石礫



 人いきれ。

 喧騒が広場を渦巻く。

 門前にひとり、男が立つとそれがぴたりと止んだ。

 群衆はみな一点を、その男を見つめた。男は手に持つ巻紙を広げた。 


──ラディス王の忠実なる臣である同王家宮廷魔導師にして、マレフィオア討伐隊隊長フリッド・ランデルは、カナバル住民に対し、以下の布告を行うものである──。


 イシュルが眠りから覚めた日の夕刻。

 カナバルの城館北西側に面した街一番の広場、通称「城市広場」において、ラディス王国マレフィオア討伐隊の長(おさ)、フリッド・ランデルは街の住民に対し、同城館占領後初の布告を行った。

 広場の東端、城館の門前に直立し巻紙を広げ、いかにもそれらしい声を張り上げているのは “髭”の男たちのひとり、エバン配下の者だった。


 ──予、フリッド・ランデルは麾下部隊をもって本日、不当にカナバル城を占拠し同市を支配していた盗賊団、「バルタルの穴蔵団」を討伐、これを滅ぼした。

 予はここに、ラディス王の名において同カナバル城市解放を宣言する。

 ラディス王国は同カナバルの住民を保護し、市内の情勢が落ち着き次第、同市の施政を返還する予定である。なお、その前に盗賊団の長(おさ)たる罪人、バシリアの処刑を執行する。

 当罪人の処刑は五日後夕刻、午後二刻に城市広場にて執り行われる。もし当人の処刑に不服のある者、バシリアの身元引受等主張する者があれば、前日までに予の元へ委細申告することとする。

 同様に市中において公事訴訟沙汰あれば遠慮なく申し出よ。

 なお今から名を呼ぶ者は明日、日の出二刻にカナバル館に出頭せよ──。

 

 バシリアの処刑が発表されると、広場に集まった人々からざわめきが起こった。それも“髭”の男が、城に召集する三名の人物の名を呼び上げるとすぐに静まり、あとはひそひそと小声で話す声がまばらに聞こえるだけになった。

 布告の文章は形式にこだわり、街の住民にはいささか難解でわかりにくい。小声で話す者たちは、意味のわかる者がわからない者に、布告の内容を教えているのだと思われた。

 イシュルは布告を読み上げる髭の男の斜め後ろ、数歩ほど離れた城門の端の石壁に背を預け、胸の前に腕を組み俯き加減に広場に集まった人々の様子を見ていた。

 その姿は討伐隊に所属する者ではあるが、明らかに毛色の違う、誰の目にも外部の傭兵と映る、微妙に違和感を伴うものだった。

 城門の前には他に、イシュルの反対側にもうひとり髭の男が控えるだけだった。

 城壁のどこかでマーヤが身を潜めるようにして広場全体を観察している筈だが、ランデルと他の討伐隊の面子はこの場にはいない。

 支配者はこういう場に気安く姿を見せたりはしない。

 ……この人々はあの女盗賊をどう思っているのか。そしてこの中からどんなやつが、あの女に喰いついてくるのか。

 髭の男が読み上げた者は三名。いずれもギルド長など、街の世話役を務める有力者だ。

 殺されたサリオの代わりになる者が、彼らの中から見つかるだろうか。

 陽は西に傾き、広場を囲む建物の影にすっかり、隠れようとしている。

 赤い輝きが、光が人びとを、その横顔を照らしている。

 ……彼らがバシリアの処刑をどう思うか。

 人びとを照らす赤色が、不吉な予感を呼び起こす。

「……」

 イシュルは背後の石壁から身を起こすと、鉄扉の横の小さな通用口から城内に入った。

 広場の喧騒が瞬く間に、嘘のように消え去った。



「……神に召されし御霊の、善き精霊と成りて永久に神々とともにあらんことを」

 薄暗い室内に響く神官のその言葉を最後に、室内に跪いていた一同は一斉に立ち上がった。

 リリーナが神官に近寄り、何事か話しかける。

 壮年の神官はぎこちない笑みを浮かべ、彼女にせわしなく頷いている。落ち着きがなく威厳に欠け、あまり神官らしく見えない。

 城市広場に面する神殿はカナバルの街の主神殿であるが、聖堂教会から派遣され常駐する神官はいない。

 そこそこの規模の街であっても山奥の僻地にあるため、教会から神官が派遣されることは稀で、通常は街の主だった者が交代で神官役を務めている。要はベルシュ村など、田舎の小さな村々と同じである。

 布告のあった翌日、バシリアとの戦闘で死んだシーベスら髭の者二名と、盗賊団の幹部だったサリオの葬儀が行われた。

 この後、王国の民であるシーベスらも、カナバル郊外の墓地に埋葬されることになっている。形見となる僅かばかりの貴重品や刀剣類、さらに切りとられた毛髪の一部のみが祖国に還ることになる。

 リリーナと神官は変わらず、神々の立像が並ぶ奥の方で話し込んでいる。その反対側、出入り口に近い方ではランデルやマーヤと、外から遅れて入ってきたエバンが話している。

「イシュル殿、これから城に呼びつけた街の者たちと、会うことになっているのだが」

 イシュルがリフィアたちと彼らの横を通り抜けようとした時、ランデルが声をかけてきた。

「貴公も立ち会うか? どうする?」

 ランデルはすっとイシュルの傍に寄ると、声を落として聞いてきた。

「はあ、そうですね……」

 イシュルは首を傾け顎をひねり、考え込む仕草をした。

 ……ランデルの言っているのは昨日の布告にあった、街の有力者三名を城館に呼びつけ、これから面談するという話だ。それに俺も同席するか、と彼は聞いてきている。

 本来なら調略をかけていた穴蔵団の幹部、サリオが行う仕事だった。それが彼の死で、こちらで街の治安を安定させなければならなくなった。いや、正確にはこれから面談を行う者にサリオの代役を務めてもらう、それができる者を選び出す、ということになるのか。

 こういう一種の占領政策は、セオリーのようなものがあってだいたいやり方が決まっている。

 新しく領主や国主となった者がその地に赴いて、はじめにやることは何か。自らが支配することを領民に宣し、武威や権威を示し、次にその地に勢力を張る有力者を手なずけ、あるいは滅ぼすことである。法や税を定めるのはその後のことになる。

 これらのことは自らも貴族であり、あるいは領主家の出であるランデルやマーヤ、ディマルス・ベニトなら百も承知のことで、彼らのやることにいちいち口を挟む必要はないし、興味もない。

 ……だが。

 この時、イシュルの脳裡に浮かんだのはバシリアとバストルの姿だった。

 バシリアの処遇については街の住民らの動向、政治上の問題の他に、腹違いの弟であるバストルの意向も考慮しないといけない。バストルには今、あの存在が憑依し影響を及ぼしている。一傭兵に過ぎない弟のことなど気にせず死刑にしてしまえば良い、とはならないのだ。

 それにバシリアの処刑には、これから面談する街の有力者にも意見があるだろう。彼らにも何らかの思惑があるだろう。

 それらのことが、バストルの心情に悪影響を及ぼすことがあってはならない。

 癪なことだが、バルタルの機嫌が悪くなるようなことは避けなければならないのだ。

「……せっかくですし、俺も立ち会います」

 イシュルは微笑を浮かべてランデル、マーヤの顔を見回した。

 ……いいも悪いもない。荒神とバストルに絡んでくるなら無視できない。

 イシュルは微笑みの裏で、心のうちでしっかり渋面になった。

 一同は揃って神殿を出ると街一番の広場を横切り、反対側に面する領主館に向かった。

 時刻は昼過ぎで、広場には幾つか屋台が並び、行き来する住民のほかに多くの子供らが遊んでいた。

 イシュルたちが広場を歩いて行くと、街の者はみな足を止め見つめてくる。

 子供はもちろん、大人もあまり物怖じせず視線を向けてくる。一同は面上に苦笑を浮かべ、街の者のいささか無遠慮な視線をやり過ごした。彼らはイシュルたち、新たな支配者に対する怖れよりも興味や関心、もの珍しさの方が勝っているように見えた。

