王都燃ゆ 3
夜半、ルースラ・ニースバルドら二十騎あまりが大公軍本隊から先行し、シェルバルに到着した。
彼らは物々しい馬蹄と甲冑の擦れる音とともに、街の北側にある城館の前に轡(くつわ)を並べた。
シェルバルは王領であり、今はヘンリクと彼の側近が滞在する城館は、以前は王家の代官が起居していた。
イシュルはニナと少し話すと彼女を滞在するテントに帰し、ルースラたちの到着で目を醒ましたミラやリフィアたちとともに、城館の外に出てきた。
ルースラたちが本隊から先行して夜に到着する件は、ペトラやマーヤたちと夕食をとった時に、彼女らを通してヘンリクや彼の近臣らに伝えてある。
館と木々の影に、無数の星々が瞬く夜空を篝火の炎が舞い、馬の嘶きが響き渡る。外に出ると、夜の冷気に吐く息が白かった。
館の前を薄っすらと照らす明かりに、ルースラ、マリド姉妹、メイド長のクリスチナに影の護衛役のセルマらの姿があった。本隊に残ったのか、トラーシュ・ルージェクの姿は見えなかった。
「イシュルさん! シュバルラードを曳いてきましたよ!」
ルースラたちの背後からロミールが顔を出して、館の前に出ていたイシュルに声をかけてきた。
「ロミール! おまえも来たのか」
ロミールの後ろには、同じように荷を括りつけられたミラやリフィアの馬を曳いた、彼女たち付きのメイドらの姿も見えた。
ロミールは騎士爵家の出だ。彼は馬術も剣術も、心得があるということだろう。そしてミラやリフィアにつけられたメイドたちも、只者ではないということだ。
「イシュル殿、貴公らもついて来てくれ。出発前にもう一度、打ち合わせをしよう」
同様に館から外に出ていたドミルは、ルースラやメイド長のクリスチナと何ごとか話すとイシュルに声をかけた。
イシュルたちは再び館の一階、東側奥の部屋に集まった。出発前の最後の軍議には新たにルースラ、マリド姉妹が加わった。
室内にはヘンリクとペトラ、マーヤに加え、昼間にテントの前で少し立ち話をした剣士風の男がいた。彼は宮廷魔道師でフリッド・ランデルと名乗った。
「わたしに加え、フリッドとマリド姉妹が貴公らの支援に入る」
東側の壁に据えつけられた暖炉の炎がドミルの硬い表情を照らしている。
その顔貌(がんぼう)を這う炎の揺らめきは、イシュルには怒りに燃える仁王のように見えた。
……そんなふうに思うのはこの世界でただひとり、俺だけだろう。
イシュルが薄っすらと笑みを上らせると、ペトラがイシュルの方を見て言った。
「リリーナは早さ、アイラは力に特に優れておる。ふたり揃って戦うと強いぞ」
マーヤの説得が功を奏したか、彼女も大公軍に残ることを納得したようだ。
……リリーナとアイラは姉妹だから息がぴったり合うのだろう。ふたりが組んで戦った時の強さが、相当なものであろうことはわかるが。
イシュルはペトラから姉妹の方にちらっと視線をやると、ヘンリクに言った。
「ペトラの護衛は大丈夫なんですか」
「妾のことは気にするな。戦(いくさ)に連れてきた妾のメイドはみな剣を使える、魔法具持ちもおる。イシュルは心配せずともよい」
ヘンリクはただ無言で笑みを浮かべるだけ、横からペトラが言ってきた。
ペトラが決めたことなら、ヘンリクの意志にかかわらずマリド姉妹の参加も確定、となるのだろう。彼女は自身が行けないから、代わりにせめてもと、信頼の厚いアイラたちをつけてくれたのだ。
イシュルの眼力ではっきりそうと言い切れるものではなかったが、フリッドもその物腰から相当な剣の使い手だと思われた。背筋をぴんと伸ばしてやたらと姿勢がよく、腰から下に安定感がある。彼も間違いなく武神の魔法具を持ち、リフィアのように、戦闘そのものに異様なほど力を発揮するタイプなのだろう。
途中乗り捨てる馬をまとめるために、さらに茶色の上着を着た男たちが数名と、ロミールらイシュルたちの従者が同道することになった。
「ついさきほど、重要な知らせが入った。あまりいい話ではないが、イシュル君らにも知らせておこう」
王都に先行する面々が決まり、話が次の段に移ろうかというところでヘンリクが言った。彼の視線はルースラに向いていた。
イシュルにはさらにひとり、どうしても連れて行きたい者がいたが、まだ口に出すことはしなかった。すべての議題が話し合われてから、この軍議の場の空気を見極めながら、最後に話そうと決めていた。
「シェルバルに向かう途中で“髭”から報告を受けました」
ルースラは少しあらたまった固い口調で言った。
「髭?」
イシュルは思わず、疑問を口に出した。
“髭”とはなんだ?
