山上の龍



 城壁の影が長く伸びて、東宮前の小さな広場を覆っている。

 影の中には多数の人馬がひしめき、喧騒に満ちている。人々の話し声や馬の嘶き、蹄の地面を掻く音。様々な物と物との擦れ打ち鳴らされる音が混ざり合って、いっこうに収まらない。

「気をつけて、イシュル殿」

 影の向こうにそびえる南門。その東側を朝の鋭い陽光が照らしている。

 その金色の輝きを漠然と眺めていたイシュルに、横から声がかけられた。

「やあ、おはよう」

 イシュルが顔を向けると、すぐ傍に三人の若者が立っていた。

 国史閲覧室で、ともに地下神殿の記録を探してくれたジェーヌら都市貴族の三人組だ。

「わざわざ来てくれたのか」

「ああ、あんたには世話になったからな」

「おかげで内務卿のじいさんや、取次ぎ役の連中からも一目置かれるくらいになったんだ」

「イシュル殿のおかげですよ」

 イシュルが笑顔になると、ジェーヌ、セルジュ、リリアンらも揃って笑みを浮かべ、明るい口調で言ってきた。

 今日は春の一月(四月)の十日。今、これからまさにブレクタスの地下神殿に向け出発するところだ。

 東宮の南門にはマレフィオア討伐隊の面子の他にも、多くの者たちが見送りに集まっていた。

「良かったな、貴公ら」

 近くにいたリフィアが寄ってきて三人組に声をかける。

「い、いや……」

「は、はは」

「あ、ありがとうございます。リフィア殿」

 ジューヌらは三人とも、気恥ずかしそうな顔になって頭を掻いたり、顔を赤らめたりした。

 イシュルやリフィアたちと閲覧室にこもって二月ほど。だが未だに彼女と話すのは少し緊張するようだ。

 有力都市貴族の出だが次男三男坊でやる気がなく、内務卿配下の取次ぎ役見習いを実質、ドロップアウトしていた彼らだったが、この二ヶ月間の国史調査で様々な知識を得て、見習いとしては充分過ぎる素養を身につけた。

 彼らが得たものは王国の歴史だけではない。王家で作られる様々な書付けや書簡の書式はもちろん、宮廷政治の言葉では表現しにくい空気感や、その裏側を察することができるようになった。

 数百年に及ぶ国史を熟読すると、いろいろと得るものも多いのだろう。

「……」

 イシュルは顔に笑みを貼りつけたまま、ジューヌらの顔を見つめた。

 もしそのまま宮廷のゴロツキ、不良貴族となっていたら、彼らはいずれソニエ・パピークのような境遇にさえ、置かれることになったかもしれない。

 ……ソニエと比較するのはさすがに無理があるだろうか。だが彼女と彼らの、今の境遇の落差を思わずにはいられない。ジューヌらはついていた。運が良かったのだ。俺と会ったこと、そしてリフィアに誘われたことが決定打となった。

 人の運命とはいったい何なのか。

 イシュルは自らの身の上とも重ね合わせ、何とも言えない複雑な感慨に襲われた。

「イシュルさま、国王陛下のお出ましですわ」

 リフィアを挟んで反対側にいたミラが声をかけてくる。

 周囲の喧騒はあっという間もなくおさまり、静寂の中ヘンリク一行が東宮の建物から外に出てきた。

 国王の周りにはルースラやドミルら側近に、クリスチナやアイラを連れたペトラの姿もあった。

 討伐隊の者たちを中心に、広場にいたすべての者がその場に跪いた。

「フリッド、頼むぞ」

 ヘンリクは部隊の指揮を執るフリッド・ランデルの前に立つと、イシュルには聞きなれない厳かな声で言った。

「ははっ」

 フリッドが野太い声を上げると、ヘンリクは満足気に頷いた。そして奥まで進みイシュルの前に立った。

「イシュル君、マーヤを頼む」

 ヘンリクは声を落として言ってきた。

 シャルカ以外、ひとりだけ立ったままでいたイシュルは頭を上げると、ヘンリクの顔を見、ついで視線をペトラに移した。

「妾もじゃ。マーヤを頼む。それとウルオミラのことも」

 ペトラはさらに声を落として言った。

 イシュルはヘンリクには神妙に「はい、おまかせを」と答えると、ペトラには笑顔をつくって言った。

「大丈夫だ。まかせろ」

 だがその力強い口調とは裏腹に、心のうちには大きな不安があった。カナバルの賞金稼ぎ、セグローらが依頼してきたことに疑惑を感じずにいられなかった。

 また月神の理不尽な介入があるのではないか、そのことが頭から離れなかった。

「うむ、心配なぞすまい。妾はそなたを信じておる」

 ペトラはまさかイシュルの心のうちを見透かしたか、ことさら元気な笑顔になって言った。しっかりと言い切った。

「……」

 ……ペトラめ。

 「信じている 」。そのひと言が、俺にとってどれだけ力になるだろう。

 イシュルは苦笑を浮かべるともう一度、無言で頷いた。

 ヘンリクとペトラは次にマーヤの方へ向かい、他の魔導師やリフィアたちにも声をかけた。

「イシュル殿、姉上を頼む」

 イシュルが横へ向くと、今度はアイラが目の前に立っていた。

「はい。今度はアイラさんのお姉さんと行くことになりましたね」

 イシュルが言ったことは、かつて赤帝龍退治にクシムに赴いた時、同行したのがアイラだったことを指している。

「ああ。実は今回もわたしが地下神殿に行くことになっていたんだが、あの盗賊団の頭目が女だということでな」

 アイラはそこで少し言いづらそうに、小声になって続けた。

「姉上はその……同じ女の悪巧みを見抜くのに長けているからな。バシリアと言ったか、そやつもかなりずる賢い女のようだから」

「なるほど……」

 イシュルもアイラに頭を寄せ、思わず小声で言った。

 ……女の奸計を見抜くには、やはり同性の方がいいのだろう。リリーナは例えば、ルシアのようなタイプなわけだ。まぁ、ルシアのそれは悪戯程度のものが多いが。

「あら、アイラ。聞こえているわよ」

 そこで離れたところから、リリーナの声が聞こえてきた。

「ぎくっ」

「げっ」

 アイラとイシュルが全身を硬直させる。

「まぁ、おほほほ」

「ふふ」

 ミラとリフィアが笑い声をあげた。

 傍にいた、ジューヌら三人組も笑っていた。



 ラディス王国マレフィオア討伐隊は、ヘンリク以下の見送りを受け王城東宮南門から出発、そのまま練兵場を抜けてアルム湖畔の街、ダクロフへ至る街道に入った。

 討伐隊は全員騎馬で荷物も馬に直接載せて運び、時折休憩を入れながらその日の夕刻、無事ダクロフに到着した。

一行はダグロフの砦で一泊し、翌早朝にあらかじめ手配してあった、中型のスループ船二隻に分乗し出港、アルム湖を縦断し南岸の街リバレスに向かった。

 馬はダグロフで乗り捨て、リバレスから先は徒歩で現地に向かう。行程のほとんどが山地となり、騎馬で移動することはできなかった。

 リバレスに向かう船中で、イシュルはリフィアとミラと一緒の船になった。ロミールやルシアら従者らも一緒だ。先頭を行く船で隊長のフリッドも乗っている。後ろを行く船には副長のマーヤやニナらが乗っていた。荷物は二隻に均等に分載されている。

 アルム湖を南下しはじめてすぐ、左舷にアンペール城が見えると、イシュルはミラとリフィアにニナから聞いた話をした。山風の凪いだ湖の眺望を、湖上の城に囚われたデメトリオの家族のことを話した。

 リフィアはアンペール城の新しい囚人のことも、彼らを襲うかもしれない禍いのことも知っていた。

「お可哀想ですが、仕方がありませんわね」

 ミラは城の方を見ながら溜め息を吐くと、小さな声で言った。

「うむ。王家や貴族の家には、ままあることだ」

 リフィアも城を見つめている。

「……」

 イシュルもつられるように視線を向けた。

 湖上から見るアンペール城は、以前にニナと見た時とはまったく違って見えた。

 木々に覆われた丘を背負い、漣(さざなみ)の折り重なる湖面の先に、くすんだ灰色の孤城が立っていた。

 太陽はまだ東側にあって、全てが色彩を失い影の中に沈んでいた。

 ……この方向からこの時間帯に見たのでは、あの絶景の虚無感はわからないだろう……。

「時に一族どうしで、親兄弟で殺し合うこともあるのだ。確かにそれは虚しい。あの城に閉じ込められた王家の方々は、むしろ救いを求めて美しい景色の中に身を投げるのかもしれん」

