北辺を抜く 3
月明かりに微かに浮かぶ山裾を風が渡っていく。
イシュルはその風を追いかけ、静かに寄り添う。
漆黒にそびえるブレクタスの山嶺には、ほのかに光る明かりが点々と並んで見える。
今は敵の手に渡っている、北線の城塞群の灯だ。
「……」
ベンデーク砦の北側一帯、広域の警戒に配置しているノルテヒルドの、心の声がさざ波のようにイシュル伝わってくる。
山裾を追いかけるイシュルの感覚。ノルテはその気配にイシュルの存在を感じ取っているのかもしれない。
イシュルはブレクタスの山嶺から広がる山裾を、ついで城塞都市アンティラの方へと視線を巡らした。
「寒くなったな」
イシュルは独り呟き、俯いた。
俯いた視線の先に、足元から下に伸びる城壁の暗い影が広がっている。
今、イシュルは砦の崩れかけた城壁の上にあぐらをかいて、黙然と座っている。
夜も更け、砦に残った諸侯や騎士ら、城兵も多くは寝静まり、辺りを静寂が覆っている。
あの後、ハネスとの決闘は結局、明日早朝に延期されることになった。
イシュルはハネスとの決闘をその場ですぐにでも行おうと考え、本人にもそう伝えていたが、ルースラが後になって割り込んできて、せめて一晩は延ばしてくれと強硬に主張しだしたのである。
決闘騒ぎの前にイシュルの北線攻城策を聞いていたルースラは、マーヤや支隊騎士団長のラナル、パオラ・ピエルカやリフィア、そして献策した当人であるイシュルも交え、いち早くペトラに説明し、彼女の裁可を得なければならなかった。それから同じ面子で、イシュルの作戦の詳細を詰め、周知しておきたかった。
さらに、ペトラを迎えにアンティラからベンデーク砦に馳せ参じた諸侯らのうち、マーヤの父親のエーレン伯爵ら大公の派閥に属する者や、元国王派で大公に近く、アンティラ守備の指揮を執っていたベールヴァルド公爵に内々にイシュルの作戦を伝え、アンティラに残る大公派のオルグレン伯爵らもにも同じく“髭”の伝令を出し、秘密裏に知らせておきたかった。
ルースラには、いやイシュルたちも、これからやらなければならないことがたくさんあった。
決闘を明朝に伸ばすべきとするルースラの主張に、真っ先にベールヴァルド公爵が賛意を示した。公爵は公爵で、ハネスに一晩かけて説得し、イシュルとの決闘を翻意させたい思惑があった。
ペトラはルースラとベールヴァルド公爵の言を受け入れ、「妾自ら決闘の立会人になる」と宣言し、イシュルをルースラらとともに説得し、ハネスとの決闘を翌早朝に延期した。
ペトラが決闘の立会人となったことで、当日のアンティラ入りも翌日に持ち越され、諸侯の多くもベンデーク砦に残ることとなった。
エーレン伯爵とベールヴァルド公爵も砦に一泊することになり、ルースラはペトラやイシュルたちと明日以降の作戦、各員の行動を詰め、自派の領主達とも打ち合わせを行うことができた。
イシュルはその後、心配するニナをなだめながら彼女の治療を受け、いきり立つミラをなだめ、戦(いくさ)の最中に、しかも女をめぐっての決闘とは何事かと怒るパオラをなだめ、いささか損な役回りをすることになった。
ベンデーク砦は多くの将兵でいっぱいになり、諸侯が連れてきた騎士らの多くが一旦アンティラに戻されたが、それでも派遣支隊の一部の騎士らは砦の外にテントを張って野営することになった。
イシュルやリフィア、ミラたち、パオラやニナたち有力な魔導師らは特別に、砦にある兵舎の一つを与えられ仮泊することになった。
イシュルは夜半になると兵舎を抜け出し、砦の崩れた城壁の上に登って、人々の気配の希薄な夜の平原に身を晒し、今日一日の疲れ、主に気疲れを癒しそうとした。
北ブレクタス山脈の東側に広がる山裾は広大な草原地帯で、アンティラの他に街や村はなく、兵糧などを山に運ぶ中継地か、牧畜を営む農家などの小集落か、数戸の建物の固まる箇所が点々と存在するだけだ。
