聖都の昼と夜 2



 暗闇を霧雨が無数の微かな煌めきとなって視界を覆う。

 その水煙の奥に観音開きの鎧窓がある。武骨な鉄の扉がある。

 イシュルは暗がりに眸を細めてその鉄扉を睨んだ。

 夜目だからはっきりとはわからないが、黒く塗られた表面にはところどころ赤錆が浮いているようだ。

 ひとつ、不思議なのは扉の鍵が外側についていることだ。鉄棒の閂が鎖で幾重にも縛りつけられ、その鎖の間からは大陸ではあまり見かけない、大きな南京錠が幾つか、その角張った鉄塊の角を突き出している。

 イシュルは空中をつつ、と後へ退き、荒神の塔の最頂部を見渡した。

 荒神バルタルの塔の最上階は円筒状になっている。外壁に塗られた漆喰は一部が剥がれ落ち、その内側からはこれも大陸では珍しい、積み上げられた煉瓦が垣間見える。

 イシュルには真っ青に見える魔力は、塔の外壁から均等に周囲に放射されている。その魔力はたいした強さではないが、非常に整った、乱れの一切感じられないものだ。

 それに……。

 最上階の底部と頂部からは、まるで照明に蓋を被せた時、その間から漏れる明かりのように水平に薄く、鋭く広がる別の魔力の輝きが発せられていた。

「ふむ。どうするか」

 イシュルは自らの顎先を左手でつまみながら、低い声で呟いた。

 この魔力はやはり塔の内部に魔封の結界が張られている、それも上下と側部でそれぞれ独立したものが、という感じだろうか。少なくとも外からの攻撃に対する防御系の結界ではない。鉄扉の外側に閂があるのだから、それは明らかだ。

 おそらく内部はそれぞれ独立した魔封陣が天井と床に、側面は内壁に沿って複数の魔法陣が均等に配置され、魔法使いでも召喚精霊でもない、魔封陣を発動し続ける魔力が魔封陣本体からか、どこかから自動的に供給される構造になっている。塔の外側に漏れ出ている魔力は乱れが一切なく安定していて、なんとなくそうと察せられる。

 ベーム辺境伯の執務室を覆っていた複数の魔法陣、あれと少し似ているかもしれない。

 魔導師や精霊が直接管理する必要のない、つまり人や精霊が近づかないですむように配慮された、かなり手の込んだ造りの牢獄……。

 何を閉じ込め、封じているのだろうか。

 鬼が出るか蛇が出るか、自身の魔力がほとんど通らないから中に何があるのかわからない。それは非常に危険なものかもしれないが、でもだからといってこのまま立ち去るのはつまらない。

 中を見ずにはいられない。

 だが、ここは力まかせにこじ開けるわけにはいかない。いずれ知られるにしても、あるいは途方もない化け物が現れて大立ち回りになるとしても、とりあえずは慎重に、なるべく静かに閂を開けるべきだ。

 この封印が解かれたことを、できるだけ長い間、誰にも知られたくはない。

 イシュルは控え目に、ゆっくりと風の魔力を異界から降ろし、閂に巻きつけられた鎖と南京錠の幾つかを少しずつ切断していった。

 鎖にかけられた南京錠はどれも古く錆びついていて、たとえ鍵があってもまともに開くような感じはしない。

 それから、閂から慎重に鎖と南京錠をはずし、足許に出っ張っている石材の縁(へり)に、下に落ちないように静かにていねいに置いた。

 頭を上げ、鉄扉の把手を見る。手をかけ握りしめる。

 僅かに力を入れるとギギッと、鉄の軋み擦れる音がした。

 なかなか重い。

 扉を引く。ふと鼻先を、アデリアーヌの微かな水の魔力が触れたような気がした。

 扉が三分の一ほど開いた時。

 目の前の暗闇に小さな炎が灯った。

 なっ!?

 早見の指輪が起動する。

「くっ」 

 “両手”を伸ばし、かき集めるようにして風の魔力を集め足下に放り込む。

 目の前に広がる炎の塊。

 からだが持ち上げられ、上に吹っ飛ばされる。

 すぐ目の前を紅い炎の奔流が駆け抜けていく。風の魔力の一部が持っていかれる。

 からだが水平になり、足が上になり、空中をからだが一回転する。イシュルは早見の魔法を切った。

 するといきなり炎の熱がひりひりと、今になって全身を刺し貫いてきた。

「くそっ」

 首を捻り爆発した炎の行方を追う。

 辺りは暗闇だけ。炎は闇の中にもう、消えている。

 トラップだ。

 罠が仕掛けてられていた。危なかった。しかも、あの炎は誰かに見られたんじゃないか。

 やられた。くそっ。……いや、俺が油断していたんだ。甘く見ていた。

 イシュルはその場で、開かれた窓の上側から塔の中へ魔力の探知を伸ばした。

 運良く窓の両側に開かれた鉄扉に激しい損傷は見られない。蝶番が外れたりもしていない。

 最上階は確かに魔封陣とおぼしき結界の魔力が充満している。だから魔力の探知はほとんど通らないが、開かれた窓の縁、すぐ内側あたりにもう怪しい感じがないのはなんとなくわかる。

 イシュルはゆっくりと降下し、再び空中、窓の正面に静止した。

 暗がりの中心に、青白く輝く美しい女がいた。


 女の歳は二十歳過ぎくらいか。手足に枷をはめられ、魔法陣の上に両手をついてやや上体を起こし、べったり座り込んでいる。何かに堪え、這いつくばっているようにも見える。

 白く輝く長い髪が、薄い衣をまとった半裸の女の肢体に巻きつき、周りに広がっている。

 精霊か?

