出立 2



 大聖堂にカルノ・バルリオレを訪ねた翌日。

 イヴェダ神の降臨を祝うとして、特別に二日間延長された今年の収穫祭が終わって二日後、当日午後になってイシュルは、今度は王城の方から呼び出しを受けた。

 実際には前日に聖王家から使者があり、サロモンとの謁見に関する下達があった。

 その日の午後早く、ディエラード公爵邸の門前には、六騎の騎馬からなる儀仗隊がついた真っ白の馬車が到着し、公爵家の一部家臣や使用人らに見送られ、イシュルたちは王城に向かった。

 馬車にはイシュルとミラ、付き添いとしてリフィアが乗り込み、シャルカとネリー、ルシアたちは別の、公爵家の馬車で向かった。

 ちなみに公爵邸前の広場の南半部は、先日の聖王家を代表するふたりの魔女の決闘で派手に破壊され、整地し敷石を敷き直す工事が続けられている。中央に立つ騎馬像もその周りに丸太が組み上げられ、修理がすすめられていた。

 儀仗隊とイシュルたちの乗り込んだ馬車は、その前に市中を回ってやって来た。馬車にはアデール聖堂の神殿長、シビル・ベークと先日に同神殿に帰っていたカトカが乗っていた。

 サロモンは収穫祭期間中に、聖堂教会から現国王である彼の腹違いの妹、ニッツアからの譲位を認める内示を受け、次期国王としての法的地位を確立した。

 サロモンは教会からの内示を受けると、聖王国内の貴族や領主たちへの論功、処罰に着手し、今日の午後はサロモンに協力した正義派の中からミラ・ディエラードと、同家の客人としてイシュル・ベルシュ、アデール聖堂の神殿長、シビル・ベークに対する褒賞が伝達されることになった。

 イシュルとミラに同行するリフィアや他の従者たちは、彼らがサロモンの謁見を受けている間、控えの間で待機することになる。

「今日は天気も良くて、本当に良かったわ」

「はい、本当に。外は雲ひとつない青空が広がって、とても清々しいですわ」

「……」

 車内には規則正しい馬蹄の音と車輪の回る音が響いてくる。最高級の馬車に王城外郭部で道がいいのか、不快な揺れや振動もほとんどない。

 シビルはいつもの神官服に片眼鏡。特におめかしはしていないが、満面の笑顔を浮かべとても嬉しそうだ。

 イシュルは無言で苦笑し、車窓に浮かぶ青空をちらっと見やると、向かいに座るシビルに声をかけた。

「シビルさんのところは総神官長より教会領を賜ったとか。良かったですね」

「ええ、そうなのよ〜」

 シビルが両手を胸の前に組み、顔を上気して答えた。

「今までは主に街の方々の寄付でやってきましたから。とてもありがたいことですわ」

 彼女の隣に座るカトカもにこにこしている。

「ふふ。これで長年の苦労もやっと報われるわ」

「まぁ、おほほほ」

 ミラが久しぶりに口許に手の甲を当てて、おほほ、とやった。

 イシュルはミラの高笑いよりも、シビルの「ふふ」が「ぐふっ」と聞こえ、笑顔を引きつらせた。

 今回の正義派の勝利で、聖堂教会でも関係者の論功行賞及び処罰が行われている。まず月神の神殿長だったヴァンドロ・エレトーレはじめ、国王派の大神官は全て失脚、強制的に引退させられ教会から放逐されることになり、次の月神の神殿長には早くも、現クレンベルの主神殿長、カルノ・バルリオレの就任が内定している。聖神官のデシオとピエルは、来年にも席の空いた大神官の地位に昇ると噂されていた。

 そして、白尖晶を使って正義派の勝利に影から貢献したシビル・ベークには、彼女が神殿長を務めるアデール聖堂に対し、ウルトゥーロから新たに神殿領が与えられた。

 それまで聖都の貴族や商人ら、篤志家からの寄付によって運営されてきたアデール聖堂も、これからは安定した収入が得られることになった。

「我が聖堂の行く末もこれで安泰……。これからは毎日、もう少し美味しい物が食べられるわね、カトカ」

 シビルは相変わらず、口調も上機嫌だ。

「……」

 安泰。美味しい食べ物。……それ、前にも似たようなこと言ってたな。

 つまり、彼女はあれか。安泰、すなわち美味しい食べ物。──それが彼女の拘り、彼女のいわば行動原理とでも呼べるんじゃないだろうか。

 彼女はその智謀で、俺の知らない裏の世界で白尖晶を使い、フレードとともに戦ってきたんじゃないのか? 影の世界の厳しい、容赦ない闘争を。

 アデール聖堂の女たちはふだん、そんなに粗食ばかりの辛い生活を送っているのだろうか。

「あら、いやだわ。おほほほ」

 シビルは表情を少し曇らせ無言で考えはじめたイシュルに、何を思ったか、気づいたか、ごまかすように笑って取り繕った。

「……」

 あら、いやだわ……って。

 イシュルがたまらず、つくり笑いを浮かべる。

「まぁ、おほほほ」

 ミラのごまかすような笑い。

 車内はなんとも言えない、変な空気になってしまった。

「……」

 イシュルの左側に座るリフィアが、顔を窓外に向け背中を細かく震わしている。

 彼女はシビルとかるく挨拶を交わすと、今までイシュルたちの話に加わろうとはしなかった。

 彼女の忍び笑いが、しっかり窓ガラスに映り込んでいる。

 リフィアのこっそり笑う顔は素朴で、妙にかわいかった。

 

 


 サロモンとの謁見は王宮北側の東奥にある、王城で最も大きい謁見室で行われた。

 薄い赤茶に色づいた大理石の床、高い天井に、上部でアーチを描く柱。玉座へ伸びる赤い絨毯。

 玉座の奥は明るい灰色の紗幕が左右から渡され、その裏に渋い赤茶の板張りがある。広間全体の造りはどこかちぐはぐで、聖王家や聖堂教会から受ける、白と金の組み合わさった豪奢な色彩の印象はどこにもない。

 ただ、室内は落ち着いた空気で満たされ、歴史ある大国の威厳のようなものはそこはかとなく感じられた。

 サロモンがゆったりと座る玉座の正面に跪くのはシビルとミラ、イシュルの三名のみ。その左右には、サロモンやルフレイドの派閥にごく僅かな正義派を加えた、貴族や宮廷魔導師らが並び立っていた。

 サロモンの斜め後ろには新たに聖王家侍従長となったビフォーが控え、その前、サロモンの左右を、ルフィッツオとアッジョ・サンデリーニが固めていた。

 現在、国王派の頭目のひとりであった内務卿のベルナール・リアードは、王宮の一室にて見張り付きで軟禁されており、彼の失脚は確実である。

 ダナの祖父にあたる外務卿のブリオネス公爵は中立派で留任は確実視されているものの、それもごく短期間で後任に席を譲ることになる、と見られていた。

 よって近い将来、内外務卿となり次代の聖王国を実質とり仕切っていくのがあのふたりで、つまりディエラードとサンデリーニの両公爵家が今後、聖王国でより権勢を増していくことになる。

 イシュルたちの左右に立つ貴族たちにはブリオネス公爵をはじめ、彼の孫娘であるダナや、サロモンの従者のマグダ・ペリーノ、まだ年若いベリンやセリオの姿もあった。

「ところでシビル殿はこの度、総神官長より教会領を賜ったとか。予からもひとつ、シビル殿に贈り物をしようかと思う」

 サロモンがにこやかな笑顔で、玉座からその前に跪くシビル・ベークに声をかける。

「アデール聖堂に近いところで、ほど良い広さの土地を手に入れてね。それを聖王家からアデール聖堂に贈ろう。シビル殿がその地にて孤児院を開設するのなら、予からも資金を出すとしよう」

