【幕間】戦陣余話 1
#1 緋色の瞬き
「イシュルさ〜ん」
「……」
はは。ロミールが俺の足に縋(すが)って泣いている。
イシュルは苦笑を浮かべた。
ミラかな、リフィアかな。それともニナか。誰が俺に一番に抱きついてくるのかな? と思ったら、それはロミールだった。
別に下心なんて持っていなかった。でも金の魔法具を得て、なんとか死地から生還できたのだから、少しくらいのご褒美があってもいいじゃないか。
彼女たちの抱擁でこの疲弊した身を慰めて欲しい、くらいは願ってもいいじゃないか。
「イシュル……ほんとに無事でよかった」
イシュルの前で、眸に涙をためて微笑むリフィア。
「素晴らしいですわ、イシュルさま。これは黄金、金粉でございましょう。ああ、これこそは神の御業ですわ」
同じくイシュルの前で両手を広げ、空を見上げるミラは恍惚とし表情だ。
「あ、あの、あの」
ニナはふたりの後ろで左右を行ったり来たりしている。
彼女たちの背後にはマリド姉妹やフリッドたちが、ドミルでさえ満面の笑みを浮かべている。さらに後ろの、王城で生き残った者たちだろう、数名の騎士と魔導師たちからも喜びが伝わってくる。
彼らを取り巻くリフィアたちにつけられたメイドや、王城に元から配置されていたのか人数の増えた四、五名の“髭”の男たち。彼らからは「このキラキラするものは金なのか」「す、すごい……」などと驚きの声をあげているのが聞こえてくる。
一団の、王家の者たちはみな明るく沸き立っている。
イシュルが敵の総大将を斃したのだ。これから戦勢が好転するであろうことは明らかだ。
王国が危難を脱したのだから、みなが喜びをあらわにするのも当然だと言えた。
イシュルもただ、金の粒を降らせたわけではなかった。
「……」
イシュルは喜びに浸るリフィアたちに囲まれ、一時の幸福感に心を震わせた。
何よりユーリ・オルーラの顔貌が自分と同じであったことが、月神の悪意が堪(こた)えた。
……怒りが、悲しみがあるから、戦いがあるからまた喜びが、平安が尊い。
俺はひとりじゃない、少なくとも今は。
新たな人々との出会いがあった。だからすべてを失ったわけではない。
俺には苦楽を、悲しみや喜びをともにできる仲間がいるのだ……。
最後はひとりで戦うことになるとしても。
イシュルは顔を上げて空を見上げた。
このひと度(たび)の喜びを糧に、また戦うことができる。
夕闇の迫る空にはまだ、金色に輝く粒子が舞っていた。
感慨に浸るイシュルだったが、直後に騒動が起こった。
リフィアやミラの背後をうろうろしていたニナが、消えたと思ったらいきなり顔を出してイシュルに話しかけてきた。
「イシュルさん。あの、師匠が……」
ニナの方に顔を向けると、彼女の後ろに妙齢の女魔導師がひとり、立っている。
「あの、わたしの師匠で宮廷魔導師のパオラ・ピエルカです」
ニナが紹介すると、その女魔導師がイシュルの前に出てきた。
……ああ、このひとが。
王国随一の水の魔法使い、と言われる妙齢の女魔導師は、ニナの言ったとおり確かに美貌の持ち主だった。
「はじめまして。イシュル・ベルシュと──」
「ごめんなさい!」
へっ!?
パオラはその場で、イシュルに向かっていきなり土下座した。額が地面につきそうな勢いで頭を下げている。
イシュルは思わず後ろに仰け反った。
リフィアもミラも目を丸くしている。周囲の者も呆然としている。
「あ、あっ」
ニナが、イシュルと土下座をしているパオラの間に立ってあたふたしている。
「えーと」
イシュルは当惑して、指先で頬をぼりぼりと掻いた。
……転生してから十余年。あと三年で二十歳(はたち)だが、いかにもな“土下座”をはじめて見た気がする。
「ほんとにごめんなさい……ニナから聞いたわ。あなたの邪魔をしてしまって」
パオラは顔を上げイシュルを見上げてきた。
「いや……」
イシュルが何か言おうとしてふらつく。
うっ、疲れが。立っているのさえ辛くなってきた……。
「イシュルさま!」
「イシュル!」
右からミラが、左からリフィアがイシュルの腕をとって支えてくれる。
「いや、大丈夫……」
イシュルはなんとも言えない、力ない笑みを浮かべ、周りの人々を見回した。
「ピエルカ殿。イシュル殿との話は後にしていただこう」
ドミルが割って入ってくる。
「ちょうどケフォル村が近い」
フリッドが後ろから西の方を指差し言った。
「村人がどれほど残っているかは知らないが、あそこで小休止しよう。イシュル殿はしばらく横になった方がいい」
「うむ」
ドミルが頷く。
「わかったわ」
パオラが立ち上がり、イシュルへ顔を向けて言った。
「イシュルさん、ケフォル村で少しお話させて」
「ええ……」
イシュルは小さく頷いた。
パオラがにっこり笑顔になる。
「……」
イシュルは彼女の顔に一瞬、釘付けになった。
パオラ・ピエルカはイヴェダに少し、特に髪形が似ていた。真ん中で分けた長い金髪を銀製の細いバンドで横から押さえ、背中に流していた。そして青い大きな眸が印象的な、柔和な顔立ちをしていた。
ただ、彼女の眸の色はその気さくな振る舞いとは別に、深い知性を感じさせるものだった。
……男からよりも同性の、女が美人と思うタイプだろうか。
イシュルは彼女から視線を逸らし前方を見た。
街道から西に伸びる小道の先、二里長(スカール、約1.3km)ほど先に、まばらな木々に囲まれた小さな集落が見えた。背景には北ブレクタス山脈の山並みが、夕日に黒く浮き上がって見えた。
「ベームさま」
イシュルの後ろからロミールがリフィアに声をかけ、彼女に代わってイシュルに肩を貸してきた。
イシュルの右腕を押さえていたミラはそのまま、離さない。
「ありがとう、ロミール」
「いえ」
ロミールの顔に笑みがのぼる。
イシュルはロミールとミラの介添えで、一行の最後尾をケフォル村に向かって歩き出した。
「……むっ」
イシュルらの一歩前を歩いていたリフィアが小さな声を上げる。周りに音も無く、数名の“髭”の男たちが近寄ってきた。
ドミルが歩みを止め、ミラを間に挟んでイシュルの横に並ぶ。
「イシュル殿」
ドミルが横目に、イシュルに鋭い視線を向けてきた。
「我々にも貴公の大魔法がはっきりと見えたが、オルーラ大公を討ち取ったのはどこら辺かな」
「ヴォカリ村南方、国王軍とユーリ・オルーラの支隊が戦った戦場跡の近くですね」
敵の総大将は名も知れぬ丘の上で果てたと、イシュルは続けた。
顔は前に向けたままだ。
「オルーラ公の遺体は?」
ドミルは視線を遠く北の方に向けて言った。声が低く重い。
北の空はもう、藍色に染まりはじめている。
「彼のいた丘、丸ごと吹き飛ばしました」
今度はイシュルが横目で鋭く、ドミルを睨んで言った。
……ドミルがユーリ・オルーラの遺体にこだわるのは当然のことだ。ラディス王家が敵の総大将の敗死を確認しようとするのは、当たり前のことだ。
だがやつの死体を残すわけにはいかなかった。
ミラの均整のとれた横顔が手前にぼやける。
ドミルの灰色の眸が突き抜けてきた。
「……」
イシュルとドミルの鋭い視線が一瞬、交錯する。
ミラは前を向き微動だにしない。ロミールがからだを固くし緊張しているのが伝わってくる。
「そうか」
ドミルはイシュルから視線を外すと前を向き、ただそれだけを言った。
「フルシーク殿」
そこへ突然、ミラが分け入ってきた。
「ユーリ・オルーラの死は確実ですわ。気になさる必要はありません」
ミラが背筋が凍りつくような美しい笑みでドミルを見、イシュルに顔を向けてきた。
その微笑が夕日に煌めく。
「だってイシュルさまは、金の魔法具をお持ちになったんですもの」
……金の魔法具を失った敵将など、生きていようと死んでいようと、どうでもいいではないか。
ミラが口許に手を当て、華やかに笑いあげた。
イシュルの目の前で、ミラの笑顔が花のように舞った。
「オロフはアンティラへ。ペールはヘンリクさまへ。急げ」
「はっ」
ドミルは傍に待機させた“髭”の男たちを振り向きもせず、低い声で命じた。
ふたりの男が短く答え、夕闇の中へ消えていく。
「ああ、ちょっと待って」
背を見せて去る男たちに、イシュルが声をかけた。
「ここから北も所々地面に大穴が開いて、街道も寸断されています。夜道は危ないから気をつけて」
イシュルの声は場違いな、とぼけた暢気な口調だ。
「……」
アンティラ行きを命じられた男は棒立ちになって頷き、イシュルに一礼して馬の方へ去って行った。
「はは」
前を歩いていたリフィアが小さな笑い声をあげた。
ミラもくすっとしている。ロミールはほっとして緊張を解いた。
先ほどまでの堅い空気が弛緩する。
「ふむ……」
ドミルは小さくため息をつくと、わずかに肩を落とした。
「今晩、夜中からバルスタールへ向うのはやめた方がいいですよ」
イシュルはドミルを横目に仰ぎ見て言った。
わざととぼけた口調で場を緩めたのは、そのことが言いたかったからだ。
バルスタールへはやるドミルらの気持ちを抑え、危険な夜間の移動を避けるのがその理由だが、イシュルには出発を遅らせたい大きな理由が他にあった。
もちろん、傷の手当てと疲労回復も、その理由のひとつではあるのだが。
「……うむ。承知した」
イシュルの言に対しドミルは意外、薄く笑みを浮かべて簡単に承諾した。
「ん?」
……なんだ?
