出立 1

 

 事が終わるとイシュルはウルトゥーロに太陽神の首飾りを渡した。

 イシュルはその時同時に、カルノから借り受けたもうひとつの太陽神の首飾りも、ウルトゥーロに、教会に返却した。

 結局、カルノから借りた太陽神の首飾りは主神の間に突入する時、一度だけしか使わなかったが、それでリフィアが初動から暴れ回り、先手を打って太陽神の座に風の魔力を展開することができたわけで、カルノの太陽神の首飾りが重要な役割を果たしたことに違いはなかった。 

 その後イシュルたちは主神の間を退き、隣接する総神官長ら、大神官専用の控え室に案内された。

 聖堂教会の大神官のみが入室できるその部屋は、床にはベルムラ産と思われる古い絨毯が敷かれ、壁も板張り、椅子や小机など家具類も品の良いものが置かれ、天井には装飾つきの吊り下げ型燭台、シャンデリアが吊るされていた。とても神殿の地下室とは思われない、豪華な部屋だった。

 イシュルはミラとリフィア、シャルカに付き添われ、その部屋の長椅子にしばらく横になって疲れを癒した。

 ミラとリフィアは、ひとり掛けの椅子をイシュルの寝ている長椅子のすぐ傍に移動すると、しばらくはイシュルの手を握り声をかけ、彼の額に浮いた汗を拭い、互いに競うようにしてイシュルを介抱した。

 それも一段落して落着くと、ミラが突然、イシュルの胸に縋(すが)ってしくしくと泣きはじめた。

 疲れに微睡(まどろ)みはじめていたイシュルは、びっくりして目を醒した。

「ううっ、イシュルさま、……ううっ」

 目を開けるとすぐ目の前に、涙を流して嗚咽するミラの横顔があった。

 イシュルは彼女の髪に手をやると、そっと撫でた。

 突然のことで最初は何がおきたかと思ったが、ビオナートを斃して悲願を達成し、喜びいっぱいだった彼女がなぜ今頃になって泣き出したのか、その気持ちがイシュルにも何となくわかるような気がした。

 ひと息ついて緊張が解けると、セルダを失った悲しみが、そして今までの苦労がよみがえり、一気に吹き出してきたのだろう。

 ミラは今までずっと劣勢の正義派で、公爵家の息女として誰にも弱気を見せることなく、気丈に振る舞ってきたのだ。戦ってきたのだ。

「よく頑張ったね。ミラ」

 イシュルの声を聞くと、ミラの泣き声はひときわ大きくなった。

「……」

 イシュルはミラをやさしく見つめた。そこでふと視線を感じ、視線を上向けた。

 細かく震えるミラの巻かれた金髪、その奥にリフィアの顔があった。

 リフィアは一瞬、顎をさげて唇を尖らし、イシュルに羨ましげな、少し恨めしそうな顔をして見せると、ふいにやさしげな微笑を浮かべ、眸を細めて愛おしそうにイシュルを見、ついでその視線をミラに落とした。

 いつもの無表情に戻って部屋の隅に立つシャルカも、その眸から一筋、涙を流している。

 イシュルはそんなシャルカをちらっと見やり、再びリフィアと視線を合わすと、彼女に引きずられるようにして笑みを浮かべた。

 俺もリフィアのような、やさしい顔になっているだろうか。できているだろうか。

 すぐ傍で、ミラの泣く声が続いている。




 イシュルたちが大聖堂の地下で休んでいる間に、大聖堂も王城も、いや聖都全体が上を下への大騒ぎになった。大聖堂の主塔がいきなり吹っ飛び姿を消してしまったのである。その光景は当然、運河の対岸の街の住民、収穫祭の期間中で集まっていた多くの巡礼者たちの目に止まり、あっという間に聖都にいるすべての者に知れ渡った。

 当日は聖冠の儀が執り行われ、大聖堂に一般の信者が立ち入ることは禁じられている。運河にかかる跳ね橋はすべて上げられており、大聖堂に街の住民や巡礼者たちが大挙して押し寄せる最悪の事態は免れたが、彼らは運河沿いに集まり鈴なりになって、巨大な塔が忽然と消え様変わりした大聖堂の姿を見つめた。

 ウルトゥーロは大聖堂の主神殿に、都(みやこ)の主立った神殿長を集め、聖冠の儀で何が起こったか、特に風神イヴェダの降臨を知らせることにした。

 デシオら正義派の神官は主神の間を清め、サロモンにビオナートの遺体を引き渡し、聖都の各神殿への連絡、その他種々の調整に追われた。

 サロモンは、主塔の消失に驚き大聖堂に集まって来た、自派とルフレイド王子派の貴族とその私兵、ディエラード公爵邸にあった既存の戦力を糾合し、ルフィッツオ・ディエラードと、居城から川船を使って馳せ参じたアッジョ・サンデリーニの五公家の二名を引き連れ、当日午後には王城に入った。

 彼は入城すると、未だ抵抗を続ける国王派の騎士団兵や宮廷魔導師らを撃退、王宮および後宮を即座に掌握し、同時に運び入れたビオナートの遺体とともに太陽神の塔に入り、無事イルベズの聖盾を継承した。

 サロモンは入城する前に、ひとりでイシュルたちの休む控えの間に姿を現した。

 サロモンは部屋の中に入ると、もう落ち着きを取り戻していたミラに、きらきらと輝くような笑みで「お疲れさま、ミラ」とやさしく声をかけ、長椅子に横になっているイシュルの前に立った。

 サロモンは深い青色の揺動のマントに裾の長いチェーンメイルを着込み、脛当てや肩当て、篭手などを着けて、すでに戦(いくさ)仕度を終えていた。

 先ほどイシュルたちがビオナートを討ち取り、国王派の敗北は決定している。イシュルにもミラたちにも、これからサロモンが手勢を率い王城に籠る国王派残党を殲滅、制圧し、聖王家の玉座を手に入れる、最後の戦いに臨もうとしているのがわかった。

 サロモンは起き上がろうとするイシュルの肩に手を置き押し留めると、弾んだ声で言った。

「やったな、イシュル」

 サロモンの笑顔が眩しい。

「直ちに王家の方々を集め、ビオナートの遺体を検分してください。やつはイルベズの聖盾を使ってきたので、本人で間違いないと思いますが……」

 イシュルはありがとうございます、と言って頷くとすぐ、自身が気にとめていた最も重要なことを口にした。

「イルベズの聖盾を使ってきたのなら、それは父で間違いないと思うが……。わたしはこれから父の遺体を太陽神の塔に運び込み、聖盾の継承を行う。その後はきみの言う通り、王家の者を集め検分させるとしよう」