その砦か小集落も、昼間に見た限りでは黒ずみ、輪郭が崩れ、戦(いくさ)で焼かれ壊滅しているように思われた。
他に広大な草原地帯に目立つものと言えば、イシュルが山を降りてくる敵軍に放った、風魔法によって穿かれたクレーターのような大きな窪みぐらいだ。
イシュルは城壁に腰をおろしたまま、顔を上げて夜空を見上げると、今度はそっと「手」を伸ばして、さまざまな金属の織り成す結晶の世界、金の精霊の異界からほんの少しの魔力をすくい取った。
深い藍色に染まった夜空にこぶし大の光球がひとつ現れ、すぐに冷えて鉄球になった。
「……」
イシュルが頭上を見上げると、宙に静止していたその鉄球は円を描いて水平にくるくると回りはじめた。
そこへ風の魔力を押し当て、さらに速度を増していく。
ひゅんひゅんと鳴っていた空を切る音が、ひゅーと連続する不自然な高音に変化していく。
……ふたつ目、三つ目、四つ目……。
イシュルはそこへ次々と鉄球を足していった。
連続する高音がさらに大きくなっていく。
イシュルは微かに眸を細めた。
「!」
と、一瞬、回転する鉄球が明るい暖色に発光して夜空に消えた。風の魔力も霧散し、空高く消えていった。
次にイシュルは片手を夜空に伸ばし、その先に風の魔力の塊を出現させた。
そこへ金の魔力を持ってきて、風の魔力の塊の回りを覆っていった。
風の魔力の塊は固定したまま、金の魔力を球状に回して見た目は先ほどと同じ、鉄球を形づくっていく。
イシュルは首を上げ頭上に浮かべた鉄球を見つめた。
……金の魔法具を得てわかってきたことがある。
風や水、火などと違って、金の魔法で形づくられる鉄槍や剣、盾などは人の手による人工物で、自然に元から存在するものではない。
だが金の魔法使いは時に無詠唱でその形を成していく。
風の魔法を発動する時はどうだろう。
自身の意思とイメージ、想像力やあるいは記憶をもとに風の魔力を操り、風の刃をつくり、風の壁をつくり、竜巻を起こし、結界を張っていく。
金の魔法も同じように、その魔力を具現化していく過程で、自身の意思とイメージ、記憶を使っていく。
神の魔法具を持つ者は、一部の例外を除きそこに呪文詠唱を必要としない。発動速度も威力も段違いだ。
本来ならば、鍛冶職人が長い時間をかけて形づくっていくものを、あるいは彫刻家が試行錯誤しながら削り、盛っていく塑像、彫像を一瞬で形成していく。
今頭上に浮いている、正確に言うと「手」で捧げ持つ鉄球は、ほぼ間違いなく真球ではない。人間の視覚で、手で触れ持ってみて球体だと感じる程度のものだろうが、鉄槍にしても剣にしても、熟練の鍛冶屋が丹精込めてつくった剣槍と変わらないレベルのものをつくり出すことができる。
魔法具や術者によって多少の優劣はあるものの、神の魔法具でなくとも同じようにこの世界、大陸で一般に流通する、最高レベルの剣槍や盾を形づくることができる。
金の魔法は、術者の感覚や想像力、知識、記憶の影響を受けながらも、まるで何かの「型」があるかのようにそれらを形成していく。
それがこの世界で言う、呪文や術式と呼ばれるものに相当するのだろう。前の世界の科学、常識では説明できないものだ。
それは目に見えない、意識のうちでも感じとれない、知覚できない領域で成されているのだろう。
そして、金の魔法で生み出した鉄球が決して真球にはならないように、その精度はこの世界で実現できる技術、精度に準拠している。おそらくこの世界の、この大陸の術者の知識や記憶、感覚にそって魔法が発動するからだろう。
それが俺なら、拳銃や大砲を生み出すこともできるだろうか? あるいは戦車もつくりだすことができるだろうか?
