霜雪の丘 2


「どうして……」

 イシュルの呻く声が、丘を渡る風に掻き消されていく。

 なぜ、俺が……。どうして俺が、目の前で死んでいるんだ?

 地に落ちたユーリ・オルーラ、その仰向けに倒れた死体は、イシュルと同じ顔をしていた。

「くくくっ」

 イシュルはしばらくの間、呆然とその場に固まるとやがて小さく、乾いた声で笑った。

 月神レーリアが、挑発してきたあの夜……。

 あいつが言っていたのはこのことか。

 イシュルはじっと、舐め回すようにしてユーリ・オルーラの死体を凝視した。

 腹部は鎧ごと綺麗に切断され、出血はほとんどない。

 切断面は、風の剣の刃による強烈な摩擦熱のせいか、真っ黒に炭化している。

 鎧から覗く首筋、腕まわりから俺よりは筋肉質で、骨格もしっかりしているように見える。

 こいつは少なくとも、丸一年以上は大陸西方を駆け回り、戦(いくさ)に明け暮れていた筈だ。

 そして俺よりも陽に焼けている。

 不思議なことに仮面の被さって隠れていた部分も、均等に日焼けしている。

 長い間鉄に覆われていたのに、皮膚もきれいだ。特に何か、炎症を起こしているようにも見えない。

 今はその虚ろな眸には何も映っていないが、同時に怒りも憎しみも、ユーリ・オルーラだったもののすべてが抜け落ちている。

 後に残された、空疎な俺の死に顔。

 奇妙なものだ。

 画像、映像とは違う、直に見る自分自身の姿。

 俺はこんな顔をしているのか。

 この世界ではまだ、鏡は高級品だ。少なくとも都市の貧困層や田舎の農民は、鏡など持っていない。

 転生してからは、自身の姿を鏡で見ることはほとんどなかった。

 普段の生活で自分の顔を見ることがないから?

 鏡を見たとしても、映る顔は左右反転されているから?

 だがこの奇妙な感覚はそれだけで済まされるものではない。もうひとりの自分が目の前にいるのだ。それは見慣れていなくても、なぜかよくわかる。

 もうひとりの自分が、目の前で死んでいるのだ。

「しかしレーリアめ。くだらないことをする」

 これがいったい、どうしたというのだ。

 なるほど月の女神は運命の神、冥府の神だ。

 もうひとりの俺を、俺の複製をつくりだすことなど造作もないだろう。

 月神は俺の運命は自らの手のひらの上、掌中にあるとでも言いたいのだろう。人間ひとり、何でも、どうにでもできると。

 そしておそらく、“俺に俺自身を殺させる”ことによって、俺がこの先どんな結末を迎えるか暗示し、神に刃向かうことに警告を発しているのだろう。

 あるいは「神の魔法具はただではやらない」、ということなのか。

 いや。そんな大層なことではないのかもしれない。

 あの酷薄な女神はただ遊んでいるだけなのかもしれない。俺を玩具(おもちゃ)にして戯れているだけなのかもしれない。

「くっ、ふふ」

 笑わせてくれる。こんなくだらないことしやがって。

 ……それなのに。

 なぜ俺のからだは震え、胸底から熱い怒りがこみ上げてくるのか。

 なぜ俺はこれほどまでに怒り、怖れている?

「ユーリ・オルーラ」

 おまえは俺だったのか? もうひとりの俺だったのか。

「まさか……」 

 もし俺が転生した時、この世界に生を受けた時、この男も同時に生まれていたとしたら?

 レーリアの悪意とは関係なしに、俺という存在が分離した片割れだったとしたら?

