戦雲


 黒い帳(とばり)の底を銀色の曲線がほのかに光っている。

 その光る曲線は中央から左右へ幾つも枝分かれしていき、闇の向こうで微かに瞬き、消えていく。

 真ん中の、幾分太い曲線を踏み進んでいくその足許で、新たな銀色の線が枝分かれする。その線はするすると外側へ伸びていくと一瞬、きらきらと輝き音もなく消えてしまう。

 きっとその美しさに惹きつけられ囚われてしまえば、自分自身もあのように光り輝き消えてしまうのだと思う。

 誰が描いたのか、闇に浮かぶ樹木のように描かれた銀色の絵画。その銀線の紡がれる頂点を目指して、一歩一歩前へ進んでいく。

 銀線を踏みしめる足の裏には確かな感覚がある。空間を浮いているような、綱渡りをしているような恐怖は感じない。

 だが、自分が木板の上を歩いているのか、石盤の上を歩いているのか、それがわからない。靴底からはそれとわかるものが何も伝わってこない。

 右肩にリフィアの手がのっている。

 彼女の指先から伝わる力、掌から伝わる温もりは確かだ。

 振り向いて、彼女の顔を見たい。

 リフィアの肩にはミラの手が、ミラの後ろにはシャルカが続いている筈である。

 ミラたちが無事に着いてきているのか、それも確かめたい。

 ……でも、だめだ。何か、危険な気がする。

 やってはいけない気がする。

 ここは黄泉比良坂か。……いや、それはもちろん違う。

 ただ、後ろを振り返ってはならないのだ。前だけを見て進まねばならない。きっとここはそのようにできている。

 風の魔法の感覚を暗闇に伸ばす。

 なんの抵抗も感じない。……だが、それはその闇の底に吸い込まれるように、もの凄い勢いで減衰して消えてしまう。摑みどころがまるでない。

 不可思議で危険な空間。

 だが、この闇の空間は絶対的なものではない。この舞台の幕、緞帳を吊り下げる何かはそれほど強いものではない。魔力の感知が効かないのに、なぜかそれはわかる。

 俺の力はそこに届く。

 この帳(とばり)を落とすのは、俺にとって簡単なことだ。

 魔法を操り、感じる者なら誰でも、あるいは簡単に壊してしまえる不思議な結界。それは現実の世界を闇の中で繋ぎ止める、小さな儚い空間だ。

 まるで生き物のように、伸ばした枝の先端を常に変化させる銀色の木は、それを知ってか知らずか、この危険だが脆い世界の中で、光の軌跡をひたすら描き続ける。

 銀色の樹脈の先端を踏む。

 すると銀線の木が闇の中に立ち上がった。

 梢が震え、光り輝く。

 どこかで、それを見上げる自分……。

 闇の中で見えない、聞こえない葉擦れの音が鳴った。

 銀色の音が鳴った。

 その一瞬の幻想とともに、気づくとイシュルはフロンテーラの魔法具屋、あの時店主の老婆が座っていた場所に立っていた。

 匂いが違う……。

 視界を覆う、上から吊り下げられた怪しげな売り物。後ろの窓から光を浴びて、黒い影の塊となっている。

 着いたのだ、フロンテーラに。

「ふう……」

「着きましたわね」

 イシュルが前へ一歩踏み出すと、後ろからリフィアが息をつき、ミラの話す声が聞こえた。

 イシュルは他に人の気配のない、無人の店の出入り口に向かって歩き出す。

「大丈夫か? シャルカ」

 振り返り、リフィアとミラに小さな笑みを向けると、列の一番後ろだったシャルカに声をかける。

「うむ。なんともない」

 シャルカはなんでもない顔で、いつものごとく答えた。

「あれはなんだ? シャルカは知ってるか?」

「知らない。だけど……。ここよりも、わたしたちの住む世界に少しだけ近いような気がした」

「ほう……」

 イシュルが興味深げな声を上げる。

「でも、あんな真っ暗ではないぞ」

「……」

 イシュルは微かに笑みを浮かべて頷く。

 はは。そりゃそうだろうな。

 イシュルはシャルカの背後に広がる店の奥、深い暗闇を見つめた。

「イシュル、行こう」

 リフィアが急かしてくる。

 彼女はより緊張した顔つきをしている。

 外の明るさからすると時間はそんなに経っていないように思えるが、もしかすると一日か、あるいは数日ほど経過しているかもしれない。

 事態は切迫している。今は一刻も早く大公城に向かうべきだ。

「ああ」

 イシュルは短く答えると魔法具屋の扉に手をかけた。

 この街の主(あるじ)、アンティオス大公、ヘンリク・ラディスはもう王都目指して先発している。

 おそらくヘンリクは手持ちの兵力をかき集め、おそらく千か二千か、それくらいの兵力でラディスラウスに向かった筈だ。

 今はどんな状況だろうか。ここ、フロンテーラに近隣の諸侯が軍勢を率い、集まりつつある最中か、あるいはもう編成を終わり出発したか、そんなところだろうか。

 大公城に着いたらペトラか、マーヤがいるなら彼女たちをつかまえ、状況を把握しなければならない。

 もしペトラまで出陣していたら? マーヤも同行しているだろうから、大公家の誰か、状況を把握している家臣に当たりをつけないといけない。

 外に出ると周りは以前と同じ古城の中、変わりはない。迷いの魔法、結界もあの時のままだ。

「……」

 五感を、心の中を浸してくる酩酊感、不安な感覚……。

 イシュルはちらっと、魔法具屋の扉の方を見た。

 一瞬、店の奥の方にあるだろう迷いの魔法具を止めるか、壊してしまおうか、と思った。

 だが、そんな面倒なことはしてられない。時間がない。それに迷いの魔法具を壊すと、チェリアが怒るだろう。あの暗闇を、呪いを背負っているというのなら、あの老婆には高い利用価値がある。あまり関係を悪化させない方がいい。