「……これはこれは。さしずめ塔上に囚われたお姫さま、といったところか」

 イシュルは天井をちらっと見上げ、薄く笑みをつくって言った。

 床だけではない。天井にも石板に刻まれた魔法陣が設置されていた。

 二重魔法陣だ。

 そしてトラップつきの頑丈な鎧戸。

 あげくここは荒神バルタルの塔の最上階だ。目の前の妖しい美女が、ただのお姫さまであろう筈もない。

 女はその面(おもて)に似合わない獰猛な笑みを浮かべ、視線を向けてきてた。

「やっとか。待ちくたびれたぞ」

 若々しい、瑞々しい女の声。だが口ぶりはふてぶてしい、まるで老婆のそれ。

 イシュルは顔をしかめた。

「おまえはなんだ? 精霊か?」

 女の笑みが深くなる。

「いや、人間じゃ。一応の。わけあってこの魔封陣に閉じ込められてしまってな、契約精霊にまるごと妾に憑依してもらって、病いや飢えを防いでもらったのじゃ。もう長いことこうしておる故、完全に一心同体と言ってもよかろう」

 なんだと? そんなことできるのか。

「ふーん。それは凄いな。魔封陣の中でか?」

 魔封の結界なのだろう、女の周りは上下の魔法陣から発せられる円筒形の魔力で覆われている。

 彼女が俺の目に青白く輝いて見えるのは、その魔力を浴びているからかもしれない。

 そしてこの結界の中では通常、魔法使いは魔法を使えないし、一般の精霊も魔力を断たれ、この世界に長く留まることはできない筈だ。

「そなた、その力、ただ者ではないな。その身に強力な魔法具を有していよう。まさか……」

 魔封陣の中にあっても、女にはこちらの魔力が感じとれるらしい。

 彼女は眸を細めて睨んでくる。

 確かに外見は美しくても、その表情には年齢に見合った柔らかさが感じられない。長い時を生きてきた者の、遠慮のない内面の生々しさが表れ出ている。

「あのイヴェダの剣の継承者か。このところ、王城が騒がしくなった。近くで今までにない強大な風の魔法が使われたのも感じ取れた。この魔封の牢獄に閉じ込められていても、それははっきりと伝わってきた……」

 女の眸がこれでもかと見開かれ、その顔に野卑た笑みが浮かぶ。

「もしやと思っておったが、妾にもやっと、千載一遇の好機が訪れたということじゃ」

「なぜおまえの精霊はこの場に留まって、おまえに力を貸せるんだ? 特殊な大精霊か何かか」

「逆よ。妾がイニフェルに魔力を与えておるのだ。代わりにイニフェルは妾の肉体と一体化し、半ば霊体化して飲み食いせずとも生きていけるようにしてくれておるわけじゃ」

 イニフェルとはこの女の契約精霊の名だろう。見た目の姿も、その精霊のものなのだろう。

 もしや、こいつの魔法具も俺と同じ……。

「おまえの魔法具は魔封の結界でも魔力を断たれないのか」

「そうじゃ。細々とだがな。妾の魔法具“フィオアの水壷”は、妾の心の臓と直接結びつき一体化しておる」

「フィオアの水壷、だと!?」

 水壷は水神を象徴するものだ。神殿にあるフィオアの像は、水壷を掲げ壷の底を肩にかけ、壷の口をやや下に傾け水を流そうとしているポーズが多い。

 風は剣、火は杯、土は杖……。ならこの女の魔法具はまさか……。

「いやいや。妾の魔法具はそなたの持つ神の魔法具とは違うわい。それほどのものではない。せいぜいがまがい物程度のものじゃ。そもそも本物の水の魔法具を持っていたなら、こんな牢獄などさっさと壊して脱出しておるわい」

 なるほど。言われてみればそうだが。

「あんた、自分の魔法具が心臓と一体になっている、といったな。それは太陽神の首飾りと同じようなものなのか」

「いや。主神の首飾りは心の臓と魔力を通じ間接的に結びつくだけじゃ。妾の魔法具は完全に一体化しておるからの」

 女はその顔面に浮かべた笑みを、唇の端をきゅっと、上に引き上げた。

「妾が死ねば、妾の魔法具も壊れ、消えてしまうというわけじゃ」

「そうか」

 イシュルの眸に力が込められる。

「だからあんた、殺されずにこの荒神の塔に幽閉されてる、ってわけだ」

 聖王家はこの女の魔法具が欲しいのだ。話を聞けば、この女の魔法具はなかなかの代物だ。殺して失われるのが惜しいのだろう。

 この女が生きている間に、“フィオアの水壷”をうまく分離する方法を探ろうとしていたのだろう。

「あんた、この牢屋にいつから閉じ込められてるんだ?」

「さあな。あまりに長い間でようわからん。それよりそなたに聞きたい」

 女が顎を引き、ぎらつく眸でイシュルを睨んでくる。

「マデルン・バルロードはまだ生きておるか?」

 マデルン・バルロード? ……その名は聖王家の宮廷魔導師長の名だ。クレンベルの山から降りてきて、あの街道筋の草原で相対した、多くの魔導師と聖堂第二騎士団を従えていた老人だ。