たぶんそれはただ見た目だけの、まがいものになるだろう。なぜなら俺は例えば拳銃の構造の細部、使われる各部品の形や材質まで完全にはわからないからだ。それは当然、大砲も戦車も同様である。それにもし魔法でつくりだすことができたとしても、操作方法がわからないし、弾薬や燃料なども用意できない。
金の魔法はこの世界の人間、術者の知識やイメージにあるものしか生み出すことはできない。その精度もこの世界のレベルを著しく上回るものではない、ということが言える。
だがどうしても、それで納得できない、済ますことができない点がある。
魔法の発動する仕組みに知覚できない領域がありそうだ、というのがとても気になるのだ。
ただわからない、ではない。わからない領域がある、なんとなくそう思える、感じられるのがもどかしい。
その領域を、仕組みを明らかにしたい。知りたい。
それはいつか、すべての神の魔法具を集めて彼らと相対した時、知ることができるだろうか。
それとも、その領域を見つけた時、俺は彼らに勝利する手がかりを得ることになるのだろうか。
イシュルは、頭上に浮かべた風の魔力を鉄の魔法で閉じ込めた、いわば爆薬の入った鉄球から、周囲の夜空に視線を彷徨わせた。
しばらく黙然と空を仰ぎ見、再び黒い鉄の塊を見つめる。
……この程度のものなら、つくりだせるんだが。
鉄球を捧げ持つ風と金の「手」を高く掲げる。
鉄球を垂直に上昇、加速させていく。
千長歩(スカル、約650m)ほどの高度で「手」を離し、風の魔力と鉄の魔力を解放した。
夜空に微かな光とともに、ダン、と爆発音が響いてきた。上空を衝撃波が伝わるのがわかる。
わずかに光って見えたのは鉄球が割れ、吹き飛ぶ時の摩擦により火花が散ったからだろうか。
要は爆弾と同じだ。だがあれをつくるのにはやや時間がかかる。大規模な風の魔力を引っ張ってきて一定方向に解放した方が、はるかに早く威力を出せる。
使用はむしろ、限定されるかもしれない。
「盾殿」
イシュルの見上げた先、頭上にシルバストルが現れた。
金の精霊の周りを魔力がほのかに輝き、夜闇に薄く消えていく。
「どうした? 何かあったか」
シルバストルをベンデーク砦に配置し周辺を警戒させ、ノルテヒルドを砦から北東に離して配置し、より広域を警戒させている。
「先ほどの魔法は盾殿かな?」
「ああ」
「そうか……」
シルバストルはその強面の顔をわずかに歪めた。
「金と風の魔法を同時に使ったのか」
「そうだ」
「小さな魔法なのに。……恐ろしいことだ」
「何か問題でもあるのか?」
「いや」
シルバストルは唇を歪め、その端を引き上げた。
「そんなことができるのはこの人の世にただひとり、盾殿だけだ」
シルバはふと視線をそらし、笑みを引っ込めた。精霊が暗闇に何かをとらえた。
「……あの人間の女も強い。一度手合わせ願いたいものだ」
そう言うと金の精霊はイシュルに目礼し姿を消した。
微かな魔力の残滓が夜空に漂う。
「……」
イシュルは視線をシルバの見た方に向けた。
砦の内側、数棟の兵舎の並ぶ横を誰かが近づいてくる。その人物は城壁の影に消えると、次の瞬間にはイシュルのすぐ目の前に姿を現した。
夜闇に舞う影。広がる長い髪が月光を浴び、銀色に煌めく。
「イシュル」
高い女の声がイシュルのすぐ横に寄り添ってくる。
「リフィア……」
イシュルは呟くようにその女の名を呼んだ。
「……」
欠けた月が西の山並みに隠れようとしている。
星々の輝きが凍るような冷気を運んでくる。
ふたりはしばらく何も語らず、無言でいた。ただひとつになって時の過ぎゆくままに身をまかせた。
「リフィア」
やがてイシュルは再び彼女の名を呼んだ。
