【幕間】戦陣余話 3



#6 冬の蛍火


「では剣殿」

「よろしく、ノルテ」

 ノルテヒルドが後ろに縛った長い髪を翻し、上昇していく。

 彼女にはカルナス城とその周辺の警戒を命じてある。

 薄雲の疎らに広がる冬空に風が舞う。

 イシュルはベイレン城の北側城壁の上から、南の空に消えていく彼女の後ろ姿を見送った。

 昨日、北線の主に南側に連なる支城群で、大きな動きがあった。先日のイラール城に続き、カルナス以北の支城、ビルタ、カネン、ベイレン、セシの諸城から、連合王国軍が一斉に撤退を開始したのである。

 その日カルナスの城塔で、敵の軍勢が城から退去していくのを見ていたイシュルは、同じ塔の上で見張りについていた大公家騎士団の平騎士に声をかけられた。

 男は先日ロミールと話していたタリムよりやや年嵩で、イシュルの背後にすっと近くと小声で「ベルシュ殿」とだけ声をかけ、後ろから小さな巻紙を渡してきた。

 イシュルの両隣にいたミラやリフィア、ニナたちに知られるのはかまわないが、他の城兵らにまで見られるのは避けたい、といった風だった。

「……」

 巻紙を受け取ったイシュルが顔を向けると、その男はすでに背を向け、素知らぬふりをして塔上の反対側に立ち周囲の見張りを続けていた。

 イシュルは巻紙を開くとその文面に目を落とした。

 手紙は軍監のルースラからで、連合王国諸侯の退却後、空き城となったベイレン城へ速やかに進出し、同城を短期間、数日ほどの間確保して欲しいと書かれてあった。

「ふっ……」

 イシュルはその手紙の続きを読むと薄く笑みを浮かべて、巻紙を風の魔法で粉々にして空に吹き飛ばした。

「ああっ」

「あら」

 イシュルの両隣にいたリフィアとミラが声をあげて、空を舞う巻紙の紙片を見やった。

「なんだ、わたしに読ませてくれないのか?」

「ひどいですわ、イシュルさま」

「わ、わたしも読みたかったです……」

「いや、この手紙は読み終わったらすぐに処分してくれって、書かれてあったからさ」

 イシュルはリフィアとミラ、それにニナを見回しにやりとして言った。

 カルナスにはこの数日間に、デルマーク砦から毎日のように城兵が増員され、兵糧などの物資が運びこまれている。

 イシュルの背後で何事もなかったかのように見張りを続けている城兵は、デルマーク守備から回されてきたラディス王家騎士団(正確に言うとラディス王家アンティラ騎士団)の兵士で、ルースラから差し遣わされた“髭”の者だった。

  ルースラからの書簡には、各支城から撤退をはじめた諸国軍に続き、オルーラ大公国の軍勢も数日中にムルド城から退く予定であること、その時にベイレン城からノイマンス王国を牽制し、大公国軍の撤退を援護して欲しい旨、記されていた。

 さらに他言無用とのことわりつきで、大公国の撤退に合わせペトラ自ら大軍を率いアンティラを出撃、ムルド城攻略に向かうとの決定的な事柄が書かれてあった。

 ……戦機が動く。これでこの戦争も終わりだな。

「あの手紙、軍監殿からだろう?」

 にやつくイシュルに、リフィアが少し不満そうな顔で言ってきた。

「イシュルさまだけに知らせてきたのですか」

 ミラも不服そうな顔で言ってくる。

「うん。ルースラからだよ」

 イシュルはリフィアに顔を向けると続いてミラとニナ、その後ろに立つシャルカを見渡して言った。

「まずは敵が退いたらベイレン城に進出しよう。そこで話すよ」

 ……しかし、あいかわらず手際のいいことだ。

 イシュルは視線をミラたちから前方に移し、尾根の西側を撤退していく敵軍の隊列を見つめた。

 “髭”の男は、あの敵の撤退が確実になった頃合を見計らって俺にルースラの手紙を渡してきた。

 そして、いよいよオルーラ大公国も退く。

 この北線の“戦機”を動かしているのはルースラだ。今や北線の残る敵勢は彼の掌上にある。

 連合王国軍の運命は俺の手のひらから彼のそれに移った。

 鉄壁を築いて俺の仕事はほぼ終わった。

 ……残る一事をのぞいて。



 翌日、イシュルはリフィアとニナ、ミラとシャルカとともに数日分の食糧を携帯し空中からベイレン城に進出した。

 移動時にはノルテヒルドを先行させ同城を隈なく探索、魔法陣などの罠が仕掛けられていないか安全を確認し、彼女を後方、南のカルナス城の守備に下がらせた。

「ではイシュル、昨日のルースラ殿の書簡の件、話してもらおうか」

 カルナスに戻っていくノルテの姿が空に消えると、リフィアがイシュルに聞いてきた。

 ベイレン城の北側城壁には、昨日と同じようにイシュルの左右にリフィアたちが並び立っている。

「ちょっと待って。シルバを呼ぶから」

 ……シルバ。

「うむ。盾殿」

 イシュルが心のうちでシルバストルを呼ぶとほぼ同時、頭上に魔力が煌き一瞬で本人が姿を現した。

「ふふ。……シルバにはノルテに代わって前線に来てもらう。とりあえず、この城の周囲を警戒してくれ。追って指示するが──」

 イシュルは素早いシルバの反応に苦笑し、彼を見上げて言った。

「敵とかるく一戦交えることになるかもしれない」

「うむ。承知した」

 シルバは胸の前で腕を組むと口角を歪め、笑みを浮かべて姿を消した。

「で、軍監殿の手紙についてだっけ?」

 イシュルはリフィアに笑顔を向けて言った。

「あ、ああ……」

 リフィアはなかば呆然として頷いた。ミラもニナも、金の大精霊の偉丈夫ぶりに、圧力に当てられていた。

 イシュルはかまわず、ルースラの手紙に書かれてあったことを話した。

「──というわけで、俺たちは撤退するオルーラ大公国軍の援護を、ここベイレン城を基点にして行うことになる。ノイマンスが大公国の退却を黙って見過ごすなんて、ありえないだろうからな」

「なるほど……」

 リフィアは視線を正面、北の方に向け呟くように言った。

「でも、ちょっと距離がありますわね」

 ミラがリフィアと同じ方向、ムルド城の方を見て言った。

 イシュルたちのいるベイレン城北側城壁からムルド城まで、距離は直線でおおよそに三里長(スカール、2km弱)、北ブテクタスの山並みは標高を下げ、ここベイレンでは一里長、ムルドでは半里長ほどになる。

 ベイレンの城壁から見るとまさにムルド城は眼下、完全に見下ろす位置にあるが、距離は二キロほどあり、真下に見える、ということはない。

 山稜は標高が下がっても北方であり、要塞地帯であるためか木々は一本もなく、草地と岩肌が斑に続いている。

 そこに今は、敵の侵攻時にユーリ・オルーラによって破壊された石造りや木造の望楼、西側の傾斜面に断続的に築かれた石積みの壁、山肌を削った岩壁が見える。石積みの壁も彼によって所どころ崩され、無残な姿をさらしている。

 ただムルド・ベイレン間は尾根の東側に、人がふたり横に並んで歩けるほどの連絡路があり、それはユーリの攻撃後も残っている。おそらく連合王国も占領後に補修、使用していたのだろう。

