出立 4



 灰色に染まった川面に、上下左右の逆になった濃い緑の草木が緻密に描写されている。

 濃い緑は河岸に広がる葦、奥に垣間見える木立だ。

 曇った空には一切の表情がない。

 舳先に広がる景色にも動きはなく、船が先に進んでいるようには見えない。

 長い時間が経ってふと気づくと、いつの間にか景色が変わっている。そんな錯覚にとらわれる。

 船はそろそろと、灰色の鏡面をゆっくり、ゆっくりと滑っていく。

 今日はほとんど風も吹かない。

 時折微風が吹くと、それが川面を漣(さざなみ)となって草木の緑を掻き消し、形のないくすんだ色彩の波紋となって視界の端を横切っていく。

「今日一日、もちますでしょうか」

 ミラが空を仰いで嘆息する。

 後ろの方からずっと、船頭の櫓を漕ぐ音が聞こえてくる。

 今にも雨が降りそうな天気だ。

 だが、その無表情に見える一面の曇り空はあるいは、雨を漏らすまいと、じっと堪えているようにも見える。

「もし雨が降ってきたら……」

 イシュルが空を見渡し、囁くように言う。

「ダレマールの手前にオリバスという小さな街があります。そこで雨宿りをしましょう」

 ミラも声を落として静かに言う。

 ミラの抑えた声音はまるで、大きな声を出したら雨を呼び込んでしまう。──そんな怖れをいだいているかのように聞こえた。

 他に行きかう船もなく、辺りは静かだ。船に乗る他の者も今はみな、無言でいる。

 イシュルはすぐ隣に座るミラに、彼女を気遣うような視線をちらっと向けると、わざと「う、うう~」と唸って両腕を高く上げ、大きく伸びをしてみせた。

 朗らかな顔になってミラの顔を見やった。


 まずはアニエーレ川を二日間、このままロバーノまで下る予定だが、今晩は川沿いの街、ダレマールで一旦、陸(おか)に上がって街の宿で一泊することになっている。

 船旅は天候さえよければ快適なのだが、それも乱れれば陸路を行くより面倒なことになる。

 今乗っている船はかなりの大きさで立派なものだが、所詮は川船、船員以外の宿泊設備はなく、雨露を凌げる屋根も船尾に小さなものがあるだけだ。

「申しわけありません、イシュルさま。荷物も多いし、船旅がよろしいかと思ったのですが、こんなことになってしまって」

 イシュルが淀んだ空気を変えるように伸びをして、柔和な表情になってミラを見ると、彼女は少しだけ肩を寄せてきて、やっといつもの調子で話し出した。

 ミラはイシュルのすぐ横で顔を青ざめ、本当に申しわけなさそうにしていた。

「この時期は雨になることが少ないのに……」

「いや。いいんだよ、ミラ。きみのせいじゃない。しょうがないさ」

 聖都をなるべく早く発つために出発自体は急ぐ必要があったものの、一方で、いついつまでにフロンテーラに到着しなければならないと、期限が決められているわけではない。

 聖都を出てしまえば、後は急ぐ旅ではないのだ。慌てる必要はない。

 雨が降ればその間は、いくらでも休めばいいのだ。

「それに半日くらいなら、風の魔法で船全体に雨露が当たらないようにもできるし」

「まぁ。そんなに長い時間。さすがですわ、イシュルさま。……でも、それではイシュルさまの負担が大きくなってしまいます」

「……」

 イシュルはミラに、無言で微笑んだ。

 実を言うと空を飛ぶのといっしょで、イシュルにとってはたいした魔法でなくともそれが長時間に及べば、それなりに疲労は溜まってくる。

 旅先ではあるし、自身の集中力、魔力には余裕を残しておきたかった。

 そもそも後先考えずに魔力を使っていいのなら、この空一面を覆う雲を、かなりの範囲で吹き飛ばすこともできるのだが……。

 ただ、ミラとシャルカにリフィア、ネリーとルシアに、充分に剣槍の使える公爵家騎士団の男たちもいる。道中の危険にあまり神経質になる必要はないのかもしれない。

「どうぞ」

 そこへ船の後ろの方から、ルシアがどこから出してきたのか、銀製のトレイにお茶をのせ持ってきた。

 船の後方には七輪のように持ち運びのできる火鉢があって、湯を沸かすことくらいはできる。季節は晩秋にさしかかり、風はなくとも曇りであるし、船上はそれなりに肌寒い。

 ルシアはまず、船の前部に陣取るミラとイシュルに小さな陶器のカップを渡すと、その斜め後ろにいるリフィアとネリーにもお茶を渡し、船の後ろの方へもどっていく。

 積荷を挟んで前方にイシュルたち、後方にルシアやメイド見習いのサラ、公爵騎士団の男たち、船夫らが固まっている。

 イシュルの後ろ斜めにいるリフィアは船に積まれた木箱の上に座り、ネリーが彼女の横に立って、しきりに何事か話しかけている。

 あの神々しいまでに美しく、時に近寄り難い雰囲気を漂わせるリフィアには、さすがのネリーも最初は遠慮がちで、しばらくは話しかけることもできなかったようだが、先日公爵邸で開かれたうちうちの晩餐会ではうまく機会を捉え、それなりに親しく話せる間柄になったらしい。

 イシュルは薄いお茶に口をつけるとにんまりと唇を歪め、彼女たちの会話に耳を向けた。

「西に広がる湿原はどこまで続いているのかな」

 と、リフィア。

「それほどではないです。三十里長(スカール、約二十km)ほどです。一番深いところでも十里長ほどですかね」

 リフィアの質問にあのネリーが真面目に一生懸命、答えている。

 船は下流に向かっているが、聖都の市街を出て数里長ほどから、見た目の川幅はむしろ狭まり、向かって左側の西岸は、水上に無数の葦が広がる湿原のような景色になった。

 しかし、尻尾をぶるぶる振る子犬のようなネリーもなんだが……。

 おまえらいったい何を話しているんだ? うら若き乙女が、何でそんなおっさんみたいな無味乾燥な会話を……。

 それじゃ、せっかくの船旅も台無しじゃないか。

 曇り空ならそれはそれでいい。俺にとってはむしろそちらの方が趣きを感じないでもない。

 かつてはベルシュ村の南に広がる葦原で、よく風魔法の練習をしたものだし、この感じはそう──前世の日本の、原風景そのものでもある。別に水郷地帯で生まれ育った、というわけではないが、こういう景色は日本の各地に、いたるところにあったのだ。

 俺にとっては妙に懐かしさを感じる景色。果てることのない追憶が、いやがうえにも旅情を掻き立てるのだ……ってな感じか。

 昔築かれた堤防なのか、各所で地面がすぐ土手のように盛り上がり、河原も狭い東側の川岸に、時々見える農家の屋根やどこかの土豪の屋敷……。それがなければ自分がどこにいるのか、わからなくなる。

「……でも、あれはないよな」

 イシュルがちらっとリフィアとネリーを見て呟くと、ミラが玉を転がすような声で笑った。

「ネリーはあんなことを言って」

「ん?」

 イシュルがミラの顔を見ると、彼女は指先を口に当てて少し可笑しそうに言った。

「彼女はここら辺の生まれではないのです。それに聖都に来て、それほど長いわけでもないのに」

 ふむ。

 イシュルはまたリフィアたちの方へ目をやった。

 ミラは、ネリーがリフィアと少しでも長く話を続けたいがために、無理して知ったかぶってる、それが可愛らしい、可笑しいと感じたのだろう。

 ミラはあのふたりの会話について、俺とはまた違うことを感じたらしい。

 ネリーはともかく、リフィアは今辺境伯代理の立場にあり、貴族や領主であればそれが異国であろうとどこだろうと、その土地の地勢や人々の暮らしなどに興味を持つのはもちろん、ごく普通のことではある。

