秘典の階(きざはし)



 久しぶり、イシュル。

 あれからまだ一年ちょっとしか経っていないけれど、ずいぶんと長い時間が経ったような気がします。

 あなたはどうですか? この一年半、どうだったでしょうか。

 ここエリスタールでもあの日、イシュルがご両親の敵討ちを遂げてから、あなたの噂を聞かない日はありませんでした。うちは宿屋だから、本当に毎日、イシュルの話が耳に入ってきます。

 今はバルスタールのお城で、王国守護の名誉ある任にあるとか。特別な友人の巷を賑わす大名声に、わたしも鼻高々です。

 イシュルも覚えてくれていると思いますが、わたしはあれからしばらくして王都に行き、収穫祭まで滞在していました。

 エリスタールの我が家に帰り、しばらくしてイシュルが王都で敵の総大将を討ち取ったと聞いて、あなたの活躍に喜びながらも驚き、少し怖くなりました。

 わたしは本当に幸運でした。故郷に帰る道中で、連合王国が攻めてきたことを知ったのです。

 エリスタールに着いてからも、あることないことさまざまな流言が飛び交い、落ち着かない日々でしたが、ついに王国軍が敵を追い出し勝利したと聞いて、わたしも安心しました。

 そしてわたしにはもう一つ、大きな幸運が訪れました!

 王都からの帰路で、王領となったエリスタールに赴任する役人の方と一緒になったのですが、この度、その方と婚約することになりました!

 王都では親戚の家に厄介になり、楽しいこともたくさんあったけれど、あなたのような良いひととは知り合えず、寂しい気もしたのですが、思わぬところで素晴らしい殿方にめぐり会えました。

 相手の方は王城で書記役をしていたひとで、身分は高くはないけれど、とてもやさしい、穏やかな方です。

 イシュルの故郷のベルシュ村も入植する人が増えて、復興もうまくいっているみたいですが、旦那さまとなる方にも良くしてもらえるよう、いつも頼んでいます。

 それからフロンテーラ商会のセブィルさんとフルネさん、イマルさん、ベルシュ村のポーロという方から、セブィルさんを通して「イシュルによろしく」と、言づけをたのまれました。

 みなさん、あなたと再会できる日を心待ちにしているそうです。

 わたしもまたいつか、お会いできる日を楽しみにしています。

 それではあなたの健康を祈って。



 イシュルは両手に広げていた巻紙を閉じ、珍しくにんまりと、柔らかな笑みを浮かべた。

 その手紙の結びの差出人の名前には、「三日月亭のシエラ」と記されていた。

 ……ひとつところに長い間滞在していたわけだが、こういう手紙が届くのならそれも悪くはない、と言えるのかもしれない。

 何よりセブィルやポーロの消息が知れたのが良かった。セブィルやイマルはエリスタールに戻ってきて商売を再開し、ポーロはエリスタールにも出向き、ベルシュ村復興に力を尽くしているようだ。

 イシュルの顔に浮かんだ笑みはまた、溢れんばかりに大きくなった。

 故郷の知人、以前お世話になった人、彼らの生活に平穏が戻ったことは何事にも代え難い喜びである。

 ……しかし、ポーロは読み書きはほとんどできない筈だからいいとして、シエラから手紙がくるのなら、セブィルやイマルから手紙がきてもおかしくないのにな。

 と、そこまで考えてふと思い当たった。

 イシュルは今、ムルド城にいる。そして今日は昼前から天候が悪化し、外は吹雪いている。もう北線の山々、その東側も西側も辺り一面雪で覆われている。

 アンティラ辺りまでならともかく、ここは王国の要塞地帯だ。しかも雪の降り積もった山の上だ。一般の領民の手紙が届けられる筈がない。

「つまりシエラの手紙は……」

 彼女の婚約者だという王家の書記役が気を利かせて、わざわざ王家の、公用の便に乗せて送ってきた手紙、ということになる。

 だから彼女の手紙に、セブィルやポーロの伝言が書かれてあったのだろう。彼らが直に手紙を出しても、バルスタールに届くことはおそらく、ない。

 ……なるほど。そういうわけか。

 イシュルはひとり、小さく頷いた。

 しかし、シエラもとうとう念願の、結婚相手を見つけたわけか。

 彼女は王都の大商人か役人でいいひとを見つけて──なんて、玉の輿を狙っていたからな。

 まぁ、あの娘の家は宿屋をやっているとはいえ、エリスタールの一等地に土地を持つ地主さんだったし。そういう相手も見つかるのだろう、とは思っていたが。

 シエラの手紙には、とてもやさしい穏やかな、素晴らしい殿方とある。

「……」

 イシュルはそこで笑顔をわずかに引きつらせた。

 ……相手はあのシエラだ。きっとそのひと、尻にひかれるんだろうな……。

 世界が変わろうが時代が変わろうが、世の既婚男性の何割かは恐妻家である。その筈である。イシュルは個人的に、固くそう信じている。

「……」

 イシュルは遠い目になって、シエラの夫になる顔も名前も知らない男の将来を想った。

 だが、その眸にもすぐに暖かい色が混ざる。

 ともかく、心配していたシエラがすでに王都を立ち、難を逃れていたのは本当に良かった……。

「……っ」

 その時、どこか遠くを見ていたイシュルの視界に、じんわりと突き刺すような視線を向ける、美しい少女の顔が入ってきた。

 彼女は王都で手に入れたという底がやや深く、口が小さめ、取っ手の大きい、この世界では洒落たデザインの薄い磁器のカップを口につけたまま、じっとイシュルを横目に睨みつけている。

「そろそろよろしいでしょうか、イシュルさま」

「うっ」

 彼女から逃げるように視線を左に移すと、そこにも少々冷たい、醒めた視線があった。

「で、イシュル。そのシエラとかいう御仁はどなたかな」

「女、の名前ですわね」

「うっ」

 城外の雪山よろしく凍りついたイシュルに、彼の正面に座るマーヤがこれも、感情のまったくこもらない声音で言った。

「エリスタールの城前広場にある宿屋、“三日月亭”の長女の名がシエラ。同じ街のフロンテーラ商会でイシュルが商人見習いをしていた頃、交流があったなかなか可愛い娘」 

「くっ……」

 マーヤめ。いやラディス王家め。そこまで調べていたとは……。

「ほう?」

「まぁ、なんてことでしょう」

 左からリフィアの、右からミラの視線が突き刺さる。

 ミラがお茶の入ったカップをテーブルの上に置いた。かたっ、と乾いた音がした。

 同時にイシュルの座っていた椅子がぎぎっ、と音を立てた。

 先ほどから、外の吹雪にガラス窓もカタカタと、小さく音を鳴らしている。

 ミラの背後に少し離れて座っていた、シャルカの視線もイシュルに向けられていた。

 その横に盆を胸の前に抱え口許を隠して立つ、メイド姿のルシアがいた。

 彼女はその盆の裏側で、さぞや慎しみのない笑みを浮かべていることだろう。

 イシュルは窓の外からひゅーっと、冷たい風雪の音が聞こえてくるような気がした。

 

 

 リフィアとミラ主従、それにマーヤも加わり、彼女らが王都から北線に戻ってきたのは昨日のことだった。

 冬の一月の十日、予定通りヘンリクが即位すると、リフィアたちはその翌日にはバルスタールに向かって王都を発った。

 ミラのメイドのルシアとサラ、サラの兄のディエラード公爵家騎士団のルベルトは、聖都近郊のアニエーレ川沿いの小さな街、オリバスで別れて以降、イシュルたちを追ってまずフロンテーラに向かい、ついで王都ラディスラウスにやってきた。

 王城を訪ねた彼らはそこでミラと再会し、ミラはすぐペトラの許しを得て王都に屋敷を借り、ルベルトとサラをその小邸宅に残し、疾き風の魔法具を持ち剣の腕の立つルシアだけを連れて北線に引き返した。

 フロンテーラに残してきたルベルトと同じ騎士団の三名も、多くの荷物とともに王都に呼ぶよう手配したとのことだった。

 先にフロンテーラに戻っていたリフィアの従者、マリカ、ラドミラ、ヨアナの三名も、エバンと合流して王都に向かい、ミラと同じように王城でリフィアと落ち合うことができた。

 エバンは“髭”の者として別の任に就き、マリカたちは辺境伯家が以前から王都に所有する屋敷に落ち着いた。リフィアは彼女たちを王都に残し、ひとりでミラとマーヤとともに北線に向かった。

 王国の北辺、バルスタール城塞線一帯は年が明けしばらくしてから本格的な降雪がはじまり、ミラとリフィア、マーヤたち一行が城塞都市アンティラに到着した頃には、かなり雪が積もっていた。

 マーヤはイシュルが王都に向け北線を去っても問題ないと判断し、翌日ムルド城に出向くとイシュルにその話をした。ならばと明日にも山を降りてアンティラを経由、王都へ出発することになったが、当日は朝から天候が悪化し昼前には吹雪となって、山を降りるのは翌日以降、その日は取り止めとなった。

 ムルド城の城館の一室で、イシュルたちはここひと月ほどの出来事を話の種に、昼食後も茶を飲みのんびり過ごしていたところ、当の本人にシエラからの手紙が届けられたのだった。

