北辺を抜く 5



 翌早朝、敵の襲撃で犠牲になった城兵や戦(いくさ)奴隷の遺体を城外の山裾に埋葬すると、イシュルは城塔に登って周囲の観察、監視を続けた。

 リフィアとミラ、ニナも城壁で、あるいは各所を巡回し城内外の監視を続けていた。

 昼前になって洗濯や水汲み、薪割りなど雑用を済ませてきたロミールが塔上に登ってきた。

「やぁ、凄い眺めですねー」

 塔上の西側で胡座(あぐら)をかいて座るイシュルの横に、ロミールが腰を下ろしながら言ってきた。

「ああ」

「……まさかこうして、バルスタールの一番高い城の塔に登ることになるなんて、想像もしていませんでした」

 ロミールはしばらく周囲を見渡し、感慨深げに言った。

「俺もだよ」

 ……そりゃそうだ。俺はもともと王国の東端の出身だし、ロミールはフロンテーラ近郊の出だろう。どちらも北線とは縁遠い土地だ。

 連合王国に落とされる前は、王国の領民も徴集され末端の兵士として守備についていたが、バルスタール防衛に割り当てられるのは、基本的に王国北西部の領主らで、その兵士も当地の領民が中心となっていた。

「あれ? おまえ、ロミールじゃないか」

 同じ塔の上で見張りについていた、大公騎士団の平騎士の男が後ろから声をかけてきた。

「タリム、……さん?」

「おお、そうだよ。久しぶりだな」

 ロミールが立ち上がり、タリムという名の知り合いと立ち話をはじめる。

「……」

 イシュルはそれを見て笑みを浮かべた。

 タリムと呼ばれた男はロミールの二、三歳ほど上、ちょうどイシュルと同じくらいの歳だ。

 おそらく彼も、大公家の騎士爵家の次男か三男坊なのだろう。

 ……剣殿、味方の精霊がそちらに向かっている。

 そこで遠くから、ノルテの声が脳裡に聞こえてきた。

「ふむ。来たかな」

 イシュルも立ち上がると塔上の東側へ移動した。

 薄く晴れた空をぼんやり見ていると、真正面から見た飛行機のような形の精霊が、背景から浮き上がるように姿を現した。

 その精霊は翼を固定して空を滑べるように飛び、こちらへまっすぐ向かってくる。

 ……ルースラの精霊だ。間違いない。

 イシュルの顔に薄く笑みが浮かぶ。

「シルバ、味方だ。手を出すなよ」

 シルバストルの気配を感じ、イシュルは小声で呟くように言った。

 ……。

 シルバの気配が遠ざかる。

 飛行機のような精霊は城に近づくと、胴を上向け翼を動かしパタパタと羽ばたいた。大きな、鶯(うぐいす)に似た鳥型の精霊だ。ルースラの契約精霊、お化け鶯のヒポルルだった。

 ヒポルルはイシュルの正面、塔上の鋸壁(のこかべ)の上に降り立つと、いつぞやのようにひょこひょこと踊り始めた。嘴(くちばし)も盛んに動かし何か鳴いているようだが、その音は聞こえてこない。

「……」

 ……何かの儀式? いや、挨拶なのかもしれないが……。何をやっているのか、さっぱりわからない。

 イシュルは顔を引きつらせて鋸壁の上で踊るお化け鶯を見上げた。

「おっ」

 ヒポルルは踊りをやめると、嘴を上に向け開いて、巻紙をにゅーっと外に突き出した。

 そしてその巻紙の先をイシュルに向けてきた。

「あ、ありがとう」

 イシュルが巻紙を受け取ると、ヒポルルはちょんちょんと二、三度飛び跳ね、翼を広げると宙に浮かび、そのまま背景に溶けるように消えていった。

 気持ちの良い柔らかい風が吹いてきた。

 ……ふむ。あまり強くはなさそうだが、いい精霊だ。

 イシュルはその風を浴びて何となく、そう思った。

「あ、あっ……」

「せ、精霊だ……」

 横から聞こえてきた声に振り向くと、ロミールと平騎士のタリムが呆然とした顔で固まっていた。

「ふふ」

 どうやらふたりにもお化け鶯が見えたらしい。

 イシュルは彼らに向かって笑みを浮かべると巻紙を開いた。

 ルースラからの書簡は待ちに待ったバルスタールの敵陣配置図だった。

「なるほど」

 イシュルは紙面に簡単に描かれた絵図に見入り、短く呟いた。

 巻紙には縦方向に簡単に山の稜線が描かれ、北の主城ハーラルからビルタ、カネンの支城、中央付近にあるもう一つの主城ムルド、さらにその南へ続くベイレン、セシ、そしてここカルナス城、最南のイラールの各城がその線上に列記されている。

