北辺を抜く 1



「またか。系統が違ってもそこは同じか」

 イシュルは初めて召喚した金の精霊の名を耳にすると、がっくり肩を落とし、辛そうな顔になった。

 ……えーと。シルバスト……ル、ブ、ブェル……? よくわからん。

 とにかく長ったらしい名前は高位の精霊の証だ。仕方がない。

「シルバ、でいいかな」

「うむ。承知した、盾殿」

 盾、殿か。剣殿ときて盾殿。そこまではいい。

 次にもし、地の魔法具を手に入れ精霊を召喚したら、今度は“杖殿”とか、“杖さま”とか呼ばれるわけか。

「……」

 イシュルは思わず顔を歪ませた。

 たとえば水神フィオアの像は水瓶、壺を持っている。

 同様に俺は水の精霊から、“水瓶殿”とか“壺さま”とか呼ばれちゃうのか?

 それってどうなんだ? カッコ悪すぎだろう……。

「どうされたかな。顔色がすぐれぬようだが」

「いや。なんでもない」

 とにかく今はそれどころじゃない。この課題は後で考えよう。

 対岸はまだ片づいてない。

 ノルテヒルドの方から火と風か、複数の魔力の煌めきが連続するのが視界の端に飛び込んでくる。

 風の魔力はノルデのものではない。敵の騎馬隊からだろう。魔法使いが混じっているのだ。

 イシュルが対岸の方を見ると、ちょうどノルテヒルドが敵から放たれた風の矢、火球を自らの剣を横に払って叩き飛ばしているところだった。

 ノルデはひょいひょいと剣を振り余裕たっぷりで、見ているこちらがいたたまれなくなるような力量の差があった。

「ノルデ! 全部は殺すなよ! ひとりふたり生かして捕まえろ」

 イシュルは風の精霊に大声で叫んだ。

 ……承知。

 彼女の声が心のうちに響いてくる。

 続いてノルテヒルドは、敵の三十騎ほどの騎馬隊に特大の風の刃を飛ばし、一瞬で殲滅した。

 味方騎士団から百長歩(スカル、約65m)ほど離れた先、立ち上る土煙が横風に吹き流れると、一騎だけが突進していたそのままの姿で、青白く輝く結界の中に捕らわれていた。黒いマントの魔法使いらしい人物と馬が人形のように固まっていた。

「うまいぞ」

「ふん」

 イシュルがノルテヒルドを褒めると、金の精霊のシルバストルが彼女を見て、鼻で笑った。

「あの風の精霊も盾殿が召喚したのか」

「そうだ」

 イシュルは眸を細めてシルバを見やった。

「あのな、……別にふたり、仲良くしろとは言わない。だが無用な諍いはするなよ」

 イシュルは低い声で、怒気を隠さず言った。

 系統の違う精霊どうしは仲が悪い、のが常だ。それはわかっている。

「むっ。……承知した」

 シルバは一瞬、不服そうな態度を示したがすぐにあらため、背筋を伸ばしてイシュルに頭を下げてきた。

 シルバも大精霊か、それに近い高位の精霊だろう。

 だがそんな気位の高い精霊でも、いざとなれば完全に支配できる力が神の魔法具にはある。

「……!!」

 そこへすうっと、清麗に輝く女の精霊が姿を現した。

「エルリーナ!」

 イシュルが思わず叫び声をあげる。

 ニナの契約精霊、美貌の水精エルリーナは、イシュルににっこり笑いかけると、右手をすっと伸ばして橋の方を指差した。

 イシュルの架けた橋の真ん中のあたりに、ニナとパオラ・ピエルカがいる。

 ふたりが対岸の味方騎馬隊の方を指差している。

「ふむ……」

 イシュルが視線を移動させていくと、ノルテヒルドの声が脳裡に響いてきた。

 ……剣殿、こちらの風の魔法使いの少年があなたを呼んでいる。

「ん?」

 風の魔法使いの少年?

