【幕間】出会い 2


♯2 聖都の休日


「ミラ、デートをしよう」

 イシュルはミラに顔を近づけると少し照れた笑みを浮かべ、この世界にない言葉を口にした。

 全身がかるく、熱を帯びるのがわかった。


 窓から降り注ぐ夏の眩い日差しはかわらない。だが吹き込んでくる風には秋の匂いが微かに混ざり始めている。

 イシュルは自室の居間で長椅子に横になり、しばしの間まどろんでいた。

 ふと眸をあけると、目の前にミラの顔があった。

 彼女はその双眸にこぼれんばかりの愛を揺らめかせ、ただ無言でイシュルの顔を見つめていた。

 彼女の顔は笑っていない。けっして明るいものではない。何かの哀愁に満ち、何かを怖れているようにも見えた。

 ……それはただ、俺の誤解だったかもしれない。

 聖都の情勢は日々激しさを増している。だがまだ時間はある。

 聖冠の儀はもちろん、ルフレイドの救出も、次の総神官長を決める入札にゅうさつも、まだ先の話だ。

 それなのに。

 きみはなぜそんな顔をする。

 心配なのか?

 ……俺は大丈夫だ。俺の心配なんてしないでほしい。

 俺は守られるんじゃない。守る方だ。

 もちろんきみを。

 みんなを。

「……ご、ごほん」

 イシュルは少し気まずそうな顔になって、ミラの視線から目を逸らした。

 ……なんて、格好つけてみたがそんなことじゃないだろう。

 彼女が、俺をただ心配しているだけではないのはわかっている。

 しかし時に重すぎるのだ、彼女の愛が。

「イシュルさま?」

 ミラが微笑む。

 彼女の顔から影が消え、不安げな何かが霧散した。

 やはり俺の思い過ごしだったか。

「お早うございます。よく眠れました?」

 ……ちょっと居眠りをしていただけなのに。

 ミラはあくまで甘く、やさしい笑みのままだ。そこには俺に対する、一片の揶揄も見つけられない。

 そう……。彼女の愛情を重い、だなんてあまりじゃないか 。

 こんなにやさしくけなげで、美しいのに。

「ふむ……」

 イシュルは眼が醒めて意識がはっきりしてくると、上体を起こして顎に手をやり、視線を窓の外に向けた。陽光に木々の緑が煌く。燃えるような生命力が迸ほとばしるように眸を焼き、心を浮き立たせる。

 彼女の想いに応えたい。

 ただ助けるだけ、誓約を果たすだけでいいわけではないだろう。

 ひとの心、気持ちはそう、やはりそれだけ重いものなのだ。当然なのだ。

 それでいいじゃないか。

 だからイシュルはミラを誘ってみた。

 あまり考えもなく突然、思ってもみないことが口に出た。そんなふうに感じた。

「でーと、ですか」

「うん、デートだ」

 以前に確か、似たようなことでマーヤをからかったことがある。

「デートとは、……そうだね。互いに想いあう男女、主に婚前の恋人どうしが、近隣の景色のいいところやどこか楽しいところ? にでかけたりすることなのさ」

「まぁ……」

 ミラはぱぁっと花が咲くように顔を綻ばせ、紅く染まった頬に両手を当てた。

「わたくし、はじめて聞きましたわ。その言葉」

「うん、……そうかな?」

 それはそうだ。この世界にそんな言葉はない、はっきりとした概念もない。

 もちろん、結婚前の恋人どうしが神殿や市場に一緒に出かけたり、などということはあるだろうが、男女の昼日中からの逢瀬を意味する言葉など、ありはしない。

「それでだ。ミラとふたりきりで、都みやこのどこか、近場にでかけてみようか、と思って」

 今がそんな時期でないことはよくわかっている。デートするなら聖冠の儀の後、ビオナートを葬り政争を終わらせ、もうひとつの紅玉石を手にいれた後に、いくらでもできるだろう。

 だが先日、王城の地下通路を崩落させ破壊し、修復作業に国王派の土の魔導師や騎士団兵らを拘束する工作を行ってから、次期総神官長の入札とそれに直結するルフレイドの救出まで、その間はかなりの日数があり、こちらはあまりやることがない。

 対して、サロモンやルフィッツオらは聖都内外の貴族たちを対象に、デシオたちは教会内の主だった神官らに、それぞれ積極的に多数派工作を仕掛けていかなければならない、より力を入れなければならない時期である。

 彼らの下につく影働きの連中も、味方の護衛や工作対象への情報収集、敵対派閥に対する妨害など、上が忙しく動けば動くほど、より多忙になっていく。 

 イシュルはそういう、どこにでもあるような王都の政争自体にはあまり関与してこなかった。

 彼らの多数派工作のためのいわば広告塔として、公爵邸に訪問してきた貴族や富商らとの面談を幾度となく重ねてきたくらいである。

 ビオナートによるイシュルや公爵家に対する数々の工作も今はひと段落し、風の大精霊であるクラウが鎮座するおかげで、彼らも屋敷の方には直接手を出しにくい状況にある。

 ミラもダナのような中立でも正義派寄り、あるいはサロモン王子派寄りの宮廷魔導師を屋敷に呼んでは茶会や晩餐をともにし、情報収集や引き込み工作をしているが、さすがにそれも毎日、というほどではなく、最近は一日空いている日も増えてきた。

