白路は赤く、血に染まる



ルグーベル運河を挟んだ大聖堂の対岸には、多くの街の住民が押しかけ人だかりができている。

 運河の大聖堂側の広場には、多くの神官や神学校の生徒、王城の役人や貴族たちが集まっている。

 教会で大きな祭り事が行われる際には、大聖堂広場は一般の住民の立ち入りが制限される。

 今日は聖堂教会で最も重要な儀式のひとつである、次期総神官長の入札(いれふだ)が行われる日だ。

 イシュルは大聖堂の主塔、最長部の尖った屋根の上に佇み、眼下にある聖パタンデール館の正面入口の辺りを見下ろしている。

 入札は聖パタンデールに現総神官長をはじめ、聖都の大神官が集合して行われる。

 意識を集中すれば、石造りの建物であるパタンデール館内部の人びとの気配もそれとなく読みとれる。

 ……人びとが建物の入口の方へ集まってきている。

「そろそろか」

 円柱の立ち並ぶパタンデール館の正面に、古風な長いラッパを携えた神官たちが横一線に並びはじめた。

 やがて円柱の影から現総神官長のウルトゥーロが姿を現す。続いて彼の補佐役のリベリオ・アダーニに月の神殿の神殿長のヴァンドロ・エレトーレ、さらに他の神々を祀る各神殿の長(おさ)、大神官たちがぞろぞろと出てきて横に広がった。

 ラッパ手がいっせいに低く固い音を吹き鳴らす。一種のファンファーレか。

 イシュルはその眸を細めた。

 滞りなく入札(いれふだ)が終わり、次期総神官長が決まったのだ。

 候補者はビオナートひとり、選挙は実質、彼の信任投票となった。

 横に並ぶ大神官の中央が空いている。そこに禍中の人物が姿を現した。

 ビオナート、そのひとが。

 周囲の群衆からどよめきが、歓声が上がる。

 ……あれは本物だろうか。

 ビオナートは周りの大神官らと談笑している。

 かつて王宮に禁足されたルフィッツオを助け出しに行った時、やつの影武者と相対した時がある。

 この距離では顔貌の細かいところまではわからない。

 だが、あの時の男と比べ、心なしか背丈もあり、堂々としているように見える。

 まぁいい。あれが本物かどうかわからないのでは、どのみち手は出せない。

 本物ならばその価値はあれど、こんなところでやつを殺したら、あれが偽者なら、こちらの立場がただ悪くなるだけでなんの意味もない。

「……」

 イシュルは顔を上げ、澄んだ青色の広がる秋空を見渡した。

 まだ暑い日が続くが、聖都の空はもうすっかり秋だ。

 イシュルの視線がゆっくりと下げられ、その眸に王城の影が移り込む。

 ビオナート、当選おめでとう。

 おまえの思い通りになって、良かったじゃないか。

 イシュルの顔に突然、獰猛な、冷たい笑みが浮かんだ。

 本物のおまえはどこにいる。

 塔上からイシュルの姿が消えた。


 公爵邸の前に降り立つと、館の方からミラが駆けてくる。

「もう、イシュルさまったら」

 少し怒ったミラの顔が可愛らしい。

「大聖堂に見に行ってらしたのね? あれほどお止めしましたのに」

「ふふ」

 イシュルはかるく笑うとミラに言った。

「ごめんよ。皆さん、お揃いで?」

「はい。お兄さま方もサロモンさまもイシュルさまを待っていらっしゃいますわ」

 ミラもイシュルの笑顔に引きずられ、怒ってみせていた顔をほころばす。

「それはまずいな。じゃあ、急がないと」

イシュルとミラは屋敷の晩餐室に向かった。

 ふだんはサロモンが執務に使っている部屋だが、そこが今はルフレイド救出の作戦本部のようになっている。

 イシュルが晩餐室に入ると中には随分な人数が集(つど)っていた。

 一番奥にはサロモンが、彼の背後の壁際には向かって左側にマグダ・ペリーノ、右側にベリンとセリオが立っていた。

 部屋の中央にある大きな机の右側には、ルフィッツオとロメオや公爵家魔導師長のコレットが、左側にはサロモンの執事長のビシュー、そしてサロモンの参謀役のヘリオ・ラセスというラセス伯爵家の嫡男が着席していた。

 彼らの背後にも、サロモンとルフィッツオらの護衛役の従者が数名ずつ控えていた。公爵家側の護衛役にはネリーもいた。

 ルフレイド王子派からの参加者はロメオ以外、他家からは参加していない。

 イシュルは晩餐室に入るとすぐ、一同に向かって席をはずしていたことを詫びた。

「見に行っていたのかね?」

 奥の方からサロモンが声をかけてくる。

 特にイシュルを非難するような口調ではない。

 別にこれからルフレイド救出の作戦会議が始まる、というようなことではない。そのことはすでに何度も討議され、すでに決定されていた。

「はい」

 イシュルは神妙に頷いて見せた。

 ミラはイシュルの隣に無言で立っている。 

「予定どおり父が総神官長に選ばれた。その報せはわたしたちの元にもすでに届いている」

「……」

 イシュルは今度は無言で頷いた。

 大聖堂の周辺にはサロモンに味方する影働きの者も、数は少ないだろうが、誰かの契約精霊も気配を消して潜んでいたろう。入札結果はすぐ、この場にもたらされた筈だ。

「今すぐでなくても良いのだが……」

 サロモンが薄く笑みを浮かべる。

「いえ、もう呼びましょう」

 イシュルは表情を引き締めサロモンの微笑を見つめた。

「クラウ」

 イシュルが自らの召喚した風の精霊の名を口にする。

 窓がカタっと鳴り、晩餐室の中央、机の上の空間が揺らいで白く輝くクラウディオスが姿を現した。部屋の中の空気が微かに震える。

 イシュルをのぞくすべての者が、抑えきれない緊張に僅かに身じろぎする。

「剣殿」

 クラウは高い位置からイシュルにかるく頭を下げてきた。

「では手筈通りに」

「……御意」

 クラウはもう一度頭を下げると、さっとその身を隠した。

 窓のガラスがカタ、カタっと、今度は二度鳴った。

 クラウはこれから公爵邸と王城の中間よりやや王城寄りに移動し、王城内、後宮の北東方向やや奥にある白路宮と、その周囲を重点的に警戒することになる。

 イシュルが王城の地下通路を崩落させた後、サロモン主導下でルフレイド救出に関する打ち合わせが幾度となく行われた。会議にはイシュルとミラはもちろん、サロモン王子側からは執事長のビシューをはじめ、イシュルは何度か顔を合わせただけだが彼の懐刀と云われるヘリオ・ラセス、同派のルフィッツオら、ルフレイド王子派からは彼の他の派閥の者には秘密にしてロメオが参加した。

