【幕間】 戦陣余話 2

 

#3 囚われた男


「お主、ニースバルトとか申したかな。この小僧は何者だ? まさか、この者がユーリさまを斃したとでも言うのか」

 黒目がじろりとルースラを睨む。

 髭の男は負傷し捕らわれたにもかかわらず、不敵な、不遜な態度をまったく隠そうとしなかった。

「……」

 イシュルは笑みを歪ませ何も言わない。

 間違いない。

 俺とユーリ・オルーラは別人だった。

 あの精霊神の鉄仮面をつけられるまで、ユーリ・オルーラは俺と同じ顔、姿をしていなかった。

 イシュルはその眸にわずかに喜色をのぼらせ、黒髭の男を見つめた。

 ……このふてぶてしさ。なるほどこの男はまだ、主君の健在を信じているのだろう。

「小僧、我輩のことは知っていよう。うぬの名を申してみよ」

 クルトル・ドレーセンはその大きな黒い眸を見開き、イシュルを睨んできた。

 そして右手を顔へ、自らの髭の方へ持ってこようとして痛みに「うっ」と、小さな声で呻いた。

「ふふ」

 イシュルはドレーセンのそのさまを見て小さく笑った。

 なぜ髭をさわろうとしたのか知らないが。

 ……狸顔。狸だな、こいつは。ちょっとだが愛嬌もある。

 ふむ、狸顔の名将か。……徳川家康とか、こんな感じだったんだろうか。

「……俺か?」

 イシュルはひと通りクルトル・ドレーセンの顔を鑑賞すると、ドレーセンがまったく自身とユーリ・オルーラを同一視していないことを確認すると、そこでやっと口を開いた。

「俺の名はイシュル。イシュル・ベルシュだ」

「なんだと?」

 ドレーセンの目つきが変わった。確かにそこらの小僧、を見る目つきではなくなった。

 ……俺の名はもう、連合王国の方にまで知れ渡っているらしい。

 いや。敵の、イヴェダの剣の持ち主なら彼らが知っていて当然か。

「おまえの主(あるじ)は確かに俺が斃した。やつの持っていた金の魔法具もいただいた」

 そこでイシュルは一瞬間を置き、ドレーセンの顔をねめつけた。

「信じられないか?」

 イシュルは鋭い視線をはずさない。その口角は引き上げられたままだ。

「……む」

 ドレーセンはイシュルの視線を受け止め、僅かに表情を歪ませた。

「見せてやるよ。金の魔法を」

 イシュルの笑みが歪む。

「……!」

 眠そうにしていたドミルが、両目を微かに見開きイシュルを睨んでくる。

 だがそれだけ、ルースラも端に立つ衛兵も、ドレーセンも反応しない。金の魔法は詠唱もなしに、強烈な魔力の煌きも、音もなく発動した。

 向かい合うイシュルとドレーセンの間の空間に、さっと熱く金色に輝く円盤が現れた。と、直後には冷えて鈍色の鉄板となった。そして表側を細かな火花が円形に走り、二重の縁取りが刻まれた。

