クレンベルへ、再び



 ルフレイド王子は、自らの従者が身を呈して守ってくれたことを知ると、その顔を苦悶に歪め、ついで怒りに身震いした。

 イシュルはその姿を見て、心のうちが重く沈んでいくのを感じた。

 この惨状はマレフィオアを、白路宮に滑り落ちる前に始末できなかった俺の責任ではないか。

 もっとうまく、戦えたんじゃないか。

「ルフレイド、この者の弔いはかならずわたしが果たしてみせる、いや」

 サロモンはルフレイドにそう言うと、イシュルの方を見ていった。

「イシュルがやってくれる」

 サロモンはもう、イシュルのことを呼び捨てにすると、決めたようだ。

 その眸からは、すでに涙が消えていた。

 イシュルは無言でサロモンを見つめ、そしてルフレイドに視線を落とし頷いた。

 

 それからサロモンは、周囲の者に矢継ぎ早に指示を出した。

 当初に立てた作戦では、ルフレイドを確保した後は突入時と同様に、空中から急ぎ公爵邸に帰還する予定だった。しかし、ルフレイド王子側についた騎士団兵の戦意が高く、早くも国王派側と本格的な交戦をはじめ、さらに白路宮が全壊してしまうという、想定外のことが起こった。

 サロモンはルフレイドの生存を確認すると、ただちに彼に味方した騎士団兵とミラたちに周囲の警戒を命じ、崩壊した白路宮に他に生存者がいないか捜索を開始した。

 その後しばらく、ベリンとセリオがデシオとピエリを大聖堂から連れてくると、イシュルはルフレイドの手当をデシオと交替し、サロモンの生存者捜索に参加した。

「イシュル殿は光の魔法具持っていたのか」

 デシオはイシュルがルフレイド王子を治療しているのを見て、目を丸くして驚いたが、その理由を深くは追及してこなかった。

 教会では風と地の大神官がイシュルを異様に怖れ、同時に崇拝している。基本的に神官だけが所有を許される光の魔法具だが、デシオは、彼らがそんなイシュルに特別に与えたのかもしれない、とでも考えたのかもしれない。

 崩れた白路宮の瓦礫の下からは、ルフレイド付きの魔導師が一名、住み込みの使用人が数名救助され、瓦礫の中から適当な戸板を選んでその上に乗せられた。

 風の魔法を使って無数の瓦礫をどかし、ひと仕事終えたイシュルが背を伸ばし額の汗を拭っていると、白磁宮の方からひとり、長身の剣士が歩いてきた。長い黒髪の女剣士、ネリーだ。

「……すまん、見失った」

 ネリーはイシュルの横を通り過ぎる時、ぼっそと力なく言った。

「ネリー!」

 そして怒りをあらわにするミラの前まで来ると、彼女に跪いて謝罪した。

「申しわけありません、ミラお嬢さま」

「……もう」

 ミラはため息をついて、表情を少し緩める。

 そこへイシュルが近づいていき、ふたりに声をかけた。

「ルデリーヌ、とか言っていたな。どんなやつだ」

 名前からするとそいつは女だろう。

「クレンベルから戻ってくる時、あの草原で魔導師長とやりあったろう」

 ネリーが顔を上げ、イシュルに話しはじめた。

 クレンベルを出た翌日、山間の道を抜け、続いて森の中を抜けると広い草原が現れ、そこで宮廷魔導師長以下の魔導師たちと聖堂第二騎士団主力に半包囲された。あの時、彼らは先を行くデシオらの乗る馬車と後続のイシュルたちを分断し、あわよくばその場で全滅させる企図を持っていた。