「そ、その……」
彼女の吐息が色づく。長い睫毛が伏せられている。
「すまない、巻き込んでしまって。……すべてわたしが悪いんだ」
「ん?」
イシュルがリフィアに顔を向け、横から覗き込むようにして見つめると、彼女はつんと顎を上向け、顔を逸らした。
それもすぐに戻して、イシュルを真正面から見つめ返してきた。
「うっ……」
イシュルは思わず息を飲んだ。
リフィアの眸が濡れていた。
だが同時に力強い光を浮かべ、イシュルからまったく視線をはずさない。
「い、以前、大公さまにフロンテーラまで呼ばれてな。その時に話があったのだ。そ、その、ベールヴァルドの嫡男との婚姻話が」
……ふむ。それはペトラとマーヤから聞いた話と同じだ。
リフィアとはあの騒ぎの後、特にこれといった話はしていない。イシュルは、他に人がいない時にでも、彼女に声をかけようかと考えていた。リフィアも、イシュルとふたりきりで話す機会が訪れるのを待っていた。
「あの時、大公は返事を急ぐ必要はないと言った。そしてどういうわけか、昔のベールヴァルドとオルベーラ、両家の因縁話をはじめたのだ」
リフィアの話はペトラやマーヤの話とほぼ同じだった。
「わたしは大公の話を聞いて一瞬、わけがわからなくなった。今思えばヘンリクさまは、大公家の派閥に属しハネス殿との結婚を選ぶか、イシュルを許し、追い求めるのか、ふたつの選択肢を提示してきたのだと思う。わたしは混乱し、あの場で公爵家の婚姻話を断ることができなかったのだ。ヘンリクさまは急ぐ必要がないと言ったが、返答を急ぐべきだった……」
リフィアは「イシュルを許し、追い求めるのか」のくだりで、恥ずかしそうに顔を横にそらした。
……なるほど。俺は単純に大公がリフィアの尻を叩いた、ように考えたわけだが、彼女自身はまた別のことを思い、感じたわけだ。
「だがわたしには、そのあとペトラさまに言われたことの方が大きかった」
リフィアは再びイシュルを見る眸に力を入れた。
「ペトラさまは、辺境伯家から籍を抜いてしまえばよい、と言ったのだ」
「……」
イシュルは無言で、小さく頷いた。
ペトラは、いやマーヤか。彼女たちはリフィアの気持ちを、苦悩を、迷いをよくわかっていたのだろう。
……なぜだか知らないが。
「籍を抜けばわたしは自由だ。貴族としての責務も、しがらみからも解放される」
それはつまり、俺に父親を殺された仇打ちをしなくとも、公爵家との婚姻も無視してかまわないというわけだ。もちろん今の彼女にとっては、父の仇打ちはもう終わったことになっているのだろうが。
「ふふ」
リフィアはそこで不意に声を出して笑った。
「これでいつまでも、どこもまでも、イシュルを追いかけることができる、一緒にいられる」
リフィアの頬が紅く染まっているのが夜闇でもわかる。
「……イシュルが迷惑でなければだが」
「い、いや」
イシュルは思わず顔を仰け反らした。頬が紅潮していくのがわかる。
……今は寒い? いや、暑い……。からだが火照ってる。
「いつまでも一緒に」って、おまえそれ……。
「そ、それでおまえ、もう籍を抜いちゃったのか?」
イシュルは思わず吃った。ちゃんと言えなかった。
「いや、まだだ」
「そうか」
「だが、いずれ近いうちに抜こうと思っている」
安堵の息を吐いたイシュルに、リフィアが思わせぶりな視線を向けて言ってくる。
「へっ?」
イシュルは思わず喉を鳴らした。
……た、退路を。俺の退路を断つつもりか、リフィア。
お、俺が責任を持つ、ということなのか。
「そこまで決意したのに、大公さまからいただいた話を断らなかったのはわたしの不覚だ」
リフィアは真面目な顔になって、イシュルに頭を下げてきた。