 イシュルは対岸の騎馬隊を凝視した。

「ルースラか」

「シルバ、彼女たちを頼む」

 イシュルは視線で砦の先、広場の中ほどへ移動してきたペトラたちの方を指して言った。

「御意」

 シルバが頷くとイシュルはアンテル川を一気に飛び越え、騎士らの集まっている辺りに着地した。

「ベルシュ殿!」

 すぐ目の前にいた騎士団長のラナル・ブラードが驚きの声を上げる。

「ルースラ殿はどこに?」

 イシュルはラナルに頷くと軍監の居場所を聞いた。

 川岸には川に落ちた騎士らが救いあげられ、何人かが川に飛び込み、同じく川に落ちた数頭の馬をなだめて岸の上にあげようとしている。

 無事渡り終えた騎士らは下馬して火を起こす者、溺れた者を介抱する者もいたが、大半は騎乗したまま適度な距離を保ち、半円状に散開していた。

「軍監殿はあちらです」

 ラナルが指差す方にはノルテヒルドが捕らえた敵の魔導師の姿があった。

 周りにはルースラと茶色の上着を着た“髭”の男たちが数名、固まっている。

「ノルデ、結界を解いてくれ」

 イシュルは騎士団長の指差した方へ駆けながらノルテヒルドに声を出して命じた。

 ……わかった。

 空中で周囲の警戒を続けているノルテヒルドから声が返ってくる。

「イシュル殿っ」

 イシュルが駆け寄ると、ルースラは心持ち緊張した顔で声をかけてきた。

 彼の背後には広く地面が抉られ、人馬のちぎれた足や頭部らしきからだの一部、肉片が散乱している。ノルテヒルドが放った風の刃の跡だ。

 そして“髭”の男たちに捕らえれた、魔法使いの男がいた。年齢は三十くらい、日焼けした顔に無精髭を生やしている。

 魔法使いの男はふたりの“髭”の男に後ろから両肩をつかまれ、地面に膝立ちになって押さえつけられていた。男は味方のあっという間の全滅にただ呆然として、なんの抵抗もせず無言で視線を宙に彷徨わせていた。

「申し訳ない、抜かりました」

 ルースラが真っ青な顔で言ってきた。

「急ぎましょう。敵はアンティラを攻撃するかもしれません」

 彼の声が上ずり、震えていた。その眸に怯えの色が見えた。



「……」

 ペトラとマーヤ、そしてリフィアがむすっとした顔をして考え込んでいる。

 異国の貴族でイシュルの朋輩、あるいは従者的立場であるミラの顔色もすぐれない。

 騎士団長のラナルはわずかな憂色を見せながらも、筋金入りの武人らしく気概のこもった表情を崩さない。

「でも、時間が合わないですよね」

 イシュルは困惑する一同の疑問を代弁するように発言した。

「ええ。それはおっしゃるとおりです。とりあえずあの正体不明の魔導師を拷問します。行軍しながらやります」

「確かに。あの男の面が割れれば何かわかるかもしれないですね」

 イシュルは薄く歪んだ笑みを浮かべて頷いた。

 現在、派遣支隊幹部の主要な面子であるイシュルたちは、総大将のペトラを囲み、アンテル川の北岸からほど近い軍都街道の道端にいる。

 ニナとパオラ・ピエルカは河岸の方に残って警戒を続け、イシュルの召還した精霊のノルテヒルドとシルバストルは、部隊の進行方向、北側を中心に同様に警戒を続けている。

 騎士団と輜重、ロミールら従者たちは南側のニナたちと、北側の精霊たちに挟まれた街道沿いに周囲を警戒しながら待機している。

 支隊の渡河時、両岸でほぼ同時に発起された敵軍の襲撃は、少し遅れて北岸側から攻撃してきた少数の騎馬隊の全滅をもって終わりを告げた。

 敵騎馬隊は王国側の魔導師や精霊による暴露を怖れ、アンテル川から数里長(スカール、一里は約650m)ほど離れた、今イシュルたちのいる街道の、北側に見える木立に潜み待機していたが、やはり距離がありすぎ、両岸で行われた同時攻撃にやや遅れる形となった。

 支隊が全てアンテル川の北岸に渡り終えると、ルースラはイシュルに、続いてペトラたちに、先ほどの襲撃が連合王国軍の組織的な攻撃であり、遅延工作であると断じ、敵軍が味方の諸侯軍が立て籠もる城塞都市アンティラに、全力で攻撃を行う可能性があると告げた。

