出立 3



「なんだあれは。酷いじゃないか、イシュル」

 それから二日後、日中にミラとともにアデール聖堂を訪ね、シビルに国王派との戦いに協力してもらったお礼とお別れの挨拶をしたその日の夜。

 イシュルの呼びかけにやっと姿を現したアデリアーヌは、なぜかお冠(かんむり)だった。

「まずはマレフィオア本体の所在を調べるところからね。ラディス王国の古い魔法使いから話を聞いたり、なんとかして王家の書庫を自由に閲覧できるようにすることが大事ね。人数をかけて調べるといいわ。マレフィオアが、ブレクタスの地下神殿の奥深くに隠れ棲むというのが本当なら、ラディス王家に何らかの記録が残っている筈だから」

 順風満帆で終始機嫌がよかったシビルの最後の忠告は、相変わらず的確でためになるものだった。ただ、イシュルもすでに同じようなことは考えていた。

 王都の南西にはアルム湖と呼ばれる大きな湖があるが、その湖の対岸からブレクタス山塊と呼ばれる山岳地帯になる。“ブレクタスの地下神殿”はその大山塊の中央付近にある盆地に存在し、途中山岳地帯を越えていかねばならないが、距離的にはラディス王国南西部が周辺諸国では最も近い。

 シビルがラディス王家の書庫の話を持ち出してきたのは、ラディス王国がブレクタスの地下神殿に最も近い国のひとつで、昔から探検隊を出すなどそれなりに関わりがあり、マレフィオアが地下神殿に存在するのならその記録も確実に存在する筈、と考えたからだろう。

 マレフィオアの件に関しては、イシュルもフロンテーラに着いたら、大公城の書庫を閲覧させてもらおうと考えていた。

 シビルやカトカと別れの挨拶は無事済んだものの、イシュルが来ればいつも必ず姿を現わすアデリアーヌが一向にその姿を見せない。

 イシュルが声を出して呼びかけても、彼女は気配さえも消してイシュルたちの前に出て来なかった。

 アデリアーヌに会わずに聖都を離れるわけにはいかない。イシュルはその日の夜にひとりで、空からもう一度アデール聖堂に赴いた。

 今度は声に出して呼びかけたりはしなかった。イシュルはアデール聖堂の直上、一千長歩(スカル、約六百五十m)ほどの高度に占位すると、周囲に風の魔力を流し、外側へゆっくり解放して聖堂の敷地から街中へ微風を吹かせた。

 自身を中心に風の魔力を流れるように回転させ、繊細で美しい流動となるよう、感覚を研ぎ澄まし意識を集中した。美しい風の魔力の流れは現実の風となっても、人だけでなく、すべての生命に清廉な愉悦をもたらす。