 ちなみに周辺は標高が低いせいか、まだカルナス城のような積雪はない。

「君たちはこの城を守ってもらえばいいよ。ノイマンスへの手当は俺とシルバでやるから」

「わかりましたわ」

「やりすぎるなよ、イシュル」

 ミラはにっこり笑顔で頷き、リフィアは台詞とは裏腹に、朗らかな笑みを浮かべた。

「それで……、ちょっと内緒の話なんだけど」

 イシュルは声を潜めて言った。

 リフィアが顔をイシュルに寄せるとミラも、ニナも近寄ってきた。

 イシュルたちは顔を突き合わせてひそひそ話をはじめたが、彼らのいるベイレン城は今は空き城、他に人は誰もいなかった。

「ここだけの話、まだ誰にも話すなって言われてるんだけど、オルーラ大公国の撤退に合わせ、ペトラが大軍を率いてアンティラからムルド城目指して、出陣することになっている」

「な、に……」

「まあ……」

「あ、あの」

 みな揃って驚いた顔になったが、ニナが質問してきた。

「まだハーラルにも敵の軍勢がいますよね。大丈夫なんでしょうか」

 ニナは、ペトラの軍が途中、ムルドとハーラルの両軍から挟撃されるのではないか、それを危惧しているのだろう。

「オルーラ大公国が退けば、残るはノイマンスとアグニア王国だけだ。両軍合わせても兵力は一万強、一方アンティラには三万はいるだろう。敵の二倍程度の兵力で出陣すれば、心配する必要はないんじゃないかな」

 イシュルはにやりと笑みを浮かべて続けた。

「それに、俺たちがいるからな」

「……」

「はは。そうだな」

「ニナさん、何も心配する必要はありませんわ」

 ニナが頷くと、リフィアが乾いた声で小さく笑った。ミラは機嫌の良い口調で断言した。

「たぶん、ノイマンス王国は籠城せずに退却するだろう。……終わりが見えてきたな」

 とリフィア。

 ……リフィアも俺と同じ考えらしい。

「そうですわね」

「はい」

 イシュルより早くミラとニナが頷き、笑みを浮かべた。


 

 その日の午後になって、ムルド城のオルーラ大公国軍が動きはじめた。

 イシュルたちの陣取るベイレン城からも大公国軍の旗が揺れ、人馬の立ち騒ぐ様子が見て取れた。

「イシュル、はじまったぞ」

 城壁の鋸壁(のこかべ)越しに敵城を観察していたリフィアが、後ろへ振り向きイシュルに声をかけた。

「おお」

 その時、イシュルは城内から火鉢を探し出し、城壁の上に持ってきて火を入れミラたちと暖を取っていた。

 イシュルはリフィアの横に立つと、片手を額に当て庇(ひさし)をつくってムルド城の方を見やった。

「きましたわね」

「むむっ」

 その左側にミラとニナが並んで、イシュルと同じように敵城の方を見つめる。

 ムルド城は尾根に沿って南北に長い城郭を形成しているが、その城内南側に一軍が集結しはじめ、隊列を組みはじめた。

 燕脂(えんじ)の地に銀の獅子と王冠。オルーラ大公国の旗が盛んに揺れ、風にはためいているのがわかる。

「シャルカ!」

 ミラがシャルカに声をかける。

「いや、ちょっと待って」

 イシュルはミラを止めると、前方を指差した。

 ムルド城の南の城門が開かれ、オルーラ大公国軍らしき隊列が進み出てきた。

 同城には西側にも門がある。退却するなら西門が使われる筈だ。

「南門からか……」

 大公国軍はこちらへ、ベイレン城へ向かって進軍している。

 城門から出た細い隊列は、尾根の東側の連絡路をゆっくりと近づいてきている。兵士らの立てる甲冑の掠れる音、地面を踏みしめる音、馬の嘶きが折り重なって聞こえてくる。数は少ないが、馬を曳いている兵がいる。北ブテクタス山脈もムルド城周辺になると標高は一里長(スカール、約650m)を切る。曳き馬なら城まで上げることは不可能ではない。

「まさか、オルーラ大公国軍はこの城に進出しようとしてるんじゃないか」

 リフィアが横で目を凝らして言う。

「うーん」

 胸の前で両腕を組むイシュル。

「あれ、見てください」

 そこでニナが遠くの方を指差す。

「!!」

「まぁ……。あれは」

 ムルドのさらに向こう、最北の主城ハーラルから、ひとつ南の支城、ビルタ城へ同じように二千ほどの軍勢が向かっているのが見えた。

「これは……」

 リフィアが硬い声を出す。

「敵はまだ諦めていない。彼らはハーラルからムルド、そしてここベイレン城にも兵を出してバルスタールの北半分を維持するつもりだ」

 下のムルド城からは北へ、カネン城に向けて数百ほどの小部隊が移動をはじめた。

 山の稜線が平地に消えるムルド城からビルタ城までの間は、万里の長城のような城壁が築かれていたが、今はユーリ・オルーラの攻撃で黒く染まった瓦礫の山になっている。敵軍はその脇を細い縦隊で行軍している。

 ハーラル、ムルド間の二つの支城、ビルタとカネン城も昨日、連合王国軍の軍勢が撤退している。彼らは特に重要なビルタ城とこのベイレン城に千単位の部隊を分派し、両主城の防衛線を固めようとしている、そのように思われた。

「無駄な足掻きを……。先日、イシュルさまの金の大魔法を目の前で見ているのに。あの者たちは命が惜しくないのでしょうか」

 ミラが冷たい声で言う。

「敵は、俺の腹を読んでいるのかもな」

 イシュルが呟く。

「つまり我が軍が、おまえが敵を全滅する気がない、退却させようとしていることを察している、ということか」

 リフィアがイシュルの横顔を見つめてくる。

「ああ。だが俺は実際はラディス王国軍の隷下に、ペトラやルースラに仕えているわけじゃない。俺がその気になれば王家の意向とは別に、奴らを殲滅すことは可能だ」

「……まぁ、そうだが」

「そのとおりですわ。イシュルさま」

「……」

 リフィアは呟くようにぼそっと小声で言い、ミラは顎をツンと上げて得意げに、ニナは無言で苦笑を浮かべる。

「敵もそこまではわかっていないのだろう。危険過ぎる賭けなんだがな」

  ……俺はラディス王家の協力者で、彼らの命令系統に属しているわけではない。そのことは敵も知らないのではないか。

「で、あのオルーラ大公国軍はどうする? 王都で捕えたドレーセン伯爵との密約があるんだろう?」

「あの人たちはまだ、わたしたちがこの城の城壁の上にいることを気づいていないのでしょうか」

 リフィアのイシュルへの質問に、ニナも続けてかぶせてくる。

「彼らが俺の顔を知ってるんなら、城の手前で引き返すかもしれないが」

 ……でなければこちらはシャルカも含めてたったの五名。構わず押しかけてくるだろう。

 イシュルは皮肉な笑みを浮かべ、まずニナに答えるとリフィアに顔を向けた。

「弓矢の射程に入ったら、風の結界でも張ってとりあえず拒止するしかないな」

 リフィアの言うように、ドレーセンとの取り引きで、オルーラ大公国軍を指揮する武将たちを討つことはできない。攻撃しづらい、向かってこられると打つ手が限られる、なかなか厄介な状況になった。

「イシュルさまのおっしゃるとおり、それで様子を見るしかないですわね」

 ミラが前方の、山を登ってくるオルーラ大公国軍の隊列を、眸を細めて見つめた。

 イシュルも敵の隊列に目をやった。

 ……ルースラからの知らせによれば、大公国軍は数日中に撤退することになっている。まさか、彼の国への調略がうまくいかなかったのだろうか。

 オルーラ大公国はラディス王国侵攻を主導した国である。それに国主であるユーリ・オルーラを討たれた遺恨もあるだろう。だがドレーセンとの取り引きを知らせ、ロブネルの襲撃がもとは味方の、オルーラ大公国に向けられた謀略であったことを教えれば、この戦況である。決して調略の効かない相手とは言えない。