「ありがとうございます、陛下」

 シビルが頭(こうべ)を深く下げる。

 イシュルもどこかでちらっと耳にしていたが、彼女がというべきか、アデール聖堂がと言った方がいいだろうか──は、以前から他に孤児院も経営することを希望していた。

 アデール聖堂は身寄りのない、あるいはラベナのような特殊な事情のある女たちを保護し、または女神官を育成する神殿だが、当然そこに身を寄せる女の中には子を持つ者もいる。その子供が男の場合は、適当な年齢になれば他の神殿なり孤児院なりに移らなければならなくなる。

 そのため母子が離れ離れにならないよう、アデール聖堂の代々の神殿長は孤児院の併設を希望していたのである。だが、当のアデール聖堂が経済的に苦しく、今までその願いが実現されることはなかった。

 ……サロモン側は前もってシビルの希望を聞いて、今回の褒賞となったのだろう。「何か望みはないか、申してみよ」というやつだ。

 サロモンに礼を言ったシビルの声も弾んでいる。

 イシュルはエミリア姉妹の夢が叶えられたような気がして、自身の胸を温かいものが流れるのを感じた。

 とは言っても、その空いた土地というのは国王派の貴族か商人から取り上げたものだろうが。

「……」

 しかし……。

 シビルはイシュルたちより前に出てサロモンに跪いている。

 イシュルが何気に顔を上げると、そのシビルの肩越しに、彼をじっと見つめる強い視線にぶつかった。

 サロモンと同じ明るい水色の、大きな眸。

 イシュルは思わず、再び頭を下げてその奇妙な視線から逃れた。謁見が始まってからずっと、彼女はひたすらイシュルだけを見つめ続けていた。

 いったい何なんだ……。

 これでは頭を上げられない。

 先ほどからイシュルを当惑させている少女がいる。彼女は玉座に座るサロモンの足にその小さなからだをもたれかけ、頭を乗せて顔を横にし、イシュルのほぼ真正面の位置から、じっと無言でその大きな眸を向けていた。

 この場でサロモンに纏わりつく、そんなことができる少女などこの世にひとりしかいない。彼の腹違いの妹で先の国王、女王であったニッツアしかいない。

 彼女はいま五、六歳くらいか、少女というよりまだ小さな子供だが、その子から漂う雰囲気が尋常ではない。

 ニッツアはサロモンと同じ明るい金髪に水色の眸、透き通るような白い肌、完璧な造形の人形のような顔貌で、そして表情が一切、何もなかった。

 ニッツアはその身の丈に合った可愛らしい、真っ白のドレスを着ている。髪と腰もとには大人っぽい濃紺のリボン、首筋には銀のネックレス。子供とは思えない、王族としての気品もしっかり醸し出している。

 子供らしい可愛らしさと、大人の王族の気品が同居している。それが人形のような無表情でじっとイシュルを見つめてくる。

 しかし、なんでこんなところに子供がいるんだ……。

「続いてラディス王国はベルシュ村の住人、イシュル・ベルシュでございます」

 と、侍従長のビフォーの声がイシュルの耳許に響いてきた。

「イシュル、やはり我が聖王家に仕える気はないか」

 イシュルが頭を下げてサロモンの前に進みでると、サロモンはからだを横に傾け、肘掛けの上に腕を置いて顎に手をやり、寛いだ姿勢になって言った。

「きみがわたしに仕えてくれるなら、きみのために新たに総軍監、の地位を設けよう。もちろん我が聖堂騎士団、諸侯軍だけではない、宮廷魔導師もきみの下に入ることになる」

 サロモンの言った“総軍監”という聞きなれぬ言葉に、周囲の貴族たちから小さなどよめきが上がる。

 総軍監? ……何だ? 参謀総長、みたいなものか。

 その言葉通りにとれば、常設される軍監の最高職、ということになるのだが。

 大陸諸国における軍監とは、一定規模の部隊や城塞に派遣される国王や領主の代理、目付けや軍師、一部指揮権も併せ持つ存在だ。

「畏れながら……」

 イシュルはそこから先は口にせず、だがはっきりとその気はないことを意思表示した。

 たとえ俺が風の魔法具を持っていようと、前王の陰謀を阻止した功労者であろうとも。

 新たに最高位の役職まで創設して迎えてくれる──それが常識ではありえない、破格の申し出であろうとも。

 これは武功を上げた者に爵位や領地を与え家臣として取り立てる、などというよくある話とは違う。サロモンは俺をいきなり、一国の軍を総攬するような位につけてやる、と言っているのだ。

 彼には総軍監となった俺を、それに不満を抱くかもしれない家臣や領主たちも、ともに御していく自信があるのだろう。

 だが、どんな位を、身分を与えられようが俺にとっては何の意味もないことだ。

 もう、高い地位や身分にはそれ相応の責任や義務があるから、自由でありたいから、と避けるだけがその理由ではなくなってしまった。

 どんな地位や身分を得ようと、神の魔法具を手にし、神々と話し、あるいは挑むことに何の役も立ちはしないのだ。

 俺に必要なもの。俺が必要とするもの。

 それが少しずつわかってきた、そんな気がする……。

「ふむ。きみが祖国の王家にも領主にもどこにも仕えない、というのは以前から聞いているが。……わたしの申し出を聞いた今でも、それは変わらない、ということかな?」

 謁見の間にさっと、緊張した空気が張りつめる。

 イシュルは顔をあげてサロモンの顔を見つめた。

 サロモンの眸の色はいつもと変わらないように見える。平静なように見える。

 ……ニッツアの視線などもう、どうでもいい。彼から視線を逸らしてはならない。

「……」

 サロモンの口許に微かな笑みが浮かぶ。

 彼の左手がニッツアの頭にそっと伸ばされ、彼女の髪をなぜはじめた。

「仕方ないか。イシュル・ベルシュ、そなたにはのちほど、別に褒美をとらせる」

「はっ。ありがとうございます」

 イシュルは能面のような無表情で頭を下げた。

 周りの空気が徐々に、弛緩していく。

 イシュルがそのまま後ろに下がろうとした時、ニッツアに伸ばされたサロモンの手が離された。

「!!」

 その瞬間、ニッツアは弾かれたようにすくっと立ち上がり、とことことイシュルの方へ近寄ってきた。

 イシュルが顔を上げると、すぐ傍にニッツアの顔がある。

 彼女はサロモンの方に顔を向けると微笑を浮かべて、──この場ではじめて子供らしい表情を見せて言った。

「おにいさま。わたし、この方が気に入りました」

 はっ!? 何を……。 

 謁見の間に途端に少し気まずげな、なんとも言えない空気が流れる。隣のミラがはっと顔を上げ、イシュルとニッツアの方を見てくる。

「わたしはニッツア。よろしくね、イシュル」

 彼女の微笑がイシュルに向けられる。

 あまりに可愛らしく、美し過ぎる幼い少女の、天使のような微笑みだ。

「……こちらこそよろしく。姫君」

 イシュルはなんとか笑みを浮かべて、ニッツアに答えた。

「うん。ね、イシュル。あとでいっしょに遊ぼ?」

 えっ。いや、ちょっと……。

「ふふ。ニッツア、こちらへおいで。イシュルを困らせてはだめだ」

 そこで周囲からやっと、「はははっ」とちらほらと抑えた笑い声が上がる。

「はーい。お兄さま」

 ニッツアがイシュルに背を向け、サロモンの許へ戻っていく。

 彼女はまたサロモンの足に纏わりつき、その足の上に顔を乗せるとイシュルを見、さっと頬を染めると恥ずかしそうに視線を逸らした。そして顔を俯けサロモンの足にうずめた。

 今までの無表情が嘘のような様変わりだった。

 多分彼女は思うがままに俺に声をかけ、周りの反応から突然、自分が何を言ったか気づいて、恥ずかしくなったのだろう。

 それ自体は彼女くらいの歳の、いかにも女の子らしい反応だったかもしれない。

 だが、それまでのニッツアの異様な視線は何だったのだろうか。この子はなぜそれほどまでに俺のことを集中して見ていたのか。

 ひょっとすると俺に何かを感じ、それをじっと観察し、正体を見極めようとしていたのではないだろうか。例えば風の魔法具の存在を……。

「……」

 イシュルは繕った笑みを崩さず、サロモンを見た。

 ……やはりそうなのか。

 サロモンの眸が笑っていた。

 少し悪戯な色を帯びて。



 