「魔導師長の両隣を固めていた剣士の、女の方だ」

 ネリーの視線が鋭い。彼女の眸にその女に対する明確な敵意が見える。

「……なるほど」

 あの時の、栗毛の長い髪の美女。そういえば確か、ネリーと何か因縁がある、という話だった。

 ネリーもあの時は、手を出すなと言っておいたのに結局、最後には剣を抜いていた。

「あれはわたしの姉なのさ」

 ネリーはいつもの醒めた、澄ました顔を歪めて言った。

「……」

 イシュルは思わず大きなため息がでそうになるのを必死に堪え、むっつりした顔でネリーを見下ろした。

 ふたりは姉妹なのか。それなのに、ネリーの姉に向ける殺意は本物だ。

 これはまた重そうな話だ……。

 イシュルはネリーから視線をはずすと僅かに肩を落とした。

「もういいですわ。この場で長話をするわけにもいきません。ネリーは以後気をつけるように」

 ミラは今の状況もあり、とりあえずネリーを許した。

「ありがとうございます。ミラお嬢さま」

 ネリーはミラに跪いたまま、さらに頭を下げる。ネリーはミラに対してはいつも素直、従順だ。

 ふたりは主従の間にあるのだから、それは当然のことなのだろうが……。

「国王派が敗れた暁には、あなたにも良い機会が巡ってくるかもしれません。その時はわたしも力になりますわ」

「はっ。ありがとうございます」

 ふむ。ミラが何を言っているのか、なんとなくわかる。

「ちょうどいいですわ。その時にはイシュルさまに立会人になっていただけばよいのです。おまかせして、これ以上安心できる方は他におりませんもの。ね? ネリー」

 ミラがこちらを見て微笑む。

 立会人、か。だいたいネリー姉妹が今、どういう関係にあるのかわかったよ……。

 これはやはり、何か深い事情があるのだろう。

 ネリーはおそらく、姉であるルデリーヌに決闘とか仇討ちとか、その手のことを申し込もうとしているのだ。

「はい、お嬢さま」

 ネリーはミラに愛想よく答えるとふいに立ち上がり、いきなりなんと、イシュルの両手を握ってきた。

「その時にはたのむ。イシュル」

 ネリーの真剣な声に男前な顔。

 なんだかなぁ。

 前世の中〜近世ヨーロッパあたりと少し似ているのか。よくわからないが、貴族や剣士などの決闘だの敵討ちだのの立会人、なんてのは頼まれれば断ってはいけないものだし、可能な限りそれなりの地位にある者、人物、剣や魔法の名手が選ばれると相場が決まっている。

 イシュルは嫌な顔もできず、微妙な表情で曖昧に小さく頷いた。

 だが、彼女には申し訳ないが、他に考えなければならない重要なことがあるのだ。

 それはルデリーヌという、武神の魔法具を持つ者が「デュドネ写本」を使ってきた、ということだ。

 彼女はビオナートから写本を託され、おそらく必要な呪文を憶え、実際にマレフィオアを召喚した。つまり写本を持ち、必要な呪文を唱えれば誰でもマレフィオアを召喚できてしまうのだ。聖堂教会が禁書指定するのも当然な、とんでもない代物なのである。ただ、禁書があの化け物を完全な統制下におけるか、という点にはいささか疑問を感じるが。

 そしてマレフィオアは記録のとおり、かなり強力な化け物だったということだ。あれは俺の風の結界を壊そうと、正面から挑んできた。こちらで風の結界を解除しようとしなければ、あのまま放っておいたら、明らかにやつは風の結界を破っていたろう。

 その強力な魔物を召喚する禁書に、武神の魔法具を持つ腕利きの剣士の組み合わせ。

 あれは相当な脅威になる。

 ……ビオナートめ。こちらの嫌がることを、しっかりやってきやがる……。

「イシュルさま?」

「イシュル?」

 ミラとネリーが揃ってイシュルに声をかけてきた。

「何か考えごとでも……」

 ミラの顔が不安そうだ。眉毛がおもいっきり下がっている。

「いや、何でもない」

 イシュルはそう答えたが、表情は厳しいままだった。

 とても笑顔になって、などと気をまわすことができなかった。そんなことさえできなかった。

 