「ねっ、おじさん」

 一同の男たちの中では一番声をかけやすかったのか、広場を駆け回っていた男の子がひとり、イシュルに近寄り声をかけてきた。

「むっ」

 ……俺はおっさんじゃない。中身はそうでも外見は違う。

「どうした? 何か用か」

 むっつりと黙りこくるイシュルにかわって、リフィアが進み出て子供の前にかがんだ。

「お城の半分を吹っ飛ばした、すごい魔法使いって誰?」

「……」

 一瞬、イシュルとリフィア、ミラが視線を交わした。

 それは確かに、街の住民らの話題になっているだろう。

「それは、ね」

 ニナが子供に近寄り、イシュルか、誰かの名を言おうとする。

「さて、誰かな?」

 イシュルは素早く割り込み、子供の頭に手をやった。

「それは秘密だ」

 笑みをつくって頭をなぜる。

 ニナがはっとした顔になった。街の住民たちにも、神の魔法具を持つ者の話は伝わっているだろうが、それが誰か、わざわざこちらから知らせる必要はない。ラディス王家の武威はもう充分に示したろうし、イシュルも外見まで特定されたくはない。

 ニナたち、この世界、この時代の人間は基本、個人情報などに気を使わない。何か事情があって隠す必要があるならともかく、何の制約もないのならむしろ神の魔法具を持つことを名誉と考え、他に知らしめようとする。

「……」

 何となくぎこちない空気になりかけたところで視線を泳がすと、すこし離れたところで一緒に遊んでいた子供らが固まり、イシュルたちの方を見ていた。

 男の子ばかり五人、十の瞳。

「おじさんたちはいそがしいんだ。またな」

 イシュルが顎をしゃくって離れて待つ子供らを指し示すと、目の前の子は「うん」とひとつ頷き、仲間の子らの元に戻っていった。

 ……子供らのあの目。

 イシュルはニナたちと並んで歩きながら、周りをぼんやりと見やった。

 子供たちにも多少の怯えはあるようだが、大人と同じで屈託がない。

 イシュルたちラディス王家の討伐隊は、カナバルの街の者から無用に怖れられてもいないし、憎まれてもいない。だが、解放者とも思われていない。諸手を上げて歓迎されているわけではない。

 街の住民でバルタルの穴蔵団、バシリアを嫌う者は少なくなかったろうが、それも決定的な反発を生むほどではなかった。

 ……つまり俺たちも、バシリアら盗賊団よりは幾分まし、程度にしか思われていないってことだ。

 住民は支配者が替わることに慣れている。それで自らの生活が良くなるわけじゃないと、よくわかっている。醒めているのだ。

 そこにはただよそ者への、例えば異国の魔法使いに対するありきたりな興味しかない。

「ふむ、……なるほどな」

 イシュルは誰にも聞こえない、小さな声でひとりごちた。

 バシリアの処刑も案外、住民の反応は薄そうだ。

 後はこちらでバストルを納得させるだけ。すべて大過なく、無事終わるだろう。

 きっとその時も住民は同じ、醒めた視線を向けてくるだけだろう。

 彼らは支配者の交替に慣れている。

 たぶん処刑にも。



 城館に戻ると一階の晩餐室に、ランデルが呼びつけた街の有力者らが待っていた。

 壮年の男が二名、老人が一名。それに三十くらいの女がひとりの、計四名だ。

 イシュルとランデル、マーヤが室内に入ると、留守番をしていた土の宮廷魔道師、ディマルス・ベニトが彼らの相手をし、談笑しているところだった。

 この館には一階に大小ふたつの晩餐室がある。小さい方は中央の廊下を挟んで南側にあった。討伐隊の幹部とカナバルの街の有力者、両者の会見はこの小さい方の晩餐室で行われた。六脚の椅子が並ぶ食卓の片側、ベニトの座る側に遅れてきたイシュルたちが座ると、四名の街の者が各々名乗った。

 壮年のふたりの男のうち、面長の堅い表情をしているのがトビアス、丸顔で髭を生やしているのがサンデルと名乗った。少し気の抜けた、弛緩した顔の老人がヨリク、女はスネアと名乗った。

 スネアは他の男たちと比べ歳が若く、袖のゆったりした白のローブに青色のストールを羽織り、首飾りに複数の指輪をはめ、街の女たちより少し派手な服装をしていた。

 彼女はランデルが呼びつけた街の世話役などではなく、ただの飲み屋の女主人だった。バシリアの遠戚に当たり、彼女の引渡しを願い出てきたのだった。

 つまりスネアだけがバシリアの処刑に異議を唱え、彼女の身元を引き受けると申し出たのである。なんの力も持たない街の住民としてはなかなか勇気ある、あるいは無謀な行動だとも言えた。

「バシリアとはね、子どもの頃よく遊んでたんだ。あたしが引き取るよ。……ああ、大丈夫だよ、旦那。もう悪さしないよう、あたしがよーく言って聞かせるからさ」

 スネアは先ほどから話していたベニトに顔を近づけ、まったく物怖じせずに言った。

「ふっ、そうかい」

 スネアの物言いは無礼で、王家の魔導師に対するものではなかったが、ベニトは彼女に合わせ、それらしく相好を崩し素直に頷いてみせた。

「……」

 ベニトの横に並んで座るイシュルとランデルは無言で苦笑し、マーヤはいつもの無表情のままだ。

「バシリアはカタギじゃない。幾つもの魔法具を持つ大盗賊団の首魁だった」

 スネアの右隣に座る丸顔の男、サンデルが横から口を出してきた。スネアを諌めるような口ぶりだった。

「バシリアの面倒はこちらで見よう。あれを殺すと、街で騒ぐ者が出てくるかもしれん。俺は街のゴロツキどもにも少しは顔が利く。あの女の身は俺の方で、しっかりと押えるようにする」

 サンデルは他のふたりの街の世話役、トビアスやヨリクと少し毛色が違い、街の裏側、歓楽街にも影響力を持つ男だった。つまり一番、バシリアたち盗賊団に近かった者だ。

 実際の力関係はわからないが、穴蔵団とは持ちつ持たれつの間柄にあったわけで、この男に街を任せるのが最もてっとり早く、楽だと思われた。

 ただサンデルの言うとおりにバシリアの身柄を渡してしまうと、イシュルたち討伐隊が王国へ去った後再びバシリアを押し立て、カナバルの統治が以前と同じ状態に戻ってしまう懸念があった。盗賊団や街の裏の顔役に支配される状況が、再び続くことになる。

 ……まぁ、それならそれで構わないのだが。

 王国と関係する土地ではないし、誰か知己がいるわけでもない。用事が済んだら、そのあとはどうなろうと知ったことではない……。

 イシュルは無言で素早く、ランデルとマーヤ、そして部屋の端に執事の格好をして立つエバンを回し見た。

 街の者たちと面談しているのはイシュルとランデル、マーヤ、ベニトの四名で、リリーナとニナ、外様のリフィアやミラは他に仕事があったり、遠慮したりで同席していない。

「しっかり監視しなければ、というのなら、こちらの王家の方々にお任せして、予定通り処刑してしまえばいいのだ」

 スネアに物申したサンデルに、さらに意見してきたのは馬面のトビアスだった。

 昨日の布告の後、マーヤから聞いた話ではトビアスはカナバルの元商人ギルド長で、サンデルよりはまともな人物だと思われた。

 ただしこの男は、バシリアに謀殺された前領主の遠戚に当たるとされ、彼女に私怨を抱いている可能性があり、それためにサンデルの申し出を遮ったのかもしれなかった。

「ふん。わしはバシリアのことも、街のことも、特に申すことはないわい。もう歳じゃからの、お主らで勝手に決めればよかろう」

 最後に発言したのはヨリクだった。

 この男は確かに高齢で、本人の言うことに嘘偽りはなさそうだった。

 この後ヨリクはひとり、早々にこの場を去り、次にバシリアの引き取りを申し出たスネアも、本人の希望を一応は承っておくということで帰ってもらった。

 最後に穴蔵団に近いサンデルと、逆の立場でバシリアに遺恨を持つと思われるトビアスのふたりが残った。

「さて。ベニト男爵からすでに聞いていると思うが、我らがこの街に駐留する間は、街の治安維持のため助力を惜しまないつもりだ。そなたらのどちらに街の差配をお願いするか、それは追って当方から知らせることとする」

