【幕間】春を待つ1



#1 マーヤの願い


 エレミアーシュ文庫で事件があった数日後。

 ちなみに、国王ヘンリクが箝口令を敷いたため、イシュルが王家書庫に働いた狼藉は王宮に広まることはなかったが──その日の朝、マーヤがイシュルの居室を訪ねてきた。

「どうぞ、マーヤさま」

「ありがとう」

 ロミールがお茶を出す。

 低い横長のテーブル越しに、イシュルはマーヤと向き合って座っていた。

 マーヤが礼を言うと、ロミールは彼女に会釈して部屋を出て行く。扉が閉まる隙間から、彼が欠伸をするのが見えた。

「どうしたんだ。こんなに朝早く」

「早くイシュルに会わないと、他のひとが来ちゃう」

「……」

 イシュルは小さく息を吐くと、笑みを浮かべた。

「今日は国史の調査はお休みだ。ミラもリフィアも屋敷に顔を出す、と言ってたぞ」

 ……屋敷に顔を出す、というのも少し変な言い方だと思うが。

 ふたりともずっと西宮にいて、王都にある自家の屋敷にはほとんど帰らない。

「ニナもいるし、きっとペトラも来る」

「はは」

 イシュルはこれも小さく、力ない声で笑った。

「今日はイシュルにお礼を言いに来た」

「ん?」

 マーヤはロミールの入れたお茶に口をつけた。ふうふうと、両手に持ったカップに息を吹きかけ冷ましてながらお茶を飲む。

 ……可愛いな、マーヤ。朝から眼福だよ。

 イシュルが苦笑を浮かべると、彼女は顔を上げて言った。

 カップから、微かに湯気が立ち上っている。

「……ソニエのこと」

「ああ」

 イシュルが笑みを大きくして頷く。

「ピクサの話だと、あの後ソニエは特に問題を起こしてない。落ち込んでるけど気にするほどじゃないって」

「ピクサ?」

「エレミアーシュ文庫の司書見習いの子」

「ああ、なるほど」

 イシュルはひとつ、大きく頷いた。

 あの髪の短い、人形のような顔をした女の子か。

「イシュルは知ってた?」

「いや、顔だけ。一度会っただけだ」

 マーヤ。おまえ、ひょっとして……。

「……」

 イシュルが意味ありげに見つめると、彼女はほんの微かに唇の端を引き上げた。

「そういうことか」

 ……さすがだなマーヤ。なんだかんだと言ってしっかり、ソニエに見張りをつけていたわけか。

 多分俺がエレミアーシュ文庫の名を出したあたりから、あの少女に接触していたのだろう。

「イシュルのやったことが一番良かったと思う」

 マーヤはピクサのことはさらっと流して話を戻した。

「そうかな」

「あれ以上のことはできないよ。ソニエにはただ、平穏だけを残す。魔法の力が身の回りにあっても、あの子にはいいことなんかない」 

「……」

 イシュルは微かに笑みを浮かべるだけだ。

「それに、王封をなくした方が良いと言ったイシュルの意見は正しい」

「王封をなくすというより、それを秘密にしているのがまずいんだ。司書が閲覧する者に、前もって知らせるようにすればいいんだよ。それで充分じゃないか」

 その時点で、閲覧する者がその書物を読むのを諦めるかどうかは置いて、少なくとも王権の存在や重さを再認識させることはできるだろう。それで王封の目的は達せられたと考えるべきだ。その時点で閲覧者の命の大半は失われずに済む。王封に対抗できる者しか、その書物を手にとって読もうとはしないだろう。

 レーネのようにただ殺すだけの、あからさまな罠を張るなどまったくの論外だ。

「……そうだね」

 マーヤは深く頷いた。

「でも王家書庫のほとんどの王封は、見ればわかるようになっていると思う」

「ピアーシュが言っていたな」

 王封の多くは、王家の紋章の印が打たれた羊皮紙や、同じ印のレリーフされた銅板で止められた飾り紐が巻かれている。

「エレミアーシュの書物のように、何の印もない方が少ない筈だよ」

 マーヤはそして、「自らの蒐集した書物に思い入れの深かった王とか、破棄もできず、厳重に秘匿すべきと考えた王は、エレミアーシュのように関係者以外どれに封がしてあるか、わからないようにしたのだ」と説明した。

 確かに秘匿を重視するのなら、一目でわかるような封印を施すのはかえって逆効果になる。

 マーヤは彼女なりにあの後、ピアーシュや司書らから聞き取りを進め、王家書庫のことを詳しく調べたらしい。

「これでまた、イシュルに大きな借りができた」

 マーヤは親しい人物にしか見せない、素朴なやさしい笑みを浮かべた。

「まぁ、そうかな」

 今回は確かに、マーヤのために行ったことではある。

「そこで何か、わたしにできることはないかな」

「ふむ……」

 イシュルは胸の前に腕を組んで考えた。

「……じゃあ」

 イシュルはシャツの胸元から首飾りを出してマーヤに見せた。

 その頭には小さな虹色石(オパール)が輝いている。

「それ、魔法具だね」

 マーヤはイシュルの差し出した首飾りの石を見て言った。

 以前にリフィアとミラに見せた時と同じだ。マーヤもすぐその虹色石が魔法具、魔法石であると気づいた。

「これは聖王国の新国王、サロモンからビオナートをしりぞけたお礼にもらったものだ。命の魔法具、身代わりの魔法具だな」

「ふーん」

 マーヤは小さく頷いた。

 彼女に知らせず姿を消した先での、異国のことだからか、少し口調が冷たい。反応が薄いのはいつものことだが。

「この革紐を交換したいんだ」

 イシュルは聖都エストフォルを出発する前、空いた日にサロモンからもらった身代わりの魔法具、虹色石を首飾りにした。当日、ミラが魔法具も扱う細工職人を屋敷に呼んでくれたが、職人が用意した首飾りはどれも装飾過多でイシュルは気に食わず、最もシンプルな首飾りのヘッド、銀製の台座を選び、それに虹色石を嵌め、とりあえず革紐を通して首飾りにした。

 職人はディエラード公爵邸に呼ばれたので、高価な宝石をふんだんに使った、豪華な首飾りばかりを持参して来た。

 細い革紐ではいざという時、戦闘時に切れてしまう可能性がある。イシュルは革紐の中に銅線を入れるなどして補強したかった。

「王都にも魔法具屋はあるよな?」

「ああ。……魔法具屋は今、閉店中」

「えっ」

「王都の魔法具屋は魔導師組合の隣にあったんだけど、ユーリ・オルーラが攻めてきた時に急いで店じまいしたの」

 マーヤの話によると、ラディス王国の魔導師組合と魔法具屋は北宮にあったが、連合王国が王都に攻め入ってきた時に、急遽店じまいしたのだという。貴重な商品は今、王宮の地下にある宝物庫に保管されているらしい。

「魔導師組合の方は、今は東宮の一部を借りてる」

「そうか……」

 イシュルはそこで微かに笑みを浮かべた。

「魔法具屋の店主はどういう人だ? チェリアみたいな婆さんなのか?」

「チェリア? ……どこかで聞いたような」

 マーヤは難しい顔になって考え出す。

 ……そうか。マーヤはフロンテーラの魔法具屋と聖都の魔法具屋の店主が、同一人物だとは知らないんだ。

「フロンテーラの魔法具屋の姉、だったか。聖都の魔法具屋の女主人だ」

「ああ、スラリアのお姉さんね、双子の。会ったことないけど」

 あの老婆のフロンテーラでの名はスラリアというのか。

 とにかく、チェリアとスラリアが同一人物だということは、マーヤにも秘密にしておいた方がいい。

 あの老婆の背負った呪い、闇の結界は最高度の秘密だ。

 フロンテーラとエストフォルをほんの僅かな時間で行き来できるなんて、誰にも知られちゃいけない。ミラとリフィアと俺の他に、これ以上知る者を増やしてはいけない。

「それで……」

「ああ、うん。王城の魔法具屋はお婆さんじゃないよ。王家の魔導師を引退したお爺さん」

「ああ、そうなんだ」

 イシュルはぎこちなく、小さく頷いた。

 ……王都の魔法具屋の主人は、チェリアのような怪しい人物ではないらしい。

「それじゃあ、他に魔法具の修理をしてくれるところはないのかな」

「修理だけなら専門のお店があるよ。そこへ行く?」

「おお、頼む」

「うん。そのお店は街中にあるから、案内するよ」

 マーヤは小さな笑みを浮かべ、嬉しそうに言った。

「じゃあ、久しぶりにイシュルと“でーと”だね」



 王都でも、大きな木の杖に真っ黒のローブ姿はよく目立つ。

 マーヤに行き当たると通行人はみな、一瞬ぎょっとして立ち止まり、そそくさと脇に退いて道をあける。魔法使いは王都の住民にとっても、滅多に目にすることのない珍しい存在だ。

 マーヤは街の住民の目を一切気にせず、堂々と街の往来を進んで行く。

「やっぱり馬車の方が良かったかな」

 王都もフロンテーラと変わらない。

 イシュルは以前、マーヤにフロンテーラの魔法具屋を案内してもらった時のことを思い出して言った。

「いいよ。慣れてるから」

 マーヤは斜め後ろを歩くイシュルに振り返って言った。

 彼女はあの時と全く同じ台詞(せりふ)を口にした。

 ふたりはイシュルの居間でおしゃべりした後、すぐ王城の北門を出て広場の西に伸びる通りに入った。

 先日ミラと出かけたのとは反対の方向だ。

 王城の西側は東側よりやや標高が高く、大小の緩やかな丘が続いている。叢林の間に貴族の屋敷が散在している。北側には東側のような街並みが広がり、マーヤはイシュルを連れ北側の街区から西側の丘の方へ向かった。

 街の雑踏を抜けると、家々の間に木々に覆われた丘が見え、やがて周りはちょっとした屋敷街になった。続いて丘の北側についた坂道に入るとすぐ、マーヤは左手の小さな階段を上りはじめた。