 ひとりの人間が同じ存在として二つに分離する、そんなことが実際起こるものなのか。それは多分に疑わしいことではあるけれども、“転生”などということが起きてしまったのなら、他にどんなことが起きようと、何があろうとおかしくはない。

「だがな」

 こいつはほんの一瞬だったが、王宮前の戦闘時にしっかり俺の顔を見ている。

 あの時、この男は俺に対し怒りや憎悪以外、特別な反応を示さなかった。

 こいつの態度は、連合王国の敵、風の魔法具を持つ敵に対する、それだけだった。

 もし、ユーリ・オルーラが本当にもうひとりの俺、文字通りの分身であったなら。

 もし、俺と同じ存在として生まれていたのなら。

 いや、ただ同じ外見をしていただけでも、まったく違った反応をしていただろう。

 この男もさぞや驚いたに違いない。

 どの時か、おそらく金の魔法具を手に入れた時に、精霊神に鉄仮面を被せられた時に、この者は俺の姿形に変えられたのだ。

 だからやつは俺の顔を見ても、ただ敵意をぶつけてくるだけだった。

 ユーリはあの時、俺の顔が自分と同じだと、あるいは似ているとさえ思わなかった。

 つまりこいつは、俺とは全くの別人だったのだ。

「おまえはまさか、利用されたのか……」

 ここにまた、ひとりの人間の人生が狂わされたのか。

 こいつだけじゃない。月神が金神ヴィロドに命じたのか、この男に金の魔法具を与えたことで、ラディス王国や連合王国で多くの人々が死ぬことになったのだ。

「ふふ? はははっ」

 イシュルは声を裏返し、奇妙な笑い声をあげた。

 ……俺はこれからバルスタールへ行く。もっともっと、さらに多くの人間を殺すことになるかもしれない。

 月神が仕組んだのだとしたら、とても割り切れるものではないだろう。

 戦争だから仕方がない、王国を、ベルシュ村を守らなければならないのだからと、それで済ますわけにはいかない。

 相手は神さまだから、運命神だから何もできないと諦めてしまうのか?

 このことを、今まで失われたものを、……すべてを。

「ふざけるなよ」

 イシュルは死体の前に座り込み、右手を高く掲げた。

 もうだいぶ時間が経ったのに、蛇が出てこない。白い蛇が出てこない。

「それなら俺がやるしかない」

 己の手で金の魔法具を得るしかない。諦めるわけにはいかない。

 イシュルは右の拳に風の魔力を集めると、ユーリ・オルーラの死体、胸部に右手を突き刺した。

 