 ……それは精霊も同じ筈なのだ。たとえ風でない、水の精霊であろうと。

「むうう」

 もうたまらない、といったふうに、イシュルの目の前に白く輝く魔力を煌めかせ、アデリアーヌが姿を現した。


「ずるいじゃないか」

 アデリアーヌは開口一番にそう言うと、唇を尖らしむすっとした顔をしてみせた。

「どうしたんだ? アデリアーヌ。きみに会いたかったのに」

「なっ、このっ。うるさい!」

 そして「ふん!」と言ってプイッと顔を横に逸らす。

 人間のように実体化していたら彼女の顔は真っ赤に染まって見えたことだろう。

「夜だけどな、気持ちいい風が吹かせられたと思う。俺の風の魔力、きみにはどんなふうに見えた?」

「くっ……。きれいだった」

 アデリアーヌは顔を背けたまま、ぼそっと小さな声で言った。

「そうか、それは良かった。きみのために吹かしたんだ」

「……!!」

 アデリアーヌがまた全身を硬直させる。

 そして彼女は弾かれたようにイシュルに顔を向けると、その端正な顔に悲しみの色を見せて叫んだ。

「それより酷いじゃないか! イシュル」

「何が?」

「イニフェルだ!」

 ひときわ声を大きくして叫ぶアデリアーヌ。彼女は先日イシュルにお礼を言いに来た、かつてドロイテ・シェラールの契約精霊だった者の名を出してきた。

 ……そういえばあの時、イニフェルはアデリアーヌに会い行く、みたいなことを言っていた。

「おまえ、なんでイニフェルを知っているんだ? どこで仲良くなった?」

 アデリアーヌが凄い剣幕で言ってくる。

「いや。ちょっとわけがあって、昔聖王家の宮廷魔導師長だったひとを助けたんだが、そのお礼に彼女が代わりに会いに来たんだ。イニフェルはその宮廷魔導師長だったひとの契約精霊だった」

「うん? どういうことだ? なぜその魔法使いでなくてイニフェルが……。いや、そういえば」

 アデリアーヌも昔、王城にイニフェルと契約していた水の魔法使いがいたことを思い出したようだった。

 イシュルはドロイテとの経緯(いきさつ)をアデリアーヌに説明した。

「あの時の水魔法の……。あの後、おまえたちがあの化け物と戦って風神がお出ましになったろう? それですっかり忘れていた……」

 ドロイテがマデルン・バルロードに放った水の大魔法は当然、アデリアーヌにもわかったろう。

「イニフェルは俺にお礼をしに来ただけだよ。それだけだ」

「そ、そうか。ならいいんだがな」

 彼女はやっと機嫌を直したか、不承不承でありながらも一応、イシュルに頷いて見せた。

 アデリアーヌ……。

 どうしたんだ? おまえいつだったか、ミラやサロモンの従者のマグダ・ペリーノらを連れて行った時は、「男子たる者かくあるべし」だなどと鷹揚に構えていたじゃないか。

 そうか。人間の女ならいいんだ。人間の女は別、ということか。

 いや、あの時はシャルカもいたから……。つまり、水の精霊以外の女は気にしない、水の精霊の女はダメ、ってことなんだな。たぶん。

「う〜む」

 それってどういうこと? ってな感じだが、彼女のその精霊故? の独特の拘りも、なんとなくわかるような気もしないではない。

 女の子はみんな複雑、繊細だもんね。

「ところでアデリアーヌ」

 ……とにかくだ。彼女にも、きちんと別れの挨拶をしなければならない。

「あの風神の剣、イシュルが振るったんだろう?」

 アデリアーヌは真面目な、思いつめたような顔つきになって言った。

「この人間の街を去るんだな」

「ああ。だから、今日はおまえにお別れを言いに来たんだ」

「もうこの街には戻って来ないのか」

「いや。いつか必ず戻ってくるさ」

 イシュルは、夜空にぽつんと浮かぶ水の精霊にしっかり、ゆっくりと頷いて見せた。

 かならず、生きて帰ってくる……。生き抜いてみせる。

「ふふ。なら、おまえの帰りをゆっくり待つとしよう。……この地で」

 夜空に、アデリアーヌの微笑む顔が輝いた。




 ピルサとピューリには、屋敷の中庭の東側にある小さな東屋で別れの挨拶をした。

 ふたりは朝方、イシュルもお気に入りの、その白塗りの優雅な佇まいの東屋にいることが多い。

「お別れ」

「お別れだね、イシュル」

「ああ」

 イシュルは双子に微笑んでみせると、東屋の丸いドーム型の屋根越しに、周りの木々の緑に目をやった。落葉樹の葉は少しずつその色をくすませている。紅葉の時期が近づきつつある。

