゃあ、出発」

 イシュルの横に立ったマーヤが周りを見渡し、いつもの平坦な口調で言った。



 先頭を行く、たくさんの荷物を背負った大きな影。

 彼女の掲げる松明が周囲の暗闇を照らし出す。その光の揺らぎが壁面を縦横に、激しく這い回る。

 多くの荷物を運搬する支援隊を含み、長い隊列となった討伐隊の先頭は、意外にもミラの契約精霊であるシャルカが務めていた。

 マレフィオアの棲み処である、地下神殿の最奥部周辺はわからない。が、それ以外の洞窟から神殿内部の大部分は、闇系統の魔物が縄張りとする領域である。

 イシュルが召還しているふたりの精霊をはじめ、マーヤの契約精霊であるベスコルティーノ、ニナの水精エルリーナなど、人間より早く魔物の出現を察知し、防御できる精霊が他にもいるわけだが、討伐隊の先頭に立つ“壁”として、強力な魔法具に直接憑依し、常に人型として実体化しているシャルカが選ばれた。

 悪霊など一部の闇系統の魔物は実体がなく、物理的攻撃を受けつけない。一方で魔力に耐性がなく、魔法攻撃に対し有効な防御力を持たない。しかし荒神の神殿とその周辺の洞窟では、より高位の闇系統の魔物、例えば骸骨悪魔(スケルトン)なども出没する。これらの魔物は魔法に対する耐性を持ち、物理攻撃も仕掛けてくる。

 シャルカは両者に対し万全の攻防力を持ち、精霊であるために魔力の供給が続く限り、人間のように疲労することがなかった。

 ちなみに、イシュルの精霊であるネルとルカスは、姿を隠し隊列の前後を広い範囲で見張っていた。

 シャルカの次に進むのはリフィア、その後にはミラが続いた。

 ふたりは松明を持たず、ミラは時々手にするやや小ぶりのハルバートを持ち、リフィアも腰に吊るす長剣に絶えず片手を添えている。

 リフィアは強力な武神の魔法具を持つ剣士だが、彼女の手にする武器だけでなく、身につける防具類も、その魔力の強い影響を受ける。彼女の振るう剣は硬化(強化)の魔力を帯びるため、闇の精霊にも充分な効力を発揮する。防具も同様なので、闇の精霊の攻撃は彼女にはほとんど効かない。リフィアは下着の上に、丈の長い鎖帷子を着込んでいる。

 ミラの得物、ハルバートも金の魔法により生成されたものなので、悪霊に対する充分な攻撃力を持つ。

 本来は案内役で、先頭を行くことになっていたセグローたちはバストルと同じ荷役となって後方に下がり、シャルカ、リフィア、ミラの三名が討伐隊の先頭グループを形成した。

 その次にイシュルとマーヤ、ニナ、ディマルス・ベニトが続く。

「ん」

 洞窟は縦横に広くなったり狭まったりするが、基本的には一人ずつ縦列になって進む。足場は悪く、それとなく道がついていても二人以上横並びで歩くのに支障がある箇所が、数多く存在する。

「ん、ん!」

 後ろからマーヤが催促してくる。

「……」

 先を行くイシュルは嫌そうな顔になって振り返った。

 つぶらな眸の少女の顔が頭上にある。シャルカの掲げる炎にマーヤの全身が揺らめいて見える。

「はいよ」

 イシュルはマーヤに両手を差し出した。

 途中に足場になる窪みはあるが、確かに彼女の身長で降りるのは、危険かもしれない。

「うん」

 マーヤが身を寄せてくる。

「んっ!」

「なっ」

 その時、彼女の杖の先端が水平に小さく振れた。

 イシュルの頭上に突然、火球が出現する。無詠唱だ。

 人の頭より一回り小さい火の玉は洞窟の天井に向かって上昇、石面を這う無気味な影に命中した。

 直後に大小の火球が四散し、石壁に激突しまた周囲に吹き飛ぶ。激しく動き明滅する輝きに視覚が眩惑され、脳髄を引っ掻き回されるような衝撃を受ける。

 天井に浮んだ黒い魔物の影は蜥蜴のような形をしていた。

 ……あれが黒蜥蜴か。

 大した魔物ではない。マーヤの小型の火球一発で完全に消え去った。

 しかし、暗闇で火魔法は刺激が強い。目をやられる。直視しないよう、気をつけないといけない。眩惑されるといざという時、こちらの対処が遅れる。

 それにだ……。

 ……すいません、剣さま。

 ……これは危険な兆候だな、盾さま。

 イシュルの心のうちに、ネルとルカスが話しかけてくる。

 ネルを隊列の前方に、ルカスを後方に配置し警戒させている。この程度の魔物の出現を、二人は見逃したことになる。いや、“この程度”だから、彼らは感知できなかったのか。

 ……周りはすべて暗闇だ。実際に動き始めてからでないと、やつらの気配をつかめない時がある。

 ……あれは隠れるのが上手なだけの小物です。それほど気にかける必要はないかと思いますが、ここはバルタルの地下神殿近くの洞窟。多少は悪霊どもに、地の利があるかもしれません。