 イシュルは周りを囲む少女たちの疑惑を晴らすため、必死で弁明、いや説明を試みた。

 ただそれも、ガチガチになってイシュルが言ったひと言、「手紙の内容がシエラの婚約の報告だった」だけで空気が一変し、彼女たちの疑念も氷解したのだった。

「し、シエラがね、今度結婚することになったと知らせてきたんだ。だからにこにこしていたんだよ」

 もちろんその笑みには彼女に対する冷やかしも含まれていたし、彼女の伴侶となる男性に秘かな同情心を抱いた、というのもあったかもしれない。

 つまり仲の良かった少女からの懐かしい手紙に、ただだらしなく相好を崩していたわけではないのだ。

「まぁ。それは羨ましい。……よかったですわね、イシュルさま」

 ミラの表情から険がとれた。

 シエラのことはさすがにミラも、調べていなかったようだ。

「そのシエラという娘は、イシュルと同じ年頃なのか」

「そうだな」

「ふむ」

 リフィアはイシュルが答えるのを聞いて、小さく息を吐くと、胸の前で腕を組んだ。

「周りの同じ年頃の子たちも、結婚する者が増えてきている……」

 リフィアは独り言のように呟いた。

「そうですわね」

「ま、周りというのは……」

「近隣の領主たちの娘、当家の家臣の娘、メイドたちだな」

 イシュルの恐る恐るの質問に、リフィアがしっかり視線を合わせてきた。

「わたしの周りも同じですわ」

 ミラもイシュルをひた、と見つめてきた。

「な、なるほど」

 ……まずい。これは危険な展開になった。またか、まだこの責め苦は終わらないのか。

「そ、そういえば、マーヤはよく調べたな、俺のこと」

「それは調べるよ。エリスタール城を一夜にして廃墟と化した、風の魔法具を持つ少年。新しいイヴェダの剣、かもしれない人物──」

 マーヤは表情の薄い眸をイシュルに向けた。

「その人物と深い関係があったらしい、同年輩の少女。調べないわけがない」

「深い?」

「深い関係?」

 リフィアとミラの視線がまた険しくなる。

「ちょっと待て。嘘言うな」

 マーヤめ。完全に俺をおもちゃにしているな。

 話がまた最初に逆もどりじゃないか。

 イシュルは泣きそうになった。

「……」

 だがそこで、イシュルは真面目な顔になって扉の方に目をやった。

 複数のひとの、近づいてくる気配。

 リフィアとシャルカ、続いてルシアがその気配に気づいた。

 ミラとマーヤも扉の方に顔を向ける。

 外の廊下を歩く人の気配が部屋の前で止まり、続いて扉がノックされた。

「イシュルさん、お客さまです」

 扉を開けてロミールが顔を出し、ニナとパオラ・ピエルカが中に入ってきた。

「イシュルさん、師匠が……」

「ああ」

 イシュルは席を立ってニナに頷いて見せると、パオラの方に顔を向けた。

「こんにちは、パオラさん」

「ごめんなさい、皆さんでくつろいでいるところ。……ちょっと、いいかしら」

 パオラは、はっきりそれとわかるつくり笑いを浮かべて一同を見まわし、イシュルの面上にその視線を止めた。

「……」

 イシュルの笑みも、彼女の美貌に引きずられるように大きくなった。

 先日ニナを通じて、「王都へ立つ前に話がしたい」とのパオラ・ピエルカの申し出があったのだ。

 余人を交えず、「ふたりきりで話がしたい」と。



 相変わらず外は吹雪き、窓が細かく揺れている。

 足下には分厚い絨毯が敷かれ、重厚な扉の開いた隣室からは、暖炉の揺らめく炎が垣間見える。

 だが奥の部屋には今は誰もいないのだ。

「この部屋は初めて?」

 水の魔導師の柔らかい女の声が、イシュルの耳許を通り過ぎていく。

 今は誰も使っていないのに、この控えの間、奥ヘと続く各部屋は、王国軍がこの城を奪還してから、最初に修繕が進められた特別な部屋だ。

 この城の城主も使用を許されない、かつてバルスタール城塞線の主であった王弟デメトリオの部屋だった。

「ここなら誰もいないから。……控えの間ならば、私たちが使ってもいいでしょう」

 吹雪いてなければ外が良かったんだけど、とパオラは続けた。

 薄い水色のゆったりしたローブに身を包んだ彼女は、何か古い物語に登場する聖女のようだ。

「天気が回復すれば明日にも出発するんでしょう? 忙しそうだからすぐ済ますわ」

 パオラは僅かに首を横に傾け笑みを浮かべた。

 彼女は今や過半が失われた王国の宮廷魔導師では、最右翼に位置する実力者であるが、ヘンリクの即位式に参加せず、イシュルとともに手薄になった北線防衛に残った。

 このひと月、彼女は主にハーラル城に詰め、イシュルはムルド城を起点に、南部の尾根伝いに並ぶ支城群をランダムに移動して、警戒に当たった。

 ニナは数日ごとに、繁雑にハーラルとムルド城を行き来していたが、イシュルはその間、彼女からパオラ・ピエルカの話を何度か聞いていた。

 ニナの話から窺われるパオラの人物像は、ひと言で言えば「自分なりの生き方を追求する無欲のひと」といったものだった。

 彼女なりの「生き方」とは、彼女なりの「正義」と置き換えてもいいだろう。自身の職務に忠実に励み、魔法の修練にも意欲的に取り組み探求し続ける。一方で出世欲や権勢欲は希薄で、王宮の政治にも関心がなくいつも一定の距離を置いている。ただ職務や魔法以外では野放図な一面もあり、決して真面目一辺倒ではなく、自ら好んで自然に身を置き流れに身を任す──ニナは、「師匠はイシュルさんと少し似ているところがある」とも言った。

 ……彼女がおそらく自ら進んで北線に居残り、宮廷魔導師にとっては晴れの舞台であるヘンリクの即位式に出席しなかったのも、それらが所以であったろう。

 一風変わったところもあるが、パオラ・ピエルカは俺と似ているどころか、遠く及びもしない人物ではないか。はっきり言ってやりにくいところはある。

 イシュルに大人な微笑を向けてくるパオラ。

「俺の方も、パオラさんに聞きたいことがあったんですよ」

 イシュルも無難な笑みを浮かべて彼女を見返した。

 ……だが、俺は彼女のようなひと角の人物と、何度も渡り合ってきた。

 今さら臆することなどない。

 この水の大魔導師が何を言ってくるのか、だいたいの予想はついている。

「そう……。じゃあ、あなたの話から聞こうかしら」

「いえ、パオラさんの方からお先にどうぞ。……それで多分、俺の聞きたいことに繋がっていくでしょうから」

 イシュルは自身の笑みがなるべく自然に見えるよう、気をつけた。

「わかったわ」

 パオラの青い眸が、イシュルの心のうちを覗き込むかのようにその双眸に注がれる。

「以前にケフォル村でお話したわよね。あれからニナを何度か問いただしたのだけれど、あの子は固く口を閉ざして何も教えてくれないの。……ごめんなさい。わたしは、あの子があの水の治癒魔法に関することで、何か他に隠していることがあるんじゃないかと考えているの。とても重要なことを……」

 パオラのイシュルを見つめる眸に動揺が現れた。

「……」

 イシュルは笑みを消してピエルカの視線を受け止めた。

 ……この女はもう気づいているのだ。わかっているのだ。

 ニナのもうひとつの魔法が、秘技がどんな魔法かを。

 彼女は心配でならないのだ、ニナのことが。彼女の行く末が。

「お気持ちはよくわかります。でもそれは……。確かにニナは誰にも、何も話さないでしょう」

 イシュルはそこで硬い笑みを浮かべた。そして明言した。

「俺も話す気はありません」

 パオラはイシュルにおまえは話せないのか、教えてくれないのか、と問いただしてきたのだ。

「ニナは、あなたに付いて行くと言ってるわ。マーヤとペトラさまが、陛下さえもそれをお許しになると聞いています。イシュルさん、あなたは王都へ行って──いえ」

 パオラはイシュルに真剣な眼差しを向けた。

「……仕方がないわね。何もかも、あの子が決めたことだもの」

「絶対に、とはいえません。おれはそれほど出来た人間じゃない。けれど、自分の生あるうちは、ニナのことを全力で守るようにします」

「そうね。魔法使いなら、探究と冒険の旅に出たい、探検したいと思うのは当たり前のことだもの。未知なるものを追求する気持ちには抗えないわ」

 ……探究と冒険、探検か。確かに、自らの工房や書斎にこもっていてはできないことだ。

 だが、まずはその工房や書斎のかわりに、書庫にこもって調べなければならない。パオラが言いかけた、王都の、王城へ行って。

「パオラさん。あなたももう、なんとなくわかっているかと思うのですが」

 彼女は、ニナが俺について行く先を探検だと言い当てた。冒険、という言葉を口にした。

「俺の聞きたいこと、それは──」

 イシュルは口角に浮かんだ微笑を僅かに歪めた。

「水の魔法具がどこにあるか、それともないのか、あなたが何か知っているのなら、それを教えて欲しいのです」



「……」

 パオラは窓外の吹雪に目をやると、小さく息を吐き出した。

 そしてイシュルを見て呟くように言った。

「やっぱり……。あなたは五つの神の魔法具を集めようとしているのね」

 彼女は互いの手で交互に肘を握り、寒さに凍えるように全身を微かに震わせた。

「ご家族を取り戻すの?」

「……」

 イシュルは微かに笑みを歪めたまま、表情を変えない。 

 ……この話になると、いつも同じことを聞かれる。

 この水魔法の実力者も、神の魔法具に関する伝承を知っているのだ。

 五つの神の魔法具を集めると、神々がその者の前に姿を現し、どんな願いも叶えるという話を。

「いえ、たぶんそれはしないです。人の命はひとつきり、人生は一度きりだ。彼らが生き返ったとしても、過去に一度命が失われた事実は変わらない」

 俺の行動に、運命に干渉し、挑発し、おそらく誘導しようとしている月神レーリア。それをただ見ているだけの主神、ヘレス。風の魔法具を持つ俺に、惜しみない愛情を訴えてきた風神イヴェダ……。