「……」

 死体の中はまだ暖かさが残っていた。

 イシュルは無言で、とめどもなく涙を流し続けた。

 肋骨を砕き拳を突き入れ、自分と同じ肉体の、死人の腹わたを弄(まさぐ)っているのだ。

 ゴムのような手応えは心臓だろうか。ぬるぬるした感触は何かの体液、粘膜の類いか。

「レーリアめ!」

 イシュルは天を仰いで吠えた。

 沸騰しそうな激情が全身を駆けめぐる。

 イシュルは一度だけ叫声を上げると俯き、片手をユーリ・オルーラの死体の中に入れたまま、しばらくの間全身を細かく震わせた。

 ふたりの戦いが終わった後、辺りは霧に覆われ天候が急速に悪化した。イシュル以外、誰もいない丘の上も灰色の霧が立ち込めている。

 ……まさか自らの死体を、己自身で穢(けが)すことになるとはな。

 涙が、血に濡れたユーリの胸の上に落ちた。

 ……ふふ。

 イシュルは声もなく笑った。歪みきった、狂気じみた笑いだった。

 その時、右手の指先に硬く、冷たいものが触れた。

 それは骨などではない、もっと薄く密度感のある、人工物だった。

 いや人の手によるものではない。神のものだ。

「鉄板か?」

 しかしこんなものがいきなり人体の中に現れるとは。

「くっ」

 イシュルは右手に力を込めて、それを無理やり外に引っ張り出そうとした。

「大きい?」

 こんなもの無理やり外に出したら、俺の、いやユーリの死体が滅茶苦茶になる。

 その時イシュルの目の前に薄く、透けるようにして円形の鉄板の姿が浮き上がった。 

 ……鏡? 盾か。盾ならやや小ぶりなラウンドシールドだ。縁に二重線のレリーフが刻まれている。

 目の前に浮かんだ幻の像が消えるとその直後、右手に掴んでいた鉄の板も消えた。

 痛みも熱も、何も感じず、突然消えてなくなった。

「……」

 あの時と、森の魔女レーネに捕らわれ殺されそうになった時、風の魔法具を手に入れた時と同じだ。

 何の手応えもなく、どこかへ溶けるように消えてしまった。

 ……俺の中に取り込まれたのか、金の魔法具が。

「しかし……。ラウンドシールドなのか」

 神殿で見る金神ヴィロドの像は片手に、少し平たく潰れた香炉のようなものを持っている。当然、それは香炉などではない。耐火性のある石で作られたレン炉など、鉄を精錬するための炉を模したものだと言われている。

 だが一部の金神像は“炉”ではなく、両手に鏡を持っているものがある。特に古い時代に作られた金神像に多い。

「……あれは鏡ではなく、円形の鉄楯だったのではないか」

 つまりそういうことなのだろう。伝承が途絶えてしまえば古い時代の彫像など、円形の鏡を持っているのか、鉄楯を持っているのかわかりはしない。

 鏡なら金神より、精霊神が持つ方がふさわしいだろう(ちなみに精霊神アプロシウスは、片手に何かの印を結んでいる像が多い)。金神ならやはり、鏡より鉄楯だろう。

 イシュルは右手をユーリの死体から引き上げた。

 体調に変化はない。重い疲労感と、傷口の痛みだけだ。

 傷の痛みは風鳴りを使ってから明らかに増しているが、それほど出血はしていないようだ。今すぐに服を脱いで確認する必要はないだろう。

「すぐにわかるさ。……その時は」

 風の魔法具の時は自身の肉体に定着し、その能力を発揮するまでに数刻(四〜六時間)ほどかかっている。金の魔法具も同じくらいの時間がかかると見てよい。

 風の魔法具の能力が発現した時は、周囲の空間、空気中の感知能力が飛躍的に高くなった。金の魔法具が自分のからだに定着した時、どんなことが起こるだろうか……。

 イシュルは血に染まった右の掌を見つめた。

 ユーリの血はコートの袖まで濡らしている。

 ……かまうものか。これは俺の血なのだ。

「だが、この死体を人目にさらすわけにはいかない」 

 イシュルは死んだユーリ・オルーラの顔を、自分と同じ顔を見た。

 その脇に落ちている精霊神の魔法具、鉄の仮面に視線を移した。

 ……オルーラ大公国の者は、主君の顔が俺と同じになっていることなど知らないだろう。この顔を隠すために、ユーリの顔が変わってしまったのが露見しないように、月神は精霊神にこの仮面を用意させたのだ。そうに違いない。

