百年の頸木(くびき) 1



 その男は死の間際、どれほどの呪詛を撒き散らしたことだろう。

 裂けんばかりに開かれたその口腔からは、今にも耳をつんざくような絶望の叫声が聞こえてきそうだ。

 そのカピーノ・ギルレの惨死体を背負うようにして、ソニエ・パピークの冷徹な眸が見下ろしてくる。

 横でぎりっと、マーヤの火精の杖が鳴った。

 杖の先が細かく震えている。彼女は己の指がちぎれ、吹き飛んでしまいそうな異様な力で火精の杖を握りしめていた。

「噂には聞いていたけど」

 マーヤはソニエを見上げて言った。

 いつもと違う、低く強い声だ。

「あなたが本当に、こんなところにいたなんて」

「久しぶりね、マーヤ」

 ソニエ・パピークはその歪んだ笑みをそのまま、イシュルからマーヤに向けた。

「あなたもあれから、少しは強くなったのかしら?」

 そしてその唇をさらに歪めた。

「むっ……」

 マーヤの小さく呻く声がする。

 だがそれは悔しさよりも多分に、侮蔑が含まれているように聞こえた。

「……!」

 イシュルはマーヤの横顔を見て呆然とした。

 彼女は今まで見たこともないような、強い怒りの表情をその面(おもて)にのぼらせていた。

 ……そうか。そういうことか。

 イシュルはアンティラ宮殿での晩餐で、不可解な感情を宿した彼女の眸を思い出した。

 あの時のマーヤの存念。思い。それがこれだったのか。

 具体的なことは何もわからない。だがこのふたりの間に、ただならぬ因縁があることだけはわかった。

 ……剣さま!

 そして先ほどから、ネルレランケがぐいぐいと心のうちを押してくる。

 彼女が俺の指示を待っているのだ。この目の前の少女、ソニエ・パピークを殺させろと、命令をくれと、言ってきているのだ。

 いつもは慎重、冷静なネルが珍しく、明らかな殺意を抱いて隠さない。

 ……だめだ。今は我慢しろ。今は姿を見せるな。

 エレミアーシュ文庫の司書、ソニエ・パピークはネルと外見がよく似ている。

 これは使える。

 ネルの姿を見たら、この冷酷な女司書はどんな顔をするだろうか。

 だが今はまだ、その時じゃない。

「マーヤさまっ!」

 イシュルとマーヤの背後、回廊の屋根を支える円柱の影からエバンともう一人、“髭”の男が飛び出してきた。そしてそれぞれ、イシュルとマーヤの両端に膝を落として控えた。

 彼らは扉の前に立つソニエを見上げ、厳しい視線を向けた。

「……」

 ソニエはだがわずかに表情を緩め、余裕の面持ちで “髭”の男たちを見やった。

 場所が場所だからか、エバンらは今は帯剣していない。

「ははっ……」

 イシュルはなぜか可笑しくなって、小さく笑い声をあげた。

 ……王城で猟奇殺人か。早速、いかにもな殺人事件が起きてしまったわけだ。

 しかし犯人も、おそらく動機もすでに明々白々だ。たとえば名探偵が活躍する場面など、最初から存在しない。

 イシュルは自身の顎に、指先をそわせた。

 バルスタール城塞線の再整備の鍵となる人物、カピーノ・ギルレの命が失われたのは確かに王家にとって痛手だ。

 だがカピーノには悪いが、見た目と違い、使われた魔法自体はチンケな闇の魔法だ。

 以前、赤帝龍討伐に向かう道中で襲ってきたエミリアの妹エンドラ、彼女が放ってきた闇の精霊。あれのちょっと強力なやつがカピーノを襲ったのだろう。

 襲わせたのがこの女司書、ということになるのか。

「何がおかしいのです? イシュル殿」

 ソニエ・パピークは余裕の笑みを微かに曇らせ、イシュルを睨みつけてきた。

 ……まさか、俺への見せしめ? ではあるまい。王家への挑戦、でもないだろう。

 気をつけろと、これがヘンリクの言っていたことか。

 カピーノが調べていた築城の名匠スカル・メルカドの弟子、クラース・ルハルドの遺稿。その書物に何らかの仕掛けが、制約がかけられていた、ということだろう。

 そこにこの女司書が一枚噛んでいる。……そんなところか。

 王家の許しを得ても、それでも閲覧を拒むもの。無理に見ようとすれば命を奪われかねない、何かの仕掛け。決まりごとがあったのだ。

 それがエレミアーシュ王か、クラース・ルハルドの生前の意志だった、ということになる。

「……いや、別に。ところでその遺体を、扉の前に吊るしたのは誰だ?」

 笑みをむしろ大きくして、イシュルはソニエに質問した。

 まさかカピーノを殺した闇の精霊が、この扉の前に吊るしたわけではあるまい。

 ソニエが武神の魔法具を持っているのならいざ知らず、彼女自身にそんな力があるとは思えない。

 文庫付きの下役か誰か、力仕事をする者が他にいるのだろう。カピーノを扉の前に吊るしたのも、“決まりごと”なのだ。

 女司書の微笑が消える。

「書庫で下働きをしている下男どもです」

「おまえが命じたのか?」

「そうです」

 ソニエは機嫌の悪そうな顔になってイシュルを見下ろした。

 ……これは茶番だ。百年前の王の遺言なんて、俺にとってはどうでもいい話だ。

 ただ単に、魔法で対決するのならたいしたことじゃない。はなから勝負になどなりはしない。

「そうか、それはご苦労さん」

 イシュルはかるい口調で言うと、眸を細めソニエを見つめた。

 それは何ということもない、小動物をこれから狩るような目つきだった。

「ふふ」

 だがイシュルと視線を合わせると、ソニエ・パピークも負けじと笑みを浮かべた。

「イシュルさまのお探しのもの、司書長から伺っています。その時はわたしが案内いたしますわ」

 再び、その笑みが歪んでいく。

「確か、マレフィオアのことだったでしょうか? それとも……」

 その眸が妖しい輝きを帯びていく。

「ソニエ、控えなさい。あなたが目の前にしているひとが誰だか、わかって言ってる?」

 マーヤが冷たい口調でソニエを遮った。

 だがソニエはマーヤを無視し、続けて言った。

「……それとも、かつてのイヴェダの剣、レーネ男爵の著書でしょうか」

 その唇が、絵に描いたような半円を描いた。



 その後、エレミアーシュ文庫の前に人々が続々と集まり、辺りは騒然となった。

 まず一番最初にやってきたのは、イシュルらと同じように闇の魔力の発動を感じ取ったか、あるいは精霊のシャルカの注進があったか、ミラとリフィアにルシア、当のシャルカの四人だった。

 ソニエはミラたちが回廊を駆け込んでくるとイシュルらに一礼し、何度目かの挑戦的な笑みを向けると、文庫の建物の奥に消えていった。

 続いて“髭”の知らせを聞いたか、ルースラ・ニースバルドとドミル・フルシークが、そして編纂室長のピアーシュ・イズリークが駆けつけてきた。

 さらに少し遅れて内務卿の取り次ぎ役、王家騎士団の副団長と正騎士らまで姿を現した。   続々と集まってきた王宮の者たちへの説明はマーヤにまかせ、イシュルはミラやリフィアたちに状況を説明した。そこに遅れてやってきたニナにも加わった。

「その悪霊は多分、名匠スカル・メルカドの弟子、クラース・ルハルドが自著に仕掛けた召喚陣から出てきたのだろう。自分の遺稿を簡単に見られることがないように、自分の死後も秘匿性を保てるように施したんだと思う。カピーノ殿、とやらはそれで犠牲になったのだ」

