【幕間】 夜想曲
#1 ある夜の盟約
無味乾燥な他の軍用テントとは違う、頂部から側部の六面が金糸で縁取られた、夜闇でもそれとわかる真っ白のテント。
内部の中央の柱には複数のカンテラが掛けられ、周囲を煌々と照らしている。暗がりはテントの端の方へと追いやられている。
その闇を背負うようにして、四人の少女が向かい合い無言で食事をとっていた。
「……」
「……」
テントの中を、控え目に食器の打ち鳴らされる音が、その音だけが響き渡る。
「……」
「……」
少女たちは自らの前にある皿に視線を落とし、匙ですくっては口に運び、すくっては口に運び、ただそれだけを繰り返している。
カタン。
誰かが匙をテーブルの上に置いた。
テーブル掛けは真紅の薄いサテン地の布、高価な絹製だ。
「セルマ」
匙を置いた少女がお付きの侍女を呼ぶ。長い黒髪の女が、出入り口の仕切りの奥から音もなく姿を現わす。
セルマが食器を片づけ仕切りの奥へ消えると、ペトラがおもむろに口を開いた。
「ではそろそろ、本題に入ろうかの」
連合王国の侵攻から王都を救うべくフロンテーラを出発して五日目、初の野営となった夜、ペトラは晩餐をともにしようと、リフィアとミラを自分のテントに招いた。
ふつうなら誰もが、これからの戦(いくさ)に備え互いの、特に聖王国の貴族であるミラ・ディエラードとの友誼を深めようとする取り計いだと捉えるだろう。
だがこの晩餐はそれだけはなかった。
「野営にもかかわらずお気遣いいただき、感謝申し上げます。ペトラ殿下」
ペトラの斜め前に座るミラが左手を胸に当てかるく頭を下げた。
「わたしもです。今晩はありがとうございます、殿下」
ペトラの正面に座るリフィアもミラと同様に頭を下げる。
ミラもリフィアも澄まし顔で、つまりまったく、心がこもっていない。
これは決して友誼を深める場などではない。女たちの、駆け引きと戦いの場であるかもしれなかった。いや、そのものだった。
「う、うむ」
ペトラがぎこちなく頷く。いつも強気な印象のある彼女ではない。ミラとリフィアの、正体不明の圧力に押されている。
「……今夜はイシュルのことで、話がしたい」
助け舟、だろうか。ペトラの隣に座るマーヤが、いつもの抑揚のない口調で言った。
「……」
ミラが、リフィアが鋭い視線をマーヤに向ける。
真紅の、血の色のようなテーブル。その上には緊張感に満ちた、異様な空気が漂っていた。
「イシュルさまの何のお話でしょう?」
「イシュルの何の話ですか?」
ミラとリフィア、ふたりの台詞が重なる。
「うっ……」
ペトラが固まる。
だが隣のマーヤは平然としている。その黒い眸は相変わらず茫洋としてその奥底が読めない。
そして何を考えているのか、ミラとリフィアの質問にすぐ答えようとしない。
……わたしは安易な妥協はしないぞ。
リフィアはその切れ長の眸を細め、そんなマーヤの様子を見やる。
彼女には以前に、見事にしてやられた一件がある。大公ヘンリクの使者としてマーヤがアルヴァの白亜城を訪れた時、面会したリフィアは彼女に見事に誘導され、本心をありのままに晒け出してしまった。
それはリフィア自身も自覚していなかった、イシュルへの強い想いだった。
「みんながイシュルにどんな気持ちを抱いているか、それはわかる」
マーヤは感情の薄い表情で他の三人を見回した。
「ペトラもだよ」
マーヤは隣のペトラで視線を止めると、念を押すように言った。
「わ、わかっておる」
ペトラはわずかに頬を染めて頷いた。
ミラはそんなふたりのやりとりに、密かに笑みを浮かべた。
……ペトラさまの名で呼ばれた晩餐ですが、この場を仕切るのはマーヤ殿、ということですわね。
ミラの片方の眉が引き上げられる。
やはり危険な存在ですわね。ラディス王国宮廷魔導師、マーヤ・エーレン。
この席の四人の中で、最初にイシュルさまに接触した者……。