 オルーラ大公が俺と同じ顔をしているなど、誰にも知られたくない。

「こんな仮面、くだらないゴミだ。可哀想だがおまえの遺体も、この仮面もこの地上に微塵も残さない。完全に消し飛ばす」

 イシュルが厳しい声で言うとその時突然、風の剣を放つ時後ろから襲ってきた、あの怨嗟の声が再び聞こえてきた。

 殺す。殺す。殺す。……俺だけが、俺こそが。

「くっ」

 イシュルは立ち上がり鉄の仮面を踏みつけると、そのまま風の魔力で押し潰した。

 精霊神の仮面は紙のように薄く引き延ばされ、霜の降りた土くれの中に沈んだ。

 ……あの時のユーリの怨嗟の叫び。

「やはり、おまえは俺なのか」

 イシュルはぞっとするような恐ろしい顔になって、ユーリ・オルーラの死体を見降ろした。

「剣さま」

 イシュルがその仮面の、ユーリの、あるいは自分自身のものだったかもしれない、怒りと憎しみに飲み込まれそうになった時。

 今まで気配を消していた風の大精霊が声をかけてきた。

 イシュルの横にヨーランシェが音もなく、静かに姿を現わす。

「金神の宝具を手に入れたんだね」

「ああ」

 イシュルはちらっと横目に声のした方を見て、低い声で言った。

 その眸にはまだ、暗く燃えるものがくすぶっている。

「しかし驚いたな」

 まだ年若い風の精霊は、その台詞とは裏腹に落ち着きはらった声で言った。

「こんなことはふつうじゃありえないよ」

「……」

 イシュルはユーリの死体を見降ろしている。何も言わない。

「見た目だけじゃない。多分剣さまとまったく同じだね。これは」

「そうかよ」

「……」

 ヨーランシェは小さく溜め息をつくと言った。

「こんなことができるのは悪戯が得意な精霊神か」

 ヨーランシェがイシュルを睨む。

「月神だけだ」

「……」

 今度はイシュルが長い溜め息をついた。

 ……とうとうばれてしまったな。

 俺と月神にただならぬ因縁があることを。

 金の魔法具を持たせ精霊神の呪いの鉄仮面をつけた、俺と同じ顔をした人間を、複製元である俺と戦うように仕向けた存在。ヨーランシェでなくても、誰でもそんなことができるのは月神しかいないと、思い当たるのではないか。

 イシュルも横目にヨーランシェを睨みつける。

 これはイヴェダにも知られるだろう。

「……どうした?」

 イシュルは薄く笑って言った。今度はヨーランシェが黙り込んでいる。

「いや……」

 ヨーランシェは少し浮かない顔で何か考えている。

 背景に薄っすらと透けて見える美形の、少年とも青年とも言えないその若い姿形は、だいぶ疲労しているのかいつもの晴れやかな感じがしない。

「月神は剣さまをどうしたいんだろう……遊んでいるのかな」

「そうかもな。レーリアは俺のことなどどうにでもできる、金の魔法具をやるから遊びに付き合え、とでも言ってるんじゃないか」

 イシュルは口角を引き上げ歪んだ笑みを見せて言った。

「うん……」

 ヨーランシェはイシュルの言にはっきり肯定も、否定もしてこなかった。そしておもむろにイシュルに顔を向けてきた。

「でも、月神が剣さまにここまで固執するのも、とてもよくわかるような気がする」

 ヨーランシェはまた、あの何かを隠した得体の知れない笑みを浮かべた。

「イヴェダさまがそうだもの」

「……」

 イシュルは小さくため息をつくと、再び皮肉な笑みを浮かべて言った。

「しかし月神はくだらないことをしてくれる。あの神は俺に敵対してくるんだ」

「この人間を差し向けてきたのは剣さまに力を誇示し、嫌がらせをするためだけではないよ」

 ヨーランシェはユーリの死体に視線を落として言った。

「この金の魔法具を持っていた少年は、剣さまと外見だけが同じで、中身はまったく別の人間だった。それは戦っている時に、はっきりとわかっていたことだし」

「……やはりそうか」

 ユーリ・オルーラはいつかの時点で、多分連合王国を席巻しはじめる少し前に、レーリアによって俺と同じ姿形に変えられたのだ。

「月神といえども、剣さまの中身まで複製することはできないんじゃないかな。よくわからないんだよ。……剣さまの中にあるものに触れることができないんだ……」

「……!」

 イシュルは視線鋭くヨーランシェを見つめた。

 それは……。

「イヴェダさまも同じなのさ。だから剣さまのことをとても気にかけている……」

 ヨーランシェはその笑みのまま言った。

 彼の韜晦。彼が笑みを向けてくるその先にあるもの。

 それが何か、わかったような気がした。俺という存在の先にあるもの、俺が背負った前世のもの。

 彼らが見ることのできない、触れることができないもの……。

「月神が何を考えているかわからないけど、あの神はこんなことをやってでも、剣さまのことが知りたいのかもね。剣さまを惑わし、怒らせて、剣さまが心の中をさらけ出すのを待ち構えているのかな。じっと観察しているのかも」

