百年の頸木 2



 イシュルたちは翌日も国史閲覧室にこもって調査を続けた。

 次の日、三日目にイシュルは「今日は休みにしよう」とミラたちに提案した。

 ミラとリフィアは王都に別邸を持っている。彼女たちは王都に着いてからまだそれぞれの屋敷に帰らず、従者たちにも顔を見せていない。

 その日、ふたりはイシュルの提案を受け入れ、ミラは変わらず側に仕えるルシアを伴い、リフィアは単身、おのおの自身の屋敷に向かった。

 イシュルは彼女たちからそれぞれ、一緒に別邸の方に行かないかと誘われたが、「私用がある」と言って断った。

 ニナはふたりの誘いを断るイシュルを見て何か察したか、「今日は王宮に出仕する」と言って東宮に帰って行った。

 イシュルは居室でひとりになるとロミールを呼んだ。

「後宮に行ってマーヤに会いたいんだ。どうにかできる?」

 マーヤは普段、ペトラと共に後宮に起居している。

 以前、ユーリ・オルーラと対決した時は後宮を経由したが、今は平時で当然、イシュルは中に入れない。後宮の建物の前までは行けるとしても、途中にある内郭の城門はイシュルひとりで通ることはできない。城壁を飛び越えるのは簡単だが、騒動になるか、後で問題になるかもしれない。

「ええっ。それは……」

 ロミールはイシュルにお願いされると、露骨に困惑した顔になった。

「そこをなんとか。頼むよ、ロミール」

 イシュルが食い下がって頼み込むと、ロミールは「もう」とか「仕方ないですね」などと言いながら部屋の外に出て行き、しばらく戻ってこなかった。

 半刻ほど経つと、ロミールは何をどうしたのか、エバンを連れてイシュルの部屋に戻ってきた。

「イシュルさま、何か御用でも?」

「ああ、うん……これから後宮に行きたいんだ。マーヤに会いたい」 

「わかりました。わたしに着いてきてください」

 イシュルはエバンの後について後宮へ向かった。居室を出るとき、「ロミール、さすがだな。ありがとう」と声をかけると、彼はまんざらでもない顔をした。

 ロミールはフロンテーラを出発するとき、イシュルに旧大公家からつけられた従者だが、実際はただ身の回りの世話をするだけが彼の仕事ではなかった。ロミールは騎士爵家の生まれであり、剣術の心得もあり、イシュルの護衛役も務めながら一方で監視するのも彼の役目だった。だからロミールには王家の“髭”とのつながりもあった。

 西宮と、王宮や後宮など王城の中心部の間には、内郭を成す城壁がある。また、王城の内郭は場所により、中心部の一段高い丘の斜面を石積みで覆い、それを内郭の城壁としていた。

 西宮と王宮ではそれほど高低の差はなく、その間は高さ二十長歩(スカル、約13m)ほどの城壁で隔てられていた。

 イシュルはエバンの案内で、その西門を通り王城の内郭に入った。

 西門もユーリ・オルーラの攻城で被害を受けていた。

 左右の門塔の頂部、木造部分が吹っ飛び、あるいは焼け落ち、観音開きの門扉の片方が落ちて、その箇所を丸太を束ねた壁で塞がれていた。片方の扉は無事で、今は開かれていた。門の内外に全身鎧の衛兵が二名ずつ、槍を手に持ち立っていた。

 先日王城に入城した時と同じ、この時もイシュルは誰何ひとつ受けずに西門を通過した。

 城門を抜けるとすぐ、王宮へ続く石畳の道をそれ、南に向かう小道に入る。

 緩やかな坂道を登って行くと、時折形の良い木々の間に、使用人の宿舎や倉庫などが見えた。辺りは一面、冬のくすんだ下草に覆われていた。

 空には雲間に陽光が溢れ落ち、それほど寒さは感じない。

 王都ラディスラウスは大陸中部、バルスタールよりよほど南にあるが、内陸部かつ標高もやや高く、決して温暖とは言えない。だがここ数日はいい具合に夜は曇り、昼間は陽も出て冬の割には気温も高め、穏やかな天候が続いている。

