【幕間】出会い 1


♯1 運命の時


 オルスト聖王国国王、ビオナートが近臣に引退を表明する半年ほど前のことである。

 その日、ミラ・ディエラードは自らの魔法具、“鉄心の鎧”と一体化している契約精霊のシャルカを伴い、王城の月神の塔、別名“魔導師の塔”に出向いた。

 ミラはその基部を成す城館の前に立ち、そこから高く突き出る重厚、というよりは重苦しい石積みの巨大な塔を見上げた。

「相変わらずおどろおどろしい見てくれですわね」

 暗い灰色の石積みに絡みつく夥しい蔦。今日は天気が悪く、そろそろ春も終わろうとする季節なのに、都(みやこ)は寒々しい曇り空に覆われている。

 魔導師の塔は、こんな日はまるで悪夢にでも出てきそうな不気味な佇まいを見せる。

「……」

 今までどれほど、この感慨を抱いてきたことだろう。

 シャルカは無表情で、何も言ってこない。

 ミラは微かな自嘲を浮かべると、魔導師の塔と同じ、蔦の絡みついた灰色の石造りの城館の中に足を踏み入れた。

 塔の真下にある館のホール、その正面奥の観音扉は今は開かれている。

 中に入ると古い城館ゆえか、窓が少なく薄暗いが、落ち着いた調度の控えの間兼談話室がある。

 談話室には十名ほどの魔導師が散らばり、ある者は何かの書物を読み、手紙らしきものを書き、あるいはひそひそと小声で話し込んでいる。

 ミラが部屋の中に足を踏み入れると、近くにいた者が数名、席を立って彼女に挨拶してきた。

「ごきげんよう、ミラさま」

「お久しぶりです、ディエラードさま」

 皆ミラよりも年上の者たちばかりである。中には十も二十も年嵩の者もいる。

 彼らがミラに気を遣うのは当然、彼女が五公家、ディエラード家の息女だからである。彼女が聖王家に次ぐ家柄の者だからである。

 だがそれだけではない。彼らの中には国王派や王子派の者もいて、彼女を自派に引き込めないかと、下心を抱いて話しかけてきている者もいる筈だ。

 ミラはその歳に似合わぬ落ち着き払った態度で彼らのおべっかをいなし、無難にやり過ごすと広間の奥へと進んだ。

 ひとたび屋敷の外に出ればこれも日常茶飯事、今までいったい、どれほど繰り返されてきたことか。

 ミラは談話室の突き当たり、これも開かれたままの扉を抜け、傍から伸びる階段を二階に登った。

 南側に並ぶ扉、古参の魔導師の私室や客間、物置がわりに使われている部屋もある──その突き当たりの一番奥の部屋が魔導師長の執務室になっていて、ミラはその部屋へまっすぐ歩いていく。

「……」

 ミラの後ろを無言で歩くシャルカが、微かに身を固くするのが伝わってくる。

 執務室にいるのはあのマデルン・バルロードである。シャルカが緊張するのも仕方がない。彼は当然のごとく、聖王国でも一二を争う実力のある魔法使いである。

 ミラはその部屋の前に立つと重厚な木製の扉をノックした。魔導師長の執務室の前には、特に衛兵は立っていない。

「入りたまえ」

 扉の奥からくぐもった老人の声が聞こえてきた。

 ミラが室内に入ると、部屋の中にはマデルンひとりしかいなかった。彼は大きな机の奥にゆったりと座り、彼女に続いて入ってきたシャルカをちらっと見やると、おそらくは柔和な表情でミラに視線を向けた。

 おそらく、というのは彼の背後には大きな窓があって、その表情が逆光になってはっきりと見えなかったからである。

「久しぶりじゃの、ミラ殿」

 マデルンは、机の上に両手の肘を立て握った手で口許を隠し掠れた声で言ってきた。

「ごきげんよう、バルロードさま」

 ミラは形ばかりの笑みを浮かべると、椅子に座る魔導師長の背後、窓脇に立てかけてある細長い魔法の杖をちらっと見やった。

 重厚な石造りの館の一室、外は曇りで中は薄暗い。部屋の両脇は書棚や椅子、床置きの燭台やおそらく魔法の修練に使うのだろう、譜面台のように背の高い書見台、それに大小の壺や香炉、古い絵画や巻紙の束などで埋まっていた。

 ミラはおもむろにマデルンの前に進み出ると、シャルカに無言で右手を差し出した。

 シャルカは自身の後ろの、背中のよくわからないところから巻紙をひとつ取り出し、これもミラに無言で手渡した。

「しばらく、領地の方に引っ込んでいようと思いますの」

 ミラはそう言って巻紙を差し出した。

「ふむ」

 マデルンは巻紙を広げるとさっとその文面に目を通し、机の上に置くと羽根ペンをとって署名し、それをミラに返した。

「ありがとうございます、魔導師長」

 ミラは巻紙を受け取り笑顔を浮かべた。

 ミラが魔導師長に差し出しサインを求めた巻紙は、魔導師長に聖都を離れる許可を求める申請書だった。紙面にはすでに、ディエラード公爵家当主オルディーノの署名がなされていた。

「しかし、そなたのような力ある者が田舎に引っ込むとは惜しい……残念じゃな」

 魔導師長は再び顔の前で両手を組み、その灰色の瞳を微かに光らせた。

「……」

 ミラはただ微笑を浮かべ、魔導師長の言を流した。

 王宮の諍いに首を突っ込むつもりはない。

 ミラは執務室を出ると後ろへ振り返り、僅かに侮蔑の色を見せてその重厚な扉を見つめた。




 風が草原を渡っていく。

 葉擦れの音が少し遅れてやってきて、それは北に広がる森の木々、梢の影をざわめかした。

「はじめましょうか、シャルカ」

「うむ」

 向かいに立つシャルカがゆっくり頷く。

 辺りは横に長く広がる森に草原、雑木林が点在し、人家や畑は見えない。振り返れば遠くにディエラード家の居城、デルベール城の小さな、おもちゃのような姿が見えるだけだ。

 陽は西に傾き、雲の群れは覆いかぶさるようにゆっくりと、東の方へ流れている。

「我が精霊よ、汝が鋼(はがね)の力を我に与え給え……」

「我が神ヴィロドよ。鉄心の鎧を我とひとつに合し給え……」

 ふたりは互いに見つめ合い、同時に呪文を唱えはじめた。

 詠唱が終わるとシャルカの姿が消え、ミラの魔法具、“鉄神の鎧”が姿を現した。そしてその鈍い銀色の全身鎧は赤く光ると突然形を崩し、液体のように流動して渦を巻き眩い輝きとともに消え去った。

