狂戦士 1



「どうぞ、我が主人(あるじ)の館へ」

 微笑む男の眸にほんの微かに、不穏な色が滲み出る。

 イシュルはカナバルの街から紺色の上着の男へ素早く視線を移し、続いてその背後に広がる遺跡に目をやった。

 跡形もなく崩れ、風化した石積みの壁と、ひび割れ、草の生えた石畳。

 遺跡の中央には細かな縦線の入った角柱が幾つか並んでいる。石柱はすべてが途中で折れ、崩れている。もちろん、その柱群が支えたであろう、大きな屋根はその欠片さえも残っていない。

 周囲の緑と青空を背景に、遺構の明るい灰色が浮き上がって見える。

 どこかで小鳥の鳴く声がする。

 眠気を誘うような穏やかな昼日中。それは長い時の流れの中で、延々と絶望的なまでに繰り返されてきた日常なのだ。

 遥かな昔、この場所が荒神バルタルの地下神殿に通じていた。

 ……盗賊団の男たちが邪魔だ。古き時代の残影を追うには。

「……」

 盗賊の男の言に、隊長のフリッド・ランデルがほんの一瞬、戸惑いをその面上にのぼらせた。

 イシュルの視界にその瞬間が映る。

「……っ」

 イシュルは小さく、言葉にならない音を発すると急ぎ足で前へ出て、盗賊団の男たちに声をかけた。

 こいつらの思い通りにはさせない。

「出迎えご苦労」

 声音を低くして言った。

 イシュルは目線を素早く横に、紺色の上着の男からその隣に立つ男へ走らせた。 

 もうひとりの男は丈の短い、ベージュの薄地のマントに茶色のズボン、薄汚れた生成りのシャツと、平凡な街の住民の格好をしている。

 何か、可笑しさがこみ上げてくる。

 イシュルは心のうちに、皮肉な笑みを浮かべた。

 この男も愛想よくにこにこと微笑んでいるが、その面相はあまり品の良いものではない。どう見ても街の住民になりきれていない。

 ……盗賊の、悪党の顔だ。

「おまえたちが穴蔵団の者か?」

 言いながらイシュルはたまらず、破顔した。

「盗賊団、などと……。私どもはカナバルの領主、バシリアに仕える者でございます」

 紺色の上着の男は、イシュルに対しても慇懃な態度を崩さない。

「悪いがせっかくここまで来たのだ。我々は街へ行く前に、この遺跡の検分をしていきたい。……しばらく待ってもらえないかな」

 最後に口の端を引き上げる。

 言いながらネルに問いかけた。

 ……周りで隠れ潜んで、俺たちを見張っているやつはいるか?

 ……はい。神殿跡の反対側の端の方に、物影に隠れてこちらをうかがっている人間がひとり、います。

 ネルの抑えられた声が、心の底を通り抜けていく。

 ……殺れ。静かに、誰にも気づかれないように。

 イシュルは顔色ひとつ変えず、心のうちでネルに命じた。

 遺跡の奥を微風が吹いた。薄く砂塵が舞う。

 微かな魔力の揺らぎが感じられたが、誰も気づいていない。

 ネルは返事をしなかった。無言で実行した。

 何かの建物の土台だけが残ったその影で、人がひとり消えて無くなった。

「うむ、そうだったな。使者殿はしばらくここで待っていただこうか」

 フリッドがイシュルに話を合わせてくる。

「い、いえ……。あっ、ああ。それなら私どもがこの遺跡の案内をしましょう」

 紺色の男は一瞬、動揺したがすぐ立ち直り、笑みを濃くして言ってきた。

 盗賊団の男たちとフリッド、イシュルたち。彼らの周りの空気が緊迫していく。

 ……精霊はいるか? どうだ?

 イシュルは無言のまま、彼らの会話をやりすごす。

 注意をネルに向けていた。

 ……特に気配は感じませんが、隠れるのがうまい精霊ならわたしでも見つけられません。

 ……そうか。

 ならここは……。

「あなた方の案内はいらないわ」

 リリーナが男たちの前へ一歩出て言った。

 背後から、髭の男たちが荷物を下ろす気配が伝わってくる。

 イシュルは微かに口角を引き上げた。

 ……決まったな。

 リリーナのひと言が決定打になった。

 イシュルはわずかに顎を引くと彼女の横に並び立った。

「おまえらはそこでおとなしくしていろ。変な動きはするなよ」

 と、一方ですぐネルに指示を出す。

 ……遺跡と街の間に結界を敷け。通過しようとする精霊がいたら問答無用で抹殺しろ。

 結界は弱めでいいぞ。

 バシリアがカナバルで何らかの謀(はかりごと)をめぐらしているのは間違いない。おそらく罠を張って、待ち構えているのではないか。

 彼女は正面から挑んできているのだ。迎えの使者を寄越してきたことがそれを示している。 こちらが不審に思おうが、警戒を強めようがおかまいなし、この穴蔵団の男たちはあの女からの挑戦状のようなものだ。

 ならばこちらの企図も隠す必要はないだろう。

 この男たちはそのまま領主館に来いと言った。こちらが遺跡を見てからと話すと、自ら案内すると言った。こいつらは俺たちにこれからの対応を決める、意思統一する隙(すき)を与えたくないわけだ。

 もう戦いが、駆け引きがはじまっているのだ。

 後方からエバンともうひとり、髭の男が進み出て盗賊団の使者の左右に立った。

 ロミールと、ミラとリフィアの従者のセーリアとノクタがそろそろと右に移動し、カナバルに続く小道を遮る。

「うっ……」

 紺色の上着の男も、その隣の男も表情を歪ませた。

「遺跡を見てきましょうか、フリッドさん」

 イシュルはフリッドに声をかけると後ろへ振り返って、ミラやリフィアたちに微笑んだ。

「君たちも行こう」

  


「ここに地下神殿に降りる入り口があったわけか」

 イシュルはちらっと横目に盗賊団の男たちを見やると、視線を正面に向け俯けた。そこは土砂で埋まった遺跡の中心部だった。遠い昔、荒神バルタルの地下神殿に降りていく入り口があった場所だ。

 隊長のフリッド以下、ミラやリフィア、王家の魔導師たちが囲む一角は、崩れた敷石の混ざった黒々とした土で埋まり、ところどころ草が生えている。その間には大木の古い切り株も見えた。

「確かにこの有様では、ここから中には入れんな」

 地中の様子が感じ取れるのか、ディマルス・ベニトが重々しい声で言った。

「さて、敵側から仕掛けてきたわけですが」

 イシュルはベニトの言に小さく頷くと、さっそく本題に入った。

「問題ないわ。予定どおりいきましょう」

 リリーナが微笑みながら言った。

「うむ。各々方、それでよろしいな?」

 と周りを見回しフリッド。

「……」

「わかりましたわ」

 リフィアにマーヤ、ニナが無言で頷き、ミラが妙に甘く聞こえる口調で答えた。

 もう穴蔵団制圧の手筈、各員の配置と行動は決めてある。

 それは結局、バシリアの動きが予想外のものであろうと大して変わらない。最も重要なのはどの時点で彼女が姿を見せるかだが、その時期と場所はすでに数多く想定され、作戦が立てられている。討伐隊の全員に徹底してある。