 魔法具の修理も扱う飾り職人の店は、その小さな階段の登った先にあった。

 周りはくすんだ深い緑の樫(かし)の木や楠(くすのき)に、名も知れぬ草木が茂っている。

 マーヤは、木々の間に埋もれるようにして顔を出す、素朴な田舎風の家の扉の前に立ってノッカーを押した。

 とても商売をしているとは思えない構えの、何の変哲もない一軒家だった。

 しばらくして扉から少年が顔を出し、中に入ってすぐの応接間のような部屋に通された。

 薄汚れた前掛けをした少年は、イシュルたちにまともな挨拶もせず奥に引っ込んだ。

 イシュルは、くたびれた長椅子や机、チェストや書棚、布切れの詰まった籠や書物や筆記具、燭台などの雑然と置かれた室内をそれとなく見回した。

 客間ということだが、どう見ても家人が普段の生活で使っている部屋だ。

 中を漂う匂いがそうだ。どこかで、誰かの家で同じような匂いを嗅いだ記憶がある。

 食物や油、布や木材の匂いの入り混じった、ごくありふれた生活臭だ。

「ここがお店なのか」

「奥が工房になってる。もう少しで親方が出てくるよ」

 マーヤは「座ろう?」と言って手近な椅子に腰掛けた。

 向かいの椅子にイシュルが腰掛けたところで扉がノックされ、壮年の男が中へ入ってきた。

「これを、銅線を芯にして革で編んだ紐に交換したいんだね?」

 白髪、白い無精髭を生やした男がイシュルの首飾りを手に取り言った。

 男は挨拶もそこそこに用件を聞いてきた。

「ええ、在庫はありますか?」

 イシュルは一番気にしていることを親方に質問した。

「あるよ。すぐ取りかかるから、ちょっと待っててくれるかな」

 魔法具の修理はなるべくその日のうちに済ませることになっている。

 日数がかかる場合は魔法使いが日ごとに持ち帰るか、職人が修理をしに通ってくる。魔法具はとても高価で貴重なものだから、魔法使いは職人に長い期間預けることはしないし、職人側も嫌がる。

「これは身代わりの石だね。かなりのものだ」

 イシュルが頷くと、男は笑みを浮かべて言った。

 サロモンから餞別にもらったものだ。それは確かに良いものだろう。

 この場合、この職人は魔法具としての質と、宝石としての質と、おそらく両方を指して言っている。

「ではうちにある紐の見本、持ってくるから選んでくれるかな」

 男はそう言うと一旦奥に引っ込み、幾つかの見本を持ってきた。

 イシュルが最もシンプル、無難なものを選ぶと「半刻もかからないから」と言って、身代わりの首飾りを預かり再び奥に引っ込んだ。

「マーヤ、ありがとう。今日はずいぶんと早く済みそうだな」

 イシュルは再び、同じマーヤの向かいに腰を下ろして言った。

「うん。この後、一緒にお昼食べる?」

 マーヤの黒い眸がくりくりと、一際大きく見える。

「ああ、そうだな。今回もお礼に俺が奢ろう」

「近くに知ってる店があるから。そこにしよう」

「近くに? わかった」

 ……マーヤとふたりきりの食事も久しぶりだ。

イシュルはにっこり頷いた。



 マーヤと話していると、程なく職人の男が部屋の中に入ってきた。

「できたよ。どうぞ」

 イシュルは、男の手に握られた首飾りを見た瞬間に、革紐で編まれた中に銅線が入っているのがわかった。

 金の魔法具を体内に宿している以上、その気になれば金属の存在をいくらでも感知できる。ただ、やはり距離によって感度は変わってくるが。

「革紐には切れることのないよう、“まじない”をしておいた。まぁ、ないよりは良い、程度だがね」

 初老の男は柔和な表情で微笑み言った。

「それはどうも」

 この世界には、現実にはっきりと効力の現れる魔法とは別に、迷信の類い、占いや願かけ、呪いなど、前世と同じその効力がはっきりしないものも存在する。

 ……あって当たり前といえばそうだが、それが “マレフィオアの呪い”ともなると、とても迷信だなどと済ませられるものではない……。

 イシュルは取り繕うようなぎこちない笑みを浮かべ、男から受け取った身代わりの首飾りを、目の前に掲げて見せた。

「……よくできている。まったく問題ないよ、ありがとう」

 言いながら身代わりの首飾りを受け取ると首にかけ、シャツの中に押し込んだ。

 そして金を払い、あらためて親方に礼を言うと店を後にした。

「……」

 外に出るとイシュルはほっと、ひと息ついた。

「どうしたの」

 マーヤが横から聞いてくる。

「なんでもないよ」

 ……マレフィオアが森の魔女レーリアに何をしたか、何もしなかったのか。“呪い”とは何か、それは結局戦ってみないとわからない。

 イシュルはマーヤにも笑みを向け、かぶりを振った。

 ふたりは階段を降り、来た道に戻るとしばらく道なりに西に進み、二股に分かれたところで左手の道に折れ、今度は丘の反対側へ、東に向かって登って行った。

 マーヤの「知ってる店」はその道の途中、丘の東側斜面にあった。

 先日ミラと訪ねた傭兵組合の元ギルド長、老人の家と同じ、蔦を幾重にも絡ませた門をくぐって中に入ると、東側の庭にテーブルと椅子の並ぶ瀟洒な屋敷が現れた。

 テーブルには数組の客の姿があり、上品な低い声で談笑するのが聞こえてきた。

「なるほど。これはいい眺めだな」

 イシュルは店の給仕に案内されマーヤと席に着くと、丘の東側に目をやり言った。

 目の前には、木々の間に散在する貴族の邸宅を挟んで王城が、その北側と西側に王都の街が広がっている。

 王都を一望できる、素晴らしい眺望だった。

 ちょうど視線の高さに、城壁と木々に囲まれた王宮が見える。

 その向こう、東側に連なる丘の辺りは薄く霞がかかり、眼下の街の方からは、微かな喧騒がそよ風に運ばれてくる。

「ここは王都の一等地だよ。クボールの丘の東側は、王都でも名のある貴族のお屋敷ばかり」

 マーヤによれば、この王城の西にあるクボール丘陵の東側斜面は、歴代の執政や内外務卿を輩出した、伯爵家以上の大貴族の邸宅が集中している、ということだった。

 やがて香ばしい匂いの焼きたてのパンと仔牛の肉の煮込みが運ばれてきた。

 この王都では最高級の料理店でも、戦争の影響か選べる料理は少なかった。

「フロンテーラでふたりで食べた時のことを思い出すね」

 マーヤは慎ましやかに、口許に小さな肉片を運びながら言った。

「ああ。そうだな」

「あの時のイシュルは怖かった」

「……」

 イシュルは無言で頷いた。あの時と同じ、厳しい光がその眸に宿っていた。

 ……あの頃、俺は何も知らなかった。風の魔法のことも、赤帝龍のことも、神々のことも。

 そして家族の、村の仇の片割れ、レーヴェルト・ベーム辺境伯もまだ始末していなかった。

 リフィアがその肉体と一体化する、“武神の矢”を持つとはじめて聞かされたのもあの時だった。

 そして、ラディス王家は俺にとってまだ巨大な、底の知れない存在だった。

「でも、今は少し、余裕ができたのかな?」

 マーヤがどこかしら、少し悲しげな笑みを浮かべて見つめてくる。

「そうかな? それだったらいいんだが」

 確かにあれから赤帝龍を退け辺境伯を殺し、イヴェダと邂逅し、ユーリ・オルーラから金の魔法具を奪った。

 だが、いよいよ月神レーリアの挑発があからさまになり、対立の構図が明確になりつつある。

 俺が五つの魔法具を集め、神々と相見える時、レーリアは何をしてくるだろうか。

 そのまますんなり、主神ヘレスと会うことはできないような気がする。

 そこでレーリアは、ヘレスをはじめとする神々は、彼らが覗き見ることのできない俺の秘密を、転生者であることを明らかにしようとするのではないか。

 その時、何が起こるだろうか。

 神々は俺と俺の周りの人々を襲った運命に、何か答えてくれるだろうか。

 ……それはもう、人智を超えた先にある事柄だ。

 だから不安を、脅えを払拭することができない。

 だがそれでは何もできない。何にもならない。

 ただ開き直って、自分を信じてぶつかっていくしかないのだ。

「マレフィオアからもうひとつの地神の石を奪ったら、イシュルは土の魔法具も得ることになる。ペトラの精霊、ウルオミラも真の力を取り戻すかもしれない」

 マーヤはイシュルの眸をひたと見据えて言った。

「ああ」

 ヴォカリ村でペトラと彼女の精霊、ウルオミラと話したことは当然、マーヤも知っているだろう。

「そうしたら、次は赤帝龍だね」

「……そうだな」

 赤帝龍についてはまったくの五里霧中で、やつの居場所を特定する目処は立っていない。

「クシムの方からは特に報告は上がってこない。赤帝龍は自分の巣に帰って、閉じこもっているんだろうね」

「多分な」

「赤帝龍の居場所については、わたしの方で手配しておくよ」

「手配?」

「うん。はっきりしたことはわからないけど、一応ね。トラーシュ・ルージェクや、編纂室長のピアーシュ・イズリークにお願いしておく」

「そうか。それはありがとう。……あっ」

 イシュルはふと思い立って視線をマーヤから外し、遠くの方へやった。

 ……赤帝龍と戦った時、やつと話したことの一部は話しておくべきだろう。

 マーヤたちには表面上の、実際に起こったことを手紙に書いて知らせただけで、赤帝龍との会話の内容などは話していない。

「どうしたの?」

「赤帝龍とのことに関しては、まだマーヤに話していないことがあったんだ。マーヤの方で調べてくれるなら話しておこうと思って」

「……」

 マーヤは呆然とした顔でイシュルを見つめた。

「何か秘密にしていたことがあったんだね」

「俺はラディス王家も、聖王国も聖堂教会も、どことも敵対したくはないが、どこにも仕える気はないし神官にもならない」

「……うん」

 マーヤは小さな声で頷く。

「でもおまえもペトラも、リフィアたちも、王家とか関係なしに俺に力を貸してくれるみたいだから、教えることにするよ」

 イシュルは微笑を浮かべ、マーヤの顔を見つめ返した。

「マーヤが何かしたんだろう? 王都へ向かう途中で君らの空気が変わった」

「……」

 マーヤの口許が微かに震える。

「それは教えられない」

「まぁ、それはいいさ」

 イシュルは笑みを大きくして言った。

 そのことには深入りしない方がいい。

「だから、赤帝龍のことも話すよ。今までいろいろあって話す機会がなかった、というのもあるし。別に秘密にしなければ、と決めていたわけでもないし」 

 クレンベルのあの山頂で、ミラとふたりきりで話した時。

 あの時の語った赤帝龍の話はまだ、マーヤとペトラ、ニナには語っていない。リフィアにも公爵邸で、大まかな話しかしていない。

「あの時、カルリル……」

 ああ、なんだっけ。あいつの名前。

 イシュルは上着の内ポケットから、今まで召喚した風の大精霊の名前を記したメモを、取り出そうとした。

「カルリルトス・アルルツァリだね」

 マーヤあの時と同じ、カルリルトスの名をしっかり覚えていた。

「おお、それ。彼にきみをフゴまで運んでもらっている間、やつと、赤帝龍と少し話したんだ」

「話した? ……精霊みたいに心に語りかけてきたの?」

「そう。やつの方からな。赤帝龍は人間と話すのも久ぶりだと言って、俺に話しかけてきた。まぁ、俺から何かの情報を得たかったんだろう。やつは俺のことも話して聞かせろ、と言ってきたからな」

