百年の頸木 4



 イシュルが左手を上げると同時、ネルが姿を消した。

 主(あるじ)と以心伝心、魔力の乱れのまったくない、素早い挙動だった。

「彼女は俺が召喚した風の精霊だ」

 イシュルは笑みを歪ませ、ソニエに言った。

「おまえに似ているだろう?」

「……」

 ソニエは無言、顔を青くし当惑したままだ。

「別にねらって召喚したわけじゃないのに。……なんの因果かな」

 イシュルの笑みが皮肉に、さらに歪んでいく。

「い、因果とはなんでしょう? 少し大げさではないでしょうか」

 ソニエは言いながら、少しずつ動揺をおさめていく。

「わからないか? おまえには」

 イシュルの眸が細められる。

 イシュルの背後では、ブノワ・クベードをペトラとルースラが囲み、頭を突き合わせてクラース・ルハルドの遺稿を覗き込んでいる。

「なんのことでしょう?」

 ソニエの顔に冷笑的な表情が戻ってきた。

 ……ネルがおまえにそっくりなこと、それに理由があるとしたら。

 ならばこの構図は自滅だ。

 おまえはまさに、自らの行いで破滅したのではなかったか。この牢獄にいるのではなかったか。

 そしてネルはおまえの絶対勝てない、敵なのだ。

 虜囚となった次は何が来る? あとは死しかあるまい。

 ……こんな面白い、皮肉なことはない。

 ソニエに向けられたイシュルの視線が、侮蔑に変わる時。

「……」

 意外にもソニエの顔にまた、あの挑戦的な微笑が広がった。

「……!」

 イシュルの双眸がわずかに広げられる。

 ……こいつ。

「次はレーネ男爵の回顧録ですね、イシュルさま」

 ソニエの笑みも歪んでいく。

「楽しみにお待ちしておりますわ。あなたさまがご先祖の回顧録を読まれる、その日を」

 イシュルは笑みを消してソニエを睨みつけた。

 ……こいつはまだ挫けていない。まだあるのだ、奥の手が。

 それがレーネの回顧録か。

「……」

 イシュルは無言のまま。その顔から表情が消えていく。

 この文庫に王封の書が、魔法をかけられた書物がある限り、こいつの嗜虐は終わらない。 

 ……それなら。

 イシュルの口許が、ほんの微かに引き上げられた。



「イシュルが仕掛けた風の魔方陣、勝手に外してはならんぞ」

 ペトラがイシュルの横に立って、ソニエに向かって言った。

「かしこまりました」

 ソニエはかしこまってペトラに頭を下げた。

 イシュルとのやり取りで見せた表情は、綺麗に消えている。

「ふん」

 イシュルはつまらなそうに鼻をならすと、視線を書架の方へ向けた。

 ……この女は王家には逆らわない。

 王家の権威におもねり、少しでも高い位(くらい)に上ることが、その力を利用し私することが、彼女の求めてきたものなのだろう。

 つまり都市貴族がみな、多かれ少なかれ抱く野心と同じだ。

 ソニエはただの俗物だ。彼女のような者に王家書庫の管理などさせるべきではない。たとえこの文庫に訪れる者が五年に一度、十年に一度の頻度であろうと。

「もう良いぞ。下がっておれ」

「……」

 ペトラが言うと、ソニエは無言で腰を落として一礼し、文庫の奥の方へ退いた。

「イシュル、あそこに座ろう」

 ソニエの姿が消えると、ペトラはイシュルの手を取り窓際の席の方を指差した。

 ブノワはすでに手近な席に座り、机に向かってクラース・ルハルドの遺稿を熟読している。

 ことの顛末を知らせに一旦外に出ていたルースラが、閲覧室に戻ってきてイシュルに笑みを浮かべ、ひとつ頷いてみせた。

「……」

 時間まで自由にしてください、といった感じだ。

 ブノワはしばらく、夕刻までこの場でルハルドの遺稿を読むことになっている。それまでペトラはともかく、イシュルとルースラは付き添っていなければならない。

 ブノワはエレミアーシュ文庫を退室後、国史閲覧室に直行し、本人自身の手で読んだ内容をまとめ、記述することになっている。さらに今回の閲覧から書付けまでの一連の行動を、数日間繰り返すことになっていた。これはブノワ自身が、クラース・ルハルドの築城術のすべてを把握できるよう、考えられた処置だった。

「今日もいい天気じゃのー」

 机を挟んで向かいに座ったペトラが、窓外に目をやり話しかけてくる。

「こうしてそなたと、ゆっくり話すのも久しぶりじゃな。場所が場所じゃが」

「まぁそうだな」

 イシュルはペトラの前でも構わず、机の上に肘を立てて顎を乗せ、やはり窓の外に目を向けている。

「ミラ殿とのなんじゃ、“でーと”は楽しかったかの?」

 ……うっ。

 イシュルはぎょっとしてペトラに顔を向けた。

 デートなんて言葉……。そうか、マーヤから聞いたのか。

「デートじゃない。傭兵ギルドに行って、歴代のギルド長に会いに行ってきただけだ。この前ちゃんと話したろう?」

 ……ミラと街から帰ってきたその日の晩餐で、みんなにちゃんと説明している。あの時にはペトラもいた。

 だが彼女はイシュルの言を無視した。

「妾もイシュルとお出かけしたいのー」

 ペトラの顔がにやついている。

 ……ただそれが言いたかっただけだろう。俺を弄って暇つぶしする気か。

「ここは俺とルースラさんが残るから。おまえは後宮に帰ってもいいんだぞ」

「まぁ、まぁ、イシュル。そんなつれないことを申すな」

 ペトラが今度はにかっと笑って言った。

「女子(おなご)たちはの、みな平等に扱わないといかんぞ。差をつけてはならん」

「ああ」

 イシュルは面白くなさそうに頷いた。

 ……そんなことはわかってる。もうみんなとは仲間、チームというかパーティというか、そんな感じになっている。こういう場合は面子が誰でも──友人、同輩、部下、みな出来うる限り平等に接しなければならない。それがグループを仕切るリーダー、指揮する側の鉄則だ。

 さらに複数の女性が対象となる場合は、特に気をつかわなければならない。

 おまえの気持ちはわかったよ。そんなに拘っていたのか……。

 ペトラは穏やかな表情で、じっとイシュルを見つめてくる。

 窓から差し込む冬の陽が、彼女の顔を柔らかく照らしている。

「ペトラにも、何か考えておくよ」

 イシュルは苦笑を上らせ言った。

 ……とうとう言わされた。



「さすがは築城の名匠、ルハルド卿。驚いたことに遺稿の中身は、バルスタール城塞の築城の工程を私感も交え、丹念に書き記したものでした。非常に有用なものでした。わたしはただ単純に、彼のお方の秘した築城術がひたすら羅列されているものと、考えていたのですが……」

 後ろから興奮気味にルースラに語る、ブノワ・クベードの弾んだ声が聞こえてくる。

 振り返ると、彼らの後ろを歩くマリド姉妹と目が合った。

 リリーナとアイラが、ふたりとも苦笑を浮かべている。

 手前のルースラはこまめに頷きながら、口角泡を飛ばす勢いのブノワに真面目に耳を傾けている。

 ブノワの話によれば、クラース・ルハルドの遺稿は生前の彼の築城術が直接記述されたものではなく、バルスタール城塞群を整備する過程で彼が考案した、様々な工夫とその工事の具体的な内容が記されていたようだ。つまり、築城の原理原則を列記したものではなく、実例集のような体裁になっていた。

 ブノワが有用と言ったのは、それがより実践的なものだったからだろう。この世界、大陸では教範、教典の類(たぐい)は、硬直した文体に大仰な装飾表現で満ちている。背景には聖堂教会の影響や、この世界、この時代の一般的な社会通念がある。他にはただ単純に、学問書として箔をつけたい筆者側の思惑などもあるかもしれない。

 クラース・ルハルドは生前、後進のためにそんな形ばかりの教本は残したくなかったのだろう。ブノワがルハルドにさすが、と言ったのはまさにその点を指している。ルハルドは教範や教典の生み出す弊害を、よくわかっていたのだろう。