 イシュルは薄く笑うと、右手を空に掲げた。

 ところどころ雲が浮く、透けるような水色の空。そこに風の魔力が渦を巻く。

 イシュルはその圧倒的な力で迷いの結界を抉った。

 風の力の流れに、迷いの魔法が切り裂かれ消えていく。

 どこかからか小鳥のさえずる声が、下草を吹く風に乗って、微かな街の喧騒が聞こえてきた。

「あそこに登ってみよう」

 ふと思い立って、イシュルは西側の城壁の一段高くなっているところを指差した。

 露天の、城塔というよりは櫓(やぐら)か。周囲は下に続く城壁と同じ、鋸壁(のこかべ)で覆われている。

「わかりましたわ」

「うむ」

 ミラがシャルカの肩に乗る。リフィアが肩の上に手を乗せてくると、イシュルは城壁の櫓へ向けて飛び上がった。




 思ったよりも随分と風が冷たい。フロンテーラは聖都エストフォルより二千里長(スカール、約千三百km)近く北にある。

 イシュルは櫓の上に降り立つと周囲を見渡した。

「さすがフロンテーラ。なかなか大きな街ですわね。……っ!」

 ミラの表情が話している途中から、厳しいものに変わる。

「イシュル、あそこを見てみろ」

 リフィアが市街の方、ベーネルス川の辺りを指差した。

「船も少ないな……」

 イシュルはリフィアの指し示した方を見つめながら、ボソッと呟いた。

「ああ、人もな」

 と、リフィアが返す。

 フロンテーラの商業地区に架かる、最も人出で賑わう中央の橋は、驚くほど人が少なかった。そして橋の両端には長槍を持った衛兵らしき者たちが立っていた。

 神殿や邸宅街のある対岸の道を、槍の穂先を立てて進む兵士の一団も見えた。

 魔法具屋はベーネルス川の北側、小高い丘の上にある古城の中にある。

 古城の櫓の上からなら、川の南岸、東側に広がる大公城も遠くまで見渡せる。

 城郭の内側、かつてペトラや、マーヤたちラディス王家の宮廷魔導師と戦った練兵場には六角形の軍用テントが幾つも並んでいた。

「諸侯が集まってきてるんだ」

「……ということはまだ、本隊は出発していないみたいですわね」

「おそらくな」

 イシュルはミラに小さく頷いてみせた。

 もしや、と思って櫓の上に上がってみたが、フロンテーラの街は明らかに、“戦時”を思わせる姿に様変わりしていた。

「イシュル、あちらもだ」

 リフィアが今度は丘の反対側、街の北側を指し示して言った。

 足元から北へ広がるフロンテーラの街並、その向こうの牧草地か、遠く靄のかかった草原に無数の軍用テントが並んで見えた。

 エリスタールへと伸びるフロンテーラ街道は、多くの荷馬車で混雑しているように見えた。

 王都、ラディスラウスへの救援も、西北の連合王国との国境付近に対する反抗も、今はここフロンテーラが最大の拠点となっているのか。周辺から諸侯の軍勢が、様々な物資が集まってきていた。

「行くか。大公城に」

 本隊が出陣していないのなら、ぺトラはまだ城に残っているだろう。まずは彼女に会って本隊の大将か、彼の幕僚に繋ぎをつけてもらう。そして彼らから話を聞く。

「うむ」

「はい、イシュルさま」

 リフィアとミラが眦(まなじり)を決し見つめてくる。

 イシュルは南側の街の方に顔を向け、ベーネルス川の対岸に茫漠と広がる大公城を見やった。



 大公城の城壁を跨ごうかというところで突然、空を飛ぶイシュルたちの左に魔力が光った。

 空中からすーっと、浮き出るようにして精霊が姿を現す。

 人とほぼ同じ大きさの、完全な鳥の姿をした風の精霊だ。頭が妙に大きく、翼は小さい。広げた翼をグライダーのように固定し、イシュルたちの横を十長歩(スカル、六〜七m)ほど離れて、滑るようにして飛ぶ。

 見た目は巨大な雀か鶯(うぐいす)か。愛嬌のある精霊だが、その大きな眸には全く何の表情も、感情も見えない。

 巨大な鶯は殺気を見せず、イシュルたちを攻撃してこない。

「はっ!」

 リフィアが、ミラとシャルカも身を固くする。

 今度はイシュルたちの前面、広大な大公城の至るところでいっせいに無数の魔力が煌めいた。

 ……ほとんど同時に、皆こちらの存在に気づいたのか。

 イシュルはちらっと鶯を横目に見た。

 こいつは見張りか。

「あっ、消えた……」

 後ろでリフィアが呟く。

 同時に、鳥の精霊は左側にからだを傾け、まるで飛行機がバンクするようにしてイシュルたちから離れていき、空に溶け込むようにして消えていった。

 イシュルは正面を見ず、ずっと精霊の方へ顔を向けていた。城内に瞬いた魔力がいっせいに消えたことは見なくてもわかる。

「見張りの精霊か」

 リフィアが後ろから声をかけてくる。

「ああ。どういうわけか城内の魔導師にすぐ伝わるような仕組みになっているらしい」

「あの精霊が他の契約精霊に知らせているんだろう。そういうことができる者を見張りに使っているのさ」

「なるほど」

 系統が違っても、大概は精霊どうしで意思疎通はできる。あのお化け鶯は風の精霊だし、おそらく他の系統の精霊相手でも遠距離の交信が可能なのだろう。

「もうお前も有名人だからな。聖冠の儀の件も、ここまで話が伝わっているんじゃないか? あの精霊はお前の風体をあらかじめ聞かされていたんだろう」

「風体って、なんだよ」

 リフィアは少しからかうように言ってきたが、確かにあの精霊ははじめから、攻撃する意図を示してこなかった。

「正面に宮殿があるだろう。あの建物の南側に降りてくれ」

「……了解」

 イシュルは小声で答えると、眼下に迫ってくるアンティオス宮殿の南側に回り込み、階段の長く伸びる中央ホール前に降り立った。

 周囲に立っていた衛兵、誰かに仕える執事や従者たちが、血相を変えて宮殿の中に駆け込んでいく。

 イシュルは東西に長く伸びる、二階建てのアンティオス宮殿を見上げると視線を西に向け、ついで南側にやった。

 陽はようやく西に傾き、空をうっすら紅く染めはじめている。一方で宮殿南側に茂る樫や椚(くぬぎ)の木々にはまだ夕日は届かず、その緑のくすみようにイシュルは目を細めた。