 ……五つの魔法具を集めるとどうなるか、はじめて知った時。

 神々が俺の家族やベルシュ村の者たちの死に、いや、ただ見ているだけでなく、俺の運命に直接干渉してきているのではないかと、はじめて疑念を抱いたあの時。

 そして“名もなき神”の存在を知った時……。

 イシュルはその時赤帝龍の語った話をマーヤに話した。

 ただ今回も主神ヘレスや月神レーリア、“名もなき神”のことは話さなかった。

「……俺も、カルが戻ってくるまではやつと戦いたくなかった。時間稼ぎのために、やつの話を聞くことにしたんだ。それでいろいろと知ることができた、というわけだ」

「……そう」

「信じるか? 俺の話したこと。それ以前に、やつが嘘をついている可能性もあるがな」

「イシュルの言ったことは信じるよ。赤帝龍も嘘は言ってないと思う」

 マーヤは大きな眸でじっとイシュルを見据えて言った。

「これはおじさまに話してもいい?」

 マーヤはつまりペトラ以外の、ヘンリクにも話してもいいかと聞いてきた。

 ……赤帝龍の望みは人類を、この大陸の人間を滅ぼすことだ。やつは人間の組織、集団としての力を恐れていた。

「いいよ。あいつが五つの魔法具を揃えたら、大変なことになるからな」

 赤帝龍は大陸のすべての国々にとって共通の脅威だ。マーヤがヘンリクに話してもいいか、と聞いてきたのはそれが理由だ。

「赤帝龍の巣がどこにあるか、調べないとね」

「ああ」

 イシュルは難しい顔になって頷いた。

 ……とは言っても、赤帝龍について記した文献は少ないだろう。それもやつの巣がどこにあるか、居場所を記したものとなるとほとんど絶望的だ。

「イシュルの話だと、ベルシュ村で風の魔法具の発動を感じ取ることができたけど、王都の辺りだと無理みたいだね」

「そこからおおよその距離は割り出せるんだが、ちょっと怪しいんだよな。理由はわからないが、あいつはクシムから西へは行きたくないような感じがした。それを突っ込んだら、答えをはぐらかされた」

「うん。……でもそれはただ、人里まで降りたくなかっただけじゃないかな」

 マーヤはわずかに首をひねって考える仕草をした。

「もしアルヴァとか、聖王国のハルンメルあたりまで来たら大騒ぎになる。何万もの軍勢と何百もの魔法使いと戦うことになる。風の魔法具を持つイシュルをおびき寄せるのなら、そんな面倒ごとが起こる場所は避けるでしょう? 草原とか森とか、どうでもいいところにいても、こちらは無理して討伐しょうと思わないから意味がないし」

「それはあるかもしれないな」

 兵力が千単位の辺境伯軍が、一、二度攻めてくるくらいだったらどうということはないが、それが万単位ともなれば、さすがに赤帝龍と言えども鬱陶しいと感じるだろう。

「あと、赤帝龍は火山に住んでるんだよね」

「ああ。あいつは確か、“火山の麓の窪地で寝ていた”とか言っていた」

「……手がかりは二つだけ。ちょっと厳しいね」

「うん……」

 ミラにも頼もうか。彼女にサロモン宛に手紙を出してもらおう。赤帝龍の脅威は聖王国にとっても他人事ではない。

「赤帝龍の討滅にはきっと、聖王国も、聖堂教会も力を貸してくれるよ」

 ……聖堂教会か。

「そうだな」

 ん?