 エレミアーシュが王封を施したのは、ただ単に北線城塞の構造を秘すためだけでなく、実用的で価値のある書物だったからかもしれない。

 一同はエレミアーシュ文庫を出て、王家書庫の回廊を国史閲覧室に向かって歩いていた。

 ブノワの話を聞きながら先へ進むと、回廊の入り口にミラやリフィア、マーヤとニナの姿が見えた。

 そしてドミル・フルシークと執事長のセヴァンテスを従えた、ヘンリクの姿もあった。さらにその後ろに編纂室長のピアーシュ・イズリークの顔も見えた。

「ペトラ! 無事だったんだね。良かった……」

「イシュル、ご苦労さま」

「イシュルさま、ご無事で!」

 一同は回廊の出口まで来ると、ヘンリクに向かって跪いた。イシュルとペトラだけはそのまま、イシュルがリフィアたちの方へ、ペトラがヘンリクの方へ、笑顔で寄っていく。

「イシュル。うまくやったらしいな。あとで話を聞かせろよ」

 リフィアがにこにこして声をかけてくる。

 イシュルたちの横ではペトラがヘンリクと話している。

「ではブノワ殿、こちらへ」

 ピアーシュがブノワ・クベードを国史閲覧室に案内していく。

「イシュル君、よくやった。ルハルドの遺稿も傷ひとつつけずに済ませたらしいな」

 ヘンリクがイシュルに声をかけてきた。

 彼にとってはペトラが無事だったのが、何より嬉しいのだろう。国王としてブノワに声をかけるのも後回しになっている。

「いえ……」

 イシュルはつくり笑いを浮かべ、ヘンリクにかるく頭を下げた。

 その時一瞬、ペトラと話すマーヤの顔を見やった。

 ……マーヤは今日のことを、どう思っているだろうか。

 彼女はソニエを蔑み憎みながらも、一方でそれでも許そうと、救われるべきだと考えている。

 レーネの回顧録の中身を確認したら。

 俺は最後にソニエに対し、エレミアーシュ文庫でやりたいことがある。考えていることがある。

 それは……。

 もし実行したら、マーヤはどう思うだろうか。

 イシュルはヘンリクから、ルースラら周りの者たちから褒め称えられ、面映い表情を取り繕いながらも、心のうちではそんなことを、まったく別のことを考えていた。

 その時イシュルは、レーネの回顧録をそれほど問題視していなかった。

 ただ中身が知りたいだけで、どんな封が掛けられているか、どんな魔法が使われているか、まったく気にしていなかった。



 翌日からペトラが外れ、ブノワ・クベードにはイシュルとルースラが付き添う形となった。

 そしてマリド姉妹の代わりに、戦闘力の高いリフィアとミラとシャルカが、エレミアーシュ文庫の扉の前に、やや離れてマーヤとニナがそれぞれ待機、支援をすることになった。

 ブノワが閲覧している間、イシュルたちは国史の調査を中断、ジェーヌら三人組がそのまま続けた。

 そしてブノワの閲覧三日目、その日の早朝。

 イシュルの居室にピアーシュの使者が訪れ、呼び出しを受けた。

 使者はすぐに去り、彼は朝早くからひとり、編纂室長の執務室に向かった。

「お早うございます」

「お早う……、ございます」

 中に入ると正面に三十くらいの男が立っていた。イシュルは初めて見る顔だったが、編纂室の書記役の一人だと思われた。

「室長は中におります。案内するのでついてきてください」

「?」

 イシュルは一瞬間をおき、小さく「はい」と返事をすると室内を見渡した。

 ……中、とはどこだ? ピアーシュの執務室は奥に部屋はない。両隣には右に書記役の執務部屋、左に閲覧室があるが。

 男は不審顔のイシュルに構わず背を向けると、ピアーシュの机を回りこみ、その奥の無数の巻紙の納められた書棚に向かった。

 そして数歩、棚の中央から右横に移動すると、巻紙の一つを引き抜いた。

「!!」

 すると重たい石の擦れ動く音がして、棚の一部が奥に引っ込んだ。

 そして引っ込んだ棚の側面に、人ひとりがなんとか通れるほどの空間が現れた。  

 ……中はかなり広い。

 イシュルはその暗がりに視線を向け、素早く魔力の感知を巡らした。

 そして、何かの物体で埋め尽くされている……。

「どうぞ、中へ。ピアーシュさまがお待ちです」

 男は右手を隠し部屋の方へ差し出し言った。

 彼は左手に引き抜いた巻紙を持ち替えていたが、その巻紙はよく見ると、薄く剥いだ木の皮を数枚重ねて筒状に丸め、蝋か何かで固めたものだった。

「……」

 イシュルは男にかるく会釈すると、無言で中に入っていった。

 入るとすぐ暗闇に覆われ、何か埃っぽい、カビの匂いがする。

「な、に……」

 目が慣れてくると、周囲に無数の巻紙が積み上げられているのがわかった。天井も高い。ここは一階だが、この部屋はおそらく二階まで吹き抜けになっている。その天井の方まで巻紙が積み上げられている。室内は幾つもの棚が並んでいるようだが、はっきりとは見えない。

 そして奥の方、部屋の中央の方から微かに明かりが漏れている。

 床にも紙の束が積み上げられ、イシュルは足元に注意しながら奥の方へと進んでいった。

 巻紙の幾重にも積み重なった壁を何度か超えていくと、やがてその奥に、ランタンに照らされたピアーシュの姿が見えた。小さな机に向かい、古い粗末な椅子に背を丸めて座っている。

 机の上にはそのランタンに、幾つか年代物の巻紙が置かれてあった。

 ピアーシュはそのひとつを広げて見入っている。

 イシュルは明かりの眩しさに目を細め、ほんのわずかの間、その老人の姿を見つめた。

 ……果てのない書物の牢獄に囚われた老魔法使い……。いや、さる獄中の賢者、と言ったところか。

「お早う、イシュル殿」

 老人が顔を上げた。片眼鏡をつけている。

「朝早くから、わざわざこんなところに呼び出してすまんの」

「いえ……」

 イシュルは呟くように言うと、老人の傍へゆっくりと近づいていった。

「ここは?」

「この部屋こそが国史の本当の書庫じゃ。王国秘史の宝庫、または掃き溜めじゃな」

 老人は上目遣いにイシュルを見た。口角がわずかに歪んでいる。

「ここにある書付けも書類の類(たぐい)も、みな表の国史には載らぬものばかりじゃ」

「なるほど」

 イシュルは老人に頷くと顔を上げて辺りを見回した。

 風の魔力の感知では部屋の大きさは隣の閲覧室と同じくらい、それほど広いわけではない。だが周囲は深い暗闇に覆われ、相当広い空間のように錯覚してしまう。

「しかし……、相当な量ですね」

 部屋の広さはほどほどでも、とにかく天井が高い。収蔵されている巻紙、書類は相当な量だろう。

 ランタンの光の広がる先には、踏み台や梯子らしきものも見える。

「ここの巻紙はまさか、時代順に分類されて……ないですよね?」

 うず高く積まれた巻紙は乱雑で、まともに整理されているようには見えない。

「うむ。古く、傷んだものは廃棄し、空いた場所にその都度、新しい書類を積み重ねてきたからの。どこにどの時代のものがあるか、わしも大まかにしかわからん」

「上の方とか、梯子に登って取ってるんですか?」

 いくらなんでも老人には危険すぎるだろう。

「それとも下役の者にやらせているんですか」

「いや、この収蔵庫にはわししか入れん」

 ピアーシュは下から鋭い視線を向けてきた。

「わしは水系統の魔法具を持っていての。一応、水の精霊とも契約しておる。高いところにあるものは、そやつに頼んで取ってきてもらっておる」

「そうですか」

 水、か。やはり職掌柄、火を一番避けなければならないからだろうか。

「ん?」

 その時ピアーシュの背後、イシュルの正面を水色の魔力が波打ち煌めいた。

 だがそれも一瞬、すぐに背景の闇の中に消えてしまう。

「わしの精霊じゃ。心のうちで姿を現わし挨拶するよう言いつけたが、そなたが恐ろしゅうて嫌だと申しておる」

 老人はイシュルを見上げ、乾いた笑いを向けてきた。

「ああ、……はは」

 イシュルも気まずそうな笑いを返す。

「……さて、そろそろ本題に移らせてもらおうかの」

 ピアーシュは片眼鏡の位置を直すと声音を改め、低い声で言った。

 そして手許に広げていた巻物を巻きなおすと、机の上に置かれた他の二つの巻物の横に置いた。

「先日そなたに話した、ベルシュ男爵の回顧録に関する記録が幾つか見つかったのでの。こうして朝早くからご足労願った、というわけじゃ」

 老人がそこで一息おき、少し間を開けると話を続けた。

「ことがことだけにの。お主以外は誰にも聞かれたくないのだ」

「……」

 イシュルも顔つきを改めると無言で頷いた。

「ご配慮いただき、ありがとうございます」

「ん? いや、ここの秘密を守るのは元からわしの役目じゃからの。お主は気にせんでよい。そなたをこの秘密庫に入れたのも、そなたの人となりを検分してのことだ。……だが一方で、そなたにはどうしてもわからない、何か得体の知れぬものも感じるがの」