 その前に立つミラが両手を水平に伸ばすと、その指先から白色に煌めく光点が現れ、その光は瞬く間に彼女の全身を包み込んだ。

 草原を閃光が走り雲間に消えると、ミラの全身を金色に輝く甲冑が覆っていた。

 ……行きますわよ。

 ……、……。

 ミラの心のうちにシャルカの反応が伝わってくる。それははっきりとした言葉ではない。だが彼女が何を思い、考え、言おうとしているか、自然と全てがわかる。

 ミラは腰に差した剣を抜くと草原を駆け出した。その姿は瞬く間に草原を渡る風の中に消えた。

 やがて北に広がる森の彼方に幾つもの光芒が連続して煌めき、空を鋭く貫き瞬いた。

 遠くから大地を揺らす雷鳴のような轟音が幾つも、折り重なって聞こえてきた。


「歩くのか」

 後ろからシャルカが声をかけてくる。

「ええ。明るいうちは」

 ミラは風に舞う自身の髪を押さえ、物憂げに答えた。

 夕日の差す誰もいない草原。風の鳴る音がどこからか静寂を呼び込む。

 目前に見える木立の重なり、その切れ目を辿りながら城の方へ歩いていく。

 その城の背後には公爵領で一番大きな街、デルベールの市街地が見える。デルベールはディエラード家の居城や騎士団がある、公爵領の政庁のある街であり、また、北街道をロマーノから分かれハルンメルに向かう、デルベール街道沿いの宿場町でもある。

 ミラは聖都の政争の激化を危惧する兄たちの勧めもあって、例年より早く領地に帰ってきた。また、聖都へ戻るのも少し遅らせようと考えていた。

 王宮に出仕するなどして、聖都に屋敷を持ち居住している貴族、特に王国北部、または山間部に領地を持つ者は、夏期は避暑を兼ねて領地に帰郷するのが常である。

 一応国王派に属し、病で足の悪い父オルディーノと母のアンヘラ、それぞれサロモン王子、ルフレイド王子派に属し、王宮で重い役にいる双子の兄、ルフィッツオとロメオは今年も聖都に居残り、領地に帰る予定はない。彼らはここ数年、領地の居城に一度も顔を出していなかった。

 ……どうせ都(みやこ)にいてもやることがないのだし。

 ミラは草を踏み抜く足許に視線を落とし、小さくため息をついた。

 彼女は今のところ中立を保ち、どの派閥にも属していない。宮廷魔導師でありながらもまだ年若いし、父も兄たちも不安に思うのか、彼女が政争に首を突っ込み巻き込まれるのを怖れ、嫌っていた。

 そして何よりミラ自身にどの派閥に属そう、力を尽くそう、という気持ちがなかった。聖王家に、王国の国政に対する関心も志もなかった。

 陽が落ちようとする草原を、木立を抜けて少し冷たい風が吹いてくる。

 ミラは顔を上げて城の方を見た。

 デルベール城は夕日を背後から浴び黒い影となって、赤く染まる大地から突き出て見える。

 ……ここにいれば聖都ではできない、魔法の修練もできる。

 誰もいない、誰もこない、幾重にも連なる丘と木立を抜けた草原で、シャルカとともに編み出した、精霊と魔法具と人をひとつに合す強力な魔法。それは鎧の形をした金(かね)の魔法具の力を最大限に引き出す、今まで“鉄神の鎧”の所有者が誰も成し得なかった秘技だ。ミラは未だ、家族にさえ秘密にしている。

 だからとても聖都で、屋敷で練習するわけにはいかない。強力な魔法の発動とその姿の変わりようは、必ず周りの人々の耳目を集めるだろう。

 最高の魔法、技は奥の手、切り札として隠しておかなければならない。争闘に関わる魔法使いにとっては当然のことだ。

 ……でも、この魔法の修練を重ねたからといって、何か意味があるのだろうか。

 いったい、どこで、誰に、何のために使う場があるというのか。

 子供から大人へと成長していく過程で、ここ数年、心のうちに少しずつその姿を現し始めた虚ろなもの。

 ミラはその底の知れない広がりに感情の一切、何もない視線を向けた。

「ミラ」

 後ろからシャルカが声をかけてくる。

「大丈夫よ、シャルカ。何でもないわ」

 ミラは後ろを振り向きシャルカに微笑んで見せた。

 彼女は常に自分のことを見てくれている。常に傍にいる。だが、これは自分の問題だ。自分ひとりで何とかしなければならない。

 陽が沈み、夜闇の訪れとともに、この自身の心うちに潜むもの、満ちることのない間隙が際限もなく広がっていくように感じられた。

 ミラにはそれが何か、その正体がわかっていた。


 ミラ・ディエラードほど、その生まれた時から今まで、神に祝福され恵まれてきた者はいないだろう。

 彼女は聖王国でも屈指の名門に生まれ、幼い頃から、その明晰な頭脳に優しくおおらかな性格に、詩歌音曲から武術、魔法に至るまであらゆるものに人並み優れた才能を発揮し、その万能ぶりを示してきた。

 そして成長するに従い、その類まれな美貌をも我がものとしてきた。

 都(みやこ)の、王宮の人々はみな彼女を褒めそやし、その家柄もあって同じ五公家や聖王家の者さえも一目置いた。

 特に宮廷魔導師たちは彼女の示した才能に瞠目した。

 彼らを驚かした一件はミラが十歳になった時、公爵家に伝わる名宝、“鉄神の鎧”を最高の形で自らの魔法具としたことだった。

 鉄神の鎧はその名からもわかる通り、重い鋼(はがね)でできた全身鎧である。基本的には戦闘時に着用し威力を発揮する魔法具であって、とても日常、普段から身につけていられる魔法具ではない。

