金木犀



 雷光が消えると、カルノ・バルリオレの影は背後の蝋燭の火にうっすらと柔らかいものに変わった。

「君がわたしを訪ねて来た。それはビオナートさまが次の総神官長に選ばれた、ということだ」

「……」

 イシュルは無言で小さく頷いた。

 聖都で入札(いれふだ)が終わってから丸二日。もうクレンベルに知らせが届いてもおかしくない筈だが、午後からこの辺りは雨になり天候が悪化している。きっと早馬も途中で止まっているのだろう。

「イシュル君。きみはウルトゥーロさまにお会いしたのだね?」

 暗い影の染まったカルノの顔、その眸だけが僅かに光って見える。

「はい」

 イシュルはわざとひと呼吸おいて、続けて言った。

「ふたりきりで、お話しました」

「……そうか」

 カルノは低く、小さな声で言った。

 カルノの肩から首筋のラインが固くなる。

「俺とミラに太陽神の座を使ったのは、つまりはそういうことだったんですか?」

 カルノは大聖堂の地下にある主神の間以外にも、ここクレンベルに太陽神の座があることを俺に知らせようとした。

 俺が主神ヘレスに選ばれた者なのか、それに値する者なのか、太陽神の座を起動して結界を張り、彼なりにそのことを見極めようとした。

 カルノにはその他に何か考えが、存念があったのだろうか。

 彼は「聖都に行って、己の信じる正義を成すがよい」と俺に向かって言った後、視線を逸らし「国王派への義理はこれで果たした」というようなことを呟いたのだ。あの言葉はさして気にする必要はない、そのまま受け取ってそれで済むことなのだろうか。確かに聖地の神殿を守る大神官であるのなら、カルノがウルトゥーロと仲違いした間にあるのなら、国王派からの調略が伸びていてもおかしくはない。カルノであれば国王派の神官や貴族らにも、頼まれれば断れない、縁の深い者もいるだろう。

「……うむ……」

 カルノの返答ははっきりしないものだった。

「結果的にみれば、俺にとっては得難い経験をさせてもらったことになりますが……」

 イシュルは表情を引き締め、視線を鋭くした。

 こちらからはカルノの表情は逆光にぼんやりとして、はっきりとはわからない。だが彼からは俺の様子は丸わかりだ。

「あの場で太陽神の座を使ったのはまずかったのでは」

 もし、あれを国王派の間者が見ていたら、この山の上に国王派の者がいたのなら、あの場所がただの遺跡ではないことが知られてしまう。

「傍目から見れば、わたしが君たちに害意を持ってあれをやった、という風には見えただろうな」

 カルノは僅かに顎を引いてイシュルを見つめてきた。彼の影はそのように動いて見えた。

「だが、あの古い遺跡とわたしの張った結界が関係していると気づく者はおるまい。魔法や遺物に詳しい者ほどその知識や常識が邪魔をしてそのことに気づけない」

「なるほど」

 それはあるかもしれない。あの石盤にはそれとわかるような魔法陣は刻まれていなかったし、あんな古い物が魔法陣や魔法具として未だ機能しているなど、誰も思わないだろう。

 そもそもあれが、大聖堂の主神の間にある太陽神の座と、ほぼ同じものだとわかる者がいない。教会が長年秘匿してきた大聖堂の主神の間のことなど、知っている者がいったいどれだけいるというのか。

「ウルトゥーロさま、……ウルトゥーロ先生のお慈悲によってわたしがこの地に遠ざけられたことは、はじめからわかっていたことだ。だからわたしは国王派に味方するようなこともあえてしたのだ」

「そうでしょうね……」

 カルノはやはり総神官長の意図を、苦悩をわかっていた。

 カルノには恩師であるウルトゥーロの気持ちが、いたいほど伝わっていたのだ。だから彼は黙ってクレンベルに赴き、国王派に尻尾を振るような真似もあえてした。ウルトゥーロの意にそうように、正義派を守るために偽装したのだ。

