聖都の昼と夜 5



 ミラの意味ありげな眸。

 それは数日後、サロモン主催でディエラード公爵邸において晩餐会が催された時に明らかになった。

 サロモンは国王退位、ルフレイドの国王代理指名に対し、自派の引き締めを計ったものか、滞在先のディエラード公爵家で大々的な晩餐会を開いた。

 この情勢で意外だったのは、その夜会に各貴族家のご婦人方も招かれたことだった。

 国王派はこれを絶好機ととらえ、同時刻にディエラード公爵邸に対し大規模な破壊工作をしかけてくることも考えられたが、サロモンはそのようなことはまったく意に介せず、聖都やその近郊在住の貴族の女性たちも積極的に宴に招待した。

 公爵邸の守りはクラウがいれば心配無用であろうし、確かに彼女たちを晩餐会に参席させる政治上の効果は計り知れないものがあった。それにまさか、婦人同伴で都(みやこ)の街中を往来する貴族を襲う者など、たとえ敵対派閥でもそうは出てこない。もしそれで女性側に死傷者が出れば、襲撃側の被る汚名ははかり知れないものがあった。もちろん、その女性が高名な剣士や魔導師だったら話はまったく変わってくるが。

 サロモン主催の晩餐会は表向き、本人に王宮に帰還するよう勧めてきた父との和解に、弟王子ルフレイドの国王代理就任と、聖王家に訪れた一時の小康状態を喜び祝うものであったろうが、その内実は自派の引き締めと、いよいよ国政が大きく動きつつある時期に至り、自らの、そして派閥の力を誇示するのがねらいであったろう。

 晩餐会はふだんサロモンが使っている公爵邸西側の晩餐室から東側の小薔薇の間まで、それに中庭の一部を使って行われた。サロモンは宴の冒頭から聖都を彩る貴婦人たちに囲まれ、まさしく色とりどりなたくさんの花々にかしずかれた美の王、そのものに見えた。

 それもしばらくすると、いつの間にか彼の周りには今度はひとくせもふたくせもありげな、野望に色づき煌めく男たちが群れをなし集(つど)っていた。

 イシュルはミラに付き添われ、サロモンから流れてきた一部の婦人たちに囲まれ、しばらくの間彼女たちのいい見せ物に、おもちゃにされていたが、途中、サロモンに呼ばれ彼の周りに集う男たちの輪に加わった。

 所々篝火が焚かれた中庭の方からは、リュートに似た弦楽器、同じくハープをひとまわり小型にしたもの、それに数種の木管楽器、縦笛を主とした奏者たちの奏でる軽やかな、どこか懐かしい音楽が流れてくる。

 揺らめく炎と夜闇の間を渡ってくるその調べは、イシュルには古いヨーロッパに、インドや中東あたりの同時期の音楽が少し混ざったような、少し不思議な叙情を湧き立たせた。

「イシュル君。きみに紹介しよう。こちらがサンデリーニ公爵だ」

 サロモンはその旋律に合わせるようにグラスを持った片手を振り、ひとりの男を指し示した。

 隣に立つルフィッツオが満面の笑みを浮かべている。

「はじめまして。ベルシュ殿」

 サロモンを囲む男たちの中から、浅黒い肌に銀髪をきれいに後ろになでつけた大柄な紳士がひとり、進み出た。

「わたくしがアッジョ・サンデリーニです。以後お見知りおきを」

 弦楽器の音が跳ねる。

 壮年の紳士の、上品な洗練された微笑み。

 男は慇懃を極めた様子で、「今宵は神々に愛でられたイヴェダの剣、ご本人にお会いできてとてもうれしい」と続けた。

「……こ、こちらこそ。公爵閣下」

 イシュルはいささかぎこちなく挨拶を返すと、呆然とサロモンを見やった。

「……」

 サロモンの目が笑っている。

 これは中立だったサンデリーニ公爵がサロモンに、彼の派閥についたということなのだ。

 先日ミラが言ってきた、ピルサとピューリをサンデリーニ公爵の養女にする、という話。そのこととも繋がっているのだろう。

 だがイシュルが戸惑ったのはそれらとはまた違うことだった。これは単に五公家の当主がサロモンの味方についた、それだけで済む話ではなかった。

 聖都の街を挟み、東側にある王城と向かい合うようにして西側の丘陵に聳え立つサンデリーニ城は、王城の周囲を固める支城の中でも最も有力な、重要な城である。

 もしビオナートに対し軍事行動を起こすなら、その一大拠点となり得るのがサンデリーニ城なのだ。周囲の丘も含めれば多くの兵力を収容でき、王城を除けば最も高所にある。サロモンが自軍をサンデリーニ城に集結させれば、聖都の市街を挟んでビオナートとサロモンが東西でにらみ合う、象徴的な対立の構図ができあがる。

