聖冠の儀


 

 「ありがとう、ミラ殿」

 リフィアがミラからハンカチを受け取り涙を拭いている。

 イシュルは小さくため息をつくと周りを見回した。

 屋敷の東側を固めている兵士や魔導師たちは、イシュルが顔を向けるとみないっせいに罰が悪そうな顔になって目を逸らした。

 イシュルはリフィアの前に立つと腰を落として声をかけた。

「いいんだな。それで」

 イシュルの視線は厳しい。

「……ああ」

 リフィアはイシュルに顔をあげて言った。

 彼女の眸に未だ残る涙が、夕陽の光をひろってきらきら輝いている。

 そして再び笑顔になる。

 イシュルは胸が苦しくなって、思わず身じろぎした。

 どれだけ彼女の気持ちが強いものであろうと、また、彼女にしつこい、と思われようとも、このことはしっかりと確認し、念押ししなければならない。

 父親を殺した相手を想うこと。

 それはとても重いことなのだ。

「敵どうし、仇どうしの間柄でも、男と女が互いに惹かれ合い、恋してしまうことなど、今まででにもたくさんありましたでしょう。べつにありえない、というほどのことではないですわ」

 ミラが鼻をつんと上げて、横から面白くなさそうな顔をして言ってくる。

 彼女の面白くなさそうな、というのはわざとだ。

 ミラは自分の心のうちを知りながら、リフィアのことも否定しない。

 たとえイシュルをめぐる競争相手であろうとも、ミラには同じ女として、リフィアの肩を持ちたくなる気持ちも、どこかにあるのだろう。

 親の仇を好きになってしまう……、叶わぬ恋。

 それは確かに、乙女心をいやがうえにも燃え立たせる、甘く切ない恋物語であるのかもしれない。

 ……ふふ。

 イシュルはそこで内心、秘かに自嘲を浮かべた。

 俺はしっかり、彼女たちの情念に囚われてしまった。

 彼女たちは先のことなど考えず、いわば己の愛に忠実に生きる、と言ってきたのだ。だが、俺はそれをたやすく認めるわけにはいかない。

 愛する者を、身近なひとたちを、いっぺんに失ったあの苦しみは筆舌に尽くしがたいものがある。それを繰り返すわけにはいかない。

 だからこれからも、俺は彼女たちに抗っていかねばならないのだろう。そしてもちろん、自分の気持ちとも。

 リフィアとの再会が、そして彼女が自身の気持ちをぶつけてきてくれたからこそ、そのことに気づくことができた。もしそれがなければ、俺はミラとなしくずしに関係を深めていったかもしれない。

 ふたりの、己の愛を貫き通すことと俺の思うこと、両者にどちらが正しい、正しくない、あるいは優劣は存在しない。

 イシュルはもう一度リフィアに言った。 

「いいんだな、リフィア」

 イシュルの顔に少し強ばった苦笑が浮かぶ。

「これから先、どんな厳しいことが起こるか、明日をも知れぬ道行だぞ」

「ああ、かまわない」

 リフィアは地べたに座りこんだままだ。彼女は眸を光らせ、じっと見上げてくる。

 イシュルは彼女の手をとり、引き上げた。


 夕空のどこかで鳥が鳴いた。風がさわさわと鳴った。

 リフィアが少し恥ずかしそうな笑みを浮かべる。横でミラが苦笑している。

「ではさっそく俺たちを手伝ってもらおうか、リフィア」

 明後日の朝行われる、聖冠の儀のことを話さねばならない。

 ミラはまだリフィアに、聖冠の儀で対決するビオナートとどう戦うか、その詳しい話まではしていない。

 イシュルは唇の端をぐいと引き上げ、微笑んだ。

「まずは二日後の聖冠の儀で、ビオナートとどう戦うか、説明しよう」

「ほう……」

 リフィアの笑みが獰猛なものに変わっていく。

「リフィアさんのお部屋を手配しませんと」

 ミラが横から言ってくる。

 今はルフレイドも公爵邸に滞在している。ダナをはじめ十名ほどの宮廷魔導師たちも同様である。大小数十の部屋数がある公爵邸本邸も、さすがにもう空いている部屋がないのだろう。

 リフィアは殺気をはらんだ笑みをおさめ、イシュルとミラを見渡し言った。

「イシュルは随分と広い部屋を借りてるじゃないか。わたしはイシュルと同じ部屋でもいいぞ」

「はっ?」

「それはだめですわ!」

 リフィアめ……。

 とにかく彼女といっしょの部屋なんて、ヤバ過ぎる。それはもちろん、相手がミラでも同じだが。

「貴族の娘たる者が、そのようなはしたないことを言うものではありません」

 ミラがつんとしてリフィアに言った。一応、彼女からは以前のような刺々しさは感じられない。

 ……まぁなんだ、リフィアも冗談半分で言ってるんだろうし。

「むぅ……」

 リフィアは苦いものを飲んだような顔をすると、ミラに言い返した。

「ではミラ殿はどうなのだ? ミラ殿はイシュルと同じ部屋で……などと一瞬たりとも考えたことはない、のかな」

「そ、そ、そ、それは……」

 ミラが真っ赤になって動揺している。

 イシュルはかるく脱力して、ふたりのやりとりに苦笑を浮かべた。

 ……まぁ、とりあえず、ミラはリフィアを「さん」付け、リフィアはミラを「殿」付けだが、互いに名前で呼び合うようにはなった。

 これならなんとか、聖冠の儀もいっしょに戦えるだろう。

 これから先、ふたりが少しでも仲良くなれれば、いいのだが……。

 イシュルは苦笑を消してにこにこと、妙に動揺しているミラと、やさしげに微笑むリフィアの顔を交互に見やった。

 そんなこんなで、みな連れ立って屋敷の方へ歩きはじめると、中庭の方からルフィッツオとロメオが少し慌てた様子で近づいてきた。後ろには執事がひとりだけ、護衛の者はいない。

「イシュル君!」

「ミラ!」

 彼らはイシュルたちの前まで来ると、揃ってリフィアに顔を向けかるく会釈した。

 リフィアも腰を落とし右手を胸に当て、無言で頭を下げる。

「ようこそ当家へいらっしゃった、辺境伯代理殿」

「はじめまして、ベーム殿。サロモン殿下から貴女のことを聞いてね」

 ルフィッツオとロメオがリフィアに愛想よく言ってくる。

 リフィアは本来なら、彼らにとって強力無比な魔法具を持つ警戒すべき相手だが、今この時期において味方についてくれるなら、逆にこれ以上心強い存在はない、ということになる。

 彼らのリフィアを歓迎する気持ちが、イシュルたちにも充分伝わってきた。

「今は敵方の攻撃も止んでいる。みんなでかるく晩餐をともにしましょう」

 とルフィッツオが言った。

「きみたちが外に出ているからね。相手も動くに動けないんだろう」

 ロメオが続いて言った。

「ふふ。ではまいりましょう、リフィアさん。お兄さま方にもサラを助けていただいたこと、お話しなければ」

 ミラがリフィアに笑みを向けて言った。リフィアはミラに頷いてみせると、ルフィッツオらに丁重に挨拶を返した。

「……」

 イシュルが彼女らの一番後ろにつくと、なぜかミラとリフィアの後に並んで歩きはじめた、ルフィッツオとロメオがふと立ち止まって振り返り、ふたり揃ってイシュルの顔をじーっと見つめてきた。

