百年の頸木 3
「これは……」
イシュルの前、机の上には数冊のラディス王国史が広げられていた。
ややくすんだ羊皮紙に書き綴られた文字の羅列。
直下にある王国史はエレミアーシュ王の時代のものだった。
ニナの言った、森の魔女レーネがブレクタス地下神殿に赴いた記録が書かれてあった。
何度目か、イシュルはその文面を目で追った。
エレミアーシュ王の治世十六年、王歴八三二年の夏の一月(七月)
ブレクタス地下神殿派遣隊は、予定より数旬遅れ王都に帰還す。生存者は宮廷魔導師二名、正騎士五名、従者他十二名。負傷者は一名、頭(かしら)のレーネ・ベルシュ男爵。他の魔導師五名、正騎士二名他は闘死せり。ベルシュ男爵唯一人のみ、地下神殿の最奥部にてマレフィオアと戦闘、結果負傷す。マレフィオアにおいてはこれに大打撃を与うるも、滅ぼすこと叶わず。ベルシュ男爵の傷未だ癒えず、委細を語らず。
横からリフィアが語りかけてくる。
「……これだけか。妙にあっさりしているな」
「……」
イシュルはリフィアの横顔を見て言った。
「文面どおり、この調査は失敗に終わったみたいだからな。レーネも百歳を超えていたろうし、だいぶ力が落ちていたんじゃないか」
……王家の編纂した国史である。当然、自らに都合の悪いことを詳しく書きたくはないだろう。
レーネに関しては風の魔法具持ちなのだから、百歳になってもあの化け物と戦える力はあったかもしれない。
「魔導師が五名死んでいますね。マレフィオアに遭遇する以前に魔物にやられたか……」
「……レーネ男爵とマレフィオアの戦闘に巻き込まれたか、か。並の魔導師ではマレフィオアと戦うのは無理だろうからな」
ミラの言をリフィアが受けて言った。
史書の文面にはその後に、戦果として「道中にて地龍二、大牙熊四。赤目狼、小悪鬼(コボルト)多数。地下神殿洞窟にて悪霊その他多数」、「戦利品として魔法具十二」とある。
「地下神殿にはやはり魔物が出るらしいな。それと戦利品というのは……」
イシュルは紙面のその一文を指差しながら、疑問を口にした。
「遥かな古代、荒神バルタルの神殿があったとされるブレクタスの地下神殿には、ウルク王朝の頃から、バルタルの残していった財宝が眠るとされていました。ウルクも、ラディス王国や他の国々も、そこに住み着いたとされる神々の敵、マレフィオアを討ち滅ぼすと称し魔導師を中心とした討伐隊を幾度となく派遣しています。マレフィオアを討滅した後、荒神の残した財宝を得ようとしたのかもしれません」
イシュルの疑問にミラが、厳かな口調で語りはじめた。
「時には名誉と一攫千金を夢見た賞金稼ぎや大商人らによって、聖堂教会の神官らによって強力な私兵団が組織され、同様に地下神殿を目指しました。ですが、私兵団も諸国の派遣した討伐隊も、マレフィオアを滅ぼすことができなかったのはご存知の通りです。彼らはことごとくマレフィオアの討伐に失敗し、地下神殿で、途中の洞窟で命を落としました」
一同の視線がミラに注がれる。
「ですからブレクタスの地下神殿には、斃れた魔導師や賞金稼ぎの持っていた魔法具や、名のある武具が眠っているのです。昔、ラディス王家が地下神殿に調査団や討伐隊を派遣していたのも、マレフィオア討滅だけでなく、地下に眠る彼らの残した魔法具や武具を回収し、王家のものとするのが目的だったのだと思います」
「なるほど。それで戦利品に、取得した魔法具の数が記されているわけか」
イシュルはそこで歪んだ笑みをのぼらせ言った。
……加えてマレフィオア自身が、魔法具の蒐集家なのだ……。
ただ神々の敵なだけではない。マレフィオアを滅ぼせばおそらく強力な、伝説の魔法具の類いも得られるだろう。事実、やつは紅玉石の片割れを持っている。
「王都までは聞こえてこないが、今もブレクタスの地下神殿に挑む、腕利きの賞金稼ぎのパーティはいるかと思う」
「そうなのか?」
イシュルの眸が見開かれる。
そしてきらきらと輝きだした。
……そんなこと、俺は知らなかった。それってつまりダンジョン、ってことじゃないか。一攫千金を夢見る冒険者たちが集まる……。
「あー、あの、イシュルさん……」
ニナが気まずい感じで声をかけてくる。
「ん、なに?」
イシュルはそのきらきらした眸をニナに向けた。
「あのな、イシュルは何か勘違いしてるんじゃないか。ブレクタスの地下神殿は別に、物語に出てくるような数多の宝物が眠る遺跡などではないと思うぞ。大陸中から賞金稼ぎやハンターらが集うような場所じゃない」
リフィアが横から口を出してきた。
彼女は「そんなに有名な場所だったら、以前からもっと広く知られていただろう?」と続けた。
「……」
イシュルは憮然とした顔になった。
……リフィアめ。
心のうちを、しっかり読まれていた。
「王家が調査団を派遣するような場所です。本当に実力のある賞金稼ぎのパーティーでないと、とても地下深くまでは行けませんわ。リフィアさんの言うとおり、知る人ぞ知る遺跡、といったところでしょう」
「そうか……。そうだよな」
リフィアとミラの言うことはもっともだ。
確かに、大陸中の賞金稼ぎやパーティが集まるダンジョンがあるのなら、以前から俺の耳にも聞こえていただろう。
……とにかく、これで森の魔女レーネとマレフィオアの繋がりが、はっきりしたわけだ。
そしてエレミアーシュ文庫もだ。あそこにはレーネの回顧録があった。
これでオベリーヌ公爵家の魔導師長、セムス・アレリード──かつてラディス王家の三傑と呼ばれた元宮廷魔導師──の言ったこと、「レーネの事蹟を知りたければ、王家のエレミアーシュ文庫を探れ」、つまりマレフィオアとレーネとエレミアーシュ文庫の三点が、完全に繋がったことになる。
ただ、その具体的な内容ははっきりとわからないが……。
目の前の国史には「(マレフィオアを)滅ぼすこと叶わず。ベルシュ男爵の傷は未だ完治せず、委細を語らず」としか書かれていない。
「委細を語らず、というのが気になるな。まぁ、ただ単にマレフィオアに敗北し負傷したから、レーネが話したがらなかった、と言うことなんだろうけど……」
「うむ……」
「そういうことなのでしょうね」
リフィアとミラが頷く。
「あ、あの」
そこで三人組では一番背の高い、ジェーヌが声をかけてきた。
「……」
イシュルがジェーヌに視線をやり、小さく頷いて見せると彼は続けて言った。
「レーネ男爵を団長とする調査団が派遣された後、ちょうど十年後に再び、ブレクタスの地下神殿に調査団が派遣されているけど……」
イシュルは机の上に広げられた右側にある国史に目をやった。
レーネの地下神殿行きの十年後、国王がエレミアーシュからヨハヌスの代に替わってから、再度調査団が編成され、同地に赴いている。この時は地下神殿でマレフィオアと遭遇したが戦闘は行わずすぐに退却、戦利品の魔法具を得て帰還している。魔導師から従者まで、十数名の死傷者が出たとある。
そのさらに十年後、正確には九年後にも同調査隊が派遣されたが、これは地下神殿の手前で引き返している。死者は出ずに済んだ。
「これはレーネ男爵がマレフィオアとの戦闘を詳しく話さなかったからだと思うんだ。だからヨハヌス王は財宝を得ると同時に、もう一度マレフィオアのことを調査しようと思い立った。……ヨハヌス王は、レーネ男爵がマレフィオアに勝てなかったことさえ、知らなかったかもしれない。それとも男爵が敗れたことを不審に思ったか……」
「ふっ」
イシュルはジェーヌに笑みを浮かべて言った。
「そうかもしれないな。三度目の派遣は、マレフィオア討伐は表向きの目的で、実は魔法具の収集が主目的だったのかもしれない」
「……」
ジェーヌは嬉しそうな顔になって頷いた。
……ちゃんと国史の“行間”を読めるようになってるじゃないか。その推察が正しいか、確証はないが。
