激突


 金の魔力は朝日を浴びて、金色に輝く無数の鉄の霧となった。

 頭上を燦然と輝き空を舞う霧は、やがて丘の向こうに消えていった。

 王城でまだ戦いが続いているのか。

 丘の向こうに微かに、何か別の小さな魔力が灯る。

 それともやつは、城の北に広がる街区にまた火をつけたのか。

 ……鉄が焼け、木々が、人が、様々なものが焼ける匂いが漂ってくる。

 鉄の匂いは。

「……血の匂いか」

 イシュルは呻くように呟いた。

 火と鉄の匂いに血の匂いが混じれば、それは戦場の匂いだ。

「城壁に登るぞ」

 ドミルがイシュルたちを見回し言う。

「敵はまさか、我々が南側から攻撃を仕掛けてくるとは思うまい」

 ドミルの酷薄な顔に笑みが浮かぶ。

 王都街道をはじめ主な街道の多くは、市街の北や東側に接続する。

 王都の南東を回り込んで王城に入るということは、ただ難民を避けるだけでなく、敵の裏をかくことにもつながる。

 ドミルが前を向き、正面の城壁に向かって跳躍すると、リフィアたちもそれに続いた。

「ニナ」

「はい」

「こっちに来て」

「あっ……」

 イシュルがニナをからだの前に抱きかかえると、彼女は顔を真っ赤にした。

「……」

 イシュルはニナに構わず、宙に飛び上がった。

 城壁の上に降り立ちニナをおろすと、ミラとリフィアがさっと横目に、イシュルとニナに視線を走らせてきた。だがイシュルの厳しい表情に、すぐに視線を逸らすと前を見、顔つきをあらためた。

 目の前の鋸壁(のこかべ)の向こう、常緑樹に覆われた小さな谷を挟み、向かいの丘陵に南宮が聳え立っていた。手前の丘の中腹には木々になかば隠れ、古い城壁の一部が見える。

 南宮は古い建物で、今は王城に詰める下級の役人、貴族の宿舎などに使われている。

 陽焼けした黄土色の壁に深い赤色の屋根の、三階建のこざっぱりした建物だ。黒く塗りつぶされた、無数の小さな窓が並んでいる。

 その奥の木立の向こうに、白い壁がちらついて見えるのがおそらく後宮である。王宮は後宮の、さらに北側にある。

 イシュルは周囲に素早く視線を走らせ、辺りの様子を探った。

 戦(いくさ)の匂い、争闘の殺気は漂ってくるものの、辺りは静かで人の気配はほとんど感じられない。

 ……ここら辺は戦場にはなっていないようだ。

 城中に数多くいた筈の官吏、使用人ら城外に逃れたようだ。

「ニナ、きみの精霊を後宮の辺りまで進出させて、王宮周辺を見てきてもらえないか? それからリリーナはあの櫓(やぐら)に登って──」

 ドミルがニナとリリーナに指示を出しはじめた。

 確かに敵は王宮周辺か、城内の北側にいるだろう。

 先ほどの金の大魔法は市街の方に放ったものだろうが、その魔法を放った者は城中にいる筈だ。

 この胸騒ぎ……自身の心中に響いてくる感じは、それが確かだと教えてくれる。

「ドミルさん、待ってください」

 ……ヨーランシェ。

 イシュルはドミルを制止すると同時に、心の中で風の精霊を呼んだ。

 ……やつはどこにいる? 城の北側はどんな状況だ?

 ……やつ、って、金(かね)の魔法具のことだよね?

 ヨーランシェの声が脳裏に響く。

 ……金の魔法具はお城の真ん中の、赤茶の宮殿の前にいる。

「どんな様子だ? やつは何をしている?」

 イシュルは口許を片手で覆って俯き、小さく声に出して言った。

 ……金の魔法具持ちは、百人くらいの兵隊に囲まれて、宮殿の北側の広場にいる。彼らの前に、お城の役人かな?……それと使用人らが何人か引き出されて……、訊問かな? 何か聞かれているようだ……。

 彼の声音は落ちついている。彼はすでに周囲の状況を、しっかり把握しているようだ。

「ふむ。城兵らは? 周りの状況を教えてくれ。あと、金の大精霊はいるか?」

 ……周りは酷いもんだよ。建物はそんなに壊れていないけど、そこかしこで人間の死体が転がっている。みな一様に鉄の魔法で引き裂かれて死んでいる。

 でも、城の中には他の人間の気配も感じる。味方の者も、まだ生きているのがいるみたい。

 お城の北の、街の方では火事が起きている。街中は焼けてしまったところと、まだ建物が残っているところと、斑らのようになっている。街に住む人間たちの気配はあまり感じられない……。

 そこでヨーランシェは小さく「ふふ」と笑った。

 ……金の精霊はいるよ。はっきり姿を現している。魔法を使える人間なら見えるんじゃないかな。

「ほう……」

 それは素晴らしい……。最高の状況じゃないか。

 イシュルはにやりと唇の端を歪ませた。

「ヨーラン、大丈夫か? 敵に見つかってないよな?」

 ……あの精霊にぼくを見つけられるものか。金の魔法具の方も気づいてないよ。大丈夫。

 ヨーランシェは金の精霊に対し、嘲りをあらわにした。

「金の精霊は何をしている? やつはやっぱり強そうかな?」

 ……あれはお城の北側の、城門近くの空中に浮いてる。その下の曲輪にはたくさんの馬と、兵隊もいる。

 なるほど。

 イシュルは口許に当てた手に、わずかに力を込めた。

 金の精霊は脱出路の確保と同時に、馬を守っているのだろう。

 己を魔法使いにも見えるようにしているのは、つまりは威嚇だろう。間違いなく大精霊クラスだ。宮廷魔導師など、人間の魔法使いなど歯牙にもかけていないのだ。

 いや、それだけじゃないか。

 自ら囮となって、ユーリ・オルーラ率いる本隊に、こちら側の残存兵力による攻撃が集中しないようにしているのかもしれない。王国の騎士や城兵、魔導師がどれだけ生き残っているか、それはもう絶望的な状況かもしれないが。

 ……あいつは強いだろうけど心配しないで。剣さまなら一撃だよ。ぼくだって負けない。殺れる自信はあるよ?

