聖都の昼と夜 3



 木漏れ日の光と影を、サロモンの眸が揺れ動いている。

 彼は辺りの光と影、木々の緑を仰ぎ見ていた顔をイシュルに向けると言った。

「ありがとう、イシュル君」

 イシュルは即座にサロモンに、聖王国第二王子、ルフレイド・オルストの命を全力をかけて守ると答えた。

 もちろん、ビオナートによる第二王子暗殺を阻止することは、彼の支持者たち、しいてはサロモンの暴発を防ぐために、つまり聖冠の儀の前にサロモンの軍事クーデターを未発に終わらせるために、どうしても避けて通れないことだ。

 だがイシュルにとってルフレイドの身を守ることはそれだけが理由ではなかった。

 ……ルフレイドにルセル。なんとなく、少しだけ音が似ているふたりの名前。

 俺は両親はもちろん、自分の弟であるルセルも助けることができなかった。サロモンの苦悩は俺にとって他人事ではないのだ。それが王家の者であろうと関係ない。サロモンとルフレイド、彼ら兄弟を俺のような境遇に落としたくない。ましてやふたりとも、エミリア姉妹のよう殺されるわけにはいかない。そんなことは断じて許されない。

 そんなことになったらきっと、俺が聖都にきた意味がなくなる。

「……」

 サロモンはイシュルの顔を見ると寂しげな微笑を浮かべた。

「きみはかつて、ご家族を殺されたのだったな」

「俺にも弟がいたんですよ。田舎ですけど、だから静かで、平和な村でした。弟はベルシュ村で一農民として平穏な人生を送る筈だった。たとえ仇(あだ)を討とうと、この苦しみは消えたりしない」

 イシュルは燃え上がろうとする己の心を静めるようにして、中庭の方へ視線を彷徨わせた。

 陽射しと影が草木の緑を浮かび上がらせ、削り、掘り下げている。その上っ面を花壇の花々のあざやかな色彩が踊っている。

 イシュルは視線をサロモンに向けると言った。

「殿下、まず擦り合わせをしましょう」

 サロモンがどんな情報を持っているか、どう判断し、考えているか知らねばならない。俺の考えていることと違いがあれば、互いに調整していかねばならない。

 ルフレイドのために、最善の選択をしていかねばならない。

「うむ。わかった」

 サロモンは重々しく頷き、肩にかかったさらさらの髪を後ろにはらった。

「……月が変われば父は正式に退位を表明し、王城内にとどまるルフレイドを国王代理とすることになる」

「夏の一月(七月)の頭にビオナートが退位する、ということですか」

 今日は春の三月(六月)の二十六日。もうそんなに日数はない。

 ちなみに大陸諸国、聖堂教会では太陽暦が使われているものの、季節の区分けは冬が一〜三月、春は四〜六月、夏は七〜九月、秋は十〜十二月となっていて、ウルクより古くは旧暦、陰暦が使われていたものか、太陽暦による実際の季節感からするとその区切りが一ヶ月ほど後ろにずれている。春の三月(六月)は大陸北部でも前世の季節感からすれば夏、秋の三月(十二月)は明らかに冬である。

 ビオナートの退位はもちろんずっと以前から内示されていたが、現時点で彼は正式に退位しているわけではない。

「……そうだ。それからさほど間をおかずに、父は自派の大神官らによって次期総神官長に推挙されることになっている。総神官長を選ぶ入札(いれふだ)はおそらく夏の三月の中下旬に行われるだろう。その時まではウルトゥーロをはじめとする正義派がわたしを次期国王に推していることもあって、父は次期国王を正式に決めることはしない。だが父が入札で次期総神官長に選ばれた後は、彼はもう誰にはばかることもない、と考えるだろう」

「そこで、ビオナートはルフレイド王子をそのまま、次期国王に正式に指名する……」

「そうだ。そしておそらくわたしがしたことに見せかけて、その直後に弟を殺すだろう。つまり“ルフレイドを暗殺した者”を“捕らえ”、わたしが指示したと証言させて、別の囚人を用意し変わり身の仮面をつけてその犯人に見せかけ、処刑してしまう。父はディエラード公爵邸に籠るわたしを廃嫡、当初の予定通りニッツアを女王の座に据える」