「悪霊の召喚陣はクラース・ルハルドではなく、その書物を所有していたエレミアーシュ王が仕込んだのかもしれません。王家の者以外、たやすく閲覧できないようにしたかったのでしょう。遺稿の内容が築城術に関する重要な事柄であれば、王家が独占し他に漏れないようにすべきと、かの王が考えたのかもしれません」

 リフィアとミラがイシュルに向かってそれぞれ所見を述べたが、内容はほぼ同じ、悪霊を仕掛けたのが著者か、遺稿の所有者の国王かの違いだけだ。

「そうだな。きみらの考えで正しいと思う」

 ……二人の言っていることは俺でも推理できた。とりあえず今は、仕掛けた者がクラース・ルハルドでも、エレミアーシュ王でも、どちらであってもそれほど重要ではない気がする。

 問題はあれほど露骨な敵愾心を見せてきた、ソニエ・パピークの立場だ。エレミアーシュ文庫の司書として、単にカピーノ・ギルレの閲覧に立ち会っただけなのか。

 彼女のあの挑発の意味するもの……。ソニエ・パピークは、王家の書庫を管理する者は、ただの司書ではないのだ。あの少女はエレミアーシュ文庫の秘密のいわば“守護者”なのだ。

 ソニエはカピーノ・ギルレの死にむしろ積極的に加担した、悪霊召喚へ誘導した可能性が高い。

 彼女は「マレフィオア」と森の魔女、かつてのイヴェダの剣、「レーネ」の名を出して、「わたしが案内する」と言ってきた。

 ……あの少女は俺に「かかってこい」と、挑発してきたのだ。

 そして、過去に何があったのか、彼女とマーヤのただならぬ関係……。

 ミラとリフィアは未だ愕然と、扉の前に吊るされたカピーノ・ギルレの死体を見上げている。

 ニナの反応はもっと酷く、顔を真っ青にして全身を震わせていた。

「ニナ、大丈夫だ。怖れる必要はない。ただの悪霊の仕業だ。この文庫に入れるのは王家のひとたちと俺だけだ」

 イシュルはニナの肩に手を置き、笑みを浮かべて言った。

「はい……」

 ニナが少し明るい顔になって頷くと、今度はリフィアが心配そうな顔になってイシュルに声をかけてきた。

「イシュル」

 ミラとリフィアは連合王国との戦(いくさ)でも何度か、最前線で戦っている。

 呆気にはとられても、今さら酷い死体を見て怖れおののく、と言うほどの衝撃は受けていない。

 リフィアの心配、はニナのそれとは別のものだ。

「大丈夫、力づくではやらないから」

 イシュルは「ふふ」と小さく笑い声をあげて言った。

「ちゃんと王家のしきたりだの、王宮の掟だのは守るようにするから」

 と、そこで悪い顔になって冗談半分につけ加えた。

「できる限りはな」

「まぁ、イシュルさまったら。ほほ」

 ミラがわざと過剰に反応し、笑ってみせる。

「うむ……」

 リフィアは「仕方がない」、というふうに肩をすくめ薄く笑って見せた。

「……」

 イシュルたちの会話に、ニナもつられるように笑みを浮かべ、緊張を解いていく。

 ……できる限り、というのは本当は冗談じゃないんだがな。いざとなったら王家書庫のしきたりなど、当然無視してやる。

「イシュル殿っ!」

 イシュルが、裏でそんなことを考えながらニナに微笑んでいると、後ろで切羽詰まったルースラの声がした。

 振り向くと、恐ろしい顔をしたルースラがすぐ後ろに立っていた。

 彼の背後にはドミルや編纂室長、内務卿の配下の者や騎士団の連中に説明を続けているマーヤの姿が見えた。周りは他にも私語が絶えず、騒然としている。

「これは捨て置けません。直ちに陛下と善後策を講じなければなりません。……カピーノ殿を失ったのはあまりに痛い」

 普段は温和なルースラが眸に殺気を漲らせ、鋭い口調で言った。

 彼はまさしく、悲憤慷慨していた。

「そうですね」

 イシュルは視線をちらっとカピーノの死体に向け、小さく頷いた。

 ……カピーノ・ギルレは築城術に関し、よほどの人物だったのだろう。あるいはルースラと個人的な交流もあったかもしれない。これはルースラにとって、王家にとっても重大事なのだ。

「ヘンリクさまとの合議にはぜひイシュル殿も同席されたい」

 ルースラは血走った目を向けてきた。

「えっ、ああ……」

 ルースラの思惑はわかる。

 彼の意図は、「ここで北線城塞の築城を諦めるわけにはいかない。カピーノの代役を立て、何としてもクラース・ルハルドの遺稿を明らかにする、築城術を手に入れる」といったあたりだろう。

 それに俺の力を貸せ、と言ってきているわけだ。

 またも便利使いされてるわけだが、悪い話じゃない。あのソニエ・パピークの、高慢な鼻柱をへし折ってやるのも悪くない。

「いや……」

 イシュルはルースラに薄く笑みを浮かべて見せた。

 ……それにエレミアーシュ王の、王家の掟とやらを踏みにじるのも一興ではないか。

 ラディス王家が延々と蓄積されてきた知識を、知恵を独占しようとするのはある意味、仕方がないことだ。それは王家の強みに、安泰につながる。

 この世界は上も下も一子相伝とか、徒弟制度が幅を利かせている時代である。さまざまな知識や知恵、技術が秘匿されて表に出てこない。社会に広がらない。

 まだそういう文明度なのだ。そのことに文句はないが、そのために有為の人間の命がたやすく失われるのはどうだろうか。そんなことでは社会の発展どころか、衰退をさえ招きかねない。それがたまたま好人物であるとか、親しいひとであったなら、なおさら納得できない。

 俺は個人的な感情の問題をないがしろにする気はない。たとえその対象が王家の掟であろうと。

「……」

 ルースラがイシュルの顔を見て愁眉を開いたか、表情を和らげ頷くと、その背後から上背のある老人が声をかけてきた。

「そなたがイシュル・ベルシュ殿か」

 イシュルが「そうです」と答えると、老人は王家編纂室長のピアーシュ・イズリークと名乗った。

 そして「今は司書長も兼務している」と続けた。

「先代の司書長は先のオルーラ大公との攻城戦で討ち死にされての」

「王家書庫の司書には、それなりの魔法具を持つ者もいるのだ。司書長はあの時、北宮に出て討ち死にされたようだ」

 そこへ変わらず黒ずくめの、ドミル・フルシークが割り込んできた。

「そなたの従軍には、わしからも感謝申し上げたい」

 ピアーシュ・イズリークは型通りの礼をイシュルに伝えると、話を続けた。

「そなたと連れの方々、リフィア・ベーム殿、マーヤ・エーレン殿、ニナ・スルース殿、そして異国の方」

 ピアーシュはその鋭い視線をミラに向けた。

 彼は歳は六十代後半くらいか、禿頭で白い髭を生やし、なかなか眼光が鋭い。

「ミラ・ディエラード殿に、編纂の終わった王国史の閲覧許可が出ておる」

「ありがとうございます」

 ミラは聖王国の名門貴族だが、ピアーシュに対し神妙な面持ちで腰を落とし一礼した。

 リフィアたちも頭を揃って下げた。

 司書長兼務編纂室長という役職は、位(くらい)としてはそれほど高くない筈だが、職務の内容的には数多の諸侯から尊敬を得ることがあるかもしれない。一部の神官や高名な学者と並び、大陸では知識階級の頂点にある存在といえるのではないか。