「シーベスらから連絡は」

 イシュルはカナバルに先行し、穴蔵団の幹部、サリオに工作をかけることになっているシーベスらの動向をフリッドに聞いた。

「朝の一報が最後だ」

 シーベス配下の“髭”がひとり、早朝にエバンに状況の報告に訪れている。

 それはシーベスらが無事サリオに接触し、こちらに味方するよう工作に入ったという知らせだった。

 伝達にはどうしても半日程度の遅れが出るので、今はまだ調略が成功したか、サリオの身柄を確保できたかはわからない。

 今回の盗賊団制圧における、不安要素のひとつではあった。

 ただサリオがどうなろうと、バシリアを殺すか捕えることができれば大勢は決する。あとは盗賊団の残党狩りなど街の治安回復をどうするか、それが主な問題となる。

「シーベスの連絡を待ってはいられないよ。バシリアの招待を受けないと、非礼だし」

 マーヤがいつもの抑揚のない声で、かるく冗談を言った。

「ふふ。ではこのまま、彼奴(きゃつ)らに案内してもらうとするか」

 フリッドは小さく笑って、視線を穴蔵団の寄こした男たちの方へ向けた。

 一行が遺跡から戻ってくると、リリーナが紺色の上着の男に声をかけた。

「遺跡の検分は終わったわ。待たせてごめんなさい。では案内をお願いするわ」

「わ、わかりました」

 男はぎこちなく頷くと震える声で言った。

「では皆さま、こちらへ」

 盗賊団の男ふたりが先頭に立ち、すぐ後ろにリリーナ、次にフリッド、リフィア、イシュルと続きみな一列になってカナバルへの小道を歩いていった。

 道は一旦丘を下り、カナバルの街の手前で登りになる。周囲は草原だが雨季には川が流れるのか、丈のある草木は生えていない。

 遺跡のある丘の方からまだ、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。春の日差しが辺りを照らし、眠気を誘うような朗らかな陽気だ。

 だが今は、それだけでは済まされない。

 ……カナバルの城周りはどうだ? 危険な感じはするか?

 ゆっくり歩きながら、イシュルはネルに問いかけた。

 ……いえ、特には。どうしましょう、先行して詳しく調べますか?

 ……いや。まだいい。敵方にも精霊がいるだろうからな。ぎりぎりまで待とう。気をつけないといけないのは、魔封陣とそれに類する結界陣だ。その有無がわかればいい。

 ……。

 ネルの首肯する気配が僅かに伝わってくる。

 金の精霊のルカスはずっと無言で、気配を消したままでいる。

 ネルと話していても、俺も俺もとしゃしゃり出てくることはない。外見と違ってなかなか気のきく精霊だ。

 辺りに他の人間の気配はなく、皆無言で歩いている。すぐ後ろのミラも静かだ。

 西の方から微風が吹いてくる。

 春の瑞々しい若葉の匂いに混じって、ブレクタスの山々からだろうか、ほんの微かに肌を突き刺すような、冷たい風が混ざっている気がする。

 イシュルは視線を鋭くして、行手に次第に大きく、高く立ち塞がってくるカナバルの城壁を見つめた。

 そして微かな冷風の源へ、己の感覚の先端を深く、先へ先へと伸ばしていった。

 たとえ風の魔法具を持とうが、その遥かな先のすべてがわかるとは限らない。

 いつもその先に特別な何かがあるなんて、とても言えない。

 だが今この瞬間は、高山地帯から吹き降ろしてくるただの冷たい風ではない何か、違うものが混ざっているような気がした。

 ところどころ補修された古いカナバルの土壁が視界を覆っていく。

 ……月神の罠だろうか。

 得体の知れない何かが、穴蔵団の館にあるような気がする。

「ようこそカナバルへ」

 紺色の上着の男は脅えを脱したか、余裕のある口調に戻ってそう言った。

 男は街の門前に立って片手を差し上げ、イシュルたちに向かって腰を落とし頭を下げた。

 頑丈な鉄扉の軋む音がする。

 城門が開かれた。



 門の奥には小さな広場があった。

 そこは数名の賞金稼ぎらしい男たちが立っているだけで、他に人はいなかった。

 正面には内郭に当たるのか、領主館の石積みの壁に外の門とよく似た鉄門があった。

 その門扉も開かれ一行が中に入ると、目前に木々に囲まれた大きな館が立っていた。

 見上げると、四隅に小さな塔を備えたドーム型の屋根が見えた。

 大陸ではあまり見ない、古い建築様式だ。明るい土色の外壁は、早くも青々と色づいた無数の蔦で覆われていた。

「あら、ずいぶんと趣きのあるお屋敷ですこと」

「かなりの年代物だな」

 後ろからミラとリフィアの声がする。

「それ、ふたりとも同じことを言ってるな」

 イシュルが振り返り呟くように言うと、ミラは慎ましやかに、リフィアは飾らない笑みを浮かべた。

 ……ふたりとも、余裕がある。

 その後ろのマーヤとニナはイシュルにひとつ、頷いて見せた。彼女らも落ち着いている。

 さらに後ろ、ディマルス・ベニトだけが緊張した顔をしていた。

 イシュルも皆に笑顔をつくって頷いてみせた。

 だが、内心ではベニト以上に緊張していた。

 微かな予感がある。月神が何をしてくるか、あの酷薄な女神が動くのか、それが気にかかっていた。

「ようこそおいでくださいました。主人が待っております、どうぞ中へ」

 正面玄関に当たる観音開きの扉の前には、意外なことに真っ当な執事の服装をした初老の男が立っていた。

「うむ」

 先頭をリリーナと入れ替わったフリッドが重々しく頷く。そして扉が開かれた。

 屋内に足を踏み入れると、まずさほど広くもない控えの間があり、その奥に天井まで吹き抜けになった大きなホールがあった。

 年季の入ったこげ茶に沈んだ木板と、くすんだ洋漆喰の壁に覆われた薄暗い玄関ホールを抜け、おそらく領主の謁見や晩餐会に使われる大広間に歩を進める。

 天井は外から見えたそのまま、ドーム型になっていた。二階に当たる高さに窓が並んでいる。

 古い、石造りの広間。

 ロミールら従者たちも、荷物持ちのエバンたちさえ制止の言葉もなく、中に引き入れられる。

 ……本来は、従者や人夫らは別室に案内されるのに。

 当たり前の作法を無視して、全員を無理やり一室に押し込んだ。あまりに露骨だ。

 バシリアは正面から堂々、一気に仕掛ける気なのだ。

 時間があまりないかもしれない。

 イシュルはネルを呼んだ。次々と質問をぶつけ、確認していく。

 ……怪しいものはないか?

 ……ありません。魔封陣も、他の結界魔法陣も。魔法具も設置されていません。

 ……敵の配置は?

 ……館の内部には十名ほど、地下にも何人かいるようです。外には二十名以上、建物や木々の影に潜んでいます。

 ……魔法使いは?

 ……魔法具を持つ者がいる気配はあります。魔法を使うか、精霊が現れないとはっきりとはわかりません。 

「ふむ」

 イシュルはひとり頷くと正面、ホールの端の上座に立つ人物を見やった。

 微かに赤みを帯びた豊かな金髪、胸元の豪奢な首飾りと真紅のロングドレス。

 険のある美貌が微笑んだ。

「ようこそラディス王家の方々。お待ちしておりました」

「そなたがカナバルの領主、バシリア殿か」

 フリッドの低い声が室内を反響する。

「……」

 フリッドとバシリアが数長歩(スカル、一長歩は約0.65m)ほどの間をあけて、互いに正面から睨み合う。

「ふふ、ラディス王国がこんな田舎に魔導師さまを差し遣わすなんて、何年ぶりでしょう」

「おおよそ百年ぶりだ」

「まぁ、そんなに……」

 バシリアの慇懃な態度がわざとらしい。

 イシュルは彼女の背後、斜め後ろに並ぶメイドたちに目をやった。

 先ほどの執事といい、このメイドたちといい、外目にはどこぞの小領主となんら変わりはない。

 もともと、この館に盗賊団以外の街の者が多数、使用人として働いていることはセグローたちから知らされている。バシリア姉弟もよそ者ではなく、もともとカナバルの街の出身であることもだ。

