涙 1
「とりあえずは以前と同じ、きみの警護を第一に、だね」
ヨーランシェ・イングヴァルェは、指先で弓柄のあたりをコツコツと叩きながら言った。
彼は口元だけに微かな笑みを浮かべ、首をわずかに傾けイシュルを見つめてくる。
ヨーランシェがいつも浮かべる微笑は、あのギリシア彫刻の微笑みにそっくり同じ、正体の知れないものだ。
イシュルにはそれが自身に対する親しみでも追従でもなく、ひょっとすると自分自身に向けられたものでさえない、なぜかこの世を、世界の全てを嘲弄しているかのような、不思議な笑みに見えた。
……あるいは、その厭世に隠された自嘲。
ヨーランシェは複雑だ。でも彼の韜晦にはどこか甘さがあって、それが妙に俺の心をざわめかせる。
「まだ俺は金(かね)の魔法具を持つ敵の主将、ユーリ・オルーラのことを知らない。どんな金の魔法を使うか、まだ一部しかわかっていない。だが、やつの持つ力がどれほど大きなものか、その恐ろしさはわかった」
ヨーランはその笑顔のままだ。
彼には今、先ほどトラーシュから知らされた大まかな戦況を、説明しているところだ。
おそらく戦争の、闘争の巨大な渦の中で、金の魔法具を持つ者と対決することになる──そのことはもう話してある。
「でも“金”と“風”の魔法の基本は、神の魔法具であろうと変わらない」
イシュルはヨーランシェの笑みにあらがうように視線鋭く、その美貌を見つめた。
「やつとどう戦うか。おおまかにだがもう、考えてあるんだ」
ほんの微かに、精霊の笑みが深くなる。
「やつに対してこちらはまず、空に上がって戦う」
やつはもう、
あの無限の魔力の渦巻く異界、精霊の領域に。
バルスタール城塞群を二日で占領、突破したのだ。その魔法力、規模の大きさには驚くべきものがある。
加えて本来、金(かね)の魔法の特徴である破壊力の大きさ、特に物体に対する貫通力がどれほどのものになるか、想像がつかない。
前世のものと比較するのなら、対戦車、あるいは地下施設攻撃用の特殊な砲弾や誘導弾の貫通力を、かるく凌駕するのではないか。それはもはや、ただの“鉄の槍”ではない。金の魔力で固められ覆われた、この世にあらざるものになっているだろう。神の魔法具の力とは、そういうものだ。
非常に危険である。警戒すべきだ。
やつがその鉄の槍、とやらで攻撃してきたら、こちらの風の魔力の壁では防ぐことができないだろう。
だが、真正直に正面から防ごうと、力比べをする必要はまったくない。
鉄の槍が、鉄の弾が襲ってくるのなら、横から薙ぎ払えばいいのだ。
同じ神の魔法具の力だ。やつの魔力そのものに干渉することは、おそらく不可能だろう。
だから敵の力をいなし、逸らす。
空は、大気の、空気のある空間は俺の領域だ。風の魔法使いの縄張りだ。
いかな金の魔法具の力であろうと、好きにはさせない。
大空は俺が支配する。
「ヨーラン。きみにはひたすら牽制に徹してもらう。その間に俺は……」
イシュルはさらに眸を細めてヨーランシェを見つめた。
「ごめん、剣さま。でも、相手も大精霊を召喚して、牽制に使ってくるかもしれないよ」
ヨーランシェは笑みを消すと珍しく、イシュルを遮ってきた。
「うん? ああ……」
それはもちろん、考慮している。
敵の精霊はむしろ、俺が直接相手をすることで──。
「きみはさっき、敵の主将のことをまだよく知らない、と言ってたじゃないか」
ヨーランシェは再び笑みをのぼらせ、今度はまったく裏のない、やさしげな笑顔になって言った。
「もうすこし、敵のことを調べてからでもいいんじゃないかな。どう戦うか、それを決めるのは。まだ慌てる必要はないさ」
風の精霊は顔を少しうつむけ、涼しげな眸の色でイシュルを見上げてくる。
イシュルは控えの間のひとつ奥の部屋、応接室か談話室のような部屋の真ん中で、ずっと立ったままだ。
「それに心配は無用だよ。だって、きみはイヴェダさまに会ったんだろ?」
彼の爽やかな笑顔が少し、歪んで見えた。
「イヴェダさまの授けた風の剣に、斬れないものはない」
「ああ、だがな……」
イシュルはヨーランシェの言に顔を曇らせらた。
……あれの使い方には気をつけないといけない。
もし空中から全力で、地上にいるであろう敵に向けて放ったらどうなるだろう。
それこそ地は裂け天は落ち……なんてことにならないだろうか。
おそらく何百キロにも渡って大地を斬り裂き、その刃がどれほど地中奥深くまで届くか、相手を斃す云々以前に、どれほどの天変地異が起きてしまうか、それは恐ろしいことになるだろう。
だがその点はもう、考えてある。
風の剣は周りの空気、大気そのものにはあまり干渉しない。そのことは大聖堂で、マレフィオアを斬り伏せた時にわかっている。
要は地上に向けて、風の剣を放つようにしなければいいのだ……。
「ユーリ・オルーラも、金神ヴィロドから最強の業(わざ)を授けられたのだろうか」
イシュルのなかば独り言のような呟きに、ヨーランシェはふっとからだを起し、視線を窓外の暗闇に向けた。
