北辺を抜く 4
北へ伸びるブレクタスの山腹が朝日を浴び、燃えるように光り輝いている。
紅色に照り返る雲が紺碧の空を静かに渡っていく。
イシュルは視界いっぱいに広がる眩しさに、思わず眸を窄め小さく息を吸い込んだ。
肺腑を刺すような冷気が広がる。
前面に、ドーム状の風の魔力の壁を張って速度を上げていく。
耳許を風を切る音が大きくなっていく。
「シャルカ、つかむぞ」
イシュルは後ろを振り返り、後方を着いてくるシャルカに叫ぶような声で言った。
「……」
「はい! イシュルさま」
シャルカが無言で頷き、彼女の肩に乗るミラも元気に返事をしてきた。
イシュルはシャルカとミラの周りを風の魔力で覆い、さらに速度を上げ、高度を上げて行った。
目標のカルナス城は、北線城塞群の最南端の支城、イラール城のひとつ北側にある。
標高は二千五百長歩(スカル、約1,600m)近く、カルナス以北の稜線上にある諸城を、すべて眼下に見下ろす位置にある。
イシュルは正面、山頂から望楼を一本だけ生やす、黒ずんだ小さな塊を見つめた。
カルナスは「城」と呼ばれてはいるものの、他の高所にある諸城、イラールやセシなどと同様、実際は小さな砦程度の大きさしかない。
石積みの壁と、山肌の岩石を組み合わせた城壁の上に、幾つかの山小屋と望楼が乗っかっている、その程度の代物だ。だが山の西側、連合王国側には、複数の曲輪なども設けられている筈である。
「イシュル」
後ろでリフィアが、肩を握る力を強めてくる。
同時に顔を、イシュルの耳に近づけてきた。
「その、な、なんて言ったらいいのか……。とにかく、あ、ありがとう」
後方へ流れていく風の中、彼女の吐息が耳朶に当たるのが微かに感じられた。
リフィアの息は、彼女の言葉は暖かかった。
「いいんだよ。おまえは気にするな」
「そ、そうはいかない。ハネス殿も死なずにすんだ。本当に良かった……」
……確かに、ベールヴァルド公爵家の嫡男が死ぬどころか、無傷ですんだのは政治的にも大きなものがあったろう。俺自身も公爵家から恨みを買うことなく、むしろ恩を売ることさえできたのかもしれない。
「でも、ベールヴァルドの家宝がひとつ、消えて無くなったがな」
「それこそイシュルが気にすることではない。公爵にとって、息子の命の方が大事なのはわかりきった話だ」
「まぁ、そうだな」
カルナスの山頂は早くも雪で覆われている。
雪の中、真っ黒に浮いて見えた城は赤や明るい茶色、灰色の入り混じった複雑な色彩を呈しはじめた。
イシュルはさらに高度を上げていく。
「それに……わたしは」
リフィアが後ろからイシュルに抱きついてきた。
「イシュルが決闘を受けてくれて、とてもうれしかった」
彼女の囁きが耳許で聞こえる。
「格好良かったぞ、イシュル」
「うっ」
胸を撃ち抜かれるような、衝撃がきた。
イシュルは空中で石のように固まった。
胸に大きな風穴を開けられた気分だ……。
「ちょっとリフィアさん! だめですわ!」
ミラがイシュルたちの斜め後ろから叫んできた。
振り返ると、シャルカがつらそうな顔をして少しずつ近づいてくる。
シャルカの周囲にはイシュルの魔力が働いている。そのため彼女は動きづらくなっている。
「はは」
イシュルはミラの剣幕に引きつった笑みを浮かべた。
「……」
リフィアは明後日の方を向き、ミラの声を無視している。
「もう」
ミラがぷんぷん怒っている。
「き、君たち。これから戰(いくさ)なんだからさ。真剣に行こうよ……」
イシュルの呟きは小さすぎて、誰にも聞こえなかった。
「──ノルテ、シルバ」
そうこうするうちにカルナス城は直線で一里長(スカール、約650m)ほど、眼下に魔法を撃ち合う目前まで迫っていた。
「何か危険な感じはするか? ……魔封陣とか召喚陣とか」
イシュルは自身の精霊を呼びつけ問いかけた。
「ふむ、……あるな」
「感じるぞ、剣殿」
シルバストルとノルテヒルドはそれぞれイシュルの左右に姿を現し、口々に敵城の魔法陣の存在を、罠の存在を知らせてきた。
「……」
イシュルは速度を落とし、空中に静止してカルナス城を見下ろした。
「何だか凄いな」
イシュルはその城を見、溜息を吐くと小さな声で言った。
「うむ……」
後ろでリフィアの小さな声がする。彼女も眼下の光景に、なかば呆然としている風だった。
距離は直線で一里長(スカール、約650m)弱。カルナス城は、黒く焦げて所々崩れ落ちた城塔や城壁に、応急で修理された木造部分、ユーリの金魔法の赤錆びた鉄塊、一部に施された真新しい石積みの壁、白く雪の積もった箇所が入り乱れた、複雑な色彩で覆われていた。
北線の城はみな、敵に山の稜線を突破され包囲されても持久できるよう、東側、王国側にも城壁を備えていたが、連合王国軍はその東側の城壁の修理を急ぐ一方、西側の城壁は修理どころか一部を崩し、複数の石積みの階段をあらたに設けていた。
城内ではすでに多くの兵士が慌てふためき、右往左往しているのが見てとれた。
距離的にはまだ、よほど実力のある魔導師でなければ有効な攻撃はできない。
こちらにはノルテとシルバがおり、敵の精霊の存在を気にする必要はない。
イシュルはちらっと、カルナスの西側、山嶺の向こう側に広がる景色に目をやった。