 聖都の木々と比べ、緑の色がまるで違う。

 ……この感覚はむしろ前世を思い出す。ネリーを喪い、失意を振り切るようしてオリバスを飛び立ってから、まだ一刻(二時間)ほどしか経っていない。

 それなのに、あの木々の葉の色の変わりよう。まるで飛行機に乗ってきたかのような錯覚に捉われる。あっという間に、千キロ以上も北へ移動したのだ。

 フロンテーラへ来て見れば、ネリーの死さえももう、遠い昔のことのように思える。そして瞬く間にこの王国の、新たな危機に直面しようとしている。……そしてもちろん、それは俺にとっても重大事なのだ。

「この宮殿にヘンリク・ラディスさまがお住まいですのね」

「ああ。ミラ殿はフロンテーラ……いや、ラディス王国自体はじめてか」

「もちろんですわ」

 感慨に沈むイシュルの横で、ミラとリフィアの声がする。

「あっ」

 イシュルが宮殿正面に振り向くと、ちょうど観音扉の並ぶ出入り口から甲冑に身を包み、真紅のマントを翻す女騎士がひとり、慌ただしく飛び出してくるところだった。

「アイラさん!」

 宮殿出入り口前の階段を駆け下りてくるのは、かつて赤帝龍討伐にフゴまで同行したペトラの従者、アイラ・マリドだった。

「リフィアさま!」

 アイラがまずリフィアの顔を見て叫び、すぐにイシュルに視線を移してきた。その顔がほころぶ。

「それにイシュル殿!」

 アイラはリフィアの前に来て軽く腰を下げてお辞儀をすると、イシュルに右手を差し出してきた。

「やあ、懐かしい。あれから少し、大きくなられましたな」

「久ぶりです、アイラさん」

 一般にこの世界では握手の習慣はない。だがイシュルも右手を出して彼女の手をかるく握った。

 リフィアよりも武人肌のアイラは謹厳で時に息苦しいぐらいだが、その篤実な性格はイシュルにとっても好ましいものだった。

「まぁ……」

 隣で小さく声を出すミラ。

 彼女はイシュルとアイラの親しさに少なからず、驚いているように見えた。

 ……ミラは俺を調べて、アイラ・マリドの名前くらいは知っているだろう。だが、俺と彼女の間柄までは把握していない筈だ。

「おっと、これは失礼しました。あなたさまは……」

 アイラはほんの一瞬、長身、大柄なシャルカを見て驚いたような顔をすると、ミラに向けてかるく腰を折って言った。

 本来ならアイラの方から名乗るのが礼儀だが……。

「ふふ。わたくしはミラ・ヴィドラータ・ナ・ルクス・ディエラード。聖オルスト王国はディエラード公爵家の者ですわ」

「……」

 アイラが全身を硬直させる。

 おそらくもう、ミラがアイラのことを知っている以上に、アイラはミラのことを知っているだろう。

 リフィアの言うとおり、大公家は聖都の政変の一部始終を、かなり調べている筈である。

「こ、これは失礼いたしました。わたくしめはアンティオス大公家に使える……」

「……そんなにかしこまらならなくてもよろしくてよ、マリド殿。気になさらないで」

 アイラが腰を低くして名乗り、粗相を詫びると、ミラは鷹揚に構えてそう返した。

 ミラは朗らかな笑みを浮かべ、機嫌は悪くなさそうだ。

 だが、彼女はそこで突然、笑顔をかき消し厳しい表情になって言った。

「それより急ぎましょう? 今は火急の時ですから。わたくしも大公殿下のお力になりたいのですわ」

 ミラはアイラにそう言うと、イシュルをちらっと横目に見てきた。

 ……それはなんだ? 実は俺に力を貸すのが本分で、そういう形にしておけばそれがやりやすいと、そんなことを考えているのだろうか。

「……では参りましょう。ペトラさまがお会いになられます」

 アイラはミラにかしこまって礼を述べると、イシュルたちをそくしてきた。

 宮殿出入り口前の階段を上りながらアイラが声をかけてくる。

「しかし、随分と早いお着きでしたな。イシュル殿は空を自由自在に飛べる、というのはうかがっていましたが。バーリクかテオドールで知られましたかな」

「うっ……」

 イシュルも、みんなの足も一瞬止まる。

 魔法具屋の、あの暗闇を渡って移動してきたことは言えない。

「フロンテーラに帰る途中で先に帰したエバンが急遽、戻ってきて知らせてきてくれてな。それで我々だけ、急いで空からまかりこした、ということだ」

 リフィアが機転を利かし、うまくとり繕う。

 まぁ、全くの嘘ではない。

「なるほど。そうですか」

 アイラは納得の表情で頷いた。



 宮殿に入ると中は薄暗く、大きな円柱が並び立つホールになっていて、左右には上の階まで吹き上げの、長く続く側廊が伸びていた。正面奥の大きな扉からは明かりがうっすらと漏れ、多くの人々の気配がした。

 ……ふむ。奥の広間では何か会議みたいなものが行われているようだ。

 軍議、か。

 と、そこでイシュルは右手前に立つ柱の方に視線を向けた。

 薄く立ち上る魔力の気配。これは……。

「イシュル!」

「イシュル」

 イシュルが眸を細めるとその柱の影から声がして、何か白いものが、続いて黒いものが飛び出してきた。

 ふたつの小さな物体は一直線にイシュルに向かうと、白い方が跳躍してイシュルの上半身に飛びつき、黒い方がイシュルの腰の辺りに抱きついてきた。

 げっ!!