「……それはないと思う。風の剣のような業はふつう、人には伝授されないものなんだ。風の魔法具を手にした人間はこれまでにも何人かいたけれど、風の剣をイヴェダさまから教えられた者は、いなかったんじゃないかな。……きみはイヴェダさまのお気に入りだから」
ヨーランシェは、「イヴェダさまのお気に入りだから」のところでイシュルに顔を向けてきた。
彼にしては珍しく、満面の笑顔だ。
「ましてや人間の魔法使いでは、決してあの業を生み出すことはできない」
「そうなのか……」
つまり世界を成す五元素の魔法の、いわば最終奥義みたいな大魔法は人間には伝わっていない、ということだ。
しかしクラウもそうだったが、イヴェダの降臨以降、禁が解けたのか、こういったことも隔意なくしゃべってくれるようになった。
「金神のことなんてわからないけど、その敵の主将は……」
ヨーランシェはそこで話をやめ、ふと視線を部屋の外、廊下の方へやった。
「誰か近づいてくる。たぶんこの部屋に向かってる」
「うん?」
イシュルは注意を、宮殿の建物内側の方へ向けた。
二人か? 近づいてくる。
イシュルたちは皆それぞれ、宮殿西側に一室を与えられている。
リフィアとミラたちの部屋も同じ二階で、同じ廊下に面していた。ちなみに今現在は部屋の前に衛兵もおらず、控えの間に使用人が控えている、ということもない。
イシュルが隣の控えの間に移動すると、ちょうど扉が外からノックされた。
「イシュルさま。ミラでございます」
表面を白塗りされた厚い扉の向こうから、くぐもった声が聞こえてくる。
「イシュルさま!」
イシュルが扉を開けるとミラが眸を輝かし、叫ぶようにイシュルの名を言ってきた。
彼女の背後にはシャルカがいた。
イシュルの部屋に近づいてきた者はミラとシャルカだった。
「ミラ……」
イシュルはふたりを室内に招きいれると扉を閉めた。
シャルカはヨーランシェの気配を感じるのか、しきりに首を左右に振って周りを見回している。
イシュルは隣の部屋にちらっと意識をやった。ヨーランシェはもう姿を消している。
「あの、晩餐まであまり時間がないと思ったのですが、イシュルさまとお話したいことがあって……」
ミラがつつ、とイシュルの前に身を寄せてきて、心なしか潤んで見える眸を煌めかせ、見上げてくる。
精霊を召還する時、イシュルはひとりになりたかった。ひとりでやりたかった。
だから周りからの誘いを断ったのだが、うまくヨーランシェの召還に成功し、彼と話すこともできた。もう、ひとりでいる理由はなくなった。
「わかった。隣の部屋に行こう」
イシュルは、ヨーランシェを召喚した応接室の方へミラたちを案内し、部屋の端の方に垂れ下がる紐を摑んで呼び鈴を鳴らそうとした。
「お構いなく、ですわ。イシュルさま」
イシュルはメイドを呼んでお茶でも持ってきてもらおうとしたのだが、ミラはそれを遮ってきた。
「金の魔法具のことで、お話したいことがあって参りましたの」
「そう……。じゃあ、適当な椅子に座って。シャルカも」
イシュルはミラの顔を見て、ふと思いたった。
「その話の前にミラ。何かあったら、不安なことがあったら何でも俺に言ってくれな? ここはきみにとっては異国の地、なんだから」
……聖都では彼女は俺に、どれだけのことをしてくれただろうか。それはただ正義派の助っ人だから、重要な戦力だから、では済ませられない、心のこもったものだった。
「まぁ、イシュルさま。嬉しいですわ」
ミラは顔をほころばせ素直に喜びを表したが、すぐにお気遣いなく、と言ってきた。
「わたくしはイシュルさまの手助けができればいいのです。その……イシュルさまといっしょにいられるだけで、それでいいのですわ」
ミラは笑みを消し、むしろ真剣な顔になってイシュルを見つめてくる。
彼女の眸の底に、妖しい光が微かに灯る。
「うん……、あ、ありがとう」
ふたりは部屋の真ん中に並べられた長椅子に、それぞれ向かい合って座っている。シャルカは部屋の端に、立ったままでいた。
結局、こちらから礼を言うような展開になってしまった。
いや、ミラの眸の煌きに俺は……。
「ふむ」
その時、イシュルの背後から柔らかな風が吹いてきた。
微かな魔力が煌めき、ヨーランシェが姿を現す。
「はっ。……これは」
弓使いの風の精霊はイシュルを挟み、ミラと真正面から向き合う位置に降り立った。
「まぁ、なんて美しい大精霊さま!」
ミラの華やかな声音が室内に響く。シャルカはかるく後ろに仰け反るとそのまま固まった。
……ヨーランはやはり大精霊なのか。
イシュルは後ろを振り返って、そう呼ばれた風の精霊を見上げた。
精霊の強そう、弱そうくらいはもちろんわかるのだが、相変わらず大精霊かそうでないのか、見た目だけではちっともわからない。風の精霊は特にわからない。
「剣さま」
ヨーランシェはいつもの不可解な、甘い微笑をミラに向けるとイシュルに声をかけてきた。
「きみもなかなかだね。……この前とは違う女の子じゃないか」
はっ? な、なにを……。
この前とは違うって、リフィアのことか?