「イシュル君!」

 そして、ふたりはいきなりイシュルの肩を掴んできた。

 ルフィッツオがイシュルの左肩を、ロメオが右肩をだ。ふたりの顔がぬーっとイシュルに近づてくる。

「わかってるね?」

 と、ルフィッツオ。

「ミラのことだ」

 と、ロメオ。

「……!」

 イシュルは両目をこれでもかと見開き、顔を強ばらせた。

 ふたりの笑顔が恐い。

「くれぐれもミラのことは頼んだよ」

「妹を幸せにしてやってくれ」

 イシュルの肩を掴むふたりの手に力が込められる。

 ひっ。

 思わぬ伏兵が、ここにも……。

 リフィアの登場に、彼らもミラのことが気になったのだろう。ひょっとすると、サロモンからそこら辺も何か、聞かされているかもしれない。

 イシュルはふたりにこくこくと、何度も頷いてみせた。

 そのイシュルの眸が、彼らの背後に佇む大きな女の影に向けられる。

「げっ……」

 イシュルは何とも言えない顔になって固まった。

 ルフィッツオたちの背後から、シャルカが仁王立ちになってイシュルを見ていた。彼女は彼女で双子の言葉にうんうんと何度も頷き、イシュルに強い視線を向けてくる。

 彼女もルフィッツオらと同じ気持ちらしい。

 イシュルは心のうちで嘆息した。

 シャルカ、……おまえもか。


 


 海を泳ぐエイのような形をした黒い影の群れが、夜闇をうごめき渡っていく。

 イシュルは屋敷の屋根の上に背を低くし、東の夜空を見やった。 

 ……懐かしいじゃないか。

 あれはエミリア姉妹が自身のガントレットに封じていた黒い悪霊、荒神の下位精霊だ。魔法、というより魔力には弱いが、物理攻撃がほとんど効かず、対人戦闘にめっぽう強い。

 あれの上位精霊は魔封陣を埋め込めるのか、あるいは自身が展開できるのか、ウーメオの舌で黒尖晶の長(おさ)が使ってきた。

 あの悪霊の群れは、公爵邸の東側に陣取る兵士たちを襲おうとしているのだろう。

 そこへさっと、イシュルの耳許を風の魔力が吹き流れる。

 夜空を渡る黒い影がすべて、音も無く忽然と消え去った。

 イシュルは公爵邸の南側にある広場の東の端、神学校の石積みの塀のあたりに目をやった。

 その辺りにわだかまる深い影に、怪しい者たちの気配が混ざっている。

 あの悪霊を使ってきたやつらだろう。国王派の影働きだ。

 今度はイシュルがその深い影に風の魔力を突き刺し抉った。

 複数のひとの気配が霧散し、闇の中に沈んでいくのがわかる。

「お見事、剣殿」

 どこにいるのか。クラウの声が脳裡をこだまする。

「あんたもな、クラウ」

 イシュルは屋根の上から立ち上がり、中庭の方へ顔を向けた。

 少し離れた空中にクラウが薄らと姿を現す。

「ずっと働きっぱなしだろ? すまないな」

「いや」

 イシュルのねぎらいに、クラウは短く答えた。

 だが風の大精霊の機嫌は悪くない。

 召喚された精霊は通常、召喚者の持つ魔法具を通じて魔力を供給される。だが、精霊自身も魔法具とは別にもといた異界とつながっている場合があり、常に魔法具や魔法陣のみに魔力の供給を頼っている、とは一概に言えない。でないと自身でこの人の世に姿を現し、人間にいたずらしたり、何らかの神意を表したりする精霊の説明がつかない。

 また、多くの召喚精霊は召喚者の気力、精神力の強い影響を受けている、ともいえない。

 魔力の供給が続くかぎり精霊は己の力を失うことはなく、召喚者の疲労や、たとえば睡眠中でもその力を維持できる所以である。

 だから、クラウが疲労を感じる、ということはない筈なのだが……。

「心配は無用だ、剣殿。わたしはすこぶる調子がいい」

「……」

 イシュルは半ば呆然とクラウの顔を見つめた。

 いつもより声音が弾んでいる。気力が充実しているというか。

 クラウはいつの間にか、イシュルの傍まで移動してきている。

「……そ、そうか。ここ二、三日は、こんな状況が続くと思うが」

 イシュルとリフィアが“決闘”した午後、夕方は敵方の攻撃が止んでいたが、夜になると再び、小規模の攻撃が断続的に繰り返されるようになった。

 その少し前に屋敷に戻るとイシュルは、ミラとともに聖冠の儀での作戦をリフィアに説明した。

 リフィアからは幾つかの質問がなされ、幾つかの問題点もでてきたが、それも三人で話し合って解決、彼女の加入でより強力な、いや、圧倒的に強力な布陣で決戦に臨むことになった。

 話し合いの途中で敵方の襲撃が再開され、屋敷の外も騒がしくなってきたが、イシュルが動くより早くクラウがすべての攻撃を防ぎ、敵戦力を排除してしまった。

 クラウは自信満々、まったく疲れも見せず、胸を張って堂々と言った。

「おまかせあれ、剣殿」

 クラウの口調が重々しい。まるで赤帝龍と、ともに戦った力自慢の大精霊、カルリルトスのような口ぶりだ。

「あ、ああ」

 今度こそイシュルは呆然とクラウを見やった。 

 何がどうなっているのか。

 だが、この局面で、彼の調子がいいのは助かる。

 イシュルは少し強引に笑顔をつくるとクラウに頷いてみせた。

「それはたのもしい。これから俺は、ちょっと王城の方に行ってくる。なるべく早く帰ってくるから、よろしく頼む」

 これから王城の荒神の塔に赴き、ドロイテ・シェラールを解放する。

 明日から明後日の早朝、特に明日の夜は敵方の妨害工作が最高潮に達するだろう。その前にドロイテに暴れてもらって敵方を混乱させる。彼女がうまく宮廷魔導師長、マデルン・バルロードを殺すことができれば、敵方の公爵邸に対する攻勢もかなり弱まるだろう。敵の攻勢の出鼻を挫くのだ。

「御意」

 クラウがそう答えると同時、イシュルは夜空に飛び上がった。


 視界を薄い雲の層が幾つも下へ流れていく。

 イシュルは二千長歩(スカル、約千三百m)ほどの高度まで上昇すると、王城の北側を大きく回り込んで、荒神の塔の真北から一直線に王城内郭に侵入した。そして塔の真上から一気に降下し、ドロイテの幽閉されている最頂部の鉄扉の前に降り立った。イシュルはまるで、空中の見えない地面に立つようにして浮いている。

 鉄扉の前の、イシュルが偽装して巻きつけた鉄の鎖は以前のままだ。

 だが、油断はできない。以前にくらったトラップが再び設置されていないか、作動しないか、イシュルは鉄の扉に掌を当てて魔力の存在を探った。

 問題はなさそうだ。塔の内側には魔封陣の魔力以外に怪しいものは感じられない。

 イシュルは一端扉から離れると、その鉄扉と鎖を、風の魔力を横に薙いで吹き飛ばした。

 鉄扉と鎖はほとんど無音で夜空に高く吹き飛ばされ、きらきらと月の光を反射して夜闇を舞っている。

 イシュルはそれを細かく砕いて、さらに遠くの空へ押しやった。

 もう、誰かに俺の魔力を見られてもかまわない。ドロイテには悪いが、彼女が脱獄したことを敵方が知れば、ドロイテの存在を知っている者であれば捨て置けないだろう。それはそれで充分な牽制になるのだ。