 しかし、ネリーは公爵家に仕えてまだ日が浅い、のか。

 あいつ、結構馴染んでいるのに、意外だ……。

「ネリーはもともと聖王国の生まれではないのです」

 ミラのにこやかな表情にほんの少し、影が差す。

「えっ」

 俺と同じ、よそ者なのか。

「ネリーは実は、もとはアルサールの出身なのです」

 ミラは顔をイシュルに近づけ、声を少し落として言ってきた。

「アルサール大公国の……」

 アルサール大公国は聖王国とは仲が悪い。互いに人の往来も少なく、アルサール出身の者を聖王国でみかけることはあまりない。

「それはどうして……」

 イシュルも声を潜めてミラに聞く。

「ネリーはもともとアルサールのとある騎士爵家の生まれで、姉のルデリーヌを追って──」

 ミラがそこまで言った時だった。

 アニエーレ川の右岸、目の前に黒々と茂る大きな楠(くすのき)が葉を鳴らし、ひとの気配とともに微かな魔力が光った。

 川の上まで張り出した枝葉の影から、何かがもの凄い速さで宙を飛び川船の舳先に降り立つ。

「!!」

 船上にすっと立つひとりの女。栗色の長い髪が揺れる。

「ルデリーヌ!!」

 イシュルとミラが唖然とする間もなく、後ろからネリーの叫ぶ声が聞こえてきた。

 長身痩躯に長いストレートの髪。姿勢良く微動だにしない、美しい立ち姿。

 ルデリーヌはもう剣を抜いている。

「生きていたのか」

 イシュルは口の中で呟いた。

 噂をすれば影か……。いや、彼女もアナベル・バルロードと同じなのだ。

 寄る辺をなくしこれで最後と思ったから、あるいはただの腹いせに過ぎないのか、それとも生き残るためなのか。以前から引きずってきた因縁に片をつけようとしている。

「ネリー、決闘を受けてやる」

 ルデリーヌが言った。男のような硬い口調だ。

 そこへイシュルの前を黒い影がよぎる。

 ネリーがすぐ前に躍り出て、舳先に立つルデリーヌと相対した。

「ふん」

 ネリーの声音が冷たく、そして熱い。

「まだ生きていたのか? しぶといやつめ」

 イシュルはネリーの動きに反応した早見の魔法を止め、ゆっくりと立ち上がった。

 確かにネリーの言うとおりだ。俺も、聖冠の儀でイヴェダが大聖堂の主塔を吹っ飛ばした時、彼女も巻き込まれて死んだんじゃないかと思っていた。

「さんざん逃げ回っていたくせに。……やっとあきらめたか? 観念したか」

「まさか。おまえはそこのディエラードのお嬢さまにつきっきりじゃないか。動くに動けない可哀想な妹のために、わたしの方からわざわざ出向いてやったのさ」

 ルデリーヌは酷薄な笑みを浮かべ、露骨な嘲りに満ちた口調で言った。

「追われているんだろ?」

 むっとした顔で立ち上がったミラを後ろ手に制し、イシュルはルデリーヌに声をかけた。

「聖王家の影働きから追っ手がかかっているんじゃないのか? アナベル・バルロードと同じだな。怖いんだろ? 怯えてるんだ。敵をひとりでも減らしておきたいのだろう。決闘なら俺たちは手を出せないからな。違うか?」

 多分この女はそんなことは考えていないだろう。ただ助かることだけが目的なら、少しでも早く国外へ、ひたすら逃げるのが一番いいに決まっている。

 決闘の勝利者に、例えば敗北者側の関係者が多勢で戦いを仕掛けることは掟やぶり、不名誉なこととされている。しかし彼女がネリーに勝っても、俺かミラが新たに決闘を吹っかければそれで終わりだ。リフィアも決闘を申し込むかもしれない。ルデリーヌがそれを断り逃げを打てば、後はこちらがルデリーヌをどうしても構わない。どのみち彼女は逃げることもできず、瞬く間に殺される運命にある。

 この女は妹のネリーもともに、冥府に引き摺り込もうとしている……。

「ふっ」

 ルデリーヌが冷笑を浮かべる。

「これはわたしと妹の決闘だ。あんたには関係ない。手を出すのはやめてくれないか?」

 ルデリーヌはなかなかの美形だ。男装の女剣士、といった格好だが、それなりの女らしさを感じないでもない。

 だからその男勝りの口調に妙な違和感を憶える。リフィアはもちろん、ネリーでさえ、口調はもっと柔らかい。

「……」

 ネリーが歯をむき出しにして、滴り落ちるような敵意をルデリーヌにぶつけている。全身をぶるぶる震わせているが、まだ剣は抜いていない。

「俺はネリーに立ち会い人を頼まれているんだ。おまえとの決闘のな。無粋な真似をしてみろ」

 イシュルは眸を細めてルデリーヌを睨んだ。

「おまえの血肉の一片も、一滴も残さずきれいに消し去るぞ」

 非礼な口をきくやつには同じように返してやる。脅しつけてやる。構わないだろう。

「……」

 対するルデリーヌは無言で唇を歪めるだけだ。

 いったいこの姉妹にどんな因縁があるのか。なぜ、ふたりがこれほどまでに憎みあうことになったのか。

「船を岸につけよう」

 狭い船上で決闘をやるわけにもいかない。

 イシュルは船頭のいる後ろを振り向き言った。

 積荷の奥で、シャルカが険しい表情で胸の前に腕を組み立っている。ルシアが木箱の上に立ち、これも厳しい顔つきでルデリーヌを睨んでいる。他の者たちはみな、呆然とした顔をしてこちらを見ている。

 リフィアが座っている木箱からゆっくりと降りてイシュルを見てきた。

 彼女の眸がちらちらと赤く色づく。

 リフィアは一見、いつもと変わらない穏やかな顔つきだが、彼女も内心機嫌がよろしくないのは、その目まぐるしく変わる眸の色で明らかだ。

「いや。悪いがここでやらせてもらう」

 ルデリーヌが静かな声で言った。

「船上の方が面白かろう。おまえも逃げることはできないだろうし」

 彼女はその整った顔に不釣り合いな、口が裂けるような異様な笑みを浮かべるとネリーを見て言った。

「こいつ!」

 ネリーが激高し剣を抜く。

 安い挑発だ。どちらも条件は同じじゃないか。あるいはネリーのこの反応は過去に、ふたりの間に何かあったのかも知れない。

「おい、ちょっと待て」

 イシュルは彼女らの間に割って入ろうとする。

 とにかく、船上で決闘なんかさせるわけにはいかない。だが、ネリーはあからさまな、ルデリーヌは抑えてはいるが歪んだ、嗜虐的な殺気を漲らせ、イシュルの制止の声に耳を貸さない。いや、彼女たちの眸にもう、イシュルは映っていない。

「来い!」

「死ね」

 ふたりが同時に叫ぶ。ネリーとルデリーヌの声が重なる。

 キーンと刃の打ちなされる音がして、両者が互いの剣をはさんで顔を突き合わす。

 ふたりは初手から加速の魔法を使ってきた。

 再び目の前をネリーの影が横切ると、イシュルは後ろにいるミラに注意を向けた。すでに早見の魔法が立ち上がっている。

 イシュルはからだをまわしてミラの両肩を掴むと、早見の魔法を切った。瞬間、ミラの唇が開かれる。彼女の「ネリー!」と叫ぶ声がイシュルの耳許に聞こえてきた。

 イシュルの背後ではすでにネリーとルデリーヌ、ふたりの力まかせの鍔迫り合いからネリーが剣を引き、後ろへ大きく飛び退(すさ)っていた。ネリーは積荷の木箱の上に降り立ち、刃先を前に突き出し追いすがるルデリーヌを迎撃する。

 川舟はそこそこの大きさで足元は木板、甲板で覆われている。三度(みたび)ネリーが、そしてルデリーヌが背後を高速で移動するとイシュルの早見の指輪がまた起動した。

 こいつら……。

 彼女たちにはもう、周りの人間は見えていない。

 きっとずっと以前に、ふたりは決闘の約束をしていたのだろう。いや、以前から“決闘の状態”にあったのだ。

 面倒なことになった。

 イシュルは三度早見を切ると、ミラに覆いかぶさるようにして彼女を甲板に横たえ、顔を上げてふたりの剣戟が繰り広げられている、船の中央部に視線を向けた。

 ふたりは加速の魔法を使って、積荷の木箱の上を飛び回りながら戦っている。時たま、剣と剣が絡み合うように打ち合わされるとふたりの動きが止まり、鬼気迫るその姿が現れ出る。

 川舟の後方ではシャルカとルシアが厳しい顔つきで積荷の上に立ち、姉妹の戦う姿を見つめている。ルシアの後ろには戦闘力を持たないメイド見習いのサラや、船夫たちがいる。

「……」

 イシュルが視線を感じて横を向くと、リフィアは先ほどから位置をまったく変えずに、木箱にからだを預け胸の前で腕を組み、余裕ある様子で、まるで他人ごとのようにしている。

 だがリフィアは眸を薄く赤く染め、その表情には隠しきれない不機嫌さが滲みでている。彼女ならルデリーヌなど簡単に殺せるだろう。

 だがふたりが決闘しているのなら、手出しはできない。

「心配するな。何かあったらイシュルもミラ殿もわたしが守ってやる」

 リフィアが言っているのは、ふたりの戦いに不意に巻き込まれ、こちらが怪我するようなことは防いでやる、という意味だろう。

 イシュルはリフィアに小さくため息をついてみせると、船上をめまぐるしく所を変え動きまわるネリーとルデリーヌの戦いに、再び視線を移した。

 ……俺の、素人目にはふたりの戦いは拮抗しているように見えるが。

 ただそれもすぐに決着がつかないから、というだけで、早見の魔法が起動していなければ、彼女たちの動きはほとんど目で追えない。

 基本的にはネリーが退いてみせ、追撃するルデリーヌの鋭鋒をいなしカウンター気味に反撃を加え、また退き……を繰り返しているようだ。それを狭い船上で、時に空中戦を交え激しくやり合っている。