 ミラはそれでも公爵家の息女であるから、彼女よりもはるかに多くの人々と会い、手紙を書き、忙しそうにしている双子の兄たちに代わって家政をみることもあるようだが、イシュルはデシルから借りた本や公爵家の書庫から持ち出してきた本を読んだり、屋敷の敷地を散歩したり、のんびり過ごすことがさらに多くなった。

 自室の居間で公爵家の蔵書、あまり面白くもない聖王国史や教会の聖人伝などを読んでいると、眠気を誘われ知らぬ間にうたた寝してしまう。

 そんな時にミラが目の前にいた。

 これまでも彼女は時間が空くとイシュルを誘って一緒にお茶を飲んだり、屋敷の広い庭を散策したりしていたが、今日も何か、彼を誘いに来たのかもしれなかった。

 ……屋敷の外に出るのは、あまりよろしくないのだが……。

 当然、屋敷の周囲は国王派に見張られているだろう。レニに会いに行く時のように空中から迂回でもしなければ、ふたりきりで外に出るのは危険を伴う。というより、出かけた先で彼らに邪魔されたくない。

 今まで屋敷の外に出る時、敵方に行先を知られたくない時は昼夜を問わず、相手の追跡をかわすために常に空から向かったし、あるいは逆手をとってわざと街中を歩き、罠にはめたりしたこともあった。フレードに会う時、紫尖晶聖堂に行く時は敵方の尾行をまくための道筋が指定されていた。

 今回は荒事を避けるため、邪魔されないために、相手の監視や尾行を躱さなければならない。

「……それで、あの、イシュルさまはどこに行きたいのでしょう」

 ミラはしばらく惚けたような顔をして、意識をどこかにやっている風だったが、なんとかこちらに戻ってきて恥ずかしそうに聞いてきた。

「わたしがご案内しますわ」

「うん……」

 イシュルは視線を宙にやって考えた。

 デートと言っても、この前世の中世期のような世界ではまともな場所はないだろう。神殿なんかに行ってもしょうがないし……。

「やっぱり市場、かな?」

 かつて、エリスタールでシエラと市場に行ったことを思い出す。

 今はこんな状況で、昼間に聖都の街中へ出かけたことがほとんどない。ハルンメルに滞在していた頃は市場によく出かけていたが、市に行けばその地の特産や食生活はもちろん、時に文化、習俗までうかがい知ることができる。せっかく異国の地、それも大陸でも有数の大都市に滞在しているのだから、一度は見ておきたい。

「ふふ、そうですわね」

 ミラもこちらの意図を察してか、笑顔になって頷いた。

「聖都では市の立つところもたくさんあるだろう。場所はまかせるよ」

「わかりましたわ。では、わたしにおまかせを」

 ミラは公爵家のご令嬢なわけだが、お忍びで街中の市に出かけたりすることは過去に何度もあったろう。ルシアあたりを連れて出かけたりしたのではないか。

「ただミラ、そのドレスはダメだぞ。街中の娘たちがしているような服装で、頭も三角巾か、何か布を巻くとかしてくれないと」

 イシュルは人差し指を彼女の前に立てて言った。

 街中の市場を赤いドレスにぐるぐる巻きの金髪姿で歩かれたら、いらぬ注目を浴びてしまう。

「わかっていますわ」

 ミラはもちろん、といった感じで頷いた。




「……」

 イシュルは彼の前に立ったミラの姿を見て、思わず息を飲んだ。

「どうかしら。イシュルさま」

 ミラはイシュルの前でからだをひねり、片手でスカートの裾を摘んでかるく持ち上げて見せた。

「……き、きれいだ。か、かわいい」

 イシュルは喉を鳴らすと掠れた声で言った。

 ミラは明るい若草色のスカートにシンプルな白のブラウス、片手に小さな藤製のバスケットをぶら下げていた。そして豊かな髪を後ろにまとめ、その上に控えめな草花の柄の入った三角巾を巻いていた。