「……」

 イシュルは呆然と隣のリフィアに顔を向けた。

 確かに、そういう見方もあるかもしれない。

「あの方々には未来はないかもしれません。でもイシュルさま」

 反対側からミラが声をかけてくる。

「わたくしのふたりの兄も仲が良いですし、王家や貴族の家に生まれた者がみな、争うわけではありませんわ」

 ミラはそこで、イシュルの手をとって顔を近づけてきた。

「イシュルさまは、我が聖王家のルフレイドさまを救ってくださったではないですか。そのおかげでサロモンさまは弟君と和解できたのです」

 ……ルフレイドを救ってくれと懇願してきたのは、他ならぬサロモン自身だ。決して俺があの兄弟を、和解に導いたわけではない。

 ルフレイドが俺やサロモンに助けられ生をつないだ。兄に助けられたこと、兄弟がそろって生き残れたからこそ、和解できたのだ。

 生あればこそ、愛あればこそ、といったところか。

 ミラは、沈みそうになる俺の心を慰めようとしてくれているのだろうか。

 心なしか、彼女の眸が潤んで見える……。

「イシュル」

 リフィアが後ろから、肩をがっしと掴んできた。

 彼女が耳許へ顔を寄せてくる。

「わたしだって弟のモーシェとは大の仲良しだぞ」

 ……うっ。

 リフィアはだがすぐに顔を離し、ミラに視線を向けた。

 静かだが、強い眼光だ。

 それを真正面から受けるミラ。

「……」

 イシュルは喉を鳴らした。

 リフィアもミラも何も言わない。

 ……ひ、火花が。俺の眼の前で、ふたりの視線が激しくぶつかり合っている。

 痛いほどに、ミラの俺の手を握る力が増していく。

 俺の肩を掴むリフィアの力も増して……痛い! 痛いっ。

 こ、この状況をどうしたらいいんだ……。

「ふふ」

 舳先の方に立って前方を見ていたフリッドが振り返り、イシュルたちの様子を見て笑みを浮かべた。

「仲が良くて結構なことだ」

 睨み合っていたリフィアとミラがさっと頬を染めて視線を逸らす。

「……お取り込み中のところ申し訳ないのだが、イシュル殿」

 だがフリッドはすぐ硬い表情になって、前方、湖の南西の方を指差した。

 その先は重い灰色の雨雲が立ち込め、周囲は深い靄に包まれている。背景にそそり立つ山々もまったく見えない。

 イシュルは最初、フリッドが天候の急変を心配しているのかと思った。

 だが目的地のリバレスは同じアルム湖の南岸でももっと東側にあり、それほど気にかける必要はない。

 ……風は西向きに吹いているし、もしあの雨雲が航路上にせり出してくれば、風の魔法を使えば良い。

「……ん?」

 そこでイシュルは訝(いぶか)るような表情になり、眸を細めた。

 目を凝らして雲の下、暗く陰った湖面を見つめる。

「何かいるな」

「……」

 立ち上がったイシュルの横でリフィアの声。ミラは無言で同じ方向を凝視している。

「あっ」

 雲がわずかに移動したか、雨脚が揺れ湖上を走ったように見えた。

 その瞬間、恐竜のような長い首の影が、湖上に浮き上がった。

「大海蛇(シーサーペント)か」

 この距離で……かなり大きい。

 船の後ろの方でも、同乗するロミールらや船夫たちが騒ぎはじめる。

「ネル!」

 ……はい、剣さま。

 イシュルが叫ぶと、すぐ頭上にネルレランケが姿を現した。

 ……かなり遠いですが。退治しますか?

 ネルの周りで風が渦を巻きはじめる。

「距離はあるが、やれるか? イシュル殿」

 フリッドが風の精霊をちらっと見やって聞いてくる。

 今すぐどうということはないが、相手はかなりの大物だ。

 こちらも中型のスループが二隻。魔獣にとっては大きな獲物だろう。この先、どこかで襲ってくるかもしれない。

 ……待って! わたしが追い払います。

 イシュルがフリッドに「やれます」と返事する直前、脳裡に聞いたことのない女の声が響いた。

 船の右舷を少し離れ、イシュルたちの前をすーっと女の精霊が姿を現し、大海蛇に向かって湖面を滑るように飛んでいく。

「エルリーナ!」

 イシュルは思わず叫び声を上げた。

 初めて彼女の声を聞いた……。

 中位以下の契約精霊が、契約者以外の者と会話することは非常に稀である。

「あら……」

「むっ、ニナ殿の精霊だな」

 ……剣さま。

 ミラとリフィアの声に混じって脳裡にネルの催促する声が響く。

 ……ネルはしばらく待機だ。

 ネルの無言で首肯する気配。

 イシュルは後続する同型の船を見た。

 後ろの船に乗っている者たちも、みな大海蛇の方を見ている。その中にニナの姿がちらちらと見える。

 やがて雨雲の下、暗く沈む湖面に大小の水柱が立ち上るのが見えた。

 イシュルはエルリーナが空中から水球か水矢を、水の魔力の塊を放ったのがわかった。

 遠方ではっきりとしないが、彼女は大海蛇に直接当ててはいないようだ。威嚇にとどめているのだろう。

 白く光る数本の水柱が消えると、湖面に魔獣の姿は消えていた。

「イシュルさん」

 船の後部にいたロミールがマストを超え、イシュルの傍に来た。

「船長に聞いたんですけど、あの大海蛇はアルムリアと呼ばれていて、アルム湖の主みたいなやつらしいですよ」

「アルムリア……か」

「はい。あのでかいのがヒュドラとか他の魔獣も食べてくれるんで、昔から見逃すことになっているらしいです」

 ロミールは続いて、アルムリアは人の住む村もなく、漁民もあまり行かない湖の南西の奥の方が縄張りらしく、人に被害を与えることが少ないのだと説明した。

「なるほど」

 ……それでニナは、エルリーナに追い払うように命じたのか。

「だ、そうだ。ネル、すまなかったな」

「いいえ。……剣さま」

 ネルは一瞬、わざと不満気な顔をしてみせたが、すぐに笑みを浮かべ一礼して姿を消した。

「早まらなくて良かったな、イシュル殿」

 フリッドがわずかに口角を引き上げ言った。

 イシュルが頷くと、ミラもリフィアも同意の笑みを浮かべた。

 ……だが、なかなかに幻想的なシーンだった。

 イシュルは大海蛇の消えた、湖の端の方を見つめた。

 黒々と重い雨雲はそのまま、湖面に深い影を落としている。

 ……それよりも。

 エルリーナの声を聞けたのは良かった、かな?

 イシュルも少し遅れて、唇の端を微かに引き上げた。



 昼食を船上で簡単に済ませ、その日の夜遅く一行はリバレスに到着した。

 ラディス王国王領、リバレスはアルム湖南岸の東寄りにあり、アルサール大公国との国境付近に位置する港町である。

 リバレスの街は背後から山が迫り、街区の規模はダクロフよりよほど小さい。街の西側に突き出た岬の上には城があり、東の端の方にはブレクタス山塊から注ぐビレール川の河口がある。

 夜の湖畔の街はイシュルたち王家の討伐隊を歓迎しているのか、いたる所に多くの明かりが灯されていた。

 岸辺には小舟から、河川用の船舶としては大型の、スクーナー(二本マストの帆船)らしき船の姿も見える。

 夜ではっきりとわからないが、大型のものは軍船かもしれない。

 水面を篝火の炎が揺らめく中、討伐隊の二隻のスループはリバレスに入港、男どもは城から寄越された人夫らとともに荷物を岸に上げ、続いて女たちを抱き上げ陸(おか)まで運んだ。

 ミラはシャルカの肩に乗り空中を移動、リフィアは武神の矢を発動し跳躍して、一気に地上に降り立った。

 ふたりはイシュルに抱き上げられ、湖岸に運ばれるマーヤとニナを見て羨ましそうな顔をした。

 リバレスの主城は街と同じ名で、元王家騎士団副団長だったシベール男爵が城主を務めていた。

 一行はリバレス城で男爵の歓待を受けると、隊長のフリッド・ランデル以下、限られた者たちで晩餐室を借り、人払いをして密議をはじめた。

「夜遅くにごめん」

 今回は彼女が議長役をやるのか、マーヤが一同を見回し小声で言った。

 八人掛けの食卓には上席にフリッド、左右両隣にマーヤとディマルス・ベニト、マーヤの隣にリリーナ・マリド、次にリフィア、ディマルスの隣はニナ、ミラと続き、フリッドの対面にはイシュルが座った。

 さほど広くもない晩餐室には食卓の上に燭台がふたつだけ、室内の端の方は暗く沈んでいる。その影の中に九人目の人物、エバンが腰を落とし跪き、無言不動でいた。

「みんなには先に伝えておこうと思って。エバン」

 マーヤは続けて“髭”の小頭(こがしら)に声をかけた。

「はっ」

 エバンはその場で跪いたまま話しはじめた。

「先に物見に出していた配下の者から連絡がありました。彼らとパラゴ村で落ち合い、詳細を聞く手筈となっております」

 髭の者三名がマレフィオア討伐隊に先行し、カナバルの偵察に派遣されていたが、エバンによればその者たちとブレクタス山中のパラゴ村で合流し、彼らから現地の報告を受けるとのことだった。

 パラゴ村はリバレスから南へ徒歩で二日ほどの山中にある、王国領最南端の村である。そこから先へは当地で案内人(ガイド)を雇い、盆地に至る最も標高の高い山嶺を抜けることになっていた。