 ニッツアとはビオナートのふたりの妾腹の娘、上の五歳の姫君の名である。

「ニッツアを傀儡とし、聖冠の儀で正式に総神官長となったビオナート、その時にはきみは斃され、彼に怖れるものは何もない。いずれわたしも滅ぼされるだろう」

 ふん、と僅かに首を斜めに振ると、サロモンは続けた。

「……というのがあれの考え、狙っていることだ。父は今すぐにでもわたしを犯人に仕立てルフレイドを殺すこともできるが、それはあえてしない。それはわたしと対立したまま、父が退位し総神官長にも内定していない状況で、王城に国王となれる成年男子が誰もいない、という事態を避けたいからだ。もしそのような事態に陥れば、国内の多くの諸候の動揺を招き、さらにアルサール大公国のつけ込むところとなる。きみの故国のラディス王国も動くかもしれない」

 サロモンは少し苦しそうな、厳しい顔になって言った。

 ルフレイドも白路宮で会った時、少し似たことを言っていた。彼は王城に男子が誰もいなくなる状況を危惧していた。

「一方、聖冠の儀を経て正式に総神官長となってしまえば、たとえ父が聖王家の者であろうと次期国王を決定する権利は失われてしまう。そういうわけで、父が弟を暗殺する次期は入札後、彼を正式に次期国王に指名した直後あたりか、ということになる」

 つけ加えれば、ルフレイド暗殺の罪をサロモンになすりつけることができれば、弟王子派の怒りをサロモンに向けることができ、同時に国王派の味方につけることもできる……。

 入札から聖冠の儀までは二十日からひと月。ルフレイド王子暗殺後国内に動揺が広がり、アルサールがその情報を入手し、軍勢を仕立て聖王国との国境付近に集結させるのに、どれほどの時間を要するだろうか。二十日なら無理か、ひと月だとあり得る、といったところか。

 聖冠の儀が終わればビオナートは正式に総神官長に就任する。その前にやつの娘のニッツアが聖王国の新女王として指名され、聖堂教会のトップが元国王で、新王はその聖堂教会トップの完全な傀儡、という状況になる。もうアルサールがつけ込む隙はなくなる。

 それに聖冠の儀は感謝祭の期間中に行われる。戦(いくさ)の準備が整う頃にはもう感謝祭がはじまっているかもしれない。いかなアルサール大公国でも、感謝祭期間中に戦争など起こせない。

 なかなか考えられている……。

 そもそもビオナートが次期総神官長に内定した時点で、アルサールも動こうとは考えない、という見立てもできる。

「ただ弟も馬鹿ではない。ルフレイドも父から正式に次期国王として指名されれば、その直後に父の暗殺に動くだろう。あの男の居場所を掴んでいれば、だが」

 そしてサロモンは口許に手をやり、じっとイシュルを見つめた。

「少なくとも指名の知らせと同時に白路宮を出て王宮に入り、王城内外から自派の魔導師や貴族、騎士らを集めて身辺を固め、国王派である魔導師長や各騎士団長を召集し忠誠を誓わせる」

 ……ふむ。そうなるんだろうな。

「忠誠を誓わせるとは? 誓言を取る、ということですか」

「形式的なものではない。人質を出させたりするんじゃないか。状況が状況、だからな。わたしならそうする」

「なるほど」

 イシュルはひとつ頷くと言った。

「ルフレイドさまの暗殺は入札直後になるだろう、というのは我々も考えていたことです」

「うむ。それなら決まったな。父は弟が白路宮を出た直後から王宮に入る直前、その辺りで仕掛けるのではないか」

「かなりの大事になりそうですね」

「ふふ。それはきみが一番力を振るえる、ということじゃないか」

 サロモンはうれしそうな笑みを浮かべて言った。

「細部はディエラード家の者たちも含めて、これから詰めていこう。そうそう」

 サロモンはまたイシュルに顔を寄せ、小声で言ってきた。

「アデール聖堂のシビル・ベーク殿との連絡もたのむ。できれば彼女の知恵も拝借したいものだ」


 イシュルはサロモンと分かれた後、カトカをつかまえシビルとの面会を申し込んだ。

 先日連絡もなしにアデール聖堂を訪れたのは、アデリアーヌに大聖堂の戦いで加勢してもらったお礼を言うためで、シビルに会うのはその時彼女の都合が合えば、と考えていたからだ。

