北辺を抜く 2



 イシュルが風を吹かすと雲が走り、地平の彼方に消えていった。

 平原を、山肌を漂う靄がかき消されていった。

 澄み切った空と大地。

 西にブレクタスの山並み、東には平原。ラディス王国北辺の地が広がっている。

 視界を遮るものはない。

 ……ではそろそろ行くか。

 イシュルは、広大な山裾をアンティラに向かって伸びる、数条の黒い筋に目を凝らした。

 バルスタールを下ってきた連合王国軍は、主力と思われる太く長い人馬の列が三つ、他に五つ、やや細いのが見える。

 北ブレクタスの山からアンティラの間に深い森はなく、山裾に散在する斜面の急な崖、谷筋にわずかに木々が密生するだけだ。

 敵はその軍容を草原に露出させている。彼らを隔てるものは何もない。

「素晴らしい眺めだな。雄大な気分だ。だが……」

 後ろからリフィアの声がする。

「イシュルさま……」

 同時にミラが、イシュルの右腕に手を添えてきた。

「イシュル。今、何を考えている?」

 イシュルの右肩を握るリフィアの手に力が込められる。

「あの拷問で死んだ魔導師のこと、考えていなかったか? ……ノイマンスとアグニアの王らが憎くないか?」

 リフィアの声が近づいてくる。彼女の声が耳朶を打つ。

「イシュルさまがその気になれば、この美しい山野も失われてしまうでしょう」

 シャルカの左肩に乗ったミラが傍(かたわら)にいる。

 シャルカは無言だ。彼女は難しい顔をして目の前に広がる地平を見つめている。

「俺は……」

「気をつけろ、イシュル」

 リフィアの真剣な声が続く。

「忘れたのか? おまえはユーリ・オルーラのようには戦わないって、言ったじゃないか。ただいたずらに破壊と殺戮を繰り返したりしないって、決意したんじゃないのか」

 ……そうか。

 俺はやろうとしていた。一瞬、忘れていた。

「……」

 イシュルは無言で己の掌を見つめた。

 俺は思いっきり全力で魔法を振るおうと、そう思っていなかったか?

 この雄大なパノラマ。大地を進撃する敵の大軍。だがあれは、今の俺にとって蟻の行列のように矮小な存在だ。

 俺は別に、ノイマンスやアグニアのやつらを憎んでなんかいない。

 だが侮蔑する心は確かにあった。

 ……汚いやつらだと。

 この眺望に矮小な存在でしかないと、そう考えていた。

 俺の心に広がる全能感。

 この壮大な天地はすべて、俺の手の平の上にある。

 あの醜いやつらに、持てる力を思いのままに振るう。

 その誘惑に負けてしまったら。

 俺はユーリと、やつらと同じではないか。

「……イシュルさま?」

 ミラが不安そうな顔で見上げてくる。

「ああ、……ありがとう。危なかった」

 イシュルは顎を引き、眸を細めて言った。その声は微かに震えていた。

 バルスタールを降りてきた連合王国軍は主力が三軍に分かれ、他に五つの部隊がアンティラに向かって進軍している。

「……」

 イシュルは一度大きく息を吸い、吐き出すと、各軍勢の先頭を行く軍旗を凝視した。

 遠方の部隊は直線距離でもかるく二十里長(スカール、約13km)は離れている。

 ドレーセンとの密約で攻撃を控えたいオルーラ大公国の旗は、燕脂(えんじ)の地に銀の獅子と王冠だが、この距離では細かい絵柄まではわからない。

 だがとりあえずは、手前のふたつの細めの隊列とその奥、中央を進軍する主力の三本の縦列に、燕脂色の旗は見えない。

 眼下の斜め前にはベンデーク砦が、北に伸びて消えていくブテクタス山脈の東側、視界のほぼ中央を連合王国軍が、視界の右端に灰色の城壁に囲まれたアンティラの街が見える。 

 今はすべてが見渡せる、絶好の位置にある。

 ……まずは手前の五部隊の先頭部分を吹っ飛ばすか。

 イシュルは「手」を風の異界にかけ、五つの部隊の先頭部分を見つめた。

 ……行くぞ。

 風の魔力の塊を五つ、錐(きり)のように集中させて狙った位置に突き刺す。

「……!」

 瞬間、ミラとリフィアが緊張し、身を竦めるのが伝わってくる。

 ブレクタスの山裾を進軍する敵部隊の先端に、細く濃密な土煙が垂直に立ち上った。

 そしてその土煙がゆっくり、周囲に拡散していく。

 イシュルは前面に、風の魔力の壁を張った。

 同時に、びりびりと空気の振動する衝撃波が、低く重い爆音を伴って通り過ぎていった。

 イシュルは、自身の張った風の魔力の壁が細かく揺れるのがわかった。

「この距離で……、凄い」

 後ろからリフィアの呟きが聞こえてくる。

 敵の縦列の先頭部分はどれも土煙に覆われている。

「イシュルさま、……素晴らしですわ」

 ミラも感嘆の声を上げる。

 遠距離、広範囲で複数箇所に同時攻撃、すべて的確な位置で発動、命中……。彼女たちは多分それを凄い、と言っているのだろう。

 敵側の死傷者はおそらく五百もいってないだろう。今はまだ土煙に覆われ、はっきりと視認できない。

 ……集中はしたが、ちょっと指先で突いた程度だ。ユーリがバルスタールを攻撃した時の方が段違いに凄かったろう。風の魔法はその威力が大気中にはっきりと現れる。だからこの距離でも大きく、目立って見えるのだ。

「おお、恐ろしい。たとえ風魔法であろうと、盾殿とは決して戦いたくないな」

 だがそこでシルバストルが独り言のように言ってきた。

 金の精霊はイシュルたちの斜め後ろに位置している。

「……」

 イシュルはシルバの、自身の判断をすべて否定するような一言に、わずかに肩をすくめた。

「イシュル。わたしとミラ殿は、ベンデーク砦に取りついた敵軍勢を蹴ちらす。適当なところで降ろしてくれないか」

 リフィアがミラと視線を交わすとイシュルに言ってきた。

「ふむ」

 イシュルは眼下の砦の方に視線を落とした。

 連合王国の二千ほどの軍勢が砦に取りつき、西側の半分ほどを包囲しようとしている。

 ベンデーク砦はアンティラから十里長(スカール、約6.5km)ほど南、軍都街道上に位置する十戸ほどの小集落を石壁で囲んだ小城だが、上空から見ると城壁の一部が破壊され、内部の家屋にも被害が出ているようだ。