イシュルは視線を彷徨わせた。
上の方に設けられた小窓から陽が差し込み、無数の小さな埃がふわふわと漂っているのが見えた。
「これはやはり、レーネの回顧録を読まなければならないな……」
「レーネの回顧録?」
小声で呟くように言ったイシュルにリフィアが反応する。
「ああ、それは──」
イシュルはミラとリフィアに呼び出される前、エレミアーシュ文庫であったことを話した。
「先代のイヴェダの剣の回顧録が……」
「き、危険な感じがします、その本」
リフィアが呟き、ニナが心配そうな顔をイシュルに向けてくる。
「大丈夫さ。レーネの魔法ぐらい、跳ね返してみせる」
イシュルがにっこり笑ってニナに答える。
「でもイシュルさま。イヴェダの剣のことは後でも構いませんでしょう? とりあえず、九十年ほど前まで、ブレクタスの地下神殿にマレフィオアが存在していたことがわかったのですから」
とミラ。
……彼女もニナと同じ、俺がレーネの回顧録を読むのを心配しているのかもしれない。
だがペトラの精霊、ウルオミラが言ったことが気になる。マレフィオアの不死性に関しても調べなければならない。レーネとマレフィオアの戦いがどんなものだったか、できればそれが知りたい。
国史にあるそっけない記述。おそらくレーネ本人だけでなく、時のラディス王家も彼女の敗北を表沙汰にしたくない、あまり他に知られたくはなかったのだろう。だから王が替わってから再び、調査隊が派遣されるようなことが起こったのだ。レーネとマレフィオアの戦闘、地下神殿の調査で起こったことの多くが、エレミアーシュ王の時代に隠蔽されたのではないだろうか。
だからペトラもマーヤも、おそらくヘンリクもレーネの地下神殿行きを知らなかった。
それなら残るはあの書物、レーネの回顧録を当たってみるしかない。
ただ、レーネも自身の回顧録にマレフィオアとの一件をどこまで書き残しているか、微妙なところだが……。
ミラたちにはウルオミラの言ったこと、たとえ俺でもマレフィオアを完全に滅ぼすことができないことを、まだ話していない。
あまり話したくないことだが、いつまでも彼女たちに秘密にしておくことはできない。後で話しておこう。
「……あ、ああ。八十年前の調査隊の記録にはマレフィオアの記述がないが、九十年前にはしっかり遭遇しているようだ。これは今も、ブレクタスの地下神殿にあの化け物がいるって考えていいのかな?」
イシュルは少し取り繕うような顔をして言った。
「マレフィオアに関する書物はエレミアーシュ文庫にも、古代ウルク王国史の付録しかなかったのだろう? それなら他にはもう、調べようがないな。王都に住む、高齢の元魔導師の者でも探して聞いてみるか?」
「そうだな……」
イシュルは言いながら、北側の扉の方へ目をやった。編纂室長の執務室の方から誰かが近づいてくる。
扉が開かれピアーシュ・イズリーク、編纂室長本人が顔を出した。
「なんだか騒がしいの。いかがした?」
ピアーシュはひとりで閲覧室に入ってくると、イシュルたちを見回し言った。
口調は暢気で、表情も怒っているようには見えない。
「やっとマレフィオアの記述を見つけましてね」
イシュルは編纂室兼司書長の顔を見つめて言った。
その眸にわずかに力が込められる。
「司書長は王家が何度か、ブレクタスの地下神殿にマレフォア討伐、いや調査隊を派遣していたのを知っていたんじゃないですか?」
「ふむ、……昔、そのようなこともあったようだの」
「……」
イシュルはほんの一瞬、ピアーシュを睨みつけ間を置いて言った。
「もし知っていたのなら、前もって教えていただいても良かったのに」
この老人も当然、マーヤかヘンリクからか、俺が国史閲覧室やエレミアーシュ文庫で何を調べているか、伝えられていた筈だ。
「わしは詳しくは聞いておらんぞ。陛下から……いや、ペトラ殿下からは詮索無用と、念押しされておった」
ピアーシュは南側の壁に掲げられた、イシュルがキーワードを書き出した巻紙にちらっと視線を向けて言った。
「まぁ、あれで何を調べておるか、だいたいの察しはついたがの」
「……」
イシュルは無言で頷いた。
……今はこの老人の言を信じることとしよう。
「ところで司書長殿、エレミアーシュ文庫にレーネの回顧録があったのはご存知でしたか」
イシュルは視線を南へ、王家書庫のある方へ向け、ひと息つくと別の質問をぶつけた。
「イヴェダの剣の、回顧録……」
ピアーシュは少し考えるような表情を見せると、眸を大きく見開きイシュルを見つめ返してきた。
「お、お主。その回顧録とやらをみ、見たのか」
ピアーシュは言葉を詰まらせた。老人の額にはいつの間にか汗が浮き、動揺をあらわにしている。
「いや。まだです」
ほんの微かに、イシュルの唇の端が歪められる。
……ピアーシュのこの反応。面白い……。
「そ、そうか」
ピアーシュはほっと安堵の息を吐くと大きく頷いた。
「ふふ。やはりあれは危険、なんですかね?」
イシュルはたまらず、声に出して笑った。だが眸はまったく笑っていない。それどころか凶暴な色さえ浮かんでいた。
ピアーシュは何かを、回顧録について知っているのだ。
「……それはなんとも言えん。いや……」
司書長は真っ白な顎髭をごしごしと、さかんにしごいた。
「確かに危険、かもしれん。貴公、そのベルシュ男爵の回顧録とやら、しばらく触れぬようにしてくれんか? わしの方でちと調べたいことがある。……昔、どこかで目にしたことがあるのだ……」
最後の方はひとり言のようになって、イシュルにもはっきりと聞き取れなかった。
「調べる?」
「うむ。数日くらいかかるかの。ちょっと昔の書類を漁って確認したいことがある。今は細かい話はできぬ」
イシュルは微かに不審の光を浮かべ、老人を見つめた。
「なら俺も、その調べ物とやらを手伝って──」
「イシュル」
そこで、後ろからリフィアが遮ってきた。
ひとり、離れたところに座っていたシャルカが無言で立ち上がる。
今度は部屋の外の廊下の方から、複数の人の近づいてくる気配がした。
「むっ」
今度は誰だ……。
人々の気配はイシュルたちのいる国史閲覧室の前で立ち止まり、廊下側の扉が開かれた。
「みなさま、ペトラ殿下のお成りです」
最初に中に入ってきたのはメイド頭のクリスチナだった。
クリスチナはすぐに脇に退き、続いてペトラがマーヤと並んで入ってきた。後ろにはマリド姉妹を従えている。
「!!」
「ぺ、ペトラさま!」
ジェーヌらは驚く間もなく、その場に腰を落とし跪いた。
リフィア、ニナ、ミラ、そしてピアーシュが左手を胸に当て頭を下げる。
イシュルだけがわずかに苦笑を浮かべ、ペトラとマーヤを見やった。
……マーヤがいなかったのはこれか。彼女は後宮へ、ペトラを呼びに行ったのだ。
「おお、イシュル」
ペトラが嬉しそうな顔で話しかけてくる。もし彼女に尻尾があったなら、ぶんぶん盛んに振られていただろう。
「見つけたらしいの。マレフィオアの記録を」
「ああ」
「妾にも見せてくれんか」
ペトラはそう言うと、イシュルの許へひょこひょこと近寄ってきた。
「大したことは書かれてないぞ」
「ん?」
そこでペトラはやっと、机や椅子の間に隠れるようにして跪くジェーヌらに気づいた。そして彼らに向かって片手を振りながら、「苦しゅうない、楽にいたせ」と言った。
顔を上げたジェーヌらは、イシュルとペトラの親しげなやり取りに呆然としている。
「ふむ……」
ペトラが机の上に広げられた国史に目を落とす。
「一番新しい記録で八十年前だけどね」
と、横からマーヤ。
「やはりブレクタスの地下神殿におったか」
ペトラは「うーむ」とその小さな顎に手をやりながら、難しい顔をする。
「そうみたいだな。結局、地下神殿へ行くことになりそうだ」