何かあるのか。
今度はイシュルが、探るような視線をドミルに向けた。
一行がケフォル村に到着すると案の定、村人の多くは他所へ避難しており、村にはほとんど人がいなかった。
残った者の多くは取次ぎ役(村長)の小さな屋敷に集められ、生活をともにしていた。館にいたのは足腰の弱い老人や乳飲み子を抱えた若い夫婦、村長家の次男と使用人ら、十名ほどだった。
ドミルは、残留者のまとめ役をしていた村長家の次男に王金貨を渡して、一同への食事と休息できる家屋の手配を依頼した。
ケフォル村に残った村人たちは国王軍が敗れたこと、敵が王都に侵入したことも知っていた。そして先ほどまで街道沿いで続いていた、天地がひっくり返るような激しい戦闘、異変に怯えていた。
ドミルはほぼ事実を、巷間で噂になっている、伝説の魔導師の魔法具を継承した者が敵の総大将を討ち取ったことを知らせ、村人らの動揺を静めると村長の屋敷の一部を借り受け、夕食の提供を承諾させた。
イシュルはミラ、リフィア、ニナとともに村長の屋敷の一室を手配してもらい、その部屋にあったベッドを使わせてもらった。
イシュルはベッドに横になるとミラたちに構わず、すぐに寝息を立てはじめた。
ニナは寝ているイシュルの手を握り、水の治癒魔法を発動して、代謝を活性化し体力回復と傷口の悪化を防いだ。だがイシュルの今の状態では強力な魔法は使えず、かなり抑えたものになった。
……ん。
澄んだ水の上をたゆたうような夢心地のなか、何か異物が近づいてくるような予感にとらわれ、イシュルは浅い眠りから目覚めた。
暗がりに沈む塗り壁を背景に、リフィア、ミラ、ニナの顔が横に並んでいる。
「どうだ? 気分は」
「イシュルさま……」
「……」
リフィアの真面目な声。やさしく囁くようなミラの声。無言で微笑むニナ。
だが、三者三様の反応を示す少女たちが一様に、今度は微かな緊張感を漂わした。
「……?」
リフィアが後ろを、扉の方を振り向いた。
……誰か来る。
イシュルはベッドからからだを起こした。
部屋の外に人が立ち、扉がノックされる。
「どうぞ」
イシュルが声をかけると扉が開かれ、パオラ・ピエルカが顔を出した。
「……」
彼女は無言で室内に足を踏み入れ、うしろ手に扉を閉めた。そして厳しい視線で一同を見回した。
その視線がニナを見据える。
まだニナはイシュルの手を握っていた。
パオラは驚愕に震える声で言った。
「ニナ、その魔法はなに?」
室内の蝋燭やカンテラの灯りが、パオラの顔を紅く照らしている。
「あっ、あの。……お師匠さま」
ニナが顔を引きつらせ、全身を小刻みに震わせている。
……俺の負傷後、パオラはいつ、どこでニナと再会したか知らないが、彼女の治癒魔法のことはまだ知らされていなかったらしい。ドミルもパオラに伝えていなかったのだろう。
あの状況下ではそれも当然かもしれないが……。
「その魔法のことは俺から説明しましょう」
イシュルはニナを一瞥し、その視線をすぐパオラに向けた。
……ニナの新しい魔法で以前からちょっと気になっていたことが、疑問点としてよりはっきりしてきた。それを目の前にいる、水魔法の大家に確認してみるのもいいだろう。
だが……。
「イシュルさん? あなたが……」
パオラもニナからイシュルに視線を移し、難しい顔になって自身のあご先に指を当てた。
「そう……。そういうことなのね。あなたの噂はわたしも、何度も耳にしてきたわ」
パオラはじっと考え込むと呟くように言った。
「あなたは風魔法の天才。……ただ風神の魔法具を持っているから、それだけが理由じゃないって。でも、あなたが天才なのは風魔法だけではなかった、ということなのね」
パオラの声が少しずつ大きくなっていく。イシュルは無言で薄く笑みを浮かべるだけだった。
イシュルの眸に室内の灯りが揺らめく。
「……だがその前に、今朝方の王宮前であなたがどんな魔法を使ったか、教えてくれませんか」
イシュルはパオラに先に話すように即した。
俺が天才とかそんなことはどうでもいい。そんなことよりなぜ、水の魔法使いとして実力あるこの女があんなミスを犯したのか、それが知りたい。
“風鳴り”を使ったのだから、どんな魔法使いだって感知も予測もできないだろうと、ただそれだけで片付けていいわけではあるまい。
「うっ。……わかったわ」
パオラは何か苦いものを飲んだような顔になって、イシュルを上目遣いに見つめた。
リフィアとミラの視線がパオラに向けられる。ふたりの視線は固く、決して友好的なものではない。俺がユーリ・オルーラ殺害に失敗し、怪我することになった原因なのだから、それもしょうがない。
ニナはパオラからもう事情を聞かされているのか、ふたりよりは落ち着いた感じに見える。
「まぁ、結果オーライじゃないですが、無事敵将を斃し、金の魔法具を得ることもできたわけだし、あなたに対し別に遺恨を持っているわけじゃない。俺のことはどうぞお気遣いなく、ただ事実を話していただければそれでいいですよ」
イシュルは屈託のない笑みをのぼらせ言った。
別にこの話をダシに、その後の会話もこちらに有利に進めよう、などとも思っていない。
とにかく正確な話が聞ければそれでいい。
既存の他系統の魔法について、自身の希薄な知識をより深めることができればそれでいいのだ。
「結果おーらい?」
「結果が良ければそれでいいじゃないか、って意味です」
「そう……」
パオラは神妙に頷くと、話をはじめた。