 イシュルはサロモンの眸の奥に、尖鋭な、危険な色が微かに浮かび上がるのを見て取った。

 ……事態は加速している。

 イシュルは内心、かなり苦労して如才ない笑みを浮かべ、アッジョ・サンデリーニに片手に持つグラスを掲げてみせた。

 周りの人びとの喧騒。

 そこへ少し湿った夏の夜の風が、華やかだがどこか悲しげな旋律をイシュルの耳許に運んできた。


 それからしばらく経ったある日。

 イシュルがひとり大聖堂に赴き、デシオから借りていた聖堂教会神学校の幼年向け副読本と、「古代ウルク王国正史・付(覚書)」の二冊を返却し戻ってくると、彼の部屋にミラがカトカともうひとりの女を従え、待っていた。

 イシュルがミラから手配してもらった部屋は控えの間、晩餐室、居間、寝室の順に並んでいる。彼女らは控えの間でイシュルを待っていた。他にメイドのルシアとシャルカもいた。

「デシオさまは何と?」

 ミラはまずはじめに、イシュルにそう問いかけてきた。

「うん。『古代ウルク王国正史・付(覚書)』に記載されていた大蛇の化け物、“マレフィオア”を召喚する魔法陣が収められた書物、それがビオナートが大聖堂から持ち出した禁書で間違いない」

 「古代ウルク王国正史・付(覚書)」はミラにも目を通してもらってある。

「デシオさまはその禁書を『デュドネ写本』と呼んでいた」

 マレフィオアを召喚する魔法陣を、己の召喚した地の大精霊とともに開発したのが当時の地神の神殿の大神官、デュドネ・シャールである。

「そうですか……」

 ミラが難しそうな、いや不安そうな顔をしている。

「付書には、ウルクの地の神殿がマレフィオアとの戦闘で大損害を被ったとの伝聞もある、とも記されている。デシオさまはマレフィオアには魔封の結界も有効には働かなかったのではないか、とも言っていた」

「……」

 ミラが無言で頷く。彼女の周りにいる者たちも、ビオナートが大聖堂から盗みだした禁書のことは知っているだろう。みなイシュルとミラの会話に横から口を挟むようなことはせず、無言で聞き入っている。

「まぁ、ひとまわり小さい赤帝龍のようなものだろうな。赤帝龍のような魔力も図体も巨大なやつには魔封の結界などなんの意味もなさないだろう。それこそ聖都をまるごと飲み込むような大きさの魔法陣をつくれるのなら、話は変わってくるだろうが」

「……そうですわね」

 ミラの不安そうな顔が周りの者たちにも伝播していく。

「問題はビオナートがマレフィオアを主神の間で召喚したらどうなるか、だ。太陽神の座が起動しても、マレフィオアの力をどれだけ抑え込めるか未知数だし、太陽神の座にどんな被害がでるか、ビオナートはマレフィオアをどこまで御せるのか」