 その時、イシュルたちの席に男の給仕が一人、盆を捧げ持って近づいてきた。

「こちらを」

 給仕はマーヤに向かって銀製の盆を差し出した。上には小さな巻紙が載っている。

「ありがとう」

 マーヤはその小さな手紙を受け取ると中を一瞥、口の中でもぐもぐと呪文らしきものを唱えた。

 すると手に持つ巻紙がふわっと宙に浮き、火がついて燃えだした。

 黒ずんだ灰が細かな塵となって消えていく。

「……」

 イシュルはそれを見て難しい顔になった。

「なんだ?」

「ルースラ・ニースバルドから。今お城に商人ギルドの人が来ているから、これからイシュルも一緒に会えないかって」

 イシュルはちらっと視線を横に滑らし、他の客を見やった。

 いかにも貴族らしい婦人、金回りの良さそうな商人風の男。

 一見したところ、怪しい感じのする者はいない。

「ここはそういう店なのか」

 イシュルは溜め息を吐くと低い声で言った。

 ……俺とマーヤにも監視がついてるわけだ。それも当然、なんだろうが。

「そんなことはないけど」

 マーヤは申し訳なさそうな顔になって、小さな声で言った。

「まぁ、いいんだけどな」

 仕方がない。俺は神の魔法具を持つ男で、マーヤは王女の乳姉妹、ペトラの側近中の側近だ。“髭”の監視や護衛がそれとなくつけられているのだろう。

 この店も多くの貴族や豪商が出入りするなら、ただの高級料理店では有りえない、ということなのかもしれない。

「で、商人ギルドのお偉いさんが俺たちに何の用だ?」

「ブレクタスの荒神の神殿に行くことになったでしょう? 王家もお金がないから」

「ああ、……そういうことか」

「うん。何か古代の遺物、できれば宝飾品とか見つかったら、王都の商人ギルドに優先的に回して買い取らせる話が進んでる」

「それで調査隊の費用を賄うわけか」

「うん」

「俺はやだぞ、かさばるものは。そんなもの持って帰る余裕があるか、わからない」

「もちろん。イシュルの足を引っ張るようなことはしないよ。……ごめんね」

 マーヤはちょこんと頭を下げた。

「別におまえが悪いわけじゃないだろ? 食糧とかテントとか、王家が手配してくれるんだし、こちらも文句は言えない。……じゃあ、すぐに城に戻るとするか」

 イシュルは意識して明るい顔をつくり、王城の方を見た。

「いい。帰らなくていいよ。無理してイシュルが会う必要ない」

 マーヤはかぶりを振って答えた。

「いいのか?」

「うん。せっかく、ふたりきりで食事してるのに……」

「ん?」

 マーヤの呟きはイシュルに聞こえなかった。

「なんでもないよ」

 マーヤはひた、とイシュルを見つめた。

「地下神殿には行けるけど……。イシュルが五つの魔法具を揃えた時、わたしは最後まで一緒に行けるかな」

「……」

 マーヤ……。

 イシュルは複雑な、なんとも言えない顔になって言った。

「神々は五つの魔法具を持つ者にしか会わない。最後は俺ひとりだよ」

 その時は別に、誰かが横にいても構わないのかもしれない。

 だが、これはもう決めていることだ。

 もし死ぬことになったら、自身が消滅するようなことになったら……。

 それは俺ひとりでいい。

 残すひとにどんなに愛されていようと、どんなに辛い思いをさせようとも、だ。

「……はっ」

 その瞬間、イシュルの眸が大きく見開かれた。

 ……そうだ。俺ひとりで良かったんだ。

 突然古い記憶が甦る。あまりに遠くに行ってしまった記憶。

 だがそれは心のもっとも深いところで揺らめきながら、決して消えることがなかった。

 悲しみと悔恨の傷痕。

 前世で残された家族、妻と子供たち。

 途中でいきなり退場してしまい、あれから苦労をかけたかもしれないけれど、それでも彼女らは生きて、人生を全うしてくれた筈なのだ。

 ……あの時俺は死んでしまったが、あの子たちは生き残ってくれた。

「……イシュル?」

 小さな、か細い声。

 冷たい風に微かに混じりはじめた春の温もり。底から立ち昇ってくる街の喧騒。

 イシュルは現実に引き戻された。

「ああ、ごめん」

 声が微かに震える。

「それでも……、お願い」

 マーヤが揺れる光を眸に映して言った。

「必ず帰ってきてね」

 その口許に笑みが広がる。

「神さまになるのも禁止。人間のまま帰ってきて」

 五つの魔法具を得たとき、神々はその者の願いをかなえるという。

 それなら新たな十二番目の神になりたい、との願いも受け入れられるかもしれない。

 かつてビオナートがそれを目指し、赤帝龍は今も願っている。

「ふふ」

 イシュルも笑みを浮かべた。

 この悲しみと悔恨を、いつまでも抱き続ける。

 捨て去っていいものじゃない。

 人間でなくなってしまったら、この胸の奥底にあるものも失われてしまう。

「大丈夫だ。俺は神さまになんかならない。最後まで人間でいるさ」

 マーヤがそっと頷く。

 梢の先に見える冬の空は、どこまでも広かった。

 深く沈む緑の稜線の向こうに、遠くブレクタスの山並みが見えた。





#2 誘い


 月が変わって、冬の三月を数日経った頃。

 その日の朝、イシュルはミラの侍女、ルシアの訪問を受けた。

 彼女は足音を潜め、ひとりでイシュルの居室に入ってきた。ロミールはいなかった。

「イシュルさま、おはようございます」

 ルシアは心なしかいつもより小さな声で挨拶すると、窓際に佇むイシュルにぬっと顔を寄せてきた。

 朝の空気を居間に入れようと、ちょうど窓を開けたところだった。

「急いで。わたしについてきてください」

 ルシアは緊張を孕んだ声で言った。

「はっ?」

 思わず不審の声を漏らすイシュル。

「お願いいたします。……静かに」

 ルシアは口許に人差し指を立てると、素早く動いて居間の扉を開けた。

「……」

 イシュルは吐息をつくと無言でルシアを見つめた。

 ……黙ってついて来い、というわけか。

 彼女はミラの名前も出さない。

 イシュルが控えの間に移動すると、ルシアは先に廊下に出て左右を見回した。

「こちらへ」

 ルシアの後ろについて、廊下を館の北側へ向かう。

 廊下の端は小さなロビーになっていて、長椅子やテーブルの置かれたスペースがある。その北西側の壁に目立たない、小さな扉があった。

 ルシアはその扉を開けて中に入った。

 部屋の中は物置だった。白い布の被せられた椅子や家具、絵画の額縁や巻かれた絨毯、花瓶や燭台などが所狭しと置かれている。

 彼女はその間をすり抜け奥の扉を開けた。

 次の間は西宮付きのメイドの控え部屋になっていて、部屋の隅に階段があった。

 数脚置かれた椅子にはメイドがひとり座って、手布か何かを繕っている。

 そのメイドはルシアとイシュルが入ってきても顔を上げず、無視している。

 ……このメイドのあからさまな態度。まさか、買収されたのか。

 何をやってるんだか。

 イシュルが肩をすくめると、階段を数段降りたルシアが声をかけてきた。

「こちらへ」

 狭く薄暗い階段を一階に降りるとすぐに外に出る扉があり、人気のない西宮の裏手に出た。

 そのまま西宮の裏を北へ進み、城門の方へ向かった。北の城門に近づくと、城壁の修理に従事する人夫や、王宮の役人らのさかんに行き来する外郭側の通路に行き当たった。

 ルシアは歩速を緩め、城門側に仮設されたテントの前まで来るとイシュルに振り返った。

「しばらくお待ちください」

 彼女が中に入るとすぐに、いつかと同じ街娘の格好をしたミラが外に出てきた。

「イシュルさま、おはようございます」

「おはよう……」

 ミラの輝くような笑顔が眩しい。

 彼女はいつかの街娘の格好をしていた。

 ……えーと。これはつまり、そういうことか?

 またミラとお出かけか。何かネタを見つけてきたのか。ルシアのあの行動は、リフィアたちの目から隠すためか。

「ん?」

 と、ミラに続いてもうひとり、メイド姿の女が出てきた。

 ……この女。

「先日はありがとうございました」

 そのメイドは、山の手に住んでいた何代か前の傭兵ギルド長、あの老人に仕えていた中年のメイドだった。

「えっ」

ということは……。

「イシュルさま、この方があのご老人の手紙を持ってきてくださったんですのよ」

 ミラが後ろ手に隠し持っていた、小さな巻紙を差し出した。

「すいません。お手紙がわたくしとイシュルさまの両名宛てということで、先に読んでしまいました」

「いや、それはいいんだが……」

 イシュルは言いながら巻紙を開いた。

 元ギルド長の手紙には、王都のベロンド街にその昔、ブレクタスの地下神殿に運送人夫として王家調査団に雇われた、その親族が住んでいる筈だと書かれていた。

「ふーむ」

 ……最後の王家調査団が派遣されたのは八十年前だ。当の本人は当然、もう亡くなっているだろう。その息子も微妙だ。もう孫の世代になっているだろう。祖父の昔話が、孫の世代に伝わっているだろうか?

 だが、その人夫だった男がもし読み書きできたのなら、何らかの記録を残している可能性はある。

 調べる価値はあるか……。

「主(あるじ)があの後、ふと思い出したそうで……。手紙をお持ちした次第です」

 中年のメイドが満面の笑みで言ってくる。

 なるほど。要は金が欲しかったわけか。あの時は気前よく、銀貨を握らせたからな。

 それが功を奏した、というわけだ。

「いや、これは貴重な知らせをいただいた」

 懐に手をやりながらミラ、続いてルシアを見るとにこにこと笑っている。

「この方には充分な謝礼をいたしまいたわ、イシュルさま」

「ああ、そう。ありがとう」

 ……それはいいんだが、ちょっと引っかかることがある。

 イシュルはふと周囲を見回した。

 城門に詰める城兵らはいつもと同じ、入城する者を調べたり、手続きをしたりしていて、こちらに注意を向ける者はいない。

 このメイドが北門を訪ねてきたことを、ミラとルシアはどうしてこんなに早く知ったんだ? 

 普通は城門詰めの正騎士を通して、まずロミールに知らせが行くだろう。もしくは……。

 イシュルは元傭兵ギルド長のメイドに、「あのご老人が、また何か思い出したら知らせてくれ」と自らも銀貨を数枚渡し、礼を言って帰した。

「君たちは、あのメイドが北門を訪ねてきたのをどうして知ったんだ?」

 イシュルはその場で、ミラとルシアを回し見て言った。

「それは、セーリアから知らせてきたのですわ」

「彼女がたまたま朝市に行った帰りに、あのメイドの方が城門の衛兵に、ミラさまとイシュルさまに取次ぎをお願いしているところへ出くわしたそうです」

 とミラとルシアがそれぞれ答えた。

「ふーん」

 イシュルはふたりに意味あり気な視線を向ける。

 ……きみらはセーリアを完全に手なずけたわけだ。

 セーリアというのは、フロンテーラを出発してからミラにつけられた大公家、今は王家の従者、メイドだ。ロミールと同じ立場にいる者だ。

 そのセーリアがロミールより先にミラに知らせる、というのはちょっとおかしい。

「……」

 ミラもルシアもひたすら笑みを浮かべて、この場をごまかそうとしている。

 ルシアはさらに、額に汗を浮かべている。

「まぁ、いいんだけどさ」

「も、もちろん、イシュルさまにその場でお知らせしなかったのは、申し訳ないと思っています」

 街娘の格好をしたミラが前掛けを両手でいじり、もじもじしながら言ってくる。

「ああ、はいはい」

「そっ、そういうことなのですわ。このことは他の誰にも知られたくなかったのです。どうかお許しを、イシュルさま」

 ミラが言いながら目の前まで迫ってきた。両手を胸の前で握りしめ、頬を染めて見上げくる。

「ああ、うん……」

 こういう時は美人だと得だよな。

 絶対抗えない説得力がある。

「さぁ、イシュルさま。今からわたくしと一緒に、ベロンド街へ参りましょう? 善は急げ、ですわ」

 ミラがとどめとばかりに、顔いっぱいに笑みを浮かべて言った。

「ははっ」

 イシュルは力なく笑った。

 ……セーリアからご注進を受けたミラは、急ぎ街娘の服装に着替え城門に向かい、特にリフィアの目に触れぬよう、“髭”の者たちにも知られぬようロミールにも知らせず、ルシアに命じて館の裏の通用口の方から俺を連れ出したわけだ。

 シャルカの姿が見えないが、彼女はおそらく……。

「じゃあ、そのベロンド街へとやらに行ってみるか」

 イシュルは小さくため息を吐くと言った。

 しかし、地下神殿やマレフィオアに関し、何か新しい情報が得られるかは非常に微妙だが……。

 イシュルは手に持つ巻紙をもう一度広げた。

「!!」

 紙面に目を向けた時、後方から一瞬、微弱だが妙に鋭い魔力の閃光が走った。

「あっ」

 気づくと巻紙が、イシュルの手許から消えている。

 この魔力の煌めきは……。

「これは何だ? どういうことかな」

 後ろから、高く凛々しい女の声。

 振り向くとすぐそこに、リフィアが立っていた。

 彼女は巻紙を広げ、目の前に高く掲げている。

「ああ……」

 横からルシアの嘆息する声が聞こえてくる。

「リフィアさん」

 続いてミラの沈んだ声。

「シャルカは……」

「心配ない、何もしてないぞ。ただ振り切っただけだ。館の窓が一枚、割れてしまったが」

 リフィアはにやりと口角を上げて言った。

 ……やっぱりだ。シャルカを、リフィアの監視と引き留め役に残していたのだ。

 まったく。君らは何をやっているんだ……。

「ミラ殿、これはわたしが行こう。次はわたしの番だ。……よろしいかな?」

 リフィアが手に持つ巻紙を振り、にこにこしてミラに言った。

「イシュルもそれでいいな?」

 リフィアの目が笑っていない。

 おそらく、シャルカを加速の魔法だけで振り切ったのだろう。

 で、窓ガラスが割れてしまったと。

「……」

 イシュルは引きつった笑みを浮かべた。 

 否も応もない、な。

 ミラとルシアの目論見はここに潰えた。




「ど、どうかな、イシュル」

 リフィアが腰をひねってスカートの裾を少し、持ち上げてみせる。

「う、うん。凄い似合ってるんだけど……。ちょっと」

 イシュルは複雑な顔をして唸った。

 凄い綺麗だ。可愛い、と言ってもいいかもしれない。でも、似合ってるのとは違うかもしれない。

 なんだか異様に場違いな感じが拭えない……。

「……」

 ルシアもミラも微妙な顔をしている。

 あれから、今度はリフィアがイシュルと街中に出かけるということで、彼女も「街娘の格好をする!」と言い出し、一旦自室に戻って着替えることになった。

 そしてイシュルの居室の控えの間にやって来て、その華麗な変身ぶりを披露することになった。

 控えの間には自室に帰らずミラ主従もいたが、みな“街娘の格好”をしたリフィアを見て、微妙な反応を示した。

 リフィアはミラを見習い、当然それらしく見える服装をしてきた。薄目の、少しくすんだ水色のスカートに生成りのブラウス、その上に明るいベージュのショールを羽織り、長い銀髪をそれらしく後ろにまとめてシンプルな草花の柄の入った頭巾を巻いていた。