 俺が彼らと相見えた時、何をしようと考えているか、それは言えない。

「そう。でもあなたは、邪まな望みは持っていないでしょうしね……」

 パオラは自らを襲った動揺を鎮めると、ほのかに笑みをのぼらせ言った。

「もちろん、わたしは知らないわ。水の魔法具に関することは何も」

 土の魔法具を顕現する二つの紅玉石、その片割れはマレフィオアが持っている。火の魔法具は赤帝龍が持っている。

 マレフィオアは今もブレクタスの地下神殿にいる可能性が高い。それを調べに王都へ行く。

 赤帝龍は東の大山塊、果てなく続く山並みの奥にいる。

 だが水の魔法具は未だ、その存在を示す糸口さえも見つかっていない。

「ふふ」

 パオラが口に出して笑う。

「わたしがニナを引き止めることができないのも道理ね。リフィアさんも、ミラさんの気持ちもよくわかるわ。夢物語のような話だもの」

「でも、彼女たちをどこまで守れるか、俺の身がどこまでもつか、はっきり言うとあまり自信がないのですが……」

 パオラは笑みを崩さない。

「大丈夫よ。あなたは二つ目の神の魔法具を手に入れた。それに最後の最後は、あなたはたぶん独りで……」

「この話は誰にも話さないでいただけますか」

 イシュルはパオラの言葉を途中で遮った。

 他の者に知られようと、多くの者に知られようと、だからどうした、ということではあるが……。

 このひとは知り過ぎて、わかり過ぎている。俺の考えていることも。

「あなたはニナに新しい魔法を教えた。禁忌に触れるような魔法を。けれど、あの子の精霊のエルリーナは禁忌でないと言ったのでしょう? それならきっと」

 パオラはそこで笑みを引っ込め、真剣な顔になってイシュルを見据えた。

「水神はあなたのことを知っている。あなたをどこかで見て……」

「……!」

 窓外の吹雪く気配が遠ざかる。奥の部屋の暖炉の火が大きく揺らいだ。

 パオラ・ピエルカの背後、頭上に突然魔力が渦を巻く。

 水の魔力が煌めくと、ゆったりしたローブに身を包んだ、長い髪の男の精霊が姿を現した。

「ふん。これが風と金の魔法具を持つ人間か」

 水の精霊は上からイシュルを見下ろし、冷たい声で言ってきた。その眸の色からは、敵意さえもうかがえた。

「メーベトロウティス!」

 パオラが水の精霊を見上げて叫んだ。

 ……やめろ。今は退いてくれ。

 イシュルは脳裏に吹き込んでくる怒りの源に、心のうちで押えつけるように言った。

 憮然とした金の精霊、シルバストルの気配が遠のく。

 ……ノルテ、お前もだ。君らも出てくると大事になる。

 シルバストルにはムルド城周辺を、ノルテヒルドには北線全域を警戒させている。

 イシュルはこのひと月近くの間、彼らを帰さず、使い続けていた。

「遠慮するな、小僧。わたしはかまわんぞ」

 パオラに「メーベトロウティス」と長ったらしい名で呼ばれた精霊は、イシュルに露骨に挑発するようなことを言ってきた。

「メーベ! 何を言ってるの? ちょっとは控えないさい、イシュルさんにそんな口を聞いて。……許さないわよ? 後で酷いわよ?」

 パオラの剣幕に、水の精霊は「うぐっ」と唸ってわずかに身を縮めた。

 迫力ある魔力の放出が、すっと消えていく。

「この精霊はパオラさんの?」

「え、ええ。ごめんなさい。……水の魔法具と禁忌、それにフィオアの名を絡めて出したのがまずかったみたい……」

「なるほど……」

 イシュルは余裕の笑みを浮かべてメーベトロウティスを見上げた。

 男の水の精霊とは珍しい……。今まで何度か男の精霊を見たことはあるが、水の精霊は特に女が多いのだ。絶対とは言えないが、男神であればその精霊も男が多くなり、女神であればその精霊は女が多くなる、そう言った傾向がある。

 水と風は女の神だ。召喚すると風の精霊も水の精霊ほどではないが、やや女の方が多い。

 しかし、さすがパオラ・ピエルカの契約精霊はなかなかの迫力がある。これが大精霊というやつではないだろうか。聖都のアデール聖堂の守護精霊、アデリアーヌに負けていない。

 ……でも、こいつに聞いても何も話してくれないだろうなぁ。

 契約していない、自ら召喚した精霊でなければ、人に対してこういう態度を取ってくるのはいつものこと、ごく普通のことだ。

「ユーリ・オルーラとの戦(いくさ)でやられてね、この前やっと呼び出せるようになったの」

 パオラが水の精霊を横目に見上げて言った。

「くっ」

 メーベトロウティスはパオラにそう言われて再び苦い顔になった。

「そうですか。でもパオラさんの精霊、強そうですね」

「当然だ」

「ふふ。これでも一応水の大精霊、ということになっているのよ。それを “強そう”だけでさらっと流すのは、イシュルさんくらいのものね」

 すぐ立ち直り、両腕を胸の前で組んで強がるメーベトロウティス。パオラが彼から視線をイシュルに向けて言った。

「……ふむ」

 イシュルは顔を扉の方へ向けた。

 廊下を誰かが小走りで向かってくる。

「イシュルさん! 師匠!」

 ノックもなしにその扉が開かれ、ニナが顔を出した。

「ほら。あなたが派手に姿を見せたからよ」

 パオラが自らの精霊を見上げる。

 ニナはメーベトロウティスの出現を感じ取って、この部屋に駆け込んできたらしい。

「あ、あの大丈夫ですか……」

 ニナがイシュルとパオラ、そしてちらっと精霊の方を見回す。

「ああっ!」

 その直後、いきなり今度はイシュルが素っ頓狂な叫び声をあげた。

 部屋の中に入ってきたニナの頭上に、今度は彼女の契約精霊、エルリーナが姿を現した。

「……」

 エルリーナはその美貌にやや怒りの色を見せて、メーベトロウティスを睨みつけた。

 格としてはパオラの精霊の方が上の筈だが、エルリーナもどうして、負けていない。

「むっ……」

 メーベトロウティスはエルリーナに睨まれ、面倒臭そうな顔をするとふっと姿を消した。

 魔力をきれいに抑え、背景に溶けるように消えていった。

 パオラの精霊はニナの精霊が苦手なのか。どういう力関係にあるのか。

「……エルリーナ」

 イシュルは呆然とニナの精霊を見上げた。

 その眸に燃えるような光が浮かぶ。

「イシュルさん……」

「イシュル、……さん」

 ニナが悲しそうな声で、パオラが呆れた感じの声でイシュルに言った。

 エルリーナがイシュルに困ったような笑みを浮かべた。



 翌日は天候が回復し、雪も止んで北線一帯は晴天になった。

 その日の朝、イシュルはマーヤ、リフィア、ミラ、ニナと従者のロミールたちやルシアらとともにムルド城を出発、山を降りて城塞都市アンティラに向かった。

 城門ではパオラの他に、城主代理のハネス・ベールヴァルドらが見送りに出た。

 ハネスはややぎこちなさは残るものの、イシュルとは笑顔で別れの挨拶を交わし、リフィアに対しては視線を一瞬合わせ、黙礼するにとどめた。

 ヘンリクの即位式の間、バルスタールの各城の守将には、領主家の次男や三男坊が当てられたが、主城であるムルド城にはハネスの他にも領主家の者が数名、副将格で配置されていた。

 イシュルは同城に滞在中、時々彼らから晩餐に呼ばれ酒食をともにした。ハネスをはじめ、イシュルと同年輩の者も混じる若者たちは、その席でユーリ・オルーラとの戦いだけでなく、ブリガールへの復讐、敵討ちや赤帝龍と戦った話も聞きたがった。

 イシュルは言葉を選び、当たり障りのない範囲で彼らに話して聞かせ、最初はかなりぎこちなかったハネスとも、ほどほどに打ち解けることができた。

 パオラはイシュルに、ニナをよろしく頼むと念をおすと、最後に「春が来たらわたしも王都に帰還する、また近いうちに会いましょう」と告げてきた。

 ムルド城の標高は五百長歩(スカル、約500m)を切る。王国側の山の西側斜面には除雪された細い道がついていたが、昨日の吹雪でなかば埋まっていた。

 イシュルは道に積もった雪を風魔法で吹き飛ばし、ニナの精霊のエルリーナが凍った雪を溶かして歩きやすくした。

 イシュルら一行はわずかばかりの荷物とともにムルドの山を徒歩で下山した。北ブレクタスの北端の山裾は辺り一面白銀に覆われ、陽光に輝き眩しかった。

 足下に踏みしだかれる雪の音に身を浸し、イシュルは昨日のパオラ・ピエルカとの会話を思い出していた。

 彼女はイシュルがニナに水の新しい魔法を教えたことで、水神フィオアが彼の存在を知った、あるいは注目しているのではないか、と言ってきた。ニナの精霊エルリーナとフィオアの間で、何かやり取りがあったのかもしれなかった。イシュルはただ魔法を教えたわけではない。水と生命の関わりを、この世界の人間が知らないことを教えたのである。

 ……フィオアもいずれ、月神レーリアや風神イヴェダのように、俺に接触してくるかもしれない。パオラはあの後、そういうことを言いたかったのではないか。もしフィオアと直接話すことができれば、水の魔法具について何か教えてもらえるかもしれない。

 だがそこでパオラの精霊、メーベトロウティスが割って入ってきた、つまり邪魔してきたのだが……。

「赤目ですね」

「ふむ。戦(いくさ)で北線では人の動きが激しかったから、今年はこんなところまで出てこないと思ってたんですがね」

 前の方からロミールと、アンティラに所用があってイシュルたちに同行した騎士らが話しているのが聞こえてきた。

 彼らの話では毎年、冬の時期には赤目狼の群れが、広大な西の山裾に出没することがあるという。

 おそらく明け方につけられたものだろう。陽の光に眩い雪原に、赤目狼のものと思われる足跡が南北に長く、残されていた。

 その日の夕刻、陽が陰る前にイシュルたちはアンティラに到着した。

 王都ラディスラウスへの出発は翌日の朝になる。一行はその日アンティラ宮殿に宿泊し、イシュルはロミールとともに宮殿に置いていた私物をまとめ、厩(うまや)に行ってベンデーク砦から移していたシュバルラード号と久しぶりの再会を果たした。

 リフィアとミラ、マーヤやニナたちとの晩餐では、連合王国に寝返った領主たちの平定や、イシュルの北線滞在中の話、それにヘンリクの即位式の話を主に、話題に事欠かなかった。

「イシュルはずっとムルド城にいたわけか」

 リフィアは主菜の煮込んだ肉を口に放り込み、ゆっくり咀嚼すると、イシュルにニコニコと屈託のない笑みを向けて言った。

 このひと月間の互いの消息は昨日、かるく話している。

「ああ。だいたいはな。適当な日を選んで、他の城にも泊まるようにしたけど」

 リフィアはそれに頷きながら、イシュルの隣に座るニナに視線を向けた。ミラとマーヤもニナに目をやった。

「……」

 ニナは黙って頷くと口に出して言った。

「どの城にも、女の人はほとんどいなかったですから」

「ん?」

 怪訝な顔になってニナを見るイシュル。

 マーヤたちが昨日、王都からアンティラを経由してムルド城にやってきた時は、ニナはパオラ・ピエルカを迎えに行っていて不在だった。

 リフィアは、そしてミラとマーヤも、イシュルに近づく女がいなかったか、今この場でニナに確認しているわけだ。

 イシュルはそんな彼女たちの事情を知らない。

 ……こいつら、また何かやってるな? 