「予定どおり、パラゴ村で髭の報告を聞いてから、“バルタルの穴蔵団”をどうするか決めようと思う」

 マーヤがフリッドに顔を向けて言った。

「うむ」

「イシュルは? それでいい?」

 彼女はフリッドが頷くと次にイシュルに聞いてきた。

「もちろん。打ち合わせどおりに」

 イシュルは唇の端を引き上げ頷いた。

 王宮では何度か、地下神殿調査隊(マレフィオア討伐隊)の行動予定や、バルタルの穴蔵団への対応などが話し合われている。

 特に地下神殿の街、カナバルを支配するバルタルの穴蔵団に関しては、物見に出した髭の者たちの情報を入手してから、最終的な判断をすることになっていた。

「もう何か腹案がありそうだな、イシュル」

 と、イシュルの右手に座るリフィア。

 バルタルの穴蔵団はただの盗賊団ではない。地下神殿探索を仕切るだけでなく、カナバルとその周辺を支配し、いわば当地の領主家に相当する。

 バシリアは盗賊団の頭目であると同時に、カナバルの領主でもあった。バルタルの穴蔵団には彼女自身も含め、カナバル出身の者も多く所属している。

 セグローとフェルダールが寄越した手紙には、バシリアは街の住民に対し武力による威圧、恐怖と、租税の免除や金品の施しを煩雑に行うなど、飴と鞭をうまく使い分けていると書かれてあった。

 さらに奸計をもちいて街の他の有力者を破滅させたり、懐柔して敵対する勢力の勃興を未然に防いでいるとも記されていた。

 バルタルの穴蔵団は、所詮はならず者の集団である。街の有力者らからはさぞ嫌悪されているだろう。そこを彼女はうまく抑え込んでいるわけだ。

 こういった、やり手の者に仕切られた集団を崩すにはどうするか、それにはまず試すべき基本的な計略がある。

 ルースラやトーラスからは、王宮の打ち合わせ時にしきりに意見が出されていたが、イシュルはより思い切った行動に出ようと目論んでいた。

「まぁ、それはパラゴ村で、先行した髭の連中の話を聞いてからにしよう」

 イシュルがリフィアに言うと、彼女もマーヤも、一座の者はみな、にやりと笑みを浮かべた。

 ……みんな、ルースラの提起した案を考えているのだろう。それは敵を混乱させ勢力を削ぐ、調略だ。

 内部の幹部を裏切らせ、穴蔵団を分裂させる。うまくすればそれだけで頭目のバシリアを排除できるかもしれない。だが、それだけで地下神殿の安全な探索ができるとは思えない。後顧の憂いなしに地下深くまで探索を行うには、バルタルの穴蔵団を混乱状態にして力を削ぐだけでは不十分だ。街に混乱が波及するのを防ぐことも重要だ。

 調略が鍵になるのは確かだが、決定するのはもう少し情報を集めてからでいいだろう。

「ところでマーヤ」

 イシュルは別に、いよいよ山道に入る前に確認しておきたいことがあった。

「おまえ、山道は大丈夫なのか? また俺がおぶらなきゃいけないのか」

「うっ」

 マーヤは苦い薬を飲み込んだような顔をした。

「その時はイシュルがお願い」

 だがすぐに立ち直って言い返してきた。

 ……その「イシュルがお願い」ってなんだ。どういう言い方だ。

 そしてリフィアとミラから、殺気のような不穏な空気が漂ってくる。

「マーヤ殿は、髭の者におぶってもらったらいかがか」

 リフィアが横から口を挟んでくる。

「でも彼らには荷物を運んでもらわないといけない」

「そうですわね……」

 ミラが顎先にその細い指を当て、考え込む。

 彼女の頭の中には一瞬、シャルカの姿が浮かんだのだろう。シャルカであればマーヤをおぶるなど、なんでもないことだ。だが彼女も大きな荷物を背負うことになっている。マーヤの面倒は見れない。

 ちなみに隊長のフリッド以下、王家の魔導師とリリーナ・マリド、リフィアとミラ、イシュルは荷物を背負ったり、手に持つことを免除されている。

 貴族は従者がいる限り自ら荷物を手にすることはないし、純戦闘員扱いのイシュルやリリーナは、移動中も身軽である必要があった。

「ああ、あの。わたしも迷惑をかけるかもしれん」

 そこでディマルス・ベニトが申し訳なさそうに手をあげた。

 ……あ。

 皆の視線が一斉に彼に集中する。

 フロンテーラから王都に呼び出された土の宮廷魔導師、ディマルス・ベニトはおそらく五十代なかば、短く刈った髪も顎髭も真っ白の、そろそろ魔導師を引退してもおかしくない年齢である。

 本来なら王家はもっと若い魔導師を手配したかった筈だが、人手が足りず高齢のベニトを配属せざるをえなかったのだろう。

「いや、ディマルスさんは俺がおぶりますから。ご心配なく」

 イシュルは風の魔力を身体に添わせ、四肢の膂力を上げることができる。ただ、肉体そのものに魔法がかかるわけではないので限界は低く、強力な武神の魔法具のような圧倒的な効果は期待できない。

 ……それに弱くとも風の魔力の長時間の使用は、それなりの疲労をもたらす。ただマーヤより体重が重いベニトであっても、実は負担はそれほど変わらない。

「……だが、マーヤはな」

 イシュルはにやりとして彼女の顔を見つめた。

 ディマルスと違って、マーヤには俺に対して甘えがある。そこは小言のひとつ二つは、彼女に言っておかないといけない。

 ちょっとくらいはマーヤをからかってもいいだろう。

「ひどい。イシュルが虐める」

 マーヤが少し悲しそうな顔をしてぼそっと言った。

 イシュルの態度には彼女の甘えを突き放す、真面目な気持ちもほんの僅かに見え隠れする。

「パラゴ村までは、それほどきつい山道ではない筈だ。ベニト殿なら大丈夫だろう」

 と隊長のフリッドが苦笑を浮かべて言った。

「その後はわたしとエバンで、交代でベニト殿をおぶることにしよう」

 エバンは髭の小頭(こがしら)だからか、重い荷物は持たないようだ。

 彼はフリッドの言に無言で頭を下げた。

「マーヤさまなら、わたしがおぶってさしあげますわ」

 そこでリリーナが微笑を浮かべ、マーヤにやさしい口調で言った。

 えっ。

「いや、それは……」

 ……リリーナさん。

 今度はイシュルが気まずそうな顔になって口ごもる。

 やられた。リリーナは武神の魔法具持ちだ。確かに小柄な少女を背負うくらい、何でもないだろう。それが長時間におよんでもたいしたことはないのだろう。

 だが彼女がマーヤをおぶって、俺がおぶらないわけにはいかない。

「……仕方がないな。マーヤは俺がおぶる。だけどできるだけ自分の足で歩けよ」

「うん。わかった」

 イシュルがむすっとした顔で言うと、マーヤが微かに笑みを見せて頷いた。

「ふふ。さすがリリーナ殿」

「イシュルさま、残念でしたわね」

 不穏な空気を醸し出していたリフィアとミラが、打って変わって楽し気な声で言ってくる。

「ふふ」

 ニナも笑顔、フリッドらも笑顔だ。

 いつの間にか全員が和やかな顔をしている。場の空気もより柔らかくなった。イシュルもただマーヤをからかうだけでなく、同じようなことを意図していたのだが、しっかりそちらの方もリリーナに持って行かれた。

「……」

 ふとリリーナを横目に見ると、大人の笑みでリリーナがかるく頭を下げてきた。

 ……なるほど、アイラさんの言っていた通りのひとだ。

 地下神殿の盗賊団の女ボス、バシリアの相手もつとまりそうじゃないか。

 イシュルは不満そうな顔をわざと変えずに、そんなことを考えた。



 翌日昼前、一行はリバレス城主、シベール男爵自らの見送りを受け城を後にし、街中に下りてきた。街の中心部には湖岸に面したリバレスの傭兵ギルドがあり、そこで六名のパーティと合流した。

 ギルドの建物の前には街の多くの住民が集まり、イシュルたち討伐隊の一行を見物している。

 その真ん中で革鎧に身を包んだ屈強そうな男が五名、焦げ茶のローブを着た魔法使いらしい男が一名、フリッドの前に並んで愛想よくペコペコと頭を下げている。

 彼らはシベール男爵が雇った討伐隊の荷運び人夫だ。パラゴ村まで討伐隊の荷を運び、そこからリバレスへ引き返すことになっている。パラゴ村までは徒歩でおおよそ二日半。道中で消費される食糧を主に運ぶことになる。

 パゴラ村までは、場所によっては荷馬車も通れそうな道も付いているが、リバレスから離れれば当然魔獣も出没しはじめる。荷運びには、復路を自ら守って帰ることができる傭兵を雇う必要があった。

