【幕間】 鉄仮面の男
俺は誰だ。
全身を焼きつくすような苦痛、心をおかし切り刻んでいく焦燥。
……そして怒り。
それらはやがてかたちを変え、この身も心も、おそらく世界のすべてをも絶望に浸していく。
絶望はやがて静かな諦念となって己の底に沈殿し、かわりにどこからともなく黒い虚無がやってくる。
ああ、もう何も感じない。俺には何もない。
……殺せ。早く殺してくれ。
少年を襲った虚無の後から、最後にやってきたのは願い。死への憧憬だった。
無数の大小のクレーターに荒らしい山脈の連なり。そして滑らかに広がる砂の海。
煌煌と光り輝く女の横顔が笑った。
満月が夜空を覆いつくすように膨張し、ありえない大きさになってただ一点を、朽ち果てた廃塔を照らしている。
その誰もいない筈の塔の最上階には、ひとりの囚人が幽閉されていた。
囚人の両腕は鎖によって天井に引っ張り上げられ、両足も枷をはめられていた。
囚人はまだ少年といってもいい、歳若い男だった。
鎖を取りつけられた鉄製の腕輪と足枷が、ボロをまとった少年にはあまりに大きく重過ぎるように見えた。
彼は座ることも横になることもできず、ずっと長い間そうして立ったままでいるようだった。
足腰が疲れ、眠くなれば自然とからだが下へ落ちていき、両腕にはめられた腕輪が手首に食い込む。その痛みが足腰の痛みより、睡魔よりも強くなれば少年は再び立ち上がり、目覚めることになる。
誰か、この囚人に食物を与え、飲み水を与え、世話をする者はいないのか。
なぜ彼は囚われたのか。
少年は円筒型のヘルムを被されていた。
格子も鉄扉もない窓、ただ壁の切り取られた四角い穴が巨大な月で埋まっている。
囚人は寝ているのか、もう意識がないのか、彼には不釣り合いな大きさの醜いヘルムを前に傾けたまま、窓を覆う異様に大きな月にも反応を示さない。じっと俯いたまま、まったく動かない。
「可哀想に」
いつのまにか少年の前には女がひとり、その両脇にひとりずつ、ふたりの男が立っていた。
女の右側には少し厳つい顔の、だが知的な風貌をもつ壮年の男、左側には髭をたくわえた上品な顔立ちの男。右側の男よりもやや若い。
真ん中の女は波打つ銀髪を肩先まで広げ、卵形の顔に切れ長の青い眸。瞬きする瞬間にすっと鋭い目つきをする。美貌の、まだ若く見える女だ。
ふたりの男は明るい灰色のトーガを優雅にまとい、女も腰紐を巻いている一点が違うだけで、あとは同じような服装をしていた。
女は無表情に、平坦な口調で「可哀想に」と呟くと、右手を伸ばして少年の被るヘルムに触れた。
その瞬間、ヘルムはどこかに消えてなくなった。少年の顔があらわになった。
長い間ヘルムを被っていたからか、少年の顔はところどころ赤く、黒く色づき、皮膚が爛れている。
女は続いて指先を伸ばし俯く少年の顎を持ち上げた。するとこれも、瞬きする間もなく少年の顔はきれいに、皮膚の病いの痕も消え去った。
「ふむ……」
女は少年の顔を見つめながら、小さな吐息を漏らした。
その顔に笑みが浮かぶ。
「……よくできておる」
女は囁くように小さな声で言った。
「ヴィロド殿」
女は少年の顔をじっと見つめたまま、微笑を浮かべたまま言った。
「……ほんとうによろしいのかな?」
女の右側の男が答える。低い重厚な声音だ。
「……」
女が男に振り向き、無言で冷たい視線を送る。
「むっ……ご、ごほん」
女に睨まれた男はわざとらしく咳払いすると言った。
「何も、異論があるわけではないが」
「なら早くいたせ」
女が冷たい声で言う。
男はむすっとした顔で両手を僅かに広げ、掌を前に突き出した。
すると突然、男の前にやや小ぶりな円形の盾が現れた。裏に鉄製の十字形の補強がある、叩いて伸ばした鉄の盾。表は鉄の地のまま、縁に二重線のレリーフがあるだけの、見た目はシンプルなありふれた盾だ。
その盾はどうしてか、宙に漂うように浮いていた。
男はかるく、その盾を少年の方に押しやった。
円形の盾——ラウンドシールドは、盾の面をゆっくりと時計回りに回転させながら水平に移動し、少年の肩に当たると液体のように崩れて形を失い、消えてしまった。
「これでよかろう」
男は不満を隠そうともせず、無愛想により声を低くして言った。
「……」
女は少年の顔を見たまま。笑みをより深くする。少年はまさか死んでいるのか、目を瞑ったまま微動だにしない。