山脈の西側は東側と同様に広大な山裾が広がり、遠方には森林や大小の河川も見えた。
やや北の方、距離は五里長(スカール、3km以上)ほどだろうか、周囲に夥しい軍用テントが張られた集落らしきものも確認できた。だが、特に目立った敵の動きは見えない。カルナスへ向かう軍勢はもちろん、南側に隣接するイラール城、北側に見張り楼をひとつ挟んで接するセシ城にも変化はない。
……山の西側の詳しい偵察は後だ。イラールもセシも動かないなら、カルナスに集中するだけでいい。まずはノルテとシルバが揃って指摘した、城内に仕掛けられた敵の魔法陣を見つけ出す。
イシュルは城の方に右手を伸ばし、周囲に細分化し威力を弱めた風の魔力を突き刺した。そして魔力の感知を左右、上下、斜めに振り、崩れた城壁の隙間から城の内部へと探索を広げていった。
リフィアとミラが無言で、微動だにしない。イシュルが風の魔力で城内を調べているのがわかるのだろう。
「あった」
城塔下部の屋内……。
「天井だ」
おそらく漆喰の上に刻まれている。
魔法陣は下方、床の方に向かって描かれている。屋外ではなく、室内で発動するようになっている。
確かに天井なら、側面の壁や床に設置するより発見を遅らせることができる。
「見つけたか」
リフィアが聞いてくる。
「ああ。城の中だ。城塔の地階天井に仕掛けられている。凹みでわかったよ。もし天井に絵筆で描かれていたら、凹凸がなかったらわからなかったな」
……魔封か迷いか、召喚陣か、そこまではわからないが。
イシュルはリフィアに説明しながら、その魔法陣の描かれた天井の表面を、風の魔力で鑢(やすり)で削るように抉り取った。
「おっ」
「ふむ」
ふたりの精霊が小さく声を上げる。
城塔の下の方で、灰色の煙が上がるのが微かに見える。
「さて、でははじめるか。魔法陣があったということは間違いなく、魔導師か手強い影働きがいるだろうから、気をつけろよ」
「うむ」
「わかった」
「……」
リフィア、ミラ、シャルカが揃って頷いた。
……北線最高峰のカルナス城の重要性は、敵側も充分承知している。城の規模から兵数は少なくとも、おそらく有力な魔導師が配置されているだろう。魔法陣が仕掛けられていたのも頷ける。
「ではノルテ、シルバ。手筈どおりに。ミラ、そのまま俺の後ろからついてきてくれ」
イシュルは言い終えると即座に、カルナス城に降下していく。
ノルテヒルドには城の直上に占位させ、魔封陣を展開する闇の精霊の警戒など空中からの支援、シルバストルには周囲の諸城からの増援を阻止するよう、あらかじめ指示してある。
ノルテはそのままイシュルの後を追いながら降下、シルバはふっと微かな魔力の煌めきとともに姿を消す。
「来たぞ」
後ろでリフィアの声がすると同時、搭上で四つの光点が現れ、それぞれ小さな火球になった。
「……」
イシュルが反応するより早くノルテだろう、風の魔力が煌めき火球が吹き飛ばされ、城塔から血飛沫が上がった。
……これで塔上にいた火の魔導師が一名、消えた。
かわりにイシュルは、城壁に並び矢をつがえる弓兵の集団を一掃した。
城壁の上にも赤茶の煙が吹き流れる。
「そろそろ降ろしてくれ」
リフィアが落ち着いた声で言ってくる。
「わかった」
イシュルは右肩にかけられたリフィアの手を取ると、彼女のからだを自身の前に回した。
「じゃあ、離すよ」
「ああ」
リフィアが微笑むとイシュルはひとつ頷き、彼女の手を離した。同時に風の魔力も外す。
銀色に輝く髪をはためかせ、リフィアの姿が城塔に吸い込まれていく。
「ではわたくしも参ります。東側の城壁からはじめますわ」
「わかった」
ミラはイシュルに微笑むと城に向かって降下していった。
イシュルはリフィアが搭上の兵を蹴散らし、階段を下りて塔内に消えると、城塔の最上部に掲げられていた連合王国軍の旗と、その脇の青地の旗の竿を切って城の外へ吹き飛ばした。
連合王国の旗はくすんだ黄色の地に杯と羽、上に太陽の古めかしい絵柄で、かつて同地に栄えたアウノーラ帝国の紋章だったとされる。青地の旗は唐草に盾、盾の中に太陽と月と獅子の絵柄、ロブネルで汚い策を弄してきたノイマンス王国とアグニア王国の片方、ノイマンス王国のものだった。
ノイマンスがまさか、この城だけを守っているわけがない。カルナス城の城兵は本隊から分派されたものだろう。
……相手がノイマンスなら、兵士らには可哀相だが徹底的にやらせてもらう。
イシュルはカルナス城の南西に張り出した部分、曲輪の鋸壁(のこかべ)の上に降り立った。
城塔から討ち入ったリフィア、城壁東側から攻めるミラとシャルカ、城兵らはみな彼女らに集中し、遅れて降下したイシュルに気づいていない。
イシュルが城壁に降りると、近くにいた数名の兵士がぎょっとして振り返り、及び腰になって槍を突き立ててきた。
「……」
イシュルは彼らと視線が合った瞬間、風の魔力で木っ端微塵に粉砕した。
赤い血の入り混じった灰色の煙の中から多数の怒声が上がると、続いて無数の槍が突き出された。後方にいた城兵がイシュルに気づき、殺到してきた。
イシュルは眉ひとつ動かさず一歩踏み出すと、槍ごと城兵の集団を一気に消し去った。
周りを覆う灰色の煙を吹き飛ばすと、そこには何も、血の一滴さえも残っていなかった。