 その周囲に、諸城を守る連合王国諸国の国名や、主な領主の名が記されていた。

「……」

 イシュルは紙面を追いながら眉間にしわを寄せ、難しい顔になった。

 問題のドレーセンとの密約のあるオルーラ大公国は中央の主城、ムルド城に陣取っていたが、同城にはノイマンス王国も布陣していた。ロブネルの襲撃をノイマンスとともに画策したアグニア王国は北の平城、ハーラルを守備していた。

「しかし、オルーラ大公国とノイマンスが同じ城にいるのか。……これはやりにくい」

 いや、攻撃は確かにしづらいが、オルーラへの調略が成功すれば面白いことになる。

 次にこちらが手に入れるなら、この城になるのではないか。北線中央の主城でもあるし、ムルド城奪還がこの戦役に決着をつける節目になるだろう。

 なんとなくそんな感じがする。

 イシュルはほくそ笑むと、ロミールたちと目があった。

「軍監さまからの手紙ですか?」

 ロミールがおずおずと聞いてくる。

「ああ」

 イシュルが続いて「見るか?」と口に出そうとすると、背中の方で鋭い魔法の閃光が走り、リフィアが塔の下から登ってきた。彼女は塔の壁伝いに跳躍を幾度か繰り返し、異様な速さで搭上に降り立った。

「イシュル、あの鳥の精霊が来ていたな。……それが軍監殿からの書簡か」

 リフィアが低い声で話しながらイシュルに近づいてくる。

「あら、わたくしにも見せてくださいな」

 そこへ空中からシャルカの肩に乗ったミラが声をかけてきた。ミラとシャルカはリフィアとは対照的に、音もなくすーっと上昇してきた。

「いいよ、どうぞ。ロミールも見ていいぜ」

 イシュルは彼女たちを見回し、巻紙を上げ振ってみせた。

 この絵図の内容は遅かれ早かれ、誰でも知ることになるものだ。たいして秘密度の高いものではない。

「ふむ」

「だいたい予想どおりですわね」

「むー」

 リフィアが手に持ち広げる絵図面をミラやロミールたちが覗き込んでいる。

 ミラの言った「予想どおり」というのは、敵軍を主導するオルーラ大公国やノイマンス、アグニアの両王国が主城に入っていることを指している。

「さてと」

 イシュルは両肩を回し、胸を反って大きく息を吸い込み、何度か深呼吸を繰り返した。

「これで敵陣はだいたい把握できた。すぐにはじめよう」

「……」

 リフィアとミラが無言でイシュルを見つめてくる。

 初動の作戦がカルナス城奪還だけではないことは、リフィアとミラにも知らされている。だが、細部までは彼女たちにも教えていない。軍監のルースラには多少詳しく説明しているが、彼もすべては知らない。

「ミラ、リフィア。城を頼む」

「わかりましたわ」

「あ、ああ。……これから何をするんだ?」

 ミラは単純に笑顔で頷き、リフィアは少し不安な表情を見せて聞いてくる。

「ふふ……」

 イシュルはリフィアの質問には答えず、ただ笑みを浮かべると、空中へ飛び上がった。

「シルバ、味方の城を頼む」

 ……承知。

 イシュルは垂直に上昇しながらシルバに、続いてノルテに言った。

「ノルテ、これから大魔法を連発する。俺を守れ。俺に近づく敵は排除しろ」

 ……御意。

 山の東側、山麓に配置していたノルテが急速に近づいてくる。

 イシュルは四里長(スカール、約2500m)ほどの高度まで上がると周囲を見渡した。

 自身の周囲に少し、下方の山の尾根に雲がまだらにかかっている。

 イシュルは片手を上げると視界に広がる雲の連なりを吹き飛ばした。

 下方を白雲が形を崩し地平線の彼方へ消えていく。

 大地を風が吹き渡るのが感じられた。

 ……いくぞ。

 イシュルは、北ブテクタス山脈の尾根に沿って並ぶバルスタールの諸城を見下ろし、狙いを定めた。そして両目を閉じて何事か、集中しはじめた。

 前へ差し出された右手の指先が細かく揺れる。

 イシュルの指先、遠く薄く晴れた空に突然、風の魔力と金の魔力の塊が姿を現した。二つの魔力は下方に流れるように一定の太さの筋となって落ちていき、やがて螺旋状に回り出して互いに絡み合っていった。

