聖都の昼と夜 4
おまえは誰だ。
おまえは何なんだ。
「レニ……」
イシュルは彼女にも聞こえないような小さな声で呟いた。
怖れはない。
もう大丈夫だ。
おまえは……。
だが、イシュルは聞けなかった。
「……」
彼女の手から伝わる温もり。
なんでそんな顔をするんだ。
問うことも、何も、口にすることができなかった。
彼女の微笑みを見てしまったから。
それはもう、俺には喪われたものだった筈だ。
母の笑顔。父の笑顔。ルセルの喜びにあふれる笑顔。ファーロの笑みを浮かべゆっくりと頷く顔……。
それは知人でも友人でも、恋う人のものでもない、まるで肉親の、かつて故郷で見てきた笑顔だった。
イシュルはただ無言で、力なくレニの顔を見つめるしかなかった。
「今日はもう帰るよ。レニ」
イシュルはそう言葉少なげに言うと、身を翻し屋敷の庭先からそのまま立ち去った。
「イシュル!」
その時、イシュルが背を向け歩きはじめると、後ろからレニが声をかけてきた。
「またね! イシュル」
元気いっぱいの明るい声。振り返ると、レニは同じ笑顔のままだ。
彼女はまた意外な、はぐらかすようなことを言ってきた。
「イシュルなら何でもないことなんだ。すべては“風の吹くままに、風の吹く彼方にこそ真(まこと)あり”、だよ」
「相変わらず内務卿は尻尾を出さない」
フレード・オーヘンは背筋を伸ばし胸の前で両腕を組み、難しい顔をしている。
「どこでいつ、陛下と入れ替わっているかもわからん。どうもおふたりの連絡は、お付きの者や護衛の魔導師の契約精霊を介して行われているようだ。方々が入れ替わる場合は、魔封陣や迷いの魔法を効かせた、特別な場所で行われているようだ」
フレードが鋭い視線でイシュルを睨みつけてくる。
地下室の壁に駆けられたカンテラの灯りが、老人の表情に凄みを加えている。
「ほかに怪しいのは後宮だな。内務卿以外の者と陛下のやり取りは後宮に務める女官、使用人を通じて行われているようだ」
後宮の使用人とは王城に務めるメイドたちのことだ。
後宮の女官やメイドたちの一部は当然、外の王宮の役人や街の商人らとも交渉を持つ。
「当然、あんたの手下の者も後宮に入り込んでいるんだろ?」
イシュルは低い声で、やや疲れた顔で言った。
「それはそうだが……。場所が場所だからな。あそこは女の園。女どもの権力と情念が渦巻く伏魔殿だ。情報収集が主要なお役目で、込み入った監視や工作は我々の力では無理だ。人がたりん。女子(おなご)は特にな」
「……」
イシュルはやや肩を落とし無言で頷いた。
女の園。伏魔殿。それだけでもう充分だった。それがどれほど恐ろしいものか、イシュルにだっておおよその見当はつく。
「実は内務卿とその関係する筋とは別に、王宮の下役人でひとり怪しい者がおっての。その者が会っていた神官や商人、ギルドの事務方らを追ってみたら見事に罠にはまり、二名ほど殺られてしまった。国王派の罠だったのだ。相手は常に陽動し、罠も張っておる。陛下のお側まで近づくのは至難の業じゃな。せめて時間がもう少しあればの。こういう仕事は本来数年はかけてじっくり取り組むものだ」
「ああ」
イシュルはため息をつくとフレードから視線をはずし、顔を俯かせた。
今、王宮に出仕している貴族や役人どもの多くは国王派か、それに近い者たちだ。後宮は元から国王ひとりの支配するところである、と言えなくもない。王宮や後宮、そこに出入りする街の者たちも含めればいったいどれだけの人数になるのか。それは相手も陽動、囮、罠もかけ放題、何でもできるだろう。
やはりビオナートの所在を突き止めるのは不可能だと考えるべきだ。
「まぁ、こちらがやつの行方を追っている、と圧力をかけるのは必要なことだ。すまないがそのことは続けてくれ」
「うむ。わかっておる」
イシュルが顔を上げるとフレードはむっつりした顔で答えた。
「それで今、シビルさんの発案でやつらにちょっと仕掛けようと企図していることがある」