イシュルはペトラの仕草に吹き出しそうになるのを、ぐっと堪えながら言った。
「百年前にはレーネ男爵が赴いたのか」
だがペトラは真剣、そのものだ。
彼女は顔を上げ、イシュルの眸を真っ直ぐ見つめてきた。
「マレフィオアは今も、間違いなく地下神殿に潜んでおる。妾はそう思う」
「……ん?」
首をかしげるような仕草をするイシュル。ペトラの眸に光が灯った。
「これは因縁じゃな。レーネが百年前に、そしてこれからそなたが、ブレクタスの地下神殿に赴くのじゃ」
その夜、イシュルは自室に集まったミラ、リフィア、ニナらにマレフィオアの不死、不滅の話をした。
「実はみんなに言っておきたいことがあるんだ」
「……」
「どうしたんだ? いきなりあらたまったりして」
イシュルが一同を見回して言うと、みな無言でイシュルに視線を向けてきたが、リフィアは口に出して聞いてきた。お茶の入ったカップが彼女の口許に当てられている。彼女の青い眸がイシュルに向けられている。
夕食後、イシュルの居室には他にシャルカ、ルシアとロミールがいた。
マーヤはあれからペトラと一緒に後宮へ戻った。
あの後ふたりが去ると、ピアーシュがイシュルに話しかけてきた。
「先ほどの件じゃが。ベルシュ男爵の回顧録だがの。……昔、何かで聞いたか、目にした記憶があるのだ。それまであの本を読むのは待ってもらえるかの」
「わかりました」
イシュルは不満を隠さず、渋々頷いてみせた。
……仕方がない。レーネの回顧録だ。闇の精霊の召喚陣程度では済まない、もっと強力な魔法がかけられている可能性が高い。
荒事になるなら、クラース・ルハルドの遺稿を調べた後の方がいいかもしれない。エレミアーシュ文庫自体に大きな被害が出るかもしれない。
ソニエ・パピークがどうなろうと、知ったことではないが……。
「ところで何を調べるんですか? どこで……」
イシュルは表情を和らげ、ピアーシュに質問しようとした。
「それはそなたには教えられん。まぁ、昔の書付けとかかの」
ピアーシュはイシュルの言を途中で遮り言った。
……書付け。
イシュルは今度は鋭い視線でピアーシュを見つめた。
「なるほど。……国史に載せられない記録。それがある、それを調べる、ということですか」
「まぁ、そういうことじゃ。……そなたは、王家の調査団がブレクタスの地下神殿に派遣されたことを、知っていたかと聞いてきたがの。百年前と古い記録であることもそうじゃが、わしにとっては何を国史に載せ、何を載せないか判断する、そのことこそが最も重要な仕事なのじゃ。決して国史に載っていることすべてを、諳んじているわけではないのじゃ」
イシュルはリフィアに目を向け、自らの顎に手をやりかるくさすった。ペトラたちが帰った後、念押ししてきた司書長とのやり取りを思い返していた。
……とても気になるが、やはりレーネの回顧録を読むのは、ピアーシュの調べものが終わってからにした方が良さそうだ。それはそれで、何か新しいことがわかるかもしれない。
イシュルはリフィアから視線そらし、ミラやニナたちの方へ見回しながら言った。
みな、居間に複数ある長椅子に座っている。
シャルカとルシア、ロミールはその背後、部屋の端の方に立っている。
「ペトラの契約精霊、ウルオミラが俺に言ったんだ。マレフィオアを完全に滅ぼすことはできない、とな。でも紅玉石は奪えるようだ」
「……!」
「それは……」
リフィア、ミラ、ニナが揃って驚き、難しい顔になって考え込む。
「マレフィオアは、水神フィオアの妹の怨念の欠片が元になって生まれた魔物とされています。……だからでしょうか」
はじめにミラが口を開いた。
「神の欠片、だからイシュルにも斃せない、ってことか……」
とリフィア。
「うーん」
イシュルはヴォカリ村に泊まった夜、ペトラに呼び出され、ウルオミラと直接話した時の記憶を遡った。
「……ウルオミラは、マレフィオアが“神の呪い”を持っている、と言っていた……」
「神の呪い、ですか……」
イシュルが呟くように言うと、ミラは一層難しい顔になって言った。
「でも、イシュルさんには風の剣があります。あの神の御業であれば、たとえ“神の呪い”だろうと、“神の欠片”であろうと滅することができると思います」
ニナが珍しくはっきりと、断言するように言った。
「そうだな。ニナ殿の言うとおりだ。ペトラさまの精霊殿が言ったのはつまり、“神の欠片”を風の剣で直接斬る必要がある、それが難しい、ということではなかったろうか」
と、リフィア。
「そうかもしれないが……」
イシュルは彼女らを再び見回し、薄く笑みを浮かべた。
「でも、マレフィオアは地下深くに潜んでいるんだろう? そんなところで風の剣を使ったら大変なことになる。広範囲で大規模な落盤が起こったら、俺たちもお陀仏だ。……あの業(わざ)を使うのはちょっと無理だな」
まぁ、まったく手がないわけではないが。
例えばマレフィオアの下、腹部に潜り込んで下から上へ突くだけなら、比較的小さな穴が地上まで到達するだけで、落盤や崩落は起こらないだろう。
やつの下に回り込み、神の欠片を直接突く、なんて芸当ができるかどうかは知らないが。
「……おだぶつ?」
……おっと。
イシュルは薄く浮かべた笑みを、ごまかし笑いに変えて言った。
「あー、マレフィオアと共倒れになってしまう」
「そう、だろうな」
「イシュルさまもレーネ男爵と同じ道を辿ることになる、ということでしょうか」
ミラがやや不満のこもった調子で言った。
「大聖堂で戦ったマレフィオアは、本体が召喚されたわけではなかったしな」
「マレフィオア本体は不死身……あるいは倒しても倒しても生き返ってくる、ということでしょうか」
「そうかもしれないな。首を切り落としても、胴体を真っ二つにしてもすぐにくっついてしまう。からだの一部を消しとばしても焼き払っても、すぐに再生してしまうのかもしれない」
イシュルはお手上げだ、というふうに片手をひらひらと振りながら言った。
……ヒュドラみたいなものか。確か、ヘラクレスとイオラオスはヒュドラの首を切り落とし、その痕を焼いて退治したんだったか。
マレフィオアの首は一つだが、それを斬り落とした痕を焼いても無理だろう。
「かつてのイヴェダの剣、レーネも長期戦になって魔力を使い果たしてしまった、それで負傷してしまった、ということか」
リフィアも顎先に手をやり考え込みながら言った。
「だがあの化け物を斃すことが目的じゃない。地神の石、もう片方の紅玉石を手に入れることができればそれでいい」
イシュルは今度は人差し指を突き立て、左右に振りながら言った。
「まぁ、そうだな」
「そうですわ。無理してマレフィオアを斃すことはないのですわ」
「それなら、どうやって……」
リフィア、ミラに続いてニナが不安そうな声を上げる。
「いや、俺もよくわからないんだけど。マレフィオアをひたすら斬り刻めばいいんじゃないか?」
マレフィオア本体がどれほど強いか、楽観するのは危険だが、不死、不滅であることが問題なだけで、戦闘力自体はそれほどでもないと思う。
それは召喚された時の手応えで、なんとなく予想がつく。もちろん、並の魔物では及びもつかない強さなのは当然で、赤帝龍などと比べれば、という話だが。
「やつを完全に滅ぼすことはできなくとも、瀕死の状態にはできるだろう。紅玉石はやつの体内にある筈だ。その時に奪うことができるだろう。その後はとっとと退散しよう。やつは地上まで追いかけてこないだろう。伝承どおりなら、地上に出て神々の目に直接触れるのを恐れているだろうからな」
「ふむ。イシュルは先のイヴェダの剣、レーネ男爵より明らかに強い。消耗戦にならない限り、イシュルがマレフィオアに後れを取ることはないだろう」
と、リフィアが言った。
