風の剣
なぜ……。
イシュルは愕然として彼女の顔を見つめた。
レニは以前のように、にこにこと人懐っこい笑顔を向けてくる。
「レニさん……」
横からミラの、苦しげな吐息とともに呟く声が聞こえる。
彼女の驚きがどれほどのものか、それが伝わってくる。
「むぅ……」
右隣ではめずらしく、リフィアが緊張して身を固くしているのがわかる。
彼女はレニのことを一応聞いてはいるが、もちろん本人との面識はない。だがそんなことは関係ない。レニのいきなりの登場はあまりにおかし過ぎる。
俺は周囲を風の魔力で覆っているのだ。その側部に僅かに隙間をつくって、ミラやリフィアたちが魔法を使えるようにしている。
レニはまさか、その隙間を押し広げて内側に入ってきたというのだろうか。それも俺に気づかれずに。
「ミラ」
レニが笑みを深くしてミラに顔を向けた。
その瞬間。
「!?」
イシュルは何かにはっとして、周囲に視線を泳がした。
「あ、ああっ」
驚愕の呻きがその口から漏れる。
これはあの時、……あの時と同じ……。
月の女神、レーリアが時を止めた時と同じだ。
マレフィオアが結界の向こうでその顎を開いたまま、動きを止めていた。
ミラもシャルカも、リフィアも。ウルトゥーロたちも。
ビオナートは石盤の奥に引っ込み、ただ風の魔力がぼんやりと照らす、薄暗い影の縁(ふち)に身を潜め身じろぎひとつしない。
マレフィオアの顎から現れた白い人形(ひとがた)、その虚ろな黒い眸はたぶん今は何も見ていない。掌から紅玉石を煌めかせ、何かのつくりもののように危うい、醜悪な姿で固まっている。
「これは」
イシュルはレニに向かって一歩、前へ踏み出した。
心臓の激しく脈うつ鼓動が何かを訴えてくる。
これは、違う……。俺は動いている。
何も変わることなく。
月神のあれは俺も、時に俺だけが動くけなくなってしまうのだ。
「イシュルの魔法結界と同じだよ?」
レニがイシュルの視線をたどるようにして、辺りを見回し言った。
「邪魔されるといやだし」
邪魔……?
イシュルはもう一度辺りを見回し、感知の輪を主神の間の外側に広げた。
なぜかだいぶ弱くなっているが、外の気配も少しは伝わる。
たとえば……地上を吹く風くらいは。それくらいならわかる。感じられる。
「うーん」
レニは眸を見開き首をわずかに振って、考えるしぐさをする。
「うん、これでどう?」
レニは何かしたのか。
イシュルに向かって再び笑顔になる。彼女の眸が愛くるしく、きらきら光っている。
「!!」
イシュルは辺りを見回し、呆然となった。
自分の青い風の魔力の壁はそのままだ。消えていない。だがその上に、内側に、俺の魔力に干渉することなく、ただ透明に光るだけの魔力が周囲を流れ、駆け巡っている。
「これは……」
こんな清廉な風の魔力、今まで見たことがない。きれいでさりげなく、そして圧倒的に強力だ。頭上のマレフィオアがまったく動くことも、何もできずにいるのだ。
「ミラたちはただ動けないでいるだけだよ。大丈夫」
レニがあの悪戯な笑みを浮かべる。
「殺してないよ」
殺して……?
「レニ、きみは……」
イシュルは喉を鳴らした。ある予感に全身がかっと熱くなり、同時に胸底が冷たく重くなっていく。
「きみは誰なんだ。こ、故郷に、パレデスに帰ったんじゃないのか」
「ふふっ」
彼女の小さく笑う声が聞こえてきた。辺りは静かだ。誰も動かず、何も言わない。風の魔力が周りを流れ、彼女の声が周囲の壁に反響することもない。
「約束したでしょ? ほら。教えにきたんだよ」
突然、レニの微笑に、彼女と違う何かが混ざる。
「……風の剣(つるぎ)を」
レニの笑顔がひときわ大きくなった。
「仕方がない」
レニは少し大人びた顔になって呟く。
「そろそろわたしの正体を明かすとしようか」
イシュルは歯をくいしばって全身に力を込めた。正面からしっかり、レニと相対する。その顔は青白く、眸はこれでもかと見開かれている。
レニ。きみは……。
「ちょっとした悪戯なのだ。いきなりだと、そなたもびっくりしてしまうだろう? だからあの風使いの少女の姿で現れることにしたのだ」
レニは今までとはまったく違う口調で言った。そして不可思議な光をたたえた、強い視線をイシュルに向けてきた。
「我が剣(つるぎ)よ。風の子よ」
レニはそういうと、風が渦巻くようにその姿を消していった。
彼女の方から吹いてきた微かな風がイシュルの鼻先をかすめ、新たな渦を巻きはじめる。風のような、魔力のような渦はやがて明るく輝く妙齢の女性の姿になった。
真っ白いトーガを腰のあたりで銀の紐で結び、同じ白い布をストールのようにしてからだに巻いている。
明るい金髪を真ん中で分け、頭には細く繊細な銀製のバンドをはめている。ストレートの長い髪は中程から波打つような曲線を描いて広がっている。
首筋にもヘアバンドに合わせた繊細なネックレスが光っている。そして同じように腕輪も。
足許は古風な、焦げ茶の革のサンダルを履いている。
「……!!」
イシュルは言葉を失い、新たに姿を現した女を見た。
これはまさか、大精霊などではない。今、目の前にいるのは……。
「そなたの宝具はわたしの宝具。いわばわたしの分身のようなものなのに」
女はだが、少しレニに似た悪戯な笑みを浮かべる。
「なぜわたしを呼ばぬ」
はっ? 呼ぶ? どういうことだ?