 昨日多くの国々、大小の領主たちが北線から撤退している。彼らにはルースラの調略が成功しているのである。

「……そうだな。もう少し様子を見てみよう」

 リフィアも前方を見つめて言った。

「敵の軍勢は随分とゆっくり行進している。この城に物見も出してこないし、あまり覇気も感じられない。これは何かあるかもしれない……」

 彼女の言葉が尻すぼみになって消えていく。

「確かに、あまり殺気のようなものが伝わってこないですわね」

「……」

 イシュルは無言でさらに遠方の、北の稜線を見渡した。

 手前に進軍するオルーラ大公国軍、ムルド城を挟みその北方に、おのおのビルタとカネン城に向かう部隊が見える。

 東西、そして北に視界の開けた雄大な眺望の中、進軍する敵の軍勢はあまりに動きが緩慢で、ほとんど止まっているように見える。

 ……この敵軍の動きは重大、大事(おおごと)であるのに。

 視覚的にはなんとも間の抜けた、眠気を誘うような光景だ。

 これが戦争の実相、というもののひとつなのだろう。

 先日苦労して築いた鉄の壁も、目が慣れてきたせいか周りの景色に溶け込み、違和感がなくなってきた。

 イシュルは視線を東に向け、アンティラの方を見た。

 オルーラ大公国軍の撤退に合わせ、ペトラが大軍を率いて出陣することになっているが、まだその動きは見えない。

 ハーラルとムルド城のアグニアとノイマンス王国の動き、そしてオルーラ大公国の動き。

 これは楽観を許さない状況になってきた。

「オルーラはこの城に向かっているのか、それとも途中で山を下りて退くのか。なんだかじりじりするな」

 と、リフィア。

 その顔にはわずかに皮肉な笑みが浮かんでいる。

「まったくだ」

 イシュルも相槌を打って口角を歪めた。

 ……まさか、こんな気を揉むような展開になるとはな。

 戦場は山岳戦及び攻城戦が主で、軍勢の動きは緩慢、敵方は魔法戦力も少なく、戦勢の急激な展開はありえない。このゆっくりした動きが逆に、イライラを募らせる結果となっている。

 イシュルは肩をすくめると、視線を背後の火鉢の方に向けた。

 ……また火鉢にでも当たるか。

「あら」

「むっ」

「敵勢は速度を上げましたね」

 イシュルが後ろへ視線を逸らすと、リフィアたちが揃って声をあげた。

 前へ向き直るとなるほど、オルーラ大公国軍は足を早め、行軍の速度を上げている。

 それだけではない。長く伸びていた隊列がぎゅっと窄まり、後尾が一気にムルド城から離れた。

「……!!」

 イシュルは、リフィアやミラたちも揃って、その戦局の転換する瞬間を目の当たりにした。

 ベイレン城に向かっていたオルーラ大公国軍は突然、尾根を西に回り、山を下りはじめた。

「あっ」

「た、退却だ」

「あそこで……」

 と、その時、山の東側から魔力が煌めき、眩く燃える火球がひとつ、空に打ち上げられた。

 空高く上がった火球はきらきらと輝きながら、ゆっくりと消えていく。

「狼煙だ」

 火魔法による、おそらく味方の上げた狼煙。

 これでアンティラから、ペトラが出陣する。

 退却をはじめたオルーラ大公国軍は、ベイレン城より二里長弱(スカール、約1km)の地点で、石積みの壁の崩れた箇所や、傾斜の緩やかなところを選んで数条に分かれ山を下っている。隊列の先頭はもう、イシュルの築いた鉄壁の隙間を通り抜けようとしている。

「この城を頼む」

 イシュルはリフィアたちをさっと見まわすと空に飛び上がった。

「ああっ」

「おい!」

「イシュルさん……」

 下から彼女らの不満そうな声が聞こえてきたが、イシュルは構わず敵城へ向かった。

 ベイレン、ムルド間は薄く砂埃が舞い上がり、一瞬で人馬の立ち騒ぐ戦場の気配に満たされた。

 イシュルは風の魔力を身に纏い速度を上げて、眼下に退却するオルーラ大公国軍を飛び越え、ムルド城の正面に出た。

 同時に敵方から二体の精霊が現れる。

 二体とも人型で片方は戦士風、片方は長いローブをはためかせている。戦士風はたぶん火、ローブ姿は水、城壁を越えオルーラ大公国軍の方へ向かっている。

「シルバ、殺れ」

 ……御意。

 脳裏に金の精霊の声が響くと同時、甲高い異様な金属音とともに二体の敵精霊がきらきらと光彩に包まれ消滅した。

 イシュルはムルド城の外辺上空に達すると、斜め後ろを振り向きシルバに言った。

 シルバストルは敵精霊の攻撃時に姿を現している。

「敵を寝返った、あの軍勢の退却を援護してやれ」

「……うむ」

 シルバがイシュルの方を向いたまま後退し宙に消えていく。

 イシュルは前を向くと敵城を見下ろした。

 真新しい石が積み上げられ、かなり修繕の進んだ東側城壁には、数は少ないが大弩弓(バリスタ)や投石器が配置されていた。多くの兵隊が取りつき、西側に回して退却する大公国軍を攻撃しようとしている。