「戦(いくさ)が終わってよかったな。……あんたらにはあまり関係ないのかもしれないが」

 影働きにはさまざまな仕事がある。エバンらにとって戦場諜報はあくまで臨時の仕事、本来は王家の護衛や貴族らの内偵の方が主任務であろう。

「……」

 エバンは愛想よく笑みを浮かべるだけで何も言わなかった。

「ん?」

 イシュルはそんなエバンを横目に見て、ふとその先に視線をやった。

 下草の広がる小さな空き地の奥の方に、数名の人影があった。貴族らしき服装の若い男が三名、それにメイドがひとり。

 男たちはメイドを囲み、何か話しかけている。

 彼らの顔の表情まではわからないが、あまりいい感じは伝わってこない。

「あれは何だ? からかってるのか? メイドにちょっかいだしてるのか」

「……そのようですね」

「やつらは?」 

「おそらく内務卿配下の、取次ぎ見習いあたりです」

 イシュルが再びエバンに視線をやると、彼は微妙な顔つきになって、少し言いづらそうにした。

「要は仕事をさぼって、メイドを引っかけてるってわけか?」

 まさか、この時間で仕事が暇、というわけではないだろう。もちろん、暇だったらメイドに手をだしてもいい、などということにはならないが。

「はい、そのとおりかと。あの方々は王都の貴族の次男や三男で、決して低い身分の者ではないのですが……」

 エバンが口を濁す。

 イシュルはにやりと唇の端を歪めて言った。

「つまりやつらはおぼっちゃん育ちで、仕事するのが嫌でさぼって女あさりしてるってことか? この王城で? 昼日中に?」

 しかも戦(いくさ)の傷がまだ癒えない、こんな時に。

「まぁ、そういうことですな」

 ……メイドを囲んでいる男たちはなるほど、みなまだ若そうだ。

 俺よりちょっと下か、上か。内務卿の取次ぎ見習いといったら、それくらいの歳だろう。

 そして家柄が良いのも当然だ。取次ぎとはつまり秘書役、秘書官である。それが内務卿の、となればかるい身分ではない。

 だがそれも次男、三男ともなれば、優秀な者でなければ、真面目な者でなければ、正式の秘書役、取次ぎにはなれないだろう。

 要は彼らはドロップアウトした、落ちこぼれということになるのだろうか。

「やつらを誰も注意できない、見て見ぬふりってことか。王宮でもあるんだな、そういうこと」

 イシュルは興味を失ったのか、視線を逸らした。

 あのメイドは可哀相だが、俺の知ったことじゃない。こんなことは街中でも、ガラの悪いところなら日常茶飯事だ。いちいち気にすることじゃない。

「行きましょうか。わたしも騒ぎになるのは避けたいですし」

「……」

 ふと、エバンの視線を感じて彼の顔を見ると、首を横に傾け薄っすら笑みを浮かべている。

 彼らに「やめろ」と注意できるのは同じ位の貴族か、でなければ王家のメイド頭となったクリスチナくらいだろう。

「……」

 イシュルはむすっとして男たちの方に数歩踏み出し、彼らを遠くから睨みつけた。

 距離は八十長歩(スカル、約60m)ほど。イシュルと若い男たち、メイドの間に隔てるものはない。一面下草の緩やかな傾斜のある空き地で、端の方に木立、捨て置かれた木材や切石があるだけだ。

 やがてイシュルの視線に気づいたか、男たちが揃ってメイドから顔を向けてきた。

 イシュルと男たちの視線がかち合う。

 男たちはすぐ視線をそらし、互いに二言三言何事か言葉を交わすとメイドの囲みを解き、空き地の西側、内郭の城壁の方へ消えた。

 メイドの女性がイシュルたちに一礼し、奥の使用人の宿舎のある方へ歩いて行った。

「行こう」

 イシュルはエバンに一声かけると、後宮の方へ向かって歩き出した。

「あいつら、おとなしく引きさがったな。こちらに食ってかかってくるかと思ったが」

 エバンは典型的な王宮の下級役人か貴族の格好、いつもより濃い茶色の上着を着ている。

 イシュルは白いシャツに焦げ茶のベストとズボン、黒革のコート。同じ黒革の、左手の目抜き手袋は少し異様な印象もあるが、彼らとは距離があり、それほど目立たなかった筈である。