「正しくはアプロシウスの顎髭。精霊神の髭とか茶色の髭ともいう」
マーヤが説明してくれた。
「王家直属の影働きだ。精霊神が顎髭を抜くとそれは精霊となって……というやつだ」
と、リフィアがマーヤの説明を引き継ぎ言った。
「な、なるほど」
イシュルは少し顔を引きつらせて頷いた。
周りの者たちの顔つきからすると、この場であの茶色の上着を着た剣士たち、王家の影働きが“髭”という名であることを知らないのは、イシュルだけのようだった。ミラも、名前くらいは知っているようだ。何度か、顔を小さく縦に振っている。
……精霊神が顎髭を抜くと、って話は知らないが、まぁ、どういう意味かはわかる。神殿で見るアプロシウスの像はよく髭を生やしている。
精霊神の髭が茶色だから、彼らも茶色の上着を着ているということか。……しかし、何のひねりもない。
「“髭”によると、ヨエル周辺のシュブラント伯爵家ら大小六家の領主らが敵に寝返りました」
「なっ」
「くっ……」
イシュルたちのやり取りの後、ルースラはおもむろに決定的なことを言った。
周りに居並ぶ者たちの中には露骨に驚き、怒りをあらわにしている者がいる。
ヨエルは王都の北東にあり、先日彼やトラーシュらが敵側の工作を心配していた街だ。ヨエルは大公軍がこのまま王都街道を進軍すれば、その側背を制する位置にある。ただヨエルの街自体は王都からは少し距離があり、徒歩ならば丸二日以上かかる。
「周辺の領主らは皆王都に参陣し、多くの者が先日の連合王国軍との戦闘で、陛下とともに討ち死にしている。マリユスさまと当主の死により、領主家の残された者たちが敵の調略に乗ってしまった、ということだろう」
と、苦い顔をしたドミルが言った。
「そろそろロンバルツ伯爵率いる大公軍支隊がホードルに入城する頃です。すでに我が精霊、ヒポルルをホードルに遣わしています。入城後、支隊から三千ほどの兵力を抽出し、北東からヨエルを突きます」
「……!」
「おお」
ルースラの言に、一部の者から感嘆の声が上がる。
「よくやった。ルースラ」
ヘンリクはルースラに向かって大きく頷いて見せる。
ルースラは右手を胸に当てかるく頭を下げた。
「ヒポルルというのは……」
イシュルの呟きに、ルースラは微笑を浮かべて言った。
「イシュル殿はまだわたしの契約精霊の名をご存知なかったですか? 昼間にあなたに使いを出した、あの大きな鳥の格好をした精霊です」
「あれが……」
「ええ。あの姿のとおり長距離を飛べるので、物見や伝令に重宝しています」
「なるほど」
……あのお化け鶯(うぐいす)はルースラの契約精霊だったのだ。
移動力に優れた鳥型の風の精霊──。確かに情報収集や連絡に適した、頭脳派の彼にはぴったりの精霊だと言えるかもしれない。
しかしこれは見事に、ルースラやトラーシュの目論見通りになったというわけだ。ホールドに五千の戦力を差し向けたことが、結果的に非常に役立つこととなった。
さすがに大公家の参謀役を務めているだけのことはある。
イシュルは少し間の抜けた、柔和な顔立ちのルースラの顔を視界の端にしっかり捉え、盗み見るようにして窺った。
……あの外見も、この男の鋭敏さを隠し柔らげるのに一役買っている。
敵からすれば、王都の北東部を抑えれば大公軍を牽制するだけでなく、自軍のバルスタールへの帰還も容易になる。それを、ホールドに一定数の兵力を配置したことで帳消しにできるわけだ。
「しかし、シュブラント伯爵らの寝返りが伝われば、アンテラのお味方が動揺しよう」
剣士風の出で立ちの宮廷魔道師、フリッド・ランデルが低い声で言う。
「うむ……」