 ランデルはサンデルとトビアスを回し見て、慣れた口ぶりでふたりに申し渡した。

「……トビアスで、決まりですか?」

 彼らが退室すると、イシュルは席を立って食卓を回り込み、ランデルの正面に座り直した。

「まぁ、な。正式な決定は、エバンらに少し調べさせてからにするが」

「なるほど」

 ……どちらかといえばバシリアと敵対していた、つまり街のゴロツキどもとは距離のあるトビアスでほぼ決まりだろうが、彼にも欠点はある。おそらくサンデルの方は、やくざ者の兵隊を少数だが持っているだろう。だが、トビアスはその類いの者たちとは縁がなさそうである。彼は兵隊、を持っていないだろう。手許に武力のある者がいない、私兵を持たないというのは、それはそれで差し障りがある。

 そこらへんはとりあえず、セグローらに裏で動いてもらえばいいだろう。穴蔵団の残党から見れば彼らは裏切り者だが、街のゴロツキどもにはセグローに近い者もいるだろう。それにトビアスがカナバルの新領主になるのなら、後から彼になびく連中も出てくる筈だ。

 ただ、セグローのパーティにはバシリアの腹違いの弟、そして荒神の憑依するバストルがいる。

 バストルはバシリアの処刑をどう思っているか。彼女に囚われ反目しあっていたとしても、腹違いの姉だとしても、そう簡単に受け入れられることではないだろう。

 バストルの心理が荒神に何か影響するのなら、ここは注意が必要である。

 バストルが姉の処刑をどう考えているか、早急に確認し、必要なら説得しなければならない。

「まぁ、問題はサンデルだ。あの者がどう動くかだな」

 ランデルは部屋の端に立つ執事姿のエバンに、意味ありげな視線を向けた。

「……」

 エバンは立ったまま無言、だがかすかに唇の端を歪めた。

「もうこれ以上、“髭”に損害は出したくないし、ちょっとだけイシュルに手伝ってもらうかも」

 今までおとなしくいていたマーヤが、ここにきてイシュルに話しかけてきた。

「なんだそれ」

 イシュルは一瞬、マーヤが何を言っているか訳がわからなかったが、すぐに何事か思い当たった。

 ……サンデルか。あいつは盗賊団に近い、街の歓楽街の元締めのような男だ。

 やつがカナバルの支配に強い野心を持っているのなら、確かに傀儡として使えるバシリアの身柄を欲しがる筈だ。

 それに、だ。やつと立場の著しく異なる者が、先ほどの会合で明らかになった。ヨリクは高齢で辞退し脱落、残ったトビアスをサンデルは、かなり目障りな競合相手とみなすだろう。

 トビアスの配下に暴力を生業(なりわい)とする者がいないのなら、このままではトビアスは、サンデルに太刀打ちできない。

「……」

 イシュルが横目にマーヤを睨みつけると、マーヤは首をすぼめてごまかすような笑みを浮かべた。



翌日。ロミールと街の朝市に顔を出し、帰館したイシュルにミラとリフィアから声がかかった。

 広場に面した城門脇の通用口を通って中に入り、バストルの姿を探しながら使用人の宿舎や倉庫を通り抜け、本館の裏口から中に入ったところで、ミラとリフィアが待ち構えていた。

 ミラの後ろにはシャルカがひとり。ルシアは落城後、以前から館に勤めていたメイドたちの女中頭みたいな立場にあり、城内を右に左に忙しく働いていた。

「イシュル、これから地下神殿につながる、例の洞窟を見に行かないか」

「イシュルさまはもう場所をご存知でしょう? 今日はいい天気ですし、セーリアに頼んでお昼も用意させましたの」

 そこでシャルカが大きな籠を持ち上げて見せる。

 昼食も用意しピクニックがてら、洞窟の入り口を下見に行こうというわけだ。

 今は街の治安の安定をはかりつつ、地下神殿探索の準備に入ったところだ。探索には食糧その他物資を購入、現地に運び集積しなければならない。

 今日ロミールと出かけたのも、個人的に携帯していく塩や油、火打石や携帯カンテラなどを購入し、縄職人の許を訪ね、洞窟で使う縄類を発注してきたのだ。

 ……この後は、城内にいるだろうセグローらを探して、バストルに姉の処刑についてどう思っているか、聞き出そうと考えていたのだが……。

 もしその時バストルの人格に荒神が現れれば、本人の気持ちを確認できず、思わぬ手間と時間がかかるかもしれない。この件は急いですませたいのだが、一方で洞窟の下調べも大事だし、リフィアたちのせっかくの誘いを断るのも、よろしくない。

「わかった。じゃあ、行こうか」

「……」

 イシュルがミラとリフィアに頷き、後ろを振り返るとロミールも無言でイシュルに頭を下げた。

 その後マーヤとニナを誘い、自室で日誌か何か、書き物をしていたベニトをつかまえ、ともに城館を出、洞窟へ向かった。

 地下神殿につながる洞窟は、出入り口が縦穴状に地下に陥没しており、街から南西方向へ四里長(スカール、2km強)ほど、丘陵地帯に広がる森のはずれにある。

 一行にはイシュルにミラ、リフィア、マーヤとニナにベニト、それにシャルカと、地下神殿探索の主要メンバーにロミールが加わっていた。

 雨期は川になるカナバル南側の窪地を横切り、左手にかつて神殿の入り口があった遺跡をおさめながら、青葉の匂い立つ草原をのんびりと歩いていく。

「~♪」

 よほどご機嫌なのか、横からミラの鼻歌が聞こえてくる。

 山々の稜線から立ち上がる青空には、ちぎったような雲がまばらに浮かび、太陽が燦々と輝いている。この盆地は標高が高いからか、陽光にまだ夏のような力強さは感じられない。

「洞窟探検は逃げ場が限られていますから、強力な魔物に遭遇するとあっという間に全滅、などということもあり、充分に注意しなければならないと聞いています」

 ミラはイシュルの視線を受けるとすぐ鼻歌をやめ、何かあるのかいきなり、随分と真面目な話をふってきた。肩を近づけ、下から仰ぎ見てくる。

「まぁ、そうだろうな」

 イシュルはやや顔を後ろにそらして頷いた。

 戦う場所が狭く散開できない上に、投射型の範囲攻撃魔法などを喰らうと、魔力が拡散しないので防御も厳しく、悲惨な目にあう。

 ダンジョン探索における基本のひとつなんだろうが、魔物を倒せばレベルが上がるなんてことはないし、マレフィオアと遭遇するまではイベントらしいイベントも起きないだろうから、ただ苦しい戦いが続くだけだ。

「でも、イシュルさまが一緒ならとても楽ですわ。なんの心配もいりません」

 ミラはそこでにこにこして、先ほどの鼻歌の続きのような、歌うような口ぶりで言った。

「大精霊がお二方もおられることですし、警戒も万全。イシュルさまにかなう魔物なんていませから、マレフィオアに会うまではそれこそ今日のように、散策にでかけるようなものです」