 ピアーシュの、イシュルに向けられた眸がわずかに細められる。

「……」

 イシュルはただ無言で苦笑を浮かべた。

 得体の知れないもの、か。

 それはあんただけじゃない、この世界の誰にもわからないよ。

 イシュルは視線を、机の上に並べられた巻紙に落とした。

「どれでも良い、お主も読んでみるがいい」

 ビアーシュは机の上に置かれた巻紙を前に、両手をかるく広げた。

 老人の眸に探るような色が映る。

「では」

 イシュルは巻紙のひとつを取り上げ、目の前に広げた。

 ……古い、霞んだ字。

 何年前かはわからない。或る年の春の二月(五月)、宮廷魔導師のルヴィン・アウリーンがエレミアーシュ文庫にてレーネの回顧録を閲覧、不審死したとある。風の魔導師であるルヴィン・アウリーンは、前年より王家に同文庫の閲覧を願い出ていた。

「ルヴィン・アウリーンはわしの記憶が確かなら、ベルシュ男爵の弟子だった者じゃの」

「なるほど……そうですか」

 この風の魔導師は師の突然の引退の理由を知りたかった、ということになるのだろうか……。

 巻紙は報告者の名前も、誰に宛てた者かも書かれていない。レーネの引退後、何年か後とするなら、この書付けは八〜九十年くらい昔のもの、ということになる。

 イシュルは他の書付けも見たが内容はほぼ同じ、宮廷魔導師が王家より閲覧許可を得、レーネの回顧録を読もうとして死んでいる。

 この魔導師らが死んだ時の状況、レーネの回顧録にどんな魔法が仕掛けられていたか、具体的なことは何も書かれていない。

 イシュルがその件をピアーシュに質問すると、老人も「書付けに書かれている以上のことはわからない」と答えた。

「この三つの巻紙は、当時の王家のどなたかの日記か備忘録だったものだろう。その方の死後にでも抜き取られ、別にされたのだろう。あるいは当時の執政か、“髭”の小頭(こがしら)あたりの書き記したものかもしれん。エレミアーシュ王の文庫で起きた事件じゃからの。詳しい記録を残すのが憚れたんじゃろう」

「そうでしょうね」

 これらの巻紙を書いたのが王家の者なら、その人の日記の本体、書付けなど主要なものは、王家書庫に正規の記録として保存されている筈である。

「だがこれは重要な記録じゃ。当時の王家の気鋭の魔導師が皆、なすすべもなく死んでおるのだからな。そなたも用心せい。……いや、無理して調べる必要はなかろう。わしはやめてもいいと思うがの」

「いえ、一応は調べないと」

 イシュルは微笑を浮かべて老人を見下ろす。

 その微笑からは、レーネの回顧録をまったく恐れていないことがうかがえた。

 ピアーシュは小さくため息を吐くと続けて言った。

「ベルシュ男爵の回顧録は罠のようなものじゃ。己の秘密を探る者にはもれなく死を与える、己に近づく者を排除するために仕掛けられた罠、なのじゃ」

「そうですね。……しかし」

 イシュルは顎に手をやり言った。

「そこまでしてレーネの隠したかったものは何でしょう?」

 老人はイシュルの質問に、ただ「知らん」としか答えなかった。



 その後、イシュルはピアーシュに厚く礼を述べると、秘密書庫を後にした。

 部屋から出た時は見張りをしていたのか、同じ書記の青年が出入り口の前で待っていた。

 イシュルはその男にも礼を述べると執務室から外に出た。

 外の廊下には窓横の柱に背を預け、リフィアがひとり立っていた。

 彼女は胸の間で両腕を組み、やや顔を俯け難しい顔をしてイシュルを見つめてきた。

「早いな、リフィア。おはよう」

「……」

 リフィアはイシュルの挨拶を流し、詰問口調で言ってきた。

「編纂室長に呼ばれたのか?」

「ああ」

「例の件か? ……イヴェダの剣の回顧録」

 リフィアの視線が鋭い。

 ……おまえは心配性だな。

「ここじゃなんだから、国史閲覧室で話そう」

 イシュルは右手の親指を立ててリフィアを誘い、国史閲覧室に向かった。

 閲覧室にはまだ誰もいなかった。

 手頃な椅子に座り、リフィアと机を挟んで向き合うと、彼女は一瞬、上目遣いに心配そうな、縋るような眸を向けてきた。

「編纂室長はなんと?」

「過去、レーネの回顧録を見ようとして、少なくとも三人の宮廷魔導師が死んでいる」

「なんだと……」

 リフィアの眸が大きく見開かれた。

 イシュルは秘密書庫であったことをリフィアに話した。

 ビアーシュには口止めされたが、イシュルは彼女らに秘密にするつもりはなかった。

「……とんでもない話だ。その、ルヴィン・アウリーンという人の名はどこかで聞いた憶えがある。多分名のある、相当力のあった宮廷魔導師だぞ。……危険だ、イシュル。レーネ男爵の回顧録にかかわるのは、止めておいた方がいいんじゃないか」

「そうだがな」

「おそらく、当時の宮廷では噂になった筈だ。引退したレーネ男爵は、王家との関わりを拒絶したのだ」

「そうだろうな。俺も子供の頃、森の魔女は誰とも会わない、特によそ者とは絶対会おうとしなかった、みたいなことを聞いた憶えがある。村の子どもたちは、あの婆さんのいる森に入るのを禁じられていた」

 レーネはベルシュ村の森の奥に隠棲した後、王都から来た貴族や魔導師、市井の魔法使いらとも一切会おうとしなかった。

 そのうち、長い年月が過ぎるとともに、レーネに会おうとする者は誰もいなくなった。やがて彼女の存在は、人々の記憶から忘れ去られることになった。

「レーネはマレフィオアの、神の欠片の呪いを受けた。だから隠棲し、二度と世に出てこなかった。それでいいじゃないか」

 ……リフィアはそんな忘れ去られた存在、もうこの世にいない存在に係るなと言っている。

 意味はないと、レーネの秘密を知る必要はないと。

 神の呪いなど知る必要はないと。

「そうはいかない。神の呪いなんてものがあるのなら、知らずにいられない。……あの老婆が宮廷魔導師の実力者でさえ屠る罠を仕掛けたことが、何か大きな秘密を抱えていた何よりの証拠だ。俺はあの回顧録の中身を確認しなければならない。たとえその呪いのことが何も書かれていなくても、神の呪いなんてなかったとしても」

 かつて俺に見せた、あの老婆の執念を見極めなければならない。

「心配なんだ、イシュル」

 リフィアの硬い表情が崩れていく。

 肩をすぼめ、大きく見開かれた眸が揺れる。

 とうとうリフィアが本心をあらわにした。

「大丈夫さ、リフィア。俺は絶対、レーネに負けない」

 あの老婆に、あの何かの怨念に、殺されそうになった記憶が蘇ってくる。

 白い蛇。蛇の顎から出てきた剣。

 奴の死体から吹き上がった魔力。

 ……森の魔女の執念も怨念も、すべては俺が引き受けるべきだろう。

 なぜなら今は、俺が風の魔法具の所有者だからだ。

 イシュルは両手を伸ばし、机の上に置かれたリフィアの手を握った。

「ふふ、……な?」

 そしてイシュルは少しおどけた感じで、リフィアに笑顔を向けた。

「……」

 彼女の表情が、少しだけ和らぐ。

 イシュルの笑みも大きくなった。

 だがその裏で、心の中を緊張が広がり、同時に気迫が盛り上がっていくのがわかった。

 レーネの回顧録がなんであろうと、俺は負けない。

 俺は今はもう、レーネの知らないことを知っている。

 ……風の魔法のことも。




 