イシュルもまた、金縛りにあったように動けなくなった。
この女、……このひとは何を言ってるんだ。だめだ、頭がうまく働かない……。
「!!」
気づくとすぐ目の前に、その女の顔があった。優しげな神々しい微笑。だがその眸には女の、いや、何かの蠱惑的な輝きも潜んでいた。
彼女の指が俺の頬に触れてきた。そしてすべるようになぞっていく。
「そなたはわたしのお気に入りなのだ。そなたの魔法は特別だ。この世の誰も使わぬ魔法だ。それがわたしの心を揺らめかせ、浮き立たせる」
彼女の眸の輝きが強くなる。
「……だから、わたしの方からそなたに会いにきたのだ」
女はそう囁くと意外にも、少しふてくされたような表情を見せた。
「決してそなたを愛おしいと思ったから、だけではないぞ」
女の指先が離れていく。
このひとは何を……。
「そなたに我が力を教えるためだ」
彼女は笑みをつくって言った。
「ほら。“風鳴り”も教えてやったろう」
“風鳴り”とはあの、瞬間移動みたいな魔法だ。
女が少し、首を傾ける。
「なぜわたしを呼ばなかった? そなたから呼んでほしかったのに」
「な、で、でも……。あっ、あんたは、いや、あなたは……」
こ、声が出る。声が出せた。
なぜだろう。彼女はほんの少しだけ、レニに似ている感じがする。
風の魔法い、……風の少女。
「あんた、で良いぞ。もちろん、“さま”付けなんてしてくれるな」
その女はつん、と顎をあげて言った。
「ただ、イヴェダ、とだけ、呼んでくれればよい」
……あれはいつだったか。
かつてマーヤが何か言っていたような気がする。
精霊との契約は急がなくていい? そんな感じだったろうか。
マーヤの魔法具、火魔法の杖には元から封じられたような、結びついた火精がいて、彼女は他の火の精霊と契約できない、やりにくい、みたいなことを言っていたのだ。
それは……。
俺の魔法具にも、半ば契約状態の存在がいた、ということなのか。
その精霊は……違う、精霊じゃない。それはまさか風神そのものだった、ということか。
「い、イヴェダ……」
イシュルは苦しそうにその名を口にした。
風神の名。その名が、音が、今はとてつもなく重い。
……なんだか少し、まずそうな気がする。疲れが、神経が逆立つようないらつく感じがある。
それは確かに、俺自身が興奮、緊張しているせいもあるだろう。だが、それだけじゃない。もし風神の降臨に俺の魔力が、精神力が使われているとしたら、今この瞬間にも意識を失いぶっ倒れてもおかしくないのだ。相手は神さま、なのだ。
この場は本来、太陽神の座。今は戦いの場だ。
そこに風神が降臨した。してしまった。
レニと会ってから、彼女から直接、魔法を教えてもらったあの時から、いつかこんな日がやってくる、その時がくると心の片隅で、どこかで思っていたような気がする。
だから怖れはあっても驚きはない。
イシュルは風神を、イヴェダを見つめた。
清浄な風の魔力が周りを流れている。今は、この場はもう、俺の
まるで本当に時が止まってしまったような、主神の間。ここには今、俺と彼女と、ふたりしかいない。
……マレフィオアよ、どうした? ビオナートよ、抗ってみよ。
「……イシュル。我が風の子よ」
イシュルが風神の名を呼ぶと、イヴェダの顔がほころんだ。
「あ、あんたが。……だから俺は、精霊と契約ができなかったのか」
「そうだ。だがよいではないか。わたしはいつでも会いにこれるわけではない。わたしはこれでも忙しい身だ。それに気まぐれ、だしな」
イヴェダがにーっと、悪戯っぽく笑う。
「だからかわりに、そなたには望みの精霊を遣わすようにしてある。不満はなかろう?」
「あ、ああ」
イシュルは力なく頷いた。
……これは、イヴェダに魔力を、精神力を持っていかれているのか。
風神を召喚できるのなら無敵だ。絶対不敗であろう。だが、彼女はいつでもこれるわけではない、と言った。そして、この消耗だ。
「さて」
イヴェダは顔つきをあらためると、すました感じで言ってきた。
「わたしがわざわざ、主神の魔法陣に降臨したのは先にも申したとおり、他でもない。あれだ」
イヴェダは人差し指を真上に突き立て、左右に振ってみせた。
彼女の真上に、まるで飾り物のようにしてマレフィオアが固まっている。
「こやつでは風の剣を振るうにはあまりにも役不足だが、仕方がない。これを相手に風の剣を教えることにしよう」
イヴェダはちらっとマレフィオアを見上げ、ひとつ頷き言った。
何だか人間くさいしぐさだが、やはりヒト、そのものではない感じがどこかにある。
「わかった」
イシュルは頷きながら、カルノから借りた太陽神の首飾りに手を当てた。
今、周囲は俺の魔力にイヴェダの魔力、いや神の力か——で二重に覆われている。
もし光の魔法が通るのなら、もし太陽神の座を再び起動できるのなら……。
完全に動きを止めているマレフィオアをあの異界に飛ばしてしまうのが、一番良い、安全なやり方なのだ。
