収穫祭


 

 翌日、聖王家は内務卿の名でビオナートの妾腹の娘、ニッツアを次の王、聖王国の女王とする旨、正式に布告した。

 国王代理だったルフレイドは不例のため王位継承を辞退、サロモンについては何も触れられていなかった。

 午後になってイシュルはミラとともに、屋敷の西側にあるサロモンの居室に呼ばれた。

 イシュルたちはいきなり控えの間の奥、サロモンの居間まで通された。

「……」

 中に入るとイシュルは少し驚き、両目をしばたいた。

 部屋の中には当のサロモンをはじめ、膝掛けをかけて椅子に座るルフレイド、ふたり掛けの長椅子に座るルフィッツオとロメオ、それに聖神官のデシオ、シビル・ベークの連絡役のカトカまで揃っていた。

「ご機嫌よう、サロモンさま、ルフレイドさま」

 ミラが腰を折って如才なく挨拶をする。

「ルフレイドさま、お怪我の具合はいかがですか」

 イシュルは笑顔になってルフレイドに声をかけた。

 彼は顔色も良く、表情も柔らかい。術後の経過は良好なようだ。

「ありがとうイシュル殿。さきほどもデシオ殿に魔法を使ってもらったところだ。だいぶ痛みも引いてきたよ」

 ルフレイドもイシュルのことを名前で呼ぶようになった。

「ふたりとも、空いている椅子に座って楽にしたまえ」

 サロモンはイシュルとルフレイドのやりとりに満足げに頷くと、イシュルたちに椅子をすすめた。

「さて、我が父はさきほど、ニッツアを次の王にすると言ってきたわけだが……」

 やはりその件か。

 イシュルとミラがそれぞれ空いている椅子に腰掛けると、サロモンが早速この場の議題らしきことを口にした。

 ……?

 だが、イシュルがルフレイドやルフィッツオらに視線を走らすと、彼らの表情はにこやかなまま、緊張した様子がない。

「その件は以前からわかっていたことだ。今日卿らに集まってもらったのは他でもない」

 そこでサロモンはひと呼吸おいて室内にいる者たちを見渡した。

「数日後にはここ聖都においても収穫祭が始まるが、期間中に行われる聖冠の儀当日の作戦行動について、詳細を詰めたいのだ」

 サロモンは思わぬことを言ってきた。

 なに……。

 イシュルはびっくりしてサロモンの顔を凝視した。

 サロモンはイシュルの視線に気づくとにっこり笑顔を向けてきた。

 イシュルはサロモンから視線をすばやく左右に走らせた。周りの者はさきほどとは打って変わって、一様に厳しい表情をみせている。

「このことは我々の方で以前から計画を立てていたのだが、デシオ殿、そしてイシュルにミラ、きみたちには初耳だと思う。このことを知らせておきたくてね、今日は同席を願ったのだ」

 この後、その計画についての説明がルフィッツオからなされた。

 サロモンらは聖冠の儀でイシュルたち正義派が破れ、ビオナートを仕留め損なった場合、同儀式の終了すると思われる時刻に大聖堂に一定数の軍勢、それに魔導師や影働きらを集結させて同聖堂を包囲、強制的に聖堂教会の中枢を自派の統制下におこうとしていた。

 つまりはビオナートを大聖堂ごと閉じ込め、聖冠の儀で不正、大失態があったなどと強弁して、総神官長に就任したばかりの彼を無理矢理辞任に追い込み、捕縛する計画を立てていた。

 聖冠の儀でビオナートがマレフィオアを召喚し、イシュルがその化け物を抑えきれなければ、主神の間をはじめ、大聖堂に何らかの損害が出るのは確実である。サロモンは大聖堂、聖堂教会の救援および保護の名目で自派の軍勢を集中、国王派の実力行使を排除しつつ、大聖堂主神の間損壊の責をもってビオナートを糾弾し、彼の完全な失脚を狙っていた。

「マレフィオア討伐の方策は、ルフレイドさまを救出した時の一件でわかっている。召喚者を捕縛、あるいは召喚の妨害をする専門部隊の編成を考えている」

 ルフィッツオがそこまで話すと、サロモンが引き継ぎ、より詳しく説明した。

「マレフィオア対策には武神の魔法具を持つ我々の従者たち、一部魔導師、白尖晶の影働きから数名選抜してこれに当たらせる」

 イシュルが敗れると最大の問題は、マレフィオアをどう退治するか、ということになる。

 サロモンたちも、以前にイシュルが考えたことと同じようなことを考えていた。当然と言えば当然だろう。敵がルデリーヌのような、武神の魔法具を持つ凄腕の剣士に禁書を持たせてくるのなら、同様の剣士と魔導師、猟兵の集団で追跡し捕捉、あるいは討ち取ってしまえばよい。禁書を奪い召喚陣を閉じてしまうか、あるいは禁書自体を破り捨てるなり燃やすなりしてしまえば、マレフィオアを強制的に消滅、除去できるだろう。

 マレフィオアをどうにかできれば後は恐いものはない。ビオナートを捕縛し、大聖堂を制圧維持できればサロモンたちの勝ちだ。

「デシオ殿、それにイシュルにミラ。きみたちが目的を達せられればもちろん、それが一番だ。だが我々はきみらが失敗した場合、万が一の場合も想定して準備を進めておかなければならないのだ」