 ……エバンも俺も、どう見ても高位の貴族の格好じゃない。ただ俺のなりは、王宮では異様に見えるかもしれない。彼らはそこら辺を警戒したのだろうか。

「イシュルさまから何か、ただならぬ気配を感じたんじゃないですか。あの方々はそういうのに敏感ですから」

 エバンもそんなことを言ってきた。

「あいつらはあんたを警戒したんじゃないか? やつらも“髭”の存在くらいは知ってるだろ?」

 イシュルが言い返すと、エバンはまた薄く笑みを浮かべて何も答えなかった。

 ふたりはそのまま道なりに進み、最後によく手入れをされた木々の間を抜けると、白壁の後宮の正面に出た。

 左側、北側には石畳に植え込みの並ぶ先に王宮が見える。後宮は右側、南側にある。

 エバンはそのまま、後宮の正面出入り口から中に入って行った。観音開きの扉が二つ並ぶ両端には衛兵が立っていたが、彼らは何も言わない。

「?」

 ……いいのか? 中に入っちゃって。

 イシュルもエバンに続き、首をかしげながら中に入った。

 入るとそこは、二階まで吹き抜けの大きなホールになっていた。両脇には二階に続く階段が伸びている。大きな屋敷や宮殿の一般的な造りだ。床は大理石で靴音が高く響いた。

「この広間までは、内務卿の許可を取れば男でも入れます」

 エバンが中を見回し言った。

「それではわたしはこれで。帰りは来た道をそのまま引き返してください。西門も問題なく通り抜けできます」

 エバンは広間の奥に現れた人影に目をとめ、次にイシュルに顔を向けるとそう言って一礼し、後宮を出て行った。

「ありがとう」

 イシュルがエバンの背中に声をかけ、前を振り返ると、黒いドレスを着た女官がひとり近づいてきた。

「ようこそ、イシュル・ベルシュさま」

 女官はそう言うと、イシュルを階段の脇に並べられた長椅子へ案内した。

「マーヤさまはすぐ参るとの仰せです。しばらくお待ちください」

「わかりました」

 イシュルが女官に頷いてみせ、奥の椅子に座るとすぐ、二階の奥の方からがやがやと数名の人の気配が近づいてくるのがわかった。

「イシュル!!」

 その人々の気配が階段を下り始めると、ペトラの明るい声がホールに響きわたった。

 ペトラ……。おまえは呼んでないんだがな。

 イシュルが椅子から立ち上がると女官が頭を垂れて奥に退き、ペトラがひょこひょこと駆け寄ってきた。後ろからマーヤとマリド姉妹が続いた。

「どうかの、マレフィオアの手がかりは見つかったかの」

「いや。まだだ」

 まだ王国史を調べはじめて三日、マレフィオアに関する記述、居所の手がかりとなるものは見つかっていない。

「そうかの。残念じゃな」

「昨日も話したでしょ。まだ調べはそんなに進んでないから。これからだよ」

 と、マーヤ。

 まあ、マーヤからペトラに報告は行っているだろう。

「うむ……」

 ペトラは口許をもぐもぐする。

「ペトラさまはイシュルさまに直接お聞きしたかったんですわ。マーヤさま」

 後ろからリリーナの柔らかい声。

「リリーナさん、アイラさん、久しぶりです」

「お疲れさまでした、イシュルさま」

「うむ。ご苦労でした、イシュル殿」

 イシュルがマリド姉妹に挨拶すると、リリーナ、マリドも満面の笑顔で返してきた。

 ふたりは金糸の刺繍の入った白の上下にブラウス、それぞれ襟元に赤紫と紺色のスカーフを見せ、細身の長剣を差している。異性ならずおそらく同性から見ても、惚れ惚れするような出で立ちだった。

「どうじゃ、イシュル。これから奥で茶でもともにするかの」

 ……はっ?

 リリーナが「まぁ、ふふ」と艶やかに笑い、アイラが頬を染めて顔を強ばらせる。

「いや、俺が後宮に入っちゃだめだろ」

 イシュルが肩を落として言うと、ペトラは「いいではないか。それぐらい〜」とニヤニヤして言ってきた。

 ……こいつ。それはなんだ? 既成事実でもつくる気か。

 まず掟破りだ処罰だというのは置いといて、ペトラと後宮の中に入ったら本当に、“既成事実ができた”と見なされかねない。

 もうこの場はさっさと切り上げる。

「……」

 マーヤの顔を見ると、彼女はすでにエバンを通じて「マーヤと会いたい」と聞いていたためか、真剣な表情で見つめ返してきた。

「ペトラ、すまないな。今日はマーヤとふたりきりで話したいんだ」

 イシュルも真面目な顔になって、マーヤからペトラへ視線を回し言った。

 そして再びしっかり、マーヤの黒い眸を見つめた。

「マーヤ。エレミアーシュ文庫の司書、ソニエ・パピークのことで聞きたいことがある」



 太陽に薄く雲がかかっている。

 冬の陽は午後になって早くも翳りはじめている。

 イシュルはマーヤを誘(いざな)い、先ほど若い貴族らがメイドを引っ掛けていた空き地までやってきた。

 ペトラはイシュルがソニエ・パピークの名を出すと、何も言わずにふたりを送り出し、そのまま後宮の奥へ戻っていった。

 イシュルは小径から外れ、空き地の端の方、柊の古木の前でまで進み、後ろから付いてきたマーヤに向き直った。

「マーヤ、あの司書と過去に何かあったろう? そのことを教えてくれないか」

 イシュルはマーヤを見つめ、努めて穏やかな声で言った。

「ん……」

 マーヤは一瞬、イシュルから目を逸らし躊躇する風だったが、すぐに視線を合わせてきた。

 彼女の眸に、微かにいつもと違う光がある。

 ……その光だ。それは何だ?

「ソニエとは、わたしたちが生まれた時からちょっと、あった」

 マーヤのいつもの、舌足らずな物言い。

「……」

 イシュルは思わず笑みを浮かべた。マーヤの話がはじまった。

 時は正確には、マーヤの生まれる直前にまで遡る。当時、ヘンリクとヴァレンティーナの間にひとり娘、ペトラが生まれる少し前、ペトラの乳母候補にふたりの女の名が挙がっていた。

 ひとりはエーレン伯爵夫人、ティオーナ。ヴァレンティーナよりやや早く、三人目の子を出産する予定だった。

 もうひとりはデクルース男爵夫人、リージャ。つい先日、一人目の子を出産していた。

 ティオーナの出産予定の三人目の子とは後のマーヤであり、リージャのはじめての子はソニエだった。

「結局ペトラの乳母には母上が偉ばれたのだけれど」

 ティオーナは伯爵夫人で男爵家夫人のリージャより家柄、身分が高かったことと、当時の王宮の何らかの政治的な事情で、地方の領主家であるエーレン伯爵家が選ばれたということだった。デクルース男爵家は都市貴族だった。

「でも母のティオーナと、デクルース男爵夫人のリージャを面談したヴァレンティーナさまが、わたしの母を気に入ったのが一番大きな理由だったみたい」

 その後、マーヤはペトラの乳姉妹となった。性格の大きく異なるマーヤとペトラだったが、なぜかふたりは妙にウマが合い、仲良しになった。

 マーヤは、ペトラと幼少期からともに過ごしながら一方で、父、ロルーゴからエーレン伯爵家の家宝である火精の杖を譲り受け、火の宮廷魔導師、ハルラム・リリューシに弟子入りした。

 ちょうど同じ頃、ソニエも水の宮廷魔導師、ルノーリ・ガンフォンの弟子となり、マーヤとソニエは同じ、宮廷魔導師への道を歩みはじめた。

 ソニエはいつ頃か、自分の母とマーヤの母のペトラの乳母をめぐる因縁を知り、互いが魔導師見習いとして王城で顔を合わすときなど、時にしつこく絡んでくるようになった。

 マーヤは当時そんなことは露知らず、ソニエに対し何の隔意も悪意も抱いていなかったが、ソニエはマーヤに対し一方的に対抗心、敵愾心を抱いていたようだった。

 そんなふたりが十五歳になり、いよいよ見習いから正規の宮廷魔導師となる頃、ある決定的な事件が起きた。

 当時、宮廷魔導師の重鎮、実力者として風の魔導師セムス・アレリード、そしてマーヤの師匠の火の魔導師ハルラム・リリューシ、ソニヤの師匠の水の魔導師ルノーリ・ガンフォンは王家の三傑と呼ばれ、次期宮廷魔導師長候補の最右翼と見られていた。