この太陽神の座はクレンベルのものと違って風化せず、その機能を失ってはいない。おそらく黄金のヘレス像が襲ってきたあの時よりも、より強力な結界が張られるだろう。それが可能ならば大聖堂とその周辺、もしかするとこの主神の間にも、被害が及ぶことはないだろう。
今のこの状況は、マレフィオア本体を滅ぼすことはできない、呪文詠唱時に隙ができる、などの理由で逡巡している場合ではない、被害を局限できる絶好機なのではないか。
ビオナートが、やつもまさか上から仕掛けてくるとは思わなかった。やつはいわば、大聖堂そのものを人質にとっているのだ。
これからイヴェダの言うように、“風の剣”という神の御業に等しい大魔法を振るったら、いったいどんなことが起こるだろうか。
それは俺にもわからない。だが、この化け物どころか大聖堂の主塔も、その周りの施設も、すべてきれいさっぱり吹っ飛んでしまう、そんなことになりはしないだろうか。
この世界の神々の多くは自然神だ。彼らは決して人間中心に存在しているわけではない。風の剣によって多くの人死にが出ようが、イヴェダは一顧だにしないだろう。
だが、どのみち風の魔力を消さねば太陽神の結界は起動できないし、でなければ他に被害を出さずにマレフィオアを退けることはできない。
また何より、風神の言に逆らうとどうなるか、想像もつかない。
そしてイヴェダがわざわざ教えてくれるというのなら、これは千載一遇の好機でもあろう。絶対にこのチャンスを逃すべきではない。
イヴェダは俺に会いたかった、なぜ呼ばなかった、と言ってきたが、一方でいつでもこちらの召喚に応じられるわけではない、とも言ってきた。風神を召喚する負担の大きさもさることながら、たぶん彼女とは今後も、そう何度も会うことはないような気がする。簡単に、いつでも召喚できる相手ではないのだ。それにイヴェダは自身が気まぐれだ、とも言った。ならなおのこと、この機会を逃すわけにはいかない。
……もう腹を括って、後先考えずにやるしかない。
それこそ彼女に祈るしかないだろう、風神に。なるべく被害が少なくて済むように。
王城が、王都がすべて消え去ってしまう、などということが起きないように。
「本当にかわいい子だな。イシュル」
考えをめぐらし、目まぐるしく変わるイシュルの表情を見ていたか、イヴェダがにこやかに言ってくる。
……だが、彼女の眸は決して笑ってはいない。風神は俺の迷いを、やる気を計っているのだ。
イシュルは胸元の太陽神の首飾りから手を離すと、イヴェダに真剣な目を向けた。
「ではたのむ。俺に“風の剣”を教えてくれ、風神よ」
イシュルが意を決し声を低くしていうと、彼女は笑みを深くして頷き、だがいきなり突拍子もないことを言ってきた。
「うむ。ならばそなた、まずは剣(つるぎ)を顕現してみせよ」
「はっ?」
イシュルは思わず、素っ頓狂な声をあげた。
何だそれ? いきなりなんてことを……。
「そなたは今は無腰であろう。だから見た目だけでいいから、風の剣を出してみよ」
イヴェダは笑みを薄くして、少し真面目な顔になって重ねて言った。
いや、だからなんだそれ。確かに今日は、父親の形見の剣は持ってきていない。
持ってくれば良かったのか? だが、あの剣は折れている。
「手を握って拳を胸にこう当てる」
イヴェダは握った右手を彼女の胸に当ててみせた。
一応、やり方は教えてくれるらしい。
「そしておのれの中にあるものを引き抜くのだ。そなた、レーネの骸(むくろ)から剣が出てくるのを見たであろう。あの剣だ」
あの時の……。それは当然、イヴェダは森の魔女、レーネのことを知っていたろう。あれをイヴェダはどこからか見ていたのか。まぁ、神さまであるなら知っていて当然なんだろうが。
このようにして、レーネにも教えたのだろうか。
まだ幼かった、何も知らなかった、あの時のことが思い出される。今でもはっきりと憶えている。
それはイシュルに、殺されそうになって不思議な体験をした恐怖や驚きの記憶に、微かな物悲しさが入り混じった複雑な感慨を呼び起こした。
「さっ、早くしろ」
イヴェダが催促してくる。
確かに今は、そんなことを考えている場合じゃない。
イシュルは目を瞑ってあの時の、なんの変哲もない剣を思い浮かべた。それは柄の部分も何の装飾もなかった、シンプルな諸刃の直刀だ。
そしてその剣を抜き出すイメージを浮かべ、右手を握って胸に当てる。
「……いや、違う」
イシュルはそこで両目を見開き、小さな声で言った。
あの剣じゃない。
父からもらった片手剣、赤帝龍に突き刺して折れた、父の形見の剣。
俺の剣はあれだ。たとえ折れてしまっても、今ここになくとも。
イシュルは再び目を瞑り、顔を上げて自分の拳を胸に突き当てた。
「!!」
すると何か、胸の奥に何かが当たり、からだの外へ突き出されるような感覚があった。
これは……。