「むう……」

 ドレーセンが小さな呻き声を漏らした。

 静かな金の魔法の発露。だがそれは異様なまでに純粋で、洗練されたものだった。

「これが金の魔法具の正体だ。この小さな円形の鉄盾がな」

 もちろん、ドレーセンの前に浮かぶ鉄盾は金の魔法具そのものではない。イシュルが見たものを、感じ取ったものを忠実に再現しただけだ。

「金神ヴィドロの古い像は円形の鏡を持つとされてきた。だがそれは小型の鉄盾だったわけだ」

 イシュルは宙に浮かぶ鉄盾を消していく。

 鉄の円盤は下から上へ、暖色の光を放ちながら燃えるように姿を消した。

「……」

「凄い……」

 ドレーセンは眉間にしわを寄せ、イシュルを無言で睨みつけてくる。その表情からは彼が金の魔法をどう見たか、感じたか、はっきりとはわからない。

 だがドミルは双眸を見開き、ルースラは口をあんぐり開けて呆然と呟いた。

 ふたりはイシュルの魔法がどれほどのものか、はっきりと理解できたように見えた。

「幻術の類いか? 消えた鉄楯はどこへいった」

 ドレーセンは髭をうごめかして聞いてきた。

「金の魔力に変えて精霊界に戻したのさ」

「な、なんと。そんなことが……」

 髭の男は驚いた顔になって呻いた。

「高い位階にある精霊ならみなできると思うんだがな。ユーリ・オルーラはできなかったのか?」

 イシュルはかるく首をひねり、わずかに揶揄を込めた視線をドレーセンに向けた。

 ドミルは後ろで小さな笑みを浮かべている。彼はイシュルの言ったことの意味がわかるのだろう。

 小さくとも流麗な魔力の発現、制御と消滅。それは人間の魔法使いにとっては至難の技だ。

「うーむ」

 ドレーセンは何度目か、小さく唸り声を発した。

 彼のイシュルを見る目は、先ほどまでのそれと明らかに変わっている。

「別にあんたが信じようと信じまいと、俺はかまわないんだがな」

 ……もう一押ししておくか。

 おまえにはっきりわからせてやる。もうすべてが終わってしまったことを。

 イシュルは口を半月状に歪め、ドレーセンを見た。

「俺はこれからバルスタールに行って、連合王国のやつらを殺しまくるだけだ。おまえの主君がやったようにな」

 ……本心は違う。だがそれははったりでもなんでもない。

 俺にはバルスタールに籠もる連合王国軍を殲滅できる力があるのだ。

「どうだ? あんたも俺らといっしょに来ないか? 目の前で見せてやるよ、大虐殺を。おまえの国の、オルーラ大公国の陣からはじめようじゃないか」

「それは面白い。味方の将兵らの士気も一気に上がる」

 ルースラが余裕の表情で、すかさず合いの手を入れてくる。 

「くっ……」

 ドレーセンはこの場ではじめて、苦悶の表情を浮かべた。

「わかったわかった。……で、貴様はユーリさまとどう戦ったのだ? ご遺体はどこにある」

 だがドレーセンはすぐに顔つきをあらため、イシュルの言ったことなどたいした痛手ではない、という風に取り繕った。その顔には薄笑いさえ浮かんでいた。

 ……この狸親父め。

 イシュルはドレーセンの質問に、ドミルらに話したのと同様に説明した。

「ユーリさまを丘丸ごと吹き飛ばしたというのか?」

「そうだ」

「それはどんな魔法だ? ユーリさまが後れをとるなど信じられんな」

「だから信じなくてもいいと言っている。俺の使った大魔法は、イヴェダ神から直接教えを賜ったものだ。それ以上は言えないな」

「な……、くっ」

 大聖堂の主神の間にイヴェダが降臨した話は、ドレーセンの耳にも届いていたのだろう。イシュルがイヴェダの名を出すと、余裕あり気に見せていた彼の表情が再び厳しいものになった。

「もうよいわ。我らが夢はついえた。さっさと殺せ。敵の虜囚となって生きながらえるなど、恥辱を晒すつもりはない」

 ドレーセンは顔を俯かせ疲れた口調で言った。

「……」

 イシュルはそんな狸顔の武将を、わずかに唇を歪めて見つめた。

 ……さて、これでこの男はユーリ・オルーラの死を認めた。本来ならここで俺の役目はおしまい、なのだが。

「まぁ、そうおっしゃらずに」

 横から、ルースラが柔和な口調で声をかける。

「我々も貴殿から、いろいろと聞きたいことがあるのです。わたしとしてはあまり強硬な手段はとりたくない」

 ……ルースラは用済みの俺に席を外せ、とは言ってこない。

「ふん。大公国の伯爵である我輩を拷問にかけるだと? それではラディスの評判が落ちようが」

「……そうですね」

 ルースラの顔を見ると、にこにこと笑みを浮かべている。

 俺とたいして変わらない歳なのに、なかなか恐ろしい男だ。こちらは金の魔法具の暴虐によって多くの兵を失い、侵攻を受けた側なのに、その怒りの感情の片鱗すらも見せない。

「いいんじゃないか? いくらでも拷問すればいい。この男を捕らえたこと自体を秘密にしてしまえば、それで済む話だ」

 イシュルはドレーセンをちらっと横目に見るとルースラに顔を向けて言った。

「まあ、そうなんですが」

 ルースラは笑みを深くしてドレーセンの髭面を見つめる。

「くっ。わしは喋らんぞ。さっさと殺せ。ユーリさまが亡くなられたのなら、もう生きていてもしょうがないわい」

「バルスタールはいいのですか? あそこには貴殿の国の兵らも、朋輩もおられる。故国は? 貴殿のいないオルーラ大公国はどうなるでしょう」

 ルースラのその言葉に、ドレーセンはそっぽを向いて口をつぐんだ。

 ルースラはこちらの知りたいことを喋れば、命を助け、解放する可能性もあることを匂わせた。だが、ドレーセンは翻意する気はないようだ。

 ……どうやらルースラは本当に拷問などの手段はとりたくないらしい。俺の言った、秘密にすればいいというのはドレーセンに対する単なる脅しだが、実際にその秘密が保たれるかはわからない。いつか、どこかで露見する可能性はある。

 大陸では騎士道的な気風もある。高い身分にある武将を捕え、名誉ある死を与える、つまり処刑するのはよくても、下士に対するような拷問を加えるのは、確かにラディス王家にとってあまり見栄えの良いものではない。

「……どうです? もし貴殿がこちらの質問に答えてくれるなら、御身の命も保証し、解放しましょう」

「……!」

 思わずイシュルは正面奥、ドミルと視線を合わせた。

 とうとうルースラはその破格の条件を、はっきりと口に出してきた。

 ……王家にはそこまでして知りたいことがあるのか。いや、それよりも……。

 ルースラに突きつけられるドミルの咎めるような視線。それを見る限り、ルースラの言ったことは明らかに越権行為だ。そんな大それたこと、ヘンリクの裁可が必要ではないか。

「……」

 ベッドに横になっているドレーセンの頭上で、イシュル、ドミル、ルースラの目線が互いに、せわしなく行き来する。

 ドミルは何か言いたそうにするのを堪えた。イシュルとドミルに向けられるルースラの何か、含みのある視線。

 それは……。

 イシュルも無言、無表情で通した。ドレーセンに勘ぐられるのはまずい。

 ルースラは前もってヘンリクからもう許可をとっていのるか、他に何か考えがあるのだ……。

 イシュルはドレーセンに視線を向ける。

 運良くというべきか、目の前の男はそっぽを向いたままでいた。ルースラの出した条件に少なくとも表向きは一切、反応を示さない。耳を貸さない。

「噂では、あなたはアリエン殿下を密かに匿われているとか……」

「アリエン……?」

「ユーリ・オルーラの腹違いの弟です」

 イシュルの呟きに、ルースラが間を置かずに答えた。

 ……確かオルーラ大公国で内紛が起きた、その原因となった世継ぎ問題のもう片方の当事者だ。何歳か知らないが、まだ子供の筈だ。

 その内紛の首謀者が、いま目の前にいるクルトル・ドレーセンだったと聞いている。この男は先代のリフィエルを退かせ、ユーリ・オルーラを新たな大公にすげ替えた。

 リフィエルとその後妻らはユーリに金の魔法で殺されたが、ドレーセンは万が一大公家の血が絶えることを恐れ、裏で庶子のアリエンを匿っていた、ことになる。

「……その話、どこで仕入れた」

 横を向いていたドレーセンの、黒い眸だけがルースラに向けられる。

「我々がバルスタールを奪還すれば、あなた方は再び大陸の西方に閉じこもり、戦(いくさ)に明け暮れる日々に逆戻りだ。そうなれば大公国はどうなりますかね?」

 ルースラはドレーセンの質問を当然のごとく流した。

 ラディス王国だって連合王国に間諜くらい置いているだろう。オルーラ大公国の政変から二年近く、敵の侵攻から一ヶ月以上経っている。オルーラ大公国の情報を仕入れる時間は充分にあった。