隅の方に残る赤錆の浮いた鉄の固まり。踏みしめられ汚れた雪。張り出しの奥、城塔下の石積みの建物の前に、銀色に輝く鎧に固めた数名の騎士が、呆然とイシュルを見ていた。
所々崩れ、木板やキャンバスで補修された無骨な石積みの城館。その前に佇む彼らは、おそらくこの城の城将とその側近だろう。
建物の向こう側から、ミラに討たれていく城兵らの悲鳴と固い金属音が、無気味に鳴り響いてくる。
「やあ」
イシュルは彼らに笑みを向けると、今度は金の魔力を降ろした。
無数の鉄の細片が騎士らの頭上に、周りに霧のように現れ、異様な早さで渦を巻いた。きらきらと眩い光の瞬きが周囲に閃光となって走り、全身鎧の騎士たちがまたも塵となって消え去った。
「ふむ。やはりそこそこ防御力のある相手には、風の魔法より有効か」
……風の魔力で同じことをするより、金の魔法の方が幾分、魔力の消費が少ない気がする。
と、騎士らの立っていた、その奥の建物の出入り口から城兵がひとり、中から吹き飛ばされてきた。兵士はからだを丸め、くるくると回転しながらイシュルの前を横切り、西側の鋸壁に激突して止まった。
「あれ? イシュル?」
その出入り口からリフィアが顔を出した。
「終わったみたいだな」
リフィアは城の建物の内部を掃討してまわっていた。
「わたくしの方も終わりましてよ」
ミラがシャルカの肩に乗ったまま、リフィアが出てきた無骨な居館の上を飛び越え、イシュルの前に降り立った。
「お疲れさま、ミラ。それにシャルカも」
イシュルがふたりに声をかけると、ミラが笑顔で、シャルカがいつもの無表情で頷いた。
「あっという間の落城だな」
イシュルは破壊の激しい城壁の西側、そこから下へかけられた梯子や階段を破壊しながら、その先に広がる山裾を見やった。
カルナスの城兵だろう、数十名の兵士が急な斜面を息急き切って、転がるようにして駆け下りている。
イシュルは彼らに追い討ちはかけず、そのまま見逃した。
「……あの、イシュル」
リフィアがイシュルに近寄って声をかけてきた。
「何かあったか」
彼女は微妙な顔をしている。新たな罠、魔法陣か何かを見つけたのだろうか。
火の魔法を使う魔導師を斃した後は、他に城内に強力な魔法を使う敵はいなかった。
ノルテとシルバも静かで、隣接する敵の城に目立った動きはない。
「それが、地下室に戦(いくさ)奴隷がいた」
「……」
イシュルはわずかに表情を曇らし、眸を細めてリフィアを見た。
「あんたらがそうか」
目の前には八名の、少年から壮年の男たちが横に並んでいる。皆ボロをまとい、汚れた顔と手足、中には杖をついている者もいる。
戦闘がはじまり一旦、城内の倉庫に隠れていた彼らは、味方が攻めてきたと知ると、上の階に上がってきて、屋内の敵と戦っていたリフィアと鉢合わせした。
イシュルは彼らを城の居館の前に集め、検分することにした。
戦(いくさ)奴隷とは要は捕虜となった下層の兵士、あるいは戦場で捕らえられた一般の領民らのことを指す。つまりイシュルの前に並ぶ奴隷たちは、ラディス王国の兵士や騎士の従者だった、身分は低いが味方の者たちだった。
「へえ、わしらは運悪く、連合王国のやつらが攻めてきた時にとっ捕まっちまって……」
「おかげで助かりました。ありがとうございます」
男たちは口々にイシュルに礼を言った。みな汚れた粗末な服装をしているだけでなく、痩せ細って目をぎょろつかせ、かなり疲弊しているように見えた。敵の占領中はろくな食事も与えられず、下働きなど雑用に酷使されてきたのは明らかだった。
「みな、城に残っている衣服や食物を自由に使ってもらってかまわない。もう大丈夫だ。中に入ってゆっくり休みなさい」
イシュルの横から、リフィアが暖かい声音で言った。
「……」
イシュルは無言、無表情で彼の前に並ぶ八名の男たちの顔を、じっと見つめた。
「悪いが、飯を食って適当に着替えたら早々に山を降りてくれないか。俺の方で軍監宛に手紙を一筆書いて渡そう」
「おい、イシュル」
「まぁ……、それは可哀相ですわ」
リフィアとミラが横から揃って不満を口にしたが、イシュルは無視して続けた。
「書状だけではない、俺の方から金も出そう」
今日の夕方には、ベンデーク砦の大公騎士団から分派された数十名ほどの小部隊に、ロミールやリフィアたちにつけられたメイド、それからニナも登ってくることになっている。下働きをする者を無理に留めおく必要はない。
「へ、へえ……」
奴隷の男たちは不満はなくとも、要領をえない顔で小さく頷いたり、隣の者と顔を見合わせたりしている。
「この者たちはだいぶ弱っている。この城はわたしたちがいれば安全だ。しばらく休んでもらった方がいいんじゃないか」
リフィアがイシュルに食い下がってくる。
「まぁ、とにかく今は飯でも食って休んでくれ」
イシュルはリフィアを無視して男たちに言った。
「あんたらの中に、敵の影働きが紛れこんでいる可能性を捨てきれない。そういうのは面倒なんでな」
イシュルはむしろ攻撃的な笑みを浮かべて男たちを睨めまわした。味方の虜囚に対する同情も憐れみもまったく感じられない、相手を威嚇するような目つきだった。