風の魔法具が反応しているのか。イヴェダの剣が。
何かが触れて、突き刺さり、からだを突き抜けその先へ広がっていく。
イシュルは両目を見開いた。
視界を無数の色彩が生まれ、吹き流れて消えていく。
それは何かの像、自分の記憶、誰かの、何かの形、心の形……。
ミラやリフィアたちが、主神の間が、白い霞の奥に遠のき消えていく。
イシュルは色彩の奔流に沈み、閉じ込められた。
その煌めき、瞬く視界の先を見た。
知覚があの精霊の異界を捉え、越えていく。その先にも何かが広がっている……。
ベルシュ村の麦畑、青空を渡る風が現れ、それはやがてどこかで見た、深い緑の山から水田を渡って吹き下ろしてくる風に、ビルの谷間を吹き抜ける強風になって通り過ぎ、消えていく。
ああ、もう少しで届く。
ごめん。俺はあの時、死んだんだよ。
死んだ者の本当の苦しみは、悲しみとはこれか。
……だめだ。
彼は涙を流した。
死ぬ前の俺が涙を流した。
あそこまでは届かない。もう少しで妻の、子どもたちの顔を、はっきりと見ることができたのに。
もう薄らとしか浮かばない、かつての家族の面影。そこには二度と、届くことはないのだ。
……ここはどこだ? 俺の記憶の中なのか。
別の自分の声がする。
時が、時空が、世界が、心にうちに混濁していく。
いつの間にかその中に、エルスが、ルーシが、メリリャが、村のひとたちの姿が現れた。
彼らの像も歪んで消えていく。
ごめんよ、ルセル。父さん、母さん。……メリリャ、すべては俺のせいだ。
そこで突然、イシュルは元の場に戻された。瞬く色彩の奔流が周りを流れ、遠く、近くで渦を巻く。
今俺は、世界と繋がっている……。
イシュルはその感覚に、その大きさに恐れ、おののいた。
いつか見た黒い影が差す。
その影が言った。
……さぁ、唱えてみよ。そなたの言葉を。
そなたは何を言う?
紡げ、おのれを、その悲しみを……。
イヴェダか? ……誰だ。
影がはじけて消える。
イシュルは目の前の、無数の色がまたたく世界を見つめた。
そうだ。この悲しみが苦しみが。
世界に溶けて、支えとなって俺の恐怖を拭ってくれる。
俺はなぜ、赤帝龍のような巨大な化け物と戦えた? なぜ今も戦っている?
さあ、イヴェダが待っている。
天を仰ぎ、地を踏みしめよ。そして風の行方を追え。
俺は風の剣を振るうことができるのだ。
この渦巻く世界を、悲しみと喜びと、憎しみと愛で……。
彼の者の魂よ、我に力を。
イシュルは短く、その呪文を口にした。
「我は風の剣なり」
イシュルの右手に色の破片が渦を巻き集まっていく。
無数の閃光がまたたき、その瞬間、主神の間の暗がりが微かに透けて見える。
イシュルは左手を右手にそえた。
両腕でぐっと握りしめて、その渦巻くものを見つめる。
色彩が密集し集積し、輝きながら諸刃の剣の、形になっていく。
イシュルは瞬く刃先を下に降ろし、やや下段にかまえた。
ただ風が鳴る。
己の手にしたこの力。
ふふ……。
イシュルは心のうちで寂しげに笑う。
この万能感はなんだ? これは人には過ぎた力だ。
思いっきり振り回せば、それをやれば、世界が終わる。
だから、イシュルはそっと、斜め上に突き出すようにして風の剣を振った。
瞬間、風が走る。
轟音が一瞬吹き抜けると、イシュルは太陽神の座、石盤上に寸分違わず同じところに立っていた。
両手の握った先には何もない。
イシュルは頭上を見上げた。
マレフィオアが消えていた。禍々しい魔物の気配はきれいさっぱり、消えていた。
おそらく禁書を持っていた者も。
そして周囲に張ったイシュルの結界も、イヴェダの不思議な風の魔力も消えていた。
主神の間を、陽の光が細い線となって差し込んでいる。
その光の筋の中を、細かな塵が静かに舞っている。
一部がひび割れ崩れた内塔の壁を、握りこぶしほどの幅の切れ目が上に向かって走り、それは主塔まで続いていた。
……おそらく大聖堂の主塔は、真っ二つになっている。
陽光はそこから主神の間に降り注いでいた。
「なんだ、邪魔だな」
彼女はなんともなかったのか、その光の筋のすぐ横で、不満そうな声を上げた。
イヴェダが右手をさっと振る。
瞬間、恐ろしい轟音と振動が辺りを走った。
「……!!」
イシュルは眩しい光に眸を細め、額に手を当て仰ぎ見た。
主神の間に外光が満ちる。
頭上をいっぱいに、青空が広がっていた。主神の間の天井も、上に伸びていた内塔も、主塔も、すべてが消え去っていた。
主神の間の壁にそって、円形にすっぽり、頭上にあったすべてのものが消えていた。
大きな穴蔵から仰ぎ見る青空の両端に、南北に立つ副塔の外壁がわずかに窺える。主塔の両側に並んで建っていた副塔に、ここから見る限り大きな損傷は見当たらない。
な、なにを……。
イヴェダのやりように驚愕したイシュルは、だが、それを見て目を見張った。
「見よ。あれが風の剣の業(わざ)よ」