 だが……。

 それでこの男が、何の鬱屈も抱えずに今まで過ごしてきたかはまた別の話だ。

「カルノさま。俺が聖冠の儀で何をしようとしているかは、もうご存知でしょう」

「……」

 カルノは無言で頷いた。

 その瞬間、彼の背後の窓に音も無く閃光が走った。だが雷鳴はいつまでたっても聞こえてこない。

 雷雲は遠くに去りつつあるのだ。もうしばらくしたら雨も止むだろう。

「ならば、俺とともに聖都に来てくれませんか?」

 本来なら太陽神の首飾りを彼から借り受け、俺がビオナートと対決する方がいいのだ。

 その方が確実だ。カルノの身も当然安全だ。

 しかし、違うのだ。

「……ふふ。きみはウルトゥーロさまからいったい、どれだけ話を聞いたのだ?」

 カルノは小さく笑い声をあげた。

「ウルトゥーロさまだけではありませんよ。リベリオ・アダーニさまからもお話がありました」

 リベリオがウルトゥーロとカルノの過去、ふたりの関係を教えてくれたから、俺は今、ここまでたどりつけたのだ、と思う。

 イシュルは首筋に手をやり、首飾りの紐を握った。

 そろそろ切り札を出すべきだ。

「ともに戦いましょう、ビオナートと。あなたはそれを望んでいる筈だ」

 イシュルはそう言って紅玉石の首飾りをカルノに突きつけた。

「それは……」

 とたんにカルノが顔を歪め、苦しそうな表情になる。

「総神官長からあなたさまにと、お預かりしたものです」

 薄暗い室内に虹色石は光をほとんど失っている。それでもカルノにはわかるのだ。この首飾りが。

 ウルトゥーロの本心が。

「あなたの苦しみは——」

「そうだ、その通りだ」

 カルノはイシュルの言を遮り、目の前の首飾りを少しの間見つめると、顎先を心持ち上げて目を瞑った。

「わたしもともに戦い……いや、リベリオとともに先生を助けたかった。先生のわたしを思う気持ちはよくわかる。だがしかし、わたしたちが助けないで、いったい誰が総神官長を守るというのか」

 カルノの鬱屈。それはこのことだったのだ。

 俺とミラを太陽神の座で罠に嵌めた時、いや、太陽神の座を知らしめた時、あの後神殿に去っていくカルノの後ろ姿が語っていたもの……。

 それなのに、聖都から離れたこの地で逼塞していなければならない。聖都での争いから距離をおき、自身の身を守らなければならない。なんとなればそれは、彼の恩師であるウルトゥーロが願ったことだからだ。

 ウルトゥーロはウルトゥーロでカルノに冤罪を着せ、遠ざけたことを苦しんでいた。彼にとってカルノは正義派の切り札となる人物であると同時に、幼い頃から目をかけてきた一番弟子、教え子でもあった。

 ……この首飾りが、交差はすれどもひとつになることはない、ふたりの思いをひとつに繋ぐものになるのだろうか。

「いっしょに行きましょう、エストフォルへ」

 カルノを連れていき、彼を聖冠の儀でビオナートと対決させるのは危険だ。それはわかりきったことだ。

 だが俺はあえてそちらを選ぶ。

 カルノの願いをかなえ、この男をウルトゥーロと再会させる。

 この首飾りだけでは足りない。ふたりを戦いの場で引き合わす。それが彼らの目指すものをひとつにする、唯一の方法ではないか。

 ……俺のまわりをめぐる、いくつものふたつの事象。

 エミリア姉妹の夢と死。ピルサたち、そしてルフィッツオたち双子の愛と生、サロモン兄弟の和解に正義派と国王派の闘争、ふたつの太陽神の座……それら、浮遊し、ぐるぐる回転するすべてのこと。