 ミラは言いながら、イシュルの左手に両手を乗せてきた。

 陽を浴びて輝く笑顔が眩しい。

「問題は、洞窟や地下神殿の魔獣退治じゃない」

 と、そこで後ろから手が伸びてきて、イシュルの右肩をつかんだ。同時にリフィアの美貌がすぐ横に現れる。

 尖った鼻、長い睫毛。微かに揺らめく眸の光。

 近いっ。ミラより近い……。

「王家としては、地下神殿に散らばる魔法具も回収せねばならん」

 その眸がイシュルに向けられ睨んでくる。

「う、うん」

 イシュルが押されて小さく何度か頷くと、また背後から、今度はリフィアに割って入るようにマーヤが声をかけてきた。

「幾つかの魔法具は、骸骨悪魔(スケルトン)となった元魔導師がそのまま所持している場合がある」

「へぇ。いるのか、スケルトンが。やっぱり」

 イシュルは感嘆の声をあげて振り返った。

 そして腰をかがめてマーヤにぬーっと顔を近づける。イシュルの後ろではミラとリフィアが少し当惑気味に、互いに顔を見合わせた。

「スケルトンというのはやはり、元の生きていた人が死んで悪霊になった、ってことなのか」

「ああいう洞窟では、ほとんどは元からいた悪霊が人骨に取り憑く場合が多いと思う」

 マーヤはイシュルが顔を近づけても臆せず、その黒い眸をしっかり合わせてくる。

「ふむ」

 イシュルはからだを起こして顎に手をやった。

 ここでいう“悪霊”とは、つまり“悪い精霊”、闇の系統に属する精霊のことであって、通常は死んだ人間の霊魂のことを指していない。

 ほとんどの精霊は、死んだ人間や動物の魂が長い時を経て変化、成長した結果生まれ、死んだばかりの人や動物がいきなり精霊になることは基本的にあり得ない。

 だから墓地や地下遺跡などに現れるアンデッドの類いは、元の死体に別の精霊が取り憑いたもの、ということになる。厳密に言えばそれは“アンデッド”とは呼べないかもしれない。

 ただもちろん、古い時代の墓から、元の死体がそのまま悪霊となって現れ出ることはある。

「もとが魔法使いや宮廷魔導師だった者の骸骨悪魔は、生前からの魔法具をそのまま所持し、同じように魔法を使ってくることもある、みたい」

 マーヤはそんな珍しい話をどこで聞いたのか、なかなかの博識ぶりを披露する。

「ほう。それは面白そうだ」

「そういうのは魔法具の回収も楽なんだがな」

 と、相変わらず真面目な顔でリフィア。

「そうじゃないと神殿の壁際とか地面を探ったり、知恵のある魔物が集めたガラクタから探したりしないといけない。ちょっと大変」

「ちょっとどころか、かなり大変だぞ」

「あら、大丈夫ですわよ。首飾りや指輪など小さな魔法具でも精霊なら見過ごしませんわ」

 ミラはリフィアとは対照的におっとりと、楽観的だ。

 ……その時はおまかせを、剣さま。

 ミラの言葉を引き取り、心のうちにネルの声が響く。

 ルカスからの反応はない。大した距離ではないが一応、彼にはカナバルに残って城館を警護するよう、頼んである。

 ……たとえ魔力を帯びていなくとも、宝石や金銀、刀剣類なら見逃しません。

 ……それは頼もしい。地下ではよろしく頼むよ。

 ネルの口調は自信にあふれている。

「エルリーナも、わたしにまかせて、って言ってます」

 ニナもマーヤの後ろから声をかけてきた。

「あら、それならシャルカもですわ」

「うむ……。おまかせを」

 ミラが横目にシャルカを見やると、シャルカが重々しく頷いた。

「ふむ」

 地下での魔法具探しも案外、苦労しなくて済みそうだ……。

 イシュルは満足気に、笑みを浮かべた。

 あれこれと話しているうちに、一行は街の南側に広がる森の端、地下神殿に下りる洞窟に到着した。

 地面に開いた縦穴は、直径がかるく三十長歩(スカル、約20m)以上はあり、かなり大きい。

 森の方の南側は木々に囲まれ、イシュルたちの立つ北側はまばらで開けている。

 そして北側の縦穴の縁(へり)に、木材と金具で造られた吊り上げ機、クレーンやデリックのようなものが設置されていた。

 吊り上げ機にはたまたま、整備している男たちが数名取りついていたが、それが運良くセグローら四人組だった。イシュルが話したかったバストルの姿も見えた。

 縦穴のそば、西側にはまばらに生える木々の下に平屋の家や小屋が数棟建っていて、そこに出入りしている街の大工など職人らの姿も見えた。

「あの巻き取り機で人や荷物を洞窟に下ろす。貴公は風魔法で、自由に昇り降りできるだろうがの」

 イシュルの横にベニトが並び、周囲を見渡し言った。

「木立の方に建っておる家は、地上に残って穴に潜った仲間を支援する者らが寝泊まりしたり、食糧などを保管するのに使うんじゃろう」

「そうですね」

 洞窟探検には傭兵団も挑戦する。そうであれば、適当な人数を交替など支援要員として洞窟の側に待機させるのがよい。そのためには彼らの宿泊施設や消耗品を保管する倉庫が必要になるわけだ。

 大工など職人が出入りしているのは、これから王国の討伐隊が使用するので、新たに整備し直しているのだろう。それほど頻繁に使われる施設ではないから、その都度清掃や修理が必要になるのだ。

 イシュルはひとつ頷きベニトの言に同意すると視線を洞窟の下へやった。

 縁に立って見下ろすと、視界から飛び出そうな大きさの縦穴は深さは二十長歩(スカル、約15m)ほど、底は風雨にさらされ磨耗したのか、滑らかな岩肌が広がっている。

「……」

 イシュルは配下のふたりの精霊には固く禁じていたこと、洞窟の奥の方へ、風の魔力の感知を広げた。

 視界外なので探知範囲はかなり狭まる。だが一方で空気の流れは奥深くまで、連続して続いているわけで、その分は幾分か広がる。

 洞窟内は横方向に伸びる大きなものが数本あり、そのうち一本が深くまで続いている。その横穴が先の方で地下神殿に接続しているのだと、容易に想像がついた。

 闇の中へ伸長した、自身の感覚に触れてくる生き物のような、そうでない不可解なものは、明らかに魔物の類いであろう。

 ……ふふ。

 イシュルは心のうちで微かに笑うと、自らの魔力の感知をさっと引っ込め消し去った。

 マレフィオアはもうすでに、地上の俺の存在に気づいているかもしれない。人間に化けた荒神バルタルに気づいているかもしれない。

 だが用心にこしたことはない。ネルとルカスに事前に洞窟の探索、偵察を禁じているのもそのことを考慮してだ。

 大精霊の探索が地下神殿の奥深くまで及べば、明らかにマレフィオアを刺激するだろう。

 やつと戦うのは決定事項だが、今からむやみに事を荒げる必要はない。

「やぁ、イシュルの旦那」

 洞窟の底に注意を向けていると、吊り上げ機に取りついていたセグローたちが寄ってきた。

 セグローの横にはフェルダールと、都合の良い事にバストルもいる。いつもマイペースなニセトはこちらに興味がないのか、ひとり巻上機に被さり作業を続けている。

「準備はどうかな」

 横からベニトがセグローに声をかけた。

 イシュルたちと話す時と少し違い、重々しい貴族らしい口調だ。

「へへっ。もちろん、うまく進んでますよ。旦那」

 セグローが満面の笑みで、揉み手をしながら答える。

 その様子はイシュルの時と変わらない。いや、相手がより身分が高いと踏んだか、より慇懃な態度を取っている。

 ……こいつ、賞金稼ぎなんかより商人の方が向いてるんじゃないか。

 イシュルは苦笑しながら、何気に視線をバストルに向けた。

「下見に来たのか。まぁ、見てのとおり、洞窟の方はもっと奥に行かないと魔物はでないがな」

「こんにちは。……えーと、イシュルさん」

 フェルダールとバストルがイシュルに話しかけてくる。

 バストルはその口調からすると元の、“人間”のようだ。顔つき、外見にも不穏な感じはない。

「バストル」

 皮肉や不安、不審など心のうちを隠して呼びかける。

 この男とはほとんど、まだ何も話していない。名乗り合ってもいない。荒神の憑依の影響で、俺に対する何らかの記憶は刻まれているかもしれないが、それははっきりとはわからない。