 しばらくすると、後宮の方から馬車が一台近づいてきた。胴や篭手などに第三騎士団の鎧をつけた兵士が馭者をしており、王宮脇の馬車どまりから勝手に回してきたようだ。

 馬車は手前の埋め立て工事中の柵の前で止まり、馭者は馬車から降りるとサロモンの前まで走ってきて跪いた。

「ルフレイドさまにはこの馬車をお使いください」

「うむ」

 サロモンが機嫌良く頷く。ロメオが横から「でかしたぞ」などと声をかけている。

 その騎士団兵が横目にイシュルを見てくる。前世ではパシネットと呼ばれた、頭部が丸形に成型され顔の部分が開いている兜を被っている。面頬はつけいないので額から下は顔が見える。

「ん?」

 その男が一瞬ニャっとした。

 ビルド……!。

 その男は紫尖晶の影働きのビルドだった。

 あいつ、騎士団に紛れ込んでいたのか。兜なんて被ってしっかり兵隊の顔つきをしていたから、すぐにはわからなかった。

 確かに白路宮が崩れ負傷者が出たし、ルフレイドに味方した騎士団兵らを王城にこのまま置いておくわけにもいかない。当初の空中から公爵邸に帰還する計画は破棄して、たぶん徒歩で王城の西門から帰還することになるのだろう。

 ビルドが背を向け、周囲に散開した騎士団兵の中に消えていくと、サロモンが崩壊した白路宮の瓦礫から離れ、一団の中央付近まで進み出ると大声で言った。

「余はこれから王城西門よりディエラード公爵邸に帰還する。騎士団有志はルフレイド王子とともに余に付き従え。次に余が王城に足を踏み入れる時、その時こそ聖王国に新しい歴史が刻まれる時だ」

 サロモンはそこでひと呼吸置くと周囲を見渡し、叫声をあげた。

「者ども! 勝鬨を上げよ!」

 サロモンの南側にいた数名の騎士のひとりが巻いていた旗を広げ、空高く掲げた。それは白地に金と銀、獅子が支えもつ盾、盾には王冠が描かれた、聖王家の旗だった。

「我らが神々に勝利を! 我らが神々に栄光を!」と兵らの叫ぶ聖王国式の勝鬨は、次第に「サロモン王子万歳! ルフレイド王子万歳!」と変わっていき、他に人影のない静まりかえった王城に広く遠く、いつまでもこだました。

 イシュルは聖王国の領民でも王家に仕える者でもない。だから勝鬨にともに声をあげることはせず、なんとなく周りを見渡しながら、周囲の気配に注意を向けた。

 そこでふと近くから視線を感じ、聖王家の旗を振る騎士の方を見ると、その隣の大柄の騎士がイシュルの方に顔を向けてきている。

 その男は聖石神授でいっしょだったリバルだった。

「……」

 リバルはイシュルにかるく会釈してきた。

 イシュルははっとした顔になって、彼に挨拶を返すのも忘れデシオの方を見た。

 デシオとピエリは勝鬨に参加せず、デシオはセリーヌと呼んでいた彼の契約精霊を呼び出しルフレイドの治療に当たり、ピエリは他の生存者の手当をしていた。

 おそらくあのふたりが、リバルら正義派の騎士たちをルフレイド王子派に合力させたのだろう。

 リバルの動きはイシュルも知らないことだった。

 リバルの方に顔を戻すと、彼は笑顔を浮かべてイシュルにひとつ、小さく頷いてきた。


 サロモンはルフレイドを馬車に乗せ、白路宮の残りの負傷者を収容すると、ルフレイド王子派の騎士団兵を後尾につけ、イシュルやミラたち一団を率いて堂々と、そのまま徒歩にて王城の西門に向かった。

 途中、後宮、そして王宮の横を通り過ぎたが、どちらもしーんと静まり返り、人気がまったく感じられなかった。

 時刻はまだ早朝である。王宮にほとんど人がいないのは確かであったが、後宮ではさきほどの戦闘で皆、目を醒ましたであろうに動く者の気配がまったくなく、それでもイシュルには後宮の女たちが息を殺し、その奥に隠れじっと動かずに脅えているのが伝わってきた。