「聖王家の宮廷魔導師長のことか?」

 イシュルは女に問い返した。その顔にうっすら、冷たい笑みが浮かぶ。

「おお!! そうじゃ」

 対して女の顔には暖色の笑みが浮かんだ。女は全身を震わし、その美しく広がる髪が揺らめいた。

「妾は昔やつに嵌められての。それで今はこの様(ざま)じゃ」

 女は眸を妖しく細めてイシュルを見つめた。

「妾はそれまで聖王家の宮廷魔導師長を務めておっての」

「ふふふ……」

 イシュルが小さな声で笑い出す。

「あはははは」

 女は狂おしく、双眸を見開いて笑い出した。

 イシュルと囚われた女魔導師、両者は互いに見つめ合いながらひとしきり笑い合った。

「……くふふ」

 女は哄笑を消すと言った。

「妾の名はドロイテ・シェラール、そなたの名は?」

「俺の名はイシュル」

「ふむ。ベルシュ家の者か?」

「……」

 イシュルは無言で頷いた。

「そなたがなぜ聖王国にいるのか知らんが……。妾の力になってくれそうじゃの」

「ああ、そうだな。この魔法陣を壊すのは簡単だ。他愛もない。マデルン・バルロードもまだ生きてるぜ。元気そうだ」

「それなら……! それとも、な、何か見返りが必要かの」

 青い魔力を発する魔法陣の中から、ドロイテはイシュルに喰らいつくようにして叫び声をあげた。

「見返りは必要ない。要するにあんた、マデルン・バルロードに復讐、したいわけだな?」

「そうじゃ。妾はもう、そう長くは生きられん。やつの首を冥土の土産にと思っての」

 ドロイテは小さく笑みを浮かべ、静かに、だが低い声で言った。

「妾の残るすべての力を使って、妾の命にかえてもやつをかならず討ち果たす」

「なるほど。結構なことじゃないか」

「やつと妾の因縁、聞きたいかの」

「いや……」

 イシュルは後ろを振り返った。

 未だ暗闇を濃い雨霧がうねっている。

 さきほどのトラップ、早見の魔法で音は聞こえなかったが、それなりの爆発音、炎の爆ぜる轟音が辺りに響いた筈である。城内の近くに不寝番の衛兵や魔導師がいたら、この霧の中でも気づくだろう。まだ怪しい気配は何も感じないが、もしそうなら、そろそろ何らかの動きがあるかもしれない。

 あまり時間はかけられない。

 ドロイテ・シェラールとマデルン・バルロードの因縁、どうせ昔の王位継承か、何かの派閥争いがらみだろう。別に無理して聞く必要はない。かつてのベルシュ家の没落も当時のラディス王家の跡目争いが原因だ。今の国王派との争闘も王位継承が絡んでいる。どこにでも転がっている、何度でも繰り返される争いだ。

 ああ、でも……。 

「ダナ・ルビノーニって名前に憶えがあるか?」

 彼女はマデルン・バルロードをかなり毛嫌いしていた。この女が魔導師長だった頃は、彼女は生まれてさえいなかったろうが……、何かその理由がわかるかもしれない。

「……おお、ルビノーニ家の」

 ドロイテはイシュルのいきなりの質問に一瞬きょとん、となったがすぐに何かを思い出したか、大きく頷いた。

「妾の弟子にその家の者がおったわい。出来のいい子じゃった。……懐かしいのう」

「そうか」

 遠くを見るような顔をしたドロイテに、イシュルは僅かに眸を細めた。

 ダナがマデルン・バルロードを嫌う理由は、そこら辺が関係しているのかもしれない。

 そのダナの親か祖父母か、弟子であったというひとが、もしドロイテを師として深く尊敬していたのなら、ふたりが良好な関係にあったとするなら、ダナがマデルン・バルロードを嫌い、侮蔑するようになるのも充分にあり得る話だ。

 ……それにこの口ぶり。この婆さん、と言っていいのか、このひとも元々はそんなに悪い人物ではなかったようだ。あの魔導師長につけ込まれたのもなんとなくわかる気がする。

 今はかなりあやしい、恐ろしげな存在になってしまったが。

「ではどうじゃ、そろそろこの結界を破ってくれんかの」

 ドロイテはイシュルに露骨に媚びるような視線を向けてくる。

「いや。今は駄目だ」

 イシュルは短く、冷たく言い放った。

「今は間が悪い。しばらく待ってくれないか」

 このもう人間ではないような、怪物のような女、ドロイテは国王派に対する牽制、撹乱として使える。

 この女をそう、聖冠の儀の前日か数日前に解放する。あるいはビオナートがルフレイド王子暗殺に動く時、その時期が前もってわかれば、その時に合わせて解き放つのもいい。

「だがその時がきたら、かならずあんたを解放する。約束しよう」

「それはいつじゃ。妾はあと、どれくらい待てばいいんじゃ」

 ドロイテは意外、ちょっと泣きそうな顔になって言った。

 な、なんだか少し可哀想だな。

「ふた月ちょっと、ってところかな」

「ふむ、それくらいならもう、妾にとってたいして長い時間ではないわ。見返りもいらん、ということじゃし今は我慢しよう。妾はお願いする立場じゃからの」

「悪いな。婆さん」

 見た目は妙齢の美女だ。なんだか婆さん、などと呼ぶと変な感じがする。

「ところで俺がこの鉄扉を破ったこと、城の連中にばれないかな」

 イシュルは再びちらっと後ろを振り返る。

 二ヶ月強、というのはそれなりに長い期間だ。不安がない、とはとても言えない。

「さきほど火の魔法が爆ぜたようじゃが、見た所外は深い霧が立ちこめておる。荒神の塔の側には城の者どもが常駐する建物はないし、問題はなかろう。それにみな、妾のことなどとうの昔に忘れていよう。その鎧戸をしっかり閉じておけば誰も気づくまい」

 ドロイテは少し声を落として言った。

 ふむ。少し寂しそうだな、婆さん。

 イシュルも少し顔を曇らせた。

「それにじゃ」

 だがそれはちょっと違った。ドロイテはもっとふてぶてしかった。

「妾を閉じ込めても、それ以上手出しできる者などこの城にいようかよ」

 ドロイテは唇の端を引き上げ、再びぎらつく眸になって笑みを浮かべた。

 それはどうかな。この塔の上部を丸ごと、一気に壊してしまえば、結界に囚われたこの婆さんをたやすく葬れるんじゃないか。

 ……いや。塔の上部を破壊するということは、この魔封の結界もその瞬間に解かれるということだ。この婆さんは半ば実体を失い、精霊に近い存在になっている。魔封の結界が解かれた瞬間には、崩れ落ちる瓦礫をすり抜け、なんのダメージも受けずに脱出してしまうかもしれない。