 とは言っても、しつこく追及すれば絶対墓穴を掘ることになる。それはわかり過ぎるほどにわかっている。

 イシュルはニナに曖昧な笑みを浮かべ、何も触れずにやり過ごすことにした。 

「そういえばヘンリクさまの即位式だけど」

 マーヤはイシュルの顔をちらっと見、だが素知らぬふりで話題を逸らした。

「随分とあっさりした即位式でしたわね。いろいろと急ぐ必要があったのはわかりますが」

 ヘンリクの即位式について、その概要はイシュルもすでに耳にしている。

 ラディス王家は聖堂教会による戴冠は行わず、王家に近い年長者や、公爵家の当主がこれを行う。そのため戴冠式は即位式中の一儀式と考えられ、同王国では戴冠式という言葉はあまり使われない。

 即位式には、王都の主神殿から大神官以下多数の神官らも列席するが、あくまで傍観者、立会人扱いである。その点は聖王国とは根本的に異なる。

 ヘンリクは諸侯を王宮に集め、即位を宣言すると続いて戴冠式、内務卿や外務卿(ラディス王国では内務卿の上に執政を置くが、今回は内務卿が兼務)などの親任式を執り行い、続いて晩餐会を催し、即位式の一連の行事を一日で終わらせてしまった。

 新王ヘンリクは翌日、王城の糧食の過半を王都の住民に放出、一年分の諸税の減免を宣した。

「まだお城の修繕も終わっていないし、王都の復興も道半ばだ。陛下は即位式を質素に執り行い、節約した金を王都の民草に使われたのだ」

 リフィアが胸をそらし、我がことのように誇らしげに言った。

「単純に、王都の復興に金を注ぎ込んだ方が、後で入ってくる実入りは多くなるからな」

「イシュルはまた、そういうことを言う」

 イシュルの露悪的な言いぐさにリフィアが頬を膨らます。

「ふふ」

「ほほほ」

「……」

 マーヤとミラが声を出して笑い、ニナが無言で笑みを浮かべた。

「もちろん領民らを慰撫して人心の安定を図ったわけだが、それだけじゃない」

 イシュルは口角を引き上げ続けて言った。

「王都の復興を早め景気を浮揚させるには、王都の空気を明るく、人々の心を前向きにするのが大事だ。新王はそこら辺のことを考え、領民に大きな飴を与えたのだろう。けっこう、そういう目に見えないものにも効果があるのさ」

「うっ。……そうだな」

 リフィアが目を丸くして頷いた。

 ミラたちのあげる笑い声が大きくなった。



「王都に着いたら、ヘンリクさまにお願いして王家の書庫を調べるんですよね」

 華やかな少女たちの笑声がおさまると、ニナがイシュルに聞いてきた。

「もし許可が下りたら、わたしも手伝いますね」

「うん。ああ、そうだ。リフィアもミラもよろしく頼む。どれくらいの書物を調べることになるか、はっきりわからないから」

 イシュルは両手を膝に置き、ミラたちに頭をかるく下げて言った。

「もし量が多いのなら、人数をかけて調べないといけない。あっ、でもリフィアは領地に帰らなくてもいいのか?」

 イシュルは途中でふと思いつき、リフィアに視線を向けて言った。

「大丈夫だ。即位式にはモーシェと家令のルマンドも参ったのだ。その時に話をしてある」

 リフィアは少し硬い顔になって、だが同時に頬を染めて言った。

 イシュルから視線を逸らし、顔を横に向けている。

「そうか……」

 イシュルは小声で、微かに首肯した。

 ……これはあまり触れない方がいいのだろうか。でも領地に帰らなくてもいいのか?

 まさかもう、辺境伯家から籍を抜く手続きを進めているとか……。

 いや、今は何も言うまい。これはいろいろ微妙すぎる……。

「イシュル」

 場が一瞬静かになると、今度はマーヤがイシュルに声をかけてきた。

「エレミアーシュ文庫を調べるんだよね? わたしも詳しくは知らないけど、イシュルにしか閲覧許可は下りないと思うよ」

 マーヤのいつもの表情の薄い顔。だが今はその眸の奥に、見慣れない強い光が見えた。

「王家書庫の前に、まずは国史編纂室から調べればいいと思う。マレフィオアの記録も載っているかもしれないし、編纂室の方が許可が下りやすいから」

「なるほど」

 イシュルが真面目な顔になって頷くと、マーヤもひとつイシュルに頷き、ほんの微かに笑みを浮かべた。

「王都に着いたら、おじさまに直接聞いたらいいと思う」

 マーヤの言う「おじさま」とはヘンリクのことだ。

 王家書庫と編纂室……。やはりかなりめんどくさそうだ。

 リフィア、ミラ、ニナも揃って難しい顔になり、押し黙ってしまった。

「……」

 イシュルは一瞬、マーヤの眸を凝視した。

 そこにうかがい知れない何かが、彼女の存念が隠されているような気がした。



 暖炉の炎が、燭台の蝋燭の火が、壁に掛けられたカンテラの灯が、室内を暖かく照らしている。

 イシュルたちがいる部屋は以前、ペトラ以下、軍監のルースラと諸侯が、イシュルにバルスタール城塞線守護を要請してきた同じ晩餐室だった。

「イシュルさま。ラディス王家の書庫も他の国々と同じ、一部の書物が秘匿され、禁書扱いされているのですわ。それはごく当然のことです。気になさる必要はありませんわ」

 ミラの面(おもて)が暖色の火を映して、やさしい笑みを輝かせる。

「調べる書物がたくさんあるのなら、係の司書に聞けばいいのですわ。マレフィオアに関する記録なら、必ず何か残っているでしょう」

 ミラはイシュルひとりで調べることになっても、悲観する必要はないと言っている。

「ああ」

「……」

 イシュルが頷く横で、マーヤはわずかに身じろぎし、視線を食卓の外側へ逸らした。

 ……王家書庫の蔵書、編纂室の書類の調査目的はマレフィオアの所在確認だ。だが今はマーヤの表情が少し気になる。

 これは気に留めておいた方がいいかもしれない。彼女の眸の奥に見えたもの。それは間違いなく、今回の目的と何らかの関係があるに違いない。

 問いただせばマーヤは教えてくれるかもしれない。だが今は触れない方がいいような気がする。それに、ただの思い違いで、実はたいしたことではない可能性だってなくはない……。

「マレフィオアなんて、わたしは聖都に行くまで知らなかった。ここ何百年かは、人前に姿を現わすことがなかった化け物だ。聖王国の先の国王、ビオナートが召喚するまでは地の奥底、ひとつところに隠れていたのだろう。やはり古代ウルクの頃にいたとされる、ブレクタスの地下神殿に今も潜んでいるんじゃないか」

 リフィアが厳しい顔つきになって話す。

「だと思うんだがな。一応は調べてからじゃないと。すぐに行って帰ってこれる距離じゃないからな」

 王都からブレクタスの地下神殿までは、直線距離ならそれほどでもないが、実際にはアルム湖を渡るか陸路を迂回し、同山塊の山々を超えていかねばならない。

「……」

 イシュルも顎に手をやり難しい顔になった。

 それに、だ。

 以前、ペトラの精霊、ウルオミラの言ったことが気になる。彼女は俺に、マレフィオアを完全に滅ぼすことはできない、と言ったのだ。

 やつを滅すればもう片方の紅玉石は簡単に取り戻せるだろう。主神の間であの化け物はその顎(あぎと)から、あの赤く光る石を外に出し見せびらかしてきたのだ。やつは己の体内に、紅玉石を隠しもっているのだ。やつを倒せばその巨体から、他にも多くの魔法具や貴重な遺物が出てくるのではないか。

 だが完全に斃すことができなければ、紅玉石を取り戻すのにひと苦労するかもしれない。例えばやつのからだを切り刻みながら戦い、紅玉石の気配を感じとり、探し出さねばならない。

 ラディス王家の書庫であっても期待薄だが、ひょっとしたらやつの不死性を暴く手がかりが見つかるかもしれない。

「どうしました?」

「イシュル?」

 気づくと皆、イシュルの顔を心配そうに見つめていた。

 ニナとリフィアがイシュルに声をかけ、ミラとマーヤがじっと見つめてくる。

 ……あの夜、ペトラとウルオミラと話したあの夜。

 あの時のペトラの眸が、彼女たちの向けてくる眸と重なる。

「いや、なんでもない」

 まずは王城に戻ってからだ。王家の書庫を調べないと、何もはじまらない。

 イシュルは笑みを浮かべて、彼女らを見つめ返した。



 翌早朝、イシュルはひとり宮殿を出てアンティラを囲む南側の城壁に向かった。

 そこは以前、デメトリオの遺族であるセシリーアとその子らを見送った、同じ場所だった。

 イシュルは王都の方向、南の空を一瞥すると、視線を城壁の内側、アンティラの街の方へ向けた。

 アンティラはやや東西に長い城塞都市で、四方を一重の水堀と城壁で囲まれている。西側と北側には内側にもう一つ城壁が設けられ、複郭を成していた。東西は二里長半(スカール、約1.5km)、南北は二里長弱ほどの大きさで、東側をやや離れてアンテル川が流れ、堀の水はそこから引いている。城郭の外、その東側にも堀を兼ねた水路で南北を挟まれ、アンティラの市街が続いていた。一般の領民が多く住むその街は、アンテル川の西岸まで広がっていた。