 なるほど、確かに街中でよく見かける娘たちの服装だ。

 ……だが、あまりに美しすぎる。実際にはこんなきれいな街娘は、いない……。

 でも実際にいようがいまいが関係ない。新鮮だ。街娘の格好をしたミラ、なぜか彼女に今ここで初めて、出会ったような気がする。

「ふふ。それは良かったですわ」

 ミラは細い指先を頬にそわせて一瞬だけ、どきっとするような流し目を向けてきた。

「では行きましょうか。イシュルさま」

 ミラはすぐその視線を引っ込めると、いつもの花咲くような笑顔になった。

「……」

 イシュルは無言でミラの前に立つと、彼女の眸をじっと見つめた。そして彼女を抱き上げ、いきなり風を吹かして窓を開けると、そのまま外へ、一気に青空へ飛び上がった。


 ミラが薦めてきた市場は、聖都市街のほぼ中央部にある貴族街の近く、やや運河寄りにあった。

 その市は隣接する神殿の名をとってナバール市場と呼ばれ、月の最後の日と、聖堂教の祝日以外は毎日開かれていた。

 イシュルは市場に出る細い路地に隠れるようにして着地すると、抱えていたミラを降ろし、ふたり横に並んで屋台の密集する広場の方へ歩き出した。

 市場はそれほどの規模ではなく、周囲は大小の石造りの建物に囲まれている。

「ここはそれほど大きな市場ではないのですが、貴族街に近いこともあって、新鮮で質のいいものが並ぶのです」

「なるほど」

 イシュルは市の立つ広場の端で立ち止まって、周囲を見渡した。

 人出はそこそこ、屋台の並ぶ中、行き来している客層は言われてみれば、メイド姿の者や夏なのに上着を着ている者など、貴族家の使用人らしき人たちが多いようだ。

「じゃあ、行こうか」

「まぁ……」

 離れ離れになるとまずい。ちょっと大胆だがミラと手をつないで市の中へと入っていく。

 ミラは顔を真っ赤にして俯き、恥ずかしそうにしている。

 市場に並ぶ店は、上に帆布を渡した屋台に混じり、地面に布を広げただけの文字通り完全な露天商もいる。この市はほとんどの店が野菜や果物を扱っていた。

 近郊の農民らが余った土地、時間で作った作物を、高い値で売れる貴族街近くのこの市場に持ち込んでいるのだろう。店主らはみな真っ黒に日焼けし、素朴な服装をしている。

 もちろん、どこか近くの商人ギルドが取り仕切っているのだろうから、誰でも自由に売れるわけではない。みなギルドの縁故に頼り、場代を払って月に一度、五日に一度と決まった日に店をだしているのだろう。

「やはりラディスより物なりがいいのかな」

 イシュルは周りを見渡しながら言った。

 視界には豊かな色彩が、夏の朝の日差しに輝き溢れるようにして飛び込んでくる。

 野菜は瓜やさや豆、葉物、山芋、赤く丸いトマトらしきもの、果物は杏子や桃、葡萄に梨などが、どの店も山盛りになって並んでいる。

 イシュルは果物を並べている露天商の前で歩を止めると、梨をひとつ手にとった。形は丸形というよりは達磨というか瓢箪に近い形で、ほぼ洋梨と同じ形をしている。

「おばちゃん、これ一個、おくれ」

 イシュルは店主に少し余分に金を払ってその場で皮を向いてもらい、ふたつに割ってもらった。

「はい、どうぞ。ミラ」

 片方をミラに手渡す。

「あ、ありがとうございます」

 一瞬たじろぐミラにかまわず、イシュルみずみずしい果肉を口にいれた。

 うーん。おいしい……。

 口の中に甘い香りが広がる。おおげさでなく、喉から心地よい潤いがからだ全体に広がっていくのがわかる。

「ふふ。おいしいですわね」

 ミラも梨を手づかみで、だが控えめに口に含んで食べている。

 彼女ら貴族の娘たちもみな、お付きの護衛や使用人らを連れお忍びで市場や、庶民の出入りするような食堂に出かけたりしている筈だ。そしてこうして、その場で新鮮な果物を食すことも。

「ミラはお忍びででかけるのは久しぶり?」

「はい! ……それも、まさかイシュルさまとこうして市場で梨を食べるだなんて」

 ミラはそこで、今まで見たこともないような顔いっぱいの明るい笑みを浮かべた。

「素晴らしいですわ。わたくし、イシュルさまにより近づけたような気がいたします」

 そしてイシュルに身を寄せてきた。

「あ、ああ」

 ミラの手に持つ梨の果肉から甘い香りが漂ってくる。

 イシュルはなぜか、からだをわずかに後ろへ逸らす。

「ほんとうにイシュルさまは不思議な方。イシュルさまはきっと、どこかの街娘でも、たとえ王女が相手でも、まったく変わらずわたしと同じように振舞うのでしょう」

 ミラのじっと見つめてくる眸に、陽光の煌きが微かに映り込む。

 この世界は、少なくともこの大陸では、ほとんどすべてが封建制による身分社会である。当然俺のように、それにとらわれない思考をできる人間はいない。あり得ない。

「……」

 イシュルは喉を鳴らした。

 なにが言いたい、ミラ。

 ついさっきまでいつものように振舞っていたミラが、突然、どきっとするようなことを言ってきた。

 目の前で微笑むミラ。

 たぶん彼女ほど、俺のことを調べ、考え、見てきた者はいない。

 そして彼女は俺の、この大陸の者からすれば風変わりな宗教観や、支配層に関する醒めた考えを聞き知っている。

 ミラはこれまでそんな俺の、この世界の人びとにとっては不可解に思うような言動を、風の魔法具を持っているから、神々の恩寵を受けているから、ベルシュ家の生まれだから、などを理由に、特に疑念も持たず受け入れてきた。少なくとも彼女はそのような態度をとってきた。