 イシュルは無言でサロモンに頷いてみせた。

 そんなことは当たり前のことだ。こちらでどうこう言うことじゃない。

 ただ、俺は失敗するつもりなど毛頭ないが。

 ミラは視線を落とし、仕方がない、といった感じだ。デシオも不承不承といった感じだが何度か頷いてみせ、同意を示している。

「ちなみに白尖晶の投入には、シビル・ベーク殿に依頼して交渉してもらっている」

 サロモンはちらっとカトカの方を見やった。

 そしてサロモンは僅かに身を乗り出すようにして、イシュルの顔をじっと見つめてきた。

「いいかい、当日はまずい、と思ったらすぐに退避するんだ。きみたちの身の安全が一番大事だ。イシュル。きみがいれば、どんな状況になろうが我々は最終的に勝利できる。それはもう決定事項なのだ」

 続いてサロモンはミラに視線を移して言った。

「いいね? ミラ。イシュルの身を第一に考えるんだ。これは重要なことだぞ」

「はい。存じております、サロモンさま」

 幾分声を落としてミラは首肯した。

「……」

 イシュルは何とも言えない複雑な気分になった。

 サロモンの言っていることはしごく真っ当、当然なことである。そこには聖王国の王子として勝利を目指す厳格な意志とともに、イシュルやミラたちの人命を配慮する考え、それにサロモンのイシュルを思いやる個人的な感情も同居していた。

 その後は再びルフィッツオが話を引き継ぎ、当日、イシュルたちが失敗した場合のより詳細な計画が説明された。

 収穫祭の期間中は聖王国内はもちろん、大陸全土から巡礼者が聖都に集まってくる。その数は十万以上とも言われ、街中の宿屋はどこも満員、バレーヌ広場など街の大小の広場も巡礼者たちであふれかえる。今年は聖冠の儀も含まれる、幾つかの重要な儀式が行われる時には大聖堂とその広場も一時封鎖されるが、その日以外は終日解放され、バレーヌ広場と大聖堂をつなぐL字型の大道、ボリーノ通りも大聖堂へ祈りに向かう巡礼者たちの列で、昼夜を問わず埋まることになる。

 常識では収穫祭期間中に聖都で軍事行動をとることなどあり得ないし、不可能なのだが、サロモンはサンデリーニ城に集結させた兵力の一部を、北のアニエーレ川と南のディレーブ川から多数の川船を使ってルグーベル運河まで輸送、王城外郭部の南側と、ディエラード公爵邸のある北側からほぼ同時に上陸させる作戦を立てていた。

 両川とも収穫祭の前後は多くの川船で混雑するが、さすがに陸上の街中の混雑とは比較にならない。

 サロモンはディエラード公爵家騎士団の一部と、同家に駐留する第三騎士団の一部兵力を併せ、南北から大聖堂を包囲、占拠しようと考えていた。

 作戦中、負傷したルフレイドは公爵邸に留まることになる。聖冠の儀当日に向けて、ディエラード公爵の防備も固めることになっていた。

 会合が終わるとサロモンはイシュルに身を寄せ、囁くような小声で言ってきた。

「イシュル、収穫祭がはじまったら充分に気をつけるんだ。もちろん我々も協力する。敵は聖冠の儀の数日前から——」

 サロモンは国王派が、聖冠の儀の数日前から公爵邸に昼夜分たず、間断無く波状攻撃をかけてくるだろう、と言った。

「おそらく屋敷の四方から小部隊で、不規則な間隔で延々と攻撃をしかけてくると思う。我々を、きみを疲弊させるのが目的だ。わたしがビオナートならかならずそうする」

 イシュルはサロモンの眸をじっと見つめて頷いた。

 その危惧はイシュルも抱いていたことだった。 

 以前、赤帝龍と戦った頃、完敗を喫した辺境伯軍の話を聞いた時、そしてリフィアでさえも敗れ去った時、その時期にイシュルは自分が軍を動員、配備して指揮を執る立場にいたらどう戦うだろう、と時々考えたことがあった。

 それはさまざまな状況もあるだろうし、一概には言えないが、ひとつ確実に言えるのは相手が強大であっても単体で、巨大な龍であっても生物である以上、戦闘が長期間に及べばかならずどこかで疲弊する時がくるだろうと、ということだった。

 それならば赤帝龍に比べ、あまりにも弱い存在であるこちらはどう戦うか、おのずとそのやり方は決まってくる。手持ちの兵力を細分化し多数の小部隊に分けて、何日もの間、断続的かつ不規則にひたすら攻撃を繰り返すのである。攻撃したらさっさと後退し、次の部隊と入れ替わる。それを何日も、可能なら何ヶ月も延々と続けるわけだ。そうすればいかな赤帝龍でも疲労がたまり、戦意を失い巣に帰るか、どこか付け入る隙が出てくるだろう、ということになる。兵站はどうするか、大きな問題もあるが、いわゆるゲリラ的な戦術、ということになるだろうか。

 ただ、あの巨大な赤帝龍に疎ましい、と感じさせるほどの攻撃ができる部隊、となると、ひとつひとつの部隊が伝説の魔法使いとか、大精霊などと同じような攻撃力を持っていなければならないことになる。それは現実にはあり得ない話で、考え方としては間違っていなくとも、現実に実行し、赤帝龍に打ち勝つことは結局不可能だろう、という結論に行き当たる。

 だが、赤帝龍相手では不可能でも、それが強くともひとりの人間であるなら、非常に有効な戦法となりえるだろう。

 公爵邸に立て篭るこちら側は多少の防御力もあるし、補給と休息もとれることから動くことができない。間近に有力な陣地、城塞の類いがないせいもある。

 クラウの盤石の防御もあるし、俺はひとりではない。だが自身も含め、味方側がまったくダメージを負わないですむ、ということはあり得ない。

 聖冠の儀まで体力、そして精神力を万全の状態で維持することは難しいかもしれない。

 これは荒神の塔に幽閉されている水の魔女、ドロイテ・シェラールの解放をいつにするか、彼女の重要性がより増してきたと言える。ドロイテにはただマデルン・バルロードを殺すだけなく、なるべく派手に暴れてもらえるよう、その時に交渉すべきだろう。

