荊冠の間


 王国北辺の地、バルスタール城塞線へ急ぐ大公軍北線派遣支隊は、アベニスを出撃した二日後、ベールヴァルド公爵家の主城であるサーベラル城に入城した。

 支隊は同城に丸一日駐留し、城下の街、同サーベラルにおいて主に糧食、防寒具の調達にあたった。

 同派遣支隊はもともと、ヘンリクが王都に急行すべく本隊より引き抜いた先行部隊から、さらに分派されたものである。騎士団も精鋭が、輜重の荷馬車や曳き馬も優秀なものが充てられたが、兵糧は決して充分ではなかった。寒冷地への派遣に必要な装具も持たなかった。

 同支隊の軍監であるルースラ・ニースバルドは、その補給を王都北方、近郊ではもっとも大きな街、サーベラルで行うことにした。

 ユーリ・オルーラは王都へ向かう途上、威嚇のためサーベラル城に散発的な攻撃を加えただけで、市街には手を触れず、一部の商人から物資を徴発した後そのまま通過して行った。

 結果、大公軍支隊が同城に入城した時には、すでに市街の各所で市が立ちはじめていた。

 補給は当地の商人ギルドや職人ギルドを通じて徴発、あるいは購入されるが、騎士や魔道師たちが私物を購入する場合は、本人もしくは各々の従者が最寄の市に出向き、直接買い入れていた。

 イシュルは自身の消耗品、干し肉や塩、油紙や布類、衣類、薬草などの買い出しをロミールに頼み、ひとりでサーベラル城内の「荊冠の間」という、なかなか不吉な名の広間に向かった。

 サーベラル城の天守にあたる城館は宮殿も兼ね、大小様々な広間があり、「荊冠の間」もそのひとつだった。かつて王家に逆らったのか、何か罪を犯した公爵家の者にでもちなんで、戒めの意味でその名がつけられたのか。あまり聞かない言葉だった。

 この世界にキリスト教はなく、「荊冠」は必ずしも受難を意味するわけではない。また聖堂教にもその名に関する謂れはない筈である。したがって宗教的な意味合いはなく、罪を犯した貴人の故事が元になっているなど、他に何か含意があると考えるべきだろう。

 たまに急ぎ足の騎士や文官と行き違うだけの、人気のない回廊をしばらく歩くとその「荊冠の間」に行き当たった。

「……」

 イシュルはその広間の入り口で思わず立ち止まり、天井を見上げた。室内は北側の端の天井に大穴が開いていて、よく晴れた青い空が見えていた。「荊冠の間」はその天井に開いた大穴のおかげで外光が差し込み、他の部屋と比べとても明るかった。

 天井の大穴の直下には鉄の、おそらく巨大な楔の一部が露出していた。

 ベールヴァルド公爵が軍勢を率いてバルスタールへ出撃した後、わずかな城兵が守るサーベラル城に対し、王都に向かうユーリ・オルーラが威嚇のためか、同城の城門や城館の一部を金の魔法で攻撃していったのである。ユーリの攻撃は散発的なもので、幸い公爵夫人以下、城兵に死傷者は出なかった。

 その広間の無事だった南側半分には今は机が並べられ、支隊に随行する書記役が四名、しきりに筆を走らせていた。他にも二名ほどいた筈だが、兵糧の買い入れの方に回っているのか、今この場にはいなかった。

 そしてその書記役の他にもうひとり、若い貴族の男がいた。イシュルを「荊冠の間」に呼んだ人物、派遣支隊軍監のルースラ・ニースバルドだった。

「……にて御手配願いたく、……謹言」

 ルースラはそこまで言って、向かいの書記役から羽ペンを借り巻紙に署名した。

 彼は、その四名の書記役の机の前を行ったり来たりしながら、各方面への書簡を複数、同時に口述、筆記させていた。

 ……大変だな、軍監というやつは。

 イシュルは扉の開け放たれた広間の出入り口から、ルースラの後ろ姿を見やった。

 先ほど彼が署名した書簡はおそらく、アンティラを守る諸将の誰かに宛てたものだろう。支隊受け入れの準備を要請したものか、あるいはバルスタールへの何か、情報収集か調略あたりを指示したものではないだろうか。

 ルースラは署名を終えると、机の端に置いてある呼び鈴を手に持ち鳴らした。

 そこでふたりの視線がかち合う。

「ああ、イシュルさん。ご苦労さまです。……こちらへどうぞ」

 ルースラは書記らの座る机の向かい、部屋の反対側に置かれた椅子の方を指して言った。

「ここが一番部屋の中が明るくて。筆記もはかどると思いまして」

 イシュルが椅子に座ると、ルースラも向かいの椅子に座った。

「崩落は?床とか大丈夫なんですか?」

 木製の梁や石積みの壁の具合から、天井に空いた穴の方は大丈夫そうだが、この広間は三階にあり、巨大な鉄の楔の突き刺さった床下がどの程度安全なのか、はっきりとはわからない。風の魔力による感知でも、床下の破壊された構造物がどれほどの強度を保っているか、あまり詳しくはわからない。

 朝食時に面識を得た城主代理の公爵夫人に、ユーリ・オルーラが突き刺した鉄の塊の除去を申し出たが、今現在は建物の崩落が止まっているものの、鉄塊を無理に引き抜くとどうなるかわからず、損壊が広がる可能性があるということで、感謝されながらもしっかりと固辞された。

 ユーリの生み出した鉄の楔は巨大でも特殊な材質ではない。他の金の魔法使いに少しずつ変形、分離してもらい、その間足場を組み、徐々に修繕していく腹づもりなのだろう。

「近づかなければ大丈夫ですよ。広間のこちら側は床下もしっかりしています。下の階の外壁も、仕切り壁も目立った損害は受けていないそうです」

「なるほど、そうですか」

 ……ユーリは巨大な鉄の塊を突き刺しただけで、それ以上は何もしなかったらしい。

 それにただ明るいだけじゃない。ルースラの鳥の精霊、あの巨大鶯も出入りが楽そうだ。

 イシュルはルースラの視線の先、天井に開いた大穴の方を見上げた。

 シャルカのように実体化していない精霊ならば、別に密室でも自由に出入りできるのだろうが、複数の書簡を持たせるのなら、ああやって直接外に出る穴が空いている方が都合がいいのだろう。

「忙しいのにすいません、先に話したいことがあって。早めに来てしまいました」

「い、いえ……」

 ルースラは両目を瞬(しばた)き、イシュルを見てきた。

 イシュルの口調に少し、聞きなれないものが混ざっていたからだろう。それは前世の日常で、例えば仕事中に話していたような口調だ。

 向かいに座ったルースラの後ろを書記役の従者だろうか、少年がひとり入ってきて、巻紙の束を抱えて出て行った。さきほど彼が呼び鈴を鳴らし呼びつけた者だろう。

「で、話したいことというのは……」

 ルースラが小声で言ってきた。

 おおよそ半刻後にはペトラが、おそらくマーヤも伴いこの「荊冠の間」にやってくる筈である。

 今日は夕食後に支隊の主だった者たち、ペトラとマーヤにルースラ、支隊騎士団長のラナル・ブラード、それにリフィアにニナ、パオラ・ピエルカ、ミラも加えて軍議が開かれることになっている。

 ルースラはその前にペトラも交え三人で話しがしたい、とイシュルを誘ってきた。

 ……バルスタール奪還について、ヘンリクは俺にペトラにも考えさせろと言った。彼は当然、ルースラにも同じことを伝えている筈だ。

 ルースラの思惑は軍議の前に総大将のペトラと、バルスタール攻城の要(かなめ)である俺の考えを、あらかじめ聴取しておくということだろう。

 夜の軍議ではこれからの行軍についての打ち合わせが主、バルスタール奪還に関しては大まかな方針を確認しておく程度の筈だ。攻略の詳細な作戦はどのみち、現地に到着後状況を確認しなければ立てられない。

 だが、ルースラとしては俺、というよりペトラの意向を早めに知っておきたいのだろう。もしバルスタールを調略によって落とすのなら、今すぐにでも手を打たねばならない。味方のアンティラの諸将や、もしバルスタールに密偵を忍ばせているのなら敵側の誰と接触させるのか、調略をかけるのか、彼らと連絡をとり指示を出さねばならない。