 それは二つの魔力が絡み合う、逆円錐型の砲弾、弾頭のような形になった。

「……」

 イシュルは目を開けると、風と金の魔力が絡み合う逆円錐をさらに五つ、同時につくっていった。

 下を向いた円錐型の弾は、北線の各城の上空、イシュルとほぼ同じ高度にあった。

「行け」

 イシュルは小さな声で言った。

 辺りを一瞬、突風が突き抜けた。

 遅れてやってきた風の音が消えると、風と金の魔力の弾頭が次々と垂直に落下しはじめた。

 弾頭が地上に激突すると魔力が解き放たれ、風の魔力が風を生み、金の魔力が鉄に変わった。

 風は鉄を引き裂き、周囲に無数の鉄片を撒き散らした。

 北線の峰々に六つの爆煙が吹き上がった。

 低い爆音と衝撃波がイシュルの周りを吹き抜けていった。

 バルスタール城塞線の各城、ハーラル、ビルタ、カネン、ムルド、ベイレン、セシに風と金の二重魔法が炸裂した。

 もし諸城に散在する魔導師が見たら、はっきりとその意味がわかっただろう。

 術者が風と金の神の魔法具を自在に使いこなしていることを。

 ユーリ・オルーラよりも恐ろしい金の魔法が使えるだろうことを。

「……」

 イシュルは眼下に爆煙を上げる諸城を見つめ、微かに笑みを浮かべた。

 ……威力は抑えている。

 多分、野戦重砲の榴弾くらいの威力だろう。支城でも一発で全滅するような破壊力はない。

 それにオルーラ大公国軍のいるハーラルはわざと外側に逸らして、城壁の辺りに落とした。

「だが本番はこれからだ」

 次は王国のためだけじゃない。自分自身のためにやる。

 ……誰にも邪魔されたくないからな。

 イシュルは視線を鋭くして北の空を見つめた。その向こう、金の精霊の世界に“手”を伸ばす。

 本当は亜鉛メッキとか、防錆処理をしたいんだが……。

 今ひとつ亜鉛のイメージが薄く、実感が伴わない。金銀銅や鉄などと違い、あの結晶世界から“亜鉛”となる要素を探しだすことができない。まさか金メッキとかを施すわけにもいかない。そんなに大量に金を生み出したら確実に死ぬ。他にどんな防錆処理があるかわからないし、“メッキ”に関する知識もあやふやだ。

 純度が高ければ錆びにくい、とも聞いたことがある。その線で行くしかない。 

 イシュルは金の魔法で己のつくろうとするものをイメージした。

 水色のくすんだ空に絵を描くように形づくっていく。

 金の精霊の異界から魔力が溢れ、大きな鉄の塊が実体化しいく。鉄の塊は高熱を発し溶解し、薄く長い巨大な鉄の板になった。

 下方に向けて緩やかなテーパーのかかった、高さ三十長歩(スカル、約17m)ほど、横幅は十長歩、厚さは真ん中あたりで六指長(サディ、約120mm)ほどの鉄板だ。

「こんな感じかな」

 イシュルは空中に浮かぶ黒ずんだ鉄板を見つめた。表面から水蒸気だろうか、微かに白い煙が立ち上っているのが見える。

 ……重量はどれくらいだろう。数十トン、もしかしたら百トン近くあるんじゃないか。

 かなりの手ごたえ、を感じる……。

「ではテストだ」

 風の魔力で側面を支持して垂直に落下させ、適度な制動をかける。

 あの鉄塊の重量を仮に五十トンとして、それを二千メートル以上の高さから自由落下させたら、おそらくとんでもないことになる。

 鉄板の下部に風の魔力を添わせ、うまく地中奥深く、鉄板を支持できる深さまで突き刺さるようにする。

 落下地点は、カルナスの北に隣り合うセシ城のやや西側。山の稜線に突き刺すように持っていく。

 鉄塊が山肌に接触する瞬間、上部から押し込むように、新たに力を加える。

 小さな黒い影が山頂近くの斜面に激突した。

 一瞬五感を、心のうちを圧してくる力。

 立ち上がる土煙、鉄と岩がぶつかる低く重い音が空気を震わせた。

「ふむ」

 イシュルは顎に手をやり、その瞬間の感触を確かめる。

 ……やはり鉄板下部に風の魔力を当てたのは正解だった。傾斜面でしかも岩ばかりの地質、先端を尖らせてはあるが、魔法を使わずに、適度な深さまで垂直に突き刺すのは無理がある。