 サロモンの居室を辞し、イシュルがミラとともに屋敷の中央階段の辺りにくると、デシオがひとり、ホールの端の方に立っていた。

「これはデシオさま……」

 ミラが挨拶する間もなく、デシオはイシュルたちの傍に寄ってきた。

「サロモン殿下のお考えは理解できるが、あれは何としても避けなければならないことだ。イシュル殿、聖冠の儀ではよろしくたのむ」

 デシオの顔が青ざめている。

 それはそうだろう。ビオナートはそうまでしても倒さなければならない相手だが、収穫祭の期間中に大聖堂の周囲に軍勢が出張ってくるなど前代未聞、聖堂教会としてはどうしても避けたい、これも凶事には違いない。

「聖冠の儀ではわたしも立ち会うことになった。わたしに何かできることがあったらなんなりと申し出てほしい」

「わかりました。もちろん、俺だって聖冠の儀で片をつけたいと思っています。後でもう一度、式次第を確認して打ち合わせしましょう」

 イシュルはそう言うと顎に手をやりさすって、視線をあらぬ方に向けた。

 打ち合わせもそうだが、もっと大事なことがある。ぜひにでも、すましておきたいことがあるのだ。

「その打ち合わせ、主神の間でできませんかね? 下見もかねて」

 イシュルはデシオに視線を戻し、悪い顔になって言った。


 日が暮れると早々、イシュルは紫尖晶の長(おさ)フレード・オーヘン、続いてアデール聖堂の守護精霊のアデリアーヌと神殿長のシビル・ベークを訪ねた。

「この時期は盗賊団も聖都に数多く紛れ込んでくるのだ。例年、そちらの方に人を割いているのだが……今回は仕方がないな。なんとかしよう」

 フレードはイシュルの公爵邸周辺の警備を厳重にできないか、との申し出にそう答えると、いつものごとくひと言つけ加えてきた。

「だがあまり期待してもらっては困る。国王派も全力でくるのだからな。こちらはもともと人手が少ないのだ」

 シビル・ベークはいつもより少し、どこか興奮しているような、浮き立っているように見えた。

「サロモンさまの要請にはしっかりお応えしようと思っているの。でも、イシュルさんなら大丈夫でしょう。あの化け物がでてきても……」

 シビル・ベークは片眼鏡の奥の眸を細めて言った。

 彼女はもう、白路宮での一戦でマレフィオアが出現したことを知っていた。

「思いっきりやればいいのよ。なんならあの化け物ごと、主神の間から上すべてを吹き飛ばしてしまってもかまわないわ。大事なのは主神の間。上の建物は所詮飾りよ」

 彼女の言にイシュルはさすがに度肝を抜かれたが、それはある意味示唆にとんだものだった。

 単純に、風の魔力を、魔法を下から上に向けるように使えばいいのだ。

 太陽神の座を停止させたら、その石盤を強固な風の魔力で上から蓋をするようにして覆ってしまう——ということは前から考えていたが、シビルの発言はマレフィオア対策だけでない、重要な意味を持つものかもしれなかった。

 状況が複雑になるとついつい忘れてしまうこと、何が一番重要なのか、そうでないのか、その取捨選択を常に単純明快な思考で決定し、割り切って実行すること、それがとても大切なことであるのは間違いない、確かなことだった。

「これからは忙しくなるわ。毎年この時期だけはみんなで御馳走をつくるの。今年は今までよりも奮発できるから、うれしいわ」

 イシュルは口をすぼめて、苦笑しそうになるのをなんとか堪えた。

 ……シビルがなんとなく興奮しているように見えたのは、そちらの方だったか。

「今時期は人間どもが増えて迷惑なんだがな。でも神殿の女どもが御馳走を食べて喜ぶ姿はこちらも見ていて楽しい。なぜだか、中にある契約魔法陣から流れてくる魔力も力が増すような気がするのだ」

 アデール聖堂の門前では、アデリアーヌがいつもの威張ったポーズでそう言った。

「イシュルもいっしょに食べたりしないのか?」

 いやいや、この門の向こうは男子禁制だって。

「いや、今回はやめておくよ。ちょっと忙しいんだ」

 イシュルはふと大聖堂の方を見て言った。

 街中のこの場所からも、夜空に大聖堂の主塔の影がかなり大きく、はっきり見える。

「そうか。あの化け物と戦うんだろ? わたしも感じたぞ。やつの魔力を」

「ああ」

 一番の敵はビオナートだがな。

「あの化け物は……」

 アデリアーヌも大聖堂の方を見て、ひと言呟いた。その語尾が消えていく。

「なんだ?」

 マレフィオアはもともと、水神の妹だったその一部からできている。水の精霊であるアデリアーヌは何か知っているかもしれない。

「いや、何でもない。それよりイシュルはあの大きな塔の下で戦うんだろう? あそこには主神の魔法陣があるからな」

 今度はアデリアーヌがごまかすような感じで言ってきた。

 主神の魔法陣があるから? だからそこでマレフィオアと戦う? なるほど、アデリアーヌはカルノと同じことを言っている。

 あの化け物は蒐集家で、破壊者なのだ。

「そうだな」

「邪魔だな。あの塔が」

「……」

 イシュルは唖然として宙に浮くアデリアーヌを見上げた。

 なんの偶然か、彼女はシビルと同じようなことを言ってきた。  


 