 ネルは強気、ルカスはやや弱気。だがどちらも率直な意見で説得力はあり、ただの言い訳ですませられない。

「黒トカゲ程度なら一発だね」

 マーヤを抱え直し下に降ろすと、彼女はイシュルに得意げに言ってきた。

 リフィアやミラ、ニナら周りの者たちも「さすが火魔法」と、闇の魔物に対する相性の良さを口にし、マーヤを褒めている。

「……しかし」

 イシュルは誰にも聞こえぬよう、暗闇に向かって呟いた。

「案外、これから先、苦戦するかもしれないぞ」

 奥へ行けば強い魔物も出てくるだろう。状況によりネルたちの対応が遅れると、出会い頭の戦闘が増え危険な場面も出てくるかもしれない。油断がならない。

「……」

 イシュルは唇を一文字に引き締め、厳しい顔になった。

 頭上の岩から続いて下りようとするニナに、右手を差し伸べながら一瞬、その後方に目を向ける。ベニトの影が、さらに後ろの松明の明かりに浮かび上がる。

 その松明を持つバストルの姿までは見えない。

 荒神はマレフィオアとの闘いに力を貸すと言い、主神の目につくことを避け、「その場まで連れていけ」と頼んできた。

 つまりバルタルはマレフィオアとの決戦以外には何もしない、その時まで荒神として目立つ力を使う気がないのだ。

 だがこの洞窟と地下神殿は彼の縄張り、ホームのようなものだ。面倒な魔物との闘いを避けられるよう、彼に頼んでみるのも有効な手かもしれない。当然、闇系統の魔物はすべて彼の支配下にある。

 ……なるべく早く、どこかでふたりきりになる機会をつくらなければならない。

「イシュルさん、ありがとうございます」

 イシュルの補助で岩の下に降りたニナが、笑顔を向けてきた。

「いや、……マーヤもお疲れ。いい反応だったな」

 イシュルはニナに頷くと、前を向いてミラやリフィアと話していたマーヤの背中に声をかけた。

 いい反応、とはマーヤがいち早く黒蜥蜴の出現に気づいたことを指す。

「うん。火魔法は闇を照らす。だから発見も早い」

「なるほど。そういうものか」

 イシュルは頷きながら再び、横目に後ろを見た。

 ニナに続いて岩を降りようとするベニトの後ろに、松明に照らされたバストルの姿が見えた。



 初日、一行は日没近くまで洞窟内部を移動し、補給拠点が設けられる宿営地、通称「フィオアの壺」を目指した。

 あれから、黒蜥蜴のような低位の魔物が何度か出現したが大事に至らず、部隊は無傷で最初の目的地に到着しようとしていた。

 “フィオア(水神)の壺”は洞窟の竪穴から約七里長(スカール、約10km)、その名の示すとおり、雨期にはかなりの水が溜まる円錐状の大きな空間で、頂部には地上に伸びる隙間があり、日中はそこから外光が内部に差し込む。

 当然それほど大きな隙間ではなく、地上からも森の奥で正確な位置は確認されていない。

 だが適度な広さの空間と、昼間は周辺の洞窟内部で最も明るくなるため、探索時には中継地、休息地としてよく利用されていた。

 洞窟内部は、いたるところで地上との小さな隙間が散在し、所どころ外光が差す箇所がある。だがフィオアの壺は内部空間の形状もあいまって、上からの光がいい具合に、均等に外縁部まで拡散し、全体を隈なく照らした。

 陽の光は闇系統、特に低位の悪霊を退けるのに大きな効果があり、日中洞内を陽光が照らす“フィオアの壺”は、その奥へと進出するための有力な策源地となった。

 隊列の先頭を行くシャルカが、フィオアの壺に出る石の壁の裂け目に、足を踏み入れようとした時だった。

 「!」

 イシュルを唐突に、何かが揺さぶった。

 ……剣さま。

 脳裡にネルの、僅かに緊張した声が響く。

 ……現れました。スケルトンです。

 ネルレランケが続けて言った。

 ……洞窟の隅の闇の中から突然現れ、出てきました。

 少しびっくりしている。意外な感じがしたのだろう。

「シャルカ!」

 イシュルはシャルカの背に声をかけ、攻撃しようとする彼女を止めた。

 同時にミラ、リフィアの横を足早に通り抜け、先頭に出る。

 シャルカの横から覗き見る水神の壺。上部から柔らかい外光が降り注ぐその中央、苔むした岩場の上に、真っ黒の古いフードを被った人物がひとり、立っていた。

 重たげなマントの裾が、その人物の足元までくまなく覆っている。

 洞内は静寂で満ちていた。フードの人物の周りを、小さな蝶が舞っている。

 イシュルから距離は二十長歩(スカル、約13m)以上ある。だがなぜか、その様子がはっきりと見えた。

 ……敵です。やりますか?

 ネルの声が心の中に響く。

「いや、待て」

 イシュルは視線をスケルトンらしき者に固定したまま、口の中で素早く言った。

 固定、……ではない。釘付けになっていた。

 悪霊、アンデッドの類いであるのに、陽の光を浴びても平気なんだ?

 それともあのマントが防いでいるのか。

 不思議な光景だ。

 人気ない洞窟の奥に突然現れた、魔法使いのような外見の魔物。

「……」

 イシュルは無言で一歩、前へ出た。

 フードの奥に垣間見える、薄汚れた顎の骨、露出した歯茎。それが微かに動いた。

 笑った? 笑ったのか。

「イシュル、わたしにまかせろ」

 後ろから、幾分押し殺したリフィアの声が聞こえた。

「あれは魔法を使うぞ」

 リフィアが左から前に出る。彼女はなんと、己の剣を抜いた。

 リフィアは滅多に、よほどの敵でないと剣を抜かない。

「多分、あの骸骨悪魔はかつて宮廷魔導師だった者だ。……ほら」

 リフィアの囁く声。それに合わせるようにマントの合わせ目が動いた。尖った骨の手に握られた、やや短めのステッキが現れる。頭にはニナの魔法具と似たような、青い宝石が嵌められていた。