 ……元がいいんだから、どんな格好をしても綺麗は綺麗だ。街娘としての服選びもおかしくない。

 だがやはり、美しすぎる銀髪とすらっとしたプロポーション、彼女の全身から醸し出される光り輝くようなオーラを、抑えることができていない。

「や、やはり駄目なのか。あまり似合ってないのかな」

  リフィアがしゅんとなって顔を俯かせる。

「いや。似合ってないわけじゃないんだが……」

「羨ましいですわ。リフィアさんが美しすぎるんです。そんな綺麗な街娘はいません」

 ミラは自分のことはさておき、そんなことを言った。

 本人は自覚がないのか悪気は感じないが、皮肉と取られてもしょうがない物言いだ。

 ただミラの言っていることは正しい。リフィアは街娘の格好をしようが、やはりリフィアだ。武神の矢を持つ辺境伯家の息女、その気高く清麗な美貌は隠しようがない。

「むむっ」

 リフィア付きのメイド、ノクタが小さな声で呻き声を上げた。

 ノクタは、ミラ付きのメイドのセーリアと同じ元大公家、今は王家がリフィアにつけた専属のメイドだ。

 彼女は続いて、自らの拳で手のひらをぽんと叩くと叫ぶように言った。

「思いつきました! リフィアさま、部屋に戻ってもう一度お召し替えを」

「あ、ああ」

 そしてノクタはイシュルたちに「失礼します」と一礼すると、呆然とするリフィアの背中を押すようにして控えの間を出て行った。

「あら……」

 横からミラの少し間の抜けた声がする。

 ノクタもリフィアと長い時間を共にする間に、しっかり主人(あるじ)に入れ込むようになっていたらしい。

 ノクタとセーリアはロミールと同じ、連合王国との戦役では腰に細剣を吊っていた。二人ともロミールと同様、剣術ができるのだ。そしてやはり“髭”と繋がりがあり、リフィアとミラの監視役も務めているのだろう。

「いじらしいですわね、リフィアさん。イシュルさまとお出かけするのに、あんなに一生懸命で」

 ミラがイシュルに流し目を送ってくる。

「へっ?」

 ……いやいや。それはミラだって……。

「イシュルさま」

 ミラがつつ、とイシュルに身を寄せてくる。

「くっ……」

 イシュルは全身から、汗がどっと噴出すような錯覚にとらわれた。

 ごくりと喉が鳴る。

「わたくしはイシュルさまを信じておりますが……」

 ミラの眸に自分の姿が映りこんでいる。

「ベロンド街ではきちんと調べものをしていただなくては。イシュルさまはリフィアさんに甘いところがありますから」

「は、はい」

 イシュルは顔に吹きつけてくる甘い、だが恐ろしい圧力に何度も首を縦に振った。

 ミラの背後ではルシアがにやにやしている。

 ルシアめ……。だが彼女を気にしてる場合じゃない。

 ミラはこれからリフィアと出かける俺に、しっかり釘をさしているのだ。これでもかと釘を叩きつけているのだ。

 ……とにかく今は、た、堪えるしかない。

「ミラさま、そんなにイシュルさまを虐めては可哀想ですわ」

 ルシアも遠慮がない……。

「あら、そんなことはありませんわ。何を言うの、ルシア」

 ミラがイシュルから離れ、ルシアに食ってかかる。彼女の矛先が逸れていく。

 ……はぁ、でもルシアが気をつかってくれた。助かった……。

 イシュルは何気にちらっと部屋の隅に目をやった。そこにはリフィアを取り逃がし、少し元気がないシャルカと、先ほどから完全に気配を消し、彫像と化したロミールがいた。

 ロミールめ。知らんぷりか。

 イシュルが何か憎まれ口でも叩こうとすると、部屋の扉が開いてノクタが顔を出した。

「さぁ、イシュルさま。これでいかがでしょうか」

 ノクタが扉の横に移動し、リフィアを室内に招く。

「……」

 リフィアがわずかに頬を染め、恥ずかしそうに中に入ってきた。

 当人を除く全員の視線が注がれる。

「ほぉ」

 イシュルは小さく、感嘆の声をあげた。

「まぁ」

 ミラからも同じような声が漏れる。

 リフィア今度は神官ふう、いや魔導師ふうの服装をしてきた。

 明るい灰色の、裾の広い神官風のローブに編みサンダル、胸元には小さな宝石が複数ぶら下がった、銀の首飾り。その上にこげ茶のショールを羽織っている。

 長い銀髪は後ろでゆったりと、ひとつにまとめられている。

「こ、これでどうかな」

 リフィアは顔を俯け上目に、恥ずかしそうにイシュルを見てきた。

「こ、今回はいいと思う……」

 魔法使いは黒だけでなく、茶色や明るい水色のローブを身につけているのも時々見かける。

 ニナやパオラ・ピエルカら水の魔導師は、あまり黒のローブは着ない。

 リフィアのこの服装は神官なのか魔法使いなのか、疑問に思わないわけではないが、先ほどの街娘の格好のような違和感は感じられない。

 神官のようでもある、魔法使いのようでもある服装が、彼女の神々しいまでの美貌と一致し、結果的にうまく抑え込んでいるように見える。

「わたしもよろしいかと思いますわ」

「うん、この服で決まりだな」

 ミラも賛意を示し、リフィアは急に元気になってひとつ、大きく頷いた。

 ノクタは満足げな顔で微笑を浮かべ、ルシアは苦笑を漏らしている。ロミールは気配を消したままだ。

「じゃあ、イシュル。出かけるとしようか」

 今までの不安な面持ちは何処へやら。リフィアは胸を張り、意気軒昂にイシュルに呼びかけた。



 王都は城を中心に外側へ、一番から八番までの街区に分かれ、その間に昔の国王や英雄、大神官の名前のつけられた街が散在している。

 イシュルたちの目指すベロンド街は王城の東側、やや南よりにあった。

 ふたりは北門を出ると、以前ミラと街に出た時と同じオベール通り、通称“王都通り”に入った。

 相変わらず王都の街は人が多く、皆忙しそうな顔をして歩いている。だが殺伐とした雰囲気は感じない。

 そんな彼らも先日のマーヤの時と同様、通り過ぎる時にちらちらとリフィアに視線を向けてくる。

 時にはリフィアを見やった後、露骨に値踏みするような目つきになってイシュルを見てくる者もいる。

 ……これは仕方がないな。

 リフィアとはそういう関係じゃないから、俺の彼女は凄い美人だろ? などと悦に入るわけにもいかない。

 彼女は先ほどから、「今日も人出が多くて結構なことだ」とか、「おっ、この新しいのは商家か。随分と早く建ったな」、「右の脇道からいい匂いが漂ってくる。屋台が出てるのかな?」などと言いながら、やたらと肩や二の腕に触れたり、手をひっぱったりしてくる。

 通りを行き交う人が見たら、誰でも俺とリフィアが恋人か、それに近しい関係にあると思う。それでこの美しい女を連れている男はどんなやつだ、と視線を向けてくるのだ。

「♪〜」

 リフィアは時々鼻歌を口ずさんでいる。ご機嫌である。

 周りの、時に無遠慮な視線もまったく意に返さない。

「……」

 イシュルはそんなリフィアに苦笑を浮かべながらも、自然と心が陽気にほぐれていくのを感じた。

「あれは炊き出しだな」

 王都通りを進み主神殿前の広場に出ると、彼女はその奥、ちょうどミラと一緒に訪問した傭兵組合の方を指差した。

 神殿の裏手、傭兵ギルドの向かいの空き地にたくさんの人が集まり、それが広場の方まで溢れている。

 人々の集団から出てきた者は、みな一様に両手に鍋や壺を抱え、あるいは布にいくつものパンを包んで捧げ持っている。

 中にはパンを手に持ち、嬉しそうな笑い声をあげながら走り回っている子供たちの姿もあった。

「今日は聖堂教会で、大々的にやってるみたいだな」

 日により場所により、教会以外にも王家や内務卿の名で、商人ギルドなども盛んに炊き出しを行っている。

「俺たちも昼飯、食べるか」 

 イシュルは広場の反対側、人気の少ない屋台の料理屋の方を見て言った。

 今日は主神殿で炊き出しが行われているためか、広場に出ている屋台の客はいつもより少ないようだ。

 午前はミラに城門まで呼び出され、その後どんな服装で外出するか、リフィアのひと騒動があったので、時刻はもう昼を回っている。

「ああ、うん」

 リフィアが顔を向けるとイシュルは屋台のひとつを指差し言った。

「屋台でいいかな? たまには庶民の味もいいだろう?」

「ああ、もちろん!」

 リフィアが爽やかな笑みを浮かべて頷く。

 イシュルは指差した屋台で、中央に切り込みを入れ煮込んだ野菜と牛肉を詰めた、ヴァイスブロート(ドイツの大きな白パン)のような形をしたパンを二つ注文し、側に並べられた丸椅子にリフィアと座り、昼食をとった。

「おいしいな、イシュル」

 リフィアはパンを大きくほおばると、にこにこ笑みを浮かべて言った。

 ……戦(いくさ)では、たとえ大貴族といえどもまともな食事がとれないことが多い。連合王国との戦役でも、行軍の合間や陣中では、干し肉と硬いパンを急いで無理やり口中に押し込んでおしまい、ということは多々あった。もちろん、戦闘中は食事などとる暇はない。