「ではアプロシウス殿」
女はこれも前を向いたまま、もうひとりの男の名を呼んだ。今度は女の左側に立つ美髯の男だ。
「……」
左側の男は無言で、何の感情も面(おもて)に出さず、右手を掌を上にして胸の高さまで上げると、これもいきなり鉄製の仮面をどこからか出してきた。
鉄仮面は男の掌の上に面を垂直に立てて、さきほど右側の男が出してきた盾と同じように宙に浮いている。
男は鉄仮面を一瞥すると手を下ろした。男の掌の上から鉄仮面が消え、ほとんど同時に、少年の顔に装着された形で姿を現した。
ふたりの男は魔法を使ったのだろうか。それにしても魔力が煌めくこともなく、風も吹かず火も見えず、周りにはただ静寂があるだけだ。
「ふむ」
女は、少年の顎に指先をそえ持ち上げたまま、歪んだ笑みを浮かべて満足そうに頷いた。
「これはなかなかよい意匠じゃ」
少年の顔に被せられた鉄仮面は、表面は何の変哲もないつやのない鉛色だが、両目の開口部の曲線は恐ろしげな曲線を描いてつり上げられ、鼻先から頬を経由して唇の両端で終わる開口部は、鋭い曲線を描いてそのまま耳の手前まで伸び、仮面の側部をきつく引き締め、強い緊張感を醸し出していた。
「精霊神殿、この仮面はいかがした?」
「この鉄仮面はわたしが自ら創りだしたものだ。しいて名づけるなら“怒りの仮面”といったところか」
髭の男は女の問いにすました顔になって答えた。
「この仮面はつけた者の怒りをより強くする効果がある。闘争心を刺激する。そしてこの者が死なぬ限り、誰もはずすことはできない。人間や魔物の使う魔法もほとんどすべてをはね返す」
「それはすばらしい……」
女はその美しい唇を醜く歪めた。
「……で、イヴェダ殿の宝具から生みだされる魔法はどうじゃ?」
男は眸をそばめて言った。
「それは無理だ。とても抗しきれるものではない」
「——それも、この者まで風の魔法がとどけば、の話だ。この歳若い男はさきほど、我が金(かね)の魔法具を得たわけじゃからな」
しばらく無言でいた、女の右側にいる男が横から口を挟んできた。
「左様か」
女は右側の男にちらっと視線をやるとその笑みを大きくした。
「さもあらん。ふふ、でなければ面白うない」
女はそう言うと「あははは」と声を大きくして笑った。
暗闇に覆われた廃塔の最上階はところどころ壁が剥がれ落ち、屋根は破れ床が抜けている。階下から伸びてきた蔦が方々から部屋の中へと広がっている。
「これは楽しみじゃ。あのお方もさぞや苦しみ、しいてはお喜びになられるだろう。この者が死なねば剥がれぬ仮面、それが鉄仮面とは気がきいておるわ」
あのお方、とは主神ヘレスのことであろうか。それとも、もしや名の知れぬ神、名もなき神のことなのか……。
女の哄笑はその後も続く。
鉄仮面は、かつてバスティーユ牢獄に囚われた正体不明の囚人がつけていたといわれる。囚人はいったい誰だったのか、その者の正体に関しては後に無数の巷説が生まれ、以後多くの物語が紡がれることになった。
廃塔で笑うこの女、月の女神レーリアがまさか、そんなことなど知る筈もなかろうに。
朽ちた塔を照らす巨大な月。そこを夜鳥の影が横切る。
やがて月神の笑う声が消えると廃塔から人影が消え、月も消えた。
ただひとり、鎖に繋がれた鉄仮面の男を残して。
薄曇りの灰色の空をもくもくと黒煙が立ち上り、やがて雲間に吸い込まれるようにして消えていく。
内郭にそびえる宮殿を兼ねた白亜の城。煙はそこから少し離れた、深い緑の木立から立ち上っている。
「ネルファスめ」
男はおのれの口髭の先を捩りながら、内郭の城門にひるがえる大公騎士団の旗を忌々しそうに睨みつけて言った。
ネルファスとは今現在、大公騎士団近衛隊を率いている騎士団長の名だ。
「あやつめ。相変わらずの堅物よ。あれほど言ってきかせたのに」
男はそれが癖なのか、真っ黒の尖った口髭の先を捩りまわすのをやめない。
「クルトルさま。いかが致しましょう」
男のすぐ脇に立つ、軽装の甲冑に短めのハルバートを持つ男が重々しい声を発した。
「ふむ……」
口髭をいじるクルトルと呼ばれた男は、このオルーラ大公城の輪番制の騎士団長のひとり、伯爵クルトル・ドレーセンである。