 ……あの被害は以前からのものだろう。この砦はなかなか重要な位置にある。バルスタールの失陥後は、敵味方で何度も取り合ってきたのではないか。

 ユーリ・オルーラが支隊を率いて王都へ南下した後、おそらくここ数日でラディス王国側が奪還したらしいが、連合王国がアンティラ攻城の陽動としていち早く攻撃を開始した。そしてこの攻撃には当然、こちらの派遣支隊のアンティラ入城を妨害する意図も含まれているだろう。

 イシュルは高度を落としながらベンデーク砦の直上へ移動した。

「ここらでいい」

 イシュルが地上から一里長ほどの高さまで降下すると、リフィアが声をかけてきた。

 下からは刀剣や鎧の鳴る音、兵士らの叫声が聞こえてくる。今のところ目立った魔力の発動は見られない。

「イシュルにはああ言ったが、わたしたちは必死で、全力で戦わないといけない。敵の軍勢は二千はいるからな」

 イシュルが後ろを振り返ると、リフィアが透き通るような笑顔を浮かべた。

「北線もアンティラも全体を見渡し、遠くまで物見をできるのはイシュルしかいない」

「真下の砦の方は、わたしたちにおまかせください」

 リフィアに続き、ミラが口添えしてくる。

 ふたりは俺に、敵軍主力を押しとどめるだけでなく、バルスタール全域を俯瞰し全般の状況を、そして城塞群により接近し、敵情を少しでも細かく把握しろ、と言っているのだ。

「細かい偵察は後にする。でもとりあえず、きみらの言う通り戦域全体の把握に努めよう」

 ……まずは目の前の敵軍主力の動きを、そして絵地図で見た北線諸城の位置を、この目で直接見て把握する。接近しての偵察、山の西側の偵察は後にまわす。

「うむ。では行ってくる。……ミラ殿」

 リフィアは笑みを深くして頷くとミラにひと声かけた。そしてイシュルの背中から飛び降り、そのまま落下していった。

 眼下にあの、鋭利な魔力の光輪が瞬く。

「それではイシュルさま、行って参りますわ」

 ミラはイシュルに余裕の笑みを向けると、リフィアとは対照的にシャルカの肩に乗ったまま、静かにゆっくり降下していった。

「シルバ、彼女たちを上空から援護してやれ」

「御意」

 シルバストルもミラに続き、ゆっくり降下していく。

 強面の金の精霊も余裕たっぷり、敵軍勢二千にはリフィアとミラ、シャルカだけで十分だと彼も判断したのだろうか。

 降下していったリフィアは敵軍中央、やや後方の指揮官がいると思われるあたりに土煙をあげて着地、その場で瞬時に暴れはじめた。その前面、砦に盛んに矢を射る弓兵の集団に、金の魔力が無数に炸裂、イシュルの耳許まで金属の鳴る高い音と、敵兵のあげる悲鳴が聞こえてきた。

 ……ミラが敵兵の鎧に何かしたのだろう。

 当のミラとシャルカは敵軍の頭上にあって、敵の投槍など攻撃を防ぎつつ、おそらく多数の鉄球を生み出し投げつけている。ふたりの魔法が攻防に、幾重にも煌めいて見えた。

 敵軍はどこで用意したのか大きな丸太を城門に打ちつけていたが、それもミラの金の魔法で輪切りにされた。

 リフィアは……まぁ、いいだろう。敵兵をひたすら屠殺し続けている。

 味方の砦を守る兵力は数百程度、連合王国軍はすぐにも城門を破り、あっという間に落城させる勢いだったが、彼女らの参戦で戦況は一気に逆転した。

 よく考えれば、千単位の軍勢にシャルカも含めたった三人で挑み、すぐさま圧倒してしまうなど、普通では有りえない話だ。

「剣殿」

 下を見て呆然とするイシュルの前に、ノルテヒルドが姿を現し声をかけてきた。

「ああ」

 イシュルはすぐ顔を上げて前を見た。

 彼女の声と同時に、遠く北のほうに多数の魔力が瞬くのを感じた。

 薄く靄となって消えていく土煙に、二十近くの精霊が姿を現していた。

 山裾を下っていた敵主力は、各隊とも進軍を停止したようだ。敵の精霊は各々、こちらに向かってくる。

「ノルテ、やれるか?」

「問題ない」

 二十体近くの敵の精霊をひとりで殺れるか? とのイシュルの問いに、ノルテヒルドは鋭い視線を向け首肯した。

「よし、行け」

「御意」

 ノルテヒルドは後ろに縛った長い髪を翻し、さっとイシュルの前から姿を消した。

 次の瞬間には、彼女の後ろ姿が敵の精霊の直前に現れ、相対した人形(ひとがた)の精霊が数体、またたく間に吹き飛ばされる。

 イシュルは高度をあげると、敵の精霊たちと戦うノルテヒルドの頭上を飛び越え、敵軍の正面に出ようとした。

 途中、鱏(えい)のような形をした精霊と、大きな翼を持った鳥人型の精霊が下方から急上昇してきたが、イシュルは風の魔力の壁を押し出すようにして展開、そのまま敵へ解放し、一瞬で消し飛ばした。

 イシュルはより北へ移動し、城塞都市アンティラを真後ろに背負う位置、高度約二千長歩(スカル、約1,300m)に占位した。対面する北ブレクタス山脈の峰々と目線が交わる、ほぼ同じ高さだ。

 そして北側にあって先ほどの攻撃をまぬがれ、未だ前進を続ける敵軍に風の魔力を叩きつけた。

 眼下をイシュルに向かって突き進む残る部隊は三つ、長い隊列を山の方へ伸ばしている。

 先ほど敵軍主力に放った同じ風の魔力が敵軍の先頭部隊に突き刺さった。

 三本の土煙が垂直に鋭く、ブレクタスの山裾に立ち上る。

 低く重い爆音が轟くと、茶色に灰色の入り混じった煙が薄く周囲に広がっていく。

 敵の残る三部隊の進軍も停止した。

 数体の精霊らしき魔力の存在が各隊の上空に出現する。だがその瞬間には、イシュルが風の魔力をぶち当て吹き飛ばした。

「……」

 イシュルは南北に広がる北ブレクタス山脈に正対し、眼下に各々撤退をはじめた連合王国軍の縦列を見下ろした。

 イシュルと敵軍の距離は最も近い部隊でも、直線で数里長(スカール、一里長は約650m)ほどはあるだろう。敵軍兵士らの立ち騒ぐ微かな音が聞こえてくるが、広大な山野にあって彼らの存在はあまりに小さく、彼らの混乱も後退する動きも、異様に緩慢に見えた。

 イシュルの左下、南側ではノルテヒルドが最後に残った二体の精霊に止めを刺そうとしていた。

 敵の人形(ひとがた)の精霊と交錯する直前、彼女の姿が消え、一瞬でその背後に再び姿を現わす。その時には敵の精霊は四散し消滅していた。最後の一体も同じように、あっけなく葬られた。