 また、同時にマグダ・ペリーノがサロモンの連絡役となってアデール聖堂に何度も出向き、シビル・ベークと繁雑に意見交換を重ねた。

 こうして、次期総神官長を決める入札日までには、ルフレイド救出の作戦要領が詳しく決められていた。

 まずその概略は以下の通りである。


1) 前国王ビオナートがルフレイド暗殺に隷下の戦力を動かした時、また、ルフレイド国王代理が白路宮を出て王宮に向かいはじめた時点で当救出作戦を発動する。

2) ルフレイド救出には参加人員を絞り機動性を確保し、早急に当人の安全と身柄確保を実行する。

3) ルフレイド救出にはサロモン王子も参加し、当人が直接指揮する。

4) 敵側に対する妨害工作等、作戦支援には各尖晶聖堂の正義派、サロモン王子派の影働きを投入する。

5) ルフレイド救出後は当人の身柄をディエラード公爵邸にて保護する。

6) 1)の察知にはこれを最重要視し、特別に配慮すること。


 ルフレイド暗殺に国王派は、同派の複数の宮廷魔導師と影働きを、また正規軍である重装歩兵を主力とする聖堂第三騎士団の一部も投入してくることが予想された。

 これに対し正義派及びサロモン王子派は、主力を魔導師、魔法使いの実力者とし、特にイシュルの風の大魔法を持ってこれに対抗することとした。

 次はその作戦要領の詳細である。

 まず、入札によりビオナートが次期総神官長に内定した時点で、本来は公爵邸を守護する風の大精霊クラウディオスを王城内白路宮と当公爵邸の中間点に移動させ、その優れた感知能力と召喚者に対する交信能力で、ルフレイド王子の身辺に何らかの動き、異常があればこれを早急に把握し、クラウの通報後直ちにイシュルを先頭に、作戦参加主力はすべて空中を機動、一気に目標に突入する。

 クラウディオスはイシュルに通報後公爵邸に急ぎ帰還、ルフィッツオとロメオ、疾き風など武神の魔法具を持つ彼らの従者二名、同じくサロモン王子の従者二名の計六名を目標に輸送し、シャルカがミラとネリーを、サロモンとマグダをセリオとベリンがそれぞれ輸送することになっていた。イシュルは想定外の事態にも対応できるよう、また、彼らの移動時の護衛も兼ね、単独行動とされた。

 クラウの輸送中の公爵邸の防衛は、通常通り公爵家騎士団長のダリオ以下、騎士団兵と同魔導師長のコレット、彼女の指揮する魔導師ら、ラベナやピルサとピューリの双子も参加する。また、公爵邸西側の運河側の防御はアデール聖堂の守護精霊、アデリアーヌも支援することとされた。

 ルフレイド王子の暗殺、すなわち国王派戦力とルフレイド王子派の戦闘は白路宮と王宮内、及びその中間点の屋外、特にルフレイド王子側の防御が手薄になる屋外で発生する可能性が高く、その場合は現地到着と同時に戦闘が惹起することが予想された。

 作戦参加者の戦闘配置及び実行は、サロモンと彼の従者である剣士二名がルフレイド王子本人の護衛に助勢し、マグダが彼らの周囲に撹乱の無系統魔法を発動(既に乱戦状態であれば効果は不明)、その外周にルフィッツオとロメオ、ミラと彼らの従者たちが展開、契約精霊も召喚し主に防御戦闘を行う。

 クラウは輸送後に一旦公爵邸との中間地点まで後退、セリオとベリンはサロモンとマグダを地上に降ろした後、即座に上昇、空中から地上戦闘を支援する。

 イシュルは上空に到着後、各員の戦闘配置終了を待って魔封陣の展開妨害、特別に強力な精霊や魔導師を排除、戦闘区域全域に風獄陣を展開し敵味方の戦闘を強制的に終了させ、その後味方のみを風獄陣から解放し、必要ならルフレイドを拘束したまま公爵邸に帰還することになっていた。

 サロモン以下総員は突入時と同じ要領で後退、正義派、サロモン王子派の影働きは作戦開始前から終了後まで、敵側の影働きの牽制、国王派の戦力を撹乱することになっていた。

「早ければ日没後にも父かルフレイドか、どちらかが動き始めるかもしれない。やはり今晩が一番危ない」

 サロモンがその場の全員を見渡し言った。

 以前から何度も話し合われてきたことを、サロモンは今、あえて繰り返し口にした。

「はっ」

「御意」

「……」

 サロモンの発言に対しある者は声に出し、ある者は無言で頷いた。

 この晩餐室に集合した面々は夜間はこの場で待機することになっている。事が起こる可能性が低い日中は、各自三交代で休息をとることになっていた。

「皆にお茶を入れてもらおうかな」

 サロモンがマグダに振り向き言った。マグダが笑顔で頷き晩餐室を出ていく。

 イシュルは部屋を出ていく彼女の後ろ姿を、ついでその向こうの屋敷の外の、大聖堂や市街の方へ注意を向けた。

 元国王、ビオナートの次期総神官長就任が今日、さきほど内定した。

 多くの人びとの、街のざわめきがそれとなく、自身の感覚の伸びるその先に触れてきた。


 今日の入札(いれふだ)に当たり、イシュルはビオナートの当選を確実にするため、デシオらと示し合わせ、簡単な工作を行った。

 以前、ウルトゥーロ・バリオーニ二世と謁見した日、その後に行われた大神官会議で喚問され、イシュルは地神の紅玉石の片割れを見せ、クラウを呼んで大神官らに一席ぶってもらった。効果は絶大で、イシュルに対する疑惑が晴らされたのはもちろん、国王派の大神官らに大きな動揺が走った。