「でもイシュルはまた戻ってくる」

「いつかミラさまと結婚するんでしょ?」

「はっ?」

 イシュルは思わず立ち上がりそうになった。

 イシュルたちはさして広くない東屋の中で、互いに膝を突き合わせて座っている。

「あっ」

「違う?」

 双子はイシュルの反応にバツの悪そうな顔を見合わせた。 

「あっちの方かな」

「あの銀髪の綺麗なひと」

「はあっ?」

 イシュルは今度はしっかり、すくっと立ち上がってしまった。


 ……三人でひとしきりやりあった後、イシュルは以前から気にかけていたことをふたりに質問してみた。

「その、ふたりはもう決めたの? 踏ん切りはついたかな?」

「うん」

「うん」

 ピルサとピューリは揃って頷いた。

 以前に彼女らにすすめたこと、「花を一輪、ルフィッツオとロメオに渡してみたら」がどうなったか。小さな、素朴な感謝の気持ちを彼らに伝え、見せたことが、このふた組の双子にどんな変化をもたらしたかは、もうすでに確認している。いや、無理やり知らされることになった。

 今は政変でルフィッツオもロメオも忙しい。サンデリーニ公爵家の養女とする手続きも進んでいない。ただミラやルシアから聞いた話では、ルフィッツオはサロモンに対しすでにそのことを報告、聖王家からも正式な許可をもらえるように動いている、ということだった。

「俺からふたりに提案というか、忠告というか、ふたつあるんだが」

「なに?」

「なに?」

「まずひとつはどうかな、ふたりとも結婚するまで、しばらくの間、宮廷魔導師をやったら、と思うんだ」

 断言はできないが、聖都の貴族社会、特に社交界における女たちの世界では、彼女たちにとって厳しいことがこれから先、いろいろと起こるに違いない。

 ピルサとピューリは旧貴族家の出身とは言え、それが公爵家の嫡子との結婚となれば、とても釣り合うものではない。女たちのやっかみ、ひがみは相当なものになるだろう。

 聖王家の宮廷魔導師になるということは、彼女たちにとっていい経験になるだけでなく、それらを和らげるのに充分な効果があるはずだ。

 気位の高い貴族の女たちだって、相手が聖王家の宮廷魔導師ともなれば一目も二目も置くだろう。……と言うよりは触らぬ神に祟りなし、の方がより実情に近いか。

 ともかく現在の王家は、各派の争いで宮廷魔導師の数もだいぶ減っているし、ピルサとピューリ、二人ひと組で考えれば、彼女たちが相当な実力者であるのは確かである。

 イシュルはそれらのことを双子に説明した。

「今度、ルフィッツオさんたちに相談してみるといい」

「うん」と前向きな感じで頷くふたりに、イシュルは今度は指を立てて言った。

「ふたつめは、“口は災いの元”というやつだ」

 まぁ、俺も他人(ひと)のことは言えないかもしれないが……。

 イシュルがにやりとして言うと、身に覚えがあるのか、ピルサとピューリは揃って頬を膨らませ、上目遣いにイシュルを見つめてきた。


「あのひとは他に兄弟もいないし、身内の方はご領地の屋敷にお母さまがいるだけなの」

 ラベナはやや顔を俯かせ頬を微かに染めて言った。

 あのひと、ときたか。ダリオめ、こんな美人と……。

 イシュルはなんとか笑みを浮かべて、無言で頷いた。

 近々、正式に引退することになったディエラード公爵家当主のオルディーノに、暇乞いの挨拶に訪れた別邸の控えの間にて、イシュルはラベナにも公爵邸を辞し聖都を発つことを話した。