「イシュル殿。こんなことが起きてしまったからの、貴公らとの面談も明日に伸ばそう。よろしいか?」

「わかりました」

 ……ヘンリクと面識のある、いや国王の配下である築城術の駿才が王家書庫で殺された。これは確かに重大事件だ。この老人も多忙だろう。

 イシュルはピアーシュとの面談延期を了承した。

「司書長殿、あなたも陛下との内議には参加していただきますぞ」

 ルースラが再び厳しい顔つきになってピアーシュに言った。

 今回の件でヘンリクと善後策を講じるというのなら、確かにピアーシュの存在は欠かせない。

 ルースラは個人的な感情や面子は他に置いても、クラース・ルハルドの遺稿、その中身をどうしても手に入れなければならない。バルスタール城塞群をより強靭なものにするため、諦めるわけにはいかない。

 だからピアーシュから、エレミアーシュ文庫に関する有益な情報を得なければならない。

「ここの司書、ソニエ・パピークは呼ばないのですか? 彼女に対する聴取は?」

「そんなことをしても意味はない。それに、ソニエは陛下に簡単に拝謁できる身分ではない」

 イシュルが誰にともなく質問すると、ピアーシュが憮然とした面持ちで答えた。

「……」

 イシュルはピアーシュの物言いに薄く笑みを浮かべた。

 ……彼女の身分が低いのなら俺はどうなんだ? というのはあるが。……それはさておき、つまりソニエ・パピーク本人に大きな権限はない、ということだ。

 なのに、あの少女の挑戦的な態度は何だったんだ? 

 それは彼女が単に、エレミアーシュ王の権威をかさにきている、ということでいいのか? それで済ませていいのだろうか。

 イシュルは騎士団副団長らと話している、マーヤの小さな後ろ姿を見つめた。

「あれはそれなりの悪霊の仕業であるのは間違いない。だが力のある魔導師なら充分に対処できるだろう」

 横からドミルがちらっとカピーノ・ギルレの死体に目をやり、イシュルに話しかけてきた。

 その冷たい眸には、誰に向けられたものでもない揶揄の光が浮かんでいる。いつものドミルの視線だ。その先が人間の死体であっても変わりはない。

「ただそれが、書物に記された召喚陣によるものだとしたら……。その貴重な本に傷をつけずに、もちろん文庫内にも被害を出さずに、ことを済ませられる者となると、その数は限られてくる」

 イシュルを見つめるドミルの眸が細められる。

「そうでしょうね」

 ……それはつまり、荒神の、闇系統の魔法具を持つあんたか、俺くらいしかいない、とでも言いたいわけか?

 確かに召喚陣を無力化するなんて簡単だ。風や金(かね)、特に風の魔力をそのまま魔法陣に当て、力づくで押さえつけてしまえばそれで済む。魔力を周りに解放しなければ、直接の被害は出ない。

 ただ、その召喚陣がどこにあるか、書物のどこに記されているか、わからないと後手に回るかもしれないが。

「……やっときたか」

 ドミルがイシュルの後ろへ視線を向けた。

 振り返ると、王家騎士団の正騎士が、数名の衛兵を連れてこちらへ駆けつけてくるのが見えた。

 


 城の衛兵が鎖を解き、カピーノの遺体を下ろしている。

「……」

 イシュルはその扉の奥、エレミアーシュ文庫の建物内部に風の魔力の探知を向け、間取りや書架の配置などを探った。

 文庫内は扉の奥に小さなホール、控えの間、そして書架の並ぶ収蔵庫と閲覧室が一緒になった大きめの部屋があり、その奥にも小部屋が幾つか続いている。

「イシュル、気づいた?」

 横からマーヤが声をかけてくる。

「ん?」

 マーヤは杖で扉の下方、その左右の脇に壁から突き出た、鉄の輪を指し示した。

 位置は扉の手前にある三段の階段の三段目よりやや下、目立たない場所にある。

「……!」

 イシュルは視線をそのまま上へ、カピーノ・ギルレを吊るしていた鎖が結ばれていた上部の鉄の輪へ移した。

 それは下にある鉄輪と同じものだった。

「まぁ……」

「な、に……」

「えっ」

 ミラやリフィア、ニナも揃って驚きの声を上げる。

 今は周りには他にルースラと、ドミル、エバンら“髭”と騎士団の者しかいない。司書長兼編纂室長の老人、ピアーシュ・イズリークや内務卿の下役、騎士団の副団長らは帰ってしまった。

「……」

 カピーノの遺体が扉の前からどかされると、入れ替わるようにしてイシュルは階段を登った。

 三段目の敷石には、四角い石が中央と左右に三箇所、はめ込まれていた。

 ……これは木の柱か何か、杭みたいなものを、差し込めるようになっている……。

 階段にはめ込まれた四角い石を外すと、ちょうど一辺、十指長弱(サディ、約20cm弱)ほどの角柱をはめることができる。

「これは……」

 イシュルは階段の上からマーヤたちを振り返った。

 ルースラとドミルは、回廊まで下されたカピーノ・ギルレの遺体を検分している。

 鎖を留めていた鉄の輪はランタンを吊るしたり、何かのプレートを懸けるのに使われるものだと思ったのだが……。

「……ふふ」

 呆然とした顔で見つめ返してくるマーヤ、リフィアとミラ、それにニナ。

 イシュルは彼女たちに微笑んでみせた。

「これは処刑台だ」

 ……くだらない。

 上下左右に壁から突き出た鉄の留め具に、杭を立てる穴。

 エレミアーシュ文庫の扉の前は、処刑台になっているんだ。

 見せしめにするためか。

 王家の秘書はそう簡単には明かせない、ということか。

「……なんてことでしょう」

 ミラが両手で口許を隠して言った。

「そういうことなんだね」

 マーヤが肩をすくめる。

「……」

 ニナは無言で顔を引きつらせ、リフィアは両腕を胸の前に組んで難しい顔になった。

 彼女たちの背後を、戸板のような木板に載せられたカピーノの遺体が通り過ぎて行った。




 夜闇が深くなる頃、イシュルはひとりで先日、ヘンリクと昼食をともにした屋敷に向かった。

 かつて彼が亡妻と娘と住んでいた小宮殿は、イシュルたちの起居する南宮の建物のすぐ南の区画にある。

 真っ黒に沈んだ木々の間を少し歩くと、すぐ彼の屋敷の門前に出る。その門前で、続いて玄関の扉の前で衛兵の誰何を受け、中に入ると執事長のセヴァンテスが待っていた。

「イシュルさま、こちらへ」

 セヴァンテスの渋い声に導かれ、邸内の晩餐室と思われる部屋に案内される。

 夜更けのせいか、屋敷の中はひとの動きも少なく、どこも薄暗い。

 イシュルの案内された部屋も同じで、明かりは抑えられていた。

 部屋の中央にある食卓の周りだけが燭台に照らされ、背景の暗闇から浮き上がって見えた。

「お待たせしました」

 イシュルは卓上に居並ぶ面々をさっと見渡し、自身が最後らしいのを確認すると、すぐ腰を折って一礼した。

「いや。大丈夫だ」

 重厚な食卓の奥からヘンリクの声が聞こえた。

「空いているところ、好きな席に座ってくれ」

 こげ茶のテーブルの周りには奥の上席にヘンリク、向かって右にドミルとルースラ、左にペトラとマーヤ、そして司書長兼編纂室長のピアーシュ・イズリークが座っていた。

 イシュルは自然とピアーシュの向かい、ルースラの隣の席に腰を下ろした。座る時はセヴァンテスが椅子を引いてくれた。

 ペトラが珍しく、真面目な顔でイシュルにかるく手を振ってきた。マーヤはいつもの調子で頷いて見せ、ルースラが小声で「今晩は」と声をかけてきた。

「……」

 向かいのピアーシュ・イズリークからヘンリクに視線を移すと、イシュルは懐かしいような、ある感慨にとらわれた。

 それは子供の頃のあの日、森の魔女レーネに殺されそうになり、結果風の魔法具を得た夜、ベルシュ家で父エルスと大伯父のファーロ、エクトルらと話した記憶、あの時の感覚だった。