「ペトラにマーヤ……」

 首筋を香しい金色の髪がくすぐってくる。そして頭の横にゴツゴツとした銀製のティアラが当たってくる。

 腹にはマーヤの顔が押しつけられていた。

「うっうっ、イシュル〜」

 ペトラが泣いている。

「会いたかったぞ〜。大変なんじゃあ〜」

「……」

 とんでもないお姫さまだ。いきなり飛びついてくるとは。

 イシュルは閉口し、思わずため息をつきそうになると、そこにマーヤの顔があった。

「大変なの」

 はは。

 イシュルは吐こうとした息を無理やり飲み込んだ。

「……」

 代わりになのか、リフィアが横でため息をつく。

「まぁ、オホホホホ」

 そしてミラからはいつもより激しい、あの笑声が。

 横目にうかがうと、彼女の額には明らかに青筋が立っていた。

 ……またこれか。

 また繰り返されるのか。

 イシュルはがっくり、項垂れた。



「よいしょっと」

 イシュルがぺトラを下ろすと、マーヤもイシュルからからだを離した。

「大変なことになったな」

 イシュルはふたりの顔を見回し、低い声で言った。

「うむ」

「うん」

 ぺトラもマーヤも真剣な表情で揃って頷く。

 ぺトラが続いて言った。

「それより随分と長いあいだ姿をくらませおって。見つけたと思ったら聖王国じゃし……。だが急いで戻ってきてくれたようで、妾もうれしいぞ」

 ぺトラはその大きな眸でじーっと見つめてくる。瞬きひとつしない。

「ああ」

 いきなり飛びついてきたのにはびっくりしたが、状況が状況だけに彼女の口調はかなり抑えられた感じのものだ。赤帝龍がクシムに居座っていた、あの時よりも王家にとって今は、より深刻な事態である。

 ……マーヤも魔法の杖で、一回二回はぶんなぐってくるかと思ったが。

 赤帝龍との一戦後、彼女からの戻ってきてくれとの懇願を無視したのは、一応は俺の不実だろう。あの頃、互いに直接会って話すことはなかったのだが。

「実はマーヤの兄のネイデクト殿がな……」

 ぺトラが声を落として言った。

「……!」

 周りの空気がさっと変わる。

「マーヤ」

 イシュルは鋭い視線をマーヤに向けた。

「ん」

 マーヤはいつにも増して無表情な顔でイシュルを見つめ返してきた。

 彼女に、特に元気がないように見えたのはそれか。

「兄さまはもう駄目だと思う」

 マーヤの話によれば、彼女の次兄、ネイデクト・エーレンはラディス王国西北部の、連合王国との国境線に築かれた城塞群の一城、ムルド城の副将を務めていたが、連合王国の侵攻により一夜にして落城、生死は不明、とのことだった。

「エーレン伯領はどうなった? 他の家族は無事か」

 マーヤの家の領地は同じ王国西北部、軍都とも呼ばれる城塞都市アンティラの東南側に隣接していた筈である。ちなみにアンティラは城塞群の王国側平野部にあって、同城塞群を後方から支援する戦略的に非常に重要な街である。

「うん。それは大丈夫」

 マーヤは少しだけ明るい表情になって頷いた。

 マーヤの父親と長兄は現在、自軍を率いてアンティラを守備しているということだった。

「アンティラは陥ちていないのか」

 ……これはまだ希望が持てる。敵は占領した国境の城塞群を保持しつつ、金(かね)の魔法具を持つ主将自らが騎馬隊を中心とした支隊を編成し、電光石火、まず先に王都を落とそうとしているのだろう。

 王都に侵攻しラディス王家を滅ぼせば、諸侯への調略も容易になる。労せずして王国全土を掌中に収めることもできるかもしれない。王家を滅ぼし王城を無力化すれば、無理してラディスラウスを確保し続ける必要もないだろう。

 金の魔法具の圧倒的な力があるからこそ、可能な作戦だと言える。

「うん、敵は北線から動いていない」

 北線、とは国境の城塞群を指す通称である。正確な名称はイシュルは知らなかった。

 マーヤが再度頷いたところでぺトラの視線が横に向いた。

 彼女の視線の先にはアイラが片膝をついて控えている。アイラが無言でペトラに何かを訴えている。

「くわしくは後ほど説明いたそう。その前にイシュルを諸侯に紹介したいんじゃが。ちょうど今、奥の広間で軍議が行われておっての」

 ぺトラがアイラに即されたか、横から声をかけてきた。

 ついで彼女の視線がミラとシャルカの方に向けられる。

「……で、そこに控える者はどなたかの」

 ぺトラがじろっとイシュルを見上げてきた。

「お初にお目にかかります。大公女殿下」

 イシュルが反応するより早く、ミラが彼の横から一歩、進み出る。

「なるほど、そなたがの」

 ミラが、先ほどアイラにしたのと同じように名乗りをあげると、ぺトラとマーヤはちらっと、イシュルに厳しい視線を向けてきたが、すぐに「仕方がない」、とでもいったような複雑な表情を浮かべた。

「こちらは我が聖王国の新王、サロモンさまからの親書ですの。どうかご高覧を」 

 ミラが後ろに立つシャルカから小さめの巻紙を受け取り、彼女の前に進み出たアイラに渡す。

 アイラはそのままぺトラにその巻紙を渡した。

「ふむ、なるほど。これは我が王家としてはサロモン殿にお礼をしなければならんが……」

イシュルはペトラに対し跪き、よそ行きの微笑みを浮かべるミラを見やった。

 ミラはあんなもの、いつ用意したんだ。

 当然、連合王国が攻め込んでくる前のことなんだろうが……。

「しかし、イシュルめ。罪な男よ。ディエラード家といえば、聖王国でも音に聞こえた名門ではないか。それでよろしいのかな? ミラ殿は」

 ペトラはそれなりに打ち解けた感じで、ミラに接している。

 サロモンの親書、とやらに何が書いてあるのか、何となく予想はつくものの、ペトラが何を言っているかよくわからない。

「もちろんでございます。わたくしはイシュルさまの従者のようなもの。ラディス王国の危機に接し、イシュルさまが殿下をお助けするというのなら、わたくしに否も応もございませんわ。その時には、微力ながら全力を尽くす所存でございます」

「左様、か……それはありがたい」

 ペトラはむしろより真剣な表情になってミラを見つめる。

 彼女の視線を、表向きは柔らかな表情で受けとめるミラ。

 ふたりの間に散ったのは火花か。それとも何かの想いの交換、いや単なる探り合いだろうか。

「ミラ、あれには何が書いてあるんだ?」

 イシュルはミラに顔を寄せ声を落として訊いた。

「ヘンリク・ラディス、アンテゥオス大公殿下ならびに、ご息女ペトラ・ラディス殿下に対し、わたしをイシュルさまを輔け、付き従うように手配したから、その旨ご配慮願う、ということが書かれてありますの」