彼女は王都北方で行われた、ユーリ・オルーラ率いる連合王国軍と国王軍との決戦に参加し、なんとか戦死を免れ、他に生き残った数名の魔導師らと合流し、連合王国軍の後を追う形で王都に引き返した。彼女に合流した魔導師二名はいずれも、金系統の魔法に対してもかなりの防御力を発揮できる、土系統の魔導師だった。
パオラたちは連合王国軍が王城を攻撃しはじめた当日夜半に同城に到着、城内西側に回り込み西宮に位置して、敵の大将ユーリ・オルーラ本人に攻撃を絞り奇襲をかけるべく、機会を窺っていた。パオラ一行が帰城した頃には防城側は早くも戦力を喪失し、組織的な戦闘が不能の状態に陥っていた。
黎明時に起こった王宮付近の戦闘では、参戦する間もなくあっという間に王妃と王女を討たれてしまい、しきりに切歯扼腕するパオラたちだったが、その後敵軍の攻撃から逃れてきた数名の魔導師らとも合流を果たし、意外に早く雪辱を期す好機が訪れた。
敵の総大将と数十名の騎士らが王宮前に陣取り、王宮に居残った者らを捕らえ、何事か検分し始めたのである。
敵軍はどうやら王城の金蔵や宝物庫の在り処を探り、特に魔法具の強奪を意図しているように思われた。
敵の総大将はしばらく王宮前を動かない、と判断したパオラは、王宮の地下通路に、強力な水の大精霊を召喚する魔法陣を設置することを企図、王宮前の地下通路に潜り、同行していた土の魔導師らの協力を得て密かに召喚魔法陣を描き始めた。
パオラ・ピエルカは王都北方の決戦において自らの契約精霊を失い、しばらくの間精霊を召喚することができない状態だった。そこで彼女は召喚陣をもって新たに水精を召喚し、自身の戦力不足を補いつつ、敵将ユーリ・オルーラに決定的な奇襲攻撃を行うことにした。パオラが召喚しようとした水精は青炎水竜と呼ばれる強力な水龍で、金の魔法具を持つ敵将にも有効な打撃を与えうると考えられた。
パオラが召喚陣を描き終わり準備が整うと、同じ地下道を東宮側に移動した残りの魔導師たちが、北の城門に陣取る金の精霊に囮となる欺瞞攻撃を実施した。地下にいたパオラは地上から連絡を受けると、即座に召喚陣を起動した。
彼女の召喚は成功し、青い炎を吐くミズチが地中から吹き上がり、まさに地上に躍り出ようとした。だがその時、ほぼ同時にイシュルたちがユーリ・オルーラに奇襲をかけていた。
後は混乱状態のうちにイシュルたちが退き、すでに戦闘状態にあったユーリ・オルーラが、地上に姿を現そうとする青炎竜を金の魔力で上から抑え込み、叩き潰してしまった。
「なるほど……」
イシュルはベッドの上で上半身を起こし、両腕を胸の前で組んで小さく唸った。
「奇しくもわたくしたちと同時になってしまったのですわね」
と、ミラ。
「うん……」
イシュルは小さな声で相槌を打った。
……奇しくも、といえばそうだが、敵の総大将が一つ所にいて動かなければ、誰でもそれを攻撃の好機と捉えることも確かだ。
こちら側からすればパオラたちの方が邪魔してきたのだ、ということになるが、これはどっちもどっち、とても彼女らを一方的に責めることはできない。
俺の作戦が甘かったのだ。あの時はまだ、攻城戦は終わっていないと見るべきだった。多くの人々、集団が動く戦場においては何が起きるかわからない。そのことを考慮すべきだった。
「わたしが地下に潜っていなければ、うまく対応できたのでしょうけど。せっかくイヴェダの剣であるあなたが力を貸してくれたのに」
パオラが両手に持つ素焼きの小さなカップに視線を落とす。
彼女の話の途中ロミオが来て、室内に人数分の椅子が運ばれ、白湯(さゆ)が配られた。
今はリフィアたち、パオラもイシュルのベッドを囲むようにして椅子に座っている。
「いえ……。事情はわかりました。仕方がないですよね」
イシュルはパオラに対し微笑を浮かべると、続けて言った。
「ではニナの魔法のこと、俺の方から話しましょう」
イシュルはその眸に微かに挑戦的な色を浮かべると、パオラの整った顔を見つめた。
「俺は彼女にまず、人間をはじめ、さまざまな生物には少なからず、必ず水分が存在すると教えました。それからその水を使って、新しい魔法が生み出せる筈だと助言したのです」
イシュルは、生物の体内から強制的に水分を排出させる魔法を生み出せと、もっと具体的な攻撃魔法を教えたことは話さなかった。
話しながらニナを横目に見て、彼女に喋らないよう訴えた。
「さる人物から、あがり症のニナに自信をつけてやってくれと、頼まれましてね」
「それは……、どんな魔法なのかしら」
パオラは呆然と呟くように言った。
「俺の方からはそれ以上は言えません。だが俺は彼女に、人体の水分に魔法をかけて活性化し、疲れをとったり、傷の治りを早くしたり、などという新しい治癒魔法は教えていません。それはニナが、彼女が自分で生み出したのです」
「あ、あの……」
ニナが何か言おうとするのを、イシュルは今度は手を上げて遮った。
彼女の顔は薄暗い室内においてもそれとわかるほど、真っ赤に染まっている。
「そう……なの」
対してパオラは動揺もあらわにニナを見、イシュルを見て困惑していた。
「俺はあなたに聞きたいことがあるんです」
イシュルは薄っすら笑みを浮かべ、未だ動揺しているパオラを見た。
「五系統の魔法にはなぜか、生物そのものを発動対象とする魔法がない。なぜですかね? 土系統なら石化の魔法とか、火なら人体発火の魔法とか、あってもいいと思うんですが」
イシュルの眸に悪戯な色が浮かぶ。
……ふふ。風系統なら、一瞬にして気化してしまうような蒸発、消滅魔法、とかどうだろう。
なぜ人体、動物に直接作用する五系統の魔法がない?