「すまん、イシュル。こんな時に決闘なんて。……多分、ヘンリクさまがベールヴァルドに漏らしたか、それともハネス殿がどこかで、あの時の話を小耳に挟んだのだろう」
「あ、ああ……」
天の配剤か。またしても危ういところをまぬがれた……。彼女の話が逸れた。
「……別にそれはいいんだ」
ハネスにとって俺は恋仇である。それをまさか、リフィアとのことをなかったことに、知らんぷりをするわけにはいかない。
イシュルは、ディエラード公爵邸でリフィアに決闘を挑まれた時、あの時の彼女の泣き顔を思い浮かべた。
……俺も当事者なのだ。巻き込まれた、なんて他人行儀なことは間違っても言えない。
「それともうひとつ、聞きたいことがあるんだが……」
ふと気づくと、リフィアは今までとはがらっと違う空気をまとって、イシュルを見つめていた。
相変わらず言いづらそうにしているのは変わらないが……。
「イシュルは“風の剣”で戦うんだろう?」
「そうなるな。他にやつと戦えるような得物は持ってないし。あいつ自身が指定してきたしな」
あれからペトラが間に入って、明日早朝、砦内の広場で日の出とともに決闘を開始、互いに得物をひとつ手に持ち戦う。他に魔法は使わない、ということが取り決められた。
「あの“公爵家の白剣”。わたしの武神の矢とよく似た魔法具だが、イシュルなら……」
「俺の方は問題ないな。風の剣が発動しはじめたら、誰も、何をしようが手出しはできなくなる」
まさかパオラ・ピエルカの時のように、強力な魔導師が地中から奇襲をかけてくる、などということはあるまい。そんな汚い手を使ったら、たとえ俺に勝てても、ハネスの公爵家の嫡子としての人生が終わってしまう。
「そ、そうか。やはり一方的な戦いになるか」
「ああ」
リフィアは一瞬、微かに安堵の色を表したが、すぐ難しい顔になった。
「じゃあ、ハネス殿の死はもう決まりか」
「風の剣はあまり加減が効かないんだ。俺もあの公爵家のお坊ちゃんを、殺したくはないんだがな」
ベールヴァルドは、北辺に集結した諸侯で最も高位にある貴族だ。その嫡男の死は、政治的にもはなはだよろしくない。戦(いくさ)にも何らかの影響が出てくるかもしれない。
公爵家は城塞都市アンティラ持久に関し、なかなかの戦功を上げている。ハネスの死は今後のことを考えれば大公家も、ヘンリクも避けたいところだろう。
「まぁ、やってみるしかないな」
あの男の使う白剣、当然先手は取られるだろう。あの状況でネリーの腕輪は効かない。だがやつの剣は俺を傷つけることはできない。やつの剣速が落ちたところで、白剣のみを狙って風の剣を放てば、ハネスは死なないですむかもしれない。
……それくらいしか思いつかない。うまくいくかもわからない。
「わかった。わたしがとやかく言える立場ではないしな。イシュルが負けないのなら、それ以上は何も言うまい」
リフィアの言いたいことはわかる。ハネスを殺さないでくれ、ということだろう。
「わたしはもう寝る。イシュルは?」
「ああ、俺も寝ることにする」
城壁をふたり揃って飛び降りると、テントの張られた広場の方から向かってくる人影がある。
騎士をひとり従えた領主らしき人物。
「今晩は、イシュル殿」
その人物はハネスの父、レクセル・ベールヴァルド公爵だった。
「今晩は、公爵さま」
イシュルは小さな声で相手に会釈する。リフィアが続く。
「……ふむ」
公爵は髭に手をやりイシュルの隣にいるリフィアに目をやった。
「イシュル殿と少し話したいのだが……」
「わかりました。それではわたしはこれで」
リフィアは機敏に察し、イシュルに「おやすみ」と声をかけると、兵舎の並ぶ影に消えた。