「なかなか強そうなパーティじゃないか」

 少し離れて、フリッドと傭兵たちの様子を見ていたイシュルに、横からリフィアが話しかけてきた。

「柄は悪そうだがな」

 ……王都でバストル救出の依頼をしてきたセグローやフェルダールと、どっこいどっこいだ。

 奴らもおそらく、時には盗賊まがいの仕事もしてるんじゃないか。

「あんなものだろう」

「わ、わたしはちょっと怖いです」

「心配することはないですわ、ニナさん。わたしたち魔導師と、まとも戦える傭兵などそうはいません」

 ニナは赤帝龍を戦うために、ともにフゴまで同行している。

 彼女はそこで傭兵たちをたくさん見ている筈だが、あのパーティは彼らとはちょっと違って見えるようだ。

 フゴの傭兵らは急増した火龍との戦いで疲れ、悲壮感さえ漂わせていた。フリッドやマーヤに向かって媚びた薄笑いをしているあいつらとは、纏っている空気がまったく違った。

「はい……」

 ニナは、ミラの言葉に少し明るい顔になって頷いた。

 次の目的地のパラゴ村へは最初の二日間、湖から見えた街の東側を流れるビレール川に沿って、上流へ向かう小道を登っていく。

 フリッドを先頭に隊列を組み湖岸の道を進みはじめたところで、最後尾につく傭兵パーティのリーダーらしき男がイシュルに声をかけてきた。

「あ、あんたがイヴェダの剣かい? 俺の名はテリオだ。よ、よろしく頼む」

 男は背に大きな麻袋を背負い、やや大きめの剣を吊っている。

 フリッドらに見せた薄笑いは同じだが、その声は緊張していた。

「俺の名は知ってるだろ? ……よろしく」

 イシュルは薄く笑みを返して言った。

 テリオはリフィアたちに一瞬、卑下た視線を向けたがさすがに直接声をかけることはしなかった。

 イシュルは貴族ではないが、“髭”の者らはともかく、他の者はみな貴族の出身だ。ニナもリリーナも、従者のロミールも騎士爵家の出である。彼女たちの纏う雰囲気でそれがわかるのだろう。

 だが、後続するリフィアとミラの侍女であるノクタとセーリア、そしてルシアにテリオたちには露骨に厭らしい視線を向けてきた。

「さすが王家のメイドは美人揃いだな。へへっ」

 それは単なる独り言だったろう。テリオのパーティの誰かが言ったことに、ノクタらは敏感に反応した。当のノクタ、セーリアは歩みを止めて傭兵らを無言で睨みつけた。傍にいたロミールは剣の柄を握って彼女たちを守るように前に出た。と、その直後にルシアがさらに前へ出た。

「うっ」

 男たちはルシアが一瞬、加速の魔法を使ったのに気づいたか、ぎょっとした顔になって身を後ろへ逸らした。

 傭兵らの前に立つルシア。彼女に普段の明るい表情はない。眼光鋭くロミールと同じ、剣の柄に手を置いていた。

「ルシア、殺しては駄目よ」

 一触即発の状態。そこへイシュルが何か言おうとする前に、ミラの冷たい声が響いた。

「……」

 大柄のメイドのシャルカを従え、華やかな縦ロールの金髪に白いマントの下に見え隠れする深紅のドレス。いかにも身分の高そうな少女の一言が、傭兵の男たちを震撼させた。

 彼らはまた媚を売るような笑みを浮かべて、大人しく後ろに下がっていった。

 シャルカは相手が小物ゆえか無反応、側にいたエバンら髭の者も特段の反応は示さなかった。

 出発時にちょっとした小競り合いがあったが、一行はその後何事もなく街を抜け、ビレール川の脇を通る山道に入った。

 程なく川べりで簡単な昼食をとり、再び歩きはじめて間もなく、マーヤがイシュルに声をかけてきた。

「イシュル、疲れた。おんぶ」

「はいはい」

 イシュルがマーヤを背負って歩きはじめると、後ろにいたミラとリフィアが声をかけてきた。

「イシュルさま。わたくしも疲れましたわ」

「わたしもだ。疲れたな〜」

 後ろを振り向くと、ミラもリフィアも真面目な顔つきで、ただ単純にイシュルとマーヤをからかっているわけではないようだ。

 ……また何か考えてるな。タチが悪い……。

「ふたりとも、全然疲れてないように見えるがな」

 イシュルは呟くように言うとすぐ前を向いた。

 春の山はまだ空気は冷たいが、木々の間からはさまざまな山鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 ……無視だ、無視。彼女らの声も、山鳥の鳴き声と思って聞き流すに限る。

 マーヤもミラたちと波風を立てたくないのか、イシュルの背中で大人しくしている。

 ミラもリフィアもそれ以上は言ってこなかったが、一行のイシュルの周りだけは微妙な空気が流れた。

 ブレクタスの山に入った初日。まだ河岸の道は緩やかで、イシュルの前後では絶えず誰かの話す声が聞こえ、時に笑い声も上がった。

 まだ人里からそれほど離れておらず、魔獣の出没も心配する必要はない。

「……」

 イシュルは木々の梢の先、薄く霞んだ山々の先を見た。

 一番の不安要素、月神が何か仕掛けているとしたら、動くとしたら、あの山々の峰を越えた先だろう。

 どうせ予測は不可能なのだ。今から警戒してもしょうがない。

「マーヤ殿、明日はどうかな。わたしもイシュルにおぶってもらいたい。少しの間交代してもらえないか」

「わたしもですわ。マーヤさんだけ、ずるいです」

「うぐっ」

 リフィアとミラは攻め手を変えてきた。

 マーヤが身を硬くし、小さな呻き声を出した。

 ……まぁ、ふたりとも、昨晩の打ち合わせでは何も言ってこなかったし、俺とマーヤを暇つぶしのネタにでもするつもりだろう。

 フリッドの後ろを行くニナがこちらを、ちらちらと振り返ってみてくる。

「ふたりとも、しっかり歩けているじゃないか」

 イシュルは再び後ろへ振り返り、リフィアとミラに文句を言った。

「ほんのすこしの時間でいいんだ。いいじゃないか。減るもんじゃなし」

「そ、そうですわ。イシュルさま」

 ミラは真面目な顔で、リフィアは笑みを浮かべて返してくる。

 ……減るもんじゃなし、って、マーヤより重い君らをおぶって疲れるのは俺だぞ。

 ん?

 その時、リフィアの眸が微かに揺れた。その眸に何かが映ったような気がした。

 前へ向き直り、彼女の視線の方を見る。

 左手を流れる東川の対岸、生い茂る木々に混じって山桜が薄い紅色の花々を咲かせていた。

「山桜か……」

「綺麗だな」

 イシュルが呟くとリフィアが応じた。

「咲けば散る、咲かねば恋し山桜……」

 イシュルは思わず、前世の古歌の一節を口ずさんだ。

 そのあとはなんだっけ。

 昔、参考書か何かの教材かで、読んだ覚えがある。

「ほう……」

「まぁ、イシュルさま。素晴らしいですわ」

 リフィアもミラも感嘆の声を上げる。マーヤは無言で対岸の桜の木を見つめている。

「いや、俺の歌じゃないよ」

「歌?」

「大昔の吟遊詩人が歌った一節でしょうか」

「あっ」

 イシュルは小さな声を発した。

 ……あの歌は、子供を亡くした母親の歌ではなかったか。

 どうしても下の句が思い出せないが、どんな意味の歌だったかは思い出せる。

「誰の詩だったか、忘れちゃったな」

 イシュルは微かに笑ってミラとリフィアから視線をそらした。

 前を向き、無言で歩く。

 視界の端を、細かな桃色の色彩がゆっくりと流れていく。

「……」

 イシュルが肩をすぼめたからか。

 マーヤが後ろからぎゅっと、イシュルを抱きしめてきた。


 

 その日の晩はそのまま道なりに、河原に野営することになった。

 焚き火を囲む輪は全部で四つ。イシュルはフリッド以下宮廷魔導師やリフィアらの囲む輪に加わった。残りはシャルカを含むロミールやルシアら従者たちの輪、エバンら髭の連中と、リバレスで雇われた荷運び役の傭兵のパーティだ。

 小さな固いパンと、戻した干し肉と芋の煮込み、それにわずかな酒で夕食を終えると、木々の幹や枝を利用し側部にも帆布を垂らした天幕を張り、数人ずつに分かれて寝た。

 野営地では一晩火を欠かさず、見張りも交代で行うことになっている。イシュルはネルに周囲の警戒と、雇い入れた荷運びの傭兵らと髭の連中の監視もお願いした。

 王家の影働きはイシュルの敵ではなかったが、彼らの動きを把握しておく必要はあった。傭兵のパーティは信用できない。監視を欠かせなかった。

 イシュルはロミールと同じ天幕で寝ることになった。一人に一枚ずつ支給された毛布を寝袋のようにからだに巻きつけ、地べたに引かれた敷布の上にそのまま横になった。

 ふたりとも疲れが溜まっていたのか、二言三言、短く言葉を交わしただけですぐに眠りに落ちた。

 イシュルは深夜から明け方かけて焚き火番や見張りを交代し、自分の番が終わると再び毛布にくるまって眠りについた。春の一月(四月)の夜の山間部は、吐く息が白く染まるほど寒かった。

 日の出からしばらく、イシュルは目を覚ました。

 隣に寝ていたロミールは水汲みか、もう起床して天幕の中にはいない。

「うっ……」

 ……からだを起こすとところどころ、節々が痛む。

 久しぶりの野宿だ。この痛みがなぜか懐かしく、俺は帰ってきた、と思う。

 振り返ればベルシュ村が壊滅して以降、ずっと寝なし草の生活だった。 

 俺はまだ、故郷に帰れていない。帰れないでいる。

「……!!」

 ん?