 城壁の内側は大小の家屋が蝟集し、外観は中世ヨーロッパの城郭都市と何ら変わらない。中央やや南よりに白璧の城館、アンティラ宮殿があり、市内の緑は同宮殿の中庭と主神殿の裏側、騎士団兵舎の周辺にしか見えない。それらも今は雪に覆われ色彩を失い、灰色に沈む街並みと同化している。

 市城の東側の家々からは、薄く煙が幾筋か上がっている。アンティラは“軍都”と呼ばれるだけあって、街の住民も北線城塞にかかわる生業の者が多い。この時間から火を起こしている家は主に鍛冶屋であろう。

 ……今頃は鏃(やじり)や蹄鉄、剣や鎧の打ち直しなどで大忙しなのではないか。

 イシュルは視線をそのまま、朝日の差す東の空を彷徨わせた。

 そしておもむろにノルテヒルドとシルバストル、ふたりの風と金の精霊を呼んだ。

 イシュルは未だに打ち解けない、仲の悪いふたりの精霊を、あえて同時に呼んだ。

「剣殿」

「御前に、盾殿」

 ノルテとシルバはイシュルの正面、やや上方の空中に並び、イシュルに対し深く頭(こうべ)を垂れ、あらたまった礼をとってきた。

 ふたりとも、この場でイシュルと別れることになるのがわかっているようだった。

「ここでお別れだ」

 イシュルはふたりの精霊を見上げて言った。

「長い間ありがとう。ここひと月ほどは随分と暇をもてあましたろう。……すまなかった」

 連合王国軍が退いた後は日がな一日、ひたすら警戒、警戒の毎日だった。

 何事もない平穏は本来なら喜ぶべきことだ。だが戦いを尊ぶ戦士である彼らからすれば、そんな日々こそは忌避すべき時間の浪費でしかなかったろう。

「けっしてそんなことは。剣殿」

「盾殿の魔法をこの目にしただけでも、人の世に降りた甲斐があった」

 ふたりの精霊は同じような笑みを浮かべて言った。

「……」

 イシュルが無言で頷くとノルテは「またいつか」、シルバは「さらば」とひと声残して朝の陽光の中に姿を消した。

 ……東の空はよく晴れている。朝日が眩しい。

 西の空は山並みに雲がかかっているが、今日はあれがこちらまで流れてくることはないだろう。

 イシュルはひと息吐くと、あらたな精霊を呼ぶことにした。

 次は王城での書物あさりになる。戦(いくさ)は終わったし、聖都のような尖鋭な派閥争いもない。荒事はない、と考えていいのだろうが、場所が場所だけに何があるかわからない。

 月神に関しては何もはっきりとしたことは言えないが、しばらくは大丈夫な気がする。

 次にあの冷酷な女神が動くとしたら、それはマレフィオアと相対する時ではないか。

「呼ぶとしたら頭脳派で、小技のうまい技巧派の──」

 当然、探知能力に優れる風の精霊だ。かつて召還したナヤルとクラウの特徴を併せ持つ精霊が最適だろう。

 そして何か荒事が起こって派手な戦闘状態になったら、攻防力に優れる金の精霊を呼ぶ。

「そうしよう」

 イシュルは南の、王都の方を睨んで精霊召還の呪文を唱えた。

「イヴェダよ、願わくば我(わ)に汝(な)が風の精霊を与えたまえ、この長(とこしえ)のひとの世にその態を現したまえ」

 東側は明るく光る水色。西の方にはまだ、紺色に沈む夜の気配が残る朝の空。その青の諧調を背景に、風の魔力がどこからともなく現れ渦を巻く。鋭く一瞬、魔力が煌き人型に像を結ぶ。

「……」

 イシュルは息を呑むと眸を微かに細めた。

「これは剣さま。お初にお目にかかります」

 柔らかい少女の声。

「あ、ああ」

 イシュルは呆然とその無色、半透明に輝く精霊を見上げた。

 ……今まで召還した精霊と、ちょっと違う。

 外見は自分と同じ年齢か、ちょっと下に見える。ゆったりした神官風のローブに、やや長めのショートボブ、少しくせ毛で広がって見える。頬から首筋、肩に至る曲線は華奢で全体に柔和な印象を受ける。

 ……だが。

「名はなんと言う」

「これは申し送れました」

 少女の風の精霊はイシュルに腰を折って頭を下げてきた。

「わたくしはネルレランケ・ベルヘラミナンテ、イヴェダさまお側に仕えさせていただいております」

「……そ、そうか」

 ナヤルと同じか。そしてその舌を噛みそうな名前。……あきらかに高位の精霊だ。

「ナヤルを知ってるか?」

「ナヤルルシュク・バルトゥドシェク、さまですか?」

「ああ、そうだ」

「……」

 ネルレランケは一瞬、全身を硬直、させたように見えた。

 ……うっ。おまえもか。おまえもそこで固まっちゃうのか。

「よく存じ上げておりますわ。……それが何か?」

 だが彼女はすぐに立ち直り、イシュルに余裕の笑みを浮かべてみせた。

「いや、以前ナヤルには世話になったんでね」

 イシュルも少女に笑みを返した。

 ……これは使えそうな精霊だ。

 イシュルの唇が歪められる。

「ネル、と呼んでいいかな」

「はい。よろしくお願いいたします。剣さま」

 少女は再びかるく頭を下げ、笑みを深くした。

 その眸は油断ない光を湛え、その薄い唇はイシュルと同じように歪められていた。

 今にも舌舐めずりしそうにさえ、見えた。



 その日、イシュルたちはアンティラを出発し、思い出深い王国北辺の地、バルスタール城塞線を後にした。

 一行は数台の馬車と荷馬車に、イシュルやリフィア、ミラにシャルカ、ニナ、それにルシアやロミールまで、皆騎乗でアンティラの南門から軍都街道に出た。

 アンティラ宮殿を出発するとき、新たに“髭”の男が四名加わった。彼らのうち三名は御者を務め、ひとりは騎乗であった。

「イシュルさま、その節は」

 イシュルはその平服の剣士と顔を合わすと呆然と呟くように言った。

「エバン……」

 その剣士はかつて、マーヤを馬に乗せはじめてイシュルの前に現れ、聖都の収穫祭でリフィアとともに姿を見せ、オリバスで連合王国侵攻を知らせてきた男だった。

「これからしばらくはマーヤさま付きとなり、みなさま方をお守りします」

 イシュルもすでにシュバルラードに乗っている。ふたりは南門の門前で、互いに馬上で話した。

「王都までの護衛か?」

「いえ、王城に滞在される間もです」

「……」

 イシュルは小さく溜息を吐いてエバンを横目に見た。

 アンティラ宮殿の南門は今は門扉が下され、堀の上に渡されている。石積みの城門には真っ白の雪原が垣間見えた。

 後ろから、同じくすでに騎乗したリフィアやミラたちが、イシュルとエバンのやり取りを注視しているのが伝わってくる。さらにその後ろではロミールとルシアが、荷車の前で何事か話している。

「王城で護衛はいらないだろう。俺たちのお目付け役か」

「まぁ、そうです」

 エバンは浅黒い顔に白い歯を見せて笑みを浮かべ、あっさり肯定した。

「エバン」

 そこへリフィアたちの背後でニナの横にいたマーヤがやってきた。

「はっ」

 エバンが一旦馬を降り、いつぞやのようにマーヤを自身の前に乗せた。

 マーヤはエバンに乗せてもらい、王都まで騎乗で行くらしい。

「マーヤ、お前は馬車に乗るんじゃないのか」

 マーヤは馬に乗れない。いや乗れるかもしれないが、通常の馬では彼女の手足の長さが足りない。

 イシュルが声をかけるとマーヤはすました顔で言った。

「雨や雪が降ったらそうする。……本当はイシュルに乗せて欲しいんだけど」

「あっ、それは無理だ。お、俺は乗馬、下手だし」

 イシュルはしどろもどろになって答えた。

「……」

 背後からリフィアたちの視線が突き刺さってくる。

「イシュルさま、わたしが先頭に立ちます」

 と、今度は荷馬車の方から馬に乗ったルシアがミラに会釈を入れ、イシュルの前にやってきた。

 メイド服に黒いマント、細身の長剣を差している。

「では出発しようか。イシュルはわたしの横に来て」

 エバンに抱きかかえられるようにして馬に乗るマーヤが、偉そうな口ぶりで言ってきた。



  


 王都への道程は特に問題も起きず、順調に進んだ。

 アンティラを出てベンデーク砦を過ぎてすぐ、人家のない森や西から迫る山並みがかかる辺りは、赤目狼や小悪鬼(コボルト)の群れもたまに出没する、とのことだったが、その姿どころか気配さえ、一切感じられなかった。

 街道筋は連合王国の侵攻で多くの兵馬の動きがあり、魔獣たちはもうしばらくの間、人里まで出てくることはないだろう、とのことだった。

 沿道の大小の領主たちも多くはまだ王都に滞在し、懸念された道中で彼らによる饗応、接待漬けに見舞われることもなかった。

 イシュル一行は軍都街道沿いの街や村の一般の宿屋に宿泊し、南下を続けた。

 無事アンテラ川を渡河した後、サーベラルにおいて、すでに居城に帰っていたベールヴァルド公爵の主催による晩餐会に出席したのが、道中唯一の饗応となった。

 アンティラを出発した八日後、一行は無事王都に到着した。

 街道筋はまだ野盗の出没も続いている、ということだったが、夜間の警戒は召喚した精霊のネルレランケに任せてあったし、道中は“髭”の男たちの護衛もあって、危険はまったく感じなかった。