「どうしてもあんたの気持ちを知りたくてな、今日は朝から探していたんだ」

 朝はロミールと出かけていたし、ここに来たのも別にバストルに会いに来たわけではない。まったくの嘘だが、それで構わない。

 イシュルは真面目な顔になってバストルに歩み寄った。

「あんたの姉、バシリアのことだ。隊長のランデルはあの女を処刑することに決めたが、それでいいのか?」

 イシュルは声を幾分落とし、探るような視線をバストルに向けた。

「身内として不服があるのなら、俺が隊長に掛け合ってやるが」

 バストルはイシュルが話しはじめると、さっと顔つきをあらため緊張した面持ちになった。そしてイシュルの申し入れを聞き、露骨に戸惑った顔になった。

 そばに立つセグローとフェルダールも表情を硬くし、周りの空気が重くなる。ベニトは無言で一歩引き、直接話に加わる気は無いようだ。

「あ、あの。いくらイシュルさんだって、バシリアの死刑を無しにはできないでしょう?」

「そうかもしれないがな」

 イシュルは薄く笑みを浮かべると小さく頷いた。

 バストルは年齢的には二十歳(はたち)過ぎくらい、セグローとニセトの中間ぐらいの歳だ。

 荒神が表に出て来ない、素のバストルは年相応の平凡な青年だった。かるく接した感じでは、姉のような狡猾さや悪辣さは見受けられない。

 ただ、その顔つきからは、姉の処刑に対する彼の複雑な心中が読み取れた。

「そ、そりゃ俺だってバシリア、……姉ちゃんの命が助かればと思ってます。だけど──」

 ……バストルの言いたいことは、おそらく二つ。バシリアが人殺しをはじめ、いろいろと悪事を重ねてきた事実、隊長のフリッド・ランデルが彼女の処刑を取りやめることは絶対にないだろう、という二点だ。

 バシリアの処刑には王家の権威、討伐隊の面子も絡んでくるし、本人が何より危険な存在で、生かしておくとこの先、何をするかわからない。あの女はカナバルの城館に罠を張り、こちらを皆殺しにしようとしたのだ。

 だがそれでも、バストルにとっては肉親だ。腹違い、というからには今までかならずしも仲良く、いっしょに生きていたわけではないかもしれないが、姉のバシリアは貴重な魔法具を盗み取った弟を幽閉しても、殺すことはしなかった。

「あんたの言うとおり、隊長の意思は変わらないかもしれないが、バシリアの助命の件、やはり俺の方から働きかけてみよう」

 イシュルは微かに、探るような視線をバストルに向けて言った。

 この男の心理が、憑依する荒神に悪影響を及ぼすようなことがあってはならない。

 そんなことは起こりえないかもしれないが、注意するに越したことはない。

「あの女盗賊が我らにしてきたことは、とても許すことなどできん。だが当方も穴蔵団を潰そうと考えていたのは事実。あるいはランデル殿も……」

 と、ベニトが話に割り込んできた。だが最後の方は声を落とし、口を濁した。同時に意味あり気にイシュルを一瞥してきた。

「?」

 なんだ? まさかランデル自身も、バシリアを死刑にするとは考えていないのか。

「……」

 イシュルは睨みつけるような視線をベニトに向けた。

 だが、彼はわざと目を逸らし、イシュルの疑問に答えることはなかった。



「さっきは何を話していたんだ?」

 リフィアはロミールの入れたお茶に口をつけると、イシュルを横目に見て言った。

「いや、たいしたことじゃない」

 イシュルはまだ作業を続けているセグローたち、特にバストルをちらっと見やって、突き放すような口調で言った。

 イシュルたちは洞窟のそばの草地に厚地の布を敷き、肩を寄せ合うようにして座っている。

 洞窟入り口の下見が終わると、何かと忙しいベニトとマーヤ、ニナは昼食もそこそこに、先にカナバルの街へ帰って行った。

 今は王家の者ではない、イシュルとリフィア、ミラとシャルカに、イシュルの従者ということでロミールが残っている。

「……」

 ぶっきらぼうなイシュルの物言いに、リフィアは微かに笑みを浮かべ無言、それ以上追及してこない。

「あの者はバシリアの弟なのでしょう? 今回のことは仕方ありませんわ。イシュルさまが気になさることではありません」

 ミラがイシュルを慰めるように言った。彼女ももちろん、荒神とバストルの事情を知らない。

「うん」

「それより中に降りなくていいのか? ここにいる者はみな、自力で上り下りできるぞ」

 ベニトら王家の宮廷魔道師は城館に戻り今はいない。残ったイシュルたちはロミールを除きみな自力で洞窟の竪穴に下りて、地上に上がることができる。ミラはシャルカと行動をともにすれば、空中に浮かび飛ぶこともできる。

「いや、いいんだ。風の魔力でそこそこ奥の方までわかるし。その時まで、あまり俺たち自身は近づかない方がいいかもしれない」

「マレフィオアに気づかれる。……いや、刺激するということか」

 リフィアが洞窟の方に目をやり言った。

「あの化け物はもう、地上にいる俺たちに気づいているかもしれないがな」

 先日のバシリアとの闘いでは派手に魔法を使っている。地下に潜むマレフィオアがそれに気づいたか、確かなことは何も言えない。ただ荒神に関しては、精霊たちでさえ気づかなかったのだから大丈夫だろう。あの化け物も気づいてはいないだろう。

「物見は大切ですが、今回は確かに本番まで、そっとしておいた方がいいかもしれませんわね」

 ミラが何度か頷きながら言う。

 実は地下神殿の奥、マレフィオアが座す場所までの距離がどれほどなのか、はっきりとわかっていない。正確な地図も存在しない。

 年に一、二度、地下神殿に挑戦する賞金稼ぎや傭兵のパーティがあるというが、マレフィオアがいるような奥まで行ける者、行こうとする者はいない。

 ラディス王国史にあった、八十年以上前に同国が派遣した調査隊以降、マレフィオアと遭遇した者はいないのだ。正確には地上に生きて帰って来た者がいない、ということになるのか。

 しかもその国史には、“ブレクタスの地下神殿”そのものに関する詳しい説明が、ほとんど記載されていないのである。そのため地下神殿に対しては、ほとんど口伝に類するようなものしか残っていない。他にあてになるものがないのである。

 セグローら、地下神殿へつながる洞窟の“ガイド”、案内人である彼らも、その地下神殿には数回、数えるほどしか足を踏み入れていない。

 凄腕の賞金稼ぎのパーティであっても、地下神殿の奥底まで行くことは不可能なのだ。

 ということで、地下神殿に入ってから、マレフィオアのいる場所に到達するまで、どれだけの時間がかかるか、国史に記された記録や巷に伝わる口伝などから、おおよその日数を割り出すくらいしかできなかった。

 マーヤをはじめ、みんなで検討した結果は片道で最大十日ほど、最短で三日ほどではないか、ということだった。ただ今回はイシュルや彼の召還した大精霊、リフィアやミラなどの実力者が揃っているので、丸一日ほどで目的地に到着できるのではないかとも思われsた。神殿の奥の方で出没する強力な魔物も、瞬時に退治することができるだろう、というのがみんなの、共通した見方だった。