イシュルはフレードに、王城に張り巡らされた地下通路で把握できたものすべてを崩落、あるいは寸断し、一ヶ月ほどの間、宮廷魔導師や騎士団兵の一部を修復作業に拘束する破壊工作の件を話した。
「ほう……」
フレードは薄く笑みを浮かべた。
「修復期間が教会の入札時期に被るよう調節して行うつもりだ」
「それは」
フレードの顔に笑みが消え、緊張の色が表れる。
「俺たちもだが、サロモンがどうしてもルフレイドを助けたい、ということでね。……その時は多分、大立ち回りになると思う」
今度はイシュルが薄く笑みを浮かべて言った。
「ふむ。なるほど」
「あんたも王城の破壊工作には力を貸してくれ。シビルさんとの連絡もまかせるよ。……もちろん、詳細が決まり次第、俺の方からも知らせるようにする」
「わかった。面白そうじゃな」
フレードの顔にまた皮肉な笑みが広がった。
「だが、地下通路の大部は多くの者の知る非常時の連絡路ではない。貴公の言う、“修復”というのは少し言葉遣いが間違っておるかな? 知る者の少ない本物の“秘密の地下通路”は、貴公に潰された時点でそのまま埋め戻されるだけだろう。“本物”の方はごく少数の者たちで、時間をかけて新たな道筋で造られることになる」
イシュルは無言で頷いた。そんなことはわかっている。どうせ秘匿性の高いものは、シビルが調べてもほとんど明らかにすることはできないだろう。
「シビルの発案はあまり意味がないと?」
「いや、そんなことはない。貴公も知っておると思うが、この地は王城から聖都の市街にかけて、所々固い岩で覆われておる。新たに地下通路を掘るにしても道筋は限られるし、工事も難航しよう。よって力のある土の魔導師を長期間拘束することができる」
「俺はただ地下道を崩落させるだけで済ませるつもりはない。周囲の地中、岩盤にも魔力を走らせ至る所に亀裂をつくり、部分的に崩落させるつもりでいる」
運が良ければだが、歴代の国王や魔導師長しか知らないような地下通路にも、何らかの損害を与えることができるだろう。
「ふふ。それは恐ろしい……」
フレードはその顔に影を忍ばせ引きつった笑みを浮かべた。
「だがそれもほどほどにな。やり過ぎて王宮や城塔が傾きでもしたら、目も当てられん」
「わかってるさ」
イシュルは特段、何らの感情も見せずに答えた。
それからフレードは尖晶聖堂の主に幹部が使う地下通路も幾つかあり、それらの破壊はやめて欲しいと言ってきた。
「その通路で白路宮と繋がっているものはあるか?」
イシュルの質問に対しフレードは「ない」とはっきり答えた。
「ルフレイドさまの件かな」
「……尖晶聖堂の地下通路を壊されたくないのなら、それはそれで場所、経路も知っておかないといけないな」
イシュルはフレードの質問をはぐらかし、少し意地の悪い顔をして言った。
「むっ」
フレードは一瞬身を固くすると、すぐに肩をすぼめため息をついた。
「ふふ」
イシュルは小さく声に出して笑い、僅かに顔を俯かせた。
フレードに話したことで、少しはためになることも聞けたのは良かったが……。
この破壊工作はこれで紫尖晶にも知らせた。実行する数日前にはサロモンにも知らせるし、いずれシビルを通じて大聖堂のデシオらにも伝わるだろう。
もし決行当日、敵方が妨害に出て来たら。相手に前もって漏れていたなら、誰が裏切ったか、ミスを犯したか、それを探ることもできるだろう。それに敵方に悟れられても、俺相手では妨害も何も意味はなさない。どうせやつらが一方的に損害を被るだけで終わるだけだ。
イシュルは関与する者を絞り、計画の漏洩を防ごうとは考えなかった。
いつまでも味方が味方でいるとは限らない。正義派の繋がりに敵方が楔を打ち込んでいるかもしれない。
今は正義派が国王派を圧している状況である。裏切る者はいないかもしれない。だがその状況が味方に油断を生み、相手につけ入る隙を与えることはあるかもしれない。