 サロモンとの謁見が終わるとイシュルたちは控えの間に戻ってきた。

 その部屋は控えの間とは言ってもかなり広く、天井も高く、この一室だけでちょっとした晩餐会も開けそうに思えた。

 室内はこれからサロモンとの謁見に臨む者、そしてその関係者たちで埋まっていた。

 今日の謁見はイシュルたちだけではなかった。サロモンにとって功のあった他の者たちも、今日がその日であったらしい。みな、誰もが豪華絢爛な衣装を身に纏い、品のある仕草で会話を楽しんでいる。

 今日のような日は、謁見の控えの間はいわばサロン、貴族たちの談話室に様変わりするのだろう。

 みなお喋りに夢中なのか、イシュルたちに目を向けてくる者はいない。サロモン王子派だった貴族やディエラード公爵家に近い者は、以前に公爵邸で開かれた晩餐会に出席しイシュルの外見も知っている筈だが、今、その者たちはこの場にほとんどいないようだ。

 間近にいる者が何人か、ミラに気づいてかるく目礼してくるだけだ。

 だがそのミラは彼らへの挨拶もそこそこに、イシュルの横でずっと何やらブツブツ呟いている。

「どういたしましょう。とても危険ですわ。ニッツアさま……」

 ニッツアは短期間とはいえ先の聖王国女王、そして新たに国王となったサロモンの妹だ。後々聖王家でも、重きをおく存在になるかもしれない。

 だが今はまだ、彼女は五、六歳の、何もわからない子どもでしかない。

「いや、ミラ、あの──」

 イシュルがその点を指摘するとミラは「いえ」と、かぶりを振って答えた。

「ニッツアさまはただ可愛らしいだけではありません。あのお歳なのに、才気煥発な方と聞き及んでおります。きっと将来、サロモンさまのような恐ろしい方になりますわ。油断がなりません」

 ミラがイシュルをじっと見つめていってくる。

「女というものは、生まれおちたその時から死ぬ瞬間まで、“女”なのですわ」

 ははっ。それはそうかも、だが……。

 イシュルが思わず苦笑を浮かべると、部屋の中央の方から、ミラの名を呼ぶ声が聞こえてきた。

「ミラお姉さま!」

 控えの間の人々の間から、ニッツアより少し大きな、七、八歳くらいの女の子がミラに向かって駆けてくる。薄桃色のドレスが華やかに舞う。

「リアム!」

 ミラがリアムと呼んだ子どもが、腰を落としたミラの胸に飛び込んだ。

「リアム……」

「ミラお姉さま……」

 ミラはリアムをしっかりと抱きしめた。ふたりの眸には涙が浮いている。

 リアム?

 イシュルがふと視線を感じて前を見ると、そこにリフィアと、リアムと言う名の少女の母親らしき婦人が立っていた。

 

「ほんとうにたまたまだった……いや、わたしのことをすでに知っていたのかな? あのご婦人から声をかけられてな。彼女はバルディ伯爵夫人、確かミラ殿のご友人だったセルダと言う方の母君だそうだ」

 リフィアが幾分声を落としてイシュルに言ってきた。

「そういえば……セルダには妹がいると言ってたな」

 イシュルは再会を喜び親しげに話している、ミラとリアム、バルディ伯爵夫人の方を見て言った。

 リフィアは以前にミラから聖石鉱山の一件も聞いている。

「今、ご当主のバルディ伯爵はサロモン殿下の命で、領地の屋敷で謹慎しているそうだ。伯爵夫人はあの子を連れて先に聖都に戻ってきたそうだ。今日はこれから内々に殿下と会って、伯爵の処遇について話を聞くことになっているらしい」

 バルディ伯爵の公金横領が、セルダが正義派を裏切る原因となったわけだが、彼女の父の伯爵はサロモン王子派で、自派の運動資金確保のためにその悪事に手を染めたのである。

「……そういうわけで、伯爵の蟄居は半年ほど、その後は王宮出仕を許される見込みだそうだ」

「そうか……」

 サロモンの勝利でバルディ伯爵も大きなお咎めはなし、結果的に救われたわけだが……。

 それでもビオナートに脅され、ひとり苦しみ命を落としたセルダはどうだろう。あまりに彼女が不憫だ。

 イシュルは複雑な視線をミラと伯爵夫人、リアムの方に向けた。

「あの親子の嬉しそうな姿……。大団円じゃないか」

 イシュルがリフィアを見やると、彼女はミラたちの方、いや、その先のどこか遠くを見つめて言った。

「でないと、死んでいった者たちの魂が報われん」

「……そうだな」

 リフィアも自らの過ちで多くの者の命を失っている。

 イシュルもリフィアの見る遠くの、何か見つめて頷いた。


 そのすぐ後、サロモンの侍従がやってきて、イシュルひとりだけが謁見の間の奥にある、聖王家専用の控え室に呼ばれた。

 イシュルが案内されたのはやや細長い、重厚な木板の壁と分厚い、今まで見たこともない複雑な文様の絨毯の敷かれた、静かな落ち着きのある部屋だった。

 東側に並ぶ窓からは、外からの柔らかい光がぼんやりと、室内を照らしている。

 その光の中に、ルフレイドがいた。

「イシュル殿」

 彼は片手にステッキを持ち、椅子を窓側に寄せひとり座ってイシュルを見ていた。

「……」

 イシュルはルフレイドに無言で頭を下げると、彼の右足に目を向けた。

 ルフレイドの足先には義足がつけられていた。

 確かジョン・シルバーは松葉杖だったか。ルフレイドの右足、膝下から伸びている鉄の棒はあの手の海賊船長の義足、そのままだった。

「先日やっと義足が出来上がってね。訓練すれば、なんとか一人で歩けるようになるそうだ」

「そうですか。それは良かった」

 だが、その訓練、とやらは相当大変だろう。確か義足の装着部の皮膚を相当厚く固くして、右足の筋力も含めかなり鍛えなければならない筈だ。

「かなり時間はかかるだろうが」

 ルフレイドが微笑を浮かべる。

 そのことは彼もわかっているようだ。

「ひとりで歩けるようになったら、わたしはソレールに行こうと思う」

 彼はその笑みのまま、ゆっくり静かに話した。

「ソレール……」

 イシュルは小さな声で呟いた。

 ソレールとはオルスト聖王国のやや南より、西端に位置する城塞都市の名だ。

 聖都の南側を流れるディレーブ川はそのまま南方に湾曲していき、途中から聖王国とアルサール大公国の国境線となっているのだが、ソレールはそのディレーブ川の東岸に面し、聖王国中南部の国境を守る拠点となっている。ラディス王国であれば、その南部を守るノストールのような位置づけになる。聖王家にとっては北部のテオドールよりも重要な要衝で、ソレールの街とその周辺は王領となっている。

 城主は代々聖王家の者か五公家の者が務め、聖堂騎士団の一部も分派されている。今は確か、五公家のパストーレ家の者が城主となっている筈である。

 ちなみに大陸中部から東部には特に、エリスタールやクレンベルなどと、「〜ル」で終わる地名が多い。これは今は失われた古代の神聖文字、古語で「〜の地」「〜の所」など、場所を表す言葉だとされている。