 ドロイテは特殊な水系統の魔法具を持ち、その肉体は半ば精霊化している。

 彼女は強い。マデルン・バルロードや複数の魔導師相手でも、存分に暴れてくれよう。

 イシュルは笑みを浮かべ、ドロイテに向かってゆっくり、しっかり頷いてみせた。

「わかった。その時がきたらあんたの本望、かならず遂げさせてやるから」


 その後イシュルは鉄扉を閉め、把手に鎖をそれらしく巻き直して荒神の塔から離れた。

 これからアデリアーヌにお礼を言い、水の魔力の使用を止めてもらわなければならない。

 しかし今日は僥倖だった。使い出のある手札を得ることができた。

 イシュルは夜空をゆっくりと漂うように飛びながら、ひとりひっそりと笑みを浮かべた。

 霧雨が舞う暗闇の中、王城を西に向かう途中、月神の塔と思われるさらに深く黒く聳え立つ影の横を通った。

 影の中に小さな光点がひとつだけ、浮かんで見えた。

 あれはミラが言っていた、月神の塔にあるという魔法具屋の灯りだろうか。

 それとも近いうちにドロイテに葬られるであろう、マデルン・バルロードの執務室だったろうか。




 一瞬、多角形の光の結晶が視界を横切り、瞬いたような気がした。

 イシュルは強い陽射しに両目を窄め空を見上げた。

 雲もまばらな青空を魔法の杖に乗ったベリンとセリオが錐を揉むようにからみ合い、くるくると回転しながら美しい曲線を描き降下してくる。

 たがいに相手の後ろを取ろうと急旋回と上昇、降下を繰り返し、くんずほぐれずの、言うなれば魔法使い版ドッグファイトを繰り広げている。

 王城の塔に囚われた美しく不気味な魔法使いと出会って数日後の日中、場所はディエラード公爵邸の中庭だ。

「まぁ。何だか凄いわね」

「そうね。ふたりとも、だいぶ上達したんじゃないかしら」

 背後からミラとダナの話す声が聞こえてくる。

 昨晩、夜半から降り出した小雨は早々に、明け方には止み、陽が昇る頃にはすっかり晴れやかな青空になった。

 そして朝食をとり終わる間もなく、晴天の故か馬車の走る音もけたたましく、ルビノーニ伯爵家からベリンとセリオがダナに付き添われ、公爵邸に押し掛けてきた。

 イシュルは最初はふたりに垂直旋回や反転急降下、インメルマンターンなどの、自身でも知っている基本的な空戦時の機動を教えていたが、ベリンとセリオは次第に落着きをなくしそわそわしだして、イシュルに屋敷の外に出て、空に上がって実地に教えてくれ、とせがみだした。

 イシュルは仕方なくベリンたちと空に上がって実地にかるく教え、ふたりに相手の後ろを取ってくいつき、一定時間追い回した方が勝ち、というゲームをやってみないかと提案した。

「公爵邸の敷地で攻撃魔法を使うのはだめだ。契約精霊を使うのも禁止。単純にふたりの空中機動術を競う、ちょっとだけ実戦的な遊びだ。どう? やってみるか?」

 ベリンには風の契約精霊がいるが、セリオはまだ精霊と契約していないようだ。だがセリオは火魔法も使える。

「やる!」

「俺も!」

 ふたりはイシュルの提案に喜び勇んでのってきた。

「それじゃあ、ふたりともまず一里長(スカール、七百m弱)の高さに上がって——」

 イシュルはふたりに、空中で百長歩(スカル、約七十m)の距離をとって向かい合い、両者ともに相手に向かって水平飛行、適度に接近したら“空中戦”を開始するよう指示を出し、さらに、高度が百長歩以下に下がったら危険なのでそこで“空中戦”を中止すること、公爵邸の敷地外には絶対にでないこと、などこまごまと注意し、後はベリンたちの模擬空戦をミラ、ダナといっしょに見物していたわけである。

「……だが、これは魔法による空戦だ。飛行機のそれとは違う」

 イシュルはベリンとセリオの戦い——いや、戯れを見ながらミラたちには聞こえないよう、微かな声で呟いた。

 彼らは空中にじっと静止することもできるだろうし、それなら失速することもないだろう。敵の背後を取ることは、空を飛ぶ風の魔法使いどうしの戦いにおいても有効だろうが、前世の第一次世界大戦の頃から現代まで続く航空機どうしの空戦と違い、絶対的な優位、となるほどではない。

 だがこの練習も、敵の攻撃を受けた時の回避術の向上には充分、役立つだろう。

「イシュルさんは何でも知ってるのね。ふたりの飛行魔術は確実に進歩しているわ」

 後ろからダナが声をかけてくる。

「いや……」

「さすが、イシュルさまですわ!」

 イシュルが振り向くと、ミラも負けじと叫ぶように言い、つつっとイシュルに寄ってくる。

 ……ふむ。

 イシュルはミラのにこにこした顔を見やり、ちらっとダナに視線を向けた。

 そういえば今、俺とダナの周りにはミラしかいない。ダナに荒神の塔の囚人、ドロイテ・シェラールのことを聞いてみるか。せっかくの機会だし、彼女とドロイテ、宮廷魔導師長のマデルン・バルロードの三者の関係を知っておいてもいいだろう。

「いやいや」

 イシュルは苦笑するとミラとダナの顔を見回した。

「ところで、ふたりにちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 そして少し声を潜めて言った。

「ふたりとも、ドロイテ・シェラールという名に心当たりは?」

「!!」

 ミラの反応は薄かったが、ダナはぎょっとした顔になった。

「……確か、先代の魔導師長だった方ですわね」

「その方はわたしの祖父の師匠だったの」

「祖父?」

「ダナの父方の祖父が先代ルビノーニ伯爵。母方の祖父が外務卿のブリオネス公爵になりますの」

 不審な声をあげたイシュルにミラが説明してくれた。

「なるほど」

 五公家のブリオネス公爵の娘がルビノーニ伯爵家に嫁いで、その娘がダナになるわけだ。

「祖父の師匠だったシェラールさまは、マデルン・バルロードに嵌められたのよ」

 ダナも声を潜め、当時のことをかいつまんで説明してくれた。

 ビオナートの兄であった先代国王エルベルトは二十代の若さで夭折したが、彼の死には不審な点があり、後に毒殺されたのではないかとの疑惑が持ち上がった。そして内務卿による捜査の結果、当時魔導師長であったドロイテ・シェラールに嫌疑がかけられた。彼女の執務室から、エルベルト暗殺に用いられた毒見の魔法具も反応しない、特殊な毒薬が見つかったのだという。