 それは奇しくも、イシュルが「荊冠の間」で話したことが現実味を帯びてきたことを示していた。

 敵軍の意図がルースラの指摘する通りならば、それを打破するにはただひとつ、一日でも早くペトラ率いる北線派遣支隊がアンティラに到着すること、ただそれしかなかった。

 事態は急変した。軍監であるルースラも、騎士団長のラナルも、イシュルたちも油断していたか、敵の組織的な襲撃を予測できなかった。

 重要な街道と河川の交わる要衝において、その渡河時を狙って攻撃を仕掛ける──これ以上はない基本に徹した敵の大規模な工作はそれ故に、敵方がユーリ・オルーラの敗死による戦意喪失どころか未だ王国侵攻の野望を捨てず、例えばアンティラ攻略など、重大な作戦さえ企図していることを、いやが上にも想起させた。

 ……何かやってくる、フロンテーラの時のように、沿道に見物に出てきた街の住民に紛れ何かしてくる、それは懸念していたのだが。

 イシュルは浮かぬ顔をする面々を見回した。

 皆が納得していないのも当然だ。敵の戦意が旺盛であること、何か重大事を企図しているらしいのが知れたのはいい。だが一番の問題、不審が拭えないのは、敵の工作部隊の配置があまりにも早すぎる、ということだ。

 敵方の魔導師にはルースラの契約精霊のような、長距離の連絡が迅速にできる精霊を使役している者もいるかもしれない。もうすでに敵はユーリの死やこちらの状況、ペトラを総大将とする支隊が北上していることを知っているかもしれない。

 だがそれでも、あれだけの魔導師や影働きをロブネルに派遣し配置する時間はとれない。

 バルスタールからロブネルまでは、どんなに急いでも三日はかかる。三日前といえば、派遣支隊がアベニスを出発した日である。ユーリと戦ったのはその前日である。

 つまり敵方は三日間でユーリ・オルーラの敗死と派遣支隊の出陣を知り、襲撃部隊を編成、ロブネルに移動、配置しおえたことになる。

 それはあり得ない。物理的に、いや、どんな魔法のからくりがあっても不可能だろう。

 まさかあの魔法具屋の老婆、チェリアのような存在がいるとでもいうのか?

 人や精霊だけでない、三十騎もの人馬も瞬時に移動できるような、彼女以上の存在が。

 そんな機動、戦闘部隊の瞬間移動を自由自在にできる魔法を連合王国が持っているのなら、もうとっくの昔に大陸全土が彼らのものになっていただろう。

 それとも、ユーリと謀将のドレーセンはこの日のあることをあらかじめ予測し、先ほどの工作を手配していたとでもいうのだろうか。

 ……何か、裏があるのだ。

 それがどんなものか、まったくわからないが。

 それをいち早く知るには、あの捉えた魔導師の口を割るしかない。

「……そうですね。しかし、いい判断でした。イシュル殿」

 ルースラが言ったことは、イシュルが敵方の魔導師を生け捕りにしたことだ。

「何か、思い当たることでもあったんですか? しかし恐ろしい方ですね、イシュル殿は」

 イシュルが微笑を浮かべたまま無言、控え目な反応しか見せないでいると、ルースラは念を押すように続けた。

 襲撃を受け混乱した状況において、イシュルは最初から情報を得ることを念頭におき、ノルテヒルドに敵捕縛の命令を下した。それはプロの影働きの者や経験を積んだ傭兵らでないと、あの状況でそう簡単に判断できることではなかった。

「いや、特には。何となく敵の意図を調べた方がいい、と思っただけですよ」

 ……ノルテに敵の魔導師を生かして捕えるように命じたことは、本当にあくまで勘、反射的に、無意識に思いつき口に出たことだ。

 前世での仕事のときも、今世での争闘、戦いのときも、勘や予感で素早く動きズバリそれが当たる、などということはままあることだ。

 ただ、機会があれば少しでも、どんな場面でもより多くの情報を得ることが大切だという原則、影の者を捕まえても口を割らせることは難しいが、魔導師ならそれも不可能ではないという事例、これらのことは聖都で国王派とやりあった経験で得られたものだ。

 あの二つの顔を使い分けた影働きの元締めの老人、フレード・オーヘンや、智謀の人、アデール聖堂の神殿長シビル・ベーク、そして稀代の策士にして次の聖王国の国王、サロモン・オルスト……彼らとのやり取りの積み重ねで学んだことだ。