 サロモンはミラを聖王国五公家としての身分のまま、自由に他国間を往来してよしとしたが、その親書とやらが彼がミラに図った便宜のひとつなのだろう。

「ふん、イシュル。そなた、聖王国のあの新国王と、随分と友誼を深めたようじゃの」

 ペトラはサロモンの親書をミラに返すと、イシュルを面白くなさそうな顔で睨んだ。

 ペトラは周りにミラやリフィアがいるせいか、大公息女らしい威厳を持った態度を示しているが、それでもイシュルに対してはちらちらと地の性格を出してくる。

 彼女はイシュルにつーんと、唇を尖らして見せた。

「それから遅うなった。リフィア殿、此度はご苦労であった。妾からも特別に御礼いたす」

 と、ペトラはすぐにリフィアに顔を向け、それらしい表情に戻って言った。

「ははっ」

 ペトラに向かってかしこまるリフィア。

 ……こいつ、また俺らのやり取りを、密かにくすくすとやっていたんだろう。彼女の受け答えにはいつかのように、楽しげな声音が少し混じっている。

「ペトラさま」

 アイラが奥の広間に入ってくれと、催促してくる。

「ちょっと待った」

 イシュルが片手をアイラの前に伸ばし、鋭い声で言った。

 まだだめだ。俺には見過ごせないことがある。

奥の広間からは多くの人びとの話す、くぐもった低い声が絶え間なく続いている。決して俺たちのことを待っているわけではないだろう。

 会議は踊る。軍議はまだ続いているのだ。

「そこの柱の影に隠れているのは誰だ? いいかげん姿をみせろよ」

 イシュルはペトラたちが飛び出してきた、手前の大きな円柱の方を睨んだ。

 意図的に人払いされたのか、人気のない宮殿の中央ホールには、他にはイシュルが以前一度だけ顔を合わせたことがある、メイド頭(かしら)のクリスチナがいるだけだ。

「セルマ、姿を見せなさい」

 そのクリスチナが円柱の方を横目に見、低い声で言った。

「……」

 後ろへ伸びる柱の黒い影、そこから人の形が浮き上がる。

 セルマと呼ばれた女はメイドの姿をし、円柱の影から一同に向かって跪いた姿で現れた。

「すまんの、イシュル」

 ペトラが小さな声で言った。

「いや、そういうことじゃない。おまえは王家のお姫さまなんだから、仕方ないさ。だが俺だっていつ何者から狙われるか、わからない身になってしまったからな。どのみち俺には隠れ身の魔法は効かないし、これからはそういうの、俺の前ではやめてくれないか?」

 俺は風の魔法具を所有し、廃爵になったブリガール家や、リフィアを除いていいのか──辺境伯家の者とも因縁がある。そして聖王国の政変にも首を突っ込んだ。今は身のまわりに当のリフィアやミラがいつもいてくれて、それほど警戒する必要もないのだろうが、相変わらず誰かから刺客を放たれてもおかしくない状況であることに変わりはない。

 そして今、ラディス王国は未曾有の危機にあり、俺はまたしても、より凄惨な戦いの場に臨もうとしている。

「おまえに仕える者を、殺してしまうことはしたくないからな」

 イシュルは酷薄な笑みを浮かべて言った。

「わ、わかった」

 ペトラが顔を強張らせて頷いた。

 彼女を怖がらせてしまったが、これは仕方がない。

 イシュルはちらっとセルマと呼ばれたメイドに目をやった。長い黒髪を後ろに縛った、一見地味な、目立たない女だ。

 アイラたち姉妹とは別に、影からペトラの護衛についているのだ。相当に腕の立つ者なのだろう。

「それでは、ペトラさま」

 アイラはペトラに声をかけると、正面の重厚な観音開きの扉を開けた。

 彼女が片方の扉を開けると少し遅れてもう片方の扉も内側から開けられる。

 中から灯りが漏れてくる。

 扉の内側にはアイラの姉、リリーナ・マリドが跪いていた。彼女はアイラよりやや線が細く、女性的な柔らかさがある。

 そして広い室内には四、五十名ほどの、主に男たちが居並んでいた。

 甲冑を着けている者、マントを羽織った魔導師のような者、平服の者。

 緊張を孕んだ男たちの顔。

 広間の方から熱気のような、何かが漂ってきた。

 ……これは。

 イシュルは全身を引き締め、眸を細めて室内を見渡した。

 この空気。

 これは戦(いくさ)の匂いだ。

 俺はこれまで何度も命のやり取りをしてきた。だが、本物の戦(いくさ)の経験はない。人間どうしの戦う、戦争の経験はない。だが……。

 それでもイシュルにはその匂いがわかった。

 それは今まで嗅いできたもの、味わってきたものとよく似ていた。

 ……闘争の匂いだ。殺し合いの匂いだ。

 イシュルは僅かに顔を俯け、薄っすらと笑みを浮かべた。

 唇の端が引き上げられていくのがわかった。





「皆の者。隣国は聖オルスト王国より、我らに合力せんと強者(つわもの)が参陣してくれた」

 ペトラは彼女の前に跪いた諸侯を立たせると、まずミラ・ディエラードを彼らに紹介した。

 広間にいる者はミラの名を聞くと皆、一様に目を見開き驚きの表情を示した。

「……!」

「なんと!」

 周りから小さくないどよめきが上がった。彼らの間からは女の声で、「聖王国の赤い魔女……」と呟くのが聞こえてきた。

 広間にいる者たちには僅かだが女性の姿も見える。男に負けず劣らず甲冑を着込んだ者、魔法の杖にローブ姿の魔女、周囲に威厳ある空気を漂わせる女領主らしき者たちだ。

 彼らの背後には大きな机に広げられた絵地図、広間の端には椅子が並べられ、奥の方には議事録を取っているらしき書記が数名、机を並べ、壁際には従者や使用人らしき者も並び立っている。

「……」

 ミラは広間のざわめきがおさまると、無言でかるく腰を落としてみせた。彼女の顔には上品な微笑みが浮かんでいる。

 単純に無言で通した方が良いと判断したのか、それとも何か思惑があるのか、ミラは自らは何も口にしなかった。

 ミラがペトラに紹介されると、緊迫した広間の空気がにわかに柔らぎ、明るくなった。

 それは彼らがミラの実力を知っているから、というよりは、聖王国が五公家の者を寄越したことで、同国がラディス王国を後背から攻めてくる怖れがなくなった、と判断したからだろう。