 イシュルは外の方へ顔を向けた。誰か、人の叫び声が上がったような気がした。

 川下の方で、何かざわつく気配……。

 ネルは何も言ってこない。

 イシュルは天幕の外へ出て声のした方へ走った。

 川辺からせり出した木々を回り込むと、大小の石がごろごろした河岸にすでに十名近くの人々が集まっていた。

「どうした?」

 イシュルが人々の輪の中へ割って入ると、ロミールがリフィアのメイドのノクタを後ろ手に庇い、傭兵の男たちと対峙していた。

 ロミールは真剣な顔で男たちを睨みつけ、右手は剣の柄を握っていた。

 彼の足下には水汲みに使うバケツ、水桶が転がっている。

「どうしたんだ?」

 イシュルはもう一度、声を低くして言った。

「この傭兵の男どもが、ノクタに手を出そうとしたらしい」

 周りにいた髭の男たちの間から、リフィアが顔を出して言った。

 リフィアの声音はぐっと抑えられ、妙に静かに聞こえた。

 ちなみに、髭の男たちはロミールらと傭兵らを油断なく囲んでいたが、今のところそれ以上の行動を起こす気はないようだ。

 彼らが動くとしたら、どちらかが剣を抜いたときだろう。

「ち、ちょっと待ってくれ。ち、違うんだ!」

 ロミールの一番近くに立っていた傭兵が、両手を振り必死の声で叫ぶ。

「ノクタさんが水を汲もうとしたら、そいつが後ろからいきなり肩を掴んで声をかけてきたそうです」

 ロミールがイシュルに顔を向け、吐きすてるように言った。

「……」

 イシュルはノクタに、ついで傭兵の男たちの方に視線を向けた。

 ノクタの顔に恐怖の色はなかった。それどころか、彼女の眸は怒りの炎に燃えていた。

 対する傭兵の男たちは怯えていた。みな一様に顔を青くし、媚びるような笑みを浮かべている。

「ノクタは王家のメイドだぞ。許されざる狼藉だ」

 と、横からリフィア。

 ノクタはリフィアにつけられたメイドだ。

 ……これはまずいな。

 イシュルはリフィアの横顔を覗き見るようにして窺った。

 自らのメイドに手を出されそうになったのだ。リフィアはこの場を丸く収める気など、さらさらないだろう。

「ほ、ほんの出来心なんだ。ただ朝の挨拶をしただけなんだよ」

「へへ。お、王都の娘は俺らには眩しすぎるんだ。悪気はなかったんだ、本当だぜ」

 リーダーのテリオをはじめ、男たちが必死で抗弁してくる。

 確かに彼らにとって、ノクタやセーリアは光り輝いて見えるかもしれない。ふたりとも選ばれてリフィアとミラにつけられたメイドだ。当然見栄えもよく、美しい。

 一方、マーヤ以下、魔導師の少女たちは雲の上の存在だ。メイドならまだ声をかけられる、ひょっとすると仲良くなれる、いいところまで持っていけるかもしれない、などと考えたのだろう。

「くっ」

 傭兵らの弁明に、リフィアがわずかに怒気を発して前のめりになる。

「リフィア、待て」

 イシュルは片手を上げてリフィアを制した。

 そしてノクタに顔を向けてひと言、

「ノクタ、剣を差してないな」

 と鋭い声で言った。

 朝早くのことで、彼女はまだ剣を腰に差していなかった。

「す、すいません。イシュルさま。以後気をつけます……」

 ノクタはさっと顔つきをあらため、イシュルに向けて頭を下げた。

「……」

 ロミールが気を削がれて呆然とした顔になる。

「イシュル!」

 横からリフィアが言い募る。

「だめだ、リフィア。おまえが暴れたら大変なことなる」

 イシュルはさらに声を落として言った。

 ……ほんとに血の一滴、肉片ひとつ残らないぞ……。

「むむっ」

 リフィアは歯噛みして小さく呻いた。

 イシュルはその様子を横目に見ると、人の近づいてくる気配に後ろを振り返った。 

「いかがしたかな」

「まぁ」

 隊長のフリッド・ランデルと、シャルカを連れたミラが上流の方からやってきた。

「ランデル殿──」

 リフィアがランデルにことの顛末を説明する。

「イシュルさま、おはようございます」

 ミラは周りにさっと視線を走らすと、イシュルのそばに寄って小声で挨拶をしてきた。

「おはよう、ミラ」

 イシュルも小声で返す。

「面倒ごとですわね」

 ミラは一瞬で状況を把握したか。あるいは誰かからすでに、経緯を聞いていたのか。

「ああ。……ん?」

 横から視線を感じてそちらを見やるとロミールと目が会った。

 彼の眸にはまだ、不穏な色が消えていない。

「抑えろ、ロミール。抜くなよ」

「イシュル殿」

 と、そこでフリッドから声がかかった。

「王家のメイドに狼藉を働こうとしたのは見過ごせないが、ここで傭兵どもを始末するのは避けたい」

 イシュルがフリッドに近寄ると、彼は声を落として話しかけてきた。

「パラゴ村までは、あの者らに荷物を運んでもらわなければならん」

「やつらがやったことはたいしたことじゃないですよ。ノクタの肩を掴んでちょっと下品な口を聞いただけです。何も皆殺しにする必要はないと思います」

 確かに王家のメイドともなればただの使用人ではすまない。王家の権威、面子もあるだろう。だが、ときに盗賊まがいのこともするような連中相手に、これくらいのことでいちいち騒いでいたらキリがない。

「うむ」

「……」

 フリッドは頷いたが、すぐ横にいるリフィアは不満顔だ。

 イシュルはリフィアに鋭い視線を向けて言った。

「リフィア、ここは我慢しろ。俺が奴らに罰を与えるから」

 そしてフリッドに向き直って続けて言った。

「この件は俺にまかせてもらえませんか」

「すまんな。リフィア殿もそれでよろしいな」

「わかりました。ここは引こう」

 リフィアが不承不承、頷く。

「後でノクタに声をかけてやれよ」 

 イシュルは笑みを浮かべてリフィアに言った。

「もちろんだ」

 リフィアは少し頬を染めてツンと顔を横に向けた。

 自らに忠誠を捧げる従者、家臣をないがしろにするなど領主失格である。本来ならリフィア自ら、傭兵らに罰を加えたいところだろう。だが彼女がそれをやればより苛烈なものになる。でなければ自らの権威に傷がつき、家臣に対し示しがつかない。

 しかし隊長であるフリッドとしてはそれを認めることはできない。傭兵らには契約どおり、パラゴ村に到着するまでは荷運びをしてもらわなければならない。

 リフィアが、自らにつけられたメイドに粗相をした傭兵の処罰をイシュルに譲ったのは、討伐隊の事情を勘案しただけでなく、彼に個人的な信頼を寄せているからでもあろう。

 それが彼女のつっけんどんな態度に現れている。

「あんたら、ちょっと来てくれ」

 イシュルは傭兵らに近づくと、顎を振って河原が広くなっている下流の方を示した。

「ひっ」

「まっ、待ってくれ」

 ロミールたちと向かい合っていた傭兵の男たちはみな、恐怖の声をあげた。

 これから、伝説のイヴェダの剣によって抹殺されるのか。男たちの脳裡に、その時の凄惨な光景がよぎったのかもしれない。

 パーティのリーダーのテリオだけでなく、全員がイシュルが何者か知っていた。

「心配するな。殺したりはしない」

 イシュルは男たちに笑いかけた。

「今日の夕食はご馳走にしようと思ってな。あんたらに働いてもらう」

 イシュルは川の西側に続く森に目をやった。

 大小の岩が積み重なる河原の端に、討伐隊が通ってきた猟師道がついている。その奥に草木が密生する、深い森が押し寄せるようにして広がっている。

 ……ネル。

 イシュルは心のうちでネルを呼んだ。

 ……はい、剣さま。ご用は?

 ネルの声はいつもと変わらない。その台詞のまま、何かありましたか? といった感じだ。

 彼女はこの人間たちの騒動を、なんとも思っていないのだろう。誰かが魔法を使ったわけでもなく、血も流れていない。召還者である俺とも直接関係ない。精霊にとってはどうでもいい、些事に過ぎないわけだ。