「でも今は、イシュルの気持ちを掻き乱すようなことはしたくない。イシュルはこれから、金の魔法具を持つユーリ・オルーラと戦わなければならない」
「うむ、王国を救ってもらわなければならん」
マーヤの言にペトラが続けて言うと、リフィアとミラがそろって表情を強張らせ、ペトラ、そしてマーヤへと抗議するような視線を向けた。
「マーヤ殿、そのような物言いはいささか心外だな」
「わたくしはイシュルさまの力になれるよう、常に努力してまいりました。それは此度の、貴国の危機に臨むイシュルさまに対しても変わりませんわ」
「うっ……」
「もちろん、そなたらのことを悪く言っておるのではない」
今度はマーヤが気圧されるように首をすくめると、ペトラが代弁するように言った。
「こ、ここはじゃな──」
「わたしたちだってそれは同じですわ」
ミラはペトラが何か言おうとする機先を制し、リフィアにちらっと視線を向けた。
ミラは、リフィアも、なぜこの場に呼ばれたか、この席で何が話し合われるのか、おおよその見当をつけていた。
「わたしたちはイシュルさまの大望を存じておりますから」
「なっ?」
「……!?」
何の話かわからず、きょとんとするペトラとマーヤ。
「ミラ殿、それは──」
リフィアは当惑してミラの顔を見やった。
「よろしいのですわ、リフィアさん。イシュルさまの戦いは金の魔法具を得るだけでは終わらないのです」
「……イシュルの大望は……」
マーヤは何か心あたりがあるのか、小さな顎に手をやり呟くように言った。
彼女はアンティオス宮殿の上で、イシュルの風の剣を見せられている。イシュルが何か、大きな目標を、望みを持っているのをその時に知った。
「わたくしがお話しますわ。イシュルさまの願いを」
ミラは彼女の言うイシュルの“大望”を、ペトラとマーヤに話した。
イシュルが五つの神の魔法具を手に入れ、太陽神ヘレスをはじめとする神々と直に相対そうとしていることを。そこで自らを、家族を、大切な人々を襲った災厄の理非を問おうとしていることを。
「……イシュルさまはそこまでは話してくださいませんが、おそらくその場で神々にその非違を問おう、糾弾しようとさえ考えているのかもしれません」
ミラは最後には顔を真っ青にして、震える声で言った。
「なんと遠大な、いや大それたことを。それは、……それを教会が知ったらただでは済まんぞ」
ペトラは顔を曇らせ、厳しい声音で言った。
五つの神の魔法具を集めることはともかく、神々を糾弾するなど、聖堂教会が許す筈がない。
「だが、一方でイヴェダ神はイシュルのもとに降臨され、祝福を与えた。……わたしはイシュルの力になりたいのだ」
リフィアは悲壮な決意を漲(みなぎ)らせ、宣言するように言った。
「……それはわたしも同じですわ」
ミラだけではない。ペトラもマーヤも双眸に強い光を湛えてリフィアを見つめた。
「イシュルが風の魔法具をレーネから継承し、赤帝龍が二百年ぶりに人里に現れた。そして金の魔法具がこの地上に顕現した。赤帝龍は火の魔法具をその身に宿しておる。神の魔法具が三つも現れるなど、古代ウルク以来のことじゃ。……何か、何かが起きようとしているのやもしれぬ」
ペトラが燃えるような眸を見開き言った。
「イシュルはただ、家族を甦らせたいだけじゃないんだ。神さまにお願いしないんだ」
マーヤがひっそりと呟く。
そのことはすでにミラの説明で窺い知れる。
「イシュルさまは人間の命とはそのようなものではない、とおっしゃいました。死んでしまった人を甦らせることが、果たして正しいことなのかと」
ミラの言に、その場に重い沈黙が訪れる。
「……ふーむ。確かに妾も、イシュルの考えはわかるような気がする」
「イシュルの考えはわかる。死者の魂を軽々に扱うものではない、ということであろう」
リフィアが重々しい口調で言う。
