【幕間】春を待つ 2



#3 湖上の城


 ほんの微かな暖かさ。ほんのすこしの潤い。

 草原を揺らし風が渡っていく。

 若葉の匂いが鼻先を掠める。

 雲間から溢れる陽光を、手をかざして見上げる。

 青く色づき、瑞々しさを増した木立を抜け、草叢を踏みしめる。

 イシュルはひとり、なだらかに広がる丘を下っていく。

 王城の南西に広がる草地は、騎士団の練兵場になっている。

 今日はまだ、兵馬の姿が見えない。

 イシュルは来た道を振り返り、誰もいないのを確認すると立ち止まり、空を見渡し風を感じ、春の足音を聞こうとした。

 ……。

 心のうちをネルレランケの抗議するような、甘えるような、言葉にならない感情が触れてくる。

「ふふ」

 イシュルは小さく笑い声をあげた。

 風の中に隠れた春の訪れ。それを掴み取ろうと感覚を研ぎ澄ましていたところへ、後ろからネルが縋りついてきた。

「剣さま」

 彼女は、はっきりと耳に聞こえる声で訴えてくる。

「わたしには無理です。どうかご再考ください。人間どもに知られたくないのなら、今は修練はおやめになったらいかがでしょう」

 ネルは続けて、「もしよろしければ、わたしがイシュルさまをあの西の山々の尾根の向こうに連れて行って差し上げます」と提案してきた。

「俺をあの山向こうに運んでくれるのか?」

 イシュルは後ろを振り返ってネルに言った。

 彼女はイシュルの背後に全身を現して宙に浮いている。

「はい。あの険しい山中で行えば、人間どもに気づかれずにすみましょう」

 先ほどからふたりの話す山並みとは、王都の西に南北に伸びる北ブレクタス山脈のことだ。

 おそらく七千長歩(スカル、約4,500m)ほどの高さのある高峰は、連綿と続く山並みの果てにその峻嶮な姿を見せている。山肌の中腹あたりまで雪に覆われ、剣のように尖った峰々が青空を切り裂くように南北に続いている。

「……ネル。あんなところまで行ったら、寒くって凍え死んでしまうよ。空気も薄いし」

「ああっ。それは失礼しました」

 ネルは先ほどから動揺している。

「そんなに気にしなくてもいいよ。少しでもごまかせられれば、それでいいんだ」

「はい……。でも、どれほどお役に立てるか……」

 ネルは弱々しい声で呟くように言った。

 王城での滞在が長くなり、イシュルは空いた時間は練兵場に出て、ランニングや魔法の修行を行っていたが、今日は思い切って、風の剣の鍛錬をやろうと考えたのだった。

 先日、王家の地下神殿調査団に荷物持ちとして参加したという、バジムの関係者に当たるべくリフィアと王都の街中に出た。そこで地下神殿のある街、カナバルで賞金稼ぎをしていたセグローとフェルダールのふたりの男たちと出会った。

 彼らの話はカナバルの元締め、バシリアに捕らえられた仲間のバストルを助けて欲しい、というものだったが、イシュルはそこに作為的なものを感じ、月神レーリアの何度目かの介入を疑った。

 ……もし月神の介入が事実ならば、どんなに警戒してもし過ぎる、ということはない。

 もっとも頼りになる唯一の対抗手段は風の剣だが、発動速度は少しずつ上がっているものの、未だ発動規模、力の加減ができないでいる。

 それに“剣”というのなら、その形態を維持することができる筈なのに、発動した瞬間からその後は、ひたすら「斬る」状態で対象に向かって魔力、いや神力が開放されるだけだ。

 いささか極端な言い方になるが、“風の剣”とは威力が極限にまで高められた既存の風魔法、“風神の刃”や“風神の矢”と、ほぼ同じものであるとも言える。少なくとも今俺が使える “風の剣”はそうだ。

 もし短時間であれ“剣”の形態を維持できれば、さらに威力を調節できるようになれば、地下でのマレフィオアとの戦闘も俄然、容易になる。楽に戦うことができる。

 まったく正体不明だが、森の魔女レーネを傷つけた“神の呪い”を、制御された“風の剣”で払い、その後に威力を減じてやつを斬ればいい。何度か斬りつければ“神の欠片”を露出させ、それ自体を斬って消滅させることができるかもしれない。