 だが彼女だって内心では、俺の不可解な言動がそれだけで説明のつかないことくらい、わかっていただろう。

「……どうかな?」

 あなたはいざとなったら相手の身分に忖度しない、普通じゃない──そう言ってきたミラに対し、イシュルは少しぎこちなく、とぼけてみせた。それしかできなかった。

 「……」

 ミラが可愛らしく首をかしげ、無言で見つめてくる。

 その眸にいつもと違う色が混じっているのがわかる。

 ミラは俺に関する疑惑に目を瞑るだけでなく、いつも俺を全肯定し、追従するような言動を重ねてきた。

 だが今は違う。

「イシュルさまからいただいた梨、とても美味しかったですわ。お行儀の悪いことしてるのに、イシュルさまといっしょだと、全然そんなこと気にならないのが不思議です」

 ミラが視線を外さず笑みを深くする。

「……どうしてかしら」

 大好きな方といっしょだから、それだけではないのですわ。

 ……と多分、ミラは言っている。

 きっとミラは俺のとった行動から、街の住民や農村の人びとのする、子供らのする買い食いとは違う何かを感じとったのだろう。

 確かに俺は、旅先で旬の新鮮な果物を味わう都会の人間──のような気分でいたのだ。

 おそらく、そういう空気を醸し出していた。

「これからイシュルさまといろんなところへ行って、いろんなものを見たら、わかるのでしょうか」

 ミラ、おまえ……。

「そうかもな」

 イシュルもミラから視線を外さず、彼女の眸を見つめた。

 ……彼女の眸に映る自分の小さな顔。

 彼女は知りたいのだ。俺のことを、俺の隠していることを。

 彼女が俺のことを本気で想っているのなら、それも仕方がない、いや当然のことなのだろう。

 誰だって、愛している者に秘密があるのならそれを知りたい、全てを知りたい、と考えるだろう。

 彼女は俺とともに神々の世界を、究極の魔法を、あるいは伝説の魔物たちとの戦いを、それだけを見たい、知りたいだけではないのだ。

 俺という存在の、この世のものではない部分を知ること。

 彼女にとっては俺自身も“神秘”なのだ。彼女が求めるもの、そのものなのだ。

「……」

 イシュルは口許に微かな笑みを浮かべた。

 俺からいつかそのことを、俺が転生者であることを、前世がどんな世界だったか、話す時がくるだろうか。

 ミラが最後の、最後の瞬間まで俺の横にいたのなら。

 俺が話さずとも彼女は確実に知ることになるだろう。俺の秘密を。

 神々との対話には、彼らとの戦いには必ずそのことが関わってくるに違いない……。

「美味しかったね。梨」

「はい、イシュルさま。……とっても」

 満面の笑顔で頷くミラ。

 さすがだよ。

 ただ恋するだけでは面白くない。ふたりの間にはちょっとした緊張も、駆け引きもなければ。

 ──そんな感じか? ミラ。

 彼女は甘い果実の香りに、微かな苦みをそっと、ちくりと刺すように忍ばせてきた。

「イシュルさま、次は……」

 ミラは少しすました顔になって視線を周りに彷徨わせた時、ふと眉をひそめて不審な表情を見せた。

 豊かな色彩の満ちた視界のすみを一瞬、真っ黒い何かがかすめる。

「ん?」

 イシュルも感じた。

「何でしょう」

 ミラが市場の北東の端の方を見やる。

「行こう」

 イシュルはミラの手を取ると、市場の北の端の方へ移動した。

 途中、周囲を見回すが特に怪しい者はいない。

 店々の間を行き来する客、店主、誰もおかしい、不自然なところはない。

 まさか、こんなところでも国王派なのか、影働きの連中が監視しているというのか。

 こちらは屋敷から空中を、空を回り込んで来ている。公爵邸を見張っている者に行き先はわからない。

イシュルは市の北側に面した、ナバール神殿の石積みの塀にくっつくようにして端に寄ると、ミラに「静かに」と小さく声をかけて目を瞑った。

 市場の人びとの動きは幾つかのパターンに類型化される。

 その場を動かず品を見、あるいは店主と話す客、店々をじっくり見て回る客、単なるひやかし、買い物を終え、いそいそと去っていく者……。

 人間のちょっとした動きの違い、呼吸の速度、大きさ。

 揺れ動く風の流れ、波紋のように広がる空気の振動。その中から異質な存在をあぶり出していく。

「……!」

 イシュルは眸を開くとミラを抱きかかえ、いきなり跳躍した。

 同時に風の魔力を、市場の敷地の東南角に降ろす。

「やっぱりおまえらか」

 イシュルは音もなく着地するとミラを地面に立たせ、窓のない商家の倉庫のような建物、その壁際に固まるふたりの女たちを睨んだ。

「ネリーにルシア」

 ネリーは片足を膝を折って浮かし、片手を高く上げ伸び上がるようにして、ルシアはそのネリーにしがみつくようにしてじっと動かずにいる。

 ネリー、おまえのその格好……。まさか、「シェーッ!」とか叫んだりするんじゃないだろうな?