以前、はじめてヨーランを召喚したのはアルヴァ城で、辺境伯を殺そうとしていた時のことだ。
「……!!」
殺気を感じて前を向くと、目の前にミラの顔が迫っていた。
ひいいいいいっ。
イシュルもシャルカのように固まる。
もはやミラの眸に、甘い輝きは欠片もなかった。眉を吊り上げ、射抜くような視線がイシュルを打ちのめした。
「先ほどの軍監の方からのお話で少し、金の魔法具を持つ敵の総大将のことで気になったことがございますの」
「あ、ああ」
あいつ、わざとだな。わざとやったんだ。
あの後、ヨーランシェはくすっと笑うとすぐにまた、姿を消してしまったのだ。
あれで大精霊かよ。子供がするようないたずらだ。俺をからかっただけじゃないか。
幸い、状況が状況なだけに、なのか、ミラはすぐに矛を収めてくれたが。
「イシュルさま。わたくしの話、ちゃんと聞いてくださってますの?」
「も、もちろん。……ミラは金の魔法使いだものな。何かピンとくるものがあったんじゃないか」
「はい、そうですわ」
ミラは一瞬怖い顔になったが、すぐに機嫌を直して笑みを浮かべた。
……まずい。し、集中しないと。
しかし、ミラの機嫌がもともと悪くなかったせいか、大事にならず良かった。
「それで、敵の使った金(かね)の魔法を、どう思った?」
「敵の大将の、特に地中から突き出すようにして使ったという、“鉄の槍”と、堀に渡した鉄板、というのが変わっていますわね。そんな魔法の呪文はありませんし、金(かね)の魔法使いはふつう、そういう使い方はしませんわ。空からお城に向けて放った方の鉄の槍は、まだわかりますが……」
ミラは顎に手をやり視線を泳がす。
イシュルは視線をふと、彼女の後ろに立つシャルカに向けた。
今はヨーランシェが消えて気配がなくなり、シャルカは落ち着きを取り戻している。彼女も胸の前で両手を組み、難しい顔をして何事か考えている。
「わたしもそうですが、ふつうは鉄球にして使う方が多いと思いますの。その方が破壊する範囲が幾分広がりますし、方向を変えることが容易で誘導しやすいですから」
「貫通力にこだわったんだろう。対象は城塞だからな。破壊面が小さいことの不利は数で、規模で補ったんだ。鉄槍を突き刺した後はおそらく、鉄を融解させて火災を起こしたんじゃないか。主要な構造物を破壊した後に火事、となれば致命的だ。それで終わりだ。守備側に強力な魔導師がいても、どうしようもなかったろうな」
「イシュルさまのお考えはご最もなのですが……」
ミラはさらに難しい顔になって言った。
イシュルが言ったことはつまり、相手は無尽蔵の魔力で、物量で押し切ったのだ、ということである。
「敵方の金の魔法の使い方があまりにも単純なのです。その力の大きさに頼っているだけ、に思えますの。おそらくユーリ・オルーラは金の魔導師の教えを受けていませんわ。それに」
硬い表情だったミラの面上に笑みが広がる。
「イシュルさまのように、レニさん──いえ、風神から直接大魔法を授けられていない、これだけは確かですわ」
「そう、だな……」
バルスタール城塞線を一日二日で破壊しつくす、なんてことをするのなら、金(かね)の魔法の奥義と呼べるような大魔法を、金神ヴィロドから直接授けられるような業(わざ)、“神の御業”を使うのが道理だろう。
ミラははからずも、ヨーランシェの言ったことと同じようなことを言ってきた。
ユーリ・オルーラは金の魔法の修行をしていない、ヴィロドからまだ、教えを受けていない……。
「ですから、イシュルさまが負けることはありえませんわ。イシュルさまは魔法の天才。あれほど多彩で美しく、見たこともない魔法を使う者など、この世におりませんもの」
ただレニは、「風の魔法具を持つ者は、既存の魔法を無理して覚える必要はない」とも言っている。つまりはその力の巨大さで、なんだって押し切れるじゃないか、と言っているわけだ。
敵の総大将の金の魔法の使い方も、レニの言ったことと合致している。ユーリ・オルーラのやっていることは単純明快、理にかなったやり方でもある。
だから彼は意図的に金の魔法の修行をしていない、必要ないと考えているのだろう。
だがそのために、やつの使う魔法は単純なものばかりで多彩さが感じられない。本人の元から持っている魔法の知識、発想力だけで金の魔法を行使しているわけだ。
それなら前世の知識を持ち、イヴェダから直接教えを受けた俺の方が、ミラの言うとおり有利なのかもしれない。
まだ敵の総大将、ユーリ・オルーラの使う魔法の情報は断片的で、そうと決めつけ結論づけるのは性急に過ぎる。
だが、トラーシュの話を聞いてミラの感じたことは、俺がやつに対して感じたこととほぼ同じだった。
それにミラはかつて、俺に風の魔法の知識が欠けているのを、見事に看破してみせたのだ。
「わたしは此度の戦(いくさ)、まったく心配しておりませんわ」
ミラはにこにこして言う。
彼女の機嫌がいいのはこれが理由だったのか。
「イシュルさまはイヴェダさまから神の御業を授けられたのです。そのことをもっと、重く受け止めるべきですわ」
「うん……」
それはそうかもしれないが。
「でも、今度の敵は金の魔法を使います。わたしはあまり、お役に立てないかもしれません」
そこでミラは表情を曇らせた。
彼女は続いて、自分の魔力は敵の同じ金の魔法に飲み込まれ、有効に働かないだろうと説明した。
「それは大丈夫だ」
かわって今度はイシュルに笑顔が浮かぶ。
「ミラの魔法は使えるよ。そこら辺は考えてある」
「……?」
一瞬、言葉がでないミラ。イシュルは彼女の背後に立つシャルカに顔を向けた。
「例えばだ、シャルカ。戦闘時、いざとなったら大量の鉄球を空中に浮かべてくれ」
「ああ」
シャルカはイシュルの考えがわかるのか、わかっていないのか、ただいつもの無表情で頷く。
「その鉄球を俺が
「え? それは」
ミラが目を見張って背筋を伸ばした。