「……」

 ドレーセンの視線がまた横を向く。

 ユーリ・オルーラに征服された連合王国諸国の中には、彼に、オルーラ大公国に恨みを持つ者も多くいるだろう。再び内戦状態になれば、オルーラ大公国を執拗につけ狙う勢力も少なくないだろう。

「オルーラ大公家の血は絶えていない。貴殿ら四伯爵も健在だ。まだ、全てを諦めるのは早いのではないですか」

 ルースラの説得が続く。

 彼は暗に、バルスタールに残るオルーラ大公国軍を、攻撃の対象から外してもよい、見逃してもよい、とさえ言っているのだ。

「あなたが欠ければ、オルーラ大公国の存続も厳しくなるのでは」

「むうううっ」

 ドレーセンが低く唸り声を上げる。

 ……それは唸りもするだろう。これはこの男にとって、とてもおいしい提案だ。

 その後ろでドミルが薄く笑みを浮かべる。

「伯爵以外にも何名か、捕らえた騎士はいるんでしょう?」

 イシュルはルースラに横から声をかけた。そして視線をドレーセンに向けた。

「彼らと一緒に商人にでも変装して、中海回りで故国に帰えるのはどうだ? 俺たちがバルスタールに到着するのが七日後、決着がついて諸国の軍勢が撤退するまで十日、彼らが各々、故国に帰還するのに五日〜二十日かかると仮定すると、あんたらはもう少し早く、大公国に辿りつけるんじゃないか? 負け戦(いくさ)の混乱状態でいち早く自国を立て直せれば、その後も有利に事が運ぶと思うがな」

「くっ、小僧。……おまえ、我が軍を一気に殲滅する気はないと申すか」

 その横顔に苦しそうな表情が現れる。

「どうかな? だが俺はユーリ・オルーラとは違う。もっと賢明な、……そうだな。気のきいたやり方で行きたいね」

 イシュルは薄く笑って言った。

 ルースラは何も言ってこない。ドミルは何の反応も示さない。

 ……城塞線の敵を、皆殺しにしたくない理由は幾つかある。

 とりあえずは彼らに、俺と深い関わりのある人間は誰も殺されていないことがひとつ、ある。できれば寝覚めの悪い、無用な殺しはしたくない。

 ともに向かうマーヤやペトラはどう思っているか、それは知らないが。

「う〜む……」

 ドレーセンは再び唸り声をあげ、両目をぐるぐる回すと顔を、イシュルたちの方へ向けた。

「わかった。条件を申せ」



「……ということで、先ほどイシュル殿が話した経路でお国に帰れるよう、便宜を図ることにします」

 その後ルースラとドレーセンの間で、取り引きの具体的な事がらが話し合われた。

 ドレーセンの出した条件は自身と生き残った騎士らの身の安全、解放時の路銀の支給や通行、取り引き手形(商人としての身分保障を兼ねる)の発行などである。

 対してルースラの出した条件は大きく二つあり、バルスタールの敵軍配置の詳細と、オルーラ大公国が連合王国諸国を席巻していく過程で起きた、アルテナ王国国王の不審死と幾つかの野戦、攻城戦の詳細説明、だった。

 イシュルはルースラの申し出を聞きながら、ちらちらと当の本人を横目に見やった。

 ……ずいぶんと甘い条件じゃないか。それでいいのか?

 バルスタールの配置はいいとして、そのほかの項目はどう考えても、王国側が急を要して知りたい内容ではないと思うんだが……。

 ルースラの欲しい情報は、いずれも手間をかければ知ることができるものだ。

 だがユーリ・オルーラに近く、名将と言われるクルトル・ドレーセンの耳目を通して語られるのなら、その重要さは計り知れないものになるだろう。それは一理、あるのだが。

 ドミルは交渉が具体的な話になると明らかに一歩引いた態度をとり、ルースラの言ったことを問題視している様子は見せない。

「……イシュルさん?」

 と、横でルースラの声がした。

「何かほかに、伯爵に聞きたいことはありますか」

「ああ」

 おっと。それはそれとして……。

 確かにまだ、俺もドレーセンに聞きたいことがある。

「伯爵、あんたの主君が金の魔法具を手に入れ、鉄仮面を誰からか着けられたのはいつだ? それを教えて欲しいな」

 イシュルは、再び不敵な色を表しはじめた敵将の顔を見つめた。

 ……だいたいの時期はわかっている。それは誰にでもわかる。オルーラ大公国が周辺諸国を侵攻し始めた、一年半ほど前だ。

 だが、もう少し詳しく知りたい。

「さあ。我輩も詳しいことは知らんが」

 ドレーセンはひと息つくとイシュルを鋭い視線で睨みつけてきたが、意外にも何の隔意もなく話しはじめた。

「……というわけで、若君を廃塔から救い出した時にはすでに鉄の仮面を被り、金の魔法具をその身に宿されていたのだ」

 イシュルはドレーセンが話し終わると、顎に手をやり顔を俯けた。

 その眸が細められ、唇が歪んでいく。

 ……ふむ、その時だな。オルーラ大公城の廃塔に幽閉されていた時に、あの月の女神が何かしたのだ。それには金神や精霊神も関わっていた……。

「なるほど。……そういえば」

 そしてイシュルはおもむろに顔を上げると、今思いついた、という風をとり繕って言った。

「オルーラ大公は俺と同じ歳だそうだな。俺は最後まで、やつの顔を見ることができなかったが……」

 イシュルの眸の色が微かに変わる。

 ……嘘をつこうとかまわない。それより重要なことがある。

「大公は俺と似ていたと、どこかで耳にしたんだが」

「ふん、貴様。若君を討っておきながら──」

 ドレーセンは今頃になって、イシュルに憎しみのこもった視線を投げかけてきた。

 だがその声音に怒りは感じられなかった。

 狸顔の男は話すうちに表情を急激に和らげ、最後には「してやったり」というような笑みを浮かべた。

「貴様よりユーリさまの方が、よほどいい男だったわい」




#4 出立の朝


 ……これではっきりした。

 ユーリ・オルーラは俺と別人だった。やつは廃塔に幽閉されていた時に、月神レーリアによって俺の姿に変えられたのだ。そして同じ時に金の魔法具を授けられ、鉄仮面をつけられたのだ。