 だがこれでだいたいの感じはわかった。

 風の魔力で垂直落下を保持、適度に制動をかけ先端部に風の魔力を当てる。そして着地する寸前で上から押し込む……。

 イシュルは視線を遠く、北の方に向けた。北の端、ハーラル城から南に数里長ほど、標高が上がり丘になるあたりから先ほどの鉄板を次々と生み出し、落下させ地面に突き刺していった。

「くっ」

 イシュルは額に汗を浮かべ、歯を食いしばった。

 山脈の消える北の地平は土煙で覆われ、巨大な鉄と岩が打ち鳴らされる轟音が天地を覆った。

 山の稜線の西側、北から南へ巨大な鉄板が幾百と連なり、やがて鉄の壁が造られていった。

 高さ二十長歩ほどの鉄壁は数里長ごとに人が数名、横に並んで通れるほどの隙間を開けて、城塞線に平行し南北に山稜を縦断した。

「剣殿……」

 ……盾殿!

 イシュルの召喚したふたりの精霊が叫声をあげる。

 鉄の壁はカルナスを南へ超えたところで止まった。

「ノルテ、風を吹かして煙を払ってくれ」

 イシュルは視線を宙に彷徨わせ、吐き出すように言った。

「わ、わかった」

 ノルテがイシュルの横に姿を現し剣を抜いて横に払った。

 一陣の風が吹いて山を覆う土煙が北西へ流れていく。

 バルスタール城塞線は鉄の壁により、西側の山稜で東西に隔てられた。



 ……寒い……。

 神経が、心が疲れている。

 自身の周りを覆う風の魔力の壁が揺らいでいる。

 イシュルはカルナスの城塔目指して静かに、ゆっくりと降下して言った。

 カルナスの城壁にも塔の上にも、多くの人々がいた。

「イシュル!」

「イシュルさま!」

 塔の方から呼びかけてくる声がある。

 リフィアもミラも、ニナも、ロミールも、城代のサベル・マハーレの顔もあった。

「……」

 イシュルは小さく息を吐くと、塔上の人々を見た。

 リフィアたちの心配そうな顔を見ると、なぜか笑みがこぼれた。なぜか可笑しかった。

 イシュルは搭上に降り立つと、その場に胡坐(あぐら)をかいて座りこんだ。

「イシュルさま!」

 横からミラが飛びついてくる。

「イシュルさん、手をかしてください」

 ニナが反対側から言ってくる。

「大丈夫か? イシュル」

 リフィアが正面から、少し硬い表情で声をかけてくる。

 ニナが右手をとって水の魔力を注ぎはじめた。

「ああ、大丈夫だ」

 心身を柔らかな何かが浸していく。

「大丈夫」

 イシュルは俯きそうになる顔を上げ、もう一度笑みを浮かべた。

 急に、さっきの可笑しみが戻ってきた。

 

 

「まぁ、工事用の柵だよ。あれは」

 イシュルはリフィアたちの質問にひとしきり答えると、にやりとして言った。

「工事用?」

「あれでも厚さは五指長(サディ、約100mm)以上、厚いところなら八指長はある。金の魔導師でも、あの壁に穴を開けるのはなかなか大変じゃないか」

 イシュルは途中からミラに視線を向けて言った。

「八指長も……。人ひとりが通れるほどの穴を開けるのには、相当時間がかかりますわね」

 ミラは口許に手を当て、考え込むようにして言った。

 カルナスの城塔からだと鉄壁は百長歩(スカル、約65m)以上離れている。イシュルたちからは鉄の壁は紙切れのように薄く見えた。

「厚さが五から八指長もあるのなら、わたしが拳で全力で叩いても、凹みもしないだろう」

 リフィアは呆然と城の西側、やや下の斜面に築かれた鉄の壁を見て言った。

「リフィアが全力でぶつかったら鉄に穴が開くと言うより、形が歪んで鉄板丸ごと倒れるだろうな」

 かなりの深さまで突き刺してあるから、そう簡単に倒れたりしないだろうが、リフィアの怪力ではそれもどうなるか、なんとも言えない。

 だが、彼女の力でも貫通できないのなら、この世界の武具なり魔法なりであの鉄板を貫通することはできないだろう。厚さが100mm以上あるんだから、対戦車用の火器でもないとちょっと厳しい。もちろん、神の魔法具なら貫通なり破断なり、何でもできるだろうが。