 その辺は主将のペトラ以下、領主らも無用な飽食や、貴族としての体面に拘る者はいなかった。

 リフィアが本当においしいと思ったかはわからない。だが少なくとも、庶民の味に辟易するほどではないだろう。

「屋台で食べるのは案外、美味しく感じるものなのさ」

 天気は薄曇りだが日差しはある。三月に入って寒気も緩くなっている。王都は復興に向け活況を呈しており、住民も明るく元気だ。

 そんな広場で食べる飯が不味いわけがない。

「そうだな。街の住民の顔も明るい」

 リフィアはイシュルに顔を寄せ続けて言った。

「これは何もかも、おまえがやったことなんだ。イシュルがユーリ・オルーラに勝ったからなんだ」

「うっ……」

 気恥ずかしさで、リフィアの顔を直視できない。

 いや、今この瞬間は彼女の眸を見てはいけない。きらきらと太陽のように輝いているだろう、その眸を。

 もし見てしまったら。

 きっと戻れなくなる……。

 イシュルは無言で広場の先、炊き出しに列を成す群衆の方へ目をそらした。



 元ギルド長の手紙にあったベロンド街は、主神殿広場をさらに南下し、庶民の多く住む下町の一画にあった。

 ブレクタスの地下神殿に運送人夫として王家調査団に加わった者、その家族が住む家はベロンド街の表通りを一区画中に入った、路地裏にあった。

 表通りから大体の当たりをつけて細い道に入り、奥へ進んで行くと、同じような裏道が幾つか交わる小さな広場に出た。

 元ギルド長の手紙によれば、この広場に面する家々のどれかが、目的の人物の家の筈である。

 イシュルは、広場の端に椅子とテーブルを出し談笑する老人らに声をかけた。

「今日は。あんたら、バジムって男の家、知ってるかい」

「……」

 老人らがおしゃべりをやめ、一斉にイシュルを見た。

 突然、居心地の悪い静寂が訪れる。

 ……バジムは多分傭兵、賞金稼ぎだった男だ。この辺りの住民からどのように思われていたか、何となく察しはつく。

 どこか遠くの路地から悲鳴のような、子供たちの遊び騒ぐ声が聞こえてきた。

 老人たちはイシュルの後ろに立つリフィアを見ると、目を見張り、互いに顔を見回した。

 リフィアはそこは貴族育ちだからか、愛想笑いもせず無表情、無言で老人たちを見返す。

 間の悪い沈黙が続く……。

「おう、おう、バジムの」

「懐かしい名を聞いたの」

「何年ぶりかの」

 と、突然、年老いた男たちはまた一斉に喋り出した。

 その老人たちのひとりが、広場に軒を並べる家のひとつを指して言った。

「あの家にバジムの甥っ子が住んでおる」

「……どうも」

 イシュルは苦笑を浮かべ礼を言うとリフィアを連れ、その家の方へ歩いていった。

 老人から教えられた家は間口の狭い、王都では庶民の典型的な家だ。木造に洋漆喰の塗り壁、二階建て。

 灰色の壁は薄汚れてくすんでいる。正面の木の扉は所どころ傷んで装飾は皆無、寒々しい感じさえする。

 イシュルは、扉に手の甲を打ち付けノックした。

「どなたかおられるか?」

 イシュルが扉の向こうへ呼びかけると、リフィアも横から声を張り上げた。

「我が名はリフィア・ベーム。バジムなる者の詮議に参った。家主は居られるか」

「!!」

 イシュルは横で飛び上がった。

 ……詮議とはなんだ? 詮議とは何事だ?

 バジムは罪人か? 何か事件でも起こしたのか?

 とにかく、こんなところで自分の名とバジムの名を出すな、しかも大声で。

「リフィア、ちょっと待て。おまえは黙っていろ。この家は貴族の屋敷とか、お城じゃないんだからな」

 これから捕物(とりもの)だか戦(いくさ)でもはじめる気か。まるで赤穂浪士の討ち入りみたいじゃないか……。

「ああ、そうか? わたしの物言い、少しおかしかったか。……そういえばそうだな」

 こういうところで大貴族のお嬢さま育ちが出る。街中にお忍びで出ても、領地の村々を回るようなことがあっても、みなお付きの者が対応するから、こういうことになる。

 リフィアは胸の前で腕を組んで「ふむ……」などと何事か考え込んでいる。

 背後では広場にいた老人たちが呆然とこちらを見ている。広場を行き来する人も、みな足を止めてこちらを見ている。

「……」

 なんたることだ。恥ずかしいというか、なんというか……。

 とにかく、リフィアは街中の探索には連れていけない。もう二度と連れて行かない。 

 扉の奥では人の気配がして、近づいてくる。

「はい……。どちらさんで」

 扉がわずかに開かれると、その間に中年の女の顔が見えた。

「怪しい者じゃない。ちょっと話が聞きたいんだが」

 イシュルはそう言ってあらかじめ用意していた銅貨を数枚、女に差し出した。

 ……こういう時ははじめに、さっさと金を握らせるに限る。

「はぁ。……で、何を」

「あんたの旦那の伯父か、親戚でバジムという名の者がいたと思うのだが」

 イシュルは差し出した銅貨を女に無理やり握らせると、顔を近づけ小声で言った。

 広場の老人が「バジムの甥っ子」と言ったので、年齢的にもこの女がその甥っ子の妻なのではないかと、見当をつけて質問した。

「ああ、その人」

 女の顔に笑みが広がり、扉が開かれた。

「旦那は今、仕事に出ててね。夕刻まで帰ってこないよ」

 イシュルたちは家の中へ案内されたが、折悪く“バジムの甥っ子”は不在だった。

「そうですか」

 イシュルは薄く笑みを浮かべて頷いた。

 女の家は入るとすぐに椅子とテーブル、奥に作りかけのチェストや木板などが無造作に置かれ、床には隅の方に木くずがたまっている。

 リフィアはイシュルの奥で大人しくしているが、辺りを睥睨するように胸を張って堂々としている。

 わたしは貴族か高位の神官だと言わんばかりの、露骨な態度だ。場違い感が凄い。

 中年女の方もリフィアの美貌と服装、態度が気になるのか、ちらちらと彼女の方に目を向けている。

 リフィアの格好は、王都の貴族や裕福な商家の娘が何か祈祷を上げてもらうとか、神殿に出向くときの服装に近いかもしれない。

「どうなさる? 旦那が帰ってくるまで待つかい?」

 女は夫が家具職人で、ギルドに呼ばれて外に仕事に出ていると説明すると、そうイシュルに聞いてきた。

「そうだな……」

 イシュルは顎に手をやると女から室内へ、そしてリフィアを横目に見ながら考えた。

 ……今王都は復興景気に湧いている。木工職人などはあっちこっち、引く手数多だろう。この女の夫も多忙で、本当に夕方に帰ってくるかはわからない。

「……」

 女はイシュルの心付けが効いたか、にこにこと愛想よくしている。

 よく見るともう五十は過ぎているようだ。小太りで丸顔、肌が張ってパッと見はもっと若く見える。 

 女の話ではバジムの歳の離れた二つ下の弟が、旦那の父親なのだと言う。彼女はバジムが生前、それなりに名の売れた賞金稼ぎをやっていたことは知っていたが、それ以上のことは旦那に聞いてみないとわからない、と続けた。

「それじゃあ──」

「あっ」

 イシュルがどうするか言いかけたところで、女ははたと手を叩いて言った。

「そういえば旦那の従兄弟……再従兄弟だったけね。王都を出て中海の方で賞金稼ぎをやってるって、聞いたことがあるよ」

「へぇ。そうなんだ」

 まぁ、遠い親戚なら、そういう人もいたりするだろう。中海に行ってるんだったら、若い頃のゴルンと同じだ。

 イシュルはかるく相槌を打って、笑みを浮かべた。

 ……だがその再従兄弟とやらが、地下神殿と関係のある仕事をしている可能性はほぼ皆無、だろう。

「とりあえずあんたの旦那さんが帰ってくるまで、どこかで時間を潰すことにするよ。また夕方に来るから、その時はよろしく」

「あいよ」

 女は大きく頷くと笑みをさらに深くした。

「それじゃあ」

 イシュルも笑顔で頷き返すと踵を返し、リフィアに目で合図をすると扉の方へ向かった。

 これは夕方にもう一度訪ねる前に、酒の一本でも買っていった方がいいかもしれない……。

「何だかすまなかっな。わたしはこういうの、慣れてなくて……」

 外に出ると、リフィアは少ししょぼくれた顔になってイシュルを上目に見てきた。

 彼女はこの家の女の、先ほどのやりとりで何もできなかったのを気にしているらしい。

「仕方ないさ」

 リフィアだって当然、お城で、街中で領民と話すことは何度もあったろう。ただその時は常にお付きの従者や執事が彼らと話し、リフィアが最初から直接言葉を交わすことは少なかったのではないか。彼女は、領地のアルヴァに帰れば白亜城に住むお姫さまだ。聖都の公爵邸に住むミラよりも、庶民とは縁遠い存在だったのではないか。