 ルースラはドレーセンと交渉した時に、俺がバルスタールをどうしようと考えているか、すでにだいたいのことを知っている。

 俺はあの時ドレーセン伯爵に、「俺はユーリ・オルーラとは違う、もっと賢明なやり方をする」と言っているのだ。

 ……しかし、だ。

 目の前に座るまだ少年のような男は、相当な策士である。

 あの朝、伯爵にユーリ・オルーラの死を納得させてからも、この男は俺を退室させなかった。その後の取引きの段でバルスタール攻略の話題が出てくることを見越して、そこで俺が何事か意見を口にすることを見越して、あの場にその後も俺を残したのである。

 ルースラはすでに、自身が北線派遣部隊の軍監になることを知っていた。その彼にとってバルスタールの敵軍をどう料理するか、あの時点では誰よりも、総大将のペトラよりも、俺の考えを知りたかったに違いない。

 つまり、あの朝のドレーセン伯爵との取引きで、この目の前の男は端(はな)から一石二鳥を、一挙両得を狙っていたことになる。

 俺を駒の一つとしてドレーセンを丸め込むだけでなく、俺が北線に対しどう考えているか、ルースラはそのことも前もって知ることができたわけだ……。

 イシュルは薄く笑みを浮かべてルースラの顔を見た。

「バルスタールの件じゃないですよ。王都の復興に関することです。大公から聞いてるでしょ?」

 ……この男に話せば、その優秀な頭脳を経て、ヘンリクの許により充実した復興案が届くことになるのではないか。

 俺をうまく使ったのなら、俺もあんたを使わせてもらおう。

 ヘンリクがルースラに話せと言ったのも、その辺のことを考慮してのことかもしれなかった。

「さっさと説明、終わらせたくて。バルスタールに集中しないとね」

「ああ、なるほど。そのことはヘンリクさまから伺っています」

 ルースラが「それではご説明、お願いします」と頭を下げる。イシュルは視線を書記役の方に向けた。

「今から俺の話すことを書記の方に筆記させてください。後であなたが目を通して清書し、大公に渡せばいい」

 そう言いながらイシュルはにっこり笑みを浮かべた。

 あんたが後で好きに直せばいい。……伝わったろうか。

「では、王都で焼き出された難民保護の話からいきましょうか」

 ルースラが書記役に声をかけると、イシュルは王都の住民保護と復興に関し、先日ヘンリクに話したことと同じ話をした。

 例えば王都の住民を対象にした目的別貸付に関しては、「王家を中心に各ギルドや商人にも出資させ、半官半民の新ギルドを発足、住宅や商店、工房などを新築する住民に限定して低利で融資する。他に王城の修復なども含めた財源に、復興債券を発行する」などと説明した。

「……復興債券は国外にも売ればいい。中海の商人たちとかどうです? ベーム債という先例もあるし」

「ふふ、……なるほど。だが金利が問題になりますよね」

 それはそうだ。金利の設定がすべてを決することになる。債券をどれだけさばけるか、ちゃんと償還できるのか。

「債券の金利や償還に関してはまず二点、考えていることがある。一つ目は景気浮揚による税収増です」

 イシュルは人差し指を立て左右に振り、説明を続けた。

「王都で住居や商店、工房の建築が爆発的に増加すれば当然、王国内外から人や物、金が集まってくる。富は富を呼ぶ。王都が賑わえばさらに景気が上向く。王家の税収も増えていく」

 王都では人頭税や土地税、売上税の他、ギルドに対しても登録税(許認可に対する徴収)を課している。他国、他領からの一部輸入品目に対する関税も存在する。税収が増えれば当然、王家の金庫は潤うことになる。

「ただ上向いた景気はいつか、王都の復興が成った時点で終息します。その時、街の商人や王家の役人らが過敏に反応して、景気が一気に悪化する恐れがあります。つまり、不作の年のような大きな揺り返しがくるかもしれない。それらにうまく対応していかなければならない。これからは貨幣の流通量や課税額を調整するだけでなく、王家がギルドなどを通じて、物価や景気対策により積極的に介入していくべきです。商人ら住民に対しより多くの、効果的な布告を出していくべきです」

「なるほど……。それで、布告とは具体的にどんなものです?」

 ルースラの顔も声も少しずつ熱を帯び、真剣さを増していく。

「王都の中流層に対する減税や貧困層や破産者への援助、特定の産物の関税など課税を撤廃、王家による計画的な殖産とか……」

 イシュルは、バブル崩壊や景気浮揚でとられる一般的な対策を説明した。

 前世では大学の専攻も仕事も畑違いの分野だったし、経済関係は素人だが、どれも前の世界では過去に行われてきたことで、常識的な知識を披露すればそれで充分に事足りた。

 王家の役人なら当然、それなりの対策は実施するだろう。貨幣の流通量の調整や課税の減免などは古くから行われてきたことだ。ただこの世界、大陸にはまだ需要と供給、つまり市場に対する認識や殖産興業、公共事業などの概念がほとんどないか、薄い。

 ルースラは、王領における殖産興業を、王家が直接指導すべきだとするイシュルの主張を聞いて、胸の前に腕を組み、歳に似合わぬ重いため息をついた。

 続いてルースラは書記役の方に顔を向け、一番年長の三十がらみ男に「全部書き取れましたか」と聞いた。聞かれた男は緊張した顔で頷き、イシュルに「“殖産興業”の筆記に当てた字が合っているか、後で目を通してくれ」と言ってきた。

 ……ルースラの前に、俺が先に目を通すことになったわけね。

 イシュルは心の中で皮肉な自嘲を浮かべた。

 話題を変えよう。次に移ろう。どれだけ楽に償還できるか、ルースラも二点目の方が興味を持てるだろう。

「話がそれちゃいましたね。次は債券償還について、二つ目です」

 イシュルはルースラの顔をしっかりと見て、にやりと笑って見せた。

「アルサールの動きはどうです? まだ援軍を寄越してこないんですか」

「……!?」

 ルースラは眸を丸くし、狐につままれたような顔になった。

 なぜここでアルサール大公国の話が出てくる? といった顔をしている。

「結局、国王軍の出陣には間に合わなかったですよね」

 イシュルが笑みを大きくして言うと、ルースラは書記役の方をちらっと横目に見て、顔をぐいっと寄せてきた。そして小声で言った。

「今朝方、“髭”の者から報告があったのですが、アルサールからヘンリクさま宛の使者が昨日、越境したそうです。今頃は王都に向かっている最中かと」

「日和(ひより)ましたね。アルサール大公がだめなのか、取り巻きが無能なのか」

 ……彼らは俺がユーリ・オルーラに勝利した、その報を待って旗幟を鮮明にしたわけだ。

 確かに彼らからしたらバルスタールを二日で落としたという、金の魔法具を持つ相手なんかとまともに戦いたくはないだろう。もし俺が敗れればラディス王国の運命は風前の灯、次は自国の番かもしれない。日和見に決したのもわからないではない。

 だがラディス王国は彼らにとって同盟関係にある国だ。その同盟国の危機に援軍を一兵も出さなかった、というのはまず過ぎる。

 彼らは俺の情報もそれなりに収集していたろうが、結果的には判断を誤った、ということになる。

 たとえユーリの勝利を予想していたとしても、ここは保険をかけ兵を惜しまず、千でも二千でも捨て駒と割り切って、王国に援軍を急派すべきだった。

「そのアルサールの使者、追い返すんですよね? 向こうの兵隊を入れちゃだめですよ」

 イシュルが続けて言うと、ルースラは口角を微かに引き上げ眸を光らせた。

「それはヘンリクさまのお考え次第ですが……。でも早馬を出しておきましょう」

 ……まさかもう、俺の考えていることに思い当たったのか。

 イシュルもその眸に不穏な光を宿らせた。

 まぁ、この提案は冗談半分、他にも使い道がある話なんだが……。

「復興債は国外の商人だけでなく、領主にも売ってもいいかもしれません」

 実際にはそれは難しい、いや、ありえないことかもしれないが。

「……例えばアルサール大公とかに」

 イシュルは意地の悪い笑みを見せて言った。

「特別な低金利で、特別長い満期設定で、大量に買ってもらうんですよ」

 相手は不義理な当てにならない同盟国だ。ここは思いっきり強面に出て、王国の被った損害をすべて弁済させる勢いでやればいいのだ。

「ふふ。でも、アルサールがあっさり承諾するかどうか」

 ルースラはその眸の奥に油断ならない光を宿しながらも、イシュルとの会話を楽しむような表情になっている。

 ……確かに、アルサール大公国は聖王国に対する防衛で長年、王国に役立ってきた。

 国自体はラディス王国の方が大きいし、今回の件で外交上、有利な交渉もできるだろうが、実際にはこちらの思いのまま、なんでもできるわけではない。アルサール大公国はもともと、そこまで弱い立場ではない。