……こいつらは怪しすぎる。この城は謀略を好むノイマンスが守っていた。あの天井に刻まれた魔法陣の他にも、罠が仕掛けてあるんじゃないか。小城とは言え重要な城なのに、案外楽に落とせたのも気になる……。
それにこの男たちの外見だ。敵が紛れこんでいるか、いないのか。紛れこんでいるならそれは誰か、とてもじゃないが判断がつかない。得物にしても魔法具にしても、今は城のどこかに隠しているかもしれないし、身を検めてもしょうがない。だったら皆、城の外に出してしまった方がいい。
「イシュル……」
「……」
リフィアが小声で呻き、ミラは難しい顔になって無言でいる。
男たちが居館の建物の中に消えると、リフィアがいの一番にイシュルに言ってきた。
「あの者たちに敵が紛れこんでいるのは確かなのか? それにまさか、皆すべてが敵というわけではないだろう」
「ああ。その通りだ」
「中には足の悪い者もいる。確たる証拠もないのに、その日のうちに城から出て行け、というのはあまりに可哀相だ」
「まぁ、そうだがな」
「リフィアさん。でもイシュルさまは……わたしたちも敵方の計略や影働きの者には、手酷い目に会ってきたのですわ」
「それは、……聞いているが」
以前、ミラはリフィアに正義派と国王派の暗闘を話している。
聖石鉱山ではエミリア姉妹とミラの親友、セルダ・バルディの命が失われている。
「まぁいい。どうせ城の外に出しても、根本的な解決にはならないからな。こちらに損害が出るかもしれないが、敵から仕掛けさせよう。数日は様子を見てみよう」
「わかりましたわ」
「すまん、イシュル。でもわたしは……」
「いや、いいんだ。彼らの中に敵が潜んでいないのなら、確かにすぐ城から追い出すのは可哀相だ。ただし、気をつけろよ。特に夜は」
「わかった。用心するとしよう」
リフィアは気合を込めて頷いた。
「ああ」
イシュルはふたりに笑みを見せたが、内心は複雑な思いだった。
……俺が甘かった。やはり戦(いくさ)の経験の乏しいところが出た、という感じか。こんな小城にまで奴隷がいるとは思わなかった。リフィアではなく、俺が城内を掃討すべきだったのだ。
「俺だったら……」
だが、果たして彼らを問答無用で、その場で殺せたろうか。
危険な芽は最初から根こそぎ摘んでおく。当たり前の、あらゆる争闘の基本だ。
俺にそれができたのか?
イシュルは奴隷の男たちが入って行った居館の出入り口を、その開いた扉の奥の暗闇を、じっと見つめた。
イシュルたちはその後すぐ、戦(いくさ)奴隷たちの後を追ってまず城内の食物庫を、次に井戸に毒が使われていないか一応検分し、敵兵の遺体を城の南西の張り出しに集めた。
ほとんどすべての遺体は、イシュルが風の魔力で持ち上げ移動した。一部屋内の遺体の移動は、シャルカやリフィアら女たちが行った。損傷の酷いものはイシュルの風魔法でその場で粉砕し、風を吹かして空に流した。曲輪に集められた敵兵の遺体もイシュルが風の魔力で粉砕し、北の空に葬った。その時はミラが神官の代役を引き受け、聖堂教の聖典から死者を弔う時に引用される聖句を唱え、祈りを捧げた。
それから一同は居館の晩餐室のような広間で暖炉に火をくべ、しばし休憩した。城内は連合王国の占領から二ヶ月近く、居住区画も所どころ、かなり修理が進んでいた。
休憩が終わると、イシュルはミラとリフィアに城内外の警戒をまかせ、自らは城塔に登って山の西側を仔細に観察した。
北ブテクタス山脈の西側はラディス王国の者にとって縁の薄い、連合王国諸国の地だが、見た目は山の東側、王国側と何ら変わることはない。
ただ一点違うのは、良好な視界を確保するため木々を意図的に伐採し、草原地帯としている王国側と違い、連合王国側は所どころ大小の森が存在していることである。
その森の間に幾筋かの街道が走り、草原には幾つかの集落も視認できた。耕地はそれほど目立たず、その集落も見張りを兼ねた、小規模の軍勢が駐留する砦である可能性が高かった。
近隣の山裾には、大きな城はひとつも見えなかった。
「……」
イシュルは攻撃時に確認したやや北側にある多くのテントと、木造の小屋らしきものの蝟集する集落を見つめた。
……あれは敵の物資の集積拠点のひとつだろう。
兵糧などをあの場所に蓄積し、山上の諸城に運び上げているわけだ。
「すべてを消し去ることはしない。だが打撃は与える」
兵站の崩壊はそれが部分的なものであっても、敵軍に多大な影響を与える。
直線距離は五里長(スカール、3km以上)ほどか。イシュルは右手を伸ばし、対象を拳の中に握りしめるようにした。
その瞬間、集落の周囲に張られた無数の軍用テントや小屋のちょうど半分ほどが、灰色の爆煙に覆われた。
北ブレクタスの山野に濃密な煙が盛り上がっていく。
少し遅れて、イシュルの耳に腹をえぐるような爆音が轟いてきた。
「さあ、どうする? 俺はあんたらの後背を取ったぞ」
イシュルは山脈の西の空に立ちのぼる爆煙を見つめ、口角をわずかに上げてほくそ笑んだ。
赤帝龍との一戦で風の精霊界、異界から直接力を得ることができるようになって以降、有視界下であれば、厳密に言えば五感で知覚できる範囲であれば、遠距離でも魔法を振るうことができるようになった。金魔法においても、赤帝龍との死線を超えた戦いで得た経験生かし、即座に異界の力を手にすることができた。