「……で、お話とは何です?」
「イシュル殿!」
そこでいきなり、公爵がイシュルに抱きついてきた。
「ハネスを説得できなかったのだ!」
イシュルの耳許に、壮年の男の悲壮な叫び声が響く。
「あれほど言ったのに。バカな真似はやめろと何度も申したのに!」
「……」
イシュルは心のうちで盛大にため息を吐き、がっくり肩を落とした。
……そりゃそうだろうな。あの男だってもう後には引けないだろう。しかも、ペトラが立ち会うのだ。
「あとは貴公に縋(すが)るしかない。わたしの話を聞いてくれないだろうか」
あれだ、なんとか息子を殺さないですませられないかとか、そういう話だろう。
イシュルの肩で公爵がしくしくと泣いている。
イシュルは呆然と夜空を見上げた。
なんでこんな時に、決闘に巻き込まれなきゃいけないんだ……。
真っ黒な影になった、とことどころ崩れ落ちた城壁を朝日が縁取っている。
砦の北寄りにある広場の周りは、城兵や騎士たちで鈴なりになっている。
まだ砦の中は陽が差し込まず、明け方の暗がりがそこかしこに重く沈んでいる。
広場の真ん中に二十長歩(スカル、約13m)ほどの距離を空けて相対するイシュルとハネス、それにこの決闘のもうひとりの主役のリフィア、立会人のペトラ、そして青い顔をして固まっているベールヴァルド公爵をはじめ、ベンデーク砦で一夜を明かした者すべての顔が揃っている。
ミラとニナは同じように両手を胸の前で握り、同じように不安そうな顔をしてイシュルをじっと見つめている。
「そろそろはじめようかの」
イシュルのすぐ横でペトラの声がした。
「おまえ立会人なんだろ? なんで俺の横にいるんだ」
「おお、そうじゃったの」
ペトラがひょこひょことイシュルとハネスの中間、北側の城壁に寄った方へ歩いていく。
ちなみにイシュルは広場の西側、ハネスは東側にあって互いに向かい合っている。
「ハネス殿、よろしいかの?」
ハネスはペトラに声をかけられると、左手を胸に当て優雅に腰を下ろしてお辞儀をした。
イシュルはハネスを見つめた。
甲冑姿に赤いマント、昨晩はあまり眠れなかったか、顔色はよくない。
彼の顔には緊張も興奮も、怒りや闘争心も何もなく、空疎だ。表情がない。
もうすべてを諦めたような顔だ。
「……」
イシュルは小さくため息を吐くとハネスとペトラ、ふたりに声をかけた。
「はじめる前に提案があるんだが」
「何じゃ」
「……」
ふたりがイシュルを見ると、イシュルは薄く笑みを浮かべて言った。
「ここでやると砦の城壁を吹き飛ばしてしまう。……そうだな、あそこでやらないか」
イシュルは西側の城門を指して言った。
「城門?」
「城門の扉の上だ」
砦の西側の城門は最近修繕されたのか、真新しい丸太を鉄枠で締めた門扉が据えつけられている。
門扉の上部は鉄枠が渡してあり、ちょうど平均台のような、人がその上に立って歩けるような幅がある。侵入者を阻む突起のようなものは特に取り付けられていない。
「どうかな?」
イシュルは笑みを浮かべたまま、ハネスに言った。
「いいだろう」
ハネスはそこで今日はじめて笑顔を見せた。
「よし」
イシュルは素早く跳躍して門扉の南側の端に飛び移った。
周囲から感嘆の入り混じった声が上がる。
今まで静かだった場が、がやがやと人々の騒ぐ声で溢れる。みな南門の方へ、イシュルの足下に集まってくる。
……いい感じだ。
イシュルは門扉の上から周囲を見渡した。
前方には北の湖沼地帯が広がり、遮るものはない。城壁の端にアンティラの街がわずかに見える。
城壁の上に他に人はいない。風の剣に巻き込まれる危険性があり、城壁に登って見物しないよう、前もって砦の守備隊長から通達が出されている。