 ダリオとの関係をそれとなく聞いたイシュルに、ラベナはいつもの柔和な口調で、つつみ隠さず話した。

「……」

 イシュルの横で、同行したミラがにこにこしている。

 彼女は当然、ラベナとダリオの関係の進展も、以前から逐一、耳に入れていただろう。

「ダリオはとても優しくしてくれるし、もちろん、それだけじゃないのだけれど……」

 ラベナが顔をあげてくる。彼女の眸に微かだが、強い光が見えたような気がした。

 ラベナの前夫は非業の死を遂げている。彼女は謀殺された夫の復讐を果たしたがために、アデール聖堂に身を寄せることになったのだ。

「わたしももう一度、幸せを求めてもいいのかな、と思ったの」

 ラベナの微笑は最初は少し、寂しげな感じがした。だがそれも徐々に、隠しきれない喜びの色が勝っていくように見えた。

「ああ」

 イシュルは自然な笑みになって頷いた。

 今まで多くのものを失い、命を奪い、傷ついてきた。

 だからこそ身近な人々の幸せを尊い、と思えるのだ。

 イシュルはそっと両手を握りしめ、己の胸に流れる暖かい何かを、じっと噛み締めた。




 審問会の前日、夜にルフィッツオとロメオの主催で、イシュルを主賓とした小さな晩餐会が開かれた。他に参加者はミラにリフィア、ダリオ、ラベナ、ピルサとピューリにルシア、ネリーの面々で、身分を問わない内々の宴だった。

 主賓は今回の反国王各派勝利の立役者であるイシュルとなっていたが、実質は妹のミラと、彼女に縁のあった者、彼女に同行する従者たちの壮行会であった。

 ディエラード家としては当然、風神降臨をもたらしたとされるイシュルを主客とした大々的な晩餐会を開きたかったのだが、今は政変で宮廷も混乱し、王権が改まって人事も刷新され、その中枢にいるルフィッツオとロメオは多忙を極めていて、とてもその余裕がなかった。

 また、サロモンも多忙なために彼の主催する晩餐会も未だ開かれておらず、聖王家に先んじて行うのも憚れるという事情もあった。

 イシュルは席上で、聖都を出発する日を審問会の翌早朝とすることを発表した。

 発表と言うよりは、正確な日取りをルフィッツオたちにはじめて教えた。これは以前からミラとリフィアと頭を突き合わせて話し合って決めたもので、聖王家や聖堂教会などから、イシュルへの引き止め工作があった場合、それを回避するために審問会後なるべく早く聖都を離れることと、関係者たちに不義理とならないよう出発日はあらかじめ公表するものの、ギリギリのタイミングまで遅らせたためだった。

 翌日の審問会は大聖堂、聖パタンデール館で行われ、休憩を挟んで午前と午後にわたり行われた。

 審問官はカルノ・バルリオレ、証人はイシュルを始め、ミラとリフィア、聖神官のデシオ・ブニエルと大神官のリベリオ・アダーニ、そして総神官長のウルトゥーロ・バリオーニ二世という異様な組み合わせで行われた。

 議題は聖冠の儀で起きたビオナートの背教行為と、風神イヴェダの降臨に関してで、イシュルとリフィアに関してはディエラード公爵家の“客人”の扱い、身分で証人となり、リフィアの家名はラディス王国への政治的な配慮からか、公表されなかった。聖冠の儀において、彼女がビオナートに剣を向けた事実があったためである。

 審問会の進行は、デシオがイシュルからウルトゥーロまで、すべての参加者と前もって面談を重ね想定問答集を制作、ほとんど脚本化され各自がそれに基づいて証言していく形で行われた。

 イシュルからすればそれは完全なヤラセで、最初から結論ありきの完全な出来レースだった。

 会場には多くの椅子が持ち込まれ、聖都内外から多くの神官が集まり、会場は多数の傍聴人でいっぱいになった。

 以前にリベリオが言ったように、聖堂教会が風神の降臨を公式記録として残すためだけに開かれた、形だけの審問会だった。

 会の終了後、イシュルたちはウルトゥーロやカルノらに面会し出立の挨拶をした。

 イシュルにとってはその時、ウルトゥーロ本人から直接、エミリアやエンドラを始め国王派との争闘で喪われた者たちに毎日祈りを捧げている、との話を聞けたのが、審問会よりよほど重要なことであったかもしれない。