 ヨーランシェの声音にめずらしく、殺気が混じる。

「ふふ」

 イシュルは眸に暗い光を宿してほくそ笑んだ。

 ……最高だ。

 物見は風の精霊のおハコというわけだ。こちらは敵の状況を把握済み、敵は俺たちにまだ気づいていない。

 これは決定的だ。こちらの勝ちは決まったも同然だ……。

「ああ、……イシュル殿?」

「!?」

 ふと気づくとドミルをはじめ、皆イシュルをじっと見つめている。

 おっと、これはまずい。

 イシュルは当惑して周りを見回した。

「イシュルはあの風の大精霊と話していたのかな?」

 隣からリフィアが言ってくる。

 ミラは視線をそらして、したり顔で笑みを浮かべている。彼女もイシュルが何をしていたか、よくわかっているようだ。ニナは「なに?」といった感じで首を横に傾けイシュルを見つめてくる。

「ごほん」

 イシュルはその場を取り繕い、真面目な顔でドミルに向かって言った。

「俺の召喚した精霊から敵情を聞いていました」

「ほう……。風の大精霊か。なるほど」

 ドミルはにやりと笑うと、ぐいっと眸に力を込めてイシュルを見てきた。

「敵に見つかってないな?」

「ええ」

「ふふ……」

 ドミルの背後でフリッド・ランデルも不敵な笑みを浮かべている。

 風の精霊は地上、空中では他の系統の精霊よりも感知能力に優れる。

 それはドミルらも知っているようだ。

「で、王城の北側の状況ですが──」

 イシュルはヨーランシェから聞いた話を、ドミルらに話した。

「それは……」

 イシュルが王宮の前で敵の本隊がやっていることを話すと、フリッドが厳しい顔になって呟いた。

「敵は王家の方々を探しているのか」

 王家の方々とは、デューネ王妃やネルダ王女らのことだろう。

 イシュルは横目に谷向こうの南宮、その奥にある後宮の方を見た。

 南宮だけでなく後宮の方も、今この時点では戦闘の気配は感じられない。

「あるいは官吏や魔導師らを捕らえ、王家の金庫や魔法具庫の場所を聞き出そうとしているのかもしれん」

 続けてドミルが言った。

「とりあえず敵の気配を探りながら、後宮の裏手まで行ってみよう。あの辺りなら、強い魔法を使わなければ敵側に気づかれる可能性は少ない」

 ここから敵将らのいる王宮北側の広場までは、直線で三里長(スカール、約2km)ほどだろうか。後宮ならその距離は一里長くらいになる。強い魔法を使えば、敵の精霊にはすぐ見つかってしまう。

「敵兵が後宮あたりまで進出し、周囲を警戒していないだろうか」

 とリフィア。

「それはヨーランシェが前もって教えてくれるさ」

 イシュルがリフィアに言った。

「……」

 ヨーランシェが「わかった」と、頷く気配が心のうちに伝わってくる。

 そしてミラに顔を向ける。

「ミラはそれ以上、魔力を出さないようにできるか?」

 ミラはシャルカと合体後は微かだが、何もしなくても魔力を発散している状態にある。

「大丈夫ですわ。気をつけます」

 ミラが微笑を浮かべて頷く。

「よし。では後宮の裏手まで行くぞ。イシュル殿は何かあったらすぐ声をかけてくれ」

 ドミルはそう言うと、あっという間に鋸壁の向こうに姿を消した。

「ニナ!」

「はい、イシュルさん」

 イシュルがニナに声をかけると、彼女は素早くイシュルの傍に寄ってきた。ニナを抱き上げ、全身に風のアシストをつけると、イシュルもドミルに続き城壁の下へ飛び降りた。



 谷を覆う木々の下、加速の魔法を使って走破する。

 皆目立たぬよう魔力を抑え、全力で走ってはいない。

 辺りは薄暗い。日の出の水平な陽光は谷底まで届かない。

 弱い魔法に低く歪んで聞こえる、野鳥の鳴き声が耳に障る。朝を告げる彼らは、王城の異変に気づいているだろうか。

 谷底に降りると、火と血と鉄の匂いも薄れ、戦(いくさ)の気配はまったく、何も感じられない。

 すぐ下にあるニナの顔は恥ずかしげに頬を染めて、人形のように固まって見える。

 木々の間を流れる小川を飛び越え、南宮に続く斜面を駆け上がる。

 目の前を流れる草木の斜面が途中から古い石積みに変わり、低い内郭の城壁を飛び越えると地味な色合いの外観の、南宮の前に出た。

「ニナ……」

 イシュルは呟くようにニナに声をかけると、彼女を地面に下ろした。

 王都ラディスラス周辺は複雑な地形をしている。

 ラディス王国の都(みやこ)は別名、“七つの丘の都”とも呼ばれ、南西のアルム湖を挟んでブレクタス山塊から伸びる山並みが、やがて丘陵になり平野部に消える辺りに位置している。

 王都とその周辺の丘陵は人の手により、あるいは水や風による浸食によって寸断され、形を変え、不連続の独立した丘の連なりとなった。

 周囲の丘上に支城を備え、あるいは貴族らの館を配し、丘と丘の谷間に市街がうねるように広がる、その中央の丘に王城が築かれた。

 やがて同城は王国の発展とともに拡大し、隣接する丘を取り込んで外郭と内郭もはっきりとしない、複雑に入り組んだ城郭を形成した。

 かつては南宮の建つ丘とその北にある後宮や王宮のある丘も、小さな谷を挟んで離れていたが、今はその谷も埋め立てられ、南宮と後宮の間は木立に囲まれた石畳の道で接続されている。