「高さは通常の城壁と同じくらいだから、影働きや魔導師なら越えられる。精霊なら何でもない」

「でもイシュルさまは、敵の軍勢を防ごうと考えてあの鉄の壁を造ったのでしょう? それなら充分ですわ」

 ミラも鉄の壁の方を見て言った。

「まぁ、ただの鉄板だから、五年、十年くらいしかもたないだろうけどな。北線の各城の修理が終わるまで保ってくれればいいさ」

 ひと月もすれば鈍色の表面も赤錆びに覆われるだろう。

「それは大丈夫ですわ。金の魔導師を巡回させて、錆を落とさせればいいのです。簡単なことですわ」

「なるほど」

「あの鉄の壁はハーラルの南からずっとここまで続いているわけか」

「そうだな」

 ハーラル城の周りは水堀や小河川に囲まれた湿地帯だ。地盤が悪いだろうから鉄壁はつくらなかった。それにもともと、まとまった兵力で攻城できる地形ではない。

「しかし凄いな。あの鉄の壁がムルド城の先まで続いているだなんて」

 リフィアが何度目か、同じ台詞(せりふ)を口にした。

「鉄の城壁にはわざと隙間を設けて、敵の軍勢が退却できるようにしているのでしょう?」

「ああ。完全に閉じてしまうと敵も逃げ場を失って調略も効かなくなるし、戦(いくさ)になれば死に物狂いで抵抗してくる」

「逃げ道はある、だが連合王国の者らは怯えているだろうな。金の大魔法で背後にこんな鉄の壁を造られたら、城に篭っていてもなんの気休めにもならない」

「そうだな」

 母国側と隔てるように鉄の壁を造られたのだ。敵兵の心理、敵軍の士気にあまりよろしくない、重大な影響があるだろう。今は開けてある退路だって、彼らからすればいつ塞がれるかわからないのだ。

 鉄壁を造る前には、諸城に風と金の合成魔法を叩きつけている。彼らは撤退するまで、いつ何時全滅の憂き目にあうか、延々とその恐怖に苛まれることになる。

「しかし、イシュルはよほど早く、王都に戻りたいのだな」

 リフィアがなんの嫌味のない、むしろやさしい笑みを浮かべて言った。

 ……鉄壁の隙間を塞げば、敵軍はたやすく侵入できない。あとは敵の魔導師や影働きだけを警戒すればいい。城の修理、築城も随分と安全に、やりやすくなる。

「これくらいやっておかないとな。本当にこの地に長い間、縛りつけられるんじゃないかと思う」

 イシュルはぼそっと小声で言った。

「今度はラディスラウスで書物あさりですわね」

 ミラも屈託のない笑みを向けてくる。

「そうだな」

「イシュルさん、そろそろ下に降りて、ひと休みしましょう?」

 今まで、にこにこと黙ってイシュルたちの会話を聞いていたニナが、彼女も笑顔でイシュルに声をかけてきた。



 


 イシュルが北辺の地で金の大魔法を使った翌日、早くも北線南端のイラール城から敵軍が撤退をはじめた。

 イラールはイシュルたちのカルナス攻略によって分断されていた。また、カルナス奪還はとても不可能な状態で戦力的に牽制の役目も果たせず、昨日のイシュルの金の大魔法を眼前に見せられ、敵の城将は早々にイラール城を放棄することにしたようだった。

 イシュルは撤退する敵は追わず、その日は終日山の西側、敵の後方に蓄積された兵糧や予備兵力の駐留陣地を襲撃して回った。

 必ずすべてを破壊せず、半分ほど残すように配慮して攻撃した。連合王国にダメージを与えすぎてはならない。敵には以後も、内戦を継続できる余力を残しておく必要があった。敵の反撃は皆無で、昨日と打って変わって楽な仕事だった。

 さらに三日後、北線に大きな動きがあった。

 当日、支城のカネン、ベイレン、セシの城兵が一斉に撤退を開始したのである。各々の軍勢はイシュルの築いた鉄壁の隙間を通過し、山の西側に、連合王国の地に去っていった。

 残された敵軍はそれでも主城ハーラルとムルドの防衛線を維持しようとしたのか、翌日になって隣接するカネンとベイレン城に自軍の一部を割いて分派した。

 そこでムルド城から分派されベイレンに向かったオルーラ大公国軍が、ベイレン城の手前で突然西に進路を変え、山を下りはじめたのだった。

 オルーラ大公国軍の離反に、追い討ちをかけようとしたムルド城のノイマンス王国軍は、空き城となったベイレンに進出していたイシュルらに妨害され、追撃を断念せざるを得なかった。

 そしてオルーラ大公国軍の退却と機をはかったかのように、ペトラ率いるラディス王国軍がアンティラを出陣し、ムルド城目指して進軍をはじめた。王国軍の兵力は二万近く、ノイマンスもたまらず、オルーラ大公国軍の後を追うように退却をはじめた。