 今、この部屋の蝋燭の灯りと暗がりはあの夜と同じ、ヘンリクはエクトルを、ピアーシュはファーロを彷彿とさせた。

「イシュル、よろしいかの」

 耳許に響いてきたペトラの声が、過去の記憶に沈んでいくイシュルを引き戻した。

「では、はじめようか」

 イシュルが顔を上げると、ヘンリクが微かな笑みを浮かべて言った。

「カピーノ・ギルレの死はわたしの責任です。陛下、どうかお許しを」

 口火を切ったのはルースラの緊張した、いや悲憤の声だった。

 カピーノの遺体はあの後、型通りに王都の主神殿に移送され、遺族に通知された。ヘンリクから遺族へ、多額の弔慰金が支給された。

「いや、わたしの用心が足りなかったのだ。惜しい才能を亡くした」

 ヘンリクはそう言うと編纂室長に顔を向けた。

「まさかクラース・ルハルドの遺稿にまで王封があったとは。これはわたくしめの落ち度にございます」

 ピアーシュ・イズリークはヘンリクに頭を下げると、幾分しわがれた声で言った。

「王封とはなんです?」

 イシュルはピアーシュに強い視線を向けて言った。

 ……場は厳粛というか重たい雰囲気だが、自身が部外者だから、身分が低いからなどと遠慮してはいられない。

「文庫を設立された歴代国王が、特定の書物に封をすることだ」

「つまり、秘密にしたい書物に召喚陣などの魔法陣を仕掛けること、ですか?」

「今回はそうだ」

「他にはどういった王封がありますか?」

 イシュルの立て続けの質問に、ピアーシュの目が細められる。

「……」

 だがイシュルはまったく引かず、ピアーシュを睨み返した。

「司書長、イシュルの質問には全て答えよ」

 今まで聞いたことのない、ペトラの低い声が響いた。

「……別にどうということはない。書物を王の署名のある紙で巻いて封じたり、など一般のものもある。魔法を使ったものより、そちらの方が多い」

 ピアーシュはペトラに向けかるく会釈すると、イシュルに向き直り平静な口調で言った。

「その封を破れるのは王家の者だけ、ということですか?」

「そうだ」

 再びピアーシュが鋭い視線をイシュルに向ける。

 イシュルが「王家の者」などと、当人らを目の前にして、いささか不遜な言い方をしたのが気に入らないのだろう。

「よい。イシュルが何者か、そなたも知っておろう。……そもそも、イシュルは妾の友なのじゃ」

 またペトラが横から言ってくる。ペトラはつんと顎を上げ、ない胸を張って、おなじみのポーズだ。

「……」

 ピアーシュは呆然とした顔をし、ヘンリクは苦笑した。

「もしクラース・ルハルドの遺稿の王封を俺が破ったら?」

 イシュルは視線をヘンリクに向け聞いた。

「きみには閲覧の許可を出している。かまわんさ。カピーノ・ギルレと同じだ」

「そうですか」

 なるほど。王家書庫の閲覧許可が出る、とはそういう意味があるわけだ。

 王封のある書物も閲覧可。ただしその封を解けば、封を無視して閲覧するなら命の保障はないぞ、ということなのだ。

「王家書庫の秘書、禁書には収集した歴代国王以外にも、著者や寄贈者による封もある」

 ピアーシュはその鋭い視線を再び、イシュルに向けて言った。

「クラース・ルハルドの遺稿にはエレミアーシュ王の封があったということだ」

「なるほど。……それで、書庫付きの司書はどうなんです? その時は何もしないんですか?」

 ソニエ・パピークのあの挑戦的な表情が目に浮かぶ。彼女はただ文庫の管理や、閲覧者を案内するだけが仕事なのだろうか。

「司書はみな、己が係りとなる書庫の管理者であり、守護者でもある。つまり収蔵される秘書の元の所有者、著者の遺言を守り、記録し次代に引き継ぎ、実行するのも大事な役目だ」

 イシュルは小さく頷いた。

 それが彼女のあの態度につながるのか。

 ソニエは立派に自らの職責を果たした、エレミアーシュ王の遺言を果たした、というわけだ。

 ちらっと、マーヤの顔を盗み見る。

 いつもと同じ、無表情で変化はない。

 ……でもそれだけで、マーヤのあの怒りは説明がつかない。

 あの怒りはカピーノ・ギルレの死だけが原因ではないだろう。

 後でマーヤに、ソニエ・パピークとの関係を聞かなければならない。

「……もうひとつだけ、よろしいですか」

 イシュルはピアーシュの眸の奥をのぞきこむようにして顎を引き、顔を俯けた。

 ……レーネに襲われ、風の魔法具を得たあの夜と同じだ。俺は何も知らなかった。

 あの時もファーロやエクトルに何度も疑問をぶつけた。

「エレミアーシュ文庫の扉の前には、処刑台のような仕掛けがあった」

 イシュルはそこで微かに口角を歪ませた。

 扉の上下左右から突き出た鉄輪、扉の前の敷石に穿たれた穴、それらのことを話した。

「!!」

「……」

 そのことを知らなかったペトラやルースラは呆然とイシュルを見、そのことを知る者、たとえばヘンリクは罰の悪そうな顔になった。

 その席でもっとも多くを知る者、ピアーシュ・イズリークに変化は一切、見られなかった。

「……あれは、他の書庫にも施されているんですか?」

「そうだ」

 イシュルの質問にピアーシュは短く、まったく感情のこもらない声で答えた。



 王家、王宮、王家書庫。それぞれに当然のごとく不文律の、あるいは暗黙の了解とされるさまざまな事柄がある。

 イシュルはこの密議の席で、司書長を兼務する編纂室長に対し、王家の内部だけで秘かに受けつかれてきた王家書庫の戒律について、誰も知らない知ろうとしないことに不躾な質問を重ねた。

 イシュルはそれが場の空気を読まない行為であろうと、非礼であろうと、意に介さずあえて実行した。

 イシュルは貴族でも王宮の役人でもない、部外者だ。周囲の人間にどう思われようと、少しでも多くの事実を知り、疑問を明らかにすることの方が重要だった。

 場はイシュルの質問攻めが落ち着くと、次の議題に移っていった。

「さきほどノストールのクベード伯へ早馬を出しました。ブノワ・クベードを王都に呼びます」

 ルースラが硬い口調でヘンリクに言った。

 ブノワ・クベードとは、ラディス王国南端ノストールの城主、クベード伯爵の甥に当たる人物で、やはり築城に詳しい人物ということだった。

 非業の死を遂げたカピーノ・ギルレに代わり、ブノワ・クベードという人物が北線城塞の再整備を指導することになった。

 イシュルはヘンリクとルースラの方へ視線を向けた。

 ノストールは対聖王国防衛の拠点で、アンティラと同じ城郭都市である。クベード伯爵家の係累に築城の名手がいるのは納得できる。

「うむ」

「ブノワ殿の到着は十日ほどはかかるかと」

 重々しく頷いたヘンリクにルースラがやや声を忍ばせ言った。

「ではクラース・ルハルドの書に再挑戦するのはその後、ということになるの」

 と、ペトラ。

「再挑戦、か……」

 イシュルが呟くように言うと、ルースラがイシュルに話しかけてきた。

「イシュル殿、文庫の書物は持ち出しも書写も原則、許されていません。だからできるだけ、築城に詳しい者が直接閲覧する必要があるのです。そこでイシュル殿に、ブノワ殿の護衛を──」