 イシュルはその場で、続いて塔内に設置された二重魔法陣の、下側の魔法陣を引き裂いた。

「おっおっ」

 塔内からあの女の驚く声がする。

 イシュルは再び塔によっていき、鉄扉をはずし何もなくなった窓から中を覗いた。

「やぁ、今晩は。婆さん」

「おお、おお、ついにきたか。この時が」

 荒神の塔の内部は相変わらず、イシュルの砕いた石盤の上に、美しい女が踞るようにして座り込んでいた。彼女は両目を大きく見開き、喜びに全身を細かく震わせていた。

 しかしなんとも美しい。なんだか婆さんなんて呼ぶと、妙な罪悪感にとらわれる……。

 ドロイテは上から、薄く青く輝く魔封の魔力を浴びて、妖しく輝いて見える。

「さぁ、上の魔法陣も壊しておくれ」

 その美貌から発せられる言葉は、何ともとんちんかんな老女の口調だ。

「その前に」

 イシュルはにんまり笑みを浮かべて言った。

「あんたを解放する前に、やはりちょっと頼みたいことができてさ」

「なんじゃい。そなたは妾がマデルンを殺せばよいのじゃろ?」

「そうなんだが、できればあんたの実力をいっぱいに使って、思いっきり派手にやってくれないか。やつの派閥の魔導師や騎士団のやつらを、ひとりでも多く冥府に送ってやって欲しいんだ。王城を派手に壊してもかまわない」

「ふん、そういうことか。そなたは妾を牽制に使うつもりだったかの」

「そうだ」

「そんなことならお安い御用じゃ。妾の邪魔立てをするやつはみな妾の敵じゃ」

「……」

 イシュルは薄く笑って頷いた。

「マデルン・バルロードは王城の西側にいると思う。こともあろうに大聖堂の近くで荒事が起きてしまってね」

「……左様か」

 ドロイテは両目をしばたいた。そして僅かに顔を俯け言った。

「ビオナートもからんでおるのか。やつが今の王であろう」

「まぁ、そんなところだ」

「そなたはやつの敵対派閥で働いている……というわけか」

「……」

 イシュルは再び無言で頷く。

「ではビオナートも——」

「やつは俺がやる」

 イシュルはドロイテを鋭く遮った。

「ふむ……。わかった。では妾はマデルンに集中するとしよう」

「ああ。とびきり派手な死に花を咲かせてくれ。あんたの本望が遂げられるよう、祈ってる」

「うむ、かたじけない。……さらばじゃ、イヴェダの剣よ」

 一瞬、少年と水の魔女の視線が交錯する。

 イシュルは塔から離れると、室内上部に設置された魔封陣を破壊した。

 と同時に、轟音とともに塔の窓の周辺が吹き飛び、水色に輝く魔力の奔流がイシュルの視界を覆った。

 ドロイテ・シェラールは自由になったのだ。

 それは夜空に長く尾を引き、王城に浮かぶ塔の影の間をぬって消えていった。


 今、マデルン・バルロードはどこにいるだろう。

 一番可能性が高いのはドロイテに教えたとおり、王城西側にある騎士団本部や宿舎の固まったあたりではないだろうか。やつや、各騎士団長らはそこら辺に指揮所を開設し、ディエラード公爵邸攻撃の指揮を執っているのではないか。

 あるいは月神の塔、魔導師の塔にいるのか。

 ドロイテにはできれば今すぐではなく、明日、夜が明けてからやつを葬って欲しい。日中に派手にやってもらった方が騒ぎがすぐに伝わり、より大きくなるからだ。

 ドロイテは元魔導師長だったのだから、王城内部に詳しいだろう。マデルン・バルロードが何か魔法を使えば、すぐにやつの居場所を特定するだろう。

 だが、彼女はやつを見つけても、すぐに襲ったりはしないだろう。寝込みを襲うようなことはしないだろう。やつが起床し、戦える状況になるまで待つはずだ。ドロイテはマデルンにちゃんと名乗りを上げ、己を貶めた報復に来たと告げてからはじめるだろう。

 復讐する者は相手になぜ殺すか、それを告げずにはいられない。相手になぜ殺されるのか、その理由をしっかりと理解してもらわなければ、せっかくの復讐も片手落ちになってしまう。

 ドロイテがマデルン・バルロードを殺るのは日が昇ってからだろう。そうであってほしい。

 イシュルはドロイテの水色に輝く姿が消えた、王城に広がる闇の奥底へ目を凝らした。




 翌日、日が高く昇ってからも、ドロイテにそれらしい動きはなかった。

 影働きを中心とした敵方の公爵邸への襲撃は明け方には終わり、夜が明けてからしばらく、敵側の動きは止まった。

 彼らが動き出したのは昼を過ぎたあたりからだ。

 公爵邸の防御の弱い東側正面は、普段あまり使われることのない聖堂騎士団の練兵場になっていて、一帯は木々がまばらに生える草地になっている。その奥、突き当たりの王城の城壁の下に、聖堂騎士団、第三騎士団を中心とする国王派の部隊が集結しはじめたのである。

 敵方、ビオナートは影働き、魔導師の消耗に堪えきれなくなり、いよいよ通常兵力を投入しはじめたのか。あるいは、イシュルたち正義派が失敗した時に動こうとしているサロモンの意図を読み、あらかじめ兵力を展開し備えようとしているのか。そのどちらかか、両方に対応した行動と考えられた。

「しかしな……」

 知らせを受けて公爵邸の東側に集まってきたイシュルたちは今、目の前に展開されている異様な光景に、その場に呆然と佇んでいた。

 イシュルの右横にはミラが、そのすぐ後ろにはシャルカがいる。

 ミラは難しい顔になって眸を細め、シャルカには僅かだが明らかに、脅えの色が見える。

「すばらしいお方だ……」

 イシュルの左側にいるネリーが、不気味な破壊と殺戮の音が響き渡る中、感嘆の声をあげている。

 ネリーは……、おまえはそうなんだよな。ひょっとしてミラから鞍替えか?

 そんな意地の悪い感慨を声には出さず、イシュルはちらっと恍惚な表情を浮かべるネリーの顔を見やった。

 ネリーの向こう側にはサロモンと彼のお付きの者たち、ダナら味方についた宮廷魔導師たちの姿も見える。

 彼らもそろってみな呆然と、前方、王城の城壁前で国王派騎士団兵が屠殺されていくさまを見つめていた。

「ふん!」 「やぁ!」

 などと女の高い叫声が響くたびに、甲冑がぶつかりひしゃげ、兵士が宙に飛ばされ、城壁に、地面に叩きつけられる不気味な音がイシュルたちの方に響いてくる。それが続いている。

 公爵邸東側正面に布陣しつつあった国王派の騎士団に単騎で挑み、彼らを一方的に殺戮しているのはリフィアだった。城壁の手前に横に長く展開した騎士団兵は少なくとも数百はいる。

 彼女の動きが一瞬止まるとその時だけ、彼女の銀髪がきらきらと輝き空を舞うのが見え、彼女の気迫のこもった声が聞こえてくる。それ以外は投げ飛ばされ、蹴り飛ばされ、踏みつぶされる騎士や兵士たちの姿しか肉眼には見えてこない。

 後はただ、あの美しいが凶悪な魔力の光輪が煌めき、周囲に閃光となって走るだけだ。

「これで我が方の勝ちは決まったな」

 と、少し楽しげなサロモンの声が聞こえてくる。

 聖堂騎士団の主力は重装歩兵なのだ。それがまるで人形のようにリフィアに投げ飛ばされていく。

 王城の城壁の前に軍勢が展開しはじめると、それをイシュルらとともに見に来たリフィアは、「では明日のために、かるく慣らしておくか」と言って、イシュルの静止も聞かず眸を赤く輝かせ、いきなり敵方へ飛び込んでいったのだった。

 ……昨日、俺と決闘してだいぶ疲れてるんじゃないのか? あいつ。

 いいんだ? 大丈夫なんだ? OKなんだ?