 サロモンはミラの方を向いて続けて言った。

「ルフレイドを公爵邸に残している。王宮と後宮を掌握したら呼びにやるので、その時にはよろしく頼む」

「わかりましたわ。サロモンさま」

 ミラが快諾するとサロモンは再びイシュルを見て、いや、今度はさらに身をかがめてイシュルに顔を近づけてきた。

 サロモンは右手の手甲を外すと、おもむろにイシュルの顎にその細い指先を添えて、かるく持ち上げるようにしてきた。

「風神が降臨したらしいね、イシュル。まさかきみが召喚したのかい?」

 サロモンはその眸に不可解な光を宿し、熱を帯びた声音で囁くように言ってくる。

「い、いえ……」

 イシュルは少し苦しそうに答えた。

 これは……まずい……。

「素晴らしいじゃないか。……イシュル」

 サロモンの甘い囁き。その眸が妖しく光る。

 くっ……。

 イシュルは思わず喉をならした。

 いま目の前に迫ってくる男の顔。怖気をふるうような美しさだ。

 ……この男のしとねに堕ちた宮廷の女たち。彼女たちはみな、堪えきれなかったのだ。

 この熱に……。

 そんなに欲しいのか。俺のことを。

「!!」

 サロモンの左側、イシュルの頭の方に席をずらして座っていたミラが、無言で立ち上がった。

「サロモン殿下」

 サロモンの右側、イシュルの足許に席をずらしていたリフィアが抑揚のない、静かな声で言った。

 サロモンがイシュルから視線を外し、リフィアに顔を向ける。

 リフィアの涼やかな瞳がサロモンを待ち受ける。

「……」

 リフィアとサロモン、ふたりが無言で視線を交わしている。

 イシュルは微かに息を飲んだ。

 ふたりの間に見えない火花が散っている。

 ミラの方からも正体不明の圧力が吹きつけてくる。それはサロモンに向けられている……。

「ふん。……形勢不利か」

 サロモンは周りに聞こえるか聞こえないか、微かな声で呟くとリフィアから視線を外し、上半身を起こしてイシュルの傍から離れた。

「王宮が落ち着くまでにまだ数日はかかるだろう。イシュル、それまで待っていてくれないか。此度のことはきみに、聖王家としても正式に御礼しなければならない」

「わ、わかりました……」

 イシュルが頷くと、サロモンは今度は爽やかな笑顔になって、「ではまた会おう。失礼する」との言葉を残し足早に控えの間を出て行った。

「……ふう」

 ミラが肩をおろして息をつく。

「ほんとに危なかったですわ」

「なかなか危険な方だな。イシュルをとられるかと思った」

 と、薄っすらと笑みを浮かべるリフィア。

 おいっ。それはなんだ? とられそうになった、とか。それは何?

 イシュルはそれを口に出して言うことはしなかった。

 下手に突っ込めばこっちがやられる。ミラも加勢してくるだろうし。

 リフィアの発言は聞かなかったことにする。

「そろそろ帰ろうか。もう歩くだけなら問題ない」

 イシュルは言いながらからだを起し、長椅子から自力で立ち上がった。

「……」

 ミラもリフィアも両側から、サッとイシュルの腕に手を添えてくれる。

 ふたりとも無言。彼女たちの気づかってくれる気持ちはその眼差しだけで伝わる。

 今は精神的な疲労もさることながら、むしろそれに伴う強い眠気の方がきつくなっている。

 先ほどのサロモンの態度といい、大聖堂に長く留まるのは危険な気がする。教会はなんだかんだと理由をつけて、俺たちを軟禁しようとしてくるのではないか。

 イヴェダの降臨に関しては当然、ミラとリフィアからいの一番に質問があった。だが、イシュルは「詳しい話は公爵邸に戻ってからしよう」と、今ここで説明するのは控えることにした。この部屋にどんな耳があるか、何か盗聴の仕掛けがしてあるとも限らない。

 ミラとリフィアにもイヴェダの姿が見え、そしてイシュルが強力な何かの魔法を使い、続けてイヴェダが主塔を吹き飛ばしたらしいことはわかっているようだったが、やはり風神とイシュルがどんな会話をしたかまではわからなかったようである。それは同じ場にいたウルトゥーロたちも同様だろう。彼らだって、イシュルとイヴェダの間にどんなやり取りがあったか、知りたいだろう。とても、何をおいても。

 ……イヴェダとどんなことを話したか。それは俺の魔法具が精霊と契約できないこと、かわりに可能性はかなり低そうだがイヴェダ自身を召喚できること、この二点を除いては、あの場にいた者たちに見られてしまっているし、大まかにであれば話してしまっても構わないのだが……。

「……そうだな」

「そういたしましょう」

 イシュルの「そろそろ帰ろうか」との言にリフィアとミラ、ふたり揃って頷いたところで控えの間の扉がノックされ、今度は聖冠の儀にも立ち会った正義派の大神官、リベリオ・アダーニが少年の見習い神官に導かれ部屋の中に入ってきた。

「いや、上は大騒動になっていてね。お待たせした。ベルシュ殿はもう、お加減はだいぶよろしいのかな」

 リベリオは見習い神官を下がらせると以前のように、その神経質で鋭角な顔つきにそぐなわない、柔和な笑顔でイシュルに声をかけてきた。

「お気遣いありがとうございます、リベリオさま。イシュルさまもだいぶ元気になられましたわ。それでわたくしどももそろそろ、一端屋敷の方に下がらせていただこうかと思いますの」

 イシュルが答えるより早く、ミラがすかさず、如才なく割って入る。

「ふむ。ベルシュ殿には此度はご苦労をおかけした。今は我らも多忙故、後日改めて御礼申し上げたい、カルノ殿が都(みやこ)に到着したらお呼びいたそう」

 リベリオはにこやかな表情を崩さず、何度も頷きながら言った。

「わかりました」

 イシュルが答えると、リベリオはさらに笑顔を深くして言ってきた。

「いや、しかし、まさかイヴェダさまが降臨されるとは。まさしく驚天動地、聖堂教会始まって以来の吉事だ。わたし自身もこれ以上に喜ばしいことはない。我が人生最高の、至福の時であったと言っても過言ではない。……ところで」

 だが、リベリオの眸はそれほど笑っていないように見える。

「ベルシュ殿は風神とどのような会話をされていたのかな?」

 イシュルは一瞬、ミラとリフィアに視線を走らせた。

 やはりイヴェダの声、そしておそらく俺の声も他の者には聞こえていなかったのだ。

「特には……、“風の剣”という魔法を教えてもらっただけですよ」

 あまり大げさな話にして広めて欲しくはないのだが、彼らが目にしたことに関しては隠すわけにもいかない。それにこういうことは変にごまかすと後々面倒なことになりかねない。

 イシュルはそのまま、イヴェダがマレフィオアを練習台にして、大魔法を伝授してくれたのだと説明した。

「まぁ……」

「ほう……」

 ミラとリフィアが控えめながら、感嘆の声をあげる。

「それは素晴らしい。……大聖堂の主塔もその時、吹っ飛んでしまったということか」

「へっ!?」

 イシュルはぎょっとした顔になってリベリオの顔を見た。

 リベリオの柔らかな笑顔に特に変化はないように見える。

 な、なんだかまずい展開になりそうな気がする。これは危険だ……。

「そ、それは違います!」

 イシュルは、なぜイヴェダが大聖堂の主塔を吹き飛ばしたか、早口でまくしたてるように話した。

 イヴェダはただ、イシュルに風の剣の威力を見せるためだけに主塔を吹き飛ばしたのだ。

「はっはっは」

 リベリオはイシュルの説明を聞くと大きな声で笑った。

「さすがは風の神、我らでは及びもつかない、途方もないことをなされる」

「そうですよね。俺もびっくりしました。はは」

 ふう……。

 俺は嘘は言ってない。ありのままを話した。あの時はほんとにびっくりしたし……。

 イシュルは冷や汗が吹き出たような気がして、額に手をやりふるふる振って自らを仰いだ。

「イヴェダさまのなされたことなら仕方がない。それが神の奇跡であるのなら、むしろ教会にとってはありがたいことだ」

 リベリオは再び笑顔で何度も頷いた。

「だが……」

 リベリオが顔を曇らす。

「……!」

 イシュルは心臓がドキリ、とするのを感じた。

「貴殿もご存知かと思うが、教会も金がなくてな。いやはや、あの大塔を今一度建て直すとなると、いったいどれだけかかるやら」

 リベリオは顎に手をやり、考え込むような仕草をした。

「費用をどう工面したらよいのか……」

 イシュルは真っ青になって全身を硬直させた。

 ち、ちょっと待って。お、俺は関係ないから。イヴェダがやったことだから。

 ……って、まったく関係ないとは言い切れないか?