「それは」
ミラとリフィアの声が重なる。
「それはわかってるでしょう? 生あるものを司るのは主神の領域だわ」
同時に、いや少し早くパオラが答えた。
「ふむ。そうですね」
イシュルは皮肉な笑みを浮かべたまま頷いた。
やはりそうか。そういうことか。
主神の領域に入り込む魔法、それは光系統の魔法を除いてすべて禁忌になる、というわけだ。なるほどそれは、聖堂教の教義とも合致する。
精霊神の一部の魔法具や身代わりの魔法具など、無系統の魔法なら生命そのものに関わるものも存在するのだろうが、五系統の魔法に限って言えばそれは許されない、というわけだ。
五元素は世界を構成する大元だ。だからとても重要で、他と混ざることなど有り得ない。
……まったく。
イシュルの笑みが大きくなる。
面白い仕組みじゃないか。
俺もこの世界で生まれ育ってきたのだから、そのことを感覚的に納得できる部分はある。
だが前世の知識からすれば、どうしても作為的に感じざるを得ない。
五元素の魔法は生命、特に人間や動物、魔物そのものに直接魔法をかけることはできない──これで、疑問に思っていたことのひとつは確認できたわけだが、やはりしっかりと納得できるわけではない。俺には前世の、別の世界の記憶があるのだから。
前世の知識、概念、常識、価値観……それらを捨て去ることはできない。全く別の世界のこととして、完全に分けて考えることなどできはしない。
「ニナの人の命を癒す魔法は素晴らしいと思うわ。でも、禁忌に触れるような危うさがある……」
パオラが自信なさ気に、消え入るような声音で言った。
「なるほど」
イシュルはじっと、少し俯くパオラの顔を見つめた。
……彼女の言うことは、一理あるかもしれない。
例えば俺の、人の肺から空気を抜いて潰すやり方は、体内にある空気に魔力を作用させる間接的な魔法だ。
ニナの治癒魔法も体内の水分に魔力を当て、人間の生理をコントロールする間接魔法だが、
彼女のその魔力は人体の生理を司る、さまざまな器官の奥深くまで、あるいは細胞レベルまで作用しているように思える。でなければあれほど早く、効果的な治癒はできないだろう。
そこまで人体の深奥に関わっているのなら、パオラが禁忌を危惧するのも頷ける。
この世界には誰も、人間の細胞がどうの、ホルモンの分泌がどうのなどと、近代以降の知識を持つ者はいないのだ。
ニナの治癒魔法に関してはミラもリフィアも、ドミルも特に問題視していなかった。パオラは当然、水魔法に関する知識は豊富だろう。故に何か引っかかるものを感じたのかもしれない。
「あ、でも……、エルリーナが……」
ニナが突如、自身の契約精霊の名を出す。
「エルリーナ? エルリーナがどうしたの?」
ニナの独り言のような呟きに、パオラが鋭く反応する。
「ん?」
イシュルがニナに視線を向けた。
ニナはまた吃音が出ている。
「あ、あの、……あの魔法のことで、エルリーナが禁忌じゃないって……」
続いて発せられたニナの言葉。
「ほう?」
「あなたの精霊がそんなことを……」
イシュルは興味をそそられたような声を、パオラは呆然とした声を発した。
「それは面白い」
「あの魔法、ってなに? ニナ。さっきの治癒魔法のことでしょう? 違うの?」
顔を横に傾け、かるく詰問口調のパオラ。
……おっと。
「パオラさん」
イシュルは彼女の名を呼び注意を自分に引きつけた。
あの殺人魔法のことはたとえ彼女の師でも、教えていいものか……。
イシュルはちらっとリフィアとミラの方を見た。
ふたりとも、特にミラは眸を爛々と光らせてこちらを見、聞き入っている。
……どのみち、彼女たちの前であの魔法の話をするわけにはいかない。
「エルリーナが、水の精霊が禁忌じゃない、といったのなら、問題はないですよね」
イシュルはパオラににっこり、笑ってみせる。
彼女の疑念をはぐらかすようなことはしたくない。
「ニナの魔法は、ほぼすべての生物の体内に存在する、水に魔力を及ぼすものだ。人間が対象でもそれは同じ。人体内部の水分に作用する、間接魔法なんですよ」
ニナの思わぬ発言で、はからずももうひとつの疑問も解消された。ニナの魔法は禁忌ではない、これが確実になった。
今まで水の魔法使いがしてこなかった──だから、もしやニナの魔法は禁忌に触れるのかと、一抹の不安があったのだ。
このことはパオラも同じ思いの筈だ。
「……」
やや顔を俯かせ黙りこむパオラ。
「人体の、水分……」
横からリフィアの呟く声がした。
「そうだ」
イシュルはリフィアを見、同じように戸惑いを示すミラの顔を見やった。
「多くの生命、例えば人の身体には、多くの水分が含まれているんだ。我々が思っている以上にね」
……それはこの世界の人間も同じだろう。確か人体の60%が水分、だったか。
「そうなのか……」
「イシュルさまは素晴らしいですわ。本当に、どこかの高名な学者さまのよう」
なぜだか知らないが、リフィアもミラも俺の言うことに疑問を抱かない。
ヒトの身体の半分以上が水分で占められているなど、見た目からはわからないだろう。この世界の人間で知る者はいないだろう。
だが……。
「パオラさん」
イシュルは王国最高、と言われる水の魔導師を睨んだ。
「あなたならわかる筈だ。生命が水で満たされていることを」
彼女がそれを感じない、感じとれない筈がない。
「うっ……」
パオラは顎を引いて、ほんの微かに呻き声を漏らした。
……水の魔法使いなら、生命の体内の“水”に魔法をかけることはごく自然な、当たり前のことではないか。
彼女はそのことを、嫌でも受け入れざるを得ない。彼女が実力ある水の魔法使いであるなら、なおさら。
それは俺の教えた攻撃魔法も同じだ。体内の“水”に魔法をかけること自体は、治癒魔法と何ら変わらない。もし彼女がニナのもうひとつの魔法、殺人魔法を知ったとしても、それが禁忌でない以上、どうすることもできない。
彼女の魔法の才能が、彼女の“水”に対する知覚が、彼女に疑念を抱かせることを許さないだろう。
灯りの届かない暗がりを背景に、小さく頷くパオラの顔。
「……」
イシュルは小さく息を吐くと目を閉じた。
そして “感覚”を閉じた、黒く染まった視野に向ける。
すると暗闇の中に、緋色に鈍く光る光体が現れた。それは暗闇に浮かぶ人間の血脈の、臓器の微細な輝きだ。パオラやリフィアら、イシュルを囲む人間たちの命脈だ。
……人体に、ほんのわずかに含まれる鉄。
この微かな感覚はたとえ優れた金の魔法使いでも、そこにあるものを“見よう”と思わなければとても感じとれるものではない。
ミラでも、金の精霊でも、それと教えなければ感知することはできないだろう。
この微細な緋色の瞬きを、神々は知っているだろうか。
俺がそれを“見れる”ことを、彼らは知っているだろうか。
神々を惹きつけるもの。それはこの緋色の輝きに隠されている。
……それは月神を斃す端緒となるのだ。
「そうに違いない」
イシュルは眸を開けると小さな笑みを浮かべた。
#2 合流
パオラとリフィアがドミルに呼ばれ中座すると、ミラも用事があると部屋を出て行った。
ロミオが村の方で用意した食事を運んでくる僅かの間、イシュルはニナとふたりきりになった。
「ニナ。俺が以前に教えた、もう片方の魔法は練習してる?」
「はい、もちろんです」
ニナはベッドの上のイシュルに顔を近づけると、そっと手を握ってきた。
「この魔法は、イシュルさんに教えてもらった魔法の稽古をしている時に思いついたんです。人や動物、植物の水の流れを辿っていくうちに……わたし、気づいたんです」
ニナの訥弁はもう直っている。
「水の流れが人や動物を生かしているんだって」
ニナに握られた手の先から全身へ、温かいものが流れ込んでくるような気がする。傷の痛みが薄れ、疲れがとれていく。
心のうちがすっきりして、気分が軽くなると同時に、食欲が湧いてくる。