 なんとかして、ただ巨大な力を放出するだけの今の状態から脱却し、その上の段階に進まなければならない……。

 イシュルはネルを安心させようと笑みを浮かべると、次にいきなり厳しい顔になって言った。

「これは命令だ。効果が期待できなくとも、きみはやらなければならない」

「はい、剣さま。……お許しください。たとえお役に立てなくても、全力を尽くします」

 ネルはイシュルの決意を知って態度を改め、空中からイシュルに向けて跪いた。

 イシュルは風の剣の鍛錬に臨むに当たり、ネルに王城と街の方に対し、風の剣の魔力とその閃光を遮断、少しでも減じて隠蔽するように頼んだ。

 しかし、それはいかな風の大精霊であっても至難の技なのか、ネルが自信がないと尻込みしたのである。

 イシュルが「少しでもごまかせればいいから」と説得しても、ネルはその対象が風神イヴェダの力そのものである風の剣であったからか、なかなかうんと言わなかった。

「その意気だ、ネル。でも、本当にできる範囲でいいんだよ」

「なんという優しいお言葉を……。剣さま、わたし頑張ります!」

 ネルは胸の前で拳を固く握った。

 ……本当に風の魔法具の力は絶大である。どんな高位の精霊もみな、これでもかと尽くしてくれる。

 ネルの眸に炎がともったところで、イシュルは前に向きなおり、おもむろに意識を集中しはじめた。

 周囲を木々に囲まれた草原の、緩やかに傾斜した丘の上。

 その片隅に濃密な魔力が渦を巻く。

 だがそれは風の魔法ではなく、金の魔法だった。

 風もないのに木々が揺れ、草原が波打つ。

 イシュルの周囲を金の魔力が暖色の輝きを帯び、うねりのたうつ。

 胸に手を当て目を瞑る。

「くっ」

 イシュルは面上に苦悶の表情を浮かべて小さな呻き声を上げた。

 周囲に圧縮された金の魔力を保持しながら、一方で天地を超え、精霊の異界を超え、その先にあるものに手を伸ばす。

 指先にそれが触れた時、風の剣が発動する。

 イシュルは胸から拳を離し、上へ掲げた。

 研ぎ澄まされた心のうちを、脳裡を、異様な力が駆け上がっていく。

 くっ、うっ……。

 ここだ。

 イシュルは歯を食いしばって、拳の先に形成されていく風の剣に、金の魔力を注ぎ込んだ。

 圧縮された巨大な金の魔力は鉄になろうと、この世界に実体化しようと、喚きを発し身を震わしながらその刀身に吸い込まれていく。

 風の剣が発動するとその周りは神域のような状態になって、すべての干渉を受けなくなる。

 そこへイシュルは金の魔法具の力をもって、風の剣を持つ者として、無理やり異物である筈の金の魔力をねじ込んだ。

 風の剣の発動結界を突破した金の魔力は、ひとたび中に入るとむしろ、その中心に吸い込まれるようにして風の剣の本体に纏わりついていく。

 金の魔力は風の刃に触れると瞬間、鋼鉄となって実体化し、直後には消滅していく。

 風の剣を鋼鉄が覆い、消えていく。ほんの僅かの間に、それが無限とも思われる回数、連続して繰り返された。

 鋼鉄が生成され消えていく輝きの中に、風の剣が数瞬だけ保持される。

 もっと、もう少し……。

「!!」

 限界はすぐにきた。

 突然金の魔力の流れが断ち切られ、すべてが霧散し消えていく。

 同時に風の剣が天に向かって開放された。

 青白く輝く光芒が空を引き裂き、中天に向かって駆けていく。

 はるかな地平を、遠雷のような轟音が鳴り響く。

 イシュルの周りを風が踊り、草花が空高く舞い散った。

「ぐはっ」

 イシュルはたまらず地面に膝をついた。

「はっ、はっ、はっ」

 大きく肩を揺らして息をする。

 そして草叢の上に身を投げ出した。

「……」

 これはきつい……。やはり駄目だったか。

 イシュルは仰向けになって空を見上げた。

 目の前に広がるくすんだ水色。

 彼方に薄れゆく風の剣の光。

 その視界の端、北の方にネルの展開した風の魔法のベールが揺れ動いていた。



 ネルの大魔法が消えると同時に、王城の方で幾つか、魔法の光点が灯った。

 程なく木々の間からリフィアが、空からシャルカの肩に乗ったミラが駆けてつけてきた。

「何かあったか、イシュル」

「イシュルさま!」

「大丈夫……、ごめん。心配かけたかな」

 イシュルは上半身を起こし、リフィアとミラに申し訳なさそうな笑みを浮かべた。

 ……やはりネルの魔法では、ごまかしきれなかったらしい。

 ふたりとも、イシュルを心配そうに見下ろしている。

「風の剣の鍛錬をしていたんだ」

「あ、ああ……。風の剣を使ったのはわかるんだが」

「また、何か試していたのですね、イシュルさま」

「うん……」

 イシュルは両足を折って草の上に胡座をかいた。

 ……そりゃ、風の剣を見たら何事かとびっくりするよな。ネルの魔法も不自然に思ったろうし。

 ミラとリフィアには無用な心配をかけてしまった……。

「剣さま」

 そこでネルレランケが頭上に姿を現わした。

「あまりうまくいきませんでした……。申し訳ありません」

 ネルは沈んだ表情でイシュルに向かって頭を下げた。

「いや、いいんだ」

 イシュルはネルに向かって微笑んでみせた。

「あの風魔法のようなものは、イシュルの精霊殿がやったのか」

「それはつまり……」

「ああ。風の剣は目立つだろう? だから少しでもごまかせないかと思ってネルに頼んだんだ」

 イシュルはネルに命じたこと、自ら風の剣で試したことをふたりに話した。

「風の剣を隠すのは、いくら大精霊でも無理だろう……」

「金の魔法も同時に使うだなんて。そんなことができるのはイシュルさまだけですわ」

 イシュルの話を聞いてリフィアは呆れたように言い、ミラはいつものごとく感嘆した。

 ミラはイシュルの賛美者を自認している。彼女は基本的にイシュルの悪口は言わない。

「金の魔法を……」

 ネルを警戒するふうだったシャルカまで、ぼそっと呟いた。

「厳しいのはわかっていたんだけど。やっぱり甘かったかな」

 イシュルは力ない笑みを浮かべて言った。

 風の剣は発動すればそのまま、ただ一度だけ斬りつけて終わりだ。

 刃先を薙げばその先へ、何倍にも拡張された風神の刃が斬り裂いていく。真っすぐ突き刺せば、その突いた一点に風神の力が突き抜けていく。

 風の剣と言いながら、剣の形態を維持できない。その業の名からすれば、剣の形を保てない筈はないのだが、あの力はそこまで制御することができない。

 何かやり方があるのかもしれないが、無理をすれば自分の意識が先に吹っ飛ぶのは明らかだ。それは本能で、感覚的にわかる。

 力加減も刃を薙ぎ、突いた時の早さや、動きの大きさで調節するくらいしかできない。

 制御できない力を、いったいどうすれば可能になるのか。

 大聖堂の主神の座でイヴェダが降臨した時、彼女はそこまで教えてくれなかった。

 ここはもう一度、風神を召喚してみるべきだろうか?