「化け物め……」

 やはりあいつは戦闘狂か。戦闘バカだな。

「ふふっ」

 イシュルが呻くように言うと、横でミラが小さく笑った。

「あのように派手になさらなくても……。相手が騎士団ならわたくしがお相手いたしましたのに」

 そうだろうな。敵は全身、鉄で覆われている。歩兵だから動きは鈍いし、前にも聞いたがミラやシャルカにとってはたやすい相手だろう。

 ん……?

 そこで何気に、イシュルが城壁の向こうへ視線をやると同時、聖堂騎士団を相手に暴れていたリフィアの気配が一瞬で掻き消えた。

「何か来るぞ」

 リフィアの声がすぐ側でする。

 彼女はあっという間にイシュルの横に姿を現し、同じ方を向いて呟いた。

 その瞬間、膨大な魔力の煌めきとともに城壁の向こうで大爆発が起き、水煙が辺りを覆った。ドンと空気が震え、地面が揺れる。巨大な水の爆発はそのまま大瀑布となって城壁の向こう側に降り注ぎ、直後に手前の城壁の一部を破壊した。

 大小の石が吹き飛び、水が奔流となって溢れ出す。

 騎士団兵の一部は落下してきた水の渦に巻き込まれ、北に面するアニエーレ川まで押し流されていった。

 空に漂う水霧、その中で城壁を越え星のように煌めく魔力の光点がふたつ。

 イシュルは抜け目なくその煌めきを双眸にとらえた。

 やったか! ドロイテ……。

 あの水煙の中に光った魔力。あの煌めきはマデルン・バルロードに止めを刺したものではないだろうか。

「……あれは」

「水の魔法ですわね。しかも大魔法。あんな水魔法を使える魔導師は我が王国にはおりませんわ」

 リフイアの呟きに答えるミラ。そして彼女はイシュルに意味ありげな視線を向けてくる。

「……!」

 その視線がふいっと、明後日の方へ向けられる。

「イシュルさん!」

 イシュルは自分に近づいてくるその人物の方へ振り返った。

 ダナが顔を青くしてイシュルの方へ向かってくる。

 イシュルは以前に、ダナとミラにドロイテ・シェラールのことを尋ねたことがあったのだ。

 ダナとミラはそのことと、目の前で披露された水の大魔法、そしてほくそ笑むイシュルの顔を見てピンときたのだろう。

「イシュルさん、あなた……」

 いつもは余裕のある、柔らかなダナの声が真剣だ。

「彼女は荒神の塔に幽閉されていたんだ」

「まだ生きていらしたの?」

「……」

 イシュルはダナに無言で頷くと、王城の方に目を向けた。

 城壁からは所々に、未だに水が漏れ出て下の草地に降り注いでいる。そこにうごめく騎士団の兵士らが、無惨な姿をさらしていた。

「彼女が宮廷魔導師長に報復したい、と言うのでね。手助けしたのさ」

 イシュルは薄く笑ってミラたちを見渡した。

「どうやら見事、本望を遂げたらしい」

「……」

 ダナは複雑な表情になって僅かに肩を落とし、イシュルから王城の方へ視線を向けた。

「やるじゃないか。イシュル」

 事情を理解したらしい、リフィアの低く抑えた声がした。

 サロモンや他の魔道師たちがイシュルたちに近寄ってくる。

 イシュルは微笑を浮かべるリフィアに目をやり、サロモンたちを見、そしてダナの見つめる王城の方へ視線を移した。

「王城に遊びに行くのはおやめになって、と、あれほど申しましたのに」

 その時後ろから、ミラのいささか物騒な囁きが聞こえてきた。




 陽は西に傾き、夕闇が訪れようとしている。

 窓から吹き込む風が涼しい。

 自室の居間の長椅子に横になり、イシュルは時にうつらうつらとしながら、ぼんやりとしてからだを休めている。

 大陸中央よりやや南に位置するここ聖都も、もう間もなく、窓を開けていられないほどに冷え込む季節がやってくる。

 リフィアが暴れ、ドロイテ・シェラールが派手な水魔法を使ってからすぐ、イシュルたちにも王城内の情報がもたらされた。

 王城内部にも紫や白尖晶、サロモンらの間者が多数入り込んでいる。王城を揺るがす大事件が起こったのだ。その第一報はまたたく間に聖都を駆け巡った。収穫祭の期間中でもそれは変わることがなかった。

 ドロイテは荒神の塔から脱獄、王城西側外郭にある第三騎士団の本部庁舎で、デェラード公爵邸攻撃の指揮を執っていたマデルン・バルロードを殺害した。傍にいた宮廷魔導師数名、同じく騎士団長のバスケスも巻き添えになって死亡した。

 彼女は強力な水魔法を使い、第三騎士団本部庁舎はほぼ全壊、周囲の他の建物、城壁にも被害が及んだ。彼女の魔法に巻き込まれ、他にも多くの死者と行方不明者が出ているという。

 マデルンは土系統の魔法で彼女の初撃をなんとか防いだものの、続いて行われた無数の水槍による集中攻撃に抗しきれず、その時点で絶命したらしい。

 ドロイテ・シェラールのその後の行方はまだ、情報が入ってきていない。

 彼女はもうあまり長くは生きられない、と言っていたから、マデルン・バルロードを殺して力を使い果たし、直後に息絶えたのかもしれない。

 イシュルはかるく閉じていた瞼を開き、東の窓越しに王城の方を見た。

 彼女は、ドロイテは、満足して死ねたろうか。

 あんな境遇に置かれなければ、彼女はきっと、幸せな人生を送ったのではないか。

 彼女はなかなか楽しい、明るい人柄だったのだ。

 ドロイテ・シェラールはビオナートによる王位簒奪の犠牲者だった。それはつまり、やつの野望の犠牲になったエミリア姉妹やセルダたちと何ら変わることがない。たとえ彼女らが、やつと敵対する正義派として動いていたとしても、だ。