……遮るものがない高所を獲得し、北線の西側一帯も眼下におさめた。それはつまり……。
「敵の補給線を、生命線を掌握したということだ」
声音が白い息となって、凍てつく空に消えていく。
「そろそろか」
イシュルは今度は後ろへ振り返った。
山の東側で遠く、微かな動くものの気配を感じた。
視界の右、南東のベンデーク砦で薄く土煙が上がり、騎馬隊らしき軍勢が軍都街道を北上するのが見えた。騎馬隊は無数の旗を掲げ、城塞都市アンティラに向かっていた。同時にベンデーク砦やアンティラから出陣した複数の小部隊が、山腹を城塞線に向かって進軍している。
アンティラに向かう一隊はペトラを主将とする大公軍派遣支隊と、昨日彼女を迎えに訪れた諸侯らの軍勢である。
ペトラはアンティラに入城後諸侯を集め、ヘンリク・ラディスの名代として、全軍の指揮を執る旨布告を行うことになっている。
一方、山裾を進軍する諸隊は、アンティラから進発したのが城塞線手前の中継地を確保する部隊、ベンデーク砦から向かっているのが、カルナス城への増援となる部隊である。
カルナスへの増援部隊にはニナやロミール、ミラやリフィアお付きのメイドたちも含まれ、今日の夕刻には到着する予定になっていた。
「ノルテ」
イシュルは自身の、風の精霊を呼んだ。
「御前に」
イシュルの前に風が巻くと瞬時にノルテヒルドが現れる。
「ノルテは、山の東側を進軍する味方の軍勢の護衛に回ってくれ。見てのとおり小勢だが複数の部隊が存在する」
イシュルは東側の山裾の方を指差しながら言った。
「承知」
ノルテヒルドの姿が消えると、今度はシルバを呼ぶ。
「シルバ」
「お呼びかな」
シルバもノルテヒルドと同様にイシュルの前に姿を現す。
「シルバはこの城の周り、全周の警戒に当たってくれ」
「承知した」
シルバはひとつ頷くとこれも姿を消す。
城塞線の敵には相変わらず、目立った動きが見られない。
「イシュルさま」
振り返るとミラが塔上の階段室の前に立っていた。
「寒いですわ……」
ミラはそう呟くと、イシュルの横に並び身を寄せてきた。
「静かですわね。敵方にまったく動きがありません」
「ああ」
イシュルはミラの白い顔を見つめた。金色の巻き毛が風に揺れている。
「辛いことにつき合わせちゃったかな……。ごめん」
……ミラの横顔の白さが、美しさが辛い。
俺についていくと言ったのはミラだ。だが、彼女をこんな場所に連れてきたのは俺だ。
イシュルは独り言を呟くように、小声で言った。
「何をおっしゃるのです、イシュルさま。わたくしは何も、少しも辛いことなんてありませんわ」
ミラは笑みを浮かべてイシュルを見上げてくる。
「わたくしだって今まで多くの者を殺してきましたわ。これくらい、どうということはありません」
そして彼女は宮廷魔導師見習いとして、聖王国南部の大小の河川の集中する湿地帯へ、魔獣退治に派遣された時のことを話した。
ある日、ミラとシャルカの所属する一隊は駐留する小城から魔獣退治を兼ね、周辺の警戒任務に出た。その時、雨季前に北上する蜥蜴人(リザードマン)の群れと遭遇し、激しい戦いになったという。
「……ですから多くの者を殺した、と言っても相手は蜥蜴人なのですが、味方にも死傷者が出て、それは大変な目にあいましたわ」
蜥蜴人の群れは数群、およそ千匹はいるかという大規模なもので、ミラのいた部隊は壊滅寸前の大きな損害を受けた。蜥蜴人の群れを撃退した時には、部隊の魔導師見習い数名に護衛の騎士、その従者ら二十名ほどのうち半数近くが命を落とし、無傷で済んだのは彼女とシャルカだけだった。
「わたくしも戦(いくさ)の経験がまったくない、ということはないのですから、心配は要りませんわ」
そこで突然、ミラの眸にあの甘い、蠱惑的な光が浮かんだ。
「……それよりもわたくし、リフィアさんが羨ましいですわ」
「へっ?」
イシュルはぎょっとなって身を反らそうとした。だがミラが袖をきつく握り、イシュルを離さない。
「わたくしもどなたか、殿方と婚約しておけばよかったですわ」
ミラは悪戯っぽい顔になってイシュルを見つめてくる。
「イシュルさま……」
ミラはそこで今度は急に顔色を曇らし、いや儚げな顔になった。
「わたしにもあのような婚約者がいたら、イシュルさまは決闘を受けてくださいましたか?」
ミラの長い睫毛が震えている。眸の蠱惑の輝きが、いつの間にか切ない色に変わっている……。
「あ、ああ。もちろん」
イシュルは喉を鳴らして言った。こくこくと何度も頷いてみせた。
「……」
ミラはまたふっと蠱惑の色を浮かべると、微かに笑みを浮かべた。
「とてもうれしいですわ、イシュルさま」
ミラは目まぐるしく表情を変えた。蠱惑の微笑が喜びの笑みに変わった。
「イシュルさーん」
ニナが隊列から抜け出てイシュルに向かって走ってくる。
夕刻、カルナス城にベンデーク砦を進発した増援部隊が到着した。部隊は大公軍派遣騎士団の騎士が二十名ほど、魔導師はニナのみ、他はロミールら従者たちの小部隊である。
イシュルはリフィアやミラたちと東側の城門から一行を出迎えた。
「ニナ!」
「イシュルさ〜ん」
イシュルがニナに向かって一歩踏み出すと、彼女の背後からいきなり人影が現れ、追い越してイシュルの足に飛びついてきた。
「……」