「何をやってる? この距離じゃ届かないぞ」

 大弩弓や投石器の射程は最大でも五百長歩(スカル、400m弱)ほどだ。大公国軍はもう、最後尾でも二里長(スカール、約1.3km)近く離れている。

 ……いや。風の魔法を使えば射程は伸ばせる。

 昔、弓使いの傭兵、ビジェクが赤目狼を射る時、射程を伸ばすために小さな風魔法を使ったことがある。

 力のある風の魔導師であれば、射程を数倍に伸ばすこともできるだろう。

「……」

 だが、弩弓や投石器の周りに魔導師らしき者は見当たらない……。

 まぁ、とりあえず破壊しておこう。この城が王国の手に落ちたら、あの装備も引き続き使えるんだが。

 イシュルは城壁に並ぶ大弩弓や投石器、兵士らに風の魔力をぶち当てた。

 城壁の上を風の魔力が嘗めるように通り過ぎ、乾いた爆破音とともに無数の木片や鉄片、肉片が舞い散る。

 城兵が空中、三百長歩ほどの高度に浮かぶイシュルに気づき、ある者は慌てふためき逃げ惑い、ある者は矢を射ってくる。

 だが、すべての矢がイシュルの位置する高度まで届かない。イシュルは城兵らを無視して城の西門の方へ移動した。

 敵が西門から出撃し、撤退するオルーラ大公国軍を追って攻撃するのを防ぐためだ。

 ……もし敵が城門を開いたら攻撃する。

 ムルド城内はオルーラ大公国の離反と、イシュルとシルバストルの攻撃で混乱している。

 だが、敵の武将らしき者が何事か大声を上げて兵を叱咤し、混乱を収めようとしている。そして問題の、西門前に兵らを集合させようとしている。

「まずいな」

 イシュルは小さく呻いた。

 かるく攻撃するか……。

 その時背後から、下方から突き刺すような魔力の閃光が走った。

 同時に高速で移動する何者かの気配が、イシュルの足下を吹き抜ける。

 西側城門、その露天の門塔にいた兵士らが宙を舞い、そこに一瞬、女の長い銀髪が煌めいた。

 次の瞬間には門扉の上に、リフィアのすっと立つ姿があった。

 丸太を束ねた急造の門扉は、上部が削られ尖っている。リフィアはその先端に両足を乗せ、絶妙の平衡感覚で何事もないように直立していた。

「リフィア……」

 イシュルは空中から小さなリフィアの姿を見て、思わず嘆息した。

「我が名はリフィア・ベーム。ラディス王国の武神の矢とは我がことなり──」

 彼女の朗々と歌い上げるような美声が、イシュルの耳許まで聞こえてくる。

 ……あいつ、何か名乗りを上げている。

「──この城門を抜きたくば、見事我を討ち果たしてみよ」

「はあ……」

 格好いいじゃないか、リフィア。……この脳筋め。

 イシュルは溜息を吐くとがっくり肩を落とした。

 城門前にいる敵兵から至近で矢が放たれるが、リフィアに当たってもみな跳ね返され、虚しく明後日の方へ飛んでいく。

 続いて城兵の集団の上に数個の火球が浮かび、リフィアに向かって投射される。

 それも彼女が片手を払うと直前で霧散した。

 武神の矢は加速と怪力だけでなく、当人に鋼鉄で覆ったような防御力も付与する。魔法だろうと物理攻撃だろうと、並みの威力では打撃を与えることができない。

「……」

 イシュルは後ろへ振り向きベイレン城の方を見た。ミラとシャルカ、ニナはおとなしくしているようだ。

 ……うん。きみたちは正しい。

 イシュルは視線を西の方に逸らし左手を上げると、金の魔法を発動した。

 空中に魔力が赤く煌き、先日と同じ巨大な鉄の板が形成される。

 イシュルはムルド城以南の鉄壁の隙間を塞いでいった。

 すでにオルーラ大公国軍は、全軍が鉄壁の西側に逃れている。もうムルド城から南の鉄壁に、隙間を開けておく必要はない。

 鉄板が山の斜面に突き刺さると地震のように地面が揺れ、辺りを轟音が鳴り響く。リフィアはちらっと後ろを振り向いただけだが、敵軍はそうはいかない。ムルド城の混乱は、イシュルとシルバの襲撃にリフィアの出現と続き、鉄壁の塞がれる異変にその極に達している。

「いやいや、勇敢な少女だな」

 シルバがイシュルの横に姿を現し、独り言のように呟く。

「そうか?」

 イシュルはシルバにしらけた視線を向けると、リフィアの方へ、下へ移した。

 リフィアは両腕を胸の前で組み、対する城兵らを見下ろし威圧している。

 その時突然、城内中央の黒く焦げつき屋根の焼け落ちた城館、そのすぐ側に仮設された木造の物見櫓から、複数の鐘の揺れ、打ち鳴らされる音が響いた。

「むっ」

 ……なぜ今頃? おかしいな。

 あの鐘の音はシルバ、俺、リフィアと続いた襲撃に対するものではないだろう。

 イシュルはやや高度を上げ、東の方に目をやった。

 東の空は下方に薄く、靄がかかっていた。山裾をペトラ率いる大公軍が進撃しているのが見えた。大公軍、いやラディス王国軍は主に左翼に複数の小部隊を分離し、扇を開くように展開して北線に迫っていた。

 分離した小部隊は敵軍の撤退で空き城となったベイレン、セシ、イラールの確保に向かっているのだろう。

 ……ノイマンスは寝返って退却したオルーラ大公国軍と、俺たちの襲撃に注意を奪われ、アンティラの動きに気づくのが遅れたのだ。

 今頃ノイマンスの国王と幕僚、武将たちは修羅場だな。

 ふたつの神の魔法具を持つ俺が強行策に出ない、と読んだのはいいが、それでもまとまった兵力を溜め込んだアンティラが動けば、今はもう兵数も逆転しているのだ。敵にはほとんどやれることがない。

「だが、ペトラの軍がこの城にとりつくまではまだ時間がある」

 ムルドまで直線で二十里長(スカール、約13km)近く、山道だし、まだまだ攻城までは時間がかかる。

 イシュルは視線を今度は北へやった。

 アグニア王国の篭もるハーラル城に、新たな動きは見えない。一方、ビルタ城に向かっていた部隊がハーラルに引き返しはじめた。カネンに入城したノイマンスの部隊はそのまま守備につくようだ。

 イシュルは眸を細め、湿地に浮き出るようにして影を差す、ハーラルの城郭を見つめた。

 ……ニナにはああ言ったものの、ハーラル城のアグニアとこのムルド城のノイマンスが、城を捨て全力で出撃し、ペトラの軍勢をうまく挟撃できれば、ちょっと面倒なことになるのは確かだが……。

 それも俺がいて、シルバとノルテがいて、あそこにリフィアが頑張っているのではどうしようもない。

 イシュルは眼下のリフィアに視線を落とし、唇を歪めた。

「リフィアの猪突もあれで一応、ペトラ本隊への牽制にはなっているのか」

 イシュルは空中で両腕を胸の前で組み、熟考に入った。

 敵の状況、味方の状況。ルースラの狙っていること……。

 戦場は広く、各軍の動きは緩慢だが、考えることは沢山ある。

 今、リフィアが牽制になっているのはいいとして、ペトラやルースラたちが、大軍をもってムルド城攻略の構えを見せることで、ノイマンスの撤退も狙っていることは確かだろう。

 オルーラ大公国軍が予定どおり撤退したことで、リフィアの言ったことや俺が考えていたことが、つまりノイマンスの撤退が、ただの楽観と決めつけられない状況になってきた。

 この戦場にいる者は皆、敵も味方も戦機が動き、いよいよ終局を迎えようとしていることを肌で感じている。特に敵側は戦力差が絶望的なまでに開いていること、俺が動かなくても好転することなど絶対不可能だと感じている筈だ。

 それならもう、敵側がどう決断するかは自明の理だ。

 つまりここはノイマンスに撤退する猶予を与えてやるべきだ。奴らが自暴自棄になって城を出、ペトラの軍勢に襲いかかる可能性は無視していいだろう。

 別に、それならそれでどうにでも対処はできる。ちょっと荒事になるだけの話だ。

 ペトラの軍がムルド城に取りつくには、まだ時間がかかる。ノイマンスが籠城するとしても、ここは一旦引いて、彼女の軍勢が攻城にかかる頃にもう一度、出直せばいい。

 ……彼らに逃げ道を開けてやろう。

「よし。そうしよう」

 イシュルは東の空に向かってノルテヒルドの名を呼んだ。

「ノルテ、おまえは城塞都市を出撃した味方の軍勢を守れ」

 ……承知。

 ノルテの声が心のうちに響くと、イシュルはシルバに言った。

「シルバ、一旦退くぞ。敵には退却を即す」

「そうか……。わかった」

 シルバストルは少し残念そうな声で了承すると、再び空中に溶けるように姿を消した。

 ……次はリフィアの回収だ。

 イシュルは高度を下げ、西門の門扉の上に立つリフィアに近づいて行った。

 とその時、リフィアと西門前で対峙する敵側に動きがあった。城兵の集団の中で二箇所、魔力が同時に立ち上がり騎士らしき者が二名、驚くべき速さで跳躍し、リフィアに襲いかかっていった。

 イシュルにはその動きがはっきりとは見えなかったが、彼女はひとり目の騎士の槍を片手で掴んで折って捨て、もうひとりの騎士の頭を片足を上げて押さえ、そのまま蹴り飛ばした。