 

 聖冠の儀。

 また月神は邪魔立てしてくるだろうか……。

 いや、聖冠の儀は明け方、日の出とともに開始される。今まで月の女神レーリアがメリリャの姿になって現れたのは夜だけだ。今度は大丈夫な筈だ……。

「イシュルさま……」

 ミラの囁く声。

 メリリャの影がミラに変わる。

「……ん、ごめん」

 イシュルは目を醒した。ミラがひとりで明かりも持たず、イシュルの前に立っている。

「寝てた」

 イシュルは自室の居間で長椅子に座り、舟を漕いでいた。

「そろそろお時間ですわ」

「ああ」

 イシュルは椅子から立ち上がって言った。

 今はもう日も変わろうとしている、深夜だ。

 イシュルはフレードらに会いに行き、屋敷に戻ってくるとそのまま寝てしまったらしい。

「……誰かに見られるとまずいな。このまま大聖堂まで空から行こう」

 これから大聖堂へ行き、地下にある主神の間を、デシオに秘密裏に見せてもらうことになっている。

 彼も多忙で、決行するなら今晩、夜遅くしかない、という話になった。

「はい!」

 ミラが声を少し押し殺しながらも、元気良く答えた。

 部屋の東側の窓を開け、ミラを両手に抱きあげる。

「あの、イシュルさま」

 ミラが顔をイシュルの右肩に押しつけ見上げてくる。

「なに?」

 イシュルが答えると、ミラは少し言いにくそうに、僅かに間をおいた。

「お昼のサロモンさまの件です……」

 ミラの眸が揺れている。

「イシュルさまはどうか気になさらないでください。わたくしはイシュルさまを信じておりますわ。イシュルさまは誰にも負けません。殿下も心の中では、そう考えているに違いありません」

「そうかな?」

 イシュルは笑顔になってミラを見下ろした。彼女を抱く力を少しだけ強くする。

「……」

 ミラは微かに身をよじり、苦しそうな吐息を漏らした。

「たとえうまくいかなったとしても、わたくしがかならずイシュルさまをお助けします。わたくしはいつまでも、イシュルさまとともにおりますわ」

「ふふ、ありがとう。ミラ」

 ミラは彼女なりに俺を励まし、不安を取り除こうとしてくれている。

「じゃあ、いくぞ」

 イシュルはミラを抱きかかえたまま、いきなり身をすぼめて窓の外に飛び出ると、夜空を大きく、またぐように昇っていった。

「きゃっ」

 途中、ミラが小さく悲鳴を上げる。

 イシュルは飛びながら少しからだを傾け、ミラに夜空の星々が見えるようにした。

 聖都の夜はまだ、クレンベルほど寒くはない。夜風が周りを、小さな音を立てて通り過ぎていく。

「イシュルさまったら……」

 ミラが微笑みながら夜空を見上げる。

 彼女の眸に、数多の星が踊った。

 

 


 イシュルは大聖堂の裏手、主塔の西側に接続する大神殿の建物の裏側に着地した。

 ミラを降ろし、奥の方へ歩いて行く。正面奥の方は、主塔と大神殿を連絡する石造りの建物で塞がれている。イシュルはその石壁の少し手前で立ち止まると、神殿側に並ぶ扉の一番奥の、一番祖末な木の扉をそっと押した。

 扉はききっと軋む音を立て、奥に向かって開いた。中に入ると暗がりにひとり、小さなランプを持った初老の神官が立っていた。

 神官は無言でイシュルたちに頭をさげると、「どうぞ、こちらへ」と低いしわがれた声で言い、奥の細い廊下をランプを上げて指し示した。

 外壁と同じ石積みの壁を奥へ進む。ふだんあまり使われていない通路なのか、空気が淀み少しカビくさい。突き当たりを右に曲がり、左側の扉を開けさらに奥へ進むと、壁に一定間隔でカンテラが下げられた明るい、広い通路に出た。床には絨毯が敷かれている。この廊下を北の方へ進み、一番奥の西側の扉を開けて中に入る。中に入るとそこは物置になっているのか、室内には大小の椅子や机、巻かれた布類や木箱などが並んで積み上げられている。部屋の脇を奥へ進み、突き当たりの扉を開き奥へ進む。中には小さな踊り場があって、地下に降りる階段があった。

 ミラがイシュルの左手に触れてきた。

 彼女の手を握り、神官の後について階段を降りて行く。

 遅い時間であるのは確かだが、ここまで誰も、衛兵にも会わなかった。

 地下も石造りで、足音が高く響く。その後も迷路のように、右に左に部屋や通路を通り過ぎ、自分がどこにいるのかよくわからなくなってきたところで、少し広い通路に出た。灰色のモルタルの廊下が真っすぐ続き、奥を左に折れると、先の方に、ランプを下げた神官らしき男がひとり、立っていた。