 地下神殿までの道のりはセグローらが知っているし、おおまかな地図も用意されていた。

「マレフィオアは何も、わたしたちを邪魔するようなことはしてこないさ」

 街の、草原の方から気持ちのよい風が吹いてくる。

 草叢が鳴り、リフィアはそこで話を止め、風の匂いを嗅いで眸を細めた。

「やつはイシュルを待っているんだ。おまえの持つ紅玉石の片割れがやってくるのを」

 リフィアは初夏の野の息吹を味わうと、不適な笑みを浮かべてイシュルを見た。

「それだけじゃない。やつは俺の風と金の魔法具もねらっているだろう」

「強力な魔法具の蒐集家(コレクター)、……ですか」

「ああ」

 イシュルはミラの言に頷き、草原や森の広がる盆地の西の方を見回した。

 この野原の地下にマレフィオアが潜んでいる。

 あの化け物は名を奪われた女神の最後の欠片、憎悪や怨念に突き動かされ、名だたる魔法具を集め、ただひたすら主神へレスに復讐する機会が訪れるのを待っている、とされる。

 俺を斃し神の魔法具を得ることができれば、やつはこれまでにない強力な力を得ることになる。俺はやつにとっては絶対に粗相の許されない、最重要の賓客であろう。

 ならやつは、リフィアの言うとおり……。

 その時、後ろから吹く風。

「!?」

 く、死。ひ……非。

 続く、言葉にならない呪詛。

 背筋を何かが伝う。声、だ。呪文か。

 背後の洞窟の方から突然、魔力が吹き出す。一瞬のことだ。

 風は青空に吸い込まれ、消えていった。

「な、なんだ。今の」

 リフィアが中腰になって呆然と洞窟の方を見つめる。

 ミラは座ったまま、難しい顔をしている。シャルカもだ。

 ……マレフィオア。まさか、おまえか。

 俺がやつのことを考えていたちょうどその時、まるで計ったようにやってきた。

 あのおぞましい、ひとの言葉をまとった白い魔力。

 あれと似た感触を知っている。聖都で召還された、おまえの影と戦ったときだ。

 イシュルは立ち上がって洞窟の方へ歩いていった。

 ロミールは「なんです」と呟き、まわりを見回している。

 家や小屋の修繕をしている大工らも、巻き上げ機に取りついているセグローらも、魔法使いのフェルダールをのぞいてみな気づいていない。

 いや……。

 イシュルは、呆然と洞窟を見下ろしているフェルダールの横から、じっと視線を向けてくる男を睨み返した。

 その男は口角を歪ませ、イシュルの心のうちに語りかけてきた。

 ……あの化け物は、おまえを誘っているぞ。楽しくなりそうだな。

「ふん」

 イシュルは眼下に広がる竪穴を一瞥すると、再び背を向けリフィアたちの許へ戻っていった。

 マレフィオアめ。つまらないことをする。

 イシュルも唇を歪ませた。冷たい笑みが浮かぶのをおさえることができなかった。



 

 

「こんにちは、イシュル殿」

 竪穴を下見に行った二日後、イシュルはロミールとともに縄職人の工房を再訪し、注文していた洞窟で使う細縄を手に入れた。

 縄職人の店を出たところで、よく見知った男に声をかけられた。

 その男は、街の商人風の格好をしたエバンだった。

「何の用だ? 忙しいんじゃないのか」

 イシュルは一瞬、横目でエバンを睨みつけるとすぐに視線を外し、ロミールに無言で合図すると踵を返し、城市広場の方へ歩きはじめた。

 縄職人の工房は広場の北側へ、少し奥に入ったところにあった。

「お願いします。今日はイシュル殿にぜひ見てもらいたいものがあって」

「……」

 また横目で、露骨に胡乱な目を向けるイシュル。エバンは控え目な笑みを浮かべ続けて言った。

「ランデルさまが是非にと」

「フリッドさんが?」

「……はい」

 ……これは隊長の命令、ということか。正確には俺は王家の人間ではないから、これは要請、強制的なものではないが。

 イシュルは表情を消し、仕方なく頷いた。

「わかった」

「それではわたしについてきてください。イシュル殿に見せたいものがあるんです」

 エバンが広場とは反対側の、下町の方を指差して言った。

「それではぼくは──」

 ロミールは同行するのがまずいと思ったか、先に帰ると言いだした。

「いいよ。ロミールもついて来い」

 エバンに視線をやると無言で、小さく頷いた。

 髭の長(おさ)はロミールを同道しても、問題ないと言っている。

 昼日中の街中が目的地なのだ。それほど危険ではないだろうし、秘密度の高いものではないのだろう。

 三人の男たちは連れ立って、カナバルの街の北側、下町に向かった。

「……」

 狭い街路を覆う古い石積みの壁。そこに時おり、人々の話し声や歩く音が反響する。

 イシュルはそのありきたりな街の音に当惑し、頭を前後に振って路地を見回した。

 この裏街の雰囲気は、王都など他の大きな街と何ら変わるところがなかった。今自分がどこにいるのか、一瞬わからなくなるような錯覚にとらわれた。

 細い道をしばらく行くと、前を歩いていたエバンが「ここでお待ちを」と止めてきた。

 彼は壁の途切れた左側の方を見て何かを確認すると、イシュルに向かって近寄るように手を振り、一緒に見るように即した。

 途切れた壁の向こうには、樽や木箱が雑然と置いてある民家の裏手を挟んで、小さな広場があった。その一部が見えた。奥には小さな神殿があり、その前に椅子を出して壮年の男が座り、向かいに座る老婆を診察していた。老婆の後ろには老人が一人、その後ろは親子、次は中年の男と続いていた。

「あの男……」

 人々の列の間に垣間見える、男の顔は見覚えがある。数日前に城館で面談した街の有力者のひとり、トビアスだった。

「あの男、医者だったのか?」

 イシュルは囁くような小声でエバンに聞いた。

 確か、以前にこの街の商人ギルド長をやっていたと聞いたが……。

「いえ」

 エバンが否定した直後、トビアスの前で微弱だが確かな魔力の光が煌めいた。

「……!」

 あれは光系統の魔法。治癒魔法だ。

 イシュルは呆然とトビアスを見つめ、顔を横に向けてエバンを睨みつけた。

「トビアスは街の神官代理も務めているのです。大したものじゃありませんが、あの光の魔法具も前任者から受け継いだものでしょう」

「ふーむ」

 確かにあの魔力の強さでは効力は微妙、何度もなんどもかけて、やっと効いてくる、といった程度のものだろうが、それでも聖堂教会では高位の神官しか持っていない、光系統の魔法具であることに違いはない。

「あの者は無料で、何の見返りもなく街の病人を診ているのです。……まぁ、本人が金に困っているわけではない、というのもあるでしょうが」

「ふん」

 イシュルはなぜか不満気に鼻を鳴らし、不機嫌な口調で言った。

「やつは神官代理だったから、生き延びたわけか」

 バシリアが街の覇権を握った時、反対勢力の頭目のひとりだったろうトビアスが、なぜ殺されなかったか。それは彼が神官代理かつ、あの光系統の魔法具を持っていたからだろう。魔力の発現した位置からすると、指輪だろうか。