「でも、イシュルさまの魔法が使えるならば……」

 ミラが鋭い視線をイシュルに向けてくる。

「自信はある。マレフィオアを抑え込むことは可能だと思う」

 イシュルはミラの視線をしっかり受け止めて答えた。

 今なら赤帝龍とだって対等以上にやれる自信はある。

「……で、そちらの方は……」

 イシュルはミラに向かってもう一度しっかり頷いてみせると、彼女の横に立つ妙齢の美しい女性の方に顔を向けた。

 彼女は名は知らないが何度か顔を合わせている。

 焦げ茶の地味なローブを着た栗色のやや癖のある長い髪の女。いつもサロモンの影に付き従うようにして彼の側に侍る魔法使いの女だ。

「わたくし、マグダ・ペリーノと申しますの。殿下の従者をつとめさせていただいております」

 マグダ、と名乗った魔女は薄らと笑みを浮かべて言った。

 美貌ではあるが、妙に目立たない女だ。

「当アデール聖堂の神殿長が、急ですが今晩お会いできないかと。それにこちらの方が、サロモン殿下の名代として同行させてほしい、ということで」

 横からカトカが柔らかい口調で言ってきた。

「なるほど、わかりました」

 イシュルはカトカに頷くと、サロモンの従者に挨拶した。

「それではよろしく、マグダ・ペリーノ殿」




「……」

 イシュルは無表情に、僅かに怒りの混じった顔をその男に向けた。

「いゃあ、久しぶりじゃの。イシュル殿。……元気にしてたかの」

 “元気にしてたかの”、この最後のひと言に、イシュルはなぜか抑えきれない殺意をその男に抱いた。

「じ、爺さんも元気そうじゃないか。相変わらず……クソ!」

 イシュルが言った最後の言葉は幸い、外まで漏れ出ることはなかった。だが言わずにおれなかった。

 いつものアデール聖堂の詰め所、そこには神殿長のシビルの他に先客がひとりいた。

 くたびれた平神官の服装に短く刈り込んだ白髪、日に焼けた顔に無精髭。にやけたしまりのない、人を喰ったような顔つきの老齢の小男。

 それは紫尖晶聖堂の地下室で時々顔を合わす、あの男の別のもうひとりの姿だ。

 イシュルはとうとう、はっきりと苦虫を噛み潰したような顔になって、吐き捨てるように言った。

「で、今日はなんであんたがここにいるんだ? クート」

 

 その夜。イシュルにミラ、サロモンの名代のマグダ・ペリーノ、それに今回はじめてシャルカが加わり、一行は徒歩でアデール聖堂に向かった。

 まだ街中を行き来する人びとの多い時分だったが、イシュルたちをつけてくる者はいなかった。もちろん、襲ってくる者もいなかった。

 イシュルはすぐに一行の周りを漂う不可思議な魔力に気づいた。

「ペリーノ殿」

 イシュルはサロモンの従者だという魔法使いの女を見て言った。

「あんたか。これは迷いの魔法……」

 以前、早朝にサロモンに呼び出された時、マグダは彼の背後の壁際に立っていた。最初は彼女の存在に気づかなかった。注意が向かなかった。

「ええ。近いものですわ」

 マグダは薄っらと笑みをつくってイシュルに答えた。

「陽の当たる明るい場所、広い範囲ではあまり効力は発揮できませんが、この魔法、“目つぶしの魔法”を使えるが故に、わたくしはサロモンさまの側にお仕えしているのです」

「なるほど……。でもそんな大事なこと、俺に話しても?」

「どのみち、あなたのような強力な魔法を使い、精霊を召喚できる方には通用しませんから」

 イシュルがミラの顔に目をやると、彼女も微かな笑みを浮かべて小さく頷いた。

「彼女のことは、わたしたちの間ではよく知られておりますわ」

「そうなのか」

 さすがはサロモン。一国の王子はこういう手駒も持っているのか。

 自らの周りの一定数の者たちの存在をあやふやにする。おそらく揺動の魔法の効果も併せもっているのだろう。要人の護衛には重宝する魔法だ。

 ただ彼女の言うとおり、この魔法も絶対なものではない。サロモンが聖堂第三騎士団との仲裁に公爵邸に訪れた時は、明らかに彼女の魔法は効いていなかった。確かに日中の広い場所、多くの人間が集まり、激しく動きまわるような場合は効力を発揮できないのかもしれない。

 “目つぶしの魔法”……。それはさしずめ“動く迷いの魔法”、とでも言ったところか。

「……イシュルさま。どうかわたくしのこともマグダ、とお呼びください」

 マグダはイシュルにそう声をかけると、ミラに向かって「イシュルさまは本当に可愛らしい方……」などと話している。

「ふむ」

 アデール聖堂の門前に到着すると、いつものごとく水の精霊、アデリアーヌが姿を現したが、今回はシャルカがいるせいか、彼女はめずらしくイシュルに声をかけるより先に、周りにいる女たちの方をじっと観察した。

「むう……」

 シャルカは空中に浮かぶアデリアーヌをじっと無言で見つめて、小さく唸り声を上げている。

 彼女ら精霊の間には何かの確執が存在するのか、ふたりは一瞬、目に見えない火花を散らしたかのようなにらみ合いをすると、すぐに互いにぷいっと顔を明後日の方に逸らした。

「イシュルはそうやっていつも、人間の女の魔法使いを側に侍らせておるな」

 アデリアーヌがすぐに機嫌を直し、イシュルを見下ろしてくる。

「はっ?」

 な、何を言ってるんだ!