ルースラは顎に手をやり、考え込む顔になる。
……どう対処すべきか。だが今さら細かいことに拘泥しても、しょうがないじゃないか。
「俺がユーリ・オルーラを斃したら、すぐに北方に軍を向ければいいじゃないですか。バルスタールを占拠している敵の大軍は俺が退けます」
「おお」
ヘンリクが明るい顔になって感嘆の声を漏らした。
「行ってくれるか? イシュル君」
「はい」
イシュルは無表情な顔で頷いた。
……とらぬ狸の皮算用だが、敵将を斃し金の魔法具を手に入れたら、あとはさっさと後顧の憂を断ち、ブレクタスの地下神殿の探索準備に取りかかりたい。
他にも懸案事項があるにはあるが、今この時点で細々とした先のことを考えてもしょうがない。
「それより、味方から裏切り者が出たのは、むしろ喜ぶべきことでは?」
イシュルは意地の悪い笑顔をヘンリクに向けた。
「これで戦後の恩賞をどうするか、困らずにすむ」
北方の城塞都市アンテラに立て籠もる諸将をはじめ、戦功を上げた者には恩賞を与えねばならない。元寇と同じで、ただ敵を追い返すだけでは、彼らに与える新たな領地を獲得できない。今、ラディス王国に連合王国へ攻め込む余力はないだろう。
敵に寝返った者が出たのなら、彼らの領地を取り上げてしまえば良い。
「ふふ」
ヘンリクは小さく笑うとイシュルにひとつ、頷いてみせた。
その後、軍議では王城南側までの進路の確認、指揮権の確認などが話し合われた。
王城までの行程はまず、王都街道をルダーノという宿場町まで西進、そこから二股に分かれるクストレール街道(南街道)を南下し、途中、森林地帯にあるバシュタ村近隣で隠し道に入る。
その後は王都市街外縁で馬を乗り捨て、加速の魔法具を持つ者、同等の動きのできる者たちで王城南側から進入する。
これはイシュルら先行部隊、実質決戦部隊──に新たに加わることになった、フリッド・ランデルやマリド姉妹らのために、ドミルの方から再度説明がなされた。
先行部隊の指揮は敵の総大将、ユーリ・オルーラ発見まではドミルが執り、発見後はイシュルとリフィアにミラ、それにヨーランシェとシャルカのいわば突撃班と、残りのメンバーの支援班の二つに分かれ、イシュルとドミルがそれぞれの指揮を執ることに決まった。
「……それで、戦闘に参加する者をもうひとり、連れて行きたいのですが」
軍議の最後の段で、イシュルは心のうちに温めていた提案を、一同を見回し言った。
リスクはあるが、これは大事なことなのだ。
「宮廷魔導師のニナ・スルースを同道したい」
周りの者たちに向けるイシュルの視線は挑むような、対する者に掴みかかるような厳しいものだった。
「……!?」
「はっ?」
幾人かが驚きの声を上げ、あるいはその顔に不審の色を表す。
「ニナは疾き風の魔法は使えんぞ」
フリッド・ランデルが、イシュルに険しい顔を向けて言った。
「それは俺の方で何とかします」
……彼女に起こされ、あの魔法を使われてから時間がなく、詳しい話はまだ聞けていない。
だが、彼女が治癒魔法に近いレベルの魔法を習得したことは確かだった。
彼女は単なる疲労快復だけでなく、裂傷などの手当てもできると言い切ったのだ。
これは驚くべきことだった。彼女を連れて行くことを嫌でも決意せざるを得ない、重大事だった。
人間の体内では、ホルモンなど無数の物質が生成、分泌されている。そこには必ず、何らかの形で水、水分が関わっている筈である。
それらの物質に加え血液など他の体液を、つまり人体のすべての液体、水分を支配しコントロールするということは、人間の生理そのものを支配しコントロールすることと同義と言えないだろうか。