 そしてイシュルがシビルに急ぎ会おうと考えたのは、サロモンに彼女の助力を頼まれたからではなかった。先日シビルが提案してきたこと、それをルフレイド暗殺に対する牽制として、実行に移すべきと考えたからだった。

「……それはよろしゅうございました。その時にはサロモンさまとルフレイドさま、おふたりもきっと和解されることでしょう」

 イシュルがミラにサロモンと話し合った内容について説明すると、彼女はまるで宣託を告げる巫女のように言った。

 サロモンは政敵でもあるルフレイドを、それでも弟だから救いたいと強く思い、願っていた……。

「サロモンさまがルフレイドさまを想う気持ち、きっと御本人にも伝わりますわ」

 ミラはぞっとするような、美しさにあふれた微笑をイシュルに向けてきた。


 二日後、イシュルはミラを連れアデール聖堂を訪問、神殿長のシビル・ベークに会った。

「先日うかがった、王城に張り巡らされた地下通路を破壊する件、やはり実行したいのですが」

 イシュルは開口一番シビルにそう言って、前回の会談で保留になっていた工作の件を話題にした。

「ただ次期は夏の二月(八月)の月末あたりにしたいのです」

 その時期に実施すれば、入札の頃は地下通路修復が終盤に入るあたりになる。

 荒神の塔に幽閉されているドロイテ・シェラールを解放するのも一計だが、ルフレイド暗殺は日時もぎりぎりまでわからず、一旦事が起こればほぼ間違いなく短期決戦になるので、彼女を使うのはやめておいた方がいいように思える。

「まだ少し先ね……」

 僅かだがシビルの視線に厳しい色が混じる。

「ルフレイド殿下の救出と、関係あるのかしら」

 シビルがやや固い笑みを浮かべ言った。

「さすがは神殿長さま」

 ミラが横から言ってくる。

 今、アデール聖堂の正門詰め所にはイシュルとミラ、シビルの三人しかいない。

「以前からルフレイドさまはお助けしよう、とは考えていたのです。聖冠の儀の前にサロモン殿下に挙兵されてはたまりませんから」

「そうね。それはありえる話だわ」

「サロモン殿下は、次期総神官長を決める入札(いれふだ)後、ビオナートがルフレイド殿下を次期国王に指名し、その数日中にはご本人の仕業に見せかけ暗殺するだろう、と考えています」

 イシュルはそこで笑みをつくってシビルを見つめた。

「俺たちも入札後が危ない、とは考えていましたが」

「……そう」

 いつも穏やかに微笑んでいるような印象のあるシビルが、露骨に真剣な、厳しい表情になった。

「殿下はああ見えてなかなか情に厚いひとだと聞いていたけど……」

 シビルがやや顎を引き、イシュルをじっと見つめて言った。

「陛下はかならず罠を張るわ。サロモン殿下をルフレイド殿下救出に参加させるのは危険よ」

「確かに、そうですね……」

 イシュルは苦しげな顔になって頷く。

 ビオナートにとっては、ルフレイドとともにサロモンも一網打尽にできる、千載一遇のチャンスでもあるのだ。

「ですがサロモン殿下は退かないでしょう」

 サロモンがこちらの説得に応じ、ルフレイド救出に参加するのをやめるとは考えにくい。

 彼はあの時、公爵邸の中庭で話した時、やる気満々でとてもうれしそうにしていたのだ……。 

「確かに危険ですが、サロモンさまが参加されることには大きな意義があるのですわ」

 その時、ミラが余裕ある泰然とした面持ちで言ってきた。

「サロモンさまが自らルフレイドさまをお助けする。このことが大事なのです」

 ミラの言うとおりだ。この作戦を通じてふたりの和解を計る。一挙両得をねらうのだ。

 ルフレイドも入札後、自身が危険な状態におかれることはわかっている筈だ。ただ、できればビオナートが彼の暗殺を実行、開始するタイミングで介入、本人を救出するのがベストだ。もしうまくいけば、彼ら兄弟の和解は劇的なものになるだろう。