 しかし王都が眼前に迫ったその日の午後、一行は軍都街道で思わぬ事態に巻き込まれた。

 市街から数里長ほど手前で、街道は多くの荷馬車や人で渋滞していたのだった。

 王都周辺の軍都街道は、一部を路肩から外に出せば、対向する荷馬車が互いに通過できるほどの道幅がある。

 街道に連なる車列はみな道の左側に寄り、右側には馬が二頭、横に並んで進むことができるほどの幅が空いていた。

「凄いな……。まさか渋滞に遭うとは。右側を空けているのは騎士団か、誰かお偉いさんが通るのか?」

 目の前ではシュバルラードの耳がぴくぴく動いている。

 イシュルは隣のマーヤとエバンに、どちらともなく声をかけた。

「じゅうたい?」

 マーヤが聞きなれないイシュルの言葉に、不審な声を発する。

「どちらも違います。今日は連合王国に寝返ったシュブラント伯爵家ら裏切り者を、バルスタールに送致することになっています。これから一伯爵二男爵家、残り三騎士爵家の一族と家臣、彼らについた領民らの一団が通過する筈です」

 エバンはイシュルの質問によどみなく、すらすらと答える。

「なるほど……」

 イシュルは視線を街道の先の方にやり小さく呟いた。

 エバンは“髭”の小頭(こがしら)で、道中の宿の手配をはじめ細々としたことも完璧にこなし、行く先々の情報も当然、くまなく把握していた。

 さすが王家の影の者は違うというべきか、こんなに使えるなら常時手許に置いておきたいと、そうイシュルにも思わせるほど有能な男だった。

 ……しかし王都に着いて早々、嫌なものを見ることになりそうだな。

 イシュルは視線はそのまま、小さくため息を漏らした。

 前国王、マリユス三世の敗死後、次々と王家を裏切ったヨエル周辺の領主たち、厳密に言うと当主らは皆マリユスらとともに討ち死にしているので、残された夫人や子供たち、当主の兄弟らになるが──彼らはイシュルが北線にいる間にすべて王家に降り、生き残った首謀者は処刑、残りの一族郎党は皆奴隷に落とされ、北線城塞群の修理、築城の労働力としてこの先、すり潰されることになる。

 赤子や幼児は神殿の孤児院に預けられ、成人前に同じ北線かどこかの鉱山に送られる。運が良ければ違う名を与えられ、監視つきで一生、神殿の下働きとして過ごすことになる。

「来たぞ」

 後ろでリフィアの低い声がした。

 荷車や人馬の折り重なる街道の先で、人々の立ち騒ぐ気配が起こる。

 やがて前方から王家騎士団の竜騎兵に先導され、黒く染まった一団の姿が見えてきた。王家に反逆し奴隷の身に落ちた者たちは、皆揃ってぼろ切れのような黒いマントを纏い、フードを目深に被って俯き、力なく歩いている。彼らの間には徒歩の兵隊が付き添い、後尾にも竜騎兵がついていた。

 路上の人々は黒いマントの一団が通ると罵声を浴びせ、中には石を投げる者もいた。

 石を投げた者に対し、兵隊が「やめろ!」と注意している。

 一団には明らかに老人や子供とわかる者もいた。

 ……彼らはあの北辺の地で、冬を越せるだろうか。

 イシュルは目の前を通り過ぎて行く黒の一団を振り返り、眸を細めて見やった。

 おそらく、春の雪解けを見られる者はひとりもいまい。

 しばらくすると、止まっていた車列が前に進みはじめた。



 軍都街道沿いの王都の街並みはかつて、ユーリ・オルーラの連合王国軍支隊と、イシュルの召喚した風の弓使いの精霊ヨーランシェ、宮廷魔導師の実力者、パオラ・ピエルカやドミル・フルシークらとの戦闘で瓦礫の山となっていたが、今は至るところで木造や石積みの家々の建築が進められていた。まだ何も手のつけられていない空き地には、テントや掘っ立て小屋が立ち並び、多くの人々が立ち働き、行き来しているのが見えた。

「イシュルさまの言ったとおりですわね。街の雰囲気が明るくなりましたわ」

 リフィアと横に並んで後ろを進むミラが、イシュルに声をかけてくる。

「うむ。即位式の前に王都に入った頃とは確かに違う」

 とリフィア。

「いいことじゃないか」

 ……確かに王都の住民たちには活気が感じられる。北の城塞に送られる囚人たちを目の当たりにした、あんなことがあった後だからなおさらだ。

 イシュルはつとめて朗らかな笑みを浮かべ、ミラとリフィアの顔を振り返った。

 やがて一行は北門から王城に入り、すぐ右に折れて西宮の方へ向かった。

 城壁の修理が終わるのはまだまだ時間がかかりそうだったが、北門は即位式に間に合わせたのか、綺麗に修復がなされていた。

 これもエバンが手配したのか、イシュル一行は誰の誰何も受けずに北門を通過し、未だ所々に丸太で足場の組まれた外郭と内郭の城壁の間を進んで行った。

 時刻はそろそろ陽が西に傾く頃合いで、修理に当たっている城兵や人夫たちの姿は見えない。

 左手の内郭、丘の上には王宮が見える。王宮も北側正面は綺麗に修復されている。

 ……マーヤたちの話では、王宮とその北側正面広場の工事を急ぎ、なんとか形になったところで即位式を行ったということだった。

 王宮前の広場はかつてユーリ・オルーラに奇襲をかけ、直後にパオラ・ピエルカが大精霊召喚魔法を発動した場所である。地面が所々陥没し、敷石が粉砕され土砂が吹き出し、滅茶苦茶になっていたのを、突貫工事で僅かな期間で修復したのだが、ペトラが土魔法でかなり尽力したらしい。

 だが、ユーリとの攻城戦で最前線となった北宮はほぼ全壊し、即位式の当日まで瓦礫を片付けるのが精一杯、今も土台の敷石が僅かに残るのみで、再建の目処も立っていない。

 左右を城壁に挟まれた王城の西側を奥に進んでいくと、目の前に西宮の建物が現れた。

 先の攻城戦では西宮も大きな被害を受け、正面の石積みの壁は綺麗に崩れ落ち、その奥の棟の古い汚れた壁面が露出していた。

 ただ瓦礫はきれいに片付けられ、ところどころひび割れた敷石の一部も修繕されている。

 イシュルたちはそこで下馬し、後続していた馬車と荷馬車は西宮の脇を通って奥に移動していった。

「マーヤは西宮の宮廷魔導師、だったけ?」

「そう。ニナも一緒」

 イシュルの質問にマーヤが短く答えた。

「昔は西宮に詰める宮廷魔導師は外事、北宮に詰める宮廷魔導師は内事を務めることになっていたんですけど、今ははっきり分かれてないです」

 とニナが補足してくれる。

「西宮では外務卿、北宮では内務卿が執務するのは変わっていないぞ」

 と説明するのはリフィア。

 ちなみに執政は王宮に詰め、東宮は王家各騎士団の本部が置かれている。南宮は下僚の一部執務室と宿舎になっている。地方から王都に上ってきた下級貴族の宿舎としても使われている。

「あっ」

 イシュルたち以外、人気のなくなった南宮前に奥の方から二人、人影が近づいてきた。

 イシュルはいち早くその気配に気づき、建物の陰から姿を現した人物を見て声を上げた。

「ご苦労さまでした、イシュル殿」

「久しぶりです、イシュル殿」

 一行を出迎えに来たふたりはルースラ・ニースバルドとトラーシュ・ルージェクだった。


 

 ヘンリクの近臣、懐刀であるルースラとトラーシュと再会の挨拶を交わし、彼らから明日、ヘンリクと午餐を共にするよう告げられた後、イシュルたち一行は彼らと分かれ西宮奥の、地方の領主や外国の使者などの宿泊に使われる一画に案内された。

 西宮は王城でも何度も建増しされ、複数の大小の建物の寄り集まった複雑な宮殿だった。

 リフィア、ミラとニナは夕食後に、イシュルの割り当てられた部屋に集まった。マーヤはペトラの居住する後宮に出向き、今晩都合がつけばペトラをお忍びで連れてくる予定になっていた。

「まずは明日、国王と会ってからだな」

 控え部屋、居間、寝室と三部屋続きになっている居室の居間で、イシュルは各々長椅子に座ってくつろぐミラたちを見回し言った。

「ヘンリクさまにはもう、王家書庫閲覧の件は伝わっているだろう?」

 と、まずリフィアが返す。

 彼女はイシュルに、今さらヘンリク本人に閲覧許可を願い出る必要はない、という意味のことを言っている。

「うん。ただ、なんとなくな」

 王都までの道中でも、マーヤからそのことは何度も聞かされている。ペトラがヘンリクに直接掛け合って、本人からすでに、エレミアーシュ文庫も含めた王家書庫の閲覧許可をもらってある、との話を聞いている。

「あと、ミラの国史編纂室への入室許可を確認しなければならない。ミラは聖王国の貴族だからな。このことは国王本人から言質をとっておいたほうがいいだろう」

 編纂室で発行されるラディス王国史は、一般に公開されていると言ってよい。神官や貴族、学者、富商などが司書長に金を積むか、何らかの便宜を取りはからう見返りに写本をとらせてもらう、などということが連綿と繰りかえされてきている。

 異国の貴族であるミラにも閲覧許可は下りるだろう。

「編纂室には秘密文書もあるぞ。それらの閲覧許可はミラ殿はもちろん、わたしたちにも下りないだろうな。イシュルひとりには下りるかもしれないが……」

「うーむ」

 ……機密書類を見れないと、あまり意味がないんじゃないか。

「やはりイシュルに陛下と直接交渉してもらうしかないか」

とリフィア。

「王家や大貴族の秘密文書のほとんどは、他国や教会との秘密協定、自家所有の魔法具、あとは表に出せない醜聞、に関するもので占められています。マレフィオア自体は秘密でも何でもありません。たぶん調べなくても大丈夫ですわ。それより、エレミアーシュ文庫の方が重要な手がかりを得られると思います」