「ごくろうさまです。後はわたしが」

 その男はデシオだった。彼はイシュルたちを案内してきた神官を下がらせると、目の前にあった扉を開けた。

「こちらへ」

 中は小さな机に椅子が数脚。机の上にはランプや巻紙、机の下にはおそらく照明用の油が入っているのだろう、小さめの壷が二つ並んでいた。

「この扉の奥に、主神の間のすぐ外側、全周を囲む通路がある」

 デシオは顔を引きつらせ、声を潜めて言った。

 扉を開けて奥へ進む。

 扉をくぐると横幅の狭い曲線の通路が左右に伸びている。よく磨かれた石の壁が頭上、相当な高さまで伸びている。天井は暗く沈みはっきりとしない。

 イシュルの感覚では、かるく三十長歩(スカル、約十八m)くらいはある。五階建ての建物くらいの高さだ。

 ミラのイシュルの手を握る力が強くなる。

 確かにここから、明らかに空気が変わった。

 この細長い通路も、天井の方に風の流れを感じる。通気口が幾つかあるようだ。もう空気の淀んだ感じはない。

「……」

 デシオが無言で先を歩きはじめる。彼の後ろを歩いていくと突然、内側の壁が途切れた。

 イシュルは、その先に現れた大きな空間に視線を向けた。

「ここが主神の間だ」

 デシオが低く、重々しい声で言った。

 ミラがイシュルの手を離し、両手で口許を押さえた。

 デシオのかかげるランプの光に、彼女の双眸がこれでもかと大きく見開かれているのがわかる。

 イシュルはふとあの夜、ファーロが話していたことを思い出した。

 

……オルスト国の都にある聖堂教会の総本山、その主神殿の奥深くに、神が降臨し魔法具を授ける聖なる玉座があり、代々神に選ばれたただひとりの神官のみがそこで神を降ろし、魔法具を得ることができる……。


 あの時感じたおどろおどろしい、神秘的な感覚と怖れ、そして空想。その記憶がよみがえってくる。

 だが、今目の前に広がる空間はそれほど劇的な感じはなく、むしろ超然とした静謐さをたたえている。

 暗闇に薄らと浮かび上がる中央の石盤は、クレンベルと同じほどの大きさに見える。だが、クレンベルの石盤の周囲に並んで立っていた石柱はこの、主神の間にはない。石盤の外側にはひとがふたり、並んで歩けるほどのスペースがある。周囲の石壁は円形に高く伸び上がり、天井はドーム形に窄まり、中央に大きな穴が空いている。

 あの穴が、主塔の内側にあった筒状の古い塔に繋がっているのだろう。儀式の際にはあそこから、この石盤の上に外光が降り注ぐ形になっているのだろう。

 主神の間には、デシオの他にランプを手に持つ神官がもうひとり、その横にもひとり、人の影が見える。ランプを持つ神官はピエルだ。

 彼らがこちらに近づいてくる。

「ウルトゥーロさま!」

 横からミラが声を上げる。

 もうひとりの人影、それは総神官長、そのひとだった。

「イシュル殿、ご苦労であった」

 ウルトゥーロが柔らかい表情で、暖かい声音で言った。

 彼はあの聖人としての、もうひとつの人格を纏っている。

 ご苦労、とは俺のクレンベル行きを指しているのだろう。俺がカルノと会って二日。もし白尖晶あたりの影働きが監視していたのなら、もうウルトゥーロの耳に届いていてもおかしくない。それに、公爵邸にはデシオの手配した正義派の神官たちが常駐している。俺が丸一日不在だったことは、彼らにも知られているだろう。

 俺の不在はともかく、ビオナートの手の者が、カルノやクレンベルの主神殿に監視をつけていたら、俺とカルノに光の魔法具の受け渡しがあったらしいことは知られてしまう。その者が魔法を使っていなければ俺にも気配は読めない。だが、監視している者が、もうひとつの太陽神の座と首飾りの秘密を知る者、そう推理できるほどの知識のある者でなければ、結局ビオナートは俺とカルノが何をしたか、その真相まで知ることはできない。ビオナートも、もうひとつの太陽神の座と首飾りのことは知らない。

「……はい」

 イシュルはウルトゥーロに短く、あいまいに返事をすると、石盤の上にあがって良いか聞いた。

「太陽神の座に上がってもいいですか」

「うむ」

 一瞬、デシオとピエルには緊張が走ったが、ウルトゥーロはあっさり頷いた。

 イシュルは盤上に上がる。

「イシュルさま……」

 ミラの呟く声がする。

 石の組み具合はクレンベルとよく似ている。だがこの石盤の表面は傷みがなく、夜目には黒曜石のような光沢がある。

 近くで見ると、なかなか神秘的ではある……。

 この石組みの下に太陽神の魔法陣が刻まれているのではないか。

 ビオナートは主神の間でマレフィオアを使ってくるだろう。やつはその魔法陣の図案を知っている、ということなのか。だが、それだけでは太陽神の座を新たにつくり出すことはできない。ヘレス自身か、大精霊クラスの光の精霊の協力がなければそれは不可能だ。

「この石盤の下に主神の魔法陣があるのですか?」

 イシュルはウルトゥーロに質問してみた。

「そうじゃが……」

「主神の魔法陣の図案自体は、ここ、大聖堂の書庫にも保存されている。問題は……」

 デシオが説明してくれる。

「問題はその魔法陣を描けるほどの精霊を召喚できない、ということですね?」

「そうだ。太陽神の魔法陣は主神、ヘレスでなければ描けない、とされておる」

 イシュルがデシオの説明を遮り確認すると、ウルトゥーロが自ら答えた。

 イシュルは顎に手をやり、考え込む仕草をする。

 もしかするとビオナートは、光の大精霊を召喚する術(すべ)を知っているのかもしれない。

 やつは少年期をここ大聖堂の地下で過ごしてきたのだ。

 イシュルは視線をあげて、ウルトゥーロのしている太陽神の首飾りを見た。

 あの、メインの方の首飾りなら、それができるのではないか。

 イシュルは続いて周りに視線をめぐらせた。

 ……やはり、やつはかならず殺してしまわなければならない。

 やつが総神官長になれば、秘かに、幾つもの太陽神の座をつくり出すのではないか。そして年に二回、夏至と収穫祭の吉日のその日に、複数の太陽神の座を回ってより多くの魔法具を生み出し、それを独占してしまう……。やがては兵士のすべてが魔導師となる、最強の軍隊ができあがる。