 イヴェダは俺のために降臨し、俺に風の剣の凄さを見せるために、大聖堂の主塔を吹っ飛ばしたのだ……。

 つまり。

 こ、これはまずい。

 逃げよう。もう用事は済んだ。聖都からはさっさとお暇させていただこう……。

「イシュルさま? お顔の色が……」

 ミラが横から覗きこんでくる。

 彼女は俺のことをただ純粋に心配してくれている。リベリオの意図に気づいてない。というよりおそらく、彼女は端から主塔の消失は風神のやったことであって、俺自身とはまったく別のことと考えてくれている。

「そうだな、イシュル。顔色が悪いしそれに」

 リフィアの方はにやにやしながら言ってくる。

「少し震えているぞ? ……この部屋、ちょっと寒いかな」

 こいつはわざとだ。こいつはわかって言ってきてるんだ。

 大聖堂主塔消失に俺が深く関わっていることを。最悪、俺が建て替え費用を負担しなければならなくなる、その可能性が皆無ではないことを。

 もの凄い美少女がにやにやしながらからかってくる……、これほどグッときて、それでいてイラっとくるものはない。

「……」

 どうして俺が。これほどの悲劇があるか。

 大聖堂の建て替え費用なんて、ほんの一部を負担するだけでも大変な金額だぞ。一生かかっても絶対返しきれない……。 

 イシュルは深い絶望感に慄然とした。

「まぁとにかく、風神の降臨に関しては当聖堂において、早急に審問会が開かれることになろう」

 リベリオは表情を引き締め、声を低くして言った。

 審問会、だと……。

 イシュルは思わず口をあんぐり開けた。顔色がさらに悪くなっていく。

「そ、それは」

「うむ……。審問官はおそらくクレンベルから戻られたカルノ殿が、証言者はイシュル殿に——」

「証言?」

「うむ。それにわたしとウルトゥーロさま、デシオ、ということになるかな」

「それって、審問、っていうより報告会?」

「まぁそういうことだ。教会にとってはあくまで審問、だが。我々の見たお方が本当にイヴェダさまだったのか、一応は検証しなければならない。いや、確定しなければならない。聖堂教会としては今日起きたことは何としても、公式の記録として残しておかねばならないのだ」

 それだけじゃない。これから聖堂教会は正義派が牛耳ることになる。彼らはビオナートを反逆者とし、あの場で起きたことを総括し教会の公式の見解、評価を定めるのであろう。

「ただ一点、ビオナートさまが持っておられたもう片方の紅玉石が偽物であったこと、マレフィオアが本物の紅玉石を持っているらしいこと。これだけは今のところ他言無用、内密に願いたい。審問会でも一切触れることはないので、そのつもりで」

 リベリオはさらに厳しい表情になって言った。

「なるほど……」

 イシュルは神妙な顔になって呟くように言った。リフィアとミラからも固い空気が漂ってくる。

 確かに聖堂教会にとっては秘密にしておきたい事柄だ。

「わかりましたわ、リベリオさま。わたくしどもも誓って、そのことは他言しないようにいたしましょう」

 ミラが一同を代表するような形でイシュルの横から一歩前へ踏み出し、宣言するような口ぶりで言った。

「それにわたくしも、審問会において証言させていただきますわ」

「うむ」

 リベリオが満足そうな顔になって頷く。

「では必要があれば、わたしも証言いたしましょう」

 と、リフィア。

「うむ。非常に結構。それではみなさん、よろしく頼みます」

 リベリオが笑顔になって言った。

 リフィアのことは主神の間から退く時に、ウルトゥーロらに簡単に紹介してある。

 彼らも、リフィアがあのラディス王国辺境伯家の“武神の矢”と聞いて驚いていたが、イシュルの友人、ということで特に問題視せず、受け入れてくれた。

 聖堂教会にとっては信徒であれば異国の者であろうと関係ないし、そもそも今は収穫祭の期間中で、聖都にも他国の巡礼者がたくさん集まってきている。

 これで聖都に留まる期間が長くなり、フロンテーラに向かうのが少し遅れるかもしれない。

 どれだけ効果があるかわからないが、それでも何らかの手を打っておこう。その審問会とやらがなるべく早く開かれ、短期間で終わるように。

 紅玉石の件はうまくやれば、交渉材料として使えるかもしれない。

 例えば単純に脅迫するとか、そんなことではなく……。

 今度はイシュルが考え込む仕草をすると、リベリオがイシュルに言ってきた。

「日が決まったらお知らせいたそう。ベルシュ殿にはそれまで都(みやこ)に留まっていただきたい」

 リベリオたちにはリフィアを紹介する時に、俺が今度はフロンテーラに、ラディス王国に戻ることを伝えてある。その理由も地神に関することだと、ほのめかす程度には伝えてある。ペトラからは口止めされているので、それくらいしか話せないが。

「はい……」

 イシュルは小さな声で頷いた。

 これは仕方がない。

 ……だが。

 まさか教会が、本気で俺に大聖堂の修復費を請求してくることはないだろうが、俺を少しでも長く聖都に留め置こうと、駆け引きのネタに使ってくる可能性が全くない、とは言きれない。

 俺は正義派勝利の立役者、風神降臨の起因となった風の魔法具の所有者で、主神の間に出現したマレフィオアを退けた功労者、ということになる。

 先ほどのサロモンではないが、教会だって俺が欲しいだろう。

 俺の怒りを買わずに、俺が自分から聖都に残りたい、残らなければと思わせるように仕向ける何か……を、彼らは考え見つけ出し、画策してくるかもしれない。たとえ俺が聖都を離れ、フロンテーラに向かう目的が地神に関わることだと彼らが知っても、だ。

 そこでもう一つの紅玉石の件を持ち出してもいいかもしれない。もちろん、他にもネタを探しておかないといけないだろうが……。

 とりあえず今は、教会が主塔の建設費用を心配しないですむ方策をひとつ、提案しておくとしようか。

 俺にとって危険となりうる要素はたとえその可能性が低くとも、先にしっかりと潰しておく必要がある。

「リベリオさま」

 イシュルはリベリオに、にこやかに笑みをつくって見せた。

「明日は予定通り、大聖堂を巡礼者たちに開放しますか? ……あんな状態ですが」

 今は主塔が吹っ飛び、主神の間がまる見えの状態だ。現状ではとても信徒らを大聖堂に招くわけにはいかない。

「うむ、まだそれは決まっていないが……。今は大きな穴が開いて、上から覗くと主神の間がまる見えになってしまっているので、穴の周囲を布で覆って隠している最中だ」

「そうですか。主神の間を隠せるのなら、予定通り明日から開放すればよろしいでしょう。大聖堂広場の前に神殿内のイヴェダ像を移動して、その前で一般の信徒たちにも、今日起きたことを話して聞かせればよいのです」