 先頭を聖王家の旗、その後に城内で手配した白馬に乗るサロモン、以下はルフィッツオやデシオらが徒歩で続いたが、イシュルはすぐ後ろにネリー、その次にミラとシャルカを従え、サロモンの左側に並んで歩いた。

 王城の西門は誰かによってすでに開かれていた。

「ふむ」

 サロモンは馬を止めほんの少し考えるとイシュルに言った。

「イシュル、この城門の門扉をばらばらに壊せるかな?」

 なぜ開いているのにわざわざ壊そうとするのか。

 イシュルは鋭い視線をサロモンに向け、無言で頷いてみせた。

 もし俺がビオナートに敗れたら、確かにこの城門は彼にとって邪魔な存在になる。

 イシュルは左右に開かれた門扉をばらばらに破壊した。

 音も無く、風もほとんど吹かなかった。

 門扉は丸太を鉄で束ね、その表面に唐草模様のレリーフの入った薄い鉄板が被されてあった。地面に崩れ落ちた鉄片や木材の破片を、イシュルは風の魔力でゆっくりと城門の外に押しやった。

 イシュルが城門を破壊するのと同時、城の外に複数の馬が嘶き、金属の鳴る音がした。

 城門の外にやや離れ、多くの人馬の気配がある。

 イシュルは一瞬身構えたが、彼らからは目立った殺気、戦意は感じられなかった。

 城を出ると、西門前の広場、その南北に二手に分かれて百騎ほどの騎馬がいた。両側ともきれいに整列している。

 イシュルだけではない、一行はみな目を剥いて驚愕した。騎馬はすべて完全装備の重装騎兵だった。

「聖堂第一騎士団だ」

 彼らはどこから来たのか。王城東側の兵舎から、南側外郭の街道を回り込んでこの場に集(つど)ったのか。イシュルは聖王国に来てはじめて、まとまった数の第一騎士団兵を目の当たりにした。

 聖堂第一騎士団は聖王家の中核戦力、決戦部隊である。聖都の王城や街中では兵種自体が戦闘に合わず、これまでイシュルの前に現れたことがなかった。あのクレンベル近くの草原でも重装騎兵は出てこなかった。

 サロモンはまるで彼らが見えないかのように何の反応も見せず、ゆっくり城門をくぐり広場の方へ馬を進めた。騎馬隊の方も微動だにせず、まるでサロモンの閲兵を受けているかのように見えた。

 一行が広場の中央近くまで歩を進めると、北側の集団から騎士がひとりサロモンの面前に飛び出し跪いた。

 面甲を上げた兜から覗く顔は中年のものだ。その者は聖堂第一騎士団の副団長だった。

「我らはこれからサロモン殿下、ルフレイド殿下にお味方いたしたく。どうか御身の供にお加えください」

「ふん」

 サロモンはただ、唇の端をほんの少し歪めただけで短く答えた。

「許す」

 これでサロモンはルフレイドを手にし、聖堂第三騎士団の一部に加え、第一騎士団の半数近くを味方につけたのだった。

 彼は第一騎士団百騎あまり、従兵もふくめれば数百の部隊に、彼の従者の剣士一名とマグダの二名だけを付けてサンデリーニ城へ向かわせた。

 第一騎士団一部の寝返りは、どうもサロモンやサンデリーニ公爵らの間で、以前から話がついていたようだった。

 公爵邸に帰る道すがら、サロモンは馬上からイシュルに身を寄せ、小声で言ってきた。

「サンデリーニ城には少しずつ諸候の兵を入城させているんだ」

 サロモンはイシュルににっこり笑顔で言ってきたが、それはすなわち、聖冠の儀でイシュルが失敗した場合、その後聖都で内戦が勃発する、ということを意味していた。

 ルフレイド王子派の第三騎士団の一部、それに彼らをあるいは煽動した、リバルら正義派の騎士や兵士らはディエラード公爵邸に収容されることになり、第一騎士団の騎馬隊は公爵邸の門前で分離、そのまま跳ね橋を渡って市街の中心地区を堂々と行進、誰に隠すことなくサンデリーニ城に入城した。