「だがこれで決まったの。妾もイシュルと知りおうてよかったわい。妾もイシュルの冒険をともにするぞ!」
ペトラは椅子から立ち上がり、その場の重い空気を吹き飛ばすように明るく、元気よく声をあげた。
「ペトラは駄目。王国をどうするの?」
横からマーヤがいつもの醒めた声で言った。
「むぅ……」
ペトラがへなへなと力なく腰を下ろす。
「ふふ」
「おほほほ」
リフィアとミラが小さく笑った。
「そなたらが羨ましいの」
ペトラがぼそっと呟く。
「でも確かに、……これで決まったね」
マーヤが三人の顔を見回し言った。
「イシュルが大願成就するまで抜けがけはなし。イシュルの心をむやみに乱すようなことはだめ」
「……」
リフィアが、ミラが、ペトラが、一瞬四人の視線が交錯する。
「それはどうかな」
リフィアが胸の前で両腕を組み、不敵な視線をマーヤに投げつける。
「でもリフィアさん。イシュルさまのお考えは? イシュルさまはおっしゃったではないですか。事が済むまでは、わたくしたちの気持ちに応える気はないと」
「……なんと」
「……むっ」
ペトラとマーヤが小さく呟く。
このふたりは、イシュルにもう……。
でも、イシュルはふたりの想いに今は応えられない、と言ったのだ。
ペトラとマーヤは揃って安堵のため息を漏らした。
イシュルは、これから金の魔法具を持つ敵の総大将と戦うことになる。必ず勝てるなどと、とても楽観できるような相手ではなかった。
少女たちの想う相手は、明日をも知れぬ日々に身を置いていた。
もし誰かがイシュルとの恋を実らせても、それはいつか突然、終わってしまうかもしれない。
「イシュルは残された者の悲しみをよくわかっているのだ。だから踏み出せないでいる」
リフィアは厳しい顔で言った。
「その気持ちはわたしにもわかる。だが、果たしてそれでいいのだろうか。ひとを愛することだって、かるいものではない。真実の愛とは、生死を越えた先にこそあるものではないか」
父親をその愛する者に殺されたリフィアの言である。いや、その恩讐を乗り越えた者の口にすることである。
「う〜む」
ペトラも難しい顔になって腕を組んだ。
だが子供のような小柄な少女のその姿は、むしろ微笑ましい。
「つまり、……イシュルが悪いんだよ」
マーヤがその大きな眸に、微かに怒りの色を見せて言った。
「イシュルは逃げてる」
マーヤの眉がぐいっと引き上げられる。
「決められないんだよ。情けないんだ」
「まぁ。……それは違いますわ」
ミラがすかさずマーヤに言い返す。
「それはイシュルさまがやさしい方だからです。誰かを傷つけるのが嫌なのですわ」
「まぁ、それはあるかの。恋路に優柔不断は男の常じゃし」
「……」
皆がおまえがそれを言うか、という顔でペトラを見る。
王家の、深窓の姫君が経験はもちろん、耳にするような言葉ではなかろう。
「しかし、イシュルはそちらの方はからっきしじゃが、歳のわりに妙にしっかりしていて、知恵のまわるところがあるの」
ペトラは周りの視線をごまかすように、微妙に話題を変えてくる。
「からっきし、ということではありません。慎重、なのですわ。……でも確かに、イシュルさまには年齢不相応なところがありますわね」
「うむ。歳のわりに幼い顔立ちだと思うのだが、時おり別人かと思うような大人びた顔をする。なんというか……」
リフィアはイシュルには何か、底の知れないところがある、と続けた。
「イシュルはあれで学者だから」
「ベルシュ家にはまだ、ウルクの頃の文献が残っていたのでしょうか」
「わからんな」
「いくらなんでもそんなことはあるまい。王家の書庫でもそんな古い書物は残っていない筈じゃ」
「イシュルは時々独特な言葉遣いをするが、わたしにはあれがすべて古い言葉だとは思えない」
「言葉だけじゃないよ」