「いいか。絶対手を出すなよ」

 場所は王家書庫の並ぶ回廊の入り口。

 イシュルはミラ、ニナ、マーヤ、そしてやや不服そうな顔をしているリフィアを順に見回し言った。

「きみらが乱入してくると大事になる。……エレミアーシュだけじゃない。他の王家書庫も全損、なんてことになったら、俺はもう王国にいられなくなる。きみらもだぞ」

「乱入とはなんだ。乱入とは」

 リフィアの機嫌の悪そうな声が響く。

「わかりましたわ。わたくしはイシュルさまを信じています」

「くっ……」

 ミラの言にリフィアは苦虫を噛み潰したような顔になって、「ふん!」と顔を横に逸らした。

 ニナは苦笑している。

「気をつけて、イシュル」

 マーヤがイシュルに向かって一歩踏み出し、心配そうな声で言ってきた。

 いつもの平坦な口調ではない。

「大丈夫。ネルを支援につけるから」

 イシュルはマーヤに微笑むと続けて言った。

「半刻経っても俺が戻って来ない場合、文庫から火が出たり、明らかな異変が起きない限り」

 イシュルは厳しい顔になってリフィアに顔を向けた。

「エレミアーシュ文庫に近づくな」

「……」

 リフィアは唇を尖らしたまま、不承不承頷いた。

「じゃあな。行ってくる。すぐ戻ってくる」

 イシュルは最後にマーヤに顔を寄せ、囁くように言った。

「ソニエのこと、決着をつけてくる。おまえの分もだ。俺なりにやってみるよ」

 ……マーヤのために。そしてもしかしたら、あの女司書のために。

 イシュルは皆に背を向け、回廊を奥へ向かって歩き出した。



 ブノワによるクラース・ルハルドの遺稿閲覧はその後三日間続き、無事終了した。

 彼はルハルドの遺稿の要旨をまとめると翌日、王都を発ちノストールへ帰って行った。春先に再び王城に寄り、アンティラに増派される騎士団と合流し、北辺の地に向かうことになっている。

 イシュルは、ブノワの用事が済むまでレーネの回顧録閲覧を伸ばし、彼が王都を発った翌日、ひとりでエレミアーシュ文庫に向かった。

 リフィアたち、それからソニエの関係者であるマーヤも文庫に近寄るのを禁じた。

 レーネの回顧録にどんな仕掛けがあるか、秘密書庫でビアーシュが見つけた昔の書付けでは詳しい記述がなく、推理することさえ不可能に思えた。

 だが、派手な魔法が使われた場合、文庫の建物や立ち会った司書にも被害が及んだ筈で、いくら簡単なメモ程度であっても、その被害に関する記述がまったくないのは不自然に思われた。