 この結果には重要な意味がある。

 ヨーランシェと話したこと。

 レーリアが、そしておそらく主神ヘレスも……神々が俺に求めるもの。

 その真意の行方。

 それがただの憶測でない、より信憑性を帯びた確信に変わっていく。

 レーリアは金神や精霊神まで使って、明確な意志を持って動いた。月神にはそれだけの動機が、目的があるのだ……。

 ドミルの後ろ姿が黒い影となって前を塞いでいる。横にルースラがいる。

 ドレーセンとの面談が終わり、イシュルはルースラとドミルと一緒に食物庫から出てきた。

 廊下の先、前を行くドミルを通して、玄関ホールの方から朝の光がちらちらと溢れ、差し込んでくる。

 ホールに向かって歩きながら、イシュルは横目にルースラを見た。

「あれ、大公さまの裁可をもらってるんですか?」

 イシュルの言った「あれ」とは、ルースラがドレーセンにずいぶんと甘い取り引きを持ちかけ、その場で決めてしまったことである。

「ええ、まぁ……」

 前を歩くドミルの肩がぴくっと動いた。

 ルースラの返答はすこぶる歯切れが悪い。

 ……これはこの男の独断だな。しかしドミルの背中が怖い……。

「いいんですか?」

 イシュルはルースラに声を潜めて言った。

「大丈夫ですよ。ヘンリクさまご自身が逃がしてもよい、とおっしゃったのです」

「……ん?」

 ドミルの背中から緊張がとれていく。

 ……そうだったのか。だが、なぜだ?

「オルーラ大公国にはまだまだ頑張ってもらわないと。あの国にはまだ滅んで欲しくないのです」

 ルースラはイシュルの顔を見て微笑んだ。

「オルーラ大公国は、連合王国諸国でも特に大きな国ではないのですが、ドレーセンはもちろん、四伯爵は皆なかなかの出来物(できぶつ)で、互いの紐帯も強い。小なりとも侮れない国なのです。もし大公国が滅べば、西方諸国の均衡が崩れるかもしれない」

 ルースラの微笑には何の影も差さない。だがそれがかえって恐ろしかった。

「あの国には今後も、連合王国の戦乱を盛り上げるのにひと役かって欲しいのです」

「そうですか」

 イシュルは小さな声で頷いた。

 ……ドレーセンから敵側の情報を得ることなど二の次、いや、そんなことなど最初からどうでも良かったのだ。

 故国に帰還したドレーセン伯爵は、他の三伯とともに幼君を盛り立て、オルーラ大公国を滅亡から防ぐべく今後も奮闘し続けるのであろう。

 イシュルはドミルの背中越しにホールの方を、その先の遠くの方へ目をやった。

「……」

 そのホールに複数の人影が現れた。

「お早う。終わったかね?」

 イシュルたちが玄関前のホールに出てくると、そこにヘンリクとトラーシュ・ルージェク、それに執事長と思われる初老の男が立っていた。

 その男はかつて赤帝龍討伐へフロンテ−ラを出発した時、郊外の街道沿いで待ち伏せていたヘンリクに、ドミルとともに付き従っていた執事だった。

「お早うございます。ヘンリクさま」

「お早うございます」

 ルースラとドミルがすかさずヘンリクに向かって膝を折った。

「お早うございます、大公さま」

 イシュルはヘンリクに向かってかるく会釈した。

「からだの具合はどうかな? 傷の具合は」

 ヘンリクはにこにこと屈託のない笑顔をイシュルに向けてきた。

 ……口調も機嫌がいい。さもありなん、だな。戦局が一気に逆転したのだ。しかし俺の負傷のことを聞いてくるとは、もうニナの件、報告がいってるな。

「怪我の方は経過は良好です。ありがとうございます」

「ふむ」

 ヘンリクは満足そうに頷くと、周りのルースラとドミル、トラーシュを見回し言った。

「卿らは先にはじめてくれたまえ」

 ドミルらは「はっ」と返事をすると、ホールの片側、大きな絵地図の置かれた部屋の方へ入って行った。

 トラーシュはイシュルの前を横切る時、徹夜だったのか、いつもよりなおいっそう青い顔で会釈してきた。

 ……あの顔色の悪さは本家のドラキュラ伯爵を超えてるんじゃないか。

 イシュルは心の底からトラーシュに同情した。

 宮仕えは辛いよね、ほんと。

「セヴァンテス、パオラ・ピエルカと騎士団長を呼んできてくれ」

 ヘンリクは初老の執事に顔を向けて言った。

 ……セヴァンテス!