 観察、か。……それは主神、ヘレスの態度そのものではないか。

 ヨーランシェの発言は俺の考えていたこととほぼ合致する。

 それなら……。

「でもこれだけは覚えておいて」

 そこでヨーランシェはまっさらな笑顔を向けてきた。

「イヴェダさまも、ぼくらも、どんなことがあっても剣さまの味方だよ」

 


「そろそろぼくは去らねばならない。剣さまも疲れてるでしょ? ほんとはもう少し、剣さまを守ってあげたいんだけど」

「あ、ああ。ヨーランシェ、ごめん。苦労をかけた」

 大精霊の弓使い。彼の奮戦がなければ、彼が時間を稼いでくれなかったら、俺はユーリに勝てなかったかもしれない。

「南の方から、きみを想っている少女たちが、味方のこの王国の人間たちが近づいてきている。敵の騎士たちは全滅したみたいだね。だから心配しないで」

 ヨーランシェは丘の緩やかに連なる草原の南の方を見て言った。

「ありがとう、ヨーランシェ」

 イシュルも南の王都の方を見た。

 丘の右手に見える街道は大小のクレーターにところどころ寸断され、靄の中に消えている。近くに民家や立木は見えないが、もしあったとしても、あの戦いで跡形もなく吹き飛ばされているだろう。今は、西の空に連なる北ブレクタス山脈も霧に隠れ、その峻厳な山並みは見えない。