 いや……。イヴェダが応じてくれるか、それは微妙だ。

 風神は気まぐれだ。あの時、彼女は気が向いたら会ってやる、みたいなことを言っていた。

 多分、召喚に成功する確率はかなり低いような気がする。そのことも何となくわかる。

 それにもし彼女が姿を現しても、風の剣を自在に制御するやり方を教えてくれるかわからない。

 風の剣の修行はイヴェダに頼らず、己自身でやらければならない。そういう気構えでいた方がいいだろう。

 そこで考えたのが、他の力を利用して風の剣を抑え込めないか、ということだった。

 風の剣の力は強大だ。他の魔法とは隔絶している。だが俺は金の魔法具を持っている。

 金の精霊の異界からありったけの魔力を引っ張り出して、風の剣の発動時にぶつければ、短時間なら抑え込める、“剣”の形態を維持できるのではないか、と考えたのだ。

 魔法の発現には、人間の持つ概念が重要な役割を果たす。木剣や銅剣などもあるが、誰もが“剣”から連想するのはやはり鉄や鋼(はがね)の剣だ。「剣は鋼でできている」という概念が、風の剣にぶつける金の魔力を強化する。

 だから風の剣の発動を遅延させる、あるいは安定化するのに、金の魔法は存外に効果を発揮するのではないか。

 それで金の魔力の解放時に鋼鉄になるようにして、実際に試してみたわけだが……。

「俺の呼び込んだ金の魔力を持ってしても、風の剣の発動……、いや、解放かな? それを抑えることができなかった。ほんの少しだけ遅らせることができたかな、ってところだな」

 ……しかも、自分の精神力の消耗ばかりが大きく、ただひたすら疲労するだけだった。

「ふむ……」

「イシュルさまの、あの金の魔力でも無理でしたのね」

 リフィアとミラはふたりとも、胸の前で腕を組んで難しい顔になった。

「剣さま」

 珍しくまだ姿を見せていたネルがイシュルに声をかける。

「……」

 続いてシャルカが、リフィアが視線を練兵場の東の木立の方に向けた。

 王城の南宮に面する窪地を挟み、南西に向かって広がる草原。その練兵場の東側の高台に、廃城が見える。

 丘の上、木々の間に見え隠れする崩れた城壁や塔は、ユーリ・オルーラとの決戦時に地下の隠し道を通って出てきた場所だ。

 その廃城の南側、右手の丘を下ったあたりに、東宮から道が伸びている。両側を叢林に囲まれたその道から騎馬が一騎、飛び出してきた。

 栗毛の馬にはニナが乗っていた。

 あらら……。

 東宮でも風の剣、しっかり見えちゃったか。そりゃそうだよな。

 ニナは相当馬を飛ばしている。何か異変が起きたかと、気が急いているのだろう。

 ただ彼女の他に、こちらに向かってくる者がいないのは救いだ。騎士団が動いたりしたら目も当てられない。

「イシュルさん! 大丈夫ですか?」

 ニナはイシュルの前まで来ると、見事な手綱さばきで馬を止め、馬上から声をかけてきた。

「ああ、大丈夫」

 イシュルは苦笑を浮かべて言った。

「はは」

 横でリフィアが小さく笑う。

「ニナさん……わざわざ馬で」

 と、ミラの呟き。

 ここから東宮は距離がある。それでニナは馬に乗ってきたのだろう。

 シャルカはいつもの無表情な顔。ネルはまた表情を曇らせてしまった。

「ごめん、心配かけて。風の剣の練習をしていたんだ」

 イシュルは頭の後ろに手をやり、力なくニナに微笑んた。

 南宮の手前の窪地の方から、エバンが数名の“髭”の者らしき男たちを従え近づいてくるのが見えた。



 翌日の早朝。

 その日もイシュルは練兵場に出てきたが、今回はかるく、ランニングするだけで終わらせるつもりだった。

「……」

 イシュルは緩やかな傾斜のついた草原を駆け上りながら、小さな、言葉にならない呻き声を発した。

 ……風の剣はネルに頼んでも、ほとんど隠すことができなかった。また騒ぎになるのは避けなきゃならない。

「風の剣の練習、どうしようかな……」

 でも、風の剣を制御する方法は何とか見つけ出さねばならない。

 本当に冗談じゃなくて、ブレクタスの山奥にでも移動して練習するか? ネルに運んでもらえば、魔力の消費、心身の疲労や消耗を気にかける必要はない。

「おっ」

 ふと前を、王城の方を見ると、手前の木立の影から女の魔導師らしき人物が姿を現した。

「……ニナ」

 明るい茶色のローブが風にはためく。腰には彼女の水の魔法具、大きな宝石の付いたステッキを差している。

「おはよう、ニナ」

 練兵場の丘の上でふたりは朝の挨拶を交わした。

「おはようございますっ、イシュルさん」

 ニナの元気な笑顔が眩しい。

「あの、今日はわたしとお出かけしませんか」

 ニナは微かな緊張を面上に漂わせ、だがしっかりとした口調で言った。

「それはいいけど……」

 イシュルはこの後、国史閲覧室に行こうと考えていた。

 国史の調査は、エレミアーシュ文庫の一件が片付いた後、全員が顔を合わすのを三日に一度に減らし、その間は個人の裁量で自由に行うように決められた。

 地下神殿に関する調査は、森の魔女レーネをはじめとする過去の調査隊の経緯が明らかになったことでそれほど急ぐ必要がなくなり、時間の余裕ができたためである。 

 だが、国史に興味を持ったジェーヌたち都市貴族の若者三人組は、今も毎日のように編纂室に通い、調査、もとい読書を続けていた。

 イシュルも二日に一度は編纂室に通い、史書に目を通していたが、もちろんニナの誘いを断る理由はない。それにミラ、マーヤ、リフィアと外出をこなしてきたのだから、ニナともどこかへ出かけるべきだろう。