 当然、魔法使いの中には薬、毒薬などに詳しい者が少なからずいる。特殊な毒薬、というのなら何か、魔法がかけられていたのかもしれない。それが魔導師長であるかはともかく、宮廷魔導師にまず一番に嫌疑がかけられるのは、決しておかしなことではない。

「先代陛下がマデルン・バルロードを次代魔導師長に推したのを、シェラールさまが断り逆らった。それからおふたりの関係が険悪になって、自らの失脚を恐れたシェラールさまが……、というもっともらしい話が当時噂されていたそうよ」

 ダナの顔がイシュルのすぐ目の前に迫ってきている。その真横にはミラも。

 彼ら三人はベリンたち飛行魔法の妙技もそっちのけで、頭をつき合わせてひそひそ話をはじめていた。

「でも、真相は当時大聖堂にいたビオナートさまと、宮廷魔導師の実力者だったマデルンが計って、互いに邪魔者だったエルベルトさまとシェラールさまを亡き者にしたのだ——と言われているの」

「なるほど」

 ドロイテ・シェラールはまだ死んでいないが。

「祖父は生前マデルン・バルロードをとても嫌っていたわ。今思うと祖父は、シェラールさまをただ魔導師の師匠として尊敬していただけでなく、ひとりの女性として想いを寄せていたのだと思うの……」

「まぁ」

 ミラが感嘆の声をあげる。

「それは初耳でしたわ」

 ふむ。一国の宮廷というのは本当にこれでもかと、陰謀、陰謀、の繰り返しだ。王家の中心に近づけば近づくほど、その陰謀に巻き込まれる可能性が高くなる、というわけだ。

 しかし、ビオナートめ。その頃から毒を使っていたわけか。愚かなやつだ。

 暗殺を繰り返して得た王位などろくなものではない、最後まで全うすることなどあり得ない、くらいのことは誰でもわかりそうなことではないか。

「で、イシュルさん」

 ダナがいきなり、鋭い視線をイシュルに向けてきた。

「ドロイテ・シェラールの名前をどこで知ったの?」

 し、しまった!

 イシュルがぎょっとした顔になる

「いや、……それは」

「あら……」

 ミラの方はダナと同じ不審よりも、これからはじまるであろうダナからの追及に対する同情の方が勝った、複雑な視線を向けてくる。

 ダナはそんなミラの顔を見て、少し表情を和らげた。

 ……ミラとダナはやはり、ドロイテ・シェラールが荒神の塔に幽閉されていることを、まだ生きていることを知らないのだろうか。

 ん?