 イシュルはその後もしばらく同じ位置にあって、撤退する敵の諸部隊に散発的な攻撃を加えた。

 あえて金魔法は使わず、使い慣れている風魔法での攻撃に終始した。

 金魔法は今は使わない。後にとっておく。金の大魔法で、どうしてもやりたいことがあるのだ。

 ……あの北線城塞群で。

 イシュルは視線を、山脈の峰々に点々と存在する微小な構造物に目を向けた。

 雪に覆われた箇所は白く、まだ積もっていない箇所は黒く、数々の城や砦が山嶺に沿い、要所要所に築かれている。

 どの城もみな形が歪み、崩れ、黒ずんでいるのはユーリ・オルーラの攻撃によるものだろう。この距離では、彼の金魔法の痕跡をはっきりと見てとることはできない。

 ……一番左側、南側に微かに見える塔のような構造物、あれは絵地図に記載がなかった。おそらく名もない見張り用の櫓だろう。その次の一段高くなった山頂にある小城が、おそらくイラール城だ。

 そしてその右、北にあるさらに高い峰。周囲の山嶺で最も高い山の頂にあるのが……。

 イシュルはフロンテーラを出立後、夜間はよくルースラやトラーシュ・ルージェクらに招かれ酒食をともにしていた。その時に何度かバルスタール城塞群の絵地図を見せられ、簡単な説明も受けていた。

 イシュルは、北ブレクタス山脈の北辺で最も高い標高にある城を、じっと見つめた。

 城塔が一本だけ生えた、黒ずんだ小城のシルエット……。

「あれがカルナス、だ」

 北線で最も高所にある城、だ。

 イシュルは小さく笑みを浮かべた。その唇が酷薄に、歪んで見えた。



「……」

 イシュルは視線をさらに右へ、北方へと横へずらしていった。

 バルスタール城塞線の二つの主城、まずムルド城が山並みのだいぶ下がった稜線の上に見えた。そしてその城から北へ、万里の長城を思わせる城壁が長く伸びているのが、微かに見てとれた。

 山並みが平野部に消える先には二つ目の主城、おそらくはハーラル城が遠く、霞んで見えた。

 ハーラル城の周辺は、無数の小河川が網の目のように流れている筈だ。それは今は濛気に覆われ、はっきりと見えない。

 イシュルはそこで視線を正面に戻し、退却を続ける敵軍に向けた。

 時折銀色に輝く縦列が全部で八本、山肌に黒い筋を刻みつけ、ほとんど視認できない緩慢な動きで各々、山頂を目指していた。

「剣殿、敵はすべて片づけましたぞ」

 ノルテヒルドが間をおき、背後から小さな声をかけてきた。

「ああ、ありがとう。お疲れさま」

 イシュルは後ろへ振り向き、笑みを浮かべて風の精霊をねぎらうと、すぐに顔を前に戻して、しばらくその場に佇んでいた。空中に浮かんでいた。

 ……戦場では何が起こるかわからない。

 だが今は違う。

 この距離、この高度は戦場全体を俯瞰する位置にある。

 この空間の隔たりには不意の事態も、異変も到達しえない。起こりえない。

 今俺は神の視点にいる、ようなものだ。

 この視座を確保できれば俺は戦場を支配し、絶対不敗であり続けることができる。

 もうユーリ・オルーラはいない。金の魔法具は我が手にある。

 ……それになんとなくわかるのだ。

 イシュルは後ろを振り向き、東の空に浮かぶ小さな月の姿を見た。

 昼間の薄く青い、上弦の月。

 月神レーリアは、今は現れない。

 今はその時ではないのだ。

 ……今はまだ、俺の運命は動かない。





 イシュルが南へ、ベンデーク砦の方に顔を向けると、その西側を敵の軍勢が算を乱して逃げるのが見えた。

 敵勢は混乱し、散り散りになって山の方へと逃走している。

 ……リフィアとミラはうまく敵を退けたようだ。

「ん?」

 その時、アンティラの方で何かが光った。

「あれは……。どうされる?」

 ノルテヒルドが聞いてくる。

 灰色の、曲線と直線が入り混じった城郭。その上空に幾つかの魔力が光っている。

「あれは味方だな。味方の精霊だ。……あの城郭都市は味方の街だ」

「……」

 ノルテがかるく頭を下げて了解の意を示す。

 イシュルはノルテヒルドからアンティラへ視線を移した。

 アンティラの味方が今頃反応したということか?

「いや、あれは……」

 イシュルはアンティラの外郭、南側の城壁を凝視した。東に伸びる城壁の影から、数百程度の兵馬の一団が姿を現す。

 南側の城門が開かれ、門扉が水堀の上に下されている。南門には幅広の道が接続していた。

 アンティラを守る諸侯軍の一隊がその幅広の道、軍都街道を南下しはじめた。そのまま行けば、半刻ほどでベンデーク砦に突き当たる。

 騎馬中心の小部隊がベンデーク砦へ向かっている……。あれは同砦への増援、援軍だろう。

 騎馬隊の掲げるラディス王国や諸侯の旗、そこにイシュルも知る、ベールヴァルド公爵家の旗も混じっていた。

「指揮官自らペトラのお出迎え、というわけか」

 ベンデークへ向かう騎馬隊は、単なる援軍ではなかったらしい。

 城塞都市アンティラに立て篭もる諸侯で、最も高い位にいるのはベールヴァルド公爵である。王弟デメトリオの戦死により、空席となった当地の王国軍の総大将を、彼(か)の公爵が代理として務めているわけだ。

「そして……」

 イシュルは視線を遠く、南の方にやった。

 街道筋に土煙が立ち上っているのが見える。派遣支隊がベンデーク砦を目指し、近づいて来ていた。


 

 なだらかな曲線を描く草原が、やがて青く霞むブレクタスの山並みに飲み込まれ消えていく。

 陽は西にまわりつつあり、横たわる敵兵の死体をぬって歩き回る少年たちが、暗く陰って見える。

 騎士らの従者、城兵の若年者らが周りに落ちた矢を拾い、敵兵の死体から弓や槍、剣などを集めてまわっていた。

 草原に遺棄された敵兵の遺体は三百余り、すでに正騎士以上の身分と思われる者の検分は終わり、砦から反対側の東南方向に少し離れた木立のそばに埋葬されている。隣接した場所に今現在、砦の守備兵らが穴を掘っており、辺りに散らばる残りの遺体は荷馬車で運ばれ、埋葬されることになっている。