「風、……だ」

 イシュルは呆然と呟いた。

 美しい立ち姿。元、魔法使いだったスケルトン、いやリッチの持つ魔法具は風の系統だった。

「シャルカ!」

 後ろでミラが叫ぶ。

 と、シャルカから金色に輝く魔力が展開した。金の魔力は瞬時に、細かな無数の鉄片になる。

 ふと気づくと、リフィアの姿が消えていた。

 フィオアの壺を、武神の魔法の閃光が走った。リッチに突進するリフィアへ、風の魔力の塊が放たれる。

 ……早いっ。彼女のスピードに負けてない。

 だがリフィアに風球など効かない。彼女の剣先に触れて真っ二つに割れた風の塊が、こちらへ向かってくる。

 直後、シャルカの広げた微細な鉄片の壁が揺れた。風の塊が霧散する。

 そして音もなく、リッチの首がフードごと斬られ、洞窟の底の方へ落ちていった。

 リフィアは首のなくなったアンデッドの魔法のステッキを取り上げた。同時に、首から下の骨も崩れ落ちていく。

 さわさわと砂が崩れるような音がして、彼女の足許を細かな塵が舞った。

 ……あの風の魔導師、早かったな。

 生前は相当な遣い手だったかもしれん。

 イシュルは青い宝石の嵌まったステッキを見つめる、リフィアの姿を仰ぎ見た。

 上から微かに漏れ差す陽光が、彼女を明るく照らしている。

 とても、とても明るく感じられた。

「……早速、なかなかの風の魔法具を回収できたわけだが」

 リフィアが剣を鞘に収めると、イシュルたちの方へ振り向き言った。 

「ああ」

 イシュルとシャルカの後から、隊の者たちが続々とドーム状の空洞に移動してきた。

「うんうん。いい感じで集まってるね」

 リフィアから魔法具を受け取ったマーヤが機嫌よく頷く。

 彼女が手に持つ風系統の魔法具は、洞窟に入ってからはじめて得た魔法具だが、それ以前にバシリアから火と土、疾き風(加速)の魔法具や隠れ身、毒見の魔法具を手に入れている。

 入手した魔法具はリリーナに、でなければ隊長のフリッドに直接渡すことになっている。バシリアの持っていた火の魔法具は今はリリーナが、土はフリッド自身が持っていた。二人とも五系統の魔法の知識はなく、無詠唱で発動できるような簡単な魔法しか使えないだろうが、もちろん、それでもあるとないでは大違いだ。

 バストルが姉のバシリアの宝石箱に紛れ込ませていた、セグローらパーティの火の魔法具は今はリフィアが持っているが、この後内密にルシアに渡すことになっていた。

 万が一、地上に帰還できなかった場合を考えての処置だが、マーヤ以外に火の魔法具を持つ者がいなくなるのが、皆不安に思わないではなかった。

 だが、当のリフィアが問題ないと言い切った。討伐隊本隊で五系統の魔法が使えないのは彼女だけだが、系統外とはいえ“武神の矢”は他を圧する強力な魔法具で、その魔力の放出は闇系統の魔物に関しても充分な威力を発揮する。

 加速の魔法具など、通常の武神の系統の法具は、その魔力を外部に対して放出するようなものでなければ、闇の系統の魔物に対して有効な力を発揮できない。

 フリッド・ランデルは別格としても、リリーナやルシアの持つ武神の系統の魔法具では悪霊に対してどれほど有効な攻撃ができるか、微妙だった。

 そのために彼女らは、臨時で他の魔法具を所持することになった。

 ……まぁ、俺の持ってるネリーの加速の腕輪も、悪霊に対し有効な力は持たないだろう。「早く動くものを感知でき、同じように早く動ける」のが基本の魔法具だからだ。

「この分だと、相当の魔法具を回収できそうだが……」

「おいおい、魔法使いの骸骨悪魔が出たんだって?」

 リフィアがマーヤに対し、控えめに何か言おうとした時、後ろの方からセグローの大きな声がした。

「こりゃ、すげー魔法具じゃねえか。でも、こんなところでそんな大物が現れるなんて、今までなかったな。しかもこんな昼間に」

 セグローは背負った荷物を下に降ろすと、リフィアの持つ青い宝石のついたステッキ、風系統の魔法具に目をやり驚きの声を上げた。

「……」

 イシュルがにやりとすると、自然と一同の視線が集まった。

「マレフィオアの仕業じゃないか? 俺が近づいてくるのがわかるんだろう」

 先日、洞窟の入り口を下見に来たとき、それらしい存在の脅し、つまり挑発のような動きがあった。

 マレフィオアは元は水神フィオアの妹、その欠片だ。どちらかといえば水系統の魔物だろうが、地下神殿に巣食う悪霊どもをある程度、コントロールすることもできるのではないか。

 単純にその巨大な魔力で奥から圧力を加えれば、悪霊どもが外側へ、地表の方へ押し出されてくる、などということはあるかもしれない。

 ……このことに関しては渦中の人物、いやその存在がすぐそこにいるのだから、しっかり確認できるだろう。

 イシュルは一瞬、セグローの後ろに控えるバストルを横目に睨んだ。そしてすぐ、手前のセグローに視線を移した。

「あんたらが心配する必要はないさ。俺がもっと奥へ移動すれば、魔物たちもつられて移動するだろう、多分な」

 セグローらはこの空洞、フィオアの壺から奥へは同行しない。

「へへっ、なるほど。そうかもしれねぇ」

「その見立てで合ってるんじゃないか」

 セグローとフェルダールがイシュルに話を合わせてくる。

「このなかなか立派な風の魔法具、そしてあの宮廷魔導師。王都に帰って調べれば、誰だったか姓名も知れよう……」

 ベニトがマーヤから魔法具を受け取り、複雑な顔で呟くように言った。

「……」

 お城や、貴族の居館の広間ほどの広さがあるフィオアの壺。そこを重い空気が覆う。

「ベニトさま。その風の魔法具はわたしが一旦、預かりましょう」

 リリーナが笑顔をつくってベニトに申し出た。

 その後ろから、ロミールがイシュルに視線を向けてきた。

 その眸が促してくる。

 イシュルは小さく頷いて見せると、一同を見回し声を張り上げて言った。

「じゃあみんな、日のあるうちに野営の準備に取り掛かろう」



 天井の岩を篝火(かがりび)の炎が照らしている。

 一行はフィオアの壺で野営の準備を終え、夕食を済ませ、見張りを残し多くの者が眠りにつこうとしている。水や食糧、油などの樽や木箱、麻袋を中心に男女が左右に分かれ、それぞれ岩と岩の間に挟まるようにして横になっている。洞窟内部は地上より寒く、みな毛布に包まって寝ていた。