 しかし、リフィアの機嫌が悪いのがどうも気にかかる……。

 彼女の機嫌が悪いのは、ふたりが船上で決闘をはじめてしまったから、などということよりも、実はネリーを手助けできないことにあるのではないか。

 ネリーの実力がルデリーヌのそれより上ならば、彼女はあんな不機嫌な顔を見せたりしないのではないか。

 リフィアはふたりの実力をもうすでに見切っているだろう。その差も、どちらが上かも。

 ネリーとルデリーヌ、ふたりが動き、止まるたびにタン、タンと木箱が踏み鳴らされ、キーンと剣と剣のぶつかり合う音が、加速の魔法の向こうから僅かな時間差をともなって聞こえてくる。

「ネリー……」

 イシュルの横からミラも木箱越しに顔を出した。

 彼女の声も、とても心配そうだ。

「ミラ、もっと姿勢を低くしていろ。危ないぞ」

 顔を強張らしたミラがイシュルの顔を見上げてくる。

「……」

 彼女が何か口に出そうとした時だった。

 タン、と音がしてネリーが跳躍し、船の主檣の中ほどを蹴って空中からルデリーヌに突っ込んでいった。剣が鳴り、ルデリーヌが後ろへ押され、船の舳先の方へ降り立つ。

「!!」

ルデリーヌの跳躍はイシュルのすぐ頭上をかすめていった。

 このっ。

 早見の指輪が起動する。危なくてしょうがない。イシュルは思わず頭をすくめた。

 そしてネリーがイシュルのすぐ横の木箱に降り立つ。

 早見の魔法が起動すると、彼女たちの動きはほぼ肉眼で追えるほどの早さになる。加速の魔法のかかっていない本来の動きに、僅かにスローモーションがかかったような状態だ。さすがにリフィアほどの早さはない。

 ネリーの靴底が木箱の上を踏みしめたところで突然、彼女の右足の方の木板が割れた。

 イシュルの視界の隅でネリーがバランスを崩し、全身が手前に傾いていく。

 まずい……。

 そこへ後方へ退いていたルデリーヌが、剣先をネリーへ向かって突き出してくる。

 ルデリーヌの剣がネリーの心臓を突き刺そうとする。ネリーはからだを横にひねってルデリーヌの剣をかわそうとするが間に合わない。彼女の剣はネリーの心臓をそれて、その左横につき刺さった。

 彼女たちの向こう側にいるリフィアが、己の剣に手をかけ悔しそうな顔をする。

 ルデリーヌはネリーの胸に刺した剣を、上へかるく抉るようにして斬りあげると、素早く後ろへ飛び下がった。

 ネリーの胸から血が噴き出る。

 イシュルは早見を切ると木箱の上から滑り落ちるネリーを抱きかかえた。

「ネリー!」

 ミラの悲鳴。

「大丈夫かっ、しっかりしろ!」

 イシュルはネリーを甲板に寝かせると大きな声で呼びかけた。

「くっ……」

 ネリーが苦悶の声を上げる。彼女の胸に広がる赤い染み。

 これはダメだ。肋骨の一部と片肺を切られ、おそらく心臓のそばの大きな血管をやられている。

「ネリー! しっかりして!」

 ミラが涙声でネリーに飛びつく。イシュルは風の魔力を降ろして、斬られた胸の当たりを圧迫する。だが当然、出血を幾分か抑えられるだけで、傷そのものを治すことなどできない。

 横でリフィアがルデリーヌの方へ向かって歩いていくのがわかる。

「まだ殺るなよ」

 イシュルは低く抑えた、恐ろしい声音でリフィアに言った。

「ミラお嬢さま……」

 ネリーの声が震えている。最後までいえない。

 彼女の顔に死相がはっきりと現れている。誰にでもわかる。もうネリーは助からない。

 ミラの泣き声が大きくなる。

 イシュルはからだを震わせた。

 ……馬鹿なやつ。お前はいつも何かしては、ミラに謝ってばかりいたじゃないか。

 最後もそれか。

「……イシュル……」

 もう目が見えないのか、ネリーの眸があらぬ方を見てイシュルを呼ぶ。

「姉を……、ルデリーヌを必ず殺してくれ……。これを……」

 ネリーの顔が苦痛に歪む。

 彼女は左手をほんのすこし上向けた。袖の中から唐草のレリーフがなされた銀製の腕輪が現れた。

 ネリーの加速の腕輪だ。

「頼む……」

 突然、ネリーの眸に涙が滲んだ。

 そして彼女の眸から、顔から、全身から命が消えていく。

「ネリー!」

 ミラが悲鳴を上げた。

 ネリーが死んだ。ミラがネリーのからだに抱きついて嗚咽する。

「……」

 ネリー、お前は馬鹿だよ。

 イシュルは怒りと悲しみに打ち震えながら、ネリーの目に手をやり彼女の瞼を閉じてやった。

「ネリー……」

 積荷の上からルシアの涙に濡れた真っ青な顔が、シャルカの厳しい顔が突き出される。

 イシュルは彼女たちを下から睨みつけその場に留まらせると、ネリーの左手首から加速の魔法具、疾き風の腕輪を外した。

「我が妹は月神に召されたようだ。では、わたしもお暇させてもらうとしよう」

「待てよ」

 イシュルは立ち上がると舳先に立つルデリーヌに顔を向けた。

「ネリーの遺言だ。お前を逃すわけにはいかない」

「決闘の勝利者を、負けた側の者が束になってその場で討ち取ってしまう、っていうのはどうだろう? あまり感心しないな」

 ルデリーヌは顔を歪ませ言ってくる。彼女の顔に薄ら笑いが浮かんでいる。

 それは確かに彼女の言う通りだ。もしそんなことをすれば間違いなく、ディエラード家の名に傷がつく。

 今、船上にはディエラード家の者ではない船夫もいる。もし誰にも知られぬよう、この場でルデリーヌを葬るのなら彼らの口も封じなければならない。

「いや、おまえの相手は俺がする。俺の方から決闘を申し込む」

 俺はまだネリーとルデリーヌ、この姉妹にどんなことがあったか、何の因果があって殺し合うことになったのか知らない。だがネリーを殺されただけじゃない、このルデリーヌの狂気、嗜虐性は見逃せない。これは地上から消し去ってしまう方がいい。

 ネリーに頼まれなくても、この女はさっさと殺しておくべきだ。

「……!」

 イシュルがそう言うとミラが顔を上げ、リフィアが難しい顔のまま、イシュルを見てきた。

 イシュルはコートの内側から小さなナイフを取り出し、ルデリーヌの足許に投げた。

 イシュルの投げたナイフは、甲板に吸い込まれるようにして突き刺さった。音も全くしなかった。

「あんたと決闘しても、わたしは何もできずにただ殺されるだけだ」

 ルデリーヌは顔全体を歪ませて言った。だがその顔から薄ら笑いは消えない。

 イシュルの投げたナイフには明らかに風の魔法がかかっていた。ナイフは不自然な力で甲板に深く突き刺さっていた。

「取り引きしようじゃないか」

 イシュルも歪んだ笑みを浮かべた。

「約束しよう。俺は風の魔法は使わない。おまえが俺に勝ったら、この場は見逃してやる」

「イシュルさま!」

「イシュル!」

 ミラとリフィアが叫ぶ。

「待て。きみらも誓ってくれないか? この女が勝ったら見逃してやってくれ」

 イシュルはミラとリフィアにその歪んだ笑みを向けて言うと、ネリーの遺骸の傍(かたわら)に落ちていた彼女の剣を拾い上げた。

 心のうちをのたうちまわる、燃えるような怒り。……久しぶりじゃないか。

「……」

 ミラとリフィアがイシュルの鬼気迫る様子に押し黙る。

 イシュルはネリーの剣を両手に握りしめるともう一度、ミラとリフィアに顔を向け、歪んだ笑みのまま頷いてみせた。

 俺を信じろ。ルデリーヌは必ず殺す、というふうに。

 ネリーの剣は細身の直刀、柄は銀製の飾りつきで薄い黒革が巻いてある。

 ……ネリーの剣はさすが、いい剣だ。素人の俺にもわかるレベルだ。持った時の重さとそのバランス、柄から刃先までの硬質な一体感が素晴らしい。

 一流の剣士とはこういう剣を持っているのか。

「どうだ? おまえにとっては最高の条件の筈だ」

 イシュルは思いっきり唇を歪めてルデリーヌを見た。

「別に断ってもいいんだぜ? ただ俺自身はディエラード家に仕えているわけでもないし、貴族でも剣士でもない。ただの農民の小倅だ。貴族の、剣士の名誉だなんて俺には関係ない。本当は今すぐこの場でおまえを細切れにしたって、何の問題もないんだ。違うか?」