 イシュルは砦の城壁に刻まれたユーリの金魔法の跡を検分する、という名目で砦の外に出て、周りを見てまわっていた。

 ベンデーク砦はバルスタールの陥落後、アンティラをめぐる攻防戦時、そして王都へ南下するユーリ・オルーラによる攻撃などで、城壁の内外にさまざまな被害を受けていた。 

「敵はずいぶんと討死した者を捨てていったな。……情けないことだ」

 リフィアが草原を見渡し、誰にともなく口にする。

 イシュルにはミラとシャルカ、それにリフィアがつき添っていた。

「リフィアとミラが暴れまわったからだろ? 敵の軍勢は君たちがあまりに恐ろしくて逃げるのに精一杯、味方の遺体を運ぶことができなかったのさ」

 敵も味方も、基本的には領主たちが各々率いる軍勢の集合である。だから兵らも皆同郷、負け戦(いくさ)でも戦死者の遺体をちゃんと回収し、退く場合も多い。

「イシュルさま、わたしは違いますわ。まさに鬼神のごとく暴れまわったのは、リフィアさんです」

 ミラは不機嫌そうに鼻をあげて顔をそらし、「いっしょにしないでくださいませ」と続けた。

 少し態度がわざとらしい。芝居がかっている。彼女の口許には微かな笑みが浮かんでいる。

「うっ」

 リフィアはそんなミラの微妙な態度に気づかなかったか、ぐっと詰まって固まってしまった。

「ふふっ。でもすごいじゃないか、さすがリフィアだ。一騎当千とはまさにこのことだな」

 イシュルがそう言うと、リフィアも「ふん」と鼻をあげてそっぽを向いた。

「……」

 イシュルは視線を砦の城壁の方に向けた。

 高さが十五長歩(スカル、約10m)ほどの石積みの壁は所々黒く焦げつき、崩れている。

 その崩れ落ちた箇所には、早くも赤錆の浮いた鉄の塊が、こびりつくようにして付着していた。

 ユーリ・オルーラは攻城戦では、鉄槍を無数に突き刺し城も城兵も一気に破壊、殺戮してから、その鉄槍を溶解させ火災を起こすのが定法、常套手段だった。

 ……城壁が一様に焼き焦げ、その下を溶解した鉄の塊が覆っているのを見ると、やつがどのような考えのもとに金魔法を使っていたか、それがよくわかる。

 ユーリは魔法の巧拙、従来の用法に固執せず、破壊をもたらす速度と規模を優先させていた。明らかに戦争で威力を発揮するやり方だった。戦争のために使う魔法だった。

 味方が奪還してから急いで設けられたのだろう、城壁の崩壊の著しいところは所々、丸太を縄や鎖で連ねた即席の柵で塞がれていた。

「いたいた、イシュルさーん」

 頭上から声がして見上げると、ロミールが角の欠けた鋸壁(のこかべ)から顔を出していた。

「ペトラさまがお呼びです。……いい加減、砦の中に入ってくださいよ」

 ロミールは、後半は幾分声を落として言った。

 石積みの城壁と木造の柵の隙間から、砦の中に入る。後ろからリフィアたちも続いてくる。

 目の前の兵舎らしき建物の脇を通り、砦の北側の広場へ出ると、多くの騎士、身分の高そうな領主らしき者、その従者ら人々でいっぱいになっていた。

 広場の西側、城壁の傍にペトラとマーヤの姿も見える。

「……」

 イシュルはかるくため息をつくと、ロミールの後ろについて彼女たちの方へ歩いていった。

 アンティラを攻撃しようとバルスタールを降りてきた敵軍が退却をはじめ、リフィアとミラがベンデーク砦に取りついた敵の別働隊を追い払うと、イシュルはリフィアたちに合流し、味方城兵の歓呼の声に迎えられ、砦の中に足を踏み入れた。

 ベールヴァルド公爵家騎士団の、百人隊長だという守備隊長と挨拶を交わしていると、ペトラたち派遣支隊が先に到着し、イシュルは彼女とマーヤ、ルースラと支隊騎士団長のラナル・ブラードに状況を説明した。

 北線から降りてきた連合王国の大軍を無事撃退したことで、ペトラをはじめとする派遣支隊の将兵と砦の城兵はともに喜びに沸いた。

 皆の浮かれ騒ぐ間隙を縫って、イシュルはルースラをペトラたちから引き離し、広場の端に寄って、以前から温めていたバルスタール奪還の腹案を開陳した。

 バルスタール城塞群を直接目にし、ついでに敵軍主力との遭遇戦で、一応は敵側と干戈を交えることもできた。イシュルはバルスタール奪還の初動に関し、自ら立てた作戦案に問題はないとの確信を得て、ルースラに実行に移してもらうべく説明、説得した。

 そしてイシュルはルースラに最も重要なことの一つ、「北線奪還と連合王国軍撃退の主導権はペトラとその幕僚が握り、アンティラを守る諸侯軍に渡さない」旨を確認した。

 ペトラの今後を考えるなら、この戦役で彼女がただのお飾り、名目上の総大将で終わってしまうようなことは避けた方がよい。重要な戦闘はほとんどイシュルひとりが行うにしても、である。イシュルが行う戦闘がペトラの命令によるもの、という形式をとり、アンティラの諸侯による横槍を排除できれば、彼女の総大将としての功績は本物になる。

 それはヘンリクも望んでいることだろうし、マーヤも同じだろう。ルースラも最初からその気で、異存はなかった。

 広場の隅でイシュルとルースラがこそこそと話していると、アンティラから迎えに来た、ベールヴァルド公爵自ら率いる騎馬隊が入城してきた。

 アンティラからの迎えには公爵本人だけでなく、同じくアンティラに参陣した多くの貴族、領主たちも同行していた。

 ここでついに、ラディス王国の次期国王となるのが決定的になったアンティオス大公、ヘンリク・ラディスのひとり娘で派遣支隊を率いるペトラ・ラディスと、王弟デメトリオの討死後、城塞都市アンティラを守る諸侯軍の最上席であり、指揮を執っていたレクセル・ベールヴァルド公爵の劇的な邂逅が、アンティラの諸侯軍と大公軍の会同が成されることになった。

 公爵はじめ諸侯は皆そろってペトラの前に跪き、彼女の到着を祝い感謝を捧げ、今までの籠城の苦心を訴えた。彼らの中には感極まって涙する者さえいた。

 小さなペトラはだが堂々と彼らの口上を受けた。続いて彼女は主だった者ひとりひとりにねぎらいの言葉をかけた。

 イシュルは長くなるなと思い、ルースラに「ユーリの金の魔法の跡でも見てくる」と声かけると一旦、その場から離れることにした。

 周囲は多くの騎士や兵らで鈴なりになっていた。

 イシュルはあの場でユーリ・オルーラを斃し、王都を救った「英雄」として紹介されるのを秘かに恐れていた。無用に目立つことを、一般の兵士らにまで顔を覚えられることを、できれば避けたかった。