「兄上にはもう伝えてある。まだ色よい返事はしてくれないが」

「そうですか」

 ルフレイドはこれではっきり、自身は王位争いからは手を引く、諦めるとの意思表示をしたことになる。

「イシュル殿、そなたはどう思われる?」

 ルフレイドはその顔に浮かぶ微笑みを少し寂しげなものに変え、イシュルを見上げ言ってきた。

「わたしと兄上と、いったいどこでこのような結果が、運命が分かれ、定まることになったのか」

「……」

 いきなりの質問にイシュルが言葉を失うと、ルフレイドは視線を窓の外にやって少し間をおき、続けて言った。

「兄は昔から頭の回転が早い。軍事にも政(まつりごと)にも優れた才を持っている。だが兄は人に対する好悪が激しく、彼が王になれば王国の人心を惑わす怖れもあった。わたしはそう考えていた」

 ルフレイドは顔を外に向けたままだ。

「兄に比べ全てに劣るわたしだが、ただ一点、その事だけは自信があった。わたしが王になった方が国内の人心は安定するだろう、そう考えていた」

 イシュルは無言でルフレイドの横顔を見つめた。

 確かに国内の貴族や領主たちの人望において、彼はサロモンに負けていなかった。

「わたしが兄に敗れたのはまず、イシュル殿」

 そこでルフレイドは再びイシュルの顔を見上げてきた。

「兄がわたしより先にそなたに会ったからだ。父の命で第三騎士団がディエラード公爵邸を囲んだ時、兄はわたしを出し抜き、父の罠をやり過ごすと誰も思いつかぬ行動に出た」

 ルフレイドの笑みに皮肉な色が浮かぶ。

「兄はそなたと結びつき、同盟者となって“玉”を手にしたのだ」

 そして彼は笑みを消すと厳しい顔つきになった。

「イシュル殿は聖都において、ただ各派の攻防の鍵となっただけではない。聖王国の運命はイシュル殿を中心に回転しはじめたのだ。兄は最後に、その渦の一部をすくい取ったにすぎない。だが兄上はイシュル殿のことも自らのこともすべて見通し、わかってそれをやったのだ」

 ルフレイドはそこで両目を閉じて嘆息した。

「兄がディエラード公爵邸に向かった後、イシュル殿は白路宮に来てわたしに王城を出るように勧めてくれたね?」

「はい」

 あの時に、ふたりの運命は決まったのだろうか。

「……だが、わたしはあの時のことを後悔してはいない。すべては自ら決めたことなのだ」

 再び見開かれた、ルフレイドの眸に浮かぶ強い色。

 このひとはまさか、俺に「間違えてもいい、だが自ら決めたことに後悔だけはするな」と、言ってくれているのだろうか。

 だとしたら、俺にとってこれほど身につまされる言葉はない。

「わたしが兄に敗れた、いや諦めた理由がもうひとつある。それはなんということはない」

 ルフレイドは最後に何色にも染まっていない、素の笑顔になって言った。

「兄上の愛情さ。わたしたちは王家の生まれだからな。肉親の情に触れたのは久しぶりだった。まだ幼い子どもの頃以来のことだ。きっと兄上と王位をめぐって真剣にぶつかったからだろう、出なければ思い出しもしなかったろう。誰もが持っている筈の当たり前の記憶に。そのことに」

 彼の笑顔に外光が当たる。

「……」

 イシュルも笑顔になって頷いた。


「何を話していたんだ?」

 そのすぐ後、サロモンが侍従長のビフォーを連れて部屋の中に入ってきた。

「いろいろ考えたんだが、やはり先立つものが一番かな、と思ってね」

 サロモンはふたりの答えを待たずにビフォーに命じ、イシュルへの褒賞を渡してきた。

「ベルシュさま、こちらでございます」

 ビフォーの捧げ持つ白いサテン地の布で覆われたトレイには、濃い赤色の小さな皮袋が載っている。

 何となく既視感を誘う絵柄だ。フロンテーラを出発する時、ペトラが似たようなことをやってきた……。

「ありがとうございます。陛下」

 皮袋を手にすると、中身の感触にイシュルは微かに眉をひそめた。

 石、……か? 金貨などの貨幣ではない。

 いや。それよりも何か、感じる……。

 イシュルは顔をあげてサロモンを見た。

「かまわない。中を見てくれたまえ」

 サロモンは笑顔で言ってくる。

 サロモンは謁見の間では真紅のガウン、金銀宝石で過剰な装飾のなされた、いかにもな王笏(おうしゃく)を持っていたが、今は上は白いシャツ、下は紺色のズボンと、ラフな格好をしている。

 国王となってもプライベートでの彼の口調は以前のまま、何も変わらない。

「これは……」

 イシュルは小袋を開けて小さな驚きの声を開けた。

 中には尖晶石、翡翠、黄玉(トパーズ)、紅玉(ルビー)、蒼玉(サファイア)石や琥珀など、大小の宝石の中にひとつ、薄っすらと魔力のようなものを感じる小さな虹色石(オパール)があった。

 イシュルはその虹色石を手に取った。

「!!」

 その石に触った瞬間、イシュルにはそれが何の魔法具、いや今は魔法石といったらいいのか──が、すぐにわかった。心の外側、感覚の向こうに球体の薄い殻のようなものが一瞬現れ、すーっと消えていく。

「これは命の魔法具……」

 母がしていた指輪と同じものだ。

「そうだ。それは身代わりの魔法具。きみが死に瀕した時、一度だけ身代わりとなってきみの命を救ってくれる」

 サロモンは控えめな微笑を浮かべて言った。

「指輪か首飾りにでもして、身につけておくといい。聖都には魔法具を扱う職人もいる」

「あ、ありがとうございます」

 イシュルは半ば上の空でサロモンに礼を言った。

 ベルシュ村を出る時、イシュルに持っていなさいと差し出してきた母、ルーシの姿が脳裏に浮かぶ。

「それだけの石があればこれから先、旅先で金に困ることもないだろう」

「……」

 イシュルは無言で頭を下げた。

 母がつけていた虹色石、ウルトゥーロからカルノにと預かった光の魔法具、虹色石の首飾り……。虹色石はイシュルにとって、特別な石なのかもしれなかった。

「ミラにも言った通り、きみもいつか必ず聖都に戻ってくるんだ。その時はぜひ話を聞かせて欲しい。きみの冒険の話を」

 サロモンが渡してきた身代わりの石、虹色石は俺に対する心づかいなのだ。

 必ず生きて帰れと。

 俺の故郷はラディス王国の今は王領、ベルシュ村だ。だがミラもともに生き残れたなら、彼女を送りとどけるために、エストフォルに立ち寄ることもあるかもしれない。

 その時、俺とミラがどんな関係になっているか、それはまだわからないが……。

 神々と会い、俺の身に降りかかったこと、月神の動きや神の魔法具のこと、それらすべてのことを知ることができれば、もしその後も命があったなら、もう彼女たちの愛を拒む理由はなくなる。自分の気持ちを抑える必要もなくなるのだ。

 謁見の場でサロモンがミラに与えた褒賞とは、ディエラード公爵家息女の身分のまま、自由に聖王国を出入りし、大陸中のすべての国々に入国しても構わない、というものだった。

 それはどの国、どこにいようと、聖王国の力の及ぶ限りミラに五公家の身分を保障し、保護する、ということでもある。

 ある意味非常に大きな褒賞だとも言えるが、それは後々、ミラの行動を縛ることになるかもしれなかった。そしてサロモンはミラにひとつ条件をつけてきた。それはいつか必ず聖都に帰り、聖王家に彼女の旅の報告をせよ、というものだった。

