霜雪の丘 1


 …… よく頑張ったな。イシュル。

 誰かが頬をなぜる。

 ああ。リフィアか。

 患部が燃え、炎となって全身を嘗めまわす。

 皮膚が捲(まく)れむき出しになった全身の痛覚が、粉々に切り裂かれるような痛みだ。

 激痛に疲弊した心に遠く、甘い囁きが降ってくる。

 たぶん、左右の頬を手のひらで包まれている。

 熱い痛みに、もっと熱い吐息が混ざり合う。

 唇に触れるもの。

 ……そんな。

 なんでこんな時に。

 


「イシュル!」

「うっ」

 ……痛い。 

 あれは夢か。気づくとリフイアの胸に顔を、頭を抱きかかえられていた。

 彼女の鎖帷子(チェーンメイル) がざらざらと、肌を刺してくる。

「ああ……、よかった。目がぼーっとして、意識が朦朧としているみたいだったから、心配だったんだ」

 珍しく、リフィアの頬が紅く染まっている。彼女の眸が濡れている。

 だがしかし。

 痛いっ。 痛いよ! 手を離せ! からだを揺らすな。

 ……しかもだ。

「う〜、う〜」

 なんでまた口に布切れが突っ込まれてるんだ?

 あれは、やっぱり夢?

「ああ、もうこれはいいな」

 なぜか目をそらして、リフィアが口にかまされた布切れの塊を取ってくれる。

 血まみれだった筈の彼女の手は、いつの間に洗ったのか、染みひとつなくきれいだ。

「だらしないぞ。男だろ? これくらいで」

 リフィアが温かい微笑を浮かべて言ってくる。

 彼女はわざと、少しだけ怒って見せている。恥ずかしげに。

「左腕の方は縫っておいた。脇腹の方の傷は内臓まで達していないが、少し肉が削げ落とされている。まだ血は完全に止まってない。ほんの少しだけど、オバコの葉の粉末を持っていたから塗っておいた」

「ああ、ありがとう」

 オバコというのは、切り傷、止血に使われる薬草だ。菊によく似た花を咲かす。前世にも同じものがあったか、それは知らない。大陸では旅に出るときや、魔獣狩りでもみな持っていく、わりとメジャーな薬草だ。

 今まで運がよかったのか、転生してからこれほどの怪我を負ったことがなかった。麻酔の類いは何もないし、痛みは存外にきつかった。

 何よりその痛みが、リフィアに治療してもらっても変わらずにずっと続いているのがこたえる。

 あの金の大精霊の最後の一撃は、俺の左腕と脇腹の間を抜けていった。俺自身がうまく躱せたからというよりも、あの地中から発動した水の魔法で、体勢を崩していたのがよかった。そこまではいくら金の大精霊でも、予想がつかなかったのだろう。

 もちろん、あの水魔法のせいで風の剣を抜けなかった痛恨事は、まったく別の問題だが。

 しかし……。

「……」

 リフィアが俺の頭を抱きしめ、離してくれない。

 肩から持ち上げられて、特に左腕の痛みが倍増している。

「リフィア、痛いよ。離してくれ」

「え、そうだな」

「……うっ」

 だが彼女は言葉とは裏腹に、俺をより強く抱きしめてくる。

「覚悟しているつもりだったのに……。かわれるものなら、わたしがイシュルの代わりに怪我すればよかった。その方がよほど楽だ」

「リフィア……」

 彼女の涙が俺の頬に落ちてくる。

「危険なことはやめてくれ、と言えないのが何よりつらい。わたしの力が足りないのが何よりつらい」

 リフイアが上から、涙に潤んだ眸で見つめてくる。

「イシュル」

 リフイアは片手をイシュルから離し、指先を自身の唇に触れた。

「わたしの唇……。憶えているか」

 震える声。これ以上はない可憐な囁き。彼女が羞恥に頬を染めている。

「リフイア……」

 この瞬間だけは、傷の痛みもどこかに消し飛ぶ。イシュルは真剣な顔になってリフィアを見つめた。

「……」

 ふたりは無言で距離を縮めていく。

 リフィアはもう目を瞑っている。彼女の唇が薄く開かれ、甘い吐息が溢れる。

 ……おっ。

 イシュルの視線がリフィアから逸らされた。

「むっ」

 リフィアが不満気な、露骨に残念そうな顔になる。

 彼女ももう気づいている。

 家の裏手だろうか。ひとが近寄ってくる気配。リフィアが現れた廊下の方から、複数の足音が響いてくる。

「イシュルさま! ニナさんを連れてきましたわよ!」

「イシュルさん!」

 灰色の壁の奥からミラが、ニナが顔を出した。

「……」

 カチリ、と黄金に輝く魔法の甲冑を鳴らして、ミラが鋭い視線をイシュルに、いや、リフィアに向ける。

「何をしているんです? リフィアさん」

「ん? イシュルの手当をしているのだ」

 凍えるような視線を向けてくるミラに、リフィアは柔らかな微笑で受け流す。

「イシュルさまは頭は怪我していませんでしょう。リフィアさんはお忘れかしら」

「いや。忘れてはいない」

 リフィアはかぶりを振って答えた。

 ……その、「お忘れですか」とはいったい何?