 聖堂教会で大きな力を持つ彼らを正義派に取り込めることができれば、いや、ビオナートから離反させるだけでも、正義派にとって非常に有利な展開が望めたが、それでは次期総神官長入札においてビオナートが選ばれない可能性がでてくる。

 ビオナートを当選させ聖冠の儀に出席させなければ、本物を確実に捕らえ、あるいは殺すことができない。

 たとえ正義派にとって不利な情勢になろうと、それが続こうが、どうしてもビオナートに当選してもらわねばならない。

 イシュルは彼に対し特に大きな反応を示した、土と風の大神官に秘かに面会し、入札時に彼らにビオナートに票を入れるよう要請した。

 土と風の大神官はイシュルの要請を受け入れ、またビオナートも厳しく自派の締めつけを行ったらしく、

 今日の入札では正義派と国王派、両派の思惑通りビオナートが次期総神官長に選ばれ、正確には彼が信任されることとなった。

 イシュルは椅子に深く座り俯き、長い間おのれの思念に沈んだ。

 今のところ、この時点まではこちらの思惑どおりいっている。

 だが、これから行われるだろうルフレイドの暗殺、いや大きな戦力が投入されるなら彼に対する襲撃、になるのか。そこで彼の命を守り通すことに、どうしても一抹の不安を感ぜざるをえないのだ。

 イシュルは薄く眸を開けた。

 時は進み、今はもう晩餐室にも夜の帳が下りている。室内に待機する者たちはある者は居眠りをし、ある者は隣り合う者とひそひそと小声で話し込んでいる。

 壁際、窓際に立っていた従者たちも椅子を与えられ、その場で座ってじっと待機している。

 テーブルの上に置かれた燭台の蝋燭の炎が彼らの姿をぼんやり照らしだしている。

 隣のミラを見ると彼女はこくっ、こくっと頭を揺らし舟をこいでいた。

 イシュルは静かに立ち上がると外に出て屋敷の中央、大きな階段のある玄関ホールに向かい、裏口から中庭に出た。

 街の方から流れてくる微かな喧騒が、晴れ渡った秋の夜空を流れていく。

 イシュルは辺りの明るさにふと、顔を南の夜空に向けた。屋敷の屋根の東側の影に月がかかっていた。

 狂おしいほどにぎらぎらと輝く満月だった。

 イシュルの胸中にあの時、エミリアたちの命が失われたあの夜の記憶が蘇る。

 月の女神レーリアよ。

 おまえはまた、俺を邪魔しようとしているのではないか。俺に新たな罪と悔恨を刻みつけるために。

「イシュルさま」

 背後から甘く柔らかな声がかけられた。

 中庭の端にひとり、夜空を見上げていたイシュルの横にミラがそっと寄り添ってきた。

「何も不安に思うことなどありませんわ」

 ミラがイシュルを見上げて微笑む。

 彼女の髪がふわっと揺れてほんの一瞬、月の光に金色に輝いた。

「イシュルさまは誰にも負けませんわ。この前、レニさんも認めてくださったではありませんか」

 ミラがイシュルの右腕に手を当ててくる。

「あ、ああ」

 俺の抱えている不安は違う。たとえレニからお墨付きを得ようと、たぶん何も変わらない。

 月神は人や事物の運命を司る。

 風、火、水、土、金の五元素など他の神々には各々の役割が与えられ、つまりそれぞれの権限を主神から与えられているから、たとえ月神でも五系統、無系統の魔法に直接干渉はできない。だが、たとえばその魔法を使う人間に対してはもちろん、その結果起こることに関しても介入することができるだろう。

 あの夜、ウーメオの舌では俺ひとりだけの時間を、いや行動をやつは奪ったのだ。

「イシュルさま」

 ミラが俺を見つめてくる。月の輝きに負けないほどの光を宿して。

「自分を信じるのですわ。自信を持って、イシュルさまご自身の力を信じるのです」

 ミラの笑みが深くなる。

「わたしは信じていますわ。イシュルさまの力を。イシュルさまのことを」

「あ、ありがとう……」

 ミラの気遣いが、励ましが心に染みる。

 だがもし再び月神が何かしてきたら……。俺は何ができる?

「ベントゥラ・アレハンドロさまが亡くなられたと聞いたときは動転いたしましたが、でもかわりにレニさんにお会いできてよかったですわ。ほんとうに」

 ミラが視線を逸らし微かに首を傾ける。

「あの方は大変な魔法使い……ひょっとするとお爺さまよりも……」

「……」

 レニは確か風の大魔導師、ベントゥラ・アレハンドロのことをお爺さん、と呼んでいた。なら彼女はベントゥラの孫、ということになる。

 だが彼女は……。

 イシュルは視線を厳しく、月明かりに照らされた中庭を見やった。

 あれから、彼女に風の魔力の扱い方でダメ出しされてから、何度か彼女の許を訪れている。

 イシュルは、王城の上空で火と風の精霊と戦って得た感触を、レニの前で試してみた。

 レニとミラと庭先に出ると、イシュルは空中に、風の精霊の異界から吹く風のように、流水のように風の魔力を引っぱりだし、その勢いを殺さず魔力を風そのもののように吹かし、加速し、うねらせた。

 すると、吹き流れる風の魔力は何かの力を得て自らその威力を増し、巨大な強力な風となった。

 彼女の屋敷の空を幾度も風が唸り、それはある時は竜巻となり、ある時は触れるものすべてを斬り裂く鎌鼬(かまいたち)となった。

 風の魔力を“吹かす”時に現れる未知の力、それこそは大気中の気圧差から風がおのずと吹く現象、例えて言うなら自然科学に裏打ちされた自然の摂理、あるいは自然の力そのものだった。

 風の魔力を吹かせれば、自然の力を引きつけ、あるいは生み出し実際に風を吹かせる。より強力な、自然には吹かないような風まで吹かすことができる。

 魔法と自然の結びつき。それは考えるまでもなく当たり前のことなのだ。この世界は前世とは違う。イシュルは前世の常識、知識があるが故に新しい魔法を使い、この世界の魔法の常識に気づけなかった。