 俺にとってはそうだ。同じだ。何も変わらない。

 そもそもやつが聖堂教会を、大陸全土を掌中におさめようなどと馬鹿げた野望を持たなければ、彼女らが死ぬことはなかったのだ。

「ん?」

 イシュルは上半身を起こし、晩餐室、控えの間へ続く扉の方を見た。

 ひとり、誰かが近づいてくる。

「イシュル、いるか」

 扉の向こうからくぐもった女の声がする。

 リフィアだ。

「どうぞ」

 イシュルが立ち上がるより早く、リフィアが扉を開けて入ってきた。

「そのまま、そのまま。休んでいたんだろう?」

 リフィアが首を傾け笑顔で言う。彼女はイシュルの向かいの椅子に座った。

「どうしたんだ?」

 イシュルは少し驚いた顔から真面目な顔になって言った。

 確かリフィアは下の小薔薇の間で、ミラやダナ、公爵家魔導師長のコレットらとお茶を飲んで談笑していた筈である。

 ドロイテの大魔法の後、イシュルの目論みどおり国王派の攻撃はぴたりと止まった。

 宮廷魔導師長と第三騎士団長が死亡し、他にも多くの死傷者が出たのだ。敵方が未だ混乱状態にあるのは確かだ。

 それでミラたちにも、お茶を喫する余裕ができたのだった。

「みないろいろと気を遣ってくれるんだが……、少し居づらくなってな」

 リフィアはかるく苦笑を浮かべながら言った。

「そうか」

 ミラを除いて彼女にとっては初対面の、それも異国の人たちばかりだ。それは確かに居づらくなるかもしれない。

「その……、イシュルに聞きたいことがあるんだが」

 リフィアが顔を俯け、上目づかいに聞いてくる。

「なんだ?」

「わたしが聖堂騎士団と戦っているとき、イシュルはどう思った?」

「え……?」

「敵の兵士はいいのだ。仕方がない。わたしに斃される側だからな。だが、わたしが手助けしている味方の者から」

 リフィアが視線をそらす。

「……化け物のようにみられるのは、やはり少し気になる」

「……!!」

 それは……。俺がそのまんま口に出して言ったことじゃないか。

 イシュルは思わず顔を強ばらせた。

 リフィア……。

「さきほど、聖王国の魔導師の方々と談笑していたのだが、彼女たちの眸にちらちらと、……そんなふうにわたしを見ているのがわかるんだ」

「まさか、それが嫌で席をはずしたのか……」

「いや。ただ、話が合わないことが多くてな。互いに異国の者どうし、それも当然だろう。その……、そんなに気にしているわけじゃないんだ。そんなことはもう慣れている。でも……」

 リフィアがじっと見つめてくる。

「となり」

 彼女はぼそっと口にした。

「となりに座ってもいいかな?」

 はっ?

 イシュルは自身の右側に目をやった。

 長椅子だから、隣が空いている。

「い、いいけど」

 イシュルは少しどぎまぎして言った。

 リフィアがそんなことを言うなんて……。

「ありがとう」

 リフィアがさっとイシュルのとなりに座ってきた。

 よくわからないが、さすが剣士の身のこなし、と言った感じか。彼女の動きはさりげなく自然で、素早かった。

「……」

 イシュルは当惑して視線を宙に彷徨わせた。

 しかも、彼女はただ俺の横に座っているわけではない。

 ……ち、近い。顔が。

 彼女の顔がすぐ横にある。

 彼女の肩と腰がちらちらと俺に触れてくる。

 なぜだろう。リフィアは香水をつけているのか。微かに漂ってくる甘い香り……。

「イシュルもやっぱり、わたしのことを化け物と思ったか?」

 リフィアの横顔が俯く。

 流れるような銀髪の先に彼女の顔が僅かに見える。リフィアの長い睫毛がふるえている……。

 確かに俺はそれを口にした。

 だがそんなこと、今さらじゃないか。俺はそんなことに罪悪感なんか感じたりしない。

 なぜなら彼女は強さだけではない、美しさもまた“化け物”、人間離れしているからだ。

 それにおまえは……。

「もしイシュルがあの時、そう思ったとしてもわたしはかまわないんだ。誰にどう思われようと気にしない。だって……」

 リフィアが顔を向けてくる。

 彼女の眸が何かを言っている。何かを求めてくる。

「今のわたしは、おまえのために戦っているんだ」

 リフィアはしっかり言い切った。

 ……だから、わたしはなんだってできる。

「くっ」

 イシュルは、ハンマーで脳天を思いっきり殴られたような衝撃に見舞われた。

「……イシュル」

 リフィアの顔が近づいてくる。その揺れる眸が閉じられようとしている。

「リフィア」

 もうだめだ。ここまで言われて引き下がれるか?

 イシュルの両手が彼女の背中にまわされる。

「!!」

 ——その時。

 イシュルはこれでもかという勢いで椅子から飛び上がった。

 この部屋に高速で近づいてくる者がいる。その者は小走りで控えの間を抜け……。

 イシュルは長椅子から、リフィアから離れた。なりふりかまっている状況ではなかった。

 誰が近づいてくるのか、イシュルの本能が叫んでいた。その者の名を。

 バン、というけたたましい音ともに部屋の扉が開かれる。

 ノックする音も声も、おとないを入れることもなく、いきなりだった。

「リフィアさん! 抜け駆けは禁止ですわ!」

 そこにはミラがすくっと立っていた。

 げ、げっ?

 イシュルは呆然としてミラを見た。……言葉がでない。

「ははっ、あははははは」

 そこでリフィアがミラを見、イシュルを見て笑いはじめた。

 部屋の中が明るい、楽しげな彼女の笑い声でいっぱいになる。

「……もう」

 ミラが肩の力を抜いて、小さくため息をついた。

 リフィア……。おまえ、まさか。

 やられた? 俺はまさか、彼女に弄ばれたのか。

「……」

 イシュルも脱力してミラを見、笑い続けるリフィアを見た。

 ……そうだ。

 おまえを化け物と思おうが、俺は罪悪感なんかちっとも感じない。

 おまえは美しくて、ただそれだけじゃない、まるで太陽のように輝いているからだ。




 東の空が明けそめ、王城の黒い影をくっきりと縁取っていく。

 日の出が近いのだ。

 もう少しで太陽が顔を出す。

 イシュルは今、ディエラード公爵家の本邸、屋敷の屋根の上にいた。

 隣にはミラがイシュルと同じように片足を立てて座り、その奥にシャルカが、その反対側、東側にはリフィアが立っている。

「いよいよですわね」

 ミラが大聖堂の主塔を見つめながら言ってくる。

「ああ」

 イシュルもリフィアもシャルカも、みなミラと同じように大聖堂の主塔を見つめている。

 聖都で最も高く大きい荘厳な塔、その東側の面が少しずつ明るさを増し、重く沈む塔の影を背景から浮き立たせている。

 ついにこの時がきたのだ。

 聖王国の貴族であり、俺と出会う前から国王派と戦ってきたミラにとっては、より感慨深いものがあるだろう。

 イシュルは首をひねって東北方の空遠く、聖石鉱山のある方を見た。あそこにはエミリアたちが眠っている。

 待ってろよ。かならずビオナートを倒してみせる。

 イシュルの視界の端を、リフィアの長い髪が風になびいてはためく。

 その影がふいに鋭い光をはらんだ。

 水平に伸びる幾つもの光線がイシュルの周りを走っていく。

 王城の影に重なる山の影、そこから太陽が頭を出した。

 日の出だ。

「いくぞ」

 イシュルは己の東側に立つリフィアを見、反対側を向いてミラを見た。

「はい、イシュルさま」

 シャルカがかがみ、その肩にミラが飛び乗る。

 ふたりはそのまま空に舞い上がった。

「ではわたしもいく」

 横からリフィアの落ち着いた声が聞こえてくる。

「ああ、たのむ」

 イシュルはリフィアに振り向き言った。

「手筈どおりに」

「まかせろ」

 リフィアの眸が赤く煌き、尾を引いた。

 彼女の姿が消える。

イシュルは、正面に輝きを増した大聖堂をひと睨みすると、屋根を蹴って明けそめる夜空へ飛んだ。

 

 イシュルはすぐにミラたちに追いつき、彼女たちのやや前方に出ると大聖堂主塔の北面、ちょうど中程の高さにある、横に三つ並ぶ縦長の窓を見つめた。

 あの窓を破り塔内に侵入、その階にある内塔の最上部、開口部から地下にある主神の間に突入するのだ。

 そろそろ聖冠の儀も始まっているだろう。内塔下部にある鉄蓋は日の出とともに開かれている筈である。

 イシュルは主塔と地下の主神の間の構造を知ってから、公爵邸から空中を経由し主塔に侵入、内塔上部から下方へ、敵方の不意をついて主神の間に突入することを考えていた。

 先日の深夜、主神の間の下見をした時、デシオは儀式がはじまるまで、その側にあった物置兼控え部屋に待機するよう提案してきたが、イシュルはそれを断り、大聖堂北側の窓の一ヶ所を割って、強引に主塔内部に入り込む許可を求めた。