 あまりに意外な、予想外の出来事にはかならず何か、裏がある……。

 陽は早くも中天に登り、一同の思いとは裏腹に、清々しい青空が広がっている。

 風向きがいいのか、ノルテヒルドの魔法で多くの敵騎馬隊が四散し消え去った、辺りに漂う血肉の匂いも、争闘の匂いもしない。

 端から見ればイシュルたちは、街道脇の見晴らしのいい草原の上で、何気ない立ち話をしているように見える。

 ……だが今は、不可解な敵の襲撃の真相を知る前に、やらなければならないことがある。

「それより、今後の行軍ですが……」

 先ほどの襲撃でこれから先も、ロブネルのような街に宿泊はおろか、通過するのさえ困難を伴うことが予想される。

 イシュルはルースラに、続いてペトラ、マーヤ、リフィアへと視線を回し話しはじめた。



 ペトラ率いる派遣支隊は川に落ちた騎士らを収容した後、行軍速度を上げて北上を開始、その日は街道沿いの街チェクラルを通過後、近隣のクラーシュと呼ばれる集落にて野営を張った。同隊はクラーシュの北側に広がる牧草地を借り受け、総大将のペトラ以下すべての者がテントを張り、クラーシュの民家に分宿することを避けた。

 部隊がチェクラルを通過する時にはイシュルの召喚した二体の精霊、ノルテヒルドとシルバストルが先行し街の上空に実体化、一般の人々も目視できるように姿を現し、辺りを威圧した。

 ノルテヒルドは銀色に輝く美麗な鎧に純白のマント、華やかな金髪を煌かせ、シルバストルは赤銅色の引き締まった顔に、南方ベルムラの習俗を思わせる、青地に金の装飾がなされた鎧姿を見せ、眼下を睥睨した。

 風と金の大精霊が街に現れ、魔法に関する知識の薄い街の住民は何事かとただ驚くだけだったが、住民に紛れ潜んでいた魔法使いや影働きの者たちは恐慌をきたした。

 ある者は露骨に街から出ようと逃走をはかり、ある者は息を殺して家々の奥底に隠れた。目立つ動きをした者は敵味方の別なく、ノルテとシルバに瞬時に殺された。

 支隊はその中を、王国旗や大公旗を押し立て悠々と通過して行った。

「凄かったですね、イシュルさん。あのふたりの精霊さま」

 目の前には火にかけられた鉄鍋、中には干し肉や豆、芋などが入れられ、先ほどからぐつぐつと煮だっている。

 焚き火の前に座るニナがイシュルに声をかけてくる。

 彼女は先ほど、このところ日課となっているイシュルの治療を終えたところだった。

「効果はあったな。アンティラまではあれでいくのがいいだろう」

 イシュルはニナに答えると隣のロミールを見て「そろそろじゃないか」と言った。あまり長く煮立たせるとスープの味が落ちる。

「はい」

 ロミールが鍋を焚き火から降ろし、仕上げにパセリに似た刻んだ香草を振りかける。

「あら、いい香りね」

 少し離れた騎士団長のテントから歩いてきたパオラ・ピエルカが、にこにことした顔で近寄ってくる。

「あっ、は、はい。ありがとうございます!」

 今までイシュルとニナを相手にくつろいでいたロミールは急に背を伸ばし、緊張した声で叫ぶように言った。

 王国最高の水の宮廷魔導師であるパオラ・ピエルカの名は、ロミールら王家や大公家に仕える従者の間でもよく知られていた。

 彼にとっては親しみやすいイシュルやニナと違って、パオラは緊張せずにいられない相手のようだった。

 ペトラのテントを中心に周囲に張られた多数のテント、その中の比較的小さな一つがイシュルとロミールの使うテントである。ニナとパオラの寝泊まりするテントはイシュルたちのテントの隣に張られ、今日の夕食は彼女たちとともにすることになった。

 いつも一緒になるミラやリフィアのテントは、ペトラのテントを挟んでちょうど反対側にあり、万が一の事態を想定して、今日は隣接する者どうしで個別に夕食をとることになっていた。