 イシュルは今さらそれに、風の魔力と自然の関係に気づき、それをはじめて感じ、自覚した。

 レニはイシュルにそのことを気づかせたかったようだ。

 彼女はいろいろと試してみせるイシュルに、「もっと自然に」「もっと流れるように」「もっと早く」などと、手ぶり身振りを加え抽象的なことしか言わなかった。

 誰でも感じる自然なこと。彼女はそこに多くの、あるいは小難しい言辞を連らねる必要はないと考えているようだった。

「うん、いいんじゃないかな。よくできました、イシュル」

 先日、イシュルが風の魔法具を得た最初の夜、掌の上に起こした小さな風の渦と同じように風の魔力の渦を生み出し、それを次第に大きく、空高く伸ばし広げ、最後に掌から離して頭上につむじ風を吹かせて見せると、レニは満足そうな顔で頷き、イシュルにやっと合格点を与えた。

「素晴らしいですわ。なんて美しくて、自然な魔法……」

 横で見ていたミラが両手を胸の前に組んで空を見上げ、感嘆の声を上げた。

 何度目かのレニの指導により、イシュルがふるう風の魔力は明らかに以前とは違う、より洗練されたものになった。

 レニの指導自体は特段、どうということもないものだったが、少なくともイシュルに足りないものを自覚させ、取り組むことに方向性を与えるものではあった。そして、彼女のいささか簡潔に過ぎる教え方は実は一番大切なこと、何度も繰り返して慣れ、心に刻みつけからだに憶えさせることに、とても適したものだった。

「……俺のこの、身の内側から湧き立つ風の魔法の力、これもきっと同じものだろう」

 イシュルは視線を空から自分の胸元に落とし、片手をその胸に当てて言った。

 自分では異界から呼び込む風の魔力と、己の、おそらく風の魔法具を通して湧き立つ魔力が同じものとは思えない。だが、前者の風の魔力を風を吹かすように使えば、その結果は両者ともほぼ同じものになる。

「なら、この自身の内から沸き上がる力も、もっともっと深く広げて、大きく強く、できないだろうか」

 この自分の中にある風の魔法具も、結局は自分自身とあの異界と、どこかで繋がっているのだ。

「……」

 だがレニは表情を少し曇らせ、寂しげな微笑を浮かべると首を横に振った。

「確かにイシュルならできるかもしれないけど。……それはやめておいた方がいいよ、たぶん」

 レニは声を幾分落として言った。

「そんなことを続けたら、イシュルはヒトでなくなる」

 それは……。

 イシュルははっとした顔になってレニの顔を見やった。ついでミラと呆然と視線を交わした。

 季節は秋に移ろい、周りの緑の色もほんの僅かにくすみ、重くなってきている。近く、遠くの木立からひっきりなしに聞こえてきた蝉の声はいつの間にか消え、今は秋の虫が鳴くようになった。