「風の魔法具は他の魔法、特に他の四元素の魔法にも重ねがけができるのさ」
「まぁ……そうでしたの」
ミラの驚いた顔に再び笑みが広がる。
「それは、とても恐ろしいことになりますわね」
「ああ」
風の魔法は他の系統魔法、火、土、水、金の魔法と比較し、どうしても“斬る”以外の攻撃力や防御力に、やや劣る傾向がある。所詮、風は気体の動きに過ぎないから、だろうか。
だが、特に屋外の大気中、つまり気体の存在する広い空間では、風の魔法は他の系統魔法に対し強い影響力を及ぼす。
風の魔法具によるあの爆発的な魔力で個体である金属を加速させれば、金の魔法により生み出され、コントロールされる同じ金属による攻撃を、はるかに上回ることになる。
それは金の魔法具を持つユーリ・オルーラを相手にしても、充分に通用するのではないか。
「だが、風の魔法具にできることなら、敵の持つ金の魔法具でも可能だろうけどな」
それは相手もすでに気づいているだろう。
他の系統魔法を誰かが間近で使う場面に遭遇すれば、それは自然とわかる筈だ。
「でも、嬉しいですわ。今回はわたくし、イシュルさまのお役に……?」
喜色を浮かべたミラが、ふとイシュルの視線を追って不審な表情になる。
イシュルは控えの間に通ずる扉の方に顔を向けていた。
「誰か来る」
ヨーランシェは今度は何も言ってこない。気配を消したままだ。
「ごめん、ミラ」
イシュルはミラに断りを入れ、席を立って控えの間に向かう。
そこで外の廊下に面する扉をノックする音が聞こえてきた。
「イシュル。ちょっといいかな」
扉を開けるとそこにはリフィアがいた。長い銀髪が艶々とイシュルの眸を眩ます。
「あ、ああ……」
リフィアは湯浴みでもしてきたのか。彼女からは温かみのある澄んだ香りが漂ってくる。
イシュルは全身を硬直させた。魔法をかけられたように動けなくなった。
リフィアは所々細かい白のフリルのついた、オフショルダーの空色のドレスを着ていた。
「せっかくフロンテーラまで戻ってきたからな。明後日には出陣だし」
「あ? ああ……」
イシュルは喉を鳴らした。
どうしようもなかった。とても抗えなかった。
リフィアのむき出しになった薄い肩から首のラインが、その美しさがイシュルにむしろ、苦痛をさえもたらした。行き過ぎた愉悦は痛みを伴うものなのかもしれない。
「イシュルと話したいことがあってな、参ったのだ」
リフィアの眸がイシュルを捕らえて離さない。
イシュルを仕留めたと、勝ち誇ったような強い光。一方で何かの不安に揺れる、訴えかけるような光。その眸の輝くものが、イシュルの心を侵食していく。
「入れてくれないか」
「……」
イシュルは無言でリフイアの手を取り、部屋の中へ招き入れた。
「あら、リフィアさん。おめかしして」
ミラが幾分つまらそうな声で言う。
「むう……」
惚けたようなイシュルに連れられて次の間に入ると、先にミラが来ていた。
今度はリフィアが一瞬だが、呆然と佇む番だった。
「リフィア、適当なところに座ってくれ」
彼女の魅了の魔法が解けたのか、イシュルが片手で空いた椅子の方を指して言った。
応接の間には座面の低い長椅子にテーブル、一人掛けの椅子などが並べられている。
「ミラと、敵将の持つ金の魔法具のことについて、話していたところなんだ」
イシュルは当たり障りのない笑みを浮かべて、美しく着飾ったリフィアを見た。
危なかった。完全にやられた。
まさしく状況が状況でなければ、ミラが来ていなければ、彼女にどこまで踏み込まれたか、いいようにやられていたか、わからない。
「……」
リフィアは無言でつーんと顎を上向け、ミラの隣の椅子に座った。
ドレスの生地のすべる音が微かに、イシュルの耳許をくすぐってくる。
「それで、リフィアさんは何の用事でいらしたの?」
「あ、ああ」
リフィアは気をとりなおし顔つきをあらためると、イシュルを見やった。
もうその眸に揺れる光はない。
「イシュル、まだ戦況の概略しか聞かされていないが、もう大まかな作戦は考えてあるんだろう? 聞かせてくれないか」
「ふむ……」
ミラが魔法の話、リフィアが戦(いくさ)の話か。
「と言ってもな。本当に大まかなにしか考えていないが。結局は状況次第になるだろうし」
「……」
リフィアもミラも無言で頷いて、イシュルの話の続きを即してくる。
「まずは敵将と戦う場合だが、王都にしろ他の街にしろ、人々の多く住むところから離れたところでやりたい。地形はあまり気にしていない。平地でも山間部でもどこでもいい……が、こちらは空に上がって戦いたいから、やはり視界の良い草原とか平地がいいかな」
「それはこちらも攻撃しやすいだろうが、敵側からもまる見えになるぞ」
「街から離れたい、というのは……」
リフィアとミラが同時に行ってくる。
「まずは、そう」
イシュルはミラに頷いて見せると続けた。
「敵将と俺が戦えば、周囲にどんな被害が及ぶかわからない。下手したら地形が変わってしまうかもしれない」
「そう、……ですわね」
ミラが、リフィアもそろって顔を青ざめ喉を鳴らす。
風の剣を地表に向けて振るったら。
敵も確実に斃せるだろうが、その刃は地殻はおろか、マントル層にまで届くのではないだろうか。その結果地表で何が起こるか、俺にはよくわからない。
だからと言って威力を落とせば、たぶん敵に防がれてしまうだろう。敵の魔法具は“金(かね)”、金属にかかわる魔法である。どれほどの防御力を発揮するか、予測できない。
「敵の兵隊はともかく、味方の軍勢や街の住民、付近の領民らまで巻き込みたくはない。王都で戦闘になって市街がまるごと消し飛んでしまった、なんてなったら目も当てられない」
「……」
ミラもリフィアも顔を強張らせたまま、こくこくと頷いた。
ふたりとも背筋を伸ばして、顔だけでなく全身を硬直させている。
「で、リフィアの言ったことだけど」
リフィアの言いたいことはおそらく、空に飛び上がれば“魔法を使わなくても”すぐに見つかってしまう、ということだろう。