 各支城を守っていた連合王国軍とオルーラ大公国軍の撤退は、大公派遣軍軍監のルースラが主導した、敵方への種々の調略によるものだった。

 ここに至ってついに、バルスタール城塞線の連合王国軍は瓦解した。当日夜にはハーラル城とビルタ城から、アグニア王国を主力とする残余の軍も撤退し、同城塞線はすべてラディス王国の手に落ち、奪還されることとなった。

 この日をもって連合王国軍との戦役は終結を迎えた。

 

 

 ノイマンス王国軍の撤退したその日に、イシュルたちはムルド城でペトラ、マーヤ、マリド姉妹、軍監のルースラらと合流した。

 その二日後には、ペトラ主従とマーヤたちが城塞都市アンティラに一旦帰還することになり、多くの諸侯とともにイシュルも同行することになった。イシュルにはリフィアにミラ、それとニナも同道した。

 アンティラの西の城門に入ると、ペトラ一行は戦勝を祝う街の住民から歓声をもって迎えられたが、イシュルはその凱旋パレードのような行進には加わらず、ミラとシャルカとももに隊列から離れ、空中から市街中心部の王家の宮殿に入った。

 その日宮殿に魔導師らは滞在しておらず、イシュルが空中から宮殿内に進入しても誰何もされず、とくに問題も起きなかった。

 イシュルはペトラ一行が到着すると、彼女ら、諸侯らとともに宮殿の謁見の間に向かった。

 アンティラ宮殿は長らく、王弟デメトリオがその主(あるじ)として使っていたが、彼は連合王国のバルスタール侵攻時に討死し、今は妃(きさき)のセシリーアと娘のマトリーカ、息子のケネトスら、遺された家族のみが住人となっていた。

 王家の一族である彼女たちも、数日中には王都に向かうことになる。ペトラはセシリーアから、アンティラ防衛と北線奪還に奮戦した諸侯に礼を述べたいと頼まれ、アンティラに戻ってきたのであった。

 セシリーアとその家族は、同戦役に大功のあったイシュルにも特に謝意を伝えたいということで、ペトラは嫌がるイシュルをマーヤとともになんとか説得し、アンティラに同道させたのだった。

 イシュルとリフィア、ミラやニナは諸侯とともにアンティラ宮殿の謁見の間に通され、ペトラの隣席のもと、王弟デメトリオの未亡人セシリーアと彼の遺児、マトリーカとケネトスに拝謁した。

 アンティラ宮殿の謁見の間は白亜の大理石の床に天井、円柱が並ぶやや横に長い広間で、天井は思いのほか低く感じられた。広間の奥には一段高くなった床に、真紅の絨毯が敷かれた玉座があり、向かって右にペトラが座り、その奥にマーヤが立ち、左側にセシリーア、マトリーカ、ケネトスの順に座っていた。

 セシリーアはおそらく四十代後半だが、歳よりよほど若く見え、気位の高そうな顔をしていた。マトリーカはイシュルより一つ二つ上のほぼ同年代、整った顔立ちだが特にこれといって特徴のない貴族の娘、ケネトスは七、八歳くらいの子供だった。

 セシリーアはまずベールヴァルド公爵を御前に呼び、戦勝の祝いと礼を述べ、その労をねぎらい、続いてリフィアとニナを呼んで同様の謝辞を述べた。ニナはハーラル城に残ったパオラ・ピエルカの代理で、バルスタール奪還に参加した王家宮廷魔導師の代表でもあった。

 セシリーアはついでイシュルを御前に呼び寄せたが、事件はそこで起こった。

 イシュルが広間に居並ぶ一同から前に進み跪くと、セシリーアは従前通りにイシュルに謝辞を述べ、息子のケネトスに自らイシュルに褒美を渡すよう言いつけた。ケトネスは小さく返事をすると、側に控えていた執事から金の縁取りに香木でつくられた小箱を渡され、イシュルの前に立った。

「そなたには王家より褒美をとらす。面(おもて)を上げよ」

「……」

 イシュルが顔を上げるとその子供は突然、小箱を投げつけてきた。


 