 油断は禁物、決してそうと断定などできないが、王国にとっては当然、悪い話でないのは確かだ。

「おおっ」

「よし!」

 次にペトラがリフィアの帰還を告げると、今度は室内によりはっきりとした歓声が上がった。

 中には彼女と面識があるのか、リフィアに視線で、そして頭を傾けかるく会釈してくる者もいた。

「さて。連合王国が攻めてきて以来、妾は今日この日を一日千秋の思いで待っておった。これで此度の戦(いくさ)は我らの勝ちじゃ。新しい王国の剣(つるぎ)の継承者を、やっと卿らに紹介できる」

 リフィアはそこで間を置き、周りにいる者たちを見渡した。

 広間は再び緊張に包まれ、静寂が訪れた。

「この者がベルシュ家の最後の生き残り、風の魔法具を持つイシュル・ベルシュじゃ」

 ペトラがイシュルの側に近寄り、手のひらを上向け指し示した。

 イシュルはミラやリフィアたちよりやや後ろに立って、彼女たちの従者然として控えている風を装っていたのだが、ペトラはやはりイシュルを、いわば最後の“トリ”として彼らに紹介した。

 イシュルはペトラに声をかけられると半歩、前に進みでて、対面する者たちを見渡した。

 全くの無表情で、何の感情もない視線を向けた。

 ……このことは最初からわかっていたことだ。仕方がない。

 金(かね)の魔法具を持つ敵の総大将、その者と一対一で戦える状況まで持っていくには、途中まで王国軍と行動をともにするのが最も効率がいいだろう。

 今の時点ではその者がどこにいるのかわからない。ペトラたちと行動をともにすれば、その情報を最も速く入手できるだろう。

 それに今は王領となったベルシュ村の件もある。生き残った村の連中が戦禍に巻き込まれないですむように、彼らが平和に生活していくために、俺は王国に力を貸さなければならない。

 ベルシュ村の被った災禍は、俺が背負わなければならない十字架なのだ。

 封建国家である王国自体に、領民は近代国家のような帰属意識は持たない。転生した俺には、前世を生きてきた日本に対するそれはあったとしても、転生したこの世界ではせいぜい生まれ育った村、その周辺までにしかそれを感じない。あのブリガールが領主では、一農民が忠誠心を持ちようもない。ラディス王国など、本来なら想像の埒外だ。

 だが、ペトラと個人的な知己を得、マーヤの身内の不幸を知った以上、彼女たちをおざなりにするわけにはいかない。

 村を出る時、その方が安穏な人生を送れる、と思って振り切ったメリリャはその後、どうなったか。

 周りを見渡せば視界の端に、打ち沈んだマーヤの姿が入ってくる。

 あれを見過ごせというのか。

 イシュルはその無色だった眸の色に冷たく燃える炎を灯し、微かに窄めた。

 魔法の実力者であるミラとリフィア、そして風の魔法具の所有者である俺の紹介を受け、今はずいぶんと明るく、光明が差したかのように思える広間に参集した者たち。

 ついさっきまでこの場に漂っていた戦陣の殺気を、殺し合いの匂いを忘れはしないぞ。

 イシュルは薄っすらと歪んだ笑みを浮かべ、顎を引くと短く言った。

「よろしく」

 相手が貴族であろうと、領民であろうと関係ない。媚びない、奢らない。

 俺は転生者だ。もはや農民の子でも、もちろん貴族でも、王でもない。魔法使いでさえないかもしれない。そして風神と相見えたが、決して彼らの恩寵を受ける者ではない。

 俺は俺、なのだ。

 場は緊張を孕んだ静寂のまま、声を発する者は誰もいなかった。



 広間に吊り下げられ、壁にかけられた多数の燭台、その幾つかは消され、広間の隅は暗く沈んでいる。かわりに、大判の絵地図が広げられた机上に銀製の枝つき燭台が置かれた。

 外はいつの間にか陽が落ち、北側に並ぶ窓は暗い色で染まっている。 

 ペトラはイシュルたちの紹介が終わると、「今日はこれで軍議は終わりじゃ。明日のことは手はず通りに」と一同に告げ解散を命じた。

 次にペトラはイシュルにこれからどうするか、聞いてきた。

「そなたらも長旅で疲れておるじゃろう、夕食を早めにとって今日はもう、休むかの」

「いや。戦況を把握したい。これから俺たちになるべく詳しく、説明してくれないか」

 ペトラはなかなか、ちゃんと気を遣ってくる。今日の諸侯を前にしての態度も堂々としたものだったし、彼女の歳を考えれば立派なものだと言える。

 フロンテーラ商会の隣の店で、はじめて会った時はあんなにはしゃいでいたのに。

 状況が状況だから当然なのかもしれないが、真面目なペトラはしっかりとした、王家の姫君としては至極真っ当な人物だった。

「わかった。すぐに手配しよう」

 イシュルが笑みを浮かべて言うと、ペトラも嬉しそうな笑顔になって答えた。

 それで広間には今、イシュルたちにペトラとマーヤ、マリド姉妹とメイド頭のクリスチナしかいない。

 広間の端にいた使用人や書記たちも、今は誰も残っていない。

 ペトラはイシュルの意向を知るとすぐに、先発したヘンリクに代わり本隊を率いる、ニースバルド伯爵を呼びにやった。

「……」

 ミラはペトラの友人のように振る舞うイシュルに、半ば呆然としている。

 イシュルはそんなにミラに微笑んでみせると、マーヤの傍に寄って声をかけた。

「大丈夫か、マーヤ。お兄さんの仇をとりたいか」

「うん。でもそれよりも父さまたちが心配。北線ではたくさんの人が死んでしまったから……」

「……そうか」

 マーヤはアンティラの陥落を怖れているのだ。

 それは王国の主だった者たちにとっても同じだろうが……。

 そこでマーヤはちらっとペトラを見やった。

「と、とにかく、ニースバルドが参ったら詳しく説明しよう」

 ペトラが少しぎこちない口調で言ってくる。

「ふむ」

 何か隠しているな。こいつら。

「当人が参ったようだな」

 リフィアが扉の方を見て言った。

 イシュルは広間の外に意識を向けた。数名の人の気配がある。

「お待たせいたしました。ペトラさま」

 扉が開くと三人の男たちが広間に入ってきて、ペトラの前に跪いた。

 三人並んだ男たちの真ん中、恰幅の良い壮年の男がレヴァン・ニースバルド、右側のまだ十代後半くらい、イシュルたちと同年輩の男がルースラ・ニースバルドと名乗った。

 年嵩の男の方がニースバルド伯爵本人で、彼にあまり似ていない、柔らかい、むしろ線の細い感じの若い方がルースラ。伯爵の嫡子ということだった。

「ベルシュ殿、よろしくお願い致します」

 ペトラに代わり、イシュルたちにマーヤが彼らを紹介した後、特にイシュルに声をかけてきたのがトラーシュ・ルージェク、年は二十代後半くらいか、尖った鼻にすげ落ちた頬、鋭い目つきの、映画に出てくるドラキュラ伯爵のような顔をした長身の男だった。