 静かで、人も馬も、大きな生き物の気配は何もない。

「またね、剣さま」

「ああ、またいつか、必ず呼ぶ」

 ヨーランシェは静かな微笑みを湛えたまま、霧の中に消えていった。

 さすがの風の大精霊も、金の魔法具相手には力を使い果たしたのか。

 風の魔法具を介して召喚されたとしても、彼自身が魔力を失えば、この人の世を去らねばならない。無理に居続けても意味はない。

 赤帝龍との一戦ではカルリルトスも、途中で異界へ還ることになった。

 彼は赤帝龍の発現した火神の炎環結界を打ち破って、その力を使い果たしてしまったのだ。

 イシュルはヨーランシェの消えた灰色の霧をぼんやりと見やった。

 ……結局、ヨーランシェの韜晦を、仮面を引き剥がずことはできなかった。

 ヘンリクのそれを、ユーリ・オルーラの鉄仮面を引き裂くことはできても、彼のそれを打ち破ることはできなかった。

 だが彼の不可思議の笑みの理由を、その一端は理解できたような気がする。

 俺の抱える秘密。精霊も、神々でさえ知ることができないもの。

 月の女神レーリアが俺に手を出してくる理由。

 こんな醜悪な児戯で俺をいたぶってくるその魂胆。

 やつはただ俺をおもちゃにしているだけじゃない。この玩具を壊せば何が出てくるか、それが見たくて知りたくて、遊んでいるのだ。

 いや。知りたくて、見たくて必死なのかもしれない。

 俺を殺すのは簡単だが、それでは見たいものが失われてしまう。

 だから神の魔法具を与え、すべて揃えさせて、他の神々の揃う儀式の場で、あらためて俺と相見えようとしているのかもしれない……。

「ふふ」

 だがやつに教えてなどやるものか、見せてなどやるものか。

 おまえこそは俺が滅ぼしてやる。

 たとえ太陽神に次ぐ位置にある運命の神であろうと。

 今は絶対に勝つ見込みがなくとも。

 風と火、水、地、金。

 五つの魔法具を揃えても、それでも勝てないかもしれない存在。

 だが俺は、あの女神に勝つ可能性に気づいたのだ。

 神々が触れることができない俺の中の前世の記憶。前世の、俺自身……。

 そしてニナが示したこの世界の人間の可能性。

 きっとそれらのことに、月神を屈服させる何かが、手がかりとなるものが隠されているのに違いない。

 イシュルは視線を下に、白霜の上に横たわるユーリ・オルーラの死体を見つめた。

 俺も死んだらこんな風になるのか。

「これこそ、冥府の神でもあるレーリアの真骨頂だな」

 イシュルは薄く笑うとすぐに顔を引き締め、厳しい表情を浮かべた。

 ……ユーリ・オルーラ。

「おまえは本当は、どんなやつだったんだ?」



 イシュルはユーリの遺体に背を向けると丘上から下っていった。

 周囲はふたりの戦った跡、大小のクレーターや鉄片が散らばり、吹き上げられた土砂で埋まっていたが、それでも所々に朝に降りた霜がまだ残っていた。

 霧で狭い視界に草木は一切見えず、辺りは静寂に覆われ荒涼としていた。

 イシュルが丘を降りると、背後で風の魔力が煌めき、巨大な爆発が起こった。

 丘の上のユーリ・オルーラの死体も大小の鉄の欠片も、すべてが塵となって爆煙の中に消えた。丘陵も丸ごと吹き飛び、消えてしまった。





 イシュルは全身の疲労感と痛みに耐え、ゆっくりと街道を南に下って行った。

 王都街道は先ほどの戦闘に所々寸断され、イシュルはその度に道からそれて迂回し、あるいは跳躍して窪みを飛び越えた。

 途中、街道脇を流れる小川で血を落とし、腰を下ろして水筒から水を飲み、コートの内ポケットから小袋を取り出して炒った豆を口にした。ベルトに吊るしておいた干し肉の入った袋は無くなっていた。