彼女の魔法が体内を流れる感覚……。あれには恐るべき事象が隠されているのではないか。
俺にまともな医学知識はない。だからはっきりとはわからないが、もしニナの水魔法が人体の深淵にまで到達しているのなら……。
「……」
イシュルは訴えるような気持ちでミラとリフィアの眸を見つめ、続けて同じ視線をマーヤとアイラに向けた。
赤帝龍討伐に向かう時、ニナに魔法を、その使い方を教えて欲しいと言ってきたのは他ならぬマーヤだ。そのことは同行したアイラも知っていたろう。
生物の体内から、水分を強制的に体外に排出させるあの魔法のことは、ニナには堅く秘すように言ってあるが、マーヤはニナが何か、新しい魔法の修行をはじめたことには気づいているだろう。
マーヤ、だから……。
言ってくれ。力をかしてくれ。
「ん」
マーヤがその丸い眸を、じっと向けてきた。
彼女が、俺の心に寄り添ってくる……。
「イシュルがどうしてもニナを連れて行きたい、というのなら、わたしは反対しない」
「わたくしもです」
マーヤが、そしてアイラも続いて口添えしてくれた。
「むう……」
フリッドはマーヤとアイラの言に、何かワケありな様子を感じとったか、その後は何も言ってこなかった。
「よろしい。ニナ・スルースの参加を許可しよう」
ヘンリクが裁定を下した。
彼の眸が笑っている。
あの時、マーヤにニナの面倒を見るよう言わしめたのは、この男なのだろう。
「……」
イシュルは無言でヘンリクに頭を下げた。
イシュルは出発前に一度、休憩に割り当てられた二階の自室に戻った。
室内にはロミールに届けてもらった私物の入った麻袋が置いてあった。中から水筒や手布、火打石や油紙などを取り出し、水筒をベルトに吊り、その他の小物をコートのポケットに突っ込んだ。
父の形見の折れた剣、投げナイフなどは以前から身につけている。
それからゆっくり首や肩を回し、腰や膝をかるく屈伸する。
続いてイシュルは剣の柄を握り、遠く世界の果て、その彼方に流れる風の流れへ意識を向けた。
心の中を渦が巻き、脳裏に風の剣の像が形を現しはじめると、そっと父の剣から手を離した。
からだから、周囲から吹き上がってくる大いなる力──それが霧散し、どこかへ消えていく。
同時に部屋の外にひとの気配がして、扉がノックされた。
「イシュル」
「イシュルさま」
イシュルが扉を開けるとリフィアとミラが部屋の中に入ってきた。
「そろそろ出発だが……」
リフィアの顔が険しい。
「ああ」
イシュルも気合を入れて頷くと、ミラが横から硬い口調で言ってきた。
「スルース殿のことですが、どうして連れて行くのですか?」
ミラも厳しい表情をしていた。
……そっちか。
イシュルはちらっとリフィアの顔を見やった。おまえも敵との戦いの前に気合が入っている、ってわけじゃないのか。
「ニナのことか……」
「マーヤ殿、それにヘンリクさまも何か事情を知っているような感じだったな」
「ああ」
さて、ニナの新しい魔法のことは、このふたりには話すとして……。
ミラとリフィアはいい。チームで動くのだ。俺とニナだけしか知らない、ではまずいだろう。問題は、ドミル・フルシークにも話さなければならないことだ。
ユーリ・オルーラと戦闘に入れば、支援にまわる彼らとは距離が開く。そのように持っていきたい。ニナにはリフィアやミラのような防御力は望めないから、彼女はその時は当然、ドミルらと行動をともにすることになる。
だから最低でも、指揮をとるドミルには知らせておいた方が良い。だがそれは必ず、いずれヘンリクにも知られることになる。