 イシュルはそこで笑みを深くして、歪めて言った。

「イヴェダが古代の魔物を滅ぼしたと、そのために大聖堂の大塔も吹き飛んでしまったのだと。……この際、多少の脚色も仕方がないかと思います。そして彼らとともに、聖典に書かれている風神の一節を唱和する。それから、大聖堂修復の寄進を受け付ければよろしいかと」

「なんと、寄進とな……」

 リベリオは驚いた顔をした。

「せっかく風神の降臨もあったのですから、感謝祭の期間を数日伸ばしては如何?」

 まだあるぞ。金を集める手立てが。

「感謝祭が終わったら今度は聖都のすべての神殿に街の住民を集め、同じことをすればいい。可能なら大陸のすべての神殿でやればいい。なんといっても教会始まって以来の吉事でしょうから」

 イシュルは危うく、両手を揉みしだかんばかりの勢いでまくし立てた。

 イヴェダはこのことを知ったら怒るだろうか?

 いや。神々は、特に彼女はそんなことに何の感慨も抱かないだろう。

 彼らは人間どもの些事に一片の関心も抱かないだろう。神々とはそういうものだ。

 俺もその人間どものひとり、に過ぎないのだが……。

「ふっふっふっ」

 リベリオの柔和な笑顔に黒いものが混じる。

「ベルシュ殿、これはよいことを聞いた。主塔の建立も案外早く、目鼻が立とう」

「それは良かったです」

 この程度のこと、街中の商人なら誰でもすぐに思いつくだろう。大聖堂のお偉いさんは育ちがいいからな。……でも、うまくやれば莫大な金額になるぞ。きっと。

「はっはっはっ」

 リベリオがたまらず、大きな声で笑い出す。

「ははははっ」

 イシュルもリベリオに合わせるように、声に出して笑った。

 これで費用の問題は解決だ!

 俺はこれでまたひとつ、新たな危機を脱したのだ。

 こともあろうに主神の間のすぐ側で、ドス黒い笑声を上げるふたりの男。

 ミラとリフィアは、薄く笑みを浮かべながらもイシュルを挟み、互いに呆れた視線を交わした。


 


 その後、イシュルたちは主神殿の北側副塔から地上に出てきた。

 外に出ると一瞬、陽の光に目が眩む。太陽はすでに中天をやや西に傾いていた。

 主神の間の控え室からは幾何形のレリーフがなされた木板や石板の装飾に、絨毯の敷かれた宮殿のような豪奢な通路を通り、階段を上ってきた。

 イシュルは案内してくれた神官が塔の中に引っ込むと、その南側の、かつて主塔があった場所に行ってみた。

 北塔の裏側へ回るともうすでに、周りは明るいベージュの帆布で覆われていた。ところどころに複数の神官が取りつき、布を縛る縄を補強したり、どこから持ってきたのか下部に土嚢を積んだりしている。その外側には神官兵が一定間隔で並び立っていた。

 ……あれはおそらく、野営に使う大型のテントを利用しているのだろう。確かにこれで、主神の間を人目から隠すことはできる。

 そしてあの内側で、主神の間の天井から修復工事を始めるわけか。

「なんだかまるで、地下鉄だかビルの建設工事みたいだな」

 イシュルは口の中で、ボソッと呟いた。

「さすが、対応が早いですわね」などと呟いているミラの後ろでは、シャルカが難しい顔をして主塔の消えた、帆布で覆われた場所を見ている。

 シャルカの顔には未だ恐怖の色が消えていない。神々に直接会うことは精霊にとっても大事なのだろう。ましてやそれが自身とは異なる系統の神であれば、それは人と同じく怖れの対象であるのかもしれない。

「しかし見事なものだな。南北に並び立つ副塔には傷一つない。窓ガラスも割れていない」

 リフィアが南北の副塔のを仰ぎ見てしきりに感心している。

「イシュルはできるか? 同じこと」

「いや。主塔丸ごと吹っ飛ばすとなると無理だな」

 力まかせに、マレフィオアを主塔ごと吹き飛ばすのは問題ないとしても、副塔の窓ガラスまで無傷で、というのはなかなか難しい。

「そうか……」

 リフィアは視線を向かいの聖パタンデール館の方へ向けた。彼女の眸はその先の何もない青空を映している。

「あまりの出来事に夢か現(うつつ)か、未だ醒めぬ夢の中にいるような心持ちだが……。わたしにはイシュルの振るった風の剣の魔力が、あの空を真っ二つに引き裂くのがはっきりと見えた」

「まぁ。わたしには見えませんでしたわ。イシュルさま、今度はぜひ、わたしにも見せてくださいまし」

 ミラがひっぱるようにしてイシュルの腕に両手を絡めてくる。

「う、うん」

 主神の間ではミラは俺の左斜め前にいた。あの位置からでは、首を回さないと視界に入ってこないだろう。あの時、俺以外はみな動くことができなかったから、彼女はあの光芒を見ることができなかった、ということになる。

 しかし、風の剣……。確かにイヴェダの言うとおり、今の段階ではとても実戦では使えない。これから修練を積む必要がある。より発動を早めることと、威力を調節できるように。

 とりわけ重要なのは、どれだけ威力を弱められるかだろう。下段から逆袈裟にかるく振り上げただけで、膨大な風の魔力が凝縮、放出され、大気圏を突破してしまうのである。

「しかしミラ殿の言ったとおりだな。イシュルといっしょだと凄い体験ができる」

 リフィアが笑顔を向けてくる。

「えっ。ああ、そうかな」

 考えごとをしていたイシュルは少し慌てて、ぎこちない、上ずった声になった。

「次に目にするのはペトラさまの精霊に会って、それから地神となるのかな?」

 リフィアはイシュルの左手の甲にちらっと目をやると、声を潜ませ聞いてきた。

 リフィアの顔には笑みが浮かんでいる。彼女の言には少なからず、冗談も含まれているのだろう。

 だが、確かに次の目標はマレフィオアの本体を見つけ出し、あの化け物からもう片方の紅玉石を回収することだ。そして地神の魔法具を得ることだ。

 ペトラの件も間違いなくそのことに絡んでくるだろう。

 イシュルの眸に一瞬、雨の中に佇む老人の姿が浮かび上がる。

 あれは何だったのか。ただの幻か、それとも……。

 ペトラの契約精霊に会って、地神の魔法具をこの手にすれば、その答えも明らかになるのだろうか。

「きっとそうですわ。わたしたちは次は地神ウーメオを目にするのかもしれません」

 ミラがすぐ横から言ってくる。

「そうかもな」

 イシュルは低い声で、短く答えた。


「……」

「まぁ、すごい人だかり」 

 ミラが運河の対岸の方を見て呟く。

 帆布で覆われた主塔跡を離れ、大聖堂前の広場に出ると、運河の向こう岸は人の群れでびっしり覆われていた。

 大聖堂の異変に、街の住民や巡礼者たちが対岸に集まってきたのだ。

 今日は大聖堂で聖冠の儀が行われる日で、王城外郭部でもある運河のこちら側は街の一般住民や巡礼者たちには開放されていない。運河に三ヶ所ある跳ね橋はどれも上げられている。