 少しの間だが身体を休め、イシュルはわずかながら疲労を回復し、街道に復帰して南下を続けた。

 天気は相変わらずで、辺りは霧が立ち込め、空の上方も曇っているようだ。

 ……今はどこら辺だろうか。

 ユーリ・オルーラと戦いに入ったのはラディス王国軍が陣を敷いたやや南、もう半刻(一時間)ほども歩けば、街道の西側にケフォル村の集落が見えてくる筈だ。

 俺が風の魔力の塊をぶつけ、ユーリが自軍の騎馬隊から単騎で分かれ向かってきた辺りだ。

「ん?」

 前方に目を凝らしたイシュルの眸に、道端に座り込む人影が見えた。

 小さな、頼りなげな人の姿は緩やかに起伏する街道の、一旦下りまた登りはじめた辺りに見える。

 近郊の農民だろうか。怪我しているのだろうか。

 イシュルはわずかに歩を早め、前方を凝視しながら街道を進んだ。

「馬……」

 その人影に近づくと、その者の座りこんだ先に黒い馬が倒れていた。

 イシュルは一瞬、どきりとして眸を細めた。道端に倒れた黒毛の馬はシュバルラードに似ていた。

 ……馬鎧はつけていないが、あれは軍馬だ……。

 倒れた馬は、引き締まったサラブレットのような馬体をしている。

 さらに近づくと、馬の前に座り込んだ人の姿もはっきりとしてきた。

 丘上を這う霧は速度を早め、徐々に晴れつつある。

 微かに差した陽光に、銀色に光る男の背中。

 鎧をつけた兵士……。連合王国、オルーラ大公国の騎士だ。

「……」

 イシュルは男にさらに近づくと、わずかに顔を歪めてそのうち萎れた姿を見やった。

「あんたの愛馬か」

 イシュルは男からやや距離を置いて立ち止まり、静かに声をかけた。

 辺りは誰もいない。音がしない。

「……」

 男は肩を落とし、死んだ馬を見つめて身じろぎひとつしない。

 イシュルもそれ以上は何も言わず、無言で男の横顔を見つめた。

 騎兵が愛馬を失う。それがどれほどのことか。

 もしその馬が幼い頃から面倒をみてきた、長く戦場をともにしてきた特別な存在であったなら。

 その者は大切な戦友を失った、さらに重い痛苦に襲われるだろう。

 誰かから聞いた憶えがある。愛馬の死には百戦錬磨のむくつけき騎士どもも、なりふり構わず嘆き哀しむと。

 イシュルは視線を黒毛の馬に向けた。

 地に伏した馬は腹部に鉄片が突き刺さり、夥しく出血している。

 彼らは、後方から追撃してきたドミルたちから唯一生き残り、このあたりまで逃げおおせてきたのだろうか。

「ユーリさまは身罷られたか」

 男は視線を愛馬に落としたまま、ずいぶんと長い間をあけて言った。

 しわがれた野太い声だった。

「ああ」

 男はイシュルに視線を向けてこない。

 男は黙したままその後何も語らず、ただ己の思念に沈んでいるように見えた。

 ……こいつも傷を負っているな。

 イシュルの立つ側からはそうは見えない。

「……」

 イシュルも無言でその男の背後を通り過ぎた。

 男は何の反応も示さなかった。

 通り過ぎて後ろを振り向くと、男の左腕が無くなっていた。

 イシュルは前に向き直り、二度と再び振り返らなかった。

 ただ土を踏む音だけがする。

 蹲(うずくま)る騎士と倒れた馬の姿が、揺れ動く霧の中に消えていった。





 どれほど歩いたろうか。

 イシュルは人気のない街道を、頼りなげな足取りで延々と歩んでいく。

 全身の疲労と傷口の痛みは相変わらず、そこに徐々に虚脱感が増しつつある。

 霧は徐々に晴れ、雲も山の方へ退いていく。

 雲間にちらつく薄い陽光は西に傾きつつある。からだが弱っている。気温の急激に下がる夜になる前に、ドミルらと合流しなければならない。

 だから休むわけにはいかない。少しでも歩を進めなければならない。

 魔法を使う精神力、気力は失われつつある。僅かな余力は万が一のために残しておかねばならない。

 新たな精霊を召喚すれば、空に上がって飛行すれば、それは完全に失われてしまうかもしれない。

「……」

 ひとり黙々と歩くうちに、イシュルは朦朧とし自らの意識を手放した。

 やがて、夢の中を歩いているような浮遊感に自らの肉体も消えていく。

 灰色にくすむ大地。

 行く手に仮面をかぶった男が現れた。

「……」

 イシュルは夢の中で皮肉な笑みを浮かべる。

 ユーリか。さっき殺したからな。夢の中に出てきたのか。

 だが近づいてみれば、その男はユーリのものとは違う仮面をつけていた。

 同じ灰色の金属の、だが顔面をすべて覆う大きな仮面。目も鼻も口もすべてが塞がれている。

 イシュルは手を伸ばしその仮面を剥ぎ取った。

「!!」

 仮面を取るとその男の顔は何もない、真っ黒な空洞だった。