 その風、火、水の三名の魔導師は、お互いに長年ライバル視し競い合ってきたが、特に火のハルラム、水のルノーリは昔から仲が悪く、過去に何度かいざこざを起こしていた。

「火と水は、神さまも仲が悪いから。人間の魔法使いも仲が悪いことが多い」

 マーヤはいつものごとく、簡潔に言い切った。

「ああ。そうなのかな、やっぱり」

 ……火神バルヘルと水神フィオアが諍いを起こす話は確かにある。だがそれが人間の火と水の魔法使いどうしでも同じだ、というのはとても断言できるわけではない、と思うのだが……。

 だがとりあえず、イシュルは相槌を打っておいた。

「その二人が、あるお酒の席で口論になったの──」

 ちょうど王家より次期宮廷魔導師長が決定される頃、仲の悪かった二人の魔導師はとある酒席で、お互いの一番弟子のどちらが強いか、激しい口論になった。

 その一番弟子が、マーヤとソニエだった。彼女らの師匠は次期宮廷魔導師長の選出も近かったせいか互いに引かず、酒の席であったのも影響してか、実際に二人を戦わせて、どちらの言い分が正しいか決めることにした。

 ハルラムとルノーリは、正式に魔導師長を通じてマーヤとソニエの一対一の模擬戦、試合を王家に願い出た。許可はすぐに下り、数日後に王城内の練兵場にて二人の模擬戦が行われた。

 マーヤとソニヤの試合はお互いの契約精霊を直接戦わせ、二人は精霊の支援に回るというものだった。前評判では二人は互角か、ややマーヤが有利と見られていたが、実際に試合がはじまるとソニヤと彼女の水精が、マーヤと彼女の火精ベスコルティーノを終始圧倒し、ソニエが勝利した。

 マーヤがあっけなく敗れ去り、彼女たちの師匠や立ち会った多くの魔導師たちも不審に思わないではなかったが、ソニエの示した実力は明らかで、彼女は師匠のルノーリをはじめ多くの者から祝福され称えられた。

 だが後日、先の模擬戦に不正があったとルノーリ・ガンフォンが魔導師長に届け出、ソニエ・デクルースの勝利が取り消されることになった。

 試合の当日、ソニエは自らの魔法具を使わず、師匠のルノーリが自身のものと別に所有していた水系統の魔法具を使用した。ソニエは師匠に無断で、彼女の持つ魔法具より強力な魔法具を所持し、マーヤとの試合に臨んだのだった。

 ソニエが師匠の魔法具を勝手に持ち出したのを、他の弟子が目撃していて、その弟子がルノーリに事情を話した。彼はソニエを厳しく追及し、彼女がその事実を認めると隠蔽することなく正直に魔導師長に申し出た。

 この事件で、ソニエの師匠であるルノーリ・ガンフォンは宮廷魔導師の職を辞し、ソニエ・デクルースを破門にした。

 ソニエの不名誉は致命的で、彼女の父であるデクルース男爵は彼女を一族から追放した。以後、ソニエは母の遠縁にあたる今は絶えた家名、パピークを名乗ることになった。

 だが男爵は、裏では自らの娘を守ろうと各所に働きかけ、本来は王都からも追放されてしかるべきところ、彼女をどうにか王家の司書見習いに押し込んだ。

 王家の司書、特に歴代国王の文庫を担当する司書は、非常に特殊な役職である。

 司書は皆、個別に担当する書庫が決まっており、基本的に他の書庫の管理はしない。司書である間、他の部署への異動もない。大抵は一文庫に司書が一人割り当てられ、その下に見習いが一〜二名付けられる。司書も見習いも書庫から一定期間、一定距離離れることは禁止され、司書である間は友人、知人、親族らとの私的な接触も控えなければならない。それは異性に対しても同じで、男女ともに結婚はできない。

 つまり王家の司書である間は、外部との接触が著しく制限される。ただし、見習いが一人前になり現役の司書と同等の知識を得、業務の遂行が可能になれば、その司書は引退、辞めることができる。引退後は名誉騎士爵を授けられ、王都居住を条件に結婚も許される。

 当然引退後も王家書庫に関し守秘義務があり、これを破ったものは罪人となって処刑されるか、影の者により問答無用で暗殺されることになる。

 王家司書はこのように当人の生活、人生に大きな制約が存在するため、時に罪を犯したが正式に裁くことができない、表に出せないワケありの事情がある貴人の留置所、逃避先ともなっていた。

 問題を起こして王家書庫の司書となった貴族の子弟などは、引退後も街に出ることはできず、神官になるか、そのまま死ぬまで司書として務めるか、二つの選択肢しか与えられない。 

「ソニエをエレミアーシュ文庫の司書見習いに押し込んだのは彼女の父ではなく、師匠だったルノーリ・ガンフォンとも言われているの。ソニエの両親は彼女の不正が明らかになった時点で、男爵家に累が及ぶのを恐れ追い立てるように放逐し、その後は彼女を助けることはもちろん、一切の関係を絶ったとされている。……たぶん、こちらの方が正しい」