 イシュルは川の反対側の森の方を見て、囁くような小声で言った。

「これから野鳥を狩る。森の適当な場所で風魔法を爆ぜるから、驚いて空に飛び立った鳥を撃ち落としてくれ。小鳥は無視していい」

 ……承知しました。

 ネルの気配が遠のいていく。

「な、何を」

「ど、どうか……」

 イシュルは怯える男たちに微笑むと、左手を森の方に伸ばした。

 木々の中、百長歩(スカル、約65m)ほど先でドン、と低い音が響き、地面が揺れた。空に木の枝や葉が舞い、大小の野鳥が悲鳴をあげて空に飛び上がった。

 同時に空高く、風の魔力の細い矢のようなものが無数に現れ、異様な速度で鳥たちの上に降り注いだ。

 ネルの風の魔法の矢は、ヤマドリや雉(キジ)、山鳩あたりのそこそこの大きさの鳥に次々と命中し、二十羽ほどが森の中へ落下していった。

「ひっ……」

 傭兵のパーティにひとりだけいる魔法使いが、恐怖の声をあげた。

 森の中で起こった爆発の風圧が、木々の間を抜けイシュルたちの許まで押し寄せてきた。

「さて、あんたらには森の中に落ちた野鳥を回収してきてもらう」

 イシュルは呆然と佇む男たちを見渡して笑みを浮かべた。

「それがおまえらへの罰だ。早くしないと赤目狼か小悪鬼(コボルト)あたりが血の匂いを嗅ぎつけて寄ってくるぞ」

 まぁ、さっきの爆発を警戒して寄ってくるどころか、近くにいれば逃げ出している可能性の方が高いと思うが。

「わ、わかった。行くぞ」

 パーティのリーダーがメンバーに声をかけた。

 男たちが森の中へ飛び込んで行く。

「おまえらにも食わせてやるからなっ!」

 イシュルは森に中に消えていく彼らの背中に、大声で叫んだ。

 ……ネル、あの傭兵たちには注意してくれ。やつらは少々、手癖が悪い。

 ……わかりました。怪しい動きをしたらお知らせします。

 すぐにネルから返事が来る。彼女にはいつものとおり、一団の警護を命じてある。

 イシュルはリフィアやミラ、被害者のノクタ、彼女を庇ったロミールらの固まっている方へ戻った。

 マーヤやニナ、リリーナらも集まってきていた。

「あれでいいだろう?」

 イシュルはリフィアとノクタを見て言った。

 ふたりはイシュルに声をかけられた時、何事か話し込んでいた。リフィアがノクタを慰め、かつ傭兵どもに気を許すな、などと注意していた。

「ああ。しかしあの者たち、そう簡単に撃ち落とした鳥を拾ってこれるかな」

 リフィアはひとつ頷くとイシュルに聞いてきた。

「結構大変だろうな」

 猟犬でもいればともかく、ネルの魔法で落とされた野鳥は木々の間に引っかかったり、地面の草むらに落ちたりして、狩りに慣れた彼らでも探し出すのはなかなか大変だろう。

「まぁ、いいじゃないか。奴らが探している間に、俺らは朝食をとって出発の準備をしていよう」

 イシュルはノクタに続けて言った。

「ノクタもこれでいいな? 今晩はしっかりした肉料理を食べさせてやる」

「ありがとうございます」

 ノクタはしおらしく、イシュルに頭を下げてきた。

「話は聞いたよ。イシュル」

「面倒ですわね。ああいう輩は」

「イシュルさん……あの」

 マーヤ、リリーナ、ニナと続けてイシュルに声をかけてきたが、ニナは何か意見があるようだった。

 ニナは夜営する時のテントの配置を変えたらどうかといってきた。

 昨晩は一番下流にエバンら髭の者たち、次に傭兵らのパーティ、彼らの隣にリフィアやミラのメイドであるノクタとセーリア、ルシアたちがテントを張っていた。

「うん、そうしよう。今晩から俺とロミールが奴らの隣で寝るようにする」

「わかりました」

 イシュルがロミールに目を向けると、彼は真面目な顔で頷いた。

「格好良かったぜ、ロミール」

 ノクタを後ろに庇い、粗相をした傭兵と相対したロミールの姿は物語の主人公のようで、なかなかに勇ましいものだった。

「いえ……」

 真っ赤になって照れるロミールに、彼より少し年上のノクタがやさしい笑みを向けた。

 その後、傭兵らが各自数羽ずつの獲物を探してくると程なく、王家討伐隊は中継地のパラゴ村へ向け出発した。

  明日朝までは、ビレール川沿いの猟師道をそのまま進む予定である。一行は細い道を一列になって進んだ。

 半刻ほど歩くと、物見としてひとり先行していたエバンが戻ってきて隊長のフリッドに耳打ちした。

「イシュル殿」

 フリッドの後ろ、リリーナやニナらに続いて歩いていたイシュルが呼ばれる。

「どうしたんですか」

「ここから百長歩(スカル、約65m)ほど先の川辺で、小悪鬼(コボルト)が三匹、死んでいます」

 イシュルが傍に寄ると、エバンが渋い顔になって言った。

「コボルトが……」

「それがどうも、誰かに殺されたらしい」

「誰か? ……人間に、ってことですか」 

「うむ」

 フリッドも浮かぬ顔になって頷いた。

 三匹の小悪鬼の死体。殺したのは人間……。

「とにかく現場に行ってみましょうか。すぐ先ですし」

 イシュルは詳しく説明しようとするエバンを片手を上げて制止し言った。

 ……ここで話を聞くよりその場に行って直接確認した方が早い。

 一行はエバンに案内され現場に向かった。

 周囲を警戒させているネルは、コボルトの死体をエバンより早く発見している筈だが、今回もイシュルにひと言もなかった。

 ……たかがコボルトと、あえて報告もしなかったのだろう。傭兵らの起こしたいざこざと、同じ扱いなわけだ。

 ネルのいかにも精霊らしい判断に、イシュルは心のうちで苦笑を浮かべた。

 現場へはエバンの言う通り、すぐに着いた。大小の岩が敷き詰められた、少し広めの河岸の真ん中あたりにコボルトの死体が三体、転がっていた。

「……」

 リリーナがその様子を見て顔をしかめる。

「きみらは近寄らない方がいいぞ」

 イシュルは後ろにいるマーヤやニナら、女性陣に声をかけた。

 気温が低いのと死後、それほど時間が経っていないせいかまだ腐臭はしない。コボルトの死体は二体が折り重なるように固まって、少し離れて一体が川石の上に横たわっていた。

「火魔法だね」

 と、横からマーヤの声がした。

 重なって倒れている二体の死体は上半身が焼けただれ、一部が炭化していた。

「もう一体は刀傷だな」

 と反対側からリフィアの声。

 残る一体は肩から胸にかけて、袈裟斬りに斬られていた。

 死体に付着する赤黒い血はまだ乾き切ってはいない。周りの石も一部が黒く染まっていた。

「このコボルトたちは、殺されてからまだ半日経ってないですね」

「イシュルさま、これは……」

 そしてニナとミラの冷静な声が続いた。

 みなイシュルの言も聞かずに、なんの躊躇いもなく小悪鬼の死体に近寄ってきた。

「ミラ殿の言わんとしていること、わたしにもわかるぞ」

 リフィアはそう言ってイシュルに鋭い視線を向けてきた。

「ああ。これは多分、やつらの仕業だな」

 ……俺たちとは別行動でカナバルに向かっている、セグローとフェルダールが殺ったのだろう。

 火魔法はおそらくフェルダール、斬られた方はセグローだろう。

「イシュル殿、あそこに焚き火の跡があるぞ」

 ディマルス・ベニトが森側の方を指差して言った。

 見ると確かに河原の端の方に火を焚いた跡がある。

「ここで野宿しているところをコボルトの群れに襲われたんだろう。だが、もしかすると……」

 フリッドが顎に手をやり何事か考えながら言った。

「この三体は、大きな群れの斥候かも知れん」

「……!」

 一同に緊張が走った。

 みな難しい顔になる。

 後方にもフリッドの声が聞こえたか、傭兵らがざわつきはじめた。

 物見が帰らないとなれば、いずれ群れの本体が動き出すだろう。

「とにかく、この場に長く留まるのはよろしくない。先を急ぐとするか」

 フリッドは顔を上げて周りの者たちを見回し言った。

 ……小悪鬼の群れは数が少なければどうということはないが、五十、百と大きな群れであれば、非常に危険な存在になる。

 周囲は森で視界が利かない。木々が邪魔して魔法も通りにくい。このような山間部、深い森でコボルトの大集団と遭遇すれば面倒なことになる。

 ……と言ったところが常識なわけだが。

「もしコボルトの大群が襲ってきたら、俺の方で対処します。心配は無用です」

 ……ネル、そういうことだ。周囲の警戒を厳にしろ。もし小悪鬼の群れが近づいてきたら、まず先に俺に知らせろ。勝手に攻撃をはじめないように。

 ネルが無言で首肯する気配が、心のうちに伝わってくる。

「うむ、その時は頼む。では皆の者、出発だ」

 フリッドはイシュルに機嫌良く頷くと、周囲の者に大声で命令を下した。

 騒ぎ出した傭兵らが静かになり、リリーナやディマルス・ベニトらも安堵した顔になった。

 一方、リフィアやミラはただ微笑を浮かべるだけだ。他の魔導師らより実力が一段上の彼女らにとって、コボルトの大きな群れなど恐れる必要がないのだろう。

 その後、討伐隊は川沿いの小道を進み、昨夜と同じような河原に野営することとなった。

 日中、懸念された小悪鬼の大群と接触することはなかった。襲ってこなかった。



 唇に何か、柔らかいものが触れた。

 えっ……。

 深い眠りの底から意識が引き上げられる。

「……」

 眸を開けると目の前に、微かな明かりに縁取られたミラの顔があった。

 彼女の巻き毛が垂れて首筋に触れている。彼女の吐息に胸が熱くなる。

「イシュルさま……」

 ミラの眸が揺れている。