 ミラの父、兄たちも持て余していた、というよりも、誰にとっても普段の生活では使うことのできない、戦(いくさ)専用の魔法具だった。まさか、その重い鎧を着て王宮に出仕し、人々と会い、生活するわけにはいかない。

 それをミラは、まず鉄神の鎧の籠手だけを装着してシャルカを召喚し契約すると、彼女から意見を聞き、命じて、以前から考えていた方法を実現して見せたのである。

 それは、ミラにとっても大きく重い鎧の魔法具にシャルカを憑依、同化させ、シャルカ自身をも強化しつつ移動の不便を解消することだった。ミラは彼女を通じて魔法具と繋がり、金(かね)の魔法をなんの不便もなく行使することができた。

 ミラの示した叡智。相性のいい、優れた精霊を召喚し契約したこと、使用を限定されていた鉄神の鎧を常時使用可能にしたこと。

 このことが聖王家の宮廷魔導師たちを驚かした。

 鉄神の鎧自体はもともと強力な魔法具であり、ミラはその当然の結果として、強力な魔法使いとなった。

 彼女はそれから、宮廷魔導師を引退した金の魔法使い、ベネリオ・スカルフォーロに師事、二年ほどで金系統の魔法の大部を覚え、翌年には宮廷魔導師見習いとなった。

 聖王家の若手の宮廷魔導師、同見習いは経験を積ませるため、中海に接し多くの河川が無数の三角州を形成する同国南部の湿地帯、同じく南東部の山岳地帯など、魔獣の多数出没する地域に定期的に派遣されるが、ミラはその時にも自身の圧倒的な実力を示した。

 彼女は宮廷魔導師見習いとなった次の年には正式な宮廷魔導師となり、いや、それどころか宮廷でも屈指の実力者と見なされるようになった。

 こうしてミラは、何事にも最高に恵まれた人生を歩んできたが、彼女自身は己の成長に従い、持てる才能を開花しながらも一方で、心のうちに言いようのない空疎な感情が湧き上がってくるのを、無視できなくなっていった。

 ……何でもできる。何をやっても面白くない。つまらない。

 自ら望めばいくらでも手に入るであろう、多くの人々が等しく望む、安穏で満ち足りた人生。

 あるいは権力に富。そして魔法使いとしての最高の力……。

 それは天賦の才を持つ者、圧倒的な力を持つ者がみな、一度は落ち入る陥穽であったろうか。

 だがしかし、彼女は聡明な女性だった。ミラは賢い女に特有の、堅固な土台に寄って立つ柔軟な思惟を、底の知れない大きな器を、そして寛容さを併せ持っていた。

 全てを持つ者が、豊かな才能を持つ者が時に陥る罠に、彼女も単純に引っかかるとは思えなかった。それだけが彼女の抱え込んだ虚無ではなかった。

 それではミラ・ディエラードの抱え込んだ憂愁の正体は、いったい何なのか。

 それが何か、彼女にはすぐにわかった。

 彼女は心の奥底でその欠落を埋めるものを、その器を満たすものを、自らの全てを投げ打つ対象を、なんとか見つけ出そうと、もがいていた。




「ふんっ!」

「くっ」

 クセのないブルネットをポニーテールにした女が穂先をさっと後ろに引くと、同時にかるく飛び退がる。

 ミラは自らの槍を引きしぼると腰を幾分おろし、穂先を斜め前に突き出した。

 ガッ、キーンと低く高い音が続いて鳴り、ふたりの突き出された槍が絡み合う。

 ポニーテールの女は半歩後ろに下がった時には、自らの槍を翻し、ミラの足許を狙って突き出していた。

「ふっ」

 ポニーテールの女、ナレア・シヴォーリは小さな笑みを浮かべると、自身の槍を引いて言った。

「じゃあ、今日はここまでにしようか。ミラ」

「……」

 ミラは大きく息を吐き出すと無言でひとつ、頷いてみせた。

「でももったいないわね。筋がいいのに。馬上槍は本当にいいのね?」

  ナレアはいつかも聞いてきたことを何度目か、繰り返してきた。

 周りにはシャルカと、ミラとナレア付きのふたりのメイドしかいない、南北を木々に囲まれた練兵場の一画。

 ミラは走りよってきたメイドから手拭い、タオルを受け取ると言った。

「それはいいわ」

 真っ白なタオルを額から首筋へかるく押し当てるようにして拭うと、ミラは花弁の弾けるような笑みを浮かべた。

「シャルカがいるから。馬上で戦うつもりはないの」

「ふーむ。シャルカは馬は乗れるの?」

 ナレアはちらっと練兵場の端に立つシャルカに目をやる。

 陽はもう高く昇り、真夏の日差しを地上に降り注いでいる。シャルカは真っ黒のメイド服を着て日向に立っているが汗ひとつかいていない。

「もちろん。彼女は乗れそうなものなら何でも乗れるわよ。多分魔獣でさえも」

「……そうね」

 ナレアは小さく相槌を打った。

 シャルカは精霊なのだ。彼女に動物や魔獣との相性が良く、御する能力があるのなら、そういうことになるのだろう。

 ふたりは練兵場を横切り、公爵家デルベール騎士団本隊の庁舎となっている、石造りの館へ歩いていく。

 ナレア・シヴォーリは、ディエラード公爵家の家臣で騎士爵を持つシヴォーリ家の長女で、ミラの又従姉妹に当たる。彼女はディエラード公爵家騎士団の副団長を務め、ミラの槍術の師匠でもあった。先月、今は聖都に出向している騎士団長のダリオと交代し、公爵領に戻ってきた。