イシュルの周囲は広く開けていた。風の剣を振るうのに邪魔な物は何ひとつなかった。
「ん?」
視界の端に明るい魔力が煌めく。瞬間、それは眩い光の尾を引いてイシュルの目前を横切った。
ハネスが銀色に輝く細剣を構えて門扉の北側に立つ。
……なるほど。さすがは公爵家嫡男の持つ魔法具。かなりのものだ。
「でははじめるか」
ハネスが目つきを鋭くして言ってくる。先ほどより気合いの入った表情だ。ただの案山子で終わる気はないらしい。
「よし、来い」
「待たれよ!」
イシュルが父の剣の柄を握ると、頭上の方から声がした。
魔力が煌めきノルテヒルドが姿を現わす。
「剣殿、人間相手に風の剣を振るう必要もなかろう。ここはわたしが剣を貸そう」
「ノルテが?」
イシュルがノルテヒルドからハネスに視線を移すと、ハネスはひとつ頷き言った。
「わたしはかまわんが」
「剣殿、ではこれを使ってくれ」
ノルテヒルドは右手を左腰の方に回すと、剣を一振り出してきた。
今までイシュルの目にも見えなかったものが、無色の半透明の輝きを帯びて細身の直刀の形になる。
左利きだと思われたノルテが、右手で左腰から抜いた剣。それは……。
……やはりな。何かあると睨んでいたんだ。
そこで金の精霊、シルバストルの声が脳裡に響いてきた。
……この風の精霊は隠していたんだ。おそらくは双剣使いか、“右”が本命なのだ。
シルバの声が少し悔しそうに聞こえる。
「ふっ」
ノルテは小さく笑うとイシュルに剣を投げてきた。
抜き身の剣はくるくると回転しながら落下し、差し出されたイシュルの右手に吸い込まれるように収まった。
半透明の風の精霊の剣はイシュルの手に触れると実体化し、諸刃の美麗な剣になった。柄は白、銀に金の装飾のついた十字鍔、刃は荘厳と言ってもいいほどの輝きを放っている。
「これは……」
「わたしの本当の剣はそちらの方だ。確かに双剣も使うが、右利きで振るうのが本来のわたしの剣なのだ」
イシュルはノルテの剣を片手で握りしめた。
適度な重みと硬質な一体感。ネリーの剣と似た感じがする……。
「いわば隠し剣みたいなものか」
イシュルはノルテを見上げて言った。
“秘剣”なのだ。通常は左で戦い、いざという時に必殺の右で剣を繰り出す……。そんな感じか。
「ふむ、そのようなものかな?」
「いいのか? バラして」
「剣殿がお困りなのだ。構わない」
「……わかった」
「戦う意思をもってその剣を構えれば、剣殿なら苦もなく扱える筈だ」
ノルテは、こちらを呆然と見つめるハネスを横目にちらっと見ると言った。
「“武神の覚え”などいかほどのものか。剣殿が負けることなどない」
「ああ、ありがとう。使わせてもらう」
「うむ」
ノルテヒルドはにこにこと頷くと、ふっと素早く姿を消した。微かな風の魔力の輝きが、水平に突き刺すように横切る朝日の中に消えていく。
……風の精霊め。不愉快だな。盾殿も武具でお困りなら、これからはぜひわたしに声をかけてくれ。剣でも盾でも鎧でも、最高のものを用立てよう。
シルバの相変わらず悔しそうな声が聞こえてくる。
……わかった。その時は頼むよ。シルバ。
……うむ。
シルバの満足そうな声がして彼の気配が遠のいていく。
「すまん、待たせた。この剣を使う。いいか?」
イシュルはノルテから借りた剣をハネスに見せて言った。
実体化したノルテの剣は、この世の通常の剣と、手に持つ感じは何も変わらない。
「うむ、美しい剣だ。風の大精霊の剣、とくと味あわせてもらおう」
ハネスはどこかの剣豪のような口ぶりで言ってきた。
「……」
イシュルは無言で頷くとノルテの剣を両手に構えた。
ふたりの決闘は静かに、流れるようにはじまった。