 槍を折られた騎士は真下に落下し、蹴り飛ばされた騎士の方は城館の壁に激突し、石積みの壁にめり込んで動かなくなった。

 リフィアは尖った丸太の上で片足立ちのまま、まったくバランスを崩さなかった。惚れ惚れするような見事な立ち回りだった。

 彼女に近づくイシュルにも複数の矢が放たれたが、やはりすべて弾かれ意味をなさなかった。

 動揺する城兵のざわめきの中、イシュルは空中からリフィアに右手を差し出した。

「帰るぞ、リフィア」

「あ、ああ。……オルーラ大公国軍の退却は?」

「もう大丈夫だ」

 リフィアが右腕を伸ばしイシュルの手を取る。

「そ、その。ペトラさまの軍勢は大丈夫かな」

 リフィアの眸が少し不安そうに揺れている。

 ……俺の言い付けを破ったことを気にしているのだ。

 だがリフィアはしっかり、ラディス王国軍の出陣を確認してから動いていた。オルーラの撤退援護と同時に、ペトラの軍勢を攻撃させないよう、彼女なりに牽制していた。

「そちらも心配ないだろう。ハーラルにも動きはない。王国軍にはノルテヒルドを警戒につけているし、いざとなったら俺が何とかするよ」

「そ、そうか。……ごめん、勝手に動いて」

「ふふ……」

 イシュルはかるく笑みを浮かべると、力を込めてリフィアの手を握った。

「……」

 リフィアの顔に花咲くような、可憐な笑みが広がった。



 ペトラ率いるラディス王国軍がムルド城の東門を通り、城内に入城していく。

 兵士らの上げる歓呼の声が、イシュルの耳許にも響いてくる。

 イシュルは再びムルド城の上空にあって周囲の、特に北のハーラル城の動きを警戒している。

 あれから、イシュルがリフィアを連れて一旦ベイレン城に退くと、大した間もなくノイマンス王国軍も退却をはじめた。同王国軍はムルド城の西門から、イシュルの気づいた鉄の壁の北側、まだ塞いでいない隙間を通って山を下って行った。兵力は五、六千ほどだろうか。山脈西側の斜面に隊列を長く伸ばし、やがてその先に広がる森の中に消えていった。

 数日前にはじまった連合王国軍の撤退により、後方にあった敵の陣地も多くが瓦解している。

 イシュルは、カネン、ベイレン、セシの各城から敵軍が撤退した後、その必要もなくなり後方陣地の攻撃も偵察も止めていたが、敵の後備では少なからず混乱が生じ、ノイマンスやアグニアも含む諸部隊が潰乱、退却し陣地が消えてなくなった。

 ムルド城に入ったラディス王国の軍勢は、休む間もなく城の北と西の城壁に部隊を展開、多くの兵士らが諸侯の軍旗を押し立て、城内を盛んに駆け巡っている。

 中央の城館前では、リフィアやミラ、ニナたちが、ペトラやマーヤたちと合流しているのがそれとなく見てとれる。

「ん?」

 イシュルはその周辺から精霊が一体姿を現し、自身に向かって上昇してくるのを認めた。

 その精霊は半透明、無色に輝く大きな翼を羽ばたき、イシュル目指してほぼ垂直に上がってくる。

 左右に広げられた翼の中央には人間がひとり乗っていた。

 燻し銀の甲冑に真紅のマント、位の高そうな騎士だ。

「やあ、イシュル殿」

 彼はイシュルと同じ高さまで上がってくると気さくに声をかけてきた。

 髭の下の口が半月状に歪む。

「ベールヴァルド公爵……」

 イシュルが呆然と呟くように言うと、公爵の乗る鳥人型の精霊も、にーっと無言で笑みを浮かべた。

 その鳥人はおそらく女だろうか、人間のような表情が希薄で、その笑顔も少し不気味に感じられる。両手両足の先は爪が長く伸びて本物の鳥の足と変わらない。

 ……公爵も風の魔法を使うのか。この鳥人型の精霊は、間違いなく風の精霊だ。

「貴公に礼を言いたくてな。……こうして」

 そこで公爵は両手をかるく広げ辺りを見回した。

「周りに人がいないところできみと話したかった」

 下から将兵らの立ち騒ぐ音が聞こえてくる。冴えた冬の空気に、地上から昇ってくる熱気がじわじわと染み込んでくる。

 周囲にひとは、イシュルとレクセル・ベールヴァルドのふたりしかいない。

「あの後ハネス殿は? いかがですか」

「うむ……。内心はどうか知らんが、傍目(はため)には後も引かず元気にやっておる」

「公爵軍の指揮はご子息に?」

「そうだ。忙しくさせた方が良かろうと思ってな。本人もやる気を出して励んでおる」

 公爵は目を細めてムルド城を見下ろした。

「それは良かった」

「きみに完敗だったからな。負けたのに命を失うどころか怪我ひとつしなかった、とはそういうことだ。本人もそれですっぱり、諦めがついたのだろう……」

 公爵は顔を上げるとイシュルをまっすぐ見て言った。

「あらためてイシュル殿。愚息を救っていただき感謝申し上げる」

「いえ、いいんですよ。気になさらずに」

「ふむ……」

 レクセルはなんとなく納得がいかない様子で曖昧に頷いた。

「噂には聞いているが、きみも変わっているな。歳が読めん」

「そうですか?」

 イシュルも曖昧な笑みを浮かべると話を逸らした。

「それより、御家の大切な宝具を駄目にしてしまいました……」

「いやいや、息子の命が助かったのだ。そんなことはどうでも良い」

 公爵はイシュルの見つめる先、ハーラル城の方に目をやった。

「あれは確かに当家の嫡子だが、それだけではない。親にとっては我が子の命に勝るものはあるまい」

「そうですね……」

 イシュルは小さな笑みを浮かべて頷いた。

 公爵はリフィアと同じことを言ってきた。

「ハーラルの敵が気になるか」

 今度はレクセルが話を逸らしてきた。

「いえ……。一応見張ってるだけです」

 もうこの戦(いくさ)の趨勢は決まった。残敵に戦局をひっくり返す力はもうない。

「アグニアはいつ退却するかな?」

 レクセルが試すようにイシュルに聞いてきた。その髭の下に薄く笑みが浮かんでいる。

 山の消えた平地、湿地に浮かぶハーラル城は、西側の堀の上にユーリ・オルーラが魔法で渡したものだろう、鉄板を敷いたままにしている。補給用に使っていたのだろうが、あの細長い鉄の道は、退却時にも非常に役立つことだろう。

「夜、でしょうね。敵は今晩にも退くでしょう」

「うむ。そうだな」

 公爵は髭をねじりあげ、満足気に頷いた。 


 

 ハーラル城のアグニア王国軍に動きはない。イシュルはムルド城内に降りると自軍に戻る公爵と別れ、城館東側の広場にいるペトラと幕僚たちの元へ向かった。

「イシュルさま」

 多くの騎士らに囲まれたペトラとマーヤの姿が見えると、横からシャルカを連れたミラが声をかけてきた。

 城内は無数の騎士、兵士らが行き来し、喧騒に包まれている。

「イシュル!」

 続いてペトラを囲む集団の外側にいたリフィアが、イシュルに声をかけてきた。

 そこでペトラとマーヤがイシュルに気づき、マーヤが火精の杖を、ペトラが地神の錫杖を掲げてぶるぶる振ってきた。

 彼女たちの周りにはアンティラの王家騎士団長、大公家騎士団長、軍監のルースラ、数名の貴族、領主たち、ペトラのメイド長のクリスチナや隠れ身の魔法具を持つセルマらの姿があった。