 フィオアの壺は地上への出入り口となる洞窟縦穴と、地下神殿の間の中継地、補給地となる要所である。一行は元王家の宮廷魔導師と思われるリッチを斃すと、すぐに宿営、中継地としての設営作業に入った。

 まず四方に篝火を設置、各所にランタンを置いて低級の悪霊の出現を防ぎ、分岐する洞穴に木板や布を被せ、岩を積み上げ塞いで、魔物の侵入を妨害する簡単な防壁を設けた。

 フィオアの壺には探索期間中、少なくとも数名は必ず常駐することになっている。討伐隊に雇われた形の、セグローのパーティの当人とフェルダール、ニセトの三名、それにリリーナと髭の者、ロミールら王家の従者たち、さらにミラのメイドのルシアが加わり、洞窟の縦穴の出入り口から補給物資を運搬しつつ、一〜二日おきに交代することになっていた。

 “壺”には女性も常駐するので、布や折りたたみ式の衝立で囲った着替えスペースなども設置された。同じ折りたたみ式の机や丸椅子なども持ち込まれ、ごくごく簡単な指揮所としての体裁も整えられた。

 ……盾さま。

 ロミールとフェルダール、二人の見張り番を除く全員が眠りについてからしばらく、イシュルの耳許にルカスの小さな呼びかけがあった。

 ……あの人間が起き上がったぜ。用を足すみたいだ。

「おおっ」

 イシュルは微かな声で唸ると、目を擦りながらゆっくりと身を起こした。

 ルカスの「あの人間」とはバストルのことだ。フィオアの壺に到着後、イシュルは彼とふたりきりになる機会をずっとうかがっていた。それで金の精霊に見張らせていた。ちなみにネルには“壺”の外側を主に、広範囲に警戒させている。

 バストルはおぼつかない足取りでふらふらと身体を揺らしながら、洞窟の隅の方へ歩いていく。

 男性用の厠は洞窟の南端の窪みの奥、鍾乳石の垂れ下がった裏側と決められている。イシュルは足許に気をつけながら、息を殺してバストルの背中を追った。

 水の滴る音。遠くで、洞窟の中を吹き抜けるほんの微かな風の音。周りの人々の寝息。

 見張りにつくロミールが無言で視線を向けてくる。

「……むっ」

 不意にバストルの背中が歪み、折れ曲がった。

 空間が切り替わる。

 音が、人や空気の気配が遠ざかる。加速の魔法が発動する時に似ている。

 歪んだ背中が元に戻り、振り向いた。

「どうした? 何か用か、小僧」

 低く不気味な、冷酷な声音が洞窟内を響き渡った。

 周囲の篝火に照らされ揺らめくその顔は、バストルのものではない。双眸に宿る炎は人のものではない。

「昼間のリッチのことだ」

 イシュルは全身に気合を入れ、臆せず答えた。

 おそらく、飢えた獣と話すのと同じなのだ。弱気になれば飲まれ、喰われる。

「ん? ああ、あの魔法使いのなれの果てか」

 その口の端がいつかと同じ、酷薄に引き上げられる。

「それがどうした」

「あの水準の魔物が、この辺りで現れるのは滅多にないそうだ。あれが俺のせいでここまで引きつけられて出現したのか、マレフィオアが後ろで動いているせいか、それはわからない」

 イシュルの眸が細められ、荒神を睨みつける。

「それで?」

 バルタルは僅かに顎を上げ、斜に見下ろしてくる。

「まさか、あんたの仕業じゃないだろうな。悪霊どもは皆すべて、あんたの眷属だろう」

「いや、俺ではないぞ。俺はあの化け物と相見えるまでは何もせん」

「俺が原因かわからないが、これから先さらに魔物の出現が増えそうだ。俺はともかく、仲間に負担がかかるのは避けたい」

 イシュルは探るような眸の色になって、荒神を見つめ続ける。

「何が言いたい」

 バルタルの笑みが大きく歪む。

「はっきりと言わせてもらおうか。道中、俺はそなたらに力を貸すことはない。もちろん、邪魔立てする気もない。そんなことをしても意味がないからな」

 荒神はそこで一息つき、改めてイシュルの顔を見つめた。

「先に申したとおり、あの化け物のところまでそなたに連れて行ってもらう。そのかわり、奴と戦う時は俺の力を貸そう。その時まで、俺は荒神として露骨な力の使用を控えたいのだ。……理由はわかるな?」

 バルタルの眸が見開かれる。

 その顔は「同じことを何度も言わせるなよ」と言っている。

「……わかっている」

 荒神の考えは一貫している。ただ単に、主神に知られたくない、その咎めを負いたくない、ということなのだ。マレフィオアと戦うまでは。

 それならあのリッチの出現も、この神が何かしてるわけではない、ということだ。

「これから現れる闇系統の魔物を、大量に葬ることになると思うが。それでいいんだな?」

「ああ。構わんぞ」

 バルタルはさめた顔で、ぞんざいに頷いてみせた。

 ……荒神は俺たちに己の眷属がたくさん殺されることに、何の痛痒も感じていない。

 本当は悪霊どもを洞窟や地下神殿から遠ざけてもらって、マレフィオアとの決戦まで極力疲労、消耗を抑えることができればよかったのだが……。

 なかなか、そううまくはいかない。

「ふふっ」

 バルタルはこちらの心を読んだのか。薄く笑うと忠告してきた。

 いや、脅してきた。

「……あの化け物は我が悪霊どもにも力を及ぼしている。気をつけるのだな」

 魔を統べる神は他人事(ひとごと)のように言った。



 