 ……連合王国軍の総大将を討ち取った者、風と金の魔法具を持つ者、風神の祝福を受けた者、それらのことで名前を知られるのは今さらどうしようもない。仕方がないことだ。

 だが多くの者に「顔」まで覚えられるのは避けたかった。

 ……それに、諸侯軍にはヘンリクに近い者もいれば、戦没した国王に近かった者、同じくバルスタールの支配者だった王弟デメトリオの派閥だった者もいる。

 イシュルは自身で、戦(いくさ)の主導権を彼らに渡さないようルースラに確認しておきながら、一方でなるべく彼らの派閥争い、政争に関わりたくないと思っていた。

 聖王国ではそれで、随分と苦労することになってしまった。

 あのような面倒ごとにはもううんざり、というのがイシュルの偽らざる本音だった。

 バルスタールではルースラの調略とともに、自身の神の魔法具の力で有無を言わさず攻城戦を主導し、早々に終わらせる。

 ラディス王国の派閥争いは、聖王国の国王派だの王子派、正義派などの争いのような先鋭な、過激なものではない。今後不安定化する可能性がないではないが、ヘンリクとペトラ親娘、彼らの勢力が圧倒的に優位であるのは変わらないだろうし、イシュルはミラの時のようにあえて首を突っ込み、ペトラやマーヤたちを助ける必要はないと考えていた。

 イシュルが感動の一幕の続く広場から離れ、喧騒の外、砦の外に出ると、ミラがシャルカを引き連れついてきた。同じようにリフィアもついてきた。

 ……ミラは異国の貴族であるし、イシュルとの個人的な関係で参陣したのだから、あの場を避けたいと思うのもわかる。だがリフィアは王国の大貴族なのだから、あの場に残った方がいいのではないか。

 イシュルはそう思いながらも、リフィアに特に何か言うことはしなかった。

 ロミールに導かれ広場に戻り、人々の間をペトラたちの方へ歩いていくと、ペトラの横にいたマーヤに親しげに声をかける領主がいた。

「マーヤ、よくやったな」

「父さま」

 ふたりの声がイシュルの耳にも聞こえてきた。

 ……おっ、マーヤのお父さんか?

 マーヤに声をかけた領主は短躯に小太りだが、骨格はしっかりした壮年の男だ。マーヤと同じ黒い目に、白髪を短く刈り込み同じ真っ白の髭を生やしている。彼の後ろには身分の高そうな老齢の騎士がひとり、控えていた。

「あれがロルーゴ・エーレン伯爵。見たとおり、マーヤ殿の父君だな」

 後ろからリフィアが耳許に囁いてくる。

 ……ふむ。なんとなくマーヤに似ているような気もする。

「ネイデクト兄さまは……」

 父に抱きついたマーヤが顔を上げ、バルスタールで討死したであろう、兄の消息を父に問う。

「うむ。まだはっきりとはわからんのだが、もう……」

 エーレン伯爵は顔色をとたんに曇らし、消え入るような声で言った。

「……」

「マーヤさま、しっかりなされ。ラドニスさまがアンティラで待っておられますぞ」

 伯爵の後ろに控える騎士がマーヤを励ましている。ラドニスとは、マーヤの長兄に当たるひとだ。

「だがマーヤ、本当によくやった。ペトラさまの参陣は何ものにもかえがたい」

 伯爵は「そなたがペトラさまをしっかりお守りしているようで、わしもうれしいぞ」と続けた。

「うん」

 マーヤは父に頷くと、ふとイシュルの方に顔を向けた。

「……イシュル」

「お、おう」

「むっ。おお、貴公が憎っくきユーリ・オルーラを討ち取った、我らが王国の剣!」

 マーヤがイシュルの名を呟き、イシュルが小声で答えると、伯爵はいささか大げさに過ぎる態度を示し、イシュルに寄ってきた。

「貴公のことはマーヤからよく聞いておる。此度は誠に大義であった」

 マーヤの父は娘に似て、短い足をひょこひょこ動かしイシュルの前までくるとその手を握り、ぶるぶると振った。

「い、いえ……」

 ……大義、ときたか。でもよかったな、マーヤ。

 イシュルはやや引きつった笑みを浮かべて、小さくかぶりを振った。

「おう、イシュル。やっと来たか」

 父との感動の再会に遠慮してか、マーヤに背を向けメイド頭のクリスチナと話していたペトラが、イシュルに顔を向けた。

 そこでペトラはあろうことか、爪先立ちになって両手を挙げ、ぶんぶん振り回しはじめた。

「皆の者、皆の者! 此方(こなた)を見よ。そなたらに妾の友にして王国の剣、イシュル・ベルシュを紹介するぞ」

 そして大声でぶち上げた。

「イシュル、近う寄れ、近う寄れ」

 ペトラはそう言いながらもなぜか、自らイシュルの許へぱたぱたと駆け寄ってきた。

「……」

 イシュルは閉口してさらに顔面を引きつらせた。

 エーレン伯爵がにこにこしながらイシュルから一歩引き、離れていく。

 広場にいる者すべてがイシュルに注目した。

「おお、そなたがあの!」

 ルースラや支隊騎士団長のラナルらと話し込んでいた諸侯の中から、ベールヴァルド公爵らしき人物がイシュルの方へ進み出てきた。

 ……くっ、だからいやだったんだ。

 イシュルは内心、ほぞを噛むような気持ちになった。

 諸侯や騎士らだけではない。負傷者の手当や城壁の修繕、馬の面倒を見たりして、広場には先ほどより数は減っているが、それでもまだ多くの城兵が居残っていた。

「どうかの、公爵。才知あふるると評判の新しきイヴェダの剣は、妾とたいして歳も変わらぬ若者なのじゃ」

 ペトラはない胸をこれでもかと逸らして意気軒昂である。

 イシュルはそんなペトラを見て肩をすくめた。乾いた笑みが湧いてきた。

 ……仕方がない。こういうことは避けて通れない。

 イシュルは近づいてくる公爵をはじめとする諸侯に、右手を胸に当てかるく腰を折ってみせた。

「はじめまして。ベルシュ村の住民、イシュル・ベルシュです」

 いつものごとく、貴族に対しても最低限の礼儀で済ます。

「いや、こちらこそお初にお目にかかる。レクセル・ベールヴァルドだ」

 ベールヴァルド公爵は品のいい笑みを浮かべると、イシュルの前に立ち肩をとんとんと叩いてきた。

 彼の後ろに立つ領主たちも一応は何の屈託もなく、にこにこと笑みを浮かべている。

「いや、敵が全軍で山を降りてきた時はどうなることかと思ったが……。素晴らしい戦いぶりだった。特に連合王国の失った精霊は、三十体を下るまい」

 ノルテが片づけた敵の精霊はほとんどが契約精霊だろう。ならばその期間はまちまちだが、少なくとも数日から長ければひと月近く、こちらに呼び出すことはできなくなる。

「きゃつらが尻尾を巻いて退却していくさまはまったく愉快、爽快だった」

 当然、アンティラに籠もる将兵は皆、街の住民も一部始終見ていたろう。

「此度の戦役は本当に危なかった。王家に代わり、私からも御礼申し上げる」

 公爵はそこでイシュルに頭を下げてきた。

 レクセル・ベールヴァルドはやや面長の整った顔立ち、よく手入れされた口髭を生やし、身分の高い貴族とはこうだ、といったいかにもな外見をしている。そういう空気感をまとっている。