クルトルのまわりには彼の副官らしきハルバートを持つ男と、魔法使いらしい灰色のローブに木製の杖を持つ男、さらにその後ろに数名の騎士が控えていた。
そして彼らの下、外郭の城門周辺には百名以上の騎士、兵士らがたむろしていた。
クルトルは顎先を騎士団旗の方に向け、かるく上下に振ると言った。
「あの旗に向かって矢を射かけよ」
「はっ」
ハルバートの男が低い声を発すると、後ろの騎士のひとりが立ち上がり、門塔を降りていこうとする。
「待て待て」
クルトルはその大きな太鼓腹を揺らして周りの男どもを制した。
「やつらに当てるなよ。もう少しこう、上の方を狙ってだな、つまりは威嚇しろ」
クルトルは相変わらず左手で髭をいじりながら、右手を前方にかざし、上下に細かく振って言った。
「ははっ」
騎士はクルトルに向かって頭(こうべ)を下げると階下へ降りていく。
今月騎士団長を務めるネルファス・グノートとは、もうすでに話がついていた。幼い頃からともに王宮で切磋琢磨してきた仲である。ネルファスはクルトルの説得に応じ、クルトルの蜂起にネルファスが協力する、あるいは邪魔立てしないことに決していた、筈だった。
火事に見せかけた城の脇に立ち上る黒煙は、松の木や松脂を集めてわざと蒸すようにじわじわと焼いたものである。ネルファスにはその火事を思わせる黒煙が見えたなら、城内の近衛兵らを火元の、城外すぐ傍の木立の方へ誘導するよう、あらかじめ指示してあった。
だが、ネルファスはその黒煙を見てもすぐに動かなかった。ネルファスは謹厳実直だが融通がきかない。いまだ大公、リフィエル・オルーラを裏切ることに躊躇しているように思われた。
そこでクルトルは彼に向かって矢を射かけるよう、配下の者に命じたのである。
短躯に突き出た腹。黒髭にまん丸の大きな目玉の、まるで狸を思わせる風貌のクルトル・ドレーセン伯爵はだが、その外見に似合わずオルーラ大公国でも最も知謀に優れ戦上手と見なされ、大公国の主要な貴族や領主たちからも一目おかれていた。
やがて彼の足下から鋭く風を切る音がして、複数の矢が空へと放たれる。
「……」
クルトルは口髭をいじりながらにやりと笑みを浮かべて、曇り空を走る矢の影を見やった。
そこへ横にたなびく黒い煙。
大小幾つもの国々が相争う連合王国の地。その一画、オルーラ大公国に反乱の狼煙が上がった。
大陸のほぼ中央をL字形を成して東西に、一部で南北に分断するブテクタス山塊。
その西に広がる小国家群を俗に連合王国と呼ぶが、仮にも“連合”と称する政情にあったのは昔のことで、それより現在までの約二百年間、この地は事実上、互いに合従連衡を繰り返す内戦状態が続いていた。
オルーラ大公国の大公騎士団長を輪番で務めるクルトル・ドレーセンが、現大公リフィエル・オルーラを退け、彼の嫡子であるユーリ・オルーラにその座をすげ替えようと決意したのは、半年ほど前のことである。
連合王国の中央よりやや南西の内陸部に位置するオルーラ大公国は、互いに覇を競い合う周辺国と比較し、特に大きくも小さくもなく、また要衝の地にあるわけでもなかったが、かつてこの大陸の西の地をまとめあげていたアウノーラ帝国の当時帝都であったアルテナ、現アルテナ王国にほど近く、オルーラの名はアウノーラ帝国皇帝の傍流を祖とする名門として知られていた。
そのオルーラ大公であるリフィエルはどちらかといえばその質、凡庸であったが、国政に関しては若年より真剣に取組み、大公国の四天王とも言うべき四伯爵、クルトル・ドレーセンをはじめ、ネルファス・グノート、他にブリューネル、コーレン両伯爵らの輔佐を受け、戦(いくさ)と謀略の渦巻く乱世を長らく凌いできた。
そこに齟齬が生じたのが数年前、先妻亡き後ハッケル男爵の未亡人、ベルマを後妻として迎えてからである。ふたりの間にはすぐ男子が生まれたが、ベルマは夫に言い寄り、先の妻との間に生まれた大公家唯一の男子、ユーリ・オルーラを廃嫡し、自らの子を正嫡とするよう迫った。
ベルマ夫人はまた以前より享楽、奔放をもって知られ、夫であるリフィエルもまた彼女に引きずられるようにして次第に酒色に溺れ、政(まつりごと)を疎んじ四伯爵にまかせきりになった。そしてついには夫人の言うがままに、ユーリ・オルーラの廃嫡を正式に決定してしまった。