「やはりビオナートは殺してしまった方がいい」

 イシュルはウルトゥーロらを見渡し、もう一度、あえて口に出して言った。

 自分の胸にある、もうひとつの太陽神の首飾りを握りしめる。

 その時視界の隅を、心の底を、魔力の微かな光が走ったような気がした。

「むっ」

 ウルトゥーロが何かを感じたか、小さく呻き声を上げる。

 太陽神の座は太陽光がなければ起動しない筈だが……。

 まったく何も、何の反応もしないわけではないらしい。

 ヘレスよ。おまえが人の心に触れてくるのなら。

 イシュルは唇の端を引き上げ、小さく笑みを浮かべた。




 ディエラード公爵邸の東側、練兵場の方には、ダナの連れてきた土の宮廷魔導師や、ルフレイド王子派の騎士団兵らが集い、複数の土塁をつくっている。

 イシュルは朝のランニングを取りやめ、散歩する風を装いながら、彼らの様子を横目に練兵場を横切り、公爵邸の北側を回って、西側にある小城塞の方へ向かった。

 途中、木々の間を即成の木造兵舎が建てられ、テントも幾つか張られていた。彼ら、ルフレイド王子派の騎士団兵らのために用意されたものだ。

 イシュルは西の城塞の前まで来ると、小城にひとつだけ聳え立つ城塔の上に登った。

 城の塔上は露天で、周囲を凹凸の鋸壁(のこかべ)で覆われている。

 イシュルは西側の鋸壁の際に立って、目の前に南北に伸びる運河を見渡した。

 対岸に舳先を並べる川船の数が、常日頃より何倍も増してとんでもないことになっている。

 今日は収穫祭の初日で仕事をしている人夫は少なかったが、イシュルの目の前では一艘のやや大きめの船が生きた牛を数頭、岸壁に上げようと四苦八苦しているのが見えた。人夫らの怒声に時々牛の鳴き声も聞こえてくる。

「お早う、坊ちゃん」

 後ろから、見張りに立っている公爵騎士団の兵士が声をかけてくる。

「お早う」

 イシュルは後ろを振り向いて、三十くらいの歳の兵隊にあいさつを返した。

 イシュルは、朝に公爵邸の練兵場の周囲でランニングをはじめてからしばらく、西側の城の方にも足を伸ばし、こちらは散歩がてらに毎日のように城壁や城塔に登って、朝の運河や街の様子を見、楽しんでいたが、そのうち城壁を守備する兵士らとも顔見知りになった。

 彼らもイシュルが公爵家の客人だというのは知っており、最初は貴人に対するへりくだった態度をとって距離をおいていたが、そのうちイシュルは貴族ではなく彼らの多くの者と同じ農民出身で、彼らに対しても横柄な態度をとることがなく、次第に打ち解けてくるようになった。ただ、彼らはそれが面白いのか、イシュルのことをからかい半分で「坊ちゃん」と呼ぶことはやめなかった。

「今はまだ街中も静かだけどよ。昼頃からにぎやかになるぜ。バレーヌ広場の方じゃ、お祭り騒ぎになる」

「……」

 イシュルは兵士に向かって頷いてみせ、視線を運河の南、大聖堂前の吊り橋の方を見た。

 橋の上には多くの巡礼者が列をつくって並んでいる。みな大神殿で祈りを捧げるため順番を待っているのだ。

 大陸における収穫祭はもっとも一般的な農耕祭で、地方によって細かい違いはあるが、基本的には主神ヘレスに対し感謝の祈りを捧げた後、家族、一族、村の者たちが集い祝宴を開く、というごく単純、素朴なものである。

 聖都にやってきた巡礼者は大聖堂で祈りを終えた者たちから、滞在している宿や野宿しているバレーヌ広場などで宴会をはじめる。彼らにはこの時、街中の神殿や貴族、ギルドや商人らが酒や食物を無料で提供し、期間中、テントやテーブル、イスなども手配し貸し出す。巡礼者の中には旅の一座や流しの吟遊詩人らもいて、彼らが街の方々で行われる宴(うたげ)に花をそえる。

 今年は特別に行われる聖冠の儀をはじめ、重要な儀式が行われる時間帯を除き、そのお祭り騒ぎが五日間連日連夜、延々と続くのである。

「バレーヌ広場はもの凄い数の人が集まるからな。ここまで騒ぎが聞こえてくるぜ」

「そうなんだ」

「ああ。しかし今年は俺たちはずっとお務めだらなぁ」

「だけど、王子さまたちが勝ったら、あんたらの給金もぐーんと上がるんだろう? お祈りも宴会も後でやればいいさ」

「そうだよな。……で、どうだい、俺たち勝てそうかい?」

「ああ。勝つさ」

 イシュルはすこし凄みのある笑顔で答えた。

 そこへぱたぱたと、城壁の上に小鳥が二羽、降りてきた。

 雀? シジュウカラか。屋敷の中庭の方から飛んできた。

 二羽のシジュウカラは、城壁の石の上を跳ねるようにしてイシュルの側から離れていく。

 つがいかな。人に慣れてるな、こいつら。

「ああ、それ、ラビオが餌やってたぜ」

 後ろの兵隊が言ってくる。

「今日はあいつは非番だな」

「ふーん」

 それは残念だったな。おまえたち、今日は餌、もらえないよ。

 イシュルがぼんやり小鳥を見ていると、二羽のシジュウカラは突然、すばやく飛び立ち、東の空の方、木立の方へ消えていった。

 ……ん?