 本来はペトラの護衛役であるマリド姉妹はベンデーク砦からこの方、人手の少ない連絡将校、軍監を補佐する役目を負わされ、今も城内のどこかの領主の許に出向いているのか、姿が見えない。  

「やはりハーラルは動かないか?」

 リフィアが聞いてくる。

「ああ」

「夜ですわね。払暁にでもそそくさと退却していくでしょう。敵が一番恐れているのはイシュルさまですから。もう夜中ぐらいしか、動く隙はありません」

 と、ミラも夜間に敵が退却すると言ってきた。

「そうだろうな」

 イシュルはペトラの集団から抜け出て向かってくる男を見つめ、小さく頷いた。

「イシュル殿……」

 ルースラはイシュルの傍までやってくると、囁くような小声で話しかけてきた。

 甲冑の鳴る音。多くの兵士の影が左右を流れていく。至るところで彼らの叫声が上がっている。だが、ルースラの小さな声はしっかりと聞き取ることができた。

「イシュル殿に是非、お願いしたいことがあるのですが」

 ルースラは薄く笑みを浮かべ、声量を落としたままイシュルに顔を寄せてくる。

 何かを企んでいる、悪い顔だ。

「……」

 イシュルはミラとリフィアに目をやった。

「かまいませんよ。ただお二方も、今晩限りは内密にお願いします」

 察しの良いルースラは笑みを大きくして腰を落とし、ミラとリフィアに慇懃に会釈してきた。



 その夜は深更に至って厚い雲に覆われ、やがて細雪が舞いはじめた。

 イシュルはコートの上にマントを羽織り、フードを被って鼻から下を布で覆って、分厚い皮の手袋をはめ、念のため防寒を厳にして小雪舞う夜空を飛んでいた。

 北ブテクタス山脈の西側、連合王国領の上空を、退却するノイマンス王国軍を追跡していた。

 ……見つけたぞ、剣殿。

 先行させていたノルテから知らせがきた。

「……」

 前方、やや左の夜空に遠く、蛍火のような魔力の光が灯った。

 ノルテが意図して放つ風の魔力の灯火だ。

 イシュルはその灯を追ってやや南西に進路を変え、速度を上げた。

 夜闇を背景に目の前を、白い光点が放射状に広がり後方に消えていく。

 周囲に張った風の魔力の壁が風雪に、図らずもその姿を現した。 

 昼間にムルド城を放棄したノイマンス王国は、北ブテクタス山脈の南西、北線からおよそ五十里長(スカール、約32km)ほどの街道を退却していると思われた。

 ムルド城でイシュルに声をかけてきたルースラは、退却したノイマンス王国と、今日明日にでも退却するであろうアグニア王国の国王や王家の者、その幕僚に追い討ちをかけ、皆殺しにすることを要請してきたのだった。

 ルースラは、「今回の戦役で連合王国の大国、ノイマンスとアグニア両国が結びつくことになった。ユーリ・オルーラの存在が両国を結びつけるきっかけになった。長年争ってきた二国の接近は今後、連合王国の内乱を早期に終結させる契機になるかもしれない」、「ノイマンスとアグニアの接近を防ぐことができないのなら、両国の国王と有力な幕僚を皆殺しにして混乱させ、短期的であっても国力を衰退させるしかない」と、イシュルに説明した。

「……それにイシュル殿もご存知のとおり、両国にはなかなか謀略に優れる人物がいるようです。少し調べてみたのですが、こちらではっきりと特定はできませんでした。ついでにその者も始末しておきたいのです」

 ルースラはいつものごとく柔和な笑みを浮かべ、付け加えて言った。

「ふふ……」

 イシュルはただ薄く笑うだけで、ルースラの申し出に否とも応とも答えなかった。

「ははっ。どうです? お願いできますか」

 ルースラはイシュルの笑顔を見ると眸を細め、なぜか笑い声を立てた。

「首狩りですね。いいですよ」

 イシュルは笑みを酷薄に歪めて言った。

 ルースラの要請は、以前からイシュルも考えていたことだった。

 ……だが、俺はこの男のようにいろいろと、複雑に考えてはいなかった。

 俺はただ、あの二つの王国に気に食わないやつがいる、そいつは殺しておいた方がいい、と思っただけだ。

「……で、敵が影武者を立てる可能性はどれくらいかな?」

「影武者、ですか。それなら仕方ないですね。国王を討ち取るのは諦めましょう。でも敵はその時、イシュル殿の言う影武者の周りを近臣の者で固めて偽装するでしょう。その場合は彼らを片づけて良し、ということにしましょうか」

 ルースラもイシュルの言った「影武者」という言葉に一瞬、不審な表情を示したが、すぐにその意味を理解した。

 イシュルはすぐ「わかった」と答え、彼の提案を了承した。

 影武者を立てたからといって、兵士もろとも敵軍を全滅させるわけにもいかない。

 ミラとリフィアも行きたそうな顔をしたが、イシュルは「俺ひとりでやるから」と、彼女らが何か言う前に釘を刺しておいた。

 容易に混戦となる、波乱の起きやすい夜襲に、ふたりを参加させたくなかった。

 その後、夜半にハーラル城からアグニア王国軍が撤退をはじめると、イシュルはムルド城から飛び立ち、まず先に退却したノイマンス王国の軍勢を追った。

 両王国の斬首戦にはシルバをムルド城の守護に残し、偵察力に優れるノルテを随伴、すぐに先行させ敵軍の行方を探らせた。

 雪が降りはじめた夜空を飛ぶこと四半刻ほどで、ノルテは退却する敵軍を捉えた。ノイマンス王国の軍勢は夜を徹して、母国に至る街道を南下していた。

 イシュルはノルテの魔力の灯火を追い、あっという間に敵の長く伸びた隊列の後尾を捉えた。

「ノルテ、ありがとう。次は打ち合わせ通り、北の方を探ってくれ」

 ノルテヒルドにはこの後、遅れて退却したアグニア王国軍の探索を命じてある。同国軍はより北方の街道を西進している筈である。

 ……承知した。剣殿も気をつけられよ。

 風の精霊の気配が暗闇にふっと消えた。彼女は遁走するアグニアのいる北東へ向かった。

「さて……」

 イシュルは前下方を見下ろし、徒歩にて退却するノイマンスの軍勢を見つめた。

 敵軍は所々に小さな松明をかざし、両脇を黒々と沈む森の中の街道を粛々と行軍しているように見える。

 イシュルは高度を下げると自身の周囲に、濃密な風の魔力を渦を巻くように流した。

 敵の魔導師、魔法具持ちにもはっきりと見えるようにだ。

 一旦速度を落とし、敵の隊列に沿って己を見せつけるように飛ぶ。

 ほどなく敵の縦列に動揺が走り松明が小刻みに揺れだし、兵のざわめく声が上がってきた。

 と、前方に大きな光の塊が二つ浮かびあがり、イシュルを襲ってきた。

 イシュルはやや速度を上げたが、高度も進路もそのままに進んだ。目の前を火球がそれて爆発、後方へ流れていく。

 続いて水球、無数の石飛礫(いしつぶて)、鉄の槍が連続してイシュルを襲った。そのすべてが風の魔力の壁に遮られた。イシュルの周りで無数の魔力が煌めき、さまざまな色と形の光が瞬き、夜闇を踊った。