「血の流れだけじゃなくて、人間のからだの水はさまざまな動きをして、働きをしてるんです」
「ふふ、その通りだ」
イシュルはニナの抽象的な、というより感覚的な説明に小さく笑って頷いた。
「イシュルさんは教えてくれましたよね。水は万物の源、だって」
ニナの眸が室内の灯りを拾って輝いている。
「ああ」
「そして自分と向き合えって。……その先にあの水の流れがあったんです。わたしの心の奥底を流れる水を辿っていくと、気がついたんです」
「素晴らしい」
イシュルはもう一度ニナに頷いてみせた。
「……」
ニナもにこにこ笑っている。
わたしはやりました! というような、誇らしい顔をしている。
「よくやったね。ニナ」
イシュルはやさしくニナに声をかけた。
……彼女は自らの弱さを、戸惑いや不安、何かその原因となっていたものを克服したのだ。
彼女は自信を取り戻した。世界に飛び込んでいく力を得たのだ。
「……うれしいです。イシュルさんもわたしの大切なお師匠さまです」
感激するニナの眸にそれだけでない、違う色が混ざりはじめる。
「それはうれしいけど」
イシュルはニナのその眸に、あえて気づかないふりをして言った。
「俺が教えた逆の魔法、あの殺しの魔法のことはきみの本当の師匠、パオラさんにも秘密にしておくんだ。誰にも話しちゃいけない。きみ自身を守る最後の必殺の魔法、秘技にするんだ」
剣や魔法の世界には秘剣、秘法が存在する。
ミラはここぞという時に、シャルカと自身の魔法具と合体する秘技を使ってきた。
俺なら、もう知る者が増えて秘密でもなんでもないが、“風の剣”ということになる。秘密ではないが、誰も真似することができない、使えないのなら秘技と同じようなものだ。
パオラ・ピエルカはすでに、もう一つの魔法のことを気づいているかもしれない。だがそれを秘技としてしまえば、ニナ自身も誰にも口外しないことを納得できるし、師匠であるパオラも、ニナに問いただすことを諦めざるを得ない。
「このことはあの時にも言ったよね。大事なことだから、もう一度念押ししておく。誰にも、師匠にも話してはだめだ」
あの時とは、赤帝龍討伐にフゴに向かっていた時のことだ。
「はい、わかりました」
秘技であれば、相手が家族であろうと師匠であろうと明かされることはない。それはごくふつうのことだ。
ニナは神妙な顔つきで、しっかりと頷いた。
……俺はニナが、もう一つの殺しの魔法をどれほど使えるようになったか知らない。彼女の使う治癒魔法からするとおそらく、相当なレベルに達しているかもしれない。
「……」
イシュルは再び笑顔になってニナの眸を覗き見た。
今までこの世になかった、生と死の水の魔法……。
この少女は恐るべき魔法の力を手に入れたのだ。
ニナは空高く羽ばたいたのだ。湖面から美しく飛び立つ白鳥にように。
その後ロミールから暖かいスープを給仕され、食べ終わるとイシュルはニナとともに外に出てきた。村長宅の館の前にはドミルたち、皆が集まっていた。周囲には篝火が焚かれ、裏手の厩の方にはたくさんの馬の気配がした。
ドミル一行には王城で生き残っていた騎士や魔導師ら、総勢十名ほどが加わり、ロミールら従者たちと合わせかなりの大世帯になっていた。
「イシュルさま!」
人々の輪の外側にいたミラがいち早くイシュルに気づいて駆け寄ってくる。
「シャルカ……」
ミラの後ろにはシャルカの姿が見えた。ミラは変身を解きシャルカと分離したらしい。彼女の着用していた魔法の鎧が消え、シャルカは以前のまま、合体前のメイド姿に戻っていた。ロミールたちは忘れず、彼女の服を運んでくれたのだろう。
シャルカはイシュルの前まで来ると、少し腰を落としてイシュルにお辞儀をしてきた。
「我が神の宝具を持つお方」
シャルカのイシュルの呼び方が「風の魔法具を持つお方」から、「我が神の宝具を持つお方」
に変わった。
「ああ」
イシュルはシャルカにかるく頷き、少しぞんざいな態度で答えた。
……気のせいか、彼女の口調も厳かな感じに聞こえる。
変わったのだ。彼女ら金の精霊にとって俺の存在が、劇的に。
「ふふ。とても喜ばしいことですわ」
ミラの声が機嫌よく弾んでいる。
基本的には神の魔法具を持っているからといって、その系統の精霊を常に味方に、あるいは隷属させることができるとは限らない。他の魔法使いが召喚した精霊、特に契約している精霊の場合は、その契約者の命令が優先されることの方が多い。
イシュルは風の精霊と何度も戦ってきた。他者が召喚した精霊を無理やり従わせるには、魔法具の違いや召喚された精霊の性格の他に、召喚者の意思が強く影響するようだ。
かつて、フロンテーラの大公城でラディス王家の宮廷魔導師らと戦った時、風の魔導師カリン・エドヴァールの召喚した精霊は、イシュルの呼びかけに明らかに動揺し、戦意を喪失した。それはあの戦いがもともとは模擬戦で、カリンの戦意が中途半端なものだったからだろう。
シャルカの場合は、そもそも彼女の契約者であるミラがイシュルと敵対していない。それがこの、まるで主人に対するようなシャルカの態度に表れているのだろう。
「シャルカ、これからもよろしくな」
「……」
シャルカは無言で重々しく頷いた。
「イシュルさま、お身体の具合は? 疲れはとれました?」
ミラがイシュルを見、ニナを見て聞いてくる。
「ああ、だいぶいいよ」
ニナは一歩引いた感じで、でもにこにこしている。
「それはよろしゅうございました。ニナさんがいてよかったですわ」
「うん」
ミラの背後から人々のざわめきが聞こえてくる。
皆イシュルの勝利にひと安心といったところか、その声音も明るい。
「これからは、金の魔法で何かわからないことがあったら、何でもわたくしにお尋ねください。わたくしの存じていることはすべて、イシュルさまにお伝えしますわ」
ミラは胸の前で両手を握って、いつものごとくつつっ、とイシュルの傍に寄ってくる。
彼女の眸が篝火の炎に輝き揺らめいている。夢見るような微笑を浮かべ、イシュルを見上げてくる。
「おお、そうだな。ありがとう、ミラ」
イシュルも笑顔になって頷いた。
何もわからず手探りだった風の魔法具の時と違い、ミラが教えてくれるのはとても心強い。
「これからバルスタールに赴き、かの城塞を奪還したら、いよいよ大公女殿のご用件に取り掛かるのですね」
ミラの眸が輝きを増し、妖気をさえ漂わせはじめる。
金の魔法具を持つユーリ・オルーラの登場、そしてやつを総大将とした連合王国の侵攻で、ラディス王国の戦乱に否応なしに巻き込まれる形になってしまった。だがもともとは、ペトラの契約精霊であるウルオミラが、地神とその魔法具のことで俺に相談したい、ということで王国に戻ってきたのだ。
「ああ」
イシュルはわずかに顔を仰け反らして答えた。
ミラの眸の、霞がかかったような輝き。……これは危険だ。
「次は地神の魔法具ですわね。ペトラ殿の精霊のお願いとは、もう片方の紅玉石に関わるお話に違いないですわ。わたしはそう確信しております」
ミラとリフィアには、大公城でウルオミラと会いはしたものの、まだ詳しい話を聞いていないこと、それは金の魔法具を手に入れてから、と言われたことは話してある。
ウルオミラが地神の魔法具に関する話をしてくるのなら、そこにもう片方の紅玉石が絡んでくるのは間違いない。ならばマレフィオアも同じだ。あの化け物を紅玉石と分けて考えることはできない。
マレフィオアといえば、オークランス城で公爵夫人とともに話した、元宮廷魔導師セムス・アレリードの意味ありげな言葉が思い起こされる。
あの老人は森の魔女、レーネとマレフィオアに何か関係があることを匂わせてきた。彼は王家のエレミアーシュ文庫を探れ、と言ってきた。アデール聖堂の知者、シビル・ベークもマレフィオアの所在を、未だブレクタスの地下神殿に潜んでいるのか、王家の書庫を調べろと言ってきた。