 陽の傾く時刻も少しずつ早まり、レニの住まう屋敷の白い塗り壁は早くも薄く、朱色に染まりはじめている。

 レニは最後にまたもや、思わせぶりなことをイシュルに言ってきた。

「ミラも、他のひとには絶対内緒にしなきゃだめだよ。イシュル、次は最後だ。今度は風の魔術書にのっていないことを教えてあげる」

 その時、レニは声を潜めて確かに言った。

「風の最後の魔法、それは“風の剣”」

 風の剣。それは……。

 イシュルはごくり、と喉を鳴らした。

 鈴虫の鳴き声だったろうか。

 すぐ傍の草叢(くさむら)から、りん、りん、と鳴る音が、やけに大きく聞こえてきた。


 ……ミラの自信を持て、との言葉はレニから教わったこと、彼女とのやりとりのことを言っているのだ。

 確かに俺はまた一段うまく、風の魔力を操れるようになった。ひょっとすると、その真髄に触れようとしているのかもしれない。その段階まで来ているのかもしれない。

「イシュルさま?」

 ミラが問いかけてくる。

「あ、ああ、ごめん。考えごとしてた」

 イシュルは驚き、少し身を後ろへ逸らした。 

 気づくとミラが正面に回り込み、胸の先を触れんばかりに身を寄せてきていた。

「大丈夫だ、ミラ。心配しないで」

 見上げてくる彼女の顔に月の光が差す。

「もし、何かお悩みでしたらわたくしに話してくださいませ。イシュルさま」

 ミラの眸が潤んでいる。そして揺れている。

 今は……、彼女に心配はかけられない。だが、いつか話さなければならない。月神のことを。

「本当に大丈夫さ。ルフレイドはかならず助ける」

 身を引き締め気合いを入れる。わざとでもいい、力強く頷いてみせる。

「はい、イシュルさま」

 ミラは笑顔になって頷いた。

 彼女も無理に笑顔をつくっているのかもしれない。

「イシュルさまがそう言ってくれるなら、勇気百倍、ですわ!」

 ミラの笑顔がはじけた。

「……!!」

 ミラ……。

 イシュルは再び驚いた顔になった。そして思わず彼女を抱きしめた。




 薄墨をふいたような地平に何か、小さな光点が瞬いた。

 そんな気がした。

 イシュルは、浅い眠りから目を覚ました。

 晩餐室を斜めに、月の光が射し込んでいる。

 室内は無音。深い静寂に覆われている。

 起きているのはサロモンやルフィッツオ、ロメオらの護衛役である従者たちだけだ。ネリーが椅子から立ちあがり、窓際に立って横から外を見ている。

 夜明けが近いのか。室内は月の光に混じって、微かに明るくなった夜空の薄く青い光が充満している。

 隣のミラは背筋を伸ばし行儀良く椅子に座り、頭だけを僅かに前に傾けうとうとしている。

 イシュルは視線をミラから窓の方へ向けた。

 もうそろそろ夜明けだ。

 今晩はなしか……。

 これから数日間、ルフレイド救出参加者は夜間は晩餐室に詰め、昼間は交替で自室に戻るなど休憩をとることになっている。

 この状態が二日、三日と続けば、皆、少しずつ疲労が溜まっていくだろう。ビオナートにしろルフレイドにしろ、なるべく早く動いてもらった方が助かるのだが……。

 ふっと、また、意識を手放そうかとまどろみはじめた時だった。

 後ろの方、後頭部に何かが煌めき、こつんと何かが当たるような感触があった。

 イシュルがふと目を開け頭を上げた瞬間、晩餐室の窓がいっせいにガタガタと激しく鳴った。

「!!」

 皆がいっせいに立ち上がる。

 風だ。クラウが吹かしたのだろう。

「来たか!」

 サロモンが吠えるように叫ぶ。

 ……剣殿。

 脳裡にクラウの声が響く。

 ……白路宮の前だ。第二王子一行が宮殿から出てきたところで始まった。近くで兵隊どもが集まってきてそこでも争いが起こっている。

 イシュルは無言で頷く。

 ルフレイドが自派の騎士や魔導師らを集め、王宮を固めようとしたのだろう。国王派が阻止に動いた、といったところか。

「外に出ましょう」

 イシュルはサロモンに声をかけると窓を開け外に飛び出た。

 他の者も皆、イシュルに続き我先にと外に飛び出してくる。

 イシュルが中庭に出ると、クラウが薄く輝く半透明の姿を現した。

「手筈どおりに、たのむ」

 イシュルがクラウに言うと、クラウが無言で頷いた。

 その宙に浮くクラウの下にルフィッツオらが集まってくる。

「イシュル君、よろしくたのむ」

 ルフィッツオはイシュルに声をかけるとクラウに近寄り、頭を深く下げた。

「頑張ろう」

 ロメオが後ろからイシュルの肩を叩いて通り過ぎ、クラウの許へ寄っていく。

「イシュルさま、ご武運を」

 ミラとネリーはもうシャルカの左右の肩に乗っている。

「ミラも!」

 クラウは自身の周りに円柱形の風の魔力を展開、彼の許に集まった男たちを包み込む。

「行くぞ!」

 後ろでサロモンの声。クラウがルフィッツオらを引き連れ上昇し始める。

 その横をマグダを後ろに乗せたベリンが前方へ突っ切って行く。

 少し遅れてセリオが続く。その瞬間、イシュルの後ろで何者かが跳躍した。

 サロモンが華麗にマントをはためかせ、後ろからセリオの魔法の杖に飛び乗る。

 ミラたちを乗せたシャルカはもう空中にあり、王城に向かっている。

 イシュルは全員が空に舞い上がるのを確認すると、最後に夜空へ、地を蹴った。


 東の空が明け初め、山の連なる黒い影が浮いて見える。

 辺りはまだ暗い。だが、もう夜明けは近い筈だ。

 イシュルは空に浮くと速度を上げ、一気に一団の前に出た。

 問題は……。

 王城の城壁が目前に迫ってくる。視界の左右にある石造りの櫓、その矢狭間から、そして城壁最頂部の鋸壁(のこかべ)の影に多くの人の気配がある。弓兵が矢をつがえ待ち構えている。

 イシュルは水平になって飛びながら右腕を突き出し、横にさっと払った。

 同時に城壁の上部、左右の櫓が何の音も無く消え去った。

 王城の西側城壁の一部区画が水平に切り取られ、姿を消した。薄く立ち上る煙の中、青白く輝くきれいな断面が夜闇に浮き上がった。風の魔力が暴風となり、南の空に遠く轟音が鳴り響いた。

 イシュルがその城壁を越えようとした時だった。

 ふいに周りから色彩が消え、音が消えた。

 暗く沈むモノクロームの世界。なぜか北の空に灰色に輝く薄っぺらな月が現れた。

 やはり来たか。

 見覚えのない夜空。見知らぬ世界。イシュルを絶望が襲った。

 ミラが、クラウが、サロモンが、皆背後からイシュルを追い越していく。

 ……何かが、城壁を削った石の欠片でも自身の間近を横切ったからだろうか。早見の魔法が起動している。あるいは月神の仕業か。また時が止まろうとしているのか。俺だけが。

 ミラたちの後ろ姿がゆっくりと小さくなっていく。彼らは俺に気づかない。俺が前へ、先に行っていると思っているのか。

 全身を燃えるような焦燥感が駆け巡る。

 灰色の月には黒い霧がかかり、それが人の形に像を結ぼうとしている。

 レーリアめ。またメリリャを出してくるのか。

 何が、何か、できることはないのか。

 まただ。からだは動かない、声も届かないのに周りの状況ははっきりとわかる。

 勝手なものだ。やり放題じゃないか。

 ……待ってくれ。このままじゃ……。

 前をゆく一団の後ろ姿、その中のひとりがゆっくりと頭(こうべ)を巡らし振り向く。シャルカの肩の上に乗ったミラだ。

 彼女の白い顔が俺を見たような気がした。

 ミラ!!

 声にならない叫び。

 彼女の先の夜空で何かが揺らいだ。

 世界はまだ閉じていない。

 飛べ! あの空へ。

 イシュルは活路を見出した。


 抗えない力に引っ張られる。衣服が、自分の肉体が裂け、内蔵が、骨が露出する。やがて心まで、もうひとりの自分が引き裂かれ、後方へ消えていく。

 無彩色の闇が消え、新たな闇が視界を覆った。

 いつの記憶だったか、それは水たまりに浮かぶ白い雲、そして何かの影。じりじりと焼きつける太陽。

 ふいに画面が切り替わる。風が陽を揺らめかす。

 誰か、誰だ。そばかすに、人懐っこい少女の顔がほころんだ。

 レニ?

 彼女の髪がはためき、さっと広がった。

「はっ」

 下から立ち上る喧騒、争闘の音。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。はっ」

 ふと逆の、頭上からの殺気に身を翻すと、すぐ目の前を火の玉が轟音を立てて通り過ぎていく。

 見上げると、上空に精霊がひとり浮いている。女だ。火の精霊だ。

 魔力を吹かして消し飛ばす。

 色彩が戻ってきた。音が、闘いが。

 ……俺は戻ってきた。

 全身を痛みが走り、己を苛む。

 イシュルはぐっと堪えて風の魔力をたぐり寄せると、そのまま流して自らの周囲に巻きつけ、広げていった。

 イシュルは眼下を見渡した。

 左側に薄らと、いや、はっきりと白路宮が見えた。

 その前を多数の精霊が横切る。空中、イシュルよりやや下の高度を精霊たちが戦っている。

 精霊たちは互いに火球や風球を飛ばし合い、水壁を広げ、火炎を吐き、風の渦を纏(まと)って突撃していく。土と金(かね)の精霊はほとんどいない。警戒していた荒神の、闇の精霊もいない。

 魔封陣はなしか。少なくとも、魔封を使える黒尖晶の影働きは死に絶えたのか。

 そして地上では、白路宮西側の小さな広場でルフレイドを中心に十名近くの魔導師や、武神の魔法具を持つ剣士らが半円状に陣を組み、東側から突出した国王派らしき同様の魔導師や剣士らの小集団とやり合っていた。