 声が、声が冷たすぎるよ、ミラ……。

「イシュルがだいぶ苦しそうなのでな、こうして慰めていたのだ」

「ふん。今がどういう状況かわかっていますの? リフィアさん」 

「だから、だ」

「ちょっ、ちょっと、ふたりとも」

 リフィアが引かない。俺の頭を離さない……。

 いつもはおおらかなミラも、険悪さを隠さない。

 イシュルの小さな声は、今のふたりには届かない。

 ふたりとも気が立っているんだ……。

 そりゃそうだ。

 ミラの言うとおりだ。早く争闘の場に再び、赴かねばならない。

 ──手足が動く。

 治療中に縛られていた両手両足は、もう解かれている。

 とにかく、リフィアに頭を降ろしてもらわないと……。 

 イシュルは右手をあげてリフィアの背中を叩いた。

「ふたりとも、やめるんだ……」

 イシュルの声が小さく、弱々しい。

「イシュルさま! 大丈夫ですか?」

 イシュルの弱々しい声に驚き、ミラが抱きついてくる。いや、イシュルを抱えて離さないリフィアに、業を煮やしたか。

「おいたわしや、イシュルさま」

 ミラがイシュルの胸に取りついて、半泣きで叫んでくる。

 ……ち、ちょっと。揺らさないで。痛い、痛い……。

 しかし「おいたわしや」とは、なんて古典的な。

「あっ、あの」

 ほとんど修羅場と化したイシュルたちに、ニナが顔を青くして動揺している。

「……」

 イシュルはニナに目で訴えた。

「ニナ、頼む。時間がない」

「はい」

 ニナもイシュルに飛びついてくる。

「リフィア、俺の頭を下ろして離れろ。ミラもだ」

 イシュルは低い声で言った。

 ふたりの気持ちはわかる。だが今はそんなヒマはない。

「ごめんなさい、イシュルさま」

「……」

 ミラは素直に、リフィアは硬い表情でイシュルの頭を降ろし離れる。

 イシュルはそんなリフィアの顔を見上げた。

 ……彼女は俺を治療している間に何か、感きわまってしまったんだろう。

 それは何だろうか。

 庇護欲? 母性本能みたいなものを、刺激されたんだろうか。

 もしそうならちょっとくすぐったい、そんな気分なんだが……。

「ではイシュルさん、はじめますね」

 ニナがイシュルの左手を握ってきた。

 ニナの手が冷たい。

 俺は熱が出ているんだな。

 イシュルは自身の体温を自覚した。ニナはイシュルの左手を両手で握って目を瞑った。

 患部は触らない。昨晩と同じ、特に呪文も唱えずひたすら意識を集中しているようだ。

「……!!」

 心臓が一度だけ不自然な鼓動を打ち、手足の先がぶるぶると震える。

 左手を握るニナの手許を見ると、昨日には見えなかった薄い水色の魔力が光っている。彼女は明らかに、昨夜より強い魔力を使おうとしている。

 からだの中を波のような揺らぎが、ゆっくりと通りすぎていく……。

 イシュルの双眸は夢見るような柔らかい光を宿した。

 何も考えられない……。

 気だるい恍惚感に意識が沈んでいく。

 やがて患部を中心に、全身が異様な熱に包まれた。

「ぐっ」

 不自然な吐き気に襲われ、それを堪える。

 だが不快感はそれほどでもない。未経験の異質な発熱の中にあっても、心はむしろ安定し、落ち着いた気分だ。

 何かはっきりしない、散り散りになった過去の記憶の残滓。それが意識の境界を浮遊している。

 明るい太陽の、何かのせせらぎに踊る光の切れ端……。

 それが心の底に溶けていく。

 けらけらと、天使のように笑う少女の声がすぐ横を駆けていく。

 何だろうか。失われた、忘れてしまったもの。

 ……待ってくれ。

 手を伸ばすとその先に、俺の手を握ったニナの顔があった。

「……」

「どうですか? イシュルさん」

 惚けてぼんやりとしているイシュルに、ニナが声をかけた。

「ああ、……だいぶいい」

 全身に残る熱と痺れ、気だるさ。だが、気分は爽快で疲労感が消えている。

 患部の痛みは消えていないが、先ほどまでと比べれば大したことはない。

「ふむ、傷口を見てみよう。ミラ殿は腹の方を見てくれ」

 リフィアがイシュルの左手をとって、包帯替わりに巻きつけていた布を剥がしていく。

 ミラが「わかりましたわ」と言って、イシュルの腹部に巻かれた布切れを外していく。

 イシュルは背中を少し浮かして、ミラが布を剥がしやすいようにした。