「うむ。そなたはまさしく人間で言えば大英雄。その意気や良し、だ。わたしは気にしたりしないぞ。男子たる者かくあるべし、だ」

 驚愕に、いや何かに怖れ顔を青くしているイシュルをよそに、アデリアーヌはいつものごとく両手を腰に当て胸を張ると、うんうんと何度も頷いた。

「まぁ、おほほほ」

 ミラが口に手をやり笑っている。

 ……多分、あれは大丈夫だ。そもそもマグダはサロモンの情人だろうし、シャルカはもの凄く生真面目で、男女のそんな事柄には興味がなさそうだし。

 ミラを横目に見て、今後の展開を見極めようとするイシュル。

「ふふふ」

 イシュルの背後でマグダが、大人な女の落着いた笑い声をあげた。


「王城の地下通路の調査は、クートさんにお願いしたのよ」

 一行が詰め所に入り、先着していたクートも交え初見の者どうしの紹介が終わり、ついでにイシュルとクートの不毛なやりとりが終わると、シビルが一座の者を見渡して言った。

「……」

 イシュルが無言でクートに鋭い視線を向けると、クートが待ってましたとばかりに、背中の方からどう隠し持っていたのか、黒く塗られた仮面をひとつ取り出した。

「!! それは」

「まぁ……」

 イシュルは半ば腰を浮かして呆然とその仮面を見た。ミラが小さな悲鳴のような声をあげる。

「爺さん、あんたそれ」

「ひひひっ。そうじゃ。これは黒尖晶のやつらが使っていた精霊神の隠れ身の魔法具じゃ」

 クートは得意満面の笑顔になって答える。

「な、なぜ……」

「貴公、お忘れかの? あの夜の次の日、人夫らを鉱山集落の広場に集めて荷物の検分を行ったろうが」

「あっ」

 イシュルは両目を見開いてぽかーんと口を開けた。

 そういえばあの時、ピルサたち双子が黒い仮面をひとつ、荷の中から見つけ出したのだった。

 あの後、俺は嫌な気分になって、早々にあの場から背を向け離れて行ったのだ。

「あの時の……」

 しまった、か? 俺もダメダメだな……。

「そうじゃ。わしらも多くの仲間を失い痛手を被ったからの。これくらいの戦利品はもらわんとな。やってられんわい」

 クートがほんの一瞬だけ、紫尖晶の長(おさ)フレードの表情を見せて言った。

「これを使って王城の地下通路を調べたわけじゃ。このわしがな」

 クートは老いたとは言え、一応は土の魔法使いだ。それに黒尖晶のみが持つ精霊神の隠れ身の仮面を使えば、今の王宮にクートの探索に気づき、妨害できるような者はそう多くはいないだろう。今の黒尖晶は実質、壊滅状態にある筈である。

「爺さん……」

「これは渡せんぞ。我が紫尖晶の大事な財産じゃ」

「イシュルさま」

 ミラが小さな声でイシュルの腕に触れてくる。ここは抑えてください、といった感じだ。

 それを使えば内務卿の監視もより安全に、確実にできるんじゃないか?

 イシュルはそう思ったが、すぐにその考えを改めた。相手が魔封や迷いの結界を使っているのなら、たとえ精霊神の魔法具を使おうと、どのみちたいした効果は期待できない。

「貴公が精霊神の魔法具を嫌っていることはわかる。黒が襲ってきたあの夜に貴公が言ったことはよく憶えておる。心配は無用じゃ、これは注意して使うようにする」

 クートはそう言うと、同席しているマグダに向かって小声で言った。

「我らはこれからもサロモンさまのためにしっかり働かせてもらう。この件はご内密にな」

「わかりましたわ。ご老人」

「……」

 すんなり頷くマグダを横目に、イシュルは何とも言えない表情になって小さくため息をついた。

 そんなんでいいのか? まぁ、紫尖晶がサロモンにも力を貸した、となれば、その仮面は報賞としてそのまま紫尖晶聖堂の所有として認められるのだろうが。

 それにそもそも、なんでこいつはその仮面を見せてきたんだ。しかもまるで子供が自慢するみたいに……。

「もうおふたりの話は済んだかしら」 

 シビルが微妙な感じの笑みを向けてくる。

 当然、彼女はクートが誰か知っているだろうし、どうして彼が黒尖晶の魔法具を所有することになったか、そのことも聞き及んでいるだろう。

「ああ、かまいませんぞ。神殿長殿。どうぞ、話を先に進めてくだされ」

 クートが機嫌よく答える。イシュルはむすっと、無言で頷いた。

「ではこれを見て」

 シビルは机の上に端に寄せていた巻紙を取り、皆の前に広げてみせた。

 シビルの広げた巻紙には王城の見取り図が描かれてあった。古風な鳥瞰図である。その絵図の上には真新しい黒インクで王宮や後宮、城塔などを結ぶ太線が幾重にも描き加えられている。