 無数の川船の連なりを、水面(みなも)を人々のざわめきが伝って押し寄せてくる。

「行こう」

 イシュルはおさまらない眠気の中、それでも回復し始めた感知の輪を周囲に伸ばした。

 ……人びとのざわめきはまだ、これだけじゃない。

 運河沿いの道に出ると、大聖堂の南北、特にディエラード公爵邸の周囲に多くの川船が接岸し、屋敷前の広場に兵士や馬、水や食料などの物資の揚陸が行われていた。

「サンデリーニ城から兵を集めているようですわね」

「増援か」

「エストフォル城は広いからな。王宮を押さえた後は、集めた兵力を城内南北に展開して西から東へ直進、国王派の残党を圧迫しながら王城の端まで押し切るんだろう」 

 イシュルはリフィアにそう説明した。

 要所を押さえたら後は増兵した戦力を横一線に展開、城内各所を捜索しながら、西側から東の端の方へ、残る反抗勢力を追い込んでいくのではないか。

 広い城内でゲリラ活動などされたらたまらない。一気にカタをつけるのならローラー作戦が有効だろうが、それには兵力が要る。

 ビオナートが斃れた今、サロモンにとって王城主要部を押さえるのは容易だろうが、短時間で城内全域を完全に制圧するにはそれが最も適したやり方だろう。

 サロモンが未だに兵力を集めているのはおそらく、彼も同じようなことを考えているからに違いない。

「……」

 リフィアがにっこり笑顔になってイシュルに頷いてみせた。

 ミラもにこにこしてイシュルの顔を見上げてくる。

 おそらく彼女たちも同じようなことを考えていたのだろう。

 イシュルたちは運河沿いの道を北に、公爵邸に向かって歩き始めた。

 イシュルはともかく、真っ赤なドレスに黒いマント、片手にハルバートを持つミラ、ワインレッドの裾の短いマントに繊細なフリルのついた白いブラウス、こげ茶のズボンに黒革のブーツ、それに長剣を腰に吊るしたリフィア、ふたりの美貌の少女に、極めつけは並の男よりもはるかに上背のあるメイド姿の女、シャルカと、やたらに目立つ組み合わせの彼らだったが、往来は巻き紙の束を抱えた神官や貴族の使者らしき者、木箱を抱えた下働きの使用人や巻かれた帆布や木材を積んだ荷馬車など道を急ぐ者たちで溢れ、対岸に集まった者たちの注目を集めるようなことはなかった。

 公爵邸の前の広場は、多くの兵士たちや馬で溢れ、樽や木箱などもいたるところに積み上げられ、兵らの怒声や馬の嘶き、武具の擦れ当たる音が鳴り響き騒然としていた。

 屋敷の門前には出入りする騎士や従僕、兵士らに混じり、見知った公爵家の人びとの姿が見えた。

 騎士団長のダリオをはじめ、そのすぐ横にラベナ、彼女の後ろにピルサとピューリの双子、少し離れてネリーにルシア、アデール神殿の連絡役、カトカの顔も見える。

 みな大聖堂の異変に、兵馬のどよめきに、屋敷の門前に出てきたのだろう。

「イシュル!」

「イシュル……」

 彼女らもイシュルの姿を認めたのか、ピルサとピューリがイシュルの名を呼ぶ。

 イシュルは双子に笑顔で軽く手を振り答えたが、ダリオとその横に立つラベナの距離が妙に近くなっているのが目にとまった。

 あのふたりもくっついたのかな。

 ラベナもダリオの押しに、ついに陥落しちゃったか。

 ラベナは別邸に住む公爵夫婦専属の護衛に、双子は正式にはルフィッツオとロメオの従者、半ば護衛役にもなっていたので、広い邸内で彼女らと顔を合わすことも少なくなっていた。

 イシュルたちは目の前で十人隊長か、騎士らしき男に率いられ二十名ほどの隊列を組み始めた兵士たちをやりすごすと、ダリオらの立つ公爵邸の門前の方へ歩き始めた。

 ピルサとピューリがいつものごとく手をつなぎ、イシュルの許へ駆けてくる。

 その時、イシュルは自身の右側で小さな魔力が一瞬、ちらっと立ち昇るのを感じ、そちらに顔を向けた。

 イシュルの右側にいたミラとシャルカがすでに、同じ方へ顔を向けている。

 イシュルの左側にいたリフィアも気づいている。彼女から漂う空気が緊張をはらんだものになる。

 ピルサとピューリが途中でぴたりと止まった。

 その人物は広場の北、王城の方からイシュルたちの方へまっすぐ向かってくる。

 視界を遮る、広場を行き来したむろする騎士や兵士、従者たち。その間を瞬間、加速の魔法を使ってやり過ごし、姿を消し、現わすたびにイシュルたちの許へ、少しずつ近づいてくる。

 兵士たちの影に見え隠れするその姿。黒いマントの下、深い青色のドレスを着込み細長い魔法の杖を持つ女。

「アナベル・バルロード!」

 イシュルは視線鋭く、その女の名を口にした。


「あら、あなた、まだ生きてらしたのね」 

 赤い魔女が、その豪奢な金髪に手をやり後ろに払った。

「逃げないの? 聖都にいたら、すぐに殺されますわよ」

「逃げるのはまだよ。どうしてかわかるでしょ? あなたなら」

 紺色の髪に水色の眸。その顔が薄っすらと笑みを浮かべる。

「わたしは国王派とか王子派とか、そんなのどうでもよかったのよ。ただお爺さまの言いつけに従っただけ。それなのにこんな目に合うなんて……。本当に貧乏くじを引いたわ」

 アナベル・バルロードはゆっくりと左手をマントの裏に伸ばした。

 マントの裾から出されるその手に握られたもの。

 彼女は短剣の柄をミラに向けてきた。

「あなたらしくないわね、アナベル。本当は魔導師長に、国王派の勝利に賭けていたんでしょ?」

 ミラは右手を口許にやり、その影で薄く笑みを浮かべた。

「あなたはいつも嘘ばかり。だからこそ、いつでもとても分かりやすかったわ。あなたの言うことの反対を信じればいいのだもの。あなたはそれに気づいていたのかしら?」

 ミラの眸が冷たく細められる。

「そのナイフも本気なのかしら?」

 ネリーとルシアが素早い動きで兵士らの間を抜け、アナベルの側に寄ってくる。

「……」

 アナベルは薄笑いを浮かべネリーとルシアを一瞥すると突然、ナイフをミラの足許に投げた。

アナベルの投げたナイフはどんな力がこもっていたのか、ミラの足許の敷石にすっと、深く突き刺さった。

「本当よ。あなたを殺してから、この国からお暇させていただくわ」

「そう」

 ミラは右手をシャルカの前に差し出す。

 シャルカはどこに持っていたのか、ひょいと手許からナイフを出すとミラに渡した。

 ミラはナイフの刃に左手の指先を這わせ、アナベルに向かって投げるのか投げないのか、弄ぶようにして見せつける。

「早くして」

 アナベルが眉間に皺を寄せ短く言った。

「いいわ。あなたに情けをかけてあげます」

 ミラがナイフをアナベルに向かって投げた。そのナイフもアナベルの足許に、深く突き刺さる。

 アナベルの周りは敵ばかりだ。ミラが彼女の決闘を受けなければ、国王派の走狗であった彼女はこの場で嬲り殺される運命にある。いくら武神の魔法具を持つ土魔法の実力者であろうと、ネリーにルシアと双子にラベナ、そしてダリオまでいるこの状況では何もできないだろう。