何か。何かがあるのだ。
紅玉石と地神の魔法具、マレフィオアにレーネ、これらには何らかの繋がりがあるのだ。
その鍵はラディス王家の書庫にある。ウルオミラが何か知っている。
「……」
あっ。ふと気づくとミラが、その妖しい眸で微笑み俺の顔を見つめている。
「考えごとはまとまりましたか? イシュルさま」
「あ、ああ。うん」
イシュルはせわしなく何度も頷く。
彼の横では少し離れて、ニナが呆然とした顔をしていた。
彼女にとってはミラとイシュルの会話はほとんどすべて、はじめて聞く話だろう。
「イシュルさま。地神の魔法具探しの冒険が終わりましたら、一度聖都に戻りませんこと?」
「へっ?」
ミラはニナがそばにいるのも気にせず話を続ける。
「聖都のお屋敷には金の魔導書がありますのよ」
「おおっ」
イシュルは笑みを浮かべ、今度はしっかり頷いた。
「じゃあ、俺はミラに弟子入りすることになるわけだな。きみが金魔法の俺の師匠になる、ということだ」
「まぁ、おほほほ。そうですわね」
ミラが手の甲を口許に当て、華やかな笑い声をあげる。
「あの、イシュルさん」
今までふたりの会話にただ驚き無言でいたニナが、ミラの横からさっとイシュルに顔を近づけてきた。
「わたしにも今度、教えてくださいね」
そして囁くように言ってきた。
ニナの飾り気のない笑顔に一瞬、大人の女の萌芽が目の前をかすめていく。
「えっ? ……うん」
あやふやな感じで頷くイシュルに、ニナは「師匠のところへ行ってきますね」と言って、館の前に集う人々の影に入って行った。
「イシュルさまの周りにまた、女のひとが増えるのは嫌なのですけど……」
イシュルの胸元、すぐ傍からミラが見上げてくる。
ミラはニナの態度をちっとも気にしていない。眸に物騒な色は浮かんでいない。
「ニナさんはイシュルさまの冒険には必要な方ですわ。ヘンリクさまと交渉して、今度の冒険にも連れて行かれたら良いかと思います」
「……」
それでか。
イシュルは無言で、微笑を浮かべるミラの顔を見下ろした。
だからミラは構わず、ニナのいる前で地神の魔法具やウルオミラのことを話したのだ。
ニナの治癒能力は負傷や病気に対するものだけではない。精神、肉体の疲労を癒す能力もある。鋭敏な感覚と思考力を必要とする魔法は、精神力を磨耗、消費していく。魔法使いにとってニナの存在は大きい。
……ミラは俺のために、自身の感情を抑え後回しにたわけだ……。
「イシュルさま、どうですか。金の魔法具を得た心地は。どんな具合ですか」
気づくとミラの顔がイシュルのすぐ目の前に迫っていた。夜闇と篝火の炎に眸の色をさざめかし、彼女の心根がイシュルに向かって押し寄せてくる。
彼女のそれは……。
だが、イシュルの心象に浮かんだのはあの金の精霊の異界、無数に折り重なる結晶世界だった。ミラの眸のように、現れ積み重なっては消え、再び現れる、揺らめく不思議な結晶の世界……。
「ふたつの神の魔法具を持つとは、どんな感じですか?」
ミラの囁きがすぐ、顔の横で聞こえる……。
「それは」
イシュルは遠く、どこも誰も見ていない、それでいてすべてを見ているような視線を夜空に向けた。
「世界をあらたに再構築していくような、そんな感じだ」
すべての魔法具が揃った時、自分の中でその世界が完成する。
「世界のさい、こうちく……。イシュルさまは難しいことを言われます」
ミラの小さな声がする。
「きっとイシュルさまは、神々の視座に立たれようとしているのですわ……」
「それはどうかな」
イシュルはミラに視線を落とし微笑んだ。
イヴェダを直接目にしてはっきりわかったことがある。神々は人間と同じ形をし、同じような思考をするが、あれはやはり別物なのだ。人間とは違う。生き物ではない。
「所詮人間は人間、神とは違う。俺は神さまになりたいなんて、これっぽっちも思ってない」
「でもきっとそれが、神々と相対することなんですわ。願いを神々にとどかせるのに必要なことなのです」
ミラの視点はあくまでこの世界の、聖堂教の影響を多分に受けた聖都の貴族、住民のものだ。
「うん、それは……そうかもしれないけど」
イシュルは再び視線を遠くに彷徨わす。
密かに浮かぶ疑念。……のようなもの。
神々が視るもの。それはなんだ?
俺は彼らの力の一部を手に入れ、その知覚の一部を追体験しているのか。
「……それはどういうことだ?」
イシュルの囁く声はミラにも聞こえなかった。
その声は彼女の頭上を、すぐ夜闇に溶けて消えてしまった。
「ミラ殿、ずるいぞ」
人々の集団からリフィアが抜け出て来て、ミラに低い声で言った。
「……」
イシュルは無言であやふやな笑みを浮かべるだけだ。ミラは同じ笑みでも、とても機嫌が良さそうだ。
「イシュル、ドミル殿がお呼びだ」
リフィアが人々の集まっている方を指差した。
「そろそろケフォル村を出発するが、身体の具合はどうかな? 疲れは取れたかね」
イシュルが人々の輪の中に入って行くと、ドミルが声をかけてきた。
「ええ。ニナのおかげでだいぶ調子はいいです。で、皆さんは?」
イシュルはドミルの周りの人たち、マリド姉妹やフリッド、先ほどまで話していたパオラ・ピエルカらを見渡した。
「大丈夫だ、イシュル殿」
アイラが元気な声で、いの一番に言ってくる。
フリッドとマリド姉妹はユーリ率いる本隊が去った後、王城北の城門の残敵を掃討、ドミルやパオラたちを支援する形で後方を追尾し、脱落した敵軍騎士らを狩っていたということだった。イシュルが村長宅の一室で休んでいる間、彼らも屋敷の内外で食事をとり、休息していた。
「ドミルさん、それで向かう先は? 王城に戻るんですか?」
イシュルは笑顔でアイラに頷いて見せると、顔を引き締めドミルに問いただした。
夜間に騎馬で軍都街道を北上するのは危険だ、ということは伝えてある。城に戻るのなら、今ここで彼らに提案したいことがある。
「いや。とりあえず王都街道に入って、ルダーノに戻る」
奥の篝火の方から、ばちっと火の鳴る音が響いた。
ドミノは意外なことを口にした。イシュルに意味ありげな視線を向けてくる。
「ふふ」
イシュルはドミルの視線を受け止めると小さく笑った。
これは……。
「ヘンリクさまも同じ考えだ」
ドミルもにやりと凄みのある笑みを浮かべる。
「貴公らにはペトラさまにつき従い、いち早くバルスタールへ向かってもらう」
「……」
ドミルの言にイシュルだけでない、リフィアもミラも、特にマリド姉妹が満面の笑みを浮かべて頷く。
「軍監には、ニースバルド伯爵のご子息殿を当てることになっている。行ってくれるな? イシュル殿」
「わかりました」
イシュルは笑みを大きくして再び頷いた。
……どうやらヘンリクも同じことを考えていたらしい。
ユーリ・オルーラを片づけた以上、残る課題はバルスタールから西へ敵を追い落とすことだ。
その決め手となる援軍の総大将をペトラとする──これで彼女は大功を打ち立てることになる。それが形式的な、お飾りのものであろうともだ。ペトラの名は歴史に刻まれ、ヘンリクの次代の王となるのに必要な、大きな功績を得ることになる。
ただ目の前のドミルも、ヘンリクも、バルスタール奪還は実質、俺ひとりにやらせる腹積りだろう。
そこはこちらにも、別に考えがあるのだが……。
まあ、今はまだいいだろう。
とにかくペトラに戦功を立てさせること自体は、俺も彼らと同じ考えだ。それに王宮などと違い、彼女と同行できれば、行軍中の取り巻きの少ない状況でウルオミラと接触することができる。
「問題は王都街道に溢れているだろう避難民だが……。大公軍本隊と合流できれば、その後は百騎ほどでバルスタールへ進発する予定になっている。小部隊の進軍であればなんとかなるだろう。軍都街道に出るまでの辛抱だ」
ドミルの話が続いている。
「わたしも北線へ行くわ」
そこへパオラが声を上げた。