 その渦にひときわ強く輝く、ふたつの紅玉石。

 それは放っておけばただなるようになる、紅玉石がふたつ合わさればすべて解決する、というものではないだろう。

 ルフレイドがサロモンに合流した。ふたりはいずれ和解するだろう。なぜあの結実があったのか。

 それは王城でふたりがともに戦ったからこそ、そしてサロモンだけでない、俺自身も自らの意志でともに戦ったからだ。

 俺はあの時、ルフレイドの命を助けたいと思った。弟のルセルのような、エミリア姉妹のようなことが繰り返されるのは御免だと思った。

 俺は何でもできるわけじゃない。すべてを解決することなどできはしない。だが、自分の力でできることはやっていく。ふたつの何かを結びつけ、あるいは切り離し、ひとつひとつ潰し、解決していく。

 ふたつの紅玉石に収斂していく無数の運命。それはただ何もせず待っているだけでは成しえない。

 ふたつをひとつに合わせれば。ただそれだけで終わる筈もない。

 俺の周りを回転する自身の、他者の運命を定めていく。そうすればいつかかならず、己の目指すものに行き着くだろう。

 ……神々の場へ。

「——きみはわたしのこともお見通しというわけか」

 カルノも己の首筋に手をやり首飾りを出してきた。

 微かに光沢のある鈍色(にびいろ)の紐、その先に輝く小さな青い石。周りはくすんだ唐草の銀細工で覆われている。青い石はサファイアだ。

「交換しよう。先生の思いは伝わった。そして君の考えていることも。……わたしはクレンベルの主神殿の神殿長だ。この地を長く離れるわけにはいかない」

 蝋燭の火が瞬く暗がりに、カルノの笑顔が浮かんだ。

「わたしの使命は待つことだけではなかったのだ。きみがこの地を訪れ、わたしはきみを見出した。きみに託すことができた」

 カルノがゆっくりと、イシュルに頷いてみせた。



 

 その後、イシュルはカルノにウルトゥーロから託された虹色石の首飾りを渡し、かわりにもうひとつの太陽神の首飾りを受け取った。

 イシュルはカルノに向かって礼を言うと、その首飾りを彼の面前にかかげた。

「この首飾りはかならずお返しします。それで、呪文を……」

 聖冠の儀において、ビオナートから主神の間の支配を奪うには当然、いくつかの呪文を憶えなければならない。

 太陽神の座に張られる結界、もしそれを停止する呪文があれば理想的だが、そういう停止の呪文は今まで聞いた事がないし、目にしたこともない。通常は首飾りの所有者の意志で停止できるパターン、つまり結界を解くのに特定の呪文は存在しない、と考えていい。

 また、それとは別に強制的に結界を解く方法もある。それは単純に、新たに別の魔法を起動させる呪文を唱えればいい。その時点で主神の間の支配者はその呪文を唱えた者に交替する。

 そのためビオナートとの対決では、太陽神の座の支配をめぐって互いに呪文を連発する状況になるかもしれないが、こちらは詠唱のいらない風の魔法具がある。後はやつが呪文を唱える間隙をぬって撃ち込めば、それで終わる。

「まぁ、待ちなさい。まだ時間はある。そちらの椅子に座りなさい」

 イシュルがカルノに呪文を教えてもらおうとすると、彼はそれを遮り、ベッドの反対の壁にある小さなテーブルと二脚の椅子の並ぶ方を差して、座るように言ってきた。 

「は、はあ……」

 しかし、なるべく早く聖都に帰りたいのだが……。

 イシュルが仕方なく椅子に座ると、カルノもテーブルを挟んで向かいに座って言った。

「日の出を待とう。太陽神の座には太陽の光が必要なのだ」

 イシュルは視線を鋭くしてカルノを見た。

「……なるほど」

「主神の間は大聖堂主塔の地下にある。普段は日が当たらないようになっているが、儀式の時には上から陽の光、明かりを取り入れるようにできている」

「はい」

 それは以前、大聖堂でリベリオに説明してもらった。

 主神の間は、太陽神の首飾りを持つだけでは起動できないようになっているのだ。

「太陽の光が直接差さなくてもいいし、弱くてもいいのだが、太陽の陽による明かりが必要、だということだ」

「……」

 イシュルは無言で首肯した。

 そこら辺は、よくできている……。

 それなら、当日は大聖堂の要所にひとを配し、内塔の鉄蓋を閉じるなりして外光を遮断してしまえばいいのだが……。それも現実的ではないだろう。内塔を破壊して穴を明けられてしまえば、かなり弱いだろうが、外の光は間接的にであれ主神の間に入ってきてしまう。