「そうですわね。しゃべり方も仕草も、時々品があるというのか、新しいというのか、不思議に思うことがあります。お食事の時のあの作法は、どこで学ばれたのでしょう……」
「妙にせっかちな時もあるの」
「なにもかもが早い。話すのも、動くのも、考えるのも」
「うむ」
四人の少女たちが互いに視線を交わす。
「……それに、ご自身の心を何も隠さず率直に見せて、これでもかとぶつけてくる時がありますわね。ときにそれは恐ろしいお顔で、今まで見たこともない目で……」
ミラは胸に手を当て頬を染め、小さな声で言った。
「あの時は、身も心も射抜かれるような心地がいたしますわ」
「うっ」
「むぅ」
「……」
少女たちは今度は互いに視線をそらし、頬を染めた。
「あやつには、妾たちのうかがい知れない何かがあるのじゃ。それに触れると、触れればふれるほど、その何かを知りたくなる」
ペトラがめずらしくロマンチックな、遠い目をして囁くように呟く。
「あれはなんだろう。……わけもわからず、惹きつけられてしまう」
リフィアが熱にうなされたような顔になって、長い睫毛を伏せ俯いてしまう。
「はぁ……」
ミラが熱い吐息を漏らした。
「……」
マーヤも陶然としながらも、だが一方で観察するような視線をリフィアやミラ、ぺトラに向ける。
マーヤは何を考えているのか。
少女たちを惹きつけるイシュルの不思議な、正体不明な何か。
あるいはそれはイヴェダが彼に告げたこと、風神が惹きつけられたものと同じものかも知れなかった。
「はっ」
突然、リフィアが奇声を発して「いかん」と小さく呟いた。
「おっ」
「あら」
ペトラもミラも、夢から醒めたような、正気に戻ったかのような声を発し互いの顔を見合わせた。
「……」
少女たちは罰の悪そうな顔になって、また視線を明後日の方にそらした。
場になんともいえない空気が流れる。
……イシュルに最後までついていけば、その時わたしも生きていられたら、彼のうかがい知れない不思議な謎の部分を、知ることができるかもしれない。
マーヤはそらしていた視線を正面に、一番先に戻した。視界がテーブルを覆う真紅の色でいっぱいになる。
それがこの深い赤のように、血まみれの道であろうと。
もし彼の謎の部分を、秘密を知ることができたら。
……確信がある。理屈じゃない。わたしはその時こそ、彼のことをもっと好きになる……。
女だって、いや、女には女の意地が、志(こころざし)がある。わたしにはわたしのやり方がある。
己のうちに静かにゆっくり、気合を充溢させていく。
宣言するように、はっきりと口にした。
「わたしは、イシュルを独占するのにこだわらない」
マーヤは、やや遅れて気まずそうに視線を戻したリフィアたちを見回し言った。
「……!」
ミラとペトラが、マーヤの突然の爆弾発言にはっとした顔になる。
「わたしは、……妥協する気はないが」
リフィアは先ほどと変わらぬ、低い声でマーヤに言った。
「でも、こうなったら選ぶのはイシュルだよ」
「むう……」
リフィアが呻く。
「わたしたちの取り合いになって、イシュルに負担をかけるのは……避けないと」
「それは確かですわね」
ミラはその美しい顔を僅かに上向け言った。
「それは! ……確かにそうだ」
リフィアは苦渋をその面(おもて)にのぼらせ、最後は囁くように言った。
「うむうむ」
ペトラは誰にも聞こえないような小声で、微かに首を縦に何度か振った。
マーヤの言に、皆が同意する。
「ではそちらの方は控えめに、みな自粛する。今は戦(いくさ)の前だし。そしてイシュルの大望の邪魔はしない」
マーヤはすかさず、この会合のまとめにかかる。
「くっ、……仕方ない」
「異存はありませんわ」
「ふむ。ではこれは約定ということで。別に書面に残すわけではないが」
と、そこでペトラは手を叩いた。
「セルマ、杯(さかずき)を持て」
「戦陣にて中身は酒ではないがの。今夜は盟約の成った証(あかし)に、杯をあげようではないか。……すべてはイシュルの大望成就のためじゃ」