 と言ったのはミラ。

 彼女は微笑を浮かべて周りを見回し、最後にイシュルに視線を向けてきた。

「秘密指定の書類はわたくしたちだけでなく、イシュルさまでも閲覧許可は下りないかもしれません」

 ミラは「表沙汰にしたくない醜聞の記録など、誰にも見せたくはないでしょうから」と続けた。

「ふむ」

 やはりヘンリクと司書長、編纂室長の話を聞いてからだな……。

 と、マーヤがまだ戻ってこないが、とりあえずネルを紹介するか。

 イシュルはまだ、リフィアたちに新しく召喚した風の精霊を紹介していなかった。

 王都へ向かう道中でも、ネルレランケは他にひとのいる前ではまったく姿を現さず、気配も見せずに、イシュルがひとりでいる時も、声だけ、会話だけで済ますことが多かった。

 おそらくシャルカにも、ニナの契約精霊、エルリーナにも悟られていないのではないかという、異様に慎重な行動をとる精霊だった。

「実は俺、アンティラを出発する時に新たな風の精霊を召喚したんだ。きみたちに紹介しとこうと思って」

 イシュルはみなを見渡してから、あらためてニナの顔を見つめた。

「エルリーナは気づいてたかな? 聞いてみて?」

 ……シャルカはロミールやルシアとともに控え部屋にいる。エルリーナがネルの気配を探知できたか、気になる。

「ん〜。……ちょっと怪しい感じもしたけど、ほとんど気づかなかった、と言ってます」

 ニナの眸が宙を彷徨う。エルリーナはイシュルたちの前には姿を現わさなかった。

「そうか」

 ……やはりネルは使える。同じ精霊に気取られない能力もだが、その用心深さがより評価できる。

「大精霊など普段、あまり目にすることはありませんから、わたくしも詳しくはありませんが……」

 ミラが顎の先に細い指先を当てて、考え込む仕草をして言った。

「一般的には強い精霊ほど、身を隠すことにあまり気を使わないですわね。特別に人間嫌いの精霊でなければ皆、堂々と姿を現しその力を誇示することが多いです」

「なるほど、そうかもしれない」

 ミラの言ってることはわかるが。……しかし相変わらず大精霊とそうでない精霊の見極めがつかない。強そう、とかそういうのはわかるんだが。

「じゃあ、呼ぶよ。……ネル、自己紹介してくれ。王城に入っても皆、引き続き護衛の対象になる」

 ……はい、剣さま。

 イシュルの脳裡にやさしげな少女の声が響くと、室内の中央に微かな魔力の光が輝き、人型に像を結んでいく。

「……」

 室内にいたリフィア、ミラ、ニナはその精霊の姿を目にすると、みな息を飲んで両目を見開いた。

「みなさんよろしく。我が名はネルレランケ・ベルヘラミナンテ。イヴェダさまお側に使える女官をしております」

 ネルはリフィアたちに一見完璧な、なんの裏表のない微笑を浮かべて見せた。

「これは……」

 リフィアがほとんど聞き取れないような小声で呻く。

 ……よかった。ナヤルは俺以外にはすべて、態度がでかかったからな……。

 イシュルはネルの如才ない対応にひと安心すると彼女に声をかけた。

 王都に到着する前日、イシュルはネルに頼んでいたことがあった。

「今ここでいい。どうだった? 重要そうなものだけでいい。わかったこと、教えてくれないか?」

「はい、剣さま」

 ネルはかるくイシュルに一礼すると話しはじめた。

「まずは中央の宮殿と後宮の中間にある地下室でしょうか。手前に迷い、室内外に七重の魔封陣が施されていました」

「七重?」

「はい。室内に向けて天井と床、周囲の石の壁に刻み込まれたものが六面、出入り口の外に面した壁に刻まれたものが一つ、計七つの魔封陣が設置されていました」

「そ、それは……」

 ニナが緊張した声を上げる。

「おそらく、その地下室が王家の宝物庫だ」

 と続けてリフィア。

「魔法具とかが収蔵されているわけだ」

「どういたしますか? お命じくださればすぐに陣を破って魔法具を持ってまいりますが」

 ネルがわざとか、柔和な笑みでそんな物騒なことを言った。

「いや、それはしなくていいから」

 イシュルは苦笑を浮かべて言った。

 ……そんなことしたらまた、戦争がはじまりそうだ。

「あとは特に。気になるほどのものはありません」

 ネルはイシュルに微笑を向けてことも無げに言った。

「書庫はどうだった?」

 王家書庫のだいたいの場所はすでにマーヤから聞いている。

 エレミアーシュ文庫など王家の各書庫は、複数の建物、あるいは大小の部屋に分かれ、主に西宮の一番奥、南側に集中していた。国史編纂室もその手前、王家書庫に隣接していた。

「そうですね。あの辺には確かに少し、気になる点がありました」

 ネルの微笑みが深くなった。

「魔法陣はありませんが、幾つか魔法具が散在しているようです。発動してみないと、よくわからないのですが……」

「魔法具? 設置型の?」

 何かの彫像とか、室内装飾とかだろうか。

 だが書庫であるならば、あるいはマレフィオアのような化け物を召喚できる、危険な魔道書の類いもあるかもしれない……。

 イシュルは視線を一点にとどめ、眸を細めて宙を見つめた。

「設置型ではないような……」

 ネルが呟くように小声で言うと、視線を鋭くして視線を部屋の外に向けた。

「……」

 イシュルもほぼ同時に、外の廊下を駆けてくる人の気配に気づく。

「ペトラだな」

 イシュルは肩を落として呟いた。

 緊張感にあふれていた室内の空気が一気に弛緩する。

「ネル」

「はい。それでは剣さま、また御用があればお呼びください」

 ネルはイシュルのひと言だけで彼の意向を察し、姿を消した。

「ふう」

「ほっ」

「……」

 室内の少女ら、ネルの外見と同じ年頃のミラたちは吐息とともに緊張を解いた。


 

 白を基調とした屋敷に足を踏み入れる。

 小ぢんまりとした玄関ホールの正面には、妙齢の女性の大きな肖像画が飾られていた。

 周りは豪奢なレリーフのなされた金箔の額縁で覆われ、前世の西欧近世絵画、そのものが目前に存在していた。

 テンペラか? いや、油彩かもしれない。

 画風は中世のものではない。筆致はレンブラントかフェルメールか。光と影の表現も少し似ている気がする。

「……」

 この世界は近世ヨーロッパほどには文明、科学が進んでいない。

 イシュルは目の前に微笑む美貌の女性に、息がつまるような違和感を憶えた。

「ヴァレンティーナだ」

 イシュルが声のした方に顔を向けると、奥へと続く暗く沈んだ廊下を背景に、男がひとり、立っていた。

 いや。その男の背後の暗がりにもう一人、初老の男が立っている。ヘンリクの執事、セヴァンテスだ。

「亡き妻の肖像画だよ。わたしの宝物でね。フロンテーラから運ばせたのだ」

「ご機嫌麗しく、陛下」

 イシュルはその男、新しくラディス王国の国王になった男に向かって膝を折った。

「久方ぶりです」

 イシュルはすぐ顔を上げると笑みを浮かべて言った。

 久しぶりとは、皮肉になっていないだろうか。

「よく王都に戻ってきてくれた。君には望まぬ苦労をかけてしまった」

 ヘンリクは何の屈託もない笑みを見せてイシュルに言った。

「積もる話もある。今日は昼食をともにしよう。着いてきなさい」

 ヘンリクから昼食をともに、との誘いは昨日、部屋に尋ねてきたペトラからも聞いている。

 例えば諸侯を集め、大仰な謁見の場など仕立てられるより、こうして内々に済ましてくれるのはありがたい。よほど気が利いている。

 イシュルはヘンリクとセヴァンテスの後について屋敷の奥へ入っていった。

 彼らの後につて薄暗い廊下を進むとすぐ、突き当たりに陽光に照らされた緑の色彩が浮かんだ。

「今日はよく晴れて暖かい。外で食べよう」

 冬の緑とは思えない色に、振り返ったヘンリクの黒い影が言った。

 一直線の廊下を渡り外に出てみると、そこはあたり一面、草木に覆われた瀟洒な中庭だった。

 その一角に白い敷布で覆われたテーブルと、背の曲線が美しい椅子が二脚、置かれていた。

 イシュルとヘンリクはそのテーブルに対面して座り、昼食をとった。

 ヘンリクはフリルのついた白シャツに金糸の刺繍のある赤茶のベスト、下は焦げ茶のズボンというとても国王とは思えない服装で、何も飾らない普段着のままイシュルと面会した。

 イシュルを招待した屋敷も王宮ではなく、西宮の南側にある、王家の一族が使う小邸宅のひとつだった。

「この屋敷は昔、わたしがアンティオス大公に推される前、妻のヴァレンティーナと幼いペトラとともに過ごした思い出の場所なのだ」

「そうですか。王宮の方には……」

「今内装をいじっていてね。公務で使うぐらいかな。ペトラはふだん後宮にいるが、この屋敷にもよく来るよ」

 ヘンリクは濃いソースのついた肉片を口の中に放り込むと、気安い口調で言った。

 昼食のメニューは南瓜のような野菜のスープに、メインは大陸定番の、ポトフ風の煮込んだ肉や野菜を盛り付けたものではなく、デミグラスソースのような見た目も味も濃いソースで子牛の肉を煮込んだものがでてきた。