 イシュルがふと顔を上げた。

 そしてミラとダナから一歩退き、中庭の西側、運河の方に目をやった。

 ひとりか。

 その人物は屋敷の西の方から、ゆっくりとイシュルたちの方へ歩いてくる。

「……!」

 ミラとダナも少し遅れて気づき、イシュルから離れてその場に腰を落とし、右手を胸に当て頭(こうべ)を垂れた。

「やあ、ミラにダナ。ふたりとも、今日も変わらず美しい」

 軽やかなテノールが辺りに響く。

「今日は久しぶりに晴れて、とても爽やかな青空だ。きみたちの清らかな美しさに、この蒼穹ほどふさわしいものはない」

 ははっ。なんだか凄い。

「ね? イシュル君。きみもそう思わないか」

 その声が突然イシュルに話を振ってきた。

「そしてあの青空を駆け巡る彼らも、だ」

 太陽の光を浴びてきらきらと輝くサロモンの澄まし顔。

 その水色の眸に、頭上で格闘するベリンとセリオの描く、小さな軌跡が映りこんだ。


「こ、この度は殿下のご、ご尊顔を拝し奉り……」

 たぶん慣れてない、というよりも、もともとこういうのが苦手なのだろう。

 ベリンとセリオがサロモンの前に跪き、セリオがかみまくりの口上を述べている。

「ああ、いいから。それよりきみたち、わたしによく顔を見せてくれないか」

 サロモンはベリンとセリオを立たせると、やさしげな笑みを浮かべて言った。

「きみたちの戦技は実に素晴らしい。大空をあんなに美しく飛べるなんて、わたしはきみたち風の魔法使いが羨ましい。……ほんとうだよ? ベリン。それにセリオ」

 サロモンはセリオを見やると、ほんの僅かにその切れ長の眸を細めた。

 サロモンがセリオの名を口にした。イシュルの横にいるミラが緊張する。だが、そのさらにとなりの人物はただ、熱い吐息を漏らすだけだった。

 いや、ダナさん。美貌の王子さまにため息ついてる場合じゃないよ……。

「きみが以前、公爵邸の門前で空からわたしを襲ってきた魔導師か」

 サロモンが薄く笑みを浮かべる。

 セリオがさっとからだを固くした。さすがにダナの方からも彼女が緊張するのが伝わってくる。ベリンも顔を強ばらせている。

「……」

 ミラにダナ、そしてベリン。この場にいる女たちがみな、おそらくはサロモンにセリオの赦免を訴えようと動こうとした瞬間、イシュルは無言で一歩、前に出た。

 ほんの微かに表情を緩め、サロモンの眸を見つめる。

 あんたが何を考えているのか、俺にはなんとなくわかる。

 その眸に映っていた、ベリンとセリオの青空に刻まれた航跡。

 サロモンはその時も薄く笑えみを浮かべると、俺に向かって彼らに下に降りてくるように伝えよと、命じてきたのだ。

 彼らと直に話をしたいと。

 それはセリオを叱責しようとするものではなかった筈なのだ。

 サロモンはイシュルをちらっと横目に見ると笑みを深くし、セリオに続けていった。

「おまえがわたしにしたことはなかったことにしてやる。どのみち父の信奉者から使嗾されただけであろうし」

 サロモンのその笑みの中に、僅かに殺気が煌めいた。

「その変わり、おまえは今日からわたしに仕えるのだ。ベリン、そなたもだ」

「……」

 後ろに佇むミラとダナから、安堵の息がもれるのが感じられる。

 セリオは手に持つ魔法の杖を強く握りしめ、全身を細かく震わした。

「ははっ」

 男勝りな声をあげ素早く跪いたベリンが、セリオのローブの裾を引っぱり跪かせる。

「あ、ありがとうございます。で、殿下の御身は誓ってわたくしめが……」

 まさか泣いているわけではないだろうに、セリオの言上は後が続かない。

「……よい」

 サロモンはセリオを遮ると、ミラとダナの方へ顔を向けた。

「この者たちはダナが面倒を見ていたのだね?」

「はい、サロモンさま」

 ダナがその上品な顔立ちをさらに取り澄まして、今まで聞いたことのない、よそ行きの声を出している。

 これがサロモンの威力なのか。

「わたしがもらってもいいかな?」

「はい。殿下の御心のままに」 

 もらっても、って……。

「うむ。さて、ミラ・ディエラード。これでまたきみの屋敷に居候が増えてしまうわけだが……」

「殿下のお気になされることではございませんわ。わたくしの方で早速手配させていただきます」

「うむ。よろしくたのむ。きみの兄君たちにはわたしの方から伝えておこう」

 サロモンは機嫌良く頷くと、ふたりに微笑んでみせた。

 ……セリオ、いや、ベリンも元は国王派側にいた。ふたりはサロモンのお眼鏡にかなったのだ。

 使い道がある。そう判断したからサロモンはセリオを許したのだろう。

 あれだけ巧みに空を飛べる風の魔法使いは希少だ。彼らなら空中でも、風の精霊とも互角に渡り合えるのではないか。

「セリオ、ベリン。きみたちはこれからディエラード公爵邸に起居しもらい、わたしが直率することになる。今は王城に出仕する宮廷魔導師も減っている」

 サロモンは跪き畏まるベリンとセリオから俺の方へ視線を向けると、唇の端を歪めて言った。

「中には王家が乱れ戦(いくさ)になるかと、自領に帰ってしまう者もいる」

 サロモンはそう言うとすぐにベリンとセリオに向き直った。

 なんだ? あの意味ありげな視線は。

「わたしはかならず王権を手に入れる。きみたちは臆せずわたしを輔けるのだ」

 サロモンはそう言いながら、またこちらを見てくる。

 このひとは……。それ、俺に言ってるのか。

 いざとなったら聖都に兵を挙げ、内乱を起こしても王位を手にいれると。

 ベリンとセリオが「ははっ」と頭(こうべ)を垂れるとサロモンはひとつ鷹揚に頷き、ミラたちの方を見た。

「さて、ではミラとダナ。きみたちはこの子たちを連れて、一旦席を外してくれないか」

 サロモンが俺に笑顔を向けてくる。

 その美貌が眩しく光り輝く。

「わたしはイシュル君とふたりきりで話がしたいのだ」 


「……」

 イシュルは無言で右手の拳を握りしめた。

 サロモンは俺と何を話したいのか。幾つか、おおよその見当はつく。

 さきほど俺に向けられた意味ありげな視線。あれもそうだ。

「あの子たちの見事な飛行魔法、きみが教示したのだね?」

 サロモンは中庭を抜け、屋敷の中へ入っていくミラたちを見やりながら言った。

「さもありなん、か。きみは天才だからな」

 サロモンはイシュルのすぐ目の前まで近寄ってきている。

 イシュルの前を去る時、ミラが不安気な顔を向けてきた。それにイシュルは微笑んでみせた。サロモンがイシュルとふたりきりで話をしたい、と言った時、サロモンに何か言おうとしたミラをイシュルは片手を上げて制した。