 だが、次に彼女の発した言葉はこの場にそぐわないものだった。

「小悪鬼の大きな群れが近づいているようですわ」

 ミラが耳許へ顔を寄せ囁く。

 ……そうか。俺は寝ていたんだ。

 この時間帯は、彼女が見張り番をしていたのか……。

 隣に寝ているロミールはイシュルに背中を向け、まだ眠っている。

「ありがとう、ミラ」

 イシュルは上体を起こすとロミールを起こし、天幕の外に出た。

「ネル」

 ……すいません剣さま。そこの人間の女の意を汲んで、わたしからお知らせするのは控えました。

 心のうちにネルの声がした。

 と、直後に頭上を風が吹き抜け、ネルが姿を現した。

「はなはだ不本意ではありましたが、ここはこの人間に譲ることにしました」

 ネルはつまらなそうな顔をして、声に出して言った。

 ……ああ、そう。

 イシュルが肩をすくめる。ミラは意味がわからず、不思議そうな顔をした。

「小悪鬼の群れはまだ距離があります。ただ川の両岸から、包囲するようにして近づいてきています」

「数は?」

「かるく百匹以上は」

 ……それは大群だな。

 イシュルは視線を遠く、夜空の底をうねる木々と山並みの影にやった。

 そこにシャルカの大きなシルエットが浮き上がる。

「シャルカが教えてくれたんですわ」

 と、横からミラ。

 ……ふむ。だろうな。

 シャルカはネルがそばにいるからか、いつもよりさらに身を固くしてむっつり押し黙っている。

「ロミール、みんなを起こしてくれ」

 イシュルは外に出てきたロミールに振り返って声をかけた。

「はい!」

 ロミールが川上のフリッドの天幕の方へ駆けていく。

「ミラは引き続き周囲を警戒、リフィアたちが起きたら状況を教えてやれ。決して手は出すなよ。すべて俺とネルで片づける」

「わかりましたわ」

 ミラはリフィアらの天幕へ走っていく。

 イシュルは頭上の夜闇を見上げると空へ飛び上がった。

 一気に五百長歩(スカル、約400m)ほどの高さまで上昇する。

 春の夜空は真冬の寒さだ。地上の空気を纏っていても、あっという間に冷気が染み込んでく る。目の前で吐く息が白く煙る。

 イシュルは下方を見渡した。

 真っ黒に染まる谷底は肉眼では何も見えない。

 ……いや。東の山の斜面に松明の炎が幾つか、微かに見え隠れしている。

 コボルトが火を使うのか……。

 小悪鬼が火を使うとは今まで聞いたことがない。なかなか馬鹿にできない知能だ。おそらくあの火の中心に群れの頭目、族長がいるのだろう。ゲームなんかで出てくるコボルトロードとか、そんな存在なのかもしれない。

「……」

 イシュルは意識を風の異界に伸ばすとビレール川の谷間一帯に風の魔力を下ろした。

 薄く青く光る帷(とばり)が地上を覆う。

 ……!

 どこからかネルの感嘆する気配が伝わってきた。

 彼女だってこれくらいはできるだろうに。

 イシュルは風の魔力の濃度を少しずつ上げていく。

 木々の間を進む、やや小型の人型の存在……。

 これは確かにかるく、百以上はいるな。いや、百五十くらいはいる。討伐隊の野営している側に百、対岸に五十くらいか。

「ネルは対岸をやれ。先頭を進むやつから順に、後方へ始末していけ。無理に全滅させる必要はない。逃げるやつは見逃していい。大魔法を使って周囲の木々を粉砕したり、山を崩したりはなしだ」

「かしこまりました」

 イシュルが口に出して命令すると、すぐそばにネルが姿を現して頭(こうべ)を深く垂れた。

 彼女が顔を上げると同時、川向こうの山の斜面を無数の青い風の魔力が立ち上った。

 ただそれだけ、何の音もしなかった。風も吹かなかった。

 細い柱のように立ち上る風の魔力の元で、小悪鬼たちが次々と消えていっているのだ。

 ……相変わらず美しい。

 そこに生々しい死の気配を感じ取ることはできなかった。

 イシュルは前へ向き直り、下方を見下ろした。

 さて、次は俺の番だ。

 谷間に突き刺した風の魔力を一旦、野営地側まですぼめ、あらためて外側へ拡大していく。その過程で人型の動く物体を捉えると、その都度部分的に魔力の濃度を高めて対象を粉砕していく。

 青い魔力のベールが谷間を峰の方へ広がり登っていく。

 後方に光っていた松明の灯が激しく揺れた。群れの長(おさ)が異変に気づいたのだ。

 イシュルは最後にその灯火を消し去った。

「……」

 イシュルは視線を遠くに向け、南に広がる山々の稜線を見つめた。

 それは夜空になお暗い影となって、東西に長く伸びている。

 その向こうに地下神殿がある。

 イシュルはかるく息を吐くとゆっくりと降下していった。

 ……少々面倒なやり方だったが仕方がない。

 派手にやって木々を倒し、山を削るようなことをすれば、いつか下流の湖岸の街、リバレスに被害が及ぶようなことがあるかもしれない。

 しかし、先行しているらしいセグローとフェルダールには嫌な置き土産をくらった。

 あのコボルトの群れは、こちらが山を登ってくるのをいち早く察知していたのだろう。それで物見を出したのではないだろうか。滅多にない、まとまった数の人間の集団が縄張りに入ってきた。やつらは最初からやる気満々だったのだ。夕食時に捌いた野鳥の、飯の匂いも彼らを刺激したかも知れない。

 この後、生き残ったコボルトたちは他の魔獣、赤目狼や大牙熊らのいい餌になることだろう。

 いったいどれだけの数が、巣に戻ることができるだろうか。

 つまりそれはコボルトたちが牽制となって、討伐隊がより安全に進むことができる、ということでもある。

 そのマレフィオア討伐隊の野営する河原では、今は多くの火が焚かれ河岸一帯を明るく照らし出していた。

 多くの者が空を見上げ、こちらを見ていた。みな明るい顔で微笑んでいた。

 その中に、華やかな金髪の少女の姿が目に止まった。

「……ミラ」

 イシュルは指先を口に当て、ひっそりと呟いた。

 唇にまだ、あの時の感触が残っていた。


 

 翌日午後から小径は東川から逸れ、山を登りはじめた。

 さっそくマーヤが根をあげイシュルに背負われたが、ディマルス・ベニトはまだ元気に山道を登っていた。

 その後しばらく、陽が傾きはじめる頃合いになって、左手の谷側にパラゴ村が見えてきた。

 木々の間に見え隠れする反対側の峰に、山頂に張りつくようにして石壁に囲まれ、丸太小屋らしき建物の蝟集しているのが見えた。

 険しい道は今度は下りはじめ、再び谷川に出た。谷川には吊り橋がかかっていて、対岸の南側斜面にはそこそこの広さの段々畑が広がっていた。

 イシュルは風の魔力を使って吊り橋を補強し、一行の最後に渡った。

 人がひとりやっと通れるほどの小さな橋は、橋桁の木板がところどころ脱落し、荷物を持った大人の男がまともに渡れるか、不安を覚える代物だった。

 ただ、橋のかかる高さはそれほどでもなく、下を流れる川の水量も多く、落ちた瞬間死を覚悟する、というほどではかった。

 イシュルが渡り終えると、そばで待っていたディマルス・ベニトが川下の方を指差して言った。

「イシュル殿も読んだだろう。『ブレクタス山岳地誌』に記されていた『魔の谷』とはこの川の先、ビレール川と交わる辺りのことを指している」

「ああ、なるほど。それで道が山側に逸れたわけですか」

 トラーシュ・ルージェクが用意してくれた「ブレクタス山岳地誌」には、パラゴ村の手前の、谷川が幾筋か交わる辺りが魔獣の水飲み場になっていて、「魔の谷」と呼ばれていると書かれてあった。

 魔の谷には小悪鬼や赤目狼どころか、時に地龍も現れるという。パラゴ村がなぜその奥にあるか、そんな場所に人が住んでいるのか、それで理由もうかがい知れるというものだ。

 その書にはパラゴ村について、五百年以上も昔、ラディス王家に追われた王家の者か、有力貴族の一族が山中に逃げ込んでできた村だと記されていた。要は「平家の落人」と同じような話だ。

「まぁ、そういうわけで、パラゴ村には今も魔法具を持つ者がいるそうだ」

 それなら大型の魔獣の襲撃にも、なんとか抗することができるだろう。

「付近の谷川では砂金、村の者以外に場所は秘されているそうですが、近くで岩塩もとれるそうですね」

「うむ。今は砂金はそれほど採れなくなったと聞いておるが、岩塩はいまだに王都に運ばれておるそうだの」

 山奥の村には貴重な現金収入だが、リバレスまでついている道はほとんどが猟師道同然の小道だ。まともな交易と呼べるものではないだろう。

「イシュル、行こう? もう少しおんぶして」

 マーヤがそばに寄ってきて、つぶらな眸で見上げくる。

 吊り橋を渡った先には、段々畑の脇を村に登る道がついている。隊の者はみな一列になってその道を登っていた。脇には大小の石を乱雑に積み重ねた壁があった。

「はいはい」

 イシュルが笑みを浮かべて頷いた。ベニトも苦笑していた。

 山の頂に登って村の門をくぐると、多くの村民が道端に出て鈴なりになっていた。老若男女みな陽に焼け、粗末な服装をしているが、王国の田舎の村と大きな違いは感じられない。

 みな表情が薄いが、その眸の色からは興味津々な様子が見て取れた。

 一団は村の中央を突っ切る道をそのまま奥へ進んだ。

 石壁に覆われたパラゴ村は戸数は五十弱、土壁に重厚な藁葺屋根の家、大小の丸太小屋などが密集している。一番奥の山の頂の方には木造の物見櫓、その横になかなか立派な石造りの館があった。ただかなり年季の入った、古い時代の建物だ。その館が村長家の住まいだった。