 ルージェクはフロンテーラの南部に小領を持つ男爵家で、古くからアンティオス大公家に仕え、トラーシュはイシュルに、「この度はヘンリクさまより軍監を務めるよう仰せつかっております」と続けて言った。

 吸血鬼のような顔をした男はミラにも如才なく笑みを浮かべ黙礼し、彼女の背後に立つシャルカにちらっと目をやった。

「……」

 イシュルは笑みを浮かべると無言でトラーシュたちに会釈した。

 頭を下げながらイシュルは、トラーシュから、伯爵が「倅も役立つと思い連れてきました」とペトラに話しているその倅の方、ルースラ・ニースバルドへ素早く視線を走らせた。

 ……つまりこの一見、いかにも頭の切れそうな感じの軍監、トラーシュと、柔和で頼りなさそうなルースラのふたりが、大公軍本隊を実質取り仕切る頭脳、というわけか。

「では、ルージェク殿。此度の連合王国侵攻の詳細を説明願えますか」

 イシュルは笑みを消さず、外面(そとづら)の声で言った。

「事の発端から、順序立ててお願いしたい」

 その口調と態度はこの世界の、この時代のものではなく、むしろ前世の現代日本人のビジネスマンのそれに近いものだった。

「……わ、わかりました」

 トラーシュは面食らい、言葉を詰まらせた。

「……むう」

 ニースバルド伯爵が小さく唸る。 

 この広間にいる多くの者が、イシュルの示した見慣れぬ態度に呆然となった。

「イシュルは学者だから」

「イシュルはの、戦(いくさ)のこともよく知っておる。それを踏まえて説明せよ」

 マーヤとペトラがとりなすように言ってくる。

 リフィアは苦笑を浮かべ、ミラは当然、と言った感じで澄ました顔をしている。

「事の起こりは一年以上も前、連合王国南西部にある小国、オルーラ大公国が突然、周囲の国々を併呑し始めたことです」

 トラーシュ・ルージェクは一同を、畳一枚ほどの大きさの絵地図の広げられた机の方へ誘い、図面の端の方を指差し話しはじめた。

 自国の周辺国を平らげたオルーラ大公国はその後、一年ほどで連合王国のほぼすべての国々を掌中におさめ、ついでラディス王国との国境北部に兵力を集中しはじめた。

 当然ラディス側でも事態を早くから察知し、同北部の要塞線に守備兵を増兵し、警戒を厳しくした。

 敵側は糧食などの集積を待っていたか、国境付近にしばらく滞留した後、ひと月ほど前に突如、ラディス王国に攻め込んできたという。

「敵は異常に強力な金(かね)の魔法を使って、バルスタール城塞線の諸城を二日間ほどで落城、占領し突破しました。主城のひとつ、ムルド城に入城したデメトリオ殿下以下、諸将はみな討死され、敵軍主力はアンティラを半包囲しましたが、増援に駆けつけたベールヴァルド公爵軍とオルグレン伯爵軍に南北から挟撃され、アンティラからも王家騎士団が出撃、敵軍をバルスタール城塞線まで押しかえしました」

 トラーシュはデメトリオの名を出すとき、一瞬、ペトラやニースバルド伯爵の方を見やった。

 ペトラもニースバルドも特段、表情は変えなかったが、イシュルはそれを見逃さなかった。

 場の空気が瞬間、明らかに変わった。

 彼女たちが何か隠している、とはこれだったのか。

「デメトリオが……」

 イシュルは誰にも聞こえないよう、口の中で呟いた。

 ヘンリクのライバル、王弟デメトリオは戦死したのだ。

「敵軍はどうやって要塞線を突破したんですか?」

 イシュルはトラーシュを鋭く見つめた。

「できるだけ詳しく説明を」

「バルスタールの生き残りもほとんどいず、我々も詳しくはわからないのですが……」

 トラーシュはそう断ってから説明をはじめた。

 まず、ラディス王国の誇る難攻不落の城塞群は、森の魔女レーネの活躍によりそれが築城、形成された二百年ほど昔、当時の王であったバルスタールの名をとって、正式にはバルスタール城塞群、あるいは同城塞線と呼ばれる。近くに領地を持つエーレン伯爵家のマーヤのように、普段は通称で単に「北線」とも呼ばれ、同城塞群は北からハーラルとムルドの二つの主城に、カルナス、セシ、ベイレン、ビルタ、イラール、カネンなどの多数の支城とその間に無数に設置された小砦などで構成される。

 北部の平野部は、さらに北に広がる湖沼地帯から水を引き、幾重にも水堀が張りめぐらされ、丘陵部から山間部には、ある箇所は地形を利用した、またある箇所は万里の長城のような石積みの城壁が数里長(スカール、一里は約六百五十m)にもわたって築かれ、それがいたる所で複郭を成していた。

 連合王国はまず平野部の水堀を多数の“鉄”の板を渡して難なく突破、直後に複数の城を地中と空から無数の巨大な鉄の槍で攻撃し、城郭も守備兵も同時に破壊、殺戮したという。