 一同は身を乗り出してその絵図面を見入った。

「……」

 みな無言で、声を発しない。

 ……この絵図面では概略はわかるが、やはり正確性に乏しい。

 ミラとマグダからは控え目ながら感嘆している様子が、クートからは自慢げな感じが伝わってくるが、イシュルにはこれではまずい、といった危機感の方が強く感じられた。

 別に測量関係に詳しいわけではないが、土木関係の職人が関与しているわけもなく、この絵図面では概略しかわからない。それくらいはイシュルにもわかった。

 一度王城の上空にあがって、絵図面と実際の位置関係をすり合わせする必要がある。そして当日はまず、風の魔力を地下通路に行き渡らせてから……って感じになるか。

「この線が白路宮から伸びている地下通路ですわね?」

 イシュルが絵図面を見ながら考えていると、横からマグダの声がした。

 絵図面に描かれた白路宮から伸びている地下通路は一本のみ、王宮に接続している。他にもあるかもしれないが、明らかになっているのはそれだけだ。

 サロモンの名代として同席しているマグダが気にしているのは、この地下通路であろう。

「殿下はこの地下通路を知ってるんですかね?」

「ええ」

 イシュルの質問に、マグダは何の警戒も逡巡も見せずあっさり頷いてみせた。

「ルフレイド殿下のためです。この通路が王宮と繋がっている以上、問答無用で確実に破壊しますがよろしいですか?」

 ちらっとシビルの顔を見る。彼女は無言で小さく頷いた。

「もちろんですわ」

 と、マグダ。

 ここら辺の話はもう、シビルとサロモンの間で済ませてあるらしい。

「じゃあ、この絵図面はイシュルさんにお渡しします。それと……、これもね」

 シビルは続いて机の上に他に並べてあった、小さな巻紙をイシュルとミラ、そしてクートに手渡した。

「今晩から数えて三日目の朝に開封して。その日か翌日には決行日が浮き出るようになってるわ。アデリアーヌに魔法陣を描いてもらったの」

「密封命令、ですか」

 イシュルはニヤリとした。

 ちょっと大げさだが、そんなもったいぶった古典的なところがいい。

「みっぷうめいれい……」

 横で呆然と呟いているのはミラだ。

「……そうね」

 シビルは苦笑して頷くと、アデリアーヌの魔法陣について詳しく説明してくれた。彼女はアデリアーヌに頼んで、だいたいの時間を指定して特定の数字が紙面から浮き出る、水の魔法を紙面に描いてもらったのだという。

 確か魔法陣というのは、それなりに高位の精霊でなければ描けない筈である。アデリアーヌは彼女の持つ力に相応しい、なかなか手のこんだ同じ魔法陣を三つ、描いてみせたわけだ。

「まぁ、だからわざわざ密封する必要はないんだけど」

 シビルはそう言って少しはにかんだ笑顔を見せた。

 だがそんなことはない。手にしたところ、現状では巻紙からほとんど魔力は感じられない。開封しなければ中に魔法陣が描かれているか他者にはわからないわけだし、まったく意味がない、というわけでもない。

「で、だ。なんであんたも密封命令書を受け取る必要があるんだ?」

 イシュルは意地の悪い視線をクートに向けて言った。

 この老人の正体を知るだけに、目の前のへらへらした感じがどうにも鼻につく。

「わしは貴公らの目付じゃ。それにこの図面を仕上げたのは他ならぬわしじゃからな」

 クートがこれでもかと胸を張って答える。

「ね、イシュルさんも、当日はクートさんを連れていってあげて?」

 きっとあなたの役にも立ってくれるわ、とシビルが大人の笑顔でとりなしてくる。

 シビルとの先日の打ち合わせで、当日はイシュルにミラとシャルカの三人だけで破壊工作——当然イシュルひとりのみが実行し、ミラたちはイシュルの見届け人のような立場だ——することが決まっていた。

 ちっ……。この詐欺師が。どうせ尖晶聖堂が使う地下通路を壊されたくないんだろう。当日は何か、難癖をつけてくるんじゃないか?