 いつぞやの小雨の降る夜、アデール神殿に向かう途中で襲ってきた刺客を、重い斬撃で一撃のもとに葬ったダリオの姿は目に焼きついている。彼の公爵家騎士団長の肩書きは伊達ではないのだ。

 なのにミラはアナベルの決闘申し込みを受けることにした。

 ミラとアナベルの一騎打ちとなれば状況はがらりと変わる。実力はミラの方が上だとしても、戦闘そのものの巧拙ではアナベルが一枚上手ではないだろうか。あの女はどんな汚い手も躊躇なく使ってくる。

 眠気に、おそらく精神の疲労からくる全身の気だるさはまだ残っているが、もうかるくなら魔法も使える。多少は回復している。あいつひとりくらいなら瞬殺できる。

「……」

 イシュルは思わずミラの前へ出ようとした。

「待て、イシュル」

 そこへリフィアがイシュルの腕を掴んで止めてきた。

「あの精霊といっしょならミラ殿は間違いなく勝てるさ」

 厳しい視線で睨みつけてくるイシュルに、リフィアはひとつ頷き言った。

「彼女を信じてやれ。仲間の力を信じることも大切だぞ」

 俺はミラの実力を疑ってはいない。だが……。

「でははじめましょうか」

 ミラがそう言うと、アナベルは薄く笑みを浮かべて、瞬く間に後ろへ十歩ほど飛び下がった。

 ふたりの様子に周囲にいた兵士らはすでに距離を開け、一部の者たちは手を止め足を止め、無言で事の成り行きを見守っている。

 ミラはアナベルが飛び下がると同時に、手に持つハルバートを穂先を下にして地面に突き刺した。

 そのハルバートが熱を帯び赤く発光するとするすると地面の中に沈んでいき姿を消す。

「……!」

「……ほう」

 イシュルは思わず息を飲み、リフィアは小さく感嘆の声をあげた。

 地中に消えたミラのハルバート。その形が消え、かわりに周囲の地中を金(かね)の魔法が覆っていく。

「くっ……」

 アナベルの顔に焦りの色が浮かぶ。

 彼女の魔法が、土の魔力が地面に通らないのだ。

「シャルカ!」

 一方、ミラは後ろに立つシャルカにひと声かけると顔を俯かせ、何かの詠唱を短く口にした。

「我が精霊よ、汝が鋼(はがね)の力を我に与え給え……」

「我が神ヴィロドよ。鉄心の鎧を我とひとつに合し給え……」

 シャルカもミラと同時に詠唱しはじめる。

「あれは……」

 イシュルはふたりの様子を見て小さく呻いた。

 あれは二重詠唱……?

「詠唱短縮の一種だな」

 リフィアの横から呟く声がする。

「なっ……!?」

 続いてイシュルは驚愕に両目を見張った。

 ふたりの詠唱が終わった瞬間、シャルカの姿が消え、ディエラード公爵家の至宝、ミラの魔法具である“鉄神の鎧”がその姿を現した。そしてその鎧は赤く発光するとぐにゃりと形を歪め、溶けるように崩れると半ば液体のようになって渦を巻き、ぐるぐると回転し始めた。

 赤く光る溶けた鉄の輪はやがて黄色く、白い光を発してその回転する速度を上げ、その魔力の煌きごと姿を消してしまう。

 だがその直後、ミラが両手を水平に伸ばすと同時に、その光の渦が彼女を包み込むようにして再び姿を現した。

 ミラの姿がその渦の中に消えていく。と、光の渦は強烈な閃光となって消えてしまった。

 眩い魔力の煌めき。……思わず瞑ってしまった眸を開けると、鉄神の鎧が元の形をがらりと変えて、ミラのからだを覆っていた。

 ミラの着ていた赤いドレスの上に肩、籠手、スカート型に広がる胴鎧が、足元には脛当て、鉄靴の鎧が装着されていた。そして彼女の腰には長剣が吊り下げられていた。

 彼女の鎧と剣は強力な魔力で金色に光り輝いていた。シャルカの姿はどこにもない。シャルカは鉄心の鎧とともに、ミラに装着された新たな鎧と剣にその姿を変えていた。

 彼女の赤いドレスに金色に光り輝く甲冑。

 赤い魔女は金色に輝く鎧をまとい、剣を佩き、さらに美しく華麗に生まれ変わったように見えた。

「これは凄い……」

 リフィアが再び感嘆の声をあげる。

 周囲の兵士らからもどよめきが上がる。

 イシュルはただ茫然と、ミラの姿を見つめた。

 あれは……。変身、ってやつか?

 えーと。いつか、どこかで似たような、もっと派手な演出の何かを見たような……。

 だが、あの強烈な魔力の煌きはただ事ではない。

 今のミラは、自身の魔法具とシャルカとひとつになった彼女は、相当に強い。

 凶悪なほどに。 

「……」

 アナベルはミラの姿を見て、悔しそうにその顔を歪めた。

 彼女が変身している間、アナベルはさらに十歩ほど後方に退き、ミラの魔力の届かない後方から敷石ごと地面を捲り上げ、自身の背中に壁のように土と岩の大きな塊を出現させていた。

 その塊の中からは逃げ遅れたか、巻き込まれた数名の兵士たちの手足が突き出て見える。

「あなたのそれ、見たことのない魔法ね」

 アナベルが歪んだ顔で言ってくる。

 彼女は自身が、決定的に不利な状況に追い込まれたのを悟ったのだ。

 おそらくアナベルも一対一なら自分が勝てる、と考えていたのだろう。だから彼女はミラに決闘を挑んできたのだ。

 それも、雲行きが怪しくなった。

「えっ」

 その瞬間、イシュルの横からリフィアの姿が消え、あっという間もなくいきなり広場の東側、兵隊たちが輪になって見物しているその手前に姿を現した。リフィアはアナベルの後方に立ち、彼女の退路を絶った。

「なにっ!?」

 アナベルが顔を真っ青にしてからだを後ろにひねり、自身の作った土と岩の塊の向こう側を見やった。

「あら、もう逃げられませんわね。アナベル」

 ミラが涼やかな微笑を浮かべる。

「でもわたしがこうして奥の手を出した以上、リフィアさんの手助けがなくてもあなたくらい、簡単に片付けられますわ」

「リフィア・ベーム……、武神の矢か」

 アナベルが全身を震わせ始める。

「くっ、あなたのそれは何? ……信じられないわ。そんなものを隠していたなんて」

「切り札は最後までとっておくものよ。あなたならよくご存じでしょ。アナベル」

 ミラの笑みが冷酷なものに変わっていく。

「あなたはわたしの家柄も魔法具も、そして何よりわたし自身のこの性格が嫌いだったのでしょう?」

「……」

 アナベルは無言でミラを睨みつける。

 彼女はミラのあのまっすぐで真面目な心根を、そして誰にでも真摯にやさしく、あるいはおおらかに余裕を持って接する女王のような風格ある姿を、何よりも嫌悪していたのではないだろうか。