「なるほどな……」

 いつの間にか草木の影が東へ長く、伸びている。

 イシュルは視線を足許に向けると大きな溜め息を吐いた。

 続いて顔を上げ、変わりゆく空の色に眸を向けた。

「あの少女は自身を見舞った不遇と、己の情念にがんじがらめに絡め取られてしまっているんだ」

 イシュルは天を仰ぎ、呟くように言った。

 エレミアーシュ文庫はそんなソニエを繋ぎとめておくのに、最適な場所なのかもしれない。

「うん……」

 マーヤは静かに頷いた。

 彼女の顔に視線を落とすと、その眸のあの光はまだ消えていない。

「マーヤはカピーノ・ギルレが殺された時、あの司書に対して相当怒っていたな? あいつとの模擬戦を思い出したのか」

 イシュルは少し気後れしたが、思い切ってストレートに聞いてみた。

「……」

 マーヤの見上げてくる眸の光が強くなった。

「違うよ。ソニエはギルレ殿の死を明らかに喜んでいた。あんな残酷に死んだのに、歓喜していた」

 マーヤは「してやったり、という顔をしていたよね」と続けた。

「わたしはあれが許せなかったの」

 マーヤはイシュルから視線を逸らし、どこか遠くを見つめた。

「あれはわたしとの試合に勝った時と同じ顔だった。あの時、わたしはすぐにわかった。あの子が自分のものじゃない、他の誰かのもっと強力な水の魔法具をずるして使ってるって」

「……どうしてほしい?」

 イシュルは何の気なしに言った。自然とそんな台詞(せりふ)が出てきた。

「あの女司書を殺して欲しいか? 救って欲しいか?」

「王家の司書を殺したら重罪だよ? それとも本当に救えるの?」

 マーヤは薄く笑って再びイシュルを見つめた。その眸の光がわずかに揺れた。

「救えない」

 イシュルは表情を消して短く答えた。

「ソニエの場合は“殺す”と“救う”は同義だろう」

 そして酷薄な笑みを浮かべた。

「ソニエ・パピークこそが、エレミアーシュ文庫に磔(はりつけ)にされているのさ」

「……」

 マーヤは小さく頷いた。

「王家の書庫をなくすことはできない。彼女の妄執を消し去ることはできない」

 イシュルの言にマーヤは寂しげに微笑んだ。

 その時、王宮のある丘の下方から風が吹き上がってきた。

 イシュルはその風から守るようにマーヤの肩を抱き、後宮の方へ歩きはじめた。



 マーヤを後宮まで送り、イシュルは内郭の西門へ向かった。

 陽はいよいよ傾き、辺りは夕日に染まっている。門を出る時も、イシュルは誰からも何も言われなかった。

 西門を外郭に出ると、向かって右側、北側に内務卿の執務する西宮の中心となる建物があり、左側、南側にイシュルたちが起居する領主や外国の使者を迎える館がある。

 二つの建物は二階部分が連絡通路で結ばれ、一階部分はアーチ状の橋脚が立ち並び、奥の方へ通り抜けられるようになっていた。イシュルはその連絡路の下をくぐって裏手から居館に入ろうとした。

 周りにはちらちらと行き来する役人や使用人、メイドらの姿があった。

「……」

 イシュルは城門をくぐってすぐ、その連絡路の下、真っ黒に沈んだ影の中に数名のひとの隠れ潜む気配に気づいたが、素知らぬふりをして彼らの前を通り過ぎた。

「おい、待てよ」

 連絡通路の架橋を超えたところで、背後の影の方からイシュルに声がかけられた。

 振り向くと後宮に行く途中、内郭の空き地でメイドを引っ掛けていた三人組が姿を現した。

「……なんだ? 俺に用か」

 イシュルはあまりに陳腐な成り行きに、三人の若い貴族の間抜けぶりに、ぐっと笑いを噛み殺して言った。

「おまえ、さっき俺たちを睨んでたろう?」

 三人組の一番背の低い男が一歩前に出て言った。

 鼻の周りにそばかすのある、おそらくイシュルより一つ二つ年下の、まだ少年のような顔をした男だった。

「ああ、そうだったかな?」

 イシュルはたまらず口角を歪めた。笑いをこらえ、少し声が震えた。

「おい貴様、何がおかしいんだ?」

「何者だおまえ? どこかの田舎領主の従者か? ……そんなところだろう」

 二番目に背の高い男が凄んで見せ、三人の中では一番の年長者か、イシュルより一つ二つ年上に見える最も長身の男が最後に言った。

 長身の男はチラッと南側の館の方に目をやり、イシュルを“田舎領主の従者”と推測した。

 ……なるほど、俺はそんな感じに見えるかもしれないな。

 イシュルは心のうちで頷いた。

 どうやらエバンの見立ては違ったな。俺が魔力や殺気のようなものを出しても、こいつらにはわからない。

「おまえ、どこの家の家来だ?」

 最初に口をきいた男が無遠慮に顔を寄せてきた。

 この男はすでに、イシュルを田舎領主の従者と断定したようだ。はっきりと侮蔑の視線を向けてくる。

「どこでもいいだろう。……面倒なやつらだな」

 イシュルはその台詞そのまま、面倒くさそうな顔になって言った。

「き、貴様!」

 顔を寄せてきた男が手を上げ、イシュルのシャツの襟を掴もうとする。

「……」

 一瞬、イシュルの眸が見開かれ、口許に笑みが浮かんだ。

「貴公ら、そこで何をしている」

 突然、男たちの背後から凛々しい声が発せられた。女の、高い声だ。

「ん?」

「!!」

 彼らは揃って後ろを振り向き、顎が外れんばかりに驚いた。

 銀髪の美しい少女がひとり、立っている。

 男たちはその銀髪の女が誰か、知っているようだった。

「やぁ、リフィア。帰ってきたのか」

 リフィアは西宮北側の建物から出てくると、すぐにイシュルと男たちに気づいた。

 その直後、彼女は眸をわずかに赤く染めると、加速の魔法を控えめに発動、瞬く間もなく男たちの背後まで移動した。素早く動きながら、魔力の気配もうまく消していた。

 一瞬の出来事だったが当然、イシュルには全てが見えていた。

「リフィア・ベーム、辺境伯……」

 一番背の高い男が呻くように言った。

 ベーム辺境伯家は準公爵の家格である。加えて彼女は先々代の国王の弟、クラエスの孫に当たる。彼女の武名と併せ、いかな都市貴族の名門の子弟だろうと、まともに太刀打ちできる筈もなかった。