 この執事の名はセヴァンテスと言うのか。セバスチャンに、似ている……。

「イシュル君」

「……」

 気づくと周囲に人影はなく、イシュルとヘンリクのふたりきりになっていた。

 ホールの端に衛兵がひとり、暗がりに立っているだけだ。

「北線の差配はきみとルースラで話し合って決めてくれ。リフィアもいるし、あの五公家の息女も使えそうだ」

 ヘンリクは笑みをこぼし、きみを信じている、何の問題もないだろう、と言った感じでかるい口調で言ってきた。

 バルスタールには五万以上の敵軍がいる。ヘンリクはそのことを何とも思っていないようだった。

「それよりペトラを頼む」

 ヘンリクは今度は真面目な表情になって、ぬーっとその顔をイシュルに近づけてきた。

「うっ……」

 イシュルは思わず後ろに仰け反った。

 その迫力についつい何度も首を縦に振ってしまう。

 ヘンリクは顔をイシュルに寄せたまま、その眸にさらに力を込めた。

「どのみち我が王国の勝利は決まっている。北線に籠もる敵をどう処理するか、それだけが問題だ。……せっかくの機会だからね、あの娘にも考えさせてやって欲しいんだ」

「……わかりました」

 イシュルが声に出して頷くと、ヘンリクの顔が離れていく。

 ペトラを頼む、とはそういうことか。

 バルスタールの敵軍を一気に殲滅してしまうのも、何か策を用いてうまく撤退させるのも好きにしろ。ただルースラとふたりだけで決めるな、ペトラに意見を出させろ、というわけだ。

「……」

 イシュルは小さく息を吐くと、満足そうな表情になったヘンリクの顔を睨みつけた。

 ……そう。親の子を想う気持ちは計りしれないよな、お父さん。

 だが、俺は俺でヘンリクに言いたいことがある。

「それで、王都のことですが」

 イシュルはヘンリクを睨んだまま、話題を変える。

「王都の街はかなり焼けています。焼け出された街の住民の保護が必要です」

「ふむ」

 ヘンリクは「続けろ」と言うふうに小さく顎を振って、イシュルを見下ろしてくる。

 その眸の端の方に、微かに何か、まるで奇怪な生き物を見るような色が映し出される。

「!!」

 ……この眸。

 何が言いたい?

 イシュルはヘンリクのその眸の端に映るものに、挑むように言葉を重ねた。

「まず取り組むべきことは王都の治安と防疫です。次に王都の復興、景気回復です。まずは王城に備蓄された兵糧を使って、住民に炊き出しを行ってください。なるべく早く、住民の中から街区ごとに世話役を選出し、王宮側と円滑な連絡を取れるようにしてください。各区ごとに自警団、青年団を発足させ、治安維持と防疫業務の効率化をはかります。そして……」

 ある程度のことは王宮の役人らも実施するだろう。だが、これは言わずにおれない。

 ……そんな眸を俺に向けてくるのなら。

 理由はわからない。俺のその部分を否定されるわけにはいかない……。

 ベルシュ村の全滅を経験したからだろうか。王都の街の惨状を直に目にしたからだろうか。

 イシュルは住民保護と王都の復興、景気対策に関し献言を続けた。息つく間もなくまくし立てた。

 とめどもなく言葉が溢れ出た。

 それは戦争の被害にあった報われない人々のために──などという、単純な正義感だけが理由ではなかった。

 自分自身のために、話さなければならなかった。

 やれることはやらなければならない。正道をもって、悲しみや苦しみに立ち向かわなければならない。失ったものを取り戻さなければならない。

 もうヘンリクの眸の色など、視線などどうでも良かった。

 イシュルはおそらく自身の悲しみに、苦しみに、弱い己に向かって語りかけていた。

「……目的別貸付に復興債券か。面白い」

 イシュルが話し終えると、ヘンリクは短く呟き頷いた。

「きみの意見はとても参考になる。だが今は時間がない。北線への道中でルースラに話してやってくれ。彼に書簡で報告してもらうことにする。まだ朝食まで時間がある。きみは少しでもいいから、休息を取りなさい」

 ふと気づくとヘンリクのあの眸の色が消えていた。今はただその身分にふさわしい、思慮深く威厳ある視線を向けてくるだけだ。

「ええ、わかりました」

 イシュルは肩を落としてヘンリクに背を向け、自室に向かって歩き出した。

 ……あの眸。誘い出されたのか。

 ヘンリクは俺の苦渋を吐き出させたのだ。俺の弱さを見られた。知っていた。

 ……それとも。

 あのヘンリクの眸。朝の光が俺に悪戯したのか。

 イシュルはその陽光を背に浴び、己の影の中でうっすらと自嘲を浮かべた。

 



#5 ふたりの少女と愛と夜


「……あれは昨日、ルダーノの街が見えてきた頃じゃったかの」

 ペトラの両目がじっと見つめてくる、ように感じる。

 先を進む戦車(チャリオット)の背ごしに、イシュルを覗きみるふたりの少女、その下半分が隠れた顔が横に並ぶ。

 先日までの行軍で繰り返されてきた光景が、イシュルの目前で再び繰り返されている。

 黒い眸がふたつに青い眸がふたつ、合わせて四つの眸が横に並び、その間をシェラルバードの馬首が縦に揺れている。

「北の空高く、いきなりきらっと光ったと思ったら太陽がふたつあるではないか。あれはたまげたのお」

「あれは金(かね)の大魔法でしょ? 凄かった」

「あの光の塊は確かに凄かったな。わたしも度肝を抜かれた」

 チャリオットに後ろ向きに座り、イシュルに話しかけてくるペトラとマーヤ。そして横からリフィアが割り込んでくる。

「それでいきなり爆発したと思ったら、今度は風の結界かの? たくさんの光の線が弾かれかくん、と折れ曲がったのじゃ」

「うんうん。凄かった」

「弾かれたのは鉄の塊じゃった。妾のこの戦車の横にもひとつ落ちてきての、ぼん、と土煙が立ち上って大騒ぎじゃ」

「うんうん、びっくりした。少し遅れて轟音が聞こえてきて、周りの避難している人たちも驚いてた」

「あの煮えたぎった鉄の大爆発を防ぐとはな。イシュルの風の魔法もまた凄い」

「まぁ、おほほほ」

 後ろから聞こえるいつもの笑い声はミラだ。横に並ぶイシュルとリフィアの後ろにはミラとシャルカが、そのさらに後ろにはニナとパウラ・ピエルカが並走している。

 ちなみに、ニナたちの後方をメイド頭のクリスチナらペトラ付きの従者たち、次に四頭、二頭立ての馬車や荷馬車など輜重、ロミールらイシュルたちにつけられた従者たちと続き、最後尾に護衛の騎馬が二十騎ほどついている。