「仕方がないですね」

 イシュルは不承不承、シビルに頷いて見せた。

 ミラとマグダが、少し引きつりながらも笑顔になる。

「ふふ、では当日はよろしくな。イシュル殿」

 完全にわざとだろう。クートは意趣返しとばかりに意地悪げに顎を突き出し、ニヤつきながらイシュルに言ってきた。




 外は雨が降っている。

「まぁ、イシュルさま……」

 ミラはそこまで言って口をつぐんだ。

 レニがにこにこしながらも、何度もはっきりと首を横に振ったからだ。

「だめだなぁ、イシュルは。風の魔法なんだよ?」

「うーん……」

 イシュルは小さく唸ると、目の前に降ろした風の魔力の小さな塊を異界へ、風の精霊界と思われる場所へ戻していく。

 その日は昼頃までは晴れていたが、イシュルがミラを連れてレニの許を訪れ、いつものごとくイシュルが風の魔道書を読みはじめ、ミラとレニが屋敷の庭に繰り出ししばらくすると、急に空に雨雲の影がさし小雨が降り始めた。

 ミラとレニはすぐに屋敷の中に戻ってきた。その時、イシュルはいよいよ魔道書の最後の方まで読み進めていた。

 レニはイシュルの読んでいる項を見やると、イシュルに質問してきた。

「イシュルはそれ、使えるんでしょ? この前、王宮で使ったって、耳にしたんだけど」

 イシュルが読んでいた魔道書の項、そこには風の大魔法、「イヴェダ神の風獄陣」のことが記されていた。

 まるで我がことのように得意になって、イシュルが使った風獄陣の説明をはじめたミラに、レニは「凄い、凄い」としきりに感心し、ミラにもそのまま同席を勧めてイシュルに風の魔力を目の前で降ろすように言ってきた。

 言われた通りに小さな風の魔力の塊を降ろしてみせたイシュルに、だがレニはあまりいい顔をしなかった。

「風は吹いてこそ風、なのに」

 レニは少し寂しげな笑顔をイシュルに向けると、そう言って首を横に振った。

「イシュルは凄いと思うよ。魔法の使い方が独特だ。誰も考えないようなことをやってくる。ミラの言うように天才だよね。だけど、風の魔法はそれだけ、じゃない」

「……」

 イシュルは無言でレニの顔を見つめた。

 自分に何が足りないか、だいたいの見当はつく。

 俺には前世の記憶がある。中途半端ではあるが、自然科学に関する知識がある。風とは基本空気の移動、大気の気温変化によって生じる気圧差によって起こるものだという常識がある。通常、風でものは切れない。鎌鼬(かまいたち)などは伝承の世界のことでしかない。だが強力な空気の圧縮、大きな気圧差は破壊力のある暴風を生み、一気に解放すれば爆発力を得る。

 だがこの世界における魔法は、この世界に生きる人びとの自然観、信仰する神々の成り立ち、行いによって決定づけられている。

 確かにそれを学ぶ必要性は感じていた。だからこうして風の魔法を学んでいる。だが、それだけではない自分自身の持つ僅かな科学知識、それが大きな差を生み出すのだと、これまでは考えていた。

 それは間違いではないだろうが、レニの云わんとしていることは違う。

 俺の魔法具は“風神の剣”なのだ。風はものを斬り、引き裂く。風は吹くものだ。彼女から見れば、空気の圧縮と同様に魔力も主に圧縮、移動して使おうとする俺のやり方は天才的に見えはしても、異端、あるいは邪道に見えるのではないか。

 クラウやナヤルは風の魔力を流れるように美しく、流麗に使う。その魔力の動きが、おそらく風の魔法を生み出す。

 この世界の、人間の魔法使いが使う風の魔法の先にあるもの。それを追わねばならない。

 イシュルはあらためてレニの眸を見つめた。

 彼女の眸に、少し顎を引いたイシュルの顔の白い像が浮かんだ。

「また天気のいい日においで。続きを教えてあげる」

 レニは静かに微笑んだ。

 