当時家宰であったブリューネル伯爵は大公に諫言し、不興を買って謹慎に処せられ自領に蟄居、ついにユーリ・オルーラ自ら父を諌めたが受け入れられず、かえって反逆を疑われ王宮の片隅に今も残る、以前王城として使われていた古城の廃塔に幽閉されてしまった。
ここに至ってクルトル・ドレーセンは以前から温めていた計画、現大公リフィエルを廃し同夫人を宮廷から退け、嫡子ユーリ・オルーラを新たな大公に迎える——を実行に移すこととした。
四伯爵の残る三伯とはもとから肝胆相照らす仲である。彼らも大公国の現状を憂いていたのを幸い、クルトルは速やかな政変を完遂すべく彼らと計らい、公国内の諸候、および宮廷の顕官に調略を進めた。
そしてユーリ・オルーラが廃塔に幽閉されて二月(ふたつき)ほど経った頃、事を起こすのに絶好の機会が訪れた。
大公国の東に隣接するノルオス王国が突如軍を発し、国境の要衝ラーセン城を包囲したのである。
ラーセン城は近年、大公リフィエルの失政が外に漏れ伝わるようになると、隣国ノルオスから毎年のように攻勢を受けるようになった城塞のひとつであった。
ブリューネルに代わって新たに家宰代理となったシュコーは、ただちに大公騎士団長の非番にあったドレーセンとコーレンを宮廷に呼びつけ、ラーセンを包囲したノルオス王国軍の討伐を命じた。
結果、ドレーセンがまず大公騎士団主力を率いてラーセンに急行、ノルオス王国攻城軍を牽制し、コーレンはラーセンに向かう街道筋の諸候を糾合して大軍を編成、やや遅れてラーセンに布陣することとなった。
ドレーセンは俊足の大公騎士団騎馬隊を率いて僅か数日でラーセンに到着すると、その勢いのまま、城北の丘陵に布陣していた敵包囲部隊右翼に夜討ちをかけ同高台を占領した。そしてラーセン城と連繋し、兵力において優勢な敵軍と互角の体勢に持ち込んだ。
さらに五日ほど遅れてコーレン率いる諸候軍が到着すると、ドレーセンはコーレンと秘かに示し合わせ、味方の軍勢の指揮をコーレンに一任、麾下の精鋭五十騎ほどを率い、急遽王城にとって返した。途中秘密裏に自領に立ち寄るとさらに百騎あまりを増兵し、王城に到着するやいなや「火急の件あり」と外門を無理矢理押し通り、そのまま同門塔を占拠、内郭にあって大公騎士団近衛隊を率いるネルファスと対峙し、彼の内応を待つばかりとなった。
ドレーセンがネルファスの部隊に矢を射かけてしばらくすると、内郭の城門に掲げられていた大公騎士団の旗がするすると降ろされ、城壁を城の北東へ退く城兵の姿が見えた。
やがて鉄と木の擦れる音が響いて城門が開かれる。
「ふむ。やっとか」
狸顔のクルトル・ドレーセンはそのまん丸の眸をすぼめて呟くと、ついで大声で命令を下した。
「よし。ネルファスは引いたぞ。みなの者、一気に宮殿まで押し進め!」
騎士団兵らは「おう!」と叫ぶやいなや城門の奥へ、王宮へと駆けて行った。
彼らは城内に残る衛兵や、ベルマ夫人に近い役人や貴族らを拘束または討ち取り、城内を制圧する任が与えられていた。
クルトルは自らの髭の先を一回捩り上げると側近を従え、突き出た腹を揺すりながら門塔を階下へゆっくりと降りて行った。
そして未だ残る自領の騎士らとともに内郭に聳える宮殿、まずは謁見の間を目指した。
謁見の間は宮殿の二階の過半を占める。天井は四本の石柱に支えられ、宮殿の最頂部まで吹き抜けになっており、床は寄せ木の木目が複雑な模様を織り成し、中央を玉座まで深紅の絨毯が敷かれていた。
玉座にはしかし、大公の姿はなかった。時刻は昼前、本来なら大公リフィエル・オルーラ自ら国内の小領主や商人、他国の使者らを謁見している時間帯である。
広間には数名の衛兵の他、かわりに家宰代理のシュコーがいた。
「ドレーセン殿! ……これはいったいどういうことですかな? ラーセン守護は如何された?」
シュコーはドレーセンらの殺気をはらんだ物々しい様子に、眉をひそめて詰問してきた。
彼は銀糸の豪奢な縁の入った暗い色のローブに、深いエンジのガウンを重ね着して、いかにも一国の宰相といった出で立ちだった。
大公家の家宰はそのまま大公国の宰相を務める。シュコーは自領にて謹慎しているブリューネルに代わって家宰代理を務めていたが、彼はベルマ夫人の遠戚というだけで、クルトルら大公国の重臣からすれば、氏素性の知れぬ怪しい輩と何ら変わるものではなかった。
「……」