 おそらく回顧録を手に取った者だけに、ごく限られた範囲で濃密な風獄陣を展開、その者に対処する間を与えず一気に、風獄陣の魔力ですり潰したのではないだろうか。

 それならリフィアたちを離す必要はないのだが、回顧録にレーネがどんな魔法を仕掛けたか、それを風獄陣だと断定することは当然できない。

 一方で何か、とても危険な魔法がかけられている嫌な予感もある。

 そしてさらに、レーネの回顧録の魔法を破りその中身を確認した後、エレミアーシュ文庫でどうしても、やりたいことがあった。それはあるいは今日になるかもしれなかった。

 レーネの回顧録には、地下神殿であったことは書かれていない可能性が高い。それならほかに興味をひくようなものはなく、時間をかけて読み込む必要はなかった。

 ……俺がエレミアーシュ文庫で、ソニエに対してやろうとしていること。

 それは誰にも邪魔されたくなかった。リフィアたちに関わらせたくなかった。

「ネル。今回もよろしく頼む」

 回廊は相変わらず人気がない。イシュルのあるく靴音だけが辺りに響いている。

 今日は薄曇りで、時折冷たい横風が回廊を吹き流れる。

 ……かしこまりました、剣さま。

 ネルの柔らかい声が微かに心のうちを流れていく。

 彼女には前回、クラース・ルハルドの遺稿を封じ込めた時と同じ指示を出してある。

 魔封陣が発動した場合など、それを外側から破壊できるよう、文庫の建物の上空に待機することになっている。

 金の精霊の召喚は考えていない。対象は小さく場は狭い。金の精霊の攻防力をそれほど必要とは考えていなかった。

 ほんの微かなネルの気配も再び完全に消え去り、行く手に石積みの小さな館が見えてきた。

 イシュルはエレミアーシュ文庫の前に立った。

「この扉の前の醜い処刑台も、今日で用無しだ」

 ひとり、呟く声が風の中に消えていく。

 イシュルは扉を開けて中に入った。

「ごきげんよう、イシュルさま」 

 閲覧室ではいつも通り、ソニエが微笑んでいた。

 いや、いつもよりその笑みは晴れやかで、同時に歪んでいた。

「やっとだな」

 イシュルは思わず苦笑を漏らすと言った。

「では早速、レーネの回顧録を見せてもらおうか」

「かしこまりました」

 ソニエは丁寧にお辞儀をすると書架の影に消え、すぐに茶色の革の表紙の本を持ってきた。

「どうぞ。こちらでございます」

 目の前に差し出された本は先日、「レーネ・ベルシュ男爵の回顧録です」と差し出されたものと同じだ。

「ありがとう、ソニエ」

 イシュルはなぜか大きく笑みを浮かべ、女司書からレーネの回顧録を受け取った。

 ソニエが数歩、後ろへ下がる。

 ……この、指先から絡みついてくる感覚……。

 間違いない。何か、魔法がかけられている。

 窓から差し込む冬の陽が、文庫の室内の奥底にむしろ深い陰影を刻みつけている。

 何度通ったか。いつもと変わらない、静寂に覆われた小さな書庫。

 手に持っただけでは何の魔力か、魔法陣か、それとも他のものか、わからない。

 イシュルはレーネの回顧録を開いた。

 何気に、真ん中あたりの項を開く。

「……?」

 紙面いっぱいに綴られた文字の羅列が、目に飛び込んでくる。

 イシュルは呆然とその字面を追った。

 ……なんだこの字は? 読めない。意味がわからない。

 古代神聖文字か? ……いや、今まで見たことがない文字だ。

「!!」

 するとその文字列が紙の上を動き出した。渦を巻くように、右の項の中心に集まってくる。

 文字は寄り集まり、重なりながら、何かの魔法陣を形づくっていく。

「……くっ」

 まずい。からだが……。

 動かない。もう魔法が発動されている。

 目の前で、紙の上を文字が流れていく。イシュルに為すすべはなかった。

「……!」

 魔方陣が完成した。



 一瞬の闇。

 頭上から薄く、くすんだ光が差し込んでくる。

 奥は、足下はすべて硬質の物質で覆われている。

 小さな広場のような場所に立っていた。

 周りは無数の大きな何かの結晶、ガラスの塊のようなものが折り重なり、突き立っている。

「これは……」

 イシュルは辺りを何度も見回した。

 手元からレーネの回顧録が消えている。

 何かの結界……。

 太陽神の座で飛ばされたあの結界、主神ヘレスの結界でも、魔法具屋の店主、チェリアの背負った闇の結界でもない。同じような、だがまったく違う結界。

 イシュル以外には誰もいない。

「うん?」

 その時、頭上の遥か彼方から、全身を震わす衝撃と音が降ってきた。

 閉じた世界全体が揺れ、どこか遠くの方で大きなガラスの、結晶の割れて崩れ落ちる音が聞こえてくる。

「ネルか……」

 イシュルは本能的に、その衝撃が結界の外にいるネルレランケによるものだと悟った。

 ……ネルがこの結界を壊そうと、どんな魔法かしらないが、攻撃を加えているんだ……。

 だがこの不思議な、不可解な結界はかなり堅牢なようだ。彼女でも破壊するには時間がかかるかもしれない。

「さて、あまり気は進まないがやってみるか」

 この結界は魔封陣ではない。それも感覚的にわかる。

 なら、こちらで魔法を使って力づくで壊してやろうか。だが、その結果外の元の世界、エレミアーシュ文庫に被害が及ぶかもしれない。ソニエも死んでしまうかもしれない……。

 イシュルは周囲をもう一度見渡した。

 周囲の結晶の柱、板は何かを映し出し反射して、複雑な像を浮かび上がらせている。

 その間に影となって沈む闇、その淵はくすんだ緑色を帯びて薄くぼんやり輝いている。

 ……ここはまず風の魔力からか。

 やはり空間に大きな力を及ぼすのは風の魔力だ。

 イシュルは気合を込め、半歩、前へ踏み出した。 

 すると正面、十長歩(スカル、約6.5m)ほどの距離にある結晶板がきらりと光った。

 そしてその奥の闇が揺らいで、周りの像を映す新たな結晶が現れた。

 くっ……。

 イシュルはそこに映し出された像を見て、声にならない叫びを上げた。

「これは結晶でもガラスでもない……」

「……そうだ。鏡だ。ここは鏡の結界だ」

 突然、その像に映し出された人物が喋った。

「おまえ……」

 イシュルは顔面を蒼白にしてその男を見つめる。

 もうひとりの自分を。鏡に映った自分の像を。

「これは、精霊神の結界……」

  “鏡の結界”なら、それが何の魔法か自明の理だ。鏡が大好きな神がいる。

 イシュルの分身が鏡の中で笑みを浮かべた。

「ご名答」

 そしてその男は鏡の中からぬっと、外に出てきた。

 何の抵抗もなく、何の音もなく、どこかの部屋から出てくるようにすっと出てきた。

「この結界から出るには」

 もうひとりのイシュル、イシュルの分身が言った。

「この結界を壊すには、俺と戦って勝つ必要がある」

「……」

 イシュルは無言で己の分身、左右の反転された己の像を見つめた。

 全身から汗が噴き出す。

 全身を恐怖が駆け巡る。

 ……俺は、俺自身と戦わなきゃいけないのか。

「なるほど、宮廷魔導師の実力者が立て続けに死んだのも、頷ける」

 イシュルは震え出そうとする己のからだを、心を必死に押さえつけた。

 自分自身と戦うのなら、大抵は引き分けになるだろうか。それはつまり己の分身だけでなく、自分も死んでしまう、ということだ。

 ……レーネめ。風の魔法を使わなかったのか。精霊神の魔法具を仕掛けていたのか。

「それじゃあ、早速はじめようか」

 イシュルの分身は歪んだ笑みを浮かべると言った。

「だが気をつけろよ。ここで魔法を使うと、すべてが反射して己に返ってくるぞ」

 その男は一歩前に踏み出し、両手の拳に力を込めた。

 その時、再び頭上から先ほどと同じ衝撃が降ってきた。

 周囲の無数の鏡が高く低く、異様な音を立てて振動する。

「おお、凄い。外に精霊がいるのか」

 その分身は天を仰ぐとイシュルに微笑んだ。

「恐ろしい精霊だな。だがこのままだとまずいぞ? 外からこの結界を攻撃しても、やはり魔力が跳ね返され、反射して、攻撃した者に返っていく」

「なんだと」

 イシュルの顔が厳しく歪められる。

 まずい。このままだとネルが……。

 この結界は外側も反射するというのか。

「じゃあ、急ごうか。さっさと勝負をつけることにしよう」

 自分の分身が笑った。獰猛な笑みだった。

 その者から清明で力に溢れ、底の知れない魔力が迸る。

 と同時に、イシュルの頭上に数条の魔力の閃光が走った。全てを切り裂くような、先鋭な光の楔が複数、宙に浮かぶ。金の魔法だ。その周囲を風の魔力が渦を巻きはじめる。

 ……これが俺の魔法……。

 これが神の魔法具の力。

 これはただの魔法じゃない。次元が違う。俺はこんな魔法を使っていたのか。

 皆が驚き、恐れるのも当然だ。

「くっ」

 ……恐れるな。

 勝機はある。

 イシュルは勇気を振り絞って己に言い聞かせた。

 胸に拳を当てる。

 この、俺の分身にできないことが俺にはできる。

 ただ一つだけ。精霊神の鏡にも映らない、真似できないものがある。

「よし、来い!」

 イシュルはその追い詰められ、硬直した顔に不敵な笑みを浮かべた。

 俺は間違っていない、筈だ。

 この剣にすべてを賭ける。

 もうひとりの自分、敵側の風の魔法が唸りをあげた。周囲の無数の鏡が揺れ、甲高い音が幾重にも鳴り響く。

 頭上に浮く半分魔力、半分鋼鉄でできた六本の楔の輝きが増す。

 イシュルは己の意志を天高く、精霊の異界を超え、その先の神の領域へと突き上げた。

 灼熱に瞬く楔が降ってくる。

「我は風の剣なり」

 胸に握った拳を天に掲げる。

 青い光芒が鏡の結界を貫いた。

 イシュルに突き刺さろうとしていた巨大な楔が消えていく。

 結界を渦巻く風の魔力が霧散していく。

「ふふ、……俺の負けか」

 イシュルの分身が笑った。その顔に亀裂が走った。

 その像が四散する。周囲の鏡もすべて割れ、細かな破片となって世界を覆った。

 鋭角な光の渦はやがて歪み、薄れ、虹色に輝くたくさんの花びらとなって舞い、霞んで消えていった。



 気づくとそのまま、文庫の床に立っていた。

 変わらぬ匂い。古い書物の匂い。

 辺りの静寂。

 右手にはレーネの回顧録が広げられている。

 目を下ろすと、魔法陣の真ん中に大きな穴が空いていた。ふちが焼け焦げ、こぶし大の穴が空いている。

 不思議なことにその下の紙面、次項には傷ひとつ、ついていなかった。

「剣さま!」

 背後にネルが姿を現わす。

 振り向くとネルは全身、細かく衣服が切り裂かれ、唇からは血が流れていた。

「大丈夫か?」

「はい。剣さまが帰還されたのなら、わたしの傷はすぐ治ります」

「ああ」

 イシュルはネルに微笑むとすぐに前を向いた。

 その短い会話の間にも、ネルの傷はそれとわかる早さで治っていた。

 彼女には風の魔法具からも魔力が供給されている。俺が戻ってきたのなら、もう何も心配する必要はないだろう。

「あっ、あ、あ……」

 イシュルの正面にはソニエが全身を震わせ、何事か呻いていた。

「ふふ」

 イシュルは小さく笑うと呆然と佇むソニエを見つめた。

「その様子だと、お前はレーネの回顧録の中身が何だったのか、知っていたようだな」

 レーネの回顧録の正体が何か、それはエレミアーシュ文庫の代々の司書に、延々と伝承されてきた筈だ。

 王家書庫の司書はどの本に王封がしてあるか、どんな魔法が仕掛けてあるか、当然みな把握している。ソニエは、レーネの回顧録が精霊神の魔法具そのものであることを、知っていた可能性が高い。その中身にレーネ自身のことなど、何も記述されていないのを以前から知っていたに違いない。