「貴様っ……」

 ルデリーヌがはじめて、露骨に焦りと恐怖を見せた。

「おまえ、さっきはこの決闘の立会人だと言ってたくせに」

「そうだったかな?」

 イシュルは薄く笑ってとぼけた。

「その立会人の制止を振り切って、勝手に決闘をはじめたのはおまえらじゃないか」

「くっ」

 ルデリーヌが悔しそうな顔をする。彼女の整った顔は今や赤黒く色づき、その額には玉のような汗が浮いている。

「どうする? 早くしろよ。今すぐ死ぬか、生き延びる可能性に賭けるか。こちらはおまえに譲歩してやってるんだ」

「あんたが風魔法を使わない、なんて誰が信じる?」

 ふふ、それはそうだがな。おまえは人を信じることなどできないんだろう。そういうやつなのだ。こいつはきっと、自分自身も信じてはいない。

 ただ、俺の言ってることもたいがい、滅茶苦茶だが。

 決闘に応ずるなら風の魔法具を使わない、と言っておきながら、一方でこちらの条件に従わなければ、その風の魔法を使ってさっさと殺すぞ、と脅しているのだ。

 決闘時に風魔法を本当に使わないのか、ルデリーヌが疑うのも一理ある。彼女の疑心を彼女だけのせいにするのは酷かもしれない。

「ではわたしがおまえたちの決闘の立会人になろう」

 そこでリフィアが名乗りを上げた。

「わたしの名はリフィア・ベーム。わたしはディエラード公爵家とも聖王国とも、関係のない人間だ」

 リフィアがルデリーヌに微笑みかける。

「このイシュルと申す男が風魔法を使おうとしたら、即座に止めに入ろう。わたしならそれくらいのことはできる」

「リフィアさん……」

 イシュルは片手を上げてミラを制した。

 まぁ、リフィアの物言いも本心なのか、とっても怪しいんだが。

「い、いいだろう。なら受けてやる」

 ルデリーヌが不承不承、といった感じで頷いた。

「……じゃあ、この場ですぐ、はじめようか」

 イシュルは笑みを大きくすると言った。

 どうせおまえには他に活路はない。

 イシュルはネリーの剣を片手に持ち、彼女の疾き風の腕輪を左手にはめた。腕輪は女ものだがやや大き目で、イシュルの手首にも難なくはまった。

「風魔法は使わない。だが他の魔法は使わせてもらうぞ」

 イシュルは手首にはめたネリーの腕輪をルデリーヌに見せて言った。

 さて、使い方がわからないが……。まぁ、早見の指輪と同じで、周りで早く動くものがあれば自動的に起動するのは確かだろう。

「心の中で疾く動け、と念ずれば大丈夫です。魔法を切りたい時は他の魔法具と同じで、終われ、止まれと念じればいいのです」

 後ろからルシアが早口で教えてくれる。

 ふむ。

「あんたは剣を使えるのか? 疾き風の魔法が使えるからと言って、わたしに勝てるのかな」

 ルデリーヌがその栗色の長い髪を振り、剣を構えながら言ってくる。

「おまえの気にすることじゃない」

 俺は加速の魔法だけで戦うつもりはない。相手は同じ加速の魔法具を持ち、しかも剣の名手。こちらは素人だ。そのまま戦えば万に一つも、こちらに勝ち目はない。

 だが、俺にはベルシュ家の指輪がある。揺動の指輪が。

 ここであまりお世話になりたくはないが、サロモンからもらった身代わりの魔法具も、今は首飾りにして身につけている。

 そして……。

「さあ、来い」

 イシュルは剣を両手に握るその時に、ベルシュ家の指輪の石にそっと触れた。

 そして剣を正眼に構えると腰をやや落とし、摺り足に半歩、前に出た。

「……!!」

「イシュルさま……!」

 その瞬間、イシュルの周りすべての者に驚愕が走る。

 リフィアやルシアはもちろん、ミラも呆然とした顔をしている。

 ミラはハルバートを使う。彼女も槍術は素人ではないだろう。イシュルの一般的な剣道の構え、足運びはおそらくこの世界にはないものだ。だが剣を使う者なら誰でも、それが何かの剣術の型であることはすぐにわかる。

 特にイシュルの見せた脚さばきは、彼女らにとってよほど異質なものに見えたろう。

「貴様ぁ」

 ルデリーヌが歯茎をむき出しにして唸るように言ってくる。

 実はおまえも剣が使えるのか、と言った口ぶりだ。

 村にいた頃は毎日のように木剣を振っていた。

 俺にとってはこの構えが一番しっくりくるのは確かだ。

 だが所詮、彼女のような本物の剣士からすればこちらは見せかけ、こけ脅しでしかない。

 しかしそれでも彼女を少しの間、警戒させるくらいの効果はある筈だ。

「どうした? 気になるか? 俺の剣を見るのは初めてだろう。怖いのかな? かかってこいよ」

 イシュルは薄く笑ってルデリーヌを挑発した。

 わざとらしく、両腕を絞って柄を握り直して見せる。剣先を微かに上下に振る。

「こいつ!」

 ルデリーヌが突っ込んでくる。

 早見の魔法が、いや、加速の魔法が動き始める。

 ルデリーヌの動きが通常より、ほんの少し遅く見え出す。周囲の音や物の気配が遠のいていく。

 早見の指輪は腕輪の加速の魔法が優先され、動いていないようだ。

 そして揺動の魔法はしっかり起動している……。

 風の魔法具など神の魔法具、ピルサとピューリの双子の持つ魔法具など、特殊なものを除いて、五系統の魔法具は通常、他の系統と同時使用、重ねがけはできないとされている。

 以前、セリオはサロモンを空中から襲撃する時、空を飛びながら火球を撃ってきた。おそらくあの時は別に火精を召喚していたか、火球を撃つ瞬間だけ風の魔法を切っていた筈である。

 無系統の魔法でも、複数の強力な魔法が使える能動型の魔法具は基本、単独でしか使用できないようだ。だが、単能、受動型の魔法具は他の魔法と同時使用できる場合が多い。例えば身代わり、迷い、毒味、早見の魔法具などである。そして、揺動の魔法具もそのひとつなのだ。

 ルデリーヌは上体を前へ大きく傾け、剣先を突き出してくる。だがその軸線は大きく右に逸れていた。

「……」

 イシュルは心の中でほくそ笑むといきなり全身を、左斜め下方へ投げ出した。

 ルデリーヌの渾身の突きは、イシュルの立っていた位置から大きく外れる。

 彼女が揺動の魔法に気づき対応するまでに、どれだけの時間が必要だろうか。

 あと一太刀か、二太刀か。

 ……たとえ剣の名手であろうと。

 その差は致命的だ。

 ルデリーヌの顔が驚愕に歪み、その突き出した剣を右に払う。だがそれも、地を這うように身を投げ出したイシュルには届かない。

 イシュルは最初からルデリーヌの軸足、右の足首を狙っていた。

 いきなりルデリーヌの視界の端へ、大きく動く。揺動の魔法が最も効果的に働く筈だ。

 イシュルの剣先がルデリーヌの足首を捉える。

 彼女が後ろへ放った三太刀目が、イシュルの頭上を通り過ぎていく。

 イシュルは彼女の足首に刃先を引っ掛けると、それを支点に足先から全身を思いっきり時計回りに回転させた。

「……、……、……」

 ルデリーヌの叫声だろうか。音のない世界に何か波のようなものが伝わってくる。

 刃先が彼女の足首に食い込んでいく、手応えがあった。

 無理して彼女の足首を切断する必要はない。

 イシュルは剣を放しその勢いのまま、ルデリーヌの後方へ吹っ飛んでいくままにした。

 加速の魔法を切ると、両足が船の外に出て落ちそうになっている。

 ……もういいだろう。決着はついた。

 イシュルは船から落ちて水面に接触するぎりぎり手前で風の魔法を使い跳躍、空中で一回転してルデリーヌの後ろに立った。

「くうううっ」

 音が、周りの気配が戻ってきた。

 ルデリーヌが甲板の上に倒れ込み、苦悶の声をあげて右の足首を押さえている。

 腱は確実、骨の一部も斬ったろう。

 生きることはできても、もう剣士としてはやっていけない。

「き、貴様っ……」

 鬼のような顔になってイシュルに振り向くルデリーヌ。

「揺動の魔法……」

 ミラが両手を胸の前で握りしめ、両目を見開き呟くように言った。

「……」

 リフィアはホッとした顔になって手を胸に当てている。

 リフィアはあれで案外、心配性なのだ。

 イシュルはミラとリフィアを笑顔で見やると、ルデリーヌに視線を向けた。

「おまえは生かしておかない」

 イシュルはその笑顔のまま言った。

 ルデリーヌは片手にまだ長剣を離さず、その眸に闘志と怒りの炎を消していない。

 ……おまえのその末期の顔、しっかりとこの目に焼きつけておいてやる。

 おまえの俺に向ける怒り、憎しみを忘れはしない。

 ネリーのことを忘れてはならないのなら、おまえのことも憶えていよう。

 イシュルは笑みを消すと風の魔力をはらった。

 ルデリーヌの姿が塵となって消えた。

 