イヴェダが伸び上がるように胸をそらし、青空に向かって手を伸ばし指差すその先。
光輝く一条の光の筋が、空を二つに引き裂いていた。
小石や端切れか、小さな影が高速で視界を横ぎり舞っている。その彼方に目映く光る光線が、空高く垂直に、どこまでも伸びている。
その光の筋はやがて地上から離れ、徐々に短くなり、最後は小さな光点となって消えていった。
あれが、あの途方もないものが風の剣の力……。
「あの光が……」
「そうだ。風の剣に斬れぬものはない。あの光はやがて、星々の瞬く世界までも飛んでいくだろう」
「……」
イシュルはごくり、と喉を鳴らした。
あのエネルギーは宇宙まで届くというのか。空気もない空間に。
「うーむ。はじめてのわりには良くできたな、イシュル」
イヴェダが満足げに頷いたその時だった。
キーンという高い音がしたかと思うと、重い振動とともにざざざざっ、しゃしゃしゃっと、空のほうから不気味な擦過音が響いてきた。
今になってあの光の筋の、大気を引き裂く衝撃波がやってきた、といったところだろうか……。
と同時に、すぐ横の方から老人の、若い男の吠えるような叫声が聞こえてきた。
「おおおおおっ」
「い、い、イヴェダさまが」
「ななな、なんと! ふ、風神が!」
そこに混ざる嗚咽のような呻き声。
「……!……!……!」
それはミラのものだろうか。
見ると、ウルトゥーロやリベリオ・アダーニ、デシオらがそろって跪き、両手を広げ、あるいは胸に当てて泣き叫んでいる。
ミラはふらつき、力なくシャルカにもたれかかっていた。
シャルカはミラをささえながらも、イヴェダを見ようとせず、やや顔を俯けている。
だが、彼女は額から汗をひたたらせ、全身を固く、硬直させていた。
イシュルが反対側に目をやると、リフィアは棒立ちになってシャルカと同じように固まっている。
彼女の顔は真っ青だ。
背後の月神の神殿長、ヴァンドロ・エレトーレも踞り、全身をぶるぶる振るわせている。
イヴェダの風の封印が解けて、彼らも動けるようになったのだ。
……そろそろわたしは去らねばならぬ。
イヴェダの声がイシュルの脳裡に響いてくる。
彼女の声はもう、耳には聞こえてこない。
……他の人間どもの前に、わたしが姿を現すのはあまりよろしくない。ヘレスがうるさいしな。
イヴェダは事も無げに主神の名を出してきた。
そして柔和な、どこか寂しげな笑みを浮かべ、その姿を背景に溶け込むように薄くしていく。
……神の力も、それを人が使えばすなわち魔法、だ。これからは精進して、しっかり使いこなせるようになれ。それがこの先、そなたの身を守ることになる……。
イヴェダがその眸に不思議な、愛情とも思えるような色をたたえて見つめてくる。
……人には過ぎた力だ。気をつけて、用心して使え。そなたにならわかるであろう。
イヴェダの像がいよいよ薄れ、消えゆく。
……またいつか会おうぞ。我が愛しき風の子よ。
イヴェダの姿が消えた。
「くっ……」
イヴェダの姿が消えると同時、イシュルはたまらずその場に膝をついた。
立っていられない。
神経がひりひりと逆立ち、頭の中を不快な疲労感が渦巻いている。
魔力を、精神力を、風の剣にではない、イヴェダにごそっと持っていかれた。
「イシュル!」
「イシュルさま!」
男たちの終わらない咆哮、泣き叫ぶ声の中、リフィアとミラがいち早く我に返ってイシュルに向かってくる。
「待て!」
イシュルは片膝を立てて踞りながら、右手を彼女たちの前にかざした。
太陽神の座の石盤の端に立って、全身を細かく振るわせながらも、そろりそろりと後ろへ退いていく者がいる。
「シャルカ!」
そしてイシュルは厳しい声音でひと声叫んだ。
ミラとリフィアがはっ、として立ち止まり、視線をその男の方へ向ける。
シャルカは右手を前へ伸ばすと、その掌から熱く燃える固まりを放った。
それは長く尾を引き、人知れず石盤の端に退き、主神の間から逃げようとしていた先の国王、ビオナートの背後に、熱く瞬く輝きとなって広がった。
彼の背後に、真っ赤に熱せられた鉄の壁が広がっていく。
そこへミラの手に持つハルバートがその穂先を伸ばし、ビオナートに突き刺さった。
だが彼女の放った一閃は、その男のからだの直前で弾かれてしまう。
瞬間、ビオナートの周囲を半透明に光る壁のようなものが現れた。
……やつの持つ、“イルベズの聖盾”が起動したのだ。
イシュルは眸を細めてその様子を見つめた。だが口許には微かな笑みが浮かぶ。
ミラは顔を少し俯け何事かを小声で囁いた。
ミラの放った、長く伸びたハルバートの穂先が赤く光ると、グニャリと変形し、紐のように長く伸びてビオナートのからだの周りをぐるぐると回転しはじめた。
それはすぐに冷たく固まって、ビオナートを太い縄で縛るようにして拘束する。
ただその幾重もの鉄の輪は、イルベズの聖盾に阻まれ、ビオナートの肉体を直接拘束しているわけではない。