 重装騎士団の華やかで重厚な行進は、仕事のはじまる朝の忙しい時間帯に当たったが、沿道の住民はみな手を休め足を止め、彼らの行進を呆然と見やった。道をゆく馬車はみな端に寄り、騎士団の行進を邪魔する者は誰ひとりとしていなかった。

 サロモンは公爵邸に帰還すると、ただちに街中に在住する元宮廷医師長ら都(みやこ)の名医を集め、彼らにデシオらとともに、ルフレイドの右足を膝下から切断する手術を行うよう命じた。

 イシュルは一応治癒の魔法が使えるということで、予備要員として手術の行われる部屋の隣の控え部屋で待機していた。

「どうぞ」

 控えの部屋にはイシュルと、今回の戦闘には参加しなかったメイドのルシアだけ。

 ルシアは銀製の盆を胸に抱え、不安そうな目を手術の行われる、奥の部屋の扉に向けている。

 イシュルは半ば放心してルシアの入れてくれたお茶を見た。

 喉は当然乾いていたが、とても飲む気になれなかった。

 しばらくすると、奥の部屋から目映いばかりの光の魔法が輝き、その扉の方からルフレイドの低い呻き声が聞こえてきた。

 時折聞こえてくる、サロモンのルフレイドを励ます必死な声が、イシュルになぜか悲壮感よりも、僅かな慰めをもたらした。

 サロモンの叫声は誰もが肉親の危殆に叫ぶ、あの時の声だった。

 燃えさかる森の魔女の家で助けに来てくれた時、俺の名を叫んだ父の声。

 ベルシュ村の家の奥の木立で、母と弟の遺体を見つけた時、あの時叫んだ俺自身の声。 

 俺は今まで、どれだけあの声を叫び、耳にしてきたろうか。

 その声はいつでも、いつまでも記憶の奥底で鳴り響いている。

 イシュルは窓ごしに、故郷の方の遠い空を仰ぎ見た。



 

 全身に、からだの奥底に痛みが淀む。

 ルフレイドの手術が成功裏に終わった後、イシュルは自室に戻ってしばらくベッドに横になり、からだを休めた。

 早朝の戦闘の緊張と興奮が和らぐと、今度はかわりにあの瞬間移動、レニは「風鳴りの魔法」と後で教えてくれた——の反動による全身の痛みが一気によみがえってきた。

 イシュルはベッドからからだを起こすと苦痛に顔を歪めた。

 ぼんやりと部屋の中を見渡し、静かに己が精霊の名を呼んだ。

「クラウ」

 部屋の空気が揺らぎ音も無くクラウの像が現れる。

「剣殿、ここに」

「今日はご苦労だった」

「……」

 クラウは無言で頭を下げた。

「クラウに聞きたいことがあるんだ。俺が王城で戦っている時、ちょっと変わった、巨大な魔力を感じなかったか?」

「……あの大蛇の化け物のことですかな」

 クラウはイシュルから視線をはずし、少し苦い顔になって言った。

「そうだ。我々はあれを仮にマレフィオア、と呼んでいる。あんたもあれが何か知っているだろう」

 聖冠の儀まであと十日あまり、その数日前には収穫祭がはじまる。

 マレフィオアはやはり強力な魔物だった。予想以上の代物だった。こちらの張った風の結界を力づくで破ろうとしてきた。あのままいけば、やつは俺の結界を間違いなく喰い破った筈だ。

 マレフィオアとはどんな存在なのか、デシオから借りた「古代ウルク王国正史・付(覚書)」に記されたこと以外に何か情報はないのか、そして禁書自体の情報はないのか。

 デシオよりも深い知識を持つ者を探して、その人物に会い聞き出したいところだが、収穫祭が近づき、聖都のすべての神官たちはもちろん、街の住民らもこれから多忙を極める日々が続く。