 背中から腹にかけて力を入れても、激痛はない。ふつうに耐えられるほどの痛さだ。

「おお」

「まぁ」

 リフィアもミラも、患部の布を巻き取ると驚きの声をあげた。

「もうしっかり塞がっているな。抜糸もできそうだ。凄いな……」

「お腹の方も、はっきりと肉が盛り上がってきていますわね。出血も止まっていますし、化膿もしてないですわ。完治するにはまだ日にちがかかりそうですけど」

「ほんとに凄い……」

 二の腕の内側の傷は、横になっているイシュルからも見ることができた。

 傷口は肉が盛り上がり、完全に塞がっているように見える。もちろん出血もしていない。

「あの、でも、半日ほど経つと揺り返しが来ると思います。からだがだるくなって、お腹がとても空くと思います」

「ああ、だろうな」

 よくわからないが、患部の細胞の再生を異常に早め、全身の新陳代謝を活性化したり、免疫力を上げたりしているのだろう。

 それは当然、どこかで反動が来るだろう。

 だからその前に、ユーリ・オルーラを斃さなければならない。

「ニナ、ありがとう。素晴らしい魔法だ」

 イシュルは何事もなかったようにからだを起し、チェストの上に腰掛けた。

 当然傷が完治したわけではないし、まだ痛みはあるが、これなら充分に戦える。

 腹部の傷はまた出血するかもしれないが、そんなことは後でどうにでもなる。

「ほんとうに素晴らしいですわ。ニナさん」

「うむ。わたしも感動した。治癒魔法に匹敵する、これは新しい魔法だな」

 ミラとリフィアも感動を口にする。

「い、いえ……」

 ニナが頬を染めて恥ずかしそうにする。

 ……彼女もうれしそうだ。

 イシュルはニナに優しい、それだけではない、不思議な色をたたえた眸を向けた。

 そう、彼女は凄いことをやってのけたのだ。

 俺の教えた魔法は人間や魔獣だけではない、草木からも水分を外部に強制的に排出させてしまう魔法、攻撃魔法だ。うまく使えば証拠も残りにくい、暗殺に適した殺人魔法でもある。

 後で本人から詳しく聞かせてもらうにしても、その魔法の修行の過程で、おそらくニナは人体の生理に、動植物の生命維持に、水が重要な働きをしていることに気づいたのだろう。

 彼女はそれを身の回りの様々な生命を通じて感じ取り、独自にその働きの深奥を探っていったに違いない。

 ニナが見た、命を潤す水の流れ。煌めき……。

「……」

 イシュルは顔を俯かせ、両目をごしごしと擦った。

 ……ニナの、ひとりの少女の、人間の可能性。

 それは世界が違おうと、時代が違おうと、何も変わることはない。

 人はやはり偉大なのだった。

 俺は攻撃魔法を、殺しの魔法を教えたのに。

 ニナはそこから命を救う、再生の魔法を見出したのだった。

 ……この不思議な魔法のある世界で。

 俺はまたひとつ、人間の輝きに触れたのだ。

 このことは俺にとって決して些細な、小さなことではない。

 俺は前世の知識を魔法に織り込むことで、この世界の人々からすれば新しい風の魔法を、その可能性を示したのかもしれない。

 だが、ニナのこの治癒魔法は彼女が、この世界の人間が生み出したものだ。

 自分のことだけじゃない。

 ちょっと後押しするだけで、この世界に変革をもたらすことができるのだ……。

 神々はこのことをどこまで知っているだろう。

 彼らはこのことを許すだろうか。見過ごすだろうか。

 大聖堂の主神の間で、イヴェダは俺の使う魔法に惹かれている、というようなことを言った。

 俺の魔法が神々を惹きつけるというのなら。

 それなら。

 俺の魔法は、そしてニナの魔法は、ひと筋の小さな希望となりえる……。

 心のうちにメリリャに化けた、月神の姿が浮かんだ。

「ありがとう、ニナ」

 イシュルは誰にも聞こえない小さな声で呟くと、顔を上げて立ち上がり、ニナに、そしてミラとリフィアに、透き通るような微笑を向けた。



 リフィアたちに導かれ民家の裏口から外へ出ると、そこはイシュルには見慣れた光景が広がっていた。

 薄汚れた洋漆喰の壁に、家々に囲まれた小さな広場。真ん中あたりに井戸がある。すぐ横には木箱や樽、巻かれた布や縄の束。だいぶ急いで逃げたのか、井戸の奥に素焼きの壷が転がっている。その右奥の表通りに出る小道には、車軸が折れ、傾いた荷車が放置されていた。