 帰りしに、大聖堂の前まで送ってくれたデシオに、イシュルは気にかかっていたことをひとつ、質問してみた。

 それはビオナートが生前、大聖堂の秘密の禁書庫から持ち出した書物を王城のどこに隠したか、全て処分してしまったか、それを確認し、もし禁書が残されていたらそれをどう回収するか、という内容だった。

「それはサロモンさまに一任したよ」

 デシオはそう、事も無げに言ってのけた。

「えっ」

 イシュルは思わず驚いて、デシオの顔を凝視した。

 サロモンは父のビオナートに劣らない策謀家ではないか。

 彼がもし、ビオナートの遺産を独り占めするようなことになったら。今はいいだろうが、将来、王宮が再び恐怖に包まれるようなことにならないか。

 イシュルはそのことをデシオにそれとなく、言葉を選んで話した。

 だが、デシオは笑顔でイシュルの危惧を一蹴した。

「それは大丈夫だ、イシュル殿。サロモンさまはお父上と違って全てを持っている。最初から地位も、力も、人も。そして父君の失敗もご自身で見てきている。あの方にとって禁書など、己に害を成すものでしかないだろう」

 最後にデシオはひと言つけ加えた。

「何より気位の高い方だしね」

「なるほど……」

 イシュルはサロモンだけでなく、ルフレイドの顔も思い浮かべて小さな声で頷いた。

 何も持っていなかった見習い神官のビオナート少年と、すべてを持っていたふたりの王子。それこそが聖王家と大聖堂の争乱を招いた原因だったかもしれない。

 イシュルはパタンデール館の前に立ち止まって、その建物の大きな影越しに王城の方に目をやった。

 午後の陽が傾き薄く暖色に染まりはじめた空に、うろこ雲がまばらに浮かんで見えた。




 聖都の最後の夜。

 屋敷の者たちも寝静まった頃、イシュルは公爵邸から真っ直ぐ上に夜空に飛びあがり、夜闇の底に広がる王城から大聖堂、聖都の市街を見渡した。

 天候は今ひとつで、夜空は一面雲で覆われている。月の姿も見えず、星々の輝きも微かだ。

 だが曇りのせいか、それほどの寒さは感じない。

 イシュルは大聖堂の消えた主塔のあたりを見やった。

 今、主神の間の周囲は軍用のテントを改造したものか、多角形の大きな帆布で覆われている。

 南側の広場には木材や石材が積み上げられ、幾つもの篝火が焚かれている。そのため夜間でも辺りの様子がそれとなく窺える。

 ……あのテント、まるでサーカス小屋みたいだな。ふふ。

 篝火に横から照らされ、周囲の暗闇から浮き上がる工事中の主神の間の覆い。

 まさかその中でサーカスの演し物が行なわれているわけもあるまいに。

 イシュルはひとり苦笑を浮かべる。

 主神の間をサーカスとか。不遜にすぎる発想だろうか。

 イシュルはふと右手方向に魔力の気配を感じて、視線を街中の方へ向けた。

 その気配はアデール聖堂のあたりから感じる。

 アデリアーヌがこちらを見ている。

 イシュルはアデール聖堂の方へ手を振ってみせた。たぶん彼女ならわかるだろう。

 彼女とは先日、別れの挨拶を済ませた。明日は早いし、今晩はこれから用がある。彼女に会いに行くわけにはいかない。

「この人間の街も静かになった」

 空中に浮かぶイシュルの横にふうっと風が吹く。

 声がした、と思ったらそこにはもう、クラウがいた。

「長い間ありがとう。本当に助かったよ」

 イシュルは聖都の街並みに目を落としたまま静かに言った。

 地上を覆う暗闇の中、大聖堂の他にも街の灯の明るくともる一画がある。歓楽街の辺りだ。

「大変だったろう。つまらない仕事を押しつけて悪かった」

「いや、わたしは充分に楽しめたよ。イヴェダさまもすぐ近くにお出ましになったし」

 クラウが風神の話をすると、イシュルはそこで小さく笑みを浮かべた。

「わたしが守護したお屋敷は、この人間の国の王子も滞在していた。そのせいか色々なものを見聞きできて飽くことがなかった」

「そうか」

 クラウは俺のいない時、俺の眠っている時、俺の知らないところで随分と苦労している筈なのだ。

 公爵邸はサロモンも滞在し、アデール聖堂のカトカや大聖堂の使者も常駐していた。昼間だけでなく、屋敷の者のみな寝静まった深夜においても、敵だけでない、味方の密偵の出入りもあったろう。