 ミラの魔法で主神の間の上部を鉄で覆ってしまう、という方法もあるが、これもビオナートがマレフィオアを召喚すれば、たやすく破られてしまう。

「どうしたかな? イシュル君」

 カルノが「いろいろ考えてるな」といった感じで、笑みを浮かべて見つめてくる。

「いえ……」

 イシュルはかぶりをふって少し罰の悪そうな顔になった。

「問題は陛下、……もう前陛下か。ビオナートさまが持つ禁書だ」

「はい」

 そうか。カルノはマレフィオアに関する知識も豊富に持っているかもしれない。

「カルノさまはマレフィオアのことをよくご存知で……」

「いや、わたしはあの伝説の化け物のことはそれほど詳しく知らない」

「そうですか」

 微かな落胆の色がイシュルの顔に浮かぶ。

「きみにももうわかっているだろうが、あれが主神の間で召喚されたら大変なことになる」

「ええ」

 イシュルは再び視線を鋭くカルノを見やる。

「やつは蒐集しておるのだ。そう言われている」

 カルノはイシュルから視線をはずし、忌々しげに言った。

「はっ?」

「やつは人間にたとえるなら蒐集家なのだ」

「な、なにを……」

「魔法具や神の遺物、あるいは力そのもの、といったらいいか」

 それは……。

 カルノが鋭い視線を向けてくる。

「つまり“力”を集めているのだ。……おそらく神々に抗うために。復讐するために」

 カルノは声を低くして言った。

「力を喰らい、我がものとならなければ破壊することに血眼になる。ここ数百年の間にも幾多の大魔法使いや、勇者とも英雄とも呼べるような者たちがやつに挑み、命を落とした。そのたびにあれは彼らの持つ貴重な魔法具や武具を手に入れてきた、とされているのだ」

「……そうですか。みな、ブレクタスの地下神殿に向かい命を落とした、と」

 デシオから借りた「古代ウルク王国正史・付(覚書)」には、マレフィオアの住処としてその場所が書かれてあった。ブレクタス山塊の奥地、その地下に荒神バルタルを祀る秘密神殿があり、マレフィオアがそこに隠れ棲んでいるという話だ。古代ウルクの頃の記録であって、今もそうなのか知らないが。

「そうだな。あまり表沙汰にはならない話だし、おそらく数えるほどでしかないだろうが、過去には我が聖王国や、きみの故国でも有力な魔導師らを派遣したことがある筈だ。マレフィオアを仕留めればやつの集めた魔法具を手に入れることができるかもしれない。神々に刃向かう魔物だから討伐する、ということだけがその理由ではないのだ」

 なるほど。それで腕に覚えのある者たちがやつを探し出し、斃そうとするわけだ。

 面白そうな話ではあるが。

 だが、やつはルフレイド救出時に召喚された時、俺には向かわず、風の結界を破壊しようとした……。それはどういうことなのだろう。やつは俺の存在に気づく前に、まずは目の前にあった“力の塊”に喰らいついた、ということになるのか。風の結界はいわば魔力の巨大な固まりでもある。

 おそらくあの化け物は、ただ“力”蒐集しているわけではないのだ。自分のものにできないものは潰してしまう、つまりそれは魔法具を、神の力を欲しがりながら、一方でその存在を憎んでいる、とうことなのかもしれない。

「マレフィオアが主神の間で召喚されれば、まずいの一番に太陽神の座を破壊するだろう、ということですね」

「そうだ。だがその時、太陽神の座が起動していなければ、きみの方が危ないかもしれない。きみが風の魔法具を、紅玉石の片方を持つとやつが知ったら、太陽神の座よりもきみを優先して狙ってくるに違いない」