 彼女はミラより十歳近く年上で、去年、公爵領の近隣の騎士爵家から次男を婿に取り、結婚している。その槍術も含めた能力の高さから、結婚後も副団長の任にあった。

「明日は? どうする?」

 ナレアが明日も槍の稽古をするのか、と聞いてくる。

 ふたりは主従の関係にあるが、親戚でもあり、師弟の間柄でもある。公(おおやけ)の場でなければ、互いに肩苦しい言葉遣いはしない。 

「明日からしばらくお休みにして欲しいの。セルダが遊びにくるわ」

 ミラは少し悪戯な笑顔になってナレアの顔を見た。

 ナレアは無言で笑みを浮かべ、うんうんと頷く。

 だがミラはその笑顔の裏で、内心、少し気にかけていることがあった。

 親友のセルダ・バルディが、夏のこの時期にミラの滞在するデルベール城に遊びに来るのは毎度のことだ。ミラの方から同じ自領に滞在するセルダに会いに行くこともある。

 セルダは数日前に手紙で来訪する旨、前もって知らせてきていたが、その書面には気になることが書かれてあった。

 彼女の手紙にはふたりきりで、誰にも話を聞かれないところで相談したいことがある、と書かれてあった。

 いつも明るい、呑気なセルダは普段はそんなことを言ってこない。ミラにとっては少し気になる、なかなか珍しいことだった。

 ミラは先を行くナレアの背中を見つめた。気づくとその場に立ち止まっていた。

 ナレアは麻の生成りの貫頭衣にズボン、貴族や領主家の者が身につけるにはあまりに粗末なものだが、夏場の稽古の服装としてはどこでも似たようなもの、ごく標準的なものである。ミラも同じものを着ている。

 彼女の背中に後ろに縛った髪が揺れ、そこに斑に木立の影が差す。

「どうしたの? ミラ」

 ナレアが振り向いて声をかけてきた。

 彼女の右手に持つ槍の穂先が陽光を反射し、きらりと光る。

 槍は練習用のもので刃先は潰してあるが、当然あたりどころが悪ければ大怪我をすることもある。熟練者に限って使われるものだった。

「うんうん。なんでもないの」

 ミラは首を横に振り、薄く笑みを浮かべた。

「昼食、今日も一緒にどうかしら」

「ええ、ご一緒するわ」

 ナレアの慣れ親しんだ笑顔に、ミラは心のうちに浮かんだ微かな懸念をうやむやに、消し去った。


 デルベール城の城館は街に寄り添うようにして、市街地から少し離れた東側の丘上に建っている。

 草木に覆われた丘の斜面にはところどころ、古い石積みの城壁や曲輪(くるわ)が残され、丘の最上部に大小の瀟洒な尖塔を備えた白壁の城館が聳え立っている。丘の南側は緩やかな傾斜が長く続き、木立の点々とある中にこれも古い時代の城壁が残されている。その城壁の内側には倉庫や厩、使用人の宿舎などがあり、あとはただ草地の広がる空き地になっている。城壁の最南端には城門を兼ねた複楼の出丸があって、そのトップにはそれぞれ、聖王家と公爵家の紋章が描かれた旗がはためいている。

「……ミラに力を貸して欲しいんだ」

 セルダは顔を横に、やや仰向けそのふたつの旗の方を見て言った。

そして傍に立つミラにやおら振りむくと、真正面から真剣な眼差しでじっと見つめてきた。

「ぼくは反国王派、正義派なんだ」


 翌日、セルダ・バルディがデルベール城に到着すると、他のディエラード家の者たちへの挨拶もそこそこに、ミラは城内の中庭のようになっている、城の内郭の南側の草地へセルダを連れ出した。

 セルダが手紙に書いてきたこと、相談したいことについて、話を急いでいるように感じたからだ。

 セルダはミラと二人きりになると、何かに急き立てられるように聖都の政情を話し始めた。それはミラでも大体は把握している、特にどうという内容ではなかったが、続いて彼女が言ったことはミラを心底驚愕させるものだった。

 セルダは自身を反国王派、正義派であると言った。

「セルダ、あなた……」

 正義派とは、今まであまり耳にしたことのない派閥である。

 だが、それよりも……。

「反国王派だなんて、危険だわ」

 ミラは眸を瞬いてセルダの真剣な顔を見つめ返した。

 現国王ビオナートには、簡潔に言えばはっきりとした分かりやすい、明と暗の二面性がある。

 “明”の方は、彼が民草を想う良き王であることだ。ビオナートは聖都の商人や住民に対し、僅かであるが過去に租税を減らしている。また、商人ギルドに対しルグーベル運河の使用料を減免している。

 王領の農民に対しても凶作時には租税を減らしたり、疫病の流行や水害時にもこまめに救済措置をとってきた。

 さらに彼は宮廷費を圧縮し、聖堂教会に多額の寄付を行ってきた。そのため教会や民衆の間では彼の評判は良く、尊崇を集めている、とされる。

 続いて“暗”の方だが、まずは聖都の上下を問わず噂となっているのが、ここ数年の間に都(みやこ)の大神官で病の床につき、引退したりそのまま亡くなる者が急に増えだした、ということだ。ビオナートには以前から、気にくわぬ宮廷の貴族や領主たちを蹴落とし、あるいは謀殺してきたとの黒い噂が絶えることがなかった。

 これらのことに国内の一部の者には、現国王が宮廷の支配をより強固にした上で、その多額の寄付とともに、聖堂教会への影響力を強めようとしているのだ、との観測がなされていた。

 ただ、その多くははっきりとした確証がなく、噂ばかりが先行し今まで大きな問題とはなっていない。

 現在王宮では、次期国王の座を巡ってふたりの王子、サロモンとルフレイドの反目が目立つようになってきているが、これも裏でビオナートがけしかけている、と噂されていた。

 つまりビオナートは国内外の一部で、自身の王権への執着が強く、謀略好きの国王、と見なされていた。

 ……まさか、セルダが聖都の政争に首を突っ込んでいただなんて。

 ミラがセルダの心配をしたのも、ビオナートにはそうした黒い噂があったからだった。

「ぼくも最初は腰が引けていたんだ。でもウルトゥーロさまにお会いして──」

「ウルトゥーロさま!?」

 ミラはまた驚愕に両目を見開き口許に手を当てた。

「うん、実は正義派を率いているのはウルトゥーロさまなんだ」

 セルダは正義派の首魁の名を出してきた。

 彼女は続いて、自身が正義派と名乗る一派に加わった経緯を話しはじめた。

 ことの始まりは、二月ほど前にバルディ伯爵家の遠戚にあたる聖神官から、セルダにある相談が持ちかけられたことである。

 その聖神官は正義派に近い人物で、たいした間もなく連続して起きた大神官の病死と、大聖堂に浸透していくビオナートの影響力に憂慮を深めていた。彼はセルダに正義派の力になって欲しいと合力を頼んできた。