 クラウはその者たちの殺気や動きを観察して、ひとつひとつ敵味方の判断をし、味方ならば見逃し、敵ならば処分していたのだ。

 そうした細かい判断は、人の名前や顔、身分などをしっかりと判別できる風神の使者役、奏者役であったクラウだからこそ、可能だったのだろう。

 ただそんな彼にもミスはあった。収穫祭の時に、屋敷内に入り込んだ間者に公爵家のメイドがひとり、拉致されそうになっている。

 しかしあの間者は、俺やクラウが屋敷に落ち着く以前から、国王派がすでに仕込んでいたのかもしれないが。

「人間たちの謀り事や騒動も面白いものだ」

 クラウは自身の言葉をついで、イシュルに薄く笑って見せた。

「だろうな……」

 そうなのだ。

 クラウからすれば、俺やミラがいて、ルフィッツオ兄弟やサロモンがいた公爵邸こそがまさしく、サーカスそのものに見えたに違いない。

「ではさらばだ、剣殿。ぜひまたわたしを呼んでほしい。召喚呪文にわたしの名を入れ込めば大丈夫だ。我らが風の剣のために、いつでもどこでも馳せ参じよう」

「あ、ああ。ありがとう」

 クラウもダメだ。名前が長すぎて憶えられない……。

「……」

 クラウは笑顔で最後にイシュルにかるく頷き、静かにその姿を消した。

 さようならクラウ。

 イシュルはしばらくの間クラウの消えた闇を見つめると、また街中の方にからだを向け、ゆっくりと右手を頭上に掲げた。

 目を瞑り、意識を飛ばして指先に世界を、時空を超えて流れるものに触れる。

 ……これに自分の意思、記憶、感覚、すべてを合わせてひとつにより合わせれば、それは風の剣となる。

 それらを可能にするのが風の魔法具の力、この指先に触れてくるものが神の力の源泉、そのものなのだ。

 この流れるものを認識できるようになったからといって、天上世界、精霊界を、冥府を、あるいは過去を、すべてを見渡し、理解できるようになったわけではない。

 だが、俺は神の力に触れることができるようになった。

 イシュルは右腕を下ろし、夜の曇り空に視線を漂わせた。

 あの時空を超えて流れるもの。それが神の力だと言うのなら……。 

  



 翌日、いよいよ聖都エストフォルを出立する日が来た。

 その日、公爵邸では明け方から出発準備が始められた。ミラは、イシュルの当初の予想に反し、衣類を主に、かなりの量の身の回りの品をフロンテーラに持って行こうとしていた。彼女に付き従う従者たちの分も含めると相当な量になった。

 ミラはフロンテーラに到着後、ペトラの世話になり、大公城内に起居することは考えていないようだった。街中に手頃な大きさの屋敷を借り、そこを本拠に大公城や、あるいはフロンテーラ以外の地に赴く時の、いわば策源地にしようと考えていた。

 それで彼女は、公爵家に出入りする商人の伝手を頼ってフロンテーラの幾つかの商家宛に紹介状を用意してもらい、あらかじめ早馬を飛ばし、前もって訪問の知らせも入れるなど各種手配を進めた。