 イシュルは日の出とともに始まる聖冠の儀に、主神の間上部から奇襲的に突入する作戦をデシオやウルトゥーロに提案したのだった。

 この策を用いれば、対決の初動時において、ビオナートが主神の間の周囲に秘かに配置するであろう、剣士や猟兵らの妨害を受けることはない。

 そして突入直後にはまず最初に、新たに加わった強力な戦力であるリフィアを切り込み役にして、彼らを一気に掃討してしまう。

 リフィアの掃討後は、ミラやシャルカとともにウルトゥーロらを護衛させ、あるいはビオナートに対する牽制に使い、イシュルはビオナート、さらにマレフィオアとの対決に専念する……。

 これがイシュルの考えた作戦だった。

 当初はイシュルがリフィアを抱き上げ、ともに空中を移動する手筈であったが、ミラが微かにその視線に不安と抗議の色をのせ イシュルを見つめてきた。

 彼女は口にこそ出さなかったが、リフィアにもお姫さまだっこをするのか、とイシュルに問うてきたのである。

 それをリフィアが敏感に察したのか、怯むイシュルに「わたしは地上から行く」と譲歩してきたのである。

 公爵邸と大聖堂の間はまず広場があり、そこから先は石造りのしっかりした建物が密集している。深い森や湿地などと違い、リフィアが武神の矢を発動すれば、人並みはずれた早さで建物の屋根づたいに跳躍を繰り返し、むしろ空中を移動するイシュルより早く大聖堂に到着するのは明白だった。

 リフィアは、そこから主塔の中間部まで登るのも問題ない、と言った。彼女の力を持ってすれば、それくらいの高さなら勢いをつけて跳躍すれば問題なく到達できるし、もしそれができなかったとしても、塔の外壁の窓枠や凹凸部を足場に簡単に登ることができる、ということだった。

 当日早朝はその公爵邸と大聖堂の間の建物の密集した辺りに、敵方の影働きや魔導師など、妨害要員が潜んでいるかもしれない。ついでにリフィアが囮となって彼らの攻撃を引き受け、余裕があれば掃討することになった。

 イシュルは目的の大聖堂のガラス窓が近づくと、それを霧状になるまで細かく切り刻み、ガラス板と格子の部分を消失させた。

 主塔に突入する一瞬前に下の方を見やる。

 リフィアが屋根づたいにちらっ、ちらっと姿を現して進んでいるのが見える。彼女の周囲には火球や風球が炸裂し、時に血煙が立ち上っていた。リフィアは敵方の妨害をまるで何もなかったかのごとくかるくいなし、大聖堂に向かって突き進んでいた。

 イシュルは主塔の内部に突入すると瞬間、かるく両手を広げからだを横に捻って反転、内塔の内側に直角に侵入、急降下していった。後ろから少し遅れてミラとシャルカが続いてくるのがわかる。

 当然、鉄蓋はもう開かれている。イシュルは内塔に突入するとその先、真っ暗に沈む主神の間を見つめた。

 主神の間を、僅かに暖色を帯びた明るい魔力の帳が降りているのが感じられる。もう太陽神の座は起動されている。イシュルは頭を下にして垂直に落下しながら、シャツ越しに胸元のもうひとつの太陽神の首飾りを握った。

 そして心のうちで「座を閉じよ、結界よ、光の魔力よ去れ」と念じた。

 手応えはあった。イシュルの胸を一瞬熱い何かが通り過ぎ、下方の主神の間から光の魔力が消え去る。

 やった……。カルノから借りた首飾りは、見事にその力を発揮したのだった。

 イシュルは感覚を眼下の主神の間に伸ばし、太陽神の座の石盤上を風の魔力で蓋をするように覆った。これで太陽神の座の再起動は阻止され、同時に石盤の保護ができることになる。

 その瞬間、ミラたちを追い越し、イシュルの背後から急速に迫ってくるひとの気配があった。リフィアだ。

 彼女はあっという間にイシュルを追い越し主神の間に突入、着地と同時に周囲を異常な早さで駆け巡った。

 リフィアの魔力の光輪が幾つもの閃光となってイシュルの視界を覆う。

 同時にイシュルも主神の間内部に突入する。

 その一瞬前、イシュルには彼を見上げてほくそえむ、ビオナートの顔が見えた気がした。

 イシュルが太陽神の座の石盤上に降り立つと、続いてミラとシャルカが着地、彼女たちは素早くイシュルの左側にいたウルトゥーロとデシオ、大聖堂のもうひとりの大神官、リベリオ・アダーニの前に移動した。

 イシュルの右側にはリフィアが何事もなく、剣も抜かずに立っていた。彼女の背後には立会人のひとりである、月神の神殿長ヴァンドロ・エレトーレが呆然とした顔つきで立っている。

 彼は中立で、こちらの目論みをくわしく知らされていない筈だ。

 イシュルはそして、リフィアの右手に握られているものに目をやった。彼女の右手には聖堂教会の至宝、おそらくウルトゥーロからビオナートに渡されようとしていた、太陽神の首飾りが握られていた。

 イシュルの目の前には、割れた白い仮面、変わり身の魔法具とともにふたりの男が倒れている。彼らの側には他に短剣も落ちていた。

 このふたりは、聖冠の儀に介添え役として参加する見習い神官だった、彼らに化けていたビオナートの手の者だった。おそらく、ウルトゥーロがビオナートに太陽神の首飾りを授与しようとする段で、介添えに入った彼らが正体を現し、ウルトゥーロから太陽神の首飾りを力まかせに奪い、リベリオやデシオらを害そうとしたのではないか。それをリフィアが阻止して彼らを返り討ちにした、ということだろう。

 倒れているふたりの男のうちひとりは見覚えがあった。かつてクレンベルを発った明くる日、あの草原でマデルン・バルロードらが妨害してきた時、彼を護衛していた男の方と同じ人物のように思えた。

 ……随分と腕の立つやつだったのに。それもリフィアにとっては木偶も同然か。

 周囲の壁は所々傷がつき、ひび割れている。そして石盤の外側には他にも倒れている者がいる。

 みな、リフィアによって倒された国王派の者たちだろう。

 壁のひび割れの下に倒れている男たちは……、つまりそういうことなのだろう。

 周囲の状況をさっと確認して、イシュルは彼の斜め前に立つ最後の人物、ビオナートと思われる大神官の服装をした男に目をやった。

 その男は首を仰向け、イシュルの突入してきた内塔の上の方を見ていた。

 そしてイシュルの視線に気づいたか、薄らと笑みを浮かべた顔をイシュルに向け、睨んできた。

「まさか上からくるとはな」

 ビオナートはまだ五十前、ということだったが、歳のわりには顔が痩せて筋張り、皺が多かった。

 以前に、宮廷に禁足されたルフィッツオを救出した時対面した、彼の影武者とはあまり似ていなかった。

 ビオナートはサロモンと同じ色の銀髪を真ん中で分け、肩にかかるほどまで伸ばし、その痩せた頬から顎にかけて、短い髭をまばらに生やしていた。

 石盤を覆ったイシュルの風の魔法の覆い、その青い魔力を下から浴びて、なかなか不気味な、いや、何かの預言者ようにも見えた。

「そなたがイヴェダの剣の継承者、……そして」

 ビオナートはイシュルの右側に立つリフィアを見やり、言葉を続けた。

「そこな見目麗しい少女がラディスの武神の矢、ベームの娘か」

 ビオナートの笑みが深くなる。

「いやいや、この場に及んでこんな隠し玉があったとはな。予の計略もこれですべてが水の泡だ」

 ビオナートの口調にはまだ余裕がある。

 今のやつの服装、外見からは、例の禁書を隠し持っているようには見えない。

 ……ふん。何を言う。マレフィオアはどうした?