 背後からミラとシャルカが小さな、ほとんど聞き取れない声でしゃべっているのが聞こえてくる。はっきりとはわからないが、やはり魔法陣の有無などを確認しているようだ。

 リフィアはイシュルの斜め前に、その横にリリーナが立っている。マーヤとニナ、ベニトら近接戦闘の能力の低い者は、ルシアやロミールら従者に囲まれ、一団の後方にいる。さらにその彼らを背後から守るように、髭の男たちが荷物を降ろし、互いにやや距離をとって直立している。

「滞在される間はどうぞ我が城をご自由にお使いください。もちろん、地下神殿の調査には当家より案内人もつけましょう」

「うむ、それはありがたい。では領主殿には諸々、遠慮なく世話になるとしようか」

 バシリアとフリッドの会話が続いている。

「もちろん、諸費用は当方の負担とさせていただく。後日支払うようにいたそう」

「……かしこまりました。では皆さまも長旅でお疲れでしょう、飲み物をご用意したのでまずは喉を潤していただければ。マレフィオア討伐の前祝いといたしましょう」

 バシリアが機嫌良さげに笑みを浮かべ、フリッドの後ろに佇む討伐隊の者たちを見回した。メイドたちが奥の部屋に引っ込み、グラスや陶器製の水差しの載ったワゴンを押してくる。

「“バルタルの穴蔵団”には他にひとがいないのか? あんたの家臣、いや盗賊団の幹部はどうした? 顔を見たいな」

 イシュルはバシリアと目が合った瞬間、その場をぶち壊すような暴言を吐いた。

 傍目にはこれ以上はない、露骨に過ぎる挑発だった。

 だがそれは表向き、周囲に穴蔵団が傭兵らを隠し、あるいは魔法陣を設置しているなど、襲撃の意図があるといち早く察知した者がバシリアの口上に割って入り、何らかの発言をするよう、あらかじめ決められていたことだった。

 「他にひとがいない」、「幹部の顔が見たい」というのは敵方が姿を隠し、館の外で襲撃の準備をしていると、暗に示唆する言葉でもあった。

 イシュルはネルからの報告を受け、敵に襲撃の意図があることを味方に知らせたのである。

「……」

 フリッドがイシュルに振り向き、口角を引き上げた。

「まぁ、ふふ。……あなたは?」

 バシリアの顔にもこの場ではじめて笑みが上った。

「お名前はなんと?」

 女頭目の声が低くなる。

 その眸が細められ、イシュルを睨んでくる。揶揄するような光に、冷たい敵意の色が混じり込む。

 張り詰めた空気に、ホール全体が静寂に覆われた。

「イシュル・ベルシュだ」

 イシュルも薄く笑みを浮かべ、低く答えた。

 その名にバシリアの眸が大きく見開かれた。彼女の眼(まなこ)に紅蓮の炎が燃え立つ。

 イシュルの名乗りが合図になった。

 突然、ホール全体にガラスの割れる激しい音が鳴り響く。メイドたちが背を向け、大慌てで奥の部屋へ逃げ出した。ワゴンからこぼれ落ちたグラスが割れ、無数の破片が床に散らばる。

「なっ!?」

 騒然とする中、足下、地下を何かが走る気配。

 地面が激しく振動する。

 ……やられたっ。

 金の精霊、ルカスの叫声が心のうちを突き抜ける。 

 ドンっと、激しい振動が全身を貫いた。いきなり、広間の両側の壁が地中に沈み込む。

 轟音ととともに天井のドームが落下してきた。

 ……魔法じゃない、何かの仕掛けだ。

 嫌な、最悪の記憶が瞬時に甦る。メリリャの命が失われた、あの時……。

 瞬間、目の前を赤い閃光が走った。リフィアが武神の矢を発動したのだ。

 ん?

 ほぼ同時に、ネリーの指輪が反応する。

 疾き風、加速の魔法が発動した。

 すべての音が遠くにかすれ、消えていく。

「……」

 リフィアが後ろを振り返り、イシュルに微笑んだ。

 そして前を向き走り出す。その先にメイドたちに混じって逃げ出す、バシリアの姿があった。

 女盗賊の動きも速い。片手でドレスの裾を絞り上げ、ホールの中央からあっという間に移動してメイドらのすぐ後ろを走っている。あの女にも加速の魔法が働いている。

 そのバシリアを追うリフィアの横に、リリーナが並んだ。

 リフィアとリリーナはバシリアを直接討つか、捕らえることになっている。

 イシュルが後ろの気配に振り向くと、ミラがゆっくりと跳躍し、抱きつこうとしていた。

 頭上には崩れた天井の石材が迫ってくる。

 イシュルは片手を天に突き出し、彼女の背後に立つシャルカに言った。

「俺がやる」

 ネリーの指輪の加速の魔法が働いている。その言葉は声にならなかったが、シャルカには伝わった。彼女は頭上に展開しはじめていた金の魔力を、今度は消しにかかった。

 崩れゆく館の周りを巨大な風の魔力が覆う。イシュルのではない、ネルの結界魔法だ。

 彼女には戦闘開始時に側方に風獄陣を張り、屋敷の周囲を外部と隔離するよう指示してあった。味方が魔法を振るえるようにし、同時に敵方の逃亡と城外からの増援、襲撃を防ぐためだった。

 ……くっ。

 重い……。

 イシュルは突き上げた拳に風の魔力を集めた。

 内側に倒れ込む壁と落下する天井を、力づくで吹き飛ばそうとする。

「なっ」

 その時、今度は足下を正体不明の魔力が走った。

 視線を下ろすと正面にバシリアの精霊か、土の精霊が床から上半身だけ姿を現し、ホールの床に土の魔法をかけていた。女のようなシルエットの、人型の精霊だ。顔貌や服装は薄っすらぼやけて、はっきりしない。

 マーヤやニナたちの傍に退いていたフリッドが、異様な速さで精霊に迫り抜き打ちに斬りつける。ベニトからも土の魔力が沸き立つが、精霊の魔法より遅い。

 フリッドの武神の魔力を帯びた剣が精霊を両断する。

 だがこれも間に合わなかった。土の精霊の魔法はもう発動していた。彼女の声にならない断末魔の叫びと同時、広間の床に亀裂が走り、地面が崩れ落ちていく。

 ……このっ。

 ぐっと歯を食いしばって、突き上げた拳の先に集中する。

 上が先だ。

 イシュルは落ちてくる館の屋根を空へ吹き飛ばした。

 瞬間、陽光が視界いっぱいに瞬く。

 ネリーの腕輪の加速の魔法も同時に掻き消された。轟音とともに空高く舞い上がった石と木材の塊が霧散し青空に消える。

 次っ!