「それより、どこかで時間をつぶさないとな。下街でやってる市場にでも行こうか。この時間ならまだ店じまいしてないだろう」

「おおっ、それはいいな」

 リフィアが明るい顔になって大きく頷く。

 ……彼女の、辺境伯家の屋敷に行ってみるのもいいのだが、俺は前当主を殺した仇だからな。いくら王国を救った英雄だとしても歓迎されないだろう。

「じゃあ、どこか近くでやってる市場を……」

 さっきの老人たちにでも聞いてみるか。

「ん?」

 イシュルが広場の隅の老人たちの方へ視線を向けると、往来するまばらな人びとから、こちらへ早足で向かってくる者がいる。

 三十前くらいの男だ。

 その男は自然な感じでイシュルの前を通り過ぎ、リフィアの横を抜けていく。

「ごめんよ」

 男はリフィアにぶつかりそうになってひと声かけると、広場を南に抜ける小道に入って行った。

「ああっ!」

 一瞬の間をおいて、リフィアが素っ頓狂な声を上げる。

「やられた! 金子を取られた」

 彼女はローブのポケットを上から押さえると、両手を広げて言った。

「はっ?」

 イシュルは呆然と彼女の顔を見た。

 ……リフィアの眸に浮かぶ悪戯な色。胡散臭げな口ぶり。

 わざとか。

「おまえ……」

 彼女がスリの動きに気づけないわけがない。わざと見過ごしたのだ。

「追いかけよう、イシュル」

 リフィアはにまにまと、意味ありげな笑みを浮かべて言った。

「面白そうだ」 

「……あのな」

 ため息をついて肩をすくめるイシュル。

 リフィアは双眸に微かに赤い光を灯すと、さっと姿を消した。

 ネリーの腕輪が一瞬反応したのか、彼女の動きにつられるように上を見ると、広場の南側の家の屋根から、リフィアがこちらを見下ろしている。

 ……はいはい。わかったよ。

 イシュルは力無く微笑むと、彼女に向かって跳躍した。

 くすんだ赤やオレンジ、茶色の屋根が続くはざまを、先ほどの男が駆けていく。

 行き先は王都の南東、貧民街の方だ。

 イシュルがリフィアの横に降り立つと、彼女はやる気満々の顔で言った。

「誘ってるな。わたしたちを」

「そうかな? ただのスリだろ」

 イシュルはリフィアのしている首飾りに目をやって言った。

 ……そんな高そうなやつしてくるから、目をつけられるんだ。

「行くぞ。何れにしても金は取り返さないとな」

 再びリフィアの姿が消える。

 控え目な赤い魔力の閃光が一瞬、目の前を横切る。

 イシュルも飛んだ。

 スリの男は細い路地をまっすぐ、南の貧民窟へ向かっている。

 イシュルとリフィアは、屋根伝いに小刻みに跳躍を繰り返し男の後を追った。

 やがてく屋根の色がくすんだ灰色ばかりに、ただ木板を貼り付けただけの粗末なものに変わっていく。

「足元に気をつけろよ」

 イシュルが空中からリフィアに声をかけた瞬間。

 先を行く男の周りから、小さいが明らかにそれとわかる魔力が煌めいた。

 ……加速の魔法!!

 イシュルは眸を細めて男の行方を追った。

 その背中が直後、暗く影に沈んだ路地の、ありえない先に姿を現わす。

 ……剣さま。

 今まで何の気配も見せなかった、ネルレランケの声が脳裡に響く。

 ……ネル。今はそのまま、手を出すな。

 イシュルは風の精霊に命ずると速度を上げ、屋根の上、リフィアのすぐ横に降り立つ。

「ふふ」

 リフィアはただ小さく笑うとすぐに跳躍する。

 空中でイシュルが並ぶと彼女は続けて言った。

「疾き風の魔法だ。本当に面白くなってきた」

 男は貧民街の迷路のような裏道を、断続的に加速の魔法を使って異様な速度で先へ進み、やがて元は何かの工房だったか、所々穴が開き崩れ落ちた、大きな屋根の廃屋に入っていった。

 ……ネルは外で見張れ。もし魔封陣が張られたら問答無用で破壊しろ。

 ……おまかせを。

 イシュルは素早くネルレランケに指示を出すと、リフィアに続いて廃屋の前に降り立った。

 辺りに人の気配はなく、周りは壁が崩れ落ち、あるいは屋根の抜け落ちたあばら家に囲まれている。

 貧民街には先の、オルーラ大公国の王都侵入時にも火が回らなかったのか、周囲に最近焼けたような建物は見られない。

 何かのすえた匂い、カビくさい匂いがする。

 そして弱いが何かの魔法の気配。

 辺りはなぜか、薄く靄がかかりはじめている。

「行くか」

 横でリフィアが短く言う。

「中には二人いる」

 人気ない貧民窟のはずれ。だが目の前の廃屋にだけ、もうひとり、人の気配を感じる。

 イシュルとリフィアは正面の建物の、壁が崩れ落ちた隙間から中に入った。

 中は暗い。その中を、穴の空いた屋根から外光がまばらに差し込んでいる。

 足元は剥き出しの地面に木片や割れた陶器や瓦、小石が転がっている。

 廃屋の奥の方には大きな暖炉のようなものが残っている。以前は鍛冶屋だったのだろうか。

「へへ、よく来てくれた。助かるぜ」

 その炉の奥から、暗がりの中に二つの影が浮かび上がった。

「……」

 イシュルたちはその影に無言で近づいていく。

「これ、返すぜ。悪かったな」

 スリの男の方が、小さな巾着袋をリフィアに投げ返した。

「おまえたちは何者だ」

 リフィアは投げられた巾着を片手で掴むと言った。

「あ、怪しいもんじゃないよ。頼みたいことがあってさ。あの家は俺の親戚の家で、あんたらが来るのを張っていたんだ」

 スリの男は卑屈な声で言った。

 声音に恐れの色がある。

 ……この男があの家具職人の再従兄弟、ということか。

 そしてこいつら、俺たちが誰か知っているわけだ……。

 と、言うことは……。

 先日ミラと、王都で最大の傭兵ギルドを訪ねている。組合に出入りする連中に諸々、知れ渡っていてもおかしくはない。

「あの元ギルド長のメイドに手紙を持たせたのは、おまえたちか」

 イシュルは言いながら周りを見回した。

 魔法を使う賞金稼ぎ、か。連中の間ではなかなかの実力者、ということになる。

 ……周りに迷いの魔法が使われています。弱いものですが。

 心のうちにネルの小さな声がする。

 ……とりあえずそのままにしておけ。

 ネルの頷く感じが伝わってくる。弱い迷いなら、気にかける必要はない。

「ああ、山の手の爺さんのところか。……いや、俺たちじゃねぇ。王都のギルドには顔が効くからな、あんたになんとか会えないか、いろいろ手配していたが」

 スリの男がイシュルを見て言った。

「俺たちが王城を出た時から見張っていたな」

「い、一応、人は配っていた。だが悪気はないんだ」

 スリの男が必死に言い繕う。たとえ彼らが実力あるパーティだとしても、俺はもちろん、リフィアと比べても能力差は隔絶している。

「迷いの結界を張ってるな、そこの。おまえか」

 イシュルは殺気を孕んだ視線をもうひとりの男、先ほどから無言の男に向けた。

 その長身の男は、イシュルと同じような裾の長い上着、コートを着ている。

「ああ、そうだ。王家の影のやつらが怖くてな。あまり長話はしたくない」

「ふん。おまえたちは賞金稼ぎか。名を名乗れ」

 横からリフィアが言ってくる。

「いや、待て。あとでじっくり聞くから今はいい」

 イシュルはリフィアを制し笑いを含んだ声で言った。

「とりあえずこいつらは捕らえて城に運ぼう。どんな事情か、じっくり聞くとしようじゃないか。拷問しながらな」


 

 廃屋の男たちはスリの男がセグロー、長身のコートの男がフェルダールと名乗った。

 イシュルが嘘偽りなく話させようと、城に連れて行き拷問にかけると脅すと、セグローは土下座するように身を投げ出し「待ってくれ、俺たちは怪しいもんじゃない。どうか頼みを聞いてくれ」と哀願するように叫んだ。もうひとりの貴族のような名前の男、フェルダールも「頼む」と頭を下げてきた。

「……その頼みとは何だ? 一応聞いてやるから言ってみろ」

 イシュルは露骨に面倒くさそうな口調で言った。

 面倒ごと、というほどではないのだろうが、来月には王都を出発するのだ。むやみと安請け合いはすべきじゃない。

「あんたらカナバルの地下神殿に行くんだろ? あそこの奥底に眠る化け物を退治しに行くんだとか」

「カナバル?」

「ブテクタスの地下神殿のある村……街か、そこの地名だな」

 横からリフィアが言った。

 ……なるほど、地下神殿に入る洞窟の出入り口、その周辺に街や村があるのはおかしいことじゃない。

 王国の南西に接するブレクタス山塊、その山並みを越えた盆地に荒神バルタルの地下神殿がある。

 その盆地には特に名前はなく、周辺には数カ村を統べる小豪族が割拠している。ラディス王国をはじめ、周辺の国々の影響力はこの盆地には及んでいない。

 金銀や貴石の資源も多少は存在するようだが、周囲の山が険しく、まともな交易をできる場所ではない。大規模な兵力を移動させることもできず、諸国にとっては自国領にしても意味がない。

 同様に、過去に何度か盆地の全域を統一する小王朝が生まれても、それ以上発展する余地がなく、王家の腐敗や権力争いなどで程なく瓦解してしまう。それを繰り返している。

 ここ数百年ほどは時に村どうし、豪族どうしで諍いはあっても、概ね平和が保たれているようだ。

 ……王家の騎士団幹部、外務卿の配下など、それ以外の者の地下神殿周辺の盆地に関する知識は、俺自身も含めその程度のものである。

 リフィアはアルヴァの領主で地下神殿からは遠方だが、そのカナバル、という地名は聞き覚えがあったらしい。

 だが、それよりこれは……。こいつらは……。

「おまえら、そのカナバル、いや、地下神殿に潜ったことがあるのか」

 イシュルは口許をわずかに歪めて言った。

 にわかにその眸に真剣さが増した。

「あ、ああ。そうなんだ」

「ビンゴ、だな」

 これは大当たりだ。

 地下神殿行きの件は、別に隠し立てはしていない。

 ミラとギルドに行った件以外にも、閲覧室ではジェーヌたち三人組にも手伝ってもらっている。

 王都の貴族や住民の一部にそのことが噂となって広まり、こいつらが喰いついてきた、というわけだ。

「びん……?」

「いや、なんでもない。そのカナバルと地下神殿のこと、話してもらおうか」

「ああ、だがその前に、俺たちの頼みを聞いて欲しいんだ」

「それでカナバルのことを、嫌でも知ることになる……」

 長身の男、フェルダールが口添えしてくる。

「じゃあ、話してみろ」

「ああ、助かるぜ」

 スリの男、セグローが愛想笑いを浮かべて言った。

「俺たちはもうふたり、ニセトとバストルの四人でパーティを組んでるんだ。それで地下神殿に潜っていた。とは言っても、俺たちの実力じゃそんなに奥深くまでは行けねぇ。だが年に一度か二、三度、中海や連合王国の方から、凄腕のパーティや傭兵団がやってくる時がある。そういう時、俺たちは奴らの荷物持ちを請け負っていた。地下神殿はもちろん、洞窟の奥まで行くには一日じゃ無理だ。途中に水や食べ物を保管する、中継地を作らなきゃならねぇ。そこの守りとかも請け負っていたんだ」