 イシュルは笑みを歪めてビオナートを見つめた。

 そして同時に、主神の間の周囲に風の魔力を降ろし、地中のいたる所に細分化した風の魔力を突き刺した。主神の間の側面や下部、地中からの攻撃にも備える。

 だが、主神の間の周囲、すべてを風の魔力で覆うことはしない。所々僅かに隙間を設けて、ミラやリフィアが魔法を使えるようにする。ビオナートの“イルベズの聖盾”は彼の肉体と同化している。周囲を風の魔法の結界で完全に覆っても、彼の魔力のすべてを封ずることができるか、微妙だった。

 今は三対一だ。初動は制した。それなら、こちらのふたりの魔女とひとりの精霊を、戦える状況にした方が良い。

「もうおまえは終わりだ、ビオナート」

 イシュルがこの場ではじめて声に出して言った、最初のひと言がそれだった。

 それはいわば、死刑宣告だった。

「ふむ。そなた、主神の結界を破って降りてきたな。どういうからくりだ? 風の魔法具とはそれほどのものか?」

 ビオナートはまだ余裕の表情を崩さず、イシュルの言を無視して言ってきた。

「おまえに答える筋合いはない」

 イシュルは笑みを引っ込めると酷薄な表情になって言った。

「おまえを殺す前にひとつだけ聞いておこうか。おまえの持つ紅玉石をこちらに渡せ。どうせおまえには必要のないものだ」

「ふふ。まさかそのようなこと、予がそなたの言う通り従うとでも?」

 ビオナートの薄ら笑いが濃くなる。

「じゃあいい。おまえを殺した後でゆっくり探すさ」

「果たしてそうやすやすと見つかるかな?」

「大丈夫だ。おまえが何をしようと、もう片方の紅玉石もいずれ俺の前に姿を現す」

 これははったりだ。

 イシュルは眸を細めてビオナートを睨みつけ、そして笑みをつくってみせた。

 だが、果たしてそうだろうか。俺の言ったことははったりだろうか。

 あるいは俺は、もうひとつの紅玉石もいずれ近いうちに手にするかもしれない。

 ウーメオの舌の出来事、ペトラの手紙……。たぶん、そういう筋書きになっているのだ

 月神は、運命は、俺に神の魔法具を与え、かわりに俺から何かを奪い、苦しめようとしている。……のではないか。

「……よかろう。そなたに予が持つ紅玉石を渡すかわりに、そなたの左手と一体となったという、もう片方の紅玉石を見せてくれまいか?」

「いいから出せ。さっさとしろ。おまえには関係のない代物だ」

「ならよい。確かに予にとっては神の魔法具など、必要のないものだ。そんなものの力を借りずとも、予はかならず大陸を統一し、聖堂教による偉大なる神の国をつくってみせる」

 ビオナートの顔が真剣なものになった。

「そうなれば、神々は予に必ずその恩恵をもたらすであろう」

 この狂信者が。

 ビオナートはすぐに表情をゆるめ、唇を舐めて薄く笑みを浮かべた。

 まだまだ何か、言いたそうだ。

 やつは時間稼ぎにでたか。

「戯れ言はやめられよ。ビオナート殿」

 今まで無言で、イシュルとビオナートのやりとりを見ていた周りの者、そこからウルトゥーロの前王を諌める声が聞こえてきた。

 ウルトゥーロの言はそのまま、ビオナートを牽制したのだ。彼も俺と同じことを考えている。

 イシュルは周囲に感知の輪を広げた。

 マレフィオアはどこだ。ここは視界が塞がれている。それほど遠くまでは感知できない。

 主神の間の外側、近辺に怪しい魔力の存在はない。

「いやいやウルトゥーロ殿。どうかな? みなの者にもどうして予がそのように思い至ったか、教えてしんぜよう」

 ビオナートは、不敵な笑みを浮かべて両手をかるく広げた。そしてイシュルを見て言った。

「予を殺す前に、予の成そうと決めたことの謎ときをしようではないか」

 ビオナートめ……。

「いいだろう、言ってみろ」

 イシュルは薄く笑って言った。

「……」

 口にこそ出さないが、イシュルのビオナートに対するある意味不遜な、一国の王を王とも思わない態度にミラとリフィアが驚愕している感じが伝わってくる。

「イシュルさま……」

「……」

 だがミラが小声で、リフィアが無言で「いいのか」と、イシュルに翻意をうながす視線を送ってくる。

 彼女たちもわかっているのだ。ビオナートの時間稼ぎに乗るな、口車に乗るなと。

 だが今のところ、危ない感じはない。もしここでマレフィオアが現れても対処のしようはある。

 シビル・ベークの言ったことがいいヒントになった。マレフィオアが出現したら、やつを上に、主塔ごと吹き飛ばすだけだ。

 やつの御託(ごたく)を聞いてやってもいい。妙な動きをすればその瞬間、ただ殺すだけだ。

「予はそなたらの知らない多くのことを知っている。神々のことも、この世のことも」

 そうしてビオナートは、己が大聖堂で見習い神官をしていた頃の話をはじめた。

 まだ少年だった当時のビオナートはある日、大聖堂の書庫奥深くに籠り、読書にいそしんでいた。そこで書庫の一番奥の、ある書棚の書物を手にとった時、その書棚が突然奥に引っ込み横に開いて、その奥に隠し部屋が現れたのだという。

「その隠し部屋は秘密の書庫だった。予は狂喜し、その部屋にある書物を読み漁った。その部屋のことはもちろん誰にも言わず、秘密にした」

 ビオナートはそこでマレフォアを召喚する禁書を見つけ、数々の秘匿された重要書物を手にいれた。

 その書物の中には、今はおおまかにしかわかっていない、古代ウルク王国滅亡のことが書かれた史書もあった。

「ウルクが、王位継承争いが元で滅んだことは皆の者も承知していよう。その直接の原因となったのは、その王子のひとりが、当時ウルクの神殿に顕現していた幾つかの神の魔法具、風の剣や水の壷、そしてふたつの紅玉石、これらすべてを己が手に集めようとしたことからだ。それぞれの神の神殿に祀られていた神の宝具を、禁をおかしてひとりじめにしようとしたからなのだ。その王子の行いが王位継承争いを、絶望的なまでに激化させたと言われている。その王子は神の魔法具をすべて集めれば、やがて神々の列に加わることができる、神の力を手にすることができる、と知っておったのだろう」

 その史書には、ウルクの争いが神々の怒りに触れ滅亡することになった、と書かれていた。そして、神々は人の世の大きな争いを好まず、大陸の平和を常に願っているのだ、との言葉で締めくくられていた。

「そこで予は神の魔法具にたよらずこの大陸を統一し、神の教えによって平和を成す、神の国をつくろうと考えたのだ」

 そこでビオナートは両手を広げ笑いだした。

「ははははっ。予はそうして神々の列に加わり、この大陸を、人の世を永久に平和に統治するのだ。そのための戦(いくさ)であればきっと神々はお許しになるだろう」

「ふふ」

 イシュルもビオナートに薄く、微かに笑らってみせた。

 その書にはおそらく、今おまえの言ったこともそのまま、書かれていたんだろう。

「おまえ」

 イシュルは先の王をおまえ呼ばわりした。

「それはいわゆる偽書の類いではないか」

 秘密の書庫に禁書があった。ならば偽書の類いがあってもおかしくはないだろう。

「独裁による統一国家など長続きはしない。それは歴史が証明していることだ。この大陸に存在する王国はどれも封建制によるものであって、王権は制限され、かならずしも絶対であるとはいえない」