「亡くなられたデメトリオ殿下の遺児はふたり、上の姫君は今何歳でしたっけ?」

 イシュルはここでまた、頓珍漢な話題を出してきた。

「マトリーカ姫、……ですか?」

 ルースラが一瞬、不審な顔になって「確か、十八か、九です」と続けて言った。

「婚約とかは?」

「ええ、そのアルサール大公の嫡子と話が進んでいましたが……。あっ」

 ルースラがそこまで言って小さく叫び、唖然とした顔になった。

「ええ、その話は反故にしてしまいましょう。かわりに聖王国のルフレイド王子か、五公家のいずれかにマトリーカ姫との婚姻を打診するのです」

 アルサール大公国ほど決定的なものではないが、ラディス王国はオルスト聖王国と一応は敵対、緊張関係にある。

 だが今はラディス王国も連合王国の侵攻を受け、聖王国も大政変で多くの魔導師や尖晶聖堂の影働きを失い、戦力の再編が焦眉の急だ。

 ここで無傷のアルサールに対し、裏切りに等しい対応をしてきた同国に対し、ラディス王国がかわりにオルスト聖王国との関係修復に動く──ということはありえない話ではない。

 もしラディス王国がそのように動いたら、アルサール大公はどう思うだろう。かなりの動揺、いや恐慌をきたすのではないか。

 不実なアルサールを、ラディス王国と聖王国が仲良く手を取り合って、攻め込んでくるかもしれない……。

 アルサール大公の恐怖はどれほどのものだろうか。

「マトリーカ姫の婚姻の打診は、だけでいいんですよ。だけで」

 まだ呆然としているルースラに、イシュルは悪い顔になって言った。

「ヘンリクさまが怒ってアルサールの使者を追い返す。それから大公国に、姫君との破談の噂を流せばいいんです。かの大公は驚き慌てふためき、どんな債券でもいくらでも買ってくれますよ。……いや、それだけじゃない」

 イシュルはさらに悪く、唇を歪めた。

 ……この話、実はこちらが本題だ。

「アルサールが中海諸国との交易品にかけている関税を、撤廃させるのです」

 ラディス王国と中海の都市国家群の交易は地理上、アルサール大公国を間に挟んで行われている。片方が同盟国のためそれほど高い率ではないが、大公国は当然、そこに関税をかけている。

「ふっ」

 ルースラも悪い顔になって笑みを浮かべた。

「それは面白い。債券はともかく、中海との交易に関税がなくなるのは願ってもない話です、イシュル殿」

「そうでしょ? ふっふっふっ」

「はっはっはっ」

 ……それで王家が、王国の商人がどれほど潤うことになるか。

 まだ年若い、少年の面影を色濃く残すふたりの男は低く、不気味な声で笑った。



「なんだか楽しそうじゃの、ふたりとも」

「悪巧みの顔……」

 ペトラに、マーヤの呟き。

 イシュルとルースラが低い声で笑っていると、ペトラがマーヤを伴いやってきた。

 護衛役のセルマが下がると、ルースラも書記役を退室させた。

「殿下、此度はわざわざご足労いただきありがとうございます──」

 ルースラはすかさずペトラの前に跪き、かた苦しい口上を述べはじめる。今回は彼が大公息女を呼びつけた形になるからか、常よりさらに慇懃な対応をしている。

「よいよい、かた苦しい挨拶は抜きじゃ」

 ペトラは片手を振ってルースラを席につかせると、自ら空いている椅子をとって、互いに向き合う位置に置いて座った。マーヤも同じようにして彼女の隣に座る。

「ふたりで何か悪巧みの相談でもしておったか。……いかにもじゃな」

 ペトラはイシュルとルースラの顔を見回し言った。

 ……いかにも、ってのは何だよ。

「それに妾を目の前にしてイシュルのその格好……」

 イシュルはペトラが現れてもかしこまるような態度を一切とらず、足を組み、ルースラとの間にあった小机の上に肩肘をつき、顎を乗せ先ほどの悪い笑みをその顔に上らせたままだ。

「でもイシュルの格好は独特。野卑なところもあるけど、とても洗練されてる感じもする」

 マーヤはイシュルを足先から頭の先まで、じろっと見回し言った。

「そうか?」

 ……マーヤ。きみが見ているのは前世の現代人の典型的な仕草だよ。目上の人の前で足を組むのが失礼なのはわかっているんだけどさ。

「そういえばイシュル殿の仕草や口ぶりは独特ですよね。王宮に出仕している育ちのいい、頭のよく回る若い都市貴族の振る舞いに、少し似ているような気もします」

「ああ、あの生意気な連中かの」

「ふふ。イシュルが都市貴族のお坊ちゃん?」

「なんだ? マーヤ。俺に何か言いたいことでもあるのか。今さらおまえら相手に行儀良くもないだろ?」

「わたしは気にしないけど」

「妾も気にせんが」

「……」

 ……ふたりは単に、他人の目がある時にその態度は誤解を生むぞ、と忠告してくれているのだろう。

「ルースラさん、はじめましょうか」

 イシュルは足を組んでいるのはそのまま、小机にあずけていた上体を起こすとルースラに声をかけた。  

「ごほんっ」

 ルースラは横で咳払いすると続けて言った。

「では……、はじめましょう。此の度、わざわざペトラさまとマーヤ殿にお越し願ったのは他でもありません。晩餐の後に行われる軍議の前に、お二方とイシュル殿に」

 そこでルースラはイシュルにも視線を向けてきた。

「北線城塞の攻略についてどのようにお考えか、あらかじめうかがっておきたいのです」

「俺の考えてることはこの前、聞いてるでしょ?」

 イシュルは薄く笑みを浮かべてルースラを横目に見た。

「い、いや。それはそうですが……」

 ルースラが戸惑いもあらわに顔を仰け反らすと、イシュルはそれ以上彼を追求するようなことはせず、視線をペトラに向けた。イシュルが主導権を持ってペトラと話すことになった。

「ペトラはちゃんと考えていたか? おまえは総大将なんだぞ。俺やルースラさんに任せておけばそれでいい、俺が風と金の大魔法を使えばそれで済む、なんてタカをくくっていなかったか?」

「いや……」

 ペトラは真剣な顔になってイシュルを見つめてくる。

「ここでひとつ、君たちに言っておきたいことがあるんだ」

 イシュルはペトラからマーヤ、そしてルースラにまで視線を回して言った。

「俺は王家に仕えているわけじゃない。今後も仕えるつもりはない。今回はベルシュ村のこともあるし、おまえたちも困っていると思って力を貸したんだ。この先、いつでもどこでも王家のために、王国のために力を貸せるかはわからない。俺にはこの先、やらなければならないことがある。王国にずっと留まっているわけにはいかない。俺はこの身ひとつ、それにいつまでも、永遠に生きているわけじゃないんだ」

「それは……存じておる」

「わたしも、イシュルに恩返しはする」

 ペトラとマーヤは思いつめたような真剣な眼差しをイシュルに向けてきた。

「うっ、……いや」

 ふたりの予想だにしていなかった剣幕に、イシュルはうろたえ、さっと顔を強張らせた。

 これは……。

 なんだか肝が座ってるというか……。

「イシュルの足を引っ張るようなことはしないよ。心配しないで」

「妾もじゃ!」

「……」

 ……な、なんだ?