 ただ彼も、その後ろに居並ぶ諸侯も皆甲冑姿で、同時に戦陣の匂いも漂わせていた。

「い、いえ……」

 イシュルは小さな声で、かるく首を横に振った。

 ……このひとは俺がペトラやヘンリク、マーヤたちとの個人的な関係で参陣していることをちゃんとわかっている、知っているわけだ。

「それで、そちらの方はどなたかな?」

 公爵はイシュルの斜め後ろに立つミラに顔を向けて言った。

「こちらは──」

「おお、あなたは!」

 イシュルが公爵にミラを紹介しようとすると、領主たちの間からひとつ、大きな声が上がった。

 ……ん? こんなところにミラの知り合い?

「うっ」

 後ろから聞こえてきた呻き声にイシュルが振り返ると、リフィアが顔を強ばらせて立っている。

 リフィア?

「間違いない、あなたはリフィア殿だ!」

 二十歳(はたち)くらいの、上背のある青年が領主の中からイシュルたちの前に出てきた。

 ……ミラじゃなくて、リフィアの知り合いか。

「ハネス!」

 ベールヴァルド公爵がその青年に声をかける。

 公爵の顔が緊張している。

 この男は公爵家の……。

「リフィア殿。昔、子どもの頃に王都でお会いしましたね? 憶えておいででしょうか。わたしがハネス・ベールヴァルドです!」

「……」

 リフィアがぎょっとした顔になって固まる。

「どうした? リフィア」

 イシュルはハネスを見、再びリフィアに振り向き彼女に声をかけた。

「ヘンリクさまからお話があったでしょう。……どうか」

 のっぴきらない、緊張した声音。

 イシュルは前を向きハネスの顔を凝視した。

 父親似か。公爵によく似た整った顔立ち。その顔が紅潮し、双眸が燃え盛るように揺れている。

「どうか、今すぐ返事を聞かせて欲しい。わたしの妻になってくれますか?」

 青年の声が広場に響き渡った。

 なにっ?

 イシュルは呆然とハネスの顔を見た。

 いや、その場にいるすべての者が驚愕し、青年を見た。

 公爵も、ミラも、諸侯らも。

 ……そしてリフィアも。



 周囲がざわつく。

 リフィアが真っ青な顔になってイシュルに囁いた。

「これは、……これは違うんだ」

 え、えーと。

 ……どういうことだ?

「……」

 イシュルはわけがわからず何も言えない。

「くっ」

 リフィアは急に顔つきをあらため、真剣な顔になるとハネス・ベールヴァルドの前に進み出た。

 ハネスもリフィアに負けず劣らず、真剣な表情になっている。

 ……そ、そうか。

 イシュルは互いに強い視線を向け合うふたりの姿を見て、ハネスが何を言ったかやっと理解した。

 ……あの公爵家の青年はリフィアに結婚の申し込みを、プロポーズをしたのだ。

 確かヘンリクが何たら、とか言ってたな。

「ハネス! こんなところで何を言う。やめるんだ」

 横から公爵が割りこんでくる。

「あの青年はベールヴァルド公爵家の嫡子ですわね、きっと」

 ミラが近寄り小声で言ってくる。

「あ、ああ。……そうかな」

「……」

 ミラに顔を向けると、彼女は恐ろしい顔をしていた。

 青い眸が冷たく燃えている。

「随分と直情的な方ですわね。こんな時に、こんな場所で求婚なさるとは」

 ……確かにとんでもないことだ。

 今は戦争中なのだ。だがそうじゃない。俺は……。

 イシュルの心のうちを、さまざまな感情が渦巻く。

 ……全身が燃えるように熱い。

「ちょっとお待ち願いたい」

 リフィアが厳しい視線を公爵に向け制止する。彼女の眸がわずかに赤く、光を帯びている。

「ハネス殿、せっかくの申し出だが」

 リフィアはハネスの熱い視線を真正面から受け止め、固い口調で言った。

「貴殿の申し出は、はっきりとお断りさせていただく」

 彼女は両手の拳をぐっと握り締めた。

「わたしにはもう、心に決めたひとがいるのだ」

 静寂に包まれた広場にどよめきが起こる。

 リフィアはしっかり、堂々と言い切った。

「……他の者など、考えられない」

 人々の声はすぐに静まり、辺りを再び静寂が覆う。

 横でミラが両手で口許を覆い、「まぁ……」と吐息を漏らした。

 ……決めたひとって、俺のことだよな。

 イシュルは全身から緊張が抜けるのを感じた。

 心の中に安堵感が広がるのを、いやでも感じずにはいられなかった。

 だがからだが熱いのは変わらない。いや、これは違う熱さか。

「ああ、なんてことだ……」

 そこへ耳を覆いたくなるような、深い絶望の声があがった。

 ハネスの燃えるような顔貌が歪んでいく。その見開かれた眸から光が消える。

 青年はふらっとからだを揺らし、後ろへ倒れそうになった。

「ハネス殿っ」

 後ろにいた領主のひとりが前に進み出、彼を後ろからささえた。

「大公から婚姻の打診があった時、その場ですぐに断わらなかったのはわたしの不明のいたすところだ。そのことに関しては素直にお詫び申し上げる」

 リフィアはがっくり項垂れるハネスに頭を下げた。

 静まりかえった場に再び、ひそひそと人々の囁く声が聞こえてきた。

「……マーヤ。まさかそなたが漏らしたかの」

「わたし、……そんなことしないよ」

 ……ん?