ペトラが音頭をとり、皆は起立して手に持つ杯を掲げた。
ちなみに中身はただの白湯(さゆ)である。
「……」
リフィア、ミラ、そしてマーヤにペトラが杯を傾け、その中身を口に含む。
「ん?」
一番早く気づき、不審な顔をあらぬ方に向けたのはリフィアだった。
「ミラ」
仕切りの垂れ幕がめくられ、セルマらと隣に控えていたシャルカが顔を出す。
「ベスコルティーノ……」
同時にマーヤが自身の契約精霊の名を囁く。
マーヤはベスコルティーノに周囲を警戒させていた。
「むっ」
ペトラの小さな呻き声とともに、遠くの空の方から腹の底をえぐるような轟音が響いてきた。
四人の少女は互いに顔を見合わす。
「これは……」
少女たちは我先にとテントの外に出た。
「あれは輜重隊の方」
北東の空に、異様な規模の魔力の煌きが吹き上がっていた。
大小のテントが並ぶ野営地を、辺りを風が鳴っている。
「敵の襲撃か」
マーヤに続き、リフィアが鋭い口調で言った。
「イシュルの魔法だ……」
「いえ、イシュルさまの召還されたあの大精霊かもしれません。あの方は素晴らしい弓をお持ちでしたから」
「ふむ。風の大精霊の弓矢か。おそろしいものじゃな」
夜空に広がる風の魔力の煌きは、一軍をかるく吹き飛ばすほど大きなものだ。
「イシュルは負けない……」
たとえ相手が金の魔法具を持つ者であろうと。
リフィアが視線を遠く、呟くように言った。
やがてその顔に笑みが浮かぶ。
……たとえその相手が大公息女であろうと、五公家の令嬢であろうと。
おとなしく約定に従うつもりなど毛頭ない。イシュルは誰にも渡さない。そしてもちろん、イシュルの願いもかならず、このわたしがかなえて見せる。
ミラはリフィアの横にあって、夢見るような眸を風の魔力の輝きに向けた。
……最後の最後までイシュルさまの横に立つのは、このわたくし。約定など、イシュルさまのお力になれるのならどうでもいいことですわ。
マーヤはその表情の薄い顔を夜空に向け、心のうちで秘かにほくそえんだ。
……わたしの描いた筋書き通りにいった。一番大事なのは、イシュルの力になってあげること。
ベルシュ村の焼き討ちを知らされた時の、あの時のイシュルの顔。もうあんな顔は二度と見たくない。あんな辛い思いはさせない。
ペトラは上機嫌な、満足気な顔に笑みを浮かべた。
……とりあえずはマーヤのねらいどおり事が進んだ。だが油断は禁物じゃ。
軽々に動けぬ妾の不利は明白。でも、逆にそれを利してみせる。たとえ王家の力を私しても。その機会はいつか、かならずやってくる。
四人の少女たちはテントの前で横に並び立ち、思い思いに夜空に浮かぶ強大で美しい、魔力の瞬きを見つめた。
女には女の意地が、志がある。正義がある。
……そしてもちろん、不実も、裏切りも。
少女たちの胸に燃え立つ紅蓮の炎は、それは血の色のように赤かった。
#2 ある夜の狂騒曲
「それは妾としては承服できんな」
「しかし姫君。他に空いている部屋はないとか。仕方がないのでは」
「でも何か、間違いがあったらまずい」
「まっ、間違い……。そ、そ、そんなこと、あるはずございません、……わ?」
ひいいっ。
イシュルは思わず一歩、後ろに下がった。
……ミラは何を言ってる? 何で語尾が疑問系なんだ。それじゃこの場が荒れるだけだろうが。
「その“わ?”とはなんじゃ。“わ?”とは」
「そうなんだ、ミラ殿は。そんなこと考えてるんだ」
「そんな! 失敬な! わたくしはそんなはしたないこと、微塵も考えておりませんわ!」
「まぁなんだ。そういうことも起こるかもしれないな。だがそれはそれ、何があろうとそれも一夜限りの夢。ここは見て見ぬふりをするのが……」
リフィア。おまえも何を言っている。もう、自分で何を言ってるか、わけがわからないんじゃないか、それ?