 イシュルは落下しながら今度は拳を下に向ける。

 瞬間、熱い魔力が地を走った。自分のものではない、また誰かの、違う魔法。

 視界を金色の光が覆う。

「うっ」

 光が消えると地面の崩落が止まり、足下に鉄塊が敷き詰められていた。

 鉄の床はところどころ、瓦礫が入り混じって凹凸をなしている。

「イシュルさまっ!」

 ミラがバランスを崩しながらも抱きついてくる。

「盾さま、遅くなった。すまん、だが外にいた盗賊どもはきれいに片づけたぜ」

 頭上、ぽっかり開いた青空を背景に金の精霊、ルカスが姿を現わす。

「敵を斃したのはあなただけではありません」

 その斜め上にネルも姿を現した。

「剣さまにあなたの手助けなど無用。邪魔なだけです」

「あら、金の大精霊さまも……」

 ミラがイシュルに抱きついたまま、場違いなのんびりした口調で呟く。

「むっ」

 シャルカが鋭い視線でルカスを見上げた。

「いや、ネル。そんなことはない。助かったよ、ルカ」

「うっ」

 イシュルがルカスに礼を言うと、ネルは首をすぼめて罰の悪そうな顔をした。

「ふふ」

 ルカスは微笑みながらイシュルにかるく一礼すると、シャルカに顔を向けた。

「久しぶりだな、シャルカスフィア」

 ……シャルカスフィア? シャルカのことか。

「ルカストフォロブ……」

 シャルカは嫌そうな顔になってぼそっと言った。

「あら、シャルカ。この精霊さまとお知り合いなの?」

「別に」

 ミラの質問にも、シャルカはそっけない。

 ……何かわけありかな? まぁ、後でルカにでも聞いておこう。

 イシュルは天井と周囲の壁が消えた広間を見渡した。場は陽光に満ち、明るさが屋外と何ら変わらない。崩れた壁の外側には、イシュルの風の魔力に巻き込まれ枝葉を飛ばした木々が、その向こうの土壁の辺りには、ネルの展開した風の魔力の壁が薄く水色に輝いて見える。

 ……しかしやられた。まさか初撃で、魔法を使ってこなかったとは。

 魔法陣を仕込むと精霊に見破られる場合がある。精霊は魔法の発動にも当然、敏感に反応する。魔法使いもそれは同じだ。バシリアはそのことを知っていて、地下に落し穴や釣り天井のような、魔法を使う必要のない罠を仕掛けていたのだ。

 この領主館には地下に牢獄がある。その施設を利用して、こちらが到着する前に突貫で工事を行ったのだろう。あるいは以前から何らかの仕掛けがあり、それをさらに大掛かりのものに改造したのかもしれない。

 ……盾さまも気づいたか?

 イシュルの思考を読んだか、ルカスが語りかけてきた。

 そういえば、この一件で最初に反応したのはルカスだった。彼は確か「やられた」とか叫んでいた。

 ……地下の仕掛けのことか?

 ……ああ、それだ。盾さまもやはり気づいていたのか。

 ……いや。地下に古い牢獄があるのを知っていただけだ。

 牢獄など地下空間の存在は感知できたが、時間をかけ集中して調べないと、その空間の詳細はわからない。どんな罠が仕掛けてあるか、そこまではわからない。

 ……鎖かな? その束が地下で動くのがわかったんだ。

 ……そうだな。

 鎖の、金属の存在とその動き、他に縄、石材や木材らしき物体の動きも感じることができた。

 ただそれも一瞬のことで、地下だったので感知自体も遅れ、まともな対応ができなかった。

 直後に現れ地面を崩落させた土の精霊は、バシリアの契約精霊だったろう。土魔法が使えるなら、地下に大規模な仕掛けをつくるのもそれほど困難ではなかったかもしれない。

 ホールの壁を支える部材を、てこなどを介し錘(おもり)でバランスをとって固定、その錘を切り離すことで部材がはずれ壁が崩落、続いて天井、屋根も崩れ落ちる、そんな仕掛けになっていたのではないか。今はルカの金魔法で地下が塞がれ、詳細を検分することはできないが。

 イシュルはルカスに引き続き周囲の警戒を命じると、ルシアやロミールたち従者と髭の男らに囲まれた、マーヤやニナの方へ目をやった。

 ふたりはイシュルに小さく頷き、落ち着いた視線を向けてくる。

 彼女らの足下には以前の床が一部、まだ残っていた。ベニトが発した土魔法の干渉で、崩壊を免れたのだろう。その周りはルカスの張った鉄塊で覆われ、所々大小の瓦礫が頭を出している。

 ……マーヤたちは特に、怪我などしていないようだ。

 それはよかったのだが、ベニトは彼女らの背後で床に座り込んでしまっている。先ほど現れた土の精霊との一瞬の魔力対決で、あっという間に消耗してしまったのだろう。彼にも契約精霊がいる筈だが、土の精霊はゴーレム型の場合が多い。ベニトの精霊もそのタイプなら、この場で召喚するのはいささか危険だ。

「エバン、こちらは大丈夫だ。手筈どおり、シーベスと連絡をつけサリオを確保しろ」

 フリッドが剣を鞘に収め、髭の者たちに命令を出す。

「はっ」

 エバンが頭を下げると男たちはさっと、一斉に四方に散った。

 ある者は扉の落ちた出入り口から、ある者は崩れた壁を飛び越えていった。

 皆よく訓練された素早い動きで、特に壁を超えていった者たちは、その跳躍からも武神の魔法具を所持し、発動しているように見えた。

「ミラも作戦どおり、よろしく頼む」

 イシュルは右肩にもたれかかるように身を寄せるミラを見下ろし、小声で言った。

 ミラとシャルカは戦闘後空中から周囲を警戒、ネルやルカスらとともに敵に増援があればこれを殲滅し、もしくは城内の残敵を掃討することになっている。

「わかりました──」

「イシュル!」

 ミラの声に背後から、リフィアの叫ぶ声が重なった。

 リフィアとリリーナは広間から逃げたバシリアを追って行ったが、声の感じからするとそれほど離れてはいない。彼女は隣の、控えの間と思われる部屋にいるようだ。

 バシリアもあのふたりから逃れることはできなかったろう。彼女は隠れ身の魔法具を持っている筈だが、加速の魔法と同時には使えない。

 イシュルは、シャルカの肩に乗り空中に浮かんだミラに頷いてみせ、フリッドの顔を見て視線で了解を得ると、リフィアの声がした方へ駆け出した。

 ネルとルカスはすでに空中に姿を消している。フリッドやマーヤはその場に留まり、髭の報告を待ち、何か異変があれば対応することになっている。

 イシュルは、鉄塊から頭を出す崩れた石材の間を跳躍を繰り返し、広間の奥の控え部屋へ移動した。

 崩壊を免れた奥の部屋はまだ、埃が薄く立ち込めていた。

天井丸ごと、そして周りの壁も多くが吹き飛んだ大広間から中へ入ると、妙に暗く感じられた。

 イシュルは微風を吹かせて埃を払い、奥へ進んだ。バシリアと同じく逃げていったメイドたちはどこへ行ったか、誰ひとり姿が見えない。

 控えの間は、奥に続く階段ホールともとは同じ部屋だったらしく、間仕切りの薄い壁で半分ほど仕切られているだけだった。階段室との間に扉はなかった。

 リフィアとリリーナはその階段ホールの片隅にいた。

 バシリアは両手両足を縛られ、彼女らの足元に倒れていた。

 中二階の踊り場の窓から差し込む光、その影になった暗がりの中に横たわっていた。

 イシュルが階段室に入ってくると女頭目は怒りと怖れに血走った目(まなこ)で、下から睨みつけてきた。

「謁見の間の方は皆無事だったか?」

 リフィアがイシュルに声をかけてきた。

「ああ」

 イシュルは頷くとバシリアの前に立ち、その鋭角な顔を無表情に見下ろした。

「くっうう。縄をほどけっ! あ、あたしにこんなことして、……ひっ」

「静かにして」

 バシリアが言い終わる前に、リリーナが手に持つ細剣の刃先をその横顔に当てた。

「大仕掛けの罠でなかなか良かったぜ。初撃で魔法を使わなかったのは考えたな」

 イシュルは薄く笑みを浮かべてバシリアに言った。

 ……他の、みんなはどうだったか知らないが、俺自身はかなり焦った、慌てた。

 リフィアに顔を向ける。

「で、なぜ俺を呼んだ?」

 このふたりに捕まったのなら、バシリアがどんなに力のある魔法使いでも、何もできないだろう。この女が逃げる見込みがないのなら、今はほっておけばいい。他に急がなければならないこともあるし、後回しでいい。