 なんだか話が噛み合ってないような……。おかしい方向にいってるような……。

 ふたりが俺にぶつけてくるもの。これは……。

 思わず喉が鳴る。

 イシュルはますます顔を強張らせた。

「ごほんっ」

 今度はイシュルが咳払いをした。

「……ではペトラ。あらためてきみの意見を聞かせてくれ」

 イシュルは澄ました顔を取り繕って言った。

 これはまずい。深入りは危険だ……。

 強引に話を引き戻す。

 ペトラはもう一度イシュルを睨みつけると、同じように澄ました顔になって言った。

「うむ、そうじゃな」

 どうやらペトラは、俺の話題転換に合わせてくれるらしい。

「……妾は北線をどうするか、まったく考えていないわけではない」

 その澄ました顔がすぐ再び真剣なものになる。

「妾は連合王国の兵士らを、皆殺しにするようなことはしとうない」

 ペトラの青い眸が美しく、冴えていく。

「マーヤの兄も、我が伯父上も亡くなった。だが敵の領主どもに徴集された兵士らは、もともとは農夫であろうが。あの者たちを皆殺しにするのは可哀想じゃ」

「……ほう」

 イシュルはその眸の奥を覗き込むようにして、ペトラを見つめた。

「それは素晴らしい」

 イシュルはペトラに大きく頷いてみせた。

 慈悲深いことは王たる者の最良の美質であろう。

「……うむ」

 ペトラもイシュルの反応に気を良くして大きく頷き返す。

「それで? どうする?」

「うっ」

 ペトラはイシュルの続く質問に、ハトが豆鉄砲を食らったような顔になって言葉を詰まらせた。

「それは、……調略じゃな。イシュルがユーリ・オルーラを討ち取ったからの」

 彼女は「金の魔法具を持つ総大将を失った今、諸侯の寄り合い所帯である連合王国軍はたやすく瓦解するじゃろう」と続けた。

 もともとは互いに争っていた敵どうしである。彼らはただ、ユーリ・オルーラの圧倒的な魔法、人智を超越した力の前にひれ伏していただけに過ぎない。ユーリ当人が死んでしまえば、もうその恐怖に怯え従う必要はない。

「ふむ」

 イシュルは微かな笑みを浮かべると、ルースラに視線をやった。

「もう敵軍にユーリ・オルーラの戦死は伝わっていますかね?」

「ええ。そろそろかと」

 やつの率いた連合王国軍支隊では、ドレーセンらとは別に生き残った者もいる筈だ。その者たちは当然、必死になってバルスタールへ逃れるだろう。

 それに……。

「もうアンティラの味方には伝わってるんですか?」

「それが今晩か、明日くらいになると思います」

「なるほど」

 マーヤが小さな声で頷く。

「ふむ。アンティラに伝われば、すぐに北線の敵にも感づかれるか」

 ペトラが顎に指先を当てて呟く。

「そういうことだな」

 敵支隊の生き残りがバルスタールに辿りつくより、そちらの方が早いだろう。

 北線城塞群の後背、東側平地にあってラディス王国の諸侯が籠もる要衝、城塞都市アンティラ。そこには敵の密偵も入りこんでいるだろうし、敵側の精霊が味方の魔導師や精霊に気づかれる、ぎりぎりの距離まで近づき見張っていることだろう。

 ユーリ・オルーラの敗死がアンティラに伝われば、街は上も下も歓喜に沸き立つだろうし、それは遠方からの偵察でもすぐにわかるだろう。

「そこでバルスタールの敵軍諸将がどう動くかだが」

 イシュルは首を横に少し傾けペトラの顔を見た。

「確かにペトラの言うように敵軍が空中分解し、勝手に自らの陣を離れ帰国する者も、もしかするとその場で小競り合いを始めるようなことさえあるかもしれない。わざわざ調略などしなくてもね。だがそううまくはいかない、逆に調略がまったく効かない可能性だってあると思う」

 イシュルはそこで再びルースラに顔を向けた。

「敵が山を降りてきて全力でアンティラを攻撃した場合、どれくらいもちますかね?」

 バルスタールに籠もる敵軍兵力はこちらの見積もりでは五万、ただし山脈西側に予備兵力が相当数あり、敵側は十万と呼号している。アンティラに籠もる味方は、今は諸侯の参陣もあらかた終わり、三万ほどに膨れ上がっているのではないか。

「そうですね。敵兵が実際に十万近くいるとして、……はっきりとは言えませんが、我々がアンティラに達するまでは充分、持ちこたえることができると思います」

 ……ふん。頭のいいやつ。

 ルースラはイシュルの考えていることを察し、途中の説明を省いて結果だけを答えた。

 ペトラ率いるこちらの北線派遣支隊がアンティラに到着するのは五〜六日後、もし敵軍の総兵力が十万あるとして、例えば八万ほどでアンティラを攻めたとしても、五〜六日ではとても落とせない、というのがルースラの見立てだ。

 もちろん、互いの調略、謀略合戦に魔導師戦力の差、戦場特有の不確定要素も絡んでくるから、彼の見立てはあくまで目安、でしかないが……。

「連合王国軍は、ユーリの敗死を知ったら撤退するどころか、躍起になって全力でアンティラに襲いかかるかもしれない」

「……」

 うん? という顔をしたペトラに対し、マーヤは無言で小さく頷いた。

「ブレクタスの西側は縁遠い。俺は敵軍がどんな連中か詳しくは知らない。だが今はやつらにとって、二百年ぶりに訪れた王国に侵攻できる絶好機なんだ。俺たちが到着する前にアンティラを落としてしまえば、王国中央部へ一気に戦線を拡大できる。俺が敵の主将ならやるかもしれない」

 ……五万でも十万でもいい。軍を数隊に分けて王国中央部の諸城を攻略する。補給線なんて考えない。ひたすら現地で略奪の繰り返しだ。戦線は拡大、複雑化し、王国軍だけではない、敵から見たイヴェダの剣、つまり俺──も転戦を重ね、やがて奔命に疲れる時がくる。あるいはどこかの城に魔導師を重点配置し、魔封陣や未知の精霊神の魔法具などを揃え、罠を張る。

 もしそこで俺が死んでしまえば、無謀にも思われた敵側の作戦は功を奏し、連合王国軍はラディス王国西北部に確固たる地歩を得ることになる。もうその時にはラディス王国にアンティラも、バルスタールも奪還する力は残されていないだろう。敵の後方連絡線が確立され、ラディス王国側は戦勢を好転させる目処が立たなくなる……。

 イシュルはそこまで言って一同を見回した。

「これくらいのことは敵の諸将も皆、考えつくだろう。まだ彼らの敗北は決まったわけではない。彼らは戦機を失ったわけではない。一発逆転の目は残されている。総大将のユーリ・オルーラの死で、連合王国軍が簡単に瓦解するとは限らない」

「でも大丈夫。イシュルはそれくらいじゃ斃せないよ」

「おお、そうじゃの」

 マーヤがしたり顔で言うと、ペトラがうんうんと頷いた。

 ……それを言われると身も蓋もないんだが……。

 イシュルの横ではルースラが苦笑している。

「まぁ、実際は敵方に調略をかけるのは有効だろう。だがそれが決定打になるかはわからない。要は甘い見込みは立てるな、ということだ」

「ふむ。イシュルの諫言は憶えておこうぞ」

 ペトラは澄まし顔で言った。

「……」

 イシュルは小さくため息を吐くと部屋の中を見回した。

 破壊された広間の北側は見る影もないが、南側の室内の装飾は床が光沢のある寄木造り、四囲の壁は落ち着いた深みのある赤茶の塗り壁、上下にこげ茶色の木刻の縁がつき、幾何系の彫刻が成された灰色の天井で覆われている。

 そしてイシュルはペトラの顔に視線を戻した。

 ……荊冠の間、か。

 俺が言いたかったのは……。

「わたしの方でも調略の準備を進めていまして」

 ルースラがイシュルに声をかけてきた。

「ええ」

 先ほどまで書記役が書いていた多くの書簡。それらはヘンリクへの報告、アンティラへの知らせや問い合わせ、そして調略の指示もあったろう。

 ルースラもすでに、調略の手配をはじめているのである。もちろん、ペトラの考えが間違っているわけではない。

「イシュルはどうしたいの? 北線を」

 マーヤが聞いてきた。

「リフィアも敵の軍勢を皆殺しにするなって、イシュルに言ってたよね」

「ああ」

 マーヤもリフィアと同じ考えのようだ。

「イシュル殿も、ユーリ・オルーラのように力まかせにやる気はないようです」

 ルースラが横から割り込んできた。

 疑問の目を向けるペトラとマーヤに、ルースラは先日王城で捕らえた敵将、クルトル・ドレーセンの尋問にイシュルが立ち会った際、「ユーリ・オルーラのようなやり方はしない」と発言したことを伝えた。

「でも俺は、調略とか計略をもちいて敵軍を瓦解させ、“戦わずして勝つ”みたいなことは考えてないぜ」

 イシュルは対面する三人の顔を見回し言った。

「連合王国の連中には、王国に手を出したら痛い目に合うということを、しつかりとわからせてやらないとけない」

 イシュルは薄く笑みを浮かべ、微かに眸をぎらつかせた。

「俺はドレーセンに、ユーリより賢明なやり方でいきたい、みたいなことを言ったけど、それは敵味方ともに損害なく穏便にやりたい、って意味で言ったんじゃない。例えば敵にはまた、もう二百年は北線に関わりたくないって思わせなきゃだめだ。しっかり恐怖を叩き込まなきゃだめだ」