「いや、それは妾がやろう」

 ペトラがルースラを遮る。

「ブノワ・クベードの閲覧には、妾が“王家の首飾り”を身につけて立ち会おう」

「ペトラ……」

 ヘンリクの呻き声が上がる。

「そなたがエレミアーシュ文庫に行くというのなら、代わりにわたしが行こう」

 ヘンリクはなんの躊躇もなく言った。

「陛下!」

 ルースラやピアーシュの諌める声が上がる。

「……王家の首飾りとは?」

 場は緊張感に包まれたが、イシュルはかまわず誰にともなく質問する。

「別名“魔封の首飾り”。王家の血筋の者だけが使える」

 マーヤがイシュルに答え、続けて言った。

 ……魔封の首飾り、ね。

「その首飾り、どれくらいの力があるんだ?」

「そこそこの魔法なら無力にできる。強力な魔法でもそれなりに弱められる」

 ペトラが笑みを浮かべて答えた。

 蝋燭の灯りに浮き出た彼女の影が、同時に揺らめく。

「だがイシュルの使うような魔法が相手では、ほとんど役にたたんだろうな」

「相手の魔力を弱めるだけでも効果はある。もしその時、味方に全身鎧で防御された剣槍の使い手がいれば、相手が強力な魔法使いであってもこちらの勝ちだ」

 ヘンリクの顔が銀製の燭台と蝋燭の間を見え隠れする。

 実力のある魔法使いであっても魔力が著しく減衰されれば、その攻撃魔法もただの騎士にさえ防がれてしまうかもしれない。一度でも防がれれば、その魔法使いが勝てる見込みはほとんどなくなる。二撃目は騎士側が先手を取るだろう。もちろん、実際にはさまざまな状況があり一概には言えないが、要は魔法使いの魔法を完全に防げなくとも、威力を弱めるだけでも充分な効果がある、ということだ。

「王家の秘書封じに使われている魔法の数々は、ほぼすべて王家の首飾りで防ぐことができると言われておる。……父上の心配は無用じゃ」

「中には、数は少なくとも危険な魔法の書もある、といわれている。……お父さん、子どもの頃から危ないところに行ってはだめだよ、って何度も何度も言ってきたじゃないか」

 ペトラを諭すヘンリク。だがその顔にもはや国王の威厳はない。

 ……バルスタールは危険なところじゃなかったのか? というのは置くとして、もうこの展開になったらヘンリクは駄目だ。使い物にならない。

 場になんともいえない空気が流れる。

「イシュルもペトラといっしょに立ち会って? わたしもいっしょに行く。あの悪霊退治はお願い」

 イシュルが秘かに肩を落とし嘆息すると、マーヤがその空気を断ち切るように言ってきた。

 ……マーヤがうまく、弛緩した空気を元に戻した。

 イシュルは顔を引き締め上向けた。

「ふふ。いいぜ。あの女司書も、閲覧時に立ち会うんだろ?」

「……うん」

 マーヤが僅かに間をおいて頷いた。

 イシュルは不敵な笑みを浮かべながらも、マーヤの微妙な変化を見逃さなかった。

 ……マーヤ。

「イシュル殿。クラース・ルハルドの遺稿には、おそらく闇の精霊の召還陣が記されている」

 ドミルが横からイシュルを覗き込むようにして言ってきた。

「悪霊が召還される前に、その召還魔法陣自体を封じた方が良い。それなら周りに被害が及ぶこともない」

「……」

 イシュルは無言で頷いた。

 確かにその方がいいだろう。ドミルは悪霊そのものの召還を阻止しろ、言っているわけだ。

 書物に描かれた召還陣を封ずるなら簡単だ。

 ネルレランケの力を借りれば、さらに楽にできるだろう。

 イシュルは微かに笑みを上らせた。

「わたしも姫君に付き添いましょう。陛下、それでよろしいですか?」

 ルースラがヘンリクに裁可を問う。

「仕方がないな。……たのむよ、イシュル君」

 ヘンリクは気落ちしたまま、いささか情けない声でイシュルに言った。

「わかりました、陛下」

 イシュルは嫌味のない笑顔をつくってヘンリクに頷いてみせた。

 まぁ、いささか度が過ぎているが、娘思いなのは悪いことじゃない。

 こちらがどうこうすることではない。踏み込むことじゃない。ヘンリクの心の背景には、亡妻との誓約が常に影をさしているのだ。

「……ところで、イシュル殿」

 続いてピアーシュがイシュルに声をかけてきた。

 さきほどよりは落ち着いた、穏やかな口調だ。

「貴公は王家書庫、エレミアーシュ文庫のことをもっと知りたいであろう。明日編纂室の案内が終わったら、わしが説明して進ぜよう」

「それは……ありがとうございます」

 イシュルはピアーシュの表情を探るような視線を向け、だが丁寧な口調で礼を述べた。

 冒頭で質問攻めにしたから、あまりいい印象を持たれなかったであろうことは、覚悟していたのだが……。

 この老人を敵にまわしたくはない。なるべく早く関係を改善すべきだと思っていたが、この感じなら大丈夫かもしれない。

 だが続いて言ったピアーシュの台詞(せりふ)は、イシュルの思惑を裏切るものだった。

「そなたは強すぎる。貴重な書物だけではない、司書や建物まで被害が及ぶと困る……」



 イシュルが滞在する部屋に戻ってくるとミラやリフィア、ニナらが顔を揃えて待っていた。

「王封か……」

 イシュルの報告を聞くとリフィアが低い声で呟いた。

「リフィアは知ってたか」

「いや。……王家書庫というのは、予想していたよりもだいぶ面倒くさそうだな」

 リフィアは溜息混じりに答えた。

「エレミアーシュ文庫の司書はどうなったのでしょう? やはり聴取は行われなかったのですか。何の罪にも問われないのでしょうか」

 と最もな質問をしてきたのはミラ。

「うん。司書長は当然、ソニエ・パピークから報告を受けているとは思うが……」

 ミラたちが文庫の扉の前に着いたときには、ソニエ・パピークはもう奥に引っ込んだ後だった。だから彼女たちはまだ、ソニエの外見を知らない。

「問題のクラース・ルハルドの遺稿に、エレミアーシュ王の封があったというのなら仕方がない。その司書はいわば立会人、見届け人だ。ギルレ殿の惨殺に関与しているとは見なされない」

 とリフィア。

「ソニエ・パピークがカピーノ・ギルレを案内しているのだから、実際には関与しているわけだが、“見なされない”というのが問題だな」

 イシュルは一同を見回し言った。

「一方で、カピーノ・ギルレに文庫の閲覧許可を出し、クラース・ルハルドの遺稿を調べるよう指示を出した、いや命じたのは今の国王、ヘンリクだ。つまり……」

「何が言いたい」

 イシュルが間をあけると、リフィアが鋭い視線を向け口をはさんできた。

「王家書庫の在り方、制度に矛盾がある、ということだ」

「それは……」

 リフィアが少し罰の悪そうな顔になる。

「蓄積された先人の知恵、知識を王家が独占する、というのはわかる。……王権維持のためには仕方がないことだろう。だがそのために、必要なときに必要な情報が取り出せないのなら、何の意味もない、ことになる」

 秘書の管理が厳重すぎるのだ。

 実際はルースラが実行したことだが、当然、カピーノ・ギルレをエレミアーシュ文庫に差し遣わせたのは現国王のヘンリク、ということになる。

 その国王の代理人が死んでしまい、王家の者が直接閲覧するか、今回の場合は魔法の実力者でなければそれができない。

 死んだ人物、カピーノ・ギルレが築城の名手、有為の人物であるなら、王家の損失は計り知れない。閲覧云々以前の問題だ。温厚なルースラが激怒するのもむべなるかな、である。

 より強力な城塞線を築こうと、先人の知恵を借りようとしたら、その核心となる人材が失われていまった、では話にならない。

 そうなる危険性を王家の人間が、そのブレーンとなるルースラが、司書長が知らない。担当の司書が教えない。あるいはソニエ自身も詳しくは知らなかったのかもしれないが、このこともおかしな話だ。