「ここから先は魔法具は使わない方がいいだろう。さて、南宮の中を突っ切るべきか、回り込むべきか」

「……」

 ドミルの言に、リフィアがイシュルに視線を向けてきた。

「南宮の中に怪しい気配はありません。ほとんど人の気配がしない」

 イシュルはリフィアを横目にちらっと見ると、ドミルに南宮内部の状況を教えた。

「ふむ。貴公の感知力は精霊並みだな」

 ドミルは薄く笑みを浮かべると、南宮中央の方へ向かって歩き出した。

 イシュルたちもドミルに続く。

 南宮裏手の出入り口から中央ホールを通り抜け北側へ出る。

 階段を降りると正面に、歴代の国王の誰かの大きな石像がある。その奥に石畳の幅広の道、左右は端正なシルエットの木立が広がっている。

 石像の横を通り過ぎると、左右を木々の緑に縁取られた明灰色の建物が姿を現した。その瀟洒な外観はラディス王家の後宮であろう。

 初冬の重い緑とほとんど白に近い明るい壁面が、まだ暗さの残る朝ぼらけの中、それでも強いコントラストを生み出している。

 真上から見るとロの字形の後宮の南側、地階正面はアーチ状の柱の並ぶ吹き抜けになっていて、その奥に中庭が見えた。

「……」

 イシュルは後宮の方に人の気配を感じた。

 ……早く動く人間が数名。走っている。あまりいい感じじゃない。

 イシュルは後宮へ向かって走り出した。リフィアとミラが、イシュルの動きにいち早く異変を感じ、走り出す。

 後宮までは直線で二百長歩(スカル。約130m)ほどだ。パッシブでも十分に感知できる。

 ドミルらも続く。皆、加速の魔法はもうほとんど使わない。ニナも自分で走っている。

「むっ」

 後宮の正面に並ぶ柱、その間を複数の人影が横切った。

 ……あれか。

 柱間を必死に逃げるメイドがふたり。彼女たちを追いかける、軽装の騎士が二名。

 瞬間、リフィアとフリッドがイシュルを追い抜き飛び出した。

 ふたりから魔力の気配はほとんど感じられない。

 しかし、目にも止まらぬ早さでメイドを追いかける騎士たちに殺到する。

「おっ」

「……!」

 敵の騎士が気づいた。ふたりがリフィアらに正対し剣を構える。

「……」

「ふん!」

 ふたりの騎士が身構えたその時には、リフィアが無言で左側の騎士の首を斬り飛ばし、フリッドが低い気合の声とともに、右側の騎士の胴体を真っ二つにしていた。

 首の飛んだ騎士の背後へそのまま駆け抜けるリフイア。素早く後ろに下がるフリッド。その間を真っ赤な血しぶきが宙に吹き上がった。

 カシャン、と鎧の軽い音を立て、ふたりの騎士が地面に倒れこむ。

 ふたりのメイドは二十代後半くらいに、まだ見習いらしい少女、互いに抱き合い腰を落として、肩を震わせている。

 さすがはリフィアとフリッド、わずかな魔法の使用で騎士ふたりを一瞬で血祭りにあげた。

 彼らの着用していた鎧はリフィアとフリッドには何の意味も成さなかった。リフィアたちは敵に騒がれぬよう、手早く一撃で倒したのだ。

「大丈夫かな、女官どの」

 ドミルが年長の女の方に声をかけている。

 よく見ると、その女はメイドの少女と同じ黒だが、シンプルなデザインのドレスを着ていた。

「は、はい。……ありがとうございます」

「で、どうされた?」  

「ふたりでずっと隠れていたんですが、見つかってしまって」

「デューネさまはご無事か」

「はっ、デューネさまは! デューネさまはネルダさまと……表に出て、敵と戦っていました」

 表、とは後宮から見た王宮など城の表側、という意味だ。

 デューネは王妃の、ネルダは王女の名前だ。

 ……剣さま。

 イシュルも女官に近寄りふたりのやり取りを聞いていると、ヨーランシェの声が心のうちに響いてきた。

 ……どうした?

 ……その人間のことかな? 身分の高そうな女たちが……。

 そこでヨーランシェの声が一瞬、途切れた。彼は何事か、口にすることを躊躇したのだ。

 ……宮殿の北側の広場で、地面から上に突き出た鉄槍に突き刺されて、晒されている。

「なに?」

 イシュルは呆然と顔を上げ、北の王宮の方の空を見やった。

 薄雲の浮かぶ空はもう明るい。

 空高く突き上げられた鉄の槍。その先端に串刺しになった、王家の女たちの映像が脳裡に浮かんだ。

 ……この宮殿より北に進めば、敵の金の精霊に気づかれるかもしれない。そろそろ指示が欲しいな。予定どおり、先に精霊を殺る? それとも分担する?

 ヨーランシェが、険しい表情になったイシュルの顔を見て聞いてきた。

 ……さすがに王宮までは行けないか。

 ……うん。

 イシュルは眸を細めて北の空を見つめる。

 ……なんとかして直接視認できないかな。

 ユーリ・オルーラの位置を、状態を直に見たい。それが無謀なことだとしても。

 もしそれができれば……。

 ……何を考えてるの?