「それは……」

 マーヤの小さな声。

「だが敵兵をすべて殺しはしない。俺が恐れているのは敵軍を殲滅すると、ペトラの言う、多くの農夫、つまり領民の命が失われることだ。敵の言うとおり、輜重と後方の戦略予備も含めれば、その数は十万にも達するかもしれない。彼らを皆殺しにすると、連合王国全域で農業生産だけでない、さまざまな悪影響が出るだろう。諸国の経済は停滞し、社会不安も引き起こすかもしれない。そのことは一見、ラディス王国にとって都合の良いことのように思えるが、連合王国の経済悪化は中海の都市国家に波及し、やがてそれは王国にも影響を及ぼす。大陸諸国は交易でみなつながっているからな」

 連合王国全体の人口はどれくらいだろうか。おおよその数字でさえ見当もつかないが、仮に五百万と考えれば十万で二パーセントの喪失となる。大した数字ではないように思えるが、それが青年期の男、生産力の中核を担う層であれば無視できない数字になるだろう。

 それに決定的な敗戦、規模の大きい戦争での敗戦は、事後に疫病の発生や治安の悪化を招き、さらに諸国の生産力を悪化させていく。

 疫病はやがてブレクタス山塊を越え、王国にも伝播していくだろう。

「だから、俺の考えている北線攻略はつまりは中庸。悪く言えば平凡、中途半端ということになる。敵軍に適度な損害を与え、ただ神の魔法具の力はしっかり見せつける。その上でなるべく早く撤退させる。できれば降雪が本格化する前に築城の準備に入る」

 そこでイシュルはルースラを横目に見て、低い声で言った。

「これは大公さまにも伝えて欲しいんですが。俺はことが済んだらさっさと王都に帰りますからね。あのひとは俺に長期間、バルスタールに貼りつけさせておこうとか、考えてるんじゃないですかね? 俺にも用事がある。それは絶対拒否するんで」

 イシュルの口角が引き上げられる。

 ……城塞線が完成するには少なくとも数年、長ければ五年、十年はかかるだろう。そんなに長い間、とてもじゃないが付き合ってはいられない。

「は、はは」

 ルースラは顔を引きつらせて力なく笑った。

 ……ヘンリクめ。これは俺を北線に長期間、滞留させようと考えてたんじゃないか。

 それともまだ、この男だけの考えだったか。

 しかし、ルースラの露骨に焦ってる顔、はじめて見た。

「無理に留めおこうとするなら俺、敵にまわりますからね」

 イシュルは動揺もあらわなルースラにとどめを刺すと、ペトラに向き直って言った。

「おまえもお父さんにちゃんと言えよ? その時は本当に敵にまわるからな」

「わ、わかった」

 ペトラも狼狽し、こくこくと何度も頷いた。

 ……可哀想だがこれは絶対、譲れない。

「イシュルは王都に用事があるもんね」

 とそこでマーヤ。

「ああ、そうだな」

 ……ふむ。マーヤの言ってるのは王宮の書庫の一つ、エレミアーシュ文庫のことだ。

「おお、そうじゃの。妾が父上にきつく申しておこう。イシュルを便利使いするなとな」

「お、おう」

 ぺトラが急に鋭い目つきになって、イシュルを見つめてきた。

 なんだ? まただ。さっきといい……。

「その件については妾もひとごとではない。協力は惜しまん」

 ふむ。ペトラの言ってることは昨晩の、ウルオミラとのことだ。

 マレフィオアの不死性についても調べ、考えなければならないが、とにかく今はバルスタールの敵をどうするかだ。

「書庫の件も父上にお願いしておこう。妾のお願いしたことでもあるし」

 おや、とした顔でぺトラを見たルースラを、マーヤが押さえつけるような視線を向けた。

「……」

 ルースラはすぐ察して無言、無関心を装った。

「その書庫の閲覧に関しては、俺の方で直接おまえのお父さんに話すからいいよ。大丈夫」

 王家書庫はエレミアーシュ文庫だけではないし、国史編纂室なる部署もある。司書や専門の書記官もいるだろう。何か特別なしきたり、慣行もあるだろうし、簡単に済む話ではないだろう。

 それにヘンリクは王都にいた頃、よく書庫に篭もっていたというし(王家書庫の文献から、赤帝龍と火の魔法具に関する記述を見つけたのはヘンリクだ)、彼と直接話すのがいいだろう。 王家書庫の閲覧許可は、王国の危機に力を貸した報酬として願いでるつもりだが、そのときにはまた何か、彼と駆け引きすることになるかもしれない。

「そうかの」

「そうだね。イシュルが直接願い出るのがいいかも」

「うん」

 マーヤはよくわかっている。いろいろと人やものごとの機敏に聡いやつなのだ。

「さきほどのイシュル殿のお話ですが……」

 そこでルースラが割って入ってきた。

「ああ、すまん。話がそれた」

「いえ。ところでイシュル殿はさきほどの北線奪取の件、何か具体的な策は立てていますか?」

 ルースラはさっき話した北線攻略の方針について、具体的な作戦案を考えてないかと聞いてきた。

「それは現地の状況を見てからにしましょう」

 イシュルはリフィアやミラに話したのと同じことを、そのままルースラにも言った。

 ……幾つか考えていることはある。中庸というのなら作戦も正攻法でいくべきだろう。味方には、つまり俺には、“正攻法”で堂々と戦う能力がある。力がある。

「それで、ドレーセン伯爵からの情報はいつ届きそうですか」

 伯爵の尋問はもうはじまっているだろうか。彼から得る情報でも、敵陣の配置に関しては急ぐ必要がある。

「誰が尋問に当たってるんです?」

「本当は重要な部分だけでもトラーシュにやって欲しいのですが、彼は忙しいので……」

 そこでルースラは声を落として言った。

「“髭”の小頭たちが当たっています。我々がアンヘラに着く前に敵布陣、特にオルーラ大公国の情報を入手できると思います」

 ……髭の小頭、ね。本来は尋問、よりも拷問の方が得意なんだろうが。

「でも諸侯の陣の位置はだいたいですがわかります。自軍の旗を陣内に押し立てている者もいますからね」

「……」

 イシュルは無言で頷いた。

 調略をかけたり、何か奇策がある場合でないなら、実はそれほど敵陣の配置を調べる必要はないのだ。諸侯は軍旗を押したて、名のある騎士たちは兜に羽を着けたり、派手なマントを羽織ったりして武威を示すのが常で、どんな戦(いくさ)でも諸将の軍勢のおおよその配置はすぐにわかる。