「……まぁ、俺は王家の人間でも、仕えているわけでもないし、どうでもいいんだがな」

 黙りこんでしまった一同を再び見回し、イシュルは皮肉な笑みを浮かべて言った。

「……」

 ニナは呆然とした顔をし、リフィアは難しい顔をしている。

 ミラだけがイシュルと目が合うと微笑を浮かべた。

 ミラは異国の貴族であり、もともとは王国の住民とは言え田舎の農民出身であるイシュルと同じ、部外者である。

「長い目でみるなら、王家は少しずつでも秘匿している情報を外に開示していくべきなんだがな」

「じょうほう、ですか」

 とニナが呟く。

「この場合、情報とは王家書庫に秘匿されている先人の知恵、役立つ記録、ということになる」

「……そうだろうか」

 ニナとイシュルのやりとりを横から、リフィアが異議を唱える。彼女はイシュルを上目遣いに睨んでくる。

 ……リフィア。その顔、かわいいじゃないか。

「王国内に限定できるのなら、やがては国力の増進につながるだろう? 王権の維持はもちろん重要だが、ラディス王国全体の国力を上げていくには、民衆に役立つ知識を与え、広めることも大切だ」

「むぅ……。確かにそうだが」

 リフィアは今度は唇を尖らした。

「……」

 イシュルは薄く笑みを浮かべて間をあけた。

 ……まぁ、ここで情報開示、共有の重要性、社会の発展だか文明論だかの話をしてもしょうがない。

「とにかく、王家書庫には明文化されてない、王家の者も知らない複雑で微妙な慣習、制約が存在する。その空気感というか、勘どころがわかるようにならないと駄目だな」

「うむ」

「そうですね」

「ほほ」

 イシュルの言にリフィアとニナがしっかりと頷き、ミラが我が意を得たりと笑みを浮かべた。

「明日、編纂室長のピアーシュ・イズリークにはみんなで会いに行こう」

 イシュルは微笑とともにこの場を締めた。



 翌日朝、自室の居間でロミールの給仕で朝食をとっていると、控えの間で多くの人の気配がした。

「早いですね」

「うん……」

 ロミールが控えの間に移ると少しやりとりがあり、マーヤやリフィア、ミラ、ニナと少女たちがぞろぞろとイシュルのいる居間へ入ってきた。最後にシャルカが続いた。今日はミラのメイド、ルシアの姿は見えなかった。

「おはよう、イシュル」

「おはようございます、イシュルさま」

「今朝食か。おそいな」

「おはようございます。イシュルさん」

「……」

 シャルカだけはいつもの無言、視線だけで挨拶をしてきた。

「おはよう」

 イシュルは最後にお茶をひと飲みすると、脇に立てかけてあった大きめの巻紙を手に取り立ち上がった。

 イシュルたちは集って国史編纂室に向かった。

 編纂室はイシュルやミラ、リフィアたちが起居する建物の北側、外務卿をはじめ取次ぎ役、その他下役らの執務室がある、西宮の中核をなす最も大きな建物にあった。

 衛兵もいない、あまり人の気配もしない宮殿の一角。重厚な観音扉を開けると、白い塗り壁に覆われた広い部屋が現れた。手前には簡素な木製の机と椅子が並び、奥には大きな書架が並んでいる。書架の並ぶ奥の壁は窓がなく薄暗い。手前の机に座り執務をしている者は男がふたり、だけだった。

 イシュルたちが入室するとそのひとり席を立ち、イシュルの方へ近寄ってきた。

「ピアーシュさまに御用でしょうか」

「ああ。編纂室長に面会の約束がある。イシュル・ベルシュが──」

「かしこまりました。しばらくお待ちください」

 その男はイシュルが言い終わる前に頭を下げ、きびすを返すとそそくさと足を運び、室内の左側にある扉の奥に消えた。

「無礼な」

 リフィアが小声で不満を口にする。

 イシュルが誰だかわかっているのか、などとぶつぶつい言っている。

「リフィアさん、仕方がありませんわ。こういうお役目の部署はどこも同じです。こんなものですわ」

 とミラ。

 ……まぁ、ミラの言うこともわからないではない。見習いから一人前になってからも、やることは毎日ほぼ同じ。他の部署とのやり取りも少ない、一般には閑職だ。

 イシュルは残ったもうひとり、机に向かって何か書き物をしている男に目をやった。

 しかしひとが少ない。戦(いくさ)の影響か……。

「奥へどうぞ。編纂室長がお会いになるそうです」

 左横の扉に消えた男はすぐ戻ってきて、イシュルたちにそう告げた。

 その男に案内され隣室に入ると、そこはだいぶ小さな、ピアーシュ・イズリークの執務室だった。

 隣の部屋の三分の一ほどの広さの執務室は、落ち着いた焦げ茶色の木板で覆われ、手前に幾つかの椅子、中央にピアーシュ本人の座る机、奥には無数の巻紙が収納され、積み上げられた棚が設えられていた。

「諸君、お早う。さっそくだが閲覧室を案内しよう」

 イシュルの側には宮廷魔道師のマーヤやニナ、大貴族のリフィアがいる。

 ピアーシュは立ち上がると右手を上げさらに奥の左側の扉を指し示した。

 編纂室長の執務室の左奥にある閲覧室には、ピアーシュ自らが案内に立った。

 閲覧室は執務室と同じ、落ち着いた上質の木材が使われた、おそらく貴族や神官、富商向けの部屋だった。廊下側、手前に並べられた机と椅子も品の良いものが並べられている。奥にはやはり書架が並んでいた。

 ピアーシュに案内されイシュルら一同が入室すると、部屋の奥の方でひとの気配がした。

 書架の影からすぐ、はたきや箒など掃除具をかかえたメイドがふたり、イシュルたちの前に出てきた。彼女たちはピアーシュに一礼すると、廊下の方の重厚な観音扉を開けて出ていった。扉がぎぎーっと、古めかしい音を鳴らした。

「今は戦(いくさ)の後でみな忙しい。ここにやってくる者はいない。しばらくは誰も来ぬじゃろう。そなたらが好きに使えばよい」

 ……ピアーシュの声は昨晩と違って柔らかい。

 やはり彼女たちを連れて来たのがよかったかもしれない。

 部屋の手前に並ぶ机と椅子は、二十人くらいが同時に閲覧できるほどの数がある。

「彼女はミラ・ディエラードの契約精霊だが、同席しても?」

 イシュルはシャルカに目をやり、ついでピアーシュを見て言った。

「かまわん」

 ピアーシュはひとつ頷き、イシュルに言った。

「そなたは後で、わしの部屋に来てくれ」

「……」

 イシュルが無言で頷くと、編纂室長は室内の者たち全員を見回し言った。

「ここには編纂の終わった、およそ五年ほど前までの王国史が収められている。その年にもよるが、通常は一年で一冊程度、何か大事があった年にはそれが三冊にも五冊にも及ぶ場合もある。たとえば去年一年分をまとめたら、とても五冊ではすまないじゃろうの」

 老人は薄く笑みを浮かべた。 

「手前の方にあるのが新しい。奥にあるのは古い。だいたい年代順に並んでおる。年によって別冊の付記がある場合がある。はっきり判読できるのは三百年ほど前からのものになるかの。それより古いものは読みにくいものもあろう。文体も古く、読解も難しくなる。困った時はわしが相談にのる」



「みんな、まずはじめにこれを見てくれ」

 編纂室長が別室に去ると、イシュルは片手にかかえていた巻紙を広げてみせた。

「これは……」

「ほう?」

「なるほど……」

「……」

 イシュルの広げた巻紙を覗き見て声を上げるリフィアたち。マーヤだけは無言で見つめている。

「この言葉に着目して読んでいけってこと?」

 マーヤがイシュルの顔を見上げ聞いてきた。

 紙面にはイシュルが大きめに描いた、「マレフィオア」、「地の魔法具」、「地下神殿」や「ブレクタス」、「レーネ男爵」、「紅玉石」や「エレミアーシュ王」などの言葉が並んでいる。