クルトルはシュコーの問いを無視し、傍らの副官を務める男に無言で目配せした。
男は片手に持つハルバートを両手に持ち水平に構えると、あっという間もなくシュコーとの距離を縮め彼の胸に穂先を突き刺した。そのまま深く抉り、足で腹を乱暴に蹴飛ばしハルバートを抜いた。シュコーは唖然とした顔のまま後方へ吹っ飛び、血まみれになって広間の床に沈んだ。
同時にクルトルの周りにいた騎士らも動き、広間にいた残る衛兵らを始末した。
「リフィエルさまは後宮におられるようだ。行くぞ」
クルトルは苦い顔で吐き捨てるように言うと、一同を引き連れ、宮殿の東奥にある後宮に向かった。
後宮は謁見の間の裏手から伸びる渡り廊下の奥にある。
クルトルは後宮に踏み入ると騒ぐ女官らを無視し、宮殿の廊下をそのまま奥へと突き進んだ。
途中、騎士のひとりを呼びつけ小声で指示する。
「アリエン君(ぎみ)を探し出して、身柄を押さえろ」
「はっ」
クルトルに命じられた騎士は配下の兵数名を率いて、廊下を来た方向へ引き返していく。
アリエンとはリフィエル大公とベルマ夫人の間に生まれた、ユーリ・オルーラの歳の離れた腹違いの弟である。ベルマ夫人が正式な世継ぎにしようと画策してきた子どもだった。
クルトル一行はそのまま後宮の奥へと進み、扉の両脇を武装したメイドが守る突き当たりの部屋にたどり着いた。
ハルバートの男が主(あるじ)の命を待たずさっと前に進み出、電光石火でふたりのメイドを始末する。
女たちは腰から剣を抜く間もなく、ハルバートに腹を横一文字に裂かれ、どっと床に倒れ伏した。
「魔封の結界が張られておりますな」
クルトルのもうひとりの側近、魔法使いの男が声をかけてくる。
「魔封か、ふん。それがどうした」
クルトルはむすっとした顔で言うと、魔法使いの男に振り返った。
「そなたは外を固めておれ」
クルトルは観音開きの扉に向き直ると声もかけずにいきなり蹴破り、そのまま中へ入って行った。
ハルバートの男と騎士らが数名、続いて入って行く。
「……」
控えの間、居間と通り抜け、一番奥の寝室に入ると、クルトルは思わず眉をひそめて小さく嘆息した。
部屋の中は薄暗く、何か危険な匂いが混じる香が焚かれていた。そしてその濃密な香りに酒と、男と女のまぐわうむせ返るような異臭が漂ってきた。
部屋の中は床の上で淫らに抱き合う男女が数名、正面には大きな天蓋付きのベッドがあって、その薄い布地の奥に大公と夫人、他にふたりの若い女が裸でひとつに固まり横になっていた。
「その御歳になって、ここまで淫蕩に堕ちられるとは……」
クルトルは噂には聞き、自ら情報も集めていたが、その有様を直に見てはさすがに落胆の色を隠せなかった。大公は以前はこのような男ではなかったのだ。
クルトルは己の面上に浮かんだ無念の表情をぐっと抑え込むと、傍らの男たちに言った。
「リフィエルさまも女どもも皆、このままひっ捕えて地下牢に閉じ込めておけ」
リフィエル大公も牢に入れるのかと、一瞬臆した騎士らの様子にクルトルは声を荒げて叫んだ。
「早くしろ!」
「はっ」
騎士らがベッドの周りに取りつきリフィエルらを引っ張りだす。兵士らは床に散らばる者たちを担ぎ上げ部屋の外へ出て行く。
「……何ごとです!」
酒か、香のせいか酩酊状態にあって半ば眠りこけ、何の抵抗も見せないリフィエルたちの中で、ベルマ夫人だけが何とか目を覚まし、自らの裸身に脱ぎ捨てた衣服を当てて隠し、ベッドから自力で這い出てきた。
「おまえはクルトル・ドレーセン!」
ベルマ夫人が双眸を見開き叫ぶ。
「……なぜここに」
「……」
クルトルはベルマ夫人を無言で睨みつけると、腰に吊っていた剣を鞘ごとはずし、そのまま夫人の顔を横に思いっきり払った。
「ぎっ」
ベルマ夫人は奇声を発して横に吹っ飛んだ。
……この女さえいなければ。この女が大公さまの子を身籠ったりしなければ。
「この女狐は特別に拷問部屋にでも押し込んでおけ」
ベルマは燃えるような紅い髪を振り乱し床に倒れている。部屋の中にいて淫蕩に惚けた者、リフィエルも他の者も、何の反応も示さない。
「クルトルさま、急ぎませんと」
大公や夫人らを引っ立てていく騎士らを横目に、ハルバートを手に持つクルトルの家臣が声をかけてきた。
「うむ」