 だがフロンテーラであれば、イシュルもただ一箇所だけだが、フロンテーラ商会に縁故があるし、リフィアはより多くの商家や地主、貴族などに知己があるだろう。

 イシュルもリフィアも、ミラの考えを知って声をかけたが、彼女は「わたくしにすべてまかせてくださいまし」と、ふたりの申し出を婉曲に断り、フロンテーラまでの旅の手配も含め、すべて彼女の方で済ませてしまった。

 陽が出たか、やっと明るくなってきた公爵邸の北門、門前の岸壁にはやや大きめの川船が接岸し、多数の木箱に巻かれた帆布や縄、麻袋などが運びこまれている。

 川船の大きさは全長が三十長歩(スカル、約二十m)ほど、船幅が六長歩ぐらい。なかなかの大きさである。船に運びこまれている荷物も相当な量だが、それらすべてがイシュルたちの荷物、というわけではない。

 ミラはシャルカにネリーとルシア、それに加えてこの前、国王派の影働きに拉致されたメイド見習いのサラ、それに公爵家騎士団からサラの兄だという十人隊長のルベルト、彼の配下の兵士三名をフロンテーラへの旅に同行させることにした。川船に次々と運びこまれる荷物は彼らの分も含まれていた。

 フロンテーラまでの旅程は、このままアニエーレ川を二日ほど北上し、ロバーノという、聖都からテオドールへ伸びる北エストフォル街道、通称“北街道”とアニエーレ川が再び合流する街まで川船で移動、ロバーノに到着後は荷馬や馬車を雇ってテオドール、ラディス王国との国境を越え、ラディス南部の城塞都市ノストールを経由しフロンテーラに到着、というものだった。

 イシュルとリフィアは、荷物を川船に運び込む船夫や騎士団兵らの邪魔にならぬよう、北門の脇、城壁すぐ手前の奥の方へ引っ込み、そこで船に乗るのを待っていた。

「しかし凄い量だな」

 イシュルが呆然と呟くように言うと、

「仕方がないさ。なんと言っても、オルスト聖王国は公爵家御息女さまの旅行だからな」

 リフィアがちらっと横目に、ミラの方を見て言った。

 ミラは先に船に乗り込み、ルシアたちと船上で何事か話している。

 ……おまえだって辺境伯家のお姫さまだろうに。

 イシュルも微かに皮肉な色を浮かべ、リフィアを横目に見た。

「ところでおまえ、なんでお付きの従者たちを先に帰しちゃったんだ? 他に荷物も持ってきていたろうに」

 バレーヌ広場でリフィアに再会した時、彼女のメイドたちは大きな荷物を持っていなかった。

 重要でない物は、宿泊先のどこかの宿にでも預けていたのだろう。

「それは……」

 イシュルの何気ない質問に、リフィアはしかし頬を染め、顔を俯かせ、意外な反応を示した。

 なんだ?

 なぜそんなに恥ずかしがってる。

「どうした? ……なんか言いづらそうにして」

 これは何かあるな。

 イシュルの顔に少し意地悪な笑みが浮かぶ。

「それは」

 リフィアが両手をぐっと握りしめる。

 ほう……。

「それは?」

 イシュルはなんとか悪い笑みを殺し、リフィアの肩に手を置いた。

「リフィア、言ってごらん? ミラと同じような理由かな? 公爵家とかに、あまりお世話になりたくなかったのかな」

 あの時点で、俺がディエラード公爵家に滞在していることはリフィアも知っていたろう。

「ち、違う……」

 リフィアが苦しそうな顔になって喘ぐ。

「それじゃあ──」

「い、イシュルと!」

 リフィアは顔を真っ赤にして、叫んだ。

「イシュルといっしょに、ふたりきりで旅ができると思ったんだ、フロンテーラまで……」

 しかしその後は、尻すぼみに声が小さくなっていった。

「あの時みたいに……」

 あの時? ふたりきりで旅?