「……わかったわ」

 シビルが厳しい表情を消し、いつもの穏やかな微笑みを浮かべて頷いた。

「そういうことで、白路宮に接続する地下通路も破壊対象に含めたいのですが」

 これは当然、ルフレイド救出のためにはやっておかないといけない。

 どうせビオナートはこちらの動きを予想している。シビルの言うとおり罠を張ろうとしているのなら、こちらの意図も隠す必要はない。思う存分、相手の嫌がることをしてやればいい。

「わたしは、白路宮とつながっている地下通路のことはあまり知らないけど、まだ時間はあるし、詳しく調べておくわ」

 シビルは「詳しく」のところで、僅かに笑みを深くした。

「調べがついたらまた話し合うことにしましょう。カトカを通じて連絡するわ。その時は今日に件について、より詳細を詰めることにしましょう」

「はい」

「わかりましたわ」

 イシュルとミラは揃って頷いた。

「それでですね……」

 シビルとの会合もそろそろ終わりか、という段になってイシュルは懐から小さな巻紙を一通取り出し、シビルに手渡した。

 イシュルは前日に執事長のビシューを通じて、サロモンからシビル・ベーク宛の書簡を預かっていた。

 サロモンは正義派とアデール聖堂の関係は既に知っていたろうが、神殿長のシビル・ベークが曰く付きの人物であることはそれから独自に調べ、後になって知ったらしい。シビルの過去を知ればサロモンは彼女を放っておかないだろう。サロモンとシビルの接近はこの後危険な要素をはらむかもしれないが、ルフレイド救出成功のためには仕方がない、ここは譲歩するしかないと思えた。

「これはサロモンさまの直筆……」

 シビルはイシュルから巻紙を受け取るとそれを広げ、目を通し小さく感嘆の声をあげた。

「ふふ。……大聖堂に続き、これからは次期国王最有力の、サロモンさまからの援助も得られる……」

 シビルは眸を細めて呟くように小声で言った。

「これでアデール聖堂の行く末も安泰、だわ」

 シビルは大きな笑顔になって、イシュルとミラの顔を見渡した。

 うっ。安泰、って……。

 どこかで誰かが同じようなこと、言ってなかったか?

 イシュルはぎくっとなって一瞬、にこにこしているミラの顔を横目に見た。

 



 爆裂する風塊、風神の矢、風壁の鎧、烈風の陣、風わたり、轟く風巻(しま)き、陣開きの荒風(あらし)、追い風の魔法(飛行魔法を指す)、黒風陣……。

 英語で言えばウインド・エクスプロージョン、ウインド・アロー、ウインド・アーマー、……みたいな感じになるか。

 やはり英語で表現するとゲームなんかに出てくる魔法っぽい感じになる。でも詠唱破棄して「爆裂する風塊!」と叫ぶ場合と、「ウインド・エクスプロージョン!」と叫ぶのと、どちらが格好いいだろうか。

 どっちもどっちか。どちらもなんか今さら感があって、実際にやったらダサい感じがする。ただカッコよくきめるだけなら、詠唱破棄より重々しく呪文を唱える方はまだよほどマシだろう。

「ねぇ、ねぇイシュル」

 レニが机の上に両肘をついて顔をのせ、イシュルに話しかけてくる。彼女の顔がその眸に少し悪戯な色を浮かべ、イシュルの真正面にある。

 レニの寓居である故ベントゥラ・アレハンドロの屋敷に、イシュルが通いはじめて幾日目か。イシュルはいつもの机の上にレニの所有だという特大の魔道書を広げ、各種風魔法の解説と呪文がのっている項を読んでいた。