クルトルは重々しく頷いてみせると部屋の東側の窓から見える、以前大公城のあった方、その木立から聳え立つ廃塔の黒い影を見つめた。
「よし。これから東の廃塔に向かい、ユーリさまをお助けする。急げ!」
クルトルは声を張り上げ周りの者に叫ぶと、先頭に立って大公の寝室を出て行った。
廃塔に繋がれる少年は未だ目覚めない。
ユーリ・オルーラが囚われたのは二ヶ月ほど前のことである。それまで順風満帆な人生を歩んできた大公家の嫡子にとって、突然虜囚にまで落ちることなど想像もできないことだった。
ユーリは廃塔に幽閉されるといきなり両手両足を鎖で繋がれ、座ることも寝ることもできない、四六時中立ったままの状態におかれた。
両手を吊り上げられ立ったままでいるとまともに眠ることもできず、手首に食い込む手枷の痛みと痺れ、足腰に溜まっていく疲労に全身を苛まれた。
それでもしばらくの間は専属の看守が廃塔を上ってきて、日に二度の食事と水が与えられ、その時には頭に装着されたヘルムをはずされ、手枷から伸びた鎖を緩めてもらい、からだを清めてもらった。数日おきだが衣服も取り替えられた。
ただユーリが一日のほとんどの時間、四肢を拘束された虜囚であることに変わりはない。看守の配慮によって食事も休息も与えられたが、それでも少しずつ、彼の精神自体も摩耗していった。
……なぜ宮廷の重臣らに計らず、馬鹿正直に己ひとりで父に直談判に及んだのか。
……なぜ父はあそこまで堕落したのだ、あの女がすべて悪いのか。
浅い眠りと苦痛による目覚め、それを来る日も来る日も繰り返しながら、ユーリは己の浅慮を悔い、父と継母に対する憎悪を蓄積させていった。
彼は前年、十五歳になって成人したばかりだ。まだ若く、宮廷の裏側で繰り広げられる重臣や役人たちの駆け引きもよくわからず、父の堕落ぶりやベルマ夫人の陰湿な企みに対する認識も甘かった。ただ己の正義に誠実であろうと、それを成すことしか考えていなかった。
ユーリが幽閉されしばらく経つと、面倒見のよい看守に加え、夜半には宮殿から数名のメイドたちが彼の世話をしにやってくるようになった。
彼女たちは毎日のようにやってきて、ユーリにより栄養のある食事を用意し、より丁寧に彼の全身を拭き清め、むくみ、あるいは固まった手足をほぐし、やさしく、時に厳しく彼を元気づけ、叱咤した。
ユーリは今までの恵まれた人生ではじめて苦境に立たされ、自らの幼さと愚かさを、そして人のやさしさを身に染みて実感した。
だが、彼のその貴重な経験も遅きに失し、無意味なものに終わろうとしていた。
その後、ひと月ほども経ったころだろうか、ユーリの前に数名の衛兵を連れた見知らぬ男が姿を現した。
男の身分卑しからぬ出で立ちからすると大公国でも名の知れた貴族か、宮廷でも高い身分にある官吏と察せられたが、ユーリには身に憶えのない人物だった。
男は家宰を罷免されたブリューネルの代理を務める者で、シュコーとユーリに名乗り、その神経質そうな顔に酷薄な笑みを浮かべて言った。
「今まで殿下のお世話をしていた看守も、夜中に殿下をお慰めしていたメイドたちも、これから先は参りません。どうも大公さまに異を唱える輩が裏で動いていたようでして」
男はそう言いながら、冷たい笑みをさらに歪ませた。
「な、に……」
ユーリは頭に被された武骨なヘルムのスリットから、下卑た笑いを浮かべる男を睨みつけた。
「恐れながら殿下には獄中にて病死していただくことになっております。もうしばらくすれば今の苦しみも楽になりましょう。……どうかお許しを」
シュコーはそう言うと声もなく笑みを崩した。そして「貴様っ!」と叫けぶユーリを無視し、踵を返し階下に降りていこうとした。
そしてその途中でさも言い忘れたことがあった、というふうにわざとらしく振り返り、ひと言つけ加えた。
「殿下の面倒を見ていたメイドたちですが、あの者たちは誰に指図されたわけでもなく、自らの意志でやっていたようです。ちょっと拷問してみたのですが、……最後まで口を割りませんでしたので」
「!!」
シュコーの姿が階下に消え、彼の哄笑だけがユーリの許に響いてくる。
ユーリは自らを繋ぐ鎖を激しく打ち鳴らした。そして全身を震わし天を仰いだ。
「ぬぉおおおおおおっ!」
それはまるで獣のような、凶暴な叫びだった。