 ともかくあんな男を殺したら、迷信深い街の住民にどれだけ非難されることになるか、知れたものではない。

「──で、なぜ俺にあれを見せた」

 イシュルの低い声に、エバンは肩をすくめてみせた。

「ランデルさま、マーヤさまはあの男に街を治めてもらいたいとお考えです」

「そんなことはわかってる」

 先日の、トビアスやサンデルらとの会合の後に、ふたりのとった思わせぶりな言動。今日のこのことはそれと関係している。

 マーヤはどうか知らないが、隊長のフリッド・ランデルは、彼の意向は最初から決まっていた筈だ。

「トビアスの施政を安定させるために、イシュル殿の力をお借りしたいのです。こちらもこれ以上死傷者を出したくないので」

 マーヤがあの時言ったこと。……それはやはり、荒事だった。

「あんたも怪我してたろう? もういいのか」

「はい。わたしは」

 髭はバシリアとの戦いでシーベスら二名の命を失っている。エバンは軽傷だったが、他に両足をかなり酷くやられた重傷者が一名出た。

「シーベスらの名を出されると、こちらもいやとは言えないな」

 シーベスの死には、こちらのミスも関係している。それにどのみち、街の治安回復を確実にしなければ、穴に潜っていられない。

 もちろん、ここまで王家の大きな援助も受けている。

 エバンはそこで、「助かります」というふうにかるく頭を下げてきた。

「じゃあ、詳しく聞こうか」

 イシュルはトビアスや病人らから視線を外し、背を向けて言った。



 三日月が霞む真夜中。

「なんだかな」

 イシュルはエバンともうひとり、髭の男の後について、カナバルの街を北西に進んでいる。

 移動はもちろん歩行者の目につかないショートカット、屋根の上を飛び越えて目的地に向かっている。

「まるで忍者だな」

 イシュルはボソッと、独り言を吐いた。足元の洋瓦がかすかに鳴る。

 前方の、屋根の上を上下する黒い影を追って跳躍する。

 ……いったい何の因果か。新しい街にくるたび必ず、一度は人さまの家の上に登り、屋根の上を走っているような気がする。

 左手にぼんやりと光の漏れる街路が現れると、先頭のエバンが止まった。二人目の男は隣の家の屋根に飛び移り、イシュルは一瞬迷って、エバンのそばへ降り立った。

「手慣れたものですな」

 エバンが珍しく、軽口をたたく。

「で、サンデルはどこにいるんだ」

 イシュルはエバンの言を無視し、視線を繁華街の通りの方へ向けて言った。

「いえ。あちらではなく、こちらです」 

 エバンがイシュルの見ている方とは逆の、一軒奥にあるやや大きめの建物、小邸宅を指して言った。

 その指先、二階の一部屋の鎧戸からわずかに光が漏れているのがわかる。

「中にいるのを皆殺しにすればいいのか」

 イシュルはその部屋を凝視して言った。

 風の魔力で室内の状況を一瞬で把握した。

 エバンが隣の屋根に移った男に顔を向ける。その男は下を向き、そこに隠れていた誰かと短くやりとりすると、エバンに片手を上げた。

「はい。間違いありません。中にサンデルと、他に男が三名います。みな街のごろつき、ろくでなしです。予定通り、皆殺しでお願いします」

 エバン、いやランデルが頼んできたのは、サンデルと一味の幹部どもの抹殺だった。

 バシリアを処刑すると知らせ、トビアスに街を任せると噂を流せば、サンデルと彼に近い一派は必ず一度は集まり、顔をつなぎ、今後のことを協議する。そこを一網打尽にする。

 もし一か所に集まることがなくとも、髭に見張らせれば、サンデルとつながりのある者の面は割れる。

 ランデルとベニト、それにマーヤも──は、少なくとも城に呼びつけた時点で、トビアスに街を任せることを決めていた。問題はトビアスの周りに荒事をやれる者が少なく、街の治安維持に不安があることだった。それならということで、バシリアに面従腹背していた夜の街の顔役、サンデル一派を壊滅させ、トビアスの対抗勢力を一掃することにした。

 そこで死人も出た“髭”に代わり、イシュルに白羽の矢が立ったわけだ。

 今晩、出かける時はリフィアもミラもついて行きたがったが、イシュルは固くお断りした。

 街のゴロツキども、その頭目らを一掃するわけだが、全くの汚れ仕事、殺しの仕事であるのは確かだし、大事にしたくなかった。面白いことなど何もなかった。

 ……昔、エリスタールで似たようなことがあったよな。シエラに頼まれてさ。

「ネル」

 イシュルは誰にも聞こえない小声で風の精霊を呼んだ。

 ……剣さま、なんにも問題ありません。異常なし、です。

 備えは怠らない。魔法を使えば何か、突拍子もないことが起きることだってある。

 荒神が顕現し、地下には化け物がいて俺を誘っている。

「……」

 イシュルは無言でネルに頷いて見せると、エバンにひと声かけた。

「じゃあ、はじめるから」

 問題の屋敷の一室、その周りが一瞬、風の魔力で包まれた。

 イシュルはただ、その屋敷の一室を見つめるだけだ。

 直後、窓から漏れていた灯りが消えた。

「……終わりだ。帰ろうか」

 イシュルは無感動な顔をエバンに向けた。

「へっ?」

 素っ頓狂な声を出したエバンだったが、すぐ厳しい顔つきになった。

 微かな血の匂いが、風にのって自らの鼻先まで漂ってきたからだ。

「室内にあるもの全て、人も物も粉々に、砂粒のように粉砕した。血の匂いがなければ、人が殺されたとわからんだろうな」

 ……誰が殺ったか、魔法が使われたのか、街の多くの者に知られるだろうが、そんなことはどうでもいい。恐れられるだけで済むなら、忌避されるだけなら、楽なものだ。

 イシュルは顔を俯かせ、人知れず笑みを浮かべた。

 夜の街で、イシュルの影はことさら深く沈んで見えた。





 布告の日と同じ、夕日が広場を覆っている。

 とうとうバシリアを処刑する日が、その時がやってきた。

 城門の南側の城壁を背景に、汚れた赤いドレスの女が十字に組まれた木材に縛りつけられている。

 広場に集まった群衆の間には籐籠がまばらに置かれ、中には小石が積まれている。

 これから行われるバシリアの処刑は石打ちである。

 街の住民が籠に積まれた石を、十字架に縛りつけられたバシリアめがけて投げつけるのである。

 小石でも大人の男が投げ、命中すれば当たりどころによっては致命傷になりうる。

 ただ、誰もが強く、また狙った箇所に命中させるわけではないので、刑の執行がかなり長引くこともある。

 石打ちは大陸でも、なかなか残酷な刑のひとつであった。

 城門の前にはイシュルをはじめ隊長のランデル以下、主だった者が立っていた。

 城門の上には、ルシアやエバン、セグローらパーティの者たちがいた。バストルもいた。

「……」

 イシュルは城門を見上げてバストルの顔を見やった。

 あれからイシュルはフリッドに直接会い、バシリアの処刑執行を取りやめるよう訴えた。

 だがフリッドの反応は芳しいものではなく、イシュルの請求は退けられた。

 ただ言われてみればなんとなく、ベニトが示唆したように、ランデルはバシリアの処刑に何か考えがある、単純に処刑しようとは思っていないように見えた。

 その後、イシュルはバストルを捕まえ結果を伝え、力になれなかったことを詫びた。だが、当の本人は取り乱すこともなく淡々としていた。もう姉のことは諦めているようにも見えた。

 次にイシュルは視線をおろし、本日城に呼び出されたトビアスの顔を見つめた。

 彼はもう、街の施政を任せることをランデルから内示されていた。バシリアの処刑後その場で、本人が新しい領主となることが宣言される予定になっていた。バシリアが民衆の手で処刑され、街の一般の住民の間では評判の良い、トビアスが新しい領主に「選出」されるのである。