 カルノが厳しい表情で、身を乗り出すようにして言ってくる。

「そうでしょうね」

 面白いじゃないか。むしろ、太陽神の座より先に俺に向かってきてもらう方が助かる。

 イシュルはカルノの言に、薄く笑ってみせた。


 イシュルはカルノの座る背後、斜め後ろにある窓に視線を向けた。外はもう雨が止み、ほんの少しだが明るくなってきている。

「心配するな、イシュル君」

 マレナの近況を聞いたイシュルにカルノはにやりとして言った。

「わたしの見立てだが、あの婆さんはまだまだ長生きするぞ。すこぶる頑丈なたちだ」

「……」

 イシュルは笑顔になって頷いた。

 確かにそうだ。ああいう、腰が曲がっても、耳が遠くなっても、病気ひとつせずに死ぬその日まで働き続ける老婆がいる。そんな老人はどこにでもいる。

 かつてのベルシュ村にも、そんな年寄りがたくさんいた。

 あれから、カルノはなんとなく太陽神の座と首飾りの話を避け、イシュルは最近の聖都の情勢を話したり、この神殿の見習い神官の少年たちやマレナが元気にしているか、カルノに聞いたりした。

 カルノはこうやってひとと話すこと、特に他所から訪問してきた者と話すことが好きなのだ。それはここクレンベルの、山の上の聖地の神殿長をしているが故だろう。すぐ下に街があるとはいえ、大神官の神殿長が気安く、頻繁に出向くわけにもいかない。

 イシュルもここ、マレナの家に居候している頃はたまにカルノに呼ばれ、ブリガールとの一件や赤帝龍と戦った時のことなど、話をせがまれることがあった。

「そろそろだな」

 カルノもイシュルに続いて窓の外を見やると言った。

「もうひとつの太陽神の座、あの大きな石盤の遺跡に行こう。そこで呪文を教える」

 まだ起きる者のいない、明け方の薄暗い神殿の中を通り抜け、外に出る。

 主神殿の南側正面に出ると、山上の意外な空気の冷たさにイシュルは少し驚いた。高地にあるクレンベルの朝はもうだいぶ気温が低くなっていて、冬の訪れがもう、すぐそこまで近づいているようにさえ感じられた。

「今きみが首にしている太陽神の首飾りは以前、ただ“クレンベルの首飾り”とだけ呼ばれていた」

 カルノは、遠くうっすらと姿を現した山並みに視線を漂わせ、話をはじめた。

「もともとは、クレンベルの神殿長が継承すべし、と定められた謂れがあるだけの古い宝具、つまりただの宝飾品だと思われていたのだ」

 ふたりは肩を並べ、ゆっくりと太陽神の座へ歩いて行く。

「それをわたしの前任だったオラリオ殿が明らかにしたわけだ」

 オラリオとはウルトゥーロが言っていた以前の司書長、カルノの前の神殿長だったひとだろう。

 そのオラリオというひとは今はもう教会から退き、故郷に帰ったと聞いている。

「……この朽ちた太陽神の座からは、新たな魔法具を生み出す力は失われている。その他にも、聖都の太陽神の座のようにうまく働かないものがある」

 カルノは遺跡の前まで来ると足を止め、イシュルの方にからだを向けた。

「わたしがオラリオ殿から教えられた太陽神の座に関する魔法とその呪文は全部で五つ、そのうち太陽神の儀に関係するものをのぞいた三つの魔法と呪文をこれから教えよう」

「はい」

 太陽神の儀は魔法具を生み出す儀式だ。それはビオナートと対決するのに必要なものではない。

「ひとつめは太陽神の首飾りを己の心、心の臓と結びつける呪文だ。ちなみに解除するときはただ首飾りをはずし、自分のからだから離せば良い。これは多くの魔法具と同じだな」

「……」

 イシュルは無言で頷き、カルノの背後へ目をやった。

 東側に並ぶ小屋敷と木々の向こうには、遠く連なる山々の青い影が浮き立って見える。まだ夜明け前だ。だが、もうすぐだ。

「ふたつ目は太陽神の座を起動する呪文。これで魔法陣に魔力が通り、太陽神の座はヘレスの加護で満たされる。これは光系統の防御結界と闇系統の魔封陣を併せたようなもので、太陽神の座、魔法陣の外側に対する防御結界が張られ、内側も他の一切の魔法が封じられることになる」