「そんなわたしに、まるであなたのするようなことをされて、今の気分はどうかしら? 如何?」

「くっうう、このっ」

 アナベルはこの場面ではじめて、その顔に生な怒りの感情をあらわにした。

 彼女は顔を俯かせ、何事か囁く。

 するとががんっ、と岩の割れるような音がして、彼女の右側にあった昔の英雄か初代王の騎馬像が、まるで生き物のように動き出して台座から飛び降りてきた。

 生ける騎馬の彫像はアナベルの契約精霊が宿っているのか、無色の魔力を光らせミラの真正面に立ちはだかりその大剣を彼女に向けてくる。

 アナベルは同時に自身の後方に積み上げた岩の塊から、次々と先の尖った岩の槍のようなものを空中に生み出していく。

 対するミラはその場を動かず、ただ片手をかるく振ってみせた。

 瞬間、騎馬像の足許、地中から赤く光る魔力が溢れるように吹き出し、下から上へ、瞬くまに騎馬像を熱せられた金属の膜で覆ってしまった。

 石の騎馬像はその魔力の輝きを失い、完全に静止した。

「……! ……!」

 アナベルは言葉にならない怒りの叫びをあげると、空中に浮かぶ岩の槍を一斉にミラに向かって放った。

 するとミラの姿が一瞬で消え、その手前の空中で全ての岩の槍が粉砕される。

 早い!

 イシュルは身の回りに無数の細かく砕かれた岩が降り注ぐ中、両手を目の前で互いに叩きつけるようにして合わせ、早見の魔法を強制的に発動させた。

 微かな頭痛とともに周囲から人びとの動く気配が消え、様々な音の連なりが遠ざかっていく。

 ミラはその時、アナベルが自身の後方から前面に回した岩の防壁を砕き、その奥へ突入しようとしていた。その小さなからだがまるで重戦車のように、周囲のあらゆる物を破壊し粉砕していた。

 その時、ミラの進行方向にいると思われたアナベルがミラの左側に姿を現した。彼女は武神の魔法具、加速の魔法を発動し、いきなりミラの側面に移動してきた。

 アナベルは右手に持つ魔法の杖をミラに向け、加速の魔法を切って、新たに何かの土魔法を発動しようとしていた。

 ミラが危ないっ! と思いきや、彼女はどう見ても加速の魔法を使っているとしか思えない速さでアナベルの動きに反応し、その場でからだを横に捻ると自らの右腕をアナベルに向かって突き出した。

 閃光が走り、イシュルの目にもわからない高速で、赤く燃える金属の長く尖った先端がアナベルの肉体を刺し貫いた。

 ふたりの決闘はその一瞬でケリがついた。

 ミラは長く伸ばした金属の槍を右腕の手甲に収めると、その場に倒れこんだアナベルに向かって歩き出した。

 ミラは自身の剣を抜かなかった。アナベル相手に、抜く必要もなかったのだろう。

 イシュルも早見の魔法を切ってミラの元へ急ぐ。

「さようなら、アナベル」

 ミラは口から血を吐き、細かく震えるアナベルを見下ろし言った。

「あなたはいつもそれ。わかりやすいのよ」

 ひとを騙し続ければ、それはいずれ全て見透かされるようになる。

 虚実とはその裏表をぴったりと密着させている。

 虚構に意味がないのなら、それが嘘と知れた時点で何もなくなり消えてしまう。

 ミラを力なく見つめるアナベルの眸から、光が消えた。


「イシュルさま!」

 ミラがイシュルの胸に飛び込んでくる。

「よ、よくやった。おめでとう、ミラ」

 ミラは決闘の勝利者だ。イシュルは彼女に祝福の言葉を贈った。

 しかし、彼女の抱きしめてくる力が強い……。当たってくる甲冑がからだに食い込む……。

 ミラの切り札は確かに強力なものだった。シャルカと自らの魔法具と合体し“変身”した彼女は相当に強い。うまく戦えばひょっとすると、リフィアとも互角に戦えるほどに。

 イシュルの視界にはミラに抱きつこうとしていたのか、肩透かしを食らって手持ちぶさたにしているネリーの姿が、アナベルがこしらえた岩の塊、陥没した凹凸(おうとつ)をひょい、ひょいと飛び越えこちらに向かってくるリフィアの姿が見える。

 公爵邸の門前からは双子やラベナが近づいてくる。

 広場にいた兵士らは皆、呆然とその場に佇んでいる。

「……あら」

 イシュルの耳許でミラの間の抜けた声がした。

 振り向くとルシアが地面に腰を落とし、シャルカの着ていたメイド服をいそいそとかき集めていた。




 周りに広がる地平線、そこに浮かぶ山々や城塔の黒い影から、白く輝くベールが浮き立つと、空高くどこまでも昇っていく。

 やがてその光のベールは地をめくり上げ、地平線に浮かぶ山々や建物を飲み込み、こちらへ向かって突き進んできた。

 滅びだ。世界が終わろうとしている。

 白い光の壁が目の前を通り過ぎると、辺りは真っ白に染まって、強いコントラストに諧調の吹っ飛んだモノクロームの映像が投影される。

 それは口から血を吹き上げるビオナートの映像であり、涙を流すリフィアの顔であり、月夜に喘ぐミラの美貌であり、エミリアの死の瞬間であり……、やがて目にも止まらぬ速さでさまざまな映像が流れては消えていく。

 そして視界は空疎な、何もない背景に閉じていく。

「……」

 目を開けると、ベッド越しに見慣れた寝室の絵柄が広がっていた。

 夢か……。

 風の剣と何か、関わりのありそうな夢だ。

 俺はきっと怖れているのだ。……あの技を。

 イシュルはのっそりと上半身を起こすとベッドの上にあぐらをかき、ひとりひっそりと深いため息をついた。

 陽が傾き寝室は薄い青色に染まっている。

 あれから屋敷に戻るとイシュルはミラとリフィアに、シャルカも交えて聖冠の儀でイヴェダが現れた時、どんな会話があったか簡単に説明した。その話が終わるか終わらないかという時点でミラに呼び出しがあり、王宮とその周辺の安全を確保したサロモンから、公爵邸にとどまっていたルフレイドに王城に帰還するよう知らせが届いたことが伝えられた。