 ……剣さま。一体、二体。……さらに八体殲滅。次、足許にお気をつけください。

 ネルの言葉が意識の中へ飛んでくる。

 イシュルは岩と岩の間の影の深い、窪んだ淵に目をやった。

 ……そこです。

「あいよ」

 暗闇から浮き上がる、不定形の悪霊。

 瞬時に風の魔力をぶち当て、巻き込み潰す。

 洞窟内を吹き抜ける風に、ミラとマーヤが「あっ」、「はう」などとかるい驚きの声を上げる。

「おっ、くるぞ。前からだ」

 リフィアが剣を抜く。先頭のシャルカから金の魔法が立ち上がる。前方にぎらぎらと輝く、熱せられた菱形の鉄板が数枚、展開される。

 イシュルたちの前方、洞窟上部の影が数十の黒い塊となって垂れ下がり、蝙蝠のように翼を広げ襲ってきた。低位の悪霊の大集団だ。音が一切しない。視界が一瞬、暗黒に染まる。

 ……むっ。

 ネルの唸る声がして、風の魔力が青く光って洞窟内を覆い、そのまま前方へ高速で移動していく。蝙蝠の影は次々と破裂して消えていく。

「むんっ!」

 後方ではベニトの小さく叫ぶ声がする。斜め後ろ、下方で土系統だろう、魔力が煌めき岩の割れる硬く鋭い音が響く。岩ごと悪霊を砕いたか。

 ……ルカ、どうだ?

 イシュルは後方に占位し味方を守る金の精霊に心のうちから呼びかける。

 ……大丈夫だ、盾さま。左右の大小の洞窟は全て蓋をした。後ろは少し、楽になると思う。

 ……よし。

 イシュルは頭を下げ、不安定な足回りを確認しつつそのまま小さく頷く。

「本当に精霊さまさまだな」

 前方の悪霊の大集団を殲滅したネルの魔力を見て、リフィアが今日、何度目かの感嘆の声を上げる。

 フィオアの壺を出発してわずか数刻、イシュルたちを無数の魔物どもが連続して襲撃しはじめた。

 あのリッチほど強力な魔物はまだ現れていないが、やたらと数が多くしかも連続で、息つく間もなく波状攻撃をしかけてくる。

 ……これはしかし、まったくの想定外だ……。

 イシュルは唇を噛み締め、厳しい顔つきになった。

 朝方、イシュルは支援に残るリリーナやロミールたち、ルシア、それにセグローらと別れを告げ、地下神殿を目指して洞窟のさらに奥深くへ出発した。

 メンバーはイシュルにリフィア、ミラ、シャルカ、マーヤにニナ、ベニトに荷物持ちのバストル。精霊のシャルカを含め計八名である。

 リフィアとバストル以外、風、火、水、地、金、五系統すべての魔法使いを揃え、イシュル以外は皆、精霊と契約している宮廷魔導師の精鋭たちである。それにバストルはともかく、リフィアの戦闘力は地下の悪霊相手であっても、いささかも衰えない。

 討伐隊にはイシュルがおり、歴代王家の同部隊と比較しても何の遜色もないどころか、その実力差は歴然としている。

 ……以前の探検隊はどうだったのか。レーネの時は? まさかこんなに激しくはなかった筈だ。もし同じ目にあっていれば、少しくらいは記録が残っていてもおかしくない。いや、どんな部隊でも途中で全滅しているのではないか。

「よいしょ」

 前を行くリフィアが岩の上に登り、洞窟の奥の方へ目を凝らした。

「マレフィオアはやはり、恐れているんだ」

 リフィアが独り言のように呟いて、イシュルへ振り向いた。そしてにこっと笑う。

「おまえをな、イシュル」

「マレフィオアは地下神殿の一番奥にいるのでしょう? でしたら後ろからこちら側へ圧力をかけて、悪霊どもを追い立てているのでしょう」

 と、すぐ斜め前のミラも振り返り、会話に加わってきた。

 ミラの言は、イシュルの考えていたこととまったく同じだった。

 ……まぁ、誰でも思いつくことではある。

「うん、そうだな」

 イシュルはかるく苦笑するとミラに頷いた。

「イシュル、気をつけろよ。マレフィオアはおまえを待ち構えているのだ。この先も何か、大きな罠を張っているかもしれん」

 リフィアが声を低くして言ってくる。

「ああ」

 イシュルは再び、今度は厳しい顔になって頷いた。



「気をつけて、イシュルさん」

 “フィオアの壺”を出発するときはまた、リフィア、ミラの従者であるルシアやセーリア、ノクタらとの涙を誘う、別れのシーンが繰り広げられた。

 ロミールも心配そうな顔で、イシュルに声をかけてきた。

「ああ。後をたのむ。夜は火を手放すなよ。灯かりの近くにいろ」

 剣術はできても魔法を使えない彼らにとって、悪霊と戦う手段は火、炎しかない。

 バストルを除くセグローらのパーティに加え、ロミールたち従者もフィオアの壺に交代で詰め、寝泊りすることになる。僅かだが外光も差すフィオアの壺も、夜間は多数の篝火を焚いて、悪霊の接近を阻止しなければならない。