……レーネがどれほど風の魔法具を使いこなしていたか、それははっきりとはわからないが、彼女はほぼ間違いなく風の剣は知らならかったろうし、既存の風魔法に沿ってその力をふるっていた筈である。
もしレーネが風の剣を使っていたら、その記録が民衆の間にまで伝承となって残っていたろう。あれは大技すぎて、とても人々の耳目から隠し通すことはできない。
「イシュルさまならマレフィオアに絶対、負けることはないですわ!」
ミラが元気な声音で叫ぶように言った。
イシュルの眸をしっかりと見つめてくる。
「ああ、うん……」
負けはなくても、相手を完全に滅ぼせないなら勝ちもない、ことになる。
「神の呪い……」
苦笑してミラに頷いたイシュルに、横からニナの呟く声が聞こえた。
「神の呪いって、なんでしょう。……ちょっと変ですよね。怒り、とかならわかるんですけど。神さまが呪うって、少しおかしな感じです」
「マレフィオアの元となったのは神の欠片だ。欠片であるならそれは、神そのものではないとも言えるがな」
リフィアが屁理屈みたいなことを言う。
……この世界の神々は、前世のさまざまな神話に登場する神々と同様、人間らしい感情も持ち合わせている。それなら“神の呪い”みたいなものがあってもおかしくはないだろう。
「イシュルさま。やはりマレフィオアと戦うのは注意してください」
ミラが横を向き、ニナと無言で顔を合わせると、真剣な表情になってイシュルに言ってきた。
「レーネ男爵はその“神の呪い”にやられたのかもしれませんわ」
「……」
イシュルは顎に手をやり、顔を俯け沈思していた。
周りの女性陣はレーネやマレフィオアの件で話を続けている。ルシアとロミールは再びお茶を入れに、部屋の外に出て行った。
……レーネはブレクタスの地下神殿から帰還し二年後、高齢を理由に宮廷魔導師を辞している。そのことは当然、国史にも記載があった。
それからおそらく数年ほど諸国を流浪し、ベルシュ村に戻ってきて村の東の森に居を構え、隠棲している。
このことは子供の頃、父のエルスかファーロあたりから聞いた覚えがある。
レーネが宮廷魔導師を辞したのは、あるいは高齢が理由ではなく、マレフィオアとの戦闘で負傷したからかもしれない。傷が完治しなかったからかもしれない……。
あの頃、あの時。
レーネに呼びだされて殺されそうになった時。あの魔女は二百年以上生き、小さな痩せたからだに顔は皺だらけ、歩くのも億劫そうだった。
あの老婆は俺が魔法具を持っているのではないかと疑っていた。俺の脳、頭部と魔法具が一体化しているのではないかと疑っていた。
レーネは少しでも長く生きるために、若い頃の活力を取り戻すために俺の頭をカチ割ろうとした。
「だが……」
イシュルは誰にも聞こえない、口の中で呟いた。
……ひょっとすると、ミラの言うとおり……。
「本当にあいつに、“神の呪い”がかけられていたかもしれない。マレフィオアに何かされたのかもしれない」
だから宮廷魔導師を引退したのだ。
そして諸国を流浪し、その“呪い”を解く方法を探した……。
あくまで憶測、想像だ。とても断言できるものではない。
しかし森の魔女は少なくとも俺が生まれてからは、それとわかる規模の風の魔法は使わなかった。もちろん、それは単に高齢で衰えたからだけ、だったかもしれないが。
いずれにしろ、これだけは確信を持って言える。
レーネは貪欲だった。俺の頭の中を調べることに、新たな魔法具を得、魔法を知ることに。
そう……。あれほど年老いて、衰えてもなお彼女は渇望していた。
「あの、イシュルさま?」
「ん?」
気づくとルシアがすぐ傍に立っていた。
イシュルの座る長椅子の横のテーブルに、彼女の入れたお茶が置かれている。
「ああ、ありがとう」
イシュルは白磁に唐草の模様の描かれた、品のあるティーカップに目をやるとルシアに礼を言った。
「いえ。あの、マレフィオアのことなんですけど」
ルシアはミラの方にも視線を向けて言った。
「王都の傭兵ギルドに行って、調べてみたらどうでしょう? 何年かに一回くらいなら、ブレクタスの地下神殿探検の募集が出ていたりするかもしれません」
ルシアは「中海の大貴族や富商、腕利きの傭兵団、パーティなどが募集をかけることもあるかもしれません」と続けた。
彼女には国史閲覧の許可は出ていない。イシュルの方で特段、申請もしていない。だが、今晩の話し合いで大体の事情を知ることになった。あるいはミラとの普段の会話で、すでにおおよそのことは聞き知っていたかもしれない。
「地下神殿の洞窟には、過去に調査に入って斃れた魔導師や傭兵たちの魔法具が残されたりしてるんですよね? そこで魔法具をひとつふたつでも見つけて持ち帰ることができれば、お城が建つほどのお金が手に入ります」
「まぁ、そうだが」
……ブレクタスの地下神殿には、ラディス王家以外にも民間、つまり流しの傭兵団やハンターらのパーティなども一攫千金を夢見て挑んでいることは、昼間のリフィアたちとの会話で出ていた話だ。
「素晴らしいわ! ルシア」
そこでミラが大きな声をあげた。
「イシュルさま。ぜひ、ラディスラウスの傭兵ギルドへ参りましょう。司書長からは、レーネ男爵の回顧録の閲覧を、しばらくの間止められているのですよね? その間に傭兵どもに地下神殿探検に参加した者がいないか、記録が残っているか、調べることにいたしましょう」
……王都周辺では魔獣の頻繁に出没するところはないし、街道沿いの治安も良い。なので魔獣退治も隊商の護衛の仕事も少ない。あるとしたら王家や貴族の傭兵募集くらいだ。
だが当然、多くの人々が集まる王都なら、遠国からの募集もあるだろう。
それならブレクタスの地下神殿に関わる傭兵募集も、過去に行われた可能性はある。
「ああ。そうしようか。ただ──」
「よし、イシュル。明日にでも行ってみようか」
「イシュルさん。わたしも行きます!」
リフィアとニナが、ミラに負けない大声で名乗りを上げた。
「うぐっ」
イシュルは困った顔になってリフィアたちを見回した。
流れるような銀髪の、凄い美少女。豪奢な金髪の巻き毛の、これまた美少女。ニナもまぁ、可愛いい。それにどでかいメイドのシャルカもついてくるだろう。
いくら人の多い王都とはいえ、彼女たちをぞろぞろ連れて歩いたら、ちょっと目立ち過ぎる。
戦場とは違う。非常時ではない。人のいない山野へ、魔獣退治に行くわけではない。
それにもし、このことがマーヤとペトラに知られたら、大変なことになる……。
「あー。あの、君たち全員で街中に繰り出したら目立ってしょうがない。できれば一緒に行く人数は減らしたいんだが。それに、王国史の方もレーネの地下神殿行きを中心に、前後数十年分くらい、もうちょっと調べたいし」
「ふむ」
「そうですねぇ……」
「……」
リフィア、ニナが渋々と頷く。ミラはなんだか知らないが、にこにこしている。
「わかりましたわ。誰がイシュルさまと同行するか、わたくしたち三人で話し合って、明日には決めることにしましょう」
ミラがリフィアとニナに目をやり言った。
「よかろう」
「むっ」
三人の少女、いや、女たちの視線が交錯する。
イシュルは思わず喉を鳴らした。
「……」
無言で、眸と眸で戦いはじめたリフィアたちの背後。ふと別の視線を感じて目をやると、後ろにさがっていたルシアがにやりと、イシュルに笑みを浮かべてみせた。
「イシュルさんも大変ですね」
ほんのすこしだけやっかみも混じっていたろうか。
女性陣が揃って退室していくと、ロミールがそんなことを言ってきた。
「な、なんだよ」
今さらじゃないか、ロミール。
「本当ならすごく羨ましい、って思う筈なんですけどねー」
「いや……」
微妙すぎる問題だ。たとえ今は居室に男ふたりだけ、とは言ってもどこに耳があるかわからない。それ以上踏み込むのは危険だぞ?