 イシュルは肩を落とし思いっきり脱力した。

 ふたりを囲った風の魔力の壁を、ゆっくり上方へ開放する。

 夏の晴れた空をひゅるひゅると風音が鳴った。

「あっ、あの。すいません」

「い、いや。これはだな。ミラお嬢さまが心配で」

 素直に謝ってくるルシアに、素直になれないいつものネリー。

「あれほど言ったのに……」

 イシュルの隣から、低く囁く声がする。

「ひっ」

 ネリーの視線がミラの方へ向くと、彼女の顔色がさっと変わった。

「お、お許しを、ミラお嬢さま!」

「……」

 ルシアの顔は泣き笑いになっている。

「ネリー」

 イシュルは横で何か叫ぼうとしたミラの機先を制し、にやりとしてネリーに声をかけた。

「おまえ、ミラを守るとか言って、どうしてルシアといっしょにいたんだ?」

「うっ」

 ネリーの顔がさらに青くなる。

「ふたりしてくっついてミラの護衛か? それ、おかしいよなぁ」

 ふつうは護衛対象を適当な距離を置き、前後ではさむようにするとか、市場の両端、対角線上に位置して対象の周囲を広い範囲で見張るとか、そういうふうにやるもんじゃないのか?

 なにか事が起きたら大声を出すなり、笛を吹くなりすればそれでいい筈だ。

 ここはそんなに大きな市ではない。

「完全に冷やかしだな。おまえたち」

「ふたりとも、今は屋敷に戻りなさい。後でお話があります」

 ミラが低い、静かな声で言った。

 ミラの今日のデートに向けた気合いの入れ方は尋常ではない。いつも一緒のシャルカでさえ、屋敷に置いてきたのだ。

「ひっ」

 ネリーがこれでもかと、怖気をふるってぶるぶる震えだす。

「もうしわけありません。ミラお嬢さま。では失礼いたします」

 ルシアが頭を下げてくる。

 ……可哀想に。

 イシュルは、ルシアの怯えているというよりは困惑した顔を見て小さくため息をついた。

 彼女はどちらかといえば、暴走気味のネリーを抑えようと仕方なくついてきた口だろう。

「ミラ。彼女らを怒るの、ほどほどにな」

 イシュルは気落ちして市場から去って行く、ネリーとルシアの後ろ姿を見ながらミラに言った。

 歩を止め何事かとこちらを見ていた周りの人々も興味を失い、みな思い思いに散っていく。

「わかっておりますわ」

 イシュルはツンとして横を向くミラの顔を見やって笑みを浮かべた。

「他の子らも来ていないかな」

 デートをしよう、とミラを誘ってから今朝方まで、彼女がお付きのメイドたち相手に大騒ぎしていたのはイシュルにもわかっている。

 イシュルとの“でーと”になにを着ていくか。ただ目立たないだけの街娘の服装、そのままでは嫌だ。巻き巻きの髪の毛をどうまとめようか。どんな髪形がいいか。

 “お忍び”であったはずの外出が結局、屋敷の少なくない使用人らに知られることになってしまった。

 それはつまり、敵方にも漏れ伝わってしまった可能性が高い、ということである。

「それは大丈夫ですわ、イシュルさま。どこに行くかは、あのふたりにしか話しておりませんから」

 ミラはすぐに機嫌を直して、イシュルの傍により笑顔を向けてきた。

 いつまでもプンプン怒っていてもしょうがない。無理にでも気持ちを切り替え、今を楽しんだ方がいい。

 彼女はそのように考えたのだろう。

 ミラがそういうのなら、俺と彼女がどこに出かけるか、屋敷の外、敵方には漏れていないと考えてもいいだろう。

「あの、これからイシュルさまをお連れしたいところがあるのですが」

 ミラが見上げてくる。

 髪を上げ、あらわになった首筋から肩へのすっきりしたラインが新鮮だ。

「う、うん。どこかな」

 イシュルは自分の顔が少し熱くなるのがわかった。

 今日のミラもまた、とびきり美しい。 

「この先にエリューカの主神殿がありますの」

 ミラは市場の西側、イシュルたちの斜め前から西北に伸びていく細い道の方を指差して言った。

 ……美神エリューカの?