ニナが呆然として途中で足を止めてしまう。
「ロミール……」
「ご無事でしたか! イシュルさん」
「ああ」
イシュルはため息をついて、破顔するロミールを見下ろした。そしてニナに顔を向け苦笑を浮かべた。
……またか、ロミール。またおまえか。
こいつはユーリ・オルーラを斃し、リフィアたちと合流した時も同じように邪魔してきたのだ。
「ふふ」
ニナが口許に手を当て、控えめな笑い声をあげた。
「ニナ、山登りは大変だった?」
自身の足に取りついているロミールはそのまま、ニナが近づいてくるとイシュルは笑顔で彼女に声をかけた。
「はい。それよりイシュルさんもみなさんも、お怪我は?」
「大丈夫だ。それより荷物を持つよ」
「あっ、大丈夫です」
ニナに向かって手を差し伸べるイシュル。そこへロミールが割り込んできた。
「イシュルさんの着替え、ぼくが持ってきましたから」
ニナだけではない、ロミールも、リフィアとミラにつけられた従者のメイドたちも、徒歩の騎士たちもみな、布製の単純なつくりの背嚢を背負っていた。
メイドたちも、ミラやリフィアに「お着替えをお持ちしましたわ」などと声をかけている。
「イシュル殿、お疲れさまです。この度、カルナスの城主代理を命じられたサベル・マハーレです」
先頭の騎士らの中から、三十くらいの長身の男がイシュルの前に出てきた。
「よろしく、サベル殿」
サベル・マハーレは、大公家派遣騎士団に数名いる百人隊長のひとりで、副団長格だった男だ。イシュルはほとんど喋ったことはないが、当然、顔と名前は知っていた。
「やぁ、しかしカルナスをあっという間に落城させるとは、さすがですな」
サベルは目の前の城壁を見上げ、視線を味方の掲げるラディス王国旗にまわして言った。
「これでバルスタールに再び王国の旗を揚げられる……感無量です」
「えっ、ええ。そうですね」
イシュルやや引きった笑みを浮かべて頷いた。
……個人的にはそういうの、あまり感じないんだが。
ただ確かに、北線最高峰に王国の旗が翻る意義はある。間違いなく今後の戦勢に、ルースラの調略に、大きな影響を与えることになるだろう。
イシュルもサベルの視線を追って王家の旗を見上げた。
「……」
その顔に浮かぶ笑みが冷たく歪んでいく。
だがこれで終わらせはしない。まだやつらに恐怖を叩きこんでいない。
まだこれで、終わりじゃない……。
遠く、……ではない。
すぐ近くで聞こえてくる、高く柔らかい、小鳥のさえずりのような音の旋律……。
誰かが誰かと、小声で話しているようだ。
網膜を透ける微かな明かり。
「……!」
イシュルは目を覚ました。
むくりとからだを起こす。毛布の敷かれた寝台で寝ていた。
「イシュルさん。……どうですか?」
すぐそばにいたニナが声をかけてくる。
「ああ、……うん。大丈夫」
ニナの治療を受けている途中で、寝てしまったのだった。
「傷は完全に塞がっている。ニナ殿の治療も、もう終えていいだろう」
「傷跡もほとんど残っていないようで、よかったですわ」
ニナの後ろからリフィアとミラが言ってくる。
……なんだおまえら。俺の寝ている間に直に見たのか、俺の腹を。
「じゃなくて」
イシュルはにこにこ笑顔を向けてくる三人の少女の顔を見渡した。
彼女たちの奥にはシャルカが黙然と立っている。
「ロミールはどこに行った? ニナはともかく、ミラ、リフィア。シャルカもなぜここにいる?」
イシュルの寝ていた部屋は、サベルに譲った城主の部屋の隣、騎士らの使う一室で、ロミールと二人で使うことになっていた。
それが寝ている間にロミールの姿が消え、治療に来ていたニナに加えリフィア、ミラとシャルカがいた。そして新たに寝台が三つ、運び込まれていた。
室内は二つのカンテラが壁に掛けられ、かなり明るく感じられる。この部屋に暖炉はないが、隣室にある暖炉の壁がこちら側に張り出していて、熱が伝わってくるのかそれほど寒くない。
「本人も気にしていたし、イシュルの従者殿には他の部屋に移ってもらったのだ。この部屋は二人で使うには広すぎる」
「この城は山城。狭いですから」
「わ、わ、わ、わたしは、い、い、いいと思います」
ニナ、吃りすぎだろう。それ……。
しかも俺のベッド、扉から離れた一番奥じゃないか。
これじゃ万が一? の場合、逃げ出せない。
「リフィア、ロミールに何をした? まさか脅迫まがいの強弁で、無理矢理移らせたんじゃないだろうな」
「何を人聞きの悪い。わたしはそんなことしないぞ。それはむしろ……」
リフィアは横目でミラを見た。
「ミラなのか」
「な、何を! わたくしもそんなことはいたしませんわ。ロミールさんにはただ誠意を込めて、必死でお願いしただけです」
……必死、って、それは何なんだ……。
「イシュルさん、だ、大丈夫です。し、心配ないです。エルリーナに見張らせますから」
と、ニナが吃りまくりで言ってくる。
だからニナ。動揺しまくりじゃないか。
エルリーナはいい。いいんだけど、……それ、意味ないよな?
そういえばどこかで誰かが、似たようなことを言っていた。
「あ、ああ。まぁ、それはいいとして──」
「いや、ニナ殿。精霊に見張らせる、というのはどういうことかな」
「ニナさん、それはおかしいですわ」
ミラ、おまえ……。おまえがそれを言うのか?