 大聖堂の司書長をはじめ、街中の神殿の神官や、学者の中にも詳しい人はいるだろうが、もう探し出してその人物に会い、話を聞く時間がない。

 他にマレフィオアに関して、俺よりもより多くの知識を持っていそうな者、といったら後はクラウしかいない。

「存じてはおるが、さて。剣殿のお役に立てるか……」

「それは気にしなくていい。俺の方でこれからいくつか質問するから、知っていることがあれば答えてほしい。それだけだ。どうかな?」

「わかった」

 クラウは幾分沈んだ表情で首肯した。

「まずひとつめ。マレフィオア、いや、あの化け物の元の存在であった水神フィオアの妹の名は知っているか?」

 クラウの顔からさっと表情が消える。

「その名は知らぬ。知っていても口に出すことはできぬ」

「ヘレスによって奪われたからか?」

 フィオアの妹の名は、あの神学校の副読本には記述がなかった。主神が奪ったからだが、その名を知れば、マレフィオアを伏滅、あるいは完全に滅ぼすことができるかもしれない。

 その理由は、彼女から名を奪った主神が何と言ったか、唱えたか、それが類推できるから、というのがまず一点。そして二つ目は、あの化け物の怨念、破壊衝動にその名前が大きな影響を及ぼすことが考えられる、ということだ。フィオアの妹は、バルタルへの愛のために名を奪われ自らを滅ぼされた。その名を聞けば、手に入れれば、かつてフィオアの妹の一部であったあの化け物は、何かを思い出すかもしれない。たとえばかつて“愛”に生きた、己の元となった存在を。その記憶を。

 あの化け物に真の名を告げれば、あれは自己撞着に陥るのではないか。フィオアの妹は己の愛を選んだのだ。それなのにあの化け物は、彼女の怨念のみを引きずって暴れまくっている。

 真の名を告げて強大な魔物を滅ぼす、それはいかにも物語における黄金律、そのものであろう。

「……そのとおり。だからその名は存在しない」

「誰も知らない、口にだせない、ということか」

 確か「古代ウルク王国正史・付(覚書)」によれば、デュドネはその後半生をかけてマレフィオアの、フィオアの妹の名前を探し続けたとあった。

 デュドネには何か、その名を探し出せるあてがあったのだろうか。何か確信できるものがあったのだろうか。……少なくとも人間や精霊はその名を口に出し、書き記すことができない筈なのに。

「次だ。やつの真名とは関係なしに俺の力であれを滅ぼすことはできるか」

「あの魔物が書物に記された召喚陣から召喚されるのであれば、完全に滅ぼすことはたとえ剣殿でも不可能だ。本体は別のところにある」

「どこにいる? まさかあんたらの生きる世界、天界とか精霊界とかか?」

「それは違う。この人の世の、どこかに隠れ棲んでいるのでは」

「追い払うことはできるか……」

 今朝の戦いではやつをバラバラにできる、いいところまでいけたのは確かだ。

 目的はビオナートを捕えるか殺すか、そしてもう片方の紅玉石と、今話している禁書を取り戻すことだ。禁書は最悪処分してしまってもいい。

 それができれば、マレフィオアを無理に滅ぼす必要はない。

「うむ。それは剣殿の力をもってすれば問題なかろう」

「最後だ。あの化け物は禁書をもって召喚した人物の命令に従うか?」

「それはないな。あの書物にできることは化け物を呼び出すことと、おそらく元の場所へ帰すことだけ。せいぜい書物を持つ者は襲われないですむ、ぐらいのものだろう」

 クラウは薄く侮蔑の笑みを浮かべて言った。

「!!……」

 イシュルは喉をならした。顔から血の気が引いていく。

 それはとんでもない話だ。クラウの言うとおりであれば、もし聖冠の儀でマレフィオアを召喚したら大変なことになる。やつは主神の間を完璧に破壊するだろう。太陽神の座も。

 それはビオナートにとっても自殺行為だ。

 イシュルは顎に手をやり沈思した。

 ……いや。ビオナートが、マレフィオアが俺に勝利すれば、それでも何とかなるのか?