 ソニエは一度、レーネの回顧録を読んだ風なことを言っていた。それは嘘だったことになる。

 ……これは仕組まれた罠なのだ。

 ピアーシュやリフィアたちも、そして俺も、予想していたとおりだった。

 レーネは、自分を探ろうとする者を排除するために、精霊神の結界魔法陣の描かれた本を、いや、精霊神の魔法具そのものを己の回顧録と偽り、罠を仕掛けたのだ。

 本の中身は判読不能の文字で埋められた意味のないもの、かわりに発動する結界魔法は人を喰った、だが凶悪きわまりないものだった。

 鏡の結界に囚われたら最後、己の分身と戦い、勝たなければ外に出ることはできない。結界の内側では投射型の攻撃魔法はすべて反射され、己に返ってくる。

 だが俺は他とは隔絶した風の剣の力で、あえて自分の分身とは戦わず、結界を壊すことに専念した。

 俺の分身を風の剣で刺したら、やつが死んだら、結界が開いても俺自身が死んでしまうような、嫌な予感がしたからだ。

 精霊神の魔法、魔法具には必ず何か、使用者や対象者を陥れる罠が、欠陥が存在する。すんなり使わせてもらえない、すんなり勝たせてもらえないわけだ。

 これで、やつの仕掛けた罠を切り抜けることはできたが……。

 結局、レーネとマレフィオアの戦闘で何があったか、神の呪いのことも、何も明らかにはならなかった。

「ん?」 

 ふと気配を感じて下を見ると、穴の空いたページの周りを再び文字が流れ動き、寄り集まっていた。

 穴が少しずつ修復され、再び同じ魔法陣が描かれていく。

 ……くっ。

 イシュルは思わず本を閉じた。

 そして他の項を開く。

 その項もすぐに文字が紙面を動きはじめ、右ページに魔法陣を描きはじめる。

 イシュルは再び本を閉じ、もう一度他の項を開いた。そのページでも同じことが起こった。

「……!!」

 イシュルの後ろで、殺気が盛り上がる。

「やめろ、ネル」

 イシュルは左手を上げてネルレランケを制止した。

「これは精霊神アプロシウスの魔法具です。こんな屑のようなもの……」

「……」

 イシュルはネルに振り向き、笑みをつくって頷いてみせた。彼女を落ち着かせ、安心させた。

 そしてすぐ前へ振り向き、ソニエに言った。

「残念だったな。この罠を破ったのは俺が最初かな?」

「ううっ……」

 ソニエは恐怖と怒りに、言葉にならない唸り声をあげた。

「そして、俺が最後になる」

 イシュルはそう言うと、手にあるレーネの回顧録を風の魔法で切り刻んだ。

 細かな無数の紙片が閲覧室を舞い散る。

 その紙片の中に微かな魔力の光が煌めくと、精霊神の魔法具はただの紙屑になった。

「な、なっ」

 ソニエは今度は驚愕に、唖然とした顔になった。

 血走った眸がこれでもかと見開かれる。

「俺は精霊神の魔法具が嫌いなんだ」

 結界を破っても何度でも修復され、どの項を開いても描き出される精霊神の結界魔法陣。

 ……永久に繰り返される魔法。永久に繰り返される文字の羅列。

 無数の魔方陣、無数の文言、無数の聖句。

 それは手のひらにすくった砂、こぼれ落ちる砂粒と同じで、人間の認識と記憶の領域を超えた、なんの意味もなさないものなのだ。

 実は俺は、精霊神の皮肉をそれほど嫌っているわけではない。だが己が関わるのなら話は別だ。

 奴の皮肉に、悪戯に付き合ってなどいられない。

 だから俺は、レーネの回顧録を書架に戻すことはしない。こんな書物のまがい物は粉砕して、この世からなくしてやるのだ。

「そ、そんな。なんてことを……」

 ソニエは震えながら、振り絞るように声を出した。

「あ、あなたは王家の書庫を……」

「ん? どうかしたか? 俺が、俺の一族の者 の書物を処分してはまずかったかな」

 イシュルは口角を引き上げソニエに言った。確信犯の笑みだった。

「ああ、ここはエレミアーシュ文庫だったな。俺はエレミアーシュ王の貴重な蔵書を一冊、駄目にしてしまったわけだ。これは死刑もんだな?」

 イシュルは笑みを消してソニエを睨みつけた。

「だが、まだこれで終わらない」

 イシュルの眉が引き上げられ、眸が細められる。

 彼の面上に決意の色が浮かんだ。

「俺はレーネの回顧録も、エレミアーシュの王封もすべてを粉砕する。この書庫の頸木を、百年の頸木を取り払う」 

 周囲を風の魔力が吹き上がる。

「ネル」

 イシュルは前を向いたまま、後ろのネルに命じた。

「この書庫全体に風獄陣を敷け」

 そしてイシュルはゆっくりと右手を前に突き出した。

「そしてすべての書物を書架から引き出すのだ」

「はい、剣さま」

 背後からネルの喜びの声が上がった。

 文庫を丸ごと、青白く光る風の魔力が覆っていく。

 書架がかたかたと鳴り、青く光る空間に書物が次々と吐き出され、宙に浮く。

 閲覧室の奥まで、天井にまで数百冊の本が、水平垂直に並んだ。

 そして背を下に向け、一斉にページがめくられていく。

 その中の幾つかの本から魔力が立ち上った。

 ある魔力は闇の精霊の召喚魔法、ある魔力は本を見た者の目を潰す土の、石飛礫の魔法。

 ある魔力は見る者の首を吹き飛ばす風の魔法。

 ある魔力は読む者を二度と目覚めることのない眠りに誘う、眠りの魔法……。

 すべての魔法が風獄陣の中で押しつぶされ、発動するまで至らない。

 イシュルは金の魔力を引き込み、鋭利な剃刀のように使って、魔法を発動した書物の項を、紙面の上を薄く丹念に削り、焼き潰していく。

 青い空間を雑多な魔法が煌めき、輝こうとしては消えていく。

「あ、あっ」

 ソニエは風獄陣の中に囚われ、からだを動かすことができない。

 後ろを振り返ることもできず、イシュルに向かってただひたすら、呻き声を上げることしかできない。

 イシュルは故意に、彼女がかつて見せてきた、嗜虐の笑みをソニエに向けた。

 やがてすべての書物から魔法の気配が消えた。

 周りはただ、青白く光る風の魔力が静かに循環しているだけだ。

 ……終わった。もうこの書庫に、魔法の書は存在しない。

「本をしまってくれ」

 イシュルは面上から笑みを消して、ネルに小さな声で言った。 


 