「あ、あ、それは、その」
はぁ。これはいつぞやの繰り返しだな……。
ペトラとマーヤがいなくてもこれか。いや、いなからこそやってきたんだな。俺が寝ている間に。
「……」
イシュルは肩を落とすと俯き、ひそかに嘆息した。
「何だイシュル。お、おまえこそ変な気を起こすなよ!」
リフィアが唇を尖らして頬を赤らめ、「ふん」とやった。
……なんてベタな。
「わ、わかったから。──それより夜の見張り、俺たちも交代でやりたいんだが」
イシュルは幾分、脱力した笑みを浮かべて言った。
……夜間の警戒はノルテにシルバ、当然味方の騎士団の方でも行うが、こちらでも一人ずつ、魔法の使える者を出しておいたほうがいい。
城外はもちろんだが、城内に留まることになった、戦(いくさ)奴隷だった者たちも気になる。
まだ夕食前だが皆疲れている。今のうちに、交代の順番を決めておいた方がいいだろう。
「うむ」
「わかりましたわ」
リフィアとミラはにっこり笑顔になって頷いた。
「わたしもがんばります!」
ニナも元気よく返事をした。彼女の顔にも笑顔が浮かんでいる。
……彼女もエルリーナといっしょなら大丈夫だろう。それにニナにはあの必殺技がある。
今の彼女の技術なら何の外傷もなく、異常も悟らせずに敵を葬れる筈だ。
「じゃあ、一番手は誰からにする?」
イシュルもニナに、笑顔の少女たちに引きずられるようにして笑みを浮かべた。
その時、ふと気づいた。
……戦争は生き残った者にも耐え難い苦痛を、疲労をもたらす。
彼女たちは俺のために、お互いのために、明るく振舞っているのだと。
……イシュルさん、イシュルさん。
誰かが肩に手をかけ、揺すってくる。
「!……」
目を醒ますと、イシュルの前に人が立っている。
背景の小窓から差す月明かり。そこに浮かぶ人影はニナだ。
「交代の時間か」
「はい。……今のところ異常なし、です」
ニナの柔らかな囁き。彼女の下に流れ落ちた髪が、鎖骨のあたりをくすぐる。
彼女の顔がそれほどに近いのだ。
イシュルは己の心のさざめきに、意識の隅々まで覚醒していくのを感じた。
室内は灯りが消され、青く染まった暗闇に覆われている。
……静かだ。
ミラもリフィアも今は寝息ひとつ立てず、静かに眠っている。シャルカも部屋の端で椅子に座り、見た目は眠っているように見える。
イシュルはベッドからからだを起こし、ニナに小声で言った。
「お疲れさま、ニナ」
イシュルはベッドから降りるとニナに「お休み」と声をかけ、コートを羽織りマントを被ると、室内を静かに歩き扉を開け、部屋の外に出た。
「……」
扉を閉めて左右に目をやると、廊下の突き当たりにある城塔の階段に向う。
石造りの居館は北側で城塔と接続している。壁面が所どころ焼け焦げ、崩れ、一部が真新しい石で補修された廊下は、中ほどにカンテラがひとつだけ壁に掛けられ、辺りをぼんやり照らしている。
ニナの言ったとおり異常はない。怪しい気配は感じない。シルバも何も言ってこない。
ノルテヒルドは城から離し、主に山の東側を広範囲に警戒させている。
イシュルは塔上に出るため、突き当たりを城塔内に入り階段を上っていった。
異変はその途中、階段を上っている時に起こった。
「んっ?」
……来るぞ!
魔法の発動する気配と同時、シルバの緊張した声が心の中をこだました。
どん、と突き上げるような衝撃がきて、城全体が揺れる。
「!!」
イシュルは階段を駆け上がった。
「くそっ」
やはりあいつらの中に……。
城を落としたときに保護した、元は王国の兵士だった戦(いくさ)奴隷たち。一瞬、ボロを纏った彼らの姿が脳裡を掠める。
周囲の石壁が後方に流れていく。外からシルバらしき魔法の煌きが、リフィアの魔法の閃光が走り、固い音と振動が響いてくる。
おそらく敵の攻撃を初動で、うまく止めることができたのだろう。
風の魔力を使って感知する時間が惜しい。
塔の上へ、外に出て直接目にした方が早い。
やつらはこちらの交代する合間をねらって仕掛けてきた。もしかすると、俺がこの壁で囲まれた狭い空間、城塔の階段室に入ったところで……。
イシュルの視線の先に出口が見えた。塔屋の扉が開け放たれているのか、階段の消えた先に星々の輝く夜空が見えた。
そこに黒い人影が立った。
「……」
瞬間、イシュルは見張りをしている味方の兵かと思った。
人影からは魔法の気配が感じられなかった。
その影は一瞬躊躇したイシュルの隙に、すっと流れるように入り込んできた。
人影がイシュルに向かって飛んでくる。
すぐそこから吹きつけてくる、有無を言わさぬ暴力の風。黒く重い死の影が眼前を覆う。
敵は右腕を前へ、イシュルへ突き出すと同時に、加速の魔法を発動してきた。
……うまい。
肌を粟立たせる、久しぶりのこの圧力。
プロの殺し屋だ。
目前に迫る、影の突き立ててくる鈍い輝き。ただ一本の小さなナイフが目前に迫ってくる。
だが敵の魔法の発動と同時にネリーの腕輪の、加速の魔法も立ち上がった。イシュルは首を僅かに右に傾けナイフの刃先をぎりぎりでかわすと、右手を相手の顔面に突き出した。
黒い影が手首を返しナイフを横に払おうとする寸前、イシュルの右手から風の魔力が放たれた。
敵の首が吹っ飛び、瞬時に消えてなくなる。
イシュルは、自身に向かって倒れこんでくる首なしの胴体を右足で蹴り上げた。
すでにイシュルの全身は風の魔力で覆われている。敵の胴体はそのまま、塔の上まで飛ばされた。
その影が音もなく爆発し、細かな塵となって瞬く間もなく夜空に消えた。
イシュルは搭上に飛び出ると左を、城の西側を見下ろした。
城壁の一部を崩し、巨大な石の塊が地上から突き出ていた。人型の、ゴーレムの上半身のみが土中から姿を現し、そこで止まっていた。石の塊の首筋から肩にかけて数箇所、夜目にも鋭い光を放つ鉄片が突き刺さり、石の精霊(ゴーレム)の息の根を止めていた。