 一方ペトラとマーヤの乗るチャリオットの前にはマリド姉妹が、その前方に百騎近くの竜騎兵の一団があり、その先頭部分に支隊騎士団長となった、大公騎士団の古参の百人隊長であるラナル・ブラードと軍監のルースラ、大公家の文官らに、彼らの護衛と伝令役などを務める“髭”の剣士たちが数名、固まっていた。

 ペトラ・ラディスを大将とする正式名、アンティオス大公軍北線派遣支隊は、百騎強の騎馬隊と十名弱の魔導師、魔法使いを主力とする小部隊だったが、その同行する魔法使いにはイシュルやリフィア、ミラがおり、支隊自体は強力無比な戦力を有していると言えた。ちなみにドミルやフリッド、トラーシュ・ルージェクらは王都に残ることになり、部隊に加わっていない。

 大公軍北線派遣支隊は前日深夜にヘンリクが下命、明け早朝に編成、完了と同時にアベニスを進発した。

 同隊は、前夜にイシュルたちがヘンリクに合流すべく通ってきた間道、王都街道を逆に引き返す形で進軍し、北へ伸びる軍都街道へ向かっていた。

 アベニスを出発後、王都街道を行軍する間は街道沿いに蝟集する避難民に難渋したが、途中から間道に抜けると、難民の姿も消え部隊は順調に行軍できるようになった。

 大公軍は混乱を嫌ったのか、まだ街道にたむろする難民たちに敵支隊殲滅の吉報を知らせていなかったが、その噂が早くも広がっているのか、みな避難を急がず落ち着いており、大公旗を翻し進軍する派遣隊を見て歓声をあげていた。

 間道の両側は木々と草原に、刈り取られた麦畑のくすんだ茶色が入り混じる景色が続いている。時々、懐かしい畑の匂いが鼻先をかすめる。

 この世界の麦は、前の世界のものと品種が少し違うと言ったらいいのか、高温多湿に比較的強く、大陸では北から中部まで春蒔きが主流である。今は収穫が終わってだいぶ時間が経つはずだが、王都が近く、つまり消費地が近いのが関係するのか、少し種まき、収穫を遅らせている畑もあるようだ。

「あの金の大魔法の炸裂の後、今度は空いっぱいに青い閃光が走っての」

 無数の馬蹄に轍の響きが混じる。その中を少女たちの会話が続いている。

「ふと気づくと青白く光る細い線が、遠くの空を天に向かって飛んでいった」

 ペトラの眸に神妙な色が現れる。

「あれが風の剣、と申すものかの」

「……」

 イシュルはその時、右手に広がる麦畑に視線を向けていた。

 麦の匂いがまだ、残っている……。

「イシュル! 妾の話を聞いておらんのか」

「おおっ」

 イシュルは視線をペトラに向けた。

「ちゃんと聞いてるさ。確かにその光が風の剣だな」

「そうか。そうか」

 ペトラは満足げに何度も頷くと、じろっとイシュルを睨んできた。

「そなた、本当に妾の話をちゃんと聞いておるのか」

 隣のマーヤの眸が笑っている。リフィアも笑みを浮かべている。

「もちろん」

 イシュルは大きく頷いて見せる。

 ……ルダーノの手前なら、俺とユーリが戦ったあたりまで、直線距離で百五十里長(スカール、100km強)くらいだろうか。

 俺自身は最高でも二里長ほど、実はそれほどの高さまで上がっていないが、ユーリの放ったあの巨大な魔法は少なくとも二十里長、高度一万メートルを超えていたろう。あの爆発の規模といい、百キロ以上離れていても肉眼で視認できた筈だ。あいだに高い山、双方に標高差はない。

 あの時、現地からかなり離れていたペトラから聞く話はなかなか参考になる。おおよその、あくまで感覚的なものだが、自身の魔法のだいたいの規模を把握できる。

「しばらくすると風が吹いてきてな。もちろん、わたしのいたところからも見えた」

 リフィアとミラはその時、王都の街中からドミルらを追いかけている最中だった。ふたりはイシュルの風の剣を、大聖堂地下の主神の間ですでに一度見ている。戦闘中の、イシュルとユーリ・オルーラの側まで近づくのが危険なことは承知していた。イシュルの警告もあり、無理して追いつこうとは考えていなかった。