 赤や茶色の、屋根の重なりの上には薄く曇った空が見える。

 頬に当たる微風がどこからか、様々なものの焼ける、焦げついた異臭を運んでくる。

 火事の匂いだ。

 家々の間に、北と東の方に、丘の稜線がわずかに垣間見える。

 ここには魔力の煌めきも見えず、戦いの音も聞こえてこない。

 微かな火の匂いと無人の家々だけが、何かの異変を伝えてくる。

 それだけだ。

「……」

 ふとイシュルは王都に滞在していたであろう、シエラのことを思った。 

 彼女は無事逃げることができただろうか。それとも、もうすでにエリスタールに帰っているのなら、何も心配する必要はないのだが……。

「風の大精霊さまと魔導師の方々は、お城の北門の辺りで敵と戦っていますわ」

 ミラの声が横から聞こえてきた。目を向けると、彼女は物憂げに西北の空の方を見つめている。

 パオラ・ピエルカの放った水の大魔法はその後、ユーリ・オルーラの強力な金の魔力に阻まれ、完全に発現する前に消滅してしまった。だが、城門付近に集められた敵軍の馬、守備についていた騎士たちは、ヨーランシェが金の大精霊に放った魔法に巻き込まれ、大きな打撃を受けたらしい。

「オルーラ大公に隙を与えると、また強力な精霊を召喚されるかもしれません。もし、再び大精霊を召喚されると、今の状況では大変なことになりますわ」

 ミラが青い宝石のような眸を煌めかせ、イシュルに顔を向けてきた。

 緊張と不安を宿らせた眸の色だ。

「わかった」

 イシュルはミラの不安そうな顔に、しっかりと頷いてみせた。

 基本的には召喚した精霊が倒されると、通常の魔法具では新たな精霊をすぐ召喚することはできなくなる。あるいはかなり位階の下がった、弱い精霊しか呼び出せなくなる。

 契約精霊を倒された場合も、しばらくの間契約者との接続が切れ、こちら側に姿を現わすことができなくなる。

 だが神の魔法具はその限りではない、ということなのだろう。

 レニ、イヴェダの見せたくれた特大の魔導書には、精霊に関する記述がほとんどなかった。

 最初の、概論の書かれた文章に簡単な説明があっただけだ。

 あの魔導書には精霊とその召喚に関する説明が、意図的に省かれていた可能性がある。

 ただそれは、何かを隠す必要があったから、というよりは俺に教える必要はない、と判断したからなのかもしれない。

 クラウは俺が精霊を召喚するときは、常に俺の願うとおりの精霊が呼び出される、と教えてくれた。主神の間に降臨したイヴェダは、「なぜわたしを呼ばぬ」と言った。

 であれば精霊の召喚に関して他に、いったい何を教わる必要があるのか。

 ……とは言っても、実はまだいろいろと、知りたいことはたくさんあるんだが。

 とにかく神の魔法具はまた、他の魔法具とは次元の異なるものである。連続して強力な精霊を呼び出すことも可能なのだろう。

 俺には今までそういった場面はほとんどなかったが、どのみち精霊の召喚には集中力が、呪文詠唱が必要なのだ。戦闘中なら、それが激しいものならなおさら、新たな精霊を呼び出す余裕などない。