ゴーレムは全身を現す前に、シルバによって葬られたのだ。
「イシュル!」
そのゴーレムだった、できそこないの石像の右肩にリフィアが立ち、敵の魔道師らしき者の首筋を持って、いつぞやのように高く掲げていた。
敵の魔道師はボロを纏い、城を落とした時に保護した戦(いくさ)奴隷の一人だった。
城内は騎士らの、「怪我した者はいるか」「サベルさま!」などと叫ぶ声が、散発的に上がっている。平騎士や見習い、従者たち兵士らの慌ただしく動きはじめる気配も伝わってくる。城内の各所で松明が灯され、篝火が灯されていく。
……土の精霊は召喚途中で斃したぞ。今はただの石の塊だ。
イシュルの心のうちにシルバが語りかけてきた。
「よくやった、シルバ。……他に異常は感じるか?」
……大丈夫だ。異常はない。
シルバは姿を現さず、カルナス城周囲の警戒を油断なく続けているようだ。
……こちらも異常はない……。
遠方、山の東側を警戒させているノルテからも声が届いた。
「……」
イシュルはノルテに返事をすると、後ろを振り返った。
数歩先に、見張りをしていた兵士が倒れていた。倒れた男の周りには、夜闇に黒く染まった血溜まりができていた。
城塔の東側、やや下方をシャルカの肩に乗ったミラが空中に浮かんでいた。周囲の警戒に当たっているようだ。
「……」
イシュルは塔上から空中をそのまま、下に降りた。
「すまん、イシュル」
イシュルが着地すると、リフィアも敵の魔導師を捧げ持ったままゴーレムだった石の塊から降りてきた。
「わたしの判断が間違っていた……。イシュルの言う通り、彼らをすぐ城の外に出して、山を下りてもらえば良かった」
ミラもすぐイシュルの許に下りてきて言った。
「わたくしもですわ、イシュルさま。申しわけありません」
「いや……」
イシュルは戦(いくさ)奴隷を休めていた、城館一階の隅の方に視線をやりながら小さくかぶり振った。
彼らにあてがわれた居室は元は物置として使われていた部屋で、その外壁には人ひとり通れるほどの穴が開いていた。紛れこんでいた土の魔導師が開けたものだろう。
「仕方ないさ。どうやっても、どのみち死人は出ていたろうからな」
彼ら全員を城外に出しても、敵は山を下る途中でカルナスへ戻って来たろう。その時には、他の奴隷を口封じに殺しまったに違いない。ただ敵が城に接近した段階で、あるいは工作を開始したところでシルバに見つかっていただろうから、カルナス城自体に被害は出なかった筈だ。
「……ニナ」
イシュルの視線の先、戦(いくさ)奴隷のいた部屋の崩れた外壁からニナが顔を出し、外に出てきた。続いて城主代理のサベル・マハーレが出てきた。
「他の方々はみな殺されています。息のある方は一人もいませんでした」
「なにっ」
「まぁ」
リフィアが前のめりに気色ばんで悔しそうな顔をし、ミラが顔を青ざめた。
「いやぁ、やられましたな。味方にも数名、死傷者が出ました。城壁も西側が一部崩れてしまいましたし」
ニナの後ろからサベルが頭に手をやり言ってきた。
イシュルはサベルに、城塔で見張りに立っていた者も殺されていたことを告げると言った。
「城壁の修復は急がなくてもいいですよ。それにこのゴーレムを崩せばそのまま石材になる。あとで俺の方で適当な大きさに砕いておきましょう」
「それはありがとうございます。……しかし城塔の見張りもやられましたか」
サベルは顔を歪め力なく言った。破壊工作を仕掛けてきた敵方は土の魔導師ひとりではなかった。城塔の見張りを殺し、イシュルを襲ってきた敵は格闘、暗殺に慣れた影働きの者だった。
イシュルたちは夕方、城主代理のサベル・マハーレに敵軍の戦(いくさ)奴隷となっていた者らの処遇を相談した。
戦(いくさ)奴隷は騎士の従者や徴集された農民兵らで、身分は低いが自国の領民であることに変わりはない。
サベルもリフィアとミラと同じ意見で、彼らにはとりあえず充分な食事と休息を与え、後日ベンデークかアンティラの方に還送することになった。
ただイシュルの意見も汲んで、彼らを一室に集め、扉の前には夜間、監視の衛兵を立たせることにした。
奴隷たちは北線の主城のひとつ、ムルド城から無作為に引き抜かれ、互いに顔も名前も知らなかった。それでは敵が紛れこんでいるかわからない。衣服や持ち物を改めてもあまり意味がない。小型の武器や魔法具なら城内のどこにでも容易に隠せるからだ。
サベルは彼らを厚遇しながらも、一方で監視し、行動を起こしにくいよう一応の処置をした。
「彼らの部屋の前に立たせていた衛兵も、殺されていましたな」
サベルがそう言うと、イシュルは城塔の階段で腕の立つ影働きに襲われ、返り討ちにしたことを話した。
「塔の見張りも、戦(いくさ)奴隷や衛兵も、俺を襲ってきた影働きがやったんでしょう」
「奴隷に紛れていた敵は影働きが一名、土の魔導師が一名、計二名ですか」
「この城はノイマンス王国が守っていた。……許せんな」
サベルに続きリフィアが固い声で言った。
「確かに許せませんわね……」
ミラが眸を細め冷たい声で言った。彼女の形の眉がくいっと上がっている。機嫌が悪い時の表情だ。
「この城の重要性は敵方も承知している。これくらいのことはやってくるさ」
イシュルは薄く笑みを浮かべると、北の夜空を見上げた。北線の諸城が並ぶ、山の稜線の方を見た。
イシュルがルースラに提案したバルスタール奪還の初動戦は、カルナス奪還だけではなかった。
イシュルはおそらく数日中にもたらされるだろう敵の布陣、ルースラからの書簡を待っていた。
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