 「選出」したのが誰かなんて、問題にする者はいないだろう。バシリアを処刑し興奮した民衆は、自らがトビアスを「選んだ」と錯覚するだろう。

 イシュルの右側に立っていた“髭”の男が数歩前に出て、バシリア処刑の布告を読みはじめた。

 巻紙を両手いっぱいに広げて立つ男を、じっと見つめる街の住民の多くは、顔を上気させていた。

 一方、イシュルの左側に並ぶリフィア、ミラ、マーヤやニナら女性陣は顔を真っ青にしていた。

 トビアスは厳しい顔つきをしているが無言、不動でその内心は伺いしれない。

 髭の男が布告を読み終わった。

 代わって、意外なことにフリッド・ランデル本人が一歩前に進み出て右手を上げ、おろした。

「それでは処刑をはじめる。皆、罪人に石を投げよ!」

 野太い、よく通る声だった。

 わずかの間、ほんの瞬きする間、住民の間に逡巡する空気が立ち上った。

 だがすぐに、一人、またひとりと石を手に持ち、思い思いに投げ出した。

 街の住民の中には当然穴蔵団に、バシリアに恨みを持つ者も少なからずいるのだ。

 石を投げる者には呪詛の言葉を叫ぶ者もいた。

「ぐっ、この……、……! ……!!」

 幽閉されだいぶ消耗していたか、あるいは諦念に浸っていたか、静かで反応の薄かったバシリアも、石を投げつけられ、肩や腰にちらほらと当たりはじめると怒り狂い、言葉にならない怒声を上げはじめた。

 広場は無数の憤怒や憎悪で覆われ、凄惨な状況になった。

「がっ!!」

 誰が投げたものか、やや大きな石がバシリアの左目を掠めた。直撃したわけでもないのに、彼女の左目は真っ赤に腫れ、見る間に瞼が丸く膨らんで眸を押しつぶした。

 続いて胸、太腿、そして顎の右側に小石が次々と命中し、特に顎への一発はバシリアにとってかなりの痛打となったらしく、叫声も止まり頭(こうべ)を垂れ、十字架上で力なく身を任すだけになった。

「このままだと死んでしまうぞ……」

 横からリフィアの呟く声が聞こえた。

 ……当たり前じゃないか。これは石打ちの刑だ。バシリアは絶命するまで石を投げつけられる。

 もし日が暮れても彼女が生きていれば、このまま磔(はりつけ)にされるだけの話だ。

「……」

 イシュルはリフィア、ミラたちの横顔の向こう、頭ひとつ飛び出たトビアスの横顔を見つめた。

 呆然と刑の執行を眺めていたトビアスが、イシュルの視線に気づいたか、顔を向けてきた。

 赤黒く染まった面長の顔貌は、両目が見開かれ息苦しそうに口を開け、地上にあって窒息する魚のような顔をしていた。

「行かないのか」

 イシュルは挑むような顔をして短く、トビアスに声をかけた。

 彼にイシュルの声が聞こえたか。

 何の反応も示さず再び前を向き、おもむろに前へ一歩、足を踏み出した。

「やめろ……」

 トビアスはそのまま広場の端、バシリアと群衆の間を横切るように進み出てきた。

「やめるんだ! やめろ!」

 彼は両手を広げ振り回し、大きな叫声を上げた。

「処刑は中止だ! みな、やめてくれ」

 人々の間からはまだ石が投げられている。そのひとつがトビアスの額を掠めた。

 だが彼は引かない。大声で石打ちをやめるよう叫び続けた。

「……」

 イシュルは片手をかるく上げ、トビアスの前に風の魔力の壁を張ろうとした。

 同時にフリッドがトビアスの方へ歩きはじめた。

「やめろ。処刑を中止とする!」

 フリッドが片手を上げ、戦(いくさ)の時に叫ぶような気合の入った声を出すと、群衆はさっと静かになり、石を投げる者はいなくなった。

「バシリアの今後の処遇はわたしが責任を持つ。今日はもう終わりだ。皆の衆は家に戻ってくれ」

 トビアスが続けて言った。

 群衆は一時の狂熱をおさめ、早くも広場を去り、家路につく者が出始めた。

「バシリア!」

 城門近くに残ったわずかな人々のひとり、その中からかつて城館を訪ねてきたスネアが飛び出し、バシリアの足元に取りついて泣き声をあげた。

 セグローたちが城壁から降りてきて、バストルとニセトが十字架に取りつき、バシリアの縄を解き降ろしにかかっている。

 彼女は意識を失っていた。トビアスは右手にはめた指輪をかざして、治癒の魔法を発動した。

「なっ」

「まぁ」

 リフィアたちから一様に驚きの声が上がるが、トビアスの魔力は弱く、とてもバシリアの負傷を治すにはいたらない。

 ……おそらく長時間魔力を当てても大した効果はないだろう。

 イシュルは複雑な表情でトビアスの背中を見つめた。

「トビアス殿。貴公は明日、友人や配下の者を連れまた館に顔を出してくれ。この女盗賊のことも含め、相談したいことがある」

 フリッドはそうトビアスに声をかけると、イシュルたちの前へ進み出た。

 イシュルはフリッドの満足そうな横顔を見つめた。

 ……洞窟を下見に行った時、ベニトの含みのある態度はこれだった。

 ランデルは最初から、この台本を描いていたのだろう。

 今日はほぼ完璧に、彼の思惑通りになったのだ。

 バシリアの死が一応免れたことで、セグローのパーティ、特にバストルに遺恨を残すこともなくなった。街に未だ残るゴロツキども、少数の彼女のシンパも同様だろう。

 トビアスは、過去にバシリアによって一族の有力者を殺されたらしいが、彼はそれを許したのだ。自らの治癒魔法をバシリアに使って見せさえした。

 ただ、彼女の今回の怪我はかるくなく、この先完治することはないかもしれない。城館においてか、スネアの許でか、バシリアは今後厄介者として、蟄居同然の生活を送ることになるだろう。

 魔法具を奪われた上に外部との接触を断たれれば、傷ついた身ひとつ、あの女でも復活は厳しいだろう。

「ではベーム殿、ディエラード殿。それにイシュル殿も、異存はないな」

 フリッドはややあらたまった口調で、外様のリフィア、ミラ、そしてイシュルに確認してきた。

 ……否も応もないな。結構なことじゃないか。

 イシュルは穏やかになったトビアスの横顔を一瞥すると、フリッドに向かって無言でひとつ、頷いた。リフィアもミラも、同様に頷いた。

 城壁の向こうに沈む夕日が、やたらと眩しかった。





 穴の底から見上げる空は薄く青く、光に満ちている。

 ぎーこ、ぎーこと音を鳴らして水樽とともに降りてきたロミールが、先に岩場の上に飛び降り、水樽を引き上げ機の台から下ろした。

 縦穴の上には、先日下見の時に整備されていた小型のクレーンのような引き上げ機の木組みが見える。

 イシュルは視線を自分のすぐ横、ニナに移してにっこり笑顔になると、抱えていた彼女を下ろした。

「ありがとうございます、イシュルさん」

「いいご身分だな。マーヤ殿もニナ殿も」

「まったくですわ。わたくしもイシュルさまに下ろしていただきたかったです」

 すでに穴の底に降りているリフィアとミラが文句を言ってくる。

「おーい、イシュル。次はわたし」

 穴の上からはマーヤが杖を振って催促してくる。

 吊り上げ機からは次はベニトが下りようとしている。

「はいはい」

 イシュルはマーヤに向かって上昇しはじめた。

 バシリアの処刑が途中で中止されてから四日後、いよいよマレフィオア討伐に向けて、地下神殿へ出発する日が来た。

 今日は皆総出で荷物を縦穴に下ろし、洞窟の途中で設けられる宿営箇所、キャンプ地まで物資を運ぶことになっている。

 縦穴の上でも下でも、皆忙しく立ち働いている。

「いよいよだね。イシュル」

 イシュルが縦穴から上昇し、縁に降り立つと、マーヤが近寄り声をかけてきた。

「ああ」

「地下で一番役立つのは火の魔法使いだから。わたし、頑張るね」

 マーヤはめずらしく、にこにこと顔いっぱいの笑顔になって言った。

「ふふ」

 イシュルはかるく笑って、縦穴の底へ目を向けた。

 下に降ろされた荷物をまとめるバストル、いや荒神の背中を見つめた。

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