ユーリは生まれてはじめて、心の奥底からその凶暴な、血塗れた悍(おぞ)ましい何かが姿を現すのを感じた。心が壊れ、引き裂かれていくのを感じた。
……俺は馬鹿だ。俺は彼女たちに忠告すべきだった。毎日のように来ては危ないと。城の者に見つかってしまうと。俺はただ守られているだけだった。恩義あるか弱い者たちを、彼女たちさえ守ることができなかったのだ。
シュコーの言ったとおりその日から、今までユーリの面倒をこまめにみてくれた看守も、夜毎に彼の許を訪れたメイドたちも、彼の前に姿を見せなくなった。
それからは二日に一度、以前とは違う看守が現れ、鎖に繋がれたまま水を無理矢理飲まされ、からだの汚れを落とすためか、乱暴に樽ごと全身に水をぶっかけられた。食物は与えられなかった。
四肢の拘束を外されることもなく、僅かな水を飲むことしかできなくなったユーリは急速に体力を消耗していった。
それでも彼はシュコー、しいては父とベルマ夫人への、そして何より己の不明への怒りをその胸に、長い間歯を食いしばって飢えと苦痛に堪えた。
ユーリは意識の朦朧としていくなかでいつか、いつかかならず彼らを皆殺しにしてくれると誓い、怨念に身も心も浸していった。
それからさらに幾日か経つと、その看守も彼の許に姿を現さなくなり、いよいよ水も絶たれ死を待つばかりとなった。
目の前に真っ黒な死の影がちらつきだし、やがてそれがすぐ目の前に居座るようになると、ついにユーリは己を見失い、ただ怒りの記憶をぼんやりと感じるだけになった。
俺は誰だ。俺は……!
殺してくれ。そこの黒いおまえ、俺を殺してくれ……。
黒い影はやがてユーリを覆い、世界を覆いつくした。それはいよいよ彼が、冥界へと堕ちる瞬間だったろうか。
夜闇に覆われた廃塔の上に大きな月が浮かんだ。
彼は死の瞬間、その輝くものに祈った。
俺を殺してくれ。そして俺の命とひきかえに、この怒りを……。
誰か……。
その時だった。月の女神の横顔が笑ったのは。
クルトルは廃塔の傷んだ階段を上る途中何度も足を踏み外し、そのたびに下にいた騎士らに尻を持ち上げられ、腰を支えられ、ほうほうの体でようやく、朽ちた塔の最上階までたどり着いた。
廃塔にはその入口にも階上にも衛兵の姿はなかった。
クルトルら四伯爵がみな危惧したとおり、塔上にはユーリが両手両足を鎖で繋がれ、まるで拷問を受けているような格好で幽閉されていた。
ユーリは眠っているのか、まさか意識がないのか、力なく頭を下げて、天井から両腕に伸びる鎖にぶら下がるような姿勢でそこにいた。
その姿からは生気が感じられなかった。
「なんとおいたわしい……」
クルトルは呆然と両目を見開き呻いた。
だが、クルトルは抜かりなく看守らにも調略の手を伸ばし、公子の身が命の危険に晒されることのないよう手配していた。
その証拠に彼の衣服にも足許に汚れは一切なく、異臭も漂ってこない。傍目には怪我もしていないようだ。
「若君、しっかりなされ」
クルトルはユーリの傍に駆け寄ると必死の形相で声をかけた。
クルトルはネルファスらとともに、ユーリが幼い頃から剣を教え、馬術を教え、時に守役の務めも果たしてきたのである。
ユーリは顔を俯かせたまま、返事をしない。
「はて、若君は確か、古い鉄兜を被らされていると聞いていたのだが……」
しかし、ユーリの顔には恐ろしげな造形の、真新しい鉄の仮面がつけられている。
「この仮面はもしや魔法具ではないかと……」
後ろからクルトルの側近の魔法使いが声をかけてくる。
「ふむ。リフィエルさまはこんなものをお持ちだったか。……まさか、何かまずいものではないだろうな?」
クルトルが魔法使いに振り返るとその時、
「……」
リフィエルの名が聞こえたか、ユーリのからだがぴくり、と動いた。
「おお、ユーリさま! ユーリさま!」
クルトルはユーリのからだに取りつくと再び後ろを振り返り、騎士らに怒鳴った。
「そなたらは何をしておる! 早く若君の鎖を外さぬか!」
「あわてるな。クルトル」
騎士らが返事をするより早く、彼の後ろで雄々しい声が響いた。
「若君!」
クルトルが歓喜の声を上げると同時、キーンと鋭い音がしてユーリの枷が弾け飛んだ。
「へっ……」
「おおっ!」
「……」
呆然とするクルトル。単純に感嘆の声を上げるハルバートの男。途端に難しい顔になる魔法使い。