北線とはバルスタール城塞線の通称である。
「あ、あのわたしも……」
ニナも小さく声を上げる。
「城塞線の北辺は湿地帯でたくさんの大小の川や沼、湖ばかりなの。冬場はお城の水堀も凍ることが多いから、水の魔導師が常駐しているのよ」
水堀の結氷時には、城兵が槍などで突いて氷を砕くだけでなく、周囲の河川なども含め常駐する水の魔導師が強制的に解氷して回るのだという。
周囲の湿地帯や水堀が厚い氷で覆われれば、同地の積雪状況によっては当然、敵軍の侵攻は容易になるだろう。
「ふむ。ピエルカ殿の申し出はわたしからも、ヘンリクさまにお伝えしよう」
ドミルが顎に手をやり考えながら言った。
……ニナもついてくるのか。それは助かる。
イシュルはニナの顔をちらっと見やった。
ニナが笑みを浮かべて目を合わせてくる。
「ではドミル、出発するとしようか」
横からフリッドがドミルを、一同を見回し言った。明るい声だった。
シュバルラードに乗って夜道を行く。
一行は昼間の戦闘で荒れた街道を慎重に、速度を落とし王都に向けて南下、途中で間道を東に折れて王都街道へ向かった。
月光に上から照らされた雲の層が透け、輝いて見える。
曇り空で地上は暗く、収穫後の麦畑は漆黒の暗闇に沈んで見える。間道の側にまばらに立ち並ぶ木々も、真っ黒く染まっている。
シュバルラードはヨーランシェが去っても変わらず、静かで従順なままだ。ロミールによるとイシュルのいない時もおとなしく扱いやすいという。
間道とは言っても、馬が二頭横に並んで通れる充分な道幅がある。イシュルの横にはリフィアが並走し、時折馬上から大きな声で話しかけてくる。
まだ遅い時間ではなかったが、王都郊外の畑地を行く間道に難民の姿は見えなかった。
王城で合流した生き残りの騎士や魔導師らも加わり、総勢で三十騎ほどに増えた一行は辺りの静寂に馬蹄の音を轟かせ、王都の北辺を横切り東に向かっていた。
「どうだ? 傷は痛むか?」
横からリフィアが話しかけてくる。
当然、徒歩より馬に乗っている時の方がからだの上下動は大きく、傷にひびく。
「ああ、少しな」
確かにこれを長時間、毎日繰り返すのは、左腕の方はともかく、腹部の傷には良くないかもしれない。ニナに同行してもらった方がいいかもしれない。
「イシュル」
リフィアが口調を改め続けた。
急いでいるとはいえ、ロミールたちは荷馬も牽いている。距離もそこそこあるし、一行は少し早めの速歩(トロット)で歩法を合わせ進んでいた。
「バルスタールの敵軍はどうするんだ? オルーラ公がやったように力押しでいくのか。皆殺しにするつもりか?」
「いや……、まだ考え中だ。結論は現地を見てからだな」
あのルースラ・ニースバルドが軍監につくのなら、俺はただの駒、彼にまかせてしまってもいいのだろうが……。
イシュルは視線を並走するリフィアから前方に向けた。
前をマリド姉妹が、さらにその前の隊列の先頭をドミルとフリッドが走っている。
東の空を遠く雲が覆い、視界の開けた地平には南から緩やかな丘の連なりが伸びてきている。
リフィアは、ユーリがやったような暴虐を俺にして欲しくないのだろう。
イシュルは夜闇の一点を見つめ、手綱を握る手にわずかに力を込めた。
一行が王都街道に入ると、街道脇に荷馬車を止め、焚き火を囲む人々の姿が目につくようになってきた。先頭には騎士が先行し、街道を歩く人々に道を開けるよう大声で叫び、触れを告げはじめた。
途中、王都に向かう十騎ほどの騎馬隊に遭遇し、ヘンリクが二百騎ほどの大公騎士団を率いて夕方から先行、王都に向かっていることがわかった。
ヘンリクの騎馬隊はすでに、ルダーノの手前のアベニスと呼ばれる集落まで進出し、同地に陣を張っているということだった。
その後、イシュルたち一行はアベニスを目標に歩を早め、ほどなく街道沿いに大小の家々がまばらに建ち並ぶ、小集落に到着した。
集落の中心部の広場には聖堂教の神殿があり、辺り一面敷石で覆われていた。広場には数頭の騎馬と騎士たちの姿があり、彼らの横には大きな車輪の馬車や荷馬車が並んでいた。そこにはペトラとマーヤが乗っていた戦車(チャリオット)も置かれていた。
神殿裏手に広がる木々のシルエットの先には、三階建ての瀟洒な屋敷が見え、篝火だろうか、多くの灯りで下から照らし出されていた。木立の上からは、夜にもかかわらずおそらく大公旗や騎士団旗であろう、大小の旗が二旒、掲げられているのが見えた。
一行が神殿前の広場に入り下馬すると、ドミルたちに騎士がひとり近づいてきた。その騎士は何事かドミルらと話すと、奥の木立の中に走って行った。
「ヘンリクさまはアベニス伯爵邸におられる。行こう」
ドミルが一同に声をかけ、イシュルたちは馬をロミールたち従者らに預け、騎士の消えた木立の中の小道を奥へ進んだ。
「アベニス伯爵というのは」
「王都の都市貴族だな。王家の遠縁に当たる家だ」
イシュルが横を歩くリフィアに聞くと、彼女はすぐに答えを返した。
都市貴族というのは自領はほとんど持たず、王家から直接俸禄を得ている者たちで、アベニス伯爵のように王家に近い血筋の者など、名門も数多く存在する。
「なるほど」
イシュルは言いながら周囲を見回した。
……周りがぞわぞわする。たくさんの人馬の気配が、人々のさざめく気配がする。
屋敷の前に出るとそこは庭園の南端で、周囲には軍用の大きなテントが幾つか、間をとって張られていた。
イシュルたちは屋敷の側面から敷地に入ってきたことになる。
一行は館の東側に周り、正面玄関から中に入った。
屋内は貴族の邸宅にはよくある造りで、中央のホールの左右に大部屋が並び、正面に二階に上がる階段が伸びていた。
ホールには衛兵以外人影は見えなかったが、左右の大部屋からはたくさんの人々の立ち騒ぐ音が聞こえてきた。
「戦勝だからな。忙しそうだ」
フリッドがイシュルに笑顔を向けて言ってきた。
大部屋の片方を覗き見ると、室内には大小の机が雑多に運び入れられ、書記役だろうか、多くの文官たちが皆異様な早さで羽ペンを走らせていた。
部屋の奥には、大公軍軍監のトラーシュ・ルージェクと数名の男たちが頭を突き合わせ、時に声を張り上げ何事か話し合っていた。
「まさしく修羅場だな」
イシュルはぼそっと呟いた。
彼らは各方面への通知、命令などの書簡、布告の作成に追われているのだろう。
「あちらにルースラ殿がいるぞ」
リフィアが親指を立てて背後を指差す。
イシュルが反対側の部屋を覗き見ると、室内の大きな机の上に絵地図らしきものを広げ、ルースラ・ニースバルドと大公家騎士団長や百人隊長らしき男たちが、何事か話し込んでいた。
イシュルがルースラの顔に目をやると、彼もふと顔を上げ、その場から笑顔を向けてきた。
ルースラが騎士団長らとともにこちらに向かって来る。
「……!」
同時に、二階の方から多くの人々の向かって来る気配がした。
階上から姿を現したのはヘンリクやペトラ、マーヤたちだった。後ろにメイド頭のクリスチナやヘンリクの執事たちの姿も見えた。
「よくやった!」
ヘンリクはそうひと声叫ぶと階段を降りはじめた。
「ははっ」
ドミルら一同がその場でいっせいに跪く。
イシュルとミラだけが立ったまま右手を胸に当て、頭を下げる。シャルカはひとり、後ろの方で所在なさげに棒立ちしている。
「イシュル!!」
甲高い少女の叫び声とともに、階段を降りてくるヘンリクの背後から小さな人影が飛び出した。
ペトラとマーヤが跪く人々をかき分けイシュルに抱きつき、いや飛びついてくる。
「やったね」
「イシュル〜」
マーヤが、ペトラがイシュルの首に両手を回し、半泣きで声をかけてくる。
「心配じゃったのだ〜」
「良かった……」
ふたりはぎゅうぎゅうとイシュルを締めつけてくる。
「よしよし」
イシュルは思わず、子どもに対するような口調で言った。
「ふむ……」
「……」