 ……いや。

 ドミルによる、女官とメイドの少女からの聞き取りはまだ続けられている。

 フリッドやマリド姉妹、リフィアたちも彼女らを囲んでいる。

 敵軍はいつ王城に攻めてきたか。どんな戦いがあったか。城内の役人や他の女官、使用人らはどこに避難したのか。それとも皆捕らえられ殺されたのか。敵に火をつけられた街の状況はどうか……。

 後宮にはさまざまな噂が集まる。彼女たちはどれひとつとして目撃していなくとも、周りで何が起きていたか、かなりの事柄を聞き知っているだろう。

 イシュルはドミルらの様子を見て薄く笑みを浮かべた。

 それはドミルとて、彼女たちから聞きたいことがたくさんあるだろう。

 今この時、ヨーランシェの能力と彼女らの情報によって、思いもよらぬ好条件で敵との決戦に臨めることになった。

 このような状況はイシュルは予想していなかった。

 敵は金の魔法具持ちや大精霊はいても、総勢約三百騎ほどの小部隊だ。広大な王城を落城、あるいは破壊できても、城内を味方の兵で占拠し続けることはできない。

 そのために、今のこの場のような、敵に対して情報収集する隙が生まれている。

 この好機を活かすのならば、前から考えていた作戦は放棄し、より確実に勝てる策を立てるべきだ。

 イシュルは王城に進入、あるいは接近したところで、まず敵の金の大精霊や物見の兵らと接触し、そこからなし崩し的に敵将との戦闘に入るだろうと予想していた。

 先にヨーランシェが彼らを発見し、相手が大精霊であれば風の魔法具の力で一気に粉砕、排除し、それに気づいて、何らかの反応を示し行動しはじめる──例えば、金の魔法を使ってくる、ユーリ・オルーラの位置を特定し、彼の周囲に風の魔力を全力で展開する。

 ユーリ・オルーラの周りはおそらく、やつの重臣や騎士らで固められているだろう。その者たちを同時に、可能ならば風の魔力で圧殺してしまう。

 それができればあとは予定どおりだ。怒りくるったユーリを王都の北方に誘い、ヨーランシェに牽制してもらいながら広域で、遠距離から戦闘を開始し、一瞬で接近戦に持ち込むなど、こちらの機動力を活かしてやつを屠る。

 しかし、ユーリも素早く対応するだろうから、展開した風の魔力も金の魔力にすぐに、ある程度まで押し戻されてしまうかもしれない。ほぼ間違いなく、風の魔力を持ってしても、金の魔力そのものに干渉することはできないだろう。

 それなら風の魔力の展開を急速に緩め、その瞬間にヨーランシェに風の矢を連射してもらうか、リフィアとミラに、主に敵兵の方へ突撃してもらう。

 敵部隊に損害が出れば後の展開は同じ、激昂したユーリ・オルーラを郊外へ誘き出す。

 それが、敵情をいち早く知ることができたことで考えが変わった。

 他の戦い方が──つまりより確実、有利に戦うことができるのではないか。

 新しい作戦がもうすでに、イシュルの頭の中に浮かんでいた。

 ……簡単なことだ。よりシンプルに早く、いや。一瞬で終わらせることができるやり方が、ある。

 イシュルは視線を辺りに彷徨わせた。

 ……ヨーランシェ。どうしても敵の金の魔法持ちが何をしているか、周囲の状況を直接確かめたいんだ。何かいい方法はあるかな?

 後宮の周囲には幾つかの城塔が見える。どの塔も王城の外郭や内郭の城壁に接続し、丘上から見るとそれほど高いわけではない。だが、あれらの塔上に登れば、王宮の北側も見渡せるだろう。

 ……お城の塔に登るのは危険だよ。あの金の精霊にすぐ見つかる。

 ヨーランシェがイシュルの視線の先を見たか、すかさず忠告してくる。

 ……ああ。さすがにバレるだろうな。

 ……うーん。

 ヨーランシェの考え込む声が脳裡に聞こえてくる。

「では南宮にでも隠れていなさい。あそこは今は安全な筈だ。下手に城の外に出ない方がいいかもしれない」

「わかりました。魔導師さま」

 ドミルの聞き取りが終わったらしい。

 彼と女官のやり取りがイシュルの耳に入ってきた。

 彼女の話によれば、敵軍が街に火を放ち、城に攻めてきたのは昨日の夕方ごろで、その後夜半にかけて王城の北側で戦闘が続き、夜が明ける頃にはその恐ろしい戦いの音が、王宮のすぐ近くから聞こえはじめたということだった。

 後宮はほとんどの者が前もって城の外に逃れていたが、女官たちの間には城外も危険だという意見があって、一部の者は宮殿に残り、物置や家具の影に隠れていた。それも夜明け前には後宮にも敵の兵隊が侵入してきて、うまく敵兵の探索をかわしてきた彼女たちもとうとう、つい先ほど見つかってしまったのだという。

 彼女が言うには、後宮の中を徘徊する敵兵は今はもう引き上げ、ほとんど残っていないだろう、ということだった。敵兵がどこかに去り気配が消え、油断して部屋の外へ出てきたところを、まだ残っていた先ほどの騎士らに見つかってしまったらしい。

 確かに後宮は今も、人の気配があまり感じられない。

 だが皆無とは言えない。まだ数名ほどか、敵の騎士らがうろついている可能性はある。

「……さて、行くか。王宮の裏手までは、近づいても大丈夫な筈だ」

 互いに手を取り合い、南宮の方へ駆けていく女官とメイドの後ろ姿を見ると、ドミルが北の方に視線を向けて言った。手前には後宮の中庭が広がっている。

「ちょっと待ってください」

 イシュルはドミルに声をかけ引き止めた。そしてヨーランシェから受けた忠告を話した。

「ここから先は敵の精霊に気づかれる、か」

 とドミル。

「金の大精霊さまがおわすのはここからまだ、二里長(スカール、約1.3km)ほどはありますでしょう。……なかなかですわね」

「金の精霊は北の城門の方にいるからな。だが敵の大将は王宮のすぐ北側にいる。ここからなら一里長くらいだ。かの者には気づかれるかもしれん」

 と、ミラとリフィアが言った。

「ふむ。ならばここで……」

 ……剣さま。

 ドミルが顎に手をやり何か言おうとしたところで、ヨーランシェが声をかけてきた。

 ……庭の真ん中に池があるでしょ? その前に来てくれるかな。

「池?」

 イシュルは中庭の方に目をやった。

 後宮の中庭は田の字に小道で区切られ、形の良い樹木に、ところどころ石造りの花壇が設けられている。今は紅葉した葉がなかば落ちた、寒々しい木肌を晒しはじめた広葉樹が目立つ。季節柄か、咲いている花は少ない。