 イシュルが運河の方へ振り向くと、対岸の方で複数の嫌な気配を感じた。

「しゃがめ! 早く」

 イシュルは後ろの兵隊に怒鳴ると、頭上に風の魔力を一気に降ろす。

 はじまったのか?

 対岸に並ぶ商家の建物の屋根の上にいきなり、ぱらぱらと射手が十名近く現れ、矢を射かけてきた。

 魔力の煌めきが走る。空に放たれた矢の先端にいっせいに火がともる。

 火の魔法だ。イシュルは風の魔力を横に流し、火矢をすべて横に吹き飛ばした。

 すかさず屋根の反対側へ逃げる射手や魔法使いを潰していく。

 対岸に並び立つ建物の屋根の向こうで、一部が赤く染まった灰色の煙がぼっ、ぼっと連続して巻きっ上がる。

「急げ! 配置につかせろ」

 イシュルは振り向いて兵士に叫ぶ。

 城塔の中央には木製の旗竿が立てられ、その周りに何本かの縄が垂れている。その中の一本は塔内に引き込まれていた。

「くっ」

 兵士はその縄に取りつくと手許へ引っぱり上げた。塔内の鐘がカランカランと鳴らされる。

「どうした」

「敵襲か!」

 城の下の方で兵士らの騒ぎ、動き回る気配がする。

「クラウ!」

 イシュルは叫びながら屋敷の周囲を見渡した。屋敷の東側と南側からも火矢が飛んでくる。

 クラウが屋敷の敷地の中央付近、空中に姿を現した。クラウは屋敷の外周に風を巻き、すべての火矢を吹き飛ばしていく。

「ベルシュ殿! 下から来るわ!」

 城から飛び出してきた公爵家魔導師長のコレットが叫ぶ。

 彼女は金(かね)以外の四元素の魔法すべてを使いこなす技巧派だ。土魔法も使えるので地中の魔法の流れを感知したのだろう。

 イシュルは城塔から幾つかの建物を飛び越え中庭に降り立つと、屋敷の敷地内に風の魔力をランダムに、分散して突き刺した。

 その瞬間、地面がゴゴッと激しく揺れ、屋敷の北東、少し離れた木立が割れて木々が倒れ、かなりの大きさのゴーレムが姿を現す。ゴーレムは全身、大小の岩の塊で出来ている。

 イシュルは風の魔力を薙いでゴーレムの上半身を吹き飛ばし、はじけ飛ぶ岩をさらに細かく砕いた。

 灰色の粉塵が公爵邸の上空に薄く広がっていく。上半身を砕かれたゴレームはただの岩の塊となって静止した。

 とうとう“下”からも来たか……。

 地中からの攻撃だと俺もクラウも反応がいってんぽ遅れる。

 今まではコレットなど土系統の魔法を使える者たちが警戒、対処していたのだが、今回、彼女らには防ぐことができなかったらしい。土魔法の実力者が出てきたのだ。

 ……!

 イシュルは再び城のある方、公爵邸の西側を振り向いた。

 中庭を挟んで木々の並ぶ奥に、使用人らの宿舎が建っている。

 そちらの方から魔力の、そして人びとの激しく動く気配がする。

 イシュルが中庭を飛び越えると、その先を屋敷の中から出てきたミラとシャルカが使用人の宿舎の方へ走っていく。

 宿舎の裏側に回り込むと、手前にミラとシャルカの後ろ姿、その奥にナイフを構えたルシアの背中、向かいにはルシアと同じようなナイフを手に持つメイドがひとり、そのさらに奥にはまだ幼い、少女のようなメイドの首にナイフを突き立て、後ろから羽交い締めにしている覆面、黒装束の影働きらしき男がいた。

 ……これはまずい。あの少女は人質か。

 イシュルが動き出すと、少女を抱きかかえた黒い男の姿が消える。反射的に上の方に視線を向けると、その男は少女を抱きかかえたまま、城壁の上にいた。

 加速の魔法、あの跳躍。武神の魔法具だ。

 そしてルシアともうひとりのメイドがナイフを打ち鳴らし、激しくやりあっている。ふたりとも加速の魔法を使っていて、一瞬、ちらっちらっと動きが止まる時以外は動きが早すぎて目で追えない。