謀略は新たな謀略を生む、そういうものだろう。
イシュルはその笑みのまま顔を上げた。その先にはいつもの、ぎらつく視線を向けてくるフレードの顔があった。
イシュルはかつてビルドに送られたのと同じ、顔も名も知らぬ紫尖晶の男に連れられて木工職人の家を経由し、歓楽街の一画である北オービエ通りに出た。
イシュルはその男と別れると通りの端により、店の灯の届かない暗がりにしばしの間留まった。
イシュルはその日、レニの許から公爵邸に帰ってくるとミラと夕食をともにし、以前から約束していた紫尖晶の長(おさ)、フレード・オーヘンとの会談に向かった。
ミラはイシュルの顔色がすぐれない、としきりに心配してきたが、その原因をすべて話すのは憚われた。イシュルはレニに新しい魔法を教えてもらった、それで少し疲れたんだ、とミラに簡単に説明するにとどめた。
イシュルは暗がりに佇み、目の前を横切る人の群れを見つめた。
夜店の灯りを寸断する大小の影の連なり。
時が経つにつれそれはいつかのように流れ、移り変わるただの光と影の運動に、無機質な変化の繰り返しになった。
あれからイシュルは、微かな脅えを身の内に抱えていた。
レニ……。
きみはいったい誰なんだ。
“聖堂の天つ刃風”、風の大魔導師ベントゥラ・アレハンドロの孫か、縁者か。それはあんな途方もない知識、見識を持つ存在である、ということなのか。
彼女が最後にかけてきた言葉。
「風の吹くままに、風の吹く彼方にこそ真(まこと)あり」
それは以前、確かダナがベリンに向けて言った言葉だ。
きっと風の魔法使いなら、誰にでもわかるような格言なのだろう。ただ、今読み進めている彼女の魔導書からはまだ、その記述はでてこない。
レニは風の宮廷魔導師であるダナと同じことを言ってきた。
だがレニには不審がある。彼女は俺の風の魔法具、風神の宝具に関して相当な知識を持っている。それはとても人間の魔法使いでは知り得ないようなことではないか。
かつてナヤルルシュクは人間の姿になって俺に会いにくる、と言った。
レニはひょっとして、人間に化けた風の大精霊ではないだろうか。それならあんな、もう魔法とも呼べないような業(わざ)を俺に教えることもできるのではないか。
ならそれを俺に教える目的はなんだ? 何かの理由があるのか。俺が風の魔法具を持っているからか。まさか風の魔法具の所有者にはどこかの時点で教えることが、あらかじめ決まっているのだろうか。森の魔女、レーネも同じように教わっていた?
イヴェダが命じて大精霊が遣わされたのだろうか。
一瞬、レニの顔が、彼女の姿が目に浮かぶ。
「……」
イシュルは両目を見開き喉を鳴らした。
目前を運動する光と影、それが店の灯になり、道を行き交う酔客の姿に戻っていく。
レニはまさか、イヴェダ自身が化けているのだろうか。
夜の歓楽街の雑踏がイシュルを包み込む。
人いきれがイシュルの思考をかき乱す。
イシュルはそれに抗うように首を何度も横に振った。
いや、それはありえないんじゃないか。
今まで俺の前に姿を表した神らしきもの。それは月神レーリアと太陽神ヘレスだ。
レーリアは時に露骨に俺の成そうとすることに介入し、誘導してきた。対してヘレスは時に俺の命を助けた。いや俺を
ヘレスは何をしたいのか。俺を監視しているのか。いや、俺という存在を生かし、時にレーリアの描く筋書きにのせて、俺の反応や行動を観察しているのではないか。やはりあの神は俺の何かを探り、何かを知りたいのだろうか。
月神に俺の運命を狂わすようなことをさせ、主神はそれを
俺の前に何度か姿を現した彼女らに対し、他の神々はその姿をはっきりと現してはこない。俺が魔法具を持っているのに、風神イヴェダは一度として俺の前に姿を現したことはない。