 ヨーランシェの言った池は中庭の中央にあった。イシュルはドミルらに声をかけ、池の方へ歩いていった。

 石積みで囲われた円形の池は、四方の縁(ふち)に、口を開いた獅子の頭部の彫刻が飾られていた。今は開かれた獅子の顎から水は出ていない。

「……」

 イシュルは無言で水面を見つめた。水はそれほど淀んでいない。明るくなってきた空を映し、色彩のない輝きに覆われている。端の方に枯葉が固まって浮いていた。

 ……これからお城の北側の様子を映し出すから、池の水を見て。

 ヨーランシェが思わぬことを言ってきた。

「はっ?」

 ……。

 ヨーランシェは無言。苦笑しているような感じしか伝わってこない。

 ……ヨーランは水面に、王宮北側の映像を映し出そうとしているのか。

 とんでもない話だ。そんなことができるのか。

「あの、池の水面を見てもらえますか? ……みんなも」

 イシュルは戸惑いもあらわにドミルらに声をかけた。

「ん、なんだ? イシュル」

 リフィアが「なぜ?」と聞いてくる。

「ヨーランシェが池の水面に、王城北側の様子を映し出すと言っている」

「なに!?」

「ほう……」

「凄いです、イシュルさん。水の精霊みたいです」

 他の者もみな驚いている。

 ……じゃあ、いくよ。

 イシュルの脳裏にヨーランシェの声がすると同時、池の水面を小々波が立ち、王宮の北側と思しき映像が映し出された。

「おお」

 周りで起こる感嘆の声。

 水面に広がる、やや不鮮明で色調の落ちた映像。だが、不思議な立体感と、生々しい臨場感がこれでもかと伝わってくる。

「リリーナ、アイラ。周囲の警戒を」

 横からドミルの声が聞こえてくる。

 映像はこちら側、南側から王宮越しに、王城の北側を映し出していた。

 石畳の広場に西に長く伸びる人々の影。敵の騎士たちが集い、その中央に床几らしき小さな椅子に座った人物がいる。銀色の甲冑に白いマント。兜はかぶっていず、目の周りを鉄板で覆われている。

 ……あいつがユーリ・オルーラ。

 イシュルはそのまだ少年のような若い男を見つめた。

 やつが。あいつが金の魔法具を持っている……。

 彼らの前にはヨーランシェが言ったとおり、王宮の官吏らしき者が数名、跪つかされ、訊問されているようだ。

 跪いた者らの横には、真っ黒に見える血を流して倒れている者がいる。見せしめに殺されたのだろう。

「間違いないな。敵は王家の宝物庫の場所を、扉の開け方を調べているのだ」

 ドミルが低い声で言った。

「ふん。宝物庫にはいろいろ仕掛けがしてあるからな。彼らを訊問しても、どうにかなるものではない」

 と、これはフリッド。

「魔封陣ですか?」

 ……強力な魔封陣が働いているのなら俺にもわかる。敵にも知れよう。どこか、地下深くにあるのだろうか。

「それだけじゃないがな。宝物庫には金銀の類(たぐい)は置かれていない。ほとんどが魔法具だ。いかな金の大精霊だろうと、そう簡単には見つけだせん」

「なるほど……」

 宝物庫の中身が魔法具だというのなら、連合王国も喉から手が出るほどに、ぜひとも手に入れたいだろう。金貨や金の延べ棒などはかさばる。魔法具なら直接、味方の戦力アップにつながるし、もし買い手が見つかれば途方もない大金を得ることもできる。

 しかし魔封陣以外の仕掛けとはなんだろう。やはり迷いの魔方陣あたりも併設されているのか。

 何れにしても、宝物庫が南宮と後宮の周辺にないのは確かだ。王宮かどこかの、地下深くに設置されているのだろう。

 ……さっき言った、鉄の槍に刺された人間たちの方を映そうか。

「ヨーランシェ。こんな魔法を使って、敵に気づかれないだろうな?」

 イシュルは彼のいそうな、頭上の周囲の宙空に視線を彷徨わせて言った。ヨーランシェは危険だからか、王城に足を踏み入れてからずっと姿を見せず気配を消している。

 ……それは大丈夫。心配しないで、剣さま。

 イシュルは胡散臭げに視線を池の水面に戻した。

 おまえは好きだよな、こういうの。鏡とかガラスとか、何かを反射したり透けて見えるやつ。

 精霊神の無系統魔法とか、こんな感じじゃないだろうか。

「なっ!」

「くっ」

「なんと!」

 池の水面に映し出される映像が、さらに北の方に伸びていくと、一同はみな悲痛な声を上げた。

 背景の空に薄くたなびく黒い煙は、市街で起こっている火事のものだろう。

 その手前、王城内郭の北側の端、崩れ落ちた城壁から、鋭く尖った錐(きり)のようなものが数本、地面から突き立っていた。

 その先に突き刺さった、人のシルエット。長い髪が風に舞い、ローブの裾が揺れている。

「間違いない。……あのお姿はデューネさまとネルダさまだ」

 フリッドが低く唸るように言った。

「な、なんてことを……」

 ニナが呟く。

 イシュルは無言、無表情でわずかにさざめく水面を見つめた。

 ……これでやつらは、わざわざラディスラウスまで進出してきた、その最大の目的を達成したわけだ。野戦で国王マリユスIII世を討ち取り、ここ王城で彼の妃とひとり娘を亡き者にした。