 辺りは先月にイシュルが潰した、地下通路の埋め立てや修復工事が至るところで行われていた。

 王宮、そして背後の後宮から白路宮、白磁宮、さらにその東の奥の方へ、ところどころ陥没した通路に沿って土が盛られ、木材が積み上げられ、縄が張られている。もうきれいに埋め立てられて、真新しい敷石が敷き詰められている箇所もある。

 王城内郭の道や大小の広場、緑地はまるで何かの区画整理の工事を行っているように見えた。

 白路宮の南側へ少し離れた東西のふたつの区画に、聖堂騎士団の騎士や兵士たちが二手に分かれ、互いに牽制し、戦っていた。彼らのそれぞれ百名ほどの集団のさらに南側には、後宮に勤める使用人の宿舎が並んでいるのが見える。手前の西側の集団はおそらくルフレイド王子側で、白路宮の前で国王派の魔導師らと戦っている王子らと合流しようとしている。東側の集団は国王派で、彼らを合流させまいと邪魔しているようだ。

 問題は、国王派の集団の東の、さらに奥の方に多くの人びとの気配があり、同派のまとまった兵力の後詰めが存在するらしいことだ。

 ただ、周囲の地形は大兵力を展開できるほど広いものではないし、いたるところで地下通路の穴埋め工事が行われ、それが遮蔽物となって彼らも思うように加勢できないように見えた。

 状況は把握できた。

 イシュルはまず、自身の周りに渦を巻くようにして回転させている風の魔力を下方に流し、眼下でやりあっている精霊たちを敵も味方も、つまりルフレイド王子派の魔導師の精霊たちも、いっしょに一気に吹き飛ばした。

 渦巻く風の魔力が、その周囲に高密度の風のうねりを纏(まと)い、右に左に飛び回る精霊たちを飲み込み消滅させていく。魔力の渦の外側を爆音が唸るように轟き、周囲に広く響き渡った。

 周りにいた兵士や魔導師たち、そしてルフレイドも、みなが呆然と空を見上げ、イシュルの存在に気づいた。

 辺りの争乱がおさまり一瞬、静寂に覆われる。

「ベルシュ殿!」

 そんな中、下からルフレイドの叫ぶ声が聞こえてきた。

 イシュルは薄く笑みを浮かべると彼らを見下ろし辺りを睥睨した。

 その視界の隅にミラたちが迫ってくる姿が映る。

「イシュルさま!」

「ルフレイド!」

 ミラやサロモンの叫ぶ声が聞こえる。

 サロモンが空中から剣を抜き、グレゴーラを国王派の魔導師らへ放つ。シャルカが無数の小さな鉄球を生み出し、国王派の兵士らの集団に撃ち放った。

 彼らは一斉にルフレイドの集団の右側に着地、従者たちが前に進み出て展開しはじめる。

 ……剣殿、それでは。

 クラウの声が耳許から心の中へ響いてくる。

 クラウはこの後、王城とディエラード公爵邸の中間に位置し、両方の異変に備えることになっている。

「たのむ!」

 イシュルは後ろを向き大声で叫んだ。

 ルフィッツオらを地面に降ろしたクラウが、西の空に霞み消えていく。

 地上に降り立った者たちはみなサロモンの前に進み出て、各個に戦闘を開始した。

 ルフィッツオとロメオが頭上に特大の火球と水球を生みだし、ルフレイドと戦っていた魔導師らに投げつけ、ミラがシャルカの腹部からハルバートを取り出し、刃先をさっと伸ばして足の止まった敵方の剣士を突き刺した。