「どなたを選ぶか、もう決めてるんですか」
「ぶっ、ごほ」
イシュルは思わず咳き込んだ。
……なんてことを聞いてくるんだ、こいつ。
「大丈夫ですか? イシュルさん」
ロミールはにやにやしている。
「おまえなぁ」
そこでふとイシュルは真面目な顔つきになった。
天井から下がる蝋燭立て。そして壁に掛けられたカンテラの灯火。その明かりと影が視界に浮き上がってくる。
室内は少女たちが去った後、心なしか暗くなったような気がする。
彼女たちを選べない理由。受け入れられない理由……。
「いつ死んでしまうか、わからないからな。……マレフィオアだけじゃない。赤帝龍だって斃さないといけない」
イシュルが薄く笑みを浮かべて言うと、ロミールもはっとして真剣な顔つきになった。
……本当は違うんだ。
マレフィオアなんか怖くない。紅玉石を奪えば、あとはさっさと撤退するだけだ。今なら赤帝龍にだって負けはしないだろう。
だが相手が神々──月神だったらそうはいかない。
レーリアとは十中八九、戦うことになるだろう。相手は運命と冥府を司る神だ。どうやっても勝てそうにない……。
イシュルは笑みを消して窓の方に視線をやった。
ガラスに映る自分とロミールの霞んだ像。その背景には墨で塗り潰したような暗闇が広がっている。
あの冷酷な女神は次、ブレクタスの地下神殿で動くのではないだろうか。
この暗闇を打ち払うように。
どうすれば月神に勝てるんだ……。
窓に映るロミールの像が、微かに震えた。
翌日。
居間でひとり朝食をとっていると、控えの間で人の気配がしてロミールが見に行った。
彼に呼ばれて顔を出すと、ミラ主従がいた。
「おはようございます、イシュルさま」
ミラがからだをひねり、片手でスカートの裾を摘みかるく持ち上げて見せる。
「うっ……」
イシュルはあの日以来、再びミラの新鮮な姿に打ちのめされた。
ミラはあの時と同じ、明るい若草色のスカートにシンプルな白のブラウス、片手に小さな藤製のバスケットをぶら下げ、イシュルに花咲くような微笑を向けてきた。
そして豊かな髪を後ろにまとめ、その上に控えめな草花の柄の入った三角巾を巻いていた。
彼女の背後ですました顔のルシアが、いつもの無表情のシャルカが姿勢良く並んで立っている。
「持ってきていたのか。その服」
「はい。イシュルさま」
ミラはご機嫌だ。
ルシアにちらっと目をやると、彼女は含みのある笑みを浮かべた。
「今日の傭兵ギルド訪問は、君たちが同行することになったわけだ」
「ええ」
ミラはルシアと視線を合わすと、にっこり笑い合った。
「リフィアさまにニナさま、なかなか手強かったです。でも、勝算はありました。こうしてミラお嬢さまのお忍び用の準備は整えてありましたから」
ルシアがミラに決まった事情を説明した。
「それにわたしとシャルカが付き添うことでお二方とも、なんとか承知していただきました」
ルシアがしてやったりと、勝利の笑みを浮かべた。
「ああ、……なるほど」
イシュルは曖昧な笑みを返す。
……この話はさっさと終らそう。そこら辺、何があったか詳しく聞く必要はない。まったくない。
「では参りましょうか。イシュルさま」
ミラの微笑が、朝日もくすむほどの輝きを帯びた。
だが。
ロミールの朗らかな「いってらっしゃい」の声とともに廊下に出てみると、リフィアとニナが、そしてマーヤがいた。
「ふーん」
ミラにちらっと見やると、マーヤが無表情な顔をイシュルに向けてきた。じーっと睨んできた。
「……」
イシュルは顔を引きつらせた。
「次はわたしだからな。イシュル」
「その次はわたしです。イシュルさん」
リフィアとニナが連続で畳み掛けてくる。イシュルは今度は、その場で凍りついた。
イシュルたちが起居する西宮の賓客用の館は、東側に長い廊下がある。その東側の窓からは、清廉な冬の朝の陽光が差し込んでくる。
背の高い大きな窓は天辺でアーチを描き、奥の方まで並んでいる。二階だが天井が思いの外高く、斜めに差し込む陽の光が延々と連続するさまは荘厳ささえ感じられた。
その窓と窓の間の柱に背を預け、胸の前で腕を組んだリフィアが鋭い視線をイシュルに向けてくる。その横でニナがからだの前で両手を握りしめ、イシュルに縋るような眸を向けてくる。
つ、次って何だ……。
イシュルは窒息しそうな緊張感の中、喘ぐように心の中で呻いた。
昨晩、何があったんだ……。なぜかマーヤもいるし。
いや、もう何も考えまい。考えるだけで危険な気がする。ここは思考停止するに限る。
「まぁ、おほほほっ」
そこでミラが盛大にやらかした。
イシュルのすぐ横で鼻先をつんと上げ、手の甲を口許に当ててミラが力強い笑声をあげる。
「……」
リフィアが、マーヤが、ニナが眉を吊り上げミラを睨みつける。
「うぐっ」
イシュルはこれから起こる愁嘆場の予感に、全身をぶるぶると震わせた。
ちなみにシャルカはいつもの無言無表情、ルシアは涼しげな微笑を浮かべたまま、何の動揺も見せなかった。
震えているのはイシュルだけだった。
「それではミラお嬢さま、イシュルさま、行ってらっしゃいませ」
王城の北門の前で、ルシアは折り目正しくお辞儀をして言った。
「ミラ、気をつけてな」
とシャルカもルシアの隣に立ち、声をかけてくる。
「我が神の魔法具を持つお方、ミラを頼む」
「おおっ?」
イシュルは驚いて、思わず素っ頓狂な声をあげた。
あの後ルシアが間に割って入り、リフィアたちをうまくなだめた。ルシアの巧みな言説にみな矛を収め、大事にならずに済んだ。
ルシアは「イシュルさまは必ず、リフィアさまにもニナさまにも、もちろんマーヤさまにもたっぷり時間を割いてくれますよ」、「昨晩お話したとおり、私とシャルカが一緒について参りますから」などと言って、一触即発、緊迫するその場をうまく収めた。
その後イシュルにミラ主従、シャルカとルシアの四人は連れ立って北門に向かった。
門前には城内に木材や切石などの建材、食糧その他雑貨を納める商人らの荷馬車が、列を成していた。
当然、王城は入る時は厳しく、出る時は楽だ。ロミールが騎士団に手続きをしてくれ、イシュルら一行はすぐ城外に出ることができた。
北門前の広場は、先のユーリ・オルーラ率いる連合王国軍との戦闘で、最も激戦となった場所だ。足元に広がる石畳こそ修復は進んでいたが、周りの建物はすべて全壊、広場の中央にあったラディス王国中興の祖、エレキュール王の石像も跡形もなく消え、まだ再建の目処も立っていなかった。周囲の街は、北に伸びる軍都街道一帯の損害が特に酷く、まともに立っている建物も少なく遠くの方まで見渡せた。
だが城門前には、王城に出入りする商人たちの車列ができ、広場も商人や職人から女子供まで、多くの人々や荷馬車が行き来していた。
イシュルたちが向かう王都一の傭兵組合は、北門広場から街の中央部に伸びるオベール通り、通称“王都通り”を抜けて行くのだが、城門を出て東側、右手にあるその通りに向かって歩き出したところで、ルシアが後ろから突然、「行ってらっしゃいませ」と声をかけてきたのである。