……いや、だめだ。ここで突っ込んじゃだめだ。彼女たちの諍いに首を突っ込んだら、どんなことになるか。……絶対死ぬ。
イシュルはさらに一歩、後退した。
ここは静かに、気配を消して、この場から離れる。逃げるのが一番だ。
「うっ……」
そこでイシュルは後ろから両肩を掴まれた。
振り返り、見上げるとそこにはシャルカのむっつりとした顔があった。
……シャルカ。
「我が神の宝具を持つお方」
シャルカが重々しく口を開く。
「ぜひミラに加勢していただきたいのだが」
ひいっ。
な、何を言うんだ? こいつ。そんなの、無理だよ……。
イシュルの目の前にはそのミラにリフィア、そしてペトラとマーヤが、先ほどから激しく口論を戦わせている。激しく言い合っている。
ところはアベニス伯爵邸、二階の一番奥の部屋。その前の廊下でだ。
「……」
ふと視線を感じて顔を向けると、イシュルの横にマリド姉妹が並び立ち、揃ってイシュルを見ていた。
リリアーナは口許に手を当て、ちらちらと言い争うペトラたちを見ながら楽しそうな、からかうような視線をイシュルに向けていた。「まぁ、大変。イシュルさんはとてもおモテになるのね」といった感じだ。
対して真面目なアイラは難しそうな顔をしてイシュルを見つめてくる。「この修羅場をどうにかしてくれ」といった感じである。
彼女たちは主(あるじ)のペトラが当事者のひとりであるとはいえ、原因はイシュルにある、この場をおさめることができるのもイシュルであることがわかっていて、この場の状況がより悪化しない限り、自ら介入する気はないようだった。
……そんな目で見られても……。
しかし失敗した。これ以上の疲労はまずいと思い、護衛、警戒のために精霊を召喚するのをためらったのだ。それでマーヤやリフィア、ミラに夜間の護衛を相談したのがこのドタバタの一因になってしまった。
ユーリ・オルーラを斃し金の魔法具を奪った後、ケフォル村近くでドミルら一行と落ち合い、その後アベニスにて大公軍本隊より先行してきた、ヘンリクらと合流した。
アベニスは王都街道沿いの小さな集落だったが、王家の遠縁である同名のアベニス伯爵邸があり、ヘンリク一行は当屋敷に陣を敷いていた。
そこへイシュルたちが合流したため伯爵邸は一気に手狭になり、ドミルら宮廷魔導師は他の大公家の魔導師らとともに同室で、ロミールらは騎士らとともに軍用テントで、イシュルはミラやリフィアとともに同室で仮泊することになった。
イシュルも精霊を召喚すれば、テントだろうと近隣の民家だろうとどこで寝てもよかったのだが、負傷に加え疲労が蓄積し、魔力の消耗を抑えようと考えていたので、ドミルら周囲の計らいで警備の厳重な伯爵邸で休むことになった。
リフィアとミラと同部屋ではあるが、イシュルの寝るベッドとは衝立で仕切り、ミラの契約精霊であるシャルカも同室で一夜を過ごすので、問題はないと思われた。
そこへ、イシュルがリフィアたちと同室になることを聞きつけたペトラとマーヤ、正確にはペトラが横やりを入れてきたのである。
四人の少女たちは問題の部屋の前で議論を白熱させた。言うまでもなくペトラとマーヤは相部屋を阻止しようとし、ミラとリフィアはそのまま押し切ろうとした。
「……シャルカにはきちんと監視させますから、それは大丈夫ですわ」
「とは言ってものお。シャルカとはそなたの契約精霊であろうが」