 

  

 灰色の空はついに耐え切れず、細かな雨を降らしはじめた。

 川船はオリバスという小さな河岸の街に到着、イシュル一行は荷物はそのまま、一旦船を降りてネリーの遺体を街の神殿に運び入れた。

 神官の簡単な祈りの後、ネリーは白い布に包まれ、三日月と杯の絵が描かれた大きな素焼きの壷に、体育座りの格好で収められた。

 大陸では土葬が常である。ネリーはその壺ごと埋葬されることになる。聖王国では死者は壺に入れられ埋葬されることが多い。疫病や戦争などで大量の死者が出た場合にのみ、火葬が行われる。

 ミラはルシアたちに命じて街の商人ギルドで早馬を雇い、公爵家に使いを出した。

 ネリーを公爵家ゆかりの墓地に埋葬したいとミラが強く希望したからだ。おそらく明日早くには、公爵家から差し向けられた荷馬車が到着し、ネリーだけが聖都に帰ることになる。公爵家とその主だった家臣の墓地は都(みやこ)の南部、近郊にある。

 船を降りる時、公爵家騎士団の十人隊長でありながら、一行の取り次ぎ役みたいになっているルベルトが、船長らしき初老の男と言い争っていた。

 ミラやルシアはネリーにつきっきりで、埋葬の手配をするために街の奥の方にある神殿に先行している。

 ルベルトはイシュルの一〜二歳ほど上、ほとんど同年輩で、外見もまだイシュルと同じように少年らしさを残している。彼は代々ディエラード公爵家に仕えてきた家臣の家柄で、若くして騎士団の十人隊長を務めているわけだが、剣の腕や部隊の指揮はそこそこ、公爵邸でも、騎士団の備品の管理や補給、金銭のやりとりなどを主にやっていた。つまり主計役と庶務を兼務していたわけだ。

 ルベルトと船長の周りを船夫たちや、ルベルトと同じディエラード家騎士団のひとりが囲んでいる。騎士団の残り二名は、ネリーの遺体を運搬するためミラに付き従い、ここにはいない。

 ルベルトと船長の話す声はまだそれほど険悪なものではなかったが、放っておくとまずいことになるかもしれなかった。

 ふたりの言い争いはつまりは金の話だった。

 船上でネリーが決闘で敗れ、死んでしまった。つまり船夫らからすれば、大事な商売道具である船の甲板が血で汚れてしまったわけだ。

 船乗りはよく縁起をかつぐ。それが川船であろうと変わりはないのだろう。船長はルベルトの見込んでいた金、この場合損害金、と言ったらいいのだろうか──よりも多額の金銭を要求してきたのだった。

「あんたらの船を血で汚して申しわけなかったな。死人は俺の知り合いなんだ。俺からも金を出そう。これでおさめてくれないか」

 イシュルは彼らの側に寄ると懐から小さな皮袋を取り出し、中から聖金貨を一枚掴むと船長に渡した。

「へぇ、こりゃあありがてぇことで」

 船夫たちは塵となって消えたルデリーヌのこともしっかり見ていた筈だが、何が起きたか認識できていないようで、ましてやそれをイシュルがやったとは思っていないようだった。

 彼らはイシュルを、リフィアとともに公爵家息女一行につけられた腕利きの護衛、用心棒あたりと見当をつけているようだった。

 ともかく、イシュルの出した聖王国金貨は彼らに絶大な効果をもたらした。

「じゃあ、明日も頼むよ。船長」

 イシュルはすっかり機嫌をよくした初老の男に愛想よく言うと、ルベルトの方を見てひとつ頷き「行こう」と声をかけた。

 船から陸(おか)に上がると、そこはオリバスの中心地区とも言える広場になっていて、その周囲に船宿が数件、それに飲み屋、奥の方には倉庫が数棟と商人ギルド、その手前に屋根付きの小さな市場があった。この時間帯は市は開かれておらず、雨が降ってきたからか、数人の人夫らがそこへ船の積荷などを運びいれていた。

 広場からは東に長い道が一本伸びていて、その道を二里(スカール、約1.3km)ほど行くと北街道(北エストフォル街道)にぶつかり、その街道沿いにオリバスの神殿があった。

 ミラたちは先にそのオリバスの神殿に向かっている。

 イシュルたちがその道に入ると、先行する彼女たちの後ろ姿が見えた。荷車にネリーの遺体と遺品を乗せ、ギルドで雇った人夫に引かせている。一行の後方を歩いていたリフィアがちらっと、こちらへ振りかえるのが見えた。

 一本道は雨のせいか、他にひとの姿が見えない。

 ネリーの死を弔う者は他に誰もいない。寂しい葬列だった。

「イシュルさんはお金持ちですね」

 横を歩くルベルトが視線を足許に落とし、力ない声で言う。

 騎士団の男たちもネリーとは面識があったろう。あるいは剣の稽古も一緒にやっていたかもしれない。

 イシュルも小雨に顔を俯かせ、静かな声で言った。

「クレンベルにいた頃、悪魔狩りで稼いだからな」

「あ、はは。そうですか」

 ルベルトは俯いたまま、引きつった笑みを浮かべた。



 

「今日はオリバスに泊まろう」

 イシュルは窓腰に降りの強くなってきた雨脚を見つめながら言った。

 明日、公爵家から差し向けられるであろう荷馬車にネリーの遺体を積み、聖都に帰る彼女を見送ってから出発することになる。

「はい、そうしましょう」

 ミラも視線を窓にやって小さな声で言った。

 ネリーの埋葬の手配が済むと、イシュルたちは街道沿いの宿屋の食堂に入って、遅い昼食をとった。

 イシュルはそこでミラから、ネリーとルデリーヌの姉妹の話を、事の顛末を聞いた。

 姉妹はアルサール大公国の中南部に領地を持つ、ブローム男爵家に仕える騎士の家に生まれた。姉妹の家は男爵家の家臣でありながらも、アルサール大公家から正式な騎士爵を授与された、大公家にとっては単なる陪臣ではない、正統な騎士の家柄だった。

 彼女たちの父は剣槍、馬術に優れ、名のある騎士であったが男子には恵まれず、ネリーとルデリーヌ以外に子は成さなかった。そのためか、彼は姉妹に剣術や馬術などを教え始めたが、そこでふたりは父に勝るとも劣らない剣才を示した。

 姉妹は成長に従い、その剣の腕と見目好い外見から領内でも評判となった。

 だが彼女たち、いや、姉のルデリーヌには表に出せない秘密があった。

 彼女は異性に興味を抱かない、いわゆる同性愛者だった。また、妹のネリーしか知らないことだったが、彼女にはいささか粗暴なところがあり、さらに嗜虐のたちがあった。

 大陸において同性愛は必ずしも禁忌とはされていない。それは聖堂教においても同様で、これは、ウルクの古い時代に男どうし、女どうしで愛し合うことが公(おおやけ)に認められ、無用に隠す風がなかったことがその理由とされている。ただ時代の流れとともに、その風潮も次第に硬直、保守化していった。その背景には単に常識的な、性の多様化、過激化はいずれ社会の紊乱(びんらん)を招く、との考えがあったからだと思われる。

 姉妹はその容姿と剣名で、領内では男よりもむしろ同性の女、特に少女たちから絶大な人気があり、ルデリーヌは恋の相手に、あるいは火遊びの相手に事欠くことがなかった。ネリーはそんなただれた生活を送る姉を危惧していたが、そこにはあるいは、彼女の微かな羨望も混じっていたかもしれない。

 また、ルデリーヌの嗜虐はそれほど酷いものではなかったのか、日々の剣の修練や魔獣狩りでうまく発散され、大きな問題を起こすことはなかった。

 ルデリーヌは成人して数年経つと、領主であるブローム男爵家息女の専属の従者兼、護衛役となった。

 彼女はネリーの密かな懸念に反し、大きな問題を起こすともなく自らの役目を淡々とこなし、それも杞憂に終わるかと思われたある日、突如大事件を起こした。

 その日の朝、姉妹の母の許に下女が飛びつくようにしてやってきて、ルデリーヌが自室で男爵家の息女と同衾していると告げてきたのである。

 当日、その下女は、いつまでたっても起きてこないルデリーヌを起こしに彼女の部屋に入り、その淫靡な光景を目の当たりにしたのだった。ふたりは裸で抱き合いながら同じベッドで寝ていた。