 激突し、爆発する魔力の閃光の向こうに、人馬の立ち騒ぐ気配が起こった。

「それを待っていたんだ」

 薄っすらと笑みを浮かべるイシュルの顔を、魔力の瞬きが照らし出した。

 イシュルは速度を上げると、本隊を置き去りにして逃げ出した十騎ほどの騎馬の小集団を追った。

 後方で強力な魔法使いが襲ってきた、となれば敵軍は国王を先に逃がそうとするだろう。あるいは王は近習を従え、我先にと逃げ出すだろう。

 彼らのいたムルド城は山城だが標高はそれほどでもなく、少数であれば馬を上げ城内に入れることも可能だ。

 つまり、数の少ない騎馬で逃げ出した彼らは、ノイマンスでも身分の高い者、ということになる。

 イシュルは街道を驀進する騎馬の一団に追いつくと、多数の鉄球を生み出し溶解、赤く発光させて道の両側に次々と落下させた。

 風に舞う雪が黒く影になり、赤い色を浴びて不思議な色に輝いた。

 街道を暖色に輝く光芒が幾筋も立ち上がり、逃走する騎馬隊を左右から照らし出した。

 もの寂しい冬の夜、人気ない街道を一瞬、華やかな光が明るく照らした。

 馬上に翻る赤や白のマントを、銀色に輝く甲冑を照らし出した。

 イシュルはその中心を進む、白馬に乗った男を捉えた。

 ……おまえが本物の国王だといいんだがな。

 イシュルは頭上に風の魔力の塊を生み出し、騎馬隊に投げつけた。

 同時に夜空を高く、舞い上がる。

 足下で爆発が起こり、下から上へ爆風が突き抜けるとイシュルはからだをひねって反転し、北の空へ向かって飛びはじめた。

 次はアグニアだ……。

 己の発する魔力の光に照らされ、繊細な光の尾を引く白雪が眼前を通り過ぎていく。

 夜空には低く雲が垂れ下がり、森は暗闇に深く沈んでいる。

 誰もいない、冷たく、静かな夜だ。

 やがてその彼方に見慣れた蛍火がひとつ、小さく灯った。



 



#7 アンティラ宮殿の攻防


 あの夜から数日、今日は昼間から雪が降っていた。

 イシュルはアンティラの街を囲む城壁の南端に立って、王都に送還されるセシリーアとその子供たちを見送った。

 護衛はベールヴァルド公爵家騎士団とラディス王家アンティラ騎士団の一部、百騎ほどで、セシリーアたちに加え、戦没したデメトリオと彼女に仕えていた家臣、一部使用人らも共に送還されることになっていた。

 イシュルは、アンティラ宮殿の謁見の間で起こった事件の直後にペトラとマーヤを、夕食時にリフィアとミラ、ニナを篤く、力を尽くして慰撫し、なんとか彼女らを落ち着かせると、その日の夜にはヘンリクに手紙を書いた。

 ヘンリクに宛てた手紙には、デメトリオの子供たちから王位継承権を剥奪するのは仕方がないとしても、処刑するのは後に様々な禍根を残すことになる、ペトラの王権に傷がつくこともあるかもしれないと伝え、きつく浅慮を諌める旨記されていた。

 イシュルはその手紙の文面をルースラに見せ、“髭”の男たちを使って至急大公に届けて欲しいと懇願した。

 ルースラは快諾してすぐ手配してくれたが、ヘンリクは内心では激怒しても、早まった真似はしないだろうと、彼の所見を述べた。

「それにしても、ヘンリクさまにこれだけはっきりと言えるのは羨ましい」

 ルースラは、イシュルが神の魔法具をふたつも持っているから、たとえ王家の者でも粗略に扱えないのだと言ってきたが、イシュルは「それだけじゃない。俺が王家に仕えていないからですよ」と、かるくやり返した。

「それよりも」

 そしてイシュルは自身が一番危惧していることを告げた。

「何より怖いのは、デメトリオの遺児らが王都へ向かう道中で暗殺されることです。大公が命令を下さなくとも、彼の意を汲んで勝手に先走る輩が出てくるかもしれない」

 ルースラはそこではじめて厳しい顔になってひとつ頷き、セシリーアと子供たちには多数の“髭”の護衛をつけましょう、と言った。

「……」

 イシュルは小雪の舞うアンティラの城壁にひとり、寂しく王都へと旅立つ一行を見下ろした。

 あの騎馬隊や使用人の乗る馬車の中には、多数の影働きの者たちが含まれ、王都までセシリーアたちをしっかり護衛するのだろう。

 だが、だからこそ彼女たちが哀れだった。

 彼女たちに謁見の間で怒りを植えつけられ、屈辱を擦り込まれた。それがまた言いようのない寂寥感を抱かせるのだった。

「イシュルさん、急いでください。もうそろそろはじまりますよ」

 背後から、今まで気配を消していたロミールが声をかけてきた。

 これから重要な話がある、ということでペトラとルースラから呼ばれている。彼女らとの会談は他に、マーヤやリフィア、ミラたち、それにベールヴァルド公爵、オルグレン伯爵なども同席するとのことだった。

「わかった」

 イシュルは、南の城門前で出発の準備をしているセシリーア一行を一瞥すると、背を向け、ロミールとともに言葉少なに城壁を降りていった。



「……」

 イシュルはアンティラ宮殿の一室、晩餐室に案内され入室すると、わずかに肩を落として嘆息した。

 暖かみのある茶系の色彩で統一された晩餐室は、奥の暖炉に火が焚かれ、日中にもかかわらず卓上の燭台には蝋燭に火が点けられていた。

 部屋の片側に並ぶ窓から入る外光は弱々しく、室内は重く、薄暗く感じられた。

 そう感じられるのは室内に居並ぶ面子も、関係しているように思えた。

 中央の大きな長方形の食卓には、奥にペトラ、右隣にルースラ、左隣にマーヤが座り、ペトラの右側をルースラに続きベールヴァルド公爵、オルグレン伯爵、マーヤの父のエーレン伯爵が並び、左側をマーヤに続きリフィア、ニナ、ミラが座っていた。

 ……ニナまで来ているのか。

 イシュルは執事に即されペトラの反対側、彼女と対面する席に座らされた。

 俺が一番末席なのは構わない。どうでもいい。

 だがこれは、俺に対する諮問か何か、これから始めるつもりなのか。

 イシュルは不審な表情を出さぬよう気をつけ、重厚な食卓に居並ぶ面々を見渡した。

 リフィアとミラが普段は見せない、硬い顔をしているのが気になった。

 イシュルはちらっとルースラを見やった。

 ……これは彼女たちにも根回しが済んでるな。詳しく知らされていないのは俺だけか……。

 イシュルは続いてマーヤを睨んだ。

 おまえか、マーヤ。おまえが仕掛けたのか?

「イシュル、わざわざ呼び出してすまんの」

 ペトラがいつもの調子でイシュルに話しかける。

「いや」

 イシュルは卓を囲む面々への挨拶も吹っ飛ばし、続けて言った。

「要件は? 俺に関することか」

 ペトラたちが何を言いたいか、何を要求してくるか、何となくわかるような気がする。

 ……あれだけ言ったのに。意思表示したのに。

 場合によってはただじゃ済まさないぞ。

「う、うむ。そなたのことだ」

 ペトラが少しつっかえ、言い淀んだ。

「もう、ミラ・ディエラード殿には了解をいただいておる。その、サロモン殿の名代として──」

「ごほんっ」

 マーヤが咳払いをしてペトラを止めた。

「あのね、イシュル」

 マーヤが身を乗りだしてイシュルを見つめる。

「イシュルにはしばらく、北線に残って欲しいの」

「!!」

 イシュルの双眸が一瞬大きく見開かれ、そして細められる。

「おい、俺は言ったじゃないか──」

「すいません! 一ヶ月だけでいいんです。この地に、山の西側に雪が積もる来年、冬の一月いっぱい、どうかバルスタールにとどまり、王国守護の任に当たっていただきたい」

 激昂しかけたイシュルにルースラが突然、立ち上がって頭を下げてきた。

「わたしからもお願いしたい」

「頼む、イシュル殿」

 イシュルから見て右側に座るベールヴァルド公爵、オルグレン伯爵らも揃って頭を下げてきた。

「いや、それは困ります」

 イシュルは年輩の大貴族が揃って頭を下げるのも意に介さず、冷たく、鋭く言い放った。

 リフィア、ミラはむすっと不機嫌そうな顔をして何も言わない。ニナはなぜか苦笑しているように見える。

「実はの、イシュルにはすぐ王都に戻ってもらっても構わんのじゃ」

 ペトラはそこで周囲を見渡し、間をおいた。

「まぁ、それは妾の考えじゃが……」

「イシュル殿、実は年明け早々、ヘンリクさまの即位式が行われることが決まったのです」

 ルースラの声が珍しく、緊張に震えている。

「な、に……」

 即位式。ヘンリクが王位につく……。へっ? 早すぎじゃないか?