ニナの新しい魔法は光系統のそれとはまた違う、別種の治癒魔法だ。俺が教えた攻撃魔法とは違う。特に秘密にする必要はない、と言える。
パーティなら治癒魔法を使える者、ヒーラー。軍隊なら軍医や看護兵。
彼らの存在がどれほど重要か、それは言わずもがなだ。
効果的な治癒魔法を使える神官は少ない。王都の主神殿には大神官や聖神官もいるが、彼らを戦闘に参加させるわけにはいかないし、そもそも今も神殿にとどまっているか、わからない。
今回だけではない。ニナは貴重な治癒魔法の使い手として、宮廷でも大事に扱われるだろう。
だがそれは、宮廷における勢力争いや内紛に、否応なく巻き込まれることを意味する。
それにまだ、彼女に他の者に教えていいかどうか、確認をとっていない。
だが、ドミルらに知らせておくべきなのは確かだ。今一番大切なことは、敵将に勝つこと、連合王国に勝利することなのである。
「仕方ないか……」
「ん? はっきりしないな。どうした? イシュル」
「イシュルさま……」
イシュルが顎に手をやり呟くと、リフィアとミラが覗きこむようにして身を寄せてきた。
ふたりとも、険しい表情が心配そうな顔に変わっている。
「ふたりには話しておくよ。あと、ドミルにも……」
イシュルはミラとリフィアの眸を交互に見ながら、ニナの秘密を口にした。
「ニナは新しい治癒魔法を──」
イシュルがニナの魔法で疲れが取れ、爽快な気分で目覚めたことを、その後彼女と話したことを説明すると、ふたりは目をむいて驚きをあらわにした。
「なるほど、わかった」
「……わかりましたわ」
イシュルがなぜニナを連れて行くことにこだわったか。
それをしっかり理解したリフィアとミラは、重くゆっくりと頷いた。
城館の前でみな馬に乗り、いよいよ出発する段になって、館の西側に並ぶテントの奥から同じく騎乗したニナが姿を現した。
「イシュルさん、よろしくお願いします」
ニナが馬上から声をかけてくる。
「ああ。こちらこそよろしく、ニナ」
篝火の揺れる炎に、喜色を浮かべたニナの顔が揺らめく。
「では行くぞ」
ニナに頷くイシュルの前で、ドミルがしわがれた低い声を発した。
館の前に見送りに出てきたペトラとマーヤが、イシュルをじっと見つめる。
焔(ほむら)に煌めくリフィアとミラの、少し上気した顔。
「……」
イシュルは彼女たちを見廻し微笑みを浮かべ、ひとつ頷いてみせた。
手綱を引く。
後は征く者も見送る者も、声ひとつ発しない。
馬の嘶きと馬蹄の音に、騎馬の群れは暗闇に溶けるように消えていった。
月が雲間に隠れ、ちらちらと瞬く星々の下、松明もなしに暗い道を行く。
ただシュバルラードの動きに合わせるだけだ。不安はない。
隊列の先頭を、黒く塗りつぶされたリフィアの騎乗姿が規則正しく揺れ動く。
その落ち着いた様子は、イシュルにもそれとわかる優れた乗り手であることをうかがわせる。
リフィアの後ろにドミル、次にイシュルが続く。
イシュルの後ろにはニナ、ミラにシャルカ、マリド姉妹、そしてフリッド・ランデルに“精霊神の髭”の男たちが二名、ロミールら従者たちと続く。
一隊は時おり速歩(トロット)を混じえ王都街道を西進、ルダーノで南街道に入ってしばらく行くと、小休止になった。
街中にも街道にも、人影は一切見えなかった。まだ王都からの避難民も、近辺には達していない。
「ドミルさん」
馬を降りるとイシュルはまずドミルに声をかけた。
「ニナ。きみもいいかな」
そしてニナを呼んだ。
「はい、イシュルさん」
暗がりにニナの白い顔が浮かび上がる。