真っ直ぐ伸びた門扉の鉄枠の先にハネスがいる。その白剣がイシュルに向けられた瞬間、彼の姿が消えた。
同時にイシュルも右足を一歩、前に出した。
その瞬間、世界が消えた。ハネスの立っていた場所から無数の風の流れがイシュルに吹きつけてくる。
周りの物が消え、広場から仰ぎ見る人々の姿が消え、景色も見えなくなった。
明るい水色の空間を風の流れがイシュルの周りを吹き流れていく。
……これは風の世界……。
ノルテの剣先を見ると、再び半透明に輝き、実体をなくしていた。
その剣先の右側に、風の流れを断ち切るように白く光る剣筋が浮き出てきた。
時間も空間も風の中に収斂された世界。
そこに異物が侵入しようとしてくる。
イシュルは両腕に渾身の力を込め、斜めから断ち切るように剣を振るった。
特別な剣技は必要なかった。風の流れを感じ、手にするだけでよかった。
白い光が歪み、吹く風の向こう側に消えていく。
「……」
イシュルがノルテの剣をおろすと、風の世界が消えた。
「おおっ」
「ああ」
すぐ下の広場の方から無数の声が上がる。
「イシュル!」
「イシュルさま!」
どよめきにと歓声のなかに、ミラやペトラらしき叫声が混じるのがわかる。
「くっ」
ハネスは右足を大きく踏み出し、全身を前に投げ出すようにしてイシュルに剣を突き出していた。
ベールヴァルドの白剣、武神の覚えはその刃が根本近くで折れ、先がなくなっていた。
「俺の勝ちだ」
イシュルは唖然とし固まっているハネスに言った。
「以後は遺恨なきよう」
「……承知した」
イシュルは一つ頷くと顔を横に向け、広場に降りようとした。
「貴公はリフィア殿をどうされるつもりか」
その時、ハネスの言が耳朶を打った。
「……」
イシュルは再びハネスに顔を向け、その青白い顔を睨みつけた。
……痛いところを突かれた。
「さあな。だがそれはもう、あんたが気にすることじゃない」
イシュルはハネスから視線を山の方へ向けた。北ブレクタスの山並み、北線城塞の方を見た。
「愛に生き、愛に死ぬのはあんたの勝手だが、それはせめて戦争が終わってからにしてくれ。貴族の責務を果たせ」
イシュルはハネスの言を待たず、広場に集まった人々の隙間を見つけて飛び降りた。
イシュルはそこから周りを見回し大声を張り上げた。
「リフィア、ミラ! 行くぞ!」
「よし!」
「イシュルさま!」
イシュルの剣幕に周りの騎士や城兵らが退いていく。
ミラがシャルカの肩に乗って空中に浮かんだ。魔力の閃光が走り、眸を赤く染めたリフィアが人の壁から跳躍してイシュルの前に降り立った。
「これからカルナス城を落とす」
カルナスはバルスタール城塞群の最高峰にある、最も高所にある小城だ。
天王山でも二〇三高地でもいい。古今東西、この世界においても、戦場において重要な高地を抑える基本は変わらない。
……北線の最高峰を押さえて敵軍を眼下に収め、威圧する。その後は調略も順調に進むだろう。
それがイシュルがルースラに語った北線城塞軍奪取の初動、作戦だった。
まずは俺にリフィア、ミラとシャルカ、それに精霊のノルテとシルバでカルナスを制圧、維持する。
「後は手はず通りに」
イシュルは人の群れから目の前に出てきたルースラに言った。
「頼んだぞ、イシュル」
「気をつけて」
ペトラやマーヤたちもイシュルの前に出てきた。
彼女たちの後ろから、ニナがイシュルをじっと見つめてくる。
リフィアがイシュルの肩を掴んだ。
「……」
イシュルはペトラたちに無言で頷くと、明けた空へ飛び上がった。
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