 イシュルは視線をサロモンの背後、中庭の草木を挟んだ先に並ぶ公爵家の使用人の宿舎や、騎士団の兵舎へ、その奥に頭を出して南北に走る運河側の城壁の方へ彷徨わした。

 どこかでサロモンを護衛する者たちが潜んでいる筈だが、敷地内には他に多くの人びとの気配があって、彼らの存在を特定することはできない。

 確かに、どこかに、サロモンを守る者はいる筈だ。だが、サロモンは彼らを隠し、伴も連れずひとりで俺たちの前に姿を現した。

 ベリンとセリオのことなど、本当はどうでも良かったのだ——、とは言い過ぎだろうか。

 サロモンは最初から俺と話すことだけが目的だった。俺に言いたいことがあったのだ。

 時が経ち、太陽は今や中天に達しようとしている。峻烈な夏の陽射しが全身を焼き、引き裂くように降りそそぐ。

 この苦痛は決して陽射しのせいだけではない。サロモンの押し殺した気迫はむしろ、殺気を帯びてさえいた。

「陽射しが強くなってきました。殿下、あの木立の下に移って話をしませんか」

 イシュルは片手を上げて中庭の奥の方を差し、その、殺気のように感じられたサロモンの気迫をいなすようにして言った。

「……」

 サロモンは一瞬、冷たい微笑を浮かべると無言で頷いた。


 ……なるほど、悪くない。

 イシュルは小さく息を吐き出すと後へ向き直り、サロモンに正対した。

 木立の下、木漏れ日の光と影の斑の中に移動すると、幾分でもサロモンの厳しい気迫が和らぐように感じられる。 

 サロモンは顔を横向け中庭の景色を楽しんでいる、ように見えた。

 その顔に微笑が浮かび、イシュルに向けられる。

「きみの叡智の前には、ウルトゥーロでさえもひれ伏したのではないか」

 サロモンは笑みを深くする。

「総神官長とふたりきりで話したそうだね、イシュル君」

 叡智? そんなもの俺にあるわけない。

「ふふ。そう恐い顔しなくてもいいじゃないか。わたしの言葉はどうかそのまま受け取ってくれたまえ。他意はないよ」

 サロモンは早速、俺がウルトゥーロとふたりきりで会談した情報を仕入れたようだ。

「……わたしに話せないことかね?」

「はい」

 短く答えるイシュル。サロモンの笑みが深くなる。

「リベリオ・アダーニ、デシオ・ブニエル、ピエル・バハル……彼らに手は出せない。もちろんウルトゥーロも」

 笑みは消さず、サロモンは眸に力を込めてくる。

「しからばミラ・ディエラードはどうか」

「ふふ」

 イシュルは声を忍ばし、小さく笑った。

 木立が鳴る。

 枝葉が風に揺れ、木漏れ日が揺らめいた。

 サロモンの笑みから殺気が消え、彼は僅かに首を横に傾けた。その眸が辺りを彷徨う。

「ほんとに恐ろしい……。ビオナートはおそらく今、こんな心持ちでいるのだろうな」

 サロモンは自らの父をその名でのみ、呼んだ。

 サロモンはすぐイシュルに視線を戻すと、その繊細な指先を自らの顎先にそわした。

「きみのおかげで、わたしの方もうまく事が運ぶようになった。大神官どもは怖れおののき、きみにひれ伏した。だが、事態は良い方向に推移している、ように見えてその実、絶望に向かっている。わたしには」

 サロモンは首をまわして周りに目をやり、今度は少し悲しげな笑みを浮かべた。

「……この木漏れ日のように、誰もがそうであるように、わたしの心の中にも光と影がある。そしてこの木漏れ日のように、時に心を焼くような強い光を退け、影が静穏をもたらす時がある」

 サロモンはふいにイシュルを横切り、手前に立つ木の幹に手を置いた。

「気持ちのよい、冷たく乾いた肌触りだ……」

 サロモンはだが唐突に力を込め、木の幹に爪を立てた。

「こんなもの、木漏れ日も、何も、今のわたしには何の慰めにもならない。わたしの心は今、光も影もひとつに混ざり合い、渦巻いているのだ」

 サロモンが木の幹から手を離し、イシュルに向かってくる。

「言え! イシュル。父の居所はわかったか。どこにいる!」

 サロモンはイシュルに両手を伸ばし、その首もとを、襟をつかもうとして躊躇い、その頬を両手で覆った。そしてそっと、愛おしげになぜた。

「……」

 イシュルは眸を細め、微かに笑みを浮かべるだけだ。

 サロモン、あんたにもわかっている筈だ。王の居場所など、誰にも探し出せはしない。

 この都(みやこ)に、王城にどれだけの人がいるというのか。やつはその気になればその人びとの誰にだって化けられるのだ。

 たとえ内務卿に監視の的(まと)を絞ろうと、彼の動向を長期間に渡りそれも二十四時間、完全に把握しなければ、ビオナートの元までたどり着くことはできない。

 聖冠の儀まであと二ヶ月あまり。やつを見つけるのは至難の業だ。

「それではいつ、どこであの男を殺すのだ」

 サロモンが力なく言う。

「あの男に紅玉石の片割れが渡った以上、戴冠式で嵌めることは不可能だ」

 サロモンの顔が近づく。

 それは男でも抗しきれない、そんな美しさだ。

「入札(いれふだ)では替え玉が代わりを務めるだろう。やつは出てこまい。……いや、待てよ。ま、まさか……」

 サロモンの双眸が見開かれる。狂おしいほどに。

 イシュルは唇を歪めた。

「殿下は俺がなんのために、ウルトゥーロに会ったと思いますか」

 至近の距離で、イシュルとサロモンの視線がぶつかり合う。

 居場所がわからない。人前に姿を現そうと影武者か、本物かわからない。でも、これだけは本物が出なければならない。

 ビオナート自身が行わなければならない。

「そ、そうか。イシュル、きみは、正義派は聖冠の儀で父を……」

 サロモンが顔を俯かせ、やがて真下に落とした。

 一場は暗転する。


「それでは……」

 サロモンはイシュルから離れ、横を向いている。

 その顔は青ざめていた。

「いや、その前に」

 サロモンがイシュルに顔を向ける。

 今までほとんど見ることのなかった、鋭い視線だ。

「聖冠の儀では魔法が使えなくなるぞ。それともきみは、風神の魔法具を持つきみなら使えるわけか」

「いえ。俺の魔法具も使えなくなると思いますよ」

 サロモンがそう考えるのなら、彼がそこまでの知識しかないのなら、そのままにしておいてもいいのだが……。

 あえてイシュルはサロモンの質問に答えた。

「なら、聖冠の儀のはじまる直前に勝負をかける、ということか。太陽神の首飾りが父の手に渡れば、主神の間は父の支配するところとなる。儀式がはじまるまでは太陽神の首飾りは総神官長の手にある」

「それも有力な策だと思います」

「それも、だと? ほ、他に策があるというのか。それは……!」

「……」

 イシュルは表情を消し、サロモンの眸を無言でじっと見つめた。

 今度はサロモンの背後の中庭を、南から北へ微風が渡っていく。

 遠くでさらさらと、草木の鳴る音が聞こえてきた。

「……そうか」

 サロモンの眸が一瞬窄まり、徐々に力が失われていく。

「恐ろしい殺気だ」

 美貌の王子は呆然と、ただそれだけを呟いた。

 その面(おもて)にいつもの、微かな皮肉を纏った笑みがこぼれる。

「聖冠の儀でも本物が出てくるとはかぎらんぞ。きみは総神官長を、その象徴である太陽神の首飾りを継承する条件がどんなものか知っているか?」

「……だいたいは」

 聖冠の儀の内容は聞いている。ひとつは主神の間で、おそらく太陽神の座が起動している状態で当人が太陽神の首飾りを手にすること、ふたつめは総神官とその補佐役の大神官、月神の神殿長の三人しか知らないとされる、引き継ぎの呪文を当人が唱えること、だ。つまりは……。