リフィアもミラも、ヘンリクも、みな呆然と、そして笑みを浮かべて喜びを分かち合うイシュルたちを見つめている。
「くっ」
イシュルは一瞬混乱して、涙ぐみそうになるのを堪えた。
あのウーメオの舌で、エミリア姉妹の墓前で、ピルサとピューリを抱きしめた時のことが思い出されたからだ。
「マーヤ」
イシュルはまずマーヤに声をかけた。
「バルスタールに行くぞ。おまえのお父さんたちを助けに行こう」
「うん」
大きな眸に涙を滲ませ頷くマーヤ。
「ペトラ、おまえが総大将だ」
そしてペトラに顔を向ける。
「う、うむ!」
ペトラが泣きながら笑みを浮かべ、大きく頷く。
「ふふ」
イシュルも笑うと、ふたりの背中に回した両手に力を込めた。
「我が神の宝具を持つお方」
アベニス伯爵邸の二階の一室。
明け方の光に青く染まった室内に、シャルカの押しころした声が聞こえた。
「ん……」
イシュルはそれだけで深い眠りから呼び起こされた。
ベッドからおもむろに上半身を起こし、小さな声を発する。
「シャルカか。何かあったか」
イシュルは素早く広い室内の奥、衝立の裏側で微かに寝息を立てるミラとリフィア、ふたりの方を見やった。
ふたりとも目を覚ます気配がない。
「……」
イシュルはシャルカの、いつもの表情の稀薄な顔を見上げた。
こいつ、眠りの魔法か結界みたいなものか、何かをあのふたりに使ったか。
とりあえず、結界の張られている感じはない。
「あの小鳥の風の精霊に呼ばれた。契約者の少年があなたに会いたいそうだ」
「ああ」
それはあれだ。ヒポルル、だったか。ルースラの契約精霊だ。俺には決して“小鳥”には見えないが。
彼が俺を呼んでいるのか。……こんな時間に。
外はまだ、ぼんやりと明るくなりはじめた頃合いだ。館の中は相変わらず人々の動き、出入りする気配が続いているが、まだ起床して出発の準備をはじめる時刻ではない。
イシュルは静かにベッドから降りると、シャルカに続いて部屋の外に出た。
廊下にはヘンリクの執事のひとり、初老の男が待っていた。
「イシュルさま、お早うございます。まずは一階へ」
執事はそう言うとイシュルの前に立ち、ホールの方に向かって歩き出した。シャルカはイシュルに着いてこなかった。
イシュルは前を歩く執事の背中を見つめながら、なぜルースラがこんな時間に自分を呼び出したのか、その理由について、まだはっきり目覚めているとは言いがたい頭で考えはじめた。
……何かの陰謀とか突然の罠とか、そう言う危険なものではないだろう。だが、何か異変があったわけでもない。
昨晩はあれから、イシュルたち、リフィアとミラは客人扱いですぐに眠りについた。
ドミルら魔導師たちは、ルースラやペトラらとともにヘンリクと会議に移った。
伯爵邸はヘンリクの幕僚やペトラたち、イシュルやドミル一行らが加わり一気に手狭になって、イシュルはやむなくミラやリフィアたちと同室になった。この部屋割りには当然、イシュルたちの間で、というよりミラとリフィア、ペトラの間で一悶着あったのだが、精霊であるシャルカの厳重な監視のもと、という条件つきでなんとか、三人が同室で休むことに決着がついた。
三人が同室で寝ることになった理由のひとつに、イシュルが自身の疲労の蓄積を嫌って、就寝中の警戒のために精霊を召喚するのを躊躇し、シャルカに警護を頼んだこともあった。
……夜中はずっと、館内を動きまわる人々の気配が煩わしかったが、疲れもあってよく眠れた。ペトラたちの大騒ぎもまぁ、大変だったけど、あれはあれで疲労困憊になって、結果、より深くしっかり眠れる一因になった、と言えなくもない。
だが、眠りが深くとも周囲のざわめきは微かに感じられ、それが途切れることはなかった。
それがシャルカに起こされ、ルースラに呼びだされるということは、異変と呼べるような騒動は起きなかったが、何か別の、内々の問題が持ち上がった、ということになる……。
イシュルは執事の後に続き、ホールの階段を一階に降り、屋敷の奥の方へ向かった。
玄関ホールの左右の部屋では、相変わらず多くの人々が立ち働いていた。
「お早うございます。イシュル殿」
階段裏手の廊下を突き当たり、一番奥の部屋の前まで進むとそこに、ルースラ・ニースバルドがひとり佇んでいた。
イシュルの後ろで執事が無言で会釈し、ホールの方へ去っていく。
「お早う、ルースラさん」
イシュルは欠伸を嚙み殺して言った。ちらっと執事の背中に目をやる。
特に怪しい空気は感じない。
「何があったんです?」
「すいません、こんな朝早くに。……まだ勝ち戦(いくさ)のお祝いも申し上げていないのに」
「……」
申し上げる、だなんて。
イシュルは薄く笑みを浮かべて首を左右に振った。
「実は王城内で敵軍の大物を捕らえましてね。先ほどこちらに運びこまれたのです」
ルースラは扉の前に立ったまま、微かな笑みを浮かべて言った。
当人は甘い顔立ちをしているが、薄暗い廊下の片隅での含み笑いは、なかなかの迫力があった。
「はあ。それは……」
大物? 運びこまれた? なんだ? それは。
「連合王国の総大将、ユーリ・オルーラにつき従っていた同大公国の四伯爵のひとり、クルトル・ドレーセンを捕らえたのです」
「……!」
イシュルは双眸を大きく見開いた。
ルースラはいつもの落ち着いた口調で、決定的なことを口にした。
……なるほど。それは大ニュースだ。
イシュルは口許を歪ませ酷薄な笑みを浮かべた。
オルーラ大公国の四伯爵の話は、目の前のルースラと軍監のトラーシュ・ルージェクから以前、耳にしている。
「ドレーセン伯爵は負傷していましてね。北門の門塔内に彼の従者に匿われていたのを、我軍の派遣した物見が運良く発見したわけです」
「なるほど」
……これはいい。ヨーランシェはユーリが俺と別人だと断言してくれたが、この扉の向こう側にいる男に俺の顔を見せて、その反応を見ればより確かな、つまり確証が得られるわけだ。
ドレーセンが俺を見てどんな顔をするか、それですぐわかる。
ユーリ・オルーラと俺が、本来は別人だったということが。
「大公さまは? 訊問はこれからですか」
「ええ。ヘンリクさまは今、仮眠をとられています。中には衛兵が一名、ドミル殿が見張っています」
わざわざあの男がこの時間にね。まぁ相手は確かに大物、だ。
「実は伯爵が、ユーリ・オルーラの討ち死にを信用してくれなくて。それをわからせないと訊問しづらいのです。それでこんな時間にイシュルさんをお呼びしたのです」
そしてルースラは、「クルトル・ドレーセンは連合王国でもその名を知られた名将です。イシュル殿も興味がおありでしょう?」と続けた。
「ふふ、ごもっとも」
イシュルが笑みを深くして頷くと、ルースラは「では」と言って扉を開けた。
「……」
部屋の中は調理室の奥にあるのか、食物庫(パントリー)のような小部屋だった。今は樽や木箱など中にあったものはどかされているのか、部屋の中にはテーブルが一つと、大きな棚があるだけだ。正面の、折りたたみ式の寝台に横になった中年男を除いては。
ドミルはドレーセンと思われる男の奥に腕を組んで、壁に背を預け黙然としていた。扉の横には槍を片手に衛兵が一人、直立していた。見たところ衛兵は伯爵家の家人(けにん)のようだ。
「……」
ドミルがやや疲れた顔をイシュルに向け、小さな笑みを浮かべた。
ドレーセン伯爵は薄い毛布をかけられ、胸のあたりを包帯のような布でぐるぐる巻きにされていた。そのまん丸の目が見開かれ、イシュルに注がれた。
野太い声がその髭面から漏れた。
「なんだ、この小僧は」
髭の男の眸に驚愕はなく、微かな不審以外に目立つ色はなかった。
「……」
イシュルは思わず笑みを浮かべた。
口角がぐいっと、引き上げられるのを感じた。
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