「あの土の精霊はこの女のだろう? 身につけているものを検(あらた)めたんだが、この者は土の魔法具を持っていない。火の魔法具も、毒味の魔法具も見つからない。持っていたのは疾き風の魔法具だけだ」

「これね」

 リリーナが何の変哲もない、ありふれた銀製の指輪を見せてきた。

「それに……」

 リフィアの眸が細められ、口許が引き締められる。

 何か、焦れたような顔をした。

「何だか変な感じがするんだ。イシュルは何も感じないか? この女はどこかおかしい」

「えっ」

 ……言われてみれば。

 イシュルは呆然と床に横たわるバシリアを見下ろした。

 四肢を縛られた女頭目は乱れた髪の下、額に汗を浮かべている。

 ……この感じ。

 女のからだから、微かに魔力が漏れ出ている……。

 イシュルはまたしても、以前に味わった苦渋を思い起こした。

 バシリアから滲み出ている魔力はごく弱いものだ。だがこれは、あの時感じた違和感と同じものだ。直感的にわかった。

 あの時。

 それはウーメオの舌で、エミリアが殺された時。

 メリリヤの姿をした月神レーリアが現れた、争闘の夜だ。

 エミリアを刺した妹のエンドラ、エンドラに化けていたセルダが死んだ時、あの時セルダが被っていた、“変わり身の仮面”。

 精霊神の、変身の魔法具……。

「ネルっ!」

 イシュルはどこか遠く、宙を見つめて叫んだ。

 ……剣さま。

 ネルレランケは姿を見せず、声だけを寄こしてきた。

 ……この人間の女は仮面の魔法具を付けてないか? どうだ? 

 ……そういえば、何か感じますね。

 ネルがほんのわずかの間、沈黙する。

「剣さま、この人間の顔を掴んで、風の魔力を流してください。剣さまの魔力に抗しきれる魔法などありません。何か変化があるでしょう」

 そして耳許で、ネルがはっきりと声に出して言った。

「それは」

「えっ……」

 ネルの声はリフィアとリリーナにも聞こえたか、ふたりが揃って顔を強ばらせた。

「がっ!」

 イシュルはネルが言い終わるが早いか、すかさず右手を伸ばしバシリアの顔を掴んだ。頬から顎にかけ、イシュルの指先が食い込むと女は奇声を発し全身を硬直させた。

 心のうちを、あの夜の怒りと悲しみが甦る。全身を激情が駆け巡る。

「……」

 イシュルの目の色が変わった。口角を引き締め、厳しい顔つきになる。

 イシュルは風の魔力を女の顔に流した。

「あ、あああっ」

 バシリアの顔が苦痛に歪み、全身を震わす。

「ぎゃあっ」

 女の顔面に青白い魔力が瞬くと、その顔がどろっと、液化するように歪み形を失っていく。

 バシリアだった顔が完全に消えると、薄汚れた白い仮面が現れた。

 指先に人肌の感触が消え、厚く塗られた樹脂の、ひんやりした触感に変わる。

「間違いない、これは変わり身の仮面だ」

 イシュルはバシリアだった女の顔から仮面を引き剥がした。

 その下にあった顔は全くの別人、髪の毛や肌の色は同じだったが、目鼻立ちは明らかに違う、見知らぬ女の顔だった。

 その女は半開きの眸から涙を流し、口許からは涎を垂らして気絶している。女はイシュルの風の魔法に当てられたか、あるいは変わり身の魔法が切れた時の衝撃で気を失ったようだ。