「アンヘラへの攻撃時には、敵の金の魔法具を持つ主将はいなかった……」

「そのようです」

 イシュルの呟きに、トラーシュは即座に反応した。

「疲れたんだな。いくら金神ヴィロドの魔法具を持つとはいえ、そんなに魔法を使ったら疲れきってしまう」

「イシュルだったらどうかの? イシュルもバルスタールを一日で抜けるか」

 ペトラが横から聞いてくる。

「ああ。城の一つや二つは瞬きする間に潰せる」

「そ、そうか」

 ペトラがその可愛らしい顔を歪ませた。

 伯爵も顔を青くしている。だが彼の長子、ルースラ・ニースバルドはにこにこと柔和な表情を崩さない。

 彼は俺の能力をよく調べてすでに知っているのか、あるいは金の魔法具の威力から、逆に風の魔法具のそれを類推しているのか、動揺する素振りを見せない。何れにしても確かに彼はなかなかのくわせ者、いや使える人物かもしれない。

「……だがそれぐらいでないと、赤帝龍とまともには戦えまい」

 と、リフィアがひと言。

「……」

 イシュルはミラに素早く視線を走らせる。

 「おほほほ」などとやられたらたまならい、と思ったからだが、ミラは口許をもぐもぐさせながらも、なんとか堪えているようだ。

「それで、王都に向かったという敵の主将が率いる支隊は今どこに」

 イシュルはトラーシュにひとつ頷いて見せると先を即した。

「今朝方の知らせではシバークの当たりです」

 トラーシュは絵図面の王都ラディスラウスとアンヘラの中間あたりを指して言った。

 シバークと王都の距離は直線で五百里長(スカール、一里は約六百五十m)ほどしかない。

 ……敵は騎馬中心で動きは早い。途中で王国側の妨害を受けたとしても、王都までは十日もかからないだろう。ただシバークの南にはアンテル川がある。そこそこ大きな川の筈だから、鉄の魔法を使っても渡河するのはなかなか大変だろう。 

 それに騎兵中心の小部隊なら兵糧の類いは現地調達、つまりは街道周辺の村々を略奪していくわけだから、その点でも時間がかかるんじゃないか。

「大公殿下は今どこらへんに?」

 トラーシュによれば、ヘンリクは大公騎士団とフロンテーラ近隣の小領主らの軍を併せ、三千ほどの軍勢を率い、十五日ほど前に出陣したという。現在はオークランスの手前あたり、ということだった。

 オークランスは王都から直線で七百里長ほどの距離にあり、フロンテーラほどではないがかなり大きな街だ。

 ……逆算すると、一日当たりの移動距離は、ところどころ曲折する街道を行くとして七十里長くらい、徒歩兵を含むとしても決して早い進軍ではない。

 わざとだな。

 イシュルは顔を俯け隠しながら、口許を僅かに歪ませた。

 もちろん王都付近でか、これからフロンテーラを出発する諸侯軍本隊と合流するため、というのが理由だろうが、本隊を待たずにそのまま進軍しても、どのみち王都救援には間に合わないだろう。敵の大将が金の魔法具を使えば、王城だって一日か二日で陥ちる。

 ヘンリクは国王であるマリユス三世を敵の総大将に殺させ、俺の追いつくのを待って王都を奪還しようとしているのだ。

 イシュルは一瞬ペトラの顔をうかがい、トラーシュに言った。

「……大体の情勢はつかめました。それで、本隊はいつ出陣しますか?」

「明日、もう一度軍議を開き、その後の明後日早朝を予定しています」

「そうですか」

 随分とのんびりしているな。まぁ、大軍なんだろうし、そんなものか。

 あるいはそこにも、ヘンリクの意向がはたらいているのか……。

「城塞群を占領している敵軍兵力は? 何万くらいですか」

「敵方は十万と呼号していますが、実際は五万ほどかと。ただ後詰めも用意しているようです」

「アンヘラには?」

「五日ほど前の知らせでは二万ほどです」

「なるほど」

 危険な戦力差かもしれないが、敵は総大将が王都を陥し、戻ってくるのを待つつもりだろう。その方が後の戦(いくさ)は楽になる。

「で、敵の総大将はオルーラ大公国の……」

「ユーリ・オルーラ。オルーラ大公国の国主で、まだ年若い……そう」

 トラーシュはその鋭い視線でじっと、イシュルを見つめてきた。

「歳は十六か十七、ちょうどベルシュ殿と同じくらいですな」



 その後、幾度か質疑応答が繰り返され、一同は解散となった。

 ペトラとマーヤはその後もイシュルと話したそうにしていたが、イシュルは夕食時に、と断りを入れ、宮殿西側の賓客用の一室に案内された。ミラとリフィアにも断って、白塗りの壁の美しい寝室で独りになった。

 イシュルは部屋の窓を開け、暗闇に沈む窓外に視線を向けた。

 トラーシュの話はまだ概略のレベルだが……。

 まずはひとりになりたかったのだ。

 精霊を、やつと、ユーリ・オルーラと戦うのに最適な精霊を召喚しなければならない。

 それはもう、以前から考えていたことなのだ。

 ハルンメルで拵えた黒革のコートの内ポケットには、カルリルトスとナヤル、クラウの風の精霊たちの名を記した紙片が入っている。

 彼らの名前を暗記できなかったからだが、今回は彼らを召喚するつもりはなかった。

 カルリルトスでもいいのだが……。

 もっと呼びたい、欲しい精霊がいる。

 イシュルは室内に吹き込んでくる微風に夜の匂いを嗅いだ。

「イヴェダよ、願わくば我(わ)に汝(な)が風の精霊を与えたまえ、この長(とこ)しえの世にその態を発したまえ」

「やあ、久しぶりだ。……剣さま」

 イシュルが召喚呪文を唱えると、そよ風が室内に吹き込み、窓枠に美しい青年か、少年か、どちらとも言えない齢(よわい)の精霊が座っていた。

 弓を片手に抱えて。

「うん」

 イシュルは笑顔になって頷いた。

 狙いどおりだよ、イヴェダ。ありがとう。

 “大人になった”ピーターパンか、若きロビンフッド。

「きみが来てくれてうれしいよ。ヨーランシェ」

「ふふ」

 風の精霊も微笑みかえした。

 かつてアルヴァの白亜城で呼んだ、弓使い。弓兵。

「今度は厳しい戦いになる。きみの実力を見せてくれ」

 風の魔法とはあまり相性の良くない、金(かね)の魔法具の暴虐にはまずひとつ。

 遠距離攻撃で臨む。

「……」

 ヨーランシェが無言で、楽しそうな顔になって頷く。

 イシュルの前に再び、そよ風が吹いてきた。

 

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