 レニはこうして時々、イシュルが魔道書を読んでいるとわざと邪魔してくる。

 一応はイシュルの師匠であるのに、「そんなの読んでも役に立たないよ。お庭に出てミラとわたしと、いっしょに遊ぼう」とか、「イシュルがあの生意気な火龍をぶっとばした時の話をして」などと話しかけてきて、その日は結局、魔法の勉強はそこでおしまいになってしまう。

「なに?」

 それでイシュルが少しだけ不機嫌になって、魔道書から顔を上げレニの顔を見ると、彼女はにこにことうれしそうに、してやったり、という顔になるのだ。

 イシュルはそんなレニの顔を見ると怒る気にもなれず、後はレニの要求に従うしかなかった。

 だが今日はイシュルも、風魔法の名称を英語で言い直せばどんな感じになるか、などとどうでもいいようなことを考えていたのだから、彼女の邪魔をどうこう言うことはできなかった。

「この前ミラから聞いたんだけど。イシュルは大聖堂に招かれた時、ヘレスの結界の中から“風神の刃”を唱えて、襲ってきた魔法使いを撃退したって」

「ああ。それがいいかと思って。付唱を行って少し強力にして使ったんだ」

「それはイシュルにとって風魔法が役立つ時もあるってことだね」

「うん。そうだね」

 レニはそこで「うーん」と唸って視線をあらぬ方に向けた。

 ふむ。今回は邪魔じゃなくて、ちゃんと教えてくれるみたいだ。

「イシュルは魔封の結界に閉じ込められても、風の魔法を使えるんでしょ?」

「うん、一応は」

 それもミラから聞いたのだろうか。

 確かに魔封陣の中に閉じ込められても、自身の肉体と一体化した風の魔法具からもたらされる魔力は途絶えない。ただしかなり弱くなってしまう場合が多いし、あの異界から風の魔力そのものを持ってくることはできなくなってしまう。

「なら、魔封に閉じ込められた時は風球や風の刃を使って、内側から壊すこともできるよね」

 そうか……。言われてみればその通りだ。魔力が弱くなるとは言え、風球や風の刃くらいだっら充分に発現できる。

 ちなみに風球とは“爆裂する風塊”と同じものである。

「そう、だね。レニの言うとおりだよ。さすが俺の師匠」

「えっ? し、師匠?」

「そうだろ。俺はレニに弟子入りしてるんだから、そうなる」

「えへへ。ししょう、かぁ」

 レニは照れて、目尻をさげてにまにましている。

「よし!」

 するとレニはひと言、元気な叫び声を上げると、すっと立ち上がった。

「わが弟子よ。そなたは類いまれな魔法具を持っておる。ここは我がそなたにしかできぬ新しい魔法を教えてしんぜよう」

 レニは両手を腰にやり胸をこれでもかと反って、うんうんと頷きながら言った。

「は、はあ……」

 本当はここは、「ははぁ、これはありがたき幸せ」とでも返したらいいのだろうが……。

 イシュルは調子に乗っているレニに、少ししらけた視線を向けた。

 

 レニに即され屋敷の外に出ると、いつの間にか陽が傾き夕方になっていた。

 庭の花々、木々からは微かに湿り気を帯びた、夏の草木のむせ返るような濃密な香りが漂ってくる。空は西から東へ、紅い色が染み込むようにして伸び上がり広がっている。

 今日はレニとふたりきり。ミラは来ていない。

「イシュルは、あの空を吹いている風が見える?」

 レニはぴしっと右手を上げ、暮れなずむ夕空の遠くの方を指さした。

「へっ?」

 イシュルは少し当惑気味になってレニの人差し指の指し示す先の方を目で追った。

 彼女の指先には、紅色に薄らとまだ青空の残る空間が広がっている。ぽつぽつと浮かぶ大小の雲がゆっくり東の方へ流れている。

 あの空を吹く風……。ゆったりと流れるような風のうねり。

「見えるけど……」

「それじゃあ、あの風になりたい、あの風になる、って思ってごらん」

 はっ?