 一方、ミラは城壁の上に立った男を見据えると、シャルカの肩に飛び乗った。

「だめだ、ミラ。罠だぞ!」

「それでもあの子は助けなくてはなりません」

 シャルカがミラを乗せたまま空に飛び上がる。それを待っていたかのように男の姿が城壁越しに消える。

「くそっ」

 イシュルは猫騙しをやるようにして己の両手を目の前で打ち鳴らした。

 パチン、という音とともに早見の魔法が起動する。

 視界内、一定の距離内を一定の早さで動く物体があれば早見の魔法は自動的に起動する。

 周囲から音が消え、さまざまなものの気配が遠のく。ルシアと敵の動きが目で追えるようになった。

 イシュルは動きの少ない敵のメイドの頭の右側に風の魔力を起こし、早見の魔法を切ると同時にそのまま左へ、メイドの頭を横に払った。

 メイドがからだを回転させながら横へすっ飛んでいく。

 ルシアはメイドを追っていき、とどめをさした。

 イシュルはルシアの方へ駆けていく。

「こいつ、間者か」

 公爵邸に潜り込んでいたらしいメイドの女は両目を見開き、呆然とした顔で地面に倒れている。胸から赤黒い血を流し、四肢があらぬ方向に曲がっている。

「はい。おそらく……サラが、あの」

 ルシアは引きつった顔を上げて、城壁の向こうへ視線を泳がせる。

 サラ、というのはあの少女のメイドのことだろう。

「そちらは俺にまかせろ。ルシアは屋敷の方を。外に出るなよ」

「はい」

 イシュルはひとつ頷くとその場で跳躍、一気に運河の対岸上空まで飛び上がった。

 前方を飛ぶミラとシャルカの影が見える。

 その先、街の家々の屋根の上を、ビデオを少し早送りしたような奇妙な早さで、人影が小刻みに跳躍を繰り返し進んでいく。

 距離があるために加速の魔法があのように見えるのだろう。

 イシュルはミラたちを追いかけながら、厳しい表情になった。

 見事にやられた。きれいに敵の罠に嵌ってしまった。屋敷の方はクラウがいるから心配はないだろうが……。

 これが先日サロモンが言っていたことなのだ。聖冠の儀は三日後に行われる。これからまるまる二日間、この手の襲撃が断続的に夜間も続けられるのだ。

「イシュルさま!」

 イシュルがミラに追いつくと、ミラが少し申しわけなさそうに声をかけてきた。

「まずいぞ……」

 商家や貴族の屋敷、そして大小の家々が密集するその向こうに、無数の群衆が波打つようにどよめく大きな広場が見えてくる。

 ディエラード家のメイドを人質にとった黒い男は素早い動きで街中を抜け、バレーヌ広場に、群衆の中に逃げ込んだ。

「これは完全に罠だ」

 イシュルは空中を広場の南側、大聖堂へと向かうボリーノ通りの入り口、その右側へ移動していく。

 そしてボリーノ通りを除く広場の外周、全周に風の魔力を降ろした。分厚い壁状に魔力を流動させ、広場にいる何万という群衆を丸ごと閉じ込めてしまった。

 広場には大小の無数のテント、掘っ立て小屋が立ち並び、あちらこちらに屋台も出ている。見せ物小屋みたいなものも建っているのが見える。そして無数の人びとが大小の集団に分かれ、あるいは寄り集まりうごめいていた。まだ酒を飲み、騒ぎ出す時間ではないが、群衆は思い思いに歩き回り、あるいはひとつところに座り込んで固まっている。

「ミラはボリーノ通りを見張っていてくれ」

「はい、わかりましたわ!」

 イシュルはミラたちを空中に残し、広場の真ん中近くに降りて、自身のからだのまわりを風の魔力の障壁で覆った。こんな場所では人影からいきなり魔法を撃つ、通りすがりにいきなり斬りつける、どんな奇襲も思いのままだ。

 あの男が魔法を使わず、少女を気絶させ服装を変え、変装してしまえば、もうこちらはお手上げだ。

 そして正体不明の、魔法のようなものに閉じ込められていると気づく人びとが増えていき、この群衆全体にその恐怖が伝播していくのに、どれだけの時間的猶予があるだろうか。

 限られた時間の中で、この広場からあの黒い男とメイドの少女を探すのは至難の業のように思われた。

 方法はひとつしかない。広場の北側から南のボリーノ通りに向けて、風の魔力の感知を波のように流していき、あやしい動き、気配のする者を見つけ出すしかない。

 それでもこの群衆の中には、ただ巡礼に来ただけの魔法使いもいるだろうし、俺を人影からねらう、ビオナートの他の手の者も紛れこんでいるかもしれない。黒い男とそれらの者の、見分けがつけられるだろうか。

 イシュルは額に浮かんだ汗を拭うと、広場を北の方へゆっくり歩き出した。そして自身の歩く方向とは逆方向に魔力の感知の波を流していった。

 途中、意識を集中するために、周りに人の少ないところで立ち止まって目を瞑る。

 瞼を通して秋の晴れ渡った陽光が漏れ広がる。周りには無数の人いきれ。

 何か鐘の打ち鳴らされる音や、誰かの叫び声、笑い声、何かがガシャンと倒れる音……集中するのも厳しい状況だ。

「へっ?」

 そんな中、イシュルはふと両目を開け、前方をぼんやりと見た。

 自身の魔力の波が突如さざめき、引き裂かれ、そこから強力な魔力の閃光が走った。

 いつか見た、触れれば切れるような鋭い魔力の光輪……。

 呆然と佇むイシュルの前を、人びとの笑顔が幾つも通り過ぎていく。

 人の壁の向こうから、何かが突然吹き飛び、激しく動いた。

 群衆が悲鳴を上げて離れていく。イシュルの視界が開けていく。

 そこへもの凄いスピードで黒い影が跳躍し、イシュルの目の前にすっと立った。

 人びとのざわめきが耳にさわる。立ち上がる早見の魔法を振り切るようにして止める。

 青空に銀髪が広がり陽光に燦然とひらめく。周りをちぎれた草花が舞った。

 その女は左手に気を失ったメイドの少女を抱え、右手に首を握って高く、黒い男を掲げていた。

 黒い男は意識を失い両手両足をだらりと下げている。

 女の赤く煌めく眸が細められた。

 女は黒い男を投げ捨て言った。

「久しぶりだな、イシュル。こんなところで会えるとは奇遇だ」

 女の顔に笑顔が浮かぶ。

「この者たち、おまえが探していたんじゃないか? ふふ」

 ど、どうして……、おまえが……。

 イシュルは喉を鳴らし、その女の美しい面差しを凝視した。

 その女の名を、囁くように口にした。

「リフィア……」


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