三者三様の表情を見せる男たちに、ユーリはすっと背筋を伸ばして言った。
「父とあの女狐、そしてシュコーという男はどこにいる」
その姿勢も声音も、今まで長い間鎖に繋がれ、食を絶たれていたのが嘘のような力強いものだった。
「シュコーは我々が葬りました。大公さまは宮殿地下の牢に……」
クルトルがまん丸の目をさらに大きく見開き答えると、ユーリはただ、
「そうか」
とだけ答えた。その仮面の下から唇が歪むのが見えた。
「ひっ……」
そこで突如、魔法使いの男が小さな悲鳴をあげた。
ユーリの頭上の空間がぱくりと裂け、オレンジ色に熱く輝く穴が開いた。
そこからどろっと熱せられた金属がしたたり落ち……辺りを強烈な魔力の閃光が走った。
キーン、ドドーンと近くで激しい轟音が鳴り響き、廃塔が揺れた。
「……!!」
男たちは唖然として空を見上げた。天井が、塔の先端部分がいつの間にかどこかにはじけ飛び、頭上には灰色に曇る空が広がっていた。
薄く連らなる雲間を遠く、紅く尖った槍のようなものが引き裂いていく。
あの燃える槍が塔の屋根を吹き飛ばしたのだろうか。
「か、金(かね)の魔法……」
魔法使いが腰を抜かしたか、よろよろと座り込み声を震わし呟いた。
「宮殿が!」
後の方にいた騎士が西にある王宮の方を指差す。
「な、なんと……」
騎士の指し示す方を見たクルトルが呻いた。
天井から上が消えてなくなり、ところどころ崩れ落ちた廃塔の壁の向こう、木立の奥に見える宮殿の下の方から、無数の尖った鉄の大小の固まりが突き出ていた。
鉄の固まりはみな鋭角に尖り、その先端が城の外側へ、あるいは空の方へと突き立っている。それはどうしてか、宮殿の地下から地上に生えてきたようにも見えた。
辺りは薄く土煙が上がり、城の天守でもある宮殿は上部が僅かに傾いている。
「ユーリさま……」
クルトルはユーリに驚愕の視線を向けた。
王宮の地下牢はおそらく全滅だ。あそこにいた者、大公も誰もかも、生きている者はひとりとしていないだろう。おそらく今まで誰も見たことがない、とてつもない金(かね)の大魔法が使われたのだ。
いったいどうして、若君はこんな魔法を……。
「ふふふ、はははっ」
ユーリは肩を震わし笑いはじめた。
「この世のありとあらゆる鉄、鉛、金銀銅もすべて、すべて俺のものだ。俺の成すがままだ」
鉄の仮面をつけた男の哄笑が、廃塔に高く鳴り響いた。
死の淵に見えた、美しい女の顔が脳裡に浮かぶ。あの女は俺になんと言ったか。
この身にふつふつと、煮えたぎるように湧き立つ怒りはなんだ?
殺してくれ? 違う、違う。
殺すのだ。
この俺が。俺が殺すのだ。
誰を?
ユーリはふと笑いをおさめ、周りの男たちを見た。
ここにはいない。父も女狐も、もう殺してしまった。
……だが今はそれでいい。いずれわかるに違いない。すべてのことが。
なぜ俺が生かされているのか。この怒りと憎しみのことも。
変わってしまった、俺自身のことも……。
「クルトル、ブリューネルを至急呼び戻せ。宮廷に残る奸臣どもをすべて始末したら、俺は外に打って出る。そして連合王国をひとつにまとめあげる。この力を使ってな」
「はっ、ははあ」
クルトルをはじめ、その場にいるすべての者がユーリに跪いた。
この身に沸き上がるもの。それは怒りだけではないのだ。
心の底でうねる無限の力。俺はたぶん、金神の魔法具を手にしたのだ。
ユーリにはそのことが自然とわかった。理解できた。
あの微かな女の面影……。他にも誰か、いたような気がする。
俺の肉体から飢えを、渇きを消し去り、新たな、生まれ変わったかのような力を与えた者。途方もない魔法具を授けた者。
それもいずれは……。きっと。
ふと仰ぎ見れば、空を覆う薄雲の動きが早い。
あの風もいずれ、こちらに吹いてくるだろう。
ユーリは全身を駆け巡る力と怒りに、心のうちを沸き上がる欲望に身を震わせた。
……破壊と征服の欲望に。
連合王国の一画、オルーラ大公国で金神ヴィロドの魔法具を持つ男が現れた。
男は誰も剥がすことのできない、鉄の仮面をつけていた。
それはラディス王国に新たなイヴェダの剣が現れた、との報が大公国にもたらされる、ほんの少し前の出来事だった。
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