 見た目は何も変わらない、文庫の一室。

 ソニエが床に崩れ落ち、憎しみを込めた眸で見上げてくる。

「おまえはカピーノ・ギルレが悪霊に殺された時、笑っていたろう」

 イシュルはその憎悪の視線を正面から受け止め、低い声で言った。

「そんなに楽しかったか? 嬉しかったか?」

 この少女の歪んだものは何だろう。

 ペトラの乳母になれなかった、権勢を握れなかった両親から刷り込まれたのだろうか。

 本人が生来から持ち合わせていたものだろうか。

「もうこの文庫に魔法はない。あるのは王家の掟だけだ。おまえの嗜虐を満たすものは何もない。おまえは何の力も持たない。力があると錯覚することさえできない」

 この文庫の王封も、レーネの罠も、決してソニエのものではないのだ。

「あ、あなたは何をしたか、……どれほどの罪を犯したか、わかっているの?」

 ソニエは全身を震わせながら立ち上がり、それでもイシュルに従前どおりの笑みを向けた。

 彼女はまだ屈服していなかった。

「先ほどあなたは自分から言ったでしょ? エレミアーシュ王の書庫の封を、すべて勝手に取り除くなんて、ただの死刑ではすまないわ」

 ソニエはその眸をいつかのようにぎらつかせ、楽しそうに言った。

「ああ、そうだな」

 イシュルは素直にひとつ、頷いた。そして片手を上げ、ひらひらと振ってみせた。

「で、それがどうかしたか? 王家が俺を罪人にする。確かにそれはできるだろう。だがこの世で誰が」

 イシュルはソニエと同じ嗜虐の、いやまったく違う、挑むような笑みを浮かべた。

「いったい誰が、俺を罰することができる? いったい誰が俺を捉え、死刑台に立たせることができるんだ?」

「はっ……」

 ソニエの顔が一瞬で真っ白になり、凍りつく。

「俺を力づくで従えさせる者など、この世に存在しない。俺の怒りを買って生きながらえる者など、この世に存在しない。……俺がその気になれば」

 イシュルはそこで一旦言葉を切り、間を空けた。

「この大陸全土を、焦土と化すこともできるのに」

 彼女の眸から光が消えていく。

 イシュルのそのひと言が、ソニエを徹底的に打ちのめした。

 彼女の望んだもの、欲したもの。

 それを手にする者がすぐ目の前にいた。それは彼女ではなかった。

 ……俺を罰する者、俺を屈服させることができる者。

 それは彼らしかいない。神々しかいない。

 イシュルは笑みを消し、人形のように生気のないソニエの顔を、無感動に見つめた。

 そこへ閲覧室の奥の扉が開かれ、ソニエより四、五歳ほど下の、まだ子供の面影を残した少女が現れた。

 ソニエと同じ神官風の服装。短く刈られた髪の毛。真っ白な透き通るような肌。大きな青い眸。

 ……表情のない顔。

「この文庫の司書見習いの者です」

 その少女はソニエの後ろに立ち、か細い声で言った。

「……」

 イシュルは無言で頷いた。

 ソニエは何の反応も見せない。

「……パピーク司書も、罪に問われるでしょうか」

 少女は表情のないまま、平坦な声音で言った。

「こいつに直接の罪はない。だがこんなことが起きた一方の当事者で、この文庫の管理者である以上、何もお咎めなしでは済まないな」 

 はっきり言って、ソニエも死刑になる確率は高い。

 この文庫の王封はすべてなくなったのだ。俺の暴虐を彼女は防げなかった。

「……」

 見習いの少女は頷くと、イシュルに頭を下げてきた。

「どうかこの者にご慈悲を」

 イシュルは呆然とその少女を見つめた。

 この子もいろいろ、曰くあり気だな……。

 そしてこの少女はソニエを別に、嫌ってはいないようだ。

「わかった。ヘンリクには俺の方で、この司書の助命を嘆願しておこう」

「ありがとうございます」

 少女はイシュルに頭を下げた。

「ぬっ……」

 そこでソニエがはじめて反応を示した。

 イシュルの顔を見、見習いの少女の顔を見、またイシュルに顔を向けた。

「マーヤはおまえの死を望んでいない。彼女はおまえを許そうとさえしていた。葛藤していた」

 ソニエは両目を見開きただ呆然とイシュルを、いや、何か違うものを見ていた。

 イシュルはソニエに、最後の言葉を口にした。

「マーヤに感謝するんだな。……おまえはこの小さな、何の力もない書庫で静かに暮らせばいい。もう、おまえの心を乱すものは何もないのだ」

 西日が不意に差し込み、少女たちの顔を紅く染め抜く。

 イシュルは背を向け、文庫を出ていった。



 文庫の外に出ると、すぐ目の前にリフィア、ミラ、ニナ、そしてマーヤがいた。

「風の結界魔法を使ったろう」

「風獄陣ですわね。とても美しい魔法でした」

「怪我はしてないですか? イシュルさん」

 イシュルに詰め寄り、リフィア、ミラ、ニナが立て続けに話しかけてくる。

 ……あの結界はネルがやったんだが。

 だが振り返るまでもない、風の精霊はもう姿を消している。

「中で何があった?」

 リフィアが横から言ってくる。

 イシュルは、リフィアに明るい笑みを向けて安心させると、ずっと無言のマーヤを見て言った。

「エレミアーシュ文庫の王封も、レーネの仕掛けた魔法も、すべて消し去った」

「!!」

 マーヤの眸が驚愕に見開かれる。

「な、に……」

「あ、あの、それ」

 リフィアとニナも驚きをあらわにする。

 王封をすべて無にするなど、前代未聞のことだろう。

 本来なら極刑は確実だ。

「まぁ、……それは」

 異国の者であるミラだけが、幾分暢気な口調だ。

 イシュルは文庫で起きたこと、自分のやったことを説明した。

「マーヤ。これでソニエの周りには魔法の力も無くなった。残るのは王家の法、だけだ。小さな書庫のありきたりな司書の務めだけ、王家書庫という牢獄の、囚人の務めだけだ」

 ……ソニエが手にしていたエレミアーシュ王の権威と、書物に込められた魔法。

 その魔法をすべて奪った。残ったのは百年前の王の、形ばかりの権威だけだ。

 イシュルは後ろを振り向き、エレミアーシュ文庫の扉を仰ぎ見た。

「後はあいつがこの境遇を受け入れられるか、それだけだ」

 もしソニエが耐えきれなかったら。その先には彼女自身の、破滅があるだけだ。

「この文庫に縛り付けられていても、日々の変化はある。朝夕、四季の移り変わりにも慰めはある。司書としての仕事だってある」

 イシュルはマーヤに向かって微笑んだ。

「うん」

 マーヤは頷くと、不意に涙を流した。

 ……ソニエの件で辛い思いをしてきたのはマーヤだ。

 ソニエを殺しても、許しても、結局はすべてを解決はできない。

 もう何もかも、すでに起こってしまったことだ。

 ソニエの母がペトラの乳母になれなかったことも、マーヤとソニエの試合も、カピーノ・ギルレの死も。

 だが、これでこの書庫で命を落とす者は、少なくとも理不尽な魔法で死ぬ者はいなくなる。

「あいつなんか、あれだけの本を管理するだけで三食昼寝つきだろ?」

 イシュルはマーヤの前にかがんで、彼女の涙を拭った。

「俺が代わってやりたいくらいだ」

「……うん」

 マーヤは泣きながら笑みを浮かべた。

 リフィアもミラも、ニナも、言った当人のイシュルも。みんなが朗らかな微笑を浮かべた。





 その日、イシュルは早速、編纂室長兼司書長のピアーシュ・イズリークの許に出向き、エレミアーシュ文庫で起きたことを、自分が何をしたか、説明した。

 ピアーシュは、レーネの回顧録の結界魔法を、イシュルが見事に打ち破ったところでは欣喜雀躍する風だったが、その書物を細切れにし、挙句文庫のすべての魔法の封印を取り除いた話になると、顔を真っ青にして恐慌をきたした。

 イシュルは最後に「国王陛下によろしくお伝えください」と言って、ソニエの助命嘆願と、おかしなことにピアーシュの責任を一切問わないことをヘンリク宛に言付けて、報告を終えた。

 イシュルは自室に戻りひとりになると、ネルを呼び出した。

「もうすっかり治ったみたいだな」

「はい、剣さま。ありがとうございます」

 ネルは可愛らしい微笑を浮かべて頷く。

 召喚した精霊が人間でもわかるような傷を負う、というのは今まで見た経験はない。

 もちろん魔力を通じての疲弊、というのはわかる場合もあるが。

 ネルがいったい、どこからどんな風にあの精霊神の結界を攻撃していたかは判然としない。彼女に聞いてみてもこの世と精霊の異界の中間だとか、要領を得ない答えしか返ってこないだろうし、どうしようもないのだが、よほど特殊な状況だったのはなんとなくわかる。