 そこでその聖神官は、現総神官長、ウルトゥーロ・バリオーニ二世の名を出してきたのである。

 セルダはおおいに驚き、またその陽性、明朗な性格からか正義派を手助けすることに即決し、後日秘密裏に総神官長に謁見し、他の正義派の者たちとも面識を得、ビオナートの陰謀の一端を知ることになった。

 セルダは正義派の中心的な立場にいる二名の聖神官を窓口として連絡を取り合い、さっそく活動を開始した。

 まずセルダは彼らから正義派の一部の者、協力している聖都の貴族や商人たちを紹介された。

 その面々は、前もってそれとなく事情を聞かされていたセルダも内心、暗澹とせざるをえないものだった。

 正義派、厳密に言うと正義派に協力する者たちとの会合が、聖都の街中にある某神殿で行われたが、当日はその神殿で聖堂教会の古い聖人に関する祝祭が行われ、街の貴族や富裕な商人らが集まっても怪しまれることはなかった。セルダはその会合に呼ばれた。

 神殿に隣接する塔の地階に集った人々は、例えばある貴族家息女のまだ十歳くらいの女の子、あるいはもう何年も前に当主を引退した、杖をつき従者の介添えを受けている老人、聖都でも名の知れた富商の代理できたという、だがまだ見習いではないかという歳の少年、などだった。

 参席者はすべてがそんな者たちだった。その席にはセルダのように、まだ若くとも現役の宮廷魔道師として、国王の直臣として王城に出入りするもの、あるいはまともな活動のできる貴族や領主家の主だった者、王宮の役人などひとりもいなかつた。

 セルダと彼らを引き合わせた正義派の聖神官、デシオ・ブニエルは「これが正義派の現状なのだ」と言った。

 正義派は、教会内ではかつては国王派を上回る勢力を持つ主流派であった。まだウルトゥーロが総神官長になって間もない頃である。

 現職にある総神官長の派閥なのであるからそれは当然だろうが、やがて時が経ち、同派の大神官がひとり、またひとりと引退しあるいは病死していき、ウルトゥーロの引退が取りざたされるようになると、次第に正義派は力を失い、国王ビオナートに近い者たちの教会内での発言力が増していった。

 だが大聖堂にはまだ正義派、彼らに近い神官たちが多くいて、けっして悲観する状況ではない。

 問題は教会の外、貴族や領主、聖都の主だったギルドや商人たちだった。

 正義派の神官たちがウルトゥーロの名を出して勧誘すれば、どんな大貴族だろうと富商だろうと頭(こうべ)を垂れて協力を誓ってみせる。

 ただそれは信徒としての義務的なもの、あくまで表向きであって、正義派に彼らの将来を、運命を、すべてをかけて尽くす者はいなかった。

 正義派は聖王家や大商人らをはじめとする聖都の支配層からすれば、国王派や王子派、中立派などの後にくる四番目、五番目の派閥だった。

 聖堂教会は権威はあっても軍事力はほとんど持たない、その政治的な権力も慣例として行使することはしてこなかった。

 セルダが正義派の貴族や商人たちと顔を合わせて暗澹となったのも、仕方がないことだった。

 会合の後、同派の聖神官、デシオとピエル・バハルはセルダに、「聖都で無理に多数派工作をする必要はない。あなたのような宮廷魔道師や騎士など荒事にも対応できる、信用できる者をひとりでもふたりでもいいから、仲間にできないか」と要請してきた。

 セルダはそこでなぜ彼らが自分を勧誘してきたか、頼ってきたか、そのことを理解した。

 ウルトゥーロがセルダに語ったビオナートの野望。正義派はまさか、彼の野望から自らを守るだけでなく、荒事も辞さない覚悟で、正面からそれを打ち砕こうとしているのではないか……。

 デシオは、セルダが真剣な表情になるのを見るとひとつ頷き、「たとえばディエラード家の赤い魔女、あなたのご友人など、いかがだろうか」と言ってきた。

「セルダ、あなた……」

 ミラは微かに唇の端を歪めるとセルダの顔を見た。

 もちろん彼女の表情は、「あの方たちに騙されたのではなくて?」と言っている。

 セルダもミラと同じような微笑を浮かべて頷いた。

「それはわかってる。でも、彼らがとても困っているのは本当のことだし、それはウルトゥーロさまも同じだった」

 それに彼らはセルダに対しとても申し訳なさそうに話してきたし、ウルトゥーロの彼女に対する言動は嘘偽りない真心のこもったものだった。

「だからぼくは、あのひとたちがぼくに対して働きかけてきたその真の狙いを知っても、怒る気にはなれなかった。それだけ陛下は危険なことを考え、やろうとしていた。ウルトゥーロさまが憂慮されるのも当然なんだ」

「わたしもあなたといっしょに、大聖堂の駒になれ、というのね」

 ミラは笑みをおさめると、真面目な顔になってセルダに質問した。

「陛下のお考えとは何? ただ大聖堂に影響力を持ちたいだけではないの? ウルトゥーロさまは何をお考えなの」

 セルダはミラにまだ、彼女の知るすべてを話してはいない。

 ミラに正義派に加わると誓約してもらわなければ、すべてを話すことはできない。また、セルダ自身も、ウルトゥーロやデシオたちからすべてを知らされているわけではなかった。

「まだ、王宮でも知っているひとはほとんどいない、噂話でしかないんだけど」

 そこでセルダは、その必要もないのに声を潜めて、ビオナートが近々王位を退き、意中の王子を後継に指名して、自身の影響力を残そうとしているらしい、との話をはじめた。

「でも、それはおかしいわ」

 ミラはセルダの話を遮った。

 そんな意味のないことをなぜするのか、それがわからない。ビオナートはまだ五十前、まだまだ次期国王に関してそんな工作をする必要のない歳だ。それとも本人は何かの病に罹っているのだろうか。

「そこで、陛下が教会に影響力を強めていることとつながってくるんだ」

 セルダがどこか悲しげな笑みを浮かべた。

「陛下はサロモンさまとルフレイドさまのどちらかを次の王位に就け、残る片方を次期総神官長に据えようとしているらしい」

「そういうこと……」

 ミラは囁くように言った。

 彼女の小さな声が、夏の日差しと城壁を巡る風に、溶けるように消えていく。

 ビオナートは己の力がまだあるうちに、王宮の貴族たち、聖堂騎士団に影響力のあるうちに、聖王家と聖堂教会の両方を支配しようとしていた。

 ビオナートはサロモンとルフレイドのどちらを次期国王とするか、まだ明らかにしていない。おそらく自らの仲介、決定がもっとも効果を発揮するその時まで、ふたりを競わせるつもりなのだろう。