昔、エリスタールに向かう街道筋で見かけた、地神ウーメオにそっくりの老人。あれは本当にウーメオ自身だったのか、まるで確信が持てない。あの老人は俺の存在を認識しているようには見えなかった。確かにあの場に老人はいたが、まるで何かの映像を再生して見せられているような違和感も同時に感じた。
レニは何者なのだろう。
彼女はイヴェダなのか、大精霊なのか。それともただの人間、風の大魔導師ベントゥラ・アレハンドロの縁者であるから俺にあんなことまで教えられるのか。
この心の底をわだかまる脅えはやはり、レニが人間ではないと、俺が本心ではそう考えているからなのか。
……それは多分違う。
俺は自分の風の魔法が、いよいよ神の領域に到達しようとしていることに、未知の世界に踏み出そうとしていることに脅えているのだ。
今まであの神の領域、異界を感じ「手」を伸ばすことはできても、そのすべてを感じ、最奥まで行きつくことはできなかった。
これから先はどうなるか、わからない。
自身のすべてをあの領域に浸してしまった時、俺は再び「人」として還ってこれるのだろうか。
やがて再び、己を巡る周りの事象は虚ろな存在になる。
イシュルはただ光と影の踊る空間に足を踏み入れた。
異界に囚われるとは、さしずめこんな感じだろうか。
イシュルの視点の定まらない、ぼんやりとした顔に微笑が浮かんだ。
そのまま人混みにまみれ、歓楽街を西に歩いていく。こうなればもう、きっと影働きの連中も、どんなプロでも俺を見失い、着いてこれないだろう。
ん?
イシュルはふと立ち止まり、右側に暗い口を開ける細い路地を見やった。
迷い……。
そっと夜闇に沈むようにして歩いていた己に、まったく別のあやふやな気が降りかかってくる。
微かな酩酊感とともに街の灯りが奥へ押しやられ、かわりに周囲の闇が浮き上がってくる。
迷いの魔法だ。
イシュルはその漂う魔法に誘われるように右に折れ、路地の奥へと入って行った。
左右にそそり立つ石積みの建物の黒い影、その先には小さな四つ辻、交差する裏道を時々ひとの影が横切る。人影はみな、前を向き何事もなくそのまま通り過ぎていく。
誰も気づかないのだ。そのすぐ奥に、暗がりに煌煌と光りさざめく奇妙な露店の存在に。
イシュルは四つ辻を過ぎ、その露店へと真っすぐ歩いて行った。背後にずっと感じていた街の喧騒がふいに途切れ、消え去る。
両脇を木柱で支え、綱を渡して広げられた小さな天幕の下には、小さな壷や布張りの小箱、手鏡や首飾り、巻紙などが雑然と置かれた木製の机、その奥にあの時の老婆が座っている。
鉤鼻に薄い唇、痩せこけた頬。それは変わらない。しかし大きな青い眸は両方ともしっかり、イシュルの顔を見ている。
「なるほど。あんたは確かあの婆さんの双子の姉、だったか」
「坊っちゃんのことは妹から聞いておったよ」
老婆は黒いローブを着ている。見かけは魔法使いそのものに見えた。
「ようこそ我が魔法具屋へ」
老婆はそれから「ひひひひ」と不気味に笑った。暗闇に潜み、迷いの結界とともに現れ出る怪しげな存在、そんな者はこのように笑うのだと誰もが思い描く、そんな笑いだった。
「どうじゃな? 何か欲しいものはなかろうか。坊っちゃんもそろそろ、いろいろと入り用じゃろう」
坊っちゃん、ねぇ……。
「いや、ないな。というよりこちらは金もないし、かわりに差し出せるものもない」
「そうかの?」
木柱に掛けられたランタンの灯のゆらめきが、老婆の皺に覆われた顔を黒く深く刻み、そのところを変える。
「坊っちゃんも以前より持ち物が増えたようじゃし」
だが、その歪んだ笑みは変わらない。
「どうかの? ここに疾き風の指輪がある」
そして老婆は懐から何でもない銀の指輪を取り出し、机の上に並ぶ小物類を横にどかして置いた。
疾き風とは加速の魔法のことだ。古びた木板の上に、蔦の絡まる彫刻のなされた指輪がひとつ、置かれている。
イシュルはその指輪に一瞬視線を向け、すぐに老婆に向き直った。
「いらないな」