 ことは相手が相手なだけに重大事である。彼女の母は父に報告し、両親はルデリーヌを叩き起こして厳しく叱責した。

 その時何が契機になったのか、発端は何だったのか、ルデリーヌは突如激昂し、自らの剣で両親を斬りつけ殺してしまった。騒ぎに遅れて駆けつけたネリーは、怒り狂うルデリーヌを抑えきれず、家内の使用人らとただ屋敷の中を逃げまわるしかなかった。男爵家の息女を保護することもできなかった。

 この時、ルデリーヌはすでに父から疾き風の魔法具を譲り受けていたが、ネリーはまだ何の魔法具も持っていなかった。ネリーの剣技を持ってしても、加速の魔法具を持つルデリーヌに対抗することはできなかった。

 ルデリーヌは己の両親を殺した後、その日のうちに男爵領から姿を消した。

 幸い男爵家の息女は無事だったが、あまりの醜聞にネリーの家は廃爵となり、彼女は男爵家にルデリーヌの身柄を引き渡すため、もしくは両親の仇を討つために、姉の行方を追うことになった。

 ブローム男爵はそんなネリーを不憫に思い、彼女にルデリーヌの魔法具と同じ疾き風の魔法具を授けた。

 こうして逃亡したルデリーヌを追うネリーのあてのない旅が始まった。

 ルデリーヌはどこに逃げたか、最初は何の手がかりもなくネリーは途方にくれる思いだったが、ルデリーヌのその外見と粗暴、嗜虐の性格が彼女の逃亡先を教えてくれることになった。

 ルデリーヌは滞在先でよく刃傷沙汰を起こすことがあり、その容姿と共に近隣に噂となって広がることが多々あったからである。

 ネリーはルデリーヌを追跡し、やがて敵国のそれも王都エストフォルに辿り着くことになった。

 ネリーはルデリーヌが聖王家の宮廷魔導師長の護衛として雇われたことを知り、聖都の歓楽街の娼館で用心棒をしながら、ルデリーヌと接触する方法を探り、機会を窺っていた。

 そんなある日、街中のとある市場でルシアと知り合い、聖王家と大聖堂をめぐる各派の争いが激化し始めていた情勢もあって、ネリーもその剣の腕を買われ、ディエラード公爵家に仕えることになったのだった。

 だが、ネリーが公爵家に仕えることになっても、ルデリーヌと相見えることはできなかった。

 事情を知ったミラは、公爵家の名で宮廷魔導師長に、何度かルデリーヌの引き渡しやネリーとの決闘を申し入れたが、マデルン・バルロードはその度に婉曲に断ってきた。

 聖都では各派の争いが本格化し、ルデリーヌはマデルンにとっても有力な駒のひとつとなっていた。また、いくら五公家といえども相手が国王派の宮廷魔導師長では、無理なごり押しはできなかった。

 それに、宮廷魔導師長のマデルン・バルロードは王城内に屋敷を与えられ、通常は城の外に出てこない。城内で彼の従者と事を起こすのは控えなければならなかった。

 ミラは正義派が勝利に終わるか、あるいはサロモンかルフレイドの王子派が国王派に勝った時点で、ルデリーヌをネリーと引きあわせることができると考え、その時までネリーに耐え忍ぶよう説得した。


「……」

 イシュルは窓外に目をやったまま、深いため息をついた。

 あの時、ルデリーヌの挑発にネリーがやすやすと乗ったのは、ただ両親を殺されただけではなく、その時に追いかけ回され、まともな反撃ができなかったこともあるのだろう。

 ルデリーヌはあの時、そのことを言ってきたのだろう。

 彼女はネリーに「船上なら逃げることができないだろ?」と言ったのである。

「その……、ネリーもお姉さんと同じたちを持っていました。でも、ネリーは姉のようにはなるまいと、じっと我慢して、耐えていたんです。……可哀想なネリー」

 イシュルと同じテーブルに座るルシアがそう言って俯く。

 確かにそれはわかる。クレンベルではじめて会った時、あいつは俺にいきなり斬りつけてきた。

 あれは俺が噂通りの実力を持っているか、ミラに変な虫がつかないか、牽制し探る目的があったのだろうが、あの振る舞いには少し異様な空気を感じた。あれは今思えば、ルデリーヌのそれと少し通ずるものがあった。

「でも、イシュルさまが仇を討ってくれましたわ。それも風の魔法を使わずに」

 同じテーブルに座るミラが言ってくる。

「ネリーの魔法具は俺が形見としてもらっておく」

 ……あいつの苦しみを、この痛恨事を忘れないために。

「フロンテーラについたら、おまえが大公国のブローム男爵宛に手紙を書いて、知らせてやればいい」

 隣のテーブルの席からリフィアが立って、イシュルの傍にきて言った。

「その際にはわたしも決闘の証人として署名を──」

 そこでリフィアは顔を北の方へ向けた。その眸がなぜか赤く光る。

「……!」

 リフィアは厳しい顔つきになると宿の外へ出て行った。

「おい!」

 イシュルが追いかける。ミラたちも続く。

 外に出るとリフィアが雨の中、眸を瞬(しばた)いて、街道の北の方を見ながら声をかけてきた。

「聞こえないか? 早馬だ。こちらに向かって駆けてくる」

 イシュルは感知の先を北の方へ伸ばす。

 曇り空に雨。視界は悪い。街道筋の建物、四つ辻に面した広場の奥に佇む神殿も、黒い影に沈んでいる。

 ……遠くに空気の振動……。これは騎馬か。

「なんだか嫌な感じがする」

 リフィアが呟く。

 やがてその予感が的中したか、雨の煙る中を早馬が一騎、姿を現した。

「!!」

 イシュルは呆然とその騎手を見た。リフィアが両目を見開き驚愕する。少し遅れてミラが息を飲む音が聞こえた。

 馬に乗っているのは収穫祭の時、突然現れたリフィアに付き従っていた従者の男だった。かつてマーヤとも一緒にいた、大公家の影の者ではないかと思われる男だった。

 歳は二十代、長剣を差し相当剣の腕が立ちそうな男だった。

 その男が薄汚れたなりで苦しそうに顔を歪ませ、手綱を引く力も頼りなげに馬を走らせてくる。

「何かあったんだ……」

 イシュルは額に落ちかかる雨を拭った。

 リフィアに命じられ、先にフロンテーラに帰って行った、あの男と辺境伯家のメイドたち。

 それがあの男だけがボロボロになって単騎、今になって引き返してきた。

「エバン!」

 リフィアが叫んだ。

 あの男はエバンというのか。本名かは知らないが。

「どうした!」

 馬が嘶き前足をあげて止まった。一緒に外に出てきた公爵家騎士団のリットという名の男が 轡(くつわ)を取る。

 栗毛の馬は全身から湯気を立てている。

 エバンと呼ばれた剣士は崩れ落ちるように馬から降りると、リフィアの前に跪いた。

「風の魔法具を持つお方」

 その時イシュルの背後から、硬い声が降ってきた。

 振り向くとシャルカが、ゾッとするような恐ろしい顔でイシュルを見下ろしていた。

 そして彼女はその顔を南に、街道の南に向けた。

「……!!」

 イシュルを天地が裂けるような衝撃が襲った。

 これはいったい何だ。

 何が起きようとしている。

 ……心が震える。一瞬、あの時のセヴィルの顔が浮かんでくる。

 夕日に影になった彼の顔が。あの絶望を口にした顔が。

「イシュルさま」

 ミラが泣きそうな顔で見上げてくる。

 地を這う振動。これは馬蹄の音だ。それも多数の。

 リフィアの方を見れば、エバンが彼女に何か話している。

 その言葉は聞こえてこない。もう無数の馬蹄の連なりが、後ろからすぐそこまで迫ってきている。凄い迫力だ。

「みんな、道の端に寄るんだ。神殿前の広場へ。急げ!」

 イシュルは声を張り上げ一行を見回した。皆外に出てきている。

「あんたもだ! 早く」

 イシュルはエバンにも声をかけた。


 雨脚がまたさらに強くなった。

 その中を、目の前を騎馬隊が駆け抜けていく。

 その数は百騎を下らない。みな突撃時のような速度で視界の外へ通り抜けていく。

 地面が揺れる。騎馬の群れは南から来た。

「聖堂第二騎士団ですわ」

 ミラの呟くような小声がなぜか、鮮明に聞こえてくる。

 竜騎兵の一隊は北に向かっている。どこから戻って来たのか、エバンも北からやってきた。

 この先のどこかで、何かが起きたのだ。とても大きな、重大な出来事が。

 騎馬隊の速度があまりにも早い。これでは馬はそう長く保たないだろう。この先のダレマールで、おそらく小休止するのだろう。

 しかし、よほど急いでいるのか、騎馬隊に付属する従兵や輜重の姿が見えない。

「イシュル!」

 リフィアの声が馬蹄の音に混じって聞こえる。

 彼女はエバンを従えイシュルの傍に寄ってきた。

「大変なことが起きたぞ!」

 その時だった。目の前を通り過ぎた数騎の騎馬が隊列からそれ、イシュルたちの方に戻ってきた。皆揃って下馬し、位(くらい)の高そうな騎士がひとり、イシュルとミラの前まで来て跪いた。