 ドミルたち、そしてヨーランシェが攻撃を続けているのも、ユーリ・オルーラに新たな精霊を召喚されるのを避けるため、ということがその理由のひとつであろう。

「俺はここから、北へ向かって一直線に飛ぶ」

 イシュルはミラに、そしてリフィア、ニナへ見回し言った。

「上昇し、速度を上げながら街の火を消し、敵に魔法を撃つ。敵を北へ引っ張りあげるから」

 イシュルは視線を厳しくした。

「適度に距離を置いて、高いところに登らないようにしてくれ」

 そしてにやりと笑みを浮かべた。

「風の剣を放つからな。巻き込まれないようにしろ」

 薄雲の流れる空を見上げる。

「この空を風の魔力の光芒が閃いたら、北に向かってくれ」

「あの、イシュルさん」

 ニナがイシュルに縋りつくようにして言ってきた。

「師匠が、パオラ先生が、邪魔してごめんなさいと、後でお詫びに……」

「わかった」

 イシュルはニナの言を遮り笑顔で頷いてみせた。

 そのことは今はどうでもいい。

 俺は彼女のように、王国のために戦っているわけじゃない。それだけのために戦っているわけじゃない。

 一番の理由はもちろん、やつの金の魔法具を我がものとするためだ。

「じゃあな」

 イシュルは言うが早いか、脇目も振らず飛び上がった。

「イシュル!」

「イシュルさま、気をつけて!」

「頑張ってください!」

 後ろからリフィアたちの叫ぶ声が聞こえ、消えていく。

 もう姿を隠す必要はない。

 ありったけの魔力を異界から引きつけ、身に纏った。

 大空に躍り上る。



 視界いっぱいに広がる王都のパノラマ。丘の連なりに、広がる街並み。

 左手の方から立ち上る黒煙が、東から吹く微風にわずかに西にたなびいている。

 大きな火災は今はその一箇所だけだ。

 イシュルは北西へ、王都の北側目指してゆるいカーブを描きながら上昇していく。

 そして風の魔力を下ろし、紅く燃え立つ街並みにぶつけた。

 重い灰色の爆煙が上がり、遅れて轟音が響いてくる。

 イシュルは火災の起きている一画を丸ごと、風の魔力で押す潰し地面まで抉った。

 周囲を覆う煙の底に、炎が完全に消えてなくなったのがわかる。

 丘陵の間に広がる王都の街はヨーランシェの報告どおり、家々の焼けてしまったところと、残ったところが斑になっている。

 黒と灰色に染まった瓦礫の広がる区域は、丘で遮られ、道や川で遮られ、あるいは風向きでそのところを変えていた。

 王城の丘はすぐ、正面やや左側に姿を現した。その北西に、微かに魔力の煌めきが起きている。

 風に金、水や無系統の魔力が光っては消え、それを繰り返している。

「……」

 イシュルは速度を上げ、自身の周りだけでなく、より広い範囲に風の魔力を充満させた。

 血と鉄と炎の匂いも、王都を吹く風ももう、幾層もの風の魔力の先端で吹き飛ばされ、イシュルには届かない。

 ……今俺の周りには、ただ清浄な風の流れがあるだけだ。

 上昇するにつれ視界が広がっていく。もう少しで、王都全域を俯瞰できるような高度に達する。

 その時、眼下を東から西へ、地を這うような風の光弾が駆け抜けた。

 ほとんど同時に、城北の街中に突然、鉄の壁が立ち上がった。鈍く光る壁が風の矢を跳ね飛ばす。

 だがその時にはもう、今度は北西の丘の向こうから、新たな風の矢が射たれている。

 再び鉄の壁が立ち上がり、風の矢が激突、跳ね返した。

 周辺は爆煙に覆われ、爆風に巻き込まれた街の家々が瓦礫となって吹き飛ばされる。

 ……ヨーランシェだ。やつはうまく戦っている。

 そこにちらちらと水の魔法が煌めき、水煙が黒煙に混ざり合う。

 水魔法はパオラ・ピエルカのものか。

 そして漆黒の魔力が敵の周囲を覆う。もうもうと煙る街角に、ドーム状の真っ黒な空間が生まれた。だがそれも、瞬く間に金の魔力に食い破られる。

 あれは魔封陣だ。闇の魔法はドミル・フルシーク……。

 なるほど、あんな四方八方から連続攻撃を受けたらたまらない。

 だが相手は金の魔法具持ちだ。

 やつは王都郊外で、決戦に出た国王軍を破ったのだ。本気を出せばドミルやピエルカらなど、一網打尽だろう。ヨーランシェでさえ、今までもっていたかわからない。

「……」

 イシュルは眦(まなじり)を決すると速度を上げ街の北方、争闘の中心に向かった。

 ……ユーリ・オルーラは力を抑えて、魔力を温存しているのだろう。

 戦闘はミラの言った王城北の城門から、街中に移っている。

 やつらは俺とピエルカの奇襲で多くの兵馬を失い、宝物庫の探索をあきらめ、バルスタールへの帰還を急ぐことにしたのだろう。

 すでに王都まで出張(でば)ってきた最大の目的、ラディス国王と王妃、王女を亡き者にしている。

 そして当然、道中で俺との再戦を予期しているだろう。

 やつも、国王だけでなく俺も滅ぼさねばならないのは重々承知している筈だ。

 明け方、己のすぐ目の前で戦いを挑んできた俺と、相対してしまったのだ。風の魔法具を持つ者が、目の前に現れたのだから。

 ……剣さま!