 イシュルたちはかなりの部屋数がある村長宅に泊まった。イシュルに割り当てられた部屋は二人部屋で、ロミールと同室になった。

 深夜、イシュルはエバンに呼ばれ、フリッドとベニトの宿泊する部屋に呼ばれた。

 中に入ると、他にマーヤとニナ、リリーナ、それにミラ、リフィアと討伐隊の魔導師以上の地位にいる者全員が揃っていた。

 フリッドが泊まる部屋はかなり広く、中央に置かれた食卓を囲んで皆椅子に座っていた。

「イシュル、こっちだ」

 リフィアに声をかけられ一つだけ空いていた彼女の隣の席に座ると、食卓の奥に村人と同じような服装をした男がひとり跪いていた。エバンがその男の横に同じように跪いた。

 エバンの隣に跪いていた男は地下神殿のある街、カナバルに先行していた髭の者だった。

 その男は本名かは知らないがシーベスと名乗り、カナバルやバルタルの穴蔵団について調べたことを報告した。

 シーベスが話したのは主に、バルタルの穴蔵団の頭目、バシリアと幹部たちの人間関係だった。カナバルの街や穴蔵団の概略に関しては、すでにセグローとフェルダールが寄越した手紙で明らかになっている。

 穴蔵団の主な幹部、と目される人物はバシリアに囚われいる腹違いの弟のバストル、セグローらと同じ地下神殿の探索を行っている二つのパーティのそれぞれのリーダー、街の世話役のひとりで住民との仲立ちをしているサリオという男の計四名で、バストル以外は状況によってこちらに寝返る可能性はある、という話だった。

「決まったな」

 シーベスの話にまずリフィアが反応を示した。

「そのサリオという者を調略するか」

 と次はフリッドが言った。

 他の者もみな頷き、異論はないようにみえた。

 シーベスによれば、サリオのみは穴蔵団の他の者たちと毛色が少し違う、ということだった。

 つまりサリオ以外の者は街のゴロツキ、盗賊団そのものといった感じなのだろう。

「イシュルは?」

 マーヤがイシュルに聞いてきた。

「いいと思うぜ。そのサリオさんで」

 そこでイシュルは間を起き、一同を見回し続けて言った。

「だがただその男を離反させ、穴蔵団と街の住民を分断させるだけでは駄目だ」

 王宮で何度か開かれた会議でルースラが提案したのがそのこと、穴蔵団の幹部で街の住民寄りの者を離反させ、街の住民を討伐隊の味方につける、というものだった。

 穴蔵団は他所者だけで構成されているわけではない。カナバルやその周辺の村、地元出身の者も数多くいる。できるのなら穴蔵団を一気にまとめて壊滅させるのが一番だが、地元の人間も混じっているのならそれは難しいかもしれない。普段は街中で、住民に混じって起居している者もいるだろう。それにみな殺してしまったら、街の一部の住民に遺恨を残すことになるかもしれない。

 ルースラはその点を考え、穴蔵団と街の住民を分断するに留めたわけだが、イシュルはそれでは危険だと考えていた。街のならず者には、蛇のようにしつこい者がいる。

 ……地下神殿に潜る期間はどれくらいだろうか。おそらく四、五日程度だと思われるが、その間にもし穴蔵団の内紛が終わってしまえば、ならず者の派閥が勝てば、こちらに大きな火の粉が降りかかってくる可能性がある。

 マレフィオア討伐隊のすべての者が地下神殿に行くわけではない。フリッドをはじめとする多くの者が地上に残り、あるいは地下の浅いところで休憩、補給地点を設置することになっている。

 俺やリフィアたちがまだ地下にいれば、地上に残る者たちだけで穴蔵団や街の一部の住民とやりあうのは荷が重いだろう。

 多少は時間がかかっても、ゴロツキどもをきれいに始末してしまう方がいいのだ。圧倒的な力の差を見せつけて、反抗する気力を削いでしまう方がいいのだ。

「まず頭目のバシリアは絶対に殺す。反目しそうな者も皆殺しにして、残った穴蔵団の残党をそのまま丸ごと、サリオに継承させるのがいいと思う。ああいう輩に中途半端はだめだ。奴らの寝ぐら、占拠しているカナバルの領主館にこちらから乗り込んで、サリオと接触すると同時にバシリアたちを殺す。どうです?」

 イシュルは最後にフリッドを見て締めた。その顔に歪んだ笑みが浮かんでいた。

「後顧の憂いはなくさないといけない。討伐隊の戦力なら問題ないでしょう」

 ……即断即決、電光石火で敵の頭目を殺っていわゆるクーデターを起こしてしまう。穴蔵団のアジトをこちらが占拠してしまえばいい。ことが済んだらさっさとサリオにまかせ、あとはエバンらに見張らせておけばいい。

「カナバルに到着したら、まずバシリアの許へご機嫌伺いに行きましょう。向こうも警戒してるでしょうが、いざとなったら力任せでいけばいい。さっさと終わらせましょう」

「……わかった。イシュル殿の案で行こう」

 フリッドはほんのわずかの間逡巡したが、すぐに不敵な笑いを上らせ、重々しく頷いた。



 翌日、討伐隊はリバレスで雇った傭兵らを分離し、昼前にパラゴ村を出発した。

 村からは、ちょうどイシュルと同年輩の若者三名が、盆地に入るまでの案内人として付けられた。

 フリッドは惜しげも無く、村長に王金貨のたんまり入った皮袋を渡した。村人はかつて王家に反逆した一族の末裔との伝承があったが、村長らパラゴ村の人びとに討伐隊に対する敵意や反感は一切見られなかった。

 討伐隊は案内人の若者らに従い山間を一度東側へ進み、高所を迂回して盆地に出る峰に取りついた。

 そのあたりから高山帯に入ったのか木々が消え、見晴らしが良くなった。

 標高はおそらく三千長歩(スカル、2000m強)ほどになるだろうか。

 イシュルは強風が吹くとその流れを逸らし、足場の危険なところはディマルス・ベニトが土の魔法を使って補強した。

 山の北側斜面にはまだ多くの雪が残っていた。その日は天候は良かったが、気温は当然、だいぶ下がっていた。

「この先、中盆地に降りる峰の先に、“龍の巣”と呼ばれる山があるんだ」

 イシュルの後ろを歩く村の若者、アバトという名の若者が言った。

「龍の巣?」

「ああ。いつも火龍が数匹、山の頂のあたりにいるんだ。人間を襲うことはほとんどないけど、あんたらは数が多いし魔法を使う者もいるから、ひょっとすると襲ってくるかもしれない」

 イシュルが後ろへ振り返って疑問を口にすると、アバトは視線を遠く、その山々の方へ向けて答えた。

「火龍が? なぜ……」

「さあ。よくわからないけど。中盆地の周りにはわりと多くいるらしいよ、火龍が」

「……」

 イシュルも視線を鋭くして前方の山々を見つめた。

 何か、心に引っかかるものを感じた。疑念を覚えた。

 討伐隊はその後、まだ陽の高いうちに山の南側斜面、横穴のような窪地に数名ずつの小グループに分散して野営した。

 イシュルは最初、ロミールやベニトらと同じ横穴で寝ていたが、途中からなぜかロミールらがミラやリフィアたちと入れ替わり、訳も分からず眠れぬ夜を過ごすことになった。

 翌朝は懸念された天候も良く晴れ、再び連綿と連なる峰々を歩きはじめた。

 尾根の南側は山々が続き、下方は靄に覆われている。アバトらの言う“中盆地”、地下神殿のある盆地はまだ視認できなかった。“中盆地”は現地点よりさらに、西方に位置していた。

「ふああっ」

 イシュルは歩きながら顔を俯け欠伸を漏らした。

 ……まったく、あいつらのせいで……。

 イシュルは縦にほぼ一列、長い隊列を組んで進む後ろを振り返った。昨日の村の若者、アバトにロミール、そしてリフィアとミラ、シャルカと続いている。

 リフィアとミラはイシュルと目が合うと、罰が悪そうに目を逸らした。

 だが、シャルカは難しい顔をして前方を睨んでいる。

 ……剣さま。

 そこへネルの声が脳裏に響いた。

 ほぼ同時に、目を逸らしていたリフィアが厳しい顔になって前を見た。

「……!」

 イシュルも前を向くと、山の峰々の向こう、遠くの山に何か、うごめく気配がした。

「剣さま、火龍です。全部で五匹、山を下ってこちらに向かってきます」

 今度はネルがはっきり声に出して言った。

「ああ」

 イシュルは呟くように言うと、目を凝らして前方を遠く、仰ぎ見た。

 ……龍が下ってくる。 

 微かにその姿が視認できるようになると、先頭の一匹が上昇をはじめ、次の二匹が各々左右に分かれ、山の斜面へ回り込んだ。残る二匹はそのまま速度を上げ、まっすぐ突っ込んでくる。

「火龍か!」

「むっ」

「あ、あ」

 イシュルの前を進むフリッドやリリーナ、マーヤが驚愕の声を上げる。 

 イシュルは呆然とその火龍の動きを見つめた。

 ……なんだ? こいつらの動きは。

 上下左右からこちらを挟撃する気か……。

 今までにない、統制のとれた火龍の動き。

「いったい何なんだ」

 その時、ふといやな予感がした。

 イシュルはなぜかまったく逆の、後ろの方を振り向いた。

 ミラやリフィアの姿も目に入らない。はるか遠く東の、空の彼方を見つめた。

 その先に、赤帝龍がいるのだった。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る