「待っているぞ、イシュル」

「わたしもだ。そなたの無事を祈っている」

 サロモンがイシュルの肩を掴み、ルフレイドがイシュルの手をとって言った。

 ラディス王国も、聖王国も何とかして俺を取り込もうとしてくる。それは彼らからすれば当然なことだろう。

 サロモンがニッツアを使ってきたのも、彼女に会わせたのも、その意図が奈辺にあるのかはっきりとしないが、将来聖王家で重きをおく存在になるかもしれない彼女に、俺のことを印象づけておくのが彼の目的だったのではないか。

 あの子が俺に異様な関心を示したのも、俺が風の魔法具を持っていたからかもしれない。ニッツアも何かの魔法具を持たされていれば、その魔法具如何では、俺の魔法具を特別なものだと感じとることができたかもしれない……。

 だが、サロモンの考えていることはそれだけではなかった。

 サロモンはイシュルの肩を掴む手に力を込め、ルフレイドを見て笑みを浮かべ、イシュルに再び視線を向けて言った。

「我々はきみの友だちなのだから」




「あの、ミラ。これから魔法具屋に寄りたいんだが。いいかな?」

「いいですわ」

 サロモンの謁見後、イシュルがミラに魔法具屋に行きたいと言うと、彼女は一瞬間を置き考える風を見せたが、すぐ笑顔になって快諾した。

 礼儀上、もしくは慣習としてはそのまま王家の用意した馬車に乗り、下城すべきであることはイシュルにもわかる。

 だが、彼にはどうしてもあの魔法具屋の老婆に会って、確認したいことがあった。

 イシュルとミラ、リフィアの三人はシビルに断りを入れ先に帰ってもらい、ネリーら従者たちも同様に先に屋敷に帰した。

 ミラはシャルカも先に帰らせた。

 イシュルの「なぜ?」との問いに、ミラは「魔法具屋の主人が嫌がるから」と答えた。

 イシュルたちは王宮の正面ホールから建物の西側に出ると、北側から東へ回り込んで月神の塔、別名魔導師の塔に向かった。

 王宮の北側を東へ伸びる道はまず右側に太陽神の塔、後宮と続き、下草と木々のバランスが見た目に美しい庭園のような場所を挟み、続いてメイドなど使用人の宿舎や大小の倉庫などが並んでいる。その辺りまで来ると、左側に白路宮、続いて白磁宮とその瀟洒な姿を現わすのだが、白路宮はルフレイド救出時の戦闘で全壊し、今は基礎部分など建物の石造りの一部が残るだけであった。瓦礫などはすでに片付けられていた。

 イシュルたちの歩く石畳の道もこの辺りまで来るとその色が変わり、真新しいものに変わっている。道端には未だところどころ木材や巻かれた縄の束などが置かれ、黒っぽい表土が露出していた。

 奥に見える白磁宮には一部丸太で足場が組まれ、職人が数人登って作業しているのが見える。

 先の戦闘で被害を免れた木々、銀杏や楓、橡(クヌギ)などの葉はまだほとんどが青々としていて、紅葉の時期はまだ、もう少し先のようだ。

 今は白路宮もなくなってしまい、林檎の花の咲く季節でもない。

 だが白路宮の住人だったふたりの兄弟はどちらも生きながらえ、互いに和解することができた。

 確かに“歓喜”はあったのだ。

 イシュルは心の中で赤毛の少女に頭(こうべ)を垂れて、敬意を表した。

東に真っすぐ伸びる石畳の道は相変わらず、イシュルたち以外に王宮の役人や使用人などの姿をたまに見かけるだけで、ほとんど人気がなかった。

 三人の歩く靴音が妙に響く。陽は西にだいぶ傾いているが、まだ空は明るい。

 闘争の消えた王城は静かだった。

「チェリアはごく一部の魔導師と、特に精霊が店に立ち入ることを嫌がるのです」

 ミラがイシュルの質問に、より詳しく説明してくれる。

 チェリアとはどうやら、魔法具屋のあの女主人の名前だろう。

「なるほど……」

 イシュルは顎に手をやり顔を俯けた。

 あの老婆、チェリアが嫌がるのは、単純に考えれば迷いの魔法が効かない、破ることのできる魔導師や精霊、ということになるのだろう。特に精霊は迷いの魔法に対する耐性が強いのではないか。何となくそんな気がする。

 だが、本当はそれよりも彼女には知られなくない、守らなければならないものが他にあるのではないか。取り扱う魔法具よりも大切なものが……。

 俺はそれが知りたいのだ。その答えを。

「リフィアはフロンテーラの魔法具屋に行ったこと、あるか?」

 イシュルはミラの反対側、イシュルの左側を歩くリフィアに質問した。

 彼女は先ほどから王城内の建物など、周りをちらちら見ている。彼女にとって城内のこの辺りまで来るのは初めての筈だ。

「ん? いや、ないな。アルヴァには魔法具屋はないし」

「そうか……」

 もしリフィアがフロンテーラの魔法具屋に行っていたなら、チェリアの背後にあった正体不明の空間、あの暗闇に何を感じたか、それとも何も感じず気にもとめなかったか、確認できるのだが。

 あの時はマーヤも一緒だったが、彼女は特段気にしている風はなかった。マーヤはあの店に何度も顔を出しているだろうし……いや、ひょっとすると彼女は以前から、あの“闇”のことを知っていたのではないか。

 あの時、彼女に聞いてみるべきだったか。

 でも、それは今となっては後の祭りだ。老婆の背後に感じた“闇”のことは触れない方がいいと考え、それで追求するのをやめたのは他ならぬ俺自身だ。

「イシュルさまはご存知でしょう?」

 リフィアの反対側、イシュルの右側を歩くミラが言ってきた。

「多くの魔法具はお金で買えるようなものではありません。大抵は魔法具どうしの交換になります。お金が動くとしたらチェリアの方で買い取る時、くらいですわ」

「ああ」

 そのことは知っている。

「わたしたち貴族や領主、古い家の者は代々その家の持つ魔法具を受け継いでいきます。そう簡単に手に入るものではありませんし、普段あまり魔法具屋に出入りすることはないのです。ただ、魔法具屋は薬や薬草、希少な魔物の部位なども扱いますから、薬づくりをしている魔導師はよく出入りしていると思います」