「まぁ、わたしとミラ殿はすでにあの神の御業を見ているからな」

「むっ」

 続いて言ったリフィアのひと言にペトラがむっとした視線を向けた。マーヤもリフィアを見つめる。

「まぁ。そうですわね、おほほほ!」

 そこからミラの甲高い笑声が、これでもかとイシュルの耳朶を打った。

「うっ」

 ……場が。この場の空気が。

 イシュルは思わず首をすくめた。

「ふむ。だがまぁ良い。これは千年に一度あるかないかの、慶事じゃからの」

 と、意外にもペトラはリフィアの誘い? に乗らず機嫌よく流した。

「……」

 マーヤも機嫌の良さそうな視線をイシュルに向けてくる。

「ふふ」

 イシュルはマーヤに笑みを浮かべてみせた。

 ……ペトラたちの機嫌が良いのもしょうがない。浮かれるのももっともだ。

 俺が勝ったから? 王国の勝利が見えてきたから? もちろんそれもある。

 だがそれだけじゃない。

 上はマリユス国王から下は領民まで、多くの命が失われたのだ。マーヤの兄も戦死した。

 彼女たちは今まで悲痛に苦しんでいたのだ。それでも戦わなければならなかった。戦おうとしていた。

 だから今の喜びがある。彼女たちが浮かれるのもしょうがない。

「おや?」

 ペトラが声を上げ、マーヤとふたりして前を向く。

 隊列の行進が止まった。

「まずいですな」

 前にいるアイラが振り返り、馬上から声をかけてくる。

 部隊の先頭の方から伝令が一騎、駆けてくる。

 イシュルは騎馬の並ぶその先に視線をやった。

「軍都街道に差しかかったようだな」

 横からリフィアの声がする。

「ああ」

 前方の草原にクレーターのような大きな窪みが見える。

 ……昨日の戦いの跡だ。

「殿下、恐れながらこの先は戦車を降りていただきたく。しばらく徒歩にて進みます」

 伝令の騎士が馬から降りペトラの前に跪いた。

「おおっ。それは……」

 ペトラが視線を遠くにやって呟く。

 昨日の戦闘でこれから先、軍都街道に入ってしばらくは、ところどころ道が寸断されている。

「いや」

 口許に笑みが浮かぶ。

 イシュルも機嫌よくペトラに声をかけた。

「ペトラ、おまえの出番だ。得意の土魔法で街道を埋めていけ」



「爺さん、他にやって欲しいこと、ある?」

「ああ、薪を少し割っておいてくれんかの」

 小さく、ロミールと老人の会話が聞こえてくる。

 足許へ、暖炉からの暖かい空気が緩やかに吹きつけてくる。

「わかった。じゃあ明日朝、出発前にやっておくよ」

 イシュルは、農家の小さな居間の端に組み立て式の寝台を広げ横になり、うとうとと微睡(まどろ)んでいた。

 ペトラ率いる大公軍支隊はその後、彼女自身の土魔法で街道を修復しながら北上、ケフォル村を通過し、今はほとんど平地となった、イシュルがユーリ・オルーラの死体ごと吹き飛ばした丘も越えた。

 続いて夕刻に鉄と大小の石、焼けただれた土くれで覆われた国王軍と同ユーリ・オルーラ率いる連合王国軍支隊の戦った戦場跡も通過し、陽が沈む頃にはヴォカリ村に到着した。

 ヴォカリ村も住民の多くは王都東方に避難し、老人をはじめ僅かな人数のみが残っていた。

 ペトラをはじめとする近侍の女たちは、ミラとシャルカも含め村長宅を借り上げ、イシュルは村長宅にほど近い一家にロミールとふたり、仮泊することになった。

 その農家には老人がひとりで住んでいた。自身は足かせになると村に残り、息子夫婦と孫を他の村人とともに避難させていた。

 夕食後、ニナの治療を受けたイシュルはそのままベッドに横になり、眠りについた。ニナのおかげで傷の治りは順調だったが、まだ疲れは完全にとれていなかった。

「イシュルさん、起きてください」

「……ん?」

 夜半、イシュルはロミールに起こされた。

 ベッドから出るとコートを渡され、ロミールに玄関の扉の前まで連れて行かれた。ロミールはイシュルの質問に何も答えず、終始無言だった。

 外に出ると、軒先にアイラが立っていた。

「今晩は、アイラさん」

 イシュルが寝起きの顔で挨拶すると、アイラはくすっと笑みを浮かべた。

 村の家々の間には所々篝火が焚かれていた。ふたりはその灯りと暗闇の間を出たり入ったりしながら村長宅に向かった。

「ペトラさまがイシュル殿と話したいそうだ。……というか、ペトラさまの精霊がイシュル殿に話があるらしい」

 アイラは歩きながらイシュルに言った。

「ええ」

 イシュルは言葉少なに答えたが、アイラのひと言であっという間に眠気がふっ飛び、すでに辺りに鋭い視線を向けていた。

 村長宅の前の小さな広場を横切り、敷地の南側に面する木立の前に、ペトラとアイラの姉、リリーナが立っていた。

「今晩は、イシュルさま」

 リリーナが柔和な声でイシュルに挨拶すると、ペトラの前へ招くように後ろへ退いていく。

「イシュル。夜遅くすまんな」

「いや。俺はかまわないさ。それより、おまえの方こそ疲れてるんじゃないか」

 日中、ペトラは彼女の魔法具、地神の錫杖で分断された街道のかなりの箇所を修復している。

「仕方がないの。妾も少しは役に立たねば」

 ペトラはイシュルに微笑を浮かべると、マリド姉妹に下がるように言った。

 アイラたちは村長宅の母屋の方へ、暗がりに消えていく。

 その時だった。

「やあ、戦勝おめでとう」

 いきなりイシュルの背後に声がした。

 ……こいつ。

 振り返ると乳白色に輝くウルオミラが立っていた。

 ……相変わらず気配もなく現れる。確かに彼女から発散される魔力が弱いのも一因だが、この感じは違う。

 この洗練された感じは、高位の精霊のものだ……。

「ウルオミラ! また悪戯しおって」

「まぁ良いではないか。ペトラ」

 ウルオミラはそう言いながら怒るペトラの横に並ぶ。

 ……相変わらずそっくり同じだな。

「前から気になっていたんだが。ウルオミラという名前は、地神ウーメオと何か関係があるんじゃないか? ……例えばウーメオの◯◯のミラとか」

 彼女の名前が古代神聖語なのか、それはわからない。ただ語感にそんな意味があるような気がする。多少の教養がある者なら誰でも、一瞬頭の隅を掠める程度のことだが。

 ◯◯とは何なのか。ウーメオの恋人? それとも妻? 子供? 妹か。

 いずれにしても地神と何らかの関係があるのではないか。

 もしそうなら、何の因果かミラとこの精霊は同じ名前、ということになる。

「ふむ。それは時々、誰彼となく言われることだがの」

 ペトラがウルオミラに顔を向ける。

「さぁ、それはどうかの。それより妾にもう一度、地神の石を見せておくれ」

 ウルオミラはイシュルの質問をあっさり流した。

「……いいよ」

 イシュルも左手の手袋を取りながら、さりげなく言い返す。

「俺がもう片方の紅玉石を手に入れ、土の魔法具をこの身に宿したら、ウルオミラの意味、教えてくれるかな?」

「ふふ」

 ウルオミラは微笑を浮かべると一瞬、ギラつく視線を向けてきた。

「もうそなたは、妾の頼みたいことがわかっているようじゃな。よかろう。……だがどのみち、そなたが我が神の宝具を手にしたら、自ずと知ることになるだろうが」

 ウルオミラの声が低い。

 小さい精霊なのになかなかの迫力がある。だがそれも、イシュルの左手の甲に浮かぶ紅い石を目にすると、またたく間にとろけるような顔になり、すがりつくようにして寄ってきた。