「総神官長は世襲ではない。だから血脈による条件はない。総神官長は聖都の大神官の入札によって選ばれる。そこに神々の意志は存在しない。つまりは聖堂教会が認めた者であれば誰でも総神官長になれる、太陽神の首飾りを継承できるのだ」

 サロモンが皮肉な笑みをそのまま、イシュルを睨みつけた。

「だから聖冠の儀に父が出席する必要はないのだ。偽者でもかまわない」

 イシュルもサロモンを、皮肉な色の浮かぶ眸でみつめた。

 両者はお互い、まるで鏡を見つめるようにして同じ表情を浮かべ、相対していた。

「かまいませんよ、それでも。聖堂教会にとって、いや、聖王国のすべての者、大陸のすべての信者にとって、聖冠の儀において新たな総神官長となった者は、当人が偽者であろうとなんだろうと、それがビオナートであることに変わりはないのです。聖冠の儀で彼を殺せば、その時点でビオナートは死んだことになるんです」

 イシュルはそこで半月状に唇を歪め、酷薄な笑みを浮かべた。

「そんなこと、殿下もご存知でしょう? 本物が生きていようが死んでいようがもう関係ない。後から本物が名乗り出ようと、どこかで兵を挙げようと、それはどうでもいいことだ」

 どんな理由があろうと、たとえ元国王であろうと、聖冠の儀で偽者を立ててしまえば、もうその者には、聖堂教会の力が少しでも及ぶところで生きていくことは許されない。教会と争うと決めた者の元でしか、生きていくことはできない。教会と争う者とは誰か、そんな者がいるのか知らないが。

 それこそベルムラ大陸にでも逃げるしかないだろう。

 あるいは元国王の地位を捨て、聖王家の一族であることを止め、違う名を名乗って別人として生きていくしかない。

「……ふむ。それがわかっているのならいい」

 サロモンは視線を緩めて頷いた。

 やはり試されたか。

 ただもし、やつがもうひとつの紅玉石と禁書を持って逃げ出すとなると、少々面倒なことになるのは確かだ。

「実際には父が聖冠の儀から逃避することなどあり得ないのだ。それはあの男が少年期から抱いてきた夢、野望を達成するために絶対に避けて通れないことだからだ」

 サロモンは顎を上向け、イシュルを見下ろすようにして言ってきた。

「だからイシュル君。きみが父を倒す策を持っているのなら、彼もまた、すべての魔法が封じられる、きみと互角以上に戦える最高の場である聖冠の儀で、きみを倒そうと考えているだろう。あの男はかならず紅玉石の片割れも、大聖堂から盗み出した禁書も持参してくるだろう」

 サロモンの見立てはシビル・ベークが先日口に出したことと同じだ。ビオナートはもし俺に勝利したなら、その場で俺の左手と同化した紅玉石を手にし、ふたつの紅玉石を合わせ持ち、自身が地神の杖を顕現できるか試そうとするだろう。たとえ万が一の可能性しかなくとも、それはやつにとってどうしてもやらなければならないことだ。

「……そこでわたしからひとつ、お願いしたいことがあるのだが」

 サロモンはイシュルに真っすぐ顔を向け、にこやかな表情になって言った。

 彼のいつもの、余裕ある物腰に戻っている。さきほど見せた動揺も今はすっかり影を潜めている。

「できれば、イルベズの聖盾を破壊しないで事を済ませてくれたまえ。きみにとってはさほど難しいことではなかろう」

 いや……。それはどうだろうか。そんな余裕があるか、何とも言えない。

「まぁ、別に失われたのならそれはそれでいいのだが。あれがないと確かに王権に傷がつく。だが、いずれ近いうちに、太陽神の儀であれは再び姿を現すだろう、とわたしは考えている」

 イルベズの聖盾は確か初代王の時に、主神ヘレスだか武神イルベズだかが現れ、本人に授けられたという伝承があった筈である。

 確かなことではないが、そういう魔法具はこの世から失われても、再びすぐにこの世に姿を現す、そういうものなのだろう。そこら辺はウルクの頃、風の神官だったと言われるベルシュ家に生まれたイヴェダに、風の魔法具がもたらされたことと少し似ている。特に歴史の表舞台にでず、記録に残されていないだけで、イヴェダ以前にもベルシュ家の一族で風の魔法具を得た者はいたかもしれない。

「……!」

 なっ……。

 イシュルがふと物思いにふけっている間に、また再び、すぐ目の前にサロモンの顔があった。

 白い、女のようなきめ細かい肌。切れ長の眸に清冽に輝く水色の眸。長い睫毛。細く、流れるような曲線を描く鼻梁……。だが、その顔は憂いに沈んでいる。

「きみのおかげで正義派が勢いづき、同盟者であるわたしもいろいろとやりやすくなった。このままいけばきみは聖冠の儀で父に勝利し、わたしは王権を手に入れるだろう」

 サロモンの両手がおのおの、イシュルの左右の肩にのせられる。

「わたしは本来、欲深く傲慢な男なのだ。常日頃、わたしはそんな自分を嫌悪している。だが、これだけはどうしてもあきらめることができない。このことがいつも、昼夜分たずわたしの心を乱し苛む。わたしはきみにもうひとつ、わたしにとってとても大切なことをお願いしたいのだ。わたしを助けて欲しい。いや、……それはわたしではない」

 サロモンの顔が下を向き沈んでいく。

 さきほどこの男が取り乱したこと……。

「どうか弟を、ルフレイドをきみの力で助けてくれないだろうか。お願いだ、イシュル君。すまない、でもどうか……」

 顔を俯かせたサロモンの肩が震えている。

 俺の両肩を握りしめる彼の手が震えている。

「わたしは欲深く傲慢な男だ。ルフレイドに王位は渡せない。それでいて弟を失いたくないのだ。ルフレイドを殺されるわけにはいかない。わたしは」

 サロモンの眸が涙に光って、揺れている。

「わたしはこれでも弟を、人並みに愛しているんだよ」


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