「どこに行くの?」

 イシュルは意識して柔和な笑みを浮かべ、ニナに質問した。

「はい。あの……、わたし、イシュルさんとどうしても、いっしょに行きたいところがあるんです」

 ニナの眸が強い輝きを帯びている。

 ニナが俺と、いっしょに行きたいところ……。

 イシュルは微笑みの影でその場所がどこか、思いを巡らした。

「アルム湖へ行きましょう。馬を飛ばせば一日で往復できます」

 それは王都の南西にある、大きな湖だ。

 ニナが顔いっぱいに笑みを広げて言った。



 目の前をシュバルラード号の黒い馬首が揺れる。

 視界の端、右側には丘の下を街道が一筋、並走している。

 頭上に広がる空はあれから雲が増えて薄曇り。イシュルの先には栗毛の馬を飛ばす、ニナの快活な後ろ姿が見える。

 以前に聞いた覚えがある。ニナは意外にも乗馬がうまいのだ。

 イシュルはニナと練兵場で落ち合った後、騎士団の厩(うまや)に行き、そこにいたシュバルラードに乗って、同じく愛馬に乗ったニナとともに王城の南西、練兵場まで戻ってきた。

 王都の南西は廃城に練兵場があるほかは、木々の生い茂った丘や山が連なり、大きな街区は存在しない。ニナは、王宮の西側から丘を下りアルム湖へ向かう街道は使わず、その南東側に伸びる、丘の上の小径に入った。

 練兵場の端からそのまま丘上を行く道は、馬がなんとか二頭ほど並べるほどの道幅で、周りに人家はなく、人影も見えない。

 ニナによると、その道はアルム湖からアルサール大公国との国境に散在する、王領の各城をつなぐ連絡路なのだという。

 彼女は師匠のパオラ・ピエルカと、この軍用路を使ってアルム湖に面した名城、アンペール城と、王都の間をよく行き来したとのことだった。

「この道を行けば、アルム湖へ半日もかかりません。その日のうちに王都に帰ってこれます。近道なんです」

 湖に向かう途中、幾度か馬を休ませたが、その時にニナが説明してくれた。

 人気ない小径を行くと、馬上から時おり瑠璃色や白、赤紫の花々を目にする。草むらに見える瑠璃色の花は名を知らない。木々に咲く白や赤紫の花はおそらく木蓮だろう。

 イシュルは先を行くニナの後ろ姿に、春先に咲く可憐な花々の色彩を重ねた。

 アルム湖への道すがら、風の中に花びらが舞うのに行き当たると、イシュルは眸を細めてその愉悦に身をまかせた。

 シュバルラードの蹄の音が小気味よく、辺りに響きわたる。

 右に左に緩やかに曲がる小径を行くと、やがて右手にアルム湖畔が見えてきた。

「あれがアルム湖の北の端です。イシュルさんは初めて、ですよね」

 ニナは馬を止め、横に並んだイシュルに言った。

「ああ。はじめてだ。綺麗だな、やっぱり」

 丘の上から数里長(スカール、一里長は約650m)ほど先に、北岸の山並みと空を映した湖面が広がっている。

 アルム湖はかなり大きな湖だ。西側の対岸に連なるブレクタスの山々が、湖の先に薄く霞んで見える。

 手前の平地には湖に面した小さな街が見える。ダクロフと呼ばれる、王都と湖岸に散在する村々、そしてアルサール大公国を結ぶ交易と漁業の街だ。

 港には無数の小舟に混じって、やや大きな一本マストに横帆のついた船(スループ)が泊まっている。小舟は漁に、スループは交易に使われる船だ。

 ブレクタスの地下神殿へは、あの港町から船に乗りアルム湖を南へ縦断することになる。

「もう少し行きましょう」

 ニナが馬上から声をかけてきた。

 それからイシュルたちは、湖に沿ってしばらく南下した。

「……!」

 小道が左側に折れると突然視界が開け、行く手に目の醒めるような景色が広がった。

 木々に覆われた小さな岬の先、湖上に美しい尖塔を生やした土色の城が見えた。

「あれが……」

「はい。王国でもっとも美しい城と言われるアンペール城です」

 ニナは馬から降りると馬上のイシュルを見上げて言った。

 微かに、寂しげな笑みが彼女の顔に浮かぶ。

「イシュルさまは知っていますか?」

 ニナは湖上の城へ視線を向けた。

「あの城にはセシリーアさまと、マトリーカとケネトス両殿下が幽閉されているのです」

「……」

 セシリーアは北線で戦死したヘンリクのひとつ上の兄、デメトリオの妃(きさき)、マトリーカとケネトスはその子供たちだ。ケネトスはバルスタール奪還後、アンティラ宮殿の謁見の間でイシュルに宝箱を投げつけてきた男の子だ。

 イシュルは眸を細めてアンペール城を見つめた。

「師匠はあの城の城主代理として、アルム湖を渡る商人や漁民を守護していました」

 湖には稀にですが、ヒュドラや大海蛇も出るんです、とニナは続けた。

 水の宮廷魔導師であるパオラ・ピエルカは、大物のヒュドラが現れても常に一撃で屠ったという。

「わたしたちが城に詰めていた頃は、お城にはどなたも囚われていなかったのですが……」

 ニナの話が続く。

 アンペール城は一方で、古くから失脚した王家の者など、王国で最も身分の高い者たちが幽閉されてきた監獄でもあった。

「不思議ですよね。こんなに素晴らしい景色の、綺麗なお城なのに」

 ニナが悲しげな微笑を向けてくる。

「……本来なら、離宮として使われてもおかしくない城だがな」

 イシュルは視線をニナからアンペール城へ移した。

 湖上に突き出た、木々のこんもりとした岬の先からは、アーチ状の橋脚の並ぶ細い橋が城に向かって伸びている。今は城門の橋桁が揚げられ、城の手前で途切れている。

「だが一方で、あの城は四方を水に囲まれた堅城でもある。岬から伸びた橋を落としてしまえば、早期の落城はありえない。それはつまり、頑強極まる牢獄でもある、ということだ」