「無事チェクラルの街を抜けられたのもイシュルさんの精霊のおかげね。本当に助かるわ」

 パオラが、ロミールからスープを受け取りながら言った。

「本当に凄かったです」

 ニナが先ほどと同じ台詞(せりふ)を繰り返す。

「うん」

 イシュルは笑みを浮かべながらも言葉少なにスープに匙を差す。

 ロブネルの襲撃の後、イシュルがペトラやルースラに提案したのは、自身の召喚した精霊二体を誰の目にも見えるように実体化し、軍都街道沿道の街や村々に先行、頭上から威圧させることだった。

 二体の大精霊の出現に、もし敵方の魔法使いや猟兵、影働きの者が潜んでいれば、皆逃げるか、身を潜めて妨害工作を断念せざるをえないだろう、というのがイシュルの考えだった。

 事情のわからない、魔法や精霊などと縁のない一般の領民は驚き恐れ、中には慌てふためく者も出てくるだろうが、彼らの反応は当然、任務に就く魔法使いや影働きの連中とは違ってくる。人や動物の殺気、恐怖を読むのに優れる精霊なら、その違いをはっきりと見極めることもできる。

 怪しい動きをした者は、ノルテヒルドとシルバストルによって瞬時に抹殺された。

 イシュルの提案はペトラたちの了解を得て実行に移され、充分な効果を発揮したのだった。

「でも、味方の影働きの連中も、一緒に始末してしまうこともあるでしょうね」

 イシュルはスープに浮かぶ肉の塊に視線を落として言った。

「それは大丈夫よ。味方の“髭”の者たちにはもう、連絡が回っていると思うわ。彼らには独自の連絡手段があるから。心配しないで」

 パオラがやさしく諭すように言ってくる。

「それにロブネルの襲撃だって……。アンテル川で敵の水精を召喚させてしまったのは私の油断。あなたが気にする必要は何もないのよ」

 イシュルが先ほどからふさぎ込んでいるのを気にしてか、パオラがそんなことを言ってきた。

「あのルースラ殿も油断したって言ってました。仕方ないです」

 ニナも必死に口添えしてくる。

 ……ニナはいつも真面目で一生懸命、ひたむきだ。

 だが俺はニナよりも、パオラ・ピエルカよりも力のある者なのだ。敵の魔力を誰よりも早く察知し対処する、しなければならない立場にいる。

「……」

 イシュルは再び笑顔をつくって頷く。

 そしてちらっと視線を南の方、テントの並び立つ先の木立の方にやった。

 夕餉の刻にせわしなく動きまわる人々、その間を縫ってイシュルの視線の先にひとり、茶色の上着を着た男の近づいてくる姿があった。

 ……俺がふさぎ込んでいるように見えるのなら、それは敵の襲撃を見過ごしたことじゃない。あの男に絡む件なのだ。

 イシュルは夕食のスープを一気に飲み干すと、空いた皿をロミールに渡し立ち上がった。

「えっ……」

 ロミールの呆然とした顔がイシュルの視線を辿って、“髭”の男の姿をとらえる。

「……わたしは遠慮しておくわ。後で教えて頂戴」

 イシュルがパオラを見下ろすと、彼女は少し寂しげな笑みを浮かべて言った。

「あ、あの」

「ニナも来ない方がいい」

 パオラの言っている意味をわかっているのか、わからないのか。イシュルは構わず、ニナに低い声でそれだけを言った。

「ベルシュさま」

 “髭”の男はイシュルの傍までくるとわずかに頭を下げ、小さな、落ち着いた声で言った。

「……」

 イシュルは無言で頷くと、男の後ろについて木立の方へ歩いて行った。

「あの、おかわりは……」

 後ろからロミールの、いささか場違いな台詞が聞こえてきた。

「いらない。全部食べちゃっていいぜ」

 イシュルはかるく笑みを浮かべると、後ろへ振り返りロミールに言った。 

 ……とてもじゃないが、飯を食う気にはなれないだろう。

 前を行く、茶色の上着の男が肩をすくめるのがわかった。



 血の匂いがわかるのか、チェクラルの街の方から鴉(からす)の群れがやってきて、盛んに鳴いている。

 イシュルが木立の中に停められた馬車の前まで来ると、予想に反し捕らえた魔導師の拷問はすでに終わっていた。

 ロブネルで捕らえた火魔法を使う敵の魔法使い──おそらく連合王国のどこかの国に仕える魔導師の男は、その後支隊の馬車に乗せられ、ルースラと“髭”の男が同乗し車内において尋問、いや拷問が行われた。