 ヨーランシェの叫声が脳裏に響きわたる。

 ……遅いよ。

 と言いながらも声音は楽しそうだ。まだ余裕がある。

「ふふ、待たせたな」

 イシュルは上昇しながら、二里長(スカール、約1.3km)ほどの距離をとって敵の真横に出る。

「味方の魔導師らに、後方に下がるように伝えられるか」

 ……うん。できる。

 ヨーランシェは直後に「くっ」と唸って、今度は南側から風の矢を放った。

 家々の間に垣間見える敵の騎馬隊はだいぶ数を減らしている。

 百騎もいない。半分の五十騎ほどか。

 そこへ三たび、鉄の壁が立ち上がり風の矢が激突する。

 街路を駆ける騎馬隊を、ひときわ大きな爆煙が包み込む。

 ……ヨーランシェも気合を入れている。

 イシュルはその爆煙に隠れ、敵に近づいていく。

 ……ユーリ・オルーラは俺に気づいている筈だが、まだこちらに攻撃してこない。

 騎馬隊が街区を抜けた。

 数騎ほど数を減らした騎馬の群れは灰色の煙を引きずり、まばらになった家々と木々の間を進んで行く。

 もう少しで北に向かう軍都街道に接続する。

 丘の連なりが消え、周りは収穫の終わった麦畑の黒土が目立つようになってきた。

 もう敵に攻撃を続けているのはヨーランシェだけ。

 ドミルやピアルカたちは追撃をやめたようだ。

 ヨーランシェに託した伝言は、うまく彼らに伝わったらしい。

 ……そろそろだ。

 イシュルは、きつく唇を一文字に引き結ぶと、特大の風の魔力の塊を敵に放り投げた。

 眼下の街道を駆ける騎馬隊、そこへ魔力の塊が落下する。

 周囲の地面がめくれ、大量の土砂が吹き上がる。そして直後に大爆発。

 イシュルは敵軍へ、魔力の塊を解放した。

 西に遠く連なる北ブレクタス山脈、その雪をかぶった白い峰々が爆煙に搔き消される。

 轟音とともに衝撃波がやってくる。びりびりとイシュルの周りの風の魔力の壁が振動する。

「……」

 地上から立ち上る煙の中を、魔力の光が煌めいている。自分のものではない、異質の魔法。

 イシュルは眸を細めてその輝きを見つめた。

 ……ヨーランシェ。

 イシュルは片手をあげてヨーランシェの射撃を止めた。

 黒茶に濁った爆煙が薄れると、クレーターのように抉り獲られた地面から荒々しい鉄の壁が姿を現した。

 大小の無数の凹凸の連続する鉄の壁が、街道の周囲を覆っている。

 その黒々とした醜悪な鉄の塊の中で、多くの騎馬の騒ぐ気配が伝わってくる。

 ……あの整形されていない鉄壁。時間が足りなかったか。

 イシュルはにやりと唇を歪めた。

 この風の魔力を己だけでなく、味方の兵馬も丸ごと防ぐのは、さぞ大変なことだろう。

「ユーリ・オルーラ!」

 イシュルは叫んだ。その声を風に乗せて敵将の許へ運ぶ。

「ついて来い! おまえの金の魔法具を俺によこせ」

 イシュルの声は、彼の周りを覆う風の魔力の壁を突き抜け、街道を覆う醜い鉄の壁を揺らした。

「!!」

 瞬間、身を切るような硬く鋭い金(かね)の魔力が吹き上がる。

「……!……!」

 地上から、言葉にならない獣のような叫声がほとばしった。

「あはは」

 凄い! 今まで感じたことのない強烈な魔力。

 これは赤帝龍とも、マレフィオアとも違う。

 周囲をクレーターで抉られた、その中心に突き出された鉄の壁の覆い。その先端が吹き飛び、眩い金の魔力で覆われた塊が飛び出した。

 金の魔力に輝く物体はクレーターを飛び越え、途切れた街道の伸びるその先に降り立つ。

 金色に輝く馬鎧の騎馬。ひるがえる白いマント。敵の総大将、ユーリ・オルーラだ。

 金の魔力に包まれた彼と騎馬は異様な早さで街道を北へ駆け出した。

「……!」

 何を言っているかはわからない。離れて空中に浮かぶイシュルの許へは届かない。

 ……だが、その怨嗟の声ははっきり聞こえる。

 俺を嘲り、呪い、罵倒しているのだろう。

「ヨーランシェ!」

 イシュルは風の精霊に再び弓を射つよう声をかけると、身を翻してユーリと同じ北へ向かった。

 速度を上げ、高度を上げていく。

 あたりに放射される、ありえないほどの濃密な風の魔力。その流れを断ち切るように浮かびあがる硬く冷たい、熱く鋭い未知の魔法。

「むっ」

 空を飛ぶイシュルのすぐ後方で、獣の吠声のような奇怪な音を放ち、錐のように尖ったたくさんの突起で覆われた鉄の塊が出現する。

 突起で覆われた鉄塊はそのまま落下。だが直後には、イシュルの周囲の何もない空中にその鉄塊が幾つも生み出された。

 だが、どの鉄塊もイシュルのスピードに追いつけず、みな後落していく。

 イシュルはさらに速度を上げる。後方、地上の方を見ると街道を、金の魔力に煌めく敵が追いかけてくる。

 時おり周囲で起きる爆発はヨーランシェの攻撃だろう。

 だがそれはやつに届いていない。金の魔法具を持つ者はその行使するレベルを引き上げた。