「ミラも魔法具屋にはあまり顔を出さない、ということか」

「そうですわ」

 ミラはいつものごとく、輝くような微笑を浮かべて頷く。

 つまりミラは、今まで魔法具屋に行ったことがない、というリフィアのことを別におかしなことではない、と言っているわけだ。

「イシュルは魔法具屋に何の用事があるんだ?」

 と、今度は左側から、リフィアが聞いてくる。

「ああ。まずはこれかな」

 イシュルは懐から、サロモンから褒賞としてもらった宝石の入った皮袋を取り出した。

 中から身代わりの石、虹色石(オパール)を取り出す。

「……」

 イシュルが自身の胸の前で石を見せると、リフィアとミラがぬうっと顔を寄せてきて、左右から虹色石をじーっと見つめる。

「ふむ、……これは魔法具だな」

「これは、……魔法具ですわね」

 リフィアとミラがそのまま、同時にイシュルに顔を向けてきた。

「……」

 ふたりの顔が下から舐めるようにして、イシュルのすぐ目の前にある。

「あ、ああ」

 イシュルは思わず仰け反って、こくこくと頷いた。

「ちょっとさわってもいいかな」

 虹色石をつまんでいるイシュルの指先にリフィアが自身の指先を絡めてくる。

「ふむ、……これは身代わりの魔法具だ」

 妙に時間をかけて、その間ずっとイシュルの指に絡めたままだ──リフィアが重々しく頷き言った。

「確かに、これは身代わりの魔法具ですわね」

 リフィアが手を離すと、ミラも張り合うようにしてイシュルの指先に触れ、リフィアと全く同じことを言った。

 うーむ。きみたち……。

「それで、この石を首飾りにでもしてもらおうと思ってね」

 イシュルはふたりの勢いにやや引きつった笑みを浮かべて言った。

 魔法具屋であれば魔法具に新たな装飾をつけたり、あるいは付け替えたりなど、それくらいは当然請け負っているだろう。

「そうですか……」

 ミラが言い淀む。

 ん? なんだろう。サロモンが言っていた、聖都には魔法具を扱う職人もいる、ってやつだろうか。ミラは他にも魔法具の修理をやってくれる店があると──。

「イシュルは指輪、三つもしているものな。だから次は首飾りにするんだ?」

 リフィアがイシュルの手許を見て言ってきた。

「ああ」

「どんな魔法具かは、教えてくれないよな。触っただけではわからないものも多いし……」

 リフィアは思わせぶりにイシュルから視線を逸らし、声を落として言った。

 命の指輪はおそらくその能力の単純さから、触っただけでわかるのだろう。

 魔法具を見る、触る、身につける、実際に使う、その魔力を感じとる……、どこからそれが魔法具だとわかるか、どこから“自分の魔法具”として使えるようになるかは、その魔法具の種類や、使う側の相性や能力などで変わってくるので、明確な基準があるわけではない。

 魔法具の中には、“自分の魔法具”とするために自身で身につけ、さらに呪文を唱える必要のあるもの、ある特定の血脈を条件として肉体と一体化するものもある。

 俺は風の魔法具を持っているからか、魔力や魔法具に対する感知能力にも優れていて、それを見ただけで魔法具だとわかる場合も多々ある。

 魔法具を見ただけで、あるいは触っただけでわかるか、実際に身につけなければわからないか、などの問題は、魔法具が装身具、宝飾品である場合が多いことを考えると、魔法具の形態とも密接な関わりがある、と言えそうである。

 リフィアとは、そしてミラとも手を握ったことはあるが、リフィアは指輪はしていないし、ミラが時々はめている指輪はおそらく毒味の魔法具である。

 リフィアとは以前、クシムの山頂で彼女を助けた後、谷を渡る途中で彼女がいきなり目覚め暴れて、空中で落としてしまった時、あの時に彼女の手をしっかり握っている。

 リフィアは触っただけでは俺のしている指輪がどんな魔法具か、そこまではわからなかった、ということになる。

「リフィアさん、それはそんな気安く、聞いて良いことではありませんわ」

 リフィアの俺への質問に対し、ミラがそんなことご存知でしょう、といった感じで彼女を嗜めるように言う。

 以前、ミラとはサロモンからもらった毒味の指輪や、ベルシュ家の指輪の件で話をしたことがある。その時には早見の指輪のことは話したが、ベルシュ家の指輪に関しては、それが何の魔法具かまでは話していない。ミラは真面目と言ったらいいのか、俺に対して義理立てしているのか、今はその時のことを一切、表に出してこない。

「でも、知っておきたいんだ。……イシュルを守りたいから」

 視線を逸らしていたリフィアがイシュルに、思いつめたような顔をして言った。

「!!」

 はっ? なにっ!?

 イシュルは思わず飛び上がりそうになった。

 こ、こいつ。白昼から堂々と、何んてこと言いやがる……。

「リフィアさん! ず、ずるいですわ! わたしもです、わたしもイシュルさまをお守りしたいのですわ!」

 仰天したのはイシュルだけではなかった。ミラも必死になって、イシュルに縋りつくようにして言ってくる。 

「お、おう。……ありがとう、ミラも」

 目の前に半泣きのミラ。後ろでリフィアがにこにこしている。決して嫌味な感じではないが、彼女の顔からは「わざとです」といった感じの表情も見え隠れする。

 イシュルはミラの肩を叩き、うんうんと何度も頷いてみせた。

 悪戯したリフィアは放っておく。

「と、ところでさ」

 く、空気を変えよう。……話をそらそう。

「きみらはどうなんだ? やっぱり毒味の魔法具とかは持ってるよな、当然。で、他に何か……」

「もちろん」

「もちろんですわ」

 リフィアが右手を上げて髪をかきあげる。

 流れるようなラインを描く首筋に、形の良い耳。銀製の小さなイヤリングがひとつ、光っている。

「わたしは身代わりの耳飾りをつけている。左右で二回分、死から免れると言われている」

「……」

 リフィアは二重型? の命の魔法具を持っていた。

 しかし、だ。なんて美しいんだ……。

「あら。奇遇ですわね。わたしもですわ」

 ミラも左手で豪奢な巻き髪をかき上げ首筋を、いや、耳飾りを見せてくる。

 彼女の命の魔法具は金のリングに黒曜石だろうか、黒い石が吊るされた大人っぽい感じのものだ。

 あぶない。……ミラの首筋の美しさに、思わず吸いこまれそうになる。

 イシュルの前で、ふたり揃って髪をかき上げポーズを決める少女たち。

 そこにはもう、清楚な美しさだけでない、大人の女の色気も醸し出されていた。

 ふたりの流し目がつらい。……目に毒すぎる。

 いったいどこのモデルだよ。それとも女優か?

「……」

 イシュルは困惑して、その場に呆然と固まった。  




 王城の迎賓館である白磁宮を通り過ぎると、道の両側に地面が掘り起こされ陥没し、木々が倒れ大小の岩が散乱する、未だ修復の終わっていない区画に入った。

「周りに散らばっている岩は、ルフレイドさまを救出する時にイシュルさまが倒したゴデルリエの土龍のものですわね」

 ミラが周りを見渡しながら言った。

「ゴデルリエの土龍? どこかで聞いたことがあるな」

 とリフィア。

「ドロイテ・シェラールに殺された宮廷魔導師長の契約精霊の名だ。まぁ通称だな。ふたつ名ってやつだ」

「あの時の……」

 リフィアが言ってるのは、彼女が王城西側の城壁前で聖堂騎士団相手に暴れていた時、ドロイテが水の大魔法を放った時のことだろう。

「ゴデルリエの土龍は、巨岩が寄せ集まってできた剛力の土の龍精。イシュルさまはそれを瞬きする間もなく、あっという間に葬ってしまったのですわ」

「ほう……。この辺りの修復が後回しになってるのは、大きな岩を片付けるのが大変だからかな?」

 リフィアもミラの視線を追いかけるように辺りを見回す。

 リフィアにはルフレイド救出のことも大まかに話してある。

「土の魔導師が足りてないんだろう。大きな岩は砕いてしまえば運ぶのは簡単だ。城内地下通路破壊に、ルフレイド殿下救出の戦闘、それにドロイテの大魔法だからな。城内の修復も大変だろう」

 イシュルは彼女たちより遠く、なぎ倒された木々や岩の散らばるその向こうに聳え立つ、複数の城塔の方を見やった。

 手前の右手に見えるのは目指す月神、魔導師の塔だろう。ドロイテの幽閉されていた荒神の塔はここからでもまだ遠く、霞んで見える。

「でも短気を起こして王城を丸ごと破壊、なんてしなくてよかった……」

 クレンベルから聖都の公爵邸に到着するまで、ビオナートによる妨害工作が連続して行われたのだ。

 あの間、俺はいつも苛立ち、焦っていた。特に聖堂第三騎士団によるディエラード公爵邸包囲は決定的だった。

 もしそれをやっていたら。

 ルフレイドもサロモンも、ドロイテとも出会うことなく、みな死んでしまったろう。 ミラの兄、ルフィッツオも。

 そして今日はじめて対面したあの女の子、ニッツアも。

 今向かっている魔法具屋も消えてしまっていたろう。

「俺が魔法具屋に行きたいと言ったのは他にもうひとつ、目的があるんだ。ちょっと確かめたいことがある」

 あの老婆の背後に澱む正体不明の闇……。

「それは?」

「それはなんでしょうか」

 リフィアとミラ、ふたりが口を揃えて聞いてくる。

「そのことは魔法具屋の老婆に会ってから話そう」

 イシュルは視線をそのまま、遠く城塔の影を追いながら小さな声で、呟くように言った。


 月神の塔、通称魔道師の塔は古く厳めしい石積みの城館から大きく高く、ただひとつ、まるで工場の煙突のようにして聳え立っていた。

 館も塔も暗い灰色で無骨な外観だが、外壁は夥しい蔦で覆われていて、まったく趣きが感じられないわけではない。冬になり葉が落ちればかなり不気味な絵柄になるかもしれないが、今はまだ葉の色も青々しさを残し見目は悪くない。