「変わり身の魔法具! それは確か、聖王家に伝わるという……」

「伝説の魔法具ね」

 呆然と呻くリフィアの言葉尻を、リリーナがとらえて言った。

「ミラを! ……ミラを呼んでくれ」

 イシュルは感情の消えた眸をリフィアに向け、この世の終わりのような悲痛な声で言った。

「わかった。……いますぐ連れてくる」

 リフィアはイシュルの肩に手を置くとひとつ頷き、そのまま眸を真紅に染めると瞬時に姿を消した。

 イシュルは、胸のうちにこみ上げる苦痛に耐えるように、左の拳を握りしめた。

 右手に持つ仮面を、思わず握り潰したくなる衝動にじっと堪える。

 エミリアが、セルダが、あの夜死んだ。

 エミリアの妹のエンドアはすでに殺されていて、孤児院をつくろうと考えていた姉妹の夢は露と消えた……。

「大変なことになったわ」

 リリーナが辺りに顔をめぐらせ呟いた。

「……イシュルさん、しっかりして。わたしたちには今、どうしてもやらなきゃいけないことがあるのよ」

 リリーナは多分、聖石鉱山で起きた悲劇のことを知らない。

「本物のバシリアを探さないと」

 だがそれがどうした? 彼女の言うことは正しい。

「……」

 イシュルは唇を噛みしめると俯向けていた顔を上げた。

 湧き上がる激情をぐっと押さえ込む。

 ……そのとおりだ、あの女を逃してはならない。

 今足下に転がっている偽者は気を失っている。起こしたらすぐに吐くだろうか。いや、バシリアがどこに隠れたか、逃げたか、はじめから知らされてなどいないか……。

 俺たちで、急いで──。

「イシュルさま!」

 その時、後ろでミラの叫ぶ声がした。リフィアとシャルカ、三人の気配が近づいてくる。

「ミラ」

 イシュルは呟くように言うと、彼女に白い仮面を掲げてみせた。

「……間違いないようですわね。これは聖王家の至宝、変わり身の魔法具です」

 ミラはイシュルから仮面を受け取りあらためると、厳しい口調で言った。

「この仮面は見た目どおり、相当古いものです。何百年も前に何らかの理由で、聖王家から流出したと思われます」

 変わり身の魔法具は表面は黄ばんでくすみ、裏側はところどころ木片を当てられ、樹脂を塗られて修理されているs。

「しかし、こんな僻地にな」

 バシリアはこの街の、前の領主だった者から奪ったのだろうか。

「大昔は荒神バルタルの神殿があったのですから、この辺りもそれなりに栄えていたと思いますわよ、イシュルさま」

 ミラの言うとおり、その時代には人の往来も、今よりずっと盛んだったかもしれない。

「……そうかもな」

 イシュルは小さくひとつ、頷いた。

「とにかくバシリアを探さないと。急いだ方がいいぞ」

 横からリフィアが割って入る。

 確かにバシリアの逃亡を許してはならないが、ネルが城館の周囲に結界を張っている。力のある魔法使いでも突破は不可能だ。

「ホールに出入りしていたメイドたちが、怪しいわね」

 リリーナが細い指を顎先にそわせ、考え込むようにして言った。

 彼女はバシリアがメイドになりすまし、あの場にいたのではと言っているのだ。

 首謀者であれば当然、本人はその場にいたか近くで直接見ていたろう。

 敵方でホールを出入りしていた者は、バシリアの偽者以外数名のメイドだけだ。案内役の執事はすぐホールの外、控えの間に退いていた。

「ルカは地中に金の魔力を突き刺し、地下に脱出路がないか調べてくれ。ネルは城館内の敵味方の動きを教えてくれ」

 イシュルは視線を宙に向け、ふたりの精霊に声を出して命じた。

 ……了解。

 ……かしこまりました。

 ふたりの返事がすぐ心のうちに響く。イシュルも城館の内外に風の魔力の感知をめぐらしはじめた。

 だがネルは、イシュルに答えるとほとんど間をおかず、報告をはじめた。

 ……剣さま、まずは館の中から。

「あっ、うん」 

 こういったことは人間の魔法使いより精霊の方が早い。

 イシュルは自らの感知を中断、ネルとの会話に集中した。

 リフィア、ミラとシャルカ、それにリリーナが無言でじっとイシュルを見つめてくる。

 ……この館の中ではまず、二階の奥の方に数名の人間の気配があります。あとは館の外、本館の西側にある使用人の宿舎らしき建物に十名近く集まっています。他は──。

 ネルは城館とは別棟の倉庫らしき建物に、バストルらしき人物が囚われていることも報告してきた。

 使用人の宿舎に集まっているのはつまり、この館のメイドなど下働きの連中だろう。ほとんどの者は街で雇われた一般の住民で、盗賊団とは関係ない者たちの筈だ。

「この館の二階が怪しいかな? それともシーベスら髭の連中が、サリオを確保してるんだろうか」

「バシリアはそのまま、使用人たちの間に紛れこんでいるんじゃないかしら」

 イシュルがネルの報告をミラたちに説明すると、リフィアとリリーナがすかさず自身の意見を口にした。

 ……ふむ。

 イシュルも顎先に手をやり、考え込む。

「本館二階は俺が行こう。リフィアとリリーナさんは外の使用人部屋の方を、ミラはホールに戻ってフリッドさんとマーヤたちに状況を報告してくれ」

 イシュルはリフィアたちを見回し、「城館の周囲は閉鎖してある。バシリアは逃げられない。あわてず、確実に調べを進めよう」と続けて言った。そして変わり身の仮面をミラに預けた。

 あの時、月輪の夜の苦渋の記憶を、今は心の隅に押し込めておかねばならない。感傷にひたる暇はない。影武者を立てて逃走を計ったバシリアを、何としても捕らえなければならなかった。

「よし。ではイシュルの指示どおりにいくか」

 リフィアがいの一番に頷き、ミラやリリーナを見回し張りのある声で言った。



 階段を昇って二階に出ると、西方向に長い廊下が伸びていた。

 ……館の周りに街の住民が集まって来ています。

 と、ネル。

「ほっておけ」

 イシュルは視線を廊下の奥にやりながら言った。

 古い、大理石の床の上に渡されたくすんだ紺色の絨毯が、左右に立ち上がる木材と石材のからまった壁の奥に消えている。

 廊下に並ぶ部屋の扉が幾つか開かれ、そこから陽光が差し込んでいる。

 歩を進め、破壊を免れた古い屋敷の静寂に踏み込む。

 ……確かに一番奥の部屋に、ひとの気配がある。

 イシュルはゆっくりと廊下の奥へ進んでいく。

 これはリフィアの言ったとおり、シーベスらがサリオを確保している、数名がひと部屋に籠もって話し込んでいる、そんな感じだ。

 このフロアには他に、ひとの気配は一切ない。

「ん?」 

 廊下の中ほど。開いた扉の奥で、何かが動く気配がした。

 窓に薄布がはためいている。窓掛け(カーテン)だ。

 イシュルは一瞬、その窓の方へ視線をやった。

 その時だった。

 一番奥の部屋で動きがあった。ガラスが割れ、ひとの激しく動く音。

 そして魔力の煌き。

「剣さま!」

 ……ネリーよ。

 イシュルはネルの叫びを耳に、ネリーの腕輪を起動した。

 周囲から音が消え、事物の存在感が遠ざかっていく。

 イシュルは奥の部屋に向かって駆け出した。

 その目前を火炎が吹き上がった。奥の部屋の扉が吹き飛び、中から炎が吹き出した。

 火魔法か。

 風の魔力を下ろして、中にいる者を丸ごと固めてしまうか。

 だが、それをすると味方の動きも封じてしまう。

 不自然な速度で宙を舞う焔(ほむら)。その煌きが後方へ流れていく。問題の部屋は右側だ。からだを捻り、片手を上げ風の魔力を掴む。だがその瞬間、他の誰かの魔力の閃光が視界を覆った。

 部屋の奥、北東側の窓から人影が突入してくる。その手前にひとがいる。

 黒く沈んだ人物に足首をとられ、バランスを崩す女。長い髪を振り乱し、イシュルと目が合うと薄い唇を醜く歪めて笑みを浮かべた。

 本物の、バシリアだった。

 ……火魔法を使ったのはおまえか。

 そしてこいつは今、加速の魔法を使っている。俺の顔を見て微笑んだのだ。

 この女の殺気は俺に向いている。

 何を使う? 火魔法か、このまま加速の魔法でやるのか。

 だが間に合わないよ。

 もう、何をやっても無駄だ。

 イシュルは薄く笑みを浮かべた。

 後ろから手が伸び、バシリアの頭をつかんだ。

 もう片方の手が女の腕を捉え背中へ捻りあげる。

 仰天し苦痛に歪むバシリアの顔。背後の窓からもうひとり、飛び込んでくる。

 ひるがえるマントと金髪、リリーナだ。

 室内で起こった一瞬の闘争。それはあまりにも早く、あっけなく終わった。この瞬間で大勢は決した。

 イシュルは加速の魔法を解いた。

「くっ」

 女の上げる低い呻き声。

 バシリアは背後からリフィアに押さえ込まれ、床に顔を擦りつけていた。

 特殊な染料を使っているのか、髪の毛の色が黒っぽく、濃い色に染められている。

 服装はホールで給仕をしていたメイドたちと、まったく同じだ。

「バシリアは捕まえたが……。間に合わなかったか」

 リフィアは周囲にちらっと視線をやって言った。

「ああ、すまん。もっと急げばよかった……」

 慎重に行き過ぎたか。加速の魔法を発動し間髪をおかず、一番奥の部屋に全速で向かえば良かったのだ。

 イシュルも所々焼け焦げた室内を見回し、顔を俯け苦しげな表情をした。

「そんなことはありませんよ、イシュルさま。我々“髭”の失態です。油断しました」

 バシリアの足首を掴んでいた男が、イシュルに声をかけてきた。

 頬から首筋辺りにかるく火傷を負い、左足のどこかを傷めたか、床に片膝をついている。その男はイシュルのよく見知った人物、髭の小頭(こがしら)のエバンだった。

 客室の控えの間にあたる室内には、他に上半身が真っ黒に焦げた男の死体が二体、膝下が黒く炭化し、部屋の片隅でうずくまって呻吟する男がひとりいた。

 負傷した男は味方の髭の男で、リリーナが取り付いてすぐに応急処置をはじめた。

 エバンによれば二人の死体は片方がサリオ、もう片方がシーベスということだった。ふたりとも上半身に火魔法が直撃、面識のあったシーベスがどちらかも、はっきりとわからない有様だった。

 イシュルはエバンの話を聞きながら窓から風を入れ、様々なものの焼け焦げた匂いを廊下の方へ吹き飛ばした。

 火魔法の火炎は独特で、攻撃対象を強力な火力で一瞬で焼き尽くす一方、対象外に延焼が及ぶことは少ない。

 逃げずに部下のサリオを葬ったバシリアの大胆な行動、それで彼女が何を狙っていたか、一目瞭然である。

 この女は自分が捕らわれる、殺されることなどまったく考えていなかった、逃げ切れる自信があったのだろう。鍵となる人物、サリオがシーベスらと接触したことを知ると、使用人らに混じり宿舎の方へ隠れようとしていたのを本館に引き返し、サリオたちを葬った。あるいはサリオの裏切りを以前から察知し、ホールでの一戦の後館内の某所に隠れ、シーベスらと接触した時点で妨害に出たのだ。