「今はこれ以上は話せないんだ。ミラが正義派に入ってくれないと。ごめんね」

 童顔のセルダはそこで可愛らしく片目を瞑ってみせた。

「でも、もうミラは決めているんじゃない?」

 そしてセルダは微笑む。

「そうね」

 ミラもセルダに微笑み返し、城館の方へゆっくりと歩きだした。

 聖王国の建国以来、国是としてきた王家と教会の独立。それを脅かすビオナートの陰謀は何としても阻止しなければならない。

 一方、正義派は聖都の貴族、商人、王宮の魔道師や騎士団にその影響力をほとんど持っていない。

 この困難な状況は、確かにミラの心を沸きたたせるものがあった。

 恵まれた生を送ってきた自分。

 何の望みも持てない、何も目標を持てなかった今までの自分……。

「しばらく待って? セルダ。お父さま、お兄さま方にそれとなく相談してみるから」

「……うん」

 セルダの顔が笑みを浮かべたまま、前を向く。

 ミラがその気になったのなら、ディエラード家の人々も彼女を止めることはできないだろう。

 城の上で風が鳴り、強い日差しが瞬き踊る。

 ふたりは横に並んで、館の方へ歩いて行く。 

 ミラは自らの心のうちに、小さな炎が灯るのがわかった。




 その後、セルダはデルベール城に十日間ほど滞在し、ミラと馬乗りに出かけ、近隣の湖に遊び、公爵領内北部の騎士爵家の招待を受けたりして田舎の生活を満喫し、先に聖都に帰って行った。

 当初はミラも同道する予定だったが、その間、聖都から次兄ロメオの手紙が届き、もうしばらく領地に留まるように言ってきた。

 次兄の手紙には他に、セルダの言っていた国王ビオナートの引退が、王宮に出仕する貴族らの一部に内示されたことが書かれ、ふたりの王子による政争が激化する可能性があり、しばらく領地に滞在している方が安全だと記されていた。

 聖都の貴族の一部、主に中立の者達の中には領地に引っ込む者もいるということだった。

 ミラはセルダが返事を急ぐことはない、と言ってくれたこともあって、兄の言いつけに従い、もうしばらくデルベールに滞在することにした。

 ミラにとって小さくない出来事、それを耳にしたのは、秋の収穫祭が終わってしばらく経ってからだった。

 その時、ミラは公爵領領主代理、及びデルベール城城主代理を務める叔母のサンシーラ・ディエラード、その息子夫妻のクレトとアマダと晩餐をともにしていた。

 ちなみにサンシーラの夫は先年病没し、今は公爵家当主オルディーノの妹である彼女が領地の方を任されていた。

 その日の晩餐もいつものごとく、領内の出来事や麦の収穫の事、それにラディス王国のクシム銀山に居座る赤帝龍の話などで盛り上がっていたが、その席に突然、騎士団の副団長をしているナレア・シヴォーリが顔を出した。

「あら、ナレア。どうしたの?」

 サンシーラが品の良い笑顔でナレアに声をかける。

「これからでも夕食、ご一緒する?」

 とはクレトの妻のアマダ。

「……どうかしたかい? ナレア」

 ナレアが返答に少し詰まったのを見て、クレトが少し硬い口調になって言った。

「はい」

 ナレアはサンシーラの顔を、そしてミラの方を見て言った。確かに彼女は少し緊張している。

「ラディス王国北部の街、エリスタールで異変がありました。その地を治めるブリガール男爵がその居城ごと、一気に滅ぼされたそうです」

 一瞬、晩餐室の空気が凍る。

 室内にはナレアがいても構わない、と言うことで、給仕のメイドたちもいた。異国のことで、それほど秘密にする事柄ではなかったからだが、その内容は相当に過激なものだった。

「どういうこと? ナレア」

 ナレアの報告に一番早く反応したのはミラだった。

「ベルシュ村出身の少年が、風の大魔法を使ったらしい」

 ナレアはミラに厳しい顔になって言ってきた。

 ベルシュ村にはだいぶ昔に引退した“イヴェダの剣”、レーネ・ベルシュ男爵が住んでいた筈である。その風の大魔法を使った少年とは、おそらく彼女と同族のベルシュの者で、風の魔法具を彼女から継承したのではないか。長らく表に出ることがなかった、この大陸に存在する最高の魔法具、神の魔法具を。

 だが、なぜブリガールが殺されなければならないのか。あの風の神官の末裔、ベルシュ家と何かあったのだろうか。

 まだ詳しい経緯(いきさつ)が分からない。

「ナレア。その件、もっと詳しく調べてもらえないかしら」

 ミラは身を乗り出すようにしてナレアに言った。

「わかったわ」

 公爵家にも影働きをする者はいる。ナレアはゆっくり、しっかりと頷いた。

 

 それから十日ほど後、場所は騎士団の練兵場の片隅。

 いつもの槍の稽古が終わるとその場でナレアはミラに身を寄せ、小声でエルスタール城の一件について一部始終を話した。

 “イヴェダの剣”、レーネの死。彼女の所有していた風の魔法具の在り処をめぐって起きた、ベルシュ村の焼き討ち。そして生き残った少年による前代未聞の派手な復讐。

 ブリガールの凶行には、クシムに居座る赤帝龍に辺境伯軍が大敗した件が絡んでいるらしいことまで、ナレアは掴んできた。

「それにしても、鮮やかな復讐ぶりだったらしいわよ。男爵はお城でただひとつ残された鐘楼に槍で磔(はりつけ)にされ、そのまま街の住民に晒されたの。そのとき日の出と同時に、その誰もいない筈の鐘楼の鐘が何度も打ち鳴らされたんですって」