 敵の襲撃により派遣支隊は行軍を急ぐことになり、敵の虜囚に対する尋問も急ぐ必要があった。拷問が必要ならそれも行軍中に行い、早急に敵工作部隊の正体、襲撃の目的を知る必要があった。

 イシュルは野営地に着いてからルースラに呼ばれ、拷問に立ち会うよう要請されることを予想していた。覚悟していた。

 頃合いから敵の魔法使いが口を割るその場に立ち会うことになるか、あるいは自身の魔法で口を割らせることになるか、そのどちらかの事態になることを覚悟していた。

「こちらの知りたいことはあらかた、吐いてくれましたよ」

 疲れの色を薄っすらとその面(おもて)にのぼらせ、それでもルースラは微笑を浮かべた。

 イシュルはルースラの顔をみると視線を彼の足許に落とした。

 馬車の前にはマントをかけられた魔法使いの死体が横たわっていた。

 ルースラと死体、その向かいには“髭”の男が二名、立っていた。彼らは無表情な顔をうつ向け、魔法使いの死体をじっと無言で見つめていた。

「……」

 思ったよりもかなり濃密な血の匂いに、イシュルはいささか辟易した。

 そのマントの下の死体がどんな有様か、車内で行軍中、どれほどの拷問が行われたか。

 まともな拷問具はないだろうから、それはより直接的なものになっただろう。

「もう、この馬車は破棄しなければなりませんね」

 イシュルが馬車の方に視線をやると、ルースラが続けて言ってきた。

 彼は微笑を崩さない。

 ……この男も辛かろうに。

 だがこれは、なかなかいい情報が得られたのではないか。

「ん?」

 その時、後ろから複数の人々が近づいてくる気配を感じた。

 ……くそっ。やはり来たのか。

 イシュルから突然、得体のしれない殺気が、魔力が放射された。鴉の群れが悲鳴をあげ、南の空の方へ逃げていく。

 上空で、野営地の南半分を警戒させているシルバストルが何事かと、一瞬姿を現し、すぐにその気配を消した。

 後ろを振り返ると、ペトラとマーヤにリフィア、それにシャルカを引き連れたミラの姿まであった。

 イシュルはため息を吐き幾分肩を落とすと、周りに風を吹かせた。辺りに漂う血の匂いを少しでも薄くしようとした。

 なぜだかわからない。争闘の血の匂いと、拷問による血の匂いでは何かが違う。

「ミラまで……、来ちゃったのか」

「もう済んだようじゃな」

「ルースラ、話を聞かせて」

「わたしとミラ殿は、ペトラさまの護衛だ」

 ミラは無言でつつ、とイシュルの傍に寄ってきて彼の袖をつかんだ。

 ペトラとマーヤは真剣な顔で、リフィアは顎をツンと横にそらして言ってきた。

 ……マーヤはいいだろう。彼女はおそらく、“髭”の元締めのひとりでもある。過去には拷問に立ち会うこともあったかもしれない。

 ペトラは部隊の指揮官だ。仕方がない。

 だがリフィアとミラまで、同道する必要はなかったのではないか。

「イシュルさま、わたしたちも聞く必要がありますわ」

 横からミラが囁くような小声で言ってきた。

「……では、この魔導師から得た情報をお話しましょう」

 イシュルがミラに不承不承といった感じで頷くと、ルースラはペトラに会釈し、一同を見回し言った。

「この男の名はローディク・ベール、連合王国諸国では大国の一つ、ノイマンス王国に仕える火の魔導師です」

「むぅ……」

「それは……」

 ペトラとリフィアから呻くような声が漏れる。

「ロブネルの襲撃は、ノイマンス王国とアグニア王国の魔導師、猟兵の部隊によるものと判明しました」

 ルースラは珍しく、その双眸に殺気を漲らせて言った。

「両部隊の第一目標は北線に帰還するであろう、彼らにとって味方の軍勢、総大将ユーリ・オルーラ率いる王都派遣支隊。厳密に言えば当の本人、ユーリ・オルーラそのひとでした」