神の魔法具を持つ者どうし、その魔法を使えばどこにいようと隠れようと、その巨大な魔力ですぐに見つかってしまう。それは互いにどうしようもないことだから諦めるしかないが、魔法を使わなければ、状況によっては自身を隠すこともできるだろう。だが空中に浮かんでいるのなら、小さくとも魔力を使い続けるわけだし、天候によっては魔法の使用に関係なく、小さな人間とは言えかなりの距離まで視認できるだろう。
夜間は視覚による地上の判別がつかず、魔力の感知半径内まで近づかなければならないので、最初から考慮の対象外となる。
「確かに空に上がると、敵側にはまる見えになる。魔法を使って空を飛ぶからなおさらだ。でもこちらも視界が広くなるので、地上の敵を見つけやすくなるのは同じだ。それに何より空中なら、敵の魔法の発現を察知するのも、対処するのも早くできる。地中では風の魔法は使えないし、ほとんど感知できないから、地上にとどまる方がかえって危険度は増すことになる」
「まぁ、そうだが」
リフィアが不承不承な感じで頷く。
「王都から北、ブテクタス山脈沿いの今時期の天候はどんな感じかな」
王都はもちろん、王国の西側は一度も行ったことがないし、ベルシュ村からは遠く、縁も薄い。
明後日フロンテーラを出陣、王都周辺に到着するのが秋の二月(十一月)下旬くらい、とすると、敵将と戦うのもその辺りから数日後、ということになる。
確か冬の時期の王国西北部は雨や雪が多く降り、天候はあまりよくない筈だが……。
「ああ、それならイシュルには有利かもな。王都から北の山沿いは、冬場は東北部から吹き込む風に運ばれた雲が西側の山に当たって、天気の悪い日が多くなる。毎日のように雨や雪が降るわけではないが、曇りの日は確実に多くなる。運が良ければ空に上がっても、雲間に身を隠しながら戦うことができるだろう」
リフィアは王都から最も遠いアルヴァの領主だが、当然これまで何度か王都に行き、滞在していた時期もあったろう。
彼女は即座に、天候によっては空に上がったイシュルの方が有利になる、と判断した。
「うん。いつ、何日頃、王都かその北部か、どこで戦うかはまだはっきりとしないが、敵をひきつけ戦うのなら西の山側に、ってことになるな」
どのみちユーリ・オルーラと戦う時は、強力な魔法をぶつけ合うことになる。雲に隠れても魔力の輝きは見えてしまうわけだし、あまり意味がないのだが。
……だがそれならそれで、戦い方はある。
イシュルは顔を俯かせうっすらと笑みを浮かべる。
策は、ある。
それにしても、だ。俺がもし金の魔法具を持っていたら、どう戦うだろう。
野外での感知能力は明らかに風の魔法具の方が上だ。まず、それを覆(くつがえ)すにはどうしたらいいか。
俺なら細かい、微細な金属片を魔力のとどく限り空中にばらまき、その中に侵入してくる魔力であれ人、物体であれ、全てを感知できるようにするんだが。しかもその方法なら、暗夜でも使えるし……。
そしてその金属片をより毒性の高い、何かの重金属に変えて……。
ん?
「ミラ、金の魔法使いは鉄や鋼以外の金属も、生み出すことができるんだよな?」
金の魔法で通常使われるのは鉄である。金神ヴィロドは別に鉄神とも呼ばれる。
「一般の金の魔法使いは鉄と、せいぜい鋼ぐらいまでしか生み出すことはできません。それも大量には無理です。契約精霊の力を借りれば、その精霊の能力によってはかなり増やすことができると思います。金の魔法は金属を生み出すことよりも、例えば剣を盾に変えるとか、あるいは重い鉄塊を軽くしたりする──元の金属の形を変えたり、軽くして動かしたりすることがその主な能力となります。わたしもふだん、シャルカに一定量の鉄塊を持たせています」
そこでミラはひと息入れ、笑みを浮かべてイシュルの顔を見つめた。
「優れた魔法使いとは、より多くの鉄に、より強力な魔法をかけることができる者、ということになりますが、確かにイシュルさまの言うとおり、過去に名を残した魔法使いには、銅や鉛、錫、亜鉛、青銅や真鍮を生み出す者もいました」
そしてミラの笑顔が一瞬、恐ろしいものになる。
「……そして水銀も」
「なるほど」
重金属のいわば霧を生み出しても、毒性は当然あるにしても、基本的に即効性はないだろう。
だが、それが水銀の気化したものならば、かなりの効果を期待できるのではないだろうか。
……まぁ、俺の拙い理系の知識ではよくわからないのだが。
そもそも確か、ウランやプルトニウムも金属だったよな? いや、あれは精錬、濃縮しなければ意味がないのか。……違うな。どのみち即効性を狙う、破壊力を目指すのならば、その原子核を分裂させなければならない。
「ミラは鉄の他に、何か生み出せるものはあるの?」
「わたくしは鉄と、より硬い鋼、それにほんの少しですが銅を生み出すことができます」
「そうか」
「我が師であるベネリオ・スカルフォーロはその技を秘し、わたしにも教えてくれませんでしたが、王宮の魔道師の間では当時、その秘技とは水銀を生み出し用いることだ、と噂されていました」
ミラは顔をくもらせ声を落として言った。
それはつまり、彼女の師は毒を使った、毒使いであったということだ。
「やはり過去に金銀、白金を生み出せた魔法使いはいないか」
「それはもう、神の御業ですわ」
続けてミラは、古代ウルクの頃には金を生成しようと研究する、錬金術のような学問もあったと言われているが、あまり信憑性のある話ではない、と言った。
「まぁ、そうだろうな」
そうもたやすく金銀が生み出せたら、金にしろ銀にしろ、今のような価値は維持されていなかったろう。
「敵の総大将は水銀や鉛を大量に生み出して攻撃してくるかもしれない。危険だな」
リフィアが胸の前で両腕を組んで難しい顔をして言ってくる。
ドレス姿にその仕草が少し可笑しい。
「金の魔法具なら、それくらいのことは苦もなくできるだろう」