少女たちの視線がシャルカに向けられる。その前にはイシュルがいる。
……ひいいいっ。
イシュルはからだを硬直させた。顔から血の気が引いていく。
……ち、血が。血が下に降りていくのがはっきりわかる……。
「……」
だが彼女たちは一拍おくと、特に何の反応も見せず視線をもとに戻した。今はそれどころではないのか、当のイシュル本人は眼中にないようだった。
……あ、危なかった。……助かった。
ど、どうやら彼女たちは、それどころじゃないらしい……。
イシュルは思わず喉を鳴らした。背中を冷たい汗が流れるのがわかった。
「シャルカはわたくしの命令しか聞きません。ご心配には及びませんわ」
……いや。契約精霊ならそれ、当たり前だろ? それに「わたくしの命令しか」って、全然答えになってないじゃないか。
「殿下、そこはわたしもいますから。安心めされよ」
……リフィア、おまえもだよ。おまえが一番、信用ならないんだよ。
「リフィア殿、ここははっきり申しておくが、そなたが一番信用ならん」
「確かに」
……ほら、ほら!
ペトラとマーヤの返しに、リフィアが思わずぎゃふんとなる。顎を引いて身を仰け反らした。
「仕方がないの。ここは衛兵でも立たせておくか」
「かまいませんわ」
「わたしもです」
「部屋の外じゃなくて中、にだよ」
と、マーヤがペトラの言を引き継ぐ。ペトラは否定しない。
「はっ?」
「いや、それはおかしい。いくら何でも」
「まったく。当番の兵が可哀想じゃ。……こんなことで」
「ペトラさま、ちょっとお待ちください。それではわたしたちが困ります」
リフィアが呆然とした顔になる。確かにマーヤとペトラの言う通りなら、ミラとリフィアは男の衛兵が立つ目の前で寝ることになる。
「酷いですわ。これはサロモンさまにお知らせしなければ」
「なに? いや、待たれよ。ミラ殿。それは困る」
おいおい……。衛兵を立てるか立てないかで外交問題になっちゃうのか?
もうめちゃくちゃだな。
これはもう収拾がつかない。やはり俺がガツンと言わないと。……怖いけど。
だいたい、だ。この小娘どもが、俺と同室で寝る寝ないで何をこんなに騒がなければならないんだ?
俺は見た目通りのガキじゃない。そんなにガッついてなんかいない。
何を心配する必要があるんだ?
まぁ、周りの人たちは当然、俺の外見、年齢に応じて接してくるわけだし、俺もそのように振る舞う。この肉体が精神に及ぼす影響も大きいし、もう自分の精神年齢が何歳くらいなのか、よくわからないしあやふやだ。
だが俺はこの騒動の当事者のひとりだし、責任がある。それに本音を言えば、疲れているからさっさと休みたい、というのもある。
この場は俺が締める。もともとは、俺が精霊を召喚するのを嫌ったのが原因なのだ。
もし騒ぎが収まらないなら、金の精霊の初召喚に挑戦するのもいいし、近くの民家にでも移らせてもらおう。
「イシュル殿……」
「イシュルさん……」
横にいたアイラとリリーナが囁くように小さく声をかけてくる。
リリーナはイシュルに対して「さま」付けで呼んだり、「さん」付けで呼んだり、その場で使い分けている。
ふたりはイシュルの顔つきが変わり、この場を収めようとするのがわかったのだろう。
イシュルは、舌戦を繰り広げる少女たちの輪に一歩踏み出した。
「おいっ」
すぐ目の前にリフィアの背中がある。みんなに声をかける。
……ん?