 イシュルの耳はその中から聞き慣れた少女たちの声を拾った。

 ミラのいる反対側、左側へ顔を向ける。

 広場の端、お付きのクリスチナやセルマらの影に隠れるようにして、ペトラとマーヤが何やらこそこそやっている。

 リフィアは公爵と小声で何事か話している。ハネスはまだショックから立ち直れていないようだ。

 イシュルはペトラとマーヤの方へそっと近づいた。

「……」

 クリスチナやセルマらペトラのメイドたちは、イシュルが前を横切ってもかるく会釈するだけで何も言ってこない。

 イシュルは彼女たちの横を回り込み、ペトラとマーヤの真後ろに立った。

「漏らしたとは何だ? 俺に説明しろ」

「ぎくっ」

「あうっ」

 ふたりの小さな背が縮こまる。

「あの公爵の息子は、ペトラのお父さんの名を出していたな? おまえらの知っていること、話してもらおうか」

「う、うむ」

「イシュルも耳ざといね。……うっ」

 ふたりはイシュルに振り返り、ペトラは少し罰が悪そうにだがすぐ素直に頷いた。だがマーヤは軽口を叩いて、イシュルに思いっきり恐い顔で睨まれ、首をすくめた。

「あれはだな、そなたが聖王国にいた頃の話じゃ。例のウルオミラの、あの件も絡んでくる」

 まずペトラが小声で話しはじめた。イシュルをじっと見上げてくる。

 ……紅玉石の、地神の魔法具のことか。

 イシュルの顔がより真剣さを増した。

「それでイシュルに相談したくての、リフィアが適任と考え、そなたを連れ戻しに聖王国に行ってもらうことにしたんじゃ」

「噂でリフィアが、イシュルのことを親の仇なのに憎からず思っている、って耳にしたから、わたしがフロンテーラまで確かめに行ったの」

 と、ペトラに続けてマーヤが言った。

 ……“噂”というのがどういうものなのか、それは“髭”の“報告”だったのか。

 イシュルには、ペトラの話をマーヤが補う形で説明がなされた。

 契約精霊のウルオミラから、地神のことでイシュルの力を借りたいと、前代未聞のお願いをされたペトラは、マーヤから赤帝龍の討伐から辺境伯暗殺までの一連の出来事で、リフィアとイシュルが愛憎の入り混じった因縁めいた関係にあるのを聞き、あえて彼女を使者に選び、そのころ聖都にいたイシュルに差し遣わした。

 リフィアにイシュルを迎えに行かせる、その説得には大公ヘンリクも一枚噛んだ。大公家は、辺境伯家で発行した債券に関し事情を聴取することを名目に、リフィアをフロンテーラに呼びつけ、ヘンリク自身が彼女に謁見した。

 その場でヘンリクは、リフィアに辺境伯家に対する資金援助を申し出、ベールヴァルド公爵家嫡男との婚姻話を持ちかけた。

 その話に関してリフィアは即答を避け、ヘンリクも無理強いはしなかった。ヘンリクはそこで、二百年前の連合王国侵攻時の、ベールヴァルド公爵家とオルベーラ伯爵家の因縁話をはじめた。

「あの時妾とマーヤは、広間の控えに隠れて、ふたりのやりとりを聞かせてもらったんじゃがの」

「おじさまはいきなり、変な話をはじめたの」

 マーヤの話によればその時ヘンリクは、連合王国側に裏切り、ベールヴァルドに滅ぼされたオルベーラ伯爵家の生き残りの娘と、滅ぼした側のベールヴァルドの次男がのちに結婚し、仲睦まじく末長く暮らした、その当時の話をリフィアに聞かせたのだという。

「……リフィアはあの時、きょとんとした顔をしてたよ」

 マーヤの眸が笑ってイシュルを見つめる。

「それは……」

 イシュルはなんとも言えない顔になって言った。

「大公はリフィアを焚きつけたんだ」

 まずベールヴァルドとの結婚話を聞かせて彼女に焦りを抱かせ、そこから互いに遺恨のある、オルベーラの姫君からすれば仇である相手との結婚、それも幸せな結婚話を聞かせる。

 リフィアは多分、俺とだってそういう結婚ができるかもしれない、互いに契りあってもいいじゃないかと、考えたかもしれない……。

 彼女も当然、大公の思惑に気づいたろう。だがリフィアにだって、もとから聖都行きを拒否する気はない。そのまま大公の思惑に乗ることにしたのだろう。

 彼女にも殺された父のことで俺と決着をつける、俺にどうしても会わなければならない大切な目的があったのだ。

「父上は連合王国の動向も心配していたからの。そなたに早く帰ってきてほしかったんじゃ」

「まぁ、そうだろうな」

 確かに時期的には一致する。その頃にはもう、連合王国のほとんどすべての国々がユーリ・オルーラの手に落ちていたろう。

「犯人はおじさまだよ」

「父上はベールヴァルドにも、リフィアとの婚姻を話していたかもしれぬ」

 ペトラは続いて、リフィア・ベームがその美貌と血筋、武神の矢を持ち文武に優れることなどの理由で、諸侯の同じ年頃の男たちから結婚相手として絶大な人気があったこと、ヘンリクがリフィアを餌に、国王派であったベールヴァルドを釣ろうとしていたのではないか、と説明した。

「……欲を出して二兎を追おうとするから、こういうことになるのじゃ」

 そこまで言ってペトラはため息を吐いた。

 ……だが、俺を王国に連れ戻そうとリフィアにそんな話をしておいて、ベールヴァルドにも同じ話をすれば、後になって政治的にも面倒なことになるのは、ヘンリクだって承知している筈だ。

 公爵家は何か別の、独自のルートでヘンリクとリフィアの会談内容を入手したのだろう。

 幼い頃にリフィアと面識があり、その面影をずっと胸に抱いてきた公爵家の青年。そこへヘンリクが彼女との婚姻話を進めている情報が入ってきた。

 彼はその話を耳にした時、どう思ったろう。

 そこまで考えればあの傍若無人な振る舞いも、少しは納得できるというものだ。しかもあの男はリフィアとの結婚にも申し分ない、花も実もあるベールヴァルド公爵家の嫡子なのだ……。