 イシュルは咄嗟に頭を右に逸らして、投げつけられた小箱を避けた。小箱はイシュルの左耳と肩をかすめて彼の背後に落ちた。

 当然のごとく、ネリーの腕輪はその程度では反応せず、イシュルは乱暴に投げられた小さな宝箱をぎりぎりでかわすことになった。

「……!」

「なっ」

 周囲で小さな騒めきが起こり、場は一瞬で冷たい、緊迫した空気に包まれた。

 イシュルはふと後ろを振り返り、床に落ちた小箱を見つめた。蓋が開き、中から金貨や宝石、指輪や腕輪などの小さな宝飾品がこぼれ落ちていた。

「!!」

 ふと前を向き直った瞬間、イシュルは驚愕に襲われた。

 子供が、ケネトスが片足を上げ、跪くイシュルの頭の上に乗せてきたのだった。

「何が王国の剣だ! おまえなら国王陛下を助けられたろうに」

 まだ子供の、幼い声がイシュルに降ってきた。

 額に乗せられたケネトスの足が、ぐいぐいと押しつけられる。

 イシュルにとってそれはたいした痛みを伴うものではなかった。屈辱も感じなかった。

 だが心のうちを熱い何かが、さざめくのを感じた。

「なぜ陛下をお救いしなかった? 臆したか、それとも──」

 ケネトスの後ろでペトラが立ち上がり、何か叫ぼうとしているのがわかる。 

 イシュルはそこでケネトスの足を取り、そのまま前に押し出して後ろへ倒した。

「なっ」

 床に仰向けに倒れたケネトスを睨んで黙らせると、イシュルはセシリーアとマトリーカを横目に見た。

 感情のない、無表情なふたりの顔はそろってイシュルを見ていなかった。倒れたケネトスさえ見ていなかった。

 まるで何事も起きていないかのように、ただ宙を見つめている。

 こんな子供を使って……。

 これは当てつけだ。俺にではない。ヘンリクに言ってるんだ。

 マリユスとともに戦わなかった、ヘンリクを糾弾しているのだ。

 我が身を顧みずに。

 あんたらはもういいんだ? ……どうでも。

 どうせいつ殺されるか、彼女たちにも、この目の前の子供にも、この先に未来はない。

 だから最後に俺を使って、俺を足蹴にして大公を痛罵したのだろう。

 愚かだが、確かに彼女たちに今は何の力もない。

 こんな幼稚なことしかできないなら、それは確かに哀れだ。

 背後から、リフィアやミラの燃えるような怒りが伝わってくる……。

「セシリーアさま、この成さり様はあまりに──」

 とうとうリフィアが声をあげた。

 イシュルは前を向いたまま左手を上げ、彼女を制止した。

「国王マリユス三世は王都が戦場になるのを恐れ、籠城戦を捨て野戦に打って出た。彼はアンティオス大公の救援も、俺の助けも、最初からあてにしていなかったのだ」

 イシュルはセシリーアとマトリーカに顔を向け低い声で言った。

 イシュルの声はだが、静まり返った広間の端々まで響き渡った。

「国王は、俺もヘンリクも間に合わないことを、最初から知っていた」

 ……子供に言わせるとは、子供を使うとは卑怯ではないか。

 文句があるなら俺にではなくヘンリクに直接言うべきだ。

 だが、それは言えなかった。卑怯なのはヘンリクも同じ、王都への行軍を遅らせた、急がなかったのはあの男なのだ。それに乗っかった俺も同じだ。

 ケネトスは倒れたまま、泣きそうな顔になっている。

 セシリーアとマトリーカは相変わらず宙を見つめ、人形のように動かない。

「……」

 イシュルはぺトラの顔を見た。

 後ろでマーヤが火精の杖を両手で握りしめ、ぷるぷると杖ごと全身を震わせていた。

 イシュルはペトラの真っ赤になった眸を見つめた。

 その眸にイシュルの小さな影が映った。

「王国の剣に向かってなんてことを! この謁見はもう終わりじゃ」

 ペトラは吐き捨てるように言った。



「イシュルさま!」

「こんなことがあってたまるか!」

「……」

 ミラが、リフィアが、ニナまで怒りをあらわにしている。

 イシュルの前に立ち、熱く燃える激情をぶつけてくる。

 謁見がペトラの怒りの宣言で終わりを告げると、セシリーアはイシュルもペトラにも一瞥もせず、無言無表情で退室していった。マトリーカはイシュルの前に来てケネトスを立たせると、セシリーアの後を追ってこれも無言で広間を出ていった。

 マトリーカは一瞬、イシュルを見てきたが、その眸には何も映っていなかった。

 もう、当の昔に彼女たちの心は死んでいたのだろう。

 ……ケネトスに踏みつけられたとき、俺の心を浸したものは何だったのだろう。

 王家の者が広間の奥に消えると、諸侯もそそくさと退出していった。

 中にはベールヴァルド公爵やエーレン伯爵の姿もあったが、イシュルを囲むリフィアたちの剣幕を見て、彼らもただ、「後で話そう……」といった感じの視線をイシュルに向けただけで、無言で退室していった。