「ふん、こんなもの」
ビオナートが小さな声で呻くように言うと、彼の周りが魔力で薄く光って、ミラのつくった鉄の輪が次々と引きちぎられていく。カン、キン、と鋭い音が耳許に響いてくる。
だが、切られた鉄の輪はすぐに互いにくっつき、またたく間に以前の形に復元していく。
「このっ」
ビオナートは再び鉄の輪を切り裂くが、ミラはまた同じように復元する。
ミラの魔力は粘り強く、ビオナートの聖盾に負けていない。
それが何度か繰り返されると、ついにビオナートもミラの拘束から逃れるのをあきらめた。
そして満を持してか、イシュルのとなりで剣が鞘を走る音がする。
リフィアが剣を抜いて、その剣先をビオナートに向けた。
「……これもそなたの考えたことか」
「そうだ」
イシュルは膝をついたまま、顔を上げて薄く笑みを浮かべビオナートを睨んだ。
もし、マレフィオアが風の魔力の結界を破ってきた時、マレフィオアへの対応で手一杯の状況になった時、イシュルはその時にミラとシャルカ、そしてリフィアと、逃げ出すかもしれない、新たに何か仕掛けようとしてくるかもしれないビオナートの動きを止める対策を、あらかじめ話し合い、決めておいたのだ。
「だが、それだけじゃない……」
イシュルがそう言うと、リフィアが眸を赤く光らせた。
リフィアがここでビオナートに突撃すれば……。
だがイシュルは振り上げた右手をリフィアの方へ向け、彼女を制止した。
「……」
リフィアは無言でイシュルに従い、剣を構えたままその場に留まる。
「おまえを殺す前に、聞いておきたいことがある」
イシュルはちらっとウルトゥーロやデシオらに目をやった。
彼らは跪いたまま、今はなかば放心して、無言でビオナートを見つめている。
「おまえの発見した秘密の書庫はどうした? 今はどうなっている?」
「あれか」
ビオナートは己の末期も近い筈なのに、何を考えているのか、余裕のありげな笑みを薄く浮かべた。
「あれはもう、とうの昔に潰してしまった」
「蔵書はどうした?」
「それは……どうかな? 読後はすべて燃やしてしまったか」
ビオナートの笑みが深くなる。
「王城のどこかに隠してあるやもしれぬ」
「そうか。まぁいい」
イシュルはふらつきながらも自力で立ち上がり、影の入った恐ろしげな笑みを浮かべた。
イシュルの顔は血の気が失われ、眸の周りには隈が浮かび、眉間には深い皺が刻まれていた。濃い疲労の色が滲みでていた。それが彼の笑みを、より恐ろしいものに見せていた。
「その蔵書の中には、毒物について記された書物もなかったか? ビオナート」
イシュルの暗い笑みが濃くなる。
「あの書庫には他にも禁書がたくさんあったろう。おまえはその書物で得た知識でまずおまえの兄を殺し、王位を簒奪したのだ」
……おまえをただでは殺さないぞ。
おまえの幾多の罪を暴き、白日のもとにさらしてから、それから殺してやる。
「ドロイテ・シェラールが教えてくれたぞ。マデルン・バルロードは惜しいことをした」
「ふん、きさま。……小僧が」
ビオナートも負けじと笑みを歪める。
「そしておまえは総神官長の退く時期を睨みながら、敵対する大神官たちを次々と殺し、あげく」
イシュルは笑みを消し、ビオナートをねめつけた。
「妾腹の子をひとり、己が手にかけた」
「ふん、それがどうした。……大義のためだ」
ビオナートは怯むどころか、僅かに胸を張って見せさえした。
イシュルはその姿を見てむしろ視線を緩め、再び笑顔をつくった。
……それこそが。
おまえを殺す前に俺がしたかった本当のこと、核心だ。
おまえの大義を、志とやらを木っ端微塵に打ち砕くことだ。
「おまえはさしずめ、毒使いの王、と言ったところか」
ビオナートに向けるイシュルの視線に、侮蔑の色が浮かぶ。
「ふふっ」
となりでリフィアが小さく笑った。
「大国の王としては、いささか悲しいふたつ名だな」
「ほざけ、小僧が。人の価値は何を成したか、その志で決まるのだ」
「ははははっ」
イシュルはそこで、本気で笑い声をあげた。
「……それは面白い。おまえ、ずいぶんと真っ当なことを言うじゃないか」
イシュルはすぐに笑いをおさめた。だが、その眸の侮蔑の色はますます濃くなった。
「おまえが見つけ出した、秘密書庫の蔵書がおまえの志の源(みなもと)となったのであろう」
「……」
ビオナートは無言のままだ。ただイシュルの顔をじっと見つめている。
「おまえの見つけた書庫にはたくさんの禁書があった。おそらく偽書の類いも同じように、たくさんあったろう」
そこには、太陽神の首飾りで光の大精霊を、あるいは主神ヘレスを召喚する方法が書かれた書物もあったのではないか。その内容が本当のことなのか、正確なものであったかは知れないが。
「……おまえにもわかっていたんじゃないか?」
ビオナートを睨みつけるイシュルの眸に異様な光が灯る。
もうあまり魔力が、精神力が残っていない。やつに使える魔法は限られている。