 イシュルは静かに話しはじめた。

 こいつに絶望を、己の誤謬を知らしめてから殺してやるのも、一興ではないか。

「そもそも生命の、種の存続の多くは多様性からくる偶然に由来するとも言える。人間も、人間の社会も同じなのだ。その多様性こそが人類の絶滅を防ぐ担保となっているとも言えるのだ」

 辺りの空気が奇妙に緊張する。

「な、なにを言っておる……」

 対するビオナートは両目を見開きイシュルを見つめた。

 イシュルの言ったことはこの世界の、この時代の人びとにとってはじめて耳にすることであったろう。

「今の聖堂教会がそうだ。原理主義に走ることを嫌い、穏健な多様性を保持しようとしている」

 イシュルは己の発言を、多少強引に聖堂教に帰結させた。

「神々がヒトの絶滅に危惧したとしても、人間の政(まつりごと)にいちいち口をだしたりするものか。しかも一個の思想になど。ひとりの人間の成そうとすることに関心など持つものか」

 おそらくは。俺をのぞいて……。

「き、きさま……」

 ビオナートがはじめて怖れを表し、イシュルを見やった。

「小僧、きさま、何者だ」

 俺か、俺はな……。

 イシュルは一瞬、自身の生い立ちを、生前の、秘密にしていることを口に出す誘惑にかられる。

「俺か?」

 イシュルがそう呟いた時。

 頭上で、激しく強い魔力が瞬いた。

 ゴゴン、という轟音とともに主神の間全体が振動する。

 上から!?

 イシュルは咄嗟に、頭上を覆っていた風の魔力を強化した。

 薄く青く輝く風の魔力の壁に、マレフィオアの大きく開いた顎があった。


「マレフィオア!」

 誰かが叫び声を上げる。

 マレフォアはまさしく蛇のごとくイシュルの風の魔力に噛みつき、からだを激しく振って喰い破るろうとしてくる。早くも内塔の一部が壊れ、割れた石が落下し、イシュルの魔力の壁の上に積み重なっていく。

 ウルトゥーロら神官たちが驚愕と怖れに顔を歪め、一歩、二歩と後ずさりする。

 こいつ……。

「はははっ」

 恐怖が主神の間を支配する中、ビオナートだけが狂気じみた笑いを発した。

「どうやら“上”から、と考えたのは、そなただけではなかったようだな」

「……」

 イシュルはビオナートの言を無視し、マレフォアのその上の方の気配を探りにかかる。

 魔力とひとの気配、それは主塔の最上部、……いや。その外、直上か。

 おそらく数名のひとが固まり、魔力が使われている。マレフォアの巨大な魔力が邪魔になってはっきりとしない。

 ……搭上に気配を殺し、潜んでいたのか。

 失敗したか? 奇襲をねらって急いだために、周囲の状況を綿密に調べなかった俺のミスか。

 魔法を使わず、気配を殺されたら俺でも感知できない。あるいはビオナートの長舌の間にあそこに移動してきたのか。 

 とにかくやつらを潰す。いや、簡単だ。マレフォアごと空高く吹き飛ばしてやる。大聖堂もおしゃかになるかもしれないが。

「ほれ、そなたの欲しがっていたものだ。受け取れ」

 その時、ビオナートが懐から赤く輝く石を取り出し、イシュルに放り投げてきた。

 そして「くくくっ」と低く笑いながら石盤の端へ、奥へ退いていく。

 イシュルは己の足許にころがってきた石を見て、両目を見開いた。

「ああっ!」

 顔を上げ、マレフィオアを睨んでいたミラがそれを見て叫び声をあげる。

 ……紅玉石!

 だが、それを見たのはイシュルたちだけではなかった。

「ギギギ、グアア」

 奇妙に甲高い咆哮をあげてマレフィオアが暴れる。

 くっ、やはりこの化け物も魔法具の蒐集を……。

 しかし、マレフィオアが興奮したように見えたのは違っていた。

 白い大蛇の化け物はその顎から、先が二股に分かれた白い舌をにゅるっと出すと、その先の形を人形(ひとがた)に変え、風の魔力の壁のすぐ前まで押し出してきた。

 その人形はやがて白い髪を生やし伸ばして、何もない顔面に黒い目を見開き、口をつくってにやりと三日月状にねじ曲げた。

 白く不気味な、少女のような人の形。その者は自身の白い手、右の掌を開いてイシュルに見せてきた。

 その掌から赤い石が、もうひとつの紅玉石が姿を現す。

「な、なに……」

「な、なんと」

 イシュルが、ウルトゥーロが、その場にいるすべての者が驚愕に叫び声を上げる。

「イシュル! これを! この石を握ってみろ」

 リフィアが、イシュルの足許に落ちた石を拾って彼に渡してくる。

 そうか。

 イシュルはリフィアから、ビオナートが投げてよこした紅玉石を受け取り握りしめた。

「……」

 ない。何も反応がない。痛みも、何も起こらない。

「これは……!」

「あの王が持っていたものは偽物だな」

 リフィアが冷静な声で言う。

「なっ」  

「ま、まさか」

「そんな……」

「どういうことだ!」

 ミラたち、神官たちから悲憤の声が上がる。

「ギギギ、キキキ、キーン」

 耳をつんざくような悲鳴、叫びがマレフィオアから放たれる。

 ……違う。

 イシュルはマレフィオアを見上げると呆然と呟いた。

「こいつは笑っているんだ……」

 ビオナートの持っていた紅玉石は偽物だ。もう片方の本物はおまえが持っているのか。

「な、なんだと……」

 そのビオナートの、呻く声が聞こえてくる。 

「イシュルさま! マレフィオアの本体は別のところにあります。今はかまわず、討伐なされませ!」

 ミラが横から叫んでくる。

 そうだ。今はこいつを退ける。

 イシュルは気合いを込めてマレフィオアを睨みつけた。

 いずれおまえを探し出して滅ぼしてやる。その時に、おまえの持つ紅玉石も俺がいただく。

 一瞬、脳裡をデシオから借りて読んだ、「古代ウルク王国正史・付(覚書)」の記述がかすめ通る。

 まさかあの時に、紅玉石の片方が奪われたのではないか……。

「死ね! マレフィオア」

 イシュルはありったけの風の魔力を異界から引き込み、上に向かって解放した。

「待った!」

 だが、何も、何も起こらなかった。

 ふ、不発!? だったのか。まさか。手応えが途中で消えてしまった。

 イシュルは真っ青になってその声のした方に視線を向けた。

 辺りを覆う風の魔力は何ら変わらず、その青い光と、時折虹色に、そして黒く瞬くマレフィオアの白い魔力が辺りを濃密に覆っている。

 それは魔法具を持たない、魔力を使えない者にもはっきりと見える強い輝きだ。

 その輝きの中、マレフィオアの真下、イシュルの真正面にどこから現れたのか、ひとりの少女が立っていた。

 生成りの裾の長いチュニックに広がる、明るいさらさらの金髪。かるくそばかすに覆われた顔がはにかむ。

「イシュル!」

 少女がイシュルの名を呼んだ。

 今度こそイシュルは驚愕に全身を強ばらせ、あげくふらふらと揺らめいた。

「れ、レニ……!!」

 イシュルの前に、風の大魔法使いの屋敷に滞在していた彼の師、あの不思議な少女が立っていた。

 

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