もちろんそんなことはない。だが今は何の取引きにも応じない方がいいだろう。この老婆の店は妹のフロンテーラの店と同様に聖都の魔導師ギルドと契約、提携している筈である。
商人として基本的には中立でも、王城の魔導師組合は国王派の強い影響下にあるだろうから、この老婆に対して油断は禁物である。
「今はこのご時勢で引合が多くての。品が足りん。もう少しすれば、大物もたくさん出回ることになろうが」
老婆はそう言うとまたひひひ、と笑った。
もう少しすれば大物もたくさん出回る、とは、王権が変われば没落し、新たに成り上がる貴族が相当な数になる、ということだろう。没落した貴族の中には家宝の魔法具を手放す者も出てくる、というわけだ。
「坊ちゃんの持つ毒見の指輪と……、その首にかけておるのも魔法具じゃろう?」
イシュルは老婆に薄い笑みを向けた。そして眸を細める。
首飾りのヘッドはシャツの下に入れてある。老婆からは首筋の飾り紐しか見えていない筈だ。
……まぁ当然、老婆は仕事柄鋭い鑑定眼を持っているのだろう、すぐに毒見の指輪を見抜いた。残りのベルシュ家の指輪は以前からしていたし、早見の指輪はフロンテーラの魔法具屋で彼女の妹からもらったものだ。このふたつの指輪に関しては、その妹の方から話が行っているのだろう。
「その首飾りは——」
「婆さん」
イシュルは老婆の言を遮りその顔を鋭く睨みつけるとすぐ、彼女の後方へ目をやった。
老婆の背後に沈む暗闇……。あの時、フロンテーラの魔法具屋で見た暗闇と同じだ。
「あんたの後ろにあるあの闇は何だ?」
黒い絵の具で何度も何度も塗り重ねたような深い闇だ。あの時は何か触れてはならない、危険な感じがした。それは今も変わらない。
だがこいつは踏み込んできた。俺のしている、ウルトゥーロから託された首飾りに触れてきた。
「なぁ、婆さん。教えろよ、俺に」
イシュルは視線を再び老婆に戻した。
「そ、それは……何でもないわい。おまえさんの触れてよいものではない」
その時、老婆の顔に変化が現れた。
彼女の動揺の故か。その眸がイシュルの顔からすーっと離れていき、左右別々にあらぬ方を見た。
「……」
イシュルの顔に、声にならない笑いがいっぱいに広がった。
これはこれは。姉の方も実は、つまり姉妹揃って目が悪かったのか。ふふ。
そんな偶然、ってあるんだ? あるのものなのか?
……あの闇は何か、とっても気になる。
「まぁ、今はいい」
イシュルは風の魔力を降ろした。
暗闇に沈む街を、目映い魔力の閃光が走る。
迷いの結界が吹っ飛んだ。
「ひっ」
老婆が小さく悲鳴をあげる。
裏町のすえた空気が、雑多な人の気配が戻ってきた。
イシュルは笑みを消さず、老婆を睨みすえた。
「気をつけろ、婆さん。俺に近づくな。俺に構うな」
触れるなよ、俺のしている首飾りに。
「今日あったことは誰にもしゃべるな」
……それが身のためだ。
イシュルは顔を老婆に近づけ、囁くように言った。
この老婆の背後には、魔導師長はじめ国王派の宮廷魔導師がいるんじゃないか。
だがこの婆さんを殺すわけにもいかない。
「……」
老婆は無言でこくこくと、何度も首を縦に振った。
「じゃあまたな、婆さん」
イシュルは低い声で言うと老婆に背を向け、歓楽街の灯りの方へ歩いて行った。
翌日、朝起きてみると、まだからだに痛みが残っていた。
筋肉痛と、かるい神経痛といったらいいのだろうか、からだの節々が熱を帯び、じんじんと疼く感じの違和感がある。胸から下腹部にかけてひりつく感じは内蔵にもダメージがあった故か。
イシュルはベッドから起き上がると、その場でかるく伸びをした。
たいしたことない、と言えばそうだが、あの“瞬間移動”の影響がまだ残っているのは確かだ。
「……からだがなまってる」
イシュルはからだを伸ばし「ううっ」と唸ると、まだ眠気の残る気の抜けた顔でぼっそり呟いた。