 いや、それよりも男たちは間近に見るリフィアの美貌に、すでに打ちのめされていた。

「ご愁傷様」

 イシュルは肩を落とし、小声で呟いた。





「……というわけで、ここに書かれた言葉に注意して国史を読んでいって欲しい。気になる記述を見つけたら、わたしたちに知らせるように」

 リフィアが「よろしいか」と念押しすると、三人の男たちは素直に「わかりました」と答えた。

 昨日のあの態度は何だったのか。同じ人物とは思えない変わりようだった。

「いや。あんたらは多少遅くなってもいいから、内容をよく把握しながら読んでいってくれ」

 イシュルは横から口を挟み、机の上に行儀良く並んで座る男たちに目をやった。

「いいのか、それで」

「ああ」

 イシュルはリフィアに視線を向け頷いた。

「そのうち、数を読んでいくに従い行間を、書かれていないことも何となくわかるようになっていく。国史は公式記録だからな。重要なことでもあえて記述されないことがある。さらに読み重ねていくと、王家の政(まつりごと)の細かいところまで、自然とわかるようになる筈だ。この役目はあんたらの将来にも役立つと思うぜ」

「わ、わかった」

「は、はい」

 イシュルが男たちに顔を向けると、彼らは吃りながら返事をした。

 首をかくかくと、何度も縦に振った。

「まぁ、ほほ。さすがはイシュルさまですわ」

 ミラが口許に手の甲を当て、高らかに笑い声を上げた。

 三人組は背の高い順に、名をジェーヌ・タジネ、セルジュ・ロドーヌ、リリアン・ラズペードと言った。みな王都の都市貴族、伯爵家の三男坊で、エバンの言った通り内務卿配下の取次ぎ見習いをしていた。

 彼らは名門とは言っても三男坊、他の見習いと比べ図抜けて優秀なわけでもなく、当人らにやる気もなく、さぼっても厳しく注意する者はいなかった。それで日中から王城の片隅を徘徊し、メイドを引っ掛けたりして無聊を慰め、暇をつぶしていた。

 リフィアは彼らの事情を知ると、マレフィオアに関する国史の調査に無理やり加えることを、イシュルに提案してきた。

 ジェーヌら三名は仕事もしていない、期待もされていない。一方でマレフィオアの調査には何百冊と言う国史に目を通さねばならず、人手があるのならいくらでも欲しいところだ。

 イシュルは反対はせず、だが賛成もせず、ジェーヌらの意志にまかせた。

 彼らはイシュルが誰か知ると当然、恐怖に震え上がった。最初は大いに戸惑っていたが、リフィアの説得と彼女の美貌に不承不承、応じることにした。

 翌日朝、国史閲覧室に行くとリフィアだけでない、ミラやマーヤ、ニナら粒ぞろいの見目麗しい少女らがいて、ジェーヌらは俄然、やる気になった。

 リフィアはマーヤと共に午前中に内務卿の許に出向き、ジェーヌら三名を借り受けることを了承させた。

 こうして新たな面子が加わり、マレフィオアの調査も大いに進捗することとなった。

 イシュルはエレミアーシュ文庫訪問をその日は取り止め、翌日午後に伸ばした。



 ……王家書庫を巡る回廊の前に立つと、不思議な気分になる。

 草地と低木の間を、独立して建つ先代王たちの書庫。その間を、白っちゃけた古い石造りの回廊が巡っていく。ある時は鋭角に曲がり、ある時は緩い曲線を描いて互いの建物を繋げている。

 イシュルは一歩、回廊に足を踏み入れた。奥の方へ、ゆっくりと歩いて行く。

 辺りはまったく人気がない。建物の中にまばらに感じる人の気配も動きが少なく、存在感が希薄だ。

 ……なぜか、黄泉路を歩いているような錯覚にとらわれる……。

 一緒について行きたい、としつこく迫ってきたミラやリフィアたちをいなし、イシュルはひとりでエレミアーシュ文庫に向かった。

 どのみち、エレミアーシュ文庫の閲覧許可が下りているのはイシュルだけだ。それに扉の前が処刑台を兼ねているなど、恐ろしいというよりは滑稽で無様な場所に、無理して彼女たちを連れて行く必要を感じなかった。