「そうだ。王国史を一から読んでいたら、どれだけ時間がかかるかわからない。まずさっと飛ばし読みして、これらの単語が出てくる箇所を探し出してほしいんだ」

「……効率的だな」

「まさか、巻末に索引がついてたりなんてないよな」

 イシュルは書架の方に目をやり呟いた。

 この世界ではわからないが、前世で索引が一般化したのは近世以降の筈だ。

「さくいん?」

「その書物において出現頻度の高い単語、固有名詞などを選択して、どの項に載っているか整理し一覧にして、本文とは別にしたものだ。巻末に載せたり、別冊にしたりする」

「そういう本は見たことないな」

 と、リフィア。

「学術書なんかには多いんだがな」

「がくじゅつしょ? ……学者が書いた本ってことだね」

 と、これはマーヤ。

「我が神の法具を持つお方」

 そこへシャルカが書架の手前の方から分厚い本を一冊持ってきた。

 木板に茶色の革貼りの表紙、表には「アンスムガル 12-1」と金文字の刻印がある。

 現物を見て調べろ、ということか。……しかし本が重い。

 アンスムガルとは何代か前の国王の名前だ。「12-1」はその国王の治世12年の1冊目、ということになる。

 ちなみにラディス王国では他に、建国の年を元年とする“王歴”が使われる。古代ウルクの頃、同王国の西部の一豪族であった頃から始まっているので、今年で934年とか、それくらいの年数はいっている筈である。

 当然一般庶民には縁遠く、使う必要のない代もので、あまり普及していない。

 他に大陸全般に共通する年号としては、聖堂教会の定める“聖堂歴”、“教会歴”というのがある。これも神官や学者以外は他国と交渉のある王家、貴族、大商人くらいしか使わない。

 庶民一般に広く使われるのは、「〇〇王の(治世)◯年」という形式である。「〇〇王」が誰も聞いたことのない名であれば、大概は「大昔じゃの」ということで済ましてしまう。

 イシュルはシャルカに渡された書物を開き、大雑把にページをめくっていった。王国史は値の張る上質な羊皮紙が使われている。

 書式は統一され、頭に「〇〇王の(治世)◯年」と「王歴◯◯◯年」が併記され、続いて「春の一月(4月)の〇日」などと日付が書かれている。

 本文は文字の大きさが三段階あり、項の上段に大きな文字で書かれているのが王国全体や王家の出来事、中段に書かれているのが聖堂教会や貴族、大商人に関すること、下段は王宮の役人の人事や領民に関する小事が記載されている。

「うーむ」

 イシュルは小さく呻って文面を目で追っていく。

 ……やはり記述内容の多くは誰が生まれた、誰と誰が結婚した、誰が〇〇の役についた、どこそこに赴任した。誰が亡くなった、などの内容だ。

 まれに〇〇男爵領に魔物が現れただの、国王が〇〇公国の使者と謁見しただの、〇〇地方で豊作の見込みなどの記述が見られる。

 予想していた通りだが、こんなお役所の報告書みたいな文章を、延々と何百年分も精読するわけにはいかない。

 もしブレクタスの地下神殿に向かうことになれば、道中、かなりの標高の山を超える場面もあるだろう。雪が溶ける春以降でなければ、山越えは不可能だ。

 それならまだ時間はある。急ぐ必要はないんだが……。

 イシュルは史書の後ろの方をめくった。やはり索引に類するものは付いていない。

「予想以上につまらん内容だな」

 横からリフィアが言ってくる。

「うん」

「あら。でも王家の史書などこんなものでしょう。イシュルさまがひとりでブリガール男爵を滅ぼしたとか、赤帝龍と戦ったとか、そんな大事は滅多に起こりませんもの」

「まぁそうだよな。……読んでいくと、きっと辺境伯家でリフィアが生まれたとか、ニナが宮廷魔導師見習いになったとか、出てくるかもしれないぞ」

「編纂室長さまが、まとまっているのは五年ほどまでとおっしゃっていましたから、わたしの名前はまだ載っていないと思いますよ」

 とニナ。

「これから編纂される国史にはイシュルの名前がたくさん出てくるね」

「ぐっ」

 マーヤのからかうような口ぶりに、イシュルは言葉を詰まらせた。

 ……どんな風に書かれるのか知らないが、それはちょっと嫌だな……。

「ほほ。それなら、此度の戦役ではわたくしの名も載ってしまいますわね」

 ミラは、「わたくし、異国の者ですのに」などと言って笑っている。

「とにかく、俺の書き出した言葉に注意して、みんなで分担して読んでいこう」

 イシュルはリフィアたちを見回し続けた。

「国史は新しい年代のものから読んでいこうと思う。場合によっては当時の王家や関係者のみが知り、表に出ずに国史に記載されているような事柄も書かれているかもしれない。年度の新しいものでも注意して調べてくれ。では、よろしく」

 イシュルは皆にかるく頭を下げた。

「では、マリユス王の治世からだな」

 連合王国との戦(いくさ)で討ち死したマリユス三世の治世は長かった。彼の代になってからの国史も、何冊か編纂されているだろう。

 リフィアがいの一番に書架に向かっていった。



 イシュルたちがラディス王国史を手に取り調べはじめて半刻ほど、ロミールが史書閲覧室に現れた。

「イシュルさん、持ってきましたよ」

 ロミールは鉄製のものや組紐で編まれた複数のしおりと、壁掛けの金具を持ってきた。

「ありがとう、ロミール」

 ロミールはイシュルに頼まれ、西宮の事務方の仕事場を回って、しおりを借り集めてきたのだった。

 イシュルはロミールをねぎらうと、しおりをミラたちに渡し、壁掛けの金具でキーワードを綴った巻紙を壁に広げて留めた。白塗りの壁には以前、絵画か何かの注意書きかが掛けられていた留め具があり、イシュルはそれを利用して巻紙を壁に掲げ、わざわざ席を立たなくとも見えるようにした。

 イシュルはその後、昼食をはさみ午後からピアーシュ・イズリークの執務室を訪れ、彼と面会した。

 ピアーシュはイシュルに自身の机の正面、壁際の長椅子を勧めると、早速王家書庫に関する話をはじめた。

「……“王家書庫”は十一の歴代国王の文庫に、本来の王家書庫を併せた総称である。王家書庫本体は司書長を含む三名の司書と同数の見習いが、各文庫は司書と見習いが一名ずつ付属する」

「……」

 編纂室兼司書長は淡々と説明を続けていく。

 イシュルはピアーシュに無言で頷き、その先を促すように視線を向ける。

「歴代国王の蒐集した、あるいは自ら書き記した書物を個別に収蔵する各文庫は、その国王の残した遺言をもとに管理される。“王封“もそのひとつだ。中には当時の王の許しを得て、特定の著者、所有者によって封じられた書物も存在する。基本的に外部の者の閲覧は許されていない。それを許可できるのは国王のみ。国王の許しなしに歴代王の遺言、遺訓の枷(かせ)を受けず閲覧できるのは、王家の方々のみとなる」

 イシュルは視線を外さない。

「各文庫に所属する司書は、王封による何らかの魔法が発動した時、立会人、見届け人となる。彼らは、所属する書庫の国王の遺言を代々継承していくが、全てが正確に継承されてきたわけではない。長い間に失われたものもある。今回の事件も一部がそれに該当する」

「一部、というのは?」

 イシュルはすかさず質問した。その視線も厳しいものになる。

「クラース・ルハルドの遺稿に王封がかけられていたことだ」

「それをソニエ・パピークが知らなかったと」

 イシュルは唇の端を歪めて言った。

 その笑みをピアーシュに隠そうとはしなかった。

「そうだ。王封、つまり今回は遺稿に刻印された悪霊召喚陣となるが、それが発動した後の処置は、以前から決められているものだ。エレミアーシュ王の遺言にもとづきあのような仕儀となった次第で、司書の行為に問題はない」

「なるほど」

 ……ソニエ・パピークはあくまでエレミアーシュの遺言、つまり規定や慣習に従っただけ。違法行為は何もない、というわけだ。

 なら、あの少女の挑発はなんだ? 