 カルノはそこでひと息おき、イシュルを見つめるその視線を微かに厳しくした。

「三つ目は太陽神の座に侵入した敵、人や魔物を打ち払うもので、これもかなり攻撃的なものではあるが、防御結界の一種と見ていいだろう。わたしが以前、きみとミラ嬢に使ったものだ。その結界に閉じ込める対象も盤上にいる者なら指定できる。その者の名を呪文に入れ込むことでできる。言い伝えによれば、太陽の光が一点に凝縮した暗黒に閉じ込められ、その場でヘレスから鉄槌が下されるとある」

 そこでカルノが笑みを浮かべて言った。

「どうだったかね? イシュル君」

「ふふ」

 イシュルは対して、引きつった笑みを浮かべた。

 ほぼ言い伝えどおり、だ。それは。

 ……そういえば、あの魔法が主神の間で使えるなら、ビオナートもマレフィオアも簡単に葬れるんじゃないか? やつらをあの異空間に飛ばしてしまえば、それで片がつく。とってもお手軽だ。

 イシュルはそこで笑みを引っ込め、眸を僅かにすぼめた。

 いや、だめだ。もしその時ビオナートがもう片方の紅玉石を持っていたら、大変なことになる。紅玉石の回収も、地の魔法具の入手も諦めなければならなくなる。それにビオナートはともかく、マレフィオアをあの空間に閉じ込めても本体は別の場所にいるわけで、完全に滅ぼすことはできない。

「どうしたかね? イシュル君」

「いえ、何でも。……それで、太陽神の座の発動を停止させる呪文、とかはないんですか?」

「うむ。それはない。それは他の魔法と同じで、起動した者が停止したい、と思えばそこで止まるし、その者が発動し続けたいと思えば、あとはその者の気力が続く限り、状態を維持できる」

「なるほど」

 カルノの答えは、ほぼこちらの考えていた通りだ。

 つまりその時、俺は太陽神の座の起動を確認したら、“停止する”“停止したい”と考えて割り込むか、あらたに起動の呪文を唱え直して、魔法をいわば“上書き”してしまえばよい。