「……」

 ニナの笑みが大きくなる。

「でも、それだけじゃないんです。あの城に閉じ込められた王家の方々の多くが、湖に身を投げて亡くなっているのです」

「!」

 イシュルははっとした顔になってニナの顔を見た。

 ニナはその寂しげな笑みを貼りつけたまま、城の方に視線を向けた。

「この時間帯はよく、風が止むんです。湖は波が消えて鏡面のようになります。天気のいい日には、ブレクタスの遠くの高い山まできれいに映り込みます。まるで夢の世界にいるような気持ちになります」

「それは……」

 イシュルはかすれた声で、呟くような小声で言った。

 ニナの言わんとしていることがなんとなく、だがすぐに理解できた。

「その、全てが止まってしまったかのような時間が、毎日のように訪れるのです。お城に囚われた人々はやがて」

 ニナが音もなく笑った。

「もうひとつの、本物の牢獄に囚われていることを知るのです」

 すべてが静止した、音のない世界。この世のものとは思えない、ひとも生きものも誰も何もない、美しい世界。

 ある者はその虚無に魅せられ、ある者は絶望を知るだろう。

 行き着く先は同じだ。湖面に映る止まった世界は、囚われた自分の姿でもあるのだ。

 湖上の城に囚われた者はやがて気が触れ、鏡面のような湖に身を投げる。

 イシュルとニナは馬を降りると、手綱を引きながらゆっくりと湖畔の道を歩いた。

「ヘンリクさまは、セシリーアさまとその御子らをずっと、あのお城に閉じ込めておくのだと思います」

「……」

 イシュルは無言で頷くと言った。

「彼女らがいつか湖に身を投げるかもしれない、それも承知の上なんだな」

「そうだと思います。これから先、陛下が自ら手をくだすことはないでしょう」

 ……もし将来、ペトラの身に何かあったら。

 王国を継ぐ者はかなり血の離れた、傍流になる。俺も詳しくは知らないが、幾つかの有力な都市貴族に、オベリーヌとベールヴァルドの両公爵家、そして二代前の王弟、クラエスの直孫にあたるリフィアも、王位継承候補のひとりになる。

 彼らが争うことになれば王国内は乱れに乱れ、混乱することになるだろう。下手をすれば内乱状態になるかもしれない。

 ヘンリクとしても万が一を考え、その事態は避けなければならない。だから少なくとも、ケネトスあたりは生かしておきたいと考えているかもしれない。

 だが一方で、ペトラが健在である限り、デメトリオの子どもたちを生かしておくことは危険である。

 それにペトラの次の王位継承者は誰々だ、とヘンリクがあらかじめ指名し、主な都市貴族や領主たちに周知、了解させれば無理にケネトスを生かしておく必要はない。

 これらのことで、ヘンリクの心中はデメトリオの遺児らを殺す方向に傾いていると思われるが、ケネトスを生かしておくことに利点がないわけではなく、痛し痒しの状態で決断をためらっている可能性が高い。

 セシリーアと子供たちのアンペール城幽閉はそういうことだろう。ヘンリクはあえて決断せず、場合によっては彼女らが自ら死を選ぶような、不安定な状況においているのだ。

 将来、ペトラが結婚し何人かの子を成した時、年齢的にまだ生きているだろう、マトリーカとケネトスはその時にこそ殺されるだろう。ヘンリクがその時点で生きていれば、彼が王位にあろうとなかろうと、確実にデメトリオの遺児らを抹殺するだろう。

 きっとその時も、湖上の城に広がるこの眺望は何ら変わることがないだろう。

 すべてが静止した、時間が止まったまま、何も変わっていないだろう。

「あっ」

 だがその止まっていた世界に、変化が起こった。

 イシュルは小さな声を発し、眸を何度も瞬いた。

「あれは……」

 ひとつ、ふたつ……と、湖面に波紋が広がる。

 白く光る何かが水の上を舞っている。

 イシュルは目を凝らしてそれを見た。

「精霊が踊っている……」

 イシュルはハッとした顔になってニナを見た。

「エルリーナです」

 ニナは眸を細めて湖面を踊る水の精霊を見た。

「彼女にお願いしたんです」

 エルリーナは両手を広げ足を伸ばし、跳躍し回転し、その爪先を湖面にそっと下ろす。

 その一点から波紋が周囲に広がっていく。

 幾つもの波紋が生まれ重なり、消えていく。

 彼女の動く先から水の魔力の光彩が煌めき、周囲に霧のように広がり、背景に溶けるように消えていく。

 幻想的な……いや、そんな陳腐な言葉では表現できない。感覚を、心をすべて持っていかれるような美しさだ。

 精霊とは本来、こういう存在なのかもしれない。人間の魔法使いが召喚し、戦うことも含めて様々なことに使役する──それは、彼女らに対する冒涜でしかないのかもしれない。

「セシリーアさまも御子らも、もう魔法具はすべて取り上げられているでしょう。エルリーナの舞う姿を見ることができれば、少しは慰めになるでしょうに」

 魔法具がなければ基本、精霊や魔力を見て、感じることはできない。

「でも、あの波紋は見えるだろう。ほんの少しの間でも、小さくとも、変化は変化だ」

「そうですね」

 ニナはアンペール城にちらっと目をやり、湖全体を見回し言った。

「もしあの方々が水の魔法具を持っていたなら、この景色に絶望を感じることなんてないのに」

「……」

 エルリーナがひときわ大きく湖上を跳び、その輝く姿を消した。

「多くの水の魔法使いは、水が山から平地に流れ、海に注ぎ、霧のようになって空気に溶けこみ、雨となって戻ってくることを知っています。感じることができるんです。でもそれだけじゃないです。水は生き物の中でも同じように流れ、絶えず動き、変化しています。わたしはそれをイシュルさんから教わりました」