だがそれで充分だ。たとえやつにイルベズの聖盾があろうと。
「おまえが見つけた秘密書庫が、実は志もへったくれもあったもんじゃない、ただのごみ溜めに過ぎない、ってことが」
イシュルの一撃に、ビオナートの顔が明らかに強ばる。
そろそろ止めだ、ビオナート。
「おまえは悪巧みには頭がよく回る。そんなおまえが気づかない筈がない。汚れた、そして危険な書物ばかりの書庫が、おまえに気高い志など持たせるものか。おまえがそれに騙されるものか」
イシュルはその眸の光を消すと言った。
「おまえは秘密書庫を見つけて狂喜したと言ったな。おまえの言った謎ときはこれで終わりだ」
リフィアが、左手に持った太陽神の首飾りを渡してきた。
イシュルの手にじゃらじゃらと鳴る、聖堂教会の至宝。その手に絡みつく三連の真珠は、実際に手にとって見ると、よく磨かれた翡翠(ヒスイ)か瑪瑙(メノウ)の、白い貴石だった。
よく考えてみれば丸々とした真珠などそれなりの、近代的な養殖技術がなければつくれない筈である。この世界ではあるいは、自然に存在するものなのかもしれないが。
……つまりはそう言うことなのだ。
「おまえは禁書の持つ力に目を眩ませ、ごみ溜めに心を奪われてしまった。ただそれだけなのさ」
ビオナートは見誤ったのだ。
やつは気高い志など持たなかった。そんなものは最初からなかったのだ。
「おまえはそれを得てただ王になれると、大陸を制覇できると、やがては己も神々の座に登れると、その可能性から、自らの野望を育てたに過ぎないのだ」
「……き、きさま」
天から地下に差す光のふち、影の中に先王が怒り、怖れて震えている。
イシュルはこの一場の劇の、最後の台詞(せりふ)を言った。
「先人があえて秘匿した禁書や偽書の類いが、気高い志など、大義など生み出すものか。おまえは最初から最後まで、ただの嘘つき、毒使いだった。……それだけだ」
こんなやつのために……。たったひとりの愚か者のために……。
イシュルは力なく頭を下げ、囁いた。
「リフィア」
リフィアが己が剣を両手に握りしめ、ビオナートに向かって突進する。
「やぁっ」
リフィアの気合い充分な剣先がイルベズの聖盾に突き刺さる。
必死の形相のビオナートと、その美しい顔貌に闘争心を隠そうとしないリフィア。ふたりが互いの盾と剣を突き上げ対峙する。
「くううっ」
イルベズの聖盾が震え、その魔力を歪める。
リフィアはうまく戦っていた。イシュルと決闘した時のように力任せに押さず、その剣先の一点に武神の魔力を集中させ、イルベズの聖盾の守りを主に、魔力そのもので崩そうとしていた。
今は太陽神の座はイシュルの魔力で保護されていない。彼女がこの場で力任せに戦ったら、その石盤に被害が及ぶ可能性があった。
やがて、剣と盾のぶつかるその一点に、僅かな間隙が生まれる。
イシュルはそれを待っていた。
イシュルはさっと顔を上げ、右腕をビオナートに向けて突き出した。最後の気力で風を呼ぶ。
ビオナートの頭上を風が降りてきた。
「リフィア、退け!」
イシュルが叫ぶとリフィアが後ろ飛びに数歩、後方へ退く。ミラのハルバートが元の形に戻り、さっと離れていく。
……安らかなれ、汝が魂よ。
イシュルの脳裡を一瞬、エミリアたちの面影がよぎる。
イシュルは伸ばした右手を握りしめた。
「があああああっ」
その瞬間、ビオナートは苦痛の呻き声を上げると顔を仰向け、その口から夥しい血を高く、激しく吹き上げた。
そこへ風が吹きつけ、宙に広がる血しぶきを彼の背後の、シャルカの広げた鉄の壁に叩きつける。
イルベズの聖盾はもう、その力を失っていた。
イシュルはただそれだけ、風を呼び、ビオナートの肺を掴んで潰したのだった。
ビオナートがそのまま背中から倒れ、石盤の外へ沈んでいく。
「……」
周囲は一時(いっとき)、しんとした静寂に包まれた。
イシュルは、シャルカの張った鉄の壁に描かれた血模様に目をやると、その場に崩れ落ちた。
「イシュル!」
「イシュルさま!」
リフィアが、ミラが、左右からイシュルに飛びつき、彼のからだを支える。
イシュルは鼻先に漂う香しい匂いに、俯いた顔に微笑を浮かべた。
「ありがとう」
イシュルは顔を上げ、リフィアとミラを交互に見つめ、小さな声で言った。
「おからだの具合は? イシュルさま」
ミラが切羽詰まった顔で聞いてくる。
「大丈夫、ただ疲れただけさ」
「……」
リフィアはほっと安堵の息をつくと、石盤の下に倒れたビオナートの方を見て言った。
「しかし恐ろしい技だな。あれは」
「……」
イシュルは小さく、無言で頷いた。
ビオナートの肺腑を潰すこと。——それはこのような魔力を失う状況にならなくとも、最初からやると決めていた、ビオナートを殺す最後の締めの技だった。