 あの勝ち誇ったような態度は、単に文庫の秘書を守ることができたから、あるいはエレミアーシュ王の威信を誇示する必要があったから、それだけ、だったのだろうか。

 ソニエ・パピークはあの時、俺とマーヤに対しもっと個人的な、悪意のような感情を見せてこなかっただろうか。

 ピアーシュを見つめるイシュルの眸にも、不穏な色が混じりはじめる。

「そなたの噂はわしも聞き及んでおる」

 ピアーシュはイシュルの変化にも、その視線にも動ぜす、静かな口調で続けた。

「なら、そなたにもわかるであろう。カピーノ・ギルレの死は痛恨であったが、これは仕方がないことだ。王家書庫だけではない。王宮には一筋縄ではいかない、矛盾も孕んだ古い法や慣習が残っているのだ。陛下はもちろん、わしも、王宮の者もすべてを知る者はおらん」

 老人はそこで息を継ぎ間をおいた。

「しかしながら、それらのことがラディス王家を盤石たらしめているのも、また事実なのだ」

 イシュルはピアーシュの言を聞いて、薄く笑みを浮かべた。

 ……言ってることはわかるんだがな。

「縦割りで共有されない慣習、いや因習が王家においてどれほどの弊害を生むか、そのことは当然、お分かりですよね」

 こんなことを目の前の老人に言ってもしょうがない。だが、言わずにいれない気持ちがある。

 俺はカピーノ・ギルレの死体をすぐ傍で、直接目にしている。

「……ううむ。縦割りで共有されない、か。お主は耳慣れない言葉を使うの」

 ピアーシュは一瞬、動揺をあらわにした。だがすぐ立ち直り、イシュルと同じ皮肉に歪んだ笑みを浮かべた。

「それでも、じゃ。それでも王家の存続の方が大事、なのだ」

「……」

 イシュルは面(おもて)に浮かんだ笑みをほとんど消すと、無言で頷いた。

 この世界は近代、ではない。概ね近世にも至っていない。

 ……それならこれは、ただの言葉遊びでしかない。

「ところで、明日にでも別件で、エレミアーシュ文庫を訪ねたいんですが」

 イシュルは続けて、「いきなり文庫を訪問してもいいか」とピアーシュに聞いた。

 ブノワ・クベードが王都に到着するのはおよそ十日後だ。その前に自分の用事を済ませてしまおう。マレフィオアの件を先に調べてしまおう。

 ただ、昨日のソニエ・パピークの言動から察するに、当然カピーノの時と同様、ただでは済まないだろうが……。

「エレミアーシュ文庫は今日から三日間、閉鎖されておる。ちなみに、クラース・ルハルドの遺稿とやらも五日間ほど閲覧できぬ」

「それは? どういうことです?」

「文庫内の机や椅子の一部が破損しての。……それに床も汚れた。クラース・ルハルドの著作は床に落ちた時に表紙の木板が割れての。修理しておる」

「なるほど……」

 なかなか生々しい話だ。床が汚れたとは、カピーノ・ギルレの血ではないか。

 そしてクラース・ルハルドの本の修理は、闇の精霊の召喚陣を描き直しているのかもしれない。

 魔法陣には一回しか使えないもの、消えてしまうタイプがある。その場合は中位以上の精霊の力が必要になる。もう一度その魔法陣に魔力を注ぎ込んでもらうか、魔法使いが再度魔法陣を描き、やはり精霊に魔力を注入してもらわないといけない。

 あのソニエ・パピークがそんな闇の精霊と契約している、つまりそれなりに強力な闇系統の魔法具を持っているとは思えない。

 彼女にそんな力があるのなら、司書ではなく宮廷魔導師になっているのではないか。

 この場合は、王家書庫の管理維持に、宮廷魔導師が力を貸している、言い換えれば王家書庫の管理も宮廷魔導師の仕事の一つ、と言うことになる。

 クラース・ルハルドの遺稿にあった闇の精霊、悪霊の召喚陣はおそらくその項を開けば、あるいは手が触れれば自動的に発動する、呪文を必要としないものだったろう。

 あるいは闇の魔法具を持っていないソニエが呪文を唱えても、発動できる召喚陣だったか。

 魔法陣には何度でも使えるものもあるから、もしそうならピアーシュの言った通り、ただ単に、クラース・ルハルドの遺稿の装丁を修理しているだけなのかもしれない。

「では四日後であれば、エレミアーシュ文庫を訪ねてもいいわけですね」

「うむ。その時は昼間なら直接訪ねて構わん。ソニエがいなければ見習いが対応するじゃろう」

「わかりました。ありがとうございます」

「くれぐれも申しておくが、荒事は駄目じゃぞ。文庫全体が吹っ飛んでしまった、などということになったら目も当てられん」

 ピアーシュ・イズリークはやや引きつった笑みを浮かべ、念押ししてきた。


 

 隣の部屋、国史閲覧室に戻ると、リフィア、ミラ、ニナ、マーヤが場所を変え、一つの机にまとまって座り、皆めいめいに分厚い国史を開き、目を通していた。

 さして広い閲覧室ではないが、彼女たちはイシュルが編纂室長と面会に行くまではバラバラ、思い思いの席に座っていたのだ。

 しかし当然、意思疎通をしやすくするために、同じ机に集まって調べた方がいいに決まっている。

 シャルカだけはひとり、端の席に離れて座り、ミラを中心に周りを無表情に見ているだけだったが、彼女は精霊だから直接関係ない。

「……」

 イシュルは微笑を浮かべると、彼女たちと同じ机の空いている席に腰を下ろした。

「今日はここら辺にしておこうか」

 陽は西に傾きはじめている。

「……で、編纂室長との話はどうだった?」

 イシュルが声をかけると、まずリフィアがピアーシュとの面会の次第を聞いてきた。

「まぁ、そんなものですわね。どこの王家にしろ貴族にしろ、面倒な慣習はあるものです」

「つまり王家は書庫の書物の秘匿がとても重要だと、他が犠牲になっても仕方がないと、昔から考えてきたんだろう。……仕方がないな」

「王家の書庫にはそんなに重要な本がたくさん、あるんでしょうか」

 イシュルが編纂室長との話を説明すると、ミラ、リフィア、ニナが思い思いに感想や疑問を口にした。

「エレミアーシュ文庫へはイシュルひとりで行くの?」

 マーヤだけが、エレミアーシュ文庫について聞いてきた。

「ああ」

 イシュルはその眸に、微かに今までと違う光を浮かべてマーヤの顔を見た。

「大丈夫か? イシュル」

 横からリフィアが口を挟む。

「心配ないさ。ネルを支援につける」

「ネル?」

「新たに召喚した風の精霊だ。今度紹介するよ」

 イシュルは笑みを浮かべ、かるい調子でマーヤの質問に答えた。

 横ではリフィアが目を丸くして「支援……」と呟いている。

「……」

 イシュルは微笑みながら、マーヤの表情を密かに観察した。

 なんの因果か、ネルレランケの外見はソニエ・パピークに似ている……。

 ネルを見たら、マーヤはどう感じるだろうか。何を思うだろうか。

 イシュルは意識して笑みを絶やさぬようにした。取り繕った。

 

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