「見せしめか。酷いことを……」

 ニナに続いてリフィアが小さな声音で言う。

「……」

 イシュルはさらに顔を俯かせて、誰にも見られないよう薄く笑みを浮かべた。

 ……まぁ、ユーリ・オルーラのやったことを、俺が何か言えた義理ではないが。

 俺もかつて、ブリガールを塔上に磔(はりつけ)にしたわけだし。

 だが、やつはまさか、ラディス王家に私怨がある筈もなかろう……。 

 イシュルは俯いたまま、笑みを歪め深くした。

 ユーリ・オルーラ。……なかなか殺しがいのあるやつじゃないか。 

 ……剣さま、あれが金の精霊だよ。

 ヨーランシェの声。

 あるいは夢で見るよう感じに近いかもしれない。

 水面に描きだされた映像が切り替わり、さらに北の方の、外郭の城門の辺りに金の大精霊が浮かんでいた。

 空中に半透明に浮かぶ精霊は、人間の何倍もの大きさの人形(ひとがた)で、古代ウルクよりも古いのではないかと思われる、大仰な神官らしき姿をしていた。

 裾の長く広がった神官服をまとい、顔の前に布を垂らしている。

「!!」

 その時、背後の後宮の方で人の気配がした。

 イシュルが振り向くと、後宮から先ほど倒した敵軍の騎士と同じような男が二名、剣を構えてこちらに駆けてくる。

「……!」

 リリーナとアイラが素早く反応し、敵の騎士に斬りかかった。

 アイラが怪力で片方の男の胴鎧を貫き、その間にリリーナは相手の片腕を斬り飛ばし、首筋の鎧の切れ目に剣を突き立て、二撃目を浴びせていた。

 アイラの後ろに縛った髪が、リリーナの長い金髪が揺れる。

 敵の騎士は剣を振りかぶったまま、何もできない。アイラたちが後ろに飛び下がると同時、夥しい鮮血を撒き散らして崩れ落ちた。

「まずいな。そろそろ敵の大将も気づくかもしれん」

 ドミルがイシュルの方に視線を向け、言ってきた。

 この場所はまだ、ユーリ・オルーラからも金の大精霊からも距離がある。今のところ他の敵兵らに露骨な動きは感じられないが、後宮に侵入させた四名の騎士が帰ってこない、ということにはすぐ、敵も気づくだろう。

「はい。ここで二手に分かれましょう。俺はここから一気に、敵将に突撃します」

 イシュルは横目にふたりの騎士の死体を見ながら、ドミルに言った。

 ……ユーリ・オルーラも、敵の大精霊の位置も特定した。予定していた作戦は変える。

 奇襲でいく。

 イシュルは酷薄な笑みを浮かべ、ドミルの灰色の眸を見つめた。



 イシュルは一同に、この後宮の中庭から一気に王宮北側まで突撃、一瞬でユーリ・オルーラを屠ることを話した。

「そ、そんなことが……」

 フリッドやアイラたちが唖然とした顔で呟く。

「ふむ……なるほど」

 ドミルはイシュルの風の剣の、隔絶した大魔法をどこかで耳にでもしたか、微妙な反応を示した。

「イヴェダさまから直接、恩寵を受けられたイシュルさまなら簡単なことですわ」

 ミラが自分のことのように自慢気に話す。

 ミラは“風の剣”に加え、“風鳴り”という加速の魔法を超越した、瞬間移動の魔法のことも知っている。

「勝算は充分にあります」

 イシュルは冷たい笑みを浮かべたまま、最後にそれだけを言った。

 ……そうだ。“風鳴り”と“風の剣”を使って、一瞬で決着をつける。

 風鳴りを使えば、精神もそうだが肉体的なダメージをより強く受けることになる。そこへさらに風の剣を放てば、こちらもかなりの疲弊をまぬがれない。

 リフィアとミラもいるから問題ないだろうが、もしその後も戦闘を強いられた時には、ニナの力を借りることになる。

「敵の大精霊にはヨーランシェを当てます。ユーリ・オルーラを斃せば、敵の精霊は消滅する」

 召喚者が死ねば通常、その召喚された精霊は、この人の世に存在し続けることはできなくなる。

 ……ふっ。了解。

「わかった。我々はどうするべきかな?」

 ヨーランシェの声が聞こえると同時にドミルが言った。

「ドミルさんたちは王宮の東側、東宮の手前あたりに回ってください。状況次第で北門の金の大精霊と、王宮前の主隊と、どちらにも対応できる位置取りをしてもらえば……」

「ふん。そうしよう」

 後の判断はドミルに任せれば良い。

 ドミルも殺気を漲らせた笑みを見せて頷いた。

 ……剣さま。

「ああ、ヨーランシェは王城東側に距離をとって、敵の大精霊を射撃してくれ。やつを牽制、その場に拘束している間に、俺が決着をつける」

 イシュルはヨーランシェの呼びかけに、はっきり声に出して言った。

 ……わかった。ところで、今……。

 ヨーランシェの存在が一瞬、薄くなる。彼はどこか、違うところに意識を向けているようだ。

 ……金の精霊のいる近くで、味方の魔法使いかな? 他に数人の人間の気配が現われた。

 今彼らは外側の城壁の影から、敵の精霊を攻撃しようと移動している。多分、地下道みたいなところを移動してきたんだと思う。

「なに!?」

 まだ王家の魔導師は生き残っていたのか。

 ……金の精霊は気づいていないのか?