 国史閲覧室を出たところで、イシュルは後ろから声をかけられた。

 マーヤが不安気な顔をして立っていた。

「イシュル、ソニエを……」

 彼女は小さな声で言った。その言葉は途中で消えて、イシュルには最後まで聞こえなかった。

「……」

 イシュルは無言でマーヤの顔を見つめた。

 ……マーヤの続けて言いたかったこと、それは「殺して」だろうか。それとも「生かして」だろうか。あるいはその疑問形、「殺すのか」「生かすのか」だったろうか。

「マーヤ、あの女司書のことはあきらめろ。おまえが気に病む必要は何もない。あいつはおまえが考えているような救いは求めていない」

 イシュルはそこで微笑み、マーヤの肩に手を置いた。

「何でも誰でも、救おうとか考えなくていいんだよ」

「……」

 マーヤは何も言わない。

「あいつは殺さない。……ただ生きているだけでも、きっといつか、何かいいことがあるかもしれないもんな」

「うん」

 そこで微笑むマーヤ。

「じゃあな」

 イシュルは前を向くと閲覧室前の廊下を歩きはじめた。

 顔に浮かぶ笑顔が消える。

 ……嘘をついた。確かに俺はソニエを殺さない。その気はない。

 だがもっと恐ろしいことをあいつに……。



「……ネル」

 イシュルは回廊を歩きながら自らの風の精霊、ネルレランケを呼んだ。

 彼女にここ数日、同じ館に起居するミラやリフィアの護衛の他に、エレミアーシュ文庫の監視もそれとなく頼んでいた。

 ……はい、剣さま。

 ネルの控えめな声が脳裏に響く。やさしい声音だ。

「文庫とあの女の様子は?」

 ……特に変わりはありません。あの女は今もあの小さな館にいます。

「わかった。ネルは文庫の建物の外、上空に位置して魔封や迷いなどの結界が張られたらそれを破壊してくれ。あと外部からの余計な侵入者は阻止して、中に入れるな。……気配を悟られないようにな。俺が呼ぶまで決して文庫の中に入るな」

 ……はい、わかりました。剣さま。

 微かに、ネルの暖かく柔らかい存在感が触れてくる。

 それも一瞬のことで、ネルはすぐ、完全に気配を消した。

「……」

 イシュルはエレミアーシュ文庫の前まで来ると短い階段を登り、扉のノッカーを押した。

 しばらくして中で人が近づく気配がして、扉が開かれソニエが顔を出した。

「ようこそ、イシュル・ベルシュさま。お待ちしていました」

 ソニエの笑顔が深くなった。唇の両端が半月状に引き上げられた。

「これからエレミアーシュ王の文庫を閲覧したい。いいかな?」

 イシュルは何の気負いもなく、特に何の感情も見せずに言った。

「はい。こちらへ」

 ソニエも以前のような、挑戦的で嗜虐的な表情は見せない。

 中に入ると小さなホール、続いて控えの間がある。中は窓が小さく薄暗い。ホールの奥の壁には肖像画や、昔の聖堂教会の護符のようなものが飾られている。

 肖像画は若い頃のエレミアーシュ王だろう。特に惹かれるものはない。衣装はともかく、見た目は凡庸な男が描かれている。

 控えの間には左右に椅子が一脚ずつ、小机がある。室内も調度はいいものだが古い。

 そしてその奥に閲覧室があった。

 中は国史閲覧室と同じ構成で、手前に閲覧用の机と椅子が並び、奥に書棚が並んでいる。

 もちろん国史閲覧室と比較し、ふたまわりほど狭く、閲覧用の机は左右に二列ずつ、十名ほどしか座れない。

 そして机のひとつが新しいものに変わっていた。

 ソニエ・パピークはその机と書架の間に立ち、入り口に佇むイシュルに向かって言った。

「それで、どちらの書物をご所望でしょうか」

「机のひとつが新しいのになってるな。カピーノ・ギルレはこの机に座ったのか」

「そうです」

 ソニエはわずかに嗜虐の色を出し、笑みを浮かべた。

 あの時、カピーノが殺された時よりは随分と抑えられている。

 ……ここは俺も、クラース・ルハルドの遺稿を所望したいところだが、今はやめておこう。ブノワ・クベードが王都に到着するまでは、そのままにしておいた方がいい。それにまだ装丁の修理が終わっていないかもしれない。