 騎馬隊の姿が街道の北へ消えていく。その騎士の鳴らす甲冑の音が、馬の息と雨音に混じり合って耳許に響いてくる。

「ディエラード公爵家ご息女さまと、イシュル・ベルシュ殿とお見受けする」

 男は聖堂第二騎士団、百人隊長のベラルド・アルファーロと名乗った。

「陛下より御身宛の書簡をお預かりしております」

 百人隊長は真紅のマントのかるく後ろにはねのけると腰の後ろの方に手を回し、油紙に包まれた巻紙を取り出しイシュルの前に差し出してきた。

「……」

 イシュルはリフィアをちらっと横目に見て、少し待つようにとその視線で伝えると、ベラルドから巻紙を受け取り、油紙を破って広げた。

 手紙には確かにサロモンのサインがあった。

 その流麗な筆致が微かに乱れているのがわかる。

 文面は走り書き同然のもので、ラディス王国に突如、連合王国が侵攻を開始した、と記されていた。

 連合王国の軍勢は、瞬く間にラディス王国が連合王国との北部国境に築いた要塞線を突破した。一部の軍勢が王都ラディスラウスに直接向かっている、との報もある、と書かれ、最後に「連合王国軍の総大将は強力無比な“金(かね)”の魔法を使うらしい。気をつけられよ」と記されていた。

 胸が熱い……。足が震えだす。口から何か、吐き出してしまいそうだ。

 イシュルはサロモンからの手紙をミラに渡すとリフィアを見た。

 リフィアはイシュルの視線を受けると傍に跪くエバンを見やった。

「……申しあげます。連合王国の侵攻に対し、我が大公殿下は急ぎ軍を起こし、王都へ向け進発したとのことです」

「あんたはそれ、どこで知ったんだ?」

「テオドールです」

 テオドールは聖王国の、ラディスとアルサールと接する国境の街だ。

「い、イシュルさま。この金の魔法を使うという連合王国の総大将は……」

 ミラが声を震わし問うてくる。

 イシュルは凶暴な笑みを浮かべると、低い声で唸るように言った。

「間違いない。金の魔法具だ。神の魔法具がまたひとつ、現れたのだ」




 イシュルは天を仰いだ。

 灰色の空をただ雨が落ちてくる。

 おまえたち。……神々よ。

 とうとう来たか。また動いたか。……今度は金の魔法具か。

 イシュルはそして、眸を細める。

 ……俺は何を脅えている。

 俺は何を見た? もう忘れたか。

 あの城塔に立つクートや双子、ラベナの姿を。彼らの勇姿を。

 俺は逃げたりしない。何者をも恐れはしない。

「連合王国の総大将は俺が殺る。金の魔法具は俺がいただく」

 イシュルは己の胸の前に硬く拳を握った。

 ……はっきり言ってしまえば、ラディス王家がどうなろうと俺の知ったことではない。だが王国が連合王国に蹂躙されれば、実際にラディス王家が滅べば、今は王領となっているベルシュ村もただでは済まないだろう。

 たとえ辺境の田舎にあろうと、王国の諸侯には裏切る者も出てくるだろう、おそらく村の者たちが平和な暮らしを送ることはできないだろう。

 エリスタールにも知己はいる。王都にはまだ、シエラもいるかもしれない。

 イシュルは彼の前に跪く百人隊長に顔を向けた。

 聖王国とアルサール大公国はどう動くだろうか。だが、彼らがラディスに攻め込む可能性は今のところはまだ、低いだろう。

 両国とも今は国境を固め徐々に兵力を集中し、ラディスと連合王国の戦いの動向を見極めようとするのではないか。

 ラディスの負けが明らかになれば、次に攻め込まれるのは自分たちかもしれない。両国ともラディスに侵攻し、連合王国に決戦を挑むだろう。

 ラディスが踏ん張れば、同盟関係にあるアルサールは援軍を寄越してくる。聖王国は不介入を約束し、何らかの外交上の利益を得ようとするのではないか。

「確かアルファーロ殿、と申したな」

 イシュルはにやりと笑うと百人隊長に言った。

「連合王国の軍勢は俺が平らげる。総大将も俺が斃す。陛下には今しばらく控え召されよと、そう伝えて欲しいんだが」


 百人隊長らが馬上の人となり北方に去ると、リフィアとミラが凄い剣幕でイシュルに迫ってきた。

「イシュル! 急ごう」

「イシュルさま、急ぎましょう」

 ……さて、これは考えどころだ……。

 イシュルは顎に手をやり顔を俯け沈思した。

「おい、イシュル。先ほど百人隊長に言った言葉はどうした」

 リフィアが眉間にしわを寄せて言ってくる。

「イシュルさま。非力ながら、わたくしも全力でお助けいたしますわ。ここは一刻も早く……」

 フロンテーラに急ぎ向かいましょう、とミラが言ってきた。

 ……どうする? 賭けてみるか。

 イシュルは顔を上げて南の方を見た。気のせいか、南の空は雨脚が弱くなっているように見える。

 イシュルは空を見上げたまま言った。

「いや。聖都に戻ろう」

 そして笑みを浮かべてミラとリフィアの顔を見渡した。

「王城に行く」




 深い霧の中にいるような分厚い雲の層を抜けると、明るい青空に光り輝く太陽が現れた。

「眩しい……」

「まぁ」

 リフィアとミラが両側から感嘆の声を上げる。

 イシュルは右手をリフィアとつなぎ、左手をミラとつないでいる。

 文字どおり両手に花、なわけだが……。

 そこでイシュルはミラの方へちらっと視線をやった。

 ミラはイシュルと手をつなぎながら、シャルカの右肩に乗っている。シャルカの横顔がイシュルの腰の当たりにある。

 イシュルはリフィアとミラ、そしてシャルカを風の魔力で包み空に上がって、空中から急ぎ、王城の月神の塔に向かっていた。

 雲海に浮かぶ太陽の眩い光が、無垢な笑顔を浮かべるふたりの少女の顔を照らし出す。

 彼女たちの美しさをどう表現したらいいのか、イシュルにはわからなかった。

 いつまでもこうして空を飛んでいたい。

 だがそれは許されない。

 聖都まではたいした距離ではない。

 イシュルはすぐに降下に移り、彼らは再び雲海の中に潜っていった。

 高度を落とし雲の下に出ると眼下にすぐ、灰色の空を映したアニエーレ川があった。向かいは王城外郭、右の方、西の方には公爵邸が見える。

 イシュルはミラたちを引き連れ、そこから魔法具屋のある月神の塔、別名魔導師の塔へ直行した。


「──と、いうわけで王城内にある魔導具屋に行きたいんだ。チェリアが店にいればいいんだが」

「……イシュルの言ったことは確かに試してみる価値があると思うが……。もし違っていたらどうする? それにあの老婆が不在だったら?」

 リフィアがイシュルに聞いてくる。

「だめだったら、この面子で俺がフロンテーラまで空を飛んで行く。もちろん休みを入れながらだが。少なくとも地上を徒歩で行くよりは、はるかに早く着く筈だ。婆さんが魔法具屋にいなければ、とりあえずそうだな……。三日ほど待ってみようか」

「きっと大丈夫ですわ。わたしはイシュルさまのことを信じております。今回もイシュルさまのお考えどおり、うまくいくでしょう」

 ミラは微笑を浮かべ何度も頷く。

 オリバスの神殿の前、六本の石柱に支えられた庇(ひさし)の下で、イシュルとリフィア、ミラの三人は顔を突き合わせて話し込んでいた。

 外は先ほどより幾分おさまったものの、まだかなり強い雨が降り続いている。

 神殿前の広場には、イシュルたち一行以外に人影は見えない。

 聖堂騎士団の騎馬隊が駆け抜けていった時も、街道筋の宿屋や商店から何人かが顔を出しただけで、すぐにみな中に入ってしまった。

 雨降りで街道を行く旅人の姿もない。

 エバンはまたすぐに馬を駆り、街道を北へ帰って行った。

 彼の話によれば、リフィアの従者であるマリカたちはテオドールに残してきたのだと言う。彼らはテオドールで王国の異変を知り、マリカたちはそのままテオドールに残り、エバンひとりがリフィアに知らせるため、急ぎ聖都へ引き返して来たのだった。