「問題は山の西側がどうなっているかだよ。どれだけの兵を隠しているか……」

 とマーヤ。

 彼女たちは当然、大公国の武将、ドレーセンを捕らえたこと、彼と王家で取り引きが行われたことも聞き知っているだろう。

「あれかの、イシュルの申した“戦略予備”、というやつかの」

 ペトラがにやりとしてイシュルの顔を見る。

「それは、……現地に着いたら俺の方で調べる」

 イシュルはペトラにむすっとした顔で言った。

 北線西側の偵察、後方攪乱はマーヤやペトラに指摘されなくとも、以前から考えていたことだ。

「……ふむ、ふむ。ペトラさまとイシュル殿の存念はこれでよくわかりました。わたしも異存はありません。晩の軍議ではおおまかな方針をわたしの方から説明します」

 ルースラは何度か頷くと、この場をまとめるように言った。



「荊冠の間か……」

 イシュルはぺトラとマーヤとともに広間を後にすると、後ろを振り返り、ついで横を歩くペトラに視線を下ろして言った。

「なんじゃ?」

 ペトラは顔を上向けイシュルを見上げてきた。

 イシュルたちは宮殿の回廊を階段のある東側の方へ歩いている。

「おまえはやさしい。いつの日か慈悲深い王になるだろう」

 イシュルはペトラから視線をはずし前を向いた。回廊の天井は緩やかな曲線を描くドーム形で、三階にもかかわらず随分と高さがある。

「それは素晴らしいことだ。だが、やさしいだけじゃだめだぞ。時に厳しく、強くなければ王であり続けることはできない」

 ……なんだっけ? しっかりしていないと生きていけない、やさしくなれないと……とはちょっと違うか。おまえは女の子だもんな。

 だが、いずれにしても王冠を被るということは……。

「王冠を被るということはまさしく、荊(いばら)の冠(かんむり)を被るのと同じだ」

 荊冠の間とは、そういうことか。

 王家とも縁の深いベールヴァルド公爵家の宮殿だからこそ、そんな名の部屋があるのだ。

「なんじゃイシュル。父上のようなことを言いおって」

「……」

 それはいやだな。まぁ、ヘンリクの言った「ペトラをたのむ」とは、そういうことなんだろうが。

「もとより荊冠を被ることなど、承知の上よ」

 ペトラはにやりとしてイシュルを見つめてきた。

 ……なるほど。そうだな。彼女はそういう家に生まれたのだ。農家に生まれた俺とは違う。

 前世の日本人だった俺とは違う。

「……」

 ふと視線を横にやると、マーヤが何か、不思議な色を湛えた眸で俺を見ていた。





 北辺を、紅く染まった河が流れている。

 眼下にはサーベラルの街が広がり、そこから軍都街道が北に伸びていかほどもなく、アンテル川沿いの街ロブネルへと続いている。

 視界いっぱいが夕日に紅く、明るく輝き、また暗く沈んでいる。

 公爵の居城があるサーベラルとロブネルの街はそれほど離れていない。徒歩で半刻、七里長(スカール、約4km)ほどの距離である。

 ロブネルは軍都街道とアンテル川の交わる要衝であり、サーベラルと同じベールヴァルド公爵領である。

 イシュルはペトラたちと別れ自室に戻ると、そのまま窓から城館の屋根に登った。

 サーベラル城は城の天守に当たる城館が侯爵家の居館、つまり宮殿でもある。同城は北ブレクタス山脈から東に張り出した山稜が、やがて丘となって平地に消える、その手前の丘の上に築かれていた。

 東側の平野部に軍都街道が走り、その周囲にサーベラルの街が広がっている。

 イシュルはスレート屋根の上に立って、夕日を紅く反射するアンテル川の輝きに眸を細めた。

 手前に暗い影となって広がるロブネルの街、その一角から川面の上を、寸断された黒い塊が対岸まで転々と伸びている。

 ……黒い塊は、川に沈んだ鉄の塊が上に突き出たものだろう。

 王都に向かうユーリ・オルーラが、金の魔法で造った鉄橋。軍勢が渡り終えてからその橋を自ら破壊し、先を急いだのだろう。

 ペトラ率いる味方の部隊は、明日の午前中には街道の続く同じ位置から渡河することになる。明日はユーリにかわり俺が鉄橋を渡し、逆方向へ、北へ進軍することになる。

 イシュルはアンテル川から目をそらし、紺色に染まりはじめた東の空をぼんやりと見渡した。

 城を渡る風が冷たい。

「……」

 かるく息を吐き、風の精霊を呼ぶ。

「イヴェダよ、願わくば我(わ)に汝(な)が風の精霊を与えたまえ、この長(とこ)しえの世にその態を発したまえ」 

呪文を風に乗せた。

 遠く、どこまでも広がる紺碧に一瞬、閃光が走る。

 そこへ一面、無数の光の粒子が瞬き、やがてより集まって人形(ひとがた)に像を結んだ。

「風の剣の召喚により、ノルテヒルド・アラルベティルド、参上」

 半透明に輝く人形の像は、空中でイシュルに向かって跪くと、重々しく口上を述べた。

「ヒルド?」

 ……その名は聞き覚えがある。確か……。

 イシュルが呼んだ風の精霊は甲冑に身を固めた女剣士だった。長い髪を後ろに結んでいる。

「剣殿、いかがされた?」

 女剣士の精霊が声をかけてくる。

 ……そうだ、ディルヒルドだ。クレンベルの山奥で、エミリアたちを騙して地龍と戦わせた時、召喚していた片手剣の女剣士の精霊……。彼女によく似ている。

 だが目の前の精霊はポニーテールの髪型で、そして、長剣を右腰に差している……。

「ディルヒルドに似ているな。名前も」

「うむ。ディルヒルドは我が妹の名。剣殿は以前、妹を呼び出されたのかな」

「ああ。なるほど。きみはディルヒルドのお姉さんか」

 ……しかし硬いしゃべり口調も妹そっくりだ。

「そうだ。よろしく頼む、剣殿」

「うん、よろしく。えーと、ノルテヒルド」

 イシュルはやや硬い笑みを浮かべて言った。

「きみは左利きなのか」

「一応。右も使えるのだが……、一対一なら左の方がやりやすいのでな」

「なるほど」

 確かに左利きの剣士なんて、相手はやりにくいだろうな。

 だがほんとに珍しい。普通は左利きなんてあり得ないんじやないか? 大抵は剣を習うときに、右利きに矯正されたりするものだろう。それに左利きなら奇襲を狙ってあえて隠すとか。……精霊ならそういうこと、気にしないものなのか。

 それにしてもディルヒルドに姉がいたとは。彼女と同等以上の力があるのなら、左利きだろうと何だろうと、別に何の問題もない。こちらの気にすることではない。

 大技を振るタイプでも、ヨーランシェのように長距離型でもない。クラウのような頭脳型でもないが、俊敏で戦闘そのものに強い万能型、と言った感じだろうか。

 戦場では使いやすいタイプだ。

 イシュルはノルテヒルドにいつものごとく自身の警護と、城内及び城外周囲の警戒を依頼した。

「──というわけで、よろしく頼む。ノルテヒルド」

「承知した」

 女剣士の視線はだがイシュルの背後に向けられている。

「あら。此度もまた、素晴らしい精霊を召喚されましたわね、イシュルさま」

 後ろでミラの声がした。

「ああ」

 イシュルは振り返らず、かるく頭を振るだけだ。

 ミラとシャルカが屋根上に上ってくる気配は、すでに感じとっていた。

「……」

 イシュルがノルテヒルドに小さく頷くと、彼女は微かな光の煌めきとともに瞬時に姿を消した。

 ……早い。なかなかの切れ味だ。

 姿を消す、それだけで身のこなしの早さがよくわかる。

「金の精霊は召喚されなかったのですね」

「ああ。一応、ミラから正式な召喚呪文を教わってからにしようと思って」

「ふふ」

 後ろに振り返り、近寄ってくるミラの手を取る。

 彼女の背後でシャルカが小さく息を吐いた。ノルテヒルドに緊張していたのだろう。

「それに風の精霊の方が感知範囲が広いからね。警戒、偵察に向いている」

「そうですわね」

 夕日の影になったミラの顔が、異様なまでに整って見える。

 その顔に浮かぶ微笑が、イシュルの心のうちを紅い色に焦がしていく。

 思わず夕空の方へ目を逸らした。

「……」

 堪え切れず逸らした空も紅く、イシュルは閉口して首をすぼめた。

「どうされました? イシュルさま」

 ミラの顔が近づいてくる。

 シャルカは気をつかってか気配を消している。広い空に他にひとはいない。

 西に影となってそそり立つブテクタスの山並み、東に紅く染まる大地。広漠な眺望がふたりの周りに広がっている。

 ミラの巻き毛が風に揺れる。

 くっ、きつ過ぎる……。

「いや。……じゃあ、教えてくれるかな」

 イシュルは喘ぐように言った。

「戦闘になったら、金の精霊も召喚したいから」

 だがその口から続いて出たひと言に、今度はミラが困惑をあらわにした。

「それは……」



「神の魔法具は同時使用が可能なのさ。互いに独立して並行使用できる。他の系統どうし、重ねて使うこともできる。だから精霊も、それぞれの系統を同時に使える」

 もちろん召喚は個別に行なければならいが、風と金の精霊を一体ずつ、同時に使役させることができる。

 魔法の重ねがけも、かつてニナの精霊、エルリーナの水魔法に対して実際に試している。

だが、ネリーの腕輪の加速の魔法の発動が、風の魔法具の風魔法の発動に強い影響を受け、圧迫されるようにしてほとんど機能しない場合があるように、通常の魔法具では神の魔法具の魔力に負けてしまい、重ねがけして同時使用する場面は限定される。また、当然発動も遅くなる。

「……それが風と金、神の魔法具どうしであれば……」

 ミラの声が震えている。

「ああ。魔力はほぼ同等だろう。より強力な魔法を重ねがけして使えることになる」

手間がかかる分、発動まで時間がかかるのは変わらないが。

「風と金、二系統の魔法を同時に使うのは大変だけど、二体の精霊を召喚し使うのはよほど楽だ」

 二系統の魔法の同時使用は、たとえば右手と左手で別の動作を行うようなものだ。複雑な魔法を発動することは難しい。ちょっと無理だ。

 だが当然、精霊は違う。彼らは指示するだけで事足りる。

 ただ召喚時には意識を研ぎ澄まし、呪文詠唱も必要で、確実に魔力の消費、つまり精神力の消耗を伴う。だが一度呼び出してしまえば、その後はそれほど大きな負担はかからない。今まで召喚した精霊ですでに経験済みである。もちろんイヴェダの降臨、召喚は次元の違う、まったく別の話になるが。