「ふん……なら、マレフィオアについて書かれている本を頼む」

 イシュルは微笑を浮かべてソニエを睨んだ。

 先日、カピーノ・ギルレが殺された時、この司書はマレフィオアや森の魔女レーネに関する著書がある、ようなことを言ってきたのだ。

「はい。ございます。一冊だけですが」

 ソニエも笑みを大きくして言った。その眸が微かにギラつく。

 彼女は書庫の奥に消えるとすぐに片手で持てる大きさの、やや薄めの本を一冊、持ってきた。

「こちらでございます」

 イシュルは部屋の中へ進み、その書物を受け取るとすぐ、手のひらからゆるく風の魔力を流した。

 ……この本には魔法的な仕掛けはされていない。“引っかかる”ものはない。

「……」

 そしてその黒い布で装丁された表紙に目をやり、思わず落胆のため息を漏らした。

 その本のタイトルには「古代ウルク王国正史・付(覚書)」とあった。

 それは以前、聖都でデシオ・ブニエルから借りた本と同じものだった。

 今のこの本の方が装丁はしっかりしているが、おそらくあちらがオリジナルかそれに近いもので、これは写本だろう。

 イシュルはその場でかるくページを捲り中身を確認すると、顔を上げてソニエに言った。

「これは以前読んだことがあるな。多分こちらの方が写本だ」

「そう、ですか……」

 ソニエは一瞬顔を引きつらせたが、すぐ微笑を作って言った。

「他にマレフィオアに関して詳述された本はありませんね」

「詳述? 詳しくでなければ他にもあるのか」

「はい、あると思います。わたくしもこの文庫にある書物のすべて、一言一句までは憶えておりませんが、おそらくこの書なら、という見当くらいはつきます」

 ソニエは職業的な顔になって、口調で言った。

「まぁ、今はいい。一応この本の内容を確認させてくれ。以前読んだ本に書かれていない事柄も書かれてあるかもしれない」

 イシュルはそう言うと手頃な椅子に座って、黒い布の本を開き読み出した。

 開かれた小さな窓から、冬の日の乾いた風が吹き込んでくる。

 ソニエは奥の方へ退くとその場で微動だにせず、エレミアーシュ文庫の室内を四半刻ほど、奇妙な静寂が訪れた。

「ふむ……」

 イシュルは開かれた書物から顔を上げると窓外に目をやった。

 そしてソニエに顔を向け言った。

「この本は以前に読んだ本と同じものだ。ただ」

 最後の項の余白に、書写した人物とは違う筆跡で、書き込みがあった。

 それは「地の大神官、デュドネはこの後ウルクの国史に一切登場せず、ウルク王国がマレフィオアを実際に討伐できたか、疑問が残る」というようなことが書かれてあった。

「この後から書かれた、走り書きのようなものは誰だ? 誰が書いたかわかるか? もしかするとエレミアーシュ王自身か」

 このメモは筆致になかなかの風格があり、達筆である。

「……まさにイシュルさまのおっしゃる通り、エレミアーシュ王ご自身のものです」

 ソニエはイシュルから本を受け取り、その項を確認するとしっかり頷き微笑を浮かべた。

「エレミアーシュ王は文人王とも呼ばれております。実はこの書庫の蔵書の四分の一ほどは、かの文人王の著作になります。ただその多くは備忘録や日記となりますが」

「そうか」

 ……文人王ね。どこかで聞いた覚えがあるが。

「それではこちらはどうでしょう。マレフィオアのことは書かれていないかと存じますが、イシュルさまが気にしておられた方の書かれたものです」

 ソニエはいつの間に取り置きしていたのか、机の端に置かれた書物を取り上げ、イシュルに見せてきた。

 それほど大きくはないが、やや厚めのしっかりとした装丁の本。

「なんだ?」

「かつてのイヴェダの剣、レーネ・ベルシュ男爵の回顧録です」

「レーネの?」

 回顧録、だと? あの婆さん、そんなものを残していたのか。

「はい、そうです。どうぞ、イシュルさま」

 ソニエは笑みを浮かべ、茶色の革の表紙の本を差し出してきた。

「ああ」

 イシュルはソニエの眸の奥を覗きこんだ。

 ……さて、どんな仕掛けがあるのやら。

 彼女にレーネの回顧録に王封がしてあるか、聞くべきだろうか?

 今この瞬間は、彼女の眸にこの前のような殺気は見えない。

 ……いや、この女に聞いてもしょうがない。嘘をつくかもしれないし、持った時に魔力を通してみればすぐわかる。

 イシュルの右手が差し出される。 

 ……どのみち、森の魔女レーネのことも調べなければならない。避けては通れない。

 王都へ向かう途中、オベリーヌ公爵の居城、オークランス城で元宮廷魔導師の老人、セムス・アレリードはマレフィオアに絡め、「レーネの事蹟を知りたければ、王家のエレミアーシュ文庫を調べろ」と言ってきたのだ。

 ……ソニエは記載がないようなことを言ったが、もしかするとレーネの回顧録に……。

 イシュルがその書物をソニエから受け取ろうとした時。

 一箇所だけ開け放たれた窓から、人々の慌ただしく駆けてくる気配がした。

「なんだ?」

 イシュルは窓の方に目をやった。二、三名が固まって……。

「こちらへ向かってくるな」

 ソニエからの反応はない。彼女は向かってくる者たちを阻止しなかった。

 イシュルも文庫の出入り口の方へ向かった。

「!!」

 ちょうど控えの間を出たところで、ノックもなしにいきなり出入り口の扉が開けられた。

「イシュルはいるか!」

「イシュルさま!」

 リフィアとミラが慌てた様子で顔を出す。

「どうした?」

「見つかったぞ。ブレクタス地下神殿とマレフィオアの記録が」

「おおっ!」

「さっ、急ぎましょう。詳しくは国史閲覧室でお話ししましょう」

 ミラがちらっとイシュルの背後、ソニエ・パピークの方に目をやり言った。

「わかった」

 イシュルはミラに頷き、後ろを振り向きソニエに言った。

「レーネの回顧録の方はまた後日改める。よろしく頼む」

「わかりましたわ」

 ソニエは先ほどから同じ微笑を貼りつけたまま、かるく頭を下げた。

「──八十年ほど前の国史に、王家がブレクタス地下神殿に調査隊を派遣している記録が見つかった」

 回廊を編纂室の方へ歩きながら、横からリフィアが言ってきた。

「そして今度は、九十年ほど前にも、地下神殿に調査隊を派遣している記録が出てきたのです」

 と、今度は反対側からミラの声。

「えっ?」

 疑問の表情を浮かべるイシュルにリフィアが説明する。

「最初見つけた八十年前の記録に、十年前の派遣に続き、との記述があったんだ。それで九十年前の国史を先に調べた」

「なるほど」

 運良く芋蔓式に見つかったわけだ。

 国史閲覧室に着き、扉を開けると今度はジェーヌら三人組が緊張した顔で近寄ってきた。

「あ、あの」

「い、イシュル殿──」

 緊張と興奮で吃る男たち。そこへ横からニナが顔を出した。マーヤは後宮に戻ったか、姿が見えない。

 ニナは眸に強い光を宿してイシュルを見上げてきた。

「また記録が出てきたんです。百年ほど前に、レーネ男爵がブレクタス地下神殿を訪れています」

「……!」

「なっ」

 ミラとリフィアが声にならない叫び声を上げる。

「なんだと……」

 イシュルは鋭い視線をニナに向けた。

 一瞬、あの皺に覆われた老婆の顔が浮かんだ。 

 

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