「はい、イシュルさん」

 ロミールが笑顔になる。

「心配しないで、イシュルさん。わたしたちでうまくやっておくから」

 横からリリーナが、これも魅力的な微笑を浮かべて言ってくる。

「……」

 少し離れルシアも、イシュルに頷いてかみせた。

 ……抜け目ない、実力も確かなリリーナとルシアがいるのだから、こちらが心配することはないだろう。

 イシュルも後顧の憂いなく、一行は残る者たちの盛大な見送りを受け、意気揚々と出発したのだが、その後の展開は、イシュルたちの予想をはるかに超えるものだった。

 洞窟は上り下りを繰り返しながら少しずつ深度を増し、周囲の暗闇はより深く重たくなっていった。

 深い闇は魔物の絶好の隠れ蓑になる。高位の精霊の探知力をもってしても発見できず、見逃すことが増えた結果、イシュルたちも直接攻撃を受け、戦うことになった。

 低位の悪霊ばかりではあるが、多数の魔物の攻撃が続く中、洞窟のやや広く、足場が水平で安定している場所で四囲にランタンや松明を立てて置き、魔物の侵入を極力防ぐようにして休憩、昼食を摂った。

 そして、雲霞のごとく湧き出る魔物たちを退けながら、午後も洞窟を奥へ進み、その日の夕刻と思われる頃に、地下神殿の一部と思われる地点に到達した。

 当然のごとく、最初に知らせてきたのは前方を警戒、魔物を排除させていたネルだった。

「少し先の方で洞窟が二股に分かれていますが、右側の方を行くとすぐ、荒神の神殿跡に出ます」

 ネルは意図的にか、他の者にも聞こえるようにはっきり声に出して言った。

「ふむ」

「おおつ」

 先を行くシャルカと後方のバストルが掲げる松明が同じように揺らめき、一同がそれぞれに感歎の声を上げた。

「魔物の気配は? 大物はいるか?」

 イシュルも声に出してネルと話す。

「特には……。小物の掃討は続けています」

「うむ、ではそのまま。地下神殿と接続する辺りは特に注意してくれ」

 絶対というわけではないが、地形が大きく変わったりする境界地点は罠がある場合が多く、注意が必要だ。

「はい」

 ……後ろの方は問題ないぜ。気になるようなことは起きてない。

 ネルが返事をすると直後にルカスが報告してくる。

 ネルは前方に、ルカスは後方に配置してある。

 ……よし。

 イシュルは心のうちでルカスに答えると、周りを見回し言った。

「もう少しで地下神殿に着く。気をつけて、頑張ろう」

 イシュルは目の前の段差を飛び降りると、今日何度目か、後ろに続くマーヤに手を差し伸べた。

「ん」

「ありがとうございます」

「いや、これくらいならわたしは大丈夫だ」

 マーヤの次にニナ、続いてベニトが降りるのを助けようとすると、彼は断ってきた。

 今まで幾度も繰り返されてきたパターンだ。

「……ん?」

 イシュルはベニトにかるく苦笑すると、頭上を見上げ岩面を走る火花を追った。

 火の魔法だ。

 マーヤから動きはなく、彼女の火精、ベスコルティーノが何かしたのだろう。

 闇の奥から出てこようとする悪霊を、火魔法でモグラ叩きのように潰していったようだ。

「ふっ、……と」

 ベニトがややもたつきながら岩を降りると、最後にバストルが軽快な動きで続く。

「……」

 イシュルはバストルの動きに一瞬だけ目を留め、すぐに前を向いた。

 バストル自身は剣の腕はそこそこあるようだが、特に何か魔法を使えるわけではない。

 本来なら、雇われ者の荷物持ちだから隊列の一番最後でいいのだが、この危険な状況では彼の実力的にも危険を伴う。

 しかしそのことに関して本人は何も言ってこないし、マーヤやベニトらも不安に思わないのか、ひと言もない。

 ただ単に後方を金の大精霊、ルカスに警戒させているから、みな問題視してないのか。いや、そんな筈はなく、明らかに荒神の正体不明の力が働いているように思われた。

 ……まぁ、バルタルが憑依している間は絶対、何があってもバストルが死ぬことはないだろうから、いいんだが……。

 しかし、ほんとに誰も、ネルやルカスさえ荒神に気づかないのはどうなんだ?

 イシュルは再び、後方の安全を確認するようなふりをして、バストルの顔をちらっと見た。

 この状況にもかかわらず、荷役の青年は何でもない顔をしてベニトの後ろを歩いていた。


 

 イシュルたちの行く洞窟は、地下神殿に接続する奥まで進んでも、人が直立して難なく歩くことができる高さ、横方向も十分な広さを保っていた。

 ネルレランケの報告があってから小半刻も経たずに、一行は地下神殿の南側を伸びる回廊に出た。途中、二股に分かれた細い方の洞窟を進み、しばらく下っていくと重厚な石積みの通路に突き当たった。

 イシュルたちの進んできた洞窟は、神殿回廊に斜めにぶつかる形で途切れていた。

 先頭のシャルカが回廊に一歩踏み入れた瞬間、彼女の手に持つ松明の炎が激しく揺れた。

「くっ!」

 同時にネルのくぐもった呻き声が聞こえ、シャルカの頭上、左右に伸びる回廊の天井から、漆黒の魔力の塊が落ちてきた。

 ……おっ。

 イシュルは小さな驚きの声をあげた。

 闇の塊はシャルカの真上だけではない、さらに奥の天井から連続して滴り落ちてくるのが感じられた。

 連続する闇の塊は落下しながら、翼のような無数の影を下に向かって突き出す。

 ……また蝙蝠の群れか?