 イシュルはレニの顔を呆然と見やった。

「風になる、って」

 それ、なんかの歌の歌詞ですか。

「いや、それはちょっと……」

「なれるよ。イシュルなら」

 レニは唇を尖らして不満そうに言ってきた。 

「風になるのがいやなら、あの風をよーく見て。たくさん感じて!」

「……」

 イシュルは閉口してレニの顔を見る。

「だめ」

 レニは口を尖らしたままだ。

「わかったよ」

 イシュルは再び夕空の一点を見つめた。どれくらいの高度だろうか。おそらく二里長(スカール、約千三百m)以上はあるだろう。

 東へと向かう雲の群れが西から夕陽を浴びて、その縁(ふち)を明るく輝かしている。

 その雲の裾を拾って、東に流れる風を追う。

 空を吹く風のベール。その先端を掴む……。

 いきなり何かが悲鳴を上げた。女の叫び声のような高い音。底を覆う粗雑な騒音。からだがもっていかれる。心が露出し裏がえる……。

 引き裂かれ、紡がれる。

「はっはっはっ」

 痛い。からだが。節々を激痛が走る。心が軋む。

 胸に手をやり掻きむしる。

 い、色が、色彩が奔流となって視界を流れていった。そして暗くなっていった。

「……!!」

 イシュルは辺りを見回した。息が、息が苦しい……。

 薄く紅く色づく広大な空間。

 耳をくすぐる微かな風鳴り。

 それ以外に音はない。俺ひとりだ。

 ちぎれた雲がゆっくり横切っていく。

 イシュルは空に浮いていた。


「はぁっ……、はっ、はっ」

 衝撃に一瞬止まった息が吹き返す。

 イシュルは視線を下に落とした。

 眼下には紅く染まった聖都の街並が広がっている。紅く青く輝き屈曲するふたつの川、王城はその過半を雲に覆われている。

 レニは……、どこだ。

 風の神殿はあそこらへん……。ならあの小さな屋根らしきものが風の大魔導師、故ベントゥラ・アレハンドロのお屋敷、ということになる。

「あいつ……」

 あいつ、何者だ。俺に何を教えた。

 あの、消し炭のような暗闇。それが視界の端を覆って……。

 これはもう、瞬間移動じゃないか。加速の魔法どころではない。

 この技を使えば、俺は無敵だ。

 ……視界を覆う影。

 俺は転生後も一度、いや。もう一度死んでいる。

 ひとつはおそらく、赤帝龍の頭に父の形見の剣を突き立て、そして落下していったあの後。

 もうひとつは赤帝龍の火炎を浴びたあの瞬間。あの時も実は、俺は死んでいたのかもしれない。

 これは凄い技だ。

 だが、今さっき、俺はまた死んだのではないか。

 この恐怖はなんだ。

 まるで絶壁の縁(ふち)に立っているような、いや、生と死の境界を綱渡りしているようなものだ。

 こんなもの使えない。

 いや、使ってはならない。

 ……いや、使わなければならない。

 その時はいずれ訪れる。

 生と死の狭間に追い込まれた時、死の間際まで追いつめられた時こそ。

 己の命のために。誰かの命のために。

「これはもう魔法じゃない」

 イシュルは紅く染まる空に、何かを追うように視線を巡らした。

 はぁ、はぁ……。まだ胸の動悸がおさまらない。

 ミラか。ミラが、大勢のひとたちが言っていた。これこそは……。

「風になること。神の御業だ」


 イシュルが下界に降りて行くと、レニが同じところで待っていた。

 紅く輝く緑と花々に覆われた、小さな場所に。

「恐かった? イシュル」

 むすっとして無言でいるイシュルに、レニは囁くように言ってきた。そしてイシュルの手をとり、その上に片手をのせてきた。

「だいじょうぶ。心配しないで。これこそがイシュルの力なんだよ?」

 レニが微笑む。夕陽が彼女を紅く染めている。

「恐がらないで、またわたしのところに来てね。気が向いたら」

 レニの顔が近づいてくる。

「もっと、教えてあげる」

 彼女の囁きが、雷鳴のように俺の心に轟いた。




 

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