 そこへシャルカから飛び降りたネリーが、残りの敵の剣士たちの中へもの凄いスピードで突っ込んでいく。

 サロモンの前斜めに陣取ったマグダがそれとはっきりとわかる力強さで、“目つぶしの魔法”を周囲に展開する。だがこの状況でどれだけ効果があるかわからない。

 キメラの魔獣型精霊、と言ったらいいだろうか。グレゴーラは凶暴な雄叫びを上げて国王派の魔導師どもに襲いかかり、引き裂いていく。

 敵方の至るところから悲鳴が上がったが、彼らも負けじと応戦しはじめる。辺りは再び激しい争闘の気に満たされていく。

 サロモンは己の周囲をマグダ以下従者たちに守らせながら、左側へ少しずつ移動してルフレイドに近づこうとしている。

「兄上……」

 金属の鳴る音、近く遠くで上がる無数の叫声。魔法の爆ぜる轟音。その中で、イシュルの耳に微かにルフレイドの呟く声が聞こえたような気がした。


 そろそろか。

 味方側が戦闘をはじめたあたりで、イシュルは周囲に敵味方の区別なく風獄陣を張ることになっていた。

「イシュルさん」

 横からベリンが話しかけてくる。

 見るとセリオも傍に並んでいる。

「おまえらはもっと上に行ってくれ。これから風獄陣を降ろす。後は手筈どおりに」

「うん!」

「わかった」

 ふたりは高度を上げ、周囲を大きく旋回しはじめる。

 イシュルは南側でやりあっている騎士団兵らをちらっと見た。

 今は数の少ないルフレイド王子側の方が押しているようだ。

 彼らも結界の中に入れてしまおう。

 味方の者たちは一度結界を張ったその後に、結界の範囲を調整して外に出すことになっている。

 当然、その方が手早く結界を張れるからだ。

 ではいくぞ。

 イシュルが片手を空に上げ意識を風の異界に向けた時。

 国王派側が陣取る王城の東側、奥の方で突然大爆発が起こった。重い魔力がぎらぎらと煌めく。もくもくと土煙が上がり、その中から低くくぐもった咆哮が轟いた。

 周りの空気がぶるぶると震える。

 薄くなっていく土煙から巨大な龍の影が浮かぶ。

「イシュルさま! ゴデルリエの土龍ですわ!」

 下からミラの高く叫ぶ声が聞こえてくる。

 龍の影がドン、ドン、と地を揺らし前へ進みでてくる。

 荒々しい岩で固められた龍の巨大な彫像。対照的に左右に伸びる翼は細い岩が骨のように複雑に組み合わさってできている。だが、その羽は深い青色の魔力で覆われていた。

 あれは空も飛べるのか。

 国王派の騎士団兵らから、「おおっ」と感嘆する声がさざめくように聞こえてくる。ルフレイド側の兵士らからは微かな悲鳴が、動揺が伝わってくる。

 ゴデルリエの高さは三十長歩(スカル、約二十m)ほどはあろうか。城の城壁よりも高い。

 後方に魔導師長がいるのだ。

 イシュルはゴデルリエの龍を見て薄っらと笑みを浮かべた。

 その視線が王城のもっと奥の方、荒神の塔の方へ向けられる。マデルンを殺してしまえばドロイテ・シェラールが悲しむだろう。いや、怒るだろうな。

 イシュルは右手を伸ばし、水平に、右の方へ払った。

 同時に微かにスン、と、しらけるようなかるい音が響いて岩の龍の上半身が消えた。

 ゴデルリエの龍、その残された下半身がただの岩と土の塊になってざざっ、がらがらとその場で崩れ落ち、周囲を再び土煙が覆った。

 静寂。

 誰もが我を忘れ、その光景を呆然と見つめた。

 ちょうどいい。

 イシュルは風の結界を降ろした。


 視界が流れ色彩の渦となる。辺りを青白く輝く風の結界が覆った。

 みな、すべてのものが動きを止める。

 動く者はその上空を飛び回るベリンとセリオだけだ。

「……」

 イシュルはゆっくりと地上へ下りていく。結界の中にはサロモンやルフレイドの姿もあった。

「!!」

 するとイシュルの額を叩きつけるような何かが走った。

 魔力?

 イシュルは本能的に上昇に移り、視線を白路宮の奥、東側に並んで聳える白磁宮の方へ向けた。

 何かの巨大な魔力がそこから吹き上がる。

 ぱっぱっと光がほとばしり、ガラスを割ったような甲高い、不気味な咆哮が夜空に響き渡った。

 同時に巨大な大蛇の影が現れる。

 な、なんだ? あれは。

 大蛇は少しずつ姿を現しながら首を巡らし、イシュルの張った風の結界に噛みついた。風獄陣の青く色づく半透明の壁を、白い火花が鋭く何度も走り、辺りを閃光が瞬いた。

 風の結界が歪み、壊されていく。

 くっ、こいつ!

 これはまさかマレフィオア。

 大蛇は風の結界からその顎を離すと、今や白く輝く半ば実体と化した巨体を伸ばし、結界を北側からぐいぐいと締めつけてきた。

 このままではまずい。

 風の結界が壊されると、その結果巨大な爆発を引き起こすことになる。そうなれば敵も味方も全滅だ。

 イシュルは結界の魔力を異界へと戻しはじめ、同時に新たな魔力を引き出し、流れるようにコントロールして白い大蛇に巻きつけていった。

「……! ……! ……!」

 マレフィオアがキーンと甲高い声を出して苦悶の唸り声を上げる。七色に輝く不気味な眸が瞬く。

 風の結界が消え、その巨体が滑るように下にずり落ちた。

 大蛇が落ちた先には白路宮があった。轟音が上がり辺りが土煙に覆われる。

 こいつ!

 イシュルがいよいよマレフィオアの胴体を細切れにしようとした瞬間、蛇のからだに細かくいくつもの電光がチカチカと走り、ふいにその姿が消えた。

 辺りを音も無く土煙が立ち上る。

 やったか。

 イシュルは視線を白磁宮の方に向けた。

 禁書を持ったやつが近くにいる筈だ。煙に霞むその先、白磁宮も西の端の方が一部、マレフィオアの落下で破壊されたようだ。

「ルデリーヌ!」

 イシュルの視界の端、東の空を飛んでいたベリンが鋭く叫ぶ。

 すると今度は、下方から飛ぶように白磁宮の方へ向かう影がひとつ、走った。

「ネリー! だめ!」

 ミラの悲鳴。

 ネリーが加速の魔法を使ってルデリーヌと呼ばれた者を追いかけていく。

 そいつか。そいつが禁書を……。

 問題ない。

 白磁宮の後方まで、また風の結界を降ろすだけだ。

「ルフレイド!!」

 イシュルは思わず下を見る。

 その時、サロモンの悲痛な叫び声が響き渡った。

 



 東の空が明け初めていく。

 辺りが少しずつ明るくなっていく。

 暗闇が木々や建物の影へと追いやられていく。

「ルフレイド……」

 サロモンの力ない呟きが聞こえた。

 国王派の騎士や兵士らも、魔導師たちも、ミラたちの奮戦と、おそらくはイシュルのふるった強大な力を怖れ、王城の奥、東方へ退いていった。

 彼らには必殺の切り札、マレフィオアがイシュルに敗れたように見えたのかもしれない。 

 舞い上がった塵埃がまだ靄のように薄く漂う中、崩壊した白路宮にルフレイド主従の大半が下敷きになった。

 イシュルは風の魔力で慎重に瓦礫を少しずつ、後方へと吹き飛ばしていった。

 イシュルの顔は蒼白になり、苦悶に歪んでいた。

 やっとのことで月神の妨害を振り切り、手筈どおりに進め風獄陣を張って、すべてがうまくいっていたのに。

 ビオナートはまさかここで、聖冠の儀ではなくこの場で「デュドネ写本」を使ってきた。

 それは確かにあり得ることかもしれない。やつにとっては、サロモンとルフレイドが揃うこの場はふたりまとめて亡き者にする、最高の絶好機だったろう。

 やつにとっては聖冠の儀で正式に総神官長に就任する、そのことにつぐ重大事であった筈だ。

「ルフレイド!」

 サロモンが声をかけて瓦礫の中へ踞った。

 彼はルフレイドの遺体を発見したのか。

 くそっ……。

 俺はまたも失敗した。何がまずかった? 余力を残さず、後方の白磁宮のそのさらに奥まで、広域に風の結界を張れば良かったのか。

「おおっ」

 サロモンが叫ぶ。

「ルフレイドは生きているぞ!」

 なにっ!