「イシュルさま!」

 夕方、公爵邸に帰るとすぐにミラがイシュルの部屋に飛び込んできた。

 彼女の手には先日シビル・ベークから渡された小さな巻紙が握られている。

 開封指定日は昨日。今日になって、アデリアーヌの描いた小さな魔法陣の中心の空白に、数字が浮き出てきたのだ。

 イシュルも居間の書棚に並ぶ書物の間から、開封済みの命令書を取り出した。その巻紙にも魔法陣の真ん中に文字が浮き出ていた。

 僅かに繊維の浮く生成りの紙面には、水が染みたような感じで“18”という数字が浮き出ていた。

 ミラと互いに巻紙を見せ合い数字を照合する。

 今日は夏の二月(八月)の十六日。決行は二日後だ。

 時間帯はなるべく夜間、天候によって自由に決めてよい、とシビルから聞いている。

 クートは当日昼頃から、公爵家騎士団に所属する某騎士を訪ねてきた縁者の神官、といった形で邸内にて待機することになっていた。

「決行は明後日でございますわね」

 ミラがつつ、とイシュルに寄って囁いてきた。

 何を考えているのか、彼女はうれしそうな顔をしている。

「ふふ」

 イシュルも少し可笑しくなって、笑いを声に出しながら頷いた。

 確かに久しぶりの荒事だ。王城の騒乱が、国王派の者たちの慌てふためく姿が今から目に浮かぶ。


 次の日の朝、イシュルはひとり王城に向かい、その上空、三里長(スカール、二千m弱)ほどの高さまで上昇した。

 眼下にはぶつ切りされた雲の塊が地を低く、早い速度で東に流れている。

 イシュルは地下通路の描かれた王城の絵図面を両手に広げ、視線を左右に振りながら下方を見下ろした。

 視界は雲が多く、必ずしも良好とは言えない。それにこの高度でも王城で見張りにつく魔導師に見つかるかもしれない。だがそれも仕方がない。どうしても陽のある日中に、絵図面に描かれた地下通路と、実際の位置関係を実地に照らし合わせておかなければならない。

 自分の着ているシャツが風にはためき、ぱたぱたとせわしなく音が鳴る。空気は湿り気をおび、午後には雨が降り出すかもしれない。

 イシュルはしばらくの間、絵図面と眼下の雲間に垣間見える王城を仔細に見比べ、絵図に描かれた地下通路の位置を頭に叩き込んだ。

 すると間もなく、真下に流れる雲の底から魔力が小さく、鋭く煌めくのが見えた。

 煌めきはふたつ。半透明に輝く精霊が上昇してくる。

 やはり見つかったか。

 今回の破壊工作はフレードに話を持ちかけ、シビルはサロモンにずいぶん早くから話を通していたようだ。工作実施時に敵方から相応の反応があれば、どこから情報が漏洩しているのか、探ることもできるか、と考えたが、これでそのこともご破算になってしまった。

 イシュルは王城の直上から公爵邸とは一応別の方向、真北の方へゆっくり移動しはじめた。

 何もせず、さっさと逃げてしまっても良かったのだが……。

 イシュルは自身に向かってくる二体の精霊を見つめた。

 先日のレニの言ったことが思い出される。

 吹く風のように魔力を使うこと……。

 イシュルは上空に静止し、精霊たちが攻撃態勢に入るのを待った。

 両方とも人型。片方、右側下手から上がってくるのは風の精霊だ。魔力の感じですぐわかる。もう片方の、少し距離をおき左側から回り込むように上昇してくるやつはまだ、どんな精霊かわからない。

 多分風は女、もう片方は男。

 その男の精霊がさっとオレンジ色に輝くと直上の雲の中へ一瞬気配を消した。

 火か。

 下の風の精霊も横風の中、溶けるように気配を消していく。

 男の精霊の消えた雲中に突然、横一線に炎が赤く煌めく。イシュルとほぼ同じ高度だ。

 横一文字の炎はさっと上下に広がると炎の壁となった。同時に壁の中から五つの火球が飛び出す。

 火球は流れるような曲線を描いてイシュルに向かってくる。

 そうだ。流れるように……、風の魔力こそ。

 見本となるのものはある。クラウやナヤルがやって見せた、風の魔力の大きな、小さなうねり。

 イシュルは風の魔力を異界から引っぱり出すと、火球に向かって振り回すようにして薙いだ。空中をイシュルに向かって突進する火球がぱっぱっ、と次々と消滅していく。

 もっと早く!

 イシュルは自身の呼び起こした風の魔力をそのまま、まさしく風を吹かすようにして加速し後方の火壁にぶち当てた。

 !!

 はっとするような、未知の感覚。

 火の精霊が張った火の壁はずたずたに引き裂かれ、遥か後方に吹き飛んだ。雷が落ちたような轟音とともに雲の真ん中に大きな穴が空いた。壁の後ろにいたであろう火の精霊も、影も形も見えない。

 そして次は下っ、と思う間もなく、宙に浮くイシュルの回りを風の魔力の壁が覆った。足下に風の精霊の気配が現れる。

 風の魔力の壁は球状になってイシュルの全周を覆っている。その壁が内側に向かって解放される瞬間、イシュルはその風の魔力を、ぐるりと巻き上げそのまま風の精霊に叩きつけた。半ば暴風と化した風の魔力に精霊の姿が溶けていく。