ディエラード公爵邸に滞在するということは、つまり最高級のホテルに宿泊するのと同じである。炊事洗濯、掃除、当然水汲みや薪割りなどもする必要はない。まさかもう、畑仕事をすることもない。最近は一日に何十里(スカール、一里=約650m)と歩くこともないし、公爵邸の外に出る時も空を飛んで移動することが増えた。
クレンベルにいた頃から、魔法を限定的にしか使えない状況下でも戦えるよう、悪魔相手に実戦的な訓練を積んできた。だがこのままではそれも無駄になってしまう。
今日はまだ、昨日の痛みが残っているから散歩に留める。明日からは練兵場や馬場の周りでランニングでもやることにしよう……。
そう決めるとイシュルはすぐ中庭に出て、木々の影に隠れ屈伸やストレッチなどを行ってからだをほぐし、練兵場の方へ向かって歩き出した。
朝食後は、ミラに呼び出されて公爵家に訪れる貴族や商人らとの面会に同席したり、彼女にルフィッツオやロメオらも交えた午餐や茶会、時には苦手な乗馬に付き合わされることもあり、思うように自分の時間がとれなくなる。なので、朝起きたら一番に済ませておくのが望ましかった。
未だ朝露に濡れる下草を踏み中庭を東に抜けると、木立の間からイシュルがたまにひとりで過ごす、小さな東屋がその白い優雅な姿を現す。
朝日はまだ地平にあって、周囲の緑の深い影が西へ長く伸び、青い草地に日向と日影の縞模様を描き出している。その緑と陽の縞の中に白いドーム型の屋根が浮かんでいる。
イシュルの足は自然とその東屋に向けられた。と、ふいに足を止め、微かに首をかしげる。
誰かいる。
影になったその中にふたつ、人影らしきものが並んでいる。そのふたつの影は横に並び、東側を向いて座っているようだ。まったく微動だにしない。
ふむ。めずらしく先客がいたか。
俺以外にも、あそこをお気に入りの場所にしている者がいるのだ。
イシュルは再び東屋に向かってゆっくり歩きはじめた。
「……」
またすぐイシュルの足が止まる。
双子だ……。ピルサとピューリだ。
あの子たちが、小さな東屋の主だった。
双子は何をしているのか、眠ってでもいるのかまったく動かず、人形のようだ。
イシュルはしばらくその場に佇み、朝日と緑の織り成す色彩に囲まれた東屋と、その中に黒い影となって沈む双子の姿を見つめた。
籠の中の小鳥……。
ふたりの姿はまるで、籠の中に囚われているようだ。
「ふん」
木々の間から微かに朝霧が流れ出てくる。あたりに霞む靄(もや)は陽の光に触れると音も無く消えていく。
イシュルは東屋に向かって再び歩きだす。
うるさいよ、おまえら。
たくさんの小鳥のかろやかに歌う鳴き声が、疎ましかった。
「あっ、イシュル」
「おはよう、イシュル」
イシュルが東屋に近づくと、双子は彼に気づいて声をかけてきた。
ふたりの無表情な顔に僅かに喜色が浮かぶ。
「やあ。おはよう、ピルサ。おはよう、ピューリ」
イシュルも東屋の中に入って双子の反対側に、向かい合って座る。
今日のふたりはお揃いの膝下までの白いドレス、ピルサは深いワインレッドのリボン結びされたベルトを、ピューリは深い青色のベルトをつけている。それぞれの額にピルサが明るい赤、ピューリが青色を差しているのは変わらない。
「ひさしぶり? かな。ふたりとも」
イシュルは笑顔になってふたりに語りかける。
公爵邸は広く、数日の間彼女たちの姿を見ないことはよくある。ピルサもピューリも、常にルフィッツオとロメオといっしょにいるわけではないのだが……。
「朝はここによく来るの?」
「うん」
「そう」
ふたりそろって頷くと、姉のピルサがイシュルに聞いてきた。
「イシュルは?」
「俺は時々。ひとりで考えごとがある時とかね」
双子はまたそろって頷くと今度はふたり同時に聞いてきた。
「ね、イシュル」
「ねね、イシュル」
「なに?」
「ええと……」
「相談」
双子はこれもそろって上目づかいにイシュルを見上げてくる。
イシュルは思わず苦笑をもらした。
相談、ねぇ……。
「……何かな?」