 横でリフィアが胸の前に腕を組む。彼女の眸が輝きを増している。

「……続けろ」

 イシュルは短く言った。

「そ、それで、そんな時、半年ほど前に中海の方から強面(こわもて)の傭兵団がやってきた。二十人くらいはいたかな。俺たちは彼らに雇われ、一緒に地下に潜った」

 セグローはそこで間をおいた。

「まぁ、傭兵団の方は二、三の魔法具を得て帰っていった。だが地下では数名死んだ奴もいてな。あいつらが得をしたのか損をしたのかはなんとも言えねえ。俺は無くした魔法具もあったと踏んでる。奴らは一度中海に戻った後、連合王国の方へ行くとか言ってたよ。大きな戦(いくさ)が近々はじまるとか言ってたんだ。まさかそれが王国に攻めてくるとはな……」

「時間がないんじゃないのか? 要点を話せ」

「あ、ああ。すまねえ」

 セグローは卑屈な笑みを浮かべると、何度かせわしなく頷いた。

「その時にだ、バストルがうまく奴らの目を盗んで魔法具をひとつくすねるのに成功したんだ。それは詳しくは言えねえが、相当な代物でな。傭兵団が帰った後、俺たちは浮かれ騒いだ。その魔法具を売れば、四人みんなが一生遊んで暮らせるどころじゃねぇ。どこかの国の領主や貴族にもなれる。それくらいのもんだ」

「それで?」

 ……おそらくその魔法具は五系統の、宮廷魔導師が所有するようなレベルのものだろう。

「ところが飲んで大騒ぎしたのが知られて、街の元締めのバシリアに疑われてな。とっ捕まってやばいことになりそうなところを、バストルが囮になって俺たちはなんとか逃げだすことができた。……それで、俺たちはバシリアに捕まったバストルを助け出すために、凄腕の傭兵や魔法使いを探しに、久々に王都に戻ってきたというわけだ。最初は魔法使いのたくさんいる聖王国に向かっていたんだが、途中、あんたの大活躍を耳にしてな」

「そのもうひとり、ニセトとかいったか? その者は今どこにいる」

 と、リフィアが質問する。

「ニセトは今、カナバルや近くの村に隠れ潜んで、様子をうかがっている」

 フェルダールが落ちついた声で答えた。

「なるほどな……」

 イシュルは思いっきり歪んだ笑みを浮かべて言った。

「その捕まったバストルが例の高価な魔法具を持っている、いや、隠し場所を知っている、……わけだ」

 よくある話だ。こいつらのパーティがどんなものか、本当に大事な仲間どうしかもしれないが、この目の前のふたりがこうまでして俺やリフィアに声をかけてくる、というのなら、バストルが大事な大事な魔法具を隠し持っている、そいつだけが隠し場所を知っている、つまりはそういうことなんだろう。セグローたちは、なんとしてもその男を助けだしたいのだ。

 その元締めだという、カナバルの街を仕切ってるバシリアからバストルを助け出すのに、セグローたちでは力不足、というわけだ。

「へへ。もちろんバストルは気のいいやつだが、そういうことだ」

「だがな。そのバストルはもう、魔法具の隠し場所を吐いてしまっているんじゃないか? それとも殺されてるか」

 そんなもん、見るも聞くも無残な拷問を受けているに決まってる。

「それは大丈夫だ。ほぼ間違いなくだ」

 と、今度はフェルダール。

「バストルはバシリアの弟なんだ。一応な」

「一応?」

「腹違いのな。そこが複雑でな。バシリアはバストルをすぐに拷問にかけたりはしない。だが弟の態度、言動があの女の勘にさわる、そんなことが繰り返されるようならその先はわからない」

「ふむ……。だがもしわたしたちがバストルを助け出し、その魔法具を手に入れたら、おまえたちに渡さずこちらのものにしてしまうかもしれないぞ。あるいは王家に差し出すかもしれない」

 リフィアが少し楽しそうな声で言う。

「そ、それは大丈夫だ。あんたらにとっては大した魔法具じゃねえ。それにあんたら、王家に仕えてるわけじゃないだろ?」

 とセグロー。

 相変わらず声音のどこかに脅えがある。

 ……確かに俺はもちろん、リフィアも辺境伯家の人間だ。王家に直に仕えてるわけじゃない。辺境伯家は王家とは、幕府と外様大名のような関係にある。

「おまえたちはバシリアとつるんでいたんだろう? そこへたまたま大物、の魔法具が手に入ったから、裏切ることになった。地下神殿に訪れる賞金稼ぎの奴らに雇われてるって話だが、そのパーティの隙を見ては洞窟に落ちてる魔法具をかすめとり、場合によってはそのパーティを地下で皆殺しにして、そいつらの持っていた金品や武具、魔法具を奪っているんだ。おまえらはそれで、王家とかに知られぬように俺たちに接触してきたわけだ。後ろ暗いことしてるものな。

バシリアってやつもごろつき、盗賊団の頭(かしら)みたいなやつだろ? そいつに目をつけられたから、俺たちにバストルを助け出すついでに、バリシアら一味を一掃してもらおうってことなんだろう?」

「そうだ。虫のいい話だが、あんたらもバシリアを潰した方が、地下神殿の探索がやりやすくなる筈だ。どうせカナバルでは、バシリアの“バルタルの穴蔵団”とやりあうことになる。バストルを助けるのはその時、ついででいいんだ」

 フェルダールは、一歩イシュルの方へ踏み出し言った。

 ……おそらく、地下神殿で彼らの潜れるあたりでは、魔導師の持つ“大物”の魔法具が見つかることはほとんどないのだろう。

 確かにそれを一つでも入手できれば、人生が一変する。いや、子々孫々に渡って繁栄が約束されるレベルだ。

 しかし、バストルにバシリア、そして“バルタルの穴蔵団”とは……。

 何かの語呂合わせか。

「!!」

 その時一瞬、イシュルの心の内を冷たく、ついで熱い何かが渦巻くのを感じた。

 荒神バルタルの、つまらない語呂合わせのような単語の羅列。

 時期的にも、何か計ったかのような降って湧いた話。

 ……まさか、な。

 イシュルは顔を真っ青にし、喉を鳴らした。

 月神レーリアがまた、動いたのだろうか。

 ユーリ・オルーラの時のように……。

「イシュル?」

 横からリフィアの囁く声。

「あ、ああ。大丈夫だ」

「俺たちを胡散臭く思うのもしょうがない。話を信じてもらえないのもわかる、だから前金代わりにこれを渡しておこう」

 フェルダールは左手から指輪をひとつ抜き取り、イシュルに渡してきた。

「これは……」

 イシュルは手のひらの上の銀製の指輪を見つめた。

 草花をイメージした飾りの、古い指輪。

 ほんの一瞬、周囲の空間が、自己の存在が横に滑って歪んだような感覚に襲われる。

「これは隠れ身の指輪……」

 本能的にわかった。

「そうだ。その魔法具をあんたに預けておく。それで信じて欲しい」

「……」

 こんな面倒ごと、本来なら絶対断ってるところだが……。

「面白そうじゃないか、イシュル」

 横からリフィアの明るい声が聞こえてくる。

「これも人助けと思って受けてやれよ。いや、イシュルの代わりにわたしが受けてもいいぞ」

 リフィアはイシュルから隠れ身の指輪を手に取り言った。

 ……もし、このことに月神が絡んでいるのなら……。

 イシュルはぼんやりと、楽しそうな顔をしているリフィアを見やった。

 ……剣さま。猟兵がひとり、近づいてきます。

 ネルの声が脳裡に響いてくる。

「とにかく、カナバルと“バルタルの穴蔵団”のことがもっと知りたい。後日、今朝城に来た、あの元ギルド長のメイドにでも詳しく書いた手紙をもたせてくれ」

「ああ、わかった」

「よろしく頼むぜ」

「おまえたちも、カナバルに向かうのか」

「ああ、あんたらとは別にな。現地ではうまく落ち合えるようにする。それはこちらでなんとかする」

 リフィアの質問にセグローが調子のいい口調で答えた。

「“髭”が近づいてるみたいだぞ。おまえら、気づかれたかもな」

 イシュルは「どうする?」と続けた。

 セグローとフェルダールに緊張が走る。

「そ、それじゃあ、あんたの言った通り手紙を渡すようにする」

「知ってることは全部書けよ。その内容を見てから、おまえらの依頼を受けるか、正式に決めることにする」

「わかった」

 ふたりの男は身をひる返し、走って廃屋の奥に消えた。

 外に出ると白い霧が辺りを覆っていた。それが急速に薄れ、やや西に傾いた陽が降り注いでくる。

 迷いの魔法が陽光に溶けるように消えていく。

 奥から人影がひとり現れ、近づいてきた。

「いかがしました?」

 エバンがイシュルたちの前に来て跪いた。

「それが柄の悪い賞金稼ぎに会ってな」

 リフィアがエバンに、依頼の件を適当にごまかしながら説明する。

「このことはマーヤにも伝えておく。やつらは追うな。見逃してやれ」

「わかりました」

 イシュルがそう言うとエバンが首肯し、立ち上がるとそのまま身を翻し、みすぼらしい家々の影に姿を消した。

 ……マレフィオアにレーリアが乗っかってきた、ことになるのだろうか。

 地下神殿だけではない。カナバルに、捕らえられたバストルに、その先に何があるのか。

 まだわからない。何も言えない。判断できない。

 まずは現地に着いてからだ。

 イシュルは誰かが見れば、みな怖気をふるうような恐ろしい視線を宙に向けた。

「イシュル?」

「ああ、……リフィア」

 我に返ってリフィアを見る。

「心配するな。面倒ごとは全て、わたしが綺麗に片付けてやる。“バルタルの穴蔵団”の件はわたしにまかせろ」

 リフィアが陽気に、心強いことを言ってくる。

「ふふ、そうだな」

 イシュルはリフィアの顔を見て微笑んだ。

 ……何も知らないリフィア。

 でもおまえの力強い言葉が、何よりその明るい笑顔が一番、俺を安心させてくれる。

「戦う気力を奮い立たせてくれる」

 誰にも聞こえない、小さな呟き。

 イシュルは晴れた初春の空を見上げた。 

  

 

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