 轟音の消えゆく大空にシシシッと、擦過音のような音が遠くいつまでも鳴り響いた。

 さすがは宮廷魔導師の精霊。なかなかの強さだった……。

 イシュルは視線を下にやり王城の方を一瞥すると、北側にかるく迂回して公爵邸の方へ向かった。

 雲間に隠れ、少しずつ高度を降ろしていく。

 雲が途切れ、眼下に聖都の街並が迫ってくると、イシュルはふと後ろを振り向いた。

 さきほど、火の精霊を吹き飛ばした時。自分なりに風の魔力を吹かそうとした時。何か、新しい力が風の魔力に纏わりつくようにして生まれ出るのを感じた。

 風の魔力を“吹かす”こと。

 それがあれ、なのだろうか。

 低空に降りてくると風も止んでいた。

 空も雲も青く灰色に染まり、東に遠く連らなる山並みの影がただぼんやりと、薄く霞んで見えるだけだった。

 

 空中に浮かぶ、すっと背筋を伸ばしたシャルカとその肩に乗る少女の影。

 上弦に至る月光が風になびく少女の巻き髪を煌めかしている。

 美しい姿だ。

 今日は王城の地下通路に穴を穿ち破壊する日だ。

「だ、だいじょうぶかの」

 それに比べて俺はどうだ。

 後ろからクートの情けない声がする。

「わしはこれでも高いところが苦手での」

 これでも、って何だよ。

 イシュルは何もない夜空に向かってむすっと不機嫌な顔を向けた。

 イシュルたちは今、王城の北側、二里長(スカール、約千三百m)ほどの空中にいる。

 イシュルの背にはクートがしっかり、おぶさっていた。風の魔力を効かすし、肩をかるく掴むくらいでいい、と何度も言っているのに本人が恐がって、イシュルから離れようとしないのだ。

 おまえは子泣き爺か。

「イシュルさま、そろそろ」

 イシュルがひとり腐っていると、ミラが声をかけてきた。

 いたって真面目な声だ。

「……わかった」

 イシュルはミラの声に心を入れ替え、眼下の王城を見渡した。

 そして夜空を見上げる。

 空から無数の、白く光る魔力の線が地上に降り注いだ。大聖堂に大神官が集まった時、聖パタンデール館の周囲に突き刺した探査用の風の魔力。その時と同じ、細く研ぎすまされた魔力が地下通路の線上に突き立てられた。

 風の魔力は地中を下へ突き進み、それらしい空間に達すると、前後左右に枝分かれし拡散していった。

「きれい……」

 ミラが小さく感嘆の声を上げる。後ろのクートも静かになった。

 イシュルは視線を王城に降ろしたまま、無言でいる。

 地中を四方八方に伸びていく魔力の感知。

「そろそろいく」

 イシュルは掌握した地下通路に向かって風の魔力の塊を突き落とした。

 夜空に強烈な魔力の壁が幾重にも出現し、地面を穿った。

 ドーン、と低くくぐもった音が辺りに響いた。

 直後にイシュルたちが後方に飛びすさる。

 わずかに遅れて衝撃波が追いかけてきた。

 王城が揺れ、王宮のどこか、窓の割れる高い音が響いた。辺りは黒々した土煙に覆われた。

 故意になのか、それともまったくの寝耳に水、だったのか。城の方からは何の反応もない。

「これは凄い……」

 後ろで呟くクートの声がする。

「ほほほ、これでは水や風の魔導師も大変そうですわ」

 ミラが楽しそうに言う。

「王城の宮殿はみな土埃を被って汚れてしまいます」

「そうだな」

 イシュルはひとつ頷くと言った。

「じゃあ、帰ろうか。爺さん、落ちるなよ」

 イシュルはわざと肩をゆすった。

「おっ、おい」

 クートの焦る声。

 イシュルはにやりと笑みを浮かべると、巨大な、山のような土煙にすっぽりと覆われた王城に背を向け、夜空を悠々と公爵邸に帰っていった。

 これから先、次期総神官長の入札があり、ルフレイドを救出、クレンベルに行き、カルノに会う。

 デシオやサロモン、シビルらと何度も会合を重ねることになる。

 そして、レニからまだまだ学ばねばならない。誰も使わない風の魔法を、彼女が誰であろうと。

 少なくとも、レニは俺の敵でないのだ……。

 イシュルは夜空の底に広がる聖都の街の灯に、その向こうの地平に視線を彷徨わせた。

 

 

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