「ロメオさんのこと」
「ルフィッツオさんのこと」
やはりそのことか。
イシュルは苦笑をそのまま、双子に何度か頷いてみせた。
俺に恋愛相談とか、ちょっと無理なんだが……。
聖石神授参加者を慰労する小宴で、ピルサとピューリに劇的な愛の告白を行ったルフィッツオとロメオだが、ピルサとピューリの戸惑う様子にその後すぐ強引な態度を改め、一歩引いた位置から控え目だが、根気よく彼女たちに愛情を注ぎ続けている、らしい。
ルフィッツオとロメオもあの賢いミラの兄妹である。彼らはピルサとピューリにしつこくつきまとうようなことはせず、従者や、ましてや専属メイドにもしなかった。
だが彼ら双子は、ピルサとピューリに公爵家本邸の豪華な一室を与え、数日おきに花束やら香水やら宝石やらを贈り、時に食事に誘い、わざわざ中庭に蔦を絡ませた瀟洒な東屋を建てさせ、そこにお茶を誘ったりなど、根気強くアプローチを続けていた。ルシアから聞いた話では、ピルサとピューリへの贈り物には毎回、ルフィッツオとロメオの愛のこもった丁寧なメッセージカードならぬ巻紙、手紙が添えられているのだという。
彼ら兄弟のアプローチはそれだけではない。ピルサとピューリの生い立ちを調べ、彼女たちが貴族の婦女子として充分な教育を受けていないと知ると、礼儀作法、詩歌音曲、歴史などの専門の家庭教師をつけた。
そして先日はついに、決闘に破れ非業の死を遂げた彼女らの父の名誉を回復してあげたい、と申し出てきたのである。
ピルサとピューリの父はとある宴席で刃傷沙汰を起こし、その直後に相手の縁者から決闘を申し込まれ、敗れて死んでいる。
ルフィッツオらが言ってきたのは、ピルサとピューリにその決闘した相手に仇討ちをする機会をつくってやろうとしているのか、さらに彼ら自身が助太刀しようとしているのか、その後廃爵となった男爵家を再興しようと持ちかけてきたのか、そのいずれかであろう。
「きみたちはどうしたいの?」
「……」
ピルサとピューリは彼らの申し出をどう思っているのか。イシュルの質問に対し、だがふたりは浮かない顔をして首を横に振った。
「あれは父さまが悪かったから……」
ピルサが小さな声で呟いた。
ふむ……。決闘の原因となった酒席での刃傷沙汰は、つまり彼女らの父親に非があった、ということなのだろう。
父の死後、母親の実家に身を寄せたふたりが母の死と同時に教会に預けられたというのは、例えば母方の家の経済状況が悪かった、などという理由よりも、むしろ父親の粗暴な振る舞いが決闘沙汰に及び、あげく不名誉な死を遂げたことで廃爵になった、そちらの方が主な原因なのではないか。
母方の縁者がそんな家の者たちとは縁を切りたい、と考えるのは貴族や領主たちにおいては充分に考えられることだ。
……父親の死後もずっと、ピルサとピューリは不遇な人生を歩んできたわけだ。だが彼女たちは見目良い公爵家の御曹司、ルフィッツオとロメオの贈り物攻勢にも、配慮ある申し出にも浮かれ、感激している風がない。
「ふたりとも、ルフィッツオさんとロメオさんのこと嫌い?」
「そんなことないよ」
「うん、ない」
ピルサとピューリはこれも首を横に振った。
「ふむ……」
彼女たちにはルフィッツオとロメオの愛を受け入れられない、何かひっかかりがあるのだ。
「ルフィッツオさまもロメオさまも、良くしてくれるのはうれしい。だけど……」
ピューリが視線をぼんやり、東屋の外の方へ彷徨わせて言った。
「なるほど」
イシュルは小さな声で呟き、ふたりの顔をじっと見やった。
「ふたりはルフィッツオさんたちにちゃんとお礼を言っている?」
「うん」
「うん」
ふたりはイシュルの顔をしっかり見返して頷いた。
「じゃあ、きみたちの方から、もう贈り物も手紙もいらない、ってあの人たちにはっきり言ってごらん」
イシュルは手を伸ばし、ピルサとピューリの手をとって重ねた。
そっと、少しだけ力を込めて彼女たちの華奢で小さな手を握りしめる。