 ……そうか。クシムでリフィアを助け、ゾーラ村へ向かった時のことか。

「おまえを助けた時のことか。ふふ」

 イシュルはリフィアから顔を逸らし、忍び笑いを漏らした。

 こいつ。可愛いところもあるじゃないか。

「こ、このっ……」

 ん?

「げっ」

 イシュルが何かの気配にリフィアの方へ顔を戻すと、彼女はぷるぷると全身を震わせていた。

「何を笑っている。わたしがどれだけ恥ずかしい思いをして……」

「あっ。やばい」

 リフィアは頬だけでない、眸も真っ赤に染めていた。

すぐ目の前を魔力の閃光が覆う。

 ……これは近すぎる。

 イシュルが覚悟を決めたその時。

「何をしているんですの。ふたりともそろそろ船に乗ってください」

 いつの間にやら、川船から戻ってきていたらしい。

 ミラが怒った顔で、イシュルたちの真正面に立っていた。


「ミラ〜」

「早く帰ってくるんだよ〜。ミラ〜」

 イシュルたちの乗る船は一本マストに縦帆、小さな横帆のついたスループと呼ばれるタイプだ。

 今日は曇りで風がなく、帆は畳まれている。船夫がひとり、艪(ろ)を漕いでいる。

 そのマスト越しに、ルフィッツオとロメオのいささか情けない声が聞こえてくる。

 対するミラも眸に涙をため、ハンカチを振っている。

 ……ハンカチを振る、ってのはこの世界でも同じなのか。それともミラも泣きそうだし、たまたまか。

「……」

 イシュルも、公爵邸の北門に見送りに出てきた人々に手を振り別れを惜しむと、やがて前を向き、アニエーレ川の両岸に折り重なって停泊する川船や、その奥に見え隠れする街並みの景色を見渡した。

 聖都周辺はアニエーレ川の中流域にあたり、川幅はかるく五百長歩(スカル、三百m以上)はある。

「おい、イシュル!」

 その時、リフィアがイシュルの黒革のコートの袖を掴んできた。

 イシュルが振り返ると、リフィアが公爵邸の上の方を指差す。

「!!」

 イシュルはリフィアの指差す方を見ると思わず息を飲んだ。

 公爵邸の北西角にある小城の城塔、その上に人影があった。

「あ、あいつら……」

 塔上に浮かぶ人影は四つ。

 黒いマントに魔法の杖を持つフレード、いやクート。そして黒の半ズボンに白いブラウスのピルサとピューリ、双子は手をつないでいる。その隣には長身の美女、ラベナが魔女の帽子をかぶり、木の杖を持って立っていた。ラベナの頭上にはほんのり薄く、彼女の契約精霊のロルカが浮かんでいる。

 彼らはイシュルとはじめて会った頃、聖石神授の頃と同じ服装をしていた。

「くっ……」

 イシュルは唇を噛みしめた。

 馬鹿野郎。キザな真似しやがって……。

 灰色に広がる空は何も言わない。

 あそこにもうひとり、エミリアが立っていたら。だったら良かったのに。

 イシュルは泣きそうになるのをぐっと堪えて、曇り空に浮かぶ彼らの姿を見た。

 クートも双子もラベナも、皆じっと動かず、その場に堂々と立っている。

 彼らはじっと、ただイシュルだけを見ていた。

 船上のリフィアも、今はミラも、ただ無言で彼らを見つめている。

 ……違う。違うのだ。

 彼らはなぜ、あの姿で搭上に立っているのか。

「わかってるさ」

 イシュルは表情を引き締め、彼らをじっと見つめ返した。

 あいつらは言ってるんだ。

 まだ戦いは続くぞと。

 俺に負けるな、気合を入れろと、そう言ってるんだ。

 ……ありがとう、クート。ピルサ、ピューリ。そしてラベナ。

 イシュルはわずかに表情を緩め、微かな笑みを口元に浮かべた。

 でもさよならは言わない。

 イシュルは右手をただ高く、まっすぐ空に向かって突き上げた。 

 

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