 ……多分気づいていると思う。やつは持ち場を離れられないから、もっと引きつけてからやるんじゃないかな。ぼくとしてはより楽になったよ。あいつの注意があの魔法使いたちに向いている間に、こちらはいい位置取りで、まったく気づかれずに攻撃をはじめられる。

 ……なるほど。かわいそうだが、彼らには囮になってもらうか。

 イシュルはヨーランシェの報告をドミルに知らせた。

「ふむ。お味方は王城の地下道に隠れていたんだろう。敵の精霊の攻撃を何とかいなしながら、集められた馬を始末しようとしているんじゃないか。敵の足を奪うのは重要だからな。それと……」

 もう城兵の多くが、そして王妃や王女も失われた。

 生き残った彼らには、あとは敵の足を奪って、バルスタールを占拠する敵軍本隊との連絡を妨害するくらいしか、有効な手立てが残されていない、ということだろう。

 ……剣さま。彼らの襲撃と同時にこちらもはじめよう。

 ……ああ。

「では我々も移動しよう。少し急いだ方がいい」

 イシュルがヨーランシェの言をドミルに告げると、彼はそう言って、フリッドやアイラたちに顔を向けた。

「では行くぞ。内郭、東のベジェーヌの塔の下に移動する」

「アイラさん、リリーナさん。ニナをよろしく。ニナ、気をつけてな」

「わかりましたわ」

「わかった。ご武運を、イシュル殿」

「イシュルさんも気をつけて……」

 リリーナ、アイラに続いて、ニナが心配そうな顔で言う。

「ああ、心配は無用だ。まかせろ」

 イシュルが笑顔でマリド姉妹に、そしてニナに答えた。



「ミラ、リフィア。俺は王宮の屋根上に取りつき、最後にユーリ・オルーラの位置を確認してから“風鳴り”を使ってやつの足許に移動、風の剣で真っ二つにする。きみたちは王宮の屋根上で俺の左側に位置して待機、俺が風の剣を放ったら、残った敵兵の集団に突撃してくれ」

「わかりましたわ」

「“風鳴り”、というのは……」

 ミラがにこにこと頷き、リフィアは少し当惑した顔で疑問を口にする。

「……そうか。そんな恐ろしい魔法を」

 イシュルが大まかに説明すると、リフィアは硬い表情になって頷いた。

 今はドミルたちが城内を東に移動し、後宮の中庭にはイシュルとミラ、リフィアしかいない。

「ミラ、敵の金(かね)の魔力は大丈夫かな。呑まれないようにな」

「今のわたくしなら、短い時間なら近距離でも大丈夫ですわ。自信はあります」

「リフィアの剣はどうかな? 敵の魔力の影響を受けないか?」

「わたしも短時間なら大丈夫だと思う。それよりも敵の魔法はかなり大雑把だ。そういう小技はこの場では使ってこないだろうと思う」

 ふたりとは、もともと敵とは距離をとって戦おうと話していたのだ。

 それが状況が少しばかり、変わってしまった。

「もし万が一、不測の事態が起きた時は、敵を一度引っ掻きまわした後、すぐに退避してくれ。長居は危険だ」

「わかりましたわ」

「うむ」

 ふたりともイシュルににっこり、笑顔を向けてくる。

 健気だな……ふたりとも。

 イシュルの心にうちに暖かいものが流れる。

 それが緊張をほぐし、また新しい闘志が湧いてくる。

 ……そろそろだよ。剣さま……。

 だいぶ遠くにいるのか、ヨーランシェの弱々しい声が心のうちに聞こえてくる。

 ……わかった。

 イシュルは顎を少し引き、双眸をぎらつかせた。

「行くぞ!」

 イシュルはリフィアとミラの顔を一瞬見やると、宙に飛んだ。

 中庭の木々が色彩の奔流となって足下に消える。

 視界いっぱいに、すっかり明るくなった青空が広がる。大小の、遠近の雲が模様となって震え、流れていく。

 この開放感。

 ネリーの腕輪が起動するが、強力な風の魔力の影響か、完全に働いていないようだ。

 後ろからリフィアとミラの凶悪な魔力の煌めきが追いかけてくる。

 あっという間に王宮の屋根が目の前だ。

 イシュルが王宮北側の屋根上に取りつくと同時、北の城門の方に火焔が立ち上った。

 王家の魔導師の魔法か。

 そして東の空のどこかから数条の光線が走り、金の大精霊に激突する。

 弱く働く加速の魔法を飛び越え、爆音が聞こえてくる。

 眼下の、王宮前の広場に蝟集する連合王国の騎士たち。その中央手前に床几に座る仮面の男。

 城門で起こった異変に、彼らが一斉に北の方に顔を向ける。

 仮面の将も立ち上がった。

 ……今だ。

 イシュルは仮面の男の足許、広がる石畳の一点を見つめると虚空に飛んだ。

 視界が暗転し、周りを何かが流れていく。

 悲しい何か。悔恨。懊悩。

 懐かしい、暖かい何か。古い記憶……。

「ぐっ」

 胸をえぐる痛み、軋み震える四肢。

 そして視界に光がさす。

「なに!」

 掠れた、少し高いまだ少年のような声。

 仮面がこちらを向く。

 ……ふふ。死ねよ。

 イシュルは父の形見の剣を握った。

 鞘の中の刃(やいば)に、世界の彼方を吹き流れる、あの力が収斂していく。

 ──抜け。抜けよ。早くしろ。

 それはイシュルに語りかけてくる。

 イヴェダよ。神々よ。我を見よ。我が剣を見よ。

 イシュルは剣を抜いた。

 抜き打ちざま、逆袈裟に斬りあげる。

 鞘の中を走る何か。それが外に放たれる瞬間。

「!!」

 足下の地中を、強力な魔力が走った。

 金? 金の魔法か?