 ニナが横からイシュルを見つめてくる。

「すべてが止まっているように見える景色も、それは見せかけだけです。水のさざめきを感じることができれば、それだけで楽しいのに」

「そうかもな」

 ……デメトリオの妃と子らは幽閉されている身だ。あの城に囚われた者は己が絶望を湖上に見てしまうのだ。水の流れを知ろうと、囚われている事実は変わらない。

 だがイシュルはニナに同意して見せた。

 世界を成すという五系統の魔法が使えれば、新たな知覚を得ることができる。

 確かにそれは、緩やかに死に向かう無為を打ち消すことができるかもしれない。

「イシュルさんも風を、風が吹くのをいつも感じているんですよね」

 ニナが微笑む。

「ああ。風はその流れが……いや、吹く先が大切なんだ。いつもその先を見ていないといけない」

 イシュルはそこまで言って、「あっ」と何かに気づいたような顔をした。

  “風の吹くままに、風の吹く彼方にこそ真まことあり”。

 ……聖都で、レニの風の魔道書に書かれてあった言葉。彼女が言った言葉。

 風の吹くままに、その先に……。

 風の剣を制御するために、次に試そうとしていたこと。

 それは、風の魔力をこの人の世と精霊の異界の間で循環させるように、神の力を、神の領域と循環させることだ。

 あの力は自分の手に負えるものではない。そうはっきりと感じ、考えていた。

 だから躊躇していたのだが……。

 もっと、できることがあるんじゃないか。

「風の吹く先を、見よう」

 イシュルはほんの微かな声で呟いた。

 遠く、湖の背景にそびえるブレクタスの山並み。その頂(いただき)はまだ、真っ白な雪に覆われている。

 あの湖上の城に囚われたデメトリオの家族たち、俺に宝箱を投げつけてきた子らは、水の精霊の起こした波紋に気づいたろうか。

 静止した世界に生まれた小さな変化に気づいたろうか。

 ……俺もその変化を追い続けなければならない。すぐ傍に引きつけ、この身とひとつにならなければならない。

 そうすればきっと……。

「イシュルさん?」

 耳許にニナの柔らかい声がする。

「ありがとうニナ。エルリーナの舞いも美しかった」

 イシュルはニナに微笑みかけた。

「はい、良かったです」

 ニナも頷き、微笑み返してきた。



 ニナとアルム湖に出かけた数日後、午後になってイシュルは再び練兵場にやってきた。

 今日は父の形見の、折れた剣を持ってきている。久しぶりに腰にぶら下げている。

「エバン、あんたは後ろの木立の中で、背を低くしてくれ。木の影で、しゃがんだ方がいいと思うぞ」

 イシュルは振り向いて、後ろからついてくる“髭”の小頭(こがしら)に声をかけた。

 風の剣の修練にはやはり、その依り代として本物の剣があった方が良い。たとえ折れていようと、手に馴染んだ思い入れのある剣が良い。

 王宮では基本、騎士団や城兵、衛兵以外に帯剣は許されない。そこでイシュルはロミールを通じて、内務卿に帯剣の許可を願い出た。その手続に二日ほどかかり、今日になってその許可が下りた。

 イシュルが風の剣の修練を行うということで、王家は念のため監視をつけた。それでエバンが同行してきた。

 ミラやリフィアたちも同行させろと強硬に主張してきたが、イシュルはそれを認めなかった。

 もし風の剣の制御に失敗すれば、周囲にどんな被害が及ぶか予想がつかなかったからである。

「了解しました。では」

 エバンはイシュルの意見になんの異論も挟まず、素直に従った。

 彼はイシュルに背を向けると、北側に広がる木立の方へ歩いていった。

 イシュルは緩やかに傾斜している練兵場の草叢をひとり、ゆっくりと降りていった。

 今回はネルにも何も指示していない。彼女にも近づくなと厳命していた。

「……はじめるか」

 イシュルは草原の中ほどで立ち止まると、少し足を開いて地面を踏みしめ、父の形見の剣を抜いた。

 目を瞑って意識を天へ、神の領域へと飛ばす。

 知覚に触れるもの。その力が地上へ、自分の中へ、両手に握った剣先へと流れ込んでくる。

 ……目を開く。

 折れた刃先が青白く輝き、神の力が一瞬、諸刃の剣の形を成す。

 このままなら風の剣は、剣先から直上へと放たれる。

 恐ろしい、計り知れない力の奔流。

 ……くっ。

 無理だ、と心のうちから悲鳴が上がる。

 いや、力づくで抑え込もうとするな。流れを掴め。吹く先を見ろ。

 イシュルはその時、柄から右手を離し、青白く輝く風の剣の刃を握った。

 ……触れた先から俺の指が、手が吹き飛ばされて消えてしまうかもしれない。

 だが俺は風の剣。……風神の、一振りの剣なのだ。

「!!」

 青い神の刃に触れると再び、その力が自分に流れ込んできた。

 指先も手も、腕も持って行かれなかった。

 だが全身が、心が、自分自身が地を離れ、持っていかれそうになる。

「うっくく……」

 怖くない。俺は俺、人間だ。誰にも、何にもならない。

 剣で、人間だ。人間で、剣だ。

 ……恐れずに。

 押さえつけず引き込め。ひとつになれ。

 地に足をつけ、踏ん張れ。

 俺こそが、風の剣なのだ。

 ……その時全身を、突風が吹き抜けた。

 顔を上げて、その先を見た。

 閃光が走り、じりじりと空気が焼ける。肌がひりつく。

 右手を離して両手でその剣の柄を握り直す。

 目の前に水晶のように光り輝く青い刀身。ちりちりと小さな雷光を発し、その像が微かに震える。剣先は長く細く伸びて、宙に消えている。

 全身を流れる新たな力。

 まだそれだけだ。巨大だが繊細な流れ。自在に操ることなどできはしない。

 だが。

 ……風の剣は成った。

 水が、火が、風が、世界を流れ渦を成す。

 イシュルの目の前で風神の力が渦を巻き、一振りの剣となっている。

 今はまだ。

 このまま、力を返す。

 青い輝きがかすれ、消えていく。

 頭上で遠く、微かに風が鳴った。雲が小さな渦を巻き、穴が開いて光が差し込む。

 父の剣を鞘に戻す。

 俺はその陽光の中に立っている。

 夏の日のような、草の焼ける匂いがした。

 その日、イシュルは風の剣の制御に成功した。風神の力を自在に振るう、その端緒を手にした。





#4 空中散歩


 大理石の円柱が室内の四隅にあって、複雑な幾何学模様の刻まれた天井を支えている。

 その天井は中心に向かって優美な曲線を描き、半球状に室内を覆っている。

 同じ大理石の床には赤い絨毯が敷かれ、その上に円卓がある。

 円卓に座る人物はイシュルの他にペトラ、マーヤ、ニナ、リフィア、ミラ。そしてルースラ・ニースバルドとトラーシュ・ルージェクに武闘派の宮廷魔導師、フリッド・ランデルの九名だった。