「敵将とは距離をとって戦うべきですわ。それから地面を流れる敵の魔力には特に用心すべきです」
と、ミラ。
「金(かね)の魔法使いは地中なら、ある程度魔力の気配を感じとることができます。魔力も通すことができます。土の中には鉄鉱石など、金属のもととなる鉱石が、わずかではありますが分布しているからです」
微量であれば金属は大気中にも、水中にも存在しているだろう。それは無視していい程度のものだし、この世界の人間はそんなことは知らない。だが地中であればそれは無視できない量になる、ということなのだろう。ただ、それも地形、場所によると思うのだが……。
「わたしは自分の身にふりかかる危険なら、地中からの魔力であろうと、からだに触れ、中に入ろうとする金属の毒であろうと、すべて察知できるし、そのほぼすべてを防ぐことができる。まあ、金の魔法具相手では厳しいだろうがな。……それと」
リフィアは毒見の魔法具を持っていれば、水銀や鉛などの毒にも何らかの反応をして、持ち主に教えてくれる筈だ、と言った。
「なるほど。いわれてみればそうだよな」
イシュルは自分の右手の指にはめている毒見の指輪に視線を落とした。
「リフィアは強い。だけど相手が相手だからな。ミラの言うとおり接近戦は控えた方がいい」
ユーリ・オルーラも当然、鉛や錫、水銀など金属の毒性に対する知識は持っているだろうが、たとえば水銀を気化することによってその効果が著しく増す、なんてことは知らないだろう。
そもそも金の魔法具なら、大量の金属片を空気中に散布し周囲を力任せに引っ掻き回す、それだけで充分な効果を得られる。要は無数の散弾を撃ち込まれる、あるいは爆発した爆弾の破片にさらされる、それらと同じことである。水銀の気化がどうの、と警戒してもあまり意味はないかもしれない。
そしてそんな金の魔法の使い方も、やはり相手は知らないだろうし、考えつかないだろう。
「リフィアさんは槍術や弓術を……」
「もちろん、心得はある。槍を投げるのがいいかな? その方が威力がある。金の魔法具を持つ敵将相手でも、それなりの効果は望めると思う」
「……」
「はは」
イシュルとミラは引きつった笑みを浮かべた。
確か以前にリフィアから、空を飛ぶ火龍に対し槍を投げて地面に叩き落とし、仕留めている、と聞いたおぼえがある。
「そ、そうだな」
「イシュル」
眩いばかりのドレス姿のリフィアが、身を乗り出しイシュルを睨みつけてくる。
「敵の総大将はおまえにしか討てないかもしれない。でも、なんでもひとりでやろうとするなよ。わたしたちにだって、牽制や攪乱くらいはできる」
リフィアの横で、ミラもイシュルを見つめならゆっくりと頷く。
敵はユーリ・オルーラひとりではない。敵軍勢、魔道師に対し、ミラとリフィアなら無類の強さを発揮するだろう。
「……わかった」
イシュルはミラに、続いてリフィアに向かって頷き返した。
リフィアの眸に浮かぶもの。
おまえはすべてお見通し、か。
今度の戦いで俺は、本心では彼女たちを危険な場面から、できるだけ遠ざけたいと考えていた。それは敵の総大将との戦いだけでない、戦(いくさ)に関わること、すべてに関してだった。
大公軍を実質動かしているトラーシュやルースラに取り入り、彼らから情報を得、できれば彼らに献策し、こちらの都合の良いようにコントロールしようと考えていた。
リフィアは俺の考えていることを読んでいた。わたしたちもいっしょに戦いたい、少しでも役立ちたい、もっと頼ってくれと釘をさしてきたのだ。
彼女が最初に作戦がどうの、と聞いてきたのはこれだった。彼女はそのことが言いたかったのだ。
「……」
イシュルは神妙な顔つきになって、もう一度頷いてみせた。
イシュルたちが話し込んでいると、外の廊下にまた、近づいてくる人の気配がした。
イシュルが控えの間に出て扉を開くと、今度はメイド頭(かしら)のクリスチナを背後に従え、ペトラが立っていた。
「ペトラ……」
おまえもか。
おまえで三人目だよ。俺の部屋を訪ねてきたのは。
イシュルは視線を下に向けてペトラの顔を見やった。
「そろそろ、晩餐じゃからな。呼びに来たのじゃ」
ペトラがまた、じっと見上げてくる。
「その前にの、そなたと少し話したいことがあってな」
「ああ。……それはいいんだけど」
イシュルはペトラを応接室に案内しながら言った。
「先客がいるんだが」
「ん?」
ペトラは次の間に入るといきなり飛び上がるようにして、素っ頓狂な声を出した。
「な、な、なんじゃ。そなたらは!」
「あら、まあ」
「これはこれは。ペトラさま」
ミラとリフィアは、ペトラの驚きと非難の入り混じった声もどこ吹く風でさらっと流し、何の動揺もなく椅子から立ち上がると、腰を下げ頭(こうべ)を垂れた。
「クリスチナ」
ペトラはメイド頭を呼びつけると、リフィアたちを晩餐室に案内するように命じた。
「妾はイシュルと
ペトラはなぜかまず、リフィアとミラに向かって言った。
ついでその不機嫌そうな顔がイシュルに向けられる。
「よろしいかの、イシュル」
「……」
イシュルは無言で、何度も頷いてみせた。
はは。
しかし、ペトラのそれはまだ可愛らしく、おかしみがあって救われる。
ミラやリフィアは恐いからなぁ。
「それでは失礼いたしますわ。殿下」
「それでは、ペトラさま」
リフィアとミラがよそ行きの澄ました顔で挨拶し、部屋の外へ出ていく。
イシュルにはひと声もなく、視線も向けてこない。
やはりあのふたりは恐い……。
「イシュルめ。とんでもないやつじゃな。まったく」
リフィアたちの気配が遠ざかり、室内はイシュルとペトラ、ふたりきりになった。
ペトラはそう言ってイシュルを睨みつけるとふいに視線をそらし、口許に手をやってコホン、とやった。
ヨーランシェも相変わらず、姿を見せない。
「その、まずはマーヤのことなんじゃが」
ペトラがイシュルに寄ってくる。
彼女の見上げてくる眸は憂いの色で染まっている。