 ルフレイドは自らの手勢にロメオを、さらに護衛としてミラを、彼女に頼まれリフィアも公爵家の客分としての扱いで連れて行き、王城に帰って行った。

 ミラにはルシアやネリー、元の姿に戻ったシャルカも当然付き添っている。

「……クラウ」

 急に人気のなくなった屋敷に、イシュルは感知の輪をそっと広げ、ゆっくり閉じていくと、クラウの名を呼んだ。

「御前に。剣殿」

 クラウはイシュルの前にほとんど風の魔力の煌めきも見せず、さっと姿を現わすと、頭(こうべ)を深く垂れてきた。

「今までありがとう、クラウ」

「宿願を見事果たされたようで。祝着至極に存ずる」

 いや、宿願というのはちょっと大げさだろう。

「すまないがもう少し、屋敷の警護をお願いできるだろうか」

 王城の国王派が制圧されたとしても、同派の尖晶聖堂の影働きを始末するには、もう少し時間がかかるだろう。

 まだ危険な状況が完全に去ったわけではない。

「御意」

 いつもより恭しく、あらたまった態度をとっているように見えるクラウを見上げながら、イシュルは唇を僅かに歪ませ言った。

「クラウ。聞きたいことが、いろいろあるんだがな」

 それでは本題に入らせてもらおうか。

「今ならあんたも、話しやすいだろ?」

 イシュルの笑みがひときわ大きくなつた。


「……つまりあんたらは俺の風の魔法具が、特定の精霊と契約できない理由を始めから知っていたんだな?」

 クラウは「うむ」と頷き、イシュルの質問を肯定すると続けた。

「今ならもう、それを秘密にすることはなかろう」

「イヴェダ神はどれほどの確率で召喚できるだろうか」

「それは……、あまり期待しない方がいいのではないだろうか」

「そうか。そうだろうな。もし俺の召喚に応じてくれたとしても、俺の頼みを聞いてくれるかわからないし」

「……」

 クラウはただ苦笑を浮かべるだけだ。

 あのイヴェダならそれは充分にあり得る。「わたしはそれは好かんな」などと言って、俺の言うことを聞いてくれないことだって多々あるだろう。それは容易に想像がつく。

 彼女はやたらと俺のことを目にかけている、(たぶん我が子のように)愛おしく思っていると言っていたが、所詮は神さまだ。ただの人である俺の言うことを、何でもホイホイと聞いてくれる筈もないだろう。

 それならあれだけ魔力を削りとられるのだ。彼女を呼ぶことはかなりのリスクを伴うと考え、できるだけ控えておいた方が良いだろう。

「他の神の魔法具を得れば、やはり風神のような加護を得られると考えて良いのかな」

「うむ……、それはわからんな。剣殿は古い風の神官の末裔ゆえ……。他の神々もイヴェダさまほどの好意を剣殿に寄せてくれるかは、微妙かと思うが」

 イシュルはあらためてクラウの顔を見やった。

 ずいぶんと口が軽くなったと言うか……。

 力自慢の大精霊、カルリルトス以来、召喚したどの精霊も、みな口を濁しこの手の話題を避けてきたと言うのに。

「それで風神が化けていたレニという名の風の魔法使いのことなんだが」

 イシュルはじろっとクラウを見つめた。

「あれはどういうことなんだ? レニは実在する人間の魔法使いだ。彼女に時々イヴェダが憑依していた、という感じでいいのか? あんたはそれ、知っていたんだろう」

「そのことをわたしが知っていたかは、剣殿のご想像にお任せしよう。その風の魔法使いにイヴェダさまが憑依して、というのは確かなことだと思う」

「なるほど、それでレニ本人はどうなんだ? 彼女の記憶はどうなっている」

「それは……。おそらくその女子(おなご)の剣殿との記憶に、特に大きな齟齬は起きていないと思う。その魔法使いは、剣殿に何らかの魔法を伝授したと、彼女なりに現実にあったこととよく似た記憶を保持している筈だ」

「そうか……」

 イシュルは今は彼女の郷里に帰った、人懐っこい風の魔法使いの少女の面差しを脳裏に浮かべた。

「……で、あんたが数日前から浮かれていたのは、イヴェダが俺の前に降臨するのをすでに知っていたからだろう」

 崇拝する我が主が自らのすぐ近くに降臨する、それは彼らにとっては喜びに打ち震えるようなことなのかもしれない。

「違うか? クラウ」

 イシュルは意地の悪い笑みを浮かべて、風の大精霊を見やった。




 それから数日ほど、イシュルには空きの時間ができた。

 イシュルはミラに事情を話し丸二日ほど聖都から離れ、ひとり聖石鉱山に向かった。

 ビオナートを斃し、無事聖都に平安をもたらしたことを、エミリア姉妹とセルダの墓前に報告するためだ。

 ミラも当然、行きたそうなそぶりを見せたが、彼女を連れて行くと他に荷物も増えるだろうし、とても二日間では往復できない。イシュルは彼女には今回は遠慮してもらい、ひとりで現地に旅立った。

 その往復のほぼ全行程を空を飛び、往路はその日の夜明け前に都(みやこ)を発ち、当日の夕方には聖石鉱山に到着した。

 イシュルはまず人気ない鉱山集落の墓地にセルダの墓を詣で、次にウーメオの舌に赴きエミリアとエンドラの墓前に立った。

 あれから半年ほどの月日が流れ、イシュルの風獄陣に消し飛んだ辺りは一面、大小の草花で覆われていた。

 イシュルは父の形見の剣を抜くと空に掲げ風を呼び、あの時空をつなぐ力を探し、手繰り寄せた。

 折れた剣が無数の光彩を帯びて煌めき、その果てのない力の片鱗を現し始める。

 イシュルはそこでふっと息を吐いて風の魔法を解き、剣をおろした。

 夕空に光の煌めきが霧散し、儚く消えていく。

「この風の剣をおまえたちに捧げよう」

 願わくば、己の信じる正義のために。おまえたちの死を戒めとしよう。

「あの世でふたり、幸せにな。エミリア、エンドラ」

 イシュルはそのまま空に飛び上がり、聖都へ帰還の途についた。


 その翌日、イシュルの許に大聖堂からカルノ・バルリオレが到着したとの知らせが届いた。

「イシュル君、見事だった。おめでとう」

 場は大聖堂の北の副塔の一室、落ち着いた調度の部屋で、カルノはそんな風にイシュルを労った。

「うむ。此度はイシュル殿のおかげで、聖堂教会は救われたのだ」

 とウルトゥーロ。

 一旦空席となった総神官長の席はウルトゥーロが今後一年間、再び務めることになった。

 彼の隣ではリベリオ・アダーニが相変わらずの柔和な笑顔でいる。

「だがカルノ、そなたの手助けがなければ、イシュル殿の聖冠の儀での働きもなかった。ありがとう。そして許しておくれ、このわたしを」

「ウルトゥーロ先生……」

 感極まって涙し、互いに手を取り合う老人と壮年の男。

「……」

「まぁ、なんて素晴らしい……」

 笑顔を強ばらせ内心引きまくりのイシュルに、うるっとするミラ。

 カルノがクレンベルから聖都に到着した知らせを受けると、イシュルはミラを連れて大聖堂を訪問した。

 そこで運良くなのか、師弟の感激の対面に出くわしたわけだが……。

 イシュルはふたりの邪魔はすまいと、この場は早々に立ち去ることにした。

「ベルシュ殿、後日の審問の折はよろしく」

 退室の際、リベリオが満面の笑みでしっかり、イシュルに言ってきた。

「どうされたかな」

 部屋の外に出、階段の前の踊り場で足を止めたイシュルに、隣に立つデシオが声をかけてきた。

 イシュルは後ろを振り向き、部屋の外まで聞こえてくる、彼らの明るい笑い声に耳を傾けた。

「イシュルさま?」

 デシオの反対側に立つミラも、不思議そうに声をかけてくる。

「いや……」

 イシュルは前を向くと、ゆっくりと階段を下り始めた。

 なんだかんだ言って結果的に俺は、あの三人の男たちの掌(てのひら)の上で、ただ踊らされていただけなのかもしれない……。

 イシュルはふと、そう思った。

 イシュルの顔に、得もいえぬ苦笑が浮かんだ。 

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