「なっ」

 地面が割れ、軸足が地中に沈んでいく。

 と、同時に底から水が吹き出す。

 濃密な風の魔力を割って、ネリーの腕輪が悲鳴をあげた。

 腕輪の加速の魔法が、水しぶきを追うように全力で立ち上がる。

 ……きさまぁ。お前が……。

 鉄の仮面が叫ぶ、その声が遠くに消えていく。

 ユーリ・オルーラが身を翻し、周囲に怒りの声をあげる。

 こいつも加速の魔法具を……。

 周りに人形のように止まって見える騎士たち。彼らの間を、無数の飛沫が吹き上がる。

 水の魔法? ……どうして? どこから……。

 イシュルの右側に向かってくる影。

 加速の魔法を使う騎士が、ひび割れる地面の上を必死の形相で迫ってくる。

 鋭く光る騎士の剣。引き延ばされる時間。

 突然、鬼のような騎士の顔が引き裂かれ霧散する。そこから鉄の槍が伸びてきた。

 その先に、ヨーランシェの魔法の矢に崩れゆく金の精霊。

 やつは防御を捨てて、自分を捨てて、俺を攻撃してきた。いや、主(あるじ)を、金の魔法具を守ったのか。

 足場が消え、からだが水の中に沈んでいく。

 空が回転し、太陽が回る。

 もう避けられない。せめて……。

 イシュルはからだをひねって、金の精霊の放った必殺の鉄槍を躱そうとする。

 辺りを無数の魔法が渦巻く。ユーリの金の魔法も立ち上がろうとしている。

 くそっ。風の剣が消えていく。一歩出遅れた……。

「イシュルさん!!」

 どこから? 悲鳴をあげるエルリーナの顔がニナに変わる。

 阿鼻叫喚。

 誰かが俺を、呼んでいる……。

 太陽が黒く染まった。

 全身を貫く重い衝撃。

 意識が消し飛び、イシュルは虚無の底に沈んだ。 

 





 ……薄暗く、静かな空間。

 くすんだ灰色の空間。

 ……誰かの家だ。ここはどこだ……。

「からだが……」

 動かない。重い何かで全身を覆われている。からだの感覚がない。

 みすぼらしい、むき出しの屋根裏。視界の隅に椅子とテーブル。灰色の壁に黒く小さな家具が並ぶ。

「俺は……」

 何をしていた? なぜここに。

 奥の方から人の気配。こちらへ歩いてくる。

「気づいたか、イシュル」

 きらきらと輝く銀髪が揺れる。

 場違いもはなはだしい、美貌の少女。

「リフィア……。俺は……」

 誰かが遠くで呼ぶ声……。

「心配するな、大丈夫だ。今、ミラ殿がニナ・スルースを呼びに行っている」

 ……声にならない何か。ヨーランシェか。

「……!!」

 思い出した。

「くっ」

 からだを起こそうとすると、痛みと、何か重いものにからだが当たった。

 痛みは左腕から。重い何かは横っ腹だ。血が溜まっているのか。

 視線をやると腹には包帯のようなものがきつく巻かれていた。

 重い、とはこれか。

 硬い長椅子、いや、チェストみたいなものに寝かされている。

「左腕の裂傷は出血が気になる。腹部の傷を洗う前に、そちらを先に縫ってしまおう」

 リフィアは両手に壺や布切れ、裁縫箱らしき小箱を抱えていた。

「俺は失敗したのか。今はどうなっている。ここはどこだ」

「……」

 リフィアは無言で苦笑を浮かべると、イシュルの前に二つの壺、裁縫箱、布切れの束を置いた。

「お前の大精霊が敵の目を引きつけている。ドミル殿らが寄せては引いて、うまく戦い妨害している。敵も混乱し、多くの兵馬を失ったからな」

 リフィアが悠然と微笑む。 

「ここは王都の多分、リセーク街の辺りだな。東南の貧民街に近い。家主は……避難したんだろう。誰もいない。ここら辺はもう誰もいないみたいだ」

「……」

 イシュルは無言で小さく頷いた。

 そういうことか。

「でもよかった。おまえは軽傷だ。ニナ殿の力があればすぐに戦えるだろう。まだまだいけるぞ。……あの時、わたしが後ろから無理やりおまえを引っ張りあげたんだ。それでミラ殿と一緒に、一目散に街の方に逃げてきた」

 リフィアが甘い色を宿して、慈しむような視線で見下ろしてくる。

「そうか……」

 くそっ。うまくいかなかった。しくじった……。

「そういえば。……うっ」

 からだを起こせない。痛みが、そして重い何かに阻まれる。

「あの水の魔法は……」

「ピエルカ殿だな」

「ピエルカ?」

「パオラ・ピエルカ。水系統では最高の宮廷魔導師だ。ニナ殿の師匠だな」

 ……そういえば以前にニナが何か言っていたな。

 三十くらいの、まだ弟子を取るには若い魔導師で、凄い美人だとか……。

 しかし、なぜあのタイミングなんだ。

 空気読めよ。あれじゃ、ただ邪魔されただけだ。

「ん?」

 待てよ。城門の金の大精霊に攻撃しようとしていた、別の魔導師たちの動き……。

 彼らは陽動だったのか? あの水の魔法の。

「さて、イシュル」

 リフイアはにこにこしてイシュルを見てきた。

「左腕の傷、縫ってしまおうか。まずこの火酒で傷口を洗おう」

「えっ」

 イシュルはリフィアを潤んだ眸で見つめた。

「おまえ、傷の手当ができるのか」

「もちろん。祖父より武神の矢を譲り受けてから、家中の騎士どもと鍛錬を重ねてきたからな。傷の手当など何度もしてきた。見てきた」

「……」

 イシュルは喉を鳴らした。

「急がないとな。敵将もまだ死んではいない。ドミル殿も、ピエルカ殿も、おまえの精霊も、そんなに長くはもたせられんぞ」

 リフイアは片方の、酒の入った壺を持ち上げ言った。

「あ、そうだ。イシュル。これからかなり痛いからな。おまえ、これを咥えておけ」

 そしてイシュルの口に、丸めた布切れを突っ込んできた。

 ひっ。

 リフィアの眸の色が悪戯なものに変わる。

 ……!! 両手両足が何かで縛りつけられている。この疲労、からだでは動かせない。

「ん〜、ん〜」

 魔法で……、いや。ここは我慢か。

 とにかく傷を手当してもらって……。早くしないと。

 むせるような酒の匂いが鼻を刺す。

「では、はじめようか。イシュル、気合を入れろよ」

 リフィアの笑みが大きくなった。

 彼女の美しい顔が近づいてくる。

「……! ……!」

 イシュルは苦悶に喘いだ。 

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