 イシュルたちを囲む常緑樹の木々、その木漏れ日が紅く染まり、暗く沈んでいく。

 どこからやってきたのか、鴉の群れを蹴散らしても、名の知れぬ野鳥の鳴く声がやまない。

 連合王国で一二を争う大国、ノイマンスとアグニアの両王国はその裏で手を結んでいた。

 彼らは、ラディス王国の新しいイヴェダの剣、イシュルとの戦闘で、ユーリ・オルーラが勝利するとしても無傷では済むまいと考え、状況によってはロブネルでアンテル川渡河時を狙い、奇襲をかけてユーリ・オルーラ当人の暗殺を企てたのだった。

 もしユーリ・オルーラが敗れれば、暗殺目標をいずれ北上してくるイシュルに、それが無理なら総大将となる王家の者に変更する。

 それでロブネルには早くから魔導師や影働きの猟兵が配置され、ユーリ・オルーラの戦死後も撤退せず、同地に待機していたのだった。

「くくっ、……それは面白い」

 イシュルは一同の思いを代弁するかのように、冷たい声音で言った。

「さすが、戦乱の地の国々の考えることは悪どい、容赦ないな」

 リフィアが胸の前で両腕を組み、ため息まじりに言う。

「オルーラ大公国と、ノイマンスとアグニア両王国の関係はどうなっているのかの」

「一言で言えば面従腹誹。以前から両王国が中心となってオルーラ大公国を補佐する形になっていましたが、それも表向きだけだった、と言うことです。これはユーリ・オルーラの死後も変わっていないでしょう」

 ペトラの質問にルースラが答える。

「これから先ノイマンスとアグニアは、折を見てオルーラ大公国から主導権を取り上げる腹づもりでしょう」

「やっぱり敵はアンティラを攻撃してくるかも。急がないと」

 マーヤの言に一同が頷いた。

 連合王国のノイマンスとアグニアの両王国は、ユーリ・オルーラの残した二つの果実、バルスタール城塞群の占領とラディス国王軍殱滅の成果を我が物とし、今後も戦争を継続、主導しようとしていたのだった。

 陽が落ち、辺りが暗闇に包まれようとしている中、イシュルたちは自身のテントに帰っていった。

 リフィアは木立の茂みを後にする時、“髭”の男たちに低い声で言った。

「この魔導師の亡骸は、丁重に葬るように」

 イシュルは横で小さくため息を吐き、心のうちに湧き上がるドス黒いものをぐっと抑えにかかった。

 ……この黒く汚れたものを野放しにしてしまえば、俺は北辺の地で大虐殺を行うことになるだろう。

 戦場では正義を、正道を求める心が逆に、悪虐を生んでしまう時がある。

 それを押しとどめなければならない。

 ……ある程度はな。

 イシュルは一瞬、歪んだ笑みを浮かべるとすぐに引っ込め、星々が瞬きはじめた北の空を見上げた。


 


 

 ラディス王国大公軍北線派遣支隊はその後、要所要所でノルテヒルドとシルバストルを前面に押し立て街道を急ぎ北上、途中大きな妨害に会うこともなく三日後には城塞都市アンティラの南方、およそ百里長(スカール、約65km)弱の距離まで達していた。

 軍都街道の西方を並走する北ブレクタス山脈は、その東西にも伸ばした広大な山並みを次第にすぼめていき、アンティラの周辺ではその山裾がそのまま主山脈の峰々へと続く、単純な地形へと変化していく。山脈の標高も同地周辺では二千長歩(スカル、約1,300m)を割り込み、やがて緩やかな曲線を描いて北部の湖沼地帯に消えていく。

 イシュルは急激に下がり始めた気温に、前日から黒革のコートの上にさらにマントを羽織り、時折山の方から吹きつけてくる冷風に、馬上で身を竦めた。

「近いな……」

 馬蹄の音の連なりに、リフィアの呟く声がなぜかはっきりと聞こえてくる。

 近いとは何か。そのままの意でアンティラが近いのか、あるいは戦雲が近い、とでもいうのか。

 イシュルが銀色の派手なマントを翻すリフィアの横顔を見やった時、前方の偵察に先行させていたノルテヒルドの声が脳裡にこだました。

 ……敵の軍勢が動いている。大軍が山を降りてきている。城塞都市の手前の砦らしき場所では小競り合いが起きている。

「来たか」

 ……間に合ったな。

 敵がユーリ・オルーラの敗死を、さらに北線派遣支隊北上の情報を得るのに三日、軍議を開き、出撃の準備をするのに一日、都合四日間で、本来ならこちらがアンティラに到着する二日ほど早く、攻城戦を開始できるタイミングだ。