 三月も下旬に入ったその日、イシュルはヘンリクにはじめて王宮に呼ばれた。

 イシュルは同じく声のかかったミラとリフィアを連れて王宮に出向いた。

 指定された部屋は閣議の間と呼ばれる会議室のひとつ、「白蓮の間」。

 イシュルたちは王宮正面から中へ入ってすぐ、中央ホールに控えていたクリスチナにその、白く輝く清澄な一室に案内された。

 室内に入るとペトラをはじめ皆、すでに円卓に着席していた。

「ブレクタス地下神殿の調査は、妾が仕切ることになった」

 イシュルやミラたちがルースラたちと挨拶を交わすと、ペトラが胸を張り満面の笑顔で言った。

「マレフィオア討伐隊の人選が決まったの」

 ペトラの隣に座るマーヤが、いつもの舌足らずな感じで言った。

 イシュルは腰を下ろすと先に、王都の貧民窟で出会ったセグローとフェルダール、彼らがよこした地下神殿のある街、カナバルやバルタルの穴蔵団のことが記された手紙を差し出し、彼らとの一件を包み隠さず話した。

 イシュルとリフィアはセグローたちと会った後、ミラも加えて三人で相談し、マーヤとニナを呼んでその日にあったことを話した。

 イシュルとリフィア、ミラの三人は、セグローとフェルダールからの依頼──同じパーティのバストルを“バルタルの穴蔵団”から救出する──ことを、調査団の者たちに知らせず秘密裏に行うことはほぼ不可能と断定し、マーヤを通じて王家に事実をそのまま知らせることにした。

 彼らの寄越した手紙の内容からすると、現地の状況はいささか複雑で、バルタルの穴蔵団を武力のみで排除するのは難しそうに思われた。バルタルの穴蔵団は地下神殿への出入り口を抑えているだけでなく、カナバルの街そのものを支配していた。

 それはつまり神殿の調査に街の住民の協力を得られない、穴蔵団だけでなく住民も妨害に加わってくる可能性が予想された。

「この手紙は貴族か神官出身の者が書いているな」

 ルースラからトラーシュ・ルージェク、そして最後に手紙を読んだフリッド・ランデルが、低い声で言った。

「そのフェルダールとやらが書いたのでしょう。どこぞの没落貴族の出身でしょうね」

 と、横からルースラ。

「ちょっと大変だけど、“髭”の者を先行させて街の様子を探らせることにする」

 と、この発言はマーヤ。

「うむ。詳しくは次の会合で話し合うこととしよう。今日はマレフィオア討伐隊の面子が決まったのでの、それをそなたらに知らせておこうと思ったのじゃ」

 ペトラがイシュルやミラ、リフィアを見回し言った。

「詳しくは次回で、ということだな」

 イシュルはひとつ頷き言った。

 ……地下神殿調査隊、王家による呼称はマレフィオア討伐隊──の派遣準備はペトラが長(おさ)となって進めることになり、表向きヘンリクは口出ししないようだ。

「そうじゃの。ではルースラ」

「はっ」

 ペトラが左隣のルースラに声をかけると彼はペトラに向かって一礼し、手許の羊皮紙をとって討伐隊に参加する主な者の名を読み上げた。

 マレフィオア討伐隊は隊長にフリッド・ランデル、副長としてマーヤ、それにニナと、先の戦役でフロンテーラに残った土の魔導師、ディマルス・ベニト、そしてペトラの護衛役からマリド姉妹の姉の方、リリーナ・マリドが主要なメンバーとして参加。さらに彼らの従者、および荷物運びとしてエバンを長とする“髭”の者が七名加わり、さらにイシュルとミラ、リフィアと彼らの従者のロミールとセーリア、ノクタが加わる。討伐隊にはミラのメイドのルシア、シャルカの名も記されていた。

 調査団は総員二十名と、ブレクタスの山越えや地下神殿調査にあたり、まず妥当な規模であると言えた。

「イシュル殿。人選に何か、意見はあるかな?」

「いえ、まったく」

 フリッド・ランデルの質問にイシュルは即答した。

 魔法使いは五系統が全て揃い、リフィア以下、武神の魔法具を持つ剣士が三名、従者たちも皆剣が使える。エバンたち“髭”の者が様々な場面でどれだけ役立つか、それはわかりきったことである。

 フリッド・ランデルは、オルーラ大公国の王都侵入時にともに戦った凄腕の剣士だ。年齢的にも三十過ぎほどで、一団を指揮するのに充分な経験と見識を有しているように思われる。

「イシュル殿。それにベーム殿とディエラード殿には後ほど、ブレクタスの山岳地誌を届けさせよう。古い希少本で見つけるのに苦労したが、この賞金稼ぎの報告書と併せて読めば、最低限の知識は得られる」