「そろそろだな」

 カルノが後ろを向き東の空を見る。

 延々と続く山並みの、その霞む先が急速に明るくなっていく。

 石盤の上にもほんのりと明るさが満ちていく。周囲に並び立つ円柱の影が、石盤の上に薄らと差していく。

「では呪文を伝授しよう。実際に試してみるのだ。こちらに来なさい」

 カルノは石盤に上がり、イシュルに言ってきた。

「石盤の中央に立つのが良かろう」

 カルノはイシュルの東側に立ち、イシュルはカルノの肩越しに日の出を望む形になった。

「ではひとつめの呪文から。太陽神の首飾りをきみと結びつける。わたしに続いて復唱しなさい」

 カルノは声を潜めてその呪文を口にした。

「ヘレスが御心は我らに、我らが魂は汝(な)とともにあり」

 これは聖堂教の聖典にある一節ではなかったか。

 イシュルが続いてその一節を口にすると、僅かに胸の奥に痛みが走るのがわかった。

 この痛みは悲しみや苦しみ、俺にとっては特に、悔恨の気持ちを抱いたときに感ずるものと同じだ。

 ヘレスはひとの心に触れてくるのか……。

「太陽神の首飾りと繋がったのがわかったかな?」

 カルノの背後で太陽が頭を出そうとしている。

「はい。なんとなく」

 イシュルが答えるとカルノはゆっくりと、満足げに頷いた。

「では次の呪文だ。太陽神の座を起動する」

 その時、表情を引き締めるカルノの肩先を、茫漠と広がる地平に小さな光点が灯った。

 その点が水平に横に広がっていく。

 山並みの際を光が走り、縁取っていく。

 と、同時にイシュルを突き刺すように、太陽光が水平に走った。

「豊穣なる太陽神ヘレスよ、偉大なる創造の神よ。汝(な)が大いなる加護をもって汝(な)が座を満たせよ」

 姿勢良く威厳をもって立つカルノの姿が、再び逆光に影となって朝日の中に浮き上がる。

 夜半、雷光に影となった時よりもそれは重厚で力強い。

「主神ヘレスよ、偉大なる創造の神よ……」

 イシュルがカルノの言葉を反覆していく。

「……我らに汝(な)が無窮の恵みを与えたまえ」

 朝日に目を窄めていたイシュルが双眸を見開く。

 突然、陽の光が垂直に立ち上がったように見えた。

 古い石盤を覆う新たな光。

 地上とは、今までとはどこか違う新たな空間の中で、強い光の反射を受けてカルノの姿が明らかになる。

 彼は誰か、何かの予言者のように両目を細め、微笑を浮かべてイシュルを見ていた。




 復路は街道筋からやや北に逸れた、人家のない山の中を進んだ。山々の頂をかすめるようにして空を行き、平野部に出ると高度を上げて雲上から聖都の上空に進み、公爵邸の直上に至るとその場で垂直に降下した。

 高度を下げながら、ちらっと大聖堂の主塔の方に目をやる。

 あの地下にある主神の間が俺を待っている。

 当日の陽が傾きはじめる頃、イシュルは中庭のはずれの木立の中に静かに降り立った。

「……何もなかったか?」

 イシュルは何喰わぬ顔をして屋敷へ向かって歩きながら、ひとり言のようにして言った。

「うむ。大丈夫だ。特に異変は起きていない。剣殿」

 イシュルの横に微かにその気配を見せてクラウの声が聞こえてくる。

「……」

 イシュルは無言で頷くと、中庭から屋敷の中に入った。中央のホールから二階に上ったところで慌てた様子のミラに出会った。

「イシュルさま!」

 ミラはひとりで、シャルカもルシアも連れていない。

「大変ですわ!」

 ミラはイシュルにぶち当たるような勢いで走り寄ってくると、片手に持っていた小さな巻紙を差し出してきた。

 クラウは異変はなかったと言ったが、どうやらそうではなかったらしい。

「これは?」

 イシュルはミラから手紙を受け取ると、それをミラの目の前にかかげて言った。

「レニさんからのお手紙ですわ。レニさんは用事ができて、急遽故郷の方へ帰ることになったそうです」

「はっ?」

 な、なんだと!? どうして……。

「今朝方、風の神殿の見習い神官の方がレニさんから、と言って持ってこられたんですの」

「……」

 イシュルは、ミラの話が終わるのを待たずに手紙を広げ読みはじめた。

 手紙の宛名はイシュルとミラの両名で、手紙には彼女の故郷であるパレデスに急遽帰ることになった、まだ風魔法の伝授が終わっていないがどうか許して欲しい、などということが記されていた。

「プジェール家はパレデス一帯を治める領主の名ですわ」

 ミラは手紙の最後に書かれたレニのサインを指し示して言った。

 確かに彼女のサインにはレニ・プジェールと書かれてある。

 レニは家名を名乗らなかった。だからてっきり風の大魔導師、ベントゥラ・アレハンドロの家名、アレハンドロがそれなのかと思っていた。レニがプジェール家の者なら、ベントゥラの子どもがプジェール家の者と結婚し、その娘として生まれたのがレニ、レニはベントゥラ・アレハンドロからみて外孫、ということになる。

 ミラの説明によると、パレデス周辺は北の鉱山地帯であるカハールと、クレンベルの中間の山間部にあり、特に有力な鉱山などもなく、大きな街もないところで、カハールとクレンベルに挟まれ、魔獣の出没が多い地でありながらハンターや傭兵の集まりが悪く、村々の治安の維持に日々苦労しているのだと言う。

 彼女の手紙には、そのパレデス近隣の村で多数の地龍が出没し、現地が大変な騒ぎになっている、至急戻って退治しなければならない、とも書かれてあった。地龍の群れがたまたま、里の方に降りてきたのだろう。