“髭”の男たちやロミールらが、街道のすぐ南側を流れる小川に馬を曳いて行くと、イシュルとドミル、そしてニナの三人は街道の脇に寄って小声で話しはじめた。
「ニナ。リフィアとミラにはきみのあの新しい魔法のこと、簡単に話したんだ。ドミル殿にも話しておいた方がいいと思う。どうかな?」
「はい、イシュルさんにおまかせします」
ニナはそれだけを言って口をつぐんだ。
「何かな?」
ドミルが首を傾け、明るい口調で言ってくる。
暗闇にあの皮肉な笑みを浮かべているのが、何となく伝わってくる。
「ニナを連れてきた理由ですが……」
イシュルがミラとリフィアの時より、大まかに説明する。
「なんと……」
ドミルはイシュルの話を聞くと言葉を失い、驚きを隠さなかった。
「なるほど、水系統の宮廷魔導師には止血のできる者もいるが……。疲労快復ができるだけでも大変なことだ」
「このことはなるべく内密に願いたい」
「主(あるじ)には伝えるがな」
ドミルは「ふふ」と小さく笑うと続けて言った。
「そう秘密にすることでもあるまい。ニナの治癒魔法のことは周りにも知らしめた方がよい。その方がむしろ彼女は安全だ」
でないと、彼女はヘンリクさまに飼い殺されることになるやも知れぬと、ドミルは冗談半分に物騒なことを言った。
「とにかく、今回の戦闘でも彼女が重要な駒であることに変わりはない。ニナのことはよろしくお願いします」
ユーリ・オルーラとの一騎打ちになれば、ニナとは離れ離れになる。
イシュルが一番伝えたかったことを話すと、ドミルは「もちろん」と、大きく頷いた。
暗闇でもはっきり、それとわかった。
休憩が終わるとイシュルたちは再び街道を南下、王都の南東を回り込むようにして馬を進めた。
隊列の先頭はリフィアからドミルに変わり、馬足が幾分速くなった。西の空に下弦の月が現れ、遠くブレクタスの山並みを微かに照らし出した。
山々には薄く雲がかかり、イシュルたちを誘うように北へと流れ、動いて見えた。
街道をしばらく行くと、辺りは両側を巨木に囲まれた森になった。森に入るとすぐに、ドミルは街道の北側に伸びる小道に入った。
林間の小道を行き足を落として進んで行くと、丸太の積み上げられた小さな広場に行き当たった。
奥の方には木こり小屋や炭焼き場か、幾つか建物の影が見える。
一行はそこで馬を降り、馬を引いて小屋の間を抜けて行った。
行き止まりには、丸太で組まれた柵があった。右側に小さな門があり、その脇にカンテラを捧げ持つ老人らしき男が一人立っていた。
鉄枠で締められた丸太の扉は開かれている。
「……」
老人はドミルが目の前を通りすぎると、無言で頭を下げた。
……ヨーランシェ。
イシュルは門の手前に来ると、心の中で風の精霊に呼びかけた。
ここから先が隠し道、というわけだ。この広場周辺がバシュタ村、ということになる。
門扉の先には、馬二頭が横に並んで走れるほどの幅の道が続いていた。道の先の方は木々の影に覆われ、暗闇に沈んでいる。
……異常なし。道の先に怪しい気配はないよ。
すぐにヨーランシェの声が返ってくる。脳裏を彼の少し暢気な声音がこだまする。
「急ぐぞ」
一同が隠し道に入ると、ドミルがイシュルたちに振り向き言った。
その後は馬を飛ばし、駈歩に時に襲歩(ギャロップ)混じりで森の中を進んだ。
あっという間に再び木々が割れ、小さな広場に出た。
目の前には崖が迫り、正面には炭鉱の坑道口のような、木材で囲われたトンネルがあった。
「ここから先は徒歩で向かう」
ドミルは一同を見回し、低い声で言った。
「この洞窟を疾き風の魔法で走破し、王城南宮のそば、アルメントの廃城に出る」
「アルメントの廃城?」