 サリオを亡き者にすれば、こちらは穴蔵団の生き残りを慰撫し、カナバルの住民の人心を安定させるのに、大幅な時間と手間をとられることになる。

 バシリアはこちらの追及をかわし逃亡を続けながら、そこら辺から情勢を自分に有利になるよう、覆すことを考えていたのではないか。

 ……まったく面識のなかったサリオらしき人物は黒焦げ、シーベスも同様で彼の命が失われた実感が、まったく湧いてこない……。

 サリオの死がこれから先どれほどの痛手になるか、マーヤやフリッド・ランデルと話し合って、うまく対応していかなければならない。

 イシュルはリリーナの方を見て、

「ニナを呼んできましょう。彼女ならそれなりの治療ができる」

 と声をかけると、バシリアを押さえ込むリフィアの方へ顔を向けた。

 彼女の腕力に息も絶え絶え、疲弊したバシリアを見下ろしイシュルは続けて言った。

「こんな僻地で変わり身の仮面を見ることになるとはな。やるじゃないか、バシリア」

 イシュルは白い歯を見せて笑った。

「だが使い方が悪い。おまえ自身が侍女にでも化けて、逃げに徹すれば良かった。でなければこんなことになってなかったと思うぜ?」

 変わり身の仮面を影武者を立てるのに使うのではなく、自身の逃亡に使うべきだった。

 情報不足から敵味方の戦力差を誤り、強気に出て自滅する典型的なパターンだったと言える。

「くっ、だけどどうするんだい? サリオはあたしが殺した。あんたら、これから街を鎮めるのに苦労するんじゃないかい」

 頬を床に押しつけられ、血走った片目を上向け必死にイシュルを見上げてくるバシリアの顔には、鬼気迫るものがあった。

 ……なるほど、誰が言ったか「蛇のような女」とは言いえて妙だ。

 こいつはぜひ、殺してしまわないとな。

 だが、この女には失ったサリオの代わりに、なんらかの利用価値があるはずだ。殺すのはその後でいいだろう。

 バシリアはとりあえずリフィアにまかせて、フリッドに状況を知らせよう。シーベスの死も重大時だ。

「……」

 イシュルはバシリアの挑発を無視し、リフィアに微笑みひとつ頷いてみせると廊下に出た。するとその先に、階段を上ってくるミラやマーヤ、ニナたちの姿が見えた。

「イシュル!」

「イシュルさん!」

 マーヤとニナがばたばたと廊下を駆けてくる。

 彼女らの後ろにはミラとシャルカ、最後には都合よく、フリッドもいた。

「火魔法だね。バシリアがやったの?」

「ああ。ニナ、たのむ。髭の者に怪我人がでた。急いで手当てしてくれ」

 イシュルは返事もそこそこにニナに声をかけ、彼女を室内に招いた。

 リリーナに代わって負傷者を看てもらうと、イシュルは再び廊下に出てフリッドらに状況を説明した。

「サリオが殺られたのか、それにシーベスも……」

 フリッドが難しい顔になって顎に手をやった。

「申しわけありません」

 イシュルに続いて廊下に出てきたエバンが、疲れた声で言った。

「サリオを失った件、対応を考えなければなりません。後でベニト殿も交えて話し合いましょう」

 イシュルは声を低くしてフリッドの顔を見、エバンに視線を移しながら言った。

「うむ」

 フリッドはひとつ小さく頷くと、「わたしに考えがある」と続けて言った。

「バシリアを幸い、生け捕りにできた。あれをうまく使ってなんとかできるかもしれない」

「……」

 イシュルは無言で頷いた。

 フリッドが何を考えているのか、何をしようとしているのか、何となくわかるような気がした。

「さてと。男たちはこのまま、部屋から出て近寄らないように」

 そこで後ろからマーヤの声がした。

「ふふ」

 振り返ったイシュルに、マーヤがほんの微かに笑みを浮かべる。

 マーヤが扉の前に立って、イシュルたちを見上げていた。

「これからわたしたちで、バシリアの身に着けている物を検分する。魔法に関係するものはもちろん、すべてを身包み剥ぐ」

「あっ、……なるほど」

 イシュルは顔をひきつらせて頷いた。

 魔法具には舌ピアスのようなものもあるだろうし、隠れ身や疾き風など無系統なら魔方陣の刺青もある。それこそマーヤの言うとおり、女たちでバシリアを身包み剥いですべての魔法具を奪いとるのだろう。

「あの女が土と火の魔法具を持っているのはわかってる。他に何をもっているか、楽しみ」

 マーヤはそこではっきりと笑みを浮かべた。

 イシュルはフリッドやエバンと、ベニトやロミールらのいるホールに引き返すことにした。

 髭の怪我人を看ているニナは、奥の部屋に移って治療を続けるということだった。

「イシュルさま。例の穴蔵団の男たちが、館の西側にある倉庫の前であなたさまを待っています」

 階段室の手前まで戻ると、髭の男が下から駆け上がってきてイシュルに言った。

 穴蔵団の男たちというのは、セグローとフェルダール、ニセトのことだ。彼らはいつからか、イシュルたち一行が領主館に招かれる前から、内部に侵入していたようだ。

「わかった」

 イシュルは髭の男に頷き、フリッドにひと声かけて城館の西側にある倉庫の方へ向かった。



 城館一階に下り、晩餐室の隣の控えの間から外に出る。

「バシリアの動きを見逃したな」

 イシュルは声に出してネルを呼んだ。

 バシリアの火魔法は唐突に起こったが、その時点で彼女はすでに、エバンら髭の者たちやサリオと同じ部屋にいたことになる。

 ネルはバシリアの動きを見逃したか、些事と判断してイシュルに知らせなかった。

「申しわけありません、剣さま。ただの女中と思ったので……」

 ネルによるとその女中は一旦、他のメイドらと同様に使用人の宿舎の方に移動した後すぐ、サリオと髭の接触している城館の一室に戻っている。ネルは「その女中は盆らしき物を手に持ち、室内にいる男たちに給仕している様子だった」と続けて言った。