やつのからだを、全身を傷つけることなく葬る。そしてやつの遺体をサロモンらに引渡し、ビオナートと距離を置いていたのか、最後まで後宮に籠っていた王妃や、やつの女たちに直に検分してもらうのだ。
聖王家の血を持つサロモンが、ビオナートの死体からイルベズの聖盾を無事回収し、他の近親者にやつの遺体が当人のものか確認してもらい、それが確定した段階でこの戦いは真の終焉を迎えることになる。
イシュルの肺を潰す殺人技は、それを最後に使うことは、ミラとリフィアには先日に作戦を詰めた段階で話してあった。
だが、とにもかくにも、俺の戦いはここまでだ。
もし、あれがビオナートの偽者、影武者であったとしても、どうせやつはもう、表舞台に立つことはできない。聖冠の儀に偽者を立てるなど、教会も聖王家も、貴族たちも民衆も、誰も許さない。後始末は、やつの行方を追い始末するのはサロモンら、聖王家の仕事になる。
それに、だ。
やつは自らの秘事を、秘密の書庫を発見したことを告白したのだ。
加えてやつに引導を渡した時の感触に、イルベズの聖盾の起動。あれが偽者である可能性はほぼ皆無だ。
そこへデシオが、イシュルに近づいてきた。
彼の背後には顔を心持ち上げて瞑目する、ウルトゥーロの姿が見える。
デシオは今度は笑顔で、いつぞやの夜のように再び、その台詞を言ってきた。
「ご明察かな、イシュル殿」
それは聖石神授の往路で黒尖晶の襲撃を受けた時に、クートに、いやフレードに精霊神の魔法具について一席ぶった時、デシオが言った台詞だった。
彼は、イシュルが聖堂教会が隠した書庫の本当の意味をビオナートに知らしめ、糾弾したことを再び「ご明察」、と評してきたのだった。
イシュルが小さな笑みを浮かべてデシオを見上げた時、右からイシュルの肩を抱いていたリフィアが急に立ち上がって後ろを向いた。
「!!」
イシュルが後ろを振り向くと、リフィアはいつの間にか剣を抜き、その切っ先を石盤に踞り嗚咽している月の大神官、ヴァンドロ・エレトーレに向けていた。
「くくくっ、うー」
老人はむせび泣き、その背中が震えていた。
彼の手許からコトン、と音を立てて、小さなエストックがすべり落ちる。
それはかつて黒尖晶ら、影働きが用いていた、金系統の魔法具だった。
「……無理だ。わしにはできぬ。ううっ。……イヴェダ神を召喚した聖者を弑することなど、いったい誰ができるというのか……」
「ヴァンドロさま……」
デシオが顔を曇らせ呻いた。
ウルトゥーロとリベリオが近づいてくる。シャルカが無言でヴァンドロ・エレトーレの傍に、ミラやイシュルの後ろ側へ移動していく。
「むぅ……」
「ヴァンドロ殿、最後の最後で国王派に買収されましたな」
ウルトゥーロが嘆息し、リベリオが厳しい声音で言った。
「ふむ。まるでおもちゃだな」
リフィアがエストックをつまみ上げ仔細をあらためると、かるくポキンと二つに折って石盤の外側へ放り投げた。
彼女の眸が一瞬、赤く光る。
イシュルは踞って嗚咽する老人の背中を見つめた。
不発に終わったが、ビオナートは最後にまだひとつ、罠を仕掛けていたのだった。
リベリオは買収、と言ったが、月の神殿長もまた、ビオナートに何事か弱みを握られたのではないか。あるいは以前から国王派であったのを、中立派として偽装していたのか。
「イシュルさま!」
イシュルの厳しい横顔を見て何を思ったか、彼を左側からささえていたミラが突然、丸くすっぽり抜けた主神の間の天井、その先に広がる青空の方を指差した。
雲一つない深い青色を、曲線を描いて横切る小さな影がふたつ。
ベリンとセリオだ。
「主塔がなくなってしまいましたから。心配して見にきたのでしょう」
ミラがぐいっと身を寄せてきて、イシュルの耳許で囁く。
「やっと終わりましたわね、イシュルさま」
「ああ」
イシュルは青空を飛び回るベリンたちの姿を見上げながら、小さく頷いた。
「むっ」
リフィアがすかさず、再びイシュルの右腕に取りついてくる。
「どこか痛いところはないか? イシュル」
リフィアもミラに負けじと、イシュルに身を寄せてきた。
イシュルの顔のすぐそばに、ミラとリフィアの少し上気した顔がある。
あ、はは。
これはなんというか……。
すぐそこから、彼女たちの温かい気持ちが伝わってくる。
しばらくすると頭上に、たくさんの人びとが集まってきた。
「イシュル!」
「ミラ!」
「ウルトゥーロさま!」
サロモンやルフィッツオ、聖王家や公爵家の人びとの黒い影が、丸く穴のあいた地上からイシュルたちを見下ろし、口々に声をかけてきた。
主神の間には今や、昇りゆく太陽の陽がいっぱいに注ぎ込み、多くの人びとの前にその全貌を明らかにしている。
頭上に広がる青空の眩しさに堪えきれず、イシュルは微かに眸をすぼめた。
人びとの影は増え続け、やがてそれは繋がり大きな輪となって、青空にくっきりと浮かんで見えた。
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