「この館が宮廷魔道師の城内詰め所ですの。魔道師長の執務部屋や魔道師専用の談話室(サロン)、書庫、組合の事務室もありますわ」

「書庫!」

 魔道師専用の書庫か。それは凄そうだ。

 思わず小さな叫び声をあげたイシュルに、ミラとリフィアが苦笑して顔を見合す。

「イシュルさま。聖王家に仕え、組合に入っていただかねば閲覧はできませんわ」

 ミラは苦笑をそのまま、イシュルに向けて言った。

 そしてふいに笑みを消して真面目な顔になった。

「イシュルさまはもう、風魔法の深淵を覗かれたでしょう? 今のイシュルさまに組合の書庫など、必要ありませんわ」

「……」

 そうだろうか。

 他の系統の神の魔法具を手に入れたなら、また新たな知識を得る必要が出てくるだろう。

 それともミラは、どんな魔法も究極はみな同じ、変わらない、というようなことを言っているのだろうか。確かにそれは魔法、というより神の業というべきもので、風だろうと火だろうと水だろうと、変わりはないのかもしれないが……。

 イシュルはミラから視線をはずし、魔道師の塔を見上げた。

 暗い灰色の塔のシルエットが、澄みきった青空に浮き出て見えた。

 城館正面、塔の真下にある観音開きの鉄扉を開けると中は小さなホールになっていて、奥の扉の両脇には衛兵が立っていた。

 その手前、ホールの左右には上に昇る階段があり、見上げると二階の踊り場が見える。

 内部は建物の外側と同じ、無骨な石積みがそのまま露出している。階段は同じ石積み、踊り場は木造となっている。

 二階の踊り場に上ると椅子が数脚並べられ、小さなロビーになっている。人の姿はない。

「お味方の魔導師たちは今は城の修復、逃亡した敵方魔導師の捜索などに追われているのでしょう。中立の者、派閥争いを嫌った者はまだ自領に引き籠ったままでいるのでしょう。次の魔導師長も決まっておりませんし」

 ミラは魔導師の姿が見えないのはそのせいだろう、と言った。

 塔の三階に上ると、そこが魔法具屋になっていた。年季の入った濃い赤茶の木板の床、奥に同じ木材のカウンターがあった。

 その奥はフロンテーラの店と同じように、天井から赤地に金の房のついた幕が垂れ下がっている。奥にはあの暗闇。多分、薄っすらと弱い迷いの魔法がかかっている。

 店主の老婆はいなかった。

 そして店主が不在であるからか、カウンターの左右にはここにも衛兵が立っていた。

「いないな」

 イシュルが呟くように言うと、ミラが詳しく説明してくれた。

「チェリアはひとりで店を切り盛りしているようで、不在の時はよくあります。数日留守にしている時もあります。急ぎの時はあの呼び鈴を鳴らすのですが、本人はどこにいるのか、すぐに姿を見せることはほとんどないようです」

 ミラはカウンターの上に置かれた、木製の柄のついたハンドベルと、その傍に置かれた羽ペンや数枚の紙切れを指して言った。

「みなさん、紙に薬草など所望の品といつ頃取りに来るとか、相談したいことがあるからいついつに店にいてくれとか、書かれていくことが多いですわね」

「そうか」

「イシュルさまも伝言を書いていかれますか?」

「いや」

 イシュルは視線を店の奥にやりながら小さな声で答えた。

 本人がいないのならいい。今目の前に見える闇の感じに怪しさはほとんど感じない。奥には暗い部屋があるだけだ。

 風の魔力の感知も普通に通る。中にはおそらくあの夜、街で出くわした屋台の店らしきものが丸ごと一式、大小の木箱や棚や机などがある。それがわかる。

「店の奥はゆるい迷いの魔法がかかっているな」

 塔の中の狭い範囲だし、魔力も弱いし、おそらく近づいても気分が悪くなったりするくらいで、近づく者を惑わすことはできないだろう。

「この店の迷いの魔法具はどんな物かな。魔法陣だろうか」

「威力をここまで弱く調節できる、強力な魔力を使わなくとも長時間効力を発揮できる、となると魔法陣より香炉や水壺などになるな」

 今度はリフィアが説明してくれた。

 なるほど香炉に水壺か。香炉には特殊な香木や灰に火を入れ、水壺には薬液などを入れてそれに魔法をかける形か。「迷い」だから基本無系統、精霊神の魔法具でも同種のものがあるかもしれない。なんといっても「騙し」要素のある魔法なのだ。

 空間、空気に作用するものなら、風系統でもやはり同様の魔法具はあるかもしれない。

 おそらく中に入れる香木や灰、薬液の種類や量で、効力や持続時間を調節できるのだろう。

「イシュルさま、どうしましょう。チェリアに伝言を残しておきますか? まだ出立までは時間もありますし……」

 ミラが再度確認してくる。

 彼女はすでに、イシュルがこの魔法具屋に対し、何か特別な関心を持っていることを察しているようだ。 

「いや。やめておこう」

 命の魔法具を首飾りにしてもらうのは、ミラの伝手で専門の飾り職人を手配してもらえばいいし、あの正体不明の闇に関しては急ぐ必要はない。フロンテーラの魔法具屋でも確認はできる。

 それより、呼ばれてもいないのに王城を出入りするのは、これからは控えた方がいいだろう。

 とりあえず、店の奥の方を見せてもらおうか……。

「!!」

 イシュルがカウンターを超えて店の奥に進もうとすると、彼の目の前に衛兵の手に持つハルバートが下された。

 イシュルの視線が、衛兵の兜のスリットから覗く無表情な視線とかち合う。

「奥に立ち入るのは禁じられています」

 衛兵は抑揚のない声で言った。


 

 

「国王派の者どもを処分するのに手間取ってな。遅くなった」

 場所は紫尖晶聖堂のいつもの地下室、フレードが酷薄な笑みを浮かべて言ってきた。

 彼の話はつまり、紫尖晶内部の国王派、国王派に加担していた者を粛清していた、ということだろう。

 ……相変わらず生臭い話だ。

 イシュルは歪んだ笑みを浮かべただけで、何も言わなかった。

イシュルたちが王宮でサロモンによる論功行賞を受けた翌日、大聖堂から使者があり、聖冠の儀でイヴェダ神が降臨した件に関する審問会が、十日後に開かれることが知らされた。

 イシュルはデシオに手紙を書き、マレフィオアを見つけ滅ぼし、もう片方の紅玉石を手に入れ地神の魔法具を得たら、いの一番に大聖堂に知らせること、おそらく来年の感謝祭に行われるであろう聖冠の儀において、カルノが次期総神官長に就任する際には、大陸のどこにいても風の魔法具を持つ者として祝状を出すことを条件に、審問会早期終了や関係する種々の手続きの簡素化を依頼した。ミラには聖冠の儀の翌日から、なるべく早く聖都を発てるよう、教会に対する工作をお願いしていた。