「それは……。そ、その少年は……」

 ミラは喉がひりつくのを感じた。

 わけもわからず緊張していた。

「ベルシュの一族の子で年は十六になったばかり、ミラと同い年ね。当日は城内で収穫祭の宴が行われていて、招待客の眼の前でブリガール男爵は殺されたそうよ。完全に計画的にやってるわね。鐘楼の鐘といい、村を焼き討ちされた報復だけでなくて、旗頭の辺境伯家とラディス王家に対する警告、恫喝も含まれているかもしれない」

「……そうね」

 ミラはナレアの眸を見ていなかった。どこか遠くを見ていた。

 大変な存在が現れた。

 城ひとつを難なく破壊する大魔法を使い、大貴族や王家に対してその非違を堂々と問う、大胆さとその意思、頭脳。

 とても辺境の村の農民出身とは思えない、いくらベルシュ家につながる者だとしても、常識ではありえない。

「……素晴らしいですわ」

 ミラはナレアにも聞こえないよう、小さな声で呟いた。

 とうとう現れたのだ。同じ歳なのに自分自身を軽く凌駕するような、謎の人物が。

 それはただ能力的なものだけではない。その少年の考えていること、進もうとする何か、運命が、彼女にはまったく想像もできない世界のことのように思われた。

 その異国での出来事がミラの心にまたひとつ、小さな炎を灯した。

「わたし、聖都に帰るわ」

 ミラは誰にともなくそう、口に出して言った。

 

 ミラはナレアに、引き続きその少年のことを調べるように頼むと、その日のうちにデルベールを発ち、聖都に向かった。

 セルダによる正義派への誘い、宮廷の政争、遠くエリスタールに現れた新しいイヴェダの剣、なぜか、はっきりとはわからないが、ミラにはそれらのことがしっかりと結びついて、彼女自身を未知の、どこか新しい世界へ導びこうとしているように思えた。




 ミラは聖都の公爵邸に戻ると、すぐに兄たちに自身が正義派に入ることを告げ、説得して了解を得ると両親への根回しを頼み、満を持して当主オルディーノに面会を求め、正義派加入を認めさせた。

 ディエラード家ではすでにオルディーノが国王派、ルフィッツオが兄王子、ロメオが弟王子派に加わり、今後、聖都の政情がどう変わろうとも生き残っていける算段はついている。だが大聖堂を牛耳る正義派に、家の者を誰かつけておいても損はない。

 そんなこともあってミラの正義派への合力が認められることになった。

 ミラはその後セルダに手紙を書き、公爵邸への来訪をお願いした。屋敷に尋ねてきたセルダにミラは正義派に加わることを告げ、後日、正義派の聖神官であるデシオらと面会した。

 そこでミラは大聖堂に忍び寄るビオナートの魔の手を、ビオナートの真の狙いを知ることになった。

 ビオナートがふたりの王子を互いに競わせ自滅させ、脇腹のまだ幼い子らを王位に就け、自らは次期総神官長になろうとしていることを。

 自ら直接聖王国と聖堂教会を支配しようとしていることを。

 そして、彼が大陸諸国を軍事、宗教の二方面から侵略、大陸全土を統一し、古代ウルクの目指した王と神の合一を最終目標としていることを。

 ビオナートの野望を知って、正確にはそれを事実と信じることができるのなら、彼の打倒に奮い立たない者など聖王国にはいない筈だ。

 ミラはいよいよ己の抱える虚無を、空疎な器に何かが満たされていくのを感じた。

 その頃、領地の方からミラ宛に使者があり、彼はナレアからの書簡をミラに渡した。

 その手紙には、その後の風の魔法具を持つ少年の動向が詳しく記されていた。

 その少年は名をイシュルと言い、彼がクシムに赴き赤帝龍を撃退したこと、その後に今度は辺境伯ひとりを謀殺したことが記されていた。辺境伯レーヴェルト・ベームには、ベルシュ村焼き討ちをブリガールに命じた疑いがあった。彼はイシュルの報復の最後の標的だった。

 イシュルが赤帝龍と戦い、辺境伯を暗殺する一連の出来事にはラディス王国が絡んでいた。

 ミラは引き続きナレアに情報収集をお願いし、自らも私費を投じてまで多くの猟兵を雇い、イシュル・ベルシュの情報を徹底的に集めた。

 赤帝龍を撃退するなど人間業ではない。たとえ風の魔法具を持っていても、とてもできるものではない。相手は同じ火の魔法具を持つと言われる、“龍”なのだ。

 それを彼はおそらく知略を尽くし、風の魔法具の真髄を引き出した末に成し遂げたのだった。

 ミラにとってこれほど心躍ることはなかった。周囲の人たちが驚きながらも、日常の雑事に忙殺されていくのを、普段の生活に埋没しその感動を忘却していくのが信じられず、残念に思えて仕方がなかった。

 イシュルの事績はまさしく、古代の偉大な英雄たちのそれと何ら変わることがない。千年に一度あるかないかという壮大なことが今起きているのに、なぜ誰もそのことに思い至らず、そのことに夢見ることを、胸を躍らせ追求することをしないのだろうか。

 きっとすべてのものに恵まれ、今まで何不自由なく生きてきたからこそ、将来に希望を見つけることができなかったからこそ、自分にはそれが特別なことだと思えるのだろう。

 そんな自分自身のことが、ミラにはよくわかっていた。

 もし、自分が貴族でも何でもない、街の一住民の家に生まれたらどうだったろう。多分人並みの夢や希望を持ち、その実現目指して日々精進していたろう。いやそれこそ人並みに努力し、怠け、平凡な人生を送っていたろう。

 果たしてこれが天の配剤と呼べるものなのか、たまたま自分はそうはならなかった。

 聖都には引退した神官や貴族たちに、古書を漁り、何かの実験をしたりして占星術を学び、古代語を解読し、絵地図を描いたり、神々による世界の成り立ちを研究している者がいる。

 ……わたしは聖都で時たま見かける、なんの役にも立ちそうにない、一部の者にしか認められない、愚にもつかない研究を続けている変わり者の学者たちと、実は似たような存在なのかもしれない。

「でもそれでいいのですわ」

 将来は宮廷魔導師長を目指す。

 聖王家か他国の王家にでも嫁入りして、王妃と呼ばれる存在になる。

 ……それは違う。

 そんなことにいったい何の価値があるだろう。

 たとえ周りから変わり者、変人と呼ばれようとも、ひょっとしたら神々の奇跡を、その先にあるものを見ることができるかもしれない、そんな存在が今、同じ大陸、この地上にいるのだ。彼は今を生きているのだ。それを見逃すことはできない。何としても本人に会って、その息吹に触れていつかこの世の果てを、この目にしかと焼きつけるのだ。