 と、そこで背後でぼそぼそと小声で話していた、リフィアとベールヴァルド公爵らの方から、少し騒がしい声がした。

「なんでしょう……」

 イシュルを追って彼の斜め後ろで話を聞いていたミラが、不審な声を上げリフィアたちの方へ振り返った。

「待たれよ、ハネス殿」

「待てっ、ハネス!」

 ……なんだかまた騒ぎが起こっているらしい。

 イシュルはペトラたち、メイドらの前に出て、リフィアのいる方へ戻ろうとした。

 リフィアとハネス、ふたりを囲む諸侯や騎士たちの輪が崩れ、当の本人、ハネス・ベールヴァルドが姿を現した。彼はイシュルを見つけると鬼気迫る顔になって近づいてきた。

「先ほどペトラ殿下から紹介された、イヴェダの剣とは貴公だ」

 ハネスの顔は青ざめ、何かに呪われたような恐怖と苦痛と、そして怒りに歪んでいた。

 その長身からイシュルを見下ろしてくる。

 彼は後ろを振り向き、側近か従者か、同じ鎧姿の騎士からナイフを受け取った。

「リフィア殿の想い人とは貴公であろう」

 青年は腹の底から低く、振り絞るような声で言った。

「止めるんだ、ハネス」

 彼の父、ベールヴァルド公爵の同じく低い声が横から響く。

 公爵はハネスの腕を取って揺すった。

 青年は公爵を無視して、ナイフの柄をイシュルに差し出した。

「貴公に決闘を申し込む。わたしが勝ったら、リフィア殿から身を引いていただきたい」



 一瞬、時が止まったかのようにその場が凍りついた。

「なっ、なんてことを!」

 イシュルに向かって歪みきった笑みを浮かべるハネス、その背後からリフィアの悲壮な叫び声が聞こえる。

「馬鹿を申すな。そなた、自分が何をやっているのかわかっているのか」

 公爵の悲痛な訴えが響き渡る。

「父上は関係ありません。どうかな? ベルシュ殿。わたしの申し出、受けてもらえないだろうか? もちろん貴公が勝てば、わたしは潔く身を引こう」

 周りは物音ひとつしない。異様な緊張感に包まれている。

 どこか遠くで野鳥の鳴く声が、空を渡る風の音が微かに聞こえてくる。

 陽が傾き始めた空はだが、相変わらず冴え渡っている。

 ……こいつは何を言っている。

 イシュルは無言で目の前の男を凝視した。

「お受けなさいませ。相手が死のうが気にすることはありませんわ。ここで引いては男がすたります」

 後ろでミラの冷たい声が聞こえた。その声は怒りに震えていた。

「今がどんな時か、どんな状況かわかって言ってるんだろうな」

 イシュルはむしろ抑えた、小さな声で言った。

 ……むっ。

その時、ハネスの背後に立つリフィアと目が合った。

 リフィアは眸を潤ませ、小さく震えていた。顔が真っ青だった。

 リフィア……、俺は……。

 ミラの言うとおりだ。俺は引くわけにはいかない。

 俺は彼女の愛に応えていない。この男の決闘の申し込みを、受ける資格はないのかもしれない。

 だがあのリフィアの顔はなんだ?

「そんなこと、もちろんわかっている。決闘は北線を取り戻してからで良い。……いかがか」

 ハネスはかわって今度は力ない笑みを浮かべて言った。

「だめだ。すぐにやる。さっさと終わらせる」

 イシュルは何かを押し殺した声で言った。

 ……戦争の邪魔しやがって。何をトチ狂ってやがる。

 怒りはそれだけではない。何か得体の知れない、無数の疼くものが心の底をのたうちまわる。

 イシュルは黒革のコートの内側から、投げナイフを取り出しその柄を相手に突き出した。

「……」

 ハネスの笑みが大きくなる。

 周りの静寂は変わらない。だが幾人かがわずかに身じろぎするのがわかった。

「承知した。今すぐでかまわない。だが決闘には条件をつけたい」

 ふたりの男は視線をはずさない。

 男の顔には同じ笑みが張りついている。

 ……そりゃそうだ。何も制約をもうけないなら、こいつはただ塵となって消えるだけだ。

 まともな決闘になどなりはしない。

「いいぜ。言ってみろ」

「わたしはこの剣で貴公と戦いたい」

 ハネスは腰に差した銀製の細身の剣の柄を握り、鞘から刀身の一部を見せた。

 華奢な、宝剣のような得物だ。見た目は戦場に持っていくような剣ではない。

 ……つまり、あの剣は魔法具、ということだ。

「この剣は“ベールヴァルドの白剣”という。“武神の覚え”というふたつ名がある魔法具だ。使う者に神技をもたらす。わたしはこれで」

 ハネスはだが悲壮な顔になって言った。

「貴公の“風の剣”と戦う」

「……バカな」

 イシュルは誰にも聞こえないような小声で呟いた。

 ハネスは互いの得物だけで戦おう、と言っているのだ。

 この男の剣はリフィアと同じ無系統の武神の魔法具、公爵家の魔法具であるからには、そのふたつ名の通りかなり強力なものだろう。

 ……だが、それがなんだというんだ。

「あんた、風の剣がどんなものか知っているのか?」

「もちろん、この目でしかと見たわけではない。だがその剣で金の魔法具持ち、ユーリ・オルーラを屠ったんだろう?」

 ハネスは本来なら、明朗で品のいい顔だちをしているのだろう。美男子というほどではないが、性別に関係なく好感を持たれるタイプではないか。

 だが今は顔を青ざめ、その輪郭は弛緩し、眸には逆に緊張が現れている。

 その眸がイシュルの腰にぶら下げた父の形見の剣を一瞥した。

 ……これはただの折れた剣だが、確かに風の剣にも成りうる。

 風の剣は魔法の、神の業の名だ。実体があるわけではないからどんな剣でも、それがなくても発動はできる。実物の剣があれば、それが慣れ親しんだものならより早く容易に発動できる、というだけだ。

「それでいいのか? あんたの魔法具がどんなに優れたものでも、決して勝てないぞ。風の剣には」

 風の剣を発動すれば、少なくとも俺自身の周り、小振りの剣の間合いくらいの範囲は、どんな魔法だろうと物理攻撃だろうと跳ね返す、干渉を受けない絶対防御の領域になる。それは結界などのレベルではない、神域のようなものだ。

 決闘は一対一の戦いだ。ユーリに初見で奇襲をかけた時のような、他者からの魔法でいきなり地が割れ水が噴き出す、こちらの集中力をかき乱すようなことは起こらないだろう。

 だからこの男がどんな魔法具を使おうが、勝つ見込みはほとんどない。不意打ち以外に俺に勝てる見込みはない。

 一方で風の剣はほとんど威力の調整ができないから、この男は確実に死ぬ。

 やり方は簡単だ。適当に引きつけて、下段から逆袈裟に斬り上げればいい。

 どんな魔力もその威力の前には消し飛ぶから、魔法で回避や防御はできない。

 それはつまり、俺がこの男を殺すことがほぼ確定してしまっている、ということだ。

「かまわないさ。それで」

 ハネスはそう言いながら、イシュルと鼻を突き合わせるような距離まで近づいてくる。

「……」

 イシュルは不穏な色をその眸に浮かべて、ハネスを睨(ね)めつけた。

 ……俺の心のうちをのたうちまわるもの、そのひとつがこれだ。

 俺はリフィアの愛に応えていないのに。逃げているのに。

 なのにこの男を殺さねばならないのだ。

 ハネスはイシュルに顔を近づけると囁くような小声で言った。

 その顔には冷たい笑みが浮かんでいた。絶望の微笑が浮かんでいた。

「もう、我が生に意味はない。……頼む。どうか、どうか少しでも早く」

 彼の声はイシュルにしか聞こえなかった。

「わたしを殺してくれ」

 


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