「うーん……」

 イシュルは手紙を片手に両手を胸の前に組んで、思わず小さな唸り声を上げた。

 なんだか違和感がある。

 レニは、彼女は相当な風の魔法使いでも知らないようなことを知っていた。

 彼女はてっきり風の大精霊が人に化けているのか、あり得ないことかもしれないが、もしや……とも考えていたのだ。

 だが、手紙を読むと、彼女の身元がしっかりしたものだとわかる。レニはその、パレデスの領主であるプジェール家の者なのだとわかる。彼女はおそらく、ハンターや傭兵があまり集まらず、領主が苦労している地では最も有力な魔法使いのひとりだろう。現地でも頼りにされている筈だ。

 レニ・プジェールは明らかに、この人の世に実在する人物だったのだ。

 それでも……。彼女の魔法の知識はもちろん、あの人懐っこい性格の裏に垣間見える不思議な感じ……、あれはどう見ても不自然だ。

「風の神殿に行ってみよう。ミラも来てくれる?」

「はい、イシュルさま」

 不安そうなミラの顔に喜色が差した。

 ミラを抱きかかえ、空から風の神殿に直行する。

 神殿の裏手に回り、訪いを入れると、朝方ミラに手紙を届けた神官見習いの少年が顔を出した。

 彼によると神殿長の、イシュルを崇拝する風の大神官をはじめ、主立った神官たちはみな用事で外出しているか、来客中であるとのことだった。

 もう収穫祭、聖堂教の神官や一部の信徒たちは大聖堂感謝祭と呼ぶ——は数日後に迫り、聖都の多くの人が多忙を極めている。神殿の神官たちがつかまらないのもそれは仕方がなかった。

「レニさまは明け方にお見えになって、ベントゥラ・アレハンドロさまの管財人を辞し、故郷に帰るとおっしゃいました。わたしに神殿長さま宛の書簡や書類一式と、おふたり宛の手紙を託されると、その足で当神殿から去っていかれました」

 神官見習いの少年は、レニが管財人を辞するにあたって、ベントゥラ・アレハンドロの遺産もすべて処分し終えた、とも話していたとつけ加えた。

 ミラは少年から話を聞くと、イシュルに聞いてきた。

「レニさんはまだ、それほど遠くまで行っておられませんわ。家の者を手配して探させましょうか」

「いや……」

 イシュルは顎に手をやり考え込む仕草をした。

 北の街道筋に人を配ってもレニを見つけられるか、確実な保証はない。

 それに彼女とて少しでも早く自身の郷里に戻りたいだろう。

 風の剣。

 結局教えてもらえなかったか。あまりに残念だが……。

「……やめておこう。すいません、裏の屋敷、見せてもらってもいいですか?」

 イシュルは見習い神官の少年にことわりをいれ、裏手の、レニが仮住まいしていた屋敷を見にいった。

 屋敷の中はどの部屋も相変わらず殺風景なまま、ついさっきまで人の住んでいた温もりのようなものも残されていた。イシュルはほとんど足を踏み入れなかった屋敷の奥の部屋、彼女の居間や寝室も見てまわった。そこにもひとの生活していた気配がまだ感じられた。

 レニというは、確かにいたのだ。

 イシュルはミラとともに屋敷の外に出て、慣れ親しんだ素朴な庭の中へ足を踏み入れた。

 野趣あふれる屋敷の庭には夏の花々の姿が消え、かわりに金木犀(きんもくせい)やコスモスなど秋の花々が咲き乱れていた。

「……レニを追いかけるのはやめておこう」

 イシュルは庭を見渡しながらミラに、同じ言葉を再び、呟くように言った。

 金木犀の香りが漂ってくると、ふいにイシュルは何かを悟った。

 今、郷里に向かって急ぐレニは、“風の剣”という、魔法というよりは風神の力そのもののことを、果たしてどれだれ知っているだろうか……。

 花の香りに漂う微かな疑念。

 イシュルはなぜか、そう思った。


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