 対象が精霊神の魔法具だというのなら、何が起きても不思議ではない。

「今日はすまなかった。まさか自分の分身と戦うことになるとは……」

「でも剣さまには、イヴェダさまから直接伝授された風の剣があります。ご無事でよかったです」

「ありがとう。これからしばらくは荒事もないと思うが、引き続き頼む」

 ブレクタスの地下神殿では金の精霊も新たに召喚するだろうし、ネルも交代させるかもしれないが、しばらくは彼女を使っていこう。

 小技がうまく、でも地力もある。精霊らしくない細かい配慮もできる。

 とても使いやすい精霊だ。

「あの小さな書庫の司書、何の偶然かネルによく似ていたな」

 イシュルはぼんやりと室内の南の方、王家書庫のある方へ目を向けた。

「そうでしょうか? わたしはちっとも似ているとは思いませんが」

「……」

 ネルの浮いている方へ顔を向けると、彼女は顔を横向け唇を尖らしている。

 ネルは珍しく怒っていた。

「そうか」

 精霊には人間に見えないものも見えたりする。だから彼女にはソニエの姿はまた違って見えるのかもしれない。

 人間の目には映らないもの。それは彼女にはどんな風に見えているのだろうか。

 ……精霊神の鏡に映せなかった、神の御業、か。

 ソニエとネルはそっくりな外見でも、全く違った存在だ。

 それならそれはただのまやかし、二つの事象は相対さえしていなかった。

 因果なんかなかった。偶然でさえもなかった。

「すまなかった。ネルの方がよほど可愛らしいよ」

 イシュルはネルを見上げ、少し寂しげな顔をして言った。

 きっと俺に見えない姿でも、彼女は可憐な精霊なのだ

「……」

 ネルは顔をさらに逸らして、無言で姿を消した。

 もし色も見えたなら、彼女の頬が真っ赤になっていたのがわかったろう。

「ん?」

 ネルレランケの姿が消えると突然、部屋の中を風が吹いた。

 窓がかたかたと鳴り、寝室の扉が開いた。

 ……室内なのに、冬なのに。

 ネルが吹かせたのか。

 その不思議な風は清麗でほんのすこし暖かく、イシュルは春の晴れた日を想った。

 脳裏に浮かぶソニエの姿が吹き飛ばされ、どこかに消えていった。



 あくる日イシュルは、ヘンリクから今まで何度か彼と面会した、西宮にある彼の王子時代の屋敷に呼び出された。

 先日と同じ晩餐室には、ヘンリクにペトラとマーヤ、それにルースラとドミル、ピアーシュがいた。

 東側に並ぶ窓からはわずかに明るさを増した緑が見え、陽光が鋭角に差し込んでいた。

 今は昼前で、屋敷の中ではそこかしこに人々の動き回る気配がした。

 イシュルが空いている席に座ると、ヘンリクが開口一番、いささか情けない口調で言った。

「イシュル君……、またなんてことをしてくれたんだ。これは一体、わたしにどうしろと」

 ヘンリクは本当に泣きそうな顔でイシュルを見つめてきた。

 対してイシュルは、素早くペトラを横目に見た。

 ……これはだいぶ、ペトラにやられたな。

 俺にとってはありがたいことだが。

「父上っ」

「おじさま。イシュルは悪くない」

 と、すかさずペトラとマーヤに間に入ってきた。

 今回はマーヤも積極的だ。

「う、うむ」

 ヘンリクはそこで、咳払いをして背筋を伸ばした。

「イシュル君、先の連合王国で上げたきみの大功は無類のものだ。王国にとって何ものにも替え難い──」

「恐れながら陛下」

 イシュルは畏まって見せながらも、平然とヘンリクの言を遮った。

 ……どうせ、この男が今回の件を帳消しにするのはわかっている。俺を絶対敵に回したくないと、誰よりも強く思っているのは当の本人だろう。

 それよりも、この男は他のことを考えている。

「レーネの回顧録に関しての報告はもう、耳に入れましたか」

 今度はピアーシュを横目に見る。

 イシュルの視線に、編纂室長は小さく頷いた。

「うむ。大変だったな。さすがは神の魔法具の所有者。司書長から聞いた話では、レーネ男爵のあの書を手に取り、生還できたのはきみだけだそうだな」

「俺はあの後レーネの回顧録を、いや、精霊神の魔法具を粉砕しました。陛下も今はご存知の通り、己を探り、近づこうとする者を排除するため、レーネが自ら設置した罠でした」

 おまけにあの本にはレーネの回顧など、一文たりとも記されていなかった。

「……」

 ドミルの眸に、微かな揶揄を含んだ油断ならない色が浮かぶ。ルースラもだ。

 だがふたりは別に、イシュルに悪意を抱いているわけではない。

 この場の会話をむしろ、楽しんでいる風にも見えた。

「レーネ本人はもうすでに亡くなっています。この世にいない者の秘密を守るために、これから先も名のある魔導師の命が失われることになるのは、どう考えてもおかしい。彼女は宮廷魔導師長も長く務めた、かつて“王国の剣”と呼ばれた人だ。だが王家の者でも、長く続く大貴族の家系でもない。本人の死後も、有為の人材を失ってまで守る必要はないと考えます」 

「う、うむ……。だが」

「俺がエレミアーシュ文庫の封を一掃しようと決意したのは、レーネの回顧録が何の中身もない、ただいたずらに人命を消費するだけの魔法具だったからです。確かに歴代国王の権威は大切なものです。だがそのために、カピーノ・ギルレのような有為の人物の命が、たやすく失われるのはおかしい。王家の書庫はただ王家の法によってのみ、守られるべきです。これから先もいたずらに尊い人材が失われるのなら、それは国家にとって大きな損失だ」

 イシュルは畳み掛けるように自説を述べた。

 この時代では結局、受け入れられることはないであろう主張だ。

 王権とは、誰の命が失われようと、必ず守られなければならないものだ。魔法の神秘的な力は、王権を守護するのに必要不可欠なものだ。

 だが、それでもこのことは言いたかった。

「国家の損失、……ですか」

 ルースラが呟く。

「うむ。確かにきみの意見は傾聴に値する」

 ヘンリクはせわしなく、何度も頷いてみせた。

「イシュルの意見はもっともじゃ。この件は不問でよろしいかの、父上」

「うむ。ここはそなたの顔を立てるとしよう」

 ヘンリクは大きくひとつ頷き、重々しい口調で言った。

「! !」

 イシュルは表情を取り繕うのに苦労した。

 ……完全な予定調和だ。台本があるのか?

 予想はしていたが、あまりに露骨だ、酷すぎる……。

 イシュルが周りを見渡すと、マーヤがにやりと笑い、ペトラがない胸を張っていた。

 ルースラの口角が微かに震えていた。

 俺の言ったことは何だったのか。……まあ、いいけど。

「それで、イシュル殿には今回の件を不問にするかわりに、お願いしたいことがあるのです。もちろんそれは、あなたにとっても悪い話ではない」

 満を持してか、ルースラがヘンリクから進行を引き取り、代わりに話をはじめた。

 ……やはりこれか。ヘンリクが一番話したいこと。俺に呑ませたかった取り引き。

「イシュル殿は春にはブレクタスの地下神殿に赴くとのこと。その際ぜひ、我が王国からも人員、資材を提供したい。いや王家の者を同行させていただきたいのです」

 ……はいはい。

「マレフィオアとの一戦には、王家も出来うる限りの支援をします。そのかわり地下神殿で入手した魔法具については、王家に提供していただきたいのです」

「イシュル君、よろしく頼む。きみも知ってのとおり、今王家では魔導師がいない、魔法具が足りない。先の戦役で失われた戦力を少しでも早く、回復しなければならないのだ」

「……」

 イシュルはヘンリクに無言で頷いた。

 この話は先日、ペトラからすでに聞いている。

「おお、よかった。これで我が王国も安泰だな」

 ヘンリクが軽々しく、にこにこと頷いた。

 ……どのみちマレフィオアと戦うには、一定の人員資材が必要になる。ヘンリクの提案はこちらにも利がある。

 端からヘンリクやルースラは、俺がエレミアーシュ文庫でやったことを、今回の取引条件の材料に使うつもりだったのだろう。

 地下神殿の最奥まで潜れば、十や二十の魔法具は手に入るだろう。これは王家にとってもバカにできない数字だ。マレフィオアからは紅玉石とは別に、伝説級の魔法具さえ入手できるかもしれない。

「地下に潜るならわたしの出番だね。火の魔法は欠かせないよ」

 イシュルが少し憮然とした顔で考えていると、不意にマーヤの声がした。

「火魔法は闇夜を照らし、悪の精霊を焼き払う」

 火の魔導書の一節だろうか。

 マーヤはにっこりと、歌うように言った。



 国史の調査をさらに遡り続ける一方、ブレクタスの地下神殿調査、マレフィオア討伐の準備がはじまった。

 まだ王家側の人員は決まっていないが、イシュルたち一行は春の雪解けを待って王都を出発することになる。

 イシュルは国史閲覧室に通い、王都の市場に出向き、王城の南西にある練兵場でシュバルラード号に乗り、ランニングや魔法の修練を重ねた。

 そしてリフィアやニナらと約束した“デート”をこなした。

 そんなある日、イシュルはシエラに手紙を書いた。



 親愛なるシエラ

 

 きみからの手紙、とても嬉しかった。北線の雪積もる山塞で読みました。

 懐かしい気持ちでいっぱいになったよ。みんなも元気そうで本当に良かった。

 連合王国との戦いでは、シエラがまだ王都へ残っているのかと、とても心配でした。

 でもきみは危うく難を逃れたということで、ほっと一安心、胸をなでおろしました。

 そう、それから婚約、おめでとう。優しそうな人で良かったね。

 この手紙が届く頃にはもう、結婚しているかな? もしそうならどんなに喜ばしいことか。

 あなたの良き人にもよろしくお伝えください。

 俺の方は変わらず、元気にやっています。

 今は王都に滞在しているけど、春には某所に探検に赴くことになる。

 また厳しい戦いが待っているかもしれないけど、今度も必ず勝って、生き残ってみせる。

 俺には目指していることがあって、まだまだ故郷には帰れないけど、いつか必ず目的を達し、ベルシュ村に帰ろうと思っています。

 その時にはもちろん、エリスタールにも寄るよ。セヴィルさんたちにもよろしく。

 面倒をかけるけど、俺の消息はポーロさんにも知らせてください。村の復興、今しばらくお願いしますと。

 ではシエラ、またいつか会う日まで。

 どこにいても君の幸せを願っている。

 

 イシュル・ベルシュ 

 

 

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