「お会いしたい。……イシュルさまという方に」

 何でも持っている、だから何も持たない自分。

 それを埋めてくれるものこそ、厳しい逆境に身を置くことであり、あるいは神々の起こすような奇跡をこの目にすることなのだ。……そうに違いない。

 

 ミラは正義派に入るとセルダとともに早速、まだ旗幟を鮮明にしていない中立の宮廷魔導師や、主に聖堂騎士団の騎士たちを標的に多数派工作をはじめた。

 ウルトゥーロを始めデシオらがいよいよ荒事も辞さず、これから先鋭化していく政争で生き残っていくために、最も弱い武力を補強していくのが急務であったからである。

 騎士団に対する工作には、自家の家臣や、出入りする商人の親戚などに当たって縁故を辿り、根気強く工作を続けた。

 また、自身の監視についた敵派閥、主に国王派と思われる尖晶聖堂の影働きを殺さずに捉え、デシオらに引き渡して、彼らの長(おさ)である尖晶聖堂の神殿長と渡りをつけ、彼らを懐柔するなどの工作にも助力した。

 年が変わってしばらくすると、その足跡を追っていたイシュル・ベルシュがクレンベルに滞在していることがわかった。

 クレンベルなら聖都からもそれほど距離はない。

 ……近いうちに、必ずお会いしに行こう。

 イシュルの情報を集め蓄積していたミラは、彼に会う機会を虎視眈々と狙っていた。

 そんな中、聖王家の妾腹の第三王子、パルトメオが病死した。

 表向きは冬の寒い時期に熱病にかかり、それが元で肺を病んで身罷られた、ということだったが、事情を知る者には王子の死がビオナートの手によるものではないか、との疑惑が持たれていた。

 そんな時、ミラはデシオらの工作で、聖石神授使節団査察使の役を聖王家から賜わることになった。

 聖石神授はクレンベルを起点とする教会の重要な儀式の一つである。

 ミラは内心、これでイシュルと会うことができると歓喜した。

 そして査察使役として大聖堂に呼び出された時、ウルトゥーロから密かに、“聖堂の宝冠”に細工をし次期国王の戴冠式において、その時総神官長となっているであろうビオナートを罠に嵌める、正義派の計略を聞かされることになった。

 ミラはその後デシオやピエルと打ち合わせをしたが、実はイシュルの勧誘を先に提案してきたのは彼らだった。

 ミラはその時、天にも昇る気持ちになった。

 かの少年は王家や領主家に仕えることを嫌っている。また、自身がその力でもって新たな王になろうとする野望も持っていない。金や地位、権力に興味がないのだ。

 だから彼を誘うことができるか、デシオたちは危惧していたが、イシュルの目的を推察していたミラには、彼を味方に引き込む目算があった。

 イシュルが味方につけば、正義派の弱点である武力で逆に、他を圧倒することができるようになるだろう。

 彼の存在が政治的にもどれほどの力を発揮するか、それも計り知れないものがある。

「イシュルさまのことはわたくしにお任せくださいませ。デシオさま、ピエルさま」

 ミラは双眸に異様な光を煌めかせて言った。




 そして、ついにその日がやって来た。

 春の一月(四月)、吉日を選んで都(みやこ)を発した聖石神授使節団は、十日ほどかけてクレンベルに到着し、ミラは今、その山頂にある主神殿目指して長い石段を使節団一行とともに登っていた。

「……」

 すぐ後ろにいるシャルカが身じろぎし、山頂の方に頭を向けた。一行は山の中腹を超え、頭上にはもう、主神殿の一部が見えている。

「ミラ」

 続いてシャルカは小さな声でミラを呼んだ。

「……!!」

 ミラが振り返ると、シャルカは頭上の、山の頂の方を見つめている。

 ミラはその空に立ち上がる、微かだがこの世のものとも思われない、清廉な魔力の煌めきに目を見張った。

 その微かな魔力は空に広がる雲間に溶け込むようにして消えている。

 ミラの視界を頭上に掲げられた聖堂教会や騎士団の旗がはためき、ちらちらと遮った。

「あれは……まさか」

「風の魔力だ」

 シャルカも初めて見る、といった感じで視線を鋭く空を仰いでいる。

「それってまさか、あの」

 シャルカの後ろを歩いていたセルダが寄ってきて、ミラに囁くように言った。

 ミラは呆然とその風の魔力を見つめた。

 今まで見たことのない、微かだが美しい魔力の息吹。

 そしてその消える先にはただの空ではない、何かの気配があった。

 優れた魔法具を持ち、修練を重ねてきた者にしかわからない、あの微かな感覚。

 ……あの方はわかるのだ。知っているのだ。あのおそらくは魔力の源となる場を。

 あそこにイシュル・ベルシュがいるのだ。


 使節団一行がクレンベルの山頂に到達し、主神殿前の広場に整列する中、ミラはシャルカとともに密かに列を離れた。そして上に着ていた白いマントを脱ぎ赤いドレス姿になると、勝手に神殿の奥の方へ入って行った。

 途中、広場の端の方にいた見習い神官にマントを持ってもらうと、そこから先は駆け足になった。

 見習い神官の制止する声も聞こえなかった。

 神殿の裏手を抜けると、そこも広場になっていた。北側、右側の奥には立派な石造りの門と石壁が続いているのが見える。

 ミラは西側の広場の端の方に、ふと人の気配を感じて顔を向けた。

 もうあの微かな風の魔力は消えている。

 ミラの前を薄い霞が音もなく流れていく。

 その霞に隠れるようにして、ひとりの少年が立っていた。

 その少年がミラの方へ振り向いた。

 

 ミラはその瞬間、空疎だった己の心の器がついに、全て満たされるのを感じた。

 ……わたしはついに、奇跡の人と会えた。

 それは心の中を溢れ、そして弾け飛んだ。

 器が満ちるとそれは、尽きることのない心の泉となった。

 それは感動か、希望か、夢か。はたまた初恋だったのか。

 その時ミラは、己の運命を得た。


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