「マレフィオアだな。あの化け物が持つもう片方の紅玉石を取り戻して欲しい、というのがあんたが俺に頼みたいことだろう」

「うむ。そなたは金神の盾も手に入れたことであるし、とりあえず合格じゃ。よくぞ生きて還った」

 イシュルの左手を握り、紅玉石を舐めるようにして見ていたウルオミラが顔を上げて言った。

 そして夜空に瞬く星をその眸に映し、本物の少女の顔になって言った。

「どうか頼む。ウーメオさまを助けておくれ」



「……別に地神の石を誰が持とうと、人の世で失われようと、それはどうでも良いのじゃ。だがそれがあやつの手に渡ったのがいかん。あやつは神の呪いを持っておる。ウーメオさまご自身に力が及ぶことはなくとも、もろもろ不都合が生じるのだ」

 ウルオミラによればその昔、人間の建てた土の神殿から片方の紅玉石がマレフィオアに奪われ、それからウーメオの力、神の力に多少の齟齬が生じるようになったのだという。

 彼女の話は千年ほど昔、古代ウルク王国で起きた事件と一致する。だが、土系統の魔法が使えなくなった、土の精霊が現れなくなった、彼らが人の世で魔法を使えなくなった、などということはない。

 ……助けてくれ、というのは大げさな気もするが。

 だが、かつてベルシュ村を出る時、あの豪雨の中で見た老人の幻は、何かおかしかった。狂っているように見えた。

 あれが地神、ウーメオであったなら……。

「イシュル」

 ペトラが突然、イシュルの袖をつかんできた。

「ウルオミラは本当は大精霊なんじゃ。今はその力が失われているのじゃが、マレフィオアを斃せば、きっと元に戻れる。妾はそう信じておる」

 ペトラも真剣な顔になって、イシュルを見上げてきた。

「だから妾からもお願いじゃ。どうかウルオミラを助けておくれ」

「……」

 イシュルの顔に笑みが浮かぶ。

 ……ウルオミラは我が神を、ペトラは我が精霊を助けろと言う。

 ふたりの想いはそう、……甘く切ない。

 冷えた夜には余計に身に染みる。その暖かさにうろたえてしまう……。

「わかった。俺にまかせろ」

 イシュルは眸を細めて己を見上げ、見つめてくるふたりの少女に言った。

「おお」

「頼んだぞ」

 ふたりの顔に同時に、喜色が浮かぶ。

 星明かりが、そして遠くで瞬く微かな篝火の明かりが、少女たちの顔を輝かせた。

「だがの」

 つつっとウルオミラがイシュルから離れていく。

「そなたは地神の石をあやつから取り戻してくれれば、それで良い」

 ウルオミラは喜色を消し、気のせいか悲しげな表情を見せた、顔色を曇らせた。

 イシュルにはそう見えた。

 地の精霊は呟くように言った。

「いかなそなたでも、あれは滅せぬ」



「気にするな、イシュル」

 ペトラはイシュルの手を握り、振りながら声をかけてくる。

 ふたりは村長宅の母屋を東側に向かって歩いている。

 あれからウルオミラは多くを語らず、姿を消してしまった。

 ……マレフィオアを斃せないのなら、どうやって紅玉石を奪えばいいのだ?

 やつを痛めつけ、切り刻み、バラバラにして……無理やり吐き出させるしかない、奪うしかない、そんなところか。

 なぜだ。なぜウルオミラはあんなことを言った?

 確かにマレフィオアは強力な魔物だが、俺はあの化け物と二度、戦っている。それほどまでに強い相手とは思えないんだが……。

「確かウルオミラは、神の呪いを持っている、と言わなかったか」

 主神ヘレスによって名を奪われた、最後まで残った神の欠片。人間にも魔獣にもなれなかった、かつて神であった怨念の塊。……だからか。

 イシュルは木立の影の向こう、屋敷の表に揺らめく篝火の炎を見つめた。

「何か対策を、戦い方か? ……考えなければならない」

 イシュルはひとり、暗闇に呟く。

「イシュル!」

 そこへ、ペトラがイシュルの正面に回り込んできた。

「心配は無用じゃ!」

 ペトラが必死の形相でイシュルを見上げてくる。

「妾は信じておる。そなたを」

「……」

 イシュルは無言で微笑んだ。

 だがペトラの続けて言ったことに、イシュルは両目を見開いた。

「違うぞ。妾はそなたの力を、神の魔法具を持っているから言っておるのではないぞ」

 やがて王女になるだろう大公息女、だが今はただひとりの少女が、必死に言い募ってくる。

「妾はそなた自身を信じておるのじゃ。神の魔法具ではない、……ありのままのそなたを」

「……」

 イシュルは再び笑みを浮かべた。違う笑みを浮かべた。

 彼女の眸の中に未来が、あの化け物に打ち克つ何かが隠されているような気がした。

 ふたりの少女と愛と夜。

 イシュルはペトラの眸に瞬く色彩を見つめた。

 ……なるほど、それは確かに甘く切ない。

 思わず、笑顔が大きくなった。

 

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