イシュルが振り返ると、ルシアがにっこり笑みを浮かべて立っていた。
「えーと」
「ではお願いね。シャルカ、ルシア」
「かしこまりました、ミラお嬢さま。では午後の二刻(午後四時ごろ)にここで、北門の門前にてお待ちしております」
「……」
満面の笑みで頷くミラ。
「えーと、なるほど」
イシュルは苦笑してミラを見た。
「イシュルさま、では参りましょうか。リフィアさんたちには内緒ですわよ」
「あ、ああ」
イシュルは小さく頷いた。
……今日のギルド行きは最初から、リフィアたちとの話し合いの段階から、ミラとルシアの筋書きどおりに事が運ばれたわけだ。傭兵ギルドにはルシアとシャルカも同行するからと、皆を譲歩させ、実際にはふたりが付き添うのは王城の城門まで。
あとは俺とミラのふたりでどうぞ、というわけだ。
「街の再建で王都はどこも大賑わいですわ」
ミラが歩きながら、左腕に両手を絡めてくる。
「……」
横を見ると彼女の笑顔がきらきら輝いている。
ふと後ろを見るとルシアがにこにこと、シャルカがいつもの無表情で片手を振っていた。
北門前の広場を抜け、ミラと王都通りを街の中心部へ向かう。
通りは行き交う荷馬車や人々でごった返していた。
道の両側は所々、先の戦闘の大火で焼けて空き地が広がっていたが、どこも瓦礫は大方片付けられ、掘建小屋やテントが並び立ち、建物の建築工事もはじまっていた。
荷馬車は切石や木材などを積み、人々も皆、ある者はいっぱいに膨らんだ麻袋を背に担ぎ、ある者は壺を抱え、何かしかの荷物を持って行き来していた。
人々の間に時折、木材の切れ端を詰めた布袋を抱え、粗末な衣服を着た子供たちの姿が見える。彼らは貧民街の住民だろう。木の切れ端は火を使う時の、燃料にでもするのだろう。
そして道を行く人々の喧騒に混じって、そこかしこから大きな木槌の打ち鳴らされる音、職人や人夫の上げる野太い叫声が聞こえてくる。
「大変な人出ですわね。みな忙しそうで賑やか。結構なことですわ」
ヘンリク、いやルースラやトラーシュ・ルージェクらか。俺の言ったことが役立ったか知らないが、王都の復興はうまくいっているようだ。
「王家もだいぶ、人と金を投入してるんだろうな。街の雰囲気が明るい」
「ええ、イシュルさま。こちらまで気持ちが浮き浮きしてきますわ」
ミラは悪戯な微笑を浮かべ、イシュルを見上げてきた。
主神殿前の広場を西へ、王城の方へ戻る道に入るとすぐ、王都で一番大きな傭兵組合がある。
「えっ……」
「あら」
ふたりは組合の前で呆然と立ち止まった。
ギルドの建物は石積みの壁を残して完全に焼け落ちていた。
屋根代わりに大きな麻布が張られ、建物の前後には幾つか、テントが張られていた。脇には大きな木板が立てられ、無数の大小の紙切れが貼られていた。その前には人々が列をなして集まっている。
「こ、ここも賑わってるな」
イシュルがボソッと呟くと、ミラも「ええ、そうですわね」と笑顔を引きつらせて頷いた。
傭兵募集とはいっても、ほとんど王都の再建がらみの人夫募集だろうが──の掲示板に群がる人々を横目に、壁だけが残るギルドの建物に入っていく。
屋内は、頭上に張られた帆布で薄暗かったが、所々焼け落ちた窓から直接外光が差し込み、強い明暗の斑模様で覆われていた。
形の違う雑多な机の並べられたカウンターでは、組合の職員らと話し込み、手続きをする人々で混雑していたが、イシュルは彼らの脇を抜け、素知らぬ顔で奥の方へ進んでいった。
「あの、どなたですか? ここは組合の関係者以外立ち入り禁止なんですが」
「ああ、そうだよな。すまない。……ところでギルド長はいるかな?」
「はっ?」
組合の若い事務員に静止されると、イシュルはいきなりギルド長の所在を聞いた。
「俺はイシュル・ベルシュという」
イシュルは辺りを見回し、抑揚のない声で言った。
職員らの向かう机も、座る椅子もどこからか持ち寄ったものか、みな不揃いで雑然としている。
「ええっ??」
組合の見習いだろうか。若い男はイシュルが名乗ると呆然と固まった。
そこへミラの華やかな声音が響いた。
「わたくしは聖王国は五公家の息女、ミラ・ディエラードと申しますの」
ミラは頭巾を取ると頭を軽く振った。
煌びやかな金色の巻き毛が広がり、くすんだギルドの中を踊った。
「あいにくと書付けや帳簿類もすべて燃えてしまってね。いや、燃えてしまいまして。……とは言っても、我が組合で保管されていた記録は、最も古いものでも五十年くらいのものですが」
ギルド長は建物の裏手に張られたテントにいた。
彼は机を挟んで対面に座るイシュルとミラに、愛想笑いに不審の入り混じった顔をして言った。
さすがに王都一の傭兵、ハンターギルド、ギルド長はもちろん職員らも、イシュルとミラの声名を知っていた。彼らは当然、イシュルたちの外見についても聞き及んでいたろう。
だが今王城に滞在しているらしい、世間を騒がす王国の英雄がなぜ組合を訪問してきたのか、果たして目の前に座る人物が本物なのか、疑念を抱くのも当然だと言えた。
「わたしの記憶ではここ十年くらい、ブレクタスの地下神殿の傭兵募集は受けていないですね。あそこは一般の傭兵やハンターにとってはかなり厳しい、難しい場所だと聞いています。地下に潜ると手強い魔物、特に悪霊が頻繁に出没するそうです。……まぁ、確かに魔法具の一つでも見つければ、とんでもない大金を得ることもできるんですがね」
「そうですか」
イシュルは小さな声で頷いた。
……無駄足だったか。何か有用な話は出て来なそうだな。
「あなたの先代のギルド長は、いや、もっと前のギルド長はまだご存命でしょうか」
ギルドに記録は残っていない。目の前の壮年の男、組合長も知らない。ならもっと古い時代を知る人物に当たるしかない。
「ああ、なるほど。先代のギルド長なら東の五番街に住んでますよ。今は街の世話役をやってます。普段は、飯屋をやってる奥方の手伝いをしている筈です」
ギルド長は愛想笑いを深くして言った。
「じゃあ、すいません。紹介状を一筆書いてもらえませんか? 俺の名を出さないように」
イシュルは言いながら、懐から銀貨を数枚握って差し出した。
王都の東北部にある“五番街”は残念ながら、派手やかな商店街でも歓楽街でもない、ごくありふれた下町だった。
先代のギルド長の住まいは、表通りを一つ奥に入った裏道の交差する角にあった。
イシュルとミラは、道を行く街の住民らしき者に何度も聞いて目的地に辿り着いた。だが途中、大きく迷うことはなかった。ミラは以前、王都で屋敷を借りた時に、大体の地理を頭に入れていた。
木製の扉にかけられた銅版の店名を確認し、中に入るとどこか懐かしいベルの音が鳴った。
もう昼すぎで中に客はいない。どちらかというと粗末なテーブルや椅子が並んでいる。
「いらっしゃい」
奥の方から声がして前掛けをつけた中年の女性が出てきた。
「ついでだからここで昼食をとってしまおう。いいかな?」