 審問会までの十日間、ミラはまず公爵家の懇意にしている、魔法具も扱う飾り職人を屋敷に呼び、イシュルの持つ身代わりの魔法具を首飾りに仕立てるよう発注すると、今度は仕立屋を呼んでリフィアの衣服を幾つかあつらえた。そして満を持して、フロンテーラに出発する準備に取りかかった。イシュルはその間、ミラの出発準備を手伝いながら、聖都で共に国王派と戦った知り合いに会い、いわば挨拶回りをしていた。

 今晩はフレードに別れの挨拶をしに、紫尖晶聖堂を訪れたのだった。

「……貴公にはいろいろ迷惑をかけた」

 フレードは珍しく神妙な顔をすると、イシュルにかるく頭を下げてきた。

 聖都に着いてからはそれはお互いさまだ。彼が頭を下げてきたのは聖石神授の件でだろう。

「聖王家も、来年は大聖堂も代替わりする」

 フレードは薄っすらと笑みを浮かべると言った。

「この機会にわたしも紫尖晶の長(おさ)を辞めることにした」

「そうか」

 この男もいい歳だ。それも悪くないだろう。

 イシュルが特に表情も変えずかるく頷くと、フレードは意外なことを言ってきた。

「影働きからも完全に足を洗って、引退するまで一神官としてやっていくことにしたのだ」

 フレードの顔に、今まで見たことのない微笑みが現れた。

「大聖堂に願い出てな。来年の春に、エリスタールの主神殿の神殿長に赴任することになった」

「!!」

 イシュルはびっくりして、口をあんぐり開けてフレードの顔を見やった。

「これで命あるうちは息子と孫の面倒をみてやれる。このお役目のせいで、今まで何もしてやれなかったからの」

「そうか。それはいい」

 あの街でこれから先、三人で仲良く暮らしていけるのなら……。

 イシュルも今度は思わず、満面の笑顔になってフレードに頷いて見せた。

 己の胸の内を、暖かいものが流れるのがわかった。


 フレードとの面会後、イシュルはビルドに案内されバレーヌ広場の某所に出てきた。

 収穫祭も数日前に終わり、夜の大広場は人気もわずかで閑散としている。周囲は暗く、広場の南側に大小の灯りが幾つか、点々と見えるだけだ。

 ビルドはいつぞやの夜、イシュルに仲間とともに助けられた礼をあらためて言うと、

「じゃあな。またいつか会おうぜ」

 とニヤリとしてイシュルの返事も待たずに背を向け、闇の中に姿を消して行った。

 最初に会った時の印象よりも実際は大人で、妙に冷めてるやつだったな……。

 でもあいつは運がいい。聖石神授でも、今回の聖都での争闘にも生き残った。影働きなんてものは、ああいうやつじゃないとやっていけないのだろう。実力があっても、目先が利いても、それだけじゃ生きていけない。

 イシュルはビルドの消えた闇を見やると、広場の南側に浮かぶひときわ大きな明かりの方へ歩いていった。

 それは露天で行われている草芝居だった。いや、旅の一座がやっているのだから素人ではない。周りには二十名ほどの立ち見の客が、前の方にはゴザを敷いて熱心に見ている客も何組かいた。

 後ろの方でぼんやり見ていたイシュルは、芝居の演目がわかると思わず顔を強張らせた。一場の劇は今やクライマックスを迎えようとしていた。

 ちょうどイシュルと思しき少年が、ブリガール男爵と思しき男に剣を向け、「今宵は宴もたけなわ、今こそ神の名において復讐をなさん。ブリガールよ覚悟せよ!」と、朗々と歌い上げるような叫声をあげていた。

 これはひどい……。

 イシュルはがっくり肩を落とし、早々に露天の草芝居を後にした。

 人声も遠くに霞み、暗がりをひとり広場の出口を目指し歩いていると、イシュルの前の空気が突然揺らぎ、水色に煌めく魔力の光が瞬いた。

 その光はあっという間に人の形になっていく。

 精霊……。

 イシュルはかるく後ろに下がると、迎撃の態勢をとった。

 クラウじゃない。敵意は感じないが……。

「今晩は。風神の魔法具を持つお方」

 辺りにしっとりとした気が満ちる。

 半透明に輝く長い髪が風もないのになびいた。

「ドロイテ・シェラール!」

 イシュルは夜闇に向かって、かつて荒神の塔に幽閉されていた魔女の名を叫んだ。

「……」

 唇を薄く伸ばし、眸を細めて横目にイシュルを見てくる水の精霊。

 イシュルはその姿を見てすぐに悟った。

 この女はもう、ドロイテ・シェラールではない。彼女は死んだ。

「ドロイテはわたしの契約者。わたしの友人。わたしの名は──」

「確か、イニフェルと言ったか」

「あら、憶えていてくれたの? ありがとう。坊や」

 この妖艶な美貌の水の精霊は、あの時ドロイテとなかば一体化していた本体の方、契約精霊の方だ。

 しかし……。水の精霊は女、それも美貌の持ち主が多い。今目の前にいるイニフェルに、アデール聖堂を守護するアデリアーヌ、そしてニナの契約精霊であるエルリーナ。

 いや。今はエルリーナのことを想うのはやめておこう……。

「どうしたの? 遠い目をしちゃって」

「いや、いいんだ」

 叶わぬ恋ほど胸を焦がし、それなのに終わりが見えない、辛いものはない。

 熱い恋は、乙女だけの専売特許ではないのだ。

「え、えーと」

「ああ、すまない。ドロイテは死んでしまったんだね」

「ええ。彼女から死ぬ前に、どうしてもあなたにお礼を伝えて欲しい、と頼まれたの」

「……そうか」

「ほんとはもっと早くお礼を言いたかったんだけど、あなたの寝泊まりしているお屋敷はほら」

 イニフェルは苦笑を浮かべてその長い髪に手をやった。

「あの恐ろしい風の大精霊がいるから」

「なるほど」

 まぁ、確かにちょっと、そういうのはあるかもしれない。

 そこでイニフェルは腰を落とすと右手を胸にやりイシュルに頭を下げてきた。

「我が盟友の宿願成就に力添え頂き、感謝申し上げる。風の魔法具を持つお方」

 イニフェルは口調を改め、人間の礼式にかなったやり方でイシュルに礼を言った。

「こちらこそ。……彼女の魔法は凄かった」

 イシュルが頷くと、イニフェルも顔を上げてイシュルを見、ほんの少しだけ照れたような仕草をした。

 くっ。美貌の女が一瞬だけ見せる、ちょっと幼い素直な表情。これは破壊力がある。

「あっ」

 と、イニフェルは顔をふと南の方に向けて呟いた。

「これは嫉妬? ……ふふ」

 なんだ? イシュルもおもむろに夜空を南の方へ、視線を向ける。

「そういえばこの都(みやこ)にはアデリアーヌがいるのね」

 イニフェルの横顔に、少し悪戯な表情が浮かぶ。

「あの子に挨拶して行こうかしら」

「ん? アデリアーヌに?」

「そう。やっぱりあなた、アデリアーヌのこと知ってるのね。お知り合い? それともお友だち?」

「え、ええと。友だち、かな?」

「そうなの……」

 イニフェルがにたり、と笑ったような気がした。

「では風神の魔法具を持つお方、わたしはこれでお暇させていただきます。またいつか、どこかで会えるといいわね」

 水の精霊はその長い髪を夜空にふわっと広げると、あっという間に姿を消した。

「なんだかにこにこ嬉しそうだったな。彼女はアデリアーヌの知り合いだったか」

 ふむ。彼女はアデリアーヌをからかいにでも行ったのだろうか。

 イシュルは闇の中をゆっくりと歩きはじめた。

 ……彼女のお礼はドロイテに頼まれたというよりはむしろ、彼女自身が俺にしてくれているように感じられた。

「違ったろうか」

 イシュルはドロイテがいるかもしれない天上、夜空を見上げてひとり呟いた。


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