 冬の日とは思われない、強い日差しがふたりの囲む食卓を照らしている。

「きみとふたりで話したかったのはそうだが、今日は小春日でよかった。外でこうして食べた方がおいしいし、話もはずむ」

「……」

 イシュルは無言で笑みを浮かべた。

 屋内だとどこに耳があるかわからない、ということだろうか。

 ヘンリクは意外、言葉少なに昼食を終え、食後の茶がだされ執事も去り、完全にふたりきりになったところで本題に入った。

「今さらだが、きみにはどんな礼を尽くしても足りない。此度の戦役では王国を救っていただきありがとう。わたしからも御礼申し上げる」

 ヘンリクはらしくないあらたまった口調で言うと、イシュルに頭を下げてきた。

「最高の功労者であるきみに、バルスタール残留をなかば強要したのは特に申しわけなかった」

「いえ……」

 イシュルは小声で、一応はかぶりを振ってみせた。

 国王が頭を下げるのは凄いことなんだろうが……。ここまではとりあえず、彼は型どおりのことしか言っていない。

「即位式、随分と急がれたんですね」

「うむ。急いだ理由はおおむね、巷間に言われていることと変わらない。だがもうひとつあってね」

 ヘンリクは口角を引き上げイシュルに意味あり気な視線を向けた。

「ペトラから、きみが王家書庫と編纂室の閲覧許可を願い出ているのは聞いている。いや、さんざん聞かされた」

 ヘンリクの笑みが弱々しい苦笑になった。

「実は、それが即位式を急いだ理由のひとつなのだ」

「はっ?」

 イシュルは呆然とヘンリクを見やった。

「王家書庫、とくに歴代国王の幾つかの文庫の閲覧許可を出すには、わたしが正式に国王になる必要があったのだ。……きみに恩を着せるわけではないのだがね」

「な、なるほど」

 イシュルはそこで一応、ヘンリクに礼を述べた。

 ……彼はまだ明言していないが、もう俺に閲覧許可を出したも同然だ。

 だが確かに、俺がヘンリクの配慮をありがたく思う必要はこれっぽっちもない。

 この男に俺が貸しているものはもっと、はるかに大きい。

「エレミアーシュ王の遺した文庫もそのひとつだ。閲覧許可を出すことができるのは国王だけ。許可なしに閲覧できるのは王家の者と、管理する一部の司書だけだ」

「……」

 イシュルは無言で頷いた。

 やはり王家書庫には面倒なしきたり、いや制約があったわけだ。

「歴代国王の文庫には他にも面倒なことがあってな。わたしやペトラには関係ないのだが……」

 ヘンリクは少しずつ、重く厳しい顔つきになっていった。

「エレミアーシュ文庫にも、幾つも細かい決まりごとや制約が存在する。わたしも細かいことは知らないが、エレミアーシュ王をはじめ、同文庫に納められた書物に係わる人物等の遺言により、それぞれ独自の制約が存在するのだ」

「……」

 イシュルは微かに溜息を吐いた。

 ……またまた面倒な……。

 面上に少し、うんざりした心持ちが出てしまったかもしれない。

「気をつけなさい。書物の収集や編纂に凝った歴代王の文庫には、書庫に入った人物の行方が知れなくなったり、魔物に襲われたりするなどの伝承もなくはない。まれにだが、よくない噂も聞く……」

 ヘンリクは「もうすでに国史編纂室とエレミアーシュ文庫に、きみの閲覧許可を伝えてある」と言うと、「だが……」と言葉を濁し、かなり物騒なことを言ってきた。

 その顔はイシュルを心配してか、憂色に包まれているように見えた。

「そうですか」

 イシュルは唇を歪めて笑みを浮かべた。

 ふむ。ただ面倒なだけじゃない、むしろ……。

 昨日のネルとのやりとりが思いだされる。

 あれだ。大聖堂の秘密の禁書庫ではないが、王家書庫にもいろいろと、いわくつきの書物が存在する、ということなのだろう。

 ……ただの調べものじゃない、それでは済まないかもしれない。

 少しは楽しめそうじゃないか。

 イシュルの笑みが微かに、凄みを増した。



 会談が終わるとヘンリク自ら、館の玄関ホールまでイシュルを送りに出た。

 彼が一国の王であることを考えると、破格のことだった。

「陛下!」

「……」

 屋敷の重厚な扉の前にはドミル・フルシークと、昨日出迎えてくれたトラーシュ・ルージェクとルースラ・ニースバルドの姿があった。さらにもうひとり、イシュルがはじめて見る顔の男がいた。

 彼らはヘンリクを見るとその場でいっせいに跪いた。

 ……新国王の側近中の側近、三人衆の揃い踏みか。

 もう内外務卿や騎士団長らの人事が布告されているが、彼らは重役に就いていない筈だ。

 ひょっとするとこのまま無役で、常に影のごとくヘンリクの側に仕え、彼を支えていくのだろう。

 イシュルはヘンリクと彼らとともに、その場でかるく立ち話をした。

「そういえばイシュル殿。こちらはカピーノ・ギルレ殿、築城術に造詣が深く、北線城塞の修理と築城を仕切っていただくことになっているのです」

 ルースラは昨日から何度目か、北線に残ったイシュルをねぎらうと、彼の横に佇む三十がらみの男を紹介してきた。

 カピーノ・ギルレは大陸中の諸国を十年近く流浪し、各地の城を直に見て、調べてきたということだった。

「王国の大英雄にお会いできて光栄です」

 カピーノはイシュルとひととおり挨拶を交わすと、思わぬことを言ってきた。

「わたしも貴公と同じ、エレミアーシュ文庫で調べものがありまして」

「えっ……」

 両目を見開き驚きをあらわにするイシュルに、カピーノは素朴な人懐っこい笑みを浮かべて言った。

「エレミアーシュ文庫には二百年近く昔、バルスタール城塞線を築いたスカル・メルカド、その弟子に当たるクラース・ルハルドの遺稿があるとされているのです」

「そうですか」

 イシュルも笑みを浮かべて頷くと、ヘンリクを横目に見た。

「……」

 ヘンリクは少し困ったような笑みを浮かべている。

 ……この狸め。

 即位を急いだ、エレミアーシュ文庫の閲覧を許可したかった者は俺ではなく、この男だろう。

 イシュルは一瞬だけヘンリクを鋭い視線で睨みつけると、カピーノらに再び、無難な笑顔をつくってみせた。





 イシュルが居室に戻ってくると、リフィアとミラ、それにマーヤとニナもいた。

 リフィアとミラはイシュルと同じ建物に一室を与えられ、マーヤは後宮でペトラとともに、ニナは今は臨時で、他の生き残った宮廷魔道師らとともに東宮に起居していた。

 イシュルは彼女らにヘンリクとの会見の内容を伝え、いつものごとく談笑した後一人になると、ロミールに頼み、筆記具と巻紙を用意してもらった。

 そして巻紙に「マレフィオア」、「地の魔法具」、「地下神殿」や「ブレクタス」、「レーネ男爵」、「紅玉石」や「エレミアーシュ王」などの言葉を大きめの文字で書き込んでいった。

 マーヤから国史編纂室にある王国の主な記録が、編年体でまとめられていることを聞いたからである。

 イシュルは膨大、かもしれない記録から、すみやかに必要なものを見つけ出すため、その文面から鍵となる重要な言葉に絞って調べるよう、手伝ってもらうリフィアやミラたちに提案するつもりだった。

 翌日朝、編纂室長のピアーシュ・イズリークからイシュルに使者があり、その日の午後に国史編纂室に来るよう伝達があった。

 だが、その使者がイシュルの居室から去ると、入れ替わりに突然、マーヤが訪ねてきた。

「イシュル。カピーノ・ギルレ殿が今、エレミアーシュ文庫に行ってるんだって。司書もいるだろうし、わたしたちも行ってみる?」

「ああ。……わかった、行こう」

 午後から国史編纂室でピアーシュ・イズリークと面会する大事な用事があったが、イシュルはとりあえず、マーヤとともにエレミアーシュ文庫に行くことにした。

 王家書庫は西宮の南端、南宮との間の窪地、密生する木々の手前にあった。

 昨日ヘンリクと面会した、彼らが昔住んでいた館、王家の一族が使う屋敷群を抜けると、石積みの古い何か、廟堂のような建物の並ぶ一画に出た。王家書庫はひとつの大きな建物ではなく、その時代ごと、歴代国王ごとに建てられた独立した大小の建築物の集合だった。

 イシュルにはそれは文庫、書庫というより、歴代国王の墓所のように見えた。

 独立した建物の間には石造り、屋根付きの連絡路が屈折しながら接続し、奥の方へ続いていた。

「ここに来たのは久しぶり。わたしも数えるほどしか来ていない」

 側面に壁がなく柱の並び立つ、ある種の回廊を奥へ、マーヤと歩いていく。

「マーヤはその時、どこの書庫に用事があったんだ?」

「あっ」

 イシュルがマーヤに質問すると、彼女が前方に視線を向けた。

 ……剣さま!

 同時にイシュルの脳裡に、ネルの声が響き渡る。

「むっ」

 イシュルはマーヤの視線の先、明るい灰色の石積みの館、小さな窓の並ぶ平屋の建物の方を見た。僅かな時間、小規模だが禍々しい魔法の光が立ち上った。

「行こう」

 イシュルは小走りにその建物の方へ向かった。

 少し遅れてマーヤがついてくる。距離はない。すぐその小さな館の前に着いた。

「!!」

「……ここがエレミアーシュ文庫だよ」

 マーヤがその建物の出入り口、観音開きの扉を見上げて言った。

 エレミアーシュ文庫に入る扉は、石段を回廊から数段ほど登った、上にあった。

 その扉の前にはひとりの男、生きた人間だったものが鉄の鎖に両手を縛られ、吊り上げられていた。

「な、なにが……」

 イシュルは呆然とその死体を見上げた。

 深く窪んだ眼窩、削げ落ちた頬に尖った鼻先。なかば骸骨となったひとの顔。そして骨の浮き出た両手の指先。

「闇の精霊、悪霊の仕業……」

 マーヤが平然と、低い声で囁く。

 なんでこんなことを……。

 イシュルはその時ふいに、その死体が誰だったか思い当たった。

 昨日はじめて顔を合わせた男。素朴な笑顔の男。

 ……間違いない、カピーノ・ギルレだ。

 そこへ脇の方から、ひとの気配がした。

 ゆったりした神官風のローブに、やや長めのショートボブが広がる。明るい髪色だ。

 ネルによく似た少女が建物の前、正面を横切る。

 彼女は吊るされた死体の前に立って、イシュルたちを見下ろした。

「……」

 隣のマーヤがとたんに緊張し、彼女から冷たい怒気が立ち上るのがわかる。

「あなたがイシュル・ベルシュさまですか?」

 その少女は悠然と微笑を浮かべた。

「わたしがこのエレミアーシュ文庫の司書、ソニエ・パピークです」

 その微笑みが歪んでいく。

「どうぞよろしくお願いいたします、イシュルさま」

 少女は顎先を上げ、イシュルを見下ろしてきた。 

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