イシュルの言った「いいかな?」には下町の食堂の飯でもいいかな、という意味も込められている。
「もちろんですわ。イシュルさまと一緒なら、なんでもいいです」
ミラはギルド長のテントを出た時に三角巾を巻き直している。彼女はその頭巾に手をやり、眸を揺らしながら甘い声で答えた。
「今は牛すじと芋の煮込みしか出せないけど」
「それでいいよ。後でお茶を出してくれ」
イシュルは手頃な椅子にミラを座らせ、かるく笑みを浮かべて言った。
「ところで、ご主人はいるかな?」
「ああ、……そっちの方のお客さんかい。いいよ。今呼んでくるから」
女はそう言うと、店の奥の方へ引っ込んでいった。
先代のギルド長は、奥の方で間を計っていたか、イシュルたちが昼食を食べおわる頃に顔を出してきた。
店の女主人より一回りは上の、初老の男だった。
「いや、俺もブレクタスの地下神殿の募集は覚えてないなぁ。少なくとも王都で募集に応じたやつはいなかった、これは確かだ。もし誰かいたら覚えている筈だからな。あそこには魔法使いか、相当腕利きのやつじゃないといけない。ただの荷物運びの仕事でも、それなりにできるやつじゃないとな。山越えもあるし」
「そんなもんですか」
……募集さえもないとは。
「王都には魔法使いはそこそこいるが、腕利きの傭兵は東の山の方で一部、多くは中海か連合王国の方に集まってる。ここでは募集もかからないのさ」
「でもラディス王家は、百年ほど前までは何度か調査隊を出していましたわよね」
「ああ、……うん。そんな話も聞いたことがあるな」
男はミラの言に、少し考え込むような表情になった。
「そうだ。俺が組合の見習いだった頃にギルド長だった人が、まだ生きてるよ。その人なら何か知ってるかもしれない」
王都は周辺を小高い丘で囲まれている。貴族や金のある商人などは丘の上の方に屋敷をかまえ、庶民は丘の下の低地に固まって住んでいる。したがって王都の街は丘の間に広がっている。
先代のギルド長に紹介されたさらに何代か前のギルド長、老人の家は王都の南東、貴族の屋敷が立ち並ぶ丘の中腹、傾斜地にあった。
蔦を絡ませた牧歌的な門を抜けて母屋の扉をノックすると、メイド服を着た中年の女が顔を出した。
イシュルが、先代のギルド長にも書いてもらい二通に増えた紹介状を手渡し、事情を説明すると、中年のメイドは母屋の前を回って奥にある庭の方へイシュルたちを案内した。
周囲を低木や草花に囲まれた小さな庭に、椅子に座った老人がひとり、眼下に広がる王都の街並みを眺めていた。
年齢はもう八十を超えているのではないだろうか。年老いた男は、襟巻きやひざ掛けに埋もれるようにして安楽椅子に座り、身動きひとつしなかった。
メイドは老人の耳許に口を寄せ、ゆっくりと話してイシュルたちの来訪を知らせ、粗末な丸椅子を二脚老人の傍に並べると、母屋の中へ入っていった。
中に入る時、イシュルが銀貨を一枚握らせると、彼女ははじめて相好を崩してみせた。
「……うう」
イシュルとミラが簡単な挨拶を済ませ、傭兵ギルドに過去、地下神殿探索の募集がなかったか質問すると、老人の死んだように無表情だった顔に、わずかな変化が起こった。
その虚ろな眸に微かに光が灯り、頬に朱が差した。
「あれはわしが事務見習いの頃だったかの」
老人は間を置き、口元をもぐもぐと動かした。だいぶ歯が抜けているのか、老人の言は少し聞き取りにくかった。
「ギルド長から、ブレクタス神殿探索の話を聞いたことがある。中海の方とも取引のある、王都の大商人から探検隊の募集があっての。何名か応募したらしいが、うちの組合から採用された者はいなかったそうじゃ」
「そうですか……」
イシュルは意識して少し大きめに声を出した。
そのせいか、声音にはっきりと落胆の色が混じって聞こえた。
「昔は王家も調査隊を出していての。その時には荷物運びの人夫募集もあったそうじゃ」
「……」
老人の視線がイシュルに向けられると、イシュルはゆっくりと頷いてみせた。
「その人夫にも腕利きの傭兵が集ったらしい。かなりの大金が出たらしいの」
老人はかるく咳き込むと再び視界の開けた西の方、王都の街並みの方に視線を向けた。
「……その昔、イヴェダの剣が乗り込んだ時には、半分も戻らなかったということじゃ……」
陽は西に大きく傾いている。
老人の少し濁った眸に、その紅く染まった空の色が映りこんだ。
それ以上の情報は彼から聞き出すことはできなかった。ほどなくイシュルらは老人の許を辞した。
丘を降りる道すがら。
イシュルはその夕日を見つめて言った。
「めぼしい収穫はなかったな。ただ当時の状況というか、空気感みたいなものはわかったけど」
「ええ。でもそれだけでも意味はありましたわ」
ミラも西の空を見つめて言った。
暗く影となったブレクタスの山並みに、王城のある丘が微かに浮き上がって見える。その下を曲がりくねった王都の街が、北へ裾野を広げている。
「マレフィオアとの闘いも、並大抵ではいきませんわね」
ミラが、イシュルの左腕にからめた両手に力を込めてきた。
「ああ」
「ブレクタスの地下神殿の調査も、思ったよりも大人数が必要なようです」
「そうだな」
……確かにミラの言うとおり、そこら辺のことは明らかになったかな。
イシュルは南北に広がる王城に目を止めた。
「本当はわたくし」
ミラが見上げてくる。
「イシュルさまとシャルカと、……つまりイシュルさまとふたりきりで冒険して、魔法の深淵の先に神々の奇跡を見るのだと思っていましたの」
ミラは笑みを浮かべて、「それがあんなに増えてしまって。甘い考えでしたわ」と続けた。
……俺とともに歩もうとする者、それは今やミラひとりだけではない。
リフィアに、ニナやマーヤも同じことを考えている。
「だからわたくし、目標を変えますわ。……最後の瞬間までイシュルさまの横にいる。それだけでなく、必ずイシュルさまと一緒に、生きて帰ることにしましたの」
夕陽に面(おもて)を紅く染め、ミラの笑顔が輝いた。
その夜は西宮の晩餐室にペトラまで顔を出して、夕食をとりながらイシュルとミラの報告が行われた。
その席上でマーヤはペトラと視線を交わすとイシュルに、「ブレクタスの地下神殿へ王家も調査団を出すことになるかも」と言った。マーヤは「イシュルと行動を共にしたい」と言ってきた。
「連合王国との戦(いくさ)で、我らは多くの魔導師とともに魔法具も失った。地下神殿へ行って、少しでも多くの魔法具を手に入れる必要がある」
それまでイシュルとミラのギルド行きに、「妾もどこか、楽しいところへ連れて参れ」と騒いでいたペトラだったが、その時には真剣な顔つきになって言った。
「ああ、そうだな……」
イシュルは何か考え事をしながら、彼女たちに明確な返答はしなかった。
……森の魔女レーネとマレフィオアの戦い。その後の彼女の負傷と引退。
マレフィオアの不死性に彼女が力尽きたのは確かだが、そこにはやはり、あの化け物の不滅を覆すヒントは何もないのだろうか……。
それはそれでしょうがないのだろうが、何かが気になる。それは何だ?