 旧王弟派、デメトリオの派閥だった者が誰かは、彼らが広間を出て行く時にすぐわかった。

 彼らは澄ました顔か、暗く気落ちした顔か、そのどちらかの表情を見せてイシュルの横を通り過ぎていった。

 澄ました顔の者は、この謁見でセシリーアのやりようを見て溜飲を下げた者、暗く気落ちした顔の者は王弟派が今この瞬間、壊滅したと感じ取った者であったろう。

「……仕方がないさ。俺は大公に与(くみ)したんだから」

イシュルは心のうちにくすぶるものをぐっと抑えこみ、穏やかな口調で言った。

「でも……!」

「だがっ」

「……イシュルさんがいなかったら、王国がどうなっていたかわからないのに」

 ミラは眸に涙をため、リフィアは眸を赤く染めて怒りに震えていた。

 ニナは据わった目で、どこか遠くを見つめていた。

 今まで彼女たちは、イシュルとともに連合王国と戦ってきた。イシュルが王都でユーリ・オルーラと、北線で敵軍と戦ってきたことを知っている。

 ……だが、敵の侵攻で悲劇に見舞われたのは、あの王家の家族も同じだ。

「あの人たちも可哀想じゃないか。……もう先が知れてるんだから」

 とにかく今は、リフィアたちの怒りと悲しみを静めなければならない。

 戦ってきたのは、勝利を掴んだのは俺たちだ。そのことは俺があの家族に足蹴にされようが、何をされようが変わらない。

「こんなことで怒っちゃだめだぞ。泣くようなことじゃない」

 イシュルはことさら柔らかな笑みをつくって言った。

 ……このことをヘンリクが知ったらどうするだろう。待ってましたとばかりに、彼女たちを処刑する理由にするかもしれない。

 デメトリオの遺児らを、二度と王権に近づけなくする処置は必要だろう。だが簡単に、安易に殺してしまうのは避けた方がいい。

 後でペトラに話しておいた方がいいだろう。

 イシュルはミラ、リフィア、ニナの顔を見渡し笑みを深くして言った。

「後で夕食をともにしよう。……大丈夫だ。俺は何も気にしていないから」

「うっ、うう……」

 とうとうミラが泣き出した。リフィアとニナが泣くまいと、唇を噛んでじっと堪えている。

 彼女たちの気持ちが切ない。俺のこころを激しく揺さぶってくる。

 それは結局、なんとか抑え込もうとしていた自分の気持ちと同じものだった。

 俺だって口惜しいのだ。今までの戦いを、あの者たちに否定などできる筈がないじゃないか。

 その怒りと悲しみとともに、吹きつけてくるもの……。

 己の感情を直接ぶつけてくるミラたちに、イシュルは小さな声で呟いた。

 ……ありがとう。


  

 イシュルは謁見の間の前でリフィアたちと一旦別れると、廊下を左に、宮殿の奥の方へ歩いていった。

 大理石の廊下は広く長く続いていて、人気がなかった。

 控えの間と思わしき扉の前まで来ると、イシュルが来るのを待っていたかのようにその扉が開き、ペトラとマーヤが中から出てきた。

「すまぬ……、イシュル。こんなことになってしもうて」

 ペトラは口惜しそうに、悲しげに、はらはらと玉のような涙を流して泣いていた。

「妾は、妾は悔しゅうてならぬ……」

「陛下の死も、デメトリオ殿下の死も、イシュルのせいじゃないのに。関係ないのに」

 マーヤの声は低く、かすれていた。

 彼女は目を真っ赤にして、魔法の杖でこつこつと何度も床を叩いた。

 イシュルは眸を細め、嘆き悲しむふたりを愛おしげに見つめた。

「マーヤ」

 左手でマーヤの肩をそっと抱く。

「うっ、うっ」

 ペトラが肩を震わし泣き続ける。

「……ペトラ」 

 右手をペトラの肩に回した。

「ペトラの部屋はどこだ? 少し話をしよう」

「お、奥じゃ」

 ペトラの声が涙の中から聞こえてきた。

「……」

 イシュルは微かな笑みを浮かべ彼女たちを誘(いざな)った。

 この子たちも同じなのだ。

 心のうちに流れ込んでくるもの。新たに満ちていくもの。

 俺はもう怒っても、悲しんでもいない。

  ……それだけじゃない。

 イシュルはやさしい気持ちになって二人を抱(いだ)き、宮殿の奥へ歩いていった。

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