 二日でアンティラを落とすのは不可能な筈だが、アンティラには戦死したデメトリオの未亡人や遺児らを中心に、彼の派閥に属する諸将もいる。味方に裏切りは絶対出ない、とは言い切れない状況だ。

 彼の派閥の者たちがユーリの敗死を知り、逆に一か八かの暴挙に出る可能性だってなくはない。なぜなら、このままラディス王国が勝利すれば、ヘンリクが王家の実権を握れば、彼らがどんな立場に置かれるか、それは誰の目にも明らかであるからだ。

 同じく一か八かの連合王国軍にも、アンティラ攻城において、何か奇策を用意しているかもしれない。

 だが、こちらには俺がいる。

 敵軍がアンティラを落としていないのなら、いくらでもやりようはある。

 いや、単純に俺が力を振るうだけでいいのだ。

 イシュルは、前を行くペトラとマーヤの乗る戦車(チャリオット)に大声で「先に行く!」と叫び、続いて並走するリフィアに、「シュバルラードを頼む」と声をかけると、返事を待たずに空中に躍り上がった。

 支隊の先頭部までそのまま空を飛び、空中から馬上のルースラを呼んだ。

「ルースラさん、敵が動いた。大軍が山を降りてきているらしい。アンティラ手前の支城で戦闘がはじまっている」

「なんと!」

 ルースラの横を走る騎士団長のラナル・ブラードが驚きの声を上げる。

「手前の支城とはベンデーク砦ですね」

 ルースラは片手を手綱から外し、自身の顎を掴んで考え込むような仕草をした。

 周囲の雑木林と草原が斑らに広がる景色が、冬のくすんだ緑の帯となって視界を流れていく。

「これから俺が先行して、そのベンデーク砦の敵も山を降りる主力も撤退させます」

 イシュルはルースラからラナルに視線を向けて続けた。

「支隊はこのままベンデーク砦を目指してください。急がず、伏兵に気をつけて」

 ……まぁ、騎士団長に「伏兵に気をつけて」なんて言うのも、ある意味失礼な物言いだが。

「シルバ、行くぞ。ついて来い! ……ん?」

 イシュルが、隊列の上空に姿を現したシルバストルに声をかけ、上昇しようとすると、視界の端をあの魔力の先鋭な光輪が走った。

「うわ」

 と同時に、背中を誰かに万力のような力で掴まれる。

 イシュルは思わぬ衝撃に一瞬、空中でバランスを崩しそうになった。

「イシュル、わたしも連れて行け」

 後ろを振り向くと、リフィアが片膝をイシュルの背中に押し付け、片手で右肩を握りしめていた。

「リフィア……」

 ……俺はおまえの馬かよ。

 イシュルは心のうちで毒吐くと、にんまり得意げなリフイアの背後に視線を移した。

「リフィアさん。ずるいですわ」

 リフィアの背後には、シャルカの肩に乗ったミラが宙に浮いていた。

「じゃあ、行くか」

 敵は数が多いだけで、もう神の魔法具を持つような強敵はいない。

 イシュルは小さくため息を吐くと、ルースラに目線で「お先に」と伝え、空に飛び上がった。

 冷たい空気の流れを魔力で払いのけ高度を上げていくと、素晴らしい眺望がイシュルの前に広がった。

 西側に北へ延びるブレクタスの山嶺は、山頂がところどころ冠雪に白く輝いている。東に向かって伸びる山裾の先にアンテル川が銀色に光り、城塞都市アンティラの灰色の塊がそのすぐ側を、地平にへばりついて見えた。その先には靄に霞む大陸の北辺、大湿原と森林地帯が遠く、どこまでも広がっていた。

 そして手前の小集落、おそらくベンデーク砦には二千ほどの兵馬の群れが、ブレクタスの山裾を、無数の軍旗を押し立てた連合王国軍が数条の黒い筋となって、見え隠れしていた。

「素晴らしい……」

 イシュルは目の前に広がる眺望に感歎の声を漏らすと、まずは辺りを漂う大小の雲を遠くへ、視界の外へと吹き飛ばした。

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