 その暗い底を、何かが無数に蠢(うごめ)いている。

 イシュルはその空洞の中に両手を突っ込んだ。

「ああ……」

 暗闇に手を突き入れてみれば、それは己の、自分自身の顔だった。

 仮面の奥にあった虚無は自分自身だった。

 いや。……そんな筈はない。

 手をさらに奥へと突き入れ、黒く蠢くものをとらえようとする。

「!」

 それに触れた瞬間、イシュルは自分の頭が顔から吹っ飛び、やがて全身が霧散するのを感じた。

 自分が消えると、その灰色の地平も崩れさった。

 周りは……。

 異界だ。あの時、赤帝龍と戦った時、初めて到達した空間……。

 だがここは、以前の風の世界とは少し違っている。

 辺りを遠く、近く渦巻く力の奔流。目の前の緩やかなさざ波。

 そして力の流れに翻弄され微かに震える、無数の連続し、断続する蓄積された結晶。

 ここは結晶の世界か。

「……」

 イシュルはあの時のようにまた、子供のように笑ってその結晶を成す、一つひとつの粒子の継ぎ手に指先を挿し入れた。

 すると周りに広がる結晶が、高い音を奏でて崩れ、吹き飛んだ。

 一部はすぐにまた結晶化し、流動する無数の粒子とともに踊るように辺りを運動し続ける。

「……」

 イシュルはうれしくて、大きな声を出して笑い続けた。

 風の精霊界、異界と同じ。でも少し違う。

 そこは金の魔力のたゆたう結晶世界だ。なかば形而上にある、金神ヴィロドの一部でもあろう。

 彼は何もイシュルに語りかけてはくれない。

 でもその世界は祝福に満ちているように思えた。

 ……イシュルには。

 


 空を流れる薄雲が黒い影を引きずり、あるいは夕日を浴びて紅く輝いている。

 東には草原が、遠く森林が。西には丘向こうに小さな集落が、その先に山並みが、ブレクタスの山並みが見える。

 気がつくと、イシュルは先ほどの道に立っていた。

 あれは果たして己の、全ての闇を、虚無を超えた先にあったのか。

 二度目はすぐだった。

 すぐあの異界にたどりついた。

「ああ……」

 イシュルは周りを見渡し、新しい存在を、感覚を得た。

 街道の先を、近づいてくるものがある。

 多数の金属の構造物が揺れている。

 山野には、そこかしこに大小の微かな結晶の存在。

 風の流れ、その中に空気が揺れ、金属の結晶──金属の固体の存在を、イシュルにはそのように「感じ」られた──が振動する。彼らが街道を進んでくる。

 ミラはまだシャルカとの合体を解いていない。

 なるほどあれは、単に凶暴なほどに強い魔力ではない。よく整えられた魔力だ。だからそれだけの力を発揮する。

 視界を超え、五感の先に広がる新たな地平、世界。

 神の魔法具を手にしていくこと。その真実……。

 それは世界を再構築していくかのような、心弾むまほろびか。

 街道の南の、丘の先に無数の魔力の煌めきが起こると、どこで集めたものか、馬に乗ったドミルたちの姿が見えた。

「イシュル!」

「イシュルさま!」

 リフィアとミラの叫び声がする。

「イシュルさん!」

 あれはニナの声。……ん。それにロミールの声?

 彼らは王都まで引き返してきたのか。だからみな馬に乗っているのか。

 イシュルは街道の先に立ちのぼる土煙を見つめた。

 足許から伝わる、力強い馬蹄の響き。

 ……俺は還ってきた。死の淵から。

 だから今は祝おう、自分自身を、彼らを。

 イシュルは右手を高く掲げて、「手」をあの世界の果てにまで伸ばした。

 折り重なる結晶世界の果てに存在するもの。

 本来は多くの精神力を、魔力を必要とするその頂点にあるものが、なぜか今は簡単に「手にする」ことができる。

 今ひとたびは。

 イシュルは世界に微かに干渉し、変化を求めた。

 雲間に黄金に輝く魔力の閃光が走った。

 リフィアたちが馬から降り、イシュルに向かって駆けてくる。

 彼女たちの周りを、その後ろに馬上で佇むドミルたちの周囲を、金色に光り輝く粒子がきらきらと舞った。

 本物の金、純金の細片が空を舞う。

「……」

 リフィアが、ミラが、ニナが、当惑して立ち止まり、手のひらを広げて見つめる。顔を上げ、首をせわしなく左右に振って辺りを見る。

 両目を見開き驚くニナ。

 両目に涙をたたえるリフィア。

 うっとりとした顔になって、胸の前で両手を握りしめるミラ。

 彼女たちの後ろからロミールが飛び出し向かってくる。

「ふふ」

 イシュルが笑った。

 みなが笑顔になった。

 イシュルは金色の輝きを地上に降らせた。

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