 勝てば官軍、あの場にいるウルトゥーロ以下の立会人をすべて殺してしまえば、デシオやミラ、サロモンらを殺してしまえば、たとえば禁書を持ち出したのも、マレフィオアを召喚し主神の間を破壊したことも、俺か、正義派のせいにできる。

 イシュルは双眸を見開き宙を見つめた。

 ビオナートはそこまでやるつもりか。

 太陽神の座を復活させる、あらたに設置する方法を、まさかやつは知っているのか。

「……ありがとう。クラウ」

 イシュルは視線をクラウに戻し、低い声で言った。

 クラウが当惑した顔になってひとつ頷き、静かに、素早くその姿を消した。

 クラウは脅えていた。

 ……イシュルの発する怒りに。殺気に。


 その日の夕方、ダナが十名ほどの宮廷魔導師を引き連れ、ディエラード公爵邸に乗り込んできた。

 彼女らもルフレイドがサロモンに合流したことを知ったのだろう。

 ダナは言った。

「わたしたちもご一緒させてもらうわ。サロモンさまはもちろん、お怪我をなされたルフレイドさまの身もしっかり、守らせていただくわ」

「ありがとう。助かるわ、ダナ」

 場所は屋敷の小薔薇の間。ミラが笑顔でダナと話している。

 イシュルはその影で一同から顔を逸らし、秘かにほくそえんだ。

 やはりサロモンとルフレイドが合流した効果は絶大だった。流れがこちら側へ傾いてきている。

 明日にはカルノ・バルリオレに会いに、クレンベルへ赴くことになっている。

 俺は丸一日ほどの間、聖都からいなくなる。公爵邸の戦力が増強されるのは願ってもないことだ。

 ……ん?

 小薔薇の間には公爵家の魔導師長、コレットもいて、ダナ以外の宮廷魔導師らと話している。コレットも元は宮廷魔導師の実力者だったと聞いている。そちらの方を早めに引退して一種の天下り、聖王国の名門、ディエラード公爵家の魔導師長になったわけだ。