「アルメント城だ。昔の王城の支城だな。今は使われていない」
イシュルが小声で呟くと、傍にいたリフィアが教えてくれた。
「ここは百年くらい前かな? むかし鉄鉱山だった廃鉱だ。今は暗くて見えないだろうが、森の中には石造りの建物の土台がまだ残っている」
リフィアに続いて、フリッドがイシュルとミラに説明してくれた。
「その坑道に手を加えて廃城につなげたわけだ。馬も曳いていけば通りぬけられる筈だが、時間がない。ここから先は疾き風を使って、一気に王城内まで突き進む」
と、ドミル。
「……」
「わかりましたわ」
イシュルたちが無言で頷き、ミラは声に出して答えた。
「確か敵軍の旗印は王冠に羽、でしたね」
イシュルは以前、トラーシュやルースラに聞いた敵軍の情報を幾つか、ドミルに再度確認すべく、質問しはじめた。
「うむ。深緑の地に金と銀だ」
敵支隊はオルーラ大公国の騎士団が主体となっている筈だ。オルーラ大公国の紋章は、濃い緑色の地に左右に広がる銀色の羽、中央に金色の王冠、である。
そして……。
「敵の総大将、ユーリ・オルーラは俺と同(おな)い年で、背格好もよく似ている」
イシュルは暗闇に星の光を拾って薄っすらと光る、ドミルの眸を凝視した。
「それで鉄の仮面をつけているとか」
「うむ。噂では精霊神の呪いのかかった仮面であるとか。ユーリ・オルーラが金の魔法具を鉄神ヴィロドから授けられたのと、その鉄仮面を精霊神アプロシウスからつけられたのは、同じ頃なのだそうだ。いかにも怪しい……」
ドミルが白い歯を見せて笑みを浮かべると言った。
「いわくありげな話だ。人の噂とはそういうものだが」
ユーリ・オルーラの顔面に被された鉄仮面は、本人の命が尽きるまで外すことができないと言われている。
俺の前に月神レーリアが現れ、またもや挑発してきた。そしてユーリ・オルーラに金の魔法具が授けられたのと、同じ時期に彼の顔に着けられた精霊神の仮面。
そこにレーリアたち神々の何らかの意図を、作為を感じずにはいられない。
ルースラは行軍中の酒席で、さらにその鉄仮面がユーリの憎悪を煽り心を歪め、征服欲を駆り立てているのだ、そう連合王国の人々が噂していると話した。
「それではわたくしもここで準備させていただきますわ」
ミラがそう言ってシャルカを伴い広場の隅の方に移動していく。
周りではロミールらが複数の馬の手綱を引き、来た道の方へ一箇所にまとめはじめている。
「我が精霊よ、汝が鋼(はがね)の力を我に与え給え……」
「我が神ヴィロドよ。鉄心の鎧を我とひとつに合し給え……」
ミラが呪文を唱えはじめると、シャルカもそれに答えるように、違う呪文を唱える。
ふたりの詠唱が終わるとシャルカの姿が消え、ミラの魔法具、“鉄神の鎧”が姿を現した。
そしてその鈍い銀色の全身鎧は赤く光ると突然形を崩し、液体のように流動して渦を巻き、夜闇に眩い輝きを残して消え去った。
シャルカに向き合うようにして立っていたミラは両手を水平に伸ばした。するとその指先から白色に煌めく光点が現れ、その光が拡散し瞬く間に彼女の全身を包み込んだ。
林間を閃光が走った。
眸を貫くような光が消えると、そこに全身を金色に輝く甲冑で覆われたミラが立っていた。
「おお」
「!!」
マリド姉妹や“髭”の男たちなど、周りから驚きの声が上がる。
「ほう……」
横からドミルとフリッドの感嘆する声が聞こえてきた。
「す、凄いです」
そして後ろからニナの小さな呟きが聞こえてきた。
「……」
リフィアはすでに聖都でミラの変身を見ている。
彼女は無言で不敵な笑みを浮かべていた。
「ふふ」
華麗な甲冑に身を固めたミラは、妖しい雰囲気を漂わせて微笑む。