 風と金の二体の精霊を召喚しても、こちらの状態が良ければ大きな問題はないだろう。

 ……おそらく。やってみないとわからないが。

「素晴らしいですわ! イシュルさま」

 当惑し、恐れさえ示していたミラが、気づくと両手を胸の前で握りしめ、感動いっぱいの顔を向けていた。

「神の魔法具とはまさしく至高のもの。イシュルさまは本当に素晴らしいですわ」

 ……いや。俺自身は別に素晴らしくない、と思うんだけど。

「イシュルさま……」

 ミラはすっとイシュルの胸元にまで寄ってきた。

 ……近すぎる。

 眩暈(めまい)がする。ミラの美しさはそれほどのものだ。

 すぐ目の前の青い眸が細められる。ミラは妖しい笑みを浮かべて囁いた。

「ではイシュルさま。金の精霊の召喚呪文を教えてさしあげますわ」

 その微笑みが悪戯な笑顔にとって変わった。





 翌早朝、北線派遣支隊はサーベラル城のそびえる山の麓、城門前の広場に集合、一昨日と同じ隊列を組んで出発した。

 街道に出ると朝も早いのに多くの住民が詰めかけ、沿道は人の群れで埋まっていた。

 王都に向かった連合王国軍は、ユーリ・オルーラがサーベラル城に散発的な攻撃を加えただけで市街の方には手をつけず、多くの住民が避難もせず街に残っていた。

「今日はよく晴れていい天気だ。この陽気なら昨日買ったマントも必要ないな」

 隣からリフィアの明るい声がする。

 周りの群衆のざわめきにも負けない、元気な声だ。

「ああ」

 だがイシュルは浮かない顔で、素早く左右に視線を走らせ、澄み切った冬の青空を仰ぎ見た。

 もちろんノルテヒルドに見張らせているが、今のところ彼女は何も言ってこない。

 街道の先、部隊の前方には高く掲げられた大公旗や王国旗がはためくのが、街の家々や群衆の間に見え隠れしている。

「フロンテーラで襲ってきた子供のことでも思い出したか?」

 リフィアが馬を寄せ顔を近づけてくる。

「心配するな。確かにあれはいっぱい喰わされたが、そもそもが結果を期待できるような手ではなかった。敵側は他に手立てがなかったんだろう。今はわたしがすぐ横にいるし、周りはみな手だれだ。それにおまえが新しく召喚した精霊、彼女も強そうじゃないか」

 リフィアは昨晩から妙に機嫌がいい。

 ベールヴァルド公爵夫人主催の晩餐会の後、予定どおり軍議が開かれたが、その席上でルースラはバルスタール奪還に関し、イシュルによる敵軍の殲滅、力攻めではなく、一定の打撃を与え後、調略等も併せ敵自ら撤退を余儀なくさせる方針を示した。

 それは当然、総大将であるペトラの決めたことであるから臨席した者に否も応もない。風や金の大魔法で敵軍を殲滅してしまう暴虐を、いわば大虐殺を、イシュルひとりに行わせることを危惧していたリフィアは、そこでようやく愁眉を開き、安堵したのだった。

「うん……」

 横目にリフィアを見ると、彼女は輝くような笑みを向けてくる。

 ……まぁ、俺のことを心配してくれているのだから、ありがたい、とでも思わなきゃな。

 イシュルたちの前を行く戦車(チャリオット)から、ペトラが群衆に向かって手を振っている。

 彼女の人となりを知らない一般の民衆からすれば、盛んに愛想を振りまくペトラの姿はまさに、理想のお姫さまに見えることだろう。

 リフィアは辺りに注意を向けながらも何の曲か、小さな高い声で鼻歌を口ずさんでいた。

 群衆のざわめきに混じって、柔らかい美しい声音がイシュルの耳に聞こえてきた。



 街道筋に続くサーベラルの街並みが途絶え、草木が目立ちはじめるとすぐ、今度はアンテル川沿いの街、ロブネルの街並みが現れた。

 ロブネルはサーベラルの市街のように無傷ではすまなかった。ユーリの率いる連合王国軍がアンテルを渡河しロブネルに入った頃には、ベールヴァルド公爵軍主力はすでにアンティラにあったが、ロブネルの川沿いの小城にも守備隊を配していた。

 一般に「ロブネル砦」と呼ばれる小城は軍都街道とアンテル川が交わる要所にあり、同砦は当然のごとく、ユーリ・オルーラに金の魔法で徹底的に破壊された。

 ユーリは無数の鉄槍で砦ごと守備隊を葬った後、一部の鉄を溶解させ火災を起こした。火は周囲の街にも広がり、かなりの家屋が燃えてしまった。

 街道沿いの家並みは川の方に近づくにつれ、一部が焼け焦げた家屋にかわり、全焼した黒と灰色の焼け跡が目立てってきた。沿道に並ぶ街の住民たちも元気が無く、薄汚れた粗末な服装の者が多かった。

 支隊の多くの者は王都の火事を目にしていない。彼らはみな一様に、サーベラル市民たちの歓呼で緩んだ気を引き締めた。

 街道は船着場を兼ねた石畳の広場に突き当り、イシュルは隊列の先頭の方にいる支隊騎士団長のラナル・ブラードに呼ばれ、アンテル川の河岸に立って金の大魔法を披露した。

 よく晴れた青空を写した川面にはユーリ・オルーラが渡し、自軍が通った後に破壊した鉄橋の残骸、鉄の塊がまばらにその鋭く尖った先を突き出していた。

 イシュルはその鉄の残骸に覆いかぶせるように鉄製の橋脚を川底に突き刺し、その上に幅十長歩(スカール、約6.5m)近い鉄の板を渡していった。

 ロブネル周辺のアンテル川の川幅はおよそ五百長歩ほどある。イシュルは橋脚ごとに、空中から鉄の板を生み出し整形し、降ろしていった。

 イシュルが鉄の塊を生み出すたびに、辺りに異様に大規模の金の魔力が煌めき、熱せられた空気が鉄の焼ける匂いを運んできた。

 大きな鉄塊が実体となって現れる時、そして鉄の橋脚に鉄の橋桁、橋面が合わさるたびに奇妙な、何かの生き物の悲鳴のような高い金属音が鳴り響いた。

 イシュルはアンテル川に橋を架けると自ら橋の上を歩き、具合を確かめると橋のたもとまで戻り、騎士団長やルースラと二言三言話すと隊列の中ほどへ戻って行った。

「イシュル、ご苦労じゃ!」

「お疲れ、イシュル」

「凄いな、イシュル」

「イシュルさま、素晴らしいですわ!」

 ペトラやマーヤ、リフィアやミラから声をかけられると、イシュルはかるく笑みを浮かべ頷いてみせた。

 支隊の騎士らも皆どよめき驚きをあらわにしたが、周りにいる街の住民らの反応は少し違っていた。多くの者はむしろ恐怖の色をその顔に浮かべていた。

「……」

 イシュルは彼らに目をやり空を仰ぎ見ると、鐙に足をかけゆっくりとシェラルバードにまたがった。ニナの毎日の手当てで傷は急速に回復し、もうほとんど痛まない。

 イシュルは周りの街の住民のうち沈む姿を、横目にちらりと見やった。

 穏やかな陽光が、視界の隅できらっと輝く。

 ……いい天気だ。空は澄んだ、目も醒めるような青色なのに。

 イシュルが馬に乗ると同時に、隊列が動き出した。

 鉄を打つ蹄の甲高い音がイシュルたちの方まで響いてくる。

 ……ノルテ。どうだ?