その時、廊下の後方に人の気配を感じて振り返える。
「ニナ……」
ニナとパオラ・ピエルカが歩いてくる。
「ペトラさま」
パオラはイシュルに笑顔を向けると横に並び、ペトラに向かって膝を折り声をかけた。
「ヘンリクさまより軍議に加われとの仰せです。わたくしとともに参りましょう」
「おっ」
ペトラが振り向いた。
ミラもリフィアも口を閉じる。
騒々しかった伯爵邸二階、廊下の端は急に静かになった。
「ピエルカ殿か。あいわかった。すぐ参る」
ペトラはリフィアたちに顔を戻すと続けて言った。
「仕方ないの。今回は引き下がろう」
「ん……」
ペトラの言にマーヤが頷く。
「よろしいのですね」
とミラ。
「うむ。時間切れじゃ。仕方ないの」
「今晩はあきらめる。あなたの精霊を信じることにする」
マーヤはちらっとシャルカに目をやり言った。
「うむうむ」
リフィアが何度か頷く。
「では参りましょう、ペトラさま」
パオラが心の読めない微笑を浮かべてペトラに声をかけ、先導していく。
「……」
……何なんだ。あんなに大騒ぎしていたのに。どういうわけだ?
「イシュル、次は妾とじゃ、よいな?」
はっ? なんだそれは? 「次」ってなんだよ。
「イシュル、ふたりに悪戯しちゃ駄目だからね」
イシュルがペトラに文句を言おうとすると、続いて目の前に立ったマーヤが言った。
つぶらな眸でイシュルを見上げてくる。
「……」
イシュルはむすっとマーヤを睨みつけた。
「悪戯」ってなんだよ。何が「悪戯」だよ。
「おいっ。……ん?」
小さな背中を見せて去っていくマーヤに、再び文句を言おうとするイシュル──の腕にニナが触れてきた。
「イシュルさん、怪我の手当てをしましょう?」
ニナの微笑がやさしい。
ニナは先ほどまでの状況も、みんなの、イシュルの気持ちもよくわかっているようだ。
「ああ、……ありがとう、ニナ」
ニナがイシュルを引っ張るようにして部屋の中へ引き込む。
続いてミラとリフィアが満面の笑みで入ってきた。
シャルカも満足そうな顔をしている。
「……」
はあああ……。嬉しそうだよな、あんたら。
今までのあれは一体、何だったのか。
イシュルはため息をつくと、がっくり肩を落とした。
狂騒の一幕は去り、夜の帳が伯爵邸に降りてきた。
屋敷の内外で、人々のせわしなく動きまわる気配が続いている。だがそれも、イシュルたちの眠る屋敷の奥の部屋にはほとんど伝わってこない。
ミラとリフィアは、イシュルの寝るベッドに衝立を挟み並んで寝ている。部屋の隅にはシャルカが椅子に座り、目を閉じて眠っている、ように見える。
……イシュルさまの寝息。息遣いが聞こえてくる……。
ミラは眼を瞑り、イシュルの微かな寝息に耳を澄ました。
心のうちにさざ波が立ち、ゆっくり、ゆっくりと広がっていく。
イシュルの安息は彼女にとって、何事にもかえがたい喜びなのだ。
……イシュルの傍で寝るのも久しぶりだ。
リフィアもまた、イシュルの息遣いに耳を澄ましていた。
彼女はかつて、赤帝龍との戦いの後イシュルに救出され、ゾーラ村へ、ふたりきりで向かっていた数日間のことを思い出していた。
その後はイシュルに父を殺される、辛い記憶につながっていくのだが……。
赤帝龍が去ったクシム銀山の山稜で、イシュルは辺境伯家の復興と遺族の補償を説き、リフィアに「悔恨と悲しみを糧に、前へ進め」と言ったのだ。
それは彼女にはとても忘れることなどできない、大切な思い出だった。
まだ戦(いくさ)は終わっていない。
イシュルの望みが叶うまで、まだまだ道は遠い。
だがこの一夜だけは、今はただ、この安らぎに身をまかせよう。
……イシュルとともに。
ミラとリフィアはそれぞれの想いを胸に、夢の中に落ちていった。
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