「それで、きみたちの方からあのふたりに言うんだ。……きみたちが本当に欲しいものを。きっとあの人たちはピルサとピューリの気持ちをわかってくれると思う」
この子たちは公爵夫人の地位も、豪奢なきらびやかな生活にも興味はないのだ。
そしておそらく、世の多くの女たちが胸を焦がす、激しく美しい恋愛にも。……今はまだ。
彼女たちの望むものは俺たちと同じ、そこら辺にころがっているような、当たり前のなんでもない愛情、慈しみではないか。
イシュルの手の中で、ふたりの手がぴくりと動いた。
イシュルは包み込むようにして彼女たちの手を握りしめた。
「エミリアたちをウーメオの舌で埋葬した時、きみたちは俺に、エミリア姉妹のために菖蒲(あやめ)の花を持ってきてくれたよね?」
彼女たちがはっとした顔になる。
「ルフィッツオさんとロメオさんにも、中庭の花を一輪、持っていってあげたら? いつもありがとう、って」
イシュルは双子に微笑んでみせた。
心の中に空いた穴。それを埋めるものは何だろう。
彼女たちを慰め、惹きつけるもの。それは何だろう。
きっと、あの人たちにもそれは伝わるさ……。
「うん」
「うん」
ピルサとピューリが、笑顔になった。
朝陽が昇りゆく。
東屋に差す陽も位置を変え、今はピルサとピューリのガラス玉のような眸を輝かしている。
イシュルはふと周りの緑に視線を向けた。
もう小鳥たちのさえずりも気にならない。
双子たちはもう、動かぬもの云わぬ人形ではない。この生ある世界に戻ってきたのだ。
「イシュルさま!」
イシュルたちが東屋から出てきた時、屋敷の方から華やかな、高い声が響いてきた。
やがて木立の影からミラが、シャルカとルシアの姿が現れる。
「……!」
ミラはイシュルの背に隠れるようにしている双子の姿を見ると一瞬、眉をぴしっとつり上げたがすぐに微笑を浮かべ、イシュルに言ってきた。
「さきほど知らせがありましたの」
「ん?」
ミラがイシュルにつつ、と寄ってきて僅かに声を落とし続けた。
「陛下が正式に退位を表明しました。そしてルフレイドさまを国王代理に指名されましたわ」
「……」
イシュルは表情を引き締め無言で頷いた。
「陛下からはサロモン殿下に特別にお達しがあり、王城に帰還すればサロモンさまを次期国王に正式に推挙されるとのことです」
「ふふ」
「おほほほ」
思わず笑いが声に出たイシュルに、ミラも引きずられるようにして笑い声をあげる。
「サロモンさまは陛下からの書簡に目を通すと、その場でお使者の前へ投げ捨てたそうですわ」
「そうか。だろうな」
そんなバカな誘いに、いったい誰が乗るというのか。サロモンを挑発でもしているつもりか。
「そうそう、ピルサさんとピューリさん、あなた方にもお知らせしたいことがありましてよ」
ミラが涼やかな微笑を浮かべて双子に視線を向けた。
「ごきげんよう、ミラさま」
「お早うございます、ミラさま」
双子がミラに跪こうとする。
「あらまぁ。そんなことなさならいで?」
ミラは機嫌よく双子の動きを制した。
「あなた方は将来はわたくしの義理の姉になるのかもしれないのだから」
はは。ふたりとも困った顔してないか?
イシュルが後ろを振り返り双子の顔を見ようとすると、ミラが続いて言った。
「おふたりにはサンデリーニ公爵の養女にしてもらうよう、話を進めておりますのよ」
へっ?
イシュルが顔を戻し、ミラの顔を見やると、彼女の笑顔が大きくなった。
「サンデリーニ公爵?」
後ろから双子の驚愕する感じが伝わってくる。
サンデリーニ公爵家は聖都の西の丘に居城を構える、五公家の一家だ。確か現当主は中立、嫡男は国王派だった筈である。
「はい、そうですわ」
ミラは微かに困惑の混じったイシュルのひと言に、眸を細め、妖しい光を灯して頷いた。
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