いつも明るい、いや、そのように振舞っている少女の悲しげな表情には、時に胸を締めつけられるような痛苦が伴う。
「……うん」
イシュルは真面目な顔になってペトラを見つめ返した。
「マーヤは知ってのとおり、兄君を亡くして気落ちしておる。そなたもあやつを慰めてやってくれんか。アンティラにおる家族のことが心配でならんのじゃ」
「お安い御用だ」
イシュルはペトラにしっかり頷いてみせた。
「そなたもそれとなく気づいておるじゃろうが、あの頃、そなたがブリガールを討ち取った頃、マーヤはただ我らの意向にそって、そなたを王家に引き込もうとしたわけではないのじゃ。あの一件以降、むしろそなたやフロンテーラ商会の側に立って、妾や父上を説得したのはマーヤなのじゃ」
ペトラは顔を俯かせ、「父上は当初、そなたが王家に仕えぬのなら闇に葬ってしまおう、と考えていた」と続けた。それをマーヤと、マーヤの考えに賛同したペトラがヘンリクを説得し、赤帝龍討伐と引き換えに、ブリガールを滅ぼした一件を不問にすることを納得させた。ちなみに辺境伯暗殺にヘンリクは反対せず、そのことに関して本人をさらに説得する必要はなかった。
「マーヤはそなたから不可思議な何か、可能性を感じとったのじゃろう。ただそなたの辛苦に同情しただけではないのじゃ。そなたの罪を免じそなたの願いを叶えるために、随分と裏で奔走しておった」
「……」
イシュルは難しい顔になって、無言でペトラを見つめた。
あの頃、マーヤは商会のセヴィルやイマルと直接会って俺の情報を集めていた。少し驚いたのは、彼女が彼らと良好な関係を築き、かなりの信頼を得ていたことだった。それはとても貴族の娘、それも宮廷魔導師が率先してやるようなことではなかった。やれるようなことではなかった。セヴィルは大商人、というわけではない。誇り高い地位にある者が、気を遣って接するような相手ではなかった。
マーヤは一見、無口で引っ込み思案に見えるが、なぜかそういった人と人との交渉ごとに大きな力を発揮する。
日頃の彼女の醒めた、おとなしい性格。そこに隠れる穏当な思考、判断。それだけではない、彼女の持つ大いなる何か、それは優しさか、常に自然に人倫を忘れず、貫き通す心のあり方なのか、それらがマーヤをマーヤたらしめている重要な根幹のひとつなのだ。
だから、それをなんとなく感じていたから、俺は彼女とクシムに向かうのに痛痒を感じなかった。
マーヤはあの道行で、セヴィルやイマルの俺に対する気持ちを教えてくれた。マーヤは彼らが俺を救ったのだ、というようなことを言ってきた。彼らの真心はマーヤが引き出したのか、いや、彼女の気持ちも、俺にとってはセヴィルたちと同じものだった。
「マーヤは妾にとっては得難い宝じゃ。どうか我が友のために力になってくれんかの」
「もちろん」
イシュルは微笑を上らせ頷いた。
ペトラの沈んだ眸の奥に、ほのかに明るい光がさした。
「それでは次じゃ、妾の手紙は読んでくれたかの」
「ああ、もちろん。連合王国の侵攻はフロンテーラに向かう途中で知ったんだ」
「ふむ。エバンから、リフィア殿がそなたと接触したとの報が届いたのは、父上が出陣した数日後のことじゃった。それからすぐ、我が手の者からそなたが教会の総本山でビオナートと対決し、見事勝利したとの報に接した」
ペトラは嬉しそうな顔になったが、それも一瞬ですぐに表情を引き締め、イシュルの左手の指抜き手袋にちらっと目をやった。
「そして二日ほど前に、主神殿の神殿長が城に参っての」
ペトラがすすっと、イシュルに身を寄せてくる。
彼女は少し声を落として言った。
「その時に風神が降臨した、というのは本当かの?」
「ああ……」
聖冠の儀から半月ほど経っている。確かに、フロンテーラに知らせが届く頃合いではある。
「むー。それはすごい……」
ペトラはイシュルから少し離れると胸の前で両腕を組み、ひとしきり感心し唸り声をあげた。
そのかわいい声音が少し場違いな感じだ。
「父上にはそなたがビオナートを成敗し、我らに参陣するのも間近、とすでに報せてある」
「まぁ、当然だろうな」
ヘンリクの緩慢な動きはそういうことだ。本隊との合流だけでなく、俺との合流も計算に入れている。
別にそれは特段、おかしなことではない。俺がヘンリクでもそうする。金の魔法具とまともに戦える者など他にはいない。
彼は長兄である国王、マリユス三世の敗死も狙っているのだろうが、俺としてはそれに意見する立場にないし、王家とはそもそもそういうものだろう。特にいいも悪いもない。ヘンリクが次の王になるのなら、その後を継ぐのはペトラになる可能生が高い。彼女が王位争いの非命に斃れる、そんなことがなくなるのなら、それはそれでいいんじゃないか。
「それで、その前にウルオミラに会っておくかの? どうする?」
ペトラはそう言いながら、またちらちらとイシュルの左手に視線を向けてくる。
「見たいか、俺の左手を。俺が何を隠しているのか」
「うむ。見せてくれるかの」
ペトラは、その石のことを知っているのか、意味ありげな視線をイシュルに向けてきた。
……俺の左手の紅玉石のことは、聖都では貴族や神官を中心に、すでに多くの者に知られている筈だ。ペトラに面会したフロンテーラの主神殿の神殿長は、そのことを彼女にどこまで話したか。あるいは彼もまだ全ては知らない、知らされていないかもしれない。ふたつの紅玉石が地神の魔法具をもたらすものであることは、もともと聖堂教会と聖王家の秘事だった。
ただペトラの反応からするに、少なくとも俺の左手にあるものが、特別な謂れのある貴重な石であることを、さらに聖王国の王位継承に関わる、王冠を飾る宝石の片割れであることを、それくらいは知っているのではないか。
イシュルは微かに笑みを浮かべ、手袋を取って左手の甲をペトラの顔の前に掲げた。
室内の灯りに、真っ赤な石が深い影をそわせて浮かび上がる。
「おおっ、これは」
「なっ」
瞬間、イシュルは驚愕に思わず後ろへ仰け反った。
……なんだと!?