「俺がやるっ!」

 イシュルは誰にともなく鋭く叫び、風の魔力を回廊の左右に展開した。

 洞窟の前方が青い光で満たされる。イシュルの前を行くシャルカやリフィアが黒い影になって浮かびあがった。

 ……ついでだ。

 イシュルは広げた風の魔力で回廊の先の方まで探ると、その魔力を闇の塊にねじ込むようにして開放した。

 青い閃光が瞬き、地下ではありえない、強風が吹きすさんだ。

「おおっ」

「ほっほっ」

 前からリフィアの感嘆の声と、後ろからベニトの驚きの声が伝わる。

 ……大きな魔物の気配はありませんが、お気をつけください。弱いものは絶えず闇から溢れ落ちています。

 ……わかった。

 ネルとルカスは今この瞬間も、周囲から現れ出ようとする魔物を潰し続けているのだろう。

「みな行こう。……シャルカ、気を抜くなよ」

 イシュルが大きな声で言った。

「うむ」

 シャルカは小さく頷くと回廊に進み出、左へ折れた。

「ほう」

「……」

「これが地下神殿か。感無量じゃの」

 全員が回廊に出るとリフィアが油断なく足許を、ミラがぼんやり上の方を見上げた。そしてマーヤとニナは無言で何度も左右を見渡し、ベニトは腕を組み一つ大きく頷いた。

 バストルは松明を高く掲げ四囲を見回し、変わらず警戒を続けている。

「……驚きだな」

 イシュルは少し間をおき、呟くように言った。

 風魔法の感知力で、周囲の状況は瞬時にわかる。元々は深い闇の世界だから、視覚を伴うものではないが、回廊の形状を触覚の延長のような感覚で認識できる。

 ブレクタスの暗黒神、荒神バルタルの地下神殿。その外郭に当たるのか、南側回廊はイシュルの想像していたものと少し違っていた。

 天井はやや高く十長歩(スカル、7m弱)以上はあり、曲面になっているようだ。通路の幅は八長歩(約5m)ほどで、魔物と戦うには狭く、戦闘はかなりやりにくい。

 洞窟から見て回廊の左側はかなり先まで続いており、驚くべきことに天井や側壁の崩落はほとんどなく、床面の陥没なども目立つものはなかった。

 だがもう一方の右側は、だいたい五十長歩(30m以上)ほど先で土砂に埋まっており、その先の状況は分からなかった。

「右側の方ですが……」

「だいぶ奥深くまで土に埋まっておるの」

 イシュルがベニトに声をかけると、土の魔導師は即座に答えてくれた。

 ……剣さま。神殿は左側に続いています。あの化け物は左の奥の方にいると思います。

 ……いい加減マレフィオアも気づいているだろうが、無理に感知の幅は広げるなよ。危険だからな。

 ネルがずばり、最も知りたいことを教えてくれるが、イシュルは以前から注意していたことを念押しした。

 回廊の先は右も左も暗闇に包まれているが、風を吹かせればかなり先まで感知できる。だが、それはマレフィオアを直接刺激し、あるいはこちらの正確な位置を教えてしまうかもしれない。

「とにかく、奥まで長く続いている方を行くしかないだろう」

 と、リフィア。

「左側の方が怪しい。このまま進めばいいと思う」

「うん、……その方がいいかも」

シャルカとマーヤの意見も一致する。目を合わすと、ミラとニナも頷いた。

 ベニトはもう左側の、通路の続いている方を行くと決めているようだ。

 バストルは一歩引いて、何も言わない。

「……」

 マーヤが無言で魔法の杖を下ろした。その先を炎が走り、ちらちらと何度か輝くと不意に消えた。

 おそらく魔物の気配がしたので、床面にかるく火魔法を流したのだろう。

「では、左側を行こう」

 イシュルは皆の顔を見渡し言った。

 もう地上は日が暮れている頃だ。先を急がなければならない。



 ネルの報告によると、イシュルたちの進む回廊は地下神殿の南端を北東から南西に、一直線に横断しているように思われた。

 つまり長く続く回廊の奥、例えば行き止まりで右に折れるような通路が見つかれば、マレフィオアがいるとされる、神殿最奥部に到達すると考えられた。

 暗闇に沈む回廊は、イシュルの予想を超えるものだった。

 四囲を頑丈な石積みで構築された通路は、天井からの崩落や壁の剥落などがほとんど見られず、歩行に邪魔なものは存在しなかった。

 天井は大陸の王宮や大神殿によく見られるアーチ状に曲折したもので、相当古いものにもかかわらず、かなり高度な技術で造られているように見えた。

「ふん、……と」

 リフィアが左方の壁から出現した悪霊を斬り伏せ、言った。

「古い地下遺跡の割に、あまり埃が立たないな。これは助かる」

「……くっ。そうですわね」

「それ……は、まずい、かも」

「何が、うっ、ですか」

 リフィアに続いてミラ、マーヤ、ニナが、周囲から湧き上がる黒い影、悪霊をそれぞれの得物や魔法で潰しながらひと言ずつ話を続ける。

「魔法具のことか、マーヤ」

 イシュルが、周りの暗闇を見渡しながら会話に加わる。

「そう。もう、バシリアから幾つか手に入れてるから、何とかなると思うけど。……むっ」

 マーヤの杖が右側の壁に突き出され、その先から炎が放射される。

 壁面から膨らんだ黒い影の塊がマーヤの火魔法に炙られ、さっと溶けるように消えていった。

 どれも、ネルやルカスの見逃した魔物だから小物だが、何度叩き潰しても尽きることなく闇の中から湧き出てくる。

「雨季にはこの回廊にも、かなりの量の雨水が流れ込む……となると、地面に落ちた魔法具もその時流されてしまうだろう。埃が少ないのも、そのせいなんだろうな」

 ……床面に大小の石や木の枝など、堆積物がほとんど見られないのも、大半が途中の洞窟で留まるからだろう。あるいは水流に関係する、何らかの神殿の構造上の理由が他にあるのかもしれない。