……神々の意図が何辺にあろうとも。
俺は必ずそれを打ち砕いてやる。
ユーリ・オルーラよ。お前にかけられた鉄仮面の呪い、俺が解いてやろうじゃないか。
ミラの熱い輝きはイシュルに、周りの人々に、新たな勇気を奮い立たせた。
「イシュルさん、それでは。ご武運を」
ロミールがイシュルに別れを告げてくる。
彼らはこれからイシュルたちの馬を曳き、大公軍本隊へ合流することになっている。
「ああ。まかせろ」
イシュルは暗闇にロミールに向けて微笑んで見せた。
「では行くぞ」
ドミルは坑道の入り口に立つと、右手を前方に水平に伸ばして、黒い霧のようなものを射出した。
真っ黒の穴の奥でおそらく朽ちた扉か、ガタッと音がすると、その場からドミルの姿が消えた。
ドミルは闇の精霊、悪霊を先行させ、黒い穴の中に姿を消した。
続いてリフィアが、ミラが、坑道の中に消える。
「イシュルさん? わたしたちは後ろからついてまいりますわ」
リリーナ・マリドが声をかけてくる。横でアイラとフリッドが頷く。
「わかりました」
イシュルは彼女に柔らかな声で返事をすると、片手に銀の腕輪を握った。
……ネリーよ。
その腕輪の前の持ち主の名を心の中で呼ぶと、辺りから音が消え、世界の全てが一歩、後ろへ引き下がったような感覚に襲われた。
イシュルは黒い穴の中に飛び込んだ。
足場が悪いのではないか、というイシュルの心配をよそに、古い坑道の中は砂利で踏み固められ、岩壁を比較的新しい木材で補強されていた。
目に止まる角材、ぼんやりと一部が光る岩肌。
その一瞬後にはまた違った角材が、岩肌に変わっている。
一歩一歩足を踏み出すたびに、岩肌の流れがその瞬間で切り取られ、紙芝居のように視界を横切っていった。
前を行くミラとリフィアの、暗闇にぼんやりと浮かぶ後ろ姿も、その切り取られた瞬間の映像がコマ送りのように繰り返されていく。
やがて先を行く彼女たちの先に、ぼんやりと薄く輝く青色の光が見えてきた。
青い光はものすごい速さで黄色い、暖色の光に変わっていく。
気づくといつの間にか、周りを古い城壁に囲まれた一角に出ていた。
朝露に濡れた下草が足下にまとわりつく。
先に着いたドミル、ミラとリフィアが北に伸び上がる丘の方を見つめている。
リリーナ、そして加速の魔法具を持たないニナを背負った、力自慢のアイラが突然、姿を現した。
最後に殿(しんがり)のフリッドが、一部が崩れおちた城館の片隅に立つ。
秘道は城館の裏手、使用人が出入りするような裏口と繋がっていた。
「……」
アイラが無言でニナを地面に下ろす。
気づくと加速の魔法は自然に解けていた。
皆の見つめる北の丘は、木々の向こうに大小の塔と、複雑に連なる城館が鋭角の光を浴びて、その東側が輝いて見えた。
今まさに日の出の、刺し貫くような水平の光を浴びて輝いていた。
明けそめる東の空、青く輝きはじめる北の空。
そこに突然、金色に輝くオーロラのような魔力のベールがさざめき、波をうった。
壮大な、途方もなく大きな魔法の煌めき。
その光の壁の中に無数の光点が生まれ、ゆっくりと地上に落ちていく。
やがて今まで聞いたことのない、奇妙な音が辺りに響いてきた。
無数の金属が打ち鳴らされ、壊れていく悲鳴のような音の重なりだ。
「金(かね)の大魔法……」
誰かの呟く声が、イシュルの耳許に聞こえてきた。
心が疼く。心が鳴る。
これは……。
「やつが近くにいる」
イシュルは低い声で、唸るように言った。
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