「ふむ……」

 バシリアはいっしょに逃げてきた使用人から、サリオが本館の一室で誰かと会っているのを聞いたのだろうか。それとも土以外の召喚精霊にでも、見晴らせていたのか。

 魔法を使わせず気配を悟らせずに、例えば見張りに集中させるなどすれば、人間の魔法使いはもちろん、精霊でも見つけるのが困難な場合がある。ネルが見逃すことはあり得る。

 城館の裏手は、早くも初夏を思わせる深い緑の木々に、イシュルには場違いとも思われる穏やかな陽光で満ちていた。小鳥の鳴き声もそこかしこで盛んに聞こえてきた。

 バストルの囚われている問題の倉庫は館の南西、古い煉瓦造りの倉庫が複数並ぶうちのひと棟だった。

 城館から見て二列目、手前の倉庫の扉の前に見知った三人の男たちがいた。

「やぁ、イシュルの旦那」

 セグローは相変わらず、イシュルに馴れ馴れしい口を聞いてくる。

「バシリアのやつも、うまくとっ捕まえたみたいだな」

「風と金の大精霊か? 同時に召還してるのか。……容赦ないな」

 フェルダールがいつもよりさらに顔色を悪くして言った。その声は驚愕と恐怖に震えていた。

「もう穴蔵団もおしまいだ。あっという間だぜ」

 と醒めた口調はニセトだ。

「バストルは無事そうだ。よかったな」

 イシュルは倉庫の、無骨な鉄の扉に目をやった。

 鉄扉には小さな覗き窓があったが、そこから中の、バストルの様子はよくわからなかった。

 彼にはイシュルたちの話す声が聞こえている筈だが、今は眠ってでもいるのか、それらしい反応はなかった。

「むっ」

 そこで館の方から、ひとの近寄る気配があった。イシュルが振り向くと、まばらな木陰の中を華やかな銀髪が舞った。

「リフィア」

 イシュルは小声で呆然と呟いた。

「バシリアの検分はいいのか」

「うむ。あれはマーヤ殿やリリーナ殿にまかせておけば、問題ないだろう。わたしの出る幕はないな」

 リフィアは「それより」とセグローらを見回し言った。

「おまえたちの仲間を、いよいよ助け出すのだろう? わたしも立ち会わないとな」

「……あ、ああ。助かるぜ」

 リフィアはこれで誓約が果たせるということなのか、にこにこと機嫌がいい。

「実はあんたらの手を借りたくてな。フェルダールが扉に何か仕掛けがしてあるというんだ」

 セグローは今度も、揉み手をするような勢いで媚びた口調で言ってきた。

「火系統の魔法で何か罠が仕掛けてあるようだ。力まかせに、無理やり開けてもいいんだが……」

 こいつらが倉庫の前でおとなしく待っていたのはそれが理由か。

「わかった」

 イシュルは片手を上げて鉄扉に触れる。扉の内側、四隅に何か仕掛けがあるのがわかる。

「ネル、たのむ」

 イシュルはそこで風の精霊にお願いした。

 自分がやるより彼女の方が確実、きれいに処理するだろう。

 ……わかりました、剣さま。

 ネルの声が脳裡に響くと同時に、鉄扉の裏側で風の魔力が輝き「しゅっ」と音がして、トラップの気配が消えた。

「じゃあ、開けるぞ」

 イシュルは心のうちでネルに礼を言うと、セグローらに振り向き言った。

 鉄扉は引き戸で、鎖が幾重にも巻かれた閂で閉められている。

 金の魔法を使えば簡単に開く。

「いや、それはわたしにやらせてくれ」

 と、そこでリフィアが後ろから割り込んできた。

 彼女は左手で扉をおさえると閂を覆う鎖の束に右手をかけ、まるで紙か布を引き裂くように鎖の束ごと、閂を扉から引き剥がした。

 そしてそのまま扉を横に引き、開けてしまった。

「……」

 牢獄がわりに使われてきた倉庫、その暗がりに陽光が差し込む。

 明と暗の直線の境目に、ひとりの男が浮かび上がった。

 赤銅色の肌に艶のない銀髪、上は皮鎧に下は厚地の生成りのズボン。粗末な椅子に座っている。

「バストル?」

 後ろでセグローの声がする。

「ふぅ」

 バストルと呼ばれた男はかるくひと息吐くと顔を上げ、陽の光の眩しさに微かに眸を細めた。

 そしておもむろに立ち上がる。

「……」

 イシュルはその男の奇妙な存在感に目を見張った。

 短めの銀髪に引き締まった顔、その灰色の眸がイシュルに向けられる。長身のフェルダールよりやや低いがよく鍛えられた、己の肉体で戦う者のからだつきをしている。

「だ、誰だ? あんた」

 男が扉の前に出てくると、さっと場の空気が凍った。

 ニセトが不安な声で叫ぶ。

「あんた、バストルじゃないな?」

「ふっ」

 男はニセトの言に破顔した。

 その顔はだが、すぐ斜め前に立つイシュルに向けられた。

 男は低い声で、ほとんどイシュルにだけ聞こえるように言った。

「イシュルと申したか。おまえに用があってな」

 小さいが乾いた、荒々しい声音だった。

 男の灰色の眸に、イシュルのぼやけた像が映る。

「風と金のふたつの魔法具を持つその力、見せてもらおうか」

 男の顔から笑みが消える。

 その瞬間、周りのものすべてが停止した。



 空から、木々から、すべてのものが色彩を失う。

 世界は灰色に、続いて薄い青緑に染められていく。

 リフィアが、セグローたちが人形のように動きを止め、生気を失い、青緑に染まると同時に消えていく。

「なっ、なにが」

 イシュルは小さく一歩、後ろに下がると呆然と呟いた。

 これは……。

 イシュルは目の前に佇む男を見る。その灰色の眸と視線が合った。

 まずい。絶対的に。

 イシュルはその瞬間、全身が総毛立つのがわかった。

 心のうちを冷たい塊が落ちていく。

 赤帝龍やユーリ・オルーラらと対した時と同じだ。

 いや、それ以上か。こいつはあいつらより、強い……?

「好きにしていいぞ。ここは俺の結界だ」

 男の口角が捻りあげられる。

「!!」

 眼前を覆う、強烈な殺気。

 次の瞬間世界が、自身が吹き飛ばされるのを感じた。

 己が、自分のどこかが勝手に反応したのがわかった。

 死の淵がすぐ目の前を通り過ぎていく。

「はっ、はっ、はっ」

 全身に激痛が走る。肺が千切れるように痛い。

 気づくと空に、カナバルの街から数里長(スカール、約2、3km)ほども離れた空中に浮かんでいた。

 あの正体不明の男じゃない。これは俺だ。俺自身がやったのだ。

 ……風鳴り。

 俺の師匠のレニが、いやイヴェダが教えてくれた瞬間移動の風魔法だ。

 今まで感じたことのない、いいようのない恐怖が、本能的なものが、この苦痛に満ちた魔法を発動させたのだ。

「たぶん逃げることはできない。全力ですり潰す」

 ……それしかない。

 イシュルは街の方、中心部が崩落した城館の方を見つめた。

 青緑色に染まった世界は風もなく、音も、動くものも、いや、他に生き物がいない。

 むやみに明るく晴れた空は雲がなく、諧調がない。

 つくりものの世界だ。

 ありったけの金の魔力を降ろす。

 魔力は通じている。

 この結界ごと葬ってやる。

 ……やつが月神の、レーリアの寄越した者なら。

 無人のカナバルの街の上空に、真っ赤に燃える巨大な鉄塊が現れた。それはどんどん巨大化し、街を飲み込み、鋼鉄や鉄、何か他の金属を含む合金となって固体化していった。

 その中心にあの男がいる。

「くっ」

 イシュルは右腕を突き出し、その巨大な金属の塊に向けた。

 そして燃え盛る巨塊を風の魔力で覆い、力まかせに捻り潰す。

 同時に己自身も風の魔力で包み、防御した。

 その魔力の壁の外側を、強烈な爆風が渦を巻いた。風の魔力で潰された巨大な金属の塊は、七色に幾重にも光り輝き、爆発を繰り返し、周囲にあるすべてのものを焼き尽くし、消し飛ばした。

「これでもだめか……」

 視界を覆う強烈な輝きに、すぼめた眸の中心に、小さな黒点が浮かんだ。

 あの男は同じ場所に、そのままでいる。

 その黒点は次の瞬間にはイシュルの正面、数長歩(スカル、4、5m)の距離に人型の影となって現れた。

「ふむ、ダメだな。貴様、まだ本気を出してないだろう?」

 男の背後には未だ爆風が渦を巻き、空を引き裂くような轟音が鳴り響いている。

 その人影は何事もなかったかのようにそう、落ち着いた声で言った。

「おまえは何者だ? レーリアの差し金か。月神の眷属か」

 ……これがあの女神の罠だったのか。俺を本当に殺しにきたのか。

 今、このタイミングで?

「ふん? なんだ? それは」

 男はいぶかしげに首を傾けた。

「レーリアだと? 月神か、……知らんな」

 そして白い歯を見せて笑った。

 ……月神は関係ない、だと?

 イシュルを新たな、得体のしれない恐怖が襲う。

「なら、おまえは誰だ?」

「俺か? ……まぁ、俺がバストルでないのは確かだな」

 男は笑みを浮かべたままだ。

 まだ街の方は業火に包まれ、男の表情は逆光になってはっきりわからない。

「手を抜くなよ? 俺を斃す気で来い。そうすれば教えてやる」

 黒い影に浮かぶ眼光が、微かに細められた。

 男の放つ殺気が、いや闘気が再び、死の世界を覆った。

 

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