イシュルの心に、判然としない不審と疑問が渦を巻いていた。
それから二日間、王国史の調査が続けられ、予定より数日早く、ノストールからブノワ・クベードが王都に来着した。
ブノワが王宮に登るとすぐイシュルも呼び出され、ヘンリクやルースラとともに王封のあるクラース・ルハルドの遺稿閲覧に関して、簡単な話し合いが行われた。
翌朝には彼らにペトラ、マーヤ、ドミル・フルシーク、リフィアとニナも呼ばれ、会合が持たれた。
そしてその日の午後、満を持してイシュルたちはエレミアーシュ文庫に向かった。
ブノワ・クベードに同行するのはイシュルの他にルースラとペトラ。さらに文庫の外までマリド姉妹が付き従った。
ペトラは彼女にはあまり似合わない、三つの水宝玉(アクアマリン)の連なった豪奢な首飾りをしていた。その首飾りが“王家の首飾り”だった。
「いやぁ、こう言っては不謹慎ですが、わくわくしますな。早くルハルド卿の遺稿をこの目にしたいものです」
王家の書庫が連なる回廊を歩いていると、横からブノワ・クベードが話しかけてきた。
「そうでしょうね」
イシュルは苦笑して頷くと、ちらっと上気したブノワの横顔をうかがった。
ブノワは先日横死した、カピーノ・ギルレとは外見も含めだいぶ異なる人物で、酒樽のような体躯に大きな顔、ごつい鼻、つぶらな眸の陽気な人物だった。
彼は当然、カピーノ・ギルレの死を耳にしていたが、エレミアーシュ文庫で問題の書を閲覧することに、何の怖れも抱いていなかった。クラース・ルハルドの遺稿を読むことが、ただひたすら嬉しくて仕方がない、という風に見えた。
……ネル、手筈どおりにな。俺の指示があるまで動くなよ。
イシュルはブノワに愛想笑いを向けながら自らの精霊、ネルレランケに声をかけた。
……。
どこか、少し離れたところからネルの言葉にならない返事が返ってくる。
……ネルとは昨晩に、クラース・ルハルドの遺稿に記されているであろう、闇系統の召喚陣をどうやって封ずるか、打ち合わせを済ませてある。
イシュルは歩を早め、前を行くペトラの横に並んだ。
「ペトラ。何度も言うが、おまえは動くなよ。すべて俺がやるから。……その首飾りも起動するなよ」
「わかったわかった。……仕方がないの」
ペトラは唇を尖らして言ったが、機嫌は悪くない。
彼女にとっては、それでも王宮では滅多にない大きなイベントである。
ペトラを守るのは、彼女のしている首飾りとイシュルだけではない。文庫の外で待機するマリド姉妹だけでなく、回廊の出入り口にはリフィアとミラ、ニナにマーヤが待機し、東側に聳える内郭の城壁にはドミルとフリッド・ランデルが、王家書庫の敷地にはエバンを頭(かしら)とする“髭”の者たちが多数、身を隠して同様に待機していた。
このいささか大げさに過ぎる布陣は当然、ヘンリクの意向によるものだった。
マーヤは火の魔法を使うので、万が一を考慮し文庫まで同行せず、王家書庫の入り口で待機することになった。
「ではイシュル殿、よろしく頼みます」
一行がエレミアーシュ文庫の前に到着すると、アイラが声をかけてきた。
「ええ」
イシュルが頷くと同時、ルースラがノックもせずに文庫の扉を開けた。
「お待ちしておりました。ようこそおいでいただきました」
文庫の閲覧室に入ると、ソニエ・パピークがルースラの前に跪いた。
「ペトラ王女殿下のお成りである」
ルースラが冷たい目、声音で言うと、ソニエはさらに頭(こうべ)を垂れて言った。
「この度は栄えあるラディス王家、ペトラ殿下のご来臨を賜り──」
「よい。堅苦しい口上はいらぬ。早速、ルハルド卿の遺稿を持って参れ」
「はっ、ただいま」
ソニエは立ち上がると書架の奥に消えた。
前もって司書長からお達しがあった筈だが、彼女はなぜか問題の書を書架から出していなかったようだ。立ち上がった時、彼女の顔は上気し、明らかに興奮していた。
「こちらでございます」
ソニエは書架の影から姿を現わすとペトラの前に跪き、ルハルドの遺稿を差し出した。
彼女の手にある書物は、褐色の牛革の表紙の、やや小ぶりの本だった。
「俺によこせ」
そこでいきなり横からイシュルが手を出し、ソニエからルハルドの遺稿を取り上げた。
「……」
呆然と、裏切られたような顔になるソニエ。
イシュルはルハルドの遺稿を両手で挟むように持ち替えた。
「ふふ」
……感じるぞ。これが闇の精霊の召喚陣か。表紙のすぐ内側にひとつ……。
そして裏表紙の内側にもひとつ。ご丁寧に二つ、同じ魔法陣が刻まれている。
まずは表の方からだ。
イシュルは立ったまま、その場で表紙を開いた。
黒い線と正体不明の記号、文字で描かれた魔法陣が目に飛び込んでくる。
異質な魔力がすぐ、眼前に吹き上がる。
瞬間。
ぱん、と音を立てて魔法陣の上に、イシュルの手のひらが置かれた。
闇系統の魔力が消失する。
「……!」
一同は唖然としてイシュルを見つめた。
「なんともはや」
ペトラがくすくすと笑いだした。
「イシュルの風の魔力の前には、闇の精霊も出てこれんか」
魔法陣の上に置かれたイシュルの手のひらからは、薄く青く輝く風の魔力が、微かに溢れ出ていた。
こぼれ落ちた風の魔力は床に達する前に消え、精霊の異界へと戻されている。
「ソニエ」
イシュルは薄く笑みを浮かべると言った。
「羊皮紙でもただの紙でもいい。手頃な大きさのものを持ってきてくれないか?」
その笑みが歪められる。
「はい……」
ソニエは力なく頷くと閲覧室の奥に引っ込み、すぐに巻紙をひとつ持ってきた。
「手を離せ」
イシュルは言うが早いかソニエの持ってきた巻紙を風の魔力で取り上げ、宙に広げた。
そしてルハルドの遺稿の本の大きさにあったサイズに、切り分けていった。
一同は無言でその様子を見つめる。
「ネル、姿を現せ」
イシュルがそういうと室内の天井、すぐ下に風の魔力が煌めきネルレランケが姿を現した。
「!!」
少女の風の精霊を見て一番驚いたのはソニエだったろう。
彼女は顔を真っ青にしてネルを見上げた。
「……」
ネルは無言で、だがこれでもかと酷薄な笑みをソニエに返した。
「うっ」
ソニエは小さく呻いて全身を震わせた。
「ネル、予定通りだ。小型の風獄陣を生み出す魔法陣を描け」
イシュルはそう言うと一旦手に持つ書物を閉じ、右手に持ち替え左手をネルレランケに差し出した。
「かしこまりました」
ネルはイシュルに一礼すると、宙に浮かんだ二つの紙片に同時に魔法陣を描き出した。
薄く茶色に染まった紙面に青い光が輝き、円形の複雑な文様が描かれていく。
「俺の血を使え」
イシュルは左手の指先を自らの魔法でかるく切って血を出した。
イシュルの血は宙を漂い、ネルの描いた魔法陣の上に落ちた。
魔方陣全体が一瞬、ぼうっと発光する。
「次だ」
イシュルが短く呟くと、今度は彼の前の空間に金の魔法が煌めいた。
金の魔力は細く暖色に輝く鉄となって、こまかく何度か折り曲げられ、やがて冷えて幾つかのクリップ、紙止めになった。
イシュルは再び書物を開くと、ネルの描いた魔法陣を素早く闇の魔法陣の上にかぶせ、宙に浮くクリップで四隅を止めていった。裏表紙にあった闇の魔法陣にも同様の処置を施した。
「これで完成だな。大事な書物を傷つけることなく、安全に何度でも読める」
風獄陣はその強度にもよるが、並の魔法なら問題なく封ずることができる。今回は高位の精霊であるネルが描き、イシュルの血が込められた魔方陣である。闇の召喚陣が起動する余地はまったくなかった。
昨晩の打ち合わせでネルは今回、彼女が人の世にいる間は起動し続ける、比較的簡単な魔方陣を描いた。
「ではブノワ殿、どうぞ」
「おお」
「素晴らしい……」
「よくたった、イシュル。さすがじゃの」
イシュルが後ろに、驚愕の表情で佇むブノワにクラース・ルハルドの遺稿を渡すと、周りから歓声が上がった。
誰も傷つかない、本も文庫の建物にも被害がまったくない、あまりにあっけない幕切れだった。
「また後日、レーネの回顧録を見せてもらいに来る」
イシュルは驚きと、あるいは屈辱と怒りに顔を歪めるソニエに声をかけた。
「その時はよろしく頼む」
イシュルの唇の端が、ぐいっと引き上げられた。
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