 彼らもテオドールで合流後は、急ぎフロンテーラに向かうことになる。

 イシュルは雨脚の強さを確かめるように、街道の方へちらっと目をやった。

 イシュルは突然の宣言の後、なぜ聖都に戻るのか、リフィアとミラにその理由を説明した。

 聖都に戻るのはイシュルの他にリフィアとミラ、シャルカの四人だけ。人数は最小限に絞る。

 残るルシア、サラ、彼女の兄のルベルト以下計六名は、当初の予定どおりフロンテーラに向かうことになった。

 まだラディス王国の王都から北部一帯の詳しい状況は分からないが、どこも最悪の状況にあることは確かだろう。敵の総大将が金の魔法具を持つのなら、ラディスラウスはあっという間に陥落するだろう。王都が落ちれば諸侯は雪崩を打って降伏し、連合王国側に離反するかもしれない。

 イシュルは少しでも早くフロンテーラに行き、情勢を把握、金の魔法具を持つ敵と対決しなければならなかった。

 それからミラはルシアとルベルトを呼びつけ、フロンテーラへは彼らと別行動をとることを知らせた。

 イシュルはルシアとルベルトに「よろしく頼む」と頭を下げると、詳しい説明に入ったミラたちをその場に残し、ひとり神殿の裏手に回った。

 神殿裏には神官の住居や倉庫などが並び、傍(かたわら)にはネリーの遺体の納められた素焼きの大きな壺、彼女の剣、私物の入った木箱がひとつ、置かれていた。

 イシュルは壺の前に立ち、そのざらざらした表面を無言で撫でた。

 ……昼前には、船上でリフィアと楽しそうに話していたのに。今は壺の中かよ。

「イシュル」

「イシュルさま……」

 リフィアとミラが、後ろから近づいてきてイシュルに声をかけた。

「ネリーにな、お別れを言っていたんだ」

 なんだかんだと言って、こいつは真面目で義理堅いやつだった。そしてずっと自身の性癖を押さえ込み、耐え抜いてきたのだ。

 イシュルはふたりに小さな声で、独りごとのように言った。

「今の目の前にある悲しみは義憤に変えるのだ。それはいつか必ず、己の目指す正義への糧となる」

 たとえルデリーヌを討って仇を取ろうと、失われた命は戻ってこない。悲しみはなくならない。

 それなら、どうしたらいい?

「そうだな……」

「イシュルさま」

 イシュルの言を聞いたふたりはその場で、静かに涙を流した。




 魔導師の塔の前に降り立つと、その前には人だかりができていた。

 聖都では雨は細かな霧雨となっていて、空も幾分明るく感じられた。

 人だかりは塔の中へも続いていて、中には宮廷魔導師たちが集まっていた。塔の外にいるのは彼らの従者たちのように思われた。

 イシュルたちは彼らに隠れるように塔の上の階へと登っていった。魔導師たちは二階の広間にもいたが、皆互いの話に夢中で、イシュルたちに気づく者はいなかった。途中、何人かがミラに声をかけてきたくらいだった。中にはダナやベリン、セリオの姿も見えたが、彼女たちも周りの者と何事か、真剣に話をしていた。

 おそらくラディス王国の異変に、皆ここに集められたのだろう。じき王宮の方から話があり、彼らも驚愕するに違いない。

「これはこれは。恐ろしい顔をして」

 月神の塔の三階、魔法具屋には店主のチェリアがいた。

「……」

 ふふ。ついてるじゃないか。

 イシュルは薄っすらと笑みを浮かべると、老婆の前に立って言った。

「婆さん、頼みたいことがあるんだ」

「何じゃい、そこにおるのは精霊じゃろう。気に食わん……と言いたいところじゃが、この国の王も代わったことだし、あんたに逆らったらどうなるか知れぬし、仕方がないかの」

「ふん」

 イシュルは顎をあげてカウンター越しに、椅子に座る老婆を見下ろした。

 そして早見の指輪を外して彼女の前に置いた。

「駄賃と言っては何だが、これは返す」

 イシュルの笑みが大きくなる。

 今はネリーの腕輪がある。早見の指輪は必要なくなった。

 イシュルは老婆の奥に広がる闇に一瞬目をやり言った。

「かわりに、俺たちをフロンテーラの魔法具屋に、連れて行ってくれないか?」

 老婆の眸がまた、あらぬ方に動き出した。

「今すぐにだ」

 その左右の眸はどちらも違う、何もない宙を見つめた。



「わたしは若い頃、ちょっと悪さをしての。先代の店主に捕まり呪いをかけられたんじゃ」

 老婆の眸は何を見ているのか。

「その時からわたしはこの深い闇を背負い続けておる。この闇は幾つか限られた場所とつながっておっての。わたしの住処もそのひとつじゃ」

 老婆はにたりと乾いた笑みを浮かべた。

 彼女たちは姉妹ではなかった。最初からひとりしかいなかった。

 フロンテーラとエストフォルの魔法具屋の老婆は、同一人物だった。

「つながりのあるところへはいつでも、どんなに遠くともすぐに辿り着ける。だが行けるところは限られておってな。行きたいところ、どこへでも行けるわけではない。わたしはその限られた場所にしか行くことはできぬ。自由に外へ出て歩き回ることもできんのじゃ。そしてこの呪いを解くこともできぬ。先代はそのやり方を教えてくれなかった」

「あんたが死んだら、こことフロンテーラの魔法屋も店じまい、ってことか」

 イシュルの後ろではミラとリフィアが呆然としている。シャルカは少しだけ目を細め、いつものように無言でいる。

「そうかもしれぬ。だがわたしが死んだら、わたしからその呪いを取り出し、次の者に植え付ける者が他にいるかもしれぬ。この魔法具屋も何百年と続いてきたからの」

「そうか」

 呪いとは言葉の綾だろう。それは魔法具なのだ。俺と同じ身体と一体化するタイプの。

 おそらくこの魔法具は老婆とは別に、代々管理する者がいるのではないか。

 例えばこの月神の塔の門番であるとか、王宮に飼われた道化であるとか。

 どうせそんなところだろう。この婆さんはおそらく、この魔法具屋に盗みにでも入って先代か、その管理者にとっ捕まったのだろう。それでこの「呪い」を押し付けられたのだ。

 夜な夜な聖都の街中に現れるとの噂も、この前実際に夜の街に現れたのも、この魔法具があったからだろう。

「俺とこの三名、全部で四名だ。フロンテーラまで連れて行ってもらえるか」

「いや、わたしは行かぬ。だが行き方は教えて進ぜよう。それでよかろう? あちらはしばらく荒れるであろうからの」

 老婆はまた、薄気味悪い笑みを浮かべた。



 目の前は漆黒の闇で覆われている。

 その闇の底に細い銀線が一本、奥へと伸び、それが幾つもに枝分かれしている。

 まるで夜闇に描かれた、銀色に輝く一本の木のスケッチのようだ。

「一番奥へと続いている真ん中の線を踏んで行けば、フロンテーラの魔法具屋に辿りつく」

 老婆の背中からしわがれた声が響いてくる。

 老婆はどうしたわけか、こちらにからだを向けてこない。

「気をつけなされ。その線を踏みはずすともうこの世には帰ってこれなくなる」

 これも一種の結界か……。だが、この闇はまるで紗幕のように、薄く、脆いようにも感じられる。

 この暗闇は「手」が届く。比較的簡単に壊せそうな感じがする。彼女が店に精霊を近づけるのを恐れている、というのもなんとなくわかる気がする。これなら力のある魔法使い、精霊なら破ることもできるだろう。

 そうなればどうなるか。老婆のからだに埋め込まれた魔法具も壊れ、彼女も死んでしまうのではないだろうか。

「この闇の結界の存在を、いったいどれだけの者が知っているだろう」

 イシュルは誰にも聞こえない小さな声で呟いた。

 案外、知る者は多いのかもしれない。

 ……チェリアは無用な隠し立てを、抵抗をしなかった。

 イシュルは視線を自らの足許へ下ろし、闇の生れ出る境界を見つめた。

 その境界から伸びる銀線。よく見るとその枝分かれした先は、その先端が消えてはまた新しい線が生まれ方向を変えて伸びていき、それをずっと繰り返して、せわしなくその形を変えている。

「行こう」

 イシュルは後ろを振り向きリフィアやミラたちに声をかけた。

「……」

 みな無言で、だがしっかりと頷く。

 目的地は闇の彼方。一番遠くに伸びる銀色の線の、その先にある。

 イシュルはその闇の中へ一歩、踏み出した。

 

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