 ミラの指し示した道は、両側から飛び出た店の庇ひさしが幾重にも連なる、緩やかな登りの小径で、そこを街の人びとがまばらに行き来している。路地に落ちた庇の影が涼しげに見えた。

「あ、あの……。エリューカの主神殿は、一緒に祈りを捧げるとその男女が将来必ず結ばれるということで、その……よく街の者が訪れるそうです」

 ミラが頬を染め、恥ずかしそうに言ってくる。

 ふむ。エリューカが縁結びの神さま、扱いされているわけか。

 美と快楽の神エリューカには、踊り子であった彼女が死を賭して王子への愛を貫いた、悲恋の故事がある。

 最後は悲劇に終わったが、彼女の愛は主神ヘレスをも動かした。故にエリューカに縁結びを祈る、というのは別におかしなことではない、のだろう。

「さすが聖都、そういうところもあるんだね」

 恋人たちのメッカ、というわけか。この世界ではやはり、珍しいんじゃないだろうか。

「エリューカの神殿には庭園があって、そこにある美神の故事が記された石碑の前で、ふたりの愛を誓うと、これも美神の恵みがあるとされています……」

 ミラは眸をきらきらさせて話していたが、途中からあまりの恥ずかしさのせいか、顔を下に向け俯いてしまった。語尾が途切れ途切れに、小さくなって消えていく。

 街娘の格好をしたミラが羞恥に俯く姿。

 くっ、なんて可憐な……。

 イシュルはたまらず眉間に手をやり、首をかるく振った。

 これは強烈すぎる。眩暈に襲われるのもしょうがない。

「あ、あのイシュルさま……」

 顔を俯かせていたミラが心配そうな顔になって、再びイシュルを見上げてくる。

「いや、大丈夫」

 イシュルはミラに微笑を浮かべてみせた。

「じゃあ、その神殿に行ってみようか。庭園にも行こう。ふたりで一緒にお祈りしよう」

 イシュルはしっかり言い切った。




 ふたりはその路地をエリューカの主神殿に向かった。

 道の両側には古道具屋や古着屋、陶器屋などが並び、神殿に近いせいか神具を売る店もあった。神具屋には大小の聖典や神々の彫像、神官服や手燭などが置かれていた。

 途中、さらに細い脇道に折れ、前世で言えば隠れ家風の食堂に寄って早めの昼食をとった。

 その店は貴族や富商の客が多いのか、なかなか値の張る料理を出し、奥には小さな中庭がしつらえてあった。

 室内はテーブルごとに衝立や家具で仕切られ、一見、街の食堂には見えなかった。

「ここは、お忍びで来る貴族の御用達のような店ですの」

 ミラは隣の席の、カップルで来ている客の女の方を見てそっと目配せすると、声を落として言った。

 どうやら彼女の知る者もお忍びで来ているらしい。

 イシュルもちらっとその女の方に目をやった。

 言われてみれば、以前サロモンの開いた晩餐会で見たような気がする。

 だが、それよりも。

 イシュルは視線をその右横に泳がした。眩しさにわずかに眸を細める。

 夏の陽射しの中に佇む緑の草木、ちらちらと色さす花々が目に飛び込んでくる。

 そこには薄暗い室内の影に縁取られた、あざやかな緑の中庭があった。


 エリューカの主神殿はそこそこの大きさ、聖都の主だった神殿ではめずらしく塔、尖塔はそなえていない。

 確かに神殿前の広場を行き来する人びとは、若い男女の連れが多いようだ。中に入りミラとともにエリューカの石像に祈りを捧げたが、神殿内部も男女のカップル、あるいは若い女性の姿が多く見られた。

 神殿の裏手、北側に回るとミラの言っていた庭園があった。庭園は古い石壁に囲まれ、神殿側の正面入り口には、これもところどころ錆の浮いた鉄条門があった。観音開きの門は片方が少し開けられ、その前には神官見習いの少年が立っていた。