 イシュルはサロモンの許へ走った。ルフレイドの派閥だった騎士団の騎士らと何事か話していたルフィッツオとロメオも駆け寄ってきた。

「待ちたまえ、君たち」

 サロモンは瓦礫の間に視線を落としたまま言った。

「イシュル君、まずこの右側の石材からどけてくれないか」

 イシュルは風の魔力を、倒れた石材の下に慎重に忍ばせて持ち上げ、宙に浮かべた。

 下の石材と挟まれ頭が潰れたルフレイドの従者らしき男の無惨な死体。彼の周りは赤黒い血に染まっている。その下側の石材の横、頭の潰れた従者に半ば隠れるようにして、ルフレイドが横向きに倒れていた。ルフレイドはほとんど埃も被ってなく、顔もからだもきれいで、どこにも怪我がないように見えた。

 だがふたりの足許の方は大小の砕けた石材や木材が幾重にも重なって、よくわからない。

 おそらく従者の男が倒れ込むルフレイドの上に身を投げ出し、上に落ちてきた石材との間に僅かな空間をつくったのだろう。

 イシュルは、ルフレイドを身を呈して守った男の背中を、半分ほど覆っていた細長い木の柱をどけ、風のアシストをつけて男を持ち上げ、ひっぱり出そうとした。

「うっ」

 男が動かない。やはり乱雑に積み重なった足許の瓦礫をどかす必要がある。

「……」

 サロモンが緊張するのが伝わってくる。

「ルフレイドは気絶しているだけだ。命に別状はないようだが……イシュル君、彼らの足許の瓦礫をどかしてくれたまえ」

「はい」

 背後に群がるミラやルフィッツオたち、彼らも固唾を呑んでイシュルとサロモンのやりとりを見守っている。

 イシュルは、ルフレイドと従者の足許に積み重なった瓦礫をひとつずつ宙に持ち上げ、どかしていった。

 最後に彼らの足許、膝下のあたりまで覆う、大きな石板が現れた。

「くっ」

 サロモンがくやしそうな声を出す。

 イシュルは唇をかみしめ、厳しい顔になってその石板を持ち上げた。やや離して投げ捨てる。二十長歩(スカル、十数m)ほど先にガシャッっと音がして埃が舞い上がった。

「ルフレイド!」

 サロモンが叫んでルフレイドに飛びつく。倒れたふたりの男、従者の方は両足が、ルフレイドは右足が膝下から潰れていた。彼の左足は曲げられ、やはり従者の両足がつくった隙間の故か、その足先に大きな怪我の痕は見えなかった。

 ルフレイドの右足はブーツが潰れ、底が剥がれてそこから夥しい出血があった。

 ブーツの中の足はどうなっているのか……。あまり考えたくないことだ。

 イシュルはそこでルフレイドの横に座り、膝を彼の右足の太腿の下に入れて持ち上げた。とりあえず出血している箇所を心臓より上に持ってこなければならない。

「ううっ」

 ルフレイドが右足を動かされ意識のないまま呻き声を上げた。

「ルフレイド!」

 サロモンがルフレイドに顔を寄せ叫ぶ。

 ルフレイドは僅かに頭を動かしたが、まだ目を覚まさない。

「これは駄目だな。右足は膝下から切断しなければ」

 サロモンはイシュルの方を見て声を落とし、囁くように言った。

 彼の顔から汗がしたたり落ちている。

「セリオ、ベリン、大聖堂に行ってデシオさまを連れてきて。急いで!」

 後ろの方でミラの声がする。

 セリオとベリンは「はい」と返事をすると、ふたりそろって宙に浮き軽快に西の空へ、大聖堂の方へ飛んでいった。

 かなりの出血だ。このままではまずいかもしれない。俺に何か、できることはないのか。

「はっ」

 イシュルは自らしている首飾りの石を握りしめた。ウルトゥーロから渡された、太陽神の、光系統の魔法具。

 どうする? 呪文がわからないが。

 ……とにかく何んでもいいから、やってみよう。

 イシュルは左手で虹色石を握り右手をルフレイドの右足にかざした。

 目を瞑り、主神ヘレスの姿を思い浮かべる。

 あの女神に最初にあった時、エリスタールの貧民窟の神殿で、彼女は俺に声をかけてきた……。

 あの時の少し悪戯な、面白がっているような笑顔。

 あの笑顔を信じよう……。

「豊穣の神ヘレスよ。我(わ)に汝(な)が癒しの力を与えよ。生命を司る汝(な)が力を与えよ」

 イシュルは深くは考えず、ただ自分の思うままに呪文を唱えた。ルフレイドを見やる。

「この者を助けよ」

 急に胸が熱くなり、何かがせり上がってくる。右手に魔力が通っていく。

 熱い魔力が輝きルフレイドの右足を照らした。

「イシュル君、それは……」

 横からサロモン。後ろの方からもどよめきが起こる。

 ……手応えはある。

 やがてルフレイドの潰れ、破れたブーツから滲み出ていた血が乾いていった。

 もうこの男の右足は駄目だろう。いくらなんでもそこまでは治せない。だが出血は止まり、これで彼の命は救われた。

「うっ……」

 ルフレイドが上半身をぴくりとさせて、静かに目を開いた。

「ルフレイド!」

 サロモンが叫ぶ。

「兄上……」

「ああ、ルフレイド! もう大丈夫だ。大丈夫だぞ」

 サロモンの声が震えている。

「……」

 ルフレイドは微かに頷き、笑みを浮かべた。

 良かった……。

 イシュルは横目にふたりの様子を見ていた。

 そこへ朝日が射し込んでくる。

 陽の光がふたりを照らしだした。

「くっ」 

 イシュルはふいに涙を流した。玉のような涙がとめどもなく頬をすべり落ちていく。

 ルセル、やったよ。俺は。

 エミリア。今度は俺は、なんとか人ひとりの命を救うことができたよ……。

 その時、イシュルの肩が少し乱暴に押された。

「何を泣いてるんだ、イシュル」

 サロモンだった。彼の眸も潤んでいる。

「ふふ」

 ルフレイドが声に出して笑った。弱々しく小さな声だった。

「ありがとう、……ベルシュ殿」

「……」

 サロモンが愛おしそうにルフレイドを見やり、たまらず涙を溢れさせた。

「ははっ。泣くなよ、イシュル」

 恥ずかしそうに、自らの涙をごまかすように言ってくる青年。

 彼もイシュルに笑顔を見せてきた。

「ふふ」

 イシュルもたまらず笑顔になった。泣きながら笑った。


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