 トラーシュ・ルージェクがおきまりの青白い顔を歪ませ、いや、笑みを浮かべて言ってきた。

「それは助かります。ありがとうございます」

 イシュルも笑顔で礼を述べた。

「うむ。では此度の合議はこれで終わりとする。次回は地下神殿までの行程を確認し、現地を牛耳る盗賊団どもをどうするか、話を進めよう」

 ペトラが澄ました顔で会議の終了を宣した。



「イシュルさま、ペトラさまがお話があると。どうぞ後宮までお越しください」

 イシュルが白蓮の間を退出した後、王宮一階の広間でルースラやトラーシュらに捕まり、世間話などしていると、メイド頭のクリスチナが声をかけてきた。

 ルースラたちと挨拶を交わし、クリスチナの後について後宮に向かうと、その前の広場にペトラとマーヤがいた。

「ペトラがね、今日これから、イシュルと“でーと”したいって」

「先日マーヤと街に出たらしいの。今日は妾を案内せい」

 ペトラは細い眉をぴんと上げ、少し怒った顔で言ってきた。

「それはいいけど、いくらお忍びとはいえ、王女さまが街中に出るのはさすがにまずいんじゃないか」

 イシュルはニヤニヤして、からかうように言った。

「おまえのお父さんに知れたら、死刑もんだぞ」

「うーむ。でも、妾もイシュルとどこかにお出かけしたいのぉ」

 ペトラは頬を膨らませ、唇を尖らしてイシュルを見上げてきた。

「まぁ、おまえのことはちょっと考えてることがある」

 イシュルは空を見上げて言った。

 今日は雲は多いが背景の空は青く、陽ざしが強く暖かい。

「ここで待ってるから、マントなりガウンなり羽織ってこい。ちょっと出かけよう」

「おおっ。わかった!」

 ペトラは顔いっぱいに喜色をあらわし、クリスチナを伴い駆けるようにして後宮の中へ入っていった。

「どうするつもり? イシュル」

 マーヤもイシュルを見上げてくる。

「うん、ちょっと散歩してくる」

 イシュルはにこにこして上を、空を指差して言った。



「じゃあ行くぞ」

 イシュルはペトラを胸の前に抱きあげると言った。

「う、む……」

 ペトラはイシュルにおっ姫さま抱っこをされ、顔を紅く染めている。

 彼女はイシュルがどこに向かうか、まだよくわかっていないようだ。

「……」

 イシュルはペトラに無言で微笑むと、空に飛び上がった。

 気温と気圧の急激な変化を抑えるため周囲に風の魔力の壁を張ると、ほぼ垂直に上昇していく。

 下の方からマーヤの「いってらっしゃい〜」と叫ぶ声が微かに聞こえた。

「お、おっ」

 大空が視界いっぱいに広がり、山野が底に沈んでいく。雲の端を掠めると目の前が一瞬、真っ白になる。

 高度が上がるにつれてペトラはからだを硬くし、イシュルにしがみついた。

 ペトラは以前に、イシュルによって風の魔法で空中を飛行したことがあるが、今回はふたりきりで、あてもなく空を昇り続けている。

「あ……」

 イシュルがおよそ三千長歩(スカル、約二千m)ほどまで上昇し空中に静止すると、ペトラは周りを見渡し、小さな驚きの声を発した。

「下を見ろ。おまえの城が、街が見渡せるぞ」

「おおっ」

 ペトラは顔を俯け下を見ると感嘆の声を上げた。

 空には大小の白い雲の塊が、さまざまな高度で浮かんでいる。

 風の魔力の壁を突き抜けるわずかな風が、耳許で小さな音を立てている。

「素晴らしい眺めじゃの。妾はこんな高さまで空に昇ったのははじめてじゃ」

「……静かだろう?」

 イシュルはペトラの耳許に顔を寄せ、囁くように言った。

「この大空に、おまえと俺、ふたりきりだ」

「うっ、うむ」

 ペトラは顔を真っ赤にして頷いた。

 ……ふだんはよくからかってくるのに、いざとなるとペトラが一番恥ずかしがって、腰がひける。

「空を歩こう」

 イシュルはペトラに何度目か、微笑むと風の魔力の壁を空中に水平に敷き詰めた。

「なんとなく見えるだろ?」

 ペトラにも風の魔力の煌めきが見える筈だ。

 イシュルはペトラを下ろして、彼女の手を取り空中を歩きはじめた。

「空は……天地は広いのぉ」

 ペトラは歩きながら辺りを見回し小さな声で言った。

 北と東側は雲間に、ぼんやりと霞む地平線が広がっている。南と西には深い山並みが連なり、鏡面のように輝くアルム湖も見える。

「それにちと、寂しいの」

「ああ」

 イシュルは遠く、南側に広がるグレクタスの山並みを見つめた。

 ふたりはしばらく無言で空中を歩いた。ペトラは絶景を北から南へ、東から西へ何度も見渡すとぽつりと言った。

「王になるとは、こういうことかもしれんの」

「そうかもな。……だが、誰もがこの景色を見れるわけじゃない。お前が女王になれば、ここと同じ、誰も見ることのないものを、地平を見ることになるだろう」

「……」

 微かに風の鳴る音以外、何も音がしない。足音もしない。

「そなたはこれを妾に見せたかったのか」

 ペトラが見上げてくる。

 少し悲しげな顔だ。

「王になるとはそういうことだ。でもおまえはひとりじゃない。マーヤもいるし……」

「イシュルもおる」

 ペトラの顔に笑みが広がる。その眸が陽の輝きを拾う。

「ふーむ。それはどうかな?」

 イシュルはにやりとすると、いきなり風の魔力の壁を下へ湾曲させた。

「おっ、おおお」

 イシュルは空中に浮かんだまま。ペトラは滑り台を滑るように下へ落ちていく。

「はははっ」

 イシュルは笑いながら空を飛んでペトラの後を追いかけた。

 ……ペトラ。

 愉快な、だが寂しい生い立ちの少女。王国にただひとりの、孤高の少女。

 イシュルは見えない滑り台から、大空へ放り投げられたペトラを抱きとめた。

「怖かったか?」

「何が。ちっとも怖くない、楽しかったわい」

 ペトラの眸が潤んでいる。

 でも顔は笑っていた。

「またいつか、妾を散歩に連れ出しておくれ」

 ペトラの眸から一筋の涙がこぼれ落ちた。

 そして満面の笑みが輝く。

 彼女の涙はイシュルの風の魔力を抜け、下へ、王都の街へ消えていった。

  

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