 そのコレットと話していた男たちの何人かが、ちらちらとこちらの方を見てきた。

 視線を合わすと彼らはみな揃って会釈してきた。

 ああ。あのひとたちは聖石神授の時、ミラやダナたちといっしょだった魔導師たちだ。

 イシュルは以前に大きな巻紙にまとめた聖都の派閥関係図を思い浮かべた。彼らの名はやや正義派寄りの、中立の位置に記されてあった。

 聖石神授から帰還して一旦離れていた彼ら、そしてリバルたちもまた、こちら側へ戻ってきた。集まってきた。

 ……これはルフレイドの合流とは別に、いよいよ決着の時が近づいてきていることを意味していないか。

 ひとが、事物の流れが自身の回りに集束されつつあるように感じられた。

 イシュルは彼らに会釈を返すと、身を引き締めた。


 その日の夜、イシュルは自室にミラとシャルカ、ネリーとルシアに集まってもらい、そしてクラウにも再度声をかけ呼び出した。

「明日、俺は一日外出する。聖都から離れる。帰ってくるのは明日夜か、日が変わって明け方か、だ」

 イシュルは控えの間に集まった面々を見渡し言った。

 このことはミラと何度か話し合い、すでにルフレイド救出後なるべく早くクレンベルに向かう、ということで決まっている。

 ネリーやルシアにはイシュルのクレンベル行きも、その理由も知らされてはいない。だが彼女らはイシュルの言に何ひとつ口を挟んでこなかった。

「問題は俺がいない間、万が一にも国王派が公爵邸に襲撃をかけてきた場合だ」

 この屋敷にサロモンとルフレイドのふたりの王子が揃った。ディエラード公爵邸はある意味、より危険な場所になったとも言える。

「もし彼らが再びマレフィオアを使ってきたらどうするか、だが……」

 公爵家にはリバルら聖堂騎士団の兵士らが百名弱、ダナたち十名ほどの宮廷魔導師の戦力も加わったが、相手がマレフィオアではとても楽観できない。

 イシュルはマレフィオアをどう退けるか、ミラたちにおおまかな指示を出した。

「マレフィオアが現れたら、あの化け物とはまともに戦わずに、禁書を持つ者を最優先で探し出し、そいつに攻撃を集中するんだ」

 いくらマレフィオアが強大でも、あれが禁書から召喚されるのなら戦いようはある。

「クラウはあの化け物を牽制、召喚者を特定し、ミラ。きみたちはクラウの指示に従い、召喚者を斃せ」

「わかりましたわ、イシュルさま。単純明快な作戦で、わたしたちもやりやすいですわ」

「ああ。だが、相手も召喚者の周りに護衛をつけているだろう。それをミラとシャルカが撃破、そこへネリーとルシアが互いに連繋しながら突っ込む、といった形がいいだろう」

 クラウをはじめ皆が無言で頷く。

「ネリー、深追いはするなよ。相手がマレフィオアを引っ込め退くなら、それで充分だ」

 イシュルはネリーを睨んで言った。

「わかった……」

 ネリーは眉間にしわをよせ、重々しく頷いた。

 



 翌日朝、イシュルは薄茶のズボンに生成りのシャツ、焦げ茶のベストに裾の短めのベージュのマント、という街でよく見かけるありふれた庶民の服装に着替え、公爵邸に油を収めにきた商人の帰りの船に乗せてもらい、アニエーレ川の北岸に渡った。

 そこからは街中を北に伸びる街道を歩き、聖都の郊外に出ると次第に歩を早め、東西に長く伸びる森に突き当たるとそこから街道を東に逸れ、一気に加速してそのまま森の中を東進、やがて山岳地帯に入ると空を飛んで北側からクレンベルへ向かった。

 遠く山並みの彼方まで薄雲が広がる中、イシュルは一瞬、首を傾け北東の、聖石鉱山の方を見やった。そこにはエミリア姉妹の墓があった。

 陽が西に傾き空が紅く色づきはじめる頃、にわかに重い雲が垂れ込め、雨が降り始めた。

 イシュルは途中、何度か地上に下りて木々の影に隠れ、雨宿りしながらからだを休めた。雨の中、まだ日が暮れてたいして間もない頃、今はもう懐かしい、クレンベルの主神殿に到着した。

 イシュルは空中からマレナの住む家、かつて居候していた家の小さな窓から、ぼんやり灯りが漏れているのを確認すると、神殿の北側、大小の倉庫や物置小屋の並ぶ一画に着地して身を潜め、神殿の者たちがみな寝静まる刻をじっと待った。

 暗闇の中を突然、閃光が走る。いつの間にか寝ていたろうか。

 遅れて雷鳴が轟いた。

 ……クレンベルの空は荒れている。

 イシュルは抱えていた膝から頭を上げ、庇の間から見える夜闇を仰ぎ見た。

 おもむろに立ち上がって倉庫の屋根の上に跳躍、カルノ・バルリオレの私室を目指す。

 幾つかの扉の鍵を風の魔法で開け、神殿の隣に立てられた石造りの建物の中に侵入する。

 屋内、一階の廊下をそっと音を立てずに一番奥まで進んでいく。最後の扉を開く。

 僅かに開けた扉から身をすべらせるようにして中に入ると、書斎と応接を兼ねた部屋の奥、机に向かうカルノの後ろ姿があった。

 机の上には火のついた蝋燭が三本、燭台があり、部屋の灯りはそれだけだ。机の奥の窓は漆黒に染まり、時折雷が光るとその瞬間だけ、雨脚がさっと浮かびあがった。

 カルノは手紙でも書いていたのか。その手を止めて羽ペンを置くと、椅子を後ろへ引き立ち上がって、イシュルの方へ向き直った。

 それは劇的だった。

 カルノが振り向いた瞬間、まるで計ったように窓外をひときわ大きな閃光が走り、雷鳴が轟いたのだ。

 逆光に黒く浮き上がった影が言った。

「待っていたぞ。イシュル君」



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