 ミラは中に入るとき、その少年に懐から出した小さな青銅らしき金属の板を渡した。

「この庭園はふだんは街の者に公開されていないのです」

 彼女の話によれば、教会の祭日など特別な日以外は一般に公開されておらず、その日以外に入園するには前もって神殿に願い出る必要がある、ということだった。

 つまりこの庭園の利用は予約制となっているわけだが、入園許可が下りる対象はほぼ聖堂教会の神官や貴族、富商などに限定されるらしい。

 ミラはこの日のために、前もって入園の許可をとっていたわけだ。

「たいしたもんだな」

 イシュルは正門から伸びる石畳の道を見渡し、思わず呟いた。

 庭園の真ん中を突っ切る道の両側から、明るい緑の木々が覆いかぶさり、涼しげな影を落としている。

 まっすぐ伸びる石畳の道の先には、片手を天に伸ばす美しい女の彫像が立っているのが見える。

 美神エリューカの石像だ。

「あの美神の像のあるところが十字路になっていて、その角にエリューカの故事が記された石碑がありますのよ」

 ミラが爽やかに、踊るような声音で言う。

 さきほど神殿でお祈りしてから、ミラは舞い上がっているというよりは何かすっきりとして、軽やかな気分でいるようだ。

「さすがは聖堂教会の総本山がある大陸一の大都会、こんな場所があるなんてな」

 これは見た目、公園そのものじゃないか。

 日が限られるとはいえ、一般の住民にも開放されるのだ。

「だいとかい……ですか」 

「ふふ、行こうか」

 イシュルはかるく笑ってはぐらかすと、ミラの手を取り歩きだした。

 視界の端をゆっくりと流れていく緑色の諧調。足許を踊る木漏れ日の揺らめき。

 エリューカの庭園は木々の間を散策する貴婦人、道の端を静かに歩く老神官など、わずかな人影を見かけるだけでほとんど無人、まるで貸切のような贅沢な気持ちになれる。

「……♪」

 ミラが何かの歌を口すさんでいる。

 彼女はそのことに気づいていないようだ。

「……」

 イシュルは微笑を浮かべると道の先に視線をやり、眸を細めた。

「えっ」

 その眸が大きく見開かれる。

 エリューカの石像のある十字路まで道半ば、その左奥の角に例の石碑がある。

 その石碑の前に数名、ひとの寄り添う姿が見えた。

 今まで木陰と石像の影になって、彼らの姿が見えなかったのだ。

「ミラ」

 イシュルはミラを抱え込むようにして、右側の木立に飛び込んだ。

 あれはなんだ?

 ……しかし油断した。周りに注意を払うとか、何もしていなかった。

「イシュルさま?」

 木の幹の影からミラが不安げにイシュルを見上げてくる。

「しっ」

 イシュルは口許に人差し指を立てると背を低くして石碑の方を見た。

 そこにいたのはルフィッツオとロメオ、ピルサとピューリのふた組の双子の姿だった。


 ピルサとピューリは横に並んで百合の花だろうか、白と薄いピンクの花を一輪ずつ手に持っている。

 その前にはルフィッツオとロメオが、片膝を立て跪いていた。

 ふたりの少女が、その前に跪いたふたりの男にそれぞれ、花を一輪手渡そうとしている、そんな構図である。

「まぁ……」

 ミラが彼らの方を見ながら感嘆の声を上げる。

 ……しかし。

 彼らもこの庭園に来ていたとは。

 今回はミラが騒いだから、いや、この神殿に予約を入れた時点で、ルフィッツオとロメオにこの庭園のことが漏れ伝わったのだろう。

 そこでピルサとピューリから双子どうし、四人だけで会いたい、との話があった……。

 おそらくはじめて、彼女たちの方から誘いがあった。ルフィッツオとロメオも、ミラと俺の話を耳にして、この庭園を、彼らの記念すべき第一回目の屋敷の外での逢瀬、つまりデートの場所に選んだのだろう。

「もう……いらないの。……、今まで……」

「でも……うれしかった。……わたしたちは……」

 微妙な距離で彼女のたちが何をいっているのか、すべては聞き取れない。

 目の前の草木の壁が、その先の微妙な空気の振動を感じとりにくくしている。

 この距離で魔法の感知を伸ばすのも、相手が相手だし露骨にやるのは憚られる。

「ああ! ピルサ」

「ああ! ピューリ」

 と、ルフィッツオとロメオの悲しそうな叫び声。

「おお! ピルサ」

「おお! ピューリ」

 と、今度はルフィッツオとロメオの喜びの声。

 彼らの反応は相変わらず大げさで、少々くどい。

 だが彼らのそんな大時代的な言動も、大陸の貴族階級ではこれがふつうなのだろう。

 なんの偶然か。いや、これは何か奇縁があったということなのか。先日、屋敷の中庭の東屋で、ピルサとピューリの相談を受けたときに俺が話したこと、提案したこと、それが実際に目の前で展開されている、まさしく絶妙な場面に出くわしてしまった。

「あの方たちも、これでうまくいくことでしょう」

 ミラはそう小さな声で言うと、俺の顔を見上げてきた。

 微笑の中に少し意味ありげな眸。そういえばあの時、ピルサとピューリと話していたとき、途中からミラがやってきたのだった。彼女はあの後、双子からあの時の話を聞いたのだろうか。

「もう帰りましょう、イシュルさま。こうして隠れてあの方たちの恋の行方を覗き見するというのも、あまり趣味の良いものではありませんわ」

 二組の双子のカップルは何事かぼそぼそと話している。彼らから伝わってくる雰囲気は悪いものではない。

「そうだな」

 こちらとしては少し気にならないでもないが……。

 ここはもちろん、ミラの真っ当な意見に従うべきだろう。

 人の恋路を邪魔するやつは~とは違うにしても。

「わかった。じゃあ、ここにはまたいつか来よう、ミラ」

「はい。イシュルさま」

 ミラが笑みを深くして微笑む。

 こうしてイシュルのいささか散文的? いや、充分に詩的な休日は終わりをつげた。

 それは果実の甘い香りと、ミラの煌くような心の発露、そして夏の木々の鮮烈な緑の重なり……。

 そんな一日だった。


 その日屋敷に帰ってからイシュルは夕方、涼みに出た中庭でルフィッツオとロメオに出くわした。

「……」

 彼らはすれ違いざま、無言でイシュルの背中を叩くと小さな声で言ってきた。

「ありがとう」

「ありがとう、イシュル君」

 夕日に、ふたりの男の穏やかな笑みが浮かんだ。




 聖冠の儀が終わりビオナートが誅され、聖王国の新たな王位が定まろうとしていた時、イシュルたちがいよいよラディス王国のフロンテーラに向かおうと準備していたある日。

 イシュルは彼の使っていた部屋の晩餐室に広げられていた、聖都の各派の人物相関図を両手に持ち、端からぐるぐると巻いていた。

 ……もうこれは必要ない。これから外に出て、風の魔法で細かく切り刻み粉砕して、そのまま空に吹き飛ばしてしまおう。

 聖都の政争、そのものに首を突っ込むことはせずにいたせいか、ルフレイド王子救出後の書き込み以降はもう、あらたな記入もせず、それどころか紙面を見てじっくり考える、こともなくなった。