 敵の騎馬はさらに速度を上げていく。

 イシュルのすぐ後ろを、尖った鉄塊が次々に現れ地上に落下していく。

「……」

 ……あの鉄塊はユーリの怒りが、殺意が魔力によって具現化したものだろう。

 あの奇妙な鉄の塊。

 空を覆う風の魔力を押しのけ、明滅する金の魔力。

 これは赤帝龍のような凶悪、巨大な化け物とも、大精霊の使う魔法とも違う。

 知識としての概念、想像力と意志、殺意をはらんだ人間の使う魔法だ。

 やがて突起で覆われた鉄塊はイシュルの進路上に、頭上に現れ、落下する途中で爆発し、鋭利な鉄片を叩きつけてきた。

「くくっ」

 イシュルは薄く笑う。

 ……これは予想していたことだ。

 鉄塊を、空中で動かしぶつけようとする、それよりははるかに効率的だ。そんなことをしても手間ばかりかかって、俺を捕捉することなどできはしない。

 それなら予想進路上や上空に広く、ランダムに鉄塊を出現させ、爆発させる方がよほど効果的だ。

 イシュルは爆発の瞬間には横に大きくからだを滑らし、身を翻して上昇に移った。

 ……どのみち飛散した鉄片が、周りに張り巡らせた風の魔力の壁を貫通することはない。それほどの威力はない。

 やつは俺の飛行高度を下げ、できれば地上に降ろしたいのだろう……。だがそうはいかない。

 イシュルはからだを捻り、反転し、不規則な螺旋を描いてさらに高度を上げていく。

 視界の先、北の方に森が焼け、地上を黒く染めた一帯が見えた。

 あれが国王軍と敵軍が戦った戦場跡か。

 視線を大空に向ける。

 太陽が近い。陽は中天にさしかかろうとしている。周辺はイシュルの魔力とユーリの魔力に雲がかき消され、吹き飛ばされている。

 周囲を鉄片が舞い、天地が回転する。

 地平線がゆるく弧を描き、壮大なパノラマが眼下に広がる。それが頭上に、真横にぐるぐると回る。

 ……まずいな。

 身を一旦隠して、必殺の魔法発動にそなえる──それが俺の狙らいだ。手頃な雲が周りに必要なのだ。

 イシュルはを伸ばして雲をつかみ、引き寄せようとする。

 その時だった。

 遥かな高空で未知の巨大な魔力が煌めいた。

 目も眩む魔力の光球が太陽に重なる。

 周りの空が暗く沈んでいく。視界の隅が黒く染まる。

 まずい!

「!!」

 同時にヨーランシェの、声にならない悲鳴が心を貫く。

 歯を噛み締め、両手に渾身の力を込める。

 左腕の傷口が疼く。

 イシュルは頭上に空高く、強力無比な風の魔力を展開した。

 同時に正体不明の魔力の光球が爆発する。

 もうひとつの太陽、それは熱く煮え滾る鉄の塊だった。

 爆発した燃える球体は無数の光線となってイシュルを、視界の届く限りのすべてに降り注いだ。

 奇怪な、得体の知れない悲鳴のような高音が風の魔力の壁を突き抜け、イシュルの耳朶(じだ)を打つ。

 無数の光線はイシュルの張ったドーム状の風の壁に激突した。そして鋭角に折れ曲がり、四方に拡散し地平線の彼方に消えていく。

 熱せられた無数の鉄の弾丸が魔力の壁に突き当たり、弾き返される。その感覚がイシュルの神経を苛み、侵していく。

 このっ!

 異様な擦過音が周囲を覆う中、イシュルは呆然と天を仰いだ。

 凄いじゃないか。

 やつは俺を地上に降ろしたかったんじゃない。

 俺を空高く、天上に誘導していたのだ。

 ……剣さま!!

「くっ」

 イシュルは本能的にからだを横に滑らせ、同時に前方に、濃密な風の魔力の塊を出現させた。

 下方、視界の隅に小さな光が瞬く。

 と、凝縮された魔力に光る鉄の刃が、風の魔力の塊を貫いていく。

 一瞬の隙をついて地上から解き放たれた、必殺の一閃。

 濃密な魔力の渦巻く中を、ネリーの腕輪が微かに反応する。

「ふふ」

 ほんのわずかに引き伸ばされた一瞬の時。イシュルは唇を歪めた。

 ……二重三重に張り巡らされた罠。

 高高度で巨大な魔法を発現し頭上に注意を引きつけ、その隙に鋭く早い魔法を下から放ってきた。俺を高空に誘導する初段から、全てが仕組まれていたのだ。

 だから人間相手は恐い……。

 イシュルはそこですべての魔力を切った。

 そのまま大空に身をゆだねる。そのまま地上へ落下していく。

 眼下に浮かぶ雲に突入する瞬間、丘の上にユーリがひとり、立っているのが見えた。

 その南方に連なる無数の大小のクレーターは、ヨーランシェの攻撃によるものだろう。

 ユーリ・オルーラはいつの間にか、その鎧に金の魔法をかけていた馬を捨て、丘上にひとり陣取り、ヨーランシェの攻撃を防ぎながら俺への攻撃に集中していた。

 視界が白い霧で覆われる。

 イシュルは風の魔力を切ったまま、雲中にその身を隠した。下から吹きつけてくる、強烈な風圧でも目を開けていられるよう、顔面を中心にほんの微かな風の魔力で覆いを形成する。