「フィオアの壺で現れた、骸骨悪魔のような魔物から魔法具を奪うしかない、ということか」

 と、リフィア。

「いや、どうだろう。水の届かない、高い箇所もあるかもしれないし、断定はできないと思うが」

 ……セグローたちは十中八九、案内した傭兵団から魔法具を奪ったんだろう。所属の魔法使いが死んだ時、例えば戦闘中の混乱時にでもくすねたんじゃないか。

 すぐ傍にバストルがいたので、イシュルはその考えを口には出さなかった。

「剣さま」

 ネルの声とともに、回廊の先が何度目か、風魔法の青い魔力の光で満たされる。

「この先で二カ所、神殿中央部に伸びる横道があります」

 ネルが半透明で、薄っすらとイシュルたち一行の前に姿を現した。

「そろそろ近づいてきたかもな」

 続いてネルの反対側に、ルカスが姿を現わす。

「ふむ、……そうか」

 いよいよか。神殿中央部に進めば、マレフィオアと遭遇する可能性も高くなる筈だ。より注意して進む必要がある。

 ネルとルカ、ふたりが揃って姿を現したのはそういうことだろう。

「ところでイシュル殿」

 そこでベニトが、イシュルをまっすぐ見据えて声をかけてきた。

「もう地上は夜も遅いじゃろう。今ここで、仮泊して休息をとっておくべきだと思うがの」

「そう、ですね」

 ……確かにここまで、小物ばかりとはいえ絶えず戦闘が続き、地味に消耗を強いられている。

 このまま進めばマレフィオアと戦闘するのが翌日、地上では日が昇るような時間帯になるかもしれない。みな相当、疲労が溜まる頃合いだ。

 今ここで、皆が交代で仮眠をとり、休息をとるべきかもしれない。

 だが、魔物の出現は相変わらずだ。たとえ見張りを多くしても、まともに眠ることができるだろうか。

「ベニト殿。わたしは反対だな。マレフィオアは明らかに消耗戦を仕掛けてきている。ここはむしろ歩速を上げ、やつとの決戦を急ぐべきだ」

「わたしもリフィアさんの意見に、賛成ですわ」

 リフィアの積極策に、ミラも乗ってきた。

 マーヤはじっと考えこみ、ニナはきょろきょろと周りを見回して、迷っているようだ。

「ベニトさん。休息するにしても、これだけ魔物が現れるんじゃ、ちょっと厳しいんじゃないですか」

 イシュルは休息するのに一番問題の、懸案事項をベニトに質問した。

「うむ。それには考えがある」

 ベニトは何度か頷くと、胸の前に腕を組んで言った。

「わたしの土魔法でこの回廊を一度、土壁で塞ぐのだ。通路の前後を壁で遮断し、松明の灯りを端の方まで行き渡るようにする。さすれば小物の悪霊の出現をだいぶ抑えられよう。貴公の精霊の働きもあるし、かなり安全に休める筈じゃ」

「なるほど」

 ……これは考えどころだ。

 ベニトの言うとおりにやれば、みんなの休息も確実に取れそうだ。

「どうする? イシュル」

 リフィアの眸が訴えかけてくる。

 彼女は自らの意見を変える気はないようだ。

「うーん」

 確かにリフィアの言う、速戦即決も理にかなっている。消耗を避ける、との考えはどちらも同じなのだ。

 それに彼女は独自に戦機、みたいなものを感じ取っているのではないか。

「……」

 一方ミラは無言のまま、むしろ場違いな優しい視線をイシュルに向けてくる。

 俺は……。

「そんなこと決まっているだろう」

 その時、重い声が後方から聞こえてきた。

 松明に照らされ、暗闇に浮きあがるバストルの顔。

 だがそれは傭兵の、ただの青年のものではなかった。

「おまえ……」

 イシュルは、誰にも聞こえないような声で呟いた。

 今、荒神バルタルが彼の面(おもて)に現れている。

 場に一瞬の静寂が訪れる。魔物は現れない。誰も反応しない。何も言わない。

「ここは一旦、休むべきだ。あの化け物と戦うのだ、力を残しておかないとな」

 その顔に異様な笑みが浮かぶ。

 不気味に光る、悪神の双眸。

「イシュルよ。そうであろう?」

 ……誘ってくる。

 それは破滅の誘いか。

 おまえは、今は俺の味方ではなかったか。

 これはこの神の気まぐれ、戯言ではない。荒神とはこういう存在なのだ。

 ごく自然な、当たり前の振る舞いなのだ。

「……」

 思わず笑みが浮かぶ。自分が笑ったのがわかる。

 バルタルめ。おまえの言うとおりになど、するものか。

「行こう」

 イシュルは笑みを柔らかくするとミラたち一同を見回した。

「休まず先を急ぐ。一気に決着をつけよう」

 松明の、炎の揺らめき。

 光と影の交錯に、現実が戻ってきた。

 リフィアやミラが小さな歓声をあげ、マーヤたちが揃って頷く。

 その背後で荒神はひっそりと気配を曖昧に、バストルの内側へ、彼を突き抜け闇の底へ姿を消していった。

「……!!」

 と、次の瞬間。

 やはり動きの止まっていた風と金の、ふたりの精霊に動揺が走った。

「なにっ」

 イシュルは本能的に前を向き、身構えた。

 地面がガッガッと鋭く揺れ、回廊の床が轟音とともにひび割れた。

 目の前を薄い水色の、魔力の光が満ちる。

 イシュルの決断を待っていたのか。

 ……まるで計ったように。

 暗闇に、大きな白い花が咲いた。

「マレフィオア!!」

 イシュルの後ろで、誰かの叫ぶ声が聞こえた。

   

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