 イシュルは唇の先を微かに動かして、昨日召喚した風の精霊に呼びかける。

 ……いや、ちょっと嫌な感じがする。

「ん?」

 何が? イシュルがノースヒルドにそう問おうとした時、川の方で異変が起こった。

 対岸に魔力の閃光が走り、川面から突如、青白く光る水龍の長い首が突き出された。

 大波が湧き上がり、橋の上を進む騎馬隊を覆っていく。

「行け!」

 来たか! 敵は渡河時を……。

 イシュルはノルテヒルドに叫び、風の異界に手をかけた。

 部隊の先頭はもう対岸に渡り終わっている。

 ……味方を分断するのが狙いか。

「対岸の味方を守れ!」

 イシュルが続いて叫んだ時には、白く光るノルテヒルドの後ろ姿が水龍にぶち当たろうとしていた。

「!!」

「イシュル!」

 間をおかず、新たな殺気がイシュルたちの周りを吹き荒れる。

 すぐ傍を小石か土くれが横切ったか。

 瞬間、ネリーの腕輪が立ち上がる。

 加速の魔法を使う、何人もの刺客が飛びこんでくる気配。

 音が消え、すべてが止まる世界でアイラとリリーナ姉妹が馬から飛び降り、ペトラの前へ移動していく。

 リフィアはもう剣を抜き鞍の上に立ち、敵に向かって跳躍しようとしている。

 そして頭上を何か黒いものが横切り、爆発した。

 瞬間、イシュルは風の魔力の壁を周囲に降ろす。加速の腕輪が力を失っていく。

 爆発したもの……それは魔封の結界だった。

 ……闇の精霊!

 頭上で展開していく黒い幕が、イシュルの風の魔力の壁に突き当る。

 ペトラとマーヤの乗るチャリオットのすぐ右を、ナイフを構えた黒い男の影が差す。

 敵の影働きか。イシュルの風の魔力の壁の内側にひとりだけ、猟兵がすでに入り込んでいた。

 アイラが剣先を突き立てる。

 間に合うか、と思う間もなく、目の前を鋭利な魔力の光輪が走り、同時に黒い男の影が両断された。

 真っ赤な血飛沫が派手に飛び散る。

 リフィアの鋭い刃が赤い血の筋を宙に描く。

 見物の住民に紛れ、四方から襲ってきた敵はほとんどの者がイシュルの風の魔力の壁に捕らわれている。外側にいたごく一部は人々の群れに隠れ、逃れようとしている。

「シャルカ!」

 ほぼ同時にミラの声が聞こえ、シャルカの放った鋼鉄の弾が頭上の黒い幕を引き裂く。

 イシュルが円筒状に展開した風の魔力の壁に阻まれ、発動し切れなかった魔封陣が完全に消え去る。

 その時だった。

 イシュルの右手、風の魔力の壁、人々の先、半ば崩れたロブネル砦の石壁の上に、オレンジ色に光る光線が立ち上った。

 一本、二本……。全部で三本。

「あれは」

 イシュルは鋭い視線を一瞬、その暖色の光芒に走らせた。

 ……精霊神の魔法具。



 風の魔力の壁が青白く煌めき、より強化されていく。かわりに加速の魔法が圧され、イシュルの意識から遠のき消えていく。

 ……面白いじゃないか。

 ここに黒尖晶がいる筈がない。なら連合王国にもいたわけだ。

 精霊神の、隠れ身の魔法具を持つ者が。

「金神ヴィロドよ」

 イシュルは鐙(あぶみ)から足を引き抜き、風の魔力のアシストをつけながら、シェラルバードの鞍の上に飛び乗った。

 両手を握り、俯き拳を見つめる。その拳の先にあの金の神と精霊の世界、結晶世界が繋がっている。

「我へ熱き鋼(はがね)の強者(つわもの)を遣わし給え」

 イシュルはミラに教えてもらった詠唱をほとんど破棄して、金の精霊を召喚した。

 握った拳の先、頭上に魔力の光が瞬き凝縮していく。

「イシュル! 風の結界を解いてくれ。敵を始末する」

 リフィアが赤く光る眸を向けてくる。

「川の方に行かせて!」

「イシュルさん!」

 後ろからパオラ・ピエルカとニナの叫ぶ声。

「むっ、むっ」

「……」

 ペトラが地神の錫杖を構え、マーヤの頭上に三つの火球が浮かびあがる。

「イシュルさま! ここは大丈夫ですわ」

 ミラが叫ぶ。

 確かに敵は川向こうにもいる。そして是非とも潰しておきたい奴らが、砦の方に。

 ここにはこれだけの手練れがいる。大丈夫だろう。

「まずはこの者たちを守れ」

 イシュルは正面、頭上に強烈な魔力を放って人形(ひとがた)に結像していく光の塊に声をかけると、風の魔力の壁を解き、空中に飛び上がった。

 足下で幾つもの魔力が煌めき、血飛沫が煙るのをイシュルはちらっと見下ろすと、視線を前方、ノルテヒルドを走らせたアンテル川の方へ向けた。

 イシュルの架けた鉄橋の前に出現した水龍はもう、姿を消していた。だが橋上は幾人かの騎士が川に落ちたようで、救出しようとする者、周りを警戒する者、目的もなく右往左往する者で混乱している。

 対岸に渡り終えた兵らは川岸に横に広がり、防御陣らしきものを形成しようとしている。アンテル川の対岸は、防衛上の配慮からか、建物もまばらで、木々も数えるほどしか見えない。

 西の方に大木が一本倒れ、大きく地面の抉れている箇所がある。あれは敵側の水精を召喚した魔法使いを、ノルテヒルドが葬った跡だろう。

 そのノルテヒルドは陣を組もうとしている支隊の上空に待機している。彼女は背を見せて前を向いていた。ポニーテールに結んだ長い髪が風に揺れている。

「ん?」

 対岸の街道の先に、土煙が舞っていた。

 ……敵か? 敵の騎馬隊か。だがなぜこんなところに……。

 とにかく今は砦の敵だ。

 土煙の具合と空気の振動からすると、敵は大部隊ではない。ノルテひとりであっという間だろう。

 イシュルは目と鼻の先、ロブネル砦へ向かった。

 周囲にそそり立つ三本のオレンジ色の光線の真ん中へ、空中をゆっくりと移動して行く。

 何か怪しいが、精霊神の隠れ身の魔法には気づいていない、という体を装い砦の内側に入っていく。

 黒く焦げた崩れた石積みの壁、底に黒く固まった灰、燃え残った鉄器類……、もちろんその周囲に、肉眼で見える人影はない。

「ふふっ」

 イシュルは微かに唇を歪ませた。

 光の筋が突然、激しく揺れる。

 ……ネリーよ。

 イシュルは心のうちで、腕輪の前の持ち主の名を呼んだ。

 近く遠く、争闘の気配が消えていく。

 周囲に振れる光の線を目で追えるようになる。

 崩れ落ちた砦の石壁の影から、跳躍してくる魔法の気配。暖色の光が視界を瞬く。

 イシュルは風の刃を払った。

 黒い仮面が三つ、空中に現れ血煙に霧散する。

 隠れ身の魔法が解け、みすぼらしい服装をした男たちが落下していく。

 三人とも、首から上が血肉の塊と化していた。

「……」

 落ちていく三人のかわりに、新たな加速の魔法を使う者が数名、砦の、街の方から近づいてくる。

「もう黒い仮面は品切れか」

 イシュルは歪んだ笑みを深くすると、腕を組んで敵が迫ってくるのを待った。

 ……もう少し引きつけから、一気に片づける。

 だがそれは叶わなかった。

 視界の端を銀色の閃光が走ると、すべての敵が青空に真っ赤な血煙を残して消え去った。

 まだ加速の魔法は消してない、消えていない。

 それでもはっきりとは見えなかった、高速の銀色の光。

 金の魔法の一瞬の煌めき。

「……」

 イシュルは小さく息を吐くと加速の魔法を切った。

「我が名乗りも受けてくれぬとは、つれないお方だ」

 そこへ低い、渋い男の声。

 目の前に、薄く赤く光る異国の装束を着た戦士が現れた。

「ふふ。あっちの方は大丈夫なのか」

 イシュルは残してきたペトラたちの状況を聞いた。

 そんなに離れていないから、大きな問題が起きていないのは気配でわかる。

 だがまだ敵方の襲撃は続くかもしれない。

 対岸ではノルテヒルドが、やや遅れて襲ってきた騎馬隊を迎え討とうとしている。

「……うむ。敵の気配はもうない。すぐに戻れるしな。それにあの者たちは皆、なかなかの遣い手だ」

「そうか。じゃあ、名前を聞こうか。あんたの」

 外見は二十代なかばくらいの男。削げ落ちた頬に鋭い視線。

 金の精霊は獰猛な笑みを浮かべて言った。

「我が名はシルバストル・ブェルシュールク。よろしく頼む、盾殿」

 

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