 もう大勢は決したと、イシュルは考えたからである。あくまで各派の勢力争い、政治上では。

 そういうわけで結果的に、自分で制作しておきながらイシュルはしっかり見て、書き込み、考え、使ってこなかったわけだが、それでも最初にこの大きな相関図をつくったことは、聖都の状況をおおまかに知る上で、とても役にたった。

 イシュルははじめて聖都の上空を飛んだとき、王城や大聖堂も含めた都みやこの地形の把握につとめたが、彼のつくった各派の人物相関図は、聖都の目に見えないもうひとつの、いわば“地形図”でもあった。

「それ、どうするんだ?」

 イシュルの傍に立っていたリフィアが聞いてきた。

「この図面はもちろん、当家の家宝といたしますわ」

 同じイシュルの傍、大きな食卓をはさんでリフィアの反対側にいたミラが、横から割り込んできた。

「へっ?」

 ミラの言を聞きイシュルの手が止まる。

「当然ですわ、イシュルさま。イシュルさまの勇名は伝説となって、これから先も永久に人々の記憶に残り続けるでしょう。当家としてもイシュルさまに関わりのあるものは、大事にとっておきませんと」

「は、はぁ」

「……」

 肩を落とし力なく返事をするイシュルと、くすり、と苦笑を漏らすリフィア。

 ……あまりそういうことされるのは好きじゃないんだが。俺はそんなたいした人間じゃない。

「仕方ないな、イシュル」

 リフィアはイシュルのこの世のものとも思えない思考、知識をすでに知っている。

 赤帝龍との戦いにより疲弊した辺境伯家の財政に、復活を目指す道筋をつけたのはほかならぬイシュル自身である。

「……それより、イシュル」

 リフィアはちらっと後ろの方に立つ、ネリーとルシアを見て言った。

「イシュルとミラ殿は先日、エリューカの主神殿に詣でたそうだな」

 リフィアが突然、意外なことを言ってきた。

「あそこに祈りに行くとは……」

 リフィアは聖都のエリューカの神殿が、恋人たちのメッカであることを以前から知っていたようだ。

「リ、リフィアさん、そ、それ……」

「もうそろそろ、聖都を発つ頃合いだ。ミラ殿と行ったのなら、わたしとも行って欲しいな。イシュル」

 ……ああ、なるほど。まぁ、そういうことになるよな。

 イシュルは俯き、力なく苦笑した。

 しかしリフィアはどこでそのこと、ミラと出かけたことを知ったのか。

「誰です?! イシュルさまとのこと、リフィアさんに話したのは?」

「……」

 リフィアはわざとらしく、明後日の方を見てとぼけているが、イシュルとミラ、ふたりの視線は自然と、部屋の奥に並んで立つネリーとルシアの方へ向いていく。

「また、あなたたちなのね……」

 ミラが低く、唸るように言った。

「ひっ」

「失礼いたします!」

 ネリーとルシアはミラに一礼すると、先を争うようにしてドタバタと、扉の奥に消えた。

「お待ちなさい! 今度という今度は許しませんわよ!」

 ミラも彼女たちを追いかけ扉の向こうへ消えていった。

「ふむ。かくして姫君はかの者どもと戯れに去リぬ、か」

 なんだそれは? この世界の有名な戯曲の台詞(せりふ)か何かか。

 リフィアはそこでひと息つくと、イシュルを見て言った。

「わたしも連れて行ってくれるよな? イシュル」

 そして微笑を浮かべる。

 リフィアはネリーたちを使って、ミラもともにこの部屋から外へ出してしまい、イシュルとふたりきりの状況にした。

 ……まぁ、ミラもそこら辺は承知で、わざと乗ってみせたのかもしれないが。

 ミラにはライバルとも公平に競おうとする、そういう度量がある。

「ああ、いいよ。俺はかまわない」

 イシュルはリフィアの問いに、すぐに答えた。

 リフィアは微笑みの中に少し目を丸くして、意外だ、というような表情をした。

 イシュルは彼女とも、ミラと同じようにデートすることに異存はなかった。

 ひとつはふたりを平等に扱わないといけない、と当たり前のことを考えたから。

 もうひとつは、リフィアのその姿も見てみたいと、思ってしまったからだ。

 ……どんなに美しいだろう。

 リフィアの素朴な街娘の姿は。

 イシュルはその時の彼女の姿を思い浮かべた。

 あの日の記憶とともに。

 その誘惑に抗しきれなかったのだ。 

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