「な、なんじゃ。突然に」
ペトラがすぐ隣に現れた精霊に文句を言う。
「ふーむ。これは本物じゃな。まさしくウーメオさまにゆかりのもの、地神の石じゃ!」
その精霊は、イシュルの左手の甲に貼りついた紅玉石に顔を寄せ、じーっと見つめていた。
「地神の石? それは……ん?」
ペトラが何か変な空気を感じ、ふとイシュルを見ると、彼が固まっている。
「ど、どうしたかの? イシュル」
イシュルは喉を鳴らして、呆然と正面に並び立つふたりを見やった。
「ぺ、ペトラがふたり……」
目の前には半透明に輝く、もうひとりのペトラが立っていた。
「あはははは」
「な、な、なんじゃ!」
精霊は大口を開けて笑い、ペトラは顔を紅く染め地団駄を踏んだ。
「初めまして。あなたがウルオミラ?」
「うむ、そうじゃ。よろしくの、風の剣よ」
ウルオミラはそのまんま、ペトラとまったく同じ口調で、同じ仕草で鷹揚に頷いた。
「これは……凄いな」
「何がじゃ」
ふたりを見てしきりに感心するイシュルに、ペトラはなぜか機嫌があまりよろしくない。
「これこそ運命、……だな」
「だから何がじゃ!」
「まぁ、まぁ、ペトラ」
ウルオミラはまったく気にせず、にやにやしながらペトラをなだめる。
「ふん! ……じゃ」
ペトラはついに顔を明後日の方に向けて、臍を曲げてしまった。
しかし、こうも似ているとは……。これはただの偶然、ではすまないだろう。
このふたりは結びつくべくして、結びついたのだ。多分、そんな感じ……かな?
ただ、ペトラはまだ十五歳になったか、それくらいの歳だ。彼女はまだこれからも成長していくだろうし、いずれは年老いていく。ふたりがそっくり同じなのは今の時期だけだ。精霊も長い時間をかけて位階を上げ、成長していくのかもしれないが、人間のように外見も変化していくかはわからない。そうとは限らない。
「で、ウルオミラさん。どうする? 地神に関わることで俺に話したいことがあるって聞いたが」
彼女が俺の左手の紅玉石に飛びついてきたのは、それがまさしく地神、いや地の魔法具に関係する話だったということになる。
「ただウルオミラ、で良いぞ。特別に許す」
ウルオミラは両手を腰に当て顎を上げ、ぺたんこの胸をこれでもかと張って言う。
「ふふ。じゃあ、そうするよ」
その様子にイシュルは苦笑を浮かべた。
……仕草までペトラにそっくりだ。愛嬌のある精霊じゃないか。
「……で、その件じゃが」
ウルオミラは下から見上げるようにしてイシュルに顔を近づけてきた。
地神の話をするというのなら、ウルオミラはかなり高位の精霊ではないのか。
だが、これほど近寄ってきているのに、それほどの魔力は感じられない。
俺は精霊の格とか位階とかがよくわからない、なぜか他の魔法使いのように感じとることができない。だから彼女のこともよくわからない。魔力を感じられないというのも、そのせいかもしれない。
「今話すのはやめておこうと思ってな。どうも気になることがある」
……気になること?
イシュルは半透明に輝く、ペトラにそっくりの顔を見つめた。
「何がじゃ」
ペトラが横から口を挟んでくる。
「金神の魔法具が、人の世に顕現したそうじゃな。……そなた、あれも手に入れようとしておるのじゃろう」
ウルオミラの唇が歪み、眸が細められる。鼻先の触れるような距離から、射抜くように見つめ返してくる。
「……」
ふふ、なるほど。その通りだ。
イシュルは唇の端を歪めた。
「何か裏があるかもしれんの。やはり妾の話は、そなたが金の魔法具を手にしてからにいたそう」
ウルオミラの顔から険がとれていく。
彼女の視線が、イシュルの左手の紅玉石に注がれた。
そして再び顔を上げると言った。
「妾はその時を楽しみに待っておる。必ず金の魔法具を手にして参れ」
……こいつ。
しかし。裏がある、か。
イシュルは全身が不意に熱くなるのを感じた。
負けるものか。
金の魔法具を持つ敵将にか? それだけじゃない。
口角が上がっていくのがわかる。
イシュルは獰猛な笑みを浮かべると言った。
「いいだろう」
ウルオミラはイシュルの気迫に押されることもなく、微かに笑みを浮かべると、突然、頭を深く下げてきた。
「その時はよろしく頼む」
「ああ」
「ではの、ペトラ。また会おう、風の剣よ」
ウルオミラは顔を上げるとペトラに、そしてイシュルに再び笑顔を向けてきた。
ウルオミラはそのまま、背景に溶けるようにして姿を消した。
「まったく……」
ペトラはため息をつくと、イシュルに少し不安げな顔を向けてきた。
「そなたの手の甲に張りついた石も、ただ聖王家の王位継承にかかわる宝玉ではない、ということか。他にいわくがあるわけじゃ。妾とウルオミラと、地神ともかかわるもっと重大な何かが」
「そういうことになるかな」
ペトラはまだ、聖王国の秘宝、地神の魔法具を顕現させる一対の紅玉石の話までは、詳しく知らない筈である。
「あやつが後で話すというのなら、妾もその時に聞かせてもらおう、その紅玉石のことも」
「ああ。わかった」
もしその時俺が生きていれば。
ペトラにも紅玉石のことを、そして俺が神の魔法具を集めていることを、話さなければならない。
「では行こうかの、晩餐室に。もうみな揃っておるじゃろう」
「……」
イシュルは無言で頷き、ペトラに慇懃に会釈してみせるとその手を取った。
「では、姫君」
「おお」
ペトラの笑顔が輝く。
部屋の外の方から数名の人の気配が近づいてくる。
おそらくクリスチナたち、ペトラ付きのメイドであろう。
ヨーランシェは相変わらず姿を見せない。少し離れた上の方に、微かな気配だけが感じられる。
イシュルはペトラを部屋の外へと誘った。
ふとその面上に苦笑が浮かぶ。
長い会話劇だった。
……いや。勉強会、と言った方がよかったか。
ミラ、リフィア、そしてペトラが俺に会いに来てくれた。
俺と話したくて、知らせたくて、心配して。
はじめて会ったペトラの契約精霊、ウルオミラの姿は驚きだった。
そこで不意に、笑みが消えていく。
だが……。
「マーヤは結局、来なかったな」
イシュルは口の中でひっそりと呟いた。
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