 イシュルは呆然と一同を見回した。

「ヨエルの、寝返った諸侯の戡定は?」

 ……マリユス三世率いる国王軍がユーリ・オルーラに敗れた後、王都北東のヨエル周辺の領主たちが連合王国軍に寝返ったのである。彼らの平定が終わらなければ、とてもじゃないが即位式など行えない。

「それは今進めている最中だ。北線奪還の報が届けばすぐに終わるだろう」

 オルグレン伯爵が枯れた野太い声で言った。

「今は王国内部を少しでも早く安定させることが肝要だ。ヘンリクさまはそれで即位式を急がれるのだろう」

 と続けてエーレン伯爵。

「……そ、それは」

 そうか、それでミラはサロモンの名代で、とか言っていたのか。

「即位式となれば我々も列席しなければならん。まぁ、ハネスは謹慎の意味も込めて残していくが。つまりイシュル殿、そういうことなのだ」

「わしの次男も残していく。だが必然的に、北線の守備は手薄にならざるをえない。ここら辺は例年、雪が積もるのは冬の一月が過ぎた頃からだ。雪が積もれば、敵の攻撃も困難を極めることになる」

 公爵とオルグレン伯爵が続けて言った。

「あ、あの。わたしと師匠も残ります」

 とニナ。

 ニナだけは先ほどから幾分、表情が柔らかい。

「……」

 イシュルはちらっとリフィアを見た。

 その整った横顔は無表情で、すこぶる機嫌が悪そうだ。

 リフィアとミラがずっと仏頂面だったのは、そういうことか……。

 リフィアは辺境伯家の当主代理として、ミラは聖王家の、サロモンの代理としてヘンリクの即位式に列席しなければならなくなったのだ。

 そこでルースラが立ったまま、イシュルに話しかけてきた。

「イシュル殿、あなたは即位式に列席されますか?」

 ルースラは嬉しいような、悲しいような、なんとも言えない複雑な顔をしている。

「……くっ」

 そういうことか。

 イシュルは思わず唇を噛んだ。

 確かに、確かに俺は、即位式なんかに参加したくない。ヘンリクに恨みがあるわけじゃない。嫌ってるわけでもない。だが、そんなものに参席したら、どういう扱いを受けるだろうか?

 ユーリ・オルーラを斃し北線から連合王国を駆逐した英雄、“王国の剣”として大々的に……つまり持ち上げられ、喧伝されるに違いない……。

 それは駄目だ。そんな式に、お祭りなんかに絶対参加したくない。

 王国内外の、上も下もみな、俺がラディス王家に仕えたと見なすだろう。

 ……やられた。ルースラに一本取られた。

 この男は、マーヤたちは、俺が王家や貴族に対してどう思っているか、権力に関心がなく、一定の距離を置きたいと考えていることをすでに知っている。それを逆手にとられたのだ。

 まぁ、彼女らも俺に良かれと考え、別に悪意を持っているわけではない、というのはわかるのだが……。

 約束と言わず、この戦争が終わったらいち早く王都に戻りたい、と常々言っていたことを反古にされたのも、また確かなことなのだ。

 俺はヘンリクの即位式が終わるまで、王都に戻れない。

 じゃあ、腹いせにどこか、たとえばベルシュ村にでも一旦、帰ってしまおうか……。

 いや、そんなことしてもしょうがない。実際故郷には帰りたいが、北線でも王都でも、行き来するには少々時間が足りない。距離がありすぎる。

 それにバルスタールが手薄になるなら、確かに俺がいた方がいい……。

 まさか、ヘンリクの即位式がそんなに早く行われるとは思わなかった。

 来年の春くらいかと思っていた。

 本当にひと月もの間、北の城塞に閉じ込められることになるとは。

「青天の霹靂とは、このことか」

 イシュルは呆然と天を仰いだ。

 視界には、ただくすんだ天井が見えるだけだった。



「わたくしはヘンリク殿下の即位式が終わりましたら、すぐにこの地へとって返します」

「わたしもだ。すぐに北線に戻る」

 失意のイシュルが晩餐室を去り、ルースラが、公爵らが退室すると、まずミラとリフィアが力を込めて宣言するように言った。

「ふむ、仕方がないかの。王家書庫の件は、妾が父上にとくと申し上げておこう」

「仕方ないね」

 ペトラとマーヤが幾分、肩を落として言った。

「しかし、サロモン殿の書簡は早かったのう。かのお方がミラ殿に手紙を書いたのはまだ、イシュルがユーリ・オルーラと戦う前ではないかの? 油断のならぬお人じゃ」

 ……似たようなことを、サロモンさまもおっしゃっていましたわ。

 とミラは思ったが、口には出さなかった。

「それよりニナ殿」

 リフィアが鋭い視線をニナに向ける。

「……」

 ニナにみなの視線が集中する。

「あっ、あの」

「早まっちゃだめだよ。ニナ」

 マーヤがニナに声をかける。

「命令じゃ。そなたはイシュルにこれ以上悪い虫がつかぬよう、よく見張るのじゃ」

 ペトラが低い声で言った。

「は、はい……ペトラさま」

 ニナが力ない笑みを浮かべて頷く。

 ……悪い虫とはまさか、わたくしのことでしょうか?

 とミラは思ったが、これも口には出さなかった。

「ああ。それにしてもイシュルさまが可哀相! こんな寒い、何もないところにおひとりで」

 ミラはその思いを振り払うように、勢いよく歌い上げるように言った。

 ……イシュルさんはひとりじゃありません。わたしがいます。

 とニナは思ったが、彼女も口には出さなかった。

「そうですわ!」

 ミラは胸の前で手を合わせて叫んだ。

「これから、イシュルさまを慰めて差し上げましょう」

「おお、そうだな。わたしもやつを慰めてやろう」

 リフィアが席を立つ。

「待て。妾もじゃ! この前の謁見では、イシュルにとてもやさしく慰めてもらったからの。今度は妾があやつを慰める番じゃ」

「しょうがない」

 ペトラとマーヤも席を立つ。

「待ってくださいな。わたくしが先ですわ!」

 ミラも席を立ち、扉の方に向かった。

 みなそそくさと晩餐室を出て行った。

「うん。じゃあ、わたしも」

 最後に残ったニナが余裕の表情で席を立つ。

 ニナが部屋を出て行き、晩餐室には誰もいなくなった。

 無人の部屋で、暖炉の方からぱきっ、かさっと音が鳴った。

 焼けた薪が崩れる音がした。

 外はいつからか雪が止み、窓から明るい陽が射していた。

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