 ……ヨーランシェ、そろそろ片をつける。全力で頼む。

 イシュルは空中を落下しながら、風の精霊に命令する。

 風の精霊が奮い起つ。彼の勇気がイシュルの心のうちに流れ込んでくる。

 この距離で俺は雲の中。ユーリは魔法を使わない俺の位置を特定できない。

 耳を斬る風切り音に、ヨーランシェの風の矢が爆発する轟音が響いてくる。

 真っ白な視界に、風の魔法と金の魔法の輝きがせわしなく瞬く。

 雲が薄くなる。

 下に抜けると広大なパノラマが視界いっぱいに広がった。

 西方遥か、山脈が北へ走る。風圧に衣服がはためき、からだが揺れる。

 正面、斜め横に浮きあがる丘の上。

 ユーリ・オルーラと思われる人影は、手に持っていた何かを捨て、周りの地面に金の魔力を走らせた。

 捨てたものは刃先の消失した剣だ。さきほどの下方からの奇襲は、あの剣を使ったのだろう。

 ……ヨーラン、はじめるぞ。

 ヨーランシェが頷き、どこかへ遠ざかる気配が伝わってくる。

 イシュルは丘上の中心、金の魔力の輝く光点を見つめると両目を瞑った。

 風よ、──鳴け。

 周りから音が消え、光が消え、世界が消える。

 心が霧散し、その奥底に刻まれた記憶が露出する。

 だから辛く、悲しい。

 ……ただひたすら闇に沈んでいく。

 どれほどの時間が経ったのか、やがて黒く塗りつぶされた暗闇の先に、小さな明かりが灯った。

 傷口が開いたか。全身が軋み、肺腑をえぐられるような苦痛が心を砕く。

「……」

 冷たい。

 目の前にまだ霜の残った、白黒の地面。

 肉体を抉る激痛の下から、さくっと音がなった。霜柱を踏み抜く小気味いい音。

 一瞬、痛みが遠のく。

 前世でも今世でも変わらない、子供の頃の小さな記憶。

 紡がれる記憶。

 ふふ……。

 イシュルは心のうちで笑うと父の剣を握った。

 もう、鞘の中の欠けた刃(やいば)の先に、それが姿を現している。

 遠き記憶を辿るとその先に、あの風が吹いていた。

 ただ遠く、近く、誰にでも、どこにでも吹く風。

 だがその風は誰にも見えない。掴めない。

 イヴェダと俺をのぞいては。

 イシュルは手を伸ばし指先を立てると、そっとその風に触れた。

 今俺は、ユーリの背後にいる。俺もやつに背を向けている。

 剣先を振り向きざま、後ろへ薙ぐ。

「おのれぇええ」 

 瞬間、背中へ吹きつけてくる怨嗟の声。

 殺す。殺す。殺す。よこせ。よこせ。よこせ。俺が、俺が、俺が、俺のもの、俺のもの。すべて、すべてが。

 俺だけが、俺こそが。

 憤怒。怨念。執念。殺意。欲望。……そして、怖れ。

 邪念の嵐が魔力となって、実体化していく。

 そこへ青い光が走った。

 


 視界の片隅に円形の盾が浮いていた。

 黒と銀色の混ざった鉄楯は成形が不完全で、醜く破れた傘のように見えた。

 その破れた盾に、横一文字に亀裂が走っていた。

 円形の影の向こうに大空を視界いっぱい、南北に切り裂く光の線が伸びている。

 東の空の遥か彼方、白雲を吹き飛ばした風の刃はやがて、小さく薄くなって空の色に溶けるように消えていった。

 真っ二つになった鉄の盾が崩れ落ち、がらん、と音を立てて地面に転がった。

 その裏に右手を突き出したユーリ・オルーラがいた。

 仮面の男は固まったまま、上半身を横にずらしどさりと仰向けに倒れこんだ。

 腰から下、下半身だけがそのまま、地面に立っていた。

 そこへ今ごろ衝撃波がやってきた。地平を覆うほど巨大だった風の剣の刃。その刃が大気を突き抜けた衝撃波だ。

 丘陵には辺り一面、尖った大小の鉄片が不規則に突き出ていた。

 強風が鉄に当たって、冷たくざらついた音を立てた。

 物悲しい不毛な光景に、地中から突き出た鉄の欠片は死んでいった者たちの墓標のように見えた。

 無数の鉄の墓標を背景に、残ったユーリ・オルーラの下半身が、音もなく倒れた。

「ううっ」

 イシュルは振り上げた剣を下ろすと、その場に片膝をつき低く呻いた。

 全身が痛苦の海に沈んでいくようだ。

 金の魔法は鉄を生み出し変形させる。だから必然的に高熱を発する。

 だが丘の上の土は冷たかった。

 冷たい土が心のうちの狂熱を醒ましていく。

 ……勝った。

 俺は金の魔法具に、連合王国の総大将に勝ったのだ。

 イシュルは俯けていた顔を上げた。

 地面に横たわるユーリ・オルーラだった物体に視線を向ける。

「!!」

 イシュルは愕然と、思わず立ち上がった。

 よろよろとその者の下半身をまたぎ、その者の顔を見つめた。

 鉄の仮面が横に、土の上にずれ落ちていた。

 ユーリ・オルーラは死んだのだ。だから、精霊神の呪われた魔法具と言われたその鉄仮面は、今はもう、ただの鉄の板切れになった。

 何が。なぜ……。